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2012年10月23日 (火) 05:10時点における版

すずき けんじ
鈴木 健二
プロフィール
出身地 日本の旗 日本 東京都
生年月日 (1929-01-23) 1929年1月23日(95歳)
最終学歴 旧制東北大学文学部美学美術史学科
職歴NHKアナウンサー
活動期間 1952年 -
出演番組・活動
出演経歴こんにちは奥さん
話の泉
クイズ面白ゼミナール
NHK紅白歌合戦』白組司会
ほか
その他 熊本県立劇場館長
1988年 - 1998年
青森県文化アドバイザー・青森県立図書館館長
1998年 - 2004年
執筆活動や講演活動

鈴木 健二(すずき けんじ、1929年1月23日 - )は、元NHKエグゼクティブアナウンサー(理事待遇)。1988年、定年退職。「目線」を造語したことで知られる。

旧制東北大学文学部美学美術史学科卒。NHK会長を務めた島桂次とは大学の同級生。生粋の江戸っ子で、兄は映画監督鈴木清順。現在は横浜市南区在住。

来歴

第一東京市立中学旧制弘前高等学校から旧制東北大学へと進学。

卒業後は、美術史学科出身であるためか、画家を目指していたが、たまたま友人に誘われて受験したNHK採用試験に合格した。鈴木は「志望者数が一番少ない職種」を希望したが、それがアナウンサーであった。当時はテレビのない時代であり、アナウンサーを志望する者が非常に少なかった(「狭き門」と言われるようになった現在では想像もできない話である)。また、「アナウンサー」という言葉もそれほど浸透しておらず、鈴木は「アナウンサー」の定義も分からぬまま、1952年、アナウンサーとしてNHKに入局した(同学年の同僚に中西龍がいた)。入局後、NHK熊本放送局に配属となったが、ここで「アナウンサー」の定義を知ることとなった。鈴木は生粋の江戸っ子で、語り口はいわゆる「べらんめえ口調」であったため、アナウンサーに向くような発音ではなく、やがて辞意を示すようになった。しかし、先輩の言葉がきっかけとなり、翌1953年に放送開始となるテレビの世界で自分の可能性を見い出すことを決意した。

2年後、東京アナウンス室へ異動。4年の勤務ののちNHK大阪放送局(当時大阪中央放送局)に異動した後、1960年に東京アナウンス室へ復帰した。その頃から、主に報道関係の番組で頭角を現し、ドキュメンタリー番組のナレーションを数多く担当し、また黒四ダムからの生中継(1963年)や北海道で観測された皆既日食、また全線開通前の東海道新幹線からの4時間に及ぶ実況生中継(1964年)などの大型中継番組を、独創的なアナウンスでいずれも成功させ、NHKのエースアナウンサーとしての地位を獲得した。さらに、ラジオ番組『話の泉』の司会を担当した。

その後、『きょうのニュース』(後の7時のニュース)を担当した後、1966年には、朝の情報番組『こんにちは奥さん』の司会に抜擢された。それまでは、報道番組でその実力を発揮していた鈴木であったが、主婦層をターゲットにしたこの番組でも、持ち前の探究心と巧みな話術によって多くの視聴者の心を掴み、当時人気を誇っていた『木島則夫モーニングショー』(奇しくも木島は、鈴木がNHK熊本放送局に配属された際の上司であった)の人気を追い抜いた。

1972年に『こんにちは奥さん』の司会を降板したあとは、教養・バラエティ番組の司会に活躍の場を移し、『70年代われらの世界』などの司会を担当した他、1978年より『歴史への招待』、1981年より『クイズ面白ゼミナール』、1984年より『お元気ですか』の司会者として活躍、人気アナウンサーの地位を不動のものにした。1983年から1985年まで、『NHK紅白歌合戦』で白組司会を担当した(詳細は後述する)。

1984年、理事待遇となり1988年1月23日、通常の定年より2年長い59歳で定年退職。これは当時のNHKの定年は一律で57歳[1]だったが鈴木はNHKの看板とも言える人物で1984年に理事待遇となり定年が2年間延長されていた事による。退職後は、熊本県立劇場館長(1988年 - 1998年)、青森県文化アドバイザー・青森県立図書館長(1998年 - 2004年)を勤めた。

2010年現在は、著書活動・講演活動・テレビ出演のほかに、伝統芸能の維持・伝承活動に協力している。さらに、NPO法人「円ブリオ基金センター」にて、未婚女性の中絶を減らすための募金活動を行っている。

「目線」の造語

目線」は、今や世間に定着している言葉であるが、元々は鈴木が造語したものといわれている。鈴木は、なぜ人はテレビカメラの前に立ったときに、緊張しているように見えてしまうのかということについて、研究を行った。研究の結果、カメラの一点を見るために目が固定してしまうから、緊張しているように見えてしまうというものであった。この際に「目線」という言葉が生み出され、それまで主流であった「視線」の言いかえとして、世間に幅広く浸透することになった。

驚異の記憶力

台本は決してスタジオには持ち込まず、すべて丸暗記した。また、スタジオの入口で渡された台本は、3回目を通すだけで丸暗記できるという逸話も残されている。ただし、セリフについては、台本に書かれている記述のほかに、自分で取材した資料の検討を行い、推敲を重ねた上で、自分の言葉に置き換えて放送に臨んでいた。こうした姿勢は、「台本を見ながらそのまま放送する番組ほど、視聴者にとってつまらないものは無く、アナウンサーとしてもプロとは言えない。また、他人の書いた台本に書かれた事は、例え完璧に調査したものであっても50パーセントの事実でしかなく、それに自分で調べた事実を加える事で100パーセント以上の事実にして、初めて自分の言葉で話す事が出来る。ましてや、何が起きるか分からない中継放送では、台本自体不要である」と言う持論によって導き出されたものであった。こうした芸当は「職人芸」と呼ばれ、「最後の職人アナウンサー」と言われた。

この取材のため、番組内容に関する資料は自費で購入していた。その費用は1ヶ月あたり6万円以上であったという。また、東京アナウンス室の机の上には約800冊の資料が積まれており、「サワルナ!崩れます。積み上げるためには高等技術が必要です。」と赤インクで書かれた張り紙がしてあった。このように、自分で一生懸命に資料を読み、興味・関心を持って資料の内容を理解しようとする姿勢が、驚異の記憶力に結び付いているという(出典:グラフNHK 1981年12月号「特集・クイズ面白ゼミナール」)。

執筆活動

執筆活動も行い、多数の著書が出版された。中でも1982年に刊行された『気くばりのすすめ』(講談社)は単行本332万部、文庫本を含むと400万部以上の大ベストセラーとなった。

  • ビッグマン愚行録 (既出、初出合わせたもの。昭和57年新潮文庫より刊行)

エピソード

青年時代

「戦争で死ぬ前にせめて静かに読書して過ごしたい」と旧制弘前高等学校に進学し、終戦を迎える[2]。寮長として学生の食糧確保に尽力した。また、禁止されていた学生演劇を復活させたり、女人禁制だった寮に女子学生を呼んだりした。こうしたエピソードを石坂洋次郎に話したところ、それが『青い山脈』の中に取り入れられたといわれる[2]。また、生前の太宰治とも面識があった[2]

ニュースキャスター

1964年頃、「NHKきょうのニュース」の司会を担当していた。当時のニュース番組はいわゆるフィルム映像とナレーションだけの「ストレイトニュース」で、司会者が顔出しすることが殆どない時代、近代のニュースショーの原点ともいえる司会者の顔出しやゲストの記者・評論家・関係者のインタビューなどを交えて展開するスタイルがとられた。

鈴木はカメラに向かって斜めに構えて、単にデスクから渡された原稿を読むだけでなく、時折話し言葉を交えたアドリブを含めたニュース解説を入れるなど、今日のニュースキャスターの語り方の原型を作ったが、船の沈没事故があったときに鈴木は原稿を紛失するハプニングを起こす。しかし、本番前のリハーサルで下読みとその映像フィルムを見ながら、アドリブでその沈没事故について、詳細な発生時間や遭難人数を正確に伝えるなどをした。

「気くばりのすすめ」

気くばりのすすめ』がベストセラーになったとき、フジテレビがそれを扱った特番を制作した。この番組には鈴木も出演したが、現役のNHKアナウンサーが堂々と民放の番組に出る訳にもいかず、出演場面はすべてビデオ撮影で、背中越しなど鈴木の全体像が明確には見えないアングルでの登場となった。なお、番組最後に、写真で顔出ししているが、それでも異例の出来事であった。

紅白歌合戦

1983年から1985年に、NHK紅白歌合戦で白組司会を務める。予定を正確に把握し、ほとんどのセリフを台本なしで行い、歌手ごとによって衣装を替える。1985年は白組初出場のC-C-B笠浩二のヘアスタイルを真似る。また1984年には、都はるみに対しアンコールを希望する際に、「私に1分間時間をください」と発言する(詳細は第35回NHK紅白歌合戦を参照)。1983年は紅組司会の黒柳徹子に対しては目の敵のような存在であった。オープニングでは「アラレちゃん」や番組中に変装を何回もすることから「怪人十二面相」などとそして、番組終了間近には「来年はあの紅組が勝たせて頂きますが、白組が勝ったので本当に大きな気配りでした。(『気くばりのすすめ』の著者の)」などと皮肉を言われているほどの不仲であった。

怒りのメッセージ事件

1989年4月にNHK退職後として初のレギュラー番組『鈴木健二の人間テレビ』(ytv)で教授役として司会を務めたが、半年で終了した。職人気質で現場を戦いの場と言う鈴木本人は、その事に対して不信感を募らせ、最終回収録には参加せず(最終回は総集編)、制作局のytvのスタッフに怒りのメッセージを送ったと言うエピソードがある。

それ以来、NHKを含め、テレビ番組にはほとんど出演していないが、最近では日本テレビの『世界一受けたい授業』にゲスト講師として数回出演のほか、NHK-BS2お宝TVデラックス』で『クイズ面白ゼミナール』が取り上げられた際ゲスト出演し、番組再現で久方ぶりに主任教授を務めた。鈴木は現在でも執筆活動や知名度を生かして講演会などを行っている。

備考

脚注

  1. ^ 現在は一般職は60歳、役員職は現在と同じ57歳である。但しその後も嘱託職員扱い(最大65歳まで)、ないしは定年・嘱託終了後も日本語センターへの移籍という形で継続して勤務するアナウンサーもいる
  2. ^ a b c 想い出の東北大学、そしていま、みちのく - 2002年の鈴木の講演録

関連項目

外部リンク