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マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス(Marie Thérèse Charlotte de France, 1778年12月19日 - 1851年10月19日)は、フランス王太子ルイ・アントワーヌ(シャルル10世の長男)の妃で、アングレーム公爵夫人。父はルイ16世、母はマリー・アントワネット。
生涯
革命下の少女時代、流転の王女
マリー・テレーズはルイ16世とマリー・アントワネットの長子、第一王女として生まれた。名前は祖母にあたる「女帝」マリア・テレジアの名のフランス語形である。幼少期からブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家の血を引くことに誇りを持つプライドの高い性格であったと伝えられる。フランス革命以前は、人々からマダム・ロワイヤル(Madame Royale, 第一王女の称号)の称号で呼ばれ、愛された。
12歳の時にヴァレンヌ事件が起こり、13歳でタンプル塔に監禁された。父母と叔母エリザベート王女は革命政府によりギロチンで処刑され、弟ルイ・シャルル(ルイ17世)とも引き離され、約2年間は1人で幽閉生活を送る。
ロベスピエールの処刑後は待遇が良くなり、身の回りの世話をする女性が雇われた。その女性の口から初めて、それまで伏せられていた母マリー・アントワネットと叔母エリザベート王女の処刑を知ることとなる。また、誰ともほとんど会話をすることのない2年間を過ごしたため、しばらくは発声に異常があり、すらすらと話すことができなかった。
1795年、フランス人捕虜と引き換えに釈放され、ウィーンへ送られる。1799年、従兄のアングレーム公ルイ・アントワーヌと結婚する。この結婚は叔父アルトワ伯爵(後のシャルル10世)が、王政復古が成った際に気の毒な王女とともにフランスに戻ることでイメージアップを図る狙いがあったとの説もある。しかし夫ルイ・アントワーヌは性的不能であり、幸福な結婚とは言いがたいものだった。結婚後は、亡命中の身分であったアルトワ伯爵らとロシアやポーランドなどを長期間転々とすることになったため、「流転の王女」というニックネームもある。
当時のポーランド(ポーランド分割後で独立国としては存在しなかった)では熱心なカトリック信者である彼女は非常に歓迎されたが、その他の国々ではアルトワ伯爵一家を旧時代のお荷物として疎み、決して厚遇されることはなかった。一家は生活のため借金を重ね、マリー・テレーズの宝石を売りながら亡命生活を送った。1814年、ナポレオンがロシア遠征で敗れたことを機会に、イギリスを後にした。コンピエーニュに到着した際、ヴァレンヌ事件で同じ馬車に乗った養育係トゥルーゼル夫人の娘ポーリーヌと再会、2人は泣きながら抱き合い、再会に歓喜した。
王政復古後
マリー・テレーズはブルボン家の再興に熱意を燃やし、ナポレオンの百日天下に際しては反ナポレオンの強烈なアジテーションを行い、ナポレオンから「ブルボン家唯一の男性」と揶揄された。中道的で、時には自由主義者と妥協することもいとわなかった叔父ルイ18世とはそりが合わず、政治面で何度も衝突したという。また、過激で無慈悲な白色テロを扇動した。これには、幼少期に受けた過酷な体験が影を落としていたといえる。そのため、復讐のためフランスに戻った王女とも呼ばれるほどであった。
1824年、アルトワ伯爵が国王シャルル10世となり、マリー・テレーズはフランス王太子妃となる。宮廷では、ナポレオン時代に貴族となった新興貴族には決して気を許さず、名前を呼ぶときも平民時代の名前で呼んでいたとの記録がある。
1830年、7月革命によって、またしても長い亡命生活を送ることとなり、イギリスへ渡った。しかしフランス新政府とイギリスの関係が良くなると、従兄のオーストリア皇帝フランツ2世を頼りプラハへ移った。ここではフラドシン城を用意してもらい、シャルル10世らとヴェルサイユの伝統的儀礼を復活させ、生活した。彼女はここで刺繍をして静かに過ごし、その刺繍はオークションに出されて、収益は恵まれない者に寄付された。1836年にオーストリアの都合でモラヴィアのキルシュベルク城へ、その後ゴリツィアのグラッファンベルク城へ転居した。ここで義父シャルル10世、夫アングレーム公を看取った後、今度はウィーン郊外の城へ転居した。ここで彼女は散歩と読書、刺繍と祈りを日課に静かに暮らした。刺繍はオークションにかけられ、売り上げは貧しいものたちに寄付された。のちには、暗殺された従兄ベリー公の子シャンボール伯アンリも彼女の元で暮らした。
1851年に肺炎のため死亡。フランス・ブルボン朝最後の王太子妃となった。また、生涯を通して一人の恋人も作らず、友人もいなかったと伝えられる。
タンプル塔幽閉までは、かわいらしい笑顔の肖像画が残されている。しかし、その後の過酷な体験を反映して、以後の数少ない肖像画には気難しそうな女性が描かれている。革命から解放された当初の彼女は、その悲痛な体験のためフランス国民からの同情を受けていた。しかし堅物で暗い性格のため、王太子妃となっても、一部の王党派や聖職者の人気を除いて、民衆からの人気はあまり無かったと伝えられる。
その他
- 弟ルイ17世の生存説に対しては、問題視することもなく「弟の髪の色は違います」と一蹴したという。
- シェーンブルン宮殿でフェルセン伯爵と再会した時には、一言も言葉を交わさなかったという。
- 近年ドイツに、「マリー・テレーズはタンプル塔で別人とすり替えられてオーストリアに送られた」とする説を研究する人々がいる。