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崑崙丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
崑崙丸
公試運転中の崑崙丸(1943年)崑崙丸の唯一の全景写真とされている[1]
基本情報
船種 客船
クラス 天山丸型客船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 鉄道省
運用者 鉄道省
建造所 三菱重工業長崎造船所
母港 東京港/東京都
姉妹船 天山丸
信号符字 JYHR
IMO番号 50035(※船舶番号)
建造期間 284日
就航期間 189日
経歴
起工 1942年昭和17年)6月20日
進水 1942年(昭和17年)12月24日
竣工 1943年(昭和18年)3月30日[1][2]
最後 1943年(昭和18年)10月5日被雷沈没[1][3]
要目
総トン数 7,908.07トン[3]
純トン数 3,427.46トン[1]
全長 143.4m[1][3]
垂線間長 134.00m
18.2m[1][3]
型深さ 10.0m[1]
満載喫水 6.1m[1]
主機関 三菱タービン機関 2基[3]
推進器 2軸
出力 1万7,533SHP[1]
速力 23.454ノット[1]
旅客定員 一等:60名
二等:344名
三等:1,646名[3]
予備:19名[1]
乗組員 165名[1]
積載能力 2,223トン[1]
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崑崙丸(こんろんまる Konron maru)は鉄道省関釜航路鉄道連絡船。天山丸型の第2船で、最後に建造された関釜連絡船である。船名は、中国西部の崑崙山脈に因む。

太平洋戦争大東亜戦争)で最初に犠牲となった鉄道連絡船であり、当時、鉄道連絡船の就航以来最初の大事故であった。

開発

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関釜連絡船には金剛丸型(金剛丸興安丸)が1936年 - 1937年に就航していたが、日本軍満蒙開拓団などを乗せて大混雑に見舞われていた。1940年(昭和15年)には1年間の旅客輸送数が200万人を突破し、乗客を積み残す事態に陥っていた[1]。そこで、新たに金剛丸型とほぼ同一の天山丸型4隻の建造が決定した。

設計

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設計は鉄道省船舶課に所属し、宗谷丸や金剛丸型の設計で実績があった檜垣定雄が行った。公試では23.454ノットを発揮し、姉妹船の天山丸の記録(23.264ノット)を塗り替え、戦前に建造された最速の日本の商船となった[1]。天山丸は金剛丸型から座席を増設して旅客定員を増やしたが、崑崙丸はさらに二等船客を2名増加した。天山丸と同様に、崑崙丸も一等・二等食堂の定員を3倍の72名に拡大し、三等食堂を新設した。また、夜行便として設計された金剛丸型に対して、昼夜兼用だった崑崙丸には展望室を兼ねた休憩室が設けられた[1]

戦時中に起工された崑崙丸では、戦時色が濃くなってきたこともあり、天山丸にあった操舵室や船橋の丸みが直線的になり、通風筒も煙管形より直線的なメガホン形になった[1]。また、天山丸には全客室の冷暖房完備や三等エントランスホールの総仕上げ柱、特別室の豪華な設計が施されたが[4]、崑崙丸では冷暖房設備が全廃され、化粧板や塗装も一部を省略し鉄板が剥き出しの場所もあった。船体は連絡船標準色には塗られず、灰緑色の戦時警戒色であった。ただし、一等・二等エントランスホールのマントルピースには、中村研一による崑崙山脈の風景画が飾られた[1]

航跡

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就航

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第1船天山丸が三菱長崎造船所1940年(昭和15年)11月に起工して1942年(昭和17年)9月竣工[1][2]する中、第2船の崑崙丸は天山丸と同じく三菱長崎造船所で第891番船として1942年6月20日に起工し半年後の12月24日に進水、1943年(昭和18年)3月30日に竣工した[1][2]。なお、戦局の逼迫により第3・4船の建造は中止されたため、崑崙丸が最後の関釜連絡船となった[1]

沈没

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竣工から2週間後の4月12日に運航を開始した「崑崙丸」だったが、半年後の10月5日1時15頃、下関から釜山に向け航行中、沖ノ島の東北約10海里北緯34度14分 東経130度09分 / 北緯34.233度 東経130.150度 / 34.233; 130.150[5])付近でアメリカ海軍の潜水艦「ワフー」の雷撃を受けた。「ワフー」が放った魚雷は左舷後方部手荷物室付近に命中し、「崑崙丸」は左舷に傾斜、約4分後[5]に棒立ちとなった後に船尾から沈没した[1]

「崑崙丸」は陸軍の部隊を乗せて10月4日22時30分に出航する予定だったが、軍用列車が遅延して到着しないため、23時に出航した。そのため、乗客は479名のみで定員に対して少なかったが、深夜で就寝していた乗客が多く、雷撃で船内が停電したことも重なり、乗員(旅客乗組員)655名中、死者行方不明者583人にのぼった。夜が明けてから、「天山丸」と、「徳寿丸」、「昌慶丸」、「壱岐丸」による生存者の捜索が行われたが、当時は低気圧の通過で風速10-20mの暴風が吹くなど荒天で、沈没から半日近く経過したこともあって捜索は捗らず、夕方までに4隻が収容できた生存者は乗客479名中28名と乗組員165名中21名、乗船していた警察官や警備隊員11名中3名のみだった[1]

「崑崙丸」の沈没は、鉄道連絡船で最初の戦争の犠牲であった。利用者の多い関釜航路での大惨事に政府も隠蔽できないと判断し、10月7日18時30分、鉄道省は「崑崙丸」撃沈の事実を発表した。「崑崙丸」が撃沈されたことによって関釜航路の夜間航行は不可能になり、10月8日以降、関釜航路は駆逐艦の護衛を伴う昼間航行に限られ、旅客は軍人と公務員、それらに準じる緊急用務者のみ、貨物も手荷物と軍需品、新聞のみに制限された[1]

この事件で海軍は激怒し、逃走ルートとして予想された津軽海峡宗谷海峡の対潜警備が強化された。そして「ワフー」は「崑崙丸」撃沈から一週間を経ない10月11日に、宗谷海峡で発見され撃沈された。

その他

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犠牲者には、衆議院代議士助川啓四郎助川良平の父)、加藤鯛一加藤勘十の実兄)、また三重県議会副議長の福島吉三郎もいた[6]戦時中にもかかわらず新聞発表が早かった(10月7日朝刊)のは、このためという説もある[要出典]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 石渡幸二「薄命に終った最後の関釜連絡船 天山丸・崑崙丸」『世界の艦船』通巻631集(2004年9月号)海人社 P.150-153
  2. ^ a b c 三菱造船(編)『創業百年の長崎造船所』三菱造船、1957年。  P.562-563
  3. ^ a b c d e f 野間恒、山田廸生『世界の艦船別冊 日本の客船1 1868~1945』海人社、1991年。ISBN 4-905551-38-2  P.220
  4. ^ 「-初めて日の目を見る- 戦火に消えた最後の関釜連絡船「天山丸」「崑崙丸」カラー・スキーム」『世界の艦船』通巻631集(2004年9月号)海人社 P.130-131
  5. ^ a b 横須賀海軍警備隊「武装商船警戒隊戦闘詳報 第二三九号」防衛省防衛研究所 JACAR Ref.C08030465700 P.9-10
  6. ^ 関釜連絡船、潜水艦の雷撃を受けて沈没(昭和18年10月8日 毎日新聞(大阪))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p42 毎日コミュニケーションズ刊 1994年

参考文献

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  • McDaniel, J. T. (2005). U.S.S. Wahoo (SS-238) American Submarine War Patrol Reports. Riverdale, Georgia: Riverdale Books Naval History Series. ISBN 1-932606-07-6 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030357200『自昭和十八年十月一日至昭和十八年十月三十一日 (舞鶴鎮守府)戦時日誌』。 
    • Ref.C08030506500『自昭和十八年十月一日至昭和十八年十月三十一日 大湊警備府戦時日誌』。 
    • Ref.C08030465700『武装商船警戒隊戦闘詳報 第二三九号』、pp. 9-10頁。 
  • 『関釜連絡船史』日本国有鉄道広島鉄道管理局(編)、日本国有鉄道広島鉄道管理局、1979年。 
  • 『朝日新聞縮刷版(復刻版)昭和18年9月~10月』高野義夫(編)、日本図書センター、1987年。ISBN 978-4-820-52088-7 
  • 木俣滋郎『敵潜水艦攻撃』朝日ソノラマ、1989年。ISBN 4-257-17218-5 
  • 秋山信雄「米潜水艦の戦歴 草創期から第2次大戦まで」『世界の艦船』第446号、海人社、1992年2月、76-83頁。 
  • 古川達男『鉄道連絡船100年の航跡』成山堂書店、2001年。 

関連項目

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外部リンク

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