コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「十和田丸 (初代)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
QBM (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
m 訂正
(同じ利用者による、間の1版が非表示)
1行目: 1行目:
'''十和田丸'''(とわだまる、Towada Maru)は、[[日本国有鉄道|国鉄]][[青函連絡船|青函航路]]の[[鉄道連絡船|車載客船]]。[[洞爺丸事故]]で失われた[[洞爺丸]]の代替船として建造された。同型船は無い。
'''十和田丸'''(とわだまる、Towada Maru)は、[[日本国有鉄道|国鉄]][[青函連絡船|青函航路]]の[[鉄道連絡船|車載客船]]。[[洞爺丸台風]]で失われた[[洞爺丸]]の代替船として建造された。同型船は無い。


後に車両渡船に改造され、石狩丸(2代目)として再就航している
後に車両渡船に改造され、石狩丸(2代目)として再就航し


== 概要 ==
1954年9月26日の洞爺丸事故により、[[洞爺丸]]・[[北見丸]]・[[北見丸#日高丸|日高丸]]・[[石狩丸 (初代)|十勝丸]]、[[第五青函丸#第十一青函丸|第十一青函丸]]の5隻が沈没した。このうちの3隻(洞爺丸・北見丸・第十一青函丸)は損傷が激しく修復不能であったため急遽、車両渡船2隻と車載客船1隻の建造が決定した。十和田丸はそのうちの車載客船である。

十和田丸は同事故を教訓として設計された。1955年建造の[[檜山丸 (初代)|檜山丸・空知丸(いずれも初代)]]では、時間的制約もあり、水密の船尾扉を装備できなかったが、本船では車両甲板の軌道が船尾では単線で、船尾開口部の幅が狭く、前2隻に比べ小型の船尾扉で対応できたこともあり、日本の車両航送船としては初めて、船楼端隔壁の強度を有する水密船尾扉を装備することができた。このため、車両格納所の容積も総トン数に加えられた<ref>古川達郎 連絡船ドックp68~73 船舶技術協会1966</ref>。

洞爺丸型で大型角窓が並んでいた車両甲板両舷の中2階の下部遊歩甲板は、事故後1956年までに既に水密丸窓化されていた<ref>大雪丸1955年12月 羊蹄丸1956年6月 摩周丸1956年10月:出典 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p322 成山堂書店1988</ref>が、本船もこれに倣い中甲板<ref>洞爺丸型ではすでに遊歩廊ではなかったが翔鳳丸型にならって下部遊歩甲板と称されていた。W型船では「部分甲板」と呼ばれていた車両甲板船首部の中二階の狭い甲板を檜山丸型では、「船首中甲板」と称したことから、本船では、これに連なる舷側部分も含め「中甲板(ちゅうこうはん)」と称した。以降津軽丸型では船首部分のみとなったが「中甲板」と称し、以後建造の青函、宇高、仁堀の各連絡船の相当する甲板は「中甲板」という呼称で定着した。出典(部分):古川達郎 鉄道連絡船細見p38~39 JTBパブリッシング2008</ref>の舷側窓には水密丸窓を採用した。車両甲板より下の船体は11枚の隔壁で12区画に区切られ、隣接する2区画に浸水しても沈まない構造とし、主機室、発電機室など中央部の5区画は、船底だけでなく側面もヒーリングタンク等により二重となっていた。主機械は檜山丸型と同形式のディーゼル機関2台、2軸で、舵も2枚にして操船性能の向上が図られた。

== 十和田丸 ==
{| class="wikitable" style="float:right; border-width:0.2em; border-style:solid; border-color:#e0e0e0; margin: 0 0 0.5em 0.5em; width: 350px; background:#ffffff"
{| class="wikitable" style="float:right; border-width:0.2em; border-style:solid; border-color:#e0e0e0; margin: 0 0 0.5em 0.5em; width: 350px; background:#ffffff"
! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="3"|'''十和田丸'''
! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="3"|'''十和田丸'''
20行目: 12行目:
!colspan="3" style="background: #f0f8ff"|概歴
!colspan="3" style="background: #f0f8ff"|概歴
|-
|-
|起工||colspan="2"|[[1957年]][[2月4日]]
|建造所||colspan="2"|[[新三菱重工]][[神戸造船所]]
|-
|-
|進水||colspan="2"|[[1957年]][[615日]]
|起工||colspan="2"|[[1957年]](昭和32年)[[24日]]
|-
|-
|竣工||colspan="2"|[[1957年]][[916日]]
|進水||colspan="2"|[[1957年]](昭和32年)[[615日]]
|-
|-
|就航||colspan="2"|[[1957年]][[101日]]
|竣工||colspan="2"|[[1957年]](昭和32年)[[916日]]
|-
|-
|終了||colspan="2"|[[1966年]][[10月1日]]
|航||colspan="2"|[[1957年]](昭和32年)[[10月1日]]
|-
|-
|運航終了||colspan="2"|[[1966年]](昭和41年)[[10月1日]]
!colspan="3" style="background: #f0f8ff"|要目
|-
!colspan="3" style="background: #f0f8ff"|要目(新造時)
|-
|-
|船種||colspan="2"|車載客船
|船種||colspan="2"|車載客船
|-
|-
|総トン数||colspan="2"|6,148.08t
|総トン数||colspan="2"|6,148.08トン
|-
|-
|全長||colspan="2"|120.0m
|全長||colspan="2"|120.0m
44行目: 38行目:
|深さ(型)||colspan="2"|6.8m
|深さ(型)||colspan="2"|6.8m
|-
|-
|計画満載喫水(型)||colspan="2"|4.7m
|満載喫水||colspan="2"|4.7m
|-
|-
|機||colspan="2"|単動自己逆転式舶用ディーゼル機関8気筒無気噴油2サイクル三菱神戸スルザー8TPD48 2台
|械(台数)||colspan="2"|単動自己逆転式舶用ディーゼル機関8気筒無気噴油2サイクル三菱神戸スルザー8TPD48 (2)
|-
|-
|出力||colspan="2"|5,403hp
|公試最大出力||colspan="2"|5,403制動馬力
|-
|-
|最大速力||colspan="2"|16.08[[ノット|kt]]
|定格出力||colspan="2"|2,600制動馬力×2
|-
|-
|航海速力||colspan="2"|14.5[[ノット|kt]]
|公試最大速力||colspan="2"|16.08[[ノット]]
|-
|-
|乗客定員||colspan="2"|1,470名
|航海速力||colspan="2"|14.5[[ノット]]
|-
|-
|貨物積載量||colspan="2"|貨車(8m)18両
|乗組員||colspan="2"|100名
|-
|-
|旅客定員||colspan="2"|1,470名
|姉妹船||
|-
|積載車両数||colspan="2"|ワム換算 18両
|-
|姉妹船||なし
|-
|船名符字||JJZR
|-
|-
|}
|}
==十和田丸建造までの経緯==
[[1954年]](昭和29年)9月26日の[[洞爺丸台風]]で、車載客船[[洞爺丸]]、車両渡船[[北見丸]]、同[[北見丸#日高丸|日高丸]]、同[[石狩丸 (初代) #十勝丸|十勝丸]]、客載車両渡船[[第五青函丸#第十一青函丸|第十一青函丸]]の5隻が沈没した。 [[洞爺丸]]は[[1955年]](昭和30年)8月25日に浮揚作業完了<ref>洞爺丸台風海難誌p179 p192 国鉄青函船舶鉄道管理局1965</ref>したものの、右舷側の損傷が甚だしく、復旧には多額の費用が必要と見込まれたため、洞爺丸の代替となる、新しい車載客船の建造が決定し、[[1956年]](昭和31年)11月10日[[三菱重工業|新三菱重工神戸造船所]]へ発注された<ref>山本煕 車両航送p314 日本鉄道技術協会1960</ref>。これが十和田丸であった。


[[洞爺丸事故|洞爺丸事件]]の重大さに鑑み、運輸省は[[1954年]](昭和29年)10月に学識経験者による“造船技術審議会・船舶安全部会・連絡船臨時分科会”を、国鉄総裁は同11月に同じく学識経験者による“青函連絡船設計委員会”を設置した<ref>古川達郎 連絡船ドックP63 船舶技術協会1966</ref>。これらの審議会では、[[洞爺丸台風]]時の青函連絡船の沈没原因と、その対策等が審議検討され、その答申内容を盛り込んだ設計で建造されたため、十和田丸は極めて安全性の高い車載客船となった。
[[1957年]](昭和32年)2月4日、[[三菱重工業神戸造船所|新三菱重工業神戸造船所]]で起工し、同年9月16日に竣工。同年10月1日に青函航路に就航した。その基本設計は、共通運用する洞爺丸型をベースとしていたが、全長は1.3m長い120m、幅も復原性向上のため1.55m増しの17.4mと若干大型化した。


===洞爺丸沈没の原因===
垂線間長と幅は檜山丸型と同一だが、乗り心地改善のため動揺周期を長くする必要があり、車両甲板下の舷側外板に88‰の傾斜をつけて絞り、満載喫水線での幅は約17mとなっていたなど、船図は全く異なっていた<ref>山本煕 車両航送p317 日本鉄道技術協会1960</ref>。
[[洞爺丸台風]]当夜の函館湾は波高6m、波周期9秒、波長約120mで、[[洞爺丸]]の水線長115.5mよりわずかに長く、このような条件下では、前方から来た波に船首が持ち上げられたピッチング状態の、まさにそのとき、下がった船尾は波の谷間ではなく、谷の向こう側の斜面、つまり、その前に通り過ぎた波の斜面に突っ込んでしまい、その勢いで波は車両甲板船尾のエプロン上にまくれ込んで車両甲板に流入、船尾が上がると、その海水は船首方向へ流れ込み、次に船尾が下がっても、この海水は前回と同様のメカニズムで船尾から流入する海水と衝突して流出できず、やがて車両甲板上に海水が滞留してしまうことが、事故後の模型実験で判明した。そして、波周期が9秒より短くても長くても、車両甲板への海水流入量は急激に減ることも判明した。


しかし、洞爺丸のような船内軌道2線の車載客船では、車両格納所の幅が車両甲板幅の約半分と狭いため、車両甲板船尾開口部から大量の海水が浸入したとしても、その滞留量は250トンとも360トンとも言われ<ref>360トン:古川達郎 連絡船ドックp63 船舶技術協会1966</ref><ref>250トン:田中正吾 青函連絡船洞爺丸転覆の謎p155 成山堂書店1997</ref>るが、この程度では転覆することはない、とされた<ref name="dock68">古川達郎 連絡船ドックp68 船舶技術協会1966</ref>。しかし、[[洞爺丸]]は石炭焚き蒸気船で、石炭積込口等、車両甲板から機関室への開口部が多数あり、これらの閉鎖が不完全で、滞留した海水が機関室へ流入し、機関停止に至り、操船不能に陥ったことが洞爺丸沈没の要因とされた<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p318、319 成山堂書店1988</ref>。
また、エンジンがディーゼル化され、排気筒を洞爺丸型のように舷側に通さず、船体中央部に通し、太い煙突1本のスタイルで、甲板室前面デザインも檜山丸型に倣っていた。
==安全対策==
===ディーゼル化===
先に建造された[[檜山丸 (初代)|檜山丸]]型同様、主機械には従来の蒸気タービンに比べ操縦性が高く、車両甲板から機関室への開口部を少なくできて、機関室の水密性確保の容易なディーゼル機関が採用された。[[洞爺丸]]型と同じ、青森―函館間下り4時間30分、上り4時間40分運航可能な航海速力14.5ノットを確保するため、定格出力2600制動馬力で、主軸を直結駆動できる毎分230回転の低速ディーゼル機関2台が搭載された。低速回転のディーゼル機関は背が高く、天井高さの制約される車載客船の機械室に設置されたため、ピストン抜き作業は、車両甲板に設けたボルト締めの水密ハッチの蓋を開けて行う必要があり<ref>泉益生 連絡船のメモ(上巻)p182 船舶技術協会1972</ref>、車両積載時にはできなかった。


また、それぞれ360制動馬力のディーゼル機関で駆動される[[三相交流]]60Hz 445V 300kVAの主発電機3台が機械室とは水密隔壁ひとつ隔てた船首側の発電機室に設置された<ref>青函連絡船史p163 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>。[[青函連絡船]]では、船内電力は [[1939年]](昭和14年)建造の[[第三青函丸]]以来[[三相交流]]60Hz、225Vが採用されてきたが、本船から電圧をより効率的な445Vに上げた。
従来の連絡船の船体の塗装が白と黒であったのに対し、アイボリーと薄緑の塗装が施され、青函連絡船で最初のカラー化であった。乗客定員は2等470人(寝台54、椅子席108、雑居室308)、3等1,000人(椅子席212人、雑居室788人)。車両甲板には軌道が2線敷設され、[[国鉄ワム80000形貨車|ワム車]]換算で18両(1番線80.0m-10両、2番線64.0m-8両、20m客車の場合7両の搭載が可能)で、ワム車換算19両の洞爺丸型を下回る青函航路では最小の車両搭載量であった。


ディーゼル化により排気筒スペースが縮小できたことと、船体幅が拡大したため、[[第一青函丸]]以来続いてきた、煙路を両舷側に振り分けて通す形を止め、船体強度上も有利な船体中央部中心線上に幅1.2mの機関室囲壁を設けて排気筒を通し、煙突も太いもの1本となった<ref>山本煕 車両航送p310 日本鉄道技術協会1960</ref><ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p290 成山堂書店1988</ref>。
しかし洞爺丸台風後の補充船として急遽建造されたこともあり、客室の内装は最小限の簡素なものとされ、また車両甲板下に客室を設けない方針とし、しかも、それで洞爺丸以上の乗客定員としたため、客室は窮屈であった。


===船尾水密扉設置===
3等船室は、両舷の中甲板中央部に3等椅子席を、同じ中甲板の船首側には3等雑居室(畳敷き)を配置した。3等乗船口は左舷中甲板の前部と後部の2ヵ所にあったが、いずれも十分な広さの出入口広間を確保できなかった。車両甲板下への3等船室設置をやめたため、中甲板の1階上の遊歩甲板(津軽丸型の船楼甲板に相当)船尾側に広い3等雑居室を設けた。
このように、車両甲板から機関室への水密性が確保されたため、本船のような船内軌道2線の車載客船では、船尾水密扉の設置は安全上必須ではなかった<ref>山本煕 車両航送p302 日本鉄道技術協会1960</ref>。しかし、客船として更なる安全性向上を目指し、また本船では船尾1線のため小型の船尾水密扉で対応できたこともあり、加えて、喫緊に実用化の迫られていた船尾3線の客載車両渡船(デッキハウス船)用の大型船尾水密扉実用化への試作的な意味もあり、車載客船・車両渡船としては世界で初めて、船体外殻の強度を有する船尾水密扉が設置された<ref>西阪文雄 不沈船十和田丸 鉄道ピクトリアル8巻4号1958(復刻:鉄道ピクトリアルアーカイブセレクション11 p99 電気車研究会2006)</ref>。このため、車両格納所の容積も総トン数に加えられた。
このため、洞爺丸型ではこの位置にあった2等船室を前方へ移動し、煙突下のエンジンケーシング左舷側に2等椅子席、食堂、右舷側に2等雑居室(畳敷の上に絨毯)を設置、その船首側に2等出入口広間、2等雑居室を設け、2等寝台室は1階上の端艇甲板に移動し、6人用寝台室9室を設けた。このほかに、端艇甲板の船首側左舷に特別室(非旅客用)が1室設けられた。端艇甲板に寝台室を配置したため、洞爺丸型でここに配置されていた機関部や無線部の士官居室は、車両甲板右舷舷側に配置された<ref>十和田丸一般配置図完成図 S32-9-16 図番11-10000-00</ref>。洞爺丸型では1等、2等それぞれに出入口広間があったのに比べ、特に公室が貧弱で、旅客誘導上も不便であった<ref>山本煕 車両航送p319 日本鉄道技術協会1960</ref>。


この船尾水密扉は船尾開口部上縁にヒンジで取り付けられていて、船尾の軌道1線分をカバーする鋼鉄製の上下2枚折戸式船尾扉で、中央部のヒンジで“く”の字に屈曲し、[[シャクトリムシ]]のようにこの屈曲部分を後方へ突出しつつ、船尾扉下縁両端を船尾開口部両縁のガイドウェイに沿わせて上方へ開き、全開位置では折り畳まれた状態で、開口部直上に垂直に立てられてロックされる構造であった。動力は端艇甲板に設置された電動ウィンチで、左右2本のワイヤーを巻き込んだりのばしたりすることで、滑車を介して船尾扉が開閉された<ref>山本煕 車両航送p319 日本鉄道技術協会1960</ref>。水密ゴムパッキンは船体側の船尾開口部全周に装備され、船尾扉側ではヒンジ部の上部扉下縁部だけにゴムパッキンが装備されていた。船内軌道がこのゴムパッキンを装備した敷居を越える部分では、電動油圧式の跳上げレールとなっており、扉閉鎖時には必ず船内側へ跳ね上げて、船尾扉下縁の水密性を確保した。 扉閉鎖の最終段階では、下部扉を内側から4個の油圧式“締付け装置”で引き寄せて、船尾扉をゴムパッキンに密着させ、その水密性を確実なものとした<ref name="dock68"/><ref>泉益生 連絡船のメモ(中巻)p144 船舶技術協会1975</ref>。
また、本船は青函連絡船の車載客船としては初のディーゼル船で、更に本船のディーゼル機関の防振・遮音対策が必ずしも十分だったとは言えなかったこともあり、従来の青函連絡船の低振動・低騒音の[[蒸気タービン]]船に慣れた乗客には、不評を買った。特に2等席(現在のグリーン席に相当)が排気筒の通るエンジンケーシング周囲に配置されていたことから、2等客からは3等よりうるさい、などと苦情が出たそうである<ref>古川達郎 連絡船ドックp210~214 船舶技術協会1966</ref>。


===中甲板の水密化===
[[1964年]](昭和39年)より[[津軽丸 (2代)|津軽丸型]]が順次就航、6隻出揃った[[1965年]](昭和40年)10月ダイヤ改正からは、[[津軽丸 (2代)|津軽丸型]]が充当される旅客便は全て青森-函館間3時間50分運航となり、4時間30分運航の十和田丸は1日1往復だけの配船になってしまった<ref>101便(4時間30分)-310便(4時間45分)が十和田丸指定便:古川達郎 続連絡船ドックp57 船舶技術協会1971</ref>。
[[洞爺丸]]型では、車両甲板両舷中2階の下部遊歩甲板の舷側には多数の大型角窓が並んでいたが、事故後[[1956年]](昭和31年)までに水密丸窓に交換され、この部分の完全予備浮力化が図られていた<ref>[[大雪丸 (初代)|大雪丸 ]][[1955年]]12月 [[羊蹄丸 (初代)|羊蹄丸]][[1956年]]6月 [[摩周丸 (初代)|摩周丸]][[1956年]]10月:出典 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p322 成山堂書店1988</ref>。本船でも同様の意図で、この甲板の舷側窓には水密丸窓を採用し、その密閉された実態に合わせ中甲板と称した<ref>W型船では「部分甲板」と呼ばれていた車両甲板船首部の中二階の狭い甲板を檜山丸型では、「船首中甲板」と称したことから、本船では、これに連なる舷側部分も含め「中甲板(ちゅうこうはん)」と称した。以降津軽丸型では再び船首部分のみとなったが「中甲板」と称し、以後建造の青函、宇高、仁堀の各連絡船の相当する甲板は「中甲板」という呼称で定着した。出典:古川達郎 鉄道連絡船細見p38~39 JTBパブリッシング2008</ref>。


===2区画可浸と舷側タンク===
津軽丸型第7船の就航を間近に控えた[[1966年]](昭和41年)10月1日の101便で十和田丸としての運航を終了した。この第7船が十和田丸を名乗ることになったため、同年10月21日、石狩丸と改称のうえ<ref>北海道支社通達は10月3日付 航跡p341 国鉄青函船舶鉄道管理局1978</ref>、青函航路の逼迫した貨車航送能力向上のため、同年11月1日[[函館どっく|函館ドック]]にて車両渡船への改造工事が着工された。
[[檜山丸 (初代)| 檜山丸]]型に続き、車両甲板より下の船体は11枚の隔壁で12区画に区切られ、“2区画可浸”構造とした。即ち、隣接する2区画に浸水しても沈まない構造である<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p313 成山堂書店1988</ref>。更にボイラー室、発電機室、機械室、ポンプ室、車軸室の5区画では、船底だけでなく側面にもヒーリングタンク等の舷側タンクを各区画ごとに設け、二重とした<ref>古川達郎 連絡船ドックp10 船舶技術協会1966</ref>。

===重力型ボートダビット===
[[洞爺丸]]型で従来装備されていた、救命艇を吊り下げるボートダビットでは、端艇甲板から救命艇を海面に降ろす際、まず救命艇を手動で舷外へ振り出す操作が必要で、これに人手と時間がかかり、非常時の間に合わないため、ブレーキを外すだけで、救命艇が自重で舷外へ振り出される重力型ボートダビットが採用された。なお、在来船でも既に[[1957年]](昭和32年)2月までに重力型ボートダビットへの交換は完了していた<ref>古川達郎 連絡船ドックp131p132 船舶技術協会1966</ref>。

===2枚舵===
従来の[[洞爺丸]]型では、船速の4倍弱以上の風を真横から受けると、風下に回頭できなくなるため、[[檜山丸 (初代)| 檜山丸]]型同様舵を2枚とし、2基あるプロペラの直後に配置した。これにより、低速時でもプロペラが前進方向に回転している限り、プロペラ後流が直接舵に当たるため、操船性能は著しく向上し、風下への回頭ができなくなるような現象は解消された<ref>古川達郎 連絡船ドックp34 船舶技術協会1966</ref>。

==船体構造==
基本構造は、共通運用する[[洞爺丸]]型を踏襲したが、全長は1.3m長い120m、幅も復原性向上のため1.55m増しの17.4mと若干大型化した。

垂線間長と幅は[[檜山丸 (初代)|檜山丸]]型と同一であったが、乗り心地改善のため動揺周期を長くする必要があり、車両甲板下の舷側外板に88‰の傾斜をつけて絞り、満載喫水線での幅を約17mとするなど、船体線図は異なっていた<ref>山本煕 車両航送p317 日本鉄道技術協会1960</ref>。

当時の[[青函連絡船]]は着岸前には必ず投錨しており、錨のスムーズな落下は、着岸操船時の安全にかかわる重大事であった。この錨のスムーズな落下性能確保には、錨鎖が船首甲板から船体外板へ通り抜けるホースパイプ内での抵抗を減らす必要があり、それには、ホースパイプと船体中心線との角度を小さくする必要があった。 そこで本船では、ホースパイプ出口とその周囲の船体外板に“アンカーリセス”と呼ばれる陥凹を付け、凹ませた分だけその角度を小さくして錨のスムーズな落下性能を確保した。このアンカーリセス設置は、国鉄連絡船としては、かつての [[関釜連絡船]]の7900総トン級客貨船[[天山丸]] [[崑崙丸]]以来で、これにより、錨を揚げた状態では、錨がこの“アンカーリセス”に収って目立たなくなり、客船らしい優雅な外観となった<ref>古川達郎 続連絡船ドックp101 船舶技術協会1971</ref>。

国鉄連絡船では[[翔鳳丸]]型から[[檜山丸 (初代)| 檜山丸]]型に至るまで、ヒーリングポンプには一方向へしか水を流せない遠心式ポンプ等を用い、2個の4方コックを遠隔操作することで、両舷のタンク間の海水の移動だけでなく、船外から、あるいは船外への注排水もできる構造であった。本船では船内軌道2線のため、小容量のポンプで対応できたのを機会に、当時国産化されて間がなかった、可変ピッチプロペラ式軸流ポンプを国鉄連絡船では初めて採用した。 これにより、水をどちらの方向にも流せるようになり、保守に手間のかかった4方コックを廃し、ヒーリング装置の配管の単純化ができた。なおヒーリングポンプの動力には[[檜山丸 (初代)|檜山丸]] 型で採用した汽動式は採用せず、[[洞爺丸]]型同様交流誘導電動機を使用した<ref>泉益生 連絡船のメモ(中巻)p10 船舶技術協会1975</ref>。 係船機器の動力は汽動式のままであった。

また、主機械がディーゼル化され、排気筒は船体中央部を通り、[[檜山丸 (初代)|檜山丸]]型と同じ太い煙突1本のスタイルとなり、甲板室前面デザインも、檜山丸型に似たものとなった。

従来の連絡船の船体塗装は白と黒であったのに対し、アイボリー(2.5Y9/2)と薄緑(10GY6/4)の塗装となり<ref>古川達郎 連絡船ドックp191 船舶技術協会1966</ref>、[[青函連絡船]]では初のカラー化塗装となった。塗り分け線は[[洞爺丸]]型に倣って中甲板ラインとしたため、[[檜山丸 (初代)|檜山丸]]型より若干低くなった。

===一般配置===
旅客定員は2等470名(A寝台54、椅子席108、雑居室308)、3等1,000名(椅子席212、雑居室788)の計1470名であった。なお国鉄では本船就航前年の[[1956年]](昭和31年)6月1日より1等を廃止しており、[[洞爺丸]]型では1等寝台は2等A寝台に、2等寝台は2等B寝台となっており<ref name="100nenshi191">北海道鉄道百年史(下巻)p191 国鉄北海道総局1981</ref>、本船の寝台は1等寝台相当の2等A寝台であった<ref>西阪文雄 不沈船十和田丸 鉄道ピクトリアル8巻4号1958(復刻:鉄道ピクトリアルアーカイブセレクション11 p100 電気車研究会2006)</ref>。

車両甲板には[[洞爺丸]]型と同様、車両甲板船尾端では1線、船内の分岐器ですぐに2線に分岐する方式で敷設されたが、幅2.5mの機関室囲壁が船体中央部にあった<ref>山本煕 車両航送p315 日本鉄道技術協会1960</ref>ため、一部で2線間の距離がやや開いていた。また、船尾水密扉設置位置が甲板室の後端で、車両甲板後端(エプロン甲板との段差)から船尾扉下端まで6mとやや距離があり、甲板室の外の軌道にまではみ出して車両を積載できた[[洞爺丸]]型に比べ、軌道有効長が短くなり、積載車両数は[[国鉄ワム60000形貨車|ワム]]換算18両(1番線80.0m-10両、2番線64.0m-8両、20m客車の場合7両の積載が可能)<ref>青函連絡船史 巻末附表p29 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>と、当時ワム換算19両積載できた洞爺丸型を下回った。

洞爺丸台風後の補充船として急遽建造されたこともあり、客室の内装は最小限の簡素なものとされ、また非常時の脱出に難のある車両甲板下へは客室を設けない方針とし、しかも、それで洞爺丸型以上の旅客定員としたため、客室、特に公室が狭く窮屈で、旅客誘導上も不便ではあった<ref>山本煕 車両航送p319 日本鉄道技術協会1960</ref>。

左舷中甲板には3等食堂と3等椅子席を、右舷中甲板には3等椅子席と船尾側に小さな3等雑居室(畳敷き)を設け、洞爺丸型では船員居室のあった中甲板の船首側にも3等雑居室(畳敷き)を配置し、これで押し出された船員居室のスペースについては、洞爺丸型で3等雑居室となっていた車両甲板下前部第二甲板で確保した。3等乗船口は左舷中甲板の前部と後部の2ヵ所にあったが、いずれも十分な広さの出入口広間を確保できなかった。

車両甲板下への3等船室設置中止を受け、その代わりに、中甲板の1階上の遊歩甲板(津軽丸型の船楼甲板に相当)船尾側にも広い3等雑居室を設けた。このため、洞爺丸型ではこの位置にあった2等船室が前方へ移動し、煙突下の機関室囲壁左舷側には後ろから食堂、2等椅子席、右舷側には2等雑居室(畳敷の上に絨毯)と2等椅子席<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p147 成山堂書店1988</ref>を設け、その船首側のごく狭い2等出入口広間を隔てた前方に2等雑居室を甲板室前端まで設けた。2等A寝台室は1階上の端艇甲板へ移動し、2等出入口広間中央から階段で上る構造とし、6人用寝台室9室を設けたほか、端艇甲板船首側左舷に特別室(非旅客用)が1室設けられた。このため洞爺丸型ではここに配置されていた機関部や無線部の高級船員居室は、車両甲板右舷舷側に配置された<ref>十和田丸一般配置図完成図 S32-9-16 図番11-10000-00</ref>。客室ならびに船員室内の照明には全面的に蛍光灯が採用され<ref>山本煕 車両航送p323 日本鉄道技術協会1960</ref>明るい船内となった。

本船は青函連絡船の車載客船としては初のディーゼル船ということで、[[檜山丸 (初代)|檜山丸]]型と同一形式の主機械を採用しながらも、振動軽減のため、檜山丸型での定格回転数毎分250回転の設定を230回転に抑える配慮がなされた<ref>青函連絡船史p163 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>。しかし、主機械だけではなく発電機も含め、その防振や遮音対策が十分だったとは言えず、従来の青函連絡船の低振動・低騒音の[[蒸気タービン]]船に慣れた乗客には、不評を買った。特に2等席(現在のグリーン席に相当)が排気筒の通る機関室囲壁周囲に配置されていたことから、2等客からは3等よりうるさい、などと苦情が出たそうである<ref>古川達郎 連絡船ドックp210~214 船舶技術協会1966</ref>。

== 沿革 ==
*[[1957年]](昭和32年)[[10月1日]] ―就航。
*[[1958年]](昭和33年)[[10月30日]] ―主機ピストンピン軸受メタル焼損し12月16日まで休航<ref>青函連絡船史巻末p163附表p11 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref><ref>古川達郎 連絡船ドックp11 船舶技術協会1966</ref><ref>青函連絡船栄光の航跡p116 国鉄青函船舶鉄道管理局1988</ref>。
* [[1960年]](昭和35年)7月1日―国鉄が、従来の2等を1等に、従来の3等を2等に呼称変更し、3等の呼称を廃止したため<ref name="100nenshi191"/>、各等の船室呼称も変更。
* [[1961年]](昭和36年)[[6月28日]] ―1等椅子席をリクライニングシート67席に交換し1等指定椅子席とした<ref>日本国有鉄道監修時刻表第37巻10号p497 日本交通公社1961</ref><ref>青函連絡船史p90 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref><ref>古川達郎 続連絡船ドックp15 船舶技術協会1971</ref>。
** [[10月1日]] ―ダイヤ改正で、[[函館駅|函館]]―[[旭川駅|旭川]]間に北海道初の[[特急]]「[[おおぞら (列車) |おおぞら]]」1往復が新設され、[[上野駅|上野]]発着の[[常磐線]]経由の[[東北本線]]特急「[[はつかり (列車)|はつかり]]」、新設の[[大阪駅|大阪]]発着の[[日本海縦貫線]]特急「[[白鳥 (列車)|白鳥]]」と[[青函連絡船]]の深夜便を介して接続されることになり、3隻の[[洞爺丸]]型車載客船とともに、下り1便では4時間25分、上り2便では4時間30分運航と、わずかながらスピードアップを果たした<ref>日本国有鉄道監修時刻表第37巻10号p350、351 p358、359日本交通公社1961</ref>。
*[[1964年]](昭和39年)5月10日―[[津軽丸 (2代)|津軽丸]]型の第1船 [[津軽丸 (2代)|津軽丸]]が就航。
**[[8月12日]]―第2船[[青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸|八甲田丸]]が就航。
**[[10月1日]]―深夜の特急接続便の1便、2便を[[津軽丸 (2代)|津軽丸]]型2隻に正式に譲った<ref>青函連絡船史p208 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>
*[[1965年]](昭和40年)[[10月1日]]―[[津軽丸 (2代)|津軽丸]]型が6隻出揃ったため、[[津軽丸 (2代)|津軽丸型]]が充当される旅客便は全て青森―函館間3時間50分運航となり、4時間30分運航の十和田丸は1日1往復だけの配船になってしまった<ref>101便(4時間30分)-310便(4時間45分)が十和田丸指定便:古川達郎 続連絡船ドックp57 船舶技術協会1971</ref>。
===車載客船から車両渡船へ改造===
津軽丸型第7船の就航を間近に控えた[[1966年]](昭和41年)[[10月1日]]の101便で十和田丸としての運航を終了した。この第7船が[[十和田丸 (2代)|十和田丸]]を名乗ることになったため、同年10月21日、石狩丸と改称のうえ<ref>北海道支社通達は10月3日付 航跡p341 国鉄青函船舶鉄道管理局1978</ref>、青函航路の逼迫した貨車航送能力増強のため、同年11月1日[[函館どつく|函館ドック]]にて車両渡船への改造工事に着手した。


<br clear="all" />
<br clear="all" />


== 石狩丸 (2代目) ==
= 石狩丸 (2代目) =
{| class="wikitable" style="float:right; border-width:0.2em; border-style:solid; border-color:#e0e0e0; margin: 0 0 0.5em 0.5em; width: 350px; background:#ffffff"
{| class="wikitable" style="float:right; border-width:0.2em; border-style:solid; border-color:#e0e0e0; margin: 0 0 0.5em 0.5em; width: 350px; background:#ffffff"
! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="3"|'''石狩丸'''
! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="3"|'''石狩丸'''
93行目: 146行目:
!colspan="3" style="background: #f0f8ff"|概歴
!colspan="3" style="background: #f0f8ff"|概歴
|-
|-
|改造竣工||colspan="2"|[[1967年]][[5月1日]]
|改造造船所||colspan="2"|[[函館ドック]]函館造船所
|-
|-
|就航||colspan="2"|[[1967年]][[56日]]
|改造着工||colspan="2"|[[1966年]](昭和41年)[[111日]]
|-
|-
|運航終了||colspan="2"|[[1977年]][[318日]]
|改造竣工||colspan="2"|[[1967年]](昭和42年)[[51日]]
|-
|-
|就航||colspan="2"|[[1967年]](昭和42年)[[5月6日]]
!colspan="3" style="background: #f0f8ff"|要目
|-
|運航終了||colspan="2"|[[1977年]](昭和52年)[[3月18日]]
|-
!colspan="3" style="background: #f0f8ff"|要目(改造時)
|-
|-
|船種||colspan="2"|車両渡船
|船種||colspan="2"|車両渡船
|-
|-
|総トン数||colspan="2"|6,119.59トン(3366.51トン<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p162 成山堂書店1988</ref><ref>[[1967年]]8月1日の規程改正で船尾水密扉で閉鎖された車両格納所容積が総トン数に加算されなくなった:古川達郎 鉄道連絡船のその後p46 成山堂書店2002</ref>)
|総トン数||colspan="2"|6,119.59t
|-
|-
|全長||colspan="2"|120.0m
|全長||colspan="2"|120.0m
|-
|垂線間長||colspan="2"|111.0m
|-
|-
|幅(型)||colspan="2"|17.4m
|幅(型)||colspan="2"|17.4m
111行目: 170行目:
|深さ(型)||colspan="2"|6.8m
|深さ(型)||colspan="2"|6.8m
|-
|-
|計画満載喫水(型)||colspan="2"|4.7m
|満載喫水||colspan="2"|4.7m
|-
|-
|機||colspan="2"|単動自己逆転式舶用ディーゼル機関8気筒無気噴油2サイクル三菱神戸スルザー8TPD48 2台(改造前と変更なし)
|械(台数)||colspan="2"|単動自己逆転式舶用ディーゼル機関8気筒無気噴油2サイクル三菱神戸スルザー8TPD48 (2)
|-
|-
|定格出力||colspan="2"|2,600制動馬力×2
|速力||colspan="2"|15.968[[ノット|kt]](公試時<ref>1967.4.26公試時、平均喫水4.0m、排水量4401tでの計測</ref>)
|-
|-
|公試最大速力||colspan="2"|15.968[[ノット]]<ref>1967.4.26公試時、平均喫水4.0m、排水量4401tでの計測</ref>
|貨物積載量||colspan="2"|貨車 43両
|-
|航海速力||colspan="2"|14.5ノット
|-
|乗組員||colspan="2"|49名<ref>青函連絡船要覧昭和42年5月1日 国鉄青函船舶鉄道管理局1967</ref>
|-
|積載車両数||colspan="2"|ワム換算43両
|-
|-
|姉妹船||colspan="2"|なし
|姉妹船||colspan="2"|なし
|-
|船名符字||JJZR
|-
|-
|}
|}
{{See also|石狩丸 (初代)|渡島丸 (2代)#渡島丸型|l2=石狩丸 (3代)}}
{{See also|石狩丸 (初代)|渡島丸 (2代)#渡島丸型|l2=石狩丸 (3代)}}
[[1967年]](昭和42年)5月6日9060便<ref>昭和42年度国鉄航路輸送年報p2 国鉄船舶局1968</ref><ref>青函連絡船史p113 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref><ref>日本国有鉄道百年史年表p340 日本国有鉄道1972</ref><ref>北海道鉄道百年史(下巻)p164 日本国有鉄道北海道総局1981</ref><ref>青函連絡船栄光の航跡p402 北海道旅客鉄道株式会社1988</ref>(資料によっては、5月5日7070便)<ref>石狩丸ハンドブック 1967.10.14 国鉄青函船舶鉄道管理局</ref><ref>日本国有鉄道百年史第13巻p389 日本国有鉄道1974</ref>で再就航した。
[[1967年]](昭和42年)5月6日9060便(資料によっては、5月5日7070便)で就航した<ref>石狩丸ハンドブック 1967.10.14 国鉄青函船舶鉄道管理局</ref><ref>昭和42年度国鉄航路輸送年報p2 国鉄船舶局1968</ref><ref>青函連絡船史p113 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>。中甲板と遊歩甲板の2等(旧3等)船室は全て撤去され、1等(旧2等)船室より前方は船員室に改造された。このため、煙突より前半分は十和田丸の面影を強く残しているが、後半分には甲板室がなくなり、主機の排気筒2本が甲板室最後部に配置された。車両甲板はエンジンのケーシングなどの配置も含め大幅に改造され、軌道を2本から4本にふやした結果、ワム車換算で43両の搭載が可能となった。これに合わせ、船尾扉も津軽丸型と同じ、トルクヒンジ電動油圧式の3線幅の大型のものに取り替えられた。この改造時に、操舵室への主機遠隔操縦装置(始動ハンドル、燃料ハンドルの遠隔操作)、ITV装置(ブリッジからの船尾および右舷側のモニターカメラ)の設置、機関部の制御室設置などの近代化工事も行われたが、機関出力に変化はなく、青森-函館(有川)間4時間30分のままであった。

塗装はアイボリーと藍色に変更され、ファンネルマークは改造当初は十和田丸時代のまま「工」だったが、後に「JNR」に変更された。
遊歩甲板の甲板室は船尾側の半分、即ち2等(旧3等)雑居室を含め左舷側は食堂の半ばから、右舷側は1等(旧2等)雑居室の半ばから船尾側の甲板室は全て撤去され、残った前方の甲板室は端艇甲板も含め船員居室に改造され、車両甲板下の船員居室は廃止された。このため、煙突より前半分は十和田丸の面影を残していた。従来からの煙突はボイラーと発電機からの排気を受け持ち、主機械からの排気は煙突の船尾側に新設された左右に近接して並ぶ2本のツノ型の排気筒が受け持った。なお、遊歩甲板は船楼甲板と呼び改められた。

車両甲板では中甲板が船首部のみ残して撤去され、機関室囲壁幅も1.2mに縮小され、船内軌道は[[檜山丸 (初代) |檜山丸]]型同様、船尾3線、車両甲板の大部分で4線となるよう敷設し直された結果、ワム換算43両の積載が可能となり、これに対応して、ヒーリングタンク容量を増大し、更にヒーリングシステムに前年建造された[[津軽丸 (2代) |津軽丸]]型第7船 [[十和田丸 (2代)|十和田丸 ]]のヒーリングシステムの1セットを採用して、機能向上を図った<ref>泉益生 連絡船のメモ(中巻)p37 船舶技術協会1975</ref>。船尾水密扉も[[津軽丸 (2代) |津軽丸]]型と同じ、電動油圧式トルクヒンジ駆動の3線幅の大型のものに取り替えられ<ref>泉益生 連絡船のメモ(中巻)p188 船舶技術協会1975</ref>、ポンプ操縦室を含む船尾部分は津軽丸型とほぼ同じ形に改造されたため、船体後半は後に建造された[[渡島丸 (2代)|渡島丸]]型に似ていた。

十和田丸時代は、それ以前からの連絡船同様、船首甲板には揚錨機が1台あり、両舷の錨の投揚錨を行うほか、本体の両側面にはワ―ピングドラムという水平軸で回転する糸巻き状のドラムが突出しており、これに、フェアリーダーという甲板縁に設置された係船索の向きを変える滑車を通して、岸壁と繋いだ係船索を数回巻き付けたうえ、甲板員が3人がかりで係船索を引いたり緩めたりして、係船索でワ―ピングドラムを締め付けたり緩めたりし、係船索とワ―ピングドラムの間のスリップを調節することで、その張力を調節しつつ係船索を巻き込んで着岸していった。船首にはこのほかに、この揚錨機の前方の船体中心線上に垂直軸で回転するキャプスタンもあり、これもワ―ピングドラムと同様の使われ方をしたが、この動力も揚錨機からシャフトと歯車で伝えられていた。また船尾には、車両甲板暴露部の両舷にキャプスタンが1台ずつあり甲板員2人で同様の作業を行っていた<ref>泉益生 連絡船のメモ(下巻)p15~22 船舶技術協会1975</ref>。

この改造工事では、船首甲板に2台、船尾の船楼甲板上に2台の、いずれも汽動式ながら[[津軽丸 (2代) |津軽丸]]型のように遠隔操縦可能なムアリングウィンチが新たに設置され、揚錨機も遠隔操縦できるよう改造された<ref>古川達郎 続連絡船ドックp302 船舶技術協会1971</ref>。 これにより着岸時、ムアリングウィンチで直接係船索を巻き込めるようになり離着岸時の省力化も進められた。

操舵室には主機遠隔操縦装置が設置され、主機械の発停、正逆転、回転数制御を操舵室から直接できるようになり、固定ピッチプロペラながら、より迅速なプロペラ制御が可能となった。また通常着岸時に船長が立つ操舵室左舷端から、右舷船尾を押す補助汽船の動向、ならびに船尾と可動橋との状況が監視できるよう、工業用テレビカメラが、船尾から約40mの船楼甲板右舷側とポンプ操縦室頂部に試験的に設置され、モニターテレビ2台が操舵室左舷後面に設置された。機関部では監視室設置などの近代化工事も行われたが、機関出力に変化はなく、青森―函館(有川)間 下り4時間30分 上り4時間35分のままであった。


塗装はアイボリー(7.5Y9/0.5)と藍色(2.5PB2.5/7)<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p232 成山堂書店1988</ref>に変更され、塗り分け線も約1.2m上がり[[檜山丸 (初代) |檜山丸]]型や[[津軽丸 (2代)|津軽丸型]]型とほぼ同じ高さとなった。[[ファンネルマーク]]は改造当初は十和田丸時代のままの「工」であったが、最後の蒸気タービン船が引退した[[1970年]](昭和45年)、「JNR」に変更された<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p251 成山堂書店1988</ref>。


[[1977年]](昭和52年)3月18日に運航を終了した<ref>ほぼ同時期に[[檜山丸 (初代)|檜山丸・空知丸]](北見丸・第十一青函丸の代替)も運を終了している。</ref>のち売却され、[[大韓民国]]で解体された。
[[1977年]](昭和52年)3月18日に運航を終了し[[1977年]](昭和52年)7月21日 共和商会に売却され<ref>青函連絡栄光の跡p370 北海道旅客鉄道株式会社1988</ref>、そ、[[大韓民国]]で解体された<ref>航跡p285 国鉄青函船舶鉄道管理局1978</ref>


== 船名変更について ==
== 船名変更について ==
*青函連絡船で初代と2代目がある船舶は十和田丸('''初代'''・[[十和田丸 (2代)|2代目]])など数多い<ref>渡島丸([[石狩丸 (初代)|初代]]・[[渡島丸 (2代)|2代目]])、空知丸([[檜山丸 (初代)|初代]]・[[渡島丸 (2代)|2代目]])、大雪丸([[大雪丸 (初代)|初代]]・[[大雪丸 (2代)|2代目]])、津軽丸([[翔鳳丸|初代]]・[[津軽丸 (2代)|2代目]])、十勝丸([[石狩丸 (初代)|初代]]・[[渡島丸 (2代)|2代目]])、日高丸([[北見丸|初代]]・[[渡島丸 (2代)|2代目]])、檜山丸([[檜山丸 (初代)|初代]]・[[渡島丸 (2代)|2代目]])、摩周丸([[摩周丸 (初代)|初代]]・[[函館市青函連絡船記念館摩周丸|2代目]])、松前丸([[翔鳳丸|初代]]・[[松前丸 (2代)|2代目]])、羊蹄丸([[羊蹄丸 (初代)|初代]]・[[羊蹄丸|2代目]]の各船。</ref>が、初代から3代目まであるのは石狩丸([[石狩丸 (初代)|初代]]・'''2代目'''・[[渡島丸 (2代)|3代目]])のみである。
*青函連絡船で初代と2代目がある船舶は十和田丸(初代・[[十和田丸 (2代)|2代目]])など数多い<ref>渡島丸([[石狩丸 (初代)|初代]]・[[渡島丸 (2代)|2代目]])、空知丸([[檜山丸 (初代)|初代]]・[[渡島丸 (2代)|2代目]])、大雪丸([[大雪丸 (初代)|初代]]・[[大雪丸 (2代)|2代目]])、津軽丸([[翔鳳丸|初代]]・[[津軽丸 (2代)|2代目]])、十勝丸([[石狩丸 (初代)|初代]]・[[渡島丸 (2代)|2代目]])、日高丸([[北見丸|初代]]・[[渡島丸 (2代)|2代目]])、檜山丸([[檜山丸 (初代)|初代]]・[[渡島丸 (2代)|2代目]])、摩周丸([[摩周丸 (初代)|初代]]・[[函館市青函連絡船記念館摩周丸|2代目]])、松前丸([[翔鳳丸|初代]]・[[松前丸 (2代)|2代目]])、羊蹄丸([[羊蹄丸 (初代)|初代]]・[[羊蹄丸|2代目]]の各船。</ref>が、初代から3代目まであるのは石狩丸([[石狩丸 (初代)|初代]]・2代目・[[渡島丸 (2代)|3代目]])のみである。
*青函連絡船で改称が行われたのは、十和田丸(初代)→石狩丸(2代目)のみである。
*青函連絡船で改称が行われたのは、十和田丸(初代)→石狩丸(2代目)のみである。



2014年2月21日 (金) 13:23時点における版

十和田丸(とわだまる、Towada Maru)は、国鉄青函航路車載客船洞爺丸台風で失われた洞爺丸の代替船として建造された。同型船は無い。

後に車両渡船に改造され、石狩丸(2代目)として再就航した。

十和田丸
画像提供依頼
概歴
建造所 新三菱重工神戸造船所
起工 1957年(昭和32年)2月4日
進水 1957年(昭和32年)6月15日
竣工 1957年(昭和32年)9月16日
就航 1957年(昭和32年)10月1日
運航終了 1966年(昭和41年)10月1日
要目(新造時)
船種 車載客船
総トン数 6,148.08トン
全長 120.0m
垂線間長 111.0m
幅(型) 17.4m
深さ(型) 6.8m
満載喫水 4.7m
主機械(台数) 単動自己逆転式舶用ディーゼル機関8気筒無気噴油2サイクル三菱神戸スルザー8TPD48 (2)
公試最大出力 5,403制動馬力
定格出力 2,600制動馬力×2
公試最大速力 16.08ノット
航海速力 14.5ノット
乗組員 100名
旅客定員 1,470名
積載車両数 ワム換算 18両
姉妹船 なし
船名符字 JJZR

十和田丸建造までの経緯

1954年(昭和29年)9月26日の洞爺丸台風で、車載客船洞爺丸、車両渡船北見丸、同日高丸、同十勝丸、客載車両渡船第十一青函丸の5隻が沈没した。 洞爺丸1955年(昭和30年)8月25日に浮揚作業完了[1]したものの、右舷側の損傷が甚だしく、復旧には多額の費用が必要と見込まれたため、洞爺丸の代替となる、新しい車載客船の建造が決定し、1956年(昭和31年)11月10日新三菱重工神戸造船所へ発注された[2]。これが十和田丸であった。

洞爺丸事件の重大さに鑑み、運輸省は1954年(昭和29年)10月に学識経験者による“造船技術審議会・船舶安全部会・連絡船臨時分科会”を、国鉄総裁は同11月に同じく学識経験者による“青函連絡船設計委員会”を設置した[3]。これらの審議会では、洞爺丸台風時の青函連絡船の沈没原因と、その対策等が審議検討され、その答申内容を盛り込んだ設計で建造されたため、十和田丸は極めて安全性の高い車載客船となった。

洞爺丸沈没の原因

洞爺丸台風当夜の函館湾は波高6m、波周期9秒、波長約120mで、洞爺丸の水線長115.5mよりわずかに長く、このような条件下では、前方から来た波に船首が持ち上げられたピッチング状態の、まさにそのとき、下がった船尾は波の谷間ではなく、谷の向こう側の斜面、つまり、その前に通り過ぎた波の斜面に突っ込んでしまい、その勢いで波は車両甲板船尾のエプロン上にまくれ込んで車両甲板に流入、船尾が上がると、その海水は船首方向へ流れ込み、次に船尾が下がっても、この海水は前回と同様のメカニズムで船尾から流入する海水と衝突して流出できず、やがて車両甲板上に海水が滞留してしまうことが、事故後の模型実験で判明した。そして、波周期が9秒より短くても長くても、車両甲板への海水流入量は急激に減ることも判明した。

しかし、洞爺丸のような船内軌道2線の車載客船では、車両格納所の幅が車両甲板幅の約半分と狭いため、車両甲板船尾開口部から大量の海水が浸入したとしても、その滞留量は250トンとも360トンとも言われ[4][5]るが、この程度では転覆することはない、とされた[6]。しかし、洞爺丸は石炭焚き蒸気船で、石炭積込口等、車両甲板から機関室への開口部が多数あり、これらの閉鎖が不完全で、滞留した海水が機関室へ流入し、機関停止に至り、操船不能に陥ったことが洞爺丸沈没の要因とされた[7]

安全対策

ディーゼル化

先に建造された檜山丸型同様、主機械には従来の蒸気タービンに比べ操縦性が高く、車両甲板から機関室への開口部を少なくできて、機関室の水密性確保の容易なディーゼル機関が採用された。洞爺丸型と同じ、青森―函館間下り4時間30分、上り4時間40分運航可能な航海速力14.5ノットを確保するため、定格出力2600制動馬力で、主軸を直結駆動できる毎分230回転の低速ディーゼル機関2台が搭載された。低速回転のディーゼル機関は背が高く、天井高さの制約される車載客船の機械室に設置されたため、ピストン抜き作業は、車両甲板に設けたボルト締めの水密ハッチの蓋を開けて行う必要があり[8]、車両積載時にはできなかった。

また、それぞれ360制動馬力のディーゼル機関で駆動される三相交流60Hz 445V 300kVAの主発電機3台が機械室とは水密隔壁ひとつ隔てた船首側の発電機室に設置された[9]青函連絡船では、船内電力は 1939年(昭和14年)建造の第三青函丸以来三相交流60Hz、225Vが採用されてきたが、本船から電圧をより効率的な445Vに上げた。

ディーゼル化により排気筒スペースが縮小できたことと、船体幅が拡大したため、第一青函丸以来続いてきた、煙路を両舷側に振り分けて通す形を止め、船体強度上も有利な船体中央部中心線上に幅1.2mの機関室囲壁を設けて排気筒を通し、煙突も太いもの1本となった[10][11]

船尾水密扉設置

このように、車両甲板から機関室への水密性が確保されたため、本船のような船内軌道2線の車載客船では、船尾水密扉の設置は安全上必須ではなかった[12]。しかし、客船として更なる安全性向上を目指し、また本船では船尾1線のため小型の船尾水密扉で対応できたこともあり、加えて、喫緊に実用化の迫られていた船尾3線の客載車両渡船(デッキハウス船)用の大型船尾水密扉実用化への試作的な意味もあり、車載客船・車両渡船としては世界で初めて、船体外殻の強度を有する船尾水密扉が設置された[13]。このため、車両格納所の容積も総トン数に加えられた。

この船尾水密扉は船尾開口部上縁にヒンジで取り付けられていて、船尾の軌道1線分をカバーする鋼鉄製の上下2枚折戸式船尾扉で、中央部のヒンジで“く”の字に屈曲し、シャクトリムシのようにこの屈曲部分を後方へ突出しつつ、船尾扉下縁両端を船尾開口部両縁のガイドウェイに沿わせて上方へ開き、全開位置では折り畳まれた状態で、開口部直上に垂直に立てられてロックされる構造であった。動力は端艇甲板に設置された電動ウィンチで、左右2本のワイヤーを巻き込んだりのばしたりすることで、滑車を介して船尾扉が開閉された[14]。水密ゴムパッキンは船体側の船尾開口部全周に装備され、船尾扉側ではヒンジ部の上部扉下縁部だけにゴムパッキンが装備されていた。船内軌道がこのゴムパッキンを装備した敷居を越える部分では、電動油圧式の跳上げレールとなっており、扉閉鎖時には必ず船内側へ跳ね上げて、船尾扉下縁の水密性を確保した。 扉閉鎖の最終段階では、下部扉を内側から4個の油圧式“締付け装置”で引き寄せて、船尾扉をゴムパッキンに密着させ、その水密性を確実なものとした[6][15]

中甲板の水密化

洞爺丸型では、車両甲板両舷中2階の下部遊歩甲板の舷側には多数の大型角窓が並んでいたが、事故後1956年(昭和31年)までに水密丸窓に交換され、この部分の完全予備浮力化が図られていた[16]。本船でも同様の意図で、この甲板の舷側窓には水密丸窓を採用し、その密閉された実態に合わせ中甲板と称した[17]

2区画可浸と舷側タンク

檜山丸型に続き、車両甲板より下の船体は11枚の隔壁で12区画に区切られ、“2区画可浸”構造とした。即ち、隣接する2区画に浸水しても沈まない構造である[18]。更にボイラー室、発電機室、機械室、ポンプ室、車軸室の5区画では、船底だけでなく側面にもヒーリングタンク等の舷側タンクを各区画ごとに設け、二重とした[19]

重力型ボートダビット

洞爺丸型で従来装備されていた、救命艇を吊り下げるボートダビットでは、端艇甲板から救命艇を海面に降ろす際、まず救命艇を手動で舷外へ振り出す操作が必要で、これに人手と時間がかかり、非常時の間に合わないため、ブレーキを外すだけで、救命艇が自重で舷外へ振り出される重力型ボートダビットが採用された。なお、在来船でも既に1957年(昭和32年)2月までに重力型ボートダビットへの交換は完了していた[20]

2枚舵

従来の洞爺丸型では、船速の4倍弱以上の風を真横から受けると、風下に回頭できなくなるため、 檜山丸型同様舵を2枚とし、2基あるプロペラの直後に配置した。これにより、低速時でもプロペラが前進方向に回転している限り、プロペラ後流が直接舵に当たるため、操船性能は著しく向上し、風下への回頭ができなくなるような現象は解消された[21]

船体構造

基本構造は、共通運用する洞爺丸型を踏襲したが、全長は1.3m長い120m、幅も復原性向上のため1.55m増しの17.4mと若干大型化した。

垂線間長と幅は檜山丸型と同一であったが、乗り心地改善のため動揺周期を長くする必要があり、車両甲板下の舷側外板に88‰の傾斜をつけて絞り、満載喫水線での幅を約17mとするなど、船体線図は異なっていた[22]

当時の青函連絡船は着岸前には必ず投錨しており、錨のスムーズな落下は、着岸操船時の安全にかかわる重大事であった。この錨のスムーズな落下性能確保には、錨鎖が船首甲板から船体外板へ通り抜けるホースパイプ内での抵抗を減らす必要があり、それには、ホースパイプと船体中心線との角度を小さくする必要があった。 そこで本船では、ホースパイプ出口とその周囲の船体外板に“アンカーリセス”と呼ばれる陥凹を付け、凹ませた分だけその角度を小さくして錨のスムーズな落下性能を確保した。このアンカーリセス設置は、国鉄連絡船としては、かつての 関釜連絡船の7900総トン級客貨船天山丸 崑崙丸以来で、これにより、錨を揚げた状態では、錨がこの“アンカーリセス”に収って目立たなくなり、客船らしい優雅な外観となった[23]

国鉄連絡船では翔鳳丸型から 檜山丸型に至るまで、ヒーリングポンプには一方向へしか水を流せない遠心式ポンプ等を用い、2個の4方コックを遠隔操作することで、両舷のタンク間の海水の移動だけでなく、船外から、あるいは船外への注排水もできる構造であった。本船では船内軌道2線のため、小容量のポンプで対応できたのを機会に、当時国産化されて間がなかった、可変ピッチプロペラ式軸流ポンプを国鉄連絡船では初めて採用した。 これにより、水をどちらの方向にも流せるようになり、保守に手間のかかった4方コックを廃し、ヒーリング装置の配管の単純化ができた。なおヒーリングポンプの動力には檜山丸 型で採用した汽動式は採用せず、洞爺丸型同様交流誘導電動機を使用した[24]。 係船機器の動力は汽動式のままであった。

また、主機械がディーゼル化され、排気筒は船体中央部を通り、檜山丸型と同じ太い煙突1本のスタイルとなり、甲板室前面デザインも、檜山丸型に似たものとなった。

従来の連絡船の船体塗装は白と黒であったのに対し、アイボリー(2.5Y9/2)と薄緑(10GY6/4)の塗装となり[25]青函連絡船では初のカラー化塗装となった。塗り分け線は洞爺丸型に倣って中甲板ラインとしたため、檜山丸型より若干低くなった。

一般配置

旅客定員は2等470名(A寝台54、椅子席108、雑居室308)、3等1,000名(椅子席212、雑居室788)の計1470名であった。なお国鉄では本船就航前年の1956年(昭和31年)6月1日より1等を廃止しており、洞爺丸型では1等寝台は2等A寝台に、2等寝台は2等B寝台となっており[26]、本船の寝台は1等寝台相当の2等A寝台であった[27]

車両甲板には洞爺丸型と同様、車両甲板船尾端では1線、船内の分岐器ですぐに2線に分岐する方式で敷設されたが、幅2.5mの機関室囲壁が船体中央部にあった[28]ため、一部で2線間の距離がやや開いていた。また、船尾水密扉設置位置が甲板室の後端で、車両甲板後端(エプロン甲板との段差)から船尾扉下端まで6mとやや距離があり、甲板室の外の軌道にまではみ出して車両を積載できた洞爺丸型に比べ、軌道有効長が短くなり、積載車両数はワム換算18両(1番線80.0m-10両、2番線64.0m-8両、20m客車の場合7両の積載が可能)[29]と、当時ワム換算19両積載できた洞爺丸型を下回った。

洞爺丸台風後の補充船として急遽建造されたこともあり、客室の内装は最小限の簡素なものとされ、また非常時の脱出に難のある車両甲板下へは客室を設けない方針とし、しかも、それで洞爺丸型以上の旅客定員としたため、客室、特に公室が狭く窮屈で、旅客誘導上も不便ではあった[30]

左舷中甲板には3等食堂と3等椅子席を、右舷中甲板には3等椅子席と船尾側に小さな3等雑居室(畳敷き)を設け、洞爺丸型では船員居室のあった中甲板の船首側にも3等雑居室(畳敷き)を配置し、これで押し出された船員居室のスペースについては、洞爺丸型で3等雑居室となっていた車両甲板下前部第二甲板で確保した。3等乗船口は左舷中甲板の前部と後部の2ヵ所にあったが、いずれも十分な広さの出入口広間を確保できなかった。

車両甲板下への3等船室設置中止を受け、その代わりに、中甲板の1階上の遊歩甲板(津軽丸型の船楼甲板に相当)船尾側にも広い3等雑居室を設けた。このため、洞爺丸型ではこの位置にあった2等船室が前方へ移動し、煙突下の機関室囲壁左舷側には後ろから食堂、2等椅子席、右舷側には2等雑居室(畳敷の上に絨毯)と2等椅子席[31]を設け、その船首側のごく狭い2等出入口広間を隔てた前方に2等雑居室を甲板室前端まで設けた。2等A寝台室は1階上の端艇甲板へ移動し、2等出入口広間中央から階段で上る構造とし、6人用寝台室9室を設けたほか、端艇甲板船首側左舷に特別室(非旅客用)が1室設けられた。このため洞爺丸型ではここに配置されていた機関部や無線部の高級船員居室は、車両甲板右舷舷側に配置された[32]。客室ならびに船員室内の照明には全面的に蛍光灯が採用され[33]明るい船内となった。

本船は青函連絡船の車載客船としては初のディーゼル船ということで、檜山丸型と同一形式の主機械を採用しながらも、振動軽減のため、檜山丸型での定格回転数毎分250回転の設定を230回転に抑える配慮がなされた[34]。しかし、主機械だけではなく発電機も含め、その防振や遮音対策が十分だったとは言えず、従来の青函連絡船の低振動・低騒音の蒸気タービン船に慣れた乗客には、不評を買った。特に2等席(現在のグリーン席に相当)が排気筒の通る機関室囲壁周囲に配置されていたことから、2等客からは3等よりうるさい、などと苦情が出たそうである[35]

沿革

車載客船から車両渡船へ改造

津軽丸型第7船の就航を間近に控えた1966年(昭和41年)10月1日の101便で十和田丸としての運航を終了した。この第7船が十和田丸を名乗ることになったため、同年10月21日、石狩丸と改称のうえ[45]、青函航路の逼迫した貨車航送能力増強のため、同年11月1日函館ドックにて車両渡船への改造工事に着手した。


石狩丸 (2代目)

石狩丸
概歴
改造造船所 函館ドック函館造船所
改造着工 1966年(昭和41年)11月1日
改造竣工 1967年(昭和42年)5月1日
就航 1967年(昭和42年)5月6日
運航終了 1977年(昭和52年)3月18日
要目(改造時)
船種 車両渡船
総トン数 6,119.59トン(3366.51トン[46][47]
全長 120.0m
垂線間長 111.0m
幅(型) 17.4m
深さ(型) 6.8m
満載喫水 4.7m
主機械(台数) 単動自己逆転式舶用ディーゼル機関8気筒無気噴油2サイクル三菱神戸スルザー8TPD48 (2)
定格出力 2,600制動馬力×2
公試最大速力 15.968ノット[48]
航海速力 14.5ノット
乗組員 49名[49]
積載車両数 ワム換算43両
姉妹船 なし
船名符字 JJZR

1967年(昭和42年)5月6日9060便[50][51][52][53][54](資料によっては、5月5日7070便)[55][56]で再就航した。

遊歩甲板の甲板室は船尾側の半分、即ち2等(旧3等)雑居室を含め左舷側は食堂の半ばから、右舷側は1等(旧2等)雑居室の半ばから船尾側の甲板室は全て撤去され、残った前方の甲板室は端艇甲板も含め船員居室に改造され、車両甲板下の船員居室は廃止された。このため、煙突より前半分は十和田丸の面影を残していた。従来からの煙突はボイラーと発電機からの排気を受け持ち、主機械からの排気は煙突の船尾側に新設された左右に近接して並ぶ2本のツノ型の排気筒が受け持った。なお、遊歩甲板は船楼甲板と呼び改められた。

車両甲板では中甲板が船首部のみ残して撤去され、機関室囲壁幅も1.2mに縮小され、船内軌道は檜山丸型同様、船尾3線、車両甲板の大部分で4線となるよう敷設し直された結果、ワム換算43両の積載が可能となり、これに対応して、ヒーリングタンク容量を増大し、更にヒーリングシステムに前年建造された津軽丸型第7船 十和田丸 のヒーリングシステムの1セットを採用して、機能向上を図った[57]。船尾水密扉も津軽丸型と同じ、電動油圧式トルクヒンジ駆動の3線幅の大型のものに取り替えられ[58]、ポンプ操縦室を含む船尾部分は津軽丸型とほぼ同じ形に改造されたため、船体後半は後に建造された渡島丸型に似ていた。

十和田丸時代は、それ以前からの連絡船同様、船首甲板には揚錨機が1台あり、両舷の錨の投揚錨を行うほか、本体の両側面にはワ―ピングドラムという水平軸で回転する糸巻き状のドラムが突出しており、これに、フェアリーダーという甲板縁に設置された係船索の向きを変える滑車を通して、岸壁と繋いだ係船索を数回巻き付けたうえ、甲板員が3人がかりで係船索を引いたり緩めたりして、係船索でワ―ピングドラムを締め付けたり緩めたりし、係船索とワ―ピングドラムの間のスリップを調節することで、その張力を調節しつつ係船索を巻き込んで着岸していった。船首にはこのほかに、この揚錨機の前方の船体中心線上に垂直軸で回転するキャプスタンもあり、これもワ―ピングドラムと同様の使われ方をしたが、この動力も揚錨機からシャフトと歯車で伝えられていた。また船尾には、車両甲板暴露部の両舷にキャプスタンが1台ずつあり甲板員2人で同様の作業を行っていた[59]

この改造工事では、船首甲板に2台、船尾の船楼甲板上に2台の、いずれも汽動式ながら津軽丸型のように遠隔操縦可能なムアリングウィンチが新たに設置され、揚錨機も遠隔操縦できるよう改造された[60]。 これにより着岸時、ムアリングウィンチで直接係船索を巻き込めるようになり離着岸時の省力化も進められた。

操舵室には主機遠隔操縦装置が設置され、主機械の発停、正逆転、回転数制御を操舵室から直接できるようになり、固定ピッチプロペラながら、より迅速なプロペラ制御が可能となった。また通常着岸時に船長が立つ操舵室左舷端から、右舷船尾を押す補助汽船の動向、ならびに船尾と可動橋との状況が監視できるよう、工業用テレビカメラが、船尾から約40mの船楼甲板右舷側とポンプ操縦室頂部に試験的に設置され、モニターテレビ2台が操舵室左舷後面に設置された。機関部では監視室設置などの近代化工事も行われたが、機関出力に変化はなく、青森―函館(有川)間 下り4時間30分 上り4時間35分のままであった。

塗装はアイボリー(7.5Y9/0.5)と藍色(2.5PB2.5/7)[61]に変更され、塗り分け線も約1.2m上がり檜山丸型や津軽丸型型とほぼ同じ高さとなった。ファンネルマークは改造当初は十和田丸時代のままの「工」であったが、最後の蒸気タービン船が引退した1970年(昭和45年)、「JNR」に変更された[62]

1977年(昭和52年)3月18日に運航を終了し、1977年(昭和52年)7月21日 共和商会に売却され[63]、その後、大韓民国で解体された[64]

船名変更について

  • 青函連絡船で初代と2代目がある船舶は十和田丸(初代・2代目)など数多い[65]が、初代から3代目まであるのは石狩丸(初代・2代目・3代目)のみである。
  • 青函連絡船で改称が行われたのは、十和田丸(初代)→石狩丸(2代目)のみである。

脚注

  1. ^ 洞爺丸台風海難誌p179 p192 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  2. ^ 山本煕 車両航送p314 日本鉄道技術協会1960
  3. ^ 古川達郎 連絡船ドックP63 船舶技術協会1966
  4. ^ 360トン:古川達郎 連絡船ドックp63 船舶技術協会1966
  5. ^ 250トン:田中正吾 青函連絡船洞爺丸転覆の謎p155 成山堂書店1997
  6. ^ a b 古川達郎 連絡船ドックp68 船舶技術協会1966
  7. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p318、319 成山堂書店1988
  8. ^ 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p182 船舶技術協会1972
  9. ^ 青函連絡船史p163 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  10. ^ 山本煕 車両航送p310 日本鉄道技術協会1960
  11. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p290 成山堂書店1988
  12. ^ 山本煕 車両航送p302 日本鉄道技術協会1960
  13. ^ 西阪文雄 不沈船十和田丸 鉄道ピクトリアル8巻4号1958(復刻:鉄道ピクトリアルアーカイブセレクション11 p99 電気車研究会2006)
  14. ^ 山本煕 車両航送p319 日本鉄道技術協会1960
  15. ^ 泉益生 連絡船のメモ(中巻)p144 船舶技術協会1975
  16. ^ 大雪丸 1955年12月 羊蹄丸1956年6月 摩周丸1956年10月:出典 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p322 成山堂書店1988
  17. ^ W型船では「部分甲板」と呼ばれていた車両甲板船首部の中二階の狭い甲板を檜山丸型では、「船首中甲板」と称したことから、本船では、これに連なる舷側部分も含め「中甲板(ちゅうこうはん)」と称した。以降津軽丸型では再び船首部分のみとなったが「中甲板」と称し、以後建造の青函、宇高、仁堀の各連絡船の相当する甲板は「中甲板」という呼称で定着した。出典:古川達郎 鉄道連絡船細見p38~39 JTBパブリッシング2008
  18. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p313 成山堂書店1988
  19. ^ 古川達郎 連絡船ドックp10 船舶技術協会1966
  20. ^ 古川達郎 連絡船ドックp131p132 船舶技術協会1966
  21. ^ 古川達郎 連絡船ドックp34 船舶技術協会1966
  22. ^ 山本煕 車両航送p317 日本鉄道技術協会1960
  23. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp101 船舶技術協会1971
  24. ^ 泉益生 連絡船のメモ(中巻)p10 船舶技術協会1975
  25. ^ 古川達郎 連絡船ドックp191 船舶技術協会1966
  26. ^ a b 北海道鉄道百年史(下巻)p191 国鉄北海道総局1981
  27. ^ 西阪文雄 不沈船十和田丸 鉄道ピクトリアル8巻4号1958(復刻:鉄道ピクトリアルアーカイブセレクション11 p100 電気車研究会2006)
  28. ^ 山本煕 車両航送p315 日本鉄道技術協会1960
  29. ^ 青函連絡船史 巻末附表p29 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  30. ^ 山本煕 車両航送p319 日本鉄道技術協会1960
  31. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p147 成山堂書店1988
  32. ^ 十和田丸一般配置図完成図 S32-9-16 図番11-10000-00
  33. ^ 山本煕 車両航送p323 日本鉄道技術協会1960
  34. ^ 青函連絡船史p163 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  35. ^ 古川達郎 連絡船ドックp210~214 船舶技術協会1966
  36. ^ 青函連絡船史巻末p163附表p11 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  37. ^ 古川達郎 連絡船ドックp11 船舶技術協会1966
  38. ^ 青函連絡船栄光の航跡p116 国鉄青函船舶鉄道管理局1988
  39. ^ 日本国有鉄道監修時刻表第37巻10号p497 日本交通公社1961
  40. ^ 青函連絡船史p90 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  41. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp15 船舶技術協会1971
  42. ^ 日本国有鉄道監修時刻表第37巻10号p350、351 p358、359日本交通公社1961
  43. ^ 青函連絡船史p208 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  44. ^ 101便(4時間30分)-310便(4時間45分)が十和田丸指定便:古川達郎 続連絡船ドックp57 船舶技術協会1971
  45. ^ 北海道支社通達は10月3日付 航跡p341 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
  46. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p162 成山堂書店1988
  47. ^ 1967年8月1日の規程改正で船尾水密扉で閉鎖された車両格納所容積が総トン数に加算されなくなった:古川達郎 鉄道連絡船のその後p46 成山堂書店2002
  48. ^ 1967.4.26公試時、平均喫水4.0m、排水量4401tでの計測
  49. ^ 青函連絡船要覧昭和42年5月1日 国鉄青函船舶鉄道管理局1967
  50. ^ 昭和42年度国鉄航路輸送年報p2 国鉄船舶局1968
  51. ^ 青函連絡船史p113 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  52. ^ 日本国有鉄道百年史年表p340 日本国有鉄道1972
  53. ^ 北海道鉄道百年史(下巻)p164 日本国有鉄道北海道総局1981
  54. ^ 青函連絡船栄光の航跡p402 北海道旅客鉄道株式会社1988
  55. ^ 石狩丸ハンドブック 1967.10.14 国鉄青函船舶鉄道管理局
  56. ^ 日本国有鉄道百年史第13巻p389 日本国有鉄道1974
  57. ^ 泉益生 連絡船のメモ(中巻)p37 船舶技術協会1975
  58. ^ 泉益生 連絡船のメモ(中巻)p188 船舶技術協会1975
  59. ^ 泉益生 連絡船のメモ(下巻)p15~22 船舶技術協会1975
  60. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp302 船舶技術協会1971
  61. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p232 成山堂書店1988
  62. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p251 成山堂書店1988
  63. ^ 青函連絡船栄光の航跡p370 北海道旅客鉄道株式会社1988
  64. ^ 航跡p285 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
  65. ^ 渡島丸(初代2代目)、空知丸(初代2代目)、大雪丸(初代2代目)、津軽丸(初代2代目)、十勝丸(初代2代目)、日高丸(初代2代目)、檜山丸(初代2代目)、摩周丸(初代2代目)、松前丸(初代2代目)、羊蹄丸(初代2代目の各船。