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「シービークロス」の版間の差分

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|父 = [[フォルティノ]]
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|績 = 26戦7勝
|績 = 26戦7勝
|金 = 1億5770万5400円
|金 = 1億5770万5400円
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}}
'''シービークロス'''(''C.B Cross''、[[1975年]] - [[1991年]])とは、[[日本]]の[[競走馬]][[種牡馬]]である。
'''シービークロス'''([[1975年]][[5月5日]] - [[1991年]][[4月17日]])とは、[[日本]]の[[競走馬]][[種牡馬]]である。


1977年に[[中央競馬]]でデビュー。[[芦毛]]の馬体に、後方から鋭い[[脚質#追い込み|追い込み]]を見せる姿から「白い稲妻」と称され、[[中山金杯|金杯(東)]]、[[毎日王冠]]、[[目黒記念|目黒記念(秋)]]の三重賞を制した。[[主戦騎手]]は[[吉永正人]]。1983年より種牡馬となり、[[競馬の競走格付け|GI競走]]で3勝を挙げ1988年の[[JRA賞|年度代表馬]]となった[[タマモクロス]]などを輩出した。
[[脚質|追い込み]]のスペシャリストとして知られた[[吉永正人]]を鞍上に、いつも馬群から離れた殿(しんがり)から[[芦毛]]の馬体が後方から桁違いの末脚で追い込んで来るその様から「'''白い稲妻'''」というニックネームで呼ばれた。また、その直線一気に賭ける豪脚は「[[剃刀]]の切れ味」と評された。同期の[[東京優駿|日本ダービー]]馬[[サクラショウリ]]は父は[[パーソロン]]、母の父がフォルティノで、父と母の父の配合が逆であった。


*[[馬齢]]は当時の法令従い、旧表記[[数え年|数え]]する。
''※[[馬齢]]は日本で2000年以前使用された[[数え年]]で記述する。''

== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
1975年、[[北海道]][[浦河町]]の[[千明牧場]]分場に生まれる<ref name="yushun1988051">『優駿』1988年5月号、p.39</ref>。両親ともに芦毛で、父は[[フランス]]の[[クラシック (競馬)|クラシック]]優勝馬[[カロ]]などを出していた[[フォルティノ]]。母ズイショウは競走馬時代に吉永が騎乗しており、鋭い差し脚を持っていた<ref name="iguchi">井口(1986)pp.182-186</ref>。普通の仔馬のように歩けるようになるまで10日を要するなど誕生からしばらくは虚弱だったが、夏から秋にかけて著しく成長<ref name="yushun1988051" />。翌1976年3月には[[群馬県]][[片品村]]の千明牧場本場に送られ、育成調教に入った<ref name="yushun1988051" />。

1977年3月、[[東京競馬場]]の[[松山吉三郎]]厩舎に入る<ref name="yushun1988051" /><ref group="注">翌1978年に関東人馬の集中拠点となる[[美浦トレーニングセンター]]が開場。なお、本馬の担当厩務員であった青木一男は当時すでに厩舎は美浦に移っていたとしている。</ref>。慎重に調教を積まれ、11月のデビューとなった<ref name="yushun1988051" />。


== 略歴 ==
=== 競走馬時代 ===
=== 競走馬時代 ===
==== 3-4歳時(1977-1978年) ====
[[1977年]]11月にデビューしたシービークロスは、最初の2戦を落としたものの、続く2戦を連勝で3歳時は4戦2勝。しかし、翌[[1978年]]のクラシック戦線は[[セントライト記念]]3着以外は見せ場を作れずに終わる。[[ダービー卿チャレンジトロフィー]]2着などを含め、この年は10戦中8戦で掲示板を確保する走りは見せたものの、勝ち鞍は立冬特別を1勝するにとどまった。
11月6日、東京競馬場の新馬戦で吉永正人を鞍上にデビュー。1番人気に支持されたが、中位から直線で伸びきれず4着となる<ref name="iguchi" />。続く2戦目で吉永は後方待機策をとり、直線で鋭く伸びたが2着<ref name="iguchi" />。以後シービークロスは追い込み一辺倒となり<ref name="iguchi" />、2週連続の出走となった3戦目で先行馬を差し切り初勝利を挙げる<ref name="yushun1988051" />。年末には条件戦のひいらぎ賞を制し、翌年の[[中央競馬クラシック三冠|クラシック三冠戦線]]に向けた有力馬にも挙げられた<ref name="yushun1988051" />。


翌1978年は緒戦からオープン競走2戦をともに5着と敗れる<ref name="yushun1988052">『優駿』1988年5月号、pp.40-41</ref>。三冠初戦の[[皐月賞]](4月16日)は、ある程度の先行策でなければ勝ち目はないといわれる[[中山競馬場|中山コース]]で道中最後方から行き<ref name="iguchi" />、勝った[[ファンタスト]]から0.7秒差の5着で二冠目の[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]への優先出走権を得た<ref name="yushun1988052" />。日本ダービー(5月28日)でも最後方を進み、最後の直線では追い込んで見せ場を作ったものの、[[サクラショウリ]]から約4馬身差の7着と敗れた<ref name="yushun1988052" />。その後、俗に「残念ダービー」ともいわれる[[ラジオNIKKEI賞|日本短波賞]]で4着となり、休養に入った<ref name="yushun1988052" />。担当厩務員の青木一男によれば、当時のシービークロスはまだ子供の身体つきであったという<ref name="meiba">『忘れられない名馬100』pp.80-81</ref>。
[[1979年]]、シービークロスは[[中山金杯|金杯(東)]]を勝ち初重賞制覇。その後は[[目黒記念|目黒記念(春)]]3着、[[中山記念]]7着、[[天皇賞|天皇賞(春)]]3着、[[宝塚記念]]9着と好走と凡走を繰り返した。秋を迎え本格化したシービークロスは、[[毎日王冠]]と目黒記念(秋)をともにレコードタイムで快勝するものの、[[繋靭帯炎]]を発症。天皇賞への出走を見送ることとなった。


秋は[[京王杯オータムハンデキャップ]]3着を経て、三冠最終戦・[[菊花賞]]の[[トライアル競走]]・[[セントライト記念]]でも3着となり同競走への優先出走権を得る。しかし西下直前に熱発して菊花賞を断念<ref name="yushun1988052" />、自己条件戦に回り、3勝目を挙げた。続く[[ダービー卿チャレンジトロフィー]]では[[モデルスポート]]にクビ差及ばず2着。年末には[[グランプリ (中央競馬)|グランプリ競走]]・[[有馬記念]]に出走したが、10着と敗れシーズンを終えた。
その後シービークロスは、脚部不安と闘いつつ競走生活を送ることとなった。[[1980年]]春の天皇賞では[[投票券 (公営競技)#単勝式|単勝]]1番[[人気]]に推されたものの、直線の短い[[阪神競馬場]]での開催<ref>通常は直線が阪神より長い[[京都競馬場]]での開催であったが、この年は改装工事のために阪神での開催となった。なお、大改装を受け3200メートルが内回りコース (356.5メートル) から外回りコース (473.6メートル) となった現在の阪神は、当時とは逆に京都 (403.7メートル) より直線が長くなっている。</ref>となり、勝った[[ニチドウタロー]]を追い込み切れず4着となった。ここで繋靭帯炎を悪化させたため、半年の休養で立て直しを図り出走した秋の天皇賞では、めずらしく中段待機策をとるものの[[プリテイキャスト]]の逃げに屈し最下位に敗れた。それから1年半の休養を経て[[1982年]]春のオープン戦で復帰。ゴール前強襲でネオキーストンを破ったのが、復帰後唯一の見せ場となった。


==== 5歳時(1979年) ====
オープン戦快勝後の[[日経賞]]は脚部不安で[[出馬投票|出走取り消し]]。懸命の治療で同厩の[[モンテプリンス]]とともに半年後の天皇賞(秋)出走を目指したが、繋靭帯炎悪化のために引退となった。その後、モンテプリンスの付け馬として[[引退#競馬|引退式]]が行われた。
1979年、シービークロスは年頭の金杯(東)から始動。後方から最後の直線で[[メジロファントム]]を差し切り、15戦目での重賞初勝利を挙げた。ダービー当時に446kgだった馬体重は470kgまで増えており、吉永は「使いながら馬体重が増えているし、今日は馬の状態がともかく素晴らしかった。今年はなにか一暴れできそうな感じです<ref name="yushun1988052" />」と感想を語った。


その後、目黒記念(春)3着、[[中山記念]]7着と続いたのち、[[天皇賞(春)]]に出走。道中は常の通り最後方を進んだが、周回2周目の第3コーナーから位置を上げ、最終コーナーでは中位で最後の直線に入った<ref name="iguchi" />。吉永は馬群がばらけると見越して追い込みをかけたが、当てが外れてシービークロスの前には壁ができる形となった<ref name="iguchi" />。やむなく吉永が外に持ち出すとシービークロスは鋭く伸びたが<ref name="iguchi" />、勝った[[カシュウチカラ]]から1馬身半差の3着と敗れた。吉永は本競走について後年「勝てたレースだった」と振り返り、「ぼくがもう少し早く外に出せていたら……と、悔やまれますね」と述べている<ref name="iguchi" />。
=== 競走成績 ===
* 1977年(4戦2勝)
* 1978年(10戦1勝)
* 1979年(7戦3勝)
** [[目黒記念|目黒記念(秋)]]・[[毎日王冠]]・[[中山金杯|金杯(東)]]、3着 - [[天皇賞|天皇賞(春)]]・目黒記念(春)
* 1980年(4戦0勝)
* 1981年(不出走)
* 1982年(1戦1勝)


春のグランプリ・[[宝塚記念]]では9着となり、夏は休養に充てた。秋は天皇賞(秋)を目標に毎日王冠から始動。道中最後方から最終コーナーで馬場内側から位置を上げると、最後の直線では半ばから外に持ち出して先行勢を交わし、[[カネミノブ]]に2馬身差をつけて勝利した<ref name="yushun1988052" />。走破タイム1分59秒9は同厩・同馬主の先輩馬[[シービークイン]]の記録を0秒3更新し<ref name="iguchi" />、東京競馬場の2000メートルで初めて2分を切るコースレコードとなった<ref name="yushun1988052" />。吉永は「いつもは展開に左右される馬だが、今日は4コーナーの時点で勝てると思った。それほど馬の気迫が違っていた」と感想を述べた<ref name="yushun1988052" />。
=== 引退後 ===
引退後、生産者である錦野昌章の尽力もあり[[種牡馬]][[種牡馬#シンジケート|シンジケート]]が組まれたシービークロスは、不人気の逆境を跳ね返し初年度から代表産駒となる[[タマモクロス]]を輩出。デビュー遅れが響きクラシックには出られなかったものの、史上初の天皇賞春秋連覇を成し遂げた。また、クラシック戦線を賑わせ、長らく重賞戦線で走り続けた[[ホワイトストーン]]も輩出。その後は、[[1991年]]に[[悪性黒色腫|黒色腫]]に蝕まれ死亡するまでに5頭のJRA[[重賞]]馬、[[地方競馬]]でも[[南関東公営競馬]]の黒潮盃を制したトウケイグランデイを送り出し、種牡馬としては同厩のモンテプリンスを超える成功を収めている。


続いて出走した目黒記念(秋)では1番人気に支持される。レースでは最後方追走のはるか前方で、[[脚質#逃げ|逃げ馬]]のヒダカホーリュウが大逃げを打ち、一時先頭から100メートル以上離された。しかし最後の直線で最内をついて追い込み、[[ブルーマックス]]に1馬身半差をつけ重賞2連勝を遂げた<ref name="yushun1988052" />。2分32秒2は2500メートルの日本レコードタイムであり<ref name="yushun1988052" />、2戦連続のレコード勝利ともなった。この頃からシービークロスには「白い稲妻」の異名が冠されるようになった<ref name="meiba" />。吉永は「このまま無事なら天皇賞も楽しみ」と期待を口にしたが、同競走への直前の調教で右前脚に[[繋靱帯炎]]を発症し、回避を余儀なくされた<ref name="yushun1988052" />。厩務員の青木によればシービークロスは入厩当初から右前脚に負担が掛かりやすく、瞬発力を極限に発揮したことが相当の負担を掛けたのだろうと述べている<ref name="meiba" />。なお、天皇賞は前2走で破った[[スリージャイアンツ]]が優勝した。
=== 主な産駒 ===

* [[タマモクロス]] - [[天皇賞|天皇賞(春・秋)]]・[[宝塚記念]]
==== 6-8歳時(1980-1982年 ====
* [[ホワイトストーン]] - [[大阪杯]]・[[セントライト記念]]・[[アメリカジョッキークラブカップ]]
翌年2月から調教を再開。4月に中山開催のオープン競走で復帰(3着)したのち西下し、天皇賞(春)に出走。当年は例年開催の[[京都競馬場]]が改修工事中のため、直線が短い[[阪神競馬場]]での開催となったが、シービークロスは1番人気の支持を受けた<ref name="yushun1988053">『優駿』1988年5月号、pp.42-43</ref>。最後方追走から、吉永は周回2周目の第3コーナーより進出を図ったがシービークロスは反応しなかった<ref name="iguchi" />。最終第4コーナーでようやく反応すると直線では一気の追い込みを見せたが、2~5着が横並びとなった一団に混じってのゴールとなり、勝った[[ニチドウタロー]]から1馬身半、アタマ、クビ差の4着に終わった<ref name="iguchi" />。競走後には「京都競馬場なら勝っていた」という声があった一方、後方待機一辺倒の吉永の騎乗について批判的な声も上がった<ref name="iguchi" />。
* イナズマクロス - [[クイーンステークス]]

* シノクロス - [[京王杯2歳ステークス|京成杯3歳ステークス]]・[[フェアリーステークス|テレビ東京賞3歳牝馬ステークス]]
競走後、繋靱帯炎の再発のため休養に入り、秋に復帰。オープン競走4着を経て天皇賞(秋)に臨んだが、11頭立ての最下位に沈み、さらに繋靱帯炎の再々発で長期休養に入った<ref name="yushun1988053" />。1年5カ月を経て8歳となったシービークロスはオープン競走に出走。6番人気の評価であったが、当年秋に[[福島記念]]を勝つネオキーストン以下を差し切り、復帰戦を勝利で飾った<ref name="yushun1988053" />。
* トウケイグランデイ - [[黒潮盃]]

* エーコークロス - [[京都大障害|京都大障害(秋)]]
その後は[[日経賞]]への出走を予定していたが、競走当日に三度の繋靱帯炎再発に見舞われて出走を取り消し、これを最後として競走生活から退いた<ref name="yushun1988053" />。翌1983年1月16日、東京競馬場において松山厩舎の僚馬[[モンテプリンス]]と合同での引退式が行われた<ref name="yushun1988053" />。

=== 種牡馬時代 ===
シービークロスの種牡馬入りに際しては一株30万円×50口の[[シンジケート]]が組まれた<ref name="yushun1988051" />。しかし50株がさばけることはなく<ref name="yushun1988051" />、公示10万円の種付け料も名目のみで実際は「酒二升でもいいから」と種付けを依頼するような状況だったともされる<ref>『優駿』1997年2月号、p.89</ref>。それでも初年度には49頭への種付けを行ったが、当初は「産駒ができたら儲けもの」という程度の感覚で、受胎率の悪い牝馬に付けられることが多かった<ref name="yushun1988053" />。

しかし産駒がデビューして活躍馬が続出するとシービークロスの評価は急速に高まり、2年目の産駒[[シノクロス]]や初年度産駒の[[タマモクロス]]が相次いで重賞を制した直後の1988年初頭には、種付け株が内国産種牡馬で3番目の305万円で取引された<ref name="yushun1988051" />。同年にはタマモクロスが[[天皇賞(春)]]、[[宝塚記念]]、[[天皇賞(秋)]]のGI3勝を挙げ、[[JRA賞|年度代表馬]]に選出されている。以後も重賞3勝の[[ホワイトストーン]]などを輩出し、種牡馬として確固とした評価を得た<ref name="shinikata">『サラブレッド101頭の死に方』pp.316-320</ref>。

1991年4月17日、シービークロスは馬房で鼻血を出し、首を折って死んでいるところを発見された<ref name="shinikata" />。同年は60頭との交配が予定されており、前日にも種付けをこなしていた。解剖の結果、脳および内臓全体が[[黒色腫]]に冒されており、脳の腫瘍が血管を破裂させて死亡したものと推測されている<ref name="shinikata" />。黒色腫は普通、外部から判別可能な病気だったが、シービークロスは例外的に内臓のみに症状が広がり、発見することができなかった<ref name="shinikata" />。繋養されていた新冠農協畜産センターで24日に葬儀が営まれ<ref name="shinikata" />、同場に墓が建立された<ref>『サラブレッド101頭の死に方』p.543</ref>。新冠農協畜産センターは2003年をもって閉鎖され、墓は同町内の優駿メモリアルパークに移されている。

== 競走成績 ==
{|style="font-size: 90%; text-align: center; border-collapse: collapse;"
|-
!colspan="3"|年月日!!競馬場!!競走名!!人気!!着順!!距離!!タイム!!騎手!!斤量!!馬体重!!勝ち馬 / (2着馬)
|-
|1977
|11.
|6
|[[東京競馬場|東京]]
|新馬
|1人
|4着
|芝1400m(良)
|1:24.9
|[[吉永正人]]
|53
|454
|ダンボ
|-
|
|11.
|20
|東京
|新馬
|1人
|2着
|芝1200m(良)
|1:12.2
|吉永正人
|53
|452
|ヨシノグランツ
|-
|
|11.
|27
|東京
|新馬
|1人
|{{color|red|1着}}
|芝1400m(重)
|1:26.2
|吉永正人
|53
|454
|(コビナタコマンダー)
|-
|
|12.
|25
|[[中山競馬場|中山]]
|ひいらぎ賞
|4人
|{{color|red|1着}}
|芝1600m(良)
|1:37.0
|吉永正人
|53
|452
|(カミノアヤメ)
|-
|1978
|1.
|28
|東京
|オープン
|1人
|5着
|芝1400m(良)
|1:25.9
|吉永正人
|54
|456
|ヒロノスキー
|-
|
|3.
|12
|中山
|オープン
|3人
|5着
|芝1600m(重)
|1:38.5
|吉永正人
|54
|438
|ユウズミ
|-
|
|4.
|16
|中山
|'''[[皐月賞]]'''
|10人
|5着
|芝2000m(良)
|2:05.0
|吉永正人
|57
|444
|[[ファンタスト]]
|-
|
|5.
|28
|東京
|'''[[東京優駿]]'''
|8人
|7着
|芝2400m(良)
|2:28.4
|吉永正人
|57
|446
|[[サクラショウリ]]
|-
|
|6.
|25
|中山
|[[ラジオNIKKEI賞|日本短波賞]]
|3人
|4着
|芝1800m(重)
|1:50.1
|吉永正人
|55
|448
|キタノコンゴウ
|-
|
|9.
|10
|東京
|[[京成杯オータムハンデキャップ|京王杯オータムH]]
|3人
|3着
|芝1800m(良)
|1:47.6
|吉永正人
|54
|456
|カールスパット
|-
|
|10.
|10
|東京
|[[セントライト記念]]
|1人
|3着
|芝2400m(良)
|2:27.0
|吉永正人
|55
|458
|サクラショウリ
|-
|
|11.
|5
|東京
|立冬特別
|1人
|{{color|red|1着}}
|芝1800m(良)
|1:48.7
|吉永正人
|54
|464
|(シバタケル)
|-
|
|11.
|19
|東京
|[[ダービー卿チャレンジトロフィー|ダービー卿チャレンジT]]
|1人
|2着
|芝1800m(良)
|1:49.2
|吉永正人
|52
|460
|[[モデルスポート]]
|-
|
|12.
|17
|中山
|'''[[有馬記念]]'''
|13人
|10着
|芝2500m(良)
|2:34.6
|吉永正人
|54
|468
|[[カネミノブ]]
|-
|1979
|1.
|5
|東京
|[[中山金杯|金杯(東)]]
|5人
|{{color|red|1着}}
|芝2000m(良)
|2:00.6
|吉永正人
|55
|470
|([[メジロファントム]])
|-
|
|2.
|18
|東京
|[[目黒記念|目黒記念(春)]]
|4人
|3着
|芝2500m(良)
|2:36.4
|吉永正人
|57
|472
|サクラショウリ
|-
|
|3.
|11
|中山
|[[中山記念]]
|4人
|7着
|芝1800m(良)
|1:50.0
|吉永正人
|55
|470
|カネミカサ
|-
|
|4.
|29
|[[京都競馬場|京都]]
|'''[[天皇賞(春)]]'''
|10人
|3着
|芝3200m(良)
|3:20.5
|吉永正人
|58
|470
|[[カシュウチカラ]]
|-
|
|6.
|3
|[[阪神競馬場|阪神]]
|[[宝塚記念]]
|6人
|9着
|芝2200m(良)
|2:13.6
|吉永正人
|55
|464
|サクラショウリ
|-
|
|9.
|23
|東京
|[[毎日王冠]]
|4人
|{{color|red|1着}}
|芝2000m(良)
|{{color|red|R1:59.9}}
|吉永正人
|56
|470
|(カネミノブ)
|-
|
|11.
|4
|東京
|目黒記念(秋)
|1人
|{{color|red|1着}}
|芝2500m(良)
|{{color|red|R2:32.3}}
|吉永正人
|59
|472
|(ブルーマックス)
|-
|1980
|4.
|6
|中山
|オープン
|5人
|3着
|芝1800m(良)
|1:54.9
|国兼浩
|54
|476
|[[スイートネイティブ]]
|-
|
|4.
|29
|阪神
|'''天皇賞(春)'''
|1人
|4着
|芝3200m(良)
|3:19.0
|吉永正人
|58
|474
|[[ニチドウタロー]]
|-
|
|10.
|25
|東京
|オープン
|3人
|4着
|芝1800m(不)
|1:54.9
|吉永正人
|57
|476
|スイートネイティブ
|-
|
|11.
|23
|東京
|'''天皇賞(秋)'''
|7人
|11着
|芝3200m(重)
|3:32.8
|吉永正人
|58
|476
|[[プリテイキャスト]]
|-
|1982
|4.
|11
|中山
|オープン
|6人
|{{color|red|1着}}
|芝2000m(良)
|2:03.0
|篠原茂
|53
|480
|(ネオキーストン)
|-
|
|5.
|16
|東京
|[[日経賞]]
|-
|-
|芝2500m(良)
|取消
|吉永正人
|57
|-
|[[メジロティターン]]
|}
#競走名'''太字'''は[[八大競走]]。
#タイム欄{{color|red|R}}はレコードタイムを示す。

== 主な産駒 ==
※括弧内は当該馬の優勝重賞競走、'''太字'''はGI競走。

'''中央競馬重賞勝利馬'''
*[[タマモクロス]](1984年産 1987年[[鳴尾記念]] 1988年金杯・東、[[阪神大賞典]]、'''天皇賞・春'''、'''宝塚記念'''、'''天皇賞・秋''')
*[[シノクロス]](1985年産 1987年[[京王杯2歳ステークス|京成杯3歳ステークス]]、[[テレビ東京賞3歳牝馬ステークス|フェアリーステークス]])
*エイコークロス(1986年産 1991年[[京都大障害|京都大障害・秋]])
*[[ホワイトストーン]](1987年産 1990年セントライト記念 1991年[[大阪杯]] 1993年[[アメリカジョッキークラブカップ]])
*イナズマクロス(1988年産 1991年[[クイーンステークス]])

'''地方競馬重賞勝利馬'''
*ラブリータケシマ(1984年産1986年ジュニアーゴールデン賞・[[高知競馬場|高知]])
*トウケイグランデイ(1986年産 1989年[[黒潮盃]]・[[大井競馬場|大井]])
*シービーパトリス(1986年産 やいろ鳥賞・高知、RKC杯・高知)


== 血統表 ==
== 血統表 ==
86行目: 496行目:
|mmmm = Brave Deal [[ファミリーナンバー|F-No.]][[1号族|1-t]]
|mmmm = Brave Deal [[ファミリーナンバー|F-No.]][[1号族|1-t]]
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== 関連項目 ==
*[[小泉牧場]] - イナズマクロスの生産者。所有馬に「白い稲妻」から「イナズマ」の[[冠名]]を使用している。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*[[井口民樹]]『三冠騎手 吉永正人 - いま明かすドン尻強襲の秘密』(朝日新聞社、1986年)ISBN 978-4255860503
*『忘れられない名馬100 - 関係者の証言で綴る、ターフを去った100頭の名馬』(学研、1997年)ISBN 978-4056013924
**青木一男「シービークロス 人には話さなかったけど、"白い稲妻"は気に入っていた」
*[[大川慶次郎]]ほか『サラブレッド101頭の死に方』(徳間文庫、1999年)ISBN 4198911851
*『優駿』1988年5月号(日本中央競馬会)
**横尾一彦「サラブレッド・ヒーロー列伝 白い稲妻シービークロス」
*『優駿』1997年2月号(日本中央競馬会)
**井口民樹「サラブレッド・ヒーロー列伝 "最強の芦毛"タマモクロス(上)」


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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2014年7月8日 (火) 07:20時点における版

シービークロス
品種 サラブレッド
性別
毛色 芦毛
生誕 1975年5月5日
死没 1991年4月17日(17歳没・旧表記)
フォルティノ
ズイショウ
母の父 パーソロン
生国 日本の旗 日本北海道浦河町
生産者 千明牧場
馬主 千明牧場
調教師 松山吉三郎美浦
厩務員 青木一男
競走成績
生涯成績 26戦7勝
獲得賞金 1億5770万5400円
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シービークロス1975年5月5日 - 1991年4月17日)とは、日本競走馬種牡馬である。

1977年に中央競馬でデビュー。芦毛の馬体に、後方から鋭い追い込みを見せる姿から「白い稲妻」と称され、金杯(東)毎日王冠目黒記念(秋)の三重賞を制した。主戦騎手吉永正人。1983年より種牡馬となり、GI競走で3勝を挙げ1988年の年度代表馬となったタマモクロスなどを輩出した。

馬齢は日本で2000年以前に使用された数え年で記述する。

経歴

生い立ち

1975年、北海道浦河町千明牧場分場に生まれる[1]。両親ともに芦毛で、父はフランスクラシック優勝馬カロなどを出していたフォルティノ。母ズイショウは競走馬時代に吉永が騎乗しており、鋭い差し脚を持っていた[2]。普通の仔馬のように歩けるようになるまで10日を要するなど誕生からしばらくは虚弱だったが、夏から秋にかけて著しく成長[1]。翌1976年3月には群馬県片品村の千明牧場本場に送られ、育成調教に入った[1]

1977年3月、東京競馬場松山吉三郎厩舎に入る[1][注 1]。慎重に調教を積まれ、11月のデビューとなった[1]

競走馬時代

3-4歳時(1977-1978年)

11月6日、東京競馬場の新馬戦で吉永正人を鞍上にデビュー。1番人気に支持されたが、中位から直線で伸びきれず4着となる[2]。続く2戦目で吉永は後方待機策をとり、直線で鋭く伸びたが2着[2]。以後シービークロスは追い込み一辺倒となり[2]、2週連続の出走となった3戦目で先行馬を差し切り初勝利を挙げる[1]。年末には条件戦のひいらぎ賞を制し、翌年のクラシック三冠戦線に向けた有力馬にも挙げられた[1]

翌1978年は緒戦からオープン競走2戦をともに5着と敗れる[3]。三冠初戦の皐月賞(4月16日)は、ある程度の先行策でなければ勝ち目はないといわれる中山コースで道中最後方から行き[2]、勝ったファンタストから0.7秒差の5着で二冠目の東京優駿(日本ダービー)への優先出走権を得た[3]。日本ダービー(5月28日)でも最後方を進み、最後の直線では追い込んで見せ場を作ったものの、サクラショウリから約4馬身差の7着と敗れた[3]。その後、俗に「残念ダービー」ともいわれる日本短波賞で4着となり、休養に入った[3]。担当厩務員の青木一男によれば、当時のシービークロスはまだ子供の身体つきであったという[4]

秋は京王杯オータムハンデキャップ3着を経て、三冠最終戦・菊花賞トライアル競走セントライト記念でも3着となり同競走への優先出走権を得る。しかし西下直前に熱発して菊花賞を断念[3]、自己条件戦に回り、3勝目を挙げた。続くダービー卿チャレンジトロフィーではモデルスポートにクビ差及ばず2着。年末にはグランプリ競走有馬記念に出走したが、10着と敗れシーズンを終えた。

5歳時(1979年)

1979年、シービークロスは年頭の金杯(東)から始動。後方から最後の直線でメジロファントムを差し切り、15戦目での重賞初勝利を挙げた。ダービー当時に446kgだった馬体重は470kgまで増えており、吉永は「使いながら馬体重が増えているし、今日は馬の状態がともかく素晴らしかった。今年はなにか一暴れできそうな感じです[3]」と感想を語った。

その後、目黒記念(春)3着、中山記念7着と続いたのち、天皇賞(春)に出走。道中は常の通り最後方を進んだが、周回2周目の第3コーナーから位置を上げ、最終コーナーでは中位で最後の直線に入った[2]。吉永は馬群がばらけると見越して追い込みをかけたが、当てが外れてシービークロスの前には壁ができる形となった[2]。やむなく吉永が外に持ち出すとシービークロスは鋭く伸びたが[2]、勝ったカシュウチカラから1馬身半差の3着と敗れた。吉永は本競走について後年「勝てたレースだった」と振り返り、「ぼくがもう少し早く外に出せていたら……と、悔やまれますね」と述べている[2]

春のグランプリ・宝塚記念では9着となり、夏は休養に充てた。秋は天皇賞(秋)を目標に毎日王冠から始動。道中最後方から最終コーナーで馬場内側から位置を上げると、最後の直線では半ばから外に持ち出して先行勢を交わし、カネミノブに2馬身差をつけて勝利した[3]。走破タイム1分59秒9は同厩・同馬主の先輩馬シービークインの記録を0秒3更新し[2]、東京競馬場の2000メートルで初めて2分を切るコースレコードとなった[3]。吉永は「いつもは展開に左右される馬だが、今日は4コーナーの時点で勝てると思った。それほど馬の気迫が違っていた」と感想を述べた[3]

続いて出走した目黒記念(秋)では1番人気に支持される。レースでは最後方追走のはるか前方で、逃げ馬のヒダカホーリュウが大逃げを打ち、一時先頭から100メートル以上離された。しかし最後の直線で最内をついて追い込み、ブルーマックスに1馬身半差をつけ重賞2連勝を遂げた[3]。2分32秒2は2500メートルの日本レコードタイムであり[3]、2戦連続のレコード勝利ともなった。この頃からシービークロスには「白い稲妻」の異名が冠されるようになった[4]。吉永は「このまま無事なら天皇賞も楽しみ」と期待を口にしたが、同競走への直前の調教で右前脚に繋靱帯炎を発症し、回避を余儀なくされた[3]。厩務員の青木によればシービークロスは入厩当初から右前脚に負担が掛かりやすく、瞬発力を極限に発揮したことが相当の負担を掛けたのだろうと述べている[4]。なお、天皇賞は前2走で破ったスリージャイアンツが優勝した。

6-8歳時(1980-1982年

翌年2月から調教を再開。4月に中山開催のオープン競走で復帰(3着)したのち西下し、天皇賞(春)に出走。当年は例年開催の京都競馬場が改修工事中のため、直線が短い阪神競馬場での開催となったが、シービークロスは1番人気の支持を受けた[5]。最後方追走から、吉永は周回2周目の第3コーナーより進出を図ったがシービークロスは反応しなかった[2]。最終第4コーナーでようやく反応すると直線では一気の追い込みを見せたが、2~5着が横並びとなった一団に混じってのゴールとなり、勝ったニチドウタローから1馬身半、アタマ、クビ差の4着に終わった[2]。競走後には「京都競馬場なら勝っていた」という声があった一方、後方待機一辺倒の吉永の騎乗について批判的な声も上がった[2]

競走後、繋靱帯炎の再発のため休養に入り、秋に復帰。オープン競走4着を経て天皇賞(秋)に臨んだが、11頭立ての最下位に沈み、さらに繋靱帯炎の再々発で長期休養に入った[5]。1年5カ月を経て8歳となったシービークロスはオープン競走に出走。6番人気の評価であったが、当年秋に福島記念を勝つネオキーストン以下を差し切り、復帰戦を勝利で飾った[5]

その後は日経賞への出走を予定していたが、競走当日に三度の繋靱帯炎再発に見舞われて出走を取り消し、これを最後として競走生活から退いた[5]。翌1983年1月16日、東京競馬場において松山厩舎の僚馬モンテプリンスと合同での引退式が行われた[5]

種牡馬時代

シービークロスの種牡馬入りに際しては一株30万円×50口のシンジケートが組まれた[1]。しかし50株がさばけることはなく[1]、公示10万円の種付け料も名目のみで実際は「酒二升でもいいから」と種付けを依頼するような状況だったともされる[6]。それでも初年度には49頭への種付けを行ったが、当初は「産駒ができたら儲けもの」という程度の感覚で、受胎率の悪い牝馬に付けられることが多かった[5]

しかし産駒がデビューして活躍馬が続出するとシービークロスの評価は急速に高まり、2年目の産駒シノクロスや初年度産駒のタマモクロスが相次いで重賞を制した直後の1988年初頭には、種付け株が内国産種牡馬で3番目の305万円で取引された[1]。同年にはタマモクロスが天皇賞(春)宝塚記念天皇賞(秋)のGI3勝を挙げ、年度代表馬に選出されている。以後も重賞3勝のホワイトストーンなどを輩出し、種牡馬として確固とした評価を得た[7]

1991年4月17日、シービークロスは馬房で鼻血を出し、首を折って死んでいるところを発見された[7]。同年は60頭との交配が予定されており、前日にも種付けをこなしていた。解剖の結果、脳および内臓全体が黒色腫に冒されており、脳の腫瘍が血管を破裂させて死亡したものと推測されている[7]。黒色腫は普通、外部から判別可能な病気だったが、シービークロスは例外的に内臓のみに症状が広がり、発見することができなかった[7]。繋養されていた新冠農協畜産センターで24日に葬儀が営まれ[7]、同場に墓が建立された[8]。新冠農協畜産センターは2003年をもって閉鎖され、墓は同町内の優駿メモリアルパークに移されている。

競走成績

年月日 競馬場 競走名 人気 着順 距離 タイム 騎手 斤量 馬体重 勝ち馬 / (2着馬)
1977 11. 6 東京 新馬 1人 4着 芝1400m(良) 1:24.9 吉永正人 53 454 ダンボ
11. 20 東京 新馬 1人 2着 芝1200m(良) 1:12.2 吉永正人 53 452 ヨシノグランツ
11. 27 東京 新馬 1人 1着 芝1400m(重) 1:26.2 吉永正人 53 454 (コビナタコマンダー)
12. 25 中山 ひいらぎ賞 4人 1着 芝1600m(良) 1:37.0 吉永正人 53 452 (カミノアヤメ)
1978 1. 28 東京 オープン 1人 5着 芝1400m(良) 1:25.9 吉永正人 54 456 ヒロノスキー
3. 12 中山 オープン 3人 5着 芝1600m(重) 1:38.5 吉永正人 54 438 ユウズミ
4. 16 中山 皐月賞 10人 5着 芝2000m(良) 2:05.0 吉永正人 57 444 ファンタスト
5. 28 東京 東京優駿 8人 7着 芝2400m(良) 2:28.4 吉永正人 57 446 サクラショウリ
6. 25 中山 日本短波賞 3人 4着 芝1800m(重) 1:50.1 吉永正人 55 448 キタノコンゴウ
9. 10 東京 京王杯オータムH 3人 3着 芝1800m(良) 1:47.6 吉永正人 54 456 カールスパット
10. 10 東京 セントライト記念 1人 3着 芝2400m(良) 2:27.0 吉永正人 55 458 サクラショウリ
11. 5 東京 立冬特別 1人 1着 芝1800m(良) 1:48.7 吉永正人 54 464 (シバタケル)
11. 19 東京 ダービー卿チャレンジT 1人 2着 芝1800m(良) 1:49.2 吉永正人 52 460 モデルスポート
12. 17 中山 有馬記念 13人 10着 芝2500m(良) 2:34.6 吉永正人 54 468 カネミノブ
1979 1. 5 東京 金杯(東) 5人 1着 芝2000m(良) 2:00.6 吉永正人 55 470 メジロファントム
2. 18 東京 目黒記念(春) 4人 3着 芝2500m(良) 2:36.4 吉永正人 57 472 サクラショウリ
3. 11 中山 中山記念 4人 7着 芝1800m(良) 1:50.0 吉永正人 55 470 カネミカサ
4. 29 京都 天皇賞(春) 10人 3着 芝3200m(良) 3:20.5 吉永正人 58 470 カシュウチカラ
6. 3 阪神 宝塚記念 6人 9着 芝2200m(良) 2:13.6 吉永正人 55 464 サクラショウリ
9. 23 東京 毎日王冠 4人 1着 芝2000m(良) R1:59.9 吉永正人 56 470 (カネミノブ)
11. 4 東京 目黒記念(秋) 1人 1着 芝2500m(良) R2:32.3 吉永正人 59 472 (ブルーマックス)
1980 4. 6 中山 オープン 5人 3着 芝1800m(良) 1:54.9 国兼浩 54 476 スイートネイティブ
4. 29 阪神 天皇賞(春) 1人 4着 芝3200m(良) 3:19.0 吉永正人 58 474 ニチドウタロー
10. 25 東京 オープン 3人 4着 芝1800m(不) 1:54.9 吉永正人 57 476 スイートネイティブ
11. 23 東京 天皇賞(秋) 7人 11着 芝3200m(重) 3:32.8 吉永正人 58 476 プリテイキャスト
1982 4. 11 中山 オープン 6人 1着 芝2000m(良) 2:03.0 篠原茂 53 480 (ネオキーストン)
5. 16 東京 日経賞 芝2500m(良) 取消 吉永正人 57 メジロティターン
  1. 競走名太字八大競走
  2. タイム欄Rはレコードタイムを示す。

主な産駒

※括弧内は当該馬の優勝重賞競走、太字はGI競走。

中央競馬重賞勝利馬

地方競馬重賞勝利馬

  • ラブリータケシマ(1984年産1986年ジュニアーゴールデン賞・高知
  • トウケイグランデイ(1986年産 1989年黒潮盃大井
  • シービーパトリス(1986年産 やいろ鳥賞・高知、RKC杯・高知)

血統表

シービークロス血統フォルティノ系 / Pharos5×5=6.25%ほか) (血統表の出典)

* フォルティノ
Fortino
1959 芦毛
父の父
Grey Sovereign
1948 芦毛
Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Kong Baytown
Clang
父の母
Ranavalo
1954 鹿毛
Relic War Relic
Bridal Colors
Navarra Orsenigo
Nervesa

ズイショウ
1968 芦毛
* パーソロン
Partholon
1960 鹿毛
Milesian My Babu
Oatflake
Paleo Pharis
Calonice
母の母
キムラス
1961 芦毛
*Turk's Reliance Turkhan
Some Anxiety
*Royal Deal His Highness
Brave Deal F-No.1-t


関連項目

  • 小泉牧場 - イナズマクロスの生産者。所有馬に「白い稲妻」から「イナズマ」の冠名を使用している。

脚注

  1. ^ 翌1978年に関東人馬の集中拠点となる美浦トレーニングセンターが開場。なお、本馬の担当厩務員であった青木一男は当時すでに厩舎は美浦に移っていたとしている。
  1. ^ a b c d e f g h i j 『優駿』1988年5月号、p.39
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 井口(1986)pp.182-186
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 『優駿』1988年5月号、pp.40-41
  4. ^ a b c 『忘れられない名馬100』pp.80-81
  5. ^ a b c d e f 『優駿』1988年5月号、pp.42-43
  6. ^ 『優駿』1997年2月号、p.89
  7. ^ a b c d e 『サラブレッド101頭の死に方』pp.316-320
  8. ^ 『サラブレッド101頭の死に方』p.543

参考文献

  • 井口民樹『三冠騎手 吉永正人 - いま明かすドン尻強襲の秘密』(朝日新聞社、1986年)ISBN 978-4255860503
  • 『忘れられない名馬100 - 関係者の証言で綴る、ターフを去った100頭の名馬』(学研、1997年)ISBN 978-4056013924
    • 青木一男「シービークロス 人には話さなかったけど、"白い稲妻"は気に入っていた」
  • 大川慶次郎ほか『サラブレッド101頭の死に方』(徳間文庫、1999年)ISBN 4198911851
  • 『優駿』1988年5月号(日本中央競馬会)
    • 横尾一彦「サラブレッド・ヒーロー列伝 白い稲妻シービークロス」
  • 『優駿』1997年2月号(日本中央競馬会)
    • 井口民樹「サラブレッド・ヒーロー列伝 "最強の芦毛"タマモクロス(上)」

外部リンク