崑崙丸
崑崙丸 | |
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公試運転中の崑崙丸(1943年)崑崙丸の唯一の全景写真とされている[1] | |
基本情報 | |
船種 | 客船 |
クラス | 天山丸型客船 |
船籍 | 大日本帝国 |
所有者 | 鉄道省 |
運用者 | 鉄道省 |
建造所 | 三菱重工業長崎造船所 |
母港 | 東京港/東京都 |
姉妹船 | 天山丸 |
信号符字 | JYHR |
IMO番号 | 50035(※船舶番号) |
建造期間 | 284日 |
就航期間 | 189日 |
経歴 | |
起工 | 1942年(昭和17年)6月20日 |
進水 | 1942年(昭和17年)12月24日 |
竣工 | 1943年(昭和18年)3月30日[1][2] |
最後 | 1943年(昭和18年)10月5日被雷沈没[1][3] |
要目 | |
総トン数 | 7,908.07トン[3] |
純トン数 | 3,427.46トン[1] |
全長 | 143.4m[1][3] |
垂線間長 | 134.00m |
幅 | 18.2m[1][3] |
型深さ | 10.0m[1] |
満載喫水 | 6.1m[1] |
主機関 | 三菱タービン機関 2基[3] |
推進器 | 2軸 |
出力 | 1万7,533SHP[1] |
速力 | 23.454ノット[1] |
旅客定員 |
一等:60名 二等:344名 三等:1,646名[3] 予備:19名[1] |
乗組員 | 165名[1] |
積載能力 | 2,223トン[1] |
崑崙丸(こんろんまる Konron maru)は鉄道省の関釜航路の鉄道連絡船。天山丸型の第2船で、最後に建造された関釜連絡船である。船名は、中国西部の崑崙山脈に因む。
太平洋戦争(大東亜戦争)で最初に犠牲となった鉄道連絡船であり、当時、鉄道連絡船の就航以来最初の大事故であった。
開発
[編集]関釜連絡船には金剛丸型(金剛丸・興安丸)が1936年 - 1937年に就航していたが、日本軍や満蒙開拓団などを乗せて大混雑に見舞われていた。1940年(昭和15年)には1年間の旅客輸送数が200万人を突破し、乗客を積み残す事態に陥っていた[1]。そこで、新たに金剛丸型とほぼ同一の天山丸型4隻の建造が決定した。
設計
[編集]設計は鉄道省船舶課に所属し、宗谷丸や金剛丸型の設計で実績があった檜垣定雄が行った。公試では23.454ノットを発揮し、姉妹船の天山丸の記録(23.264ノット)を塗り替え、戦前に建造された最速の日本の商船となった[1]。天山丸は金剛丸型から座席を増設して旅客定員を増やしたが、崑崙丸はさらに二等船客を2名増加した。天山丸と同様に、崑崙丸も一等・二等食堂の定員を3倍の72名に拡大し、三等食堂を新設した。また、夜行便として設計された金剛丸型に対して、昼夜兼用だった崑崙丸には展望室を兼ねた休憩室が設けられた[1]。
戦時中に起工された崑崙丸では、戦時色が濃くなってきたこともあり、天山丸にあった操舵室や船橋の丸みが直線的になり、通風筒も煙管形より直線的なメガホン形になった[1]。また、天山丸には全客室の冷暖房完備や三等エントランスホールの総漆仕上げ柱、特別室の豪華な設計が施されたが[4]、崑崙丸では冷暖房設備が全廃され、化粧板や塗装も一部を省略し鉄板が剥き出しの場所もあった。船体は連絡船標準色には塗られず、灰緑色の戦時警戒色であった。ただし、一等・二等エントランスホールのマントルピースには、中村研一による崑崙山脈の風景画が飾られた[1]。
航跡
[編集]就航
[編集]第1船天山丸が三菱長崎造船所で1940年(昭和15年)11月に起工して1942年(昭和17年)9月竣工[1][2]する中、第2船の崑崙丸は天山丸と同じく三菱長崎造船所で第891番船として1942年6月20日に起工し半年後の12月24日に進水、1943年(昭和18年)3月30日に竣工した[1][2]。なお、戦局の逼迫により第3・4船の建造は中止されたため、崑崙丸が最後の関釜連絡船となった[1]。
沈没
[編集]竣工から2週間後の4月12日に運航を開始した「崑崙丸」だったが、半年後の10月5日1時15頃、下関から釜山に向け航行中、沖ノ島の東北約10海里(北緯34度14分 東経130度09分 / 北緯34.233度 東経130.150度[5])付近でアメリカ海軍の潜水艦「ワフー」の雷撃を受けた。「ワフー」が放った魚雷は左舷後方部手荷物室付近に命中し、「崑崙丸」は左舷に傾斜、約4分後[5]に棒立ちとなった後に船尾から沈没した[1]。
「崑崙丸」は陸軍の部隊を乗せて10月4日22時30分に出航する予定だったが、軍用列車が遅延して到着しないため、23時に出航した。そのため、乗客は479名のみで定員に対して少なかったが、深夜で就寝していた乗客が多く、雷撃で船内が停電したことも重なり、乗員(旅客と乗組員)655名中、死者行方不明者583人にのぼった。夜が明けてから、「天山丸」と、「徳寿丸」、「昌慶丸」、「壱岐丸」による生存者の捜索が行われたが、当時は低気圧の通過で風速10-20mの暴風が吹くなど荒天で、沈没から半日近く経過したこともあって捜索は捗らず、夕方までに4隻が収容できた生存者は乗客479名中28名と乗組員165名中21名、乗船していた警察官や警備隊員11名中3名のみだった[1]。
「崑崙丸」の沈没は、鉄道連絡船で最初の戦争の犠牲であった。利用者の多い関釜航路での大惨事に政府も隠蔽できないと判断し、10月7日18時30分、鉄道省は「崑崙丸」撃沈の事実を発表した。「崑崙丸」が撃沈されたことによって関釜航路の夜間航行は不可能になり、10月8日以降、関釜航路は駆逐艦の護衛を伴う昼間航行に限られ、旅客は軍人と公務員、それらに準じる緊急用務者のみ、貨物も手荷物と軍需品、新聞のみに制限された[1]。
この事件で海軍は激怒し、逃走ルートとして予想された津軽海峡と宗谷海峡の対潜警備が強化された。そして「ワフー」は「崑崙丸」撃沈から一週間を経ない10月11日に、宗谷海峡で発見され撃沈された。
その他
[編集]犠牲者には、衆議院代議士の助川啓四郎(助川良平の父)、加藤鯛一(加藤勘十の実兄)、また三重県議会副議長の福島吉三郎もいた[6]。戦時中にもかかわらず新聞発表が早かった(10月7日朝刊)のは、このためという説もある[要出典]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 石渡幸二「薄命に終った最後の関釜連絡船 天山丸・崑崙丸」『世界の艦船』通巻631集(2004年9月号)海人社 P.150-153
- ^ a b c 三菱造船(編)『創業百年の長崎造船所』三菱造船、1957年。 P.562-563
- ^ a b c d e f 野間恒、山田廸生『世界の艦船別冊 日本の客船1 1868~1945』海人社、1991年。ISBN 4-905551-38-2。 P.220
- ^ 「-初めて日の目を見る- 戦火に消えた最後の関釜連絡船「天山丸」「崑崙丸」カラー・スキーム」『世界の艦船』通巻631集(2004年9月号)海人社 P.130-131
- ^ a b 横須賀海軍警備隊「武装商船警戒隊戦闘詳報 第二三九号」防衛省防衛研究所 JACAR Ref.C08030465700 P.9-10
- ^ 関釜連絡船、潜水艦の雷撃を受けて沈没(昭和18年10月8日 毎日新聞(大阪))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p42 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
参考文献
[編集]- McDaniel, J. T. (2005). U.S.S. Wahoo (SS-238) American Submarine War Patrol Reports. Riverdale, Georgia: Riverdale Books Naval History Series. ISBN 1-932606-07-6
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.C08030357200『自昭和十八年十月一日至昭和十八年十月三十一日 (舞鶴鎮守府)戦時日誌』。
- Ref.C08030506500『自昭和十八年十月一日至昭和十八年十月三十一日 大湊警備府戦時日誌』。
- Ref.C08030465700『武装商船警戒隊戦闘詳報 第二三九号』、pp. 9-10頁。
- 『関釜連絡船史』日本国有鉄道広島鉄道管理局(編)、日本国有鉄道広島鉄道管理局、1979年。
- 『朝日新聞縮刷版(復刻版)昭和18年9月~10月』高野義夫(編)、日本図書センター、1987年。ISBN 978-4-820-52088-7。
- 木俣滋郎『敵潜水艦攻撃』朝日ソノラマ、1989年。ISBN 4-257-17218-5。
- 秋山信雄「米潜水艦の戦歴 草創期から第2次大戦まで」『世界の艦船』第446号、海人社、1992年2月、76-83頁。
- 古川達男『鉄道連絡船100年の航跡』成山堂書店、2001年。