「メトロポリタン鉄道」の版間の差分
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{{About|1933年にメトロポリタン線となった路線の歴史 |
{{About|1933年にメトロポリタン線となった路線の歴史|[[ディストリクト線]]の歴史|:en:Metropolitan District Railway}} |
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[[ファイル:Metropolitan Underground Railway stations.jpg|thumb|300px|upright|1862年12月、開業の前月のイラストレイテド・ロンドン・ニュースから、メトロポリタン鉄道の各駅のモンタージュ]] |
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'''メトロポリタン鉄道'''(メトロポリタンてつどう、{{Lang-en|Metropolitan Railway}}、単に{{Lang|en|Met}}とも)は、[[ロンドン]]で1863年から1933年まで運行されていた旅客・貨物鉄道である。その北へ伸びる本線は、経済的な中心地である[[シティ・オブ・ロンドン]]から後に[[ミドルセックス州]]の郊外となる地域を結んでいた。最初の路線は本線鉄道のターミナル駅である、[[パディントン駅]]や[[ユーストン駅]]、[[キングス・クロス駅]]をシティと結ぶものであった。鉄道は、{{仮リンク|ニューロード (ロンドン)|en|New Road, London|label=ニューロード}}の下をパディントンからキングス・クロスまで[[開削工法]]で、そして{{仮リンク|ファリンドンロード|en|Farringdon Road}}の脇をキングス・クロスからシティに近い[[スミスフィールド]]まで[[トンネル]]と[[切通し]]で建設された。この路線が1863年1月10日に開通した際には、[[蒸気機関車]]がガス灯を灯した木造[[客車]]を牽いており、世界最初の[[地下鉄]]であった{{sfn|Day|Reed|2008|p=8}}。 |
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この鉄道はその後すぐに両端から、そして[[ベイカー・ストリート駅]]から分岐して北へ延長された。{{仮リンク|ハマースミス駅 (ハマースミス&シティー線・サークル線)|en|Hammersmith tube station (Hammersmith & City and Circle lines)|label=ハマースミス駅}}まで1864年に、{{仮リンク|リッチモンド駅 (ロンドン)|en|Richmond station (London)|label=リッチモンド駅}}まで1877年に、そして[[サークル線]]が1884年に完成したが、もっとも重要な路線は北のミドルセックス州の郊外へ通じる路線で、新しく郊外の開発を促すことになった。{{仮リンク|ハーロー・オン・ザ・ヒル駅|en|Harrow-on-the-Hill station}}へは1880年に到達し、さらに路線は最終的に[[バッキンガムシャー]]の{{仮リンク|バーニー・ジャンクション駅|en|Verney Junction railway station}}まで到達したが、ここはロンドンの中心のベイカー・ストリート駅からは50[[マイル]](80 [[キロメートル|km]])以上離れた場所であった。 |
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[[ファイル:Metropolitan Underground Railway stations.jpg|thumb|300px|upright|<SMALL>1862年12月、開業の前月の{{仮リンク|イラストレイテッド・ロンドン・ニュース|en|Illustrated London News}}から、メトロポリタン鉄道の各駅のモンタージュ</SMALL>]] |
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1905年に[[鉄道の電化|電化]]が始まり、1907年にはほとんどの運行に[[電車]]が用いられるようになったが、路線網の外側では電化は数十年あとまでかかった。ロンドン地区における他の鉄道会社と異なり、メトロポリタン鉄道は住宅開発を行い、[[第一次世界大戦]]後沿線の住宅を{{仮リンク|メトロランド|en|Metro-land}}のブランドで販売した。1933年7月1日にメトロポリタン鉄道は{{仮リンク|ロンドン地下電気鉄道|en|Underground Electric Railways Company of London}}の地下鉄網、ロンドンの[[路面電車]]や[[バス (交通機関)|バス]]などと合併して{{仮リンク|ロンドン旅客運輸公社|en|London Passenger Transport Board}}となった。 |
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[[1863年]]、英国ロンドンで世界初の[[地下鉄]]'''メトロポリタン鉄道'''({{Lang-en|Metropolitan Railway}}、略して単にMetとも)が開通した{{sfn|Day|1979|p=1}}。パディントンからの路線は[[開削工法]]を用いて{{仮リンク|ニューロード (ロンドン)|en|New Road (London)|label=ニューロード}}の真下に建設され、幹線鉄道のターミナル駅である[[パディントン駅]]と[[ユーストン駅]]、そして[[キングス・クロス駅]]を接続し、さらに首都の金融中心地の近くにある[[スミスフィールド]]の[[ファリンドン駅|ファリンドン]]まで{{仮リンク|ファリンドンロード|en|Farringdon Road}}を地下線と[[切り通し]]により結んだ。開業時の列車は[[蒸気機関車]]に[[ガス灯]]に照らされた木製の[[客車]]という組み合わせであった。 |
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こんにち、かつてのメトロポリタン鉄道の[[線路 (鉄道)|線路]]と[[鉄道駅|駅]]は、[[ロンドン地下鉄]]の[[メトロポリタン線]]、[[サークル線]]、[[ディストリクト線]]、[[ハマースミス&シティー線]]、[[ピカデリー線]]、[[ジュビリー線]]および[[チルターン・レイルウェイズ]]が使用している。 |
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メトロポリタン鉄道はほどなく、両端方向へ、そして[[ベイカー・ストリート駅]]からの分岐を経由して北方へと、路線を延伸した。[[1868年]]には{{仮リンク|ハマースミス駅 (ハマースミス&シティー線)|en|Hammersmith tube station (Hammersmith & City and Circle lines)|label=ハマースミス駅}}まで到達し、[[1877年]]に{{仮リンク|リッチモンド駅 (ロンドン)|en|Richmond station (London)|label=リッチモンド}}駅まで開通し、[[1884年]]に[[サークル線]]が全通した。より重要な路線は北に進む[[ミドルセックス州]]へのルートで、田園地帯に新しい郊外の開発を促進した。[[1880年]]には{{仮リンク|ハロー・オン・ザ・ヒル駅|en|Harrow-on-the-Hill station}}へ延伸し、最終的にはロンドン中心部のベイカー・ストリートから{{convert|50|mi|km|abbr=off}}以上離れた[[バッキンガムシャー]]州の{{仮リンク|バーニージャンクション駅|en|Verney Junction railway station}}まで延長された。 |
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メトロポリタン鉄道の略称である「Metro」は、「Tube」「Underground」を使うイギリス、「Subway」を使うアメリカ以外の多くの国の言葉で、「地下鉄」の意味として定着している。<ref>『深迷怪鉄道用語辞典』313ページ ISBN 4-907727-18-6</ref> |
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[[鉄道の電化|電化]]は[[1905年]]に始まり、[[1910年]]ごろにはほとんどの路線で[[電車]]が走るようになった。しかし郊外の区間まで電化されるには数十年を要した。ロンドン地区の他の鉄道会社と異なり、メトロポリタン鉄道は住宅用地の開発に乗り出し、[[第1次世界大戦]]後、会社の"{{仮リンク|メトロ・ランド|en|Metro-land}}"ブランドは鉄道の近くに建てられた住宅団地を宣伝した。[[1933年]][[7月1日]]、メトロポリタン鉄道は{{仮リンク|ロンドン地下鉄電気鉄道会社|en|Underground Electric Railways Company of London}} (UERL) および、首都の[[路面電車]]と[[バス]]の運営会社と合併し、{{仮リンク|ロンドン乗客輸送委員会|en|London Passenger Transport Board}} (LPTB) となった。 |
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== 歴史 == |
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今日、かつてメトロポリタン鉄道のものだった路線と駅は[[ロンドン地下鉄]]の[[メトロポリタン線]]、[[サークル線]]、[[ハマースミス&シティ線]]、[[ピカデリー線]]そして[[ジュビリー線]]として使用されている。 |
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=== パディントンからシティへ、1853年 - 1863年 === |
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==== 設立 ==== |
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[[ファイル:Charles Pearson.png|thumb|upright|right|ロンドン地下鉄の提唱者、[[チャールズ・ピアソン]]]] |
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19世紀前半には、ロンドンの人口と都市の広さは非常に拡大していた{{#tag:ref|1801年には現在の[[グレーター・ロンドン]]の範囲におよそ100万人の人々が住んでいた。1851年にはこれが倍になった<ref>{{cite web |url=http://www.visionofbritain.org.uk/data_cube_page.jsp?data_theme=T_POP&data_cube=N_TOT_POP&u_id=10097836&c_id=10001043&add=N |title=Total Population |work=A Vision of Britain Through Time |publisher=ポーツマス大学/Joint Information Systems Committee |year=2009 |accessdate=2012-04-08}}</ref>。 |group="note"}}。住民が増加し、そして毎日列車で通勤する人も増えたことから、道路上は大変な数の荷車や馬車で埋め尽くされ膨大な交通量となり、ロンドンの経済的な中心であるシティ・オブ・ロンドンに毎日徒歩で入る人も20万人に達していた{{sfn|Wolmar|2004|p=22}}。1850年までには、ロンドン都心の周辺部に7つの鉄道のターミナル駅が存在していた。南側には[[ロンドン・ブリッジ駅]]、[[ウォータールー駅]]、東側には{{仮リンク|ビショップスゲート駅|en|Bishopsgate railway station}}、[[フェンチャーチ・ストリート駅]]、北側には[[ユーストン駅]]、[[キングス・クロス駅]]、西側には[[パディントン駅]]である。フェンチャーチ・ストリート駅のみがシティ・オブ・ロンドンの範囲内にあった{{sfn|Green|1987|p=3}}。 |
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道路が混雑しており、またシティから北や西の駅までの距離があったことから、シティへ通じる新しい鉄道路線を建設する議会承認を得ようとする多くの試みがなされた。しかしどれも承認を得られず、1846年には首都の鉄道ターミナルの調査を行った[[王立委員会]]が、既に建設の進んだ都心部における新たな路線や駅の建設を禁じた{{sfn|Simpson|2003|p=7}}<ref name="1846 Royal_Commission">{{cite news |date=1846-07-01 |title=Metropolitan Railway Termini |newspaper=[[タイムズ]] |issue=19277 |page=6 |url=http://infotrac.galegroup.com/itw/infomark/918/267/67235331w16/purl=rc1_TTDA_0_CS100956897&dyn=27!xrn_52_0_CS100956897&hst_1?sw_aep=kccl |format=Subscription required|accessdate=2012-03-09}}</ref>{{#tag:ref|禁止された地域は、[[ロンドン橋]]、バラ・ハイストリート、ブラックマン・ストリート、バラ・ストリート、ランベスロード、[[ヴォクスホール・ブリッジ]]、ヴォクスホール・ブリッジ・ロード、グロスベナー・プレイス、パーク・レーン、エッジウェア・ロード、ニューロード、シティロード、フィンスベリー・スクエア、ビショップスゲートで囲まれた範囲である<ref name="1846 Royal_Commission"/>。|group="note"}}。シティ・オブ・ロンドンと鉄道のターミナル駅を結ぶ地下鉄道という考え方は、1830年代に最初に提案されていた。シティ・オブ・ロンドンで[[事務弁護士]]をしていた[[チャールズ・ピアソン]]は、いくつかの提案における主導者となっており、1846年には複数の鉄道会社が共同利用する中央駅を提案した<ref>{{cite news|date=1846-05-12|title=Grand Central Railway Terminus |newspaper=[[タイムズ]] |issue=19234 |page=8 |url=http://find.galegroup.com/ttda/infomark.do?&source=gale&prodId=TTDA&userGroupName=kccl&tabID=T003&docPage=article&searchType=AdvancedSearchForm&docId=CS135035564&type=multipage&contentSet=LTO&version=1.0 |format=Subscription required |accessdate=2012-04-21}}</ref>。この提案は1846年に王立委員会により却下されたが、1852年にピアソンは、ファリンドンからキングス・クロスまでを結ぶそうした鉄道を建設するためのシティ・ターミナス会社 ({{Lang|en|City Terminus Company}}) の設立を支援することで、これを再提案した。この計画はシティ・オブ・ロンドンには支持されたが、他の鉄道会社は関心が無く、会社は計画を進めるのに苦労することになった{{sfn|Day|Reed|2008|p=9}}。 |
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==歴史== |
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===パディントンからロンドンへ、1853年–63年=== |
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[[File:Metropolitian Railway 1863.svg|thumb|250px|メトロポリタン鉄道は1863年に開通した。|alt=Route diagram showing the railway as a purple line running from Paddington at left to Farringdon Street at right.]] |
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[[1850年]]、ロンドンにはロンドン・ブリッジ駅、[[ユーストン駅]]、[[パディントン駅]]、[[キングス・クロス駅]]、{{仮リンク|ビショップスゲート駅|en|Bishopsgate railway station}}、[[ウォータールー駅]]そして[[フェンチャーチ・ストリート駅]]と、7つの鉄道ターミナルが所在していた。[[1846年]]、[[王立委員会]]によりロンドン中心域での鉄道と駅の新規建設を禁止された。{{sfn|Simpson|2003|p=7}}{{#tag:ref|禁止された地域は、ニューロード、{{仮リンク|シティロード (ロンドン)|en|City Road|label=シティロード}}、{{仮リンク|フィンズベリー広場|en|Finsbury Square}}、{{仮リンク|ビショップスゲート|en|Bishopsgate}}、[[ロンドン橋]]、{{仮リンク|バラ・ハイストリート|en|Borough High Street}}、ブラックマン・ストリート、バラ・ストリート、{{仮リンク|ランベス・ロード|en|Lambeth Road}}、ボクスホール・ロード、[[ヴォクスホール・ブリッジ|ボクスホール橋]]、{{仮リンク|ロンドン・インナー・リング・ロード|en|London Inner Ring Road#Vauxhall Bridge Road|label=ボクスホール・ブリッジ・ロード}}、{{仮リンク|グローヴナー・プレイス|en|Grosvenor Place (London)}}、{{仮リンク|パーク・レーン (道路)|en|Park Lane (road)|label=パーク・レーン}}、{{仮リンク|エッジウェア・ロード|en|Edgware Road}}<ref name="1846 Royal_Commission">{{cite news |date=1 July 1846 |title=Metropolitan Railway Termini |work=[[:en:The Times]] |issue=19277 |page=6 |url=http://infotrac.galegroup.com/itw/infomark/918/267/67235331w16/purl=rc1_TTDA_0_CS100956897&dyn=27!xrn_52_0_CS100956897&hst_1?sw_aep=kccl|accessdate=9 March 2012}}</ref>。|group="note"}}[[シティ・オブ・ロンドン|ロンドン・シティ]]内のフェンチャーチ・ストリート駅だけは、貿易と金融地区そして歴史的な首都に位置していた。ロンドンはこの期間、道路交通渋滞の大幅な増加に悩まされ、その理由の一部は、鉄道によりロンドンへの旅行に来た人々が、シティ中心部へ旅を完了させるのに[[ハンサムキャブ]]や[[バス]]を利用しなければならなかったことによるものである{{sfn|Green|1987|p=3}}。地下の鉄道によってロンドン・シティ内の主要駅を連絡させるコンセプトは、1830年代に最初に提案されていた。 |
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[[File:Charles Pearson.png|thumb|upright|left|ロンドン地下鉄道のプロモーター[[:en:Charles Pearson]]|alt=A middle aged Victorian gentleman sits beside a table wearing a dark suit with waistcoat and bow tie. His left elbow rests on the table. In his right hand he holds a quill pen.]] |
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ロンドン・シティの事務弁護士{{仮リンク|チャールズ・ピアソン|en|Charles Pearson}}はいくつかの計画の主要なプロモーターであり、鉄道を建設する為に1852年にシティ・ターミナス・カンパニー({{lang|en|City Terminus Company}})の設立を助け、議会と{{仮リンク|シティ・オブ・ロンドン・コーポレーション|en|City of London Corporation}}のどちらも建設資金を提供するつもりだった。しかし、ベイズウォーター({{lang|en|Bayswater}})、パッディングトン・アンド・ホルボーン・ブリッジ・カンパニー({{lang|en|Paddington and Holborn Bridge Railway Company}})は[[1853年]][[1月]]に{{仮リンク|ジョン・ファウラー (技術者)|en|Sir John Fowler, 1st Baronet|label=ジョン・ファウラー}}を技術者に任命し、最初の取締役会を開催することに成功した。{{sfn|Green|1987|pp=3–4}} |
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ベイズウォーター・パディントン・アンド・ホルボーン・ブリッジ鉄道 ({{Lang|en|Bayswater, Paddington and Holborn Bridge Railway Company}}) は、[[グレート・ウェスタン鉄道]]のパディントン駅からピアソンの提唱路線にあるキングス・クロス駅までを結ぶために設立された{{sfn|Day|Reed|2008|p=9}}{{#tag:ref|経路はウェストボーン・テラスの南端からグランド・ジャンクションロード(現在のサセックス・ガーデンズ)、サウサンプトンロード(現在のオールド・メリルボーン・ロード)、ニューロード(現在のメリルボーンロードとユーストンロード)の下を通るものであった。グレート・ウェスタン鉄道のターミナル駅と接続する支線が計画されていた<ref name="BP&HBR">{{LondonGazette |issue=21386 |startpage=3480 |date=1852-11-30 |accessdate=2012-04-21}}</ref>。|group="note"}}。法案は1852年11月に提出され<ref name="BP&HBR"/>、1853年1月に初めての取締役会が開かれて{{仮リンク|ジョン・ファウラー|en|Sir John Fowler, 1st Baronet}}を技術者に指名した{{sfn|Green|1987|pp=3–4}}。政界への工作が成功し、会社は1853年夏にノース・メトロポリタン鉄道 ({{Lang|en|North Metropolitan Railway}}) という名で議会承認を受けた。一方シティ・ターミナス会社が提出した法案は議会で否決されてしまい、これはノース・メトロポリタン鉄道がシティへ到達することができなくなることを意味した。この問題を解決するために、ノース・メトロポリタン鉄道はシティ・ターミナス会社を合併の上で、1853年11月に法案を再提出した。この法案では都心の中央駅の計画を削り、また路線をファリンドンより南へ{{仮リンク|セント・マーティンズ・ル・グランド|en|セント・マーティンズ・ル・グランド}}にある{{仮リンク|郵政省本部|en|General Post Office, London}}前まで延長した。また路線の西側の端も、グレート・ウェスタン鉄道の駅により直接的に接続できるように修正された。また{{仮リンク|ロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道|en|London and North Western Railway}}とユーストン駅で、[[グレート・ノーザン鉄道 (イギリス)|グレート・ノーザン鉄道]]とキングス・クロス駅で接続する許可も求めていた。キングス・クロスでの接続はホイストとリフトによることになっていた{{sfn|"Fowler's Ghost"|1962|p=299}}。会社の名前は再変更され、今回はメトロポリタン鉄道となった{{sfn|Day|Reed|2008|p=9}}<ref>{{London Gazette |issue=21497 |startpage=3403 |endpage=3405 |date=1853-11-25 |accessdate=2012-04-21}}</ref>。ノース・メトロポリタン鉄道法は、1854年8月7日に国王裁可を受けた{{sfn|"Fowler's Ghost"|1962|p=299}}<ref>{{London Gazette |issue=21581|startpage=2465 |endpage=2466|date=1854-08-11 |accessdate=2012-04-21}}</ref>。 |
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[[File:Constructing the Metropolitan Railway.png|thumb|250px|left|メトロポリタン鉄道の建設。1861年のキングス・クロス駅の埋め立て|alt=Drawing showing a road with buildings either side and a trench down the middle. The trench ends at a tunnel mouth, and is filled with wooden supports. Workmen and a horse are shown at work.]] |
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パディントンからキングス・クロスまでの"北メトロポリタン鉄道({{lang|en|North Metropolitan Railway}})"のために1853年の夏に議会の承認を確保した。シティ・ターミナス・カンパニーはキングス・クロスから[[ファリンドン駅|ファリンドン通り]]までの建設計画を持ち、[[1854年]]にパディントンからキングス・クロス経由ファリンドンまでのメトロポリタン鉄道が承認された。 |
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[[ファイル:Constructing the Metropolitan Railway.png|thumb|left|メトロポリタン鉄道のキングス・クロス駅までの建設の様子、1861年]] |
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この時点で100万ポンドを発生させる必要があり、当初はこれはゆっくりと来ていた。[[グレート・ウェスタン鉄道]] (GWR) はパディントン末端にジャンクションを作ることを条件に17万5000ポンドを資することで合意に達し、 [[グレート・ノーザン鉄道_(イギリス)|グレート・ノーザン鉄道]] (GNR)はキングス・クロスにジャンクションを建設し、その建設が始まった時にピアソンはシティ・オブ・ロンドン・コーポレーションに20万ポンドの出資を説得した。{{sfn|Simpson|2003|pp=10–12}} |
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この鉄道の建設には100万[[スターリング・ポンド|ポンド]]を要すると見積もられた。[[クリミア戦争]]の最中であったため、当初は資金を集めることが困難であった{{sfn|Day|Reed|2008|p=9}}。資金調達を試みながら、会社は工事期間の延長を求める新法案を議会に提出した{{sfn|"Fowler's Ghost"|1962|p=299}}{{#tag:ref|こうした法律には鉄道会社ができるだけ早くその路線を完成させるよう促すために期限が設定されていた。またこれにより、建設されなかった鉄道路線の許可が他の鉄道計画を妨げないようにしていた。|group=note}}。1855年7月に、キングス・クロス駅でグレート・ノーザン鉄道と直接接続するようにする法律が国王裁可を得た。計画は1856年のメトロポリタン(グレート・ノーザン支線および修正条項)法で修正され、さらに1860年のグレート・ノーザン・アンド・メトロポリタン・ジャンクション鉄道法でも修正された{{sfn|"Fowler's Ghost"|1962|p=299}}。 |
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グレート・ウェスタン鉄道は175,000ポンドの出資に同意し、ほぼ同額の出資をグレート・ノーザン鉄道が約束したものの、1857年末になっても着工できるだけの十分な資金は集まっていなかった。グレート・ウェスタン鉄道の駅に直接接続しなくなってしまうが、西側の端の路線を一部縮小し、さらにファリンドンより南の部分を省略して費用を節減した{{sfn|Day|Reed|2008|pp=8–9}}{{#tag:ref|グレート・ウェスタン鉄道のターミナルに接続する代わりに、メトロポリタン鉄道はパディントン駅北側のビショップス・ロードにパディントン駅と並行に自身の駅を建設した。メトロポリタン鉄道はビショップス・ロードの駅の先でグレート・ウェスタン鉄道の線路に接続していた{{sfn|Day|Reed|2008|p=10}}。|group="note"}}。1858年にピアソンは、メトロポリタン鉄道とシティ・オブ・ロンドンの間で、新しいファリンドン・ロード周辺で鉄道会社が必要としている土地をシティから179,000ポンドで購入し、一方シティは鉄道会社の株を200,000ポンド購入するという契約をまとめた{{sfn|Wolmar|2004|p=31}}{{#tag:ref|この株は後に収益目的で売却された{{sfn|Wolmar|2004|p=31}}。|group="note"}}。路線の変更は1859年8月に議会承認を受け、これによりついに会社は建設すべき路線に見合った資金調達が完了して着工できることになった{{sfn|Wolmar|2004|p=32}}。 |
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[[File:Collapse of the Metropolitan Railway Cutting .jpg|thumb|right|250px|1862年6月のメトロポリタン鉄道の切削。ファリンドンにて艦隊の下水道の氾濫|alt=drawing showing a large quantity of collapsed brickwork retaining wall and destroyed timber scaffolding along side a flooded excavation. Beyond the cutting is a wide open area with small figures inspecting the damage. The backdrop is formed by a collection of two storey buildings many of which have large chimneys.]] |
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近くの建物の沈下を引き起こす振動の懸念、{{sfn|Wolmar|2004|p=33}}家がトンネルの掘削中に破壊され、{{sfn|Wolmar|2004|p=29}}何千人への補償の問題、およびトンネル掘削が誤って地獄に突き破るかもしれないという恐れ、{{sfn|Halliday|2001|p=7}}{{#tag:ref|「地下鉄の建設で地獄の場所まで掘ってしまいそれによって悪魔を呼び覚ますことになり世界の終わりが来てしまう。」とスミスフィールドの多くがメトロポリタン鉄道の建設によって破壊されてしまうことを恐れたドクター・カミング({{lang|en|Dr Cuming}})によって1855年に説教された{{sfn|Halliday|2001|p=7}}。|group=note}}などにもかかわらず、建設は[[1860年]]に開始された。{{sfn|Wolmar|2004|p=32}}新しい鉄道は、パディントンからキングス・クロスまでの{{仮リンク|ニューロード (ロンドン)|en|New Road (London)|label=ニューロード}}の真下は[[開削工法]]を用いて建設され、その後{{仮リンク|ファリンドン・ロード|en|Farringdon Road}}の横にある[[フリート川]]暗渠にトンネルは続き、スミスフィールドのミート・マーケットまで新しく切り開かれた。{{sfn|Foxell|1996|p=23}}{{sfn|Walford|1878}}[[1862年]]5月24日の試験旅行の後、艦隊は採掘に突入し部分的に構築されたトンネルに殺到した。結局、{{convert|3+3/4|mi|km|0}}の鉄道が公式に開通したのは[[1863年]][[1月10日]]であった。鉄道の成功は喝采を受け、グレート・ノーザン鉄道の列車が運行を補助して開業日に38000人の乗客を運んだ。{{sfn|Simpson|2003|p=16}}しかし、ピアソンは完工を見ることなく1862年9月に亡くなった。{{sfn|Green|1987|p=5}} |
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==== 建設 ==== |
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鉄道は{{仮リンク|ブリティッシュ・アブソリュート・ブロック・シグナル|en|British absolute block signalling|label=アブソリュート・ブロック}}の作業で開かれ、電気スパニョレッティブロックの測定器と固定信号を使用した。{{sfn|Simpson|2003|pp=13, 25}}オリジナルの時刻表は5つの駅を18分で結んだ。閑散期のサービスは15分おきに列車を1本運行し、朝のピーク時は10分おき、早朝と午後8時以降は20分おきに運行された。[[1864年]]5月から労働者たちの安価日に戻りパディントンを朝5:30と5:40に出発する列車は乗車券1枚3ポンドで乗車できた。{{sfn|Simpson|2003|pp=16, 19}}最初の12ヶ月で、鉄道は950万人の乗客を運び、{{sfn|Walford|1878}}次の12ヶ月では1200万人に増加した。{{sfn|Simpson|2003|p=21}} |
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[[ファイル:Collapse of the Metropolitan Railway Cutting .jpg|thumb|right|ファリンドン付近のメトロポリタン鉄道の切り取り区間、1852年6月の[[フリート川]]暗渠からの洪水の直後]] |
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地下を掘削し、また振動が発生することにより、近くの建物が沈下してしまうのではないかという懸念があり{{sfn|Wolmar|2004|p=33}}、またトンネル掘削中に数千人の家を取り壊してその補償をしなければならなかったが{{sfn|Wolmar|2004|p=29}}、建設は1860年3月に開始された{{sfn|Day|Reed|2008|p=10}}。この新しい鉄道はパディントンからキングス・クロスまで、ほとんどが[[開削工法]]により建設された。キングス・クロスから東では、路線はマウント・プレザントおよびクラーケンウェルの下を728[[ヤード]](約666 [[メートル|m]])のトンネルで通過し、そこから暗渠化された[[フリート川]]に沿ってファリンドン・ロードの脇をスミスフィールドにある新しい肉市場まで切通しで通った{{sfn|Jackson|1986|p=24}}{{sfn|Walford|1878}}。 |
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トンネルを通すために掘られた溝は幅が33[[フィート]]6[[インチ]](約10.2 [[メートル|m]])あり、その中に[[煉瓦]]製の[[擁壁]]が構築されて、それが28フィート6インチ(約8.7 m)幅の[[楕円]]形の煉瓦アーチあるいは鉄製ガーダーの天井を支えた{{sfn|Day|Reed|2008|pp=10–11}}。トンネルは駅の部分では[[プラットホーム]]を収容するためにより幅が広くなっていた。原始的な[[ベルトコンベア]]を利用した土砂運搬装置が掘削土砂を溝から運び出すために使われたものの、土砂の掘削作業のほとんどは{{仮リンク|ナヴィ (労働者)|en|Navvy|label=ナヴィ}}(土木工事に携わる作業員)によって手作業で行われた{{sfn|Wolmar|2004|pp=35–36}}{{#tag:ref|ユーストン・スクエアより西側の建設工事契約者はスミス・アンド・ナイト、東側ではジョン・ジェイであった{{sfn|Day|Reed|2008|p=10}}。|group="note"}}。 |
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当初は鉄道はグレート・ウェスタン鉄道の[[広軌]]の車両と、{{仮リンク|GWRメトロポリタン・クラス|en|GWR Metropolitan Class|label=メトロポリタン・クラス}}を使って働いていた。しかし、開業後すぐに運行頻度を増加させる点において意見の不一致が現れ、グレート・ウェスタン鉄道は1863年8月にその株式を撤回した。メトロポリタン鉄道は独自の[[標準軌]]車両と機関車を購入する前に、グレート・ノーザン鉄道の標準軌の車両を一時的に援助してもらい運行を継続した。{{sfn|Green|1987|p=5}} |
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トンネル内では、[[複線]]の[[軌道]]が6フィート(約1.8 m)の間隔で敷設された。グレート・ノーザン鉄道の[[標準軌]]の列車と、グレート・ウェスタン鉄道の[[広軌]]の列車の両方を走らせるため、軌道は[[三線軌条]]方式で敷設され、プラットホームにもっとも近い[[軌条|レール]]を双方の[[軌間]]の列車が共用した{{sfn|Day|Reed|2008|p=10}}。信号装置は、スパニョレッティ電気閉塞装置と常置信号機を用いた固定閉塞方式が採用された{{sfn|Simpson|2003|pp=13, 25}}。 |
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===インナー・サークルが完成、1864年–84年=== |
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[[File:Metropolitan Railway, Praed Street Junction.jpg|thumb|300px|メトロポリタン鉄道の初期の頃の、パディントン駅近くのプレード・ストリート分岐点|alt=A well-lit railway tunnel recedes into the distance. A train with a steam locomotive and carriages is heading towards the viewer but taking branch off to the left.]] |
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[[1863年]]10月、キングス・クロスにグレート・ノーザン鉄道 (GNR)への分岐点が開業した。東への延長はすでに計画されており、[[ムーアゲート駅]]が[[1865年]][[12月23日]]に開業した。{{sfn|Green|1987|p=6}}キングス・クロスからムーアゲート間を4複線化する{{仮リンク|ワイデンド線|en|Widened Lines}}計画が[[1868年]]に完了した。{{sfn|Bruce|1983|p=9}}これはロンドン全体または市内に介してサービスを提供する他の鉄道会社が利用ことができた。サービスは{{仮リンク|ロンドン・チャタム・アンド・ドーバー鉄道|en|London, Chatham and Dover Railway}}(LC&DR)から[[ブラックフライアーズ駅]]を経由してグレート・ノーザン鉄道へ[[1866年]]から[[1908年]]まで行われた。[[ミッドランド鉄道]]が1868年にムーアゲートへの乗り入れを開始し、これは同鉄道がセント・パンクラス({{lang|en|St Pancras}})駅を開業させる前で、LC&DRもまた[[1871年]]から[[1916年]]まで南からムーアゲートまで乗り入れ運転を行った。{{sfn|Bruce|1983|pp=8–9}} |
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建設工事中には事故も発生した。1860年5月には、グレート・ノーザン鉄道の本線の列車がキングス・クロス駅にてプラットホームをオーバーランし、工事現場に転落した。その年の後半には、工事業者の貨車を牽引していた機関車のボイラーが破裂し、機関士と機関助士が死亡した。1861年5月には、ユーストンにおいて掘削現場が崩落し、近隣の建物にかなりの被害を与えた。最後の事故は1862年6月に起き、集中豪雨によりフリート川の暗渠が溢れて、掘削した溝に水が流れ込んだ。メトロポリタン鉄道と{{仮リンク|首都公共事業委員会|en|Metropolitan Board of Works}}はどうにか水を食い止め、水を他に流すことに成功し、工事は2 - 3か月ほど遅れるだけで済んだ{{sfn|Wolmar|2004|p=36}}。 |
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[[File:Metropolitian Railway (1873).svg|thumb|570px|<SMALL>開業から10年後、1873年のメトロポリタン鉄道。 この年、鉄道はベイカー・ストリートからスイス・コテージまでの路線がメトロポリタン鉄道とSt John's Wood Railwayにより建設され、メトロポリタン鉄道が運行を行っていた。</SMALL>]] |
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建設工事がまだ行われていた1861年11月から試運転が行われた。全線を通しての初めての運転は1862年5月に行われ、この時の乗客の1人に[[ウィリアム・グラッドストン]]がいた{{sfn|Wolmar|2004|p=37}}。1862年末までに工事は完成し、その費用は合計130万ポンドに達した{{sfn|Wolmar|2004|pp=30 & 37}}{{#tag:ref|メトロポリタン鉄道によれば、高架線に建設する費用は地下線に建設する場合の4倍にもなったであろうとしている{{sfn|Day|Reed|2008|p=14}}。|group="note"}}。 |
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1864年、{{仮リンク|ハマースミス|en|Hammersmith}}に鉄道が達したときに、ハマースミス・アンド・シティ鉄道会社({{lang|en|Hammersmith and City Railway Company}})はパディントン(ビショップ・ロード({{lang|en|Bishop's Road}}))からの路線を開通させた。グレート・ウェスタン鉄道は当初はファリンドンを介してサービスに働き、メトロポリタン鉄道は次の年の共同株式と鉄道の運行を引き継ぐこととなった。{{sfn|Green|1987|p=6}}[[1864年]][[7月1日]]、ラティマー・ロード({{lang|en|Latimer Road}})からアックスブリッジ・ロード({{lang|en|Uxbridge Road}})への[[ウェストロンドン線|ウェストロンドン鉄道]]が開業した。 |
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==== 開通 ==== |
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1863年、{{仮リンク|イギリス議会特別委員会|en|Select committees of the Parliament of the United Kingdom}}はすでに建設された、あるいは工事中の鉄道の'[[サークル線|環状線]]'をロンドンのターミナル駅に接続することを勧告するレポートを提出した。翌年、{{仮リンク|メトロポリタンディストリクト線|en|Metropolitan District Railway}}(一般的には[[ディストリクト線]]として知られる)は[[サウス・ケンジントン駅|サウス・ケンジントン]]からタワー・ヒルまでの鉄道を建設し運行した。メトロポリタン鉄道は[[1868年]]に西に延伸し、パディントンからサウス・ケンシントンまでの新しい駅を開業させた。[[1870年]]5月、ディストリクト鉄道はウェスト・ブロンプトンからグロスター・ロードとサウス・ケンジントン経由でブラックフライアーズまでの路線を開通させ、当初の運行とサービスはメトロポリタン鉄道によるものだった。{{sfn|Green|1987|pp=7–9}}これらの路線はサウス・ケンジントンで物理的な接続があり、サウス・ケンジントンからグロスター・ロードの間は各社が独自の路線上で運行していた。{{sfn|Green|1987|p=9}}しかし、内側の円が完成する前に遅延があった。[[1871年]]、ディストリクト鉄道は[[マンション・ハウス駅]]を建設し、メトロポリタン鉄道は[[1876年]]11月18日に[[アルドゲイト駅]]を開業した{{sfn|Green|1987|pp=10–11}}とともに、2つの会社の競合による更なる環状線の作業の前に議会の法を取った。{{sfn|Green|1987|p=12}}[[1882年]]、メトロポリタン鉄道はアルドゲイトから[[タワー・オブ・ロンドン駅|タワー・オブ・ロンドン]]の一時的な駅までの路線を延伸し、ディストリクト鉄道は{{仮リンク|ホワイトチャペル駅|en|Whitechapel station}}までの路線を完成させるとともに[[1884年]]10月6日に一時的な接続駅を[[マークレーン駅]]に置き換え、こうして[[環状線]]が完成した。{{sfn|Simpson|2003|pp=23–24}}{{sfn|Rose|2007}} |
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{{仮リンク|商務省 (イギリス)|en|Board of Trade|label=商務省}}による検査が1862年12月末に行われ、1863年1月初めに開通が承認された{{sfn|Wolmar|2004|p=39}}。信号設備のわずかな変更が行われてそれも承認され、数日に渡って運行試験が行われて1863年1月9日の開通を迎えることになった。この日にはパディントンからの開通記念列車が走り、ファリンドン駅では600人の株主と来賓のための大きな宴会が開かれた{{sfn|Wolmar|2004|p=39}}。チャールズ・ピアソンは1862年9月に亡くなっており、鉄道が開通するのを見ることはできなかった{{sfn|Green|1987|p=5}}。 |
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[[ファイル:Metropolitian Railway 1863.svg|thumb|right|1863年の開通当時の鉄道]] |
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[[1877年]]10月1日、ハマースミス・アンド・シティ・サービスは{{仮リンク|ハマースミス駅 (グローブ・ロード)|en|Hammersmith (Grove Road) railway station}}から{{仮リンク|ロンドン・アンド・サウスウェスタン鉄道|en|London and South Western Railway}}(L&SWR)とその駅を経由して{{仮リンク|リッチモンド駅 (ロンドン)|en|Richmond station_(London)|label=リッチモンド駅}}へ路線を延伸した。ディストリクト鉄道は1877年6月に{{仮リンク|ハマースミス駅 (ディストリクト線・ピカデリー線)|en|Hammersmith tube station (Piccadilly and District lines)|label=ハマースミス駅}}からリッチモンド接続点を使ってL&SWRへの乗り入れ運転を開始した。メトロポリタン鉄道はリッチモンドへのサービスを1906年12月31日に終わらせた。{{sfn|Simpson|2003|p=43}} |
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この全長3.75[[マイル]](約6 [[キロメートル|km]])の路線は、翌1863年1月10日土曜日から一般営業を開始した{{sfn|Day|Reed|2008|p=14}}。駅はパディントン(ビショップス・ロード)駅(現在の[[パディントン駅]])、[[エッジウェア・ロード駅]]、[[ベイカー・ストリート駅]]、ポートランド・ロード駅(現在の[[グレート・ポートランド・ストリート駅]])、ガワー・ストリート駅(現在の[[ユーストン・スクエア駅]])、キングス・クロス駅(現在の[[キングス・クロス・セント・パンクラス駅]])、ファリンドン・ストリート駅(現在の[[ファリンドン駅]])があった{{sfn|Rose|2007}}。 |
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鉄道は歓迎されて成功し、初日には38,000人の乗客を輸送して、グレート・ノーザン鉄道の列車を利用して臨時列車が運転された{{sfn|Simpson|2003|p=16}}。最初の12か月で950万人の旅客を輸送し、さらにその次の12か月では1200万人へと増加した{{sfn|Simpson|2003|p=21}}。 |
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1884年にホワイトチャペルにおいて[[イーストロンドン線|イーストロンドン鉄道]]との連携を開始し、そしてメトロポリタン鉄道はハマースミスから{{仮リンク|サウスイースタン鉄道 (イギリス)|en|South Eastern Railway,_UK|label=サウスイースタン鉄道}}の{{仮リンク|ニュークロス駅|en|New Cross railway station}}への乗り入れ列車を走らせた(1906年にホワイトチャペルで運行が終了するまで)。{{sfn|Rose|2007}}のちにイーストロンドン鉄道は[[1913年]]にディストリクト鉄道と電力提供の契約を交わして電化され、メトロポリタン鉄道が列車の運行を行い、直通運転は再スタートされ、{{仮リンク|ショアディッチ駅|en|Shoreditch tube station}}への相互運転を行った。{{sfn|Bruce|1983|p=44}} |
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当初の時刻表では、途中の5駅に停車して所要時間18分であった。昼間閑散時間帯の運行頻度は15分おきで、朝の[[ラッシュ時]]には10分おきに増発され、早朝と20時以降は20分おきに減らされた。1864年5月からは、パディントンから朝の5時30分および5時40分に出る列車については労働者向けの割引往復乗車券が片道乗車券と同じ3[[ペニー|ペンス]]で発売された{{sfn|Simpson|2003|pp=16, 19}}。 |
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===路線延伸 1868年–99年=== |
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<!--{{Metropolitan Extension RDT}}-->'''メトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道'''({{lang|en|Metropolitan & St. John’s Wood Railway}}・M&SJWR)は[[1868年]]4月にトンネル内の単線鉄道と新しいプラットホームをベイカー・ストリート(ベイカー・ストリート・イーストと呼ばれた)から[[スイス・コテージ駅_(メトロポリタン線)|スイス・コテージ]]まで開業させた。{{sfn|Green|1987|p=11}}{{sfn|Edwards|Pigram|1988|p=33}}これらは通過線のある2つの中間駅を備え、そしてメトロポリタン鉄道により20分おきに列車が運行された。ベイカー・ストリートにサークル線との分岐点が建設されたが、[[1869年]]より後は乗り入れをしなくなった。旅客数が低かったM&SJWRは新しい交通を生成するために路線の拡張を探していた。時を同じくして、メトロポリタン鉄道は、同様にサークル線へ列車を供給し、建設のコストが低く運賃は高くなるであろう、ロンドンの外の田園地帯への路線の建設を検討していた。{{sfn|Horne|2003|pp=6–9}} |
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当初は、メトロポリタン鉄道ではグレート・ウェスタン鉄道から提供された{{仮リンク|グレート・ウェスタン鉄道メトロポリタン型蒸気機関車|en|GWR Metropolitan Class}}を使って広軌の車両で運転が行われていた。開通から間もなく、運行頻度を増加させる必要性を巡って2社の間で見解の相違が起こり、1863年8月にグレート・ウェスタン鉄道は車両を引き上げることになった。メトロポリタン鉄道では、グレート・ノーザン鉄道の標準軌の鉄道車両を一時的に借り受けて運行頻度を落として運行を行い、その後自社で標準軌の機関車と客車を購入した{{sfn|Green|1987|p=5}}{{sfn|Day|Reed|2008|pp=14–15}}{{#tag:ref|マンチェスターの[[ベイヤー・ピーコック]]が製造した機関車は、よくメトロポリタン鉄道側の技術者、ジョン・ファウラーが設計したとされるが、実際には[[スペイン]]のトゥデラ-ビルバオ鉄道向けにベイヤー・ピーコックが製造したものの発展形で、ファウラーは動輪直径、軸重、急曲線での走行性能について指示をしただけであった{{sfn|Goudie|1990|p=11}}。|group="note"}}。 |
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一方1868年、バッキンガムシャーにて、{{仮リンク|リチャード・テンプル=グレンヴィル (第3代バッキンガム=チャンドス公)|en|Richard Temple-Nugent-Brydges-Chandos-Grenville, 3rd Duke of Buckingham and Chandos|label=バッキンガム公}}が走らせた{{仮リンク|アリスバーリー・アンド・バッキンガム鉄道|en|Aylesbury and Buckingham Railway}}(A&BR)は、{{仮リンク|アリスバーリー駅|en|Aylesbury railway station}}から{{仮リンク|ロンドン・アンド・ノースウェスタン鉄道|en|London and North Western Railway}}(LNWR) ブレッチリー-オックスフォード線の{{仮リンク|バーニージャンクション駅|en|Verney Junction railway station}}の新しい駅に至る{{convert|12+3/4|mi|km|1|adj=on}}の路線を開業させた。LNWRの始業は中途半端なサポートを与え、しかし、両社の関係が崩壊したときにラインが構築された。一方{{仮リンク|ウィコム鉄道|en|Wycombe Railway}}は{{仮リンク|プリンセスリスボロー駅|en|Princes Risborough railway station}}からアリスバーリー駅までの単線の鉄道を建設し、そしてプリンセスリスボロー駅からサービスを引き継いだグレート・ウェスタン鉄道はアリスバーリーから{{仮リンク|クウェイントン・ロード駅|en|Quainton Road railway station}}までとクウェイントン・ロード駅からバーニージャンクション駅までを通し運転した。{{sfn|Horne|2003|pp=10–11}} |
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煙を出さない機関車で運転されると考えていたため、エッジウェア・ロードからキングス・クロスまでは長いトンネルもあるなど、最初の区間はあまり換気を行わない構造で建設された{{sfn|Jackson|1986|p=117}}。駅や客車には煙が充満していたが、当初はそれでも乗客が減るということは無かった{{sfn|Jackson|1986|p=31}}。後にキングス・クロスとガワー・ストリートの間のトンネルに開放部を設けたり、駅の天井のガラスを取り外したりして、換気が改善された{{sfn|Jackson|1986|pp=117–118}}。煙の問題は1880年代になってからも続いたため、さらにトンネルの開放部を増やしたいメトロポリタン鉄道と、そうすれば馬を驚かせ周辺の地価を下げると主張する地元の当局との間で論争になった{{sfn|Jackson|1986|p=119}}。この結果1897年の商務省報告では{{#tag:ref|この報告によれば、エッジウェア・ロードとキングス・クロスの間で平日は1日に528本の旅客列車と14本の貨物列車が運行されており、ベイカー・ストリートとキングス・クロスの間ではピーク時に片道19本の列車が運行され、1,500[[ポンド (質量)|ポンド]](約760 [[キログラム|kg]])の石炭が燃やされ、1,650[[ガロン]](約7,500[[リットル]])の水が消費され、このうち半分が復水され残りが蒸発していた{{sfn|Jackson|1986|pp=119–120}}。|group="note"}}、メトロポリタン鉄道を利用して疲弊した人々に薬剤師が「メトロポリタン処方」という薬剤を処方している、と報告された。この報告では、もっと多くの開放部の設置が認められるべきだとしたが、実際に建設される前に電化されることになった{{sfn|Jackson|1986|p=119}}。 |
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[[1872年]]、{{仮リンク|エドワード・ワトキン|en|Edward Watkin}}がメトロポリタン鉄道の会長に任命された。{{sfn|Green|1987|pp=11–12}}彼は経験のある鉄道人であり、そして既にいくつかの鉄道会社の板の上にあった。メトロポリタン鉄道はM&SJWRがニースデンで緑の野原に到達するための計画を考慮し、{{convert|3+1/2|mi|km|1}}最寄りの場所はハロー({{lang|en|Harrow}})であったとして、さらにそこに路線を建設することを決めた。{{sfn|Horne|2003|p=12}}{{仮リンク|ハロー・オン・ザ・ヒル駅|en|Harrow-on-the-Hill station}}からベイカー・ストリート駅までの区間は[[1880年]]に運行を開始し、2年後にベイカー・ストリート駅からスイス・コテージ駅までのトンネルは複線化され、M&SJWRはメトロポリタン鉄道に吸収された。{{sfn|Bruce|1983|p=20}}メトロポリタン鉄道は運送事業をエッジウェア・ロード駅からニースデンの緑の野原に移転させた。{{sfn|Horne|2003|p=13}} |
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=== 延伸工事とインナー・サークル、1863年 - 1884年 === |
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ワトキンはさらに行く計画を立て、A&BRの会議に参加して、[[1881年]]にハローからアリスバーリーまでの路線建設の手形を承認させた。{{sfn|Horne|2003|p=15}}[[1885年]]にピナーへ届き、[[1887年]]にはリックマンウォースに至った。{{sfn|Rose|2007}}その後、資金を調達することは非常に困難になっていた;しかし、{{仮リンク|チェシャム駅|en|Chesham tube station}}では駅への地域支援があり、[[1889年]]に開業した。{{sfn|Horne|2003|p=15}}アリスバーリーへは1892年に届き、一時的な駅が街の南にでき、{{仮リンク|チェサム支線|en|Chesham branch}}として組み入れられた。[[1894年]]、{{仮リンク|アリスバーリー駅|en|Aylesbury railway station|label=GW&Met共同使用駅}}がアリスバーリーにて開業した。{{sfn|Rose|2007}} |
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==== ファリンドンからムーアゲートとシティ・ワイドンド線 ==== |
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[[ファイル:City Widened Lines (simple).svg|thumb|300px|left|キングス・クロスとムーアゲート・ストリートの間のシティ・ワイドンド線とその接続線、東側のロンドン・チャタム・アンド・ドーバー鉄道へのカーブは1871年に開通し、スノー・ヒル駅は1874年に開業した]] |
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建設中のグレート・ウェスタン鉄道およびグレート・ノーザン鉄道への接続線に加えて、[[ミッドランド鉄道]]および{{仮リンク|ロンドン・チャタム・アンド・ドーバー鉄道|en|London, Chatham and Dover Railway}}への接続線も計画され、メトロポリタン鉄道は1861年および1864年{{#tag:ref|メトロポリタン鉄道法1861年 ({{Lang|en|Metropolitan Railway Act 1861}}) およびメトロポリタン鉄道(フィンスベリー・サーカス延長)法1861年 ({{Lang|en|Metropolitan Railway (Finsbury Circus Extension) Act 1861}}) およびメトロポリタン鉄道法は、1864年7月25日に国王裁可を得て、キングス・クロス駅までの追加の線路を承認された。|group="note"}}にムーアゲートにある新しいターミナルまで東へ4線での延長と、キングス・クロス駅からファリンドン・ストリート駅までの2本の追加線路を認められた{{sfn|"Fowler's Ghost"|1962|p=303}}<ref>{{London Gazette |startpage=2871 |endpage=2872 |date=1861-07-12 |issue=22529 |accessdate=2012-05-05}}</ref><ref>{{London Gazette |startpage=3314 |endpage=3315 |date=1861-08-09 |issue=22537 |accessdate=2012-05-05}}</ref>。メトロポリタン鉄道はこのうち2本の線路を自社の運行に使用し、残りの2本は主に他の鉄道会社によって使用されて、シティ・ワイドンド線として知られるようになった{{sfn|Jackson|1986|p=130}}。 |
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キングス・クロス駅でグレート・ノーザン鉄道とメトロポリタン鉄道をつなぐ単線トンネル2本は1863年10月1日に、地上の鉄道会社側の運行で旅客営業が開始され{{sfn|"Fowler's Ghost"|1962|p=301}}{{#tag:ref|このうちの1本のトンネルは1862年に完成しており、1863年8月にグレート・ウェスタン鉄道が車両を引き上げた際に、グレート・ノーザン鉄道から借り受けた車両を搬入するために使用された{{sfn|"Fowler's Ghost"|1962|p=301}}。|group="note"}}、同日グレート・ウェスタン鉄道もウィンザーなどからの郊外列車の直通運転を始めた{{sfn|Jackson|1986|p=35}}。1864年の秋の初めには、メトロポリタン鉄道は自社の列車を営業するのに十分な機関車と車両を調達し、運行頻度を1時間に6本まで増加させた{{sfn|Jackson|1986|p=37}}。 |
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バッキンガム公のクウェイントン・ロード駅はまた{{convert|6+1/2|mi|km|1|adj=on}}の支線鉄道を持ち、{{仮リンク|ブリル・トラムウェイ|en|Brill Tramway}}と呼ばれた。{{sfn|Green|1987|p=13}}[[1899年]]にこれらは(乗客と貨物を混合して)1日にそれぞれ4本の列車が運行された。これらの路線はメトロポリタン鉄道から路線購入の提案があり、1899年11月に経営権を取得した。{{sfn|Horne|2003|pp=18–19}} |
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1866年1月1日に、ロンドン・チャタム・アンド・ドーバー鉄道とグレート・ノーザン鉄道の共同運行で、{{仮リンク|ブラックフライアーズ・ブリッジ駅|en|Blackfriars Bridge railway station}}からスミスフィールド市場の下の{{仮リンク|スノー・ヒルトンネル|en|Snow Hill tunnel}}を通ってファリンドン駅へ、さらに北へグレート・ノーザン鉄道への運行を開始した{{sfn|"Fowler's Ghost"|1962|p=304}}。アルダースゲート・ストリート駅およびムーアゲート・ストリート駅(それぞれ現在の[[バービカン駅]]および[[ムーアゲート駅]])までの延長は1865年12月23日に開通し{{sfn|Green|1987|p=6}}、4線すべては1866年3月1日に開通した{{sfn|Jackson|1986|p=47}}。 |
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[[1900年]]を通して、ウィルズデン・グリーン駅とベイカー・ストリート駅の間には、1時間あたり6本の列車が停車した。これらのひとつはリックマンウォース駅と別のハロー駅からやってきて、残りはウィルズデンから運行された。これらはまた2時間ごとにバーニージャンクション駅からやってきて、ハロー駅までの全ての駅で停車し、その後ウィルズデンやベイカー・ストリート駅に向かった。速い列車はウィルズデン・グリーン駅を出て、ちょうど列車の終点が直前の列車の後にベイカー・ストリートに着くように時刻表が編成された。{{sfn|Horne|2003|pp=20–21}} |
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キングス・クロス駅からファリンドン・ストリート駅までの新しい線路は、まず1868年1月27日にグレート・ノーザン鉄道の貨物列車が使用した。ミッドランド鉄道との分岐点は1868年7月13日に開業し、ミッドランド鉄道自身のセント・パンクラス駅が開業するよりも前にムーアゲート・ストリート駅までの列車が運行を開始した。この線路は、ミッドランド鉄道本線のセント・ポールズ・ロードジャンクションで分岐し、複線のトンネルに入ってミッドランドジャンクションにおいてワイドンド線に連絡する{{sfn|Jackson|1986|p=49}}。 |
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ワトキンはまた {{仮リンク|マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道|en|Manchester, Sheffield and Lincolnshire Railway}} (MS&LR)のディレクターであり、この鉄道を{{convert|99|mi|km|1}}延伸してアリスバーリーの北でメトロポリタン鉄道に接合する計画を持っていた。これはロンドンのターミナル駅のひとつであるベイカー・ストリートが使用できる提案であったが、しかし[[1891年]]-92年にMS&LRはメリルボーン地域に自前の駅が必要であると結論づけた。この鉄道への予算は[[1893年]]に通り、しかしワトキンは病気を患い1894年に取締役を辞任した。これらはMS&LRの急行列車をどうやってメトロポリタン鉄道の運行に停車させるかについて意見の不一致があり、またメトロポリタン鉄道は最終的にフィンチリー・ロード駅からハロー駅の南の分岐点を4複線化することで追加のトラフィックに対応することに合意し、{{sfn|Horne|2003|pp=24–25}}新しい複線はGCRにリースされ{{sfn|Bruce|1983|p=24}}メトロポリタン鉄道のセクションであるハロー駅からバーニージャンクション駅はメトロポリタン鉄道とGCRの合同委員会にリースされ、交互の共同リースで5年間使用された。{{sfn|Bruce|1983|p=24}} |
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==== ハマースミス&シティー鉄道 ==== |
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MS&LRは名前を[[1897年]]に{{仮リンク|グレート・セントラル鉄道|en|Great Central Railway}}と変え、そしてロンドンからマンチェスターまで乗客を運ぶ{{仮リンク|グレート・セントラルメイン線|en|Great Central Main Line}}が[[1899年]]3月15日に開業した。{{sfn|Green|1987|p=13}} |
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[[ファイル:Metropolitian Railway (1873).svg|thumb|570px|開通から10年後、1873年時点のメトロポリタン鉄道、やはりメトロポリタン鉄道が運行していたベイカー・ストリート駅からスイス・コテージ駅までのメトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道も示す]] |
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1860年11月にメトロポリタン鉄道とグレート・ウェスタン鉄道によって、グレート・ウェスタン鉄道のパディントン駅から1マイル西から、発展しつつある郊外である[[シェパーズ・ブッシュ]]や{{仮リンク|ハマースミス|en|Hammersmith}}へ、そしてラティマー・ロードにおいて{{仮リンク|ウェスト・ロンドン鉄道|en|West London Railway}}へ接続する鉄道の法案{{#tag:ref|ハマースミス・パディントン・アンド・シティ・ジャンクション鉄道という名目であった<ref>{{London Gazette |startpage=4479 |endpage=4480 |date=1860-11-23 |issue=22450 |accessdate=2012-05-05}}</ref>。|group="note"}}が議会に提出された{{sfn|Wolmar|2004|pp=66–67}}{{sfn|Jackson|1986|p=38}}。ハマースミス・アンド・シティ鉄道として1861年7月22日に承認され<ref>{{London Gazette |startpage=2997 |endpage=2998 |date=1861-07-23|issue=22532 |accessdate=2012-05-20}}</ref>、2マイル35[[チェーン (単位)|チェーン]](約3.9 km)の路線はおおむね野原の中を20フィート(約6.1 m)の高さの高架橋で建設され{{sfn|Jackson|1986|pp=39–40}}、1864年6月13日にグレート・ウェスタン鉄道の広軌の列車がファリンドン・ストリート駅から運行を開始した{{sfn|Jackson|1986|pp=38–39}}。駅はノッティング・ヒル駅(現在の{{仮リンク|ラドブローク・グローブ駅|en|Ladbroke Grove tube station}})、シェパーズ・ブッシュ駅(1914年に現在の[[シェパーズ・ブッシュ・マーケット駅]]に移転)、そして{{仮リンク|ハマースミス駅 (ハマースミス&シティー線、サークル線)|en|Hammersmith tube station (Hammersmith & City and Circle lines)|label=ハマースミス駅}}である{{sfn|Rose|2007}}。ウェスト・ロンドン鉄道への連絡線は同年7月1日に開通し、ノッティング・ヒル駅において連結・解放された車両によりケンジントン駅(現在の[[ケンジントン・オリンピア駅]])まで運行された{{sfn|Jackson|1986|pp=38–39}}。メトロポリタン鉄道とグレート・ウェスタン鉄道の合意を受けて、1865年からはメトロポリタン鉄道が標準軌の列車をハマースミス駅へ、グレート・ウェスタン鉄道が広軌の列車をケンジントン駅へ運行するようになった。1867年にハマースミス・アンド・シティ鉄道は両社の共同所有となった。グレート・ウェスタン鉄道は標準軌の列車の運行を始め、1869年にハマースミス・アンド・シティ鉄道およびメトロポリタン鉄道から広軌用のレールが撤去された。1871年にグレート・ウェスタン鉄道に沿ってウェストボーン・パーク駅からパディントン駅まで2本の追加線路がハマースミス・アンド・シティ鉄道用に使用開始され、1878年にはウェストボーン・パーク駅の平面交差が[[立体交差]]に置き換えられた{{sfn|Jackson|1986|pp=39–40}}。ハマースミス・アンド・シティ鉄道にさらなる駅として、{{仮リンク|ウェストボーン・パーク駅|en|Westbourne Park tube station}}(1866年)、{{仮リンク|ラティマー・ロード駅|en|Latimer Road tube station}}(1868年)、{{仮リンク|ロイヤル・オーク駅|en|Royal Oak tube station}}(1871年)、{{仮リンク|ウッドレーン駅 (メトロポリタン線)|en|Wood Lane (Metropolitan line) tube station|label=ウッドレーン駅}}(1908年)、{{仮リンク|ゴールドホーク・ロード駅|en|Goldhawk Road tube station}}(1914年)と開業した。1869年にはウェスト・ロンドン鉄道に{{仮リンク|アクスブリッジ・ロード駅|en|Uxbridge Road tube station}}が開業している{{sfn|Rose|2007}}。 |
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1877年10月1日から1906年12月31日までの間、ハマースミス支線の列車の一部が{{仮リンク|ロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道|en|London and South Western Railway}}の線路を走って、その{{仮リンク|ハマースミス(グローブ・ロード)駅|en|Hammersmith (Grove Road) railway station}}を経由して{{仮リンク|リッチモンド駅 (ロンドン)|en|Richmond station (London)|label=リッチモンド駅}}まで延長されていた{{sfn|Simpson|2003|p=43}}{{#tag:ref|ロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道のリッチモンドまでの線路は、現在ではロンドン地下鉄ディストリクト線の一部となっている。ハマースミス駅からリッチモンド駅までの間でメトロポリタン鉄道の列車が停車した駅は、{{仮リンク|レイブンスコート・パーク駅|en|Ravenscourt Park tube station}}、{{仮リンク|ターンハム・グリーン駅|en|Turnham Green tube station}}、{{仮リンク|ガナーズベリー駅|en|Gunnersbury station}}、{{仮リンク|キュー・ガーデンズ駅 (ロンドン)|en|Kew Gardens station (London)|label=キュー・ガーデンズ駅}}であった{{sfn|Rose|2007}}。|group="note"}}。 |
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===電化 1900年–15年=== |
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[[File:Experimental Train.jpg|thumb|right|250px|1900年、共同所有の実験的客車列車が6ヶ月間走った。]] |
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[[20世紀]]の始め、ディストリクト鉄道とメトロポリタン鉄道は新しい{{仮リンク|ロンドン地下鉄電気鉄道会社|en|Underground Electric Railways Company of London}}(UERL)の地下鉄路線とバスの使用によるロンドン中心部の競争の激化を見ていた。蒸気を使った地下鉄は煙が充満する駅につながり、乗客に不評だった車両、そして電気駆動への変換が進むべき道として見られた。{{sfn|Horne|2003|p=28}}電化は1880年代初期にメトロポリタン鉄道から提案されていたが、しかし、電気機関車が客車を牽引する方法はまだ始まったばかりであり、インナー・サークルの共有所有権をもつディストリクト鉄道との合意が必要となるであろう。アールズ・コート駅からハイ・ストリート・ケンジントン駅までの区間で実験を実施し、客車6両の共同所有列車が[[1900年]]に乗客サービスを開始した。実験の結果、[[1901年]]にメトロポリタン/ディストリクト委員会は[[ガンツ_(企業)|ガンツ]]の3フェイズシステムによるオーバーヘッド[[交流]]牽引を推奨した。{{sfn|Green|1987|p=24}}[[アメリカ]]主導のUERLは、ディストリクト鉄道を支配するまで、この方法は両当事者によって受け入れられた。グループは{{仮リンク|チャールズ・ヤーキーズ|en|Charles Yerkes}}主導の下、アメリカではその経験が彼に[[直流]]を採用するように導き、{{仮リンク|シティ・アンド・サウスロンドン鉄道|en|City and South London Railway}}と{{仮リンク|セントラル・ロンドン鉄道|en|Central London Railway}}で使用されている、既存の線路に[[第三軌条方式]]を使用するものであった。{{仮リンク|ボード・オブ・トレード|en|Board of Trade}}による調停の後、4線式による直流システムが採用され鉄道は路線を電化し、複数の客車と牽引する電気機関車を使用しはじめた。{{sfn|Green|1987|p=25}}メトロポリタン鉄道は[[1904年]]に出力10.5メガワットの[[石炭]][[火力発電所]]を{{仮リンク|ニーズデン|en|Neasden}}に開業して11キロボルト {{frac|33|1|3}}ヘルツを5つの[[変電所]]に供給し、{{仮リンク|ロータリー・コンバーター|en|rotary converter}}を使っておよそ直流600ボルトに変換した。{{sfn|Horne|2003|p=29}} |
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==== インナー・サークル線 ==== |
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ハロー駅から{{仮リンク|アックスブリッジ駅|en|Uxbridge tube station|label=アックスブリッジ駅}}までの新しい路線が西方に建設されていて、これとベイカー・ストリート駅からハロー駅までの路線が電化されることが決定され、{{sfn|Horne|2003|p=29}}一緒にサークル線とグレート・ウェスタン鉄道とメトロポリタン鉄道のハマースミス・アンド・シティサービスへの接続も電化されることになった。アックスブリッジ線が1904年7月に開業し、1905年1月1日まで最初の電車が走るまでは蒸気機関車で運行されていた。{{sfn|Green|1987|p=25}}インナー・サークルのサービスは[[1905年]]に電化され、{{sfn|Bruce|1983|p=40}}旅行時間が70分から50分に縮小された。{{sfn|Simpson|2003|p=152}}ハマースミス&シティ線は[[1906年]]11月5日に電化され、{{sfn|Green|1987|p=26}}同年にメトロポリタン鉄道はイーストロンドン線{{sfn|Rose|2007}}の運行を1913年に電化されるまで中断した。{{sfn|Green|1987|p=26}}ハマースミス&シティ線はリッチモンドを超えてLSWRへの乗り入れを1906年12月31日に停止した。 |
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メトロポリタン鉄道の初期の成功により、1863年にはロンドンにおいて新しい鉄道を敷設しようとする申請が議会に殺到し、その多くが似たような経路で競合するものであった。最良の提案を判断するために、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]は特別委員会を設置し、委員会は1863年7月に「実際に接続しないのであれば、首都の主要な鉄道ターミナルのほぼすべてに沿って内側を環状に結ぶ鉄道」を推薦する報告を行った。1864年の議会には、経路が異なるもののおおむね推薦に沿った多くの鉄道の提案が出され、上下両院議員で構成される合同委員会が設置されて計画を審査した{{sfn|Horne|2006|p=5}}{{#tag:ref|1863年11月に[[タイムズ]]紙は、次の議会ではおよそ30のロンドンにおける鉄道計画が提出されて検討されるであろうと報じた。その多くは「その場の思い付きで計画されたもので、建設費用や建設の実現可能性についてあまり考慮されていない」と考えられていた<ref>{{cite news |date=1863-11-30 |title=Metropolitan Railway Projects |newspaper=[[タイムズ]] |issue=24729 |page=7 |url=http://find.galegroup.com/ttda/infomark.do?&source=gale&prodId=TTDA&userGroupName=kccl&tabID=T003&docPage=article&searchType=BasicSearchForm&docId=CS117874046&type=multipage&contentSet=LTO&version=1.0 |format=Subscription required |accessdate=2012-05-07}}</ref>。|group="note"}}。 |
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メトロポリタン鉄道からの、パディントン駅から西へ、そこから南へ{{仮リンク|サウス・ケンジントン|en|South Kensington}}まで、またムーアゲート駅から東へ{{仮リンク|タワー・ヒル|en|Tower Hill}}まで延長する提案は、承認され1864年7月29日に国王裁可を得た{{sfn|Day|Reed|2008|p=18}}。環状線を完成させるために、委員会ではケンジントンとシティの間を異なる経路で建設する2つの提案を合同させることを推奨し、合同した提案は同日、{{仮リンク|ディストリクト鉄道|en|District Railway|label=メトロポリタン・ディストリクト鉄道}}(一般的にディストリクト鉄道として知られる)として承認された{{sfn|Day|Reed|2008|p=18}}{{sfn|Horne|2006|pp=5–6}}{{#tag:ref|これらは、メトロポリタン鉄道(ノッティング・ヒルおよびブロンプトン延長)法 ({{Lang|en|Metropolitan Railway (Notting Hill and Brompton Extension) Act}}) と、メトロポリタン鉄道(タワー・ヒル延長)法 ({{Lang|en|Metropolitan Railway (Tower Hill Extension) Act}})、そしてメトロポリタン・ディストリクト鉄道法 ({{Lang|en|Metropolitan District Railway Act}}) であった{{sfn|Day|Reed|2008|p=18}}。|group="note"}}。当初は、ディストリクト鉄道とメトロポリタン鉄道は緊密に連携しており、すぐにも合併することが意図されていた。メトロポリタン鉄道の会長と3人の取締役はディストリクト鉄道の取締役でもあり、技術者は両社ともジョン・ファウラーであり、また延長区間のすべての工事は1つの契約となっていた{{sfn|Day|Reed|2008|p=20}}{{sfn|Horne|2006|p=7}}。ディストリクト鉄道は、メトロポリタン鉄道とは独自に資金を集められるようにするために、独立した会社として設立された{{sfn|Day|Reed|2008|p=20}}。 |
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[[ファイル:Metropolitan Railway, Praed Street Junction.jpg|thumb|left|パディントン駅近くのプレイド・ストリートジャンクションでビショップス・ロードへ向かう進路に入るグレート・ウェスタン鉄道の広軌の列車、この場所でノッティング・ヒルおよびブロンプトンへの延長線が当初の線に合流する]] |
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[[File:Tube map 1908-2.jpg|left|thumb|250px|1908年に発行されたU<small>NDERGROUN</small>Dの路線図。メトロポリタン鉄道は赤で記されている。|alt=A map titled "London Underground Railways" showing each of the underground railway lines in a different colour with stations marked as blobs. Faint background detail shows the River Thames, roads and non-underground lines.]] |
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西部の延長区間は、メトロポリタン鉄道の当初のパディントン駅から少し東側の、プレイド・ストリートジャンクションから分岐して、{{仮リンク|ベイズウォーター|en|Bayswater}}、[[ノッティング・ヒル]]、[[ケンジントン]]などの高級住宅地区を通る。この地域では地価が高く、また当初の路線と異なりこちらの路線では既存の道路の下を通るような簡単な線形ではなかった。支払う補償金はかなり高いものとなった。ベイズウォーターの{{仮リンク|レインスター・ガーデンズ|en|Leinster Gardens}}では、鉄道が通過することで台地にできた溝を隠すために、23番地と24番地に2棟の5階建て建物のファサードが建築されている。この区間では適切な換気を確保するために、路線の多くの区間が切通しとなっているが、{{仮リンク|キャンプデン・ヒル|en|Campden Hill}}には421ヤード (385 m) のトンネルが掘られた{{sfn|Jackson|1986|pp=52–53}}。ディストリクト鉄道の工事はメトロポリタン鉄道の工事と並行で進められ、同様に地価の高い地域を通過していた。建設費と補償費がとても高かったことから、ディストリクト鉄道の最初の区間であるサウス・ケンジントンから[[ウェストミンスター]]までの費用は300万ポンドに達し、メトロポリタン鉄道の当初のより長い路線に比べてもほぼ3倍かかった{{sfn|Wolmar|2004|p=72}}。 |
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ハロー駅を超えての路線は電化されておらず、そのサービスは{{仮リンク|ロンドン地下鉄電気機関車|en|London Underground electric locomotives#Metropolitan Railway|label=電気機関車}}によってベイカー・ストリート駅まで連行され、ルートの途中で{{仮リンク|ロンドン地下鉄蒸気機関車|en|London Underground steam locomotives|label=蒸気機関車}}に変更された。{{sfn|Green|1987|p=25}}[[1907年]]1月1日から全ての列車は{{仮リンク|ウェンブリー・パーク駅|en|Wembley Park tube station}}で蒸気機関車と電気機関車の付け替えが行われ、{{sfn|Horne|2003|p=30}}1908年7月19日からはハロー駅で機関車の交換が行われた。{{sfn|Green|1987|p=26}}グレート・ウェスタン鉄道はラッシュアワーのシティへの運行を続け、1907年1月には{{sfn|Simpson|2003|p=152}}パディントンで蒸気から引き継いで電気牽引した。{{sfn|Edwards|Pigram|1988|p=89}} |
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メトロポリタン鉄道の延長区間のうち最初の区間として[[ブロンプトン (ケンジントン)|ブロンプトン]]まで1868年10月1日に開通し{{sfn|Day|Reed|2008|p=20}}、駅はパディントン(プレイド・ストリート)駅(現在のパディントン駅)、[[ベイズウォーター駅]]、[[ノッティング・ヒル・ゲート駅]]、ケンジントン(ハイ・ストリート)駅(現在の[[ハイ・ストリート・ケンジントン駅]])、ブロンプトン(グロスター・ロード)駅(現在の[[グロスター・ロード駅]])が設置された{{sfn|Rose|2007}}。3か月後の1868年12月24日に、メトロポリタン鉄道はブロンプトンから東へ延長してディストリクト鉄道のサウス・ケンジントン駅に乗り入れ、ディストリクト鉄道はそこからウェストミンスターまで開通して、[[サウス・ケンジントン駅]]、[[スローン・スクエア駅]]、[[ヴィクトリア駅]]、[[セント・ジェームズ・パーク駅 (ロンドン地下鉄)|セント・ジェームズ・パーク駅]]、ウェストミンスター・ブリッジ駅(現在の[[ウェストミンスター駅]])が開業した{{sfn|Rose|2007}}。 |
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[[1908年]]、ロバート・セルビーはゼネラルマネージャーに任命され、[[1930年]]までその役職にあった。{{sfn|Foxell|1996|p=51}}[[1909年]]に延伸された路線からの限定的な乗り入れサービスが再開され、ベイカー・ストリート駅には[[1912年]]に4本の線路と2つの[[島式ホーム]]が建てられた。{{sfn|Horne|2003|p=34}}メトロポリタン鉄道が見ていたトラフィックの増加に対処するために、ハロー駅の南の路線は4倍になり、始めに[[1913年]]にフィンチリー・ロード駅からキルバーン駅の間、1915年にはウェンブリー・パーク駅に達した。{{sfn|Bruce|1983|p=55}}しかし、フィンチリー・ロード駅からベイカー・ストリートにトンネルを経由する路線は、それぞれの方向に単線が残り、[[ボトルネック]]となった。{{sfn|Green|1987|p=44}} |
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ディストリクト鉄道はさらにブロンプトン(グロスター・ロード)駅から西へ延長する許可を得て、1869年4月12日にウェスト・ロンドン鉄道の[[ウェスト・ブロンプトン駅]]まで[[単線]]で開通させた。途中駅はなく、当初はシャトル運転が行われた{{sfn|Day|Reed|2008|p=24}}{{sfn|Horne|2006|p=9}}。1869年夏までには、サウス・ケンジントン駅からブロンプトン(グロスター・ロード)駅まで、そしてケンジントン(ハイ・ストリート)駅から分岐点までとウェスト・ブロンプトン駅への独立した線路が敷設された。1870年7月5日の夜、ディストリクト鉄道はブロンプトン(グロスター・ロード)駅とケンジントン(ハイ・ストリート)駅を結ぶ議論を呼んだ{{仮リンク|クロムウェル・カーブ|en|Cromwell Curve}}をひそかに建設した{{sfn|Jackson|1986|pp=54–57}}。 |
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===グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道=== |
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{{仮リンク|ノーザン・シティ線|en|Northern City Line|label=グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道}}は[[グレート・ノーザン鉄道_(イギリス)|グレート・ノーザン鉄道]]の[[フィンズベリー・パーク駅]]から直接に[[シティ・オブ・ロンドン|ロンドン・シティ]]の[[ムーアゲート駅]]発の列車が列車が運行できるように計画されていた。トンネルは内径{{convert|16|ft|m}}で、これは{{convert|12|ft|m}}の直径を使用して構築されていた{{仮リンク|セントラル・ロンドン鉄道|en|Central London Railway}}のトンネルと比較して、本線の列車が走るのに十分な大きさであった。しかしグレート・ノーザン鉄道は最終的に計画に反対し、そして路線は本線の下にトンネルの北ターミナルであるフィンチリー・パーク駅を伴って1904年に開業した。{{sfn|Green|1987|pp=23–24}} |
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ウェストミンスターより東では、ディストリクト鉄道の次の区間は首都公共事業委員会が[[テムズ川]]北岸に沿って新しく建設した{{仮リンク|ヴィクトリア堤防|en|Victoria Embankment}}の上を走行した。ウェストミンスター・ブリッジ駅からブラックフライアーズ駅までの区間は1870年5月30日に開通し{{sfn|Day|Reed|2008|p=24}}、チャリング・クロス駅(現在の[[エンバンクメント駅]])、ザ・テンプル駅(現在の[[テンプル駅]])、[[ブラックフライアーズ駅]]が開業した{{sfn|Rose|2007}}。 |
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[[1913年]]7月1日、メトロポリタン鉄道はグレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道を[[サークル線]]と[[ウォータールー%26シティー線]]から自社路線に接続する計画とともに買収したが、{{sfn|Green|1987|p=24}}しかしこれらの計画は遂行されなかった。<ref>{{cite web|url=http://www.davros.org/rail/culg/northern.html|accessdate=9 March 2012|work=Clive's UndergrounD Line Guides|title=Northern Line|date=3 March 2012}}</ref> |
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その開業以来、メトロポリタン鉄道はディストリクト鉄道における列車を運行し、一定の運行本数に対して総収入の55パーセントを受け取った。ディストリクト鉄道から追加の列車運行を求められると、それに対しても追加費用が請求され、ディストリクト鉄道の受け取れる収入は40パーセントほどに下がってしまった。ディストリクト鉄道の負債水準からメトロポリタン鉄道にとって合併は魅力のあるものではなくなり、合併の話は進行しなくなったことから、メトロポリタン鉄道側の役員はディストリクト鉄道の取締役を辞任した。ディストリクト鉄道は財務を改善するために、メトロポリタン鉄道に対して運行契約の終了を通告した。非常に高い建設費用の負担に苦しんだディストリクト鉄道は、当初の計画であるタワー・ヒルまでの残りの区間の建設を続行することができず、最後の延長としてわずか1駅、ブラックフライアーズ駅から東へ当初は計画されていなかったターミナル、[[マンション・ハウス駅]]までを開通させた{{sfn|Day|Reed|2008|pp=25–26}}{{sfn|Horne|2006|pp=11–12}}。 |
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==="メトロ・ランド", 1915年–32年=== |
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[[File:Metro-Land (1921).png|thumb|250px|1921年に出版されたメトロ・ランドガイドの表紙|alt=A painting of a half-timbered house set behind a drive and flower garden. Below the painting the title "METRO-LAND" is in capitals, and in smaller text is the price of two-pence.]] |
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メトロポリタン鉄道は線路の近くに住宅の為の土地開発を1887年から行い、[[第1次世界大戦]]後の住宅ブームを予期した。{{sfn|Green|1987|p=43}}鉄道の利用を促進する為に、用語『{{仮リンク|メトロ・ランド|en|Metro-land}}』は[[1915年]]に「路線延伸ガイド」が「メトロ・ランドガイド」になったときにメトロポリタン鉄道のマーケティング部門で造語され、1ポンドで販売された。{{sfn|Edwards|Pigram|1988|p=10}}このガイドでは、「チルターンの良い空気」のメリットを褒めたたえ、「メトロ・ランドを愛する人は自分のお気に入りのブナの木と雑木林を有することができます—春には全ての緑の愛らしさに震え、10月には赤褐色と金色になります」と見解を述べ、{{sfn|Rowley|2006|pp=206, 207}}そして地元の不動産開発業者が住宅を販売するためには、メトロポリタン鉄道独自の余剰の土地に建てた家に焦点を当てた広告が含まれていた。{{sfn|Horne|2003|p=52}}住宅団地は{{仮リンク|ニースデン|en|Neasden}}、{{仮リンク|ウェンブリー・パーク|en|Wembley Park}}、{{仮リンク|ピナー|en|Pinner}}そして{{仮リンク|リックマンウォース|en|Rickmansworth}}で展開され、さらに団地は{{仮リンク|ハロー・ガーデン・ビレッジ|en|Harrow Garden Village}}に進出し、メトロポリタン鉄道はその路線の近くのこのような開発から直接利益を得た。{{sfn|Green|1987|p=43}} |
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[[ファイル:Circle Line (1872).svg|thumb|570px|1871年にインナー・サークル線の運行が始まり、マンション・ハウス駅からムーアゲート・ストリート駅まで、サウス・ケンジントン駅とパディントン駅を通って運行された。ケンジントン(ハイ・ストリート)駅とサウス・ケンジントン駅の間では、両社がそれぞれの線路を保有していた]] |
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[[File:Metropolitan relief line.svg|250px|thumb|left|<SMALL>1925年、Finchley RoadとBaker Streetの間のトンネルの負担を緩和する為、Kilburn & BrondesburyからEdgware Roadまでの救援路線が計画された。</SMALL>|alt=A line is shown at the bottom, from right to left, with stations at Baker Street, Edgware Road and junction before two Paddington stations. From Baker Street a line is shown going north through several stations before turning left. From Edgware Road a line in a contrasting colour is shown, going north bypassing these stations before joining the line from Baker Street just north of Kilburn & Brondesbury.]] |
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1871年7月1日土曜日に開通記念式典が、当時の首相で株主でもあった、ウィリアム・グラッドストンが出席して開催された。次の月曜日にマンション・ハウス駅が開業し、ディストリクト鉄道は自社の列車の運行を開始した{{sfn|Lee|1956|p=7}}。この日から、両社は共同でインナー・サークル線をマンション・ハウス駅からムーアゲート・ストリート駅まで、サウス・ケンジントン駅とエッジウェア・ロード駅を経由して10分間隔で運行開始し{{#tag:ref|初期のインナー・サークル線の運行については文献によって異なる。{{harvnb|Jackson|1986|p=56}}では、運行は両社等分であったとし、{{harvnb|Lee|1956|pp=28–29}}ではメトロポリタン鉄道がすべてを運行したとしている。|group="note"}}、そしてマンション・ハウス駅からウェスト・ブロンプトン駅までディストリクト鉄道の列車が10分おきに、またハマースミス・アンド・シティ鉄道とグレート・ウェスタン鉄道の郊外列車がエッジウェア・ストリート駅とムーアゲート・ストリート駅の間で運転された{{sfn|Jackson|1986|p=56}}。マンション・ハウス駅より東側の鉄道建設許可は失効した{{sfn|Day|Reed|2008|p=27}}。また路線の反対側で、ディストリクト鉄道側のサウス・ケンジントン駅は1871年7月10日に開業し{{sfn|Day|Reed|2008|p=25}}{{#tag:ref|駅は1871年7月19日に完成し、メトロポリタン鉄道とディストリクト鉄道は共同で1871年の国際博覧会まで駅から連絡バス<!-- 原文では単にバスと書いてあるが、時期から見ておそらく馬車 -->を運行した{{sfn|Jackson|1986|p=57}}。|group="note"}}、ウェスト・ブロンプトン支線上に[[アールズ・コート駅]]が1871年10月30日に開業した{{sfn|Rose|2007}}。 |
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サービスを強力に向上させる為に、{{仮リンク|メトロポリタン鉄道Hクラス|en|Metropolitan Railway H Class|label=Hクラス}}蒸気機関車が[[1920年]]に非電化の旅客列車向けに導入され、{{convert|75|mph}}のスピードアップに対応可能で{{sfn|Foxell|1996|p=55}}、[[1922年]]-23年に導入した最高速度{{convert|65|mph|km/h|abbr=on|0}}の新しい電気機関車をフォローした。{{sfn|Benest|1984|p=48}}ニースデンの発電所の電力の発電容量は約35メガワットに増強され、{{sfn|Horne|2003|p=42}}[[1925年]]1月5日に電化設備は{{仮リンク|リックマンウォース駅|en|Rickmansworth station}}に達し、機関車の付け替え地点の移動が可能になった。{{sfn|Green|1987|p=44}}後にこの年、ムア・パーク駅からワトフォード駅までの支線が[[ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道]]が建設され、1925年11月4日に電化を伴って開業した。{{sfn|Green|1987|p=44}}だが、フィンチリー・ロード駅からベイカー・ストリート駅までのボトルネックを、キルバーン駅の分岐点の北からエッジウェア・ロード駅までの新しいトンネルで解消する計画は、エッジウェア・ロード駅を4つのプラットホームで再構築するところを超えて進行せず、{{sfn|Horne|2003|pp=58–59}}[[1924年]]-25年にハロー駅の北の平面分岐点は、{{convert|1200|ft|m}}の長さの分離するために下に飛ぶアックスブリッジ支線と本線の立体交差に置き換えられ、{{sfn|Edwards|Pigram|1988|p=39}}そしてウェンブリー・パーク駅からハロー駅までの路線は[[1932年]]に4複線化された。{{sfn|Bruce|1983|p=55}} |
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1868年から1869年にかけて、メトロポリタン鉄道に対する多くの審問が開かれて、本来の支払い能力以上の配当金を払っていたり、資本勘定からの支出が行われていたりといった、財務上の不正が見つかった。1870年に会社の取締役たちが背任で有罪となり、会社に対して賠償を行うよう命じられた{{sfn|Jackson|1986|pp=60–61}}。全員が不服申し立てを行い、1874年にかなり低い額で妥結が認められたが{{sfn|Jackson|1986|p=334}}、株主の信頼を回復するために1872年10月に取締役は全員入替となり、{{仮リンク|エドワード・ワトキン|en|Edward Watkin}}が会長に任命された{{sfn|Jackson|1986|pp=61–62}}。ワトキンは経験を積んだ鉄道業界人で、{{仮リンク|サウス・イースタン鉄道 (イギリス)|en|South Eastern Railway, UK|label=サウス・イースタン鉄道}}などいくつかの鉄道会社で既に取締役を務めており、北からロンドンを貫いてサウス・イースタン鉄道へ路線を接続したいという願望を持っていた{{sfn|Jackson|1986|pp=75–76}}{{#tag:ref|ワトキンは[[ケント (イングランド)|ケント]]の{{仮リンク|ハイス (ケント)|en|Hythe, Kent|label=ハイス}}選出の議員でもあり、サウス・イースタン鉄道に対してイギリスとフランスを結ぶ[[英仏海峡トンネル]]を推進するよう勧めていた。1883年までに、イギリス側から直径7フィート(約2.1 m)のトンネルを2,026[[ヤード]](約1.853 km)まで、フランス側から1,825ヤード(約1.669 km)まで掘られていたが、1882年に[[高等法院 (イングランド・ウェールズ)|高等法院]]が低潮線より下に工事を進める許可は得られていないと判断したため中断された。その後許可を得る努力がなされたが、侵略のリスクを強調する軍の主張により失敗に終わった{{sfn|Gourvish|2006|pp=55–66}}。ワトキンは、マンチェスターやシェフィールドからこの英仏海峡トンネルを通じて大陸へ通じるルートを建設する野望を抱いていたとよく言われているが、これに関する証拠は何も残されていない{{sfn|Horne|2003|p=24}}{{sfn|Jackson|1986|pp=75–76}}。|group="note"}}。 |
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1920年代のオフピークはウェンブリー・パーク駅からベイカー・ストリート駅までは4-5分おきに列車が運行された。これらは一般的にワトフォード駅とアックスブリッジ駅の両方から1時間ごとに2本、ウェンブリー・パーク駅からノンストップで走る列車と、レイナーズ・レーン駅、ウェンブリー・パーク駅とニースデン駅から停車する運行が始まり、そのほとんどは、マールボロ・ロード駅とセント・ジョンズ・ウッド駅には停車しなかった。ムア・パーク駅の北のオフピークの駅は通常メリルボーン・トレインにより運行された。ピーク時の間、列車はベイカー・ストリートに{{frac|2|1|2}}–3分おきに到着し、半数の列車はムーアゲート、リバプール・ストリート駅またはアルドゲイト駅へ走り抜いた。{{sfn|Horne|2003|p=47}}1932年12月10日にウェンブリー・パーク駅から[[スタンモア駅]]までの支線が電化を伴って開業した。{{sfn|Green|1987|p=45}} |
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土地の購入費用の問題から、メトロポリタン鉄道のムーアゲート・ストリート駅から東への延長工事はゆっくりとしか進まず、1869年に法律で定められた期限の延長を得なければならなかった。延長工事は1873年に開始されたが、建設工事がローマカトリック教会の地下埋葬所を掘り出してしまった後、契約業者は作業員を工事に従事させ続けるのは難しいと報告してきた。最初の区間は、{{仮リンク|グレート・イースタン鉄道|en|Great Eastern Railway}}が最近開業させたターミナル駅である[[リバプール・ストリート駅]]まで1875年2月1日に開通した。メトロポリタン鉄道自身の駅が建設されている短い期間中、列車は半径3.5チェーン(約70 m)の曲線を通ってグレート・イースタン鉄道側の駅に乗り入れており、同年7月12日に自社の駅が開業して、それ以降は通常運行にこの曲線が使用されることは無かった。[[アルドゲイト駅]]までの延長工事中には、貨車にして何百両分もの牛の角が表土から20フィート(約6.1 m)下で発見された。アルドゲイト駅は1876年11月18日に開業し、当初はビショップスゲート駅までのシャトル列車が運行し、12月4日からメトロポリタン鉄道およびディストリクト鉄道の全列車が直通運転を開始した{{sfn|Jackson|1986|pp=69–71}}。 |
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===ロンドン地下鉄電気鉄道会社、1933年=== |
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1913年末、メトロポリタン鉄道は{{仮リンク|ロンドン地下鉄電気鉄道会社|en|Underground Electric Railways Company of London}} (UERL)による合併案を拒否しており、ゼネラルマネージャーであるロバート・セルビーの元でかたくなに独立したままであった。UERLとは異なり、特に第1次世界大戦のあとの住宅ブームの間に、鉄道路線の近くのメトロ・ランド住宅団地開発が直接利益をもたらしていたからである。{{sfn|Green|1987|p=43}}1921年8月19日に施行された法律である{{仮リンク|鉄道法 (1921年)|en|Railways Act 1921}}には、他の会社の間で、ロンドンの地下鉄道のいくつかがグループ化のリストに載らなかった。草案の段階ではメトロポリタン鉄道が含まれていた。{{sfn|Railway Clerks' Association|1922|p=11}}しかし、ロンドンの公共交通機関の統合は主に優れたコーディネートの小さな独立したバスサービスを目指した{{sfn|Green|1987|p=46}}国会で連立政党のサポートがあった。{{sfn|Horne|2003|p=54}}[[1933年]]7月1日、公企業である{{仮リンク|ロンドン乗客輸送委員会|en|London Passenger Transport Board}}が設立され、メトロポリタン鉄道やその他の地下鉄道、路面電車会社とバス会社が合併した。 |
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[[ファイル:Completing the Circle.svg|thumb|300px|left|青線で示されているのがインナー・サークル線を1884年に完成させた共同線の区間で、またこれによりメトロポリタン鉄道とディストリクト鉄道をイースト・ロンドン鉄道に接続した。メトロポリタン鉄道のタワー・オブ・ロンドン駅は開業後しばらくしてから廃止となった。ディストリクト鉄道の列車は、1902年に{{仮リンク|ホワイトチャペル・アンド・バウ鉄道|en|Whitechapel and Bow Railway}}を通ってホワイトチャペル駅より東まで延長された{{sfn|Bruce|1983|p=46}}]] |
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===遺産=== |
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メトロポリタン鉄道とディストリクト鉄道の間の争いと建設費用の問題により、インナー・サークル線の完成はさらに遅れることになった。イライラさせられていたシティの金融業者たちは、1874年にメトロポリタン・インナー・サークル完成鉄道会社 ({{Lang|en|Metropolitan Inner Circle Completion Railway Company}}) を残りの区間を完成させる目的で設立した。この会社はディストリクト鉄道に支持され、議会から許可を1874年8月7日に得た{{sfn|Horne|2006|p=24}}<ref>{{London Gazette |startpage=3966 |endpage=3967 |date=1874-08-11 |issue=24121 |accessdate=2012-05-12}}</ref>。この会社は資金調達に苦しみ、工事期限の延長を1876年に許可された{{sfn|Horne|2006|p=24}}。メトロポリタン鉄道とディストリクト鉄道の間での会合が1877年に開かれ、メトロポリタン鉄道は[[イーストロンドン線|イースト・ロンドン鉄道]]を通じてサウス・イースタン鉄道へ乗り入れたいと表明した。両社は1879年にイースト・ロンドン鉄道へ延長して接続する許可を議会から得て、またこの法律では両社が環状線全体の運行許可を得て将来的な協調を確実にした{{#tag:ref|メトロポリタンおよびディストリクト鉄道(シティ・ラインズおよび延長)法1879年 ({{Lang|en|Metropolitan and District Railways (City Lines and Extensions) Act, 1879}}、1879年8月11日国王裁可<ref>{{London Gazette |startpage=4899 |endpage=4899 |date=1879-08-12 |issue=24751 |accessdate=2012-05-16}}</ref>|group="note"}}。当局からは大規模な道路および下水の改良という協力が行われた。1882年にメトロポリタン鉄道はアルドゲイト駅から仮駅の[[タワー・オブ・ロンドン駅]]まで延長された{{sfn|Jackson|1986|pp=104–109}}。共同線を建設する2件の契約が結ばれ、1件は1882年のマンション・ハウス駅からタワー・オブ・ロンドン駅までのもので、もう1件は1883年のアルドゲイト駅の北からホワイトチャペル駅を通りイースト・ロンドン鉄道に乗り入れるものであった。1884年10月1日からディストリクト鉄道とメトロポリタン鉄道は、{{仮リンク|セント・メアリーズ駅|en|St Mary's tube station}}から乗り入れ線のカーブを通ってイースト・ロンドン鉄道を通りサウス・イースタン鉄道の{{仮リンク|ニュー・クロス駅|en|New Cross railway station}}までの普通列車の運行を開始した{{sfn|Jackson|1986|p=109}}{{#tag:ref|イースト・ロンドン鉄道は現在は{{仮リンク|ロンドン・オーバーグラウンド|en|London Overground}}の一部である。この路線はテムズ川の下を1843年完成の{{仮リンク|テムズトンネル|en|Thames Tunnel}}で潜っている。セント・メアリーズ駅とニュー・クロス駅の間でメトロポリタン鉄道の列車が停車したのは、{{仮リンク|シャドウェル駅|en|Shadwell railway station}}、{{仮リンク|ワッピング駅|en|Wapping railway station}}、{{仮リンク|ロザーハイズ駅|en|Rotherhithe railway station}}、{{仮リンク|サーリー・クエイズ駅|en|Surrey Quays railway station}}である{{sfn|Rose|2007}}。|group="note"}}。1884年9月17日に公式の完成式典が行われ、10月6日月曜日から試験的な環状運転が開始された。同日メトロポリタン鉄道はハマースミス・アンド・シティ線の列車の一部をイースト・ロンドン鉄道を通じてニュー・クロス駅まで乗り入れ、途中で新たに共同駅として用意された{{仮リンク|アルドゲイト・イースト駅|en|Aldgate East tube station}}とセント・メアリーズ駅に停車した{{sfn|Jackson|1986|p=109}}{{sfn|Rose|2007}}。環状線側に開業した共同駅は[[キャノン・ストリート駅]]、イーストチープ駅(1884年11月1日から[[バンク駅・モニュメント駅|モニュメント駅]])および[[マークレーン駅]]である。ディストリクト鉄道はタワー・オブ・ロンドン駅までの乗車券の販売を拒否したため、メトロポリタン鉄道のタワー・オブ・ロンドン駅は1884年10月12日に廃止された{{sfn|Jackson|1986|p=110}}。当初、運行は1時間に8本で、13マイル(約21 km)の環状線を81 - 84分で走行したが、これは不可能であることがわかり、1885年に1時間当たり6本に削減され所要時間は70分となった。車掌は当初、勤務時間中に休憩を取ることが認められていなかったが、1885年9月に20分間の休憩3回が認められるようになった{{sfn|Jackson|1986|pp=110–112}}。 |
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: 路線の1933年から1988年までの歴史については{{仮リンク|メトロポリタン線 (1933年-1988年)|en|Metropolitan line (1933–88)}}をご覧下さい。 |
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=== 延長線 1868年 - 1899年 === |
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{{仮リンク|ロンドン・トランスポート (ブランド)|en|London Transport (brand)|label=ロンドン・トランスポート}}のメトロポリタン線になった鉄道の一部の辺鄙な路線は閉鎖された。ブリル線は[[1935年]]に[[廃線]]となり、クウェイントン・ロード駅からバーニージャンクション駅までの路線が[[1936年]]にフォローした。[[ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道|LNER]]が蒸気機関車の運行と貨物輸送を行った。1936年、メトロポリタン鉄道は{{仮リンク|ホワイトチャペル駅|en|Whitechapel station}}から[[バーキング駅]]までディストリクト線の線路に沿って路線を延伸した。{{仮リンク|New Works Programme|en|New Works Programme}}は[[ベーカールー線]]の延伸を意味し、ベイカー・ストリート駅から新しいトンネルと駅をフィンチリー・ロード駅まで建設し、その後、ウェンブリー・パーク駅とスタンモア駅支線に中間駅を引き継ぐものであった。{{sfn|Green|1987|pp=47, 51}}支線はその後ジュビリー線に転送され、[[1979年]]に開業した。{{sfn|Rose|2007}}{{仮リンク|ノーザンシティ線|en|Northern City Line|label=グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道}}は、[[1961年]]に[[イギリス国鉄]]に引き継がれるまで、[[ノーザン線]]の分離された部分になった。 |
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==== ベイカー・ストリート駅からハーロー駅まで ==== |
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1868年4月に、メトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道 ({{Lang|en|Metropolitan & St John's Wood Railway}}) がベイカー・ストリート駅に新しく設置したプラットホーム(ベイカー・ストリート・イーストと呼ばれた)から[[スイス・コテージ駅 (メトロポリタン線)|スイス・コテージ駅]]までトンネルで単線の鉄道を開通させた{{sfn|Green|1987|p=11}}{{sfn|Edwards|Pigram|1988|p=33}}。途中には待避線を備えた[[ローズ駅|セント・ジョンズ・ウッド・ロード駅]]と[[マールボロ・ロード駅]]があり、メトロポリタン鉄道により20分おきに列車が運行された。ベイカー・ストリート駅においてインナー・サークル線との分岐点が造られたが、1869年以降直通列車は運転されていない{{sfn|Horne|2003|pp=7–8}}。 |
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1870年代初頭、乗客数は少なかったためメトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道は路線を延長して新たな需要を生み出そうと考えた。メトロポリタン鉄道に着任したばかりであったワトキンは、既に市街地化していた地域に建設するよりも費用が安く運賃は高いため、こちらの方が優先度が高いと考え、またこの線からの乗客はサークル線を利用してくれると考えられた{{sfn|Horne|2003|pp=6–9}}{{sfn|Jackson|1986|p=75}}。1873年にメトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道は[[ミドルセックス州]]の郊外であるニーズデンまでの延長許可を得たが{{sfn|Jackson|1986|p=77}}{{#tag:ref|メトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道法 ({{Lang|en|Metropolitan & Saint John's Wood Railway Act}})、1873年7月21日国王裁可{{sfn|Jackson|1986|p=77}}。|group="note"}}、ニーズデンにもっとも近い人口の集まる場所はハーローであったため、さらに3.5マイル(約5.6 km)延長してハーローまで路線を建設することを決定し{{sfn|Horne|2003|p=12}}、1874年に許可を得た{{sfn|Jackson|1986|p=77}}{{#tag:ref|キングスベリー・アンド・ハーロー法 ({{Lang|en|Kingsbury and Harrow Bill}}はメトロポリタン鉄道とメトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道の共同で推進され、1874年7月16日に国王裁可を得た{{sfn|Jackson|1986|p=77}}。|group="note"}}。キルバーンで開かれた{{仮リンク|王立農業協会 (イングランド)|en|Royal Agricultural Society|label=王立農業協会}}の1879年のショーに間に合わせるために、{{仮リンク|ウェスト・ハンプステッド駅|en|West Hampstead tube station}}までの単線路線が1879年6月30日に開通し、[[フィンチリー・ロード駅]]には仮プラットホームが設けられた。複線化と{{仮リンク|ウィルズデン・グリーン駅|en|Willesden Green tube station}}までの営業は1879年11月24日に始まり、途中にキルバーン・アンド・ブロンデスベリー駅(現在の{{仮リンク|キルバーン駅|en|Kilburn tube station}})が開設された{{sfn|Jackson|1986|p=79}}。路線はさらに{{仮リンク|ハーロー=オン=ザ=ヒル駅|en|Harrow-on-the-Hill station}}まで5マイル37.5チェーン(約8.80 km)延長され、ベイカー・ストリート駅からの運行は1880年8月2日に開始された。途中駅のキングスベリー・ニーズデン駅(現在の{{仮リンク|ニーズデン駅|en|Neasden tube station}})も同日開設された{{sfn|Jackson|1986|pp=80–81}}。2年後に、ベイカー・ストリート駅とスイス・コテージ駅の間の単線が複線化され、メトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道はメトロポリタン鉄道に吸収合併された{{sfn|Bruce|1983|p=20}}。 |
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1960年代始めまで、蒸気機関車がリックマンウォース駅の北まで使用されていたが、これらはアマーシャム駅まで電化されることで置き換わり、新しい電車を導入した。ロンドン・トランスポートはこの時、アマーシャム駅の北までの運行を取り下げた。{{sfn|Green|1987|p=56}}[[1988年]]、ハンマースミス駅からアルドゲイト駅とバーキング駅までの路線は[[ハマースミス&シティ線]]になり、新規相互駅からショーディッチ駅までの[[イーストロンドン線]]、そしてアルドゲイト駅からベイカー・ストリート駅とハロー駅経由の北方の駅が[[メトロポリタン線]]を離れた。 |
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1882年にメトロポリタン鉄道は客車工場をエッジウェア・ロードからニーズデンに移転させた{{sfn|Horne|2003|p=15}}。機関車工場は1883年に、そして{{仮リンク|ガス工場|en|Gasworks}}は1884年に開設された。ロンドンから引っ越す従業員を収容するために、100戸以上の家と10軒の店が貸し出し用に建設された。1883年にこのうち2軒の店が学校の教室と教会に転用された。2年後には教会の建物と土地はウェズリーアン教会に寄贈され、学校は200人の児童を収容するようになった{{sfn|Jackson|1986|p=82}}{{#tag:ref|これらの土地は1989年に保護地域となっている<ref>{{cite web|url=http://www.brent.gov.uk/tps.nsf/Conservation%20area%20pages/LBB-293|title=Neasden Village Conservation Area|accessdate=2012-05-16|date=2010-09-17|work=Brent Council}}</ref>。|group="note"}}。 |
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20世紀中盤、メトロ・ランドの魂を残すべく{{仮リンク|ジョン・ベチェマン|en|John Betjeman}}の詩編''A Few Late Chrysanthemums''<ref>John Betjeman (1954) ''A Few Late Chrysanthemums''</ref>が著わされ、彼は後で彼のテレビのドキュメンタリー番組『{{仮リンク|メトロ・ランド (テレビ番組)|en|Metro-land (TV)|label=メトロ・ランド}}』で、より広い視聴者に達した。最初の放送は[[1973年]]2月26日で、その33年後に[[DVD]]が発売された。 |
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==== ハーローからバーニー・ジャンクションとブリルまで ==== |
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===名称=== |
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1868年に{{仮リンク|リチャード・テンプル=グレンヴィル (第3代バッキンガム=チャンドス公)|en|Richard Temple-Nugent-Brydges-Chandos-Grenville, 3rd Duke of Buckingham and Chandos|label=バッキンガム公}}が、{{仮リンク|エイルズベリー駅|en|Aylesbury railway station}}から{{仮リンク|バッキンガムシャー鉄道|en|Buckinghamshire Railway}}のブレッチリー-オックスフォード線上に新設した{{仮リンク|バーニー・ジャンクション駅|en|Verney Junction railway station}}までの単線で12.75マイル(約20.5 km)の{{仮リンク|エイルズベリー・アンド・バッキンガム鉄道|en|Aylesbury and Buckingham Railway}}を開通させた{{sfn|Jackson|1986|p=76}}。当初は、ブレッチリー-オックスフォード線を運行していたロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道からわずかながらも協力が得られていたが、路線が建設されるまでの間に2社間の関係は崩壊してしまった{{#tag:ref|ロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道はこの路線を借り受け、1879年7月21日にはバッキンガムシャー鉄道を吸収している{{sfn|Awdry|1990|p=63}}。|group="note"}}。{{仮リンク|ウィカム鉄道|en|Wycombe Railway}}が{{仮リンク|プリンス・リスバラ駅|en|Princes Risborough railway station}}からエイルズベリー駅までの単線の鉄道を建設し、そしてグレート・ウェスタン鉄道がこの会社を買収した際に、プリンス・リスバラ駅からエイルズベリー駅を通りクエイトン・ロード駅まで、そしてクエイトン・ロード駅からバーニー・ジャンクション駅までのシャトル列車を運行するようになった{{sfn|Horne|2003|pp=10–11}}。 |
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メトロポリタン鉄道の略称である「Metro」は、「Tube」「Underground」を使うイギリス、「Subway」を使うアメリカ以外の多くの国の言葉で、「地下鉄」の意味として定着している。<ref>『深迷怪鉄道用語辞典』313ページ ISBN 4-907727-18-6</ref> |
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エイルズベリー・アンド・バッキンガム鉄道は、ロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道傘下の{{仮リンク|ワトフォード・アンド・リックマンズワース鉄道|en|Watford and Rickmansworth Railway}}に接続するリックマンズワースまでさらに南へ延長する許可を得ていた。バッキンガム公とワトキンの間の協議を受けて、この路線をさらに南へ伸ばしてメトロポリタン鉄道とハーローで接続することが合意され、この延長の許可は1874年に得られ{{sfn|Jackson|1986|p=77}}{{#tag:ref|ロンドン・アンド・エイルズベリー鉄道法 ({{Lang|en|London & Aylesbury Railway Act}}) は1871年に国王裁可を得た。リックマンズワースおよびハーロー延長法 ({{Lang|en|Rickmansworth and Harrow Extension Act}}) は1874年7月16日に国王裁可を得た{{sfn|Jackson|1986|p=77}}。|group="note"}}、ワトキンは1875年にエイルズベリー・アンド・バッキンガム鉄道の取締役に就任した{{sfn|Jackson|1986|p=78}}。これを実現する資金がなかったため、メトロポリタン鉄道は再び議会に働きかけて、ハーローからエイルズベリーまでの路線を建設する許可を1880年と1881年に得た{{sfn|Jackson|1986|p=80}}{{#tag:ref|リックマンズワースまで路線を延長するリックマンズワース延長鉄道法 ({{Lang|en|Rickmansworth Extension Railway Act}}) は1880年8月6日に国王裁可を得た。エイルズベリーまでのエイルズベリー・アンド・リックマンズワース鉄道法 ({{Lang|en|Aylesbury and Rickmansworth Railway Act}}) は1881年7月18日に国王裁可を得た{{sfn|Jackson|1986|p=80}}。|group="note"}}。{{仮リンク|ピナー駅|en|Pinner tube station}}まで1885年に到達し、{{仮リンク|リックマンズワース駅|en|Rickmansworth station}}と{{仮リンク|ノースウッド駅|en|Northwood tube station}}からベイカー・ストリート駅までの1時間おきの運転は1887年9月1日に始まった{{sfn|Jackson|1986|p=86}}。{{仮リンク|チェシャム駅|en|Chesham tube station}}を設置するために地域の協力が得られていたものの、この時点で資金を集めることはとても難しくなっていた{{sfn|Horne|2003|p=15}}。1885年に許可を得てリックマンズワースから5マイル(約8 km)の複線が敷設され、そこからは単線でチェシャムまで建設された{{sfn|Jackson|1986|p=87}}。チェシャムからの列車は、途中{{仮リンク|チョーリー・ウッド駅|en|Chorleywood station}}とチャルフォント・ロード駅(現在の{{仮リンク|チャルフォント・アンド・ラティマー駅|en|Chalfont & Latimer station}})に停車し、1889年7月8日に運行を開始した{{sfn|Jackson|1986|p=90}}。 |
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==貨物輸送== |
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メトロポリタン鉄道はエイルズベリー・アンド・バッキンガム鉄道を1891年7月1日に買収し{{sfn|Jackson|1986|p=90}}、エイルズベリーに仮プラットホームを設置して1892年9月1日に開通した。途中の停車駅は{{仮リンク|アマーシャム駅|en|Amersham station}}、{{仮リンク|グレート・ミセンデン駅|en|Great Missenden railway station}}、{{仮リンク|ウェンドーバー駅|en|Wendover railway station}}、{{仮リンク|ストーク・マンデビル駅|en|Stoke Mandeville railway station}}であった。1894年にメトロポリタン鉄道とグレート・ウェスタン鉄道のエイルズベリーにおける{{仮リンク|エイルズベリー駅|en|Aylesbury railway station|label=共同駅}}が開業した{{sfn|Horne|2003|p=17}}。エイルズベリーから先バーニー・ジャンクションまでは、路線にある橋の強度がメトロポリタン鉄道の機関車を通すためには不十分であった。グレート・ウェスタン鉄道は支援を拒否し、2両の{{仮リンク|メトロポリタン鉄道Dクラス蒸気機関車|en|Metropolitan Railway D Class|label=Dクラス}}を購入するまではロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道から機関車を借りて運行した。路線の規格が向上され、複線化されて本線の規格まで駅も改築されて{{sfn|Jackson|1986|pp=91, 93}}、ベイカー・ストリート駅からバーニー・ジャンクション駅までの直通運転が1897年1月1日からできるようになり、新しい{{仮リンク|ワッデスドン・メイナー駅|en|Waddesdon railway station}}、改築された{{仮リンク|クエイントン・ロード駅|en|Quainton Road railway station}}、{{仮リンク|グランバラ・ロード駅|en|Granborough Road railway station}}、{{仮リンク|ウィンスロー・ロード駅|en|Winslow Road railway station}}に停車した{{sfn|Rose|2007}}{{sfn|Jackson|1986|p=93}}。 |
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[[File:Metropolitan Railway Vine Street depot.jpg|left|thumb|250px|1910年代のヴァイン・ストリート貨物集積所入口]] |
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路線がベイカー・ストリートの外へ延伸したとき、貨物輸送はメトロポリタン鉄道の重要な部分であった。貨物と石炭の集積所がフィンチリー・ロード駅、ニースデン駅、 ウェンブリー・パーク駅そしてウィルズデン駅に開業した。ロンドンへの貨物は当初はウィルズデン駅にて取り扱い、前方へは道路で送り、{{sfn|Horne|2003|p=49}}1909年にファリンドン駅の近くにヴァイン・ストリート貨物集積所が2つの側線で開業し、フィンチリー・ロード駅集積所からの定期的な運行を引き受けた。貨物列車は通常は電気機関車が牽引し、編成は貨車14両に限定されていた。{{sfn|Edwards|Pigram|1988|p=58}}これらはFinchley Roadで[[ミッドランド鉄道]]と接続し、またバーニージャンクション駅で{{仮リンク|ロンドン・アンド・ノースウェスタン鉄道|en|London and North Western Railway}}と接続した。当初は民間の請負業者は、以降の道路交通のために使用されたが、しかし1919年からメトロポリタン鉄道は独自の運送業者を雇用した。{{sfn|Horne|2003|p=49}}蒸気機関車と{{仮リンク|ニースデン|en|Neasden}}にある会社の火力発電所の為の石炭は、クウェイントン・ロード駅を経由して購入した。{{sfn|Edwards|Pigram|1988|pp=9, 58}}[[ロンドン地下鉄]]の一部分となる前、会社は544両の貨車を所有し石炭{{convert|162764|LT}}を運び、{{convert|2478212|LT}}の資源と{{convert|1015501|LT}}の貨物を輸送した。{{sfn|Edwards|Pigram|1988|p=58}} |
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クエイントン・ロード駅から、バッキンガム公は{{仮リンク|ブリル軌道|en|Brill Tramway}}という6.5マイル(約10.5 km)の支線を建設していた{{sfn|Green|1987|p=13}}。1899年にはクエイントン・ロード駅と{{仮リンク|ブリル駅|en|Brill railway station}}の間を1日片道4本の[[混合列車]]が走っていた。メトロポリタン鉄道にこの路線を買うように推奨があり、1899年11月に運行を引き継ぎ{{sfn|Horne|2003|pp=18–19}}、毎年600ポンドで借り受けるようになった。1903年に線路は敷き直され、駅は改良された。旅客列車は[[メトロポリタン鉄道Aクラス蒸気機関車|Aクラス]]およびDクラスの機関車とオールドベリー型の8輪客車で運行されるようになった{{sfn|Jackson|1986|pp=94–95}}{{sfn|Goudie|1990|p=21}}。 |
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==鉄道車両== |
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===蒸気機関車=== |
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{{see also|:en:London Underground rolling stock#Metropolitan Railway}} |
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[[File:Metropolitan Railway Steam Locomotive, London Transport Museum.jpg|thumb|250px|<SMALL>メトロポリタン鉄道の蒸気機関車23号機。 現存する2機のうちのひとつで、{{仮リンク|ロンドン交通博物館|en|London Transport Museum}}で展示されている。</SMALL>|alt=A steam tank locomotive is shown indoors, funnel towards the viewer, in purple livery. A large pipe connects the pistons at the front with the side tank]] |
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トンネル内の煙や蒸気が懸念されて機関車の新しいデザインにつながった。路線開業前の1861年、実験的に製作された"hot brick"機関車(ニックネームは{{仮リンク|ファウラーズ・ゴースト|en|Fowler's Ghost}})の試験が行われた。この試験は成功せず、最初の公開列車は広軌を使った[[ダニエル・グーチ]]設計の{{仮リンク|GWRメトロポリタンクラス|en|GWR Metropolitan Class}}[[:en:Condensing steam locomotive|condensing]]タンク機関車、車軸配置2-4-0で連行された。それらは標準軌のグレートノーザン鉄道の機関車が続き、その後メトロポリタン鉄道独自の標準軌機関車によって運行された。{{sfn|Green|1987|pp=5–6}}機関車は全て[[タンク機関車]]で、アルファベットの文字で分類された。始めに18機の[[:en:Metropolitan Railway A Class|A Class]] ([[:en:4-4-0]])が[[1864年]]に発注され、それぞれに名前が付けられた。[[1870年]]には合計で44機の機関車が製造され、[[1885年]]には改良版が発注され22機の[[:en:Metropolitan Railway B Class|B Class]]が製造された。{{sfn|Bruce|1983|pp=12–13}} |
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1893年に新しい{{仮リンク|ウェンブリー・パーク駅|en|Wembley Park tube station}}が開業し、当初はサッカーのオールド・ウェストミンスターFCにより利用されたが、主にスポーツ、レジャー、博覧会などに用いられた{{sfn|Simpson|2003|p=48}}。その当時建設されたばかりであった[[エッフェル塔]]よりも高い、1,159フィート(約353 m)の塔が計画されたが、魅力が不十分で、200フィート(約61 m)の高さのものが第一段階として建設された。この塔は{{仮リンク|ワトキンズ・タワー|en|Watkin's Tower}}として知られるようになったが、傾いていることが発見されて1907年に解体された{{sfn|Jackson|1986|pp=100–103}}。 |
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[[1891年]]からはベイカー・ストリートから郊外への路線の延伸の仕事の為にさらに機関車が必要になった。1891年に4機の[[:en:Metropolitan Railway C Class|C Class]] ([[:en:0-4-4]])を受け取り、さらに[[1894年]]には6機の[[:en:Metropolitan Railway D Class|D Class]] ([[:en:2-4-0]])が就役した。{{sfn|Green|1987|p=14}}[[1896年]]から[[1901年]]には7機の[[:en:Metropolitan Railway E Class|E Class]] ([[:en:0-4-4]])機関車が製造され、本線のA Classを置き換えた。{{sfn|Simpson|2003|p=131}}また[[1901年]]にメトロポリタン鉄道は4機の[[:en:Metropolitan Railway F Class|F Class]] ([[:en:0-6-2]])を受け取り、{{sfn|Green|1987|p=14}}これはE Classの貨物用変種である。<ref>{{cite web | url=http://www.railwayarchive.org.uk/stories/pages.php?enum=LE130&pnum=14&maxp=18 | title=T. F. Clark and Charles Jones Locomotives | publisher=Railway Archive | accessdate=16 January 2012}}</ref>全てではないが、これらの新しい機関車はFinchley Roadの南で働く為の装備を凝縮して装備した。{{sfn|Bruce|1983|p=21}} |
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1900年頃、ウィルズデン・グリーン駅とベイカー・ストリート駅の間には、1時間に6本の普通列車が走っていた。1本はリックマンズワースから、もう1本はハーローからで、残りはウィルズデン・グリーン始発であった。この他に、2時間に1本バーニー・ジャンクションからの列車があり、ハーローまではすべての駅に停車し、そこからはウィルズデン・グリーンとベイカー・ストリートのみに停車した。この速い列車は、普通列車がウィルズデン・グリーン駅を出発する直前に出発して、ベイカー・ストリート駅には1本前の普通列車の直後に到着するように時刻表が調整されていた{{sfn|Horne|2003|pp=20–21}}。 |
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[[1915年]]の4機の [[:en:Metropolitan Railway G Class|G Class]] ([[:en:0-6-4]])の登場はより強力な機関車の必要性を意味し、{{sfn|Green|1987|p=44}}メトロポリタン鉄道に関連付けられている人や場所にちなんで命名された。{{sfn|Bruce|1983|p=26}}8機の{{convert|75|mph|km/h|abbr=on}}を出せる{{sfn|Foxell|1996|p=55}}[[:en:Metropolitan Railway H Class|H Class]] ([[:en:4-4-4]])は[[1920年]]に製造され{{sfn|Green|1987|p=44}}急行列車に用いられ、{{sfn|Horne|2003|p=46}}C ClassとD Classを置き換えた。{{sfn|Simpson|2003|pp=129–130}}最終的に[[1925年]]の6機の貨物用[[:en:Metropolitan Railway K Class|K Class]] ([[:en:2-6-4]]){{sfn|Green|1987|p=44}}機関車が登場した。これらはFinchley Roadの南の[[車両限界]]を超えていた。{{sfn|Bruce|1983|p=26}} |
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==== グレート・セントラル鉄道 ==== |
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2機の蒸気機関車が現存し、A Class No. 23 (LT L45)がLondon Transport Museumに、<ref>{{cite web|url=http://www.ltmcollection.org/museum/object/object.html?_IXSR_=90x1zbz3irx&_IXMAXHITS_=1&IXinv=1981/535&IXsummary=collection/collection&IXcollection=vehicles&_IXFIRST_=5|title=Metropolitan Railway A class 4-4-0T steam locomotive No. 23, 1866|publisher=[[:en:London Transport Museum]]|accessdate=3 February 2012}}</ref>E Class No. 1 (LT L44)が[[:en:Buckinghamshire Railway Centre]]に保存されている。<ref>{{cite web|title=Metropolitan Railway E Class 0-4-4T No.1|url=http://www.brc-stockbook.co.uk/Met1.HTM|publisher=[[Buckinghamshire Railway Centre]]|accessdate=3 February 2012}}</ref> |
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[[ファイル:GCR & Met Railways 1906.svg|thumb|left|300px|1906年時点では、グレート・セントラル鉄道には2通りのロンドンへの経路があった。1つはアマーシャム経由のメトロポリタン鉄道で、もう1つはハイ・ウィカム経由のグレート・セントラル・アンド・グレート・ウェスタン・ジョイント鉄道であった]] |
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ワトキンは{{仮リンク|マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道|en|Manchester, Sheffield and Lincolnshire Railway}}の取締役でもあり、エイルズベリーの少し北でメトロポリタン鉄道に合流する99マイル(約159 km)のロンドン延長線の計画を持っていた。ベイカー・ストリート駅をロンドンにおけるターミナルとして使用できると提案があったが、しかし1891年から1892年にかけてマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道は、[[メリルボーン駅|メリルボーン地区]]に独自の駅と貨物扱い設備が必要であると結論した。この鉄道に関する法律は1893年に議会を通過したが、ワトキンは病気にかかって1894年に取締役を辞任した。彼の離任後、両社間の関係はまもなく悪化した{{sfn|Horne|2003|p=24}}。 |
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1895年にマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道は、メトロポリタン鉄道の普通列車を同社の急行列車が追い抜けるように、ウェンブリー・パークからフィンチリー・ロード駅近くのキャンフィールド・プレイスまで2本の線路を建設するという法案を議会に提出した{{sfn|Horne|2003|pp=24–25}}。メトロポリタン鉄道はこれに抗議したが、この路線はマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道が専用に使用するということで合意した{{sfn|Jackson|1986|pp=144–145}}。マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道の機関車が走れるようにウェンブリー・パークからハーローまでの区間の橋を架け替えた際に、将来の必要性をにらんで、メトロポリタン鉄道は同時に複々線化を行い、マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道は2線を専用に使用するように求めた{{sfn|Jackson|1986|pp=145–146}}。マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道は、メリルボーンにおいてメトロポリタン鉄道のサークル線に接続する必要な許可を得ていたのであったが、メトロポリタン鉄道側は面倒な条件を付けた。当時マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道は資金が不足していたこともあり、この路線を放棄してしまった{{sfn|Jackson|1986|p=148}}。 |
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===客車=== |
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メトロポリタン鉄道は、最初はグレート・ウェスタン鉄道から、後にグレート・ノーザン鉄道から借りた客車で開業された。グレート・ウェスタン鉄道は[[チーク材]]から構成した8輪のコンパートメント客車を提供した。[[1864年]]にメトロポリタン鉄道は自前の客車の引き渡しを受け、これは[[:en:Ashbury Railway Carriage and Iron Company Ltd]]が製造した、グレート・ウェスタン鉄道のデザインをベースとしながらも標準軌の車両であった。{{sfn|Green|1987|pp=5–6}}照明はガス灯—1等コンパートメントには2灯、2等・3等コンパートメントには1灯設置された。{{sfn|Edwards|Pigram|1988|p=32}}当初は、客車は列車の先頭と末尾にある[[車掌]]区画から、手動で木製のブロックにより制動され、独特の臭いを放った。{{sfn|Simpson|2003|p=19}}{{sfn|Horne|2003|p=22}}これは1869年に全ての客車に鎖で操作するものに置き換わったが、これは突然一部の乗客が負傷する可能性があり、1875年に自動[[真空ブレーキ]]が採用された。{{sfn|Bruce|1983|p=14}}1890年代には機械的に「次の駅」を表示するインジケーターがサークル線の客車に装備され、線路の間のフラップで動作した。それは信頼できないと考えられていて、完全なインストールは承認されなかった。{{sfn|Edwards|Pigram|1988|p=23}} |
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[[File:METROPOLITAN Chesham CARRIAGE No 368.JPG|thumb|left|250px|No.368ボギー客車。1898年Ashburysにて製造、Bluebell Railwayがレストアした|alt=Side view of a varnished wooden railway carriage with doors and windows at regular intervals down the side.]] |
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両社の関係から、マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道は自社のロンドンへの列車を完全にメトロポリタン鉄道に頼らなければならないということに不満であり、また自社の北への路線と異なり、エイルズベリーより南では速度制限が何か所かあり、90分の1の長い勾配区間もあった。1898年にマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道とグレート・ウェスタン鉄道は共同で、クエイントン・ロードの北の{{仮リンク|グレンドン・アンダーウッド|en|Grendon Underwood}}から分岐してアシェンドンまでの短い連絡線と、ノーソルトからニーズデンまでの路線を建設して{{仮リンク|グレート・ウェスタン・アンド・グレート・セントラル・ジョイント鉄道|en|Great Western and Great Central Joint Railway}}とする法案を議会に提出した。メトロポリタン鉄道は、この法案はメトロポリタン鉄道とマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道の間で結ばれた合意の精神と条件に反していると抗議した。マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道はこの路線の許可を得たが、メトロポリタン鉄道には補償を受け取る権利が与えられた{{sfn|Jackson|1986|pp=151–152}}。1898年7月26日に、メトロポリタン鉄道の路線にマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道の石炭列車を1日4本運転する暫定合意が行われた。マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道はこうした列車をエイルズベリーからグレート・ウェスタン鉄道の線路でプリンセス・リスバラを経由してロンドンへ運転することも望んでいたが、メトロポリタン鉄道ではこれは合意の範囲外であると考えていた。グレート・ウェスタン鉄道に入る予定となっていた列車は1898年7月30日の早朝、クエイントン・ロード駅においてメトロポリタン鉄道の線路に入ることを拒否された。その後の裁判所での聴取では、これが一時的な合意であったとしてメトロポリタン鉄道に有利に判断された{{sfn|Jackson|1986|p=149}}。 |
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1870年代、いくつかの剛体ホイールベースの四輪台車を近くにペアに結合したものが、Oldburysにより製作された。{{sfn|Bruce|1983|p=16}}何度かの脱線のあとに、[[1887年]]に{{convert|27|ft|6|in|m}}の新しいデザインの長い剛体ホイールベースの四輪台車(Jubilee Stockとして知られる)が、Cravensにより延伸路線向けに製作された。新しい客車は加圧ガス照明システムと真空ブレーキを装備し、後に[[蒸気暖房_(鉄道)|蒸気暖房]]が追加された。[[1892年]]にはより多くの列車がフォローされ、[[1912年]]には全ての客車に装備が整った。{{sfn|Bruce|1983|p=21}} |
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マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道は1897年に{{仮リンク|グレート・セントラル鉄道|en|Great Central Railway}}に改称し、1899年3月15日に{{仮リンク|グレート・セントラル本線|en|Great Central Main Line}}が旅客輸送向けに開通した{{sfn|Green|1987|p=13}}。グレート・セントラル鉄道とメトロポリタン鉄道の間でのこの路線に関する交渉は数年を要し、1906年にキャンフィールド・プレイスからハーローまでの2線が年間20,000ポンドでグレート・セントラル鉄道に貸し出され、{{仮リンク|メトロポリタン・アンド・グレート・セントラル・ジョイント鉄道|en|Metropolitan and Great Central Joint Railway}}を設立し、ハーローからバーニー・ジャンクションまでとブリル支線を年間44,000ポンドで貸し出して、グレート・セントラル鉄道は少なくともこの路線に年間45,000ポンドの交通量を保証することで合意された{{sfn|Jackson|1986|pp=152–155}}。グレート・ウェスタン鉄道とメトロポリタン鉄道が共同で運営するエイルズベリー駅には、グレート・ウェスタン・アンド・グレート・セントラル合同委員会およびメトロポリタン・アンド・グレート・セントラル合同委員会も置かれた。一般的には呼びづらい名前であったことから、エイルズベリー共同駅と呼ばれていた。メトロポリタン鉄道とグレート・セントラル鉄道の合同委員会は駅と路線の営業を引き継いだが、車両は保有していなかった。メトロポリタン鉄道が管理を担当し、グレート・セントラル鉄道は会社が役割を交替するまでの最初の5年間、会計を担当した。それ以降1926年まで5年おきに役割を交替した。メトロポリタン鉄道はグレート・ミセンデンの南にある28.5マイル地点より南側の保守を行い、グレート・セントラル鉄道は北側の保守を行った{{sfn|Horne|2003|p=27}}。 |
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[[ボギー台車|ボギー客車]]は[[1898年]]にAshbury'sにより製作され、メトロポリタン鉄道のNeasden工場とCravensが[[1900年]]に乗り心地を高く評価し、蒸気暖房、真空ブレーキ、{{sfn|Bruce|1983|p=22}}電気照明そして布張りの座席が、客室の全てのクラスに採用された。{{sfn|Green|1987|p=14}}[[:en:Bluebell Railway]]はこれら4つを1898年から1900年にかけてAshburyとCravensの客車を導入し、Neasdenで組み立てられた5番目の客車が[[:en:London Transport Museum]]に保存されている。<ref>{{cite web | url=http://www.bluebell-railway.co.uk/bluebell/bash/hist.html | title=The history of the carriages | publisher=Bluebell Ashbury Supporters and Helpers | date=14 January 1996 - 14 January 2007 | accessdate=15 January 2012}}</ref> |
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<!--source http://www.bluebell-railway.co.uk/bluebell/bash/engineer.html--> |
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=== 電化 1900年 - 1914年 === |
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[[:en:Great Central Railway]]との、ロンドン郊外への路線延伸競争により、[[1910年]]からより快適な''Dreadnought''客車が導入された。{{sfn|Green|1987|p=26}}この木製客車は合計92両製作された。客車は蒸気暖房付きで、加圧ガス照明は1918年に電気照明に置き換えられた。{{sfn|Bruce|1983|p=26}}[[:en:Vintage Carriages Trust]]は3つ見本を保存所有している。<ref>{{cite web|url=http://www.vintagecarriagestrust.org/metthird.htm|title=Metropolitan Railway Nine Compartment Third No. 465|publisher=Vintage Carriages Trust|accessdate=16 January 2012}}</ref>また[[:en:Pullman (car or coach)]]2両が1等車の乗客に[[ビュッフェ]]サービスを提供した。{{sfn|Edwards|Pigram|1988|p=89}} |
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==== 発展 ==== |
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[[ファイル:Experimental Train.jpg|thumb|1900年に6か月間運行された、両社共同所有の実験旅客列車]] |
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20世紀の始まりに、ディストリクト鉄道とメトロポリタン鉄道は新しく電気運転で開通した、深い地下を走るチューブと呼ばれる路線との競合に直面していた。1900年に{{仮リンク|セントラル・ロンドン鉄道|en|Central London Railway}}がシェパーズ・ブッシュからシティまで、一律2ペンスの運賃で開通して以降、1899年後半から1900年後半までの間にディストリクト鉄道とメトロポリタン鉄道は400万人の旅客が減少した{{sfn|Jackson|1986|pp=158–160}}。トンネル内の空気が汚れていたことが旅客にとって非常に不快なものとなっており、電気運転に切り替えることが解決方法だと考えられた{{sfn|Horne|2003|p=28}}。メトロポリタン鉄道では、1880年代には電化が検討されていたが、電気運転はまだ始まったばかりであり、またインナー・サークル線はディストリクト鉄道との共同所有であったため、ディストリクト鉄道との合意も必要であった。両社が共同で所有した6両の電車がアールズ・コート駅とハイ・ストリート・ケンジントン駅の区間で1900年に6か月間、試験的に旅客営業を行った。これは成功であると判断され、入札にかけられて、1901年にメトロポリタン鉄道とディストリクト鉄道の合同委員会は[[ガンツ (企業)|ガンツ]]の[[三相交流]][[架空電車線方式]]を推奨した{{sfn|Green|1987|p=24}}。両社によってこれは受け入れられたが、それはロンドン地下電気鉄道がディストリクト鉄道を買収するまでであった。ロンドン地下電気鉄道はアメリカの{{仮リンク|チャールズ・ヤーキス|en|Charles Yerkes}}が率いており、彼はアメリカでの経験から{{仮リンク|シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道|en|City and South London Railway}}やセントラル・ロンドン鉄道で使われているのと同じような、[[直流]][[第三軌条方式]]を好んだのである。商務省での調停の後、第四軌条までを使った直流方式が採用されることになり、電車および電気機関車による客車牽引を前提として、これらの路線の電化が開始された{{sfn|Green|1987|p=25}}。メトロポリタン鉄道は1904年にニーズデンに10.5メガワットの石炭[[火力発電所]]を開設し、そこから11 [[ボルト (単位)|kV]] 33.3 [[ヘルツ|Hz]]の電力を5つの[[変電所]]に送電して、そこで{{仮リンク|回転変流機|en|Rotary converter}}を使って直流600 Vに変換していた{{sfn|Horne|2003|p=29}}。 |
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一方で、ディストリクト鉄道はイーリングからサウス・ハーローまでの路線を建設しており、アクスブリッジまで延長する許可も得ていた{{sfn|Simpson|2003|p=97}}。1899年に、ディストリクト鉄道は資金集めに困難があり、メトロポリタン鉄道は、ハーローからレイナーズ・レーンまでの支線とアクスブリッジまでの路線をメトロポリタン鉄道が引き継いで建設し、ディストリクト鉄道は1時間に3本までの列車を走らせる権利を保持するという救済策を提案した{{sfn|Horne|2003|p=26}}。これに必要な法案は1899年に議会を通過し、7.5マイル(約12.1 km)の路線の建設は1902年9月に始まった。これには28の橋と、ハーローに71のアーチを持つ全長1.5マイル(約2.4 km)の高架橋が必要であった。この路線は建設中であったため、ベイカー・ストリートからハーローまでの路線{{sfn|Horne|2003|p=x}}やインナー・サークル線、グレート・ウェスタン鉄道とメトロポリタン鉄道が共同で運行するハマースミス・アンド・シティ線とともに、電化する路線に含められた。メトロポリタン鉄道は{{仮リンク|アクスブリッジ駅|en|Uxbridge tube station}}までの路線を1904年6月30日に、当初は蒸気機関車牽引で開通させた。途中駅は{{仮リンク|ルイスリップ駅|en|Ruislip tube station}}であった{{sfn|Simpson|2003|p=97}}。3両分の長さの木造のプラットホームにより1905年9月25日に{{仮リンク|イッケナム駅|en|Ickenham tube station}}が開設され、さらに同様の単純な構造で1906年5月26日に{{仮リンク|イーストコート駅|en|Eastcote tube station}}と{{仮リンク|レイナーズ・レーン駅|en|Rayners Lane tube station}}が開設された{{sfn|Jackson|1986|p=191}}。 |
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[[1906年]]から、いくつかのAshburyボギー客車は[[運転台]]と制御装置を取り付けられて電車に改造された。{{sfn|Green|1987|p=14}}Dreadnought客車は、2/3が機関車の牽引用として残ったものの、延伸路線では電気動力車に使われた。{{sfn|Bruce|1983|p=25}} |
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==== 電気運転 ==== |
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電車の運転は1905年1月1日に始まり、3月20日までにはベイカー・ストリート駅とハーロー駅の間のすべての普通列車が電気運転となった{{sfn|Jackson|1986|pp=177–178}}。アクスブリッジまでの閑散路線で6両編成の列車を運転するのは無駄であると考えられたため、メトロポリタン鉄道はオフピークにハーローまでの3両編成のシャトル列車を走らせ、1両の電動車で2両の付随車を牽引して商務省の不興を買った。短編成の蒸気機関車列車が3月末からオフピークの運行に用いられ、その間にいくつかの付随車に運転台を取り付ける改造を行って、6月1日から運行に投入された{{sfn|Jackson|1986|p=191}}。 |
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1905年7月1日に、メトロポリタン鉄道とディストリクト鉄道はともに電車をインナー・サークル線に導入したが、その日遅く、メトロポリタン鉄道の電車がディストリクト鉄道の正極レールを倒してしまい、メトロポリタン鉄道側の運行は中止された。メトロポリタン鉄道の電車に取り付けられた集電シューとディストリクト鉄道の線路との間に不整合が見つかり、ディストリクト鉄道側での運行が中止されて改造された。全面的な電気運転は9月24日に開始され、環状線1周の所要時間を70分から50分に短縮した{{sfn|Simpson|2003|p=152}}{{sfn|Bruce|1983|p=40}}。 |
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===電気機関車=== |
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[[File:Electric locomotive and train, Metropolitan Railway (CJ Allen, Steel Highway, 1928).jpg|thumb|right|250px|1920年代のメトロポリタン鉄道の電気機関車牽引列車|alt=A black and white image of an electric locomotive hauling at least 6 coaches, shown with the electric locomotive on the right. A track in the foreground is electrified with the fourth rail system. The locomotive is shown with two pick-up shoes.]] |
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{{see also|:en:Metropolitan Railway electric locomotives}} |
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郊外路線が電化された後、従来の客車はベイカー・ストリートで電気機関車から蒸気機関車による牽引に付け替えられた。メトロポリタン鉄道は、同社の合併により異なる電化方式の装備を備えた20機の電気機関車を発注した。最初の10機は[[ウェスティングハウス・エレクトリック]]の電気装備で製造され1906年に営業運転を開始した。これら'camel-back'ボギー機関車は車体中央に運転台を置き、{{sfn|Green|1987|p=26}}重量は50トンで、{{sfn|Bruce|1983|p=58}}そして4台の{{convert|215|hp|kW|abbr=on}}モーターを搭載していた。{{sfn|Bruce|1983|p=59}}その次のタイプは箱形車体のデザインでBritish Thompson Houstonの電気機器を装備し、{{sfn|Green|1987|p=26}}ウェスティングハウスの機関車を[[1919年]]に置き換えた。{{sfn|Bruce|1983|p=59}} |
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グレート・ウェスタン鉄道がパーク・ロイヤルに6メガワットの発電所を建設し、パディントンからハマースミスまでの路線を電化した後、共同所有の車両によりハマースミス・アンド・シティ線での電気運転が1906年11月5日に開始された{{sfn|Jackson|1986|pp=184–185}}。同年、メトロポリタン鉄道はイースト・ロンドン鉄道への乗り入れを中断し、1913年に電化されるまでの間は{{sfn|Green|1987|p=26}}ディストリクト鉄道の{{仮リンク|ホワイトチャペル駅|en|Whitechapel station}}で打ち切りとした{{sfn|Rose|2007}}。ハマースミス・アンド・シティ線の列車は、ロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道の路線上をリッチモンドまでの運転を1906年12月31日に取り止めたが、グレート・ウェスタン鉄道の{{仮リンク|スチームモーター|en|Steam motor}}列車は、ラドブローク・グローブからリッチモンドまでの運行を1901年12月31日まで続けた{{sfn|Jackson|1986|pp=185–186}}。 |
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1920年代の始め、メトロポリタン鉄道は20機の電気機関車の再製作を[[バロー・イン・ファーネス]]の[[メトロポリタン=ヴィッカース]]に発注した。最初の機関車が働きはじめたとき、それは非実用的と不経済であることが判明したため、注文は以前の機関車から回収されたいくつかの機器を使用して、完全に新しい機関車を作ることに変更された。新しい機関車は[[1922年]]-23年に製造され、後にロンドンの著名な居住者の名前が付けられた。これらの機関車は4台の{{convert|300|hp|kW|abbr=on}}モーターを搭載し、1時間定格{{convert|1200|hp|kW|abbr=on}}で最高速度は{{convert|65|mph|km/h|abbr=on|0}}を出せた。{{sfn|Benest|1984|p=48}} |
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ハーローより先の路線は電化されなかったため、列車はベイカー・ストリート駅から電気機関車で牽引され、途中で蒸気機関車に交換されていた{{sfn|Green|1987|p=25}}。1907年1月1日からすべての列車について機関車交換はウェンブリー・パークで実施された{{sfn|Horne|2003|p=30}}。1908年7月19日からはハーローで交換された{{sfn|Green|1987|p=26}}。グレート・ウェスタン鉄道のラッシュ時のシティへの列車は運行を継続し、1907年1月から{{sfn|Simpson|2003|p=152}}はパディントンにおいて{{sfn|Edwards|Pigram|1988|p=89}}電気機関車が蒸気機関車から引き継ぐようになったが、スミスフィールドまでの貨物列車は蒸気機関車が通しで牽引し続けた{{sfn|Jackson|1986|p=187}}{{#tag:ref|蒸気機関車牽引のままで運転された列車もあった。1909年9月に、バーニー・ジャンクションからラムズゲートまで往復した周遊列車は、ブラックフライアーズにおいてメトロポリタン鉄道の機関車からサウス・イースタン・アンド・チャタム鉄道の機関車に交換された{{sfn|Jackson|1986|p=346}}。1961年10月1日に、サザン・カウンティーズ旅行協会は臨時列車の運行を企画し、メトロポリタン鉄道の1号蒸気機関車(当時はL44と呼ばれていた)が牽引してスタンモアからファリンドンとイースト・ロンドン線を経由してニュー・クロスまで運転された{{sfn|Casserley|1977|p=93}}。|group="note"}}。 |
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1台の電気機関車、No.5"[[:en:John Hampden]]"が[[:en:London Transport Museum]]にて静態保存展示されている。<ref>{{cite web|url=http://www.ltmcollection.org/museum/object/link.html?IXinv=1981/537|title=Metropolitan Railway electric locomotive No. 5, "John Hampden", 1922|accessdate=27 February 2012|work=ltmcollection.org}}</ref>また別に、No.12"[[:en:Sarah Siddons]]"が、最近では[[2011年]]の鉄道遺産イベントで使用された。<ref>{{cite press release|url=http://www.ltmuseum.co.uk/whats-on/events/past-events/355-past-events-metro-land-heritage-vehicle-outing|title=Past Events — Metro-land Heritage Vehicle Outing|date=11 September 2011|accessdate=27 February 2012|publisher=[[:en:London Transport Museum]]}}</ref> |
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1908年にロバート・セルビー{{#tag:ref|ロバート・ホープ・セルビー [[大英帝国勲章|CBE]](1868年 - 1930年)はマンチェスターのマンチェスター[[グラマースクール]]、そして[[マンチェスター大学|オーウェンズ・カレッジ]]で教育を受け、1883年に{{仮リンク|ランカシャー・アンド・ヨークシャー鉄道|en|Lancashire and Yorkshire Railway}}に入り、ゼネラルマネージャーの秘書や主任運行管理者の助手を務めた。彼は1903年からメトロポリタン鉄道で秘書を務め、1908年からゼネラルマネージャーを務め、1919年にメトロポリタン鉄道不動産の取締役に任命され、1922年にはメトロポリタン鉄道の取締役になった。彼の大英帝国勲章は第一次世界大戦における商務省や道路交通委員会、陸軍資料委員会での活動に対して与えられた。彼は1930年にセント・ポール教会において息子の[[堅信]]の儀式に参加しているときに亡くなった{{sfn|Jackson|1986|pp=194, 346}}。|group="note"}}がゼネラルマネージャーに任命され、1930年までこの地位を保った{{sfn|Foxell|1996|p=51}}。1909年に延長された路線からシティまでの限定的な直通運転が再開された。ベイカー・ストリート駅は2つの島式ホームと4線の構造に1912年に改築された{{sfn|Horne|2003|p=34}}。輸送量の増加に対応するために、ハーローより南の路線は複々線化され、まず1913年にフィンチリー・ロードからキルバーンまで、そして1915年にはウェンブリー・パークまでが複々線となった{{sfn|Bruce|1983|p=55}}。しかしフィンチリー・ロードとベイカー・ストリートの間の地下線は複線のままで残り、ボトルネックとなった{{sfn|Green|1987|p=44}}。 |
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===電車=== |
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{{main|:en:Metropolitan Railway electric multiple units}} |
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合併したメトロポリタン鉄道の最初の[[電車]]の発注は1902年に50両の付随車と20両の電動車で、ウェスティングハウス・エレクトリックの電気機器を装備した6両編成で運転された。車体は両端に開放式乗車ゲートを備えた開放式客室で製造され、オフピーク時には3両編成で運転された。6両編成の電車20本はThomson-Houston の電気装備(BTH)を備え、メトロポリタン鉄道とグレート・ウェスタン鉄道が運転していた[[ハマースミス&シティ線]]向けに発注された。1904年にはさらに36両の電動車と62両の付随車を追加で発注し、これはさらに20両の電動車と40両の付随車のオプションがあった。電動車には4台の{{convert|150|hp|kW|abbr=on}}モーターを備え、これらは6両編成(うち電動車は2両)またはオフピーク時には3両編成(うち電動車は1両)で運転された。ウェスティングハウスの装備(BWE)の問題は、オプションにより強力なモーターを備えたThomson-Houstonの装備(BTH)を指定したことを意味した。{{sfn|Bruce|1983|pp=37–39}}1918年までに、これらのより強力なモーターを積んだ電車は3両の付随車と連結されてサークル線に投入された。{{sfn|Bruce|1983|p=41}}開放式の車端は運転上の問題と見られ、1906年から車両はデッキ付きに改造された。{{sfn|Bruce|1983|p=37}} |
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車両の昇降口が両端にしかなかったのは混雑するサークル線で問題となり、1911年から車体中央にスライド式のドアが取り付けられた。{{sfn|Bruce|1983|p=39}} |
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==== ロンドン地下鉄 ==== |
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1906年から、いくつかのAshburyボギー客車が運転台と制御装備を取り付けられて電車に改造された。{{sfn|Green|1987|p=26}}1910年に2両の電動車が両端に運転室を取り付け改造された。これらは1918年にAddison Roadシャトルに異動される前にUxbridgeシャトル運転で運行された。1925年から1934年まで、これらの電車はWatfordとRickmansworthの間を走っていた。{{sfn|Bruce|1983|p=66}} |
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[[ファイル:Tube map 1908-2.jpg|left|thumb|300px|1908年発行の地下鉄(U<small>NDERGROUN</small>D)共通の路線図、メトロポリタン鉄道は赤線で示されている]] |
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ロンドンの地下鉄の利用を促進するために、共同でのマーケティング協定に合意された。1908年にメトロポリタン鉄道はこの枠組みに参加し、路線図や共同での宣伝、通しの乗車券などに取り組んだ。ロンドンの中心部では、駅の外部にU<small>NDERGROUN</small>Dの表示が掲出された。最終的にはロンドン地下電気鉄道がメトロポリタン鉄道とウォータールー・アンド・シティ鉄道以外のすべての地下鉄を傘下におさめ、赤い円形に青い棒を備えた駅名標を導入した。メトロポリタン鉄道はこれに対して、赤い菱形に青い棒を示した駅名標を導入して対応した{{sfn|Horne|2003|p=51}}。しかし、セントラル・ロンドン鉄道が事前の打ち合わせなしに、競合するメトロポリタン鉄道の路線よりかなり安く定期券の値段を設定したことから、セルビーは1911年にゼネラルマネージャーの会議から引き揚げ、会議を通じたさらなる協同は行き詰ることになった{{sfn|Jackson|1986|p=218}}。地下鉄グループとの合併提案はセルビーにより拒否され、1912年11月のプレスリリースで、メトロポリタン鉄道はロンドン郊外の地域と、本線鉄道との関係およびその貨物事業に関心があると表明した{{sfn|Jackson|1986|p=219}}。 |
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==== イースト・ロンドン鉄道 ==== |
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1913年には23両の電動車と20両の付随車を発注し、開放型客室の両端と中央にスライドドアを備えたものであった。これらはサークル線で運用されはじめ、イーストロンドン鉄道経由New Crossまでの新しい電化区間が含まれる。{{sfn|Bruce|1983|p=64}}1921年の後、20両の電動車と33両の付随車、そして6両の1等車が両側に二重スライドドアの付いた3ペアで受領され、サークル線に導入された。{{sfn|Bruce|1983|p=71}} |
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1906年にメトロポリタン鉄道とディストリクト鉄道がイースト・ロンドン鉄道への直通を打ち切って以来、イースト・ロンドン鉄道での運行はサウス・イースタン鉄道、{{仮リンク|ロンドン・ブライトン・アンド・サウス・コースト鉄道|en|London, Brighton and South Coast Railway}}、グレート・イースタン鉄道によって行われていた。メトロポリタン鉄道もディストリクト鉄道も、この路線を電化したいと思っていたが、電化の費用を正当化することができずにいた。議論は続けられ、1911年にイースト・ロンドン鉄道は、ロンドン地下電気鉄道からの供給電力とメトロポリタン鉄道による列車運行で電化されることに合意された。議会承認は1912年に得られ、直通運転は1913年3月31日に再開された。メトロポリタン鉄道は、サウス・イースタン鉄道のニュー・クロス駅およびロンドン・ブライトン・アンド・サウス・コースト鉄道のニュー・クロス駅の双方からサウス・ケンジントン駅まで1時間に2本の列車を走らせ、また1時間に8本のシャトル列車を双方のニュー・クロス駅から交互に{{仮リンク|ショアディッチ駅|en|Shoreditch tube station}}まで運行した{{sfn|Jackson|1986|pp=223–224}}{{sfn|Rose|2007}}。 |
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==== グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道 ==== |
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[[File:Neasden metropolitan line station geograph-2384536-by-Ben-Brooksbank.jpg|thumb|left|250px|NeasdenのT stock電車|alt=A black and white image of an electric multiple unit on the furthest of four tracks.]] |
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グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道は、グレート・ノーザン鉄道からの列車を[[フィンズベリー・パーク駅]]からシティ・オブ・ロンドンのムーアゲート駅へ直接乗り入れられるようにするために計画された。トンネルは本線の列車が通れるように内径16フィート(約4.9 m)で建設され、セントラル・ロンドン鉄道の内径12フィート(約3.7 m)と対照をなしていた。グレート・ノーザン鉄道は最終的にこの計画に反対することになり、本線のフィンズベリー・パーク駅の地下のトンネル内を北のターミナルとして1904年に開通した{{sfn|Green|1987|pp=23–24}}。 |
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グレート・ノーザン鉄道が、シティ・ワイドンド線を経由してムーアゲート駅まで運転している列車を代わりにグレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道経由で運転するのではないかと懸念して、メトロポリタン鉄道はこの地下線の買収を試みた。1912年から1913年にかけて買収と、グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道をムーアゲート駅とリバプール・ストリート駅の間でインナー・サークル線に、そしてまた[[ウォータールー&シティー線]]に接続するように延長する法案が提出された。買収は認可されたが、シティの不動産所有者の反対のために路線の延長工事は法律から除かれてしまった。翌年、メトロポリタン鉄道とグレート・ノーザン鉄道が共同で、グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道とグレート・ノーザン鉄道をフィンスベリー・パーク駅で接続するように修正した法案を提出した。しかし今回は{{仮リンク|ノース・ロンドン鉄道|en|North London Railway}}に反対されて、この法案は撤回された{{sfn|Jackson|1986|pp=220–221}}。 |
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[[1927年]]から33年にかけて、Metropolitan Carriage and WagonおよびBirmingham Carriage and Wagonによるコンパートメント客室を備えた電車が一括に組み込まれ、ベイカー・ストリートからCity to Watfordまでの電化路線に使用された。最初の発注は電動車だけだった;その半数はウェスティングハウスのブレーキとMetro-Vickersの制御装置、そしてMV153モーターを備えた;これらの電動車はボギー客車の運行を置き換えた。残りの電動車は同じモーターを装備していたが、代わりに真空ブレーキを装備し、1920年から23年のバッチで'MV'ユニットとして電車に改造されたDreadnoughtsと協力して運用された。[[1929年]]に'MW'電車が発注され、30両の電動客車と25両の付随車は'MV'ユニットに似ていたが、ウェスティングハウスのブレーキを装備していた。1931年により一層の'MW'電車の一括発注があり、この時はBirmingham Railway Carriage & Wagon Companyから受領された。これらは9 × 8-客室に組成され、前の'MW'電車を8両編成にする為に追加された付随車が含まれる。これらの電車はGEC WT545モーターを備え、MV153を使用して複数で動作するように設計されていたが、これは実際にはうまくいかなかった。後にメトロポリタン鉄道はロンドン地下鉄の一部となり、MV電車はウェスティングハウスのブレーキを装備し、GECモーターを装備した電車はMV153モーターを装備した電車と協調するように再調整された。[[1938年]]に9 × 8-客室と10 × 6- |
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=== 戦争とメトロランド 1914年 - 1932年 === |
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客室のMWユニットが[[:en:London Underground T Stock]]に再指定された。{{sfn|Bruce|1983|pp=72–74}}[[:en:Spa Valley Railway]]はT-Stock客車を自社の車両に使用した。<ref>{{cite web|url=http://www.spavalleyrailway.co.uk/SpaT-Stock_04.htm|title=Metropolitan Railway T-Stock|work=Spa Valley Railway|date=3 November 2009|accessdate=16 January 2012}}</ref> |
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==== 第一次世界大戦 ==== |
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1914年7月28日に[[第一次世界大戦]]が勃発し、1914年8月5日に{{仮リンク|鉄道運営委員会|en|Railway Executive Committee}}を通じてメトロポリタン鉄道は政府の管理下に置かれた。多くの職員が軍に志願していなくなり、1915年からは女性が出札係や集札係として雇われるようになった{{sfn|Jackson|1986|p=229}}。シティ・ワイドンド線は[[イギリス海峡]]の港と北部へ通じる本線をつなぐ戦略的に重要な路線とみなされ、兵員や貨物の輸送に用いられた。戦争の4年間でこの路線に26,047本の軍用列車が運転され、合計254,000トンにおよぶ物資が輸送されたが{{sfn|Jackson|1986|p=231}}、急カーブがあったため負傷兵を乗せて帰ってくる救急列車はこの路線を使うことができなかった{{sfn|Jackson|1986|p=232}}。政府管理は1921年8月15日に終了した{{sfn|Jackson|1986|p=229}}。 |
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==脚注== |
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{{Reflist|group=note}} |
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==== メトロランドの開発 ==== |
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==出典== |
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[[ファイル:Metro-Land (1921).png|thumb|1921年に発行されたメトロランドガイドの表紙]] |
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{{Reflist|2}} |
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余剰の土地は処分するように求められていた他の鉄道会社とは異なり、メトロポリタン鉄道は法律の条項により、将来の鉄道用途に必要であると考える土地を保持する特権を持っていた{{#tag:ref|1845年土地条項合同法では、鉄道路線を許可した法律で定めた完成期限から10年以内に余分の土地を売却することを定めていた{{sfn|Jackson|1986|p=134}}。|group="note"}}。当初は余剰の土地は、メトロポリタン鉄道の取締役が構成する土地委員会によって管理されていた{{sfn|Jackson|1986|pp=134, 137}}。1880年代にメトロポリタン鉄道がスイス・コテージ駅より先に路線を延長し、ニーズデンに労働者住宅が建設していたのと同時期に{{sfn|Jackson|1986|pp=82–83}}、ウィルズデン・パークの土地に道路や下水が整備され、土地は建設者に売却された。同様の開発はピナー近辺のセシル・パークでも行われ、ウェンブリーにおける塔の失敗後、ウェンブリー・パークの土地区画も売却された{{sfn|Jackson|1986|pp=140–142}}{{#tag:ref|ニーズデンと同様に、セシル・パーク<ref>{{cite news|url=http://www.telegraph.co.uk/culture/culturenews/5829326/Suburbia-that-inspired-Sir-John-Betjeman-to-get-heritage-protection.html|title=Suburbia that inspired Sir John Betjeman to get heritage protection|work=[[デイリー・テレグラフ]]|date=2009-07-15|accessdate=2012-05-19|author=Adams, Stephen}}</ref>とウィルズデン<ref>{{cite web|url=http://www.brent.gov.uk/tps.nsf/Conservation%20area%20pages/LBB-349|title=Willesden Green Conservation Area|work=Brent Council|date=2010-09-19|accessdate=2012-05-19}}</ref>はともに保護地域となっている。|group="note"}}。 |
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1912年に当時ゼネラルマネージャーであったセルビーは、専門技術が必要であると考えて、余剰土地委員会から土地を買収して鉄道周辺の不動産を開発する会社を設立する指示をした{{sfn|Jackson|1986|p=240}}。しかし、第一次世界大戦のためにこの計画は遅れ、1919年に住宅ブームを期待して{{sfn|Green|1987|p=43}}メトロポリタン鉄道地方不動産会社({{Lang|en|Metropolitan Railway Country Estates Limited}}、MRCE)が設立された。議会がメトロポリタン鉄道の特別な地位を再考することを懸念して、会社は法的な助言を求めた。助言によれば、メトロポリタン鉄道は土地を保有する権利を持ってはいたが、それを開発する権利は無いとされ、そのために1人を除くすべての取締役が鉄道会社の取締役なのではあるが、独立した会社が設立された{{sfn|Jackson|1986|pp=241–242}}。MRCEはニーズデン近郊のキングズベリー・ガーデン・ビレッジやウェンブリー・パーク、セシル・パークやピナーのグレンジ・エステート、リックマンズワースのシダーズ・エステートなどの開発を行い、{{仮リンク|ハーロー・ガーデン・ビレッジ|en|Harrow Garden Village}}のような場所を造成した{{sfn|Green|1987|p=43}}{{sfn|Jackson|1986|pp=241–242}}。 |
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==書誌情報== |
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* {{cite book |title=Metropolitan Electric Locomotives |first=K.R. |last=Benest |year=1984 |edition=2nd |origyear=1963 |publisher=London Underground Railway Society |location=Hemel Hempstead |isbn=0950879312|ref=harv }} |
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* {{cite book|last=Bruce|first=J Graeme|year=1983|title=Steam to Silver|publisher=Capital Transport|isbn=0904711455|ref=harv}} |
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* {{cite book |last=Day |first=John R. |title=The Story of London's Underground |edition=6th |year=1979 |origyear=1963 |publisher=[[London Transport Executive (GLC)|London Transport]] |location=Westminster |isbn=0853290946 |id=1178/211RP/5M(A) |ref=harv }} |
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* {{cite book|last1=Edwards|first1=Dennis|last2=Pigram|first2=Ron|year=1988|publisher=Bloomsbury Books|title=The Golden Years of the Metropolitan Railway|isbn=1870630114|ref=harv}} |
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* {{cite book|last=Foxell|first=Clive|title=Chesham Shuttle|edition=2|year=1996|publisher=Clive Foxell|location=Chesham|isbn=0952918404|ref=harv}} |
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* {{cite book|last=Green|first= Oliver|year=1987|title=The London Underground — An illustrated history|publisher= Ian Allan|isbn=0711017204|ref=harv}} |
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* {{cite book|last=Halliday|first=Stephen|title=Underground to Everywhere|year=2001|publisher=Sutton Publishing|location=Stroud|isbn=0750938439 |ref=harv}} |
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* {{cite book|last=Horne|first=Mike|title=The Metropolitan Line|year=2003|publisher=Capital Transport|isbn=1854142755|ref=harv}} |
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* {{cite book |last=Rose |first=Douglas |title=The London Underground: A Diagrammatic History |edition=8th |year=2007 |month=December |origyear=1980 |publisher=Capital Transport |location=Harrow Weald |isbn=9781854143150 |ref=harv}} |
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* {{cite book|title=The English landscape in the twentieth century|last=Rowley|first=Trevor |year=2006 |publisher=Hambledon Continuum |isbn=1852853883|ref=harv }} |
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* {{cite book|last=Simpson|first=Bill|title=A History of the Metropolitan Railway|publisher=Lamplight Publications|location=Witney|year=2003|volume=1|isbn=189924607X|ref=harv}} |
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* {{cite book|title=New and Old London: Volume 5|first=Edward|last=Walford|year=1878|url=http://www.british-history.ac.uk/report.aspx?compid=45233 |ref=harv }} |
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* {{cite book|last=Wolmar|first=Christian|year=2004|title=The Subterranean Railway : how the London Underground was built and how it changed the city forever|publisher=Atlantic|isbn=1843540231|ref=harv}} |
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* {{cite book |title=The Reorganisation of British Railways: The Railways Act, 1921 |edition=3rd |year=1922 |publisher=[[Gray's Inn|Gray's Inn Press]] |location=London |ref=harv |author=Railway Clerks' Association }} |
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メトロランドという言葉は、1915年に「延長路線の案内」({{Lang|en|Guide to the Extention Line}}) という冊子が「メトロランドガイド」({{Lang|en|Metro-land guide}}) に改称して1ペニーで販売されるようになった際に、メトロポリタン鉄道のマーケティング部門が造語したものである。この冊子により、メトロポリタン鉄道が販売する土地を訪問者や後には家を探す人に対して宣伝した{{sfn|Jackson|1986|p=240}}。メトロポリタン鉄道が独立して存続した最後の年であった1932年まで毎年発行され、「チルターンの素晴らしい空気」を「メトロランドを愛好する人には、各々の好む森のブナの木や雑木林があるかもしれません。春にはすべてが緑に、10月にはあずき色におののく素晴らしさがあります」といった言葉を使って宣伝した{{sfn|Rowley|2006|pp=206, 207}}。宣伝された夢は、ロンドン都心部への高速な鉄道の便がある美しい郊外に建つ近代的な住宅であった{{sfn|Green|2004|loc=introduction}}。 |
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==参考文献== |
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* {{cite book |last=Foxell |first=Clive |year=2010 |title=The Metropolitan Line |publisher=History Press |isbn=978-0-7524-5396-5 }} |
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* {{cite book|last=Simpson|first=Bill|title=A History of the Metropolitan Railway|publisher=Lamplight Publications|location=Witney|year=2004|volume=2|isbn=1899246088|ref=harv}} |
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* {{cite book|last=Simpson|first=Bill|title=A History of the Metropolitan Railway|publisher=Lamplight Publications|location=Witney|year=2005|volume=3|isbn=1899246134|ref=harv}} |
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1914年頃から会社は自身を「ザ・メット」({{Lang|en|The Met}}) という名で宣伝したが、1920年以降の宣伝担当管理者となったジョン・ワードルは、時刻表やその他の宣伝品に代わりに「メトロ」({{Lang|en|Metro}}) という言葉を使うようにした<ref>{{harvnb|Jackson|1986|pp=195, 325}}、{{harvnb|Simpson|2003|p=70}}に採録されている宣伝材料も参照</ref>{{#tag:ref|ワードルはユーストン・スクエア駅の新しい駅名標にユーストン・スクエア・メトロとするように希望していたが、セルビーによって覆されて、メトロポリタン鉄道とフルスペルで書かれた{{sfn|Jackson|1986|p=352}}。|group="note"}}。土地の開発はロンドン都心部でも行われ、1929年には大きくて豪華な集合住宅「チルターン・コート」がベイカー・ストリートに開設された{{sfn|Green|2004|loc=introduction}}{{#tag:ref|チルターン・コートはロンドンでも高い評判を得られる場所となった。小説家の[[アーノルド・ベネット]]や[[ハーバート・ジョージ・ウェルズ]]などが居住した{{sfn|Foxell|1996|p=54}}。ウェルズを記念する[[ブルー・プラーク]]が2002年5月8日に建物に取り付けられている{{sfn|Horne|2003|p=37}}。|group="note"}}。設計はメトロポリタン鉄道の建築家、チャールズ・W・クラークで、当時彼はメトロランド周辺の多くの駅の改築の設計に責任を持っていた{{sfn|Green|1987|p=44}}。 |
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==外部リンク== |
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{{commons|Metropolitan Railway}} |
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==== インフラストラクチャーの改良 ==== |
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* [http://www.ltmcollection.org/films/film/film.html?IXfilm=FLO.0002&_IXSESSION_=sOFelBIFPuv A silent film ''A trip on the Metropolitan Railway'', circa 1910] London Transport Museum |
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郊外への旅客輸送を改善するために、1920年に強力で75マイル毎時(約121 [[キロメートル毎時|km/h]])の{{仮リンク|メトロポリタン鉄道H型蒸気機関車|en|Metropolitan Railway H Class|label=H型}}が導入され{{sfn|Foxell|1996|p=55}}、続いて1922年から1923年にかけて最高速度65マイル毎時(約105 km/h)の新型電気機関車が導入された{{sfn|Benest|1984|p=48}}。ニーズデンの発電所の発電能力はおよそ35メガワットへ増強され{{sfn|Horne|2003|p=42}}、1925年1月5日にリックマンズワースまで電化が延伸されて、機関車交換地点がそこまで伸ばされた{{sfn|Green|1987|p=44}}。 |
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1924年から1925年にかけて、{{仮リンク|大英帝国博覧会|en|British Empire Exhibition}}がウェンブリー・パーク・エステートで開かれ、隣接するウェンブリー・パーク駅に新しい島式ホームと博覧会場へつなぐ屋根つきの橋が建設されて改良された{{sfn|Horne|2003|p=38}}。メトロポリタン鉄道自身も博覧会に出展し、1924年には電車を、1925年にはこれに加えて15号電気機関車を展示し、後にこれは「ウェンブリー1924」と命名された{{sfn|Jackson|1986|p=247}}。ワトキンの塔の跡地にはスポーツ施設の[[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー・スタジアム]]が建設された{{sfn|Horne|2003|p=38}}。スタジアムはこけら落としとして、1923年4月28日に125,000人の観客を集めて[[FAカップ]]決勝が開かれたが、スタジアムの公式収容人数を超える観客が殺到したため混乱したものとなった。1926年に刊行されたメトロランドでは、メトロポリタン鉄道はこの日にウェンブリー・パークへ152,000人の旅客を輸送したと誇っていた{{sfn|Green|2004|loc=introduction}}。 |
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1925年には、リックマンズワースから{{仮リンク|ワトフォード駅|en|Watford tube station}}までの支線が開通した。ワトフォードには1837年以来鉄道駅が存在していたのだが{{sfn|Butt|1995|p=242}}{{#tag:ref|当初の駅から現在の[[ワットフォード・ジャンクション駅|ワトフォード・ジャンクション駅]]の位置に1858年に移転した{{sfn|Butt|1995|p=242}}。|group="note"}}、ワトフォード商人協会が1895年にメトロポリタン鉄道に対して、スタンモア経由でワトフォードまでの路線を建設するという提案を行った。彼らは1904年にも提案を行い、その時は地域の郡議会とともに、より短いリックマンズワースからの支線を提示した{{sfn|Simpson|2003|p=111}}。可能な経路が1906年に調査され、1912年にメトロポリタン鉄道とグレート・セントラル鉄道が合同でリックマンズワースからワトフォードの中心までの路線を、{{仮リンク|カシオベリー公園|en|Cassiobury Park}}を築堤で通過する形で建設するという法案を提出した。しかし築堤には反対があり、駅と貨物扱い設備は公園のすぐ手前に設けられることになった。修正された法案は1912年8月7日に通過し、ワトフォード合同委員会が設立されたが、1914年の第一次世界大戦勃発により建設は遅れることになった。戦争終結後、1921年通商施設法により雇用を促進する投資計画に対して政府が財務的な保証を行うことになり、これを利用して建設は1922年に開始された。この路線の建設中、{{仮リンク|1921年鉄道法|en|Railways Act 1921}}によるグループ化により、1923年にグレート・セントラル鉄道は[[ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道]]となった。延長線と支線が交差する地点には2つの分岐点が設けられ、列車はリックマンズワースに対しても南へロンドンへ向かっても走れるようになっていた。途中駅はクロックスリー・グリーン駅(現在の{{仮リンク|クロックスリー駅|en|Croxley tube station}})のみで、1925年11月3日に運行が開始され、列車はメトロポリタン鉄道の電車によりムーア・パーク駅、ベイカー・ストリート駅経由リバプール・ストリート駅行きと、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道の蒸気機関車列車によりメリルボーン駅行きが運転された{{sfn|Simpson|2003|pp=112–114}}。メトロポリタン鉄道はまた、ワトフォードとリックマンズワースの間のシャトル列車も運行した{{sfn|Jackson|1986|p=254}}。1924年から1925年にかけてハーローの北の平面交差は全長1,200フィート(約370 m)の立体交差に置き換えられ、アクスブリッジ支線への列車と本線への列車を分離した{{sfn|Edwards|Pigram|1988|p=39}}。 |
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[[ファイル:Metropolitan relief line.svg|200px|thumb|left|1925年に作られた、フィンチリー・ロード駅とベイカー・ストリート駅間の線路容量緩和のためのキルバーン・アンド・ブロンデスベリー駅からエッジウェア・ロード駅までの救済路線計画]] |
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当初のメトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道のベイカー・ストリート駅までのトンネルへ入るために、複々線の急行線と緩行線が通常の複線に合流する、フィンチリー・ロード駅のボトルネックはまだ残っていた。1925年に、メトロポリタン鉄道の車両を通せる大きさの2本の新しい地下鉄トンネルを建設するという計画が作られた。この路線はキルバーン・アンド・ブロンデスベリー駅の北の分岐点で分岐し、キルバーン・ハイ・ストリート、マイダ・ベール・アンド・エッジウェア・ロードの下を通ってベイカー・ストリート駅へ行くものであった{{sfn|Horne|2003|p=58}}{{sfn|Simpson|2003|p=58}}。この計画にはクエックス・ロード、キルバーン・パーク・ロード、クリフトン・ロードの3つの新駅が含まれていたが{{sfn|Horne|2003|pp=58–59}}、[[運輸省 (イギリス)|運輸省]]が旅客線に対する要求を改訂して、地下深いトンネルを走行する列車に対しては両端に非常口を設けることを要求したため、計画は進展しなかった。ハーローより北で使用されているコンパートメント式の車両はこの要求を満たさなかったのである{{sfn|Jackson|1986|pp=262–263}}。しかし、エッジウェア・ロード駅はプラットホーム4本に改築され、列車行先表示装置にバーニー・ジャンクションやアクスブリッジなどの駅名が準備された{{sfn|Jackson|1986|pp=271–272}}。 |
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1920年代、オフピークにはウェンブリー・パークからベイカー・ストリートまで4 - 5分おきに列車が運転されていた。ワトフォードとアクスブリッジのそれぞれから、1時間当たり2本の列車がウェンブリー・パークからはノンストップで運転され、レイナーズ・レーン、ウェンブリー・パーク、ニーズデンからの各駅停車もあったが、これらのほとんどはマールバラ・ロードとセント・ジョンズ・ウッド・ロードには停車しなかった。オフピークにはムーア・パーク以北の駅にはメリルボーンからの列車が停車した。ピーク時には、2.5分から3分おきにベイカー・ストリート駅に列車が到着し、半分はムーアゲート、リバプール・ストリート、アルドゲートへ直通した{{sfn|Horne|2003|p=47}}。インナー・サークル線では、ハマースミスからの列車はベイカー・ストリートを6分おきに通過する一方、ケンジントン(アディソン・ロード)からの列車はエッジウェア・ロードで打ち切られた{{sfn|Jackson|1986|p=272}}。サークル線において1時間に10本の列車頻度を保つのは困難であるとわかったため、ディストリクト鉄道がプットニーとケンジントン・ハイ・ストリートの間で運転していた列車をサークル線のエッジウェア・ロードまで新しいプラットホームを利用することで延長し、メトロポリタン鉄道はインナー・サークル線の列車を1時間に8本運転することになった{{sfn|Horne|2006|p=55}}{{#tag:ref|ディストリクト鉄道は、乗務員を路線に慣れさせておくために、日曜日に4本の列車を運転し続けた{{sfn|Horne|2006|p=55}}。|group="note"}}。 |
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{{仮リンク|キャノンズ・パーク|en|Canons Park}}での新しい住宅開発への便を提供するために、ウェンブリー・パーク、からスタンモアまでの支線の建設が1929年に始まった{{sfn|Horne|2003|p=42}}。途中駅は{{仮リンク|キングズベリー駅|en|Kingsbury tube station}}、キャノンズ・パーク(エッジウェア)駅(1933年に{{仮リンク|キャノンズ・パーク駅|en|Canons Park tube station}}に改称)、[[スタンモア駅]]であった{{sfn|Rose|2007}}。今回もまた政府は、今度は開発融資保証・供与法の下に財務保証を与え、この計画でまたウェンブリー・パーク、からハーローまでが複々線化された。この路線は当初から電化されており、またウェンブリー・パークの信号扱所から制御される自動色灯式信号機を備えており、1932年12月9日に開業した{{sfn|Horne|2003|p=42}}{{sfn|Simpson|2003|pp=105–106}}。 |
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=== ロンドン旅客輸送委員会 1933年 === |
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ロンドン地下電気鉄道と異なり、メトロポリタン鉄道は沿線のメトロランドでの住宅開発から直接収益を得ており{{sfn|Green|1987|p=43}}、その設立以来株主に対して配当を支払い続けていた{{sfn|Jackson|1986|p=327}}。当初の会計は信頼できないものの、19世紀末までには約5パーセントの配当を支払っていた。この数値は1900年以降、路面電車やセントラル・ロンドン鉄道が旅客を奪っていったため降下し始め{{sfn|Jackson|1986|p=160}}、1907年から1908年にかけては0.5パーセントまで低下した。電化後旅客が戻ってきたため1911年から1913年にかけては2パーセントに戻り、1914年の第一次世界大戦の勃発で1パーセントに減った{{sfn|Jackson|1986|p=327}}。1921年までには十分回復して2.25パーセントの配当を支払えるようになり、その後戦後の住宅ブームにより着実に上昇して1924年から1925年にかけては5パーセントに達した。{{仮リンク|1926年イギリスゼネラルストライキ|en|1926 United Kingdom general strike}}により3パーセントに減少したが、1929年には4パーセントに回復した{{sfn|Jackson|1986|p=327}}{{sfn|Green|1987|p=43}}。 |
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1913年にメトロポリタン鉄道は、ロンドン地下電気鉄道からの合併提案を拒絶し、ロバート・セルビーのリーダーシップの下頑固に独立を保ち続けていた{{sfn|Green|1987|p=43}}。1921年8月19日に成立した1921年鉄道法では、ロンドンの地下鉄道会社はグループ化されるべき会社に含まれなかったが、法案の段階ではメトロポリタン鉄道も含まれていた{{sfn|Railway Clerks' Association|1922|p=11}}。1930年に、ロンドンの公共交通を統合するという提案が出された際には、メトロポリタン鉄道は貨物営業をしているので、本線の4大グループ鉄道会社と同じ地位であってロンドン地下電気鉄道とは性格が違うと主張したが、政府はメトロポリタン鉄道がディストリクト鉄道と共同でインナー・サークル線を運営していたことから、同じようなものとみなしていた。主に小さな独立バス事業をうまく協調させることを目的としていた{{sfn|Green|1987|p=46}}ロンドン旅客輸送法が1931年3月13日に提出されたのち、メトロポリタン鉄道はこれに対して11,000ポンドを費やして反対した{{sfn|Jackson|1986|p=289}}。法案は1931年に政府による改定を加えられながらも残り、新政権がサークル線への走行用電力の供給を手放すならばメトロポリタン鉄道は独立を維持できるという提案を行ったが、メトロポリタン鉄道はこれに反応を示さなかった。経営者はここで株主への補償交渉に転じた{{sfn|Jackson|1986|pp=290–291}}。この時点ですでにバスとの競争や[[世界恐慌]]により旅客数が減少し始めていたのである{{sfn|Jackson|1986|p=302}}。1年を通して運営した最後の年である1932年には、1.625パーセントの配当が払われた{{sfn|Jackson|1986|p=327}}。1933年7月1日にロンドン旅客輸送委員会が公社として発足し、メトロポリタン鉄道は他の地下鉄道会社、路面電車会社、バス事業者とともに吸収合併された。メトロポリタン鉄道の株主はロンドン旅客輸送委員会の株式の形で1970万ポンドを受け取った{{sfn|Jackson|1986|p=305}}{{#tag:ref|これは720万ポンド相当の4.5パーセントA株、200万ポンド相当の5パーセントA株、530万ポンド相当の5パーセントB株、510万ポンド相当のC株からなっていた{{sfn|Jackson|1986|p=305}}。|group="note"}}。 |
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=== 移管後 === |
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メトロポリタン鉄道はロンドン地下鉄のメトロポリタン線となり、郊外の一部の路線は廃止となった。ブリル支線は1935年に、続いてクエイントン・ロード - バーニー・ジャンクション間は1936年に廃止となった。[[ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道]]が蒸気機関車による列車運行と貨物運行を引き継いだ。1936年にメトロポリタン線の列車がディストリクト線によりホワイトチャペル駅から[[バーキング駅]]まで延長された。{{仮リンク|ニュー・ワークス・プログラム|en|New Works Programme}}により1939年に[[ベーカールー線]]がベイカー・ストリート駅から新しい2本のトンネルでフィンチリー・ロード駅まで通じ、さらにウェンブリー・パーク駅までの途中駅とスタンモア支線を引き継いだ{{sfn|Green|1987|pp=47, 51}}。この支線は後に、[[ジュビリー線]]が1979年に開通した際にジュビリー線に移管された{{sfn|Rose|2007}}。グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道は孤立路線として残り、[[ノーザン線]]として運行されたが、1976年に[[イギリス国鉄]]に引き継がれた。 |
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蒸気機関車は1960年代初期までリックマンズワースの北で使用されたが、アマーシャムまでの路線が電化されて電車が導入され、ロンドン交通局はアマーシャム以北の運行からは撤退したことで蒸気機関車はなくなった{{sfn|Green|1987|p=56}}。1988年にハマースミスからアルドゲートとバーキングまでの区間はハマースミス&シティー線となり、ニュー・クロスからショアディッチまでは[[イーストロンドン線]]となって、アルドゲートからベイカー・ストリートまで、そしてそこから北へハーローを通る線がメトロポリタン線として残った。 |
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1933年の統合後、メトロランドというブランドは急速に使われなくなった{{sfn|Green|2004|loc=introduction}}。20世紀半ばころには、メトロランドの精神は1954年に発行された詩集「何本かの晩菊」に収録された{{仮リンク|ジョン・ベチェマン|en|John Betjeman}}の詩「メトロポリタン鉄道」などで記憶され<ref>{{cite book|first=John|last=Betjeman|year=1954|title=A Few Late Chrysanthemums|publisher=John Murray|asin=B0000CIW48}}</ref>、後に1973年2月26日に初めて放送されたテレビドキュメンタリー「{{仮リンク|メトロランド (テレビ映画)|en|Metro-Land (TV film)|label=メトロランド}}」でさらに広く知られるようになった<ref>{{cite web|url=http://www.screenonline.org.uk/tv/id/1259604/|title=Metro-Land (1973)|work=Screenonline|publisher=British Film Institute|accessdate=2013-02-12}}</ref>。メトロランドの郊外は、1980年に初めて発行された[[ジュリアン・バーンズ]]の[[教養小説]]「{{仮リンク|メトロランド (小説)|en|Metroland (novel)|label=メトロランド}}」の舞台となった<ref>{{cite book|title=Metroland|last=Barnes|first=Julian|publisher=Vintage|year=2009|isbn=978-0-09-954006-9|location=p. 5, back page}}</ref>。この小説に基づくやはり{{仮リンク|メトロランド (映画)|en|Metroland (film)|label=メトロランド}}という映画は1997年に公開された<ref>{{cite book|title=RadioTimes Guide to Films 2010|publisher=BBC Worldwide|year=2009|page=754|isbn=978-0-9555886-2-4}}</ref>。 |
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== 貨物輸送 == |
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1880年までメトロポリタン鉄道は自社では貨物列車を運行しておらず、1866年2月20日からグレート・ノーザン鉄道がファリンドン・ストリート駅を経由してロンドン・チャタム・アンド・ドーバー鉄道までの貨物列車をメトロポリタン鉄道の線路を使用して運転を開始した。続いてミッドランド鉄道からの貨物列車も1868年7月に運行を開始した。グレート・ノーザン鉄道、グレート・ウェスタン鉄道、ミッドランド鉄道ともファリンドン地区に貨物扱い設備を開設し、シティ・ワイドンド線からこの施設に通じるようになっていた。しかし、メトロポリタン鉄道がベイカー・ストリート駅から外へ向けて路線を拡張していくと、貨物列車が重要なものとなっていった。1880年にメトロポリタン鉄道はハーロー・ディトリクトガス会社から石炭輸送を獲得し、フィンチリー・ロード駅に設けたミッドランド鉄道との受け渡し側線からハーローの石炭ヤードまでの輸送を行った。延長路線が建設される際には、ほとんどの駅に貨物扱い設備と石炭基地が併設された{{sfn|Jackson|1986|pp=48, 333, 365}}。ロンドン向けの貨物は当初はウィルズデンで取り扱われ、そこから道路で配送されるか{{sfn|Horne|2003|p=49}}ミッドランド鉄道に受け渡された{{sfn|Jackson|1986|p=365}}。グレート・セントラル鉄道が建設されたことで、北はクエイントン・ロードで、そして南へはニーズデン経由でアクトンやキューへと接続された{{sfn|Jackson|1986|pp=366, 368}}。 |
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[[ファイル:Metropolitan Railway Vine Street depot.jpg|left|thumb|ヴァイン・ストリート貨物扱い施設への入口、1910年代]] |
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1909年にメトロポリタン鉄道はファリンドン近くに、貨車7両分の延長の側線2本を備えるヴァイン・ストリート貨物扱い施設を開設し、ウェスト・ハンプステッドから定期列車を運行した{{#tag:ref|他社の貨物扱い設備は既にファリンドン近くのワイドンド線に開設されていた。グレート・ウェスタン鉄道が運行するスミスフィールド・マーケットの側線は1869年5月1日に開設された。グレート・ノーザン鉄道は1874年11月2日に自社の施設を開設し、ミッドランド鉄道もホワイトクロス貨物扱い施設を1878年1月1日に開設した{{sfn|Jackson|1986|pp=333, 365–367}}。|group="note"}}。貨物列車は電気機関車で牽引され、最大14両の貨車をつなぎ、重量は都心へ向かう時は250ロングトン(約254メートルトン)に、郊外へ向かう時は225ロングトン(約229メートルトン)に制限されていた。1910年にはこの貨物扱い施設では11,400ロングトン(約11,600メートルトン)を扱い、1915年には25,100ロングトン(約25,500メートルトン)に増加した{{sfn|Jackson|1986|pp=366–367}}。1913年にはこの貨物扱い施設は容量の限界を超えていると報告されていたが、第一次世界大戦後自動車輸送が重要な競合者となり、1920年代末までには輸送量は管理可能なレベルまで減少した{{sfn|Jackson|1986|p=367}}。 |
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蒸気機関車と、ニーズデンにある会社の火力発電所、そして地域のガス工場向けの石炭は、クエイントン・ロード駅経由で運び込まれていた。牛乳はヴェール・オブ・エイルズベリーからロンドン郊外へ輸送され、食料品はヴァイン・ストリートからアクスブリッジにある大規模小売商アルフレッド・バトン・アンド・サンへと輸送された。{{仮リンク|ビリングスゲート魚市場|en|Billingsgate Fish Market}}へメトロポリタン鉄道とディストリクト鉄道の合同駅モニュメント駅を経由して運ばれる魚は、駅入口を「言葉で表せないくらい不潔な状況」にするとして苦情を受けることになった。ディストリクト鉄道は魚専用の出入口を設けることを示唆したが、そうした措置が実際に講じられることは無かった。グレート・セントラル鉄道がメリルボーンまでの自動車輸送を導入したことで輸送量はかなり減少したが、この問題は1936年まで残り、ロンドン旅客輸送委員会がインナー・サークル線の列車での小荷物輸送を廃止する1つの原因にも挙げられた{{sfn|Jackson|1986|pp=369–370}}。 |
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当初は道路輸送での配達業務は契約業者が使用されていたが、1919年からメトロポリタン鉄道は自社で配送業務を行うようになった{{sfn|Horne|2003|p=49}}。ロンドン地下鉄の一部となる前の1932年には、会社は544両の貨物車両を有し、162,764ロングトン(約165,376メートルトン)の石炭、2,478,212ロングトン(約2,517,980メートルトン)の原料、1,015,501ロングトン(約1,031,797メートルトン)の貨物を輸送した{{sfn|Edwards|Pigram|1988|p=58}}。 |
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== 鉄道車両 == |
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=== 蒸気機関車 === |
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[[ファイル:Metropolitan Railway 2-6-4T locomotive (CJ Allen, Steel Highway, 1928).jpg|thumb|1925年に貨物列車牽引用にメトロポリタン鉄道に6両が導入された車軸配置2-6-4のK型蒸気機関車]] |
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地下トンネル内での排気問題への懸念から、蒸気機関車の新しい設計が生み出されることになった。路線が開通する前の1861年に、{{仮リンク|ファウラーズ・ゴースト|en|Fowler's Ghost}}とニックネームを付けられた実験機関車により試験が行われた。これは不成功に終わり、最初の営業列車はグレート・ウェスタン鉄道の[[広軌]]の[[復水式蒸気機関車]]である{{仮リンク|グレート・ウェスタン鉄道メトロポリタン型蒸気機関車|en|GWR Metropolitan Class}}により牽引された。これは[[ダニエル・グーチ]]が設計した車軸配置2-4-0の[[タンク機関車]]であった。さらにメトロポリタン鉄道が自身の車軸配置4-4-0のタンク機関車を導入するまで、標準軌のグレート・ノーザン鉄道の蒸気機関車が用いられた{{sfn|Green|1987|pp=5–6}}。これらの機関車はマンチェスターの[[ベイヤー・ピーコック]]製であった。設計はしばしばメトロポリタン鉄道の技術者ジョン・ファウラーのものだとされるが、しかし実際には機関車はベイヤー・ピーコックがスペインのトゥデラ・ビルバオ鉄道向けに製造した機関車の発展形であり、ファウラーは単に動輪の直径、軸重と曲線への対応性能を指示しただけであった{{sfn|Goudie|1990|p=11}}。1864年に18両が発注され、当初は個別に名前が付けられていた{{sfn|Goudie|1990|p=24}}。1870年までに合計40両が製造された。地下での煙を減らすために、当初は[[コークス]]が燃料に用いられ、1869年にウェールズ産[[無煙炭]]に切り替えられた{{sfn|Jackson|1986|pp=117–118}}。 |
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1879年からさらに機関車が必要とされ、設計が更新されて合計24両の新型機関車が1879年から1885年にかけて納入された{{sfn|Goudie|1990|p=12}}。当初はこの機関車は明るいオリーブグリーンに塗られ黒と黄の線が入り、煙突は頂部が銅で造られ、前部には真鍮で作られた数字で機関車番号が示され、蒸気ドームは磨かれた真鍮でできていた。1885年に塗装が変更され、ミッドケアド ({{Lang|en|Midcared}}) として知られる暗い赤になった。これは標準色として残り、ロンドン交通局によって1933年にメトロポリタン線の色と定められた{{sfn|Goudie|1990|pp=69–70}}。1925年にメトロポリタン鉄道が機関車をアルファベットの文字で分類した際に、これらの機関車は[[メトロポリタン鉄道Aクラス蒸気機関車|A型]]およびB型となった{{sfn|Jackson|1986|p=289}}。メトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道の建設中、A型とB型ではこの線の勾配には適さないと考えられ、5両の車軸配置0-6-0のタンク機関車が1868年に納入された。しかし、A型とB型は特に問題なく列車を牽引することができることが判明し、この0-6-0タンク機関車は1873年と1875年に{{仮リンク|タフ・ヴェール鉄道|en|Taff Vale Railway}}に売却された{{sfn|Goudie|1990|pp=25–26}}。 |
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1891年からは、ベイカー・ストリート駅から郊外へ向けての延長路線での運用のためにさらなる機関車が必要とされるようになった。サウス・イースタン鉄道の{{仮リンク|サウス・イースタン鉄道Q型蒸気機関車|en|SER Q class|label=Q型}}の発展形である、車軸配置0-4-4の{{仮リンク|メトロポリタン鉄道C型蒸気機関車|en|Metropolitan Railway C Class|label=C型}}が1891年に4両導入された{{sfn|Green|1987|p=14}}{{sfn|Goudie|1990|pp=25–26}}。1894年に2両の{{仮リンク|メトロポリタン鉄道D型蒸気機関車|en|Metropolitan Railway D Class|label=D型}}がエイルズベリーとバーニー・ジャンクション間での運用のために導入された。これらの機関車は、フィンチリー・ロード駅より南で運用するために必要な復水設備を搭載していなかった{{sfn|Goudie|1990|p=31}}。1896年に車軸配置0-4-4の{{仮リンク|メトロポリタン鉄道E型蒸気機関車|en|Metropolitan Railway E Class|label=E型}}2両が自社のニーズデン工場で製造され、さらに事故で損傷した当初のA型1号機を代替するために1898年に1両が追加された。さらに4両が[[ホーソン・レスリー]]で1900年から1901年にかけて製造された{{sfn|Goudie|1990|pp=32–35}}。延長路線における貨物輸送量増大に対応するために、1901年に車軸配置0-6-2の{{仮リンク|メトロポリタン鉄道F型蒸気機関車|en|Metropolitan Railway F Class|label=F型}}が4両導入された。これは車軸配置が違い[[蒸気暖房]]の設備が無いという点を除けばE型に類似するものであった{{sfn|Goudie|1990|pp=38–39}}。1897年と1899年にメトロポリタン鉄道は2両の車軸配置0-6-0のサドルタンク機関車を、{{仮リンク|ペケット・アンド・サンズ|en|Peckett and Sons}}の標準設計で導入した。これらの機関車は正式には形式分類されず、ニーズデンとハーローにおける[[入換 (鉄道)|入換]]に主に使用された{{sfn|Goudie|1990|pp=36–37}}。 |
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1905年から1906年にかけてロンドン市内の路線網が電化されたことで、多くの機関車が不要となった。1907年までに古いA型、B型の機関車のうち40両が売却されるか解体され、1914年時点ではこれらの形式のうち13両のみが残存しており{{sfn|Goudie|1990|pp=18, 19, 72–74}}、入換、ブリル軌道における事業用・工事用列車などに使用されていた{{sfn|Casserley|1977|p=8}}。旅客用・貨物用ともにさらに強力な機関車が必要とされ、1915年には4両の{{仮リンク|メトロポリタン鉄道G型蒸気機関車|en|Metropolitan Railway G Class|label=G型}}(車軸配置0-6-4)がヨークシャー・エンジンから調達された{{sfn|Goudie|1990|pp=42–47}}。最高速度75マイル毎時(約121 km/h)の{{仮リンク|メトロポリタン鉄道H型蒸気機関車|en|Metropolitan Railway H Class|label=H型}}(車軸配置4-4-4)は、1920年と1921年にかけて8両製造され、主に急行旅客運用に用いられた{{sfn|Goudie|1990|pp=48–55}}。貨物列車をより長くし、高速にして列車本数を減らすために、1925年に6両の貨物用{{仮リンク|メトロポリタン鉄道K型蒸気機関車|en|Metropolitan Railway K Class|label=K型}}(車軸配置2-6-4)が、第一次世界大戦後にウーリッジの{{仮リンク|ロイヤル・アーセナル|en|Royal Arsenal}}が製造した車軸配置2-6-0の蒸気機関車からの改造で導入された。これらの機関車はフィンチリー・ロードより南側で運行することは認められていなかった{{sfn|Goudie|1990|pp=56–59}}。 |
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2両の機関車が保存されている。A型の23号が{{仮リンク|ロンドン交通博物館|en|London Transport Museum}}に<ref>{{cite web|url=http://www.ltmcollection.org/museum/object/link.html?IXinv=1981/535|title=Metropolitan Railway A class 4-4-0T steam locomotive No. 23, 1866|work=ltmcollection.org|accessdate=2012-05-18}}</ref>に、E型の1号が{{仮リンク|バッキンガムシャー鉄道センター|en|Buckinghamshire Railway Centre}}に保存されている<ref>{{cite web|title=Metropolitan Railway E Class 0-4-4T No.1|url=http://www.brc-stockbook.co.uk/Met1.HTM|work=Buckinghamshire Railway Centre|accessdate=2012-02-03}}</ref>。1号はメトロポリタン鉄道の150周年記念イベントで2013年1月に蒸気での走行を行い<ref name="PAST">{{cite web | url=http://www.ltmuseum.co.uk/whats-on/events/past-events/444-past-events-tube-150 | title=Past Events - tube 150 | work=London Transport Museum | accessdate=2013-02-04}}</ref>、2013年2月時点では2013年後半にも操向が予定されている<ref name="VOM">{{cite web|title=Steam and Heritage train outings|url=http://www.ltmuseum.co.uk/whats-on/events/vehicles-on-the-move|work=London Transport Museum|accessdate=2013-02-04}}</ref>。 |
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=== 客車 === |
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メトロポリタン鉄道は当初自社では車両を保有せず開業し、最初はグレート・ウェスタン鉄道が、続いてグレート・ノーザン鉄道が運行を行った。グレート・ウェスタン鉄道は[[チーク]]製の8輪コンパートメント式客車を使用した。1864年にメトロポリタン鉄道は、グレート・ウェスタン鉄道の設計に基づくが標準軌に手直ししたものを、{{仮リンク|アシュベリー鉄道車両・鉄工所|en|Ashbury Railway Carriage and Iron Company Ltd}}製の自社車両として導入した{{sfn|Green|1987|pp=5–6}}{{#tag:ref|{{仮リンク|ケント・アンド・イーストウッド鉄道|en|Kent and East Sussex Railway}}で保存されている車両は、かつては短い4輪のディストリクト鉄道の車両と考えられていたが、現在ではメトロポリタン鉄道の8輪客車を切り詰めたものだと考えられている<ref>{{cite web|url=http://www.cs.vintagecarriagestrust.org/se/CarriageInfo.asp?Ref=1084|title=Metropolitan District Four (eight??) wheel First (body) built 1864|work=Vintage Carriages Trust|accessdate=2012-06-01}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.kesr.org.uk/stock-register/coaching-stock/14-stock/coaches/109-no-100|title=No 100 London Underground Coach|publisher=Kent and East Sussex Railway|work=Coaching Stock Register|accessdate=2012-10-21}}</ref>|group="note"}}。照明はガス灯式で、一等客室には2灯、二等と三等の客室には1灯が灯されていた{{sfn|Edwards|Pigram|1988|p=32}}。1877年から圧力式石油ガスシステムが使用された{{sfn|Jackson|1986|p=44}}。当初は客車は、列車の前部か後部に設けた車掌室から手で操作する木製制輪子によりブレーキがかけられており、独特の臭いがした{{sfn|Simpson|2003|p=19}}{{sfn|Horne|2003|p=22}}。これは1869年に鎖ですべての客車のブレーキを動作させる方式に変更された。チェーンによるブレーキは突然動作し、旅客が負傷することもあり、1876年には[[直通ブレーキ|直通]][[真空ブレーキ]]に置き換えられた{{sfn|Bruce|1983|p=14}}{{sfn|Jackson|1986|p=44}}。1890年代に、サークル線の列車の一部の客車で、機械的な次の駅を案内する表示器が試験された。これは線路間に設置された木製のフラップによって動作するものであった。信頼性が無いと判断されて全面的な採用は承認されなかった{{sfn|Edwards|Pigram|1988|p=23}}。 |
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[[ファイル:METROPOLITAN Chesham CARRIAGE No 368.JPG|thumb|left|アシュベリー1898年製368号ボギー客車、ブルーベル鉄道において復元したもの]] |
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1870年に固定車軸4輪で固定連結の客車がオールドベリーで造られた{{sfn|Bruce|1983|p=16}}。1887年に何件か脱線事故を起こしてから、延長路線向けにジュビリー車両として知られる新しい設計の全長27フィート6インチ(約8.38 m)の固定車軸4輪客車が{{仮リンク|クレイブンズ|en|Cravens}}で製造された。製造当初から圧力ガス式照明システムと直通真空ブレーキが搭載され、後に蒸気暖房が追加された。1892年にはさらに追加導入されたが、1912年までにすべての車両が運行終了となった{{sfn|Bruce|1983|p=21}}。1893年5月に商務省の命令により、すべての機関車と客車に自動真空ブレーキが搭載された{{sfn|Jackson|1986|p=96}}。ジュビリー車両の一等客車は復元されて、2013年1月のメトロポリタン鉄道150周年記念イベントで旅客を乗せた<ref>{{cite web|title=Project 353|url=http://www.ltmuseum.co.uk/collections/projects/met-353|work=London Transport Museum|accessdate=2012-12-04}}</ref><ref name="PAST"/>。 |
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1898年にはアシュベリーで、1900年にはクレイブンズとメトロポリタン鉄道ニーズデン工場で、ボギー客車が製造された。これは乗り心地が良く、蒸気暖房、自動真空ブレーキ、電気照明、全等級で貼り物のされた座席などがあった{{sfn|Green|1987|p=14}}{{sfn|Bruce|1983|p=22}}{{sfn|Jackson|1986|p=97}}。{{仮リンク|ブルーベル鉄道|en|Bluebell Railway}}では1898年から1900年にかけてアシュベリーやクレイブンズで製造された4両の客車を保有しており、またニーズデン製のもう1両がロンドン交通博物館にある<ref>{{cite web|url=http://www.bluebell-railway.co.uk/bluebell/bash/hist.html|title=The history of the carriages|work=Bluebell Railway|date=1996-01-14 - 2007-01-14|accessdate=2012-01-15}}</ref>。 |
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近郊路線やその延長路線でのグレート・セントラル鉄道との競争により、1910年からさらに快適なドレッドノート車両の導入が始まった{{sfn|Green|1987|p=26}}。この木製コンパートメント式車両は合計92両が導入され、圧力ガス式照明と蒸気暖房を備えていた{{sfn|Bruce|1983|p=26}}。1917年に電気照明に切り替えられ、1922年には電気機関車牽引の際の暖房のために電気ヒーターが追加された{{sfn|Jackson|1986|p=97}}。後に5両・6両または7両編成に組成され{{sfn|Casserley|1977|p=44}}、先頭と末尾の車両に集電シューが取り付けられて母線に接続され、電気機関車が第三軌条の切れ目で止まってしまうのを防ぐために接続された{{sfn|Bruce|1983|p=26}}。2編成には、追加料金でビュッフェのサービスを行う{{仮リンク|プルマン・トレイン|en|Pullman train (UK)|label=プルマン}}の車両が連結されていた{{sfn|Bruce|1983|p=63}}{{#tag:ref|メイフラワー ({{Lang|en|Mayflower}})、ガラティー ({{Lang|en|Galatea}}) の名前が付けられた2両のプルマン客車は19席の座席があり、6ペンスまたは1シリングの追加料金を払うことで、朝食、昼食、喫茶、夕食などを取ることができた。トイレを装備しており、蒸気暖房装備で製造され1925年に電気暖房が装備された{{sfn|Jackson|1986|pp=213–214}}。|group="note"}}。{{仮リンク|鉄道旅行博物館|en|Museum of Rail Travel|label=ビンテージ・キャリッジ・トラスト}}は3両のドレッドノート車両を保存している<ref>{{cite web|url=http://www.vintagecarriagestrust.org/metthird.htm|title=Metropolitan Railway Nine Compartment Third No. 465|work=Vintage Carriages Trust|accessdate=2012-01-16}}</ref>。 |
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1906年から、アシュベリー製のボギー客車の一部が電車に改造された{{sfn|Bruce|1983|p=56}}。ドレッドノート車両の一部は電動車として使用されたが、3分の2は延長路線において機関車牽引の客車として使用され続けた{{sfn|Bruce|1983|p=25}}。 |
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=== 電気機関車 === |
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[[ファイル:Electric locomotive and train, Metropolitan Railway (CJ Allen, Steel Highway, 1928).jpg|thumb|right|1920年代のメトロポリタン鉄道の電気機関車牽引の列車]] |
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電化後は、郊外路線においては従来からの客車をベイカー・ストリート駅から電気機関車牽引で運転し、途中で蒸気機関車に交換した。メトロポリタン鉄道は、メトロポリタン・アマルガメイテッドに対して2種類の電気装備品を持つ20両の電気機関車を発注した。最初の10両は{{仮リンク|ブリティッシュ・ウェスティングハウス|en|British Westinghouse}}の電気品を搭載して製造され、1906年に運行を開始した。このキャメルバック型機関車はセンターキャブ(中央運転台式)を特徴としており{{sfn|Green|1987|p=26}}、重量は50トン{{sfn|Bruce|1983|p=58}}、215馬力(約160 kW)電動機4基を装備した{{sfn|Bruce|1983|p=59}}。2番目のものは箱型車体で{{仮リンク|ブリティッシュ・トンプソン=ヒューストン|en|British Thomson-Houston}}の電気品を装備し{{sfn|Bruce|1983|p=59}}、1919年にウェスティングハウスのものに置き換えられた{{sfn|Bruce|1983|p=59}}。 |
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1920年代初頭、メトロポリタン鉄道は[[バロー・イン・ファーネス]]の[[メトロポリタン=ヴィッカース]]に20両の電気機関車の改造の注文を出した。最初の機関車の改造工事が始まった際、非実用的で不経済であることが判明し、注文は原車両から回収したいくつかの装備品を利用して完全に新しい機関車を製造するものに変更された。新しい機関車は1922年から1923年にかけて製造され、ロンドンの有名な住民にちなんで名づけられた。4基の300馬力(約220 kW)電動機を装備して合計1,200馬力(約890 kW、1時間定格)であり、最高速度は65マイル毎時(約105 km/h)であった{{sfn|Benest|1984|p=48}}。 |
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5号機の「[[ジョン・ハムデン]]」ロンドン交通博物館で静態保存され<ref>{{cite web|url=http://www.ltmcollection.org/museum/object/link.html?IXinv=1981/537|title=Metropolitan Railway electric locomotive No. 5, "John Hampden", 1922|accessdate=2012-02-27|work=ltmcollection.org}}</ref>、12号機「[[サラ・シドンズ]]」は歴史的なイベントに用いられ、2013年1月のメトロポリタン鉄道150周年記念イベントでも走行した<ref name="VOM"/>。 |
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=== 電車 === |
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最初の電車の注文はメトロポリタン・アマルガメイテッドに対して1902年に出され、ウェスティングハウス製の装備を搭載した50両の付随車と20両の電動車で、6両編成を構成した。一等車と三等車がオープンサルーン形式で製造され、二等車はメトロポリタン鉄道では廃止された{{sfn|Jackson|1986|p=173}}。客室への出入りは車端のデッキの格子戸からで{{sfn|Bruce|1983|pp=37–39}}、閑散時には3両編成で走行できるようになっていた{{sfn|Jackson|1986|p=175}}。ハマースミス&シティー線での共同運行に対しては、メトロポリタン鉄道とグレート・ウェスタン鉄道は6両編成12本をトムソン=ヒューストン製の装備品で購入した{{sfn|Jackson|1986|p=184}}。1904年にメトロポリタン鉄道はさらに36両の電動車と62両の付随車、オプションとしてさらに20両の電動車と40両の付随車の注文を出した。ウェスティングハウス製の装備品に問題があったためオプションが実行された際にはトムソン=ヒューストン製の装備品が指定され、さらに強力な電動機が装備された{{sfn|Bruce|1983|pp=37–39}}。1918年以前は、強力な電動機を装備した電動車が3両の付随車を牽いてサークル線の運用に使われた{{sfn|Bruce|1983|p=41}}。車端デッキの格子戸は地上走行時に問題であるとみなされ、すべての車両がベスティビュール付に1907年までに改造された{{sfn|Jackson|1986|p=175}}。また両端のドアからのみの出入りは需要の多いサークル線での運行には問題であったため、1911年から中央部に引き戸が装備された{{sfn|Bruce|1983|p=39}}。 |
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1906年からは、アシュベリー製のボギー客車の一部に運転台、制御器、電動機を搭載して電車に改造が行われた{{sfn|Bruce|1983|p=56}}。1910年に2両の電動車について両端に運転台を取り付ける改造を行った。この車両はアクスブリッジ-サウス・ハーロー間のシャトル列車に使用され、1918年にアディソン・ロードのシャトル列車に転用された。1925年から1934年まではこれらの車両はワトフォードとリクマンズワースの間で運用された{{sfn|Bruce|1983|p=66}}。 |
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1913年に23両の電動車と20両の付随車が発注され、これは引き戸を両端と中央に備えたオープンサルーン客車であった。これらの車両はサークル線と、新しく電車で運転されるようになった、イースト・ロンドン鉄道経由のニュー・クロス駅までの運用に用いられた{{sfn|Bruce|1983|p=64}}。1921年に20両の電動車、33両の付随車、6両の一等制御車が3つの両引き戸を備えた形で納入された。これらもサークル線に投入された{{sfn|Bruce|1983|p=71}}。 |
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[[ファイル:Neasden metropolitan line station geograph-2384536-by-Ben-Brooksbank.jpg|thumb|left|ニーズデンにて、T型電車]] |
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1927年から1933年にかけて、[[メトロキャメル|メオロポリタン・キャリッジ・アンド・ワゴン]]と{{仮リンク|バーミンガム・レールウェイ・キャリッジ・アンド・ワゴン|en|Birmingham Railway Carriage and Wagon Company}}によって順次コンパートメント式の電車がベイカー・ストリート駅とシティからワトフォードおよびリックマンズワースへの運用に用いるために製造された。最初の注文は電動車のみで、半分はウェスティングハウスブレーキとメトロポリタン=ヴィッカースの制御器、4基のMV153電動機を装備し、ボギー客車の付随車を牽引していた電動車を置き換えた。残りの電動車は同じ電動機を装備していたが真空ブレーキを装備しており、1920年から1923年にかけて改造されたドレッドノート客車とともにMV車両を構成した。1929年にMW車両が発注され、MV車両と似ていたがウェステイlングハウスブレーキを装備する30両の電動車と25両の付随車であった。さらにMW車両の発注が1931年に、今度はバーミンガム・レールウェイ・アンド・キャリッジに対して出された。これは7本の8両編成を構成するためのもので、またこれまでのMW車両を8両編成に増強するための追加の付随車も含んでいた。この車両は[[ゼネラル・エレクトリック・カンパニー]]製のWT545電動機を装備しており、MV153電動機装備の車両と連結して使えるように設計されたのだが、実際にはうまく動作しなかった。メトロポリタン鉄道がロンドン地下鉄となってから、MV車両はウェスティングハウスブレーキを装備し、GEC製電動機を装備した車両はMV153電動機装備の車両と連結して使えるようにギア比を変更された。1938年に、9本の8両編成と10本の6両編成のMW車両が形式変更されて{{仮リンク|ロンドン地下鉄T形電車|en|London Underground T Stock}}となった<ref>{{cite web|url=http://www.spavalleyrailway.co.uk/SpaT-Stock_04.htm|title=Metropolitan Railway T-Stock|work=Spa Valley Railway|date=2009-11-03|accessdate=2012-01-16}}</ref>。 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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{{脚注ヘルプ}} |
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{{Reflist|group="note"}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|3}} |
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== 参考文献 == |
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* {{cite book|last=Butt|first=R. V. J.|year=1995|edition=1st|title=The Directory of Railway Stations: details every public and private passenger station, halt, platform and stopping place, past and present|publisher=Patrick Stephens Ltd|isbn=1-85260-508-1|ref=harv}} |
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* {{cite book|last=Horne|first=Mike|title=The District Line|year=2006|publisher=Capital Transport|isbn=1-85414-292-5|ref=harv}} |
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* {{cite book|title=The English landscape in the twentieth century|last=Rowley|first=Trevor|year=2006|publisher=Hambledon Continuum|isbn=1-85285-388-3|ref=harv}} |
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* {{cite book|last=Simpson|first=Bill|title=A History of the Metropolitan Railway. Volume 1: The Circle and Extended Lines to Rickmansworth.|publisher=Lamplight Publications|year=2003|isbn=1-899246-07-X|ref=harv}} |
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* {{cite book|title=New and Old London: Volume 5|first=Edward|last=Walford|year=1878|url=http://www.british-history.ac.uk/report.aspx?compid=45233|publisher=British History Online|accessdate=3 July 2012|ref=harv}} |
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* {{cite book|last=Wolmar|first=Christian|year=2004|title=The Subterranean Railway: how the London Underground was built and how it changed the city forever|publisher=Atlantic|isbn=1-84354-023-1|ref=harv}} |
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* {{cite book|title=The Reorganisation of British Railways: The Railways Act, 1921|edition=3rd|year=1922|publisher=Gray's Inn Press|ref=harv|last=Railway Clerks' Association}} |
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{{refend}} |
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=== その他の文献 === |
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* Baker, B. (1885). "The Metropolitan and Metropolitan District Railways. (Including Plates at Back of Volume)". Minutes of the Proceedings 81 (1885): 1. doi:10.1680/imotp.1885.21367 |
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* Barry, J. W. (1885). "The City Lines and Extensions. (Inner Circle Completion) of the Metropolitan and District Railways. (Including Plates at Back of Volume)". Minutes of the Proceedings 81 (1885): 34. doi:10.1680/imotp.1885.21368 |
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== 外部リンク == |
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{{Commonscat|Metropolitan Railway}} |
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* [http://www.ltmcollection.org/films/film/film.html?IXfilm=FLO.0002&_IXSESSION_=sOFelBIFPuv ''A trip on the Metropolitan Railway''という1910年頃のサイレント映画] ロンドン交通博物館 |
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* [http://www.davros.org/rail/culg/metropolitan.html Metropolitan Line] Clive's UndergrounD Line Guides |
* [http://www.davros.org/rail/culg/metropolitan.html Metropolitan Line] Clive's UndergrounD Line Guides |
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[[pt:Metropolitan Railway e Metropolitan District Railway]] |
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2013年2月15日 (金) 11:26時点における版
メトロポリタン鉄道(メトロポリタンてつどう、英語: Metropolitan Railway、単にMetとも)は、ロンドンで1863年から1933年まで運行されていた旅客・貨物鉄道である。その北へ伸びる本線は、経済的な中心地であるシティ・オブ・ロンドンから後にミドルセックス州の郊外となる地域を結んでいた。最初の路線は本線鉄道のターミナル駅である、パディントン駅やユーストン駅、キングス・クロス駅をシティと結ぶものであった。鉄道は、ニューロードの下をパディントンからキングス・クロスまで開削工法で、そしてファリンドンロードの脇をキングス・クロスからシティに近いスミスフィールドまでトンネルと切通しで建設された。この路線が1863年1月10日に開通した際には、蒸気機関車がガス灯を灯した木造客車を牽いており、世界最初の地下鉄であった[1]。
この鉄道はその後すぐに両端から、そしてベイカー・ストリート駅から分岐して北へ延長された。ハマースミス駅まで1864年に、リッチモンド駅まで1877年に、そしてサークル線が1884年に完成したが、もっとも重要な路線は北のミドルセックス州の郊外へ通じる路線で、新しく郊外の開発を促すことになった。ハーロー・オン・ザ・ヒル駅へは1880年に到達し、さらに路線は最終的にバッキンガムシャーのバーニー・ジャンクション駅まで到達したが、ここはロンドンの中心のベイカー・ストリート駅からは50マイル(80 km)以上離れた場所であった。
1905年に電化が始まり、1907年にはほとんどの運行に電車が用いられるようになったが、路線網の外側では電化は数十年あとまでかかった。ロンドン地区における他の鉄道会社と異なり、メトロポリタン鉄道は住宅開発を行い、第一次世界大戦後沿線の住宅をメトロランドのブランドで販売した。1933年7月1日にメトロポリタン鉄道はロンドン地下電気鉄道の地下鉄網、ロンドンの路面電車やバスなどと合併してロンドン旅客運輸公社となった。
こんにち、かつてのメトロポリタン鉄道の線路と駅は、ロンドン地下鉄のメトロポリタン線、サークル線、ディストリクト線、ハマースミス&シティー線、ピカデリー線、ジュビリー線およびチルターン・レイルウェイズが使用している。
メトロポリタン鉄道の略称である「Metro」は、「Tube」「Underground」を使うイギリス、「Subway」を使うアメリカ以外の多くの国の言葉で、「地下鉄」の意味として定着している。[2]
歴史
パディントンからシティへ、1853年 - 1863年
設立
19世紀前半には、ロンドンの人口と都市の広さは非常に拡大していた[note 1]。住民が増加し、そして毎日列車で通勤する人も増えたことから、道路上は大変な数の荷車や馬車で埋め尽くされ膨大な交通量となり、ロンドンの経済的な中心であるシティ・オブ・ロンドンに毎日徒歩で入る人も20万人に達していた[4]。1850年までには、ロンドン都心の周辺部に7つの鉄道のターミナル駅が存在していた。南側にはロンドン・ブリッジ駅、ウォータールー駅、東側にはビショップスゲート駅、フェンチャーチ・ストリート駅、北側にはユーストン駅、キングス・クロス駅、西側にはパディントン駅である。フェンチャーチ・ストリート駅のみがシティ・オブ・ロンドンの範囲内にあった[5]。
道路が混雑しており、またシティから北や西の駅までの距離があったことから、シティへ通じる新しい鉄道路線を建設する議会承認を得ようとする多くの試みがなされた。しかしどれも承認を得られず、1846年には首都の鉄道ターミナルの調査を行った王立委員会が、既に建設の進んだ都心部における新たな路線や駅の建設を禁じた[6][7][note 2]。シティ・オブ・ロンドンと鉄道のターミナル駅を結ぶ地下鉄道という考え方は、1830年代に最初に提案されていた。シティ・オブ・ロンドンで事務弁護士をしていたチャールズ・ピアソンは、いくつかの提案における主導者となっており、1846年には複数の鉄道会社が共同利用する中央駅を提案した[8]。この提案は1846年に王立委員会により却下されたが、1852年にピアソンは、ファリンドンからキングス・クロスまでを結ぶそうした鉄道を建設するためのシティ・ターミナス会社 (City Terminus Company) の設立を支援することで、これを再提案した。この計画はシティ・オブ・ロンドンには支持されたが、他の鉄道会社は関心が無く、会社は計画を進めるのに苦労することになった[9]。
ベイズウォーター・パディントン・アンド・ホルボーン・ブリッジ鉄道 (Bayswater, Paddington and Holborn Bridge Railway Company) は、グレート・ウェスタン鉄道のパディントン駅からピアソンの提唱路線にあるキングス・クロス駅までを結ぶために設立された[9][note 3]。法案は1852年11月に提出され[10]、1853年1月に初めての取締役会が開かれてジョン・ファウラーを技術者に指名した[11]。政界への工作が成功し、会社は1853年夏にノース・メトロポリタン鉄道 (North Metropolitan Railway) という名で議会承認を受けた。一方シティ・ターミナス会社が提出した法案は議会で否決されてしまい、これはノース・メトロポリタン鉄道がシティへ到達することができなくなることを意味した。この問題を解決するために、ノース・メトロポリタン鉄道はシティ・ターミナス会社を合併の上で、1853年11月に法案を再提出した。この法案では都心の中央駅の計画を削り、また路線をファリンドンより南へセント・マーティンズ・ル・グランドにある郵政省本部前まで延長した。また路線の西側の端も、グレート・ウェスタン鉄道の駅により直接的に接続できるように修正された。またロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道とユーストン駅で、グレート・ノーザン鉄道とキングス・クロス駅で接続する許可も求めていた。キングス・クロスでの接続はホイストとリフトによることになっていた[12]。会社の名前は再変更され、今回はメトロポリタン鉄道となった[9][13]。ノース・メトロポリタン鉄道法は、1854年8月7日に国王裁可を受けた[12][14]。
この鉄道の建設には100万ポンドを要すると見積もられた。クリミア戦争の最中であったため、当初は資金を集めることが困難であった[9]。資金調達を試みながら、会社は工事期間の延長を求める新法案を議会に提出した[12][note 4]。1855年7月に、キングス・クロス駅でグレート・ノーザン鉄道と直接接続するようにする法律が国王裁可を得た。計画は1856年のメトロポリタン(グレート・ノーザン支線および修正条項)法で修正され、さらに1860年のグレート・ノーザン・アンド・メトロポリタン・ジャンクション鉄道法でも修正された[12]。
グレート・ウェスタン鉄道は175,000ポンドの出資に同意し、ほぼ同額の出資をグレート・ノーザン鉄道が約束したものの、1857年末になっても着工できるだけの十分な資金は集まっていなかった。グレート・ウェスタン鉄道の駅に直接接続しなくなってしまうが、西側の端の路線を一部縮小し、さらにファリンドンより南の部分を省略して費用を節減した[15][note 5]。1858年にピアソンは、メトロポリタン鉄道とシティ・オブ・ロンドンの間で、新しいファリンドン・ロード周辺で鉄道会社が必要としている土地をシティから179,000ポンドで購入し、一方シティは鉄道会社の株を200,000ポンド購入するという契約をまとめた[17][note 6]。路線の変更は1859年8月に議会承認を受け、これによりついに会社は建設すべき路線に見合った資金調達が完了して着工できることになった[18]。
建設
地下を掘削し、また振動が発生することにより、近くの建物が沈下してしまうのではないかという懸念があり[19]、またトンネル掘削中に数千人の家を取り壊してその補償をしなければならなかったが[20]、建設は1860年3月に開始された[16]。この新しい鉄道はパディントンからキングス・クロスまで、ほとんどが開削工法により建設された。キングス・クロスから東では、路線はマウント・プレザントおよびクラーケンウェルの下を728ヤード(約666 m)のトンネルで通過し、そこから暗渠化されたフリート川に沿ってファリンドン・ロードの脇をスミスフィールドにある新しい肉市場まで切通しで通った[21][22]。
トンネルを通すために掘られた溝は幅が33フィート6インチ(約10.2 m)あり、その中に煉瓦製の擁壁が構築されて、それが28フィート6インチ(約8.7 m)幅の楕円形の煉瓦アーチあるいは鉄製ガーダーの天井を支えた[23]。トンネルは駅の部分ではプラットホームを収容するためにより幅が広くなっていた。原始的なベルトコンベアを利用した土砂運搬装置が掘削土砂を溝から運び出すために使われたものの、土砂の掘削作業のほとんどはナヴィ(土木工事に携わる作業員)によって手作業で行われた[24][note 7]。
トンネル内では、複線の軌道が6フィート(約1.8 m)の間隔で敷設された。グレート・ノーザン鉄道の標準軌の列車と、グレート・ウェスタン鉄道の広軌の列車の両方を走らせるため、軌道は三線軌条方式で敷設され、プラットホームにもっとも近いレールを双方の軌間の列車が共用した[16]。信号装置は、スパニョレッティ電気閉塞装置と常置信号機を用いた固定閉塞方式が採用された[25]。
建設工事中には事故も発生した。1860年5月には、グレート・ノーザン鉄道の本線の列車がキングス・クロス駅にてプラットホームをオーバーランし、工事現場に転落した。その年の後半には、工事業者の貨車を牽引していた機関車のボイラーが破裂し、機関士と機関助士が死亡した。1861年5月には、ユーストンにおいて掘削現場が崩落し、近隣の建物にかなりの被害を与えた。最後の事故は1862年6月に起き、集中豪雨によりフリート川の暗渠が溢れて、掘削した溝に水が流れ込んだ。メトロポリタン鉄道と首都公共事業委員会はどうにか水を食い止め、水を他に流すことに成功し、工事は2 - 3か月ほど遅れるだけで済んだ[26]。
建設工事がまだ行われていた1861年11月から試運転が行われた。全線を通しての初めての運転は1862年5月に行われ、この時の乗客の1人にウィリアム・グラッドストンがいた[27]。1862年末までに工事は完成し、その費用は合計130万ポンドに達した[28][note 8]。
開通
商務省による検査が1862年12月末に行われ、1863年1月初めに開通が承認された[30]。信号設備のわずかな変更が行われてそれも承認され、数日に渡って運行試験が行われて1863年1月9日の開通を迎えることになった。この日にはパディントンからの開通記念列車が走り、ファリンドン駅では600人の株主と来賓のための大きな宴会が開かれた[30]。チャールズ・ピアソンは1862年9月に亡くなっており、鉄道が開通するのを見ることはできなかった[31]。
この全長3.75マイル(約6 km)の路線は、翌1863年1月10日土曜日から一般営業を開始した[29]。駅はパディントン(ビショップス・ロード)駅(現在のパディントン駅)、エッジウェア・ロード駅、ベイカー・ストリート駅、ポートランド・ロード駅(現在のグレート・ポートランド・ストリート駅)、ガワー・ストリート駅(現在のユーストン・スクエア駅)、キングス・クロス駅(現在のキングス・クロス・セント・パンクラス駅)、ファリンドン・ストリート駅(現在のファリンドン駅)があった[32]。
鉄道は歓迎されて成功し、初日には38,000人の乗客を輸送して、グレート・ノーザン鉄道の列車を利用して臨時列車が運転された[33]。最初の12か月で950万人の旅客を輸送し、さらにその次の12か月では1200万人へと増加した[34]。
当初の時刻表では、途中の5駅に停車して所要時間18分であった。昼間閑散時間帯の運行頻度は15分おきで、朝のラッシュ時には10分おきに増発され、早朝と20時以降は20分おきに減らされた。1864年5月からは、パディントンから朝の5時30分および5時40分に出る列車については労働者向けの割引往復乗車券が片道乗車券と同じ3ペンスで発売された[35]。
当初は、メトロポリタン鉄道ではグレート・ウェスタン鉄道から提供されたグレート・ウェスタン鉄道メトロポリタン型蒸気機関車を使って広軌の車両で運転が行われていた。開通から間もなく、運行頻度を増加させる必要性を巡って2社の間で見解の相違が起こり、1863年8月にグレート・ウェスタン鉄道は車両を引き上げることになった。メトロポリタン鉄道では、グレート・ノーザン鉄道の標準軌の鉄道車両を一時的に借り受けて運行頻度を落として運行を行い、その後自社で標準軌の機関車と客車を購入した[31][36][note 9]。
煙を出さない機関車で運転されると考えていたため、エッジウェア・ロードからキングス・クロスまでは長いトンネルもあるなど、最初の区間はあまり換気を行わない構造で建設された[38]。駅や客車には煙が充満していたが、当初はそれでも乗客が減るということは無かった[39]。後にキングス・クロスとガワー・ストリートの間のトンネルに開放部を設けたり、駅の天井のガラスを取り外したりして、換気が改善された[40]。煙の問題は1880年代になってからも続いたため、さらにトンネルの開放部を増やしたいメトロポリタン鉄道と、そうすれば馬を驚かせ周辺の地価を下げると主張する地元の当局との間で論争になった[41]。この結果1897年の商務省報告では[note 10]、メトロポリタン鉄道を利用して疲弊した人々に薬剤師が「メトロポリタン処方」という薬剤を処方している、と報告された。この報告では、もっと多くの開放部の設置が認められるべきだとしたが、実際に建設される前に電化されることになった[41]。
延伸工事とインナー・サークル、1863年 - 1884年
ファリンドンからムーアゲートとシティ・ワイドンド線
建設中のグレート・ウェスタン鉄道およびグレート・ノーザン鉄道への接続線に加えて、ミッドランド鉄道およびロンドン・チャタム・アンド・ドーバー鉄道への接続線も計画され、メトロポリタン鉄道は1861年および1864年[note 11]にムーアゲートにある新しいターミナルまで東へ4線での延長と、キングス・クロス駅からファリンドン・ストリート駅までの2本の追加線路を認められた[43][44][45]。メトロポリタン鉄道はこのうち2本の線路を自社の運行に使用し、残りの2本は主に他の鉄道会社によって使用されて、シティ・ワイドンド線として知られるようになった[46]。
キングス・クロス駅でグレート・ノーザン鉄道とメトロポリタン鉄道をつなぐ単線トンネル2本は1863年10月1日に、地上の鉄道会社側の運行で旅客営業が開始され[47][note 12]、同日グレート・ウェスタン鉄道もウィンザーなどからの郊外列車の直通運転を始めた[48]。1864年の秋の初めには、メトロポリタン鉄道は自社の列車を営業するのに十分な機関車と車両を調達し、運行頻度を1時間に6本まで増加させた[49]。
1866年1月1日に、ロンドン・チャタム・アンド・ドーバー鉄道とグレート・ノーザン鉄道の共同運行で、ブラックフライアーズ・ブリッジ駅からスミスフィールド市場の下のスノー・ヒルトンネルを通ってファリンドン駅へ、さらに北へグレート・ノーザン鉄道への運行を開始した[50]。アルダースゲート・ストリート駅およびムーアゲート・ストリート駅(それぞれ現在のバービカン駅およびムーアゲート駅)までの延長は1865年12月23日に開通し[51]、4線すべては1866年3月1日に開通した[52]。
キングス・クロス駅からファリンドン・ストリート駅までの新しい線路は、まず1868年1月27日にグレート・ノーザン鉄道の貨物列車が使用した。ミッドランド鉄道との分岐点は1868年7月13日に開業し、ミッドランド鉄道自身のセント・パンクラス駅が開業するよりも前にムーアゲート・ストリート駅までの列車が運行を開始した。この線路は、ミッドランド鉄道本線のセント・ポールズ・ロードジャンクションで分岐し、複線のトンネルに入ってミッドランドジャンクションにおいてワイドンド線に連絡する[53]。
ハマースミス&シティー鉄道
1860年11月にメトロポリタン鉄道とグレート・ウェスタン鉄道によって、グレート・ウェスタン鉄道のパディントン駅から1マイル西から、発展しつつある郊外であるシェパーズ・ブッシュやハマースミスへ、そしてラティマー・ロードにおいてウェスト・ロンドン鉄道へ接続する鉄道の法案[note 13]が議会に提出された[55][56]。ハマースミス・アンド・シティ鉄道として1861年7月22日に承認され[57]、2マイル35チェーン(約3.9 km)の路線はおおむね野原の中を20フィート(約6.1 m)の高さの高架橋で建設され[58]、1864年6月13日にグレート・ウェスタン鉄道の広軌の列車がファリンドン・ストリート駅から運行を開始した[59]。駅はノッティング・ヒル駅(現在のラドブローク・グローブ駅)、シェパーズ・ブッシュ駅(1914年に現在のシェパーズ・ブッシュ・マーケット駅に移転)、そしてハマースミス駅である[32]。ウェスト・ロンドン鉄道への連絡線は同年7月1日に開通し、ノッティング・ヒル駅において連結・解放された車両によりケンジントン駅(現在のケンジントン・オリンピア駅)まで運行された[59]。メトロポリタン鉄道とグレート・ウェスタン鉄道の合意を受けて、1865年からはメトロポリタン鉄道が標準軌の列車をハマースミス駅へ、グレート・ウェスタン鉄道が広軌の列車をケンジントン駅へ運行するようになった。1867年にハマースミス・アンド・シティ鉄道は両社の共同所有となった。グレート・ウェスタン鉄道は標準軌の列車の運行を始め、1869年にハマースミス・アンド・シティ鉄道およびメトロポリタン鉄道から広軌用のレールが撤去された。1871年にグレート・ウェスタン鉄道に沿ってウェストボーン・パーク駅からパディントン駅まで2本の追加線路がハマースミス・アンド・シティ鉄道用に使用開始され、1878年にはウェストボーン・パーク駅の平面交差が立体交差に置き換えられた[58]。ハマースミス・アンド・シティ鉄道にさらなる駅として、ウェストボーン・パーク駅(1866年)、ラティマー・ロード駅(1868年)、ロイヤル・オーク駅(1871年)、ウッドレーン駅(1908年)、ゴールドホーク・ロード駅(1914年)と開業した。1869年にはウェスト・ロンドン鉄道にアクスブリッジ・ロード駅が開業している[32]。
1877年10月1日から1906年12月31日までの間、ハマースミス支線の列車の一部がロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道の線路を走って、そのハマースミス(グローブ・ロード)駅を経由してリッチモンド駅まで延長されていた[60][note 14]。
インナー・サークル線
メトロポリタン鉄道の初期の成功により、1863年にはロンドンにおいて新しい鉄道を敷設しようとする申請が議会に殺到し、その多くが似たような経路で競合するものであった。最良の提案を判断するために、貴族院は特別委員会を設置し、委員会は1863年7月に「実際に接続しないのであれば、首都の主要な鉄道ターミナルのほぼすべてに沿って内側を環状に結ぶ鉄道」を推薦する報告を行った。1864年の議会には、経路が異なるもののおおむね推薦に沿った多くの鉄道の提案が出され、上下両院議員で構成される合同委員会が設置されて計画を審査した[61][note 15]。
メトロポリタン鉄道からの、パディントン駅から西へ、そこから南へサウス・ケンジントンまで、またムーアゲート駅から東へタワー・ヒルまで延長する提案は、承認され1864年7月29日に国王裁可を得た[63]。環状線を完成させるために、委員会ではケンジントンとシティの間を異なる経路で建設する2つの提案を合同させることを推奨し、合同した提案は同日、メトロポリタン・ディストリクト鉄道(一般的にディストリクト鉄道として知られる)として承認された[63][64][note 16]。当初は、ディストリクト鉄道とメトロポリタン鉄道は緊密に連携しており、すぐにも合併することが意図されていた。メトロポリタン鉄道の会長と3人の取締役はディストリクト鉄道の取締役でもあり、技術者は両社ともジョン・ファウラーであり、また延長区間のすべての工事は1つの契約となっていた[65][66]。ディストリクト鉄道は、メトロポリタン鉄道とは独自に資金を集められるようにするために、独立した会社として設立された[65]。
西部の延長区間は、メトロポリタン鉄道の当初のパディントン駅から少し東側の、プレイド・ストリートジャンクションから分岐して、ベイズウォーター、ノッティング・ヒル、ケンジントンなどの高級住宅地区を通る。この地域では地価が高く、また当初の路線と異なりこちらの路線では既存の道路の下を通るような簡単な線形ではなかった。支払う補償金はかなり高いものとなった。ベイズウォーターのレインスター・ガーデンズでは、鉄道が通過することで台地にできた溝を隠すために、23番地と24番地に2棟の5階建て建物のファサードが建築されている。この区間では適切な換気を確保するために、路線の多くの区間が切通しとなっているが、キャンプデン・ヒルには421ヤード (385 m) のトンネルが掘られた[67]。ディストリクト鉄道の工事はメトロポリタン鉄道の工事と並行で進められ、同様に地価の高い地域を通過していた。建設費と補償費がとても高かったことから、ディストリクト鉄道の最初の区間であるサウス・ケンジントンからウェストミンスターまでの費用は300万ポンドに達し、メトロポリタン鉄道の当初のより長い路線に比べてもほぼ3倍かかった[68]。
メトロポリタン鉄道の延長区間のうち最初の区間としてブロンプトンまで1868年10月1日に開通し[65]、駅はパディントン(プレイド・ストリート)駅(現在のパディントン駅)、ベイズウォーター駅、ノッティング・ヒル・ゲート駅、ケンジントン(ハイ・ストリート)駅(現在のハイ・ストリート・ケンジントン駅)、ブロンプトン(グロスター・ロード)駅(現在のグロスター・ロード駅)が設置された[32]。3か月後の1868年12月24日に、メトロポリタン鉄道はブロンプトンから東へ延長してディストリクト鉄道のサウス・ケンジントン駅に乗り入れ、ディストリクト鉄道はそこからウェストミンスターまで開通して、サウス・ケンジントン駅、スローン・スクエア駅、ヴィクトリア駅、セント・ジェームズ・パーク駅、ウェストミンスター・ブリッジ駅(現在のウェストミンスター駅)が開業した[32]。
ディストリクト鉄道はさらにブロンプトン(グロスター・ロード)駅から西へ延長する許可を得て、1869年4月12日にウェスト・ロンドン鉄道のウェスト・ブロンプトン駅まで単線で開通させた。途中駅はなく、当初はシャトル運転が行われた[69][70]。1869年夏までには、サウス・ケンジントン駅からブロンプトン(グロスター・ロード)駅まで、そしてケンジントン(ハイ・ストリート)駅から分岐点までとウェスト・ブロンプトン駅への独立した線路が敷設された。1870年7月5日の夜、ディストリクト鉄道はブロンプトン(グロスター・ロード)駅とケンジントン(ハイ・ストリート)駅を結ぶ議論を呼んだクロムウェル・カーブをひそかに建設した[71]。
ウェストミンスターより東では、ディストリクト鉄道の次の区間は首都公共事業委員会がテムズ川北岸に沿って新しく建設したヴィクトリア堤防の上を走行した。ウェストミンスター・ブリッジ駅からブラックフライアーズ駅までの区間は1870年5月30日に開通し[69]、チャリング・クロス駅(現在のエンバンクメント駅)、ザ・テンプル駅(現在のテンプル駅)、ブラックフライアーズ駅が開業した[32]。
その開業以来、メトロポリタン鉄道はディストリクト鉄道における列車を運行し、一定の運行本数に対して総収入の55パーセントを受け取った。ディストリクト鉄道から追加の列車運行を求められると、それに対しても追加費用が請求され、ディストリクト鉄道の受け取れる収入は40パーセントほどに下がってしまった。ディストリクト鉄道の負債水準からメトロポリタン鉄道にとって合併は魅力のあるものではなくなり、合併の話は進行しなくなったことから、メトロポリタン鉄道側の役員はディストリクト鉄道の取締役を辞任した。ディストリクト鉄道は財務を改善するために、メトロポリタン鉄道に対して運行契約の終了を通告した。非常に高い建設費用の負担に苦しんだディストリクト鉄道は、当初の計画であるタワー・ヒルまでの残りの区間の建設を続行することができず、最後の延長としてわずか1駅、ブラックフライアーズ駅から東へ当初は計画されていなかったターミナル、マンション・ハウス駅までを開通させた[72][73]。
1871年7月1日土曜日に開通記念式典が、当時の首相で株主でもあった、ウィリアム・グラッドストンが出席して開催された。次の月曜日にマンション・ハウス駅が開業し、ディストリクト鉄道は自社の列車の運行を開始した[74]。この日から、両社は共同でインナー・サークル線をマンション・ハウス駅からムーアゲート・ストリート駅まで、サウス・ケンジントン駅とエッジウェア・ロード駅を経由して10分間隔で運行開始し[note 17]、そしてマンション・ハウス駅からウェスト・ブロンプトン駅までディストリクト鉄道の列車が10分おきに、またハマースミス・アンド・シティ鉄道とグレート・ウェスタン鉄道の郊外列車がエッジウェア・ストリート駅とムーアゲート・ストリート駅の間で運転された[75]。マンション・ハウス駅より東側の鉄道建設許可は失効した[76]。また路線の反対側で、ディストリクト鉄道側のサウス・ケンジントン駅は1871年7月10日に開業し[77][note 18]、ウェスト・ブロンプトン支線上にアールズ・コート駅が1871年10月30日に開業した[32]。
1868年から1869年にかけて、メトロポリタン鉄道に対する多くの審問が開かれて、本来の支払い能力以上の配当金を払っていたり、資本勘定からの支出が行われていたりといった、財務上の不正が見つかった。1870年に会社の取締役たちが背任で有罪となり、会社に対して賠償を行うよう命じられた[79]。全員が不服申し立てを行い、1874年にかなり低い額で妥結が認められたが[80]、株主の信頼を回復するために1872年10月に取締役は全員入替となり、エドワード・ワトキンが会長に任命された[81]。ワトキンは経験を積んだ鉄道業界人で、サウス・イースタン鉄道などいくつかの鉄道会社で既に取締役を務めており、北からロンドンを貫いてサウス・イースタン鉄道へ路線を接続したいという願望を持っていた[82][note 19]。
土地の購入費用の問題から、メトロポリタン鉄道のムーアゲート・ストリート駅から東への延長工事はゆっくりとしか進まず、1869年に法律で定められた期限の延長を得なければならなかった。延長工事は1873年に開始されたが、建設工事がローマカトリック教会の地下埋葬所を掘り出してしまった後、契約業者は作業員を工事に従事させ続けるのは難しいと報告してきた。最初の区間は、グレート・イースタン鉄道が最近開業させたターミナル駅であるリバプール・ストリート駅まで1875年2月1日に開通した。メトロポリタン鉄道自身の駅が建設されている短い期間中、列車は半径3.5チェーン(約70 m)の曲線を通ってグレート・イースタン鉄道側の駅に乗り入れており、同年7月12日に自社の駅が開業して、それ以降は通常運行にこの曲線が使用されることは無かった。アルドゲイト駅までの延長工事中には、貨車にして何百両分もの牛の角が表土から20フィート(約6.1 m)下で発見された。アルドゲイト駅は1876年11月18日に開業し、当初はビショップスゲート駅までのシャトル列車が運行し、12月4日からメトロポリタン鉄道およびディストリクト鉄道の全列車が直通運転を開始した[85]。
メトロポリタン鉄道とディストリクト鉄道の間の争いと建設費用の問題により、インナー・サークル線の完成はさらに遅れることになった。イライラさせられていたシティの金融業者たちは、1874年にメトロポリタン・インナー・サークル完成鉄道会社 (Metropolitan Inner Circle Completion Railway Company) を残りの区間を完成させる目的で設立した。この会社はディストリクト鉄道に支持され、議会から許可を1874年8月7日に得た[87][88]。この会社は資金調達に苦しみ、工事期限の延長を1876年に許可された[87]。メトロポリタン鉄道とディストリクト鉄道の間での会合が1877年に開かれ、メトロポリタン鉄道はイースト・ロンドン鉄道を通じてサウス・イースタン鉄道へ乗り入れたいと表明した。両社は1879年にイースト・ロンドン鉄道へ延長して接続する許可を議会から得て、またこの法律では両社が環状線全体の運行許可を得て将来的な協調を確実にした[note 20]。当局からは大規模な道路および下水の改良という協力が行われた。1882年にメトロポリタン鉄道はアルドゲイト駅から仮駅のタワー・オブ・ロンドン駅まで延長された[90]。共同線を建設する2件の契約が結ばれ、1件は1882年のマンション・ハウス駅からタワー・オブ・ロンドン駅までのもので、もう1件は1883年のアルドゲイト駅の北からホワイトチャペル駅を通りイースト・ロンドン鉄道に乗り入れるものであった。1884年10月1日からディストリクト鉄道とメトロポリタン鉄道は、セント・メアリーズ駅から乗り入れ線のカーブを通ってイースト・ロンドン鉄道を通りサウス・イースタン鉄道のニュー・クロス駅までの普通列車の運行を開始した[91][note 21]。1884年9月17日に公式の完成式典が行われ、10月6日月曜日から試験的な環状運転が開始された。同日メトロポリタン鉄道はハマースミス・アンド・シティ線の列車の一部をイースト・ロンドン鉄道を通じてニュー・クロス駅まで乗り入れ、途中で新たに共同駅として用意されたアルドゲイト・イースト駅とセント・メアリーズ駅に停車した[91][32]。環状線側に開業した共同駅はキャノン・ストリート駅、イーストチープ駅(1884年11月1日からモニュメント駅)およびマークレーン駅である。ディストリクト鉄道はタワー・オブ・ロンドン駅までの乗車券の販売を拒否したため、メトロポリタン鉄道のタワー・オブ・ロンドン駅は1884年10月12日に廃止された[92]。当初、運行は1時間に8本で、13マイル(約21 km)の環状線を81 - 84分で走行したが、これは不可能であることがわかり、1885年に1時間当たり6本に削減され所要時間は70分となった。車掌は当初、勤務時間中に休憩を取ることが認められていなかったが、1885年9月に20分間の休憩3回が認められるようになった[93]。
延長線 1868年 - 1899年
ベイカー・ストリート駅からハーロー駅まで
1868年4月に、メトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道 (Metropolitan & St John's Wood Railway) がベイカー・ストリート駅に新しく設置したプラットホーム(ベイカー・ストリート・イーストと呼ばれた)からスイス・コテージ駅までトンネルで単線の鉄道を開通させた[94][95]。途中には待避線を備えたセント・ジョンズ・ウッド・ロード駅とマールボロ・ロード駅があり、メトロポリタン鉄道により20分おきに列車が運行された。ベイカー・ストリート駅においてインナー・サークル線との分岐点が造られたが、1869年以降直通列車は運転されていない[96]。
1870年代初頭、乗客数は少なかったためメトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道は路線を延長して新たな需要を生み出そうと考えた。メトロポリタン鉄道に着任したばかりであったワトキンは、既に市街地化していた地域に建設するよりも費用が安く運賃は高いため、こちらの方が優先度が高いと考え、またこの線からの乗客はサークル線を利用してくれると考えられた[97][98]。1873年にメトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道はミドルセックス州の郊外であるニーズデンまでの延長許可を得たが[99][note 22]、ニーズデンにもっとも近い人口の集まる場所はハーローであったため、さらに3.5マイル(約5.6 km)延長してハーローまで路線を建設することを決定し[100]、1874年に許可を得た[99][note 23]。キルバーンで開かれた王立農業協会の1879年のショーに間に合わせるために、ウェスト・ハンプステッド駅までの単線路線が1879年6月30日に開通し、フィンチリー・ロード駅には仮プラットホームが設けられた。複線化とウィルズデン・グリーン駅までの営業は1879年11月24日に始まり、途中にキルバーン・アンド・ブロンデスベリー駅(現在のキルバーン駅)が開設された[101]。路線はさらにハーロー=オン=ザ=ヒル駅まで5マイル37.5チェーン(約8.80 km)延長され、ベイカー・ストリート駅からの運行は1880年8月2日に開始された。途中駅のキングスベリー・ニーズデン駅(現在のニーズデン駅)も同日開設された[102]。2年後に、ベイカー・ストリート駅とスイス・コテージ駅の間の単線が複線化され、メトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道はメトロポリタン鉄道に吸収合併された[103]。
1882年にメトロポリタン鉄道は客車工場をエッジウェア・ロードからニーズデンに移転させた[104]。機関車工場は1883年に、そしてガス工場は1884年に開設された。ロンドンから引っ越す従業員を収容するために、100戸以上の家と10軒の店が貸し出し用に建設された。1883年にこのうち2軒の店が学校の教室と教会に転用された。2年後には教会の建物と土地はウェズリーアン教会に寄贈され、学校は200人の児童を収容するようになった[105][note 24]。
ハーローからバーニー・ジャンクションとブリルまで
1868年にバッキンガム公が、エイルズベリー駅からバッキンガムシャー鉄道のブレッチリー-オックスフォード線上に新設したバーニー・ジャンクション駅までの単線で12.75マイル(約20.5 km)のエイルズベリー・アンド・バッキンガム鉄道を開通させた[107]。当初は、ブレッチリー-オックスフォード線を運行していたロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道からわずかながらも協力が得られていたが、路線が建設されるまでの間に2社間の関係は崩壊してしまった[note 25]。ウィカム鉄道がプリンス・リスバラ駅からエイルズベリー駅までの単線の鉄道を建設し、そしてグレート・ウェスタン鉄道がこの会社を買収した際に、プリンス・リスバラ駅からエイルズベリー駅を通りクエイトン・ロード駅まで、そしてクエイトン・ロード駅からバーニー・ジャンクション駅までのシャトル列車を運行するようになった[109]。
エイルズベリー・アンド・バッキンガム鉄道は、ロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道傘下のワトフォード・アンド・リックマンズワース鉄道に接続するリックマンズワースまでさらに南へ延長する許可を得ていた。バッキンガム公とワトキンの間の協議を受けて、この路線をさらに南へ伸ばしてメトロポリタン鉄道とハーローで接続することが合意され、この延長の許可は1874年に得られ[99][note 26]、ワトキンは1875年にエイルズベリー・アンド・バッキンガム鉄道の取締役に就任した[110]。これを実現する資金がなかったため、メトロポリタン鉄道は再び議会に働きかけて、ハーローからエイルズベリーまでの路線を建設する許可を1880年と1881年に得た[111][note 27]。ピナー駅まで1885年に到達し、リックマンズワース駅とノースウッド駅からベイカー・ストリート駅までの1時間おきの運転は1887年9月1日に始まった[112]。チェシャム駅を設置するために地域の協力が得られていたものの、この時点で資金を集めることはとても難しくなっていた[104]。1885年に許可を得てリックマンズワースから5マイル(約8 km)の複線が敷設され、そこからは単線でチェシャムまで建設された[113]。チェシャムからの列車は、途中チョーリー・ウッド駅とチャルフォント・ロード駅(現在のチャルフォント・アンド・ラティマー駅)に停車し、1889年7月8日に運行を開始した[114]。 メトロポリタン鉄道はエイルズベリー・アンド・バッキンガム鉄道を1891年7月1日に買収し[114]、エイルズベリーに仮プラットホームを設置して1892年9月1日に開通した。途中の停車駅はアマーシャム駅、グレート・ミセンデン駅、ウェンドーバー駅、ストーク・マンデビル駅であった。1894年にメトロポリタン鉄道とグレート・ウェスタン鉄道のエイルズベリーにおける共同駅が開業した[115]。エイルズベリーから先バーニー・ジャンクションまでは、路線にある橋の強度がメトロポリタン鉄道の機関車を通すためには不十分であった。グレート・ウェスタン鉄道は支援を拒否し、2両のDクラスを購入するまではロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道から機関車を借りて運行した。路線の規格が向上され、複線化されて本線の規格まで駅も改築されて[116]、ベイカー・ストリート駅からバーニー・ジャンクション駅までの直通運転が1897年1月1日からできるようになり、新しいワッデスドン・メイナー駅、改築されたクエイントン・ロード駅、グランバラ・ロード駅、ウィンスロー・ロード駅に停車した[32][117]。
クエイントン・ロード駅から、バッキンガム公はブリル軌道という6.5マイル(約10.5 km)の支線を建設していた[118]。1899年にはクエイントン・ロード駅とブリル駅の間を1日片道4本の混合列車が走っていた。メトロポリタン鉄道にこの路線を買うように推奨があり、1899年11月に運行を引き継ぎ[119]、毎年600ポンドで借り受けるようになった。1903年に線路は敷き直され、駅は改良された。旅客列車はAクラスおよびDクラスの機関車とオールドベリー型の8輪客車で運行されるようになった[120][121]。
1893年に新しいウェンブリー・パーク駅が開業し、当初はサッカーのオールド・ウェストミンスターFCにより利用されたが、主にスポーツ、レジャー、博覧会などに用いられた[122]。その当時建設されたばかりであったエッフェル塔よりも高い、1,159フィート(約353 m)の塔が計画されたが、魅力が不十分で、200フィート(約61 m)の高さのものが第一段階として建設された。この塔はワトキンズ・タワーとして知られるようになったが、傾いていることが発見されて1907年に解体された[123]。
1900年頃、ウィルズデン・グリーン駅とベイカー・ストリート駅の間には、1時間に6本の普通列車が走っていた。1本はリックマンズワースから、もう1本はハーローからで、残りはウィルズデン・グリーン始発であった。この他に、2時間に1本バーニー・ジャンクションからの列車があり、ハーローまではすべての駅に停車し、そこからはウィルズデン・グリーンとベイカー・ストリートのみに停車した。この速い列車は、普通列車がウィルズデン・グリーン駅を出発する直前に出発して、ベイカー・ストリート駅には1本前の普通列車の直後に到着するように時刻表が調整されていた[124]。
グレート・セントラル鉄道
ワトキンはマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道の取締役でもあり、エイルズベリーの少し北でメトロポリタン鉄道に合流する99マイル(約159 km)のロンドン延長線の計画を持っていた。ベイカー・ストリート駅をロンドンにおけるターミナルとして使用できると提案があったが、しかし1891年から1892年にかけてマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道は、メリルボーン地区に独自の駅と貨物扱い設備が必要であると結論した。この鉄道に関する法律は1893年に議会を通過したが、ワトキンは病気にかかって1894年に取締役を辞任した。彼の離任後、両社間の関係はまもなく悪化した[84]。
1895年にマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道は、メトロポリタン鉄道の普通列車を同社の急行列車が追い抜けるように、ウェンブリー・パークからフィンチリー・ロード駅近くのキャンフィールド・プレイスまで2本の線路を建設するという法案を議会に提出した[125]。メトロポリタン鉄道はこれに抗議したが、この路線はマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道が専用に使用するということで合意した[126]。マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道の機関車が走れるようにウェンブリー・パークからハーローまでの区間の橋を架け替えた際に、将来の必要性をにらんで、メトロポリタン鉄道は同時に複々線化を行い、マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道は2線を専用に使用するように求めた[127]。マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道は、メリルボーンにおいてメトロポリタン鉄道のサークル線に接続する必要な許可を得ていたのであったが、メトロポリタン鉄道側は面倒な条件を付けた。当時マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道は資金が不足していたこともあり、この路線を放棄してしまった[128]。
両社の関係から、マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道は自社のロンドンへの列車を完全にメトロポリタン鉄道に頼らなければならないということに不満であり、また自社の北への路線と異なり、エイルズベリーより南では速度制限が何か所かあり、90分の1の長い勾配区間もあった。1898年にマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道とグレート・ウェスタン鉄道は共同で、クエイントン・ロードの北のグレンドン・アンダーウッドから分岐してアシェンドンまでの短い連絡線と、ノーソルトからニーズデンまでの路線を建設してグレート・ウェスタン・アンド・グレート・セントラル・ジョイント鉄道とする法案を議会に提出した。メトロポリタン鉄道は、この法案はメトロポリタン鉄道とマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道の間で結ばれた合意の精神と条件に反していると抗議した。マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道はこの路線の許可を得たが、メトロポリタン鉄道には補償を受け取る権利が与えられた[129]。1898年7月26日に、メトロポリタン鉄道の路線にマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道の石炭列車を1日4本運転する暫定合意が行われた。マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道はこうした列車をエイルズベリーからグレート・ウェスタン鉄道の線路でプリンセス・リスバラを経由してロンドンへ運転することも望んでいたが、メトロポリタン鉄道ではこれは合意の範囲外であると考えていた。グレート・ウェスタン鉄道に入る予定となっていた列車は1898年7月30日の早朝、クエイントン・ロード駅においてメトロポリタン鉄道の線路に入ることを拒否された。その後の裁判所での聴取では、これが一時的な合意であったとしてメトロポリタン鉄道に有利に判断された[130]。
マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道は1897年にグレート・セントラル鉄道に改称し、1899年3月15日にグレート・セントラル本線が旅客輸送向けに開通した[118]。グレート・セントラル鉄道とメトロポリタン鉄道の間でのこの路線に関する交渉は数年を要し、1906年にキャンフィールド・プレイスからハーローまでの2線が年間20,000ポンドでグレート・セントラル鉄道に貸し出され、メトロポリタン・アンド・グレート・セントラル・ジョイント鉄道を設立し、ハーローからバーニー・ジャンクションまでとブリル支線を年間44,000ポンドで貸し出して、グレート・セントラル鉄道は少なくともこの路線に年間45,000ポンドの交通量を保証することで合意された[131]。グレート・ウェスタン鉄道とメトロポリタン鉄道が共同で運営するエイルズベリー駅には、グレート・ウェスタン・アンド・グレート・セントラル合同委員会およびメトロポリタン・アンド・グレート・セントラル合同委員会も置かれた。一般的には呼びづらい名前であったことから、エイルズベリー共同駅と呼ばれていた。メトロポリタン鉄道とグレート・セントラル鉄道の合同委員会は駅と路線の営業を引き継いだが、車両は保有していなかった。メトロポリタン鉄道が管理を担当し、グレート・セントラル鉄道は会社が役割を交替するまでの最初の5年間、会計を担当した。それ以降1926年まで5年おきに役割を交替した。メトロポリタン鉄道はグレート・ミセンデンの南にある28.5マイル地点より南側の保守を行い、グレート・セントラル鉄道は北側の保守を行った[132]。
電化 1900年 - 1914年
発展
20世紀の始まりに、ディストリクト鉄道とメトロポリタン鉄道は新しく電気運転で開通した、深い地下を走るチューブと呼ばれる路線との競合に直面していた。1900年にセントラル・ロンドン鉄道がシェパーズ・ブッシュからシティまで、一律2ペンスの運賃で開通して以降、1899年後半から1900年後半までの間にディストリクト鉄道とメトロポリタン鉄道は400万人の旅客が減少した[133]。トンネル内の空気が汚れていたことが旅客にとって非常に不快なものとなっており、電気運転に切り替えることが解決方法だと考えられた[134]。メトロポリタン鉄道では、1880年代には電化が検討されていたが、電気運転はまだ始まったばかりであり、またインナー・サークル線はディストリクト鉄道との共同所有であったため、ディストリクト鉄道との合意も必要であった。両社が共同で所有した6両の電車がアールズ・コート駅とハイ・ストリート・ケンジントン駅の区間で1900年に6か月間、試験的に旅客営業を行った。これは成功であると判断され、入札にかけられて、1901年にメトロポリタン鉄道とディストリクト鉄道の合同委員会はガンツの三相交流架空電車線方式を推奨した[135]。両社によってこれは受け入れられたが、それはロンドン地下電気鉄道がディストリクト鉄道を買収するまでであった。ロンドン地下電気鉄道はアメリカのチャールズ・ヤーキスが率いており、彼はアメリカでの経験からシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道やセントラル・ロンドン鉄道で使われているのと同じような、直流第三軌条方式を好んだのである。商務省での調停の後、第四軌条までを使った直流方式が採用されることになり、電車および電気機関車による客車牽引を前提として、これらの路線の電化が開始された[136]。メトロポリタン鉄道は1904年にニーズデンに10.5メガワットの石炭火力発電所を開設し、そこから11 kV 33.3 Hzの電力を5つの変電所に送電して、そこで回転変流機を使って直流600 Vに変換していた[137]。
一方で、ディストリクト鉄道はイーリングからサウス・ハーローまでの路線を建設しており、アクスブリッジまで延長する許可も得ていた[138]。1899年に、ディストリクト鉄道は資金集めに困難があり、メトロポリタン鉄道は、ハーローからレイナーズ・レーンまでの支線とアクスブリッジまでの路線をメトロポリタン鉄道が引き継いで建設し、ディストリクト鉄道は1時間に3本までの列車を走らせる権利を保持するという救済策を提案した[139]。これに必要な法案は1899年に議会を通過し、7.5マイル(約12.1 km)の路線の建設は1902年9月に始まった。これには28の橋と、ハーローに71のアーチを持つ全長1.5マイル(約2.4 km)の高架橋が必要であった。この路線は建設中であったため、ベイカー・ストリートからハーローまでの路線[140]やインナー・サークル線、グレート・ウェスタン鉄道とメトロポリタン鉄道が共同で運行するハマースミス・アンド・シティ線とともに、電化する路線に含められた。メトロポリタン鉄道はアクスブリッジ駅までの路線を1904年6月30日に、当初は蒸気機関車牽引で開通させた。途中駅はルイスリップ駅であった[138]。3両分の長さの木造のプラットホームにより1905年9月25日にイッケナム駅が開設され、さらに同様の単純な構造で1906年5月26日にイーストコート駅とレイナーズ・レーン駅が開設された[141]。
電気運転
電車の運転は1905年1月1日に始まり、3月20日までにはベイカー・ストリート駅とハーロー駅の間のすべての普通列車が電気運転となった[142]。アクスブリッジまでの閑散路線で6両編成の列車を運転するのは無駄であると考えられたため、メトロポリタン鉄道はオフピークにハーローまでの3両編成のシャトル列車を走らせ、1両の電動車で2両の付随車を牽引して商務省の不興を買った。短編成の蒸気機関車列車が3月末からオフピークの運行に用いられ、その間にいくつかの付随車に運転台を取り付ける改造を行って、6月1日から運行に投入された[141]。
1905年7月1日に、メトロポリタン鉄道とディストリクト鉄道はともに電車をインナー・サークル線に導入したが、その日遅く、メトロポリタン鉄道の電車がディストリクト鉄道の正極レールを倒してしまい、メトロポリタン鉄道側の運行は中止された。メトロポリタン鉄道の電車に取り付けられた集電シューとディストリクト鉄道の線路との間に不整合が見つかり、ディストリクト鉄道側での運行が中止されて改造された。全面的な電気運転は9月24日に開始され、環状線1周の所要時間を70分から50分に短縮した[143][144]。
グレート・ウェスタン鉄道がパーク・ロイヤルに6メガワットの発電所を建設し、パディントンからハマースミスまでの路線を電化した後、共同所有の車両によりハマースミス・アンド・シティ線での電気運転が1906年11月5日に開始された[145]。同年、メトロポリタン鉄道はイースト・ロンドン鉄道への乗り入れを中断し、1913年に電化されるまでの間は[146]ディストリクト鉄道のホワイトチャペル駅で打ち切りとした[32]。ハマースミス・アンド・シティ線の列車は、ロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道の路線上をリッチモンドまでの運転を1906年12月31日に取り止めたが、グレート・ウェスタン鉄道のスチームモーター列車は、ラドブローク・グローブからリッチモンドまでの運行を1901年12月31日まで続けた[147]。
ハーローより先の路線は電化されなかったため、列車はベイカー・ストリート駅から電気機関車で牽引され、途中で蒸気機関車に交換されていた[136]。1907年1月1日からすべての列車について機関車交換はウェンブリー・パークで実施された[148]。1908年7月19日からはハーローで交換された[146]。グレート・ウェスタン鉄道のラッシュ時のシティへの列車は運行を継続し、1907年1月から[143]はパディントンにおいて[149]電気機関車が蒸気機関車から引き継ぐようになったが、スミスフィールドまでの貨物列車は蒸気機関車が通しで牽引し続けた[150][note 28]。
1908年にロバート・セルビー[note 29]がゼネラルマネージャーに任命され、1930年までこの地位を保った[154]。1909年に延長された路線からシティまでの限定的な直通運転が再開された。ベイカー・ストリート駅は2つの島式ホームと4線の構造に1912年に改築された[155]。輸送量の増加に対応するために、ハーローより南の路線は複々線化され、まず1913年にフィンチリー・ロードからキルバーンまで、そして1915年にはウェンブリー・パークまでが複々線となった[156]。しかしフィンチリー・ロードとベイカー・ストリートの間の地下線は複線のままで残り、ボトルネックとなった[157]。
ロンドン地下鉄
ロンドンの地下鉄の利用を促進するために、共同でのマーケティング協定に合意された。1908年にメトロポリタン鉄道はこの枠組みに参加し、路線図や共同での宣伝、通しの乗車券などに取り組んだ。ロンドンの中心部では、駅の外部にUNDERGROUNDの表示が掲出された。最終的にはロンドン地下電気鉄道がメトロポリタン鉄道とウォータールー・アンド・シティ鉄道以外のすべての地下鉄を傘下におさめ、赤い円形に青い棒を備えた駅名標を導入した。メトロポリタン鉄道はこれに対して、赤い菱形に青い棒を示した駅名標を導入して対応した[158]。しかし、セントラル・ロンドン鉄道が事前の打ち合わせなしに、競合するメトロポリタン鉄道の路線よりかなり安く定期券の値段を設定したことから、セルビーは1911年にゼネラルマネージャーの会議から引き揚げ、会議を通じたさらなる協同は行き詰ることになった[159]。地下鉄グループとの合併提案はセルビーにより拒否され、1912年11月のプレスリリースで、メトロポリタン鉄道はロンドン郊外の地域と、本線鉄道との関係およびその貨物事業に関心があると表明した[160]。
イースト・ロンドン鉄道
1906年にメトロポリタン鉄道とディストリクト鉄道がイースト・ロンドン鉄道への直通を打ち切って以来、イースト・ロンドン鉄道での運行はサウス・イースタン鉄道、ロンドン・ブライトン・アンド・サウス・コースト鉄道、グレート・イースタン鉄道によって行われていた。メトロポリタン鉄道もディストリクト鉄道も、この路線を電化したいと思っていたが、電化の費用を正当化することができずにいた。議論は続けられ、1911年にイースト・ロンドン鉄道は、ロンドン地下電気鉄道からの供給電力とメトロポリタン鉄道による列車運行で電化されることに合意された。議会承認は1912年に得られ、直通運転は1913年3月31日に再開された。メトロポリタン鉄道は、サウス・イースタン鉄道のニュー・クロス駅およびロンドン・ブライトン・アンド・サウス・コースト鉄道のニュー・クロス駅の双方からサウス・ケンジントン駅まで1時間に2本の列車を走らせ、また1時間に8本のシャトル列車を双方のニュー・クロス駅から交互にショアディッチ駅まで運行した[161][32]。
グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道
グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道は、グレート・ノーザン鉄道からの列車をフィンズベリー・パーク駅からシティ・オブ・ロンドンのムーアゲート駅へ直接乗り入れられるようにするために計画された。トンネルは本線の列車が通れるように内径16フィート(約4.9 m)で建設され、セントラル・ロンドン鉄道の内径12フィート(約3.7 m)と対照をなしていた。グレート・ノーザン鉄道は最終的にこの計画に反対することになり、本線のフィンズベリー・パーク駅の地下のトンネル内を北のターミナルとして1904年に開通した[162]。
グレート・ノーザン鉄道が、シティ・ワイドンド線を経由してムーアゲート駅まで運転している列車を代わりにグレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道経由で運転するのではないかと懸念して、メトロポリタン鉄道はこの地下線の買収を試みた。1912年から1913年にかけて買収と、グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道をムーアゲート駅とリバプール・ストリート駅の間でインナー・サークル線に、そしてまたウォータールー&シティー線に接続するように延長する法案が提出された。買収は認可されたが、シティの不動産所有者の反対のために路線の延長工事は法律から除かれてしまった。翌年、メトロポリタン鉄道とグレート・ノーザン鉄道が共同で、グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道とグレート・ノーザン鉄道をフィンスベリー・パーク駅で接続するように修正した法案を提出した。しかし今回はノース・ロンドン鉄道に反対されて、この法案は撤回された[163]。
戦争とメトロランド 1914年 - 1932年
第一次世界大戦
1914年7月28日に第一次世界大戦が勃発し、1914年8月5日に鉄道運営委員会を通じてメトロポリタン鉄道は政府の管理下に置かれた。多くの職員が軍に志願していなくなり、1915年からは女性が出札係や集札係として雇われるようになった[164]。シティ・ワイドンド線はイギリス海峡の港と北部へ通じる本線をつなぐ戦略的に重要な路線とみなされ、兵員や貨物の輸送に用いられた。戦争の4年間でこの路線に26,047本の軍用列車が運転され、合計254,000トンにおよぶ物資が輸送されたが[165]、急カーブがあったため負傷兵を乗せて帰ってくる救急列車はこの路線を使うことができなかった[166]。政府管理は1921年8月15日に終了した[164]。
メトロランドの開発
余剰の土地は処分するように求められていた他の鉄道会社とは異なり、メトロポリタン鉄道は法律の条項により、将来の鉄道用途に必要であると考える土地を保持する特権を持っていた[note 30]。当初は余剰の土地は、メトロポリタン鉄道の取締役が構成する土地委員会によって管理されていた[168]。1880年代にメトロポリタン鉄道がスイス・コテージ駅より先に路線を延長し、ニーズデンに労働者住宅が建設していたのと同時期に[169]、ウィルズデン・パークの土地に道路や下水が整備され、土地は建設者に売却された。同様の開発はピナー近辺のセシル・パークでも行われ、ウェンブリーにおける塔の失敗後、ウェンブリー・パークの土地区画も売却された[170][note 31]。
1912年に当時ゼネラルマネージャーであったセルビーは、専門技術が必要であると考えて、余剰土地委員会から土地を買収して鉄道周辺の不動産を開発する会社を設立する指示をした[173]。しかし、第一次世界大戦のためにこの計画は遅れ、1919年に住宅ブームを期待して[174]メトロポリタン鉄道地方不動産会社(Metropolitan Railway Country Estates Limited、MRCE)が設立された。議会がメトロポリタン鉄道の特別な地位を再考することを懸念して、会社は法的な助言を求めた。助言によれば、メトロポリタン鉄道は土地を保有する権利を持ってはいたが、それを開発する権利は無いとされ、そのために1人を除くすべての取締役が鉄道会社の取締役なのではあるが、独立した会社が設立された[175]。MRCEはニーズデン近郊のキングズベリー・ガーデン・ビレッジやウェンブリー・パーク、セシル・パークやピナーのグレンジ・エステート、リックマンズワースのシダーズ・エステートなどの開発を行い、ハーロー・ガーデン・ビレッジのような場所を造成した[174][175]。
メトロランドという言葉は、1915年に「延長路線の案内」(Guide to the Extention Line) という冊子が「メトロランドガイド」(Metro-land guide) に改称して1ペニーで販売されるようになった際に、メトロポリタン鉄道のマーケティング部門が造語したものである。この冊子により、メトロポリタン鉄道が販売する土地を訪問者や後には家を探す人に対して宣伝した[173]。メトロポリタン鉄道が独立して存続した最後の年であった1932年まで毎年発行され、「チルターンの素晴らしい空気」を「メトロランドを愛好する人には、各々の好む森のブナの木や雑木林があるかもしれません。春にはすべてが緑に、10月にはあずき色におののく素晴らしさがあります」といった言葉を使って宣伝した[176]。宣伝された夢は、ロンドン都心部への高速な鉄道の便がある美しい郊外に建つ近代的な住宅であった[177]。
1914年頃から会社は自身を「ザ・メット」(The Met) という名で宣伝したが、1920年以降の宣伝担当管理者となったジョン・ワードルは、時刻表やその他の宣伝品に代わりに「メトロ」(Metro) という言葉を使うようにした[178][note 32]。土地の開発はロンドン都心部でも行われ、1929年には大きくて豪華な集合住宅「チルターン・コート」がベイカー・ストリートに開設された[177][note 33]。設計はメトロポリタン鉄道の建築家、チャールズ・W・クラークで、当時彼はメトロランド周辺の多くの駅の改築の設計に責任を持っていた[157]。
インフラストラクチャーの改良
郊外への旅客輸送を改善するために、1920年に強力で75マイル毎時(約121 km/h)のH型が導入され[182]、続いて1922年から1923年にかけて最高速度65マイル毎時(約105 km/h)の新型電気機関車が導入された[183]。ニーズデンの発電所の発電能力はおよそ35メガワットへ増強され[184]、1925年1月5日にリックマンズワースまで電化が延伸されて、機関車交換地点がそこまで伸ばされた[157]。
1924年から1925年にかけて、大英帝国博覧会がウェンブリー・パーク・エステートで開かれ、隣接するウェンブリー・パーク駅に新しい島式ホームと博覧会場へつなぐ屋根つきの橋が建設されて改良された[185]。メトロポリタン鉄道自身も博覧会に出展し、1924年には電車を、1925年にはこれに加えて15号電気機関車を展示し、後にこれは「ウェンブリー1924」と命名された[186]。ワトキンの塔の跡地にはスポーツ施設のウェンブリー・スタジアムが建設された[185]。スタジアムはこけら落としとして、1923年4月28日に125,000人の観客を集めてFAカップ決勝が開かれたが、スタジアムの公式収容人数を超える観客が殺到したため混乱したものとなった。1926年に刊行されたメトロランドでは、メトロポリタン鉄道はこの日にウェンブリー・パークへ152,000人の旅客を輸送したと誇っていた[177]。
1925年には、リックマンズワースからワトフォード駅までの支線が開通した。ワトフォードには1837年以来鉄道駅が存在していたのだが[187][note 34]、ワトフォード商人協会が1895年にメトロポリタン鉄道に対して、スタンモア経由でワトフォードまでの路線を建設するという提案を行った。彼らは1904年にも提案を行い、その時は地域の郡議会とともに、より短いリックマンズワースからの支線を提示した[188]。可能な経路が1906年に調査され、1912年にメトロポリタン鉄道とグレート・セントラル鉄道が合同でリックマンズワースからワトフォードの中心までの路線を、カシオベリー公園を築堤で通過する形で建設するという法案を提出した。しかし築堤には反対があり、駅と貨物扱い設備は公園のすぐ手前に設けられることになった。修正された法案は1912年8月7日に通過し、ワトフォード合同委員会が設立されたが、1914年の第一次世界大戦勃発により建設は遅れることになった。戦争終結後、1921年通商施設法により雇用を促進する投資計画に対して政府が財務的な保証を行うことになり、これを利用して建設は1922年に開始された。この路線の建設中、1921年鉄道法によるグループ化により、1923年にグレート・セントラル鉄道はロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道となった。延長線と支線が交差する地点には2つの分岐点が設けられ、列車はリックマンズワースに対しても南へロンドンへ向かっても走れるようになっていた。途中駅はクロックスリー・グリーン駅(現在のクロックスリー駅)のみで、1925年11月3日に運行が開始され、列車はメトロポリタン鉄道の電車によりムーア・パーク駅、ベイカー・ストリート駅経由リバプール・ストリート駅行きと、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道の蒸気機関車列車によりメリルボーン駅行きが運転された[189]。メトロポリタン鉄道はまた、ワトフォードとリックマンズワースの間のシャトル列車も運行した[190]。1924年から1925年にかけてハーローの北の平面交差は全長1,200フィート(約370 m)の立体交差に置き換えられ、アクスブリッジ支線への列車と本線への列車を分離した[191]。
当初のメトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道のベイカー・ストリート駅までのトンネルへ入るために、複々線の急行線と緩行線が通常の複線に合流する、フィンチリー・ロード駅のボトルネックはまだ残っていた。1925年に、メトロポリタン鉄道の車両を通せる大きさの2本の新しい地下鉄トンネルを建設するという計画が作られた。この路線はキルバーン・アンド・ブロンデスベリー駅の北の分岐点で分岐し、キルバーン・ハイ・ストリート、マイダ・ベール・アンド・エッジウェア・ロードの下を通ってベイカー・ストリート駅へ行くものであった[192][193]。この計画にはクエックス・ロード、キルバーン・パーク・ロード、クリフトン・ロードの3つの新駅が含まれていたが[194]、運輸省が旅客線に対する要求を改訂して、地下深いトンネルを走行する列車に対しては両端に非常口を設けることを要求したため、計画は進展しなかった。ハーローより北で使用されているコンパートメント式の車両はこの要求を満たさなかったのである[195]。しかし、エッジウェア・ロード駅はプラットホーム4本に改築され、列車行先表示装置にバーニー・ジャンクションやアクスブリッジなどの駅名が準備された[196]。
1920年代、オフピークにはウェンブリー・パークからベイカー・ストリートまで4 - 5分おきに列車が運転されていた。ワトフォードとアクスブリッジのそれぞれから、1時間当たり2本の列車がウェンブリー・パークからはノンストップで運転され、レイナーズ・レーン、ウェンブリー・パーク、ニーズデンからの各駅停車もあったが、これらのほとんどはマールバラ・ロードとセント・ジョンズ・ウッド・ロードには停車しなかった。オフピークにはムーア・パーク以北の駅にはメリルボーンからの列車が停車した。ピーク時には、2.5分から3分おきにベイカー・ストリート駅に列車が到着し、半分はムーアゲート、リバプール・ストリート、アルドゲートへ直通した[197]。インナー・サークル線では、ハマースミスからの列車はベイカー・ストリートを6分おきに通過する一方、ケンジントン(アディソン・ロード)からの列車はエッジウェア・ロードで打ち切られた[198]。サークル線において1時間に10本の列車頻度を保つのは困難であるとわかったため、ディストリクト鉄道がプットニーとケンジントン・ハイ・ストリートの間で運転していた列車をサークル線のエッジウェア・ロードまで新しいプラットホームを利用することで延長し、メトロポリタン鉄道はインナー・サークル線の列車を1時間に8本運転することになった[199][note 35]。
キャノンズ・パークでの新しい住宅開発への便を提供するために、ウェンブリー・パーク、からスタンモアまでの支線の建設が1929年に始まった[184]。途中駅はキングズベリー駅、キャノンズ・パーク(エッジウェア)駅(1933年にキャノンズ・パーク駅に改称)、スタンモア駅であった[32]。今回もまた政府は、今度は開発融資保証・供与法の下に財務保証を与え、この計画でまたウェンブリー・パーク、からハーローまでが複々線化された。この路線は当初から電化されており、またウェンブリー・パークの信号扱所から制御される自動色灯式信号機を備えており、1932年12月9日に開業した[184][200]。
ロンドン旅客輸送委員会 1933年
ロンドン地下電気鉄道と異なり、メトロポリタン鉄道は沿線のメトロランドでの住宅開発から直接収益を得ており[174]、その設立以来株主に対して配当を支払い続けていた[201]。当初の会計は信頼できないものの、19世紀末までには約5パーセントの配当を支払っていた。この数値は1900年以降、路面電車やセントラル・ロンドン鉄道が旅客を奪っていったため降下し始め[202]、1907年から1908年にかけては0.5パーセントまで低下した。電化後旅客が戻ってきたため1911年から1913年にかけては2パーセントに戻り、1914年の第一次世界大戦の勃発で1パーセントに減った[201]。1921年までには十分回復して2.25パーセントの配当を支払えるようになり、その後戦後の住宅ブームにより着実に上昇して1924年から1925年にかけては5パーセントに達した。1926年イギリスゼネラルストライキにより3パーセントに減少したが、1929年には4パーセントに回復した[201][174]。
1913年にメトロポリタン鉄道は、ロンドン地下電気鉄道からの合併提案を拒絶し、ロバート・セルビーのリーダーシップの下頑固に独立を保ち続けていた[174]。1921年8月19日に成立した1921年鉄道法では、ロンドンの地下鉄道会社はグループ化されるべき会社に含まれなかったが、法案の段階ではメトロポリタン鉄道も含まれていた[203]。1930年に、ロンドンの公共交通を統合するという提案が出された際には、メトロポリタン鉄道は貨物営業をしているので、本線の4大グループ鉄道会社と同じ地位であってロンドン地下電気鉄道とは性格が違うと主張したが、政府はメトロポリタン鉄道がディストリクト鉄道と共同でインナー・サークル線を運営していたことから、同じようなものとみなしていた。主に小さな独立バス事業をうまく協調させることを目的としていた[204]ロンドン旅客輸送法が1931年3月13日に提出されたのち、メトロポリタン鉄道はこれに対して11,000ポンドを費やして反対した[205]。法案は1931年に政府による改定を加えられながらも残り、新政権がサークル線への走行用電力の供給を手放すならばメトロポリタン鉄道は独立を維持できるという提案を行ったが、メトロポリタン鉄道はこれに反応を示さなかった。経営者はここで株主への補償交渉に転じた[206]。この時点ですでにバスとの競争や世界恐慌により旅客数が減少し始めていたのである[207]。1年を通して運営した最後の年である1932年には、1.625パーセントの配当が払われた[201]。1933年7月1日にロンドン旅客輸送委員会が公社として発足し、メトロポリタン鉄道は他の地下鉄道会社、路面電車会社、バス事業者とともに吸収合併された。メトロポリタン鉄道の株主はロンドン旅客輸送委員会の株式の形で1970万ポンドを受け取った[208][note 36]。
移管後
メトロポリタン鉄道はロンドン地下鉄のメトロポリタン線となり、郊外の一部の路線は廃止となった。ブリル支線は1935年に、続いてクエイントン・ロード - バーニー・ジャンクション間は1936年に廃止となった。ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道が蒸気機関車による列車運行と貨物運行を引き継いだ。1936年にメトロポリタン線の列車がディストリクト線によりホワイトチャペル駅からバーキング駅まで延長された。ニュー・ワークス・プログラムにより1939年にベーカールー線がベイカー・ストリート駅から新しい2本のトンネルでフィンチリー・ロード駅まで通じ、さらにウェンブリー・パーク駅までの途中駅とスタンモア支線を引き継いだ[209]。この支線は後に、ジュビリー線が1979年に開通した際にジュビリー線に移管された[32]。グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道は孤立路線として残り、ノーザン線として運行されたが、1976年にイギリス国鉄に引き継がれた。
蒸気機関車は1960年代初期までリックマンズワースの北で使用されたが、アマーシャムまでの路線が電化されて電車が導入され、ロンドン交通局はアマーシャム以北の運行からは撤退したことで蒸気機関車はなくなった[210]。1988年にハマースミスからアルドゲートとバーキングまでの区間はハマースミス&シティー線となり、ニュー・クロスからショアディッチまではイーストロンドン線となって、アルドゲートからベイカー・ストリートまで、そしてそこから北へハーローを通る線がメトロポリタン線として残った。
1933年の統合後、メトロランドというブランドは急速に使われなくなった[177]。20世紀半ばころには、メトロランドの精神は1954年に発行された詩集「何本かの晩菊」に収録されたジョン・ベチェマンの詩「メトロポリタン鉄道」などで記憶され[211]、後に1973年2月26日に初めて放送されたテレビドキュメンタリー「メトロランド」でさらに広く知られるようになった[212]。メトロランドの郊外は、1980年に初めて発行されたジュリアン・バーンズの教養小説「メトロランド」の舞台となった[213]。この小説に基づくやはりメトロランドという映画は1997年に公開された[214]。
貨物輸送
1880年までメトロポリタン鉄道は自社では貨物列車を運行しておらず、1866年2月20日からグレート・ノーザン鉄道がファリンドン・ストリート駅を経由してロンドン・チャタム・アンド・ドーバー鉄道までの貨物列車をメトロポリタン鉄道の線路を使用して運転を開始した。続いてミッドランド鉄道からの貨物列車も1868年7月に運行を開始した。グレート・ノーザン鉄道、グレート・ウェスタン鉄道、ミッドランド鉄道ともファリンドン地区に貨物扱い設備を開設し、シティ・ワイドンド線からこの施設に通じるようになっていた。しかし、メトロポリタン鉄道がベイカー・ストリート駅から外へ向けて路線を拡張していくと、貨物列車が重要なものとなっていった。1880年にメトロポリタン鉄道はハーロー・ディトリクトガス会社から石炭輸送を獲得し、フィンチリー・ロード駅に設けたミッドランド鉄道との受け渡し側線からハーローの石炭ヤードまでの輸送を行った。延長路線が建設される際には、ほとんどの駅に貨物扱い設備と石炭基地が併設された[215]。ロンドン向けの貨物は当初はウィルズデンで取り扱われ、そこから道路で配送されるか[216]ミッドランド鉄道に受け渡された[217]。グレート・セントラル鉄道が建設されたことで、北はクエイントン・ロードで、そして南へはニーズデン経由でアクトンやキューへと接続された[218]。
1909年にメトロポリタン鉄道はファリンドン近くに、貨車7両分の延長の側線2本を備えるヴァイン・ストリート貨物扱い施設を開設し、ウェスト・ハンプステッドから定期列車を運行した[note 37]。貨物列車は電気機関車で牽引され、最大14両の貨車をつなぎ、重量は都心へ向かう時は250ロングトン(約254メートルトン)に、郊外へ向かう時は225ロングトン(約229メートルトン)に制限されていた。1910年にはこの貨物扱い施設では11,400ロングトン(約11,600メートルトン)を扱い、1915年には25,100ロングトン(約25,500メートルトン)に増加した[220]。1913年にはこの貨物扱い施設は容量の限界を超えていると報告されていたが、第一次世界大戦後自動車輸送が重要な競合者となり、1920年代末までには輸送量は管理可能なレベルまで減少した[221]。
蒸気機関車と、ニーズデンにある会社の火力発電所、そして地域のガス工場向けの石炭は、クエイントン・ロード駅経由で運び込まれていた。牛乳はヴェール・オブ・エイルズベリーからロンドン郊外へ輸送され、食料品はヴァイン・ストリートからアクスブリッジにある大規模小売商アルフレッド・バトン・アンド・サンへと輸送された。ビリングスゲート魚市場へメトロポリタン鉄道とディストリクト鉄道の合同駅モニュメント駅を経由して運ばれる魚は、駅入口を「言葉で表せないくらい不潔な状況」にするとして苦情を受けることになった。ディストリクト鉄道は魚専用の出入口を設けることを示唆したが、そうした措置が実際に講じられることは無かった。グレート・セントラル鉄道がメリルボーンまでの自動車輸送を導入したことで輸送量はかなり減少したが、この問題は1936年まで残り、ロンドン旅客輸送委員会がインナー・サークル線の列車での小荷物輸送を廃止する1つの原因にも挙げられた[222]。
当初は道路輸送での配達業務は契約業者が使用されていたが、1919年からメトロポリタン鉄道は自社で配送業務を行うようになった[216]。ロンドン地下鉄の一部となる前の1932年には、会社は544両の貨物車両を有し、162,764ロングトン(約165,376メートルトン)の石炭、2,478,212ロングトン(約2,517,980メートルトン)の原料、1,015,501ロングトン(約1,031,797メートルトン)の貨物を輸送した[223]。
鉄道車両
蒸気機関車
地下トンネル内での排気問題への懸念から、蒸気機関車の新しい設計が生み出されることになった。路線が開通する前の1861年に、ファウラーズ・ゴーストとニックネームを付けられた実験機関車により試験が行われた。これは不成功に終わり、最初の営業列車はグレート・ウェスタン鉄道の広軌の復水式蒸気機関車であるグレート・ウェスタン鉄道メトロポリタン型蒸気機関車により牽引された。これはダニエル・グーチが設計した車軸配置2-4-0のタンク機関車であった。さらにメトロポリタン鉄道が自身の車軸配置4-4-0のタンク機関車を導入するまで、標準軌のグレート・ノーザン鉄道の蒸気機関車が用いられた[224]。これらの機関車はマンチェスターのベイヤー・ピーコック製であった。設計はしばしばメトロポリタン鉄道の技術者ジョン・ファウラーのものだとされるが、しかし実際には機関車はベイヤー・ピーコックがスペインのトゥデラ・ビルバオ鉄道向けに製造した機関車の発展形であり、ファウラーは単に動輪の直径、軸重と曲線への対応性能を指示しただけであった[37]。1864年に18両が発注され、当初は個別に名前が付けられていた[225]。1870年までに合計40両が製造された。地下での煙を減らすために、当初はコークスが燃料に用いられ、1869年にウェールズ産無煙炭に切り替えられた[40]。
1879年からさらに機関車が必要とされ、設計が更新されて合計24両の新型機関車が1879年から1885年にかけて納入された[226]。当初はこの機関車は明るいオリーブグリーンに塗られ黒と黄の線が入り、煙突は頂部が銅で造られ、前部には真鍮で作られた数字で機関車番号が示され、蒸気ドームは磨かれた真鍮でできていた。1885年に塗装が変更され、ミッドケアド (Midcared) として知られる暗い赤になった。これは標準色として残り、ロンドン交通局によって1933年にメトロポリタン線の色と定められた[227]。1925年にメトロポリタン鉄道が機関車をアルファベットの文字で分類した際に、これらの機関車はA型およびB型となった[205]。メトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道の建設中、A型とB型ではこの線の勾配には適さないと考えられ、5両の車軸配置0-6-0のタンク機関車が1868年に納入された。しかし、A型とB型は特に問題なく列車を牽引することができることが判明し、この0-6-0タンク機関車は1873年と1875年にタフ・ヴェール鉄道に売却された[228]。
1891年からは、ベイカー・ストリート駅から郊外へ向けての延長路線での運用のためにさらなる機関車が必要とされるようになった。サウス・イースタン鉄道のQ型の発展形である、車軸配置0-4-4のC型が1891年に4両導入された[229][228]。1894年に2両のD型がエイルズベリーとバーニー・ジャンクション間での運用のために導入された。これらの機関車は、フィンチリー・ロード駅より南で運用するために必要な復水設備を搭載していなかった[230]。1896年に車軸配置0-4-4のE型2両が自社のニーズデン工場で製造され、さらに事故で損傷した当初のA型1号機を代替するために1898年に1両が追加された。さらに4両がホーソン・レスリーで1900年から1901年にかけて製造された[231]。延長路線における貨物輸送量増大に対応するために、1901年に車軸配置0-6-2のF型が4両導入された。これは車軸配置が違い蒸気暖房の設備が無いという点を除けばE型に類似するものであった[232]。1897年と1899年にメトロポリタン鉄道は2両の車軸配置0-6-0のサドルタンク機関車を、ペケット・アンド・サンズの標準設計で導入した。これらの機関車は正式には形式分類されず、ニーズデンとハーローにおける入換に主に使用された[233]。
1905年から1906年にかけてロンドン市内の路線網が電化されたことで、多くの機関車が不要となった。1907年までに古いA型、B型の機関車のうち40両が売却されるか解体され、1914年時点ではこれらの形式のうち13両のみが残存しており[234]、入換、ブリル軌道における事業用・工事用列車などに使用されていた[235]。旅客用・貨物用ともにさらに強力な機関車が必要とされ、1915年には4両のG型(車軸配置0-6-4)がヨークシャー・エンジンから調達された[236]。最高速度75マイル毎時(約121 km/h)のH型(車軸配置4-4-4)は、1920年と1921年にかけて8両製造され、主に急行旅客運用に用いられた[237]。貨物列車をより長くし、高速にして列車本数を減らすために、1925年に6両の貨物用K型(車軸配置2-6-4)が、第一次世界大戦後にウーリッジのロイヤル・アーセナルが製造した車軸配置2-6-0の蒸気機関車からの改造で導入された。これらの機関車はフィンチリー・ロードより南側で運行することは認められていなかった[238]。
2両の機関車が保存されている。A型の23号がロンドン交通博物館に[239]に、E型の1号がバッキンガムシャー鉄道センターに保存されている[240]。1号はメトロポリタン鉄道の150周年記念イベントで2013年1月に蒸気での走行を行い[241]、2013年2月時点では2013年後半にも操向が予定されている[242]。
客車
メトロポリタン鉄道は当初自社では車両を保有せず開業し、最初はグレート・ウェスタン鉄道が、続いてグレート・ノーザン鉄道が運行を行った。グレート・ウェスタン鉄道はチーク製の8輪コンパートメント式客車を使用した。1864年にメトロポリタン鉄道は、グレート・ウェスタン鉄道の設計に基づくが標準軌に手直ししたものを、アシュベリー鉄道車両・鉄工所製の自社車両として導入した[224][note 38]。照明はガス灯式で、一等客室には2灯、二等と三等の客室には1灯が灯されていた[245]。1877年から圧力式石油ガスシステムが使用された[246]。当初は客車は、列車の前部か後部に設けた車掌室から手で操作する木製制輪子によりブレーキがかけられており、独特の臭いがした[247][248]。これは1869年に鎖ですべての客車のブレーキを動作させる方式に変更された。チェーンによるブレーキは突然動作し、旅客が負傷することもあり、1876年には直通真空ブレーキに置き換えられた[249][246]。1890年代に、サークル線の列車の一部の客車で、機械的な次の駅を案内する表示器が試験された。これは線路間に設置された木製のフラップによって動作するものであった。信頼性が無いと判断されて全面的な採用は承認されなかった[250]。
1870年に固定車軸4輪で固定連結の客車がオールドベリーで造られた[251]。1887年に何件か脱線事故を起こしてから、延長路線向けにジュビリー車両として知られる新しい設計の全長27フィート6インチ(約8.38 m)の固定車軸4輪客車がクレイブンズで製造された。製造当初から圧力ガス式照明システムと直通真空ブレーキが搭載され、後に蒸気暖房が追加された。1892年にはさらに追加導入されたが、1912年までにすべての車両が運行終了となった[252]。1893年5月に商務省の命令により、すべての機関車と客車に自動真空ブレーキが搭載された[253]。ジュビリー車両の一等客車は復元されて、2013年1月のメトロポリタン鉄道150周年記念イベントで旅客を乗せた[254][241]。
1898年にはアシュベリーで、1900年にはクレイブンズとメトロポリタン鉄道ニーズデン工場で、ボギー客車が製造された。これは乗り心地が良く、蒸気暖房、自動真空ブレーキ、電気照明、全等級で貼り物のされた座席などがあった[229][255][256]。ブルーベル鉄道では1898年から1900年にかけてアシュベリーやクレイブンズで製造された4両の客車を保有しており、またニーズデン製のもう1両がロンドン交通博物館にある[257]。
近郊路線やその延長路線でのグレート・セントラル鉄道との競争により、1910年からさらに快適なドレッドノート車両の導入が始まった[146]。この木製コンパートメント式車両は合計92両が導入され、圧力ガス式照明と蒸気暖房を備えていた[258]。1917年に電気照明に切り替えられ、1922年には電気機関車牽引の際の暖房のために電気ヒーターが追加された[256]。後に5両・6両または7両編成に組成され[259]、先頭と末尾の車両に集電シューが取り付けられて母線に接続され、電気機関車が第三軌条の切れ目で止まってしまうのを防ぐために接続された[258]。2編成には、追加料金でビュッフェのサービスを行うプルマンの車両が連結されていた[260][note 39]。ビンテージ・キャリッジ・トラストは3両のドレッドノート車両を保存している[262]。
1906年から、アシュベリー製のボギー客車の一部が電車に改造された[263]。ドレッドノート車両の一部は電動車として使用されたが、3分の2は延長路線において機関車牽引の客車として使用され続けた[264]。
電気機関車
電化後は、郊外路線においては従来からの客車をベイカー・ストリート駅から電気機関車牽引で運転し、途中で蒸気機関車に交換した。メトロポリタン鉄道は、メトロポリタン・アマルガメイテッドに対して2種類の電気装備品を持つ20両の電気機関車を発注した。最初の10両はブリティッシュ・ウェスティングハウスの電気品を搭載して製造され、1906年に運行を開始した。このキャメルバック型機関車はセンターキャブ(中央運転台式)を特徴としており[146]、重量は50トン[265]、215馬力(約160 kW)電動機4基を装備した[266]。2番目のものは箱型車体でブリティッシュ・トンプソン=ヒューストンの電気品を装備し[266]、1919年にウェスティングハウスのものに置き換えられた[266]。
1920年代初頭、メトロポリタン鉄道はバロー・イン・ファーネスのメトロポリタン=ヴィッカースに20両の電気機関車の改造の注文を出した。最初の機関車の改造工事が始まった際、非実用的で不経済であることが判明し、注文は原車両から回収したいくつかの装備品を利用して完全に新しい機関車を製造するものに変更された。新しい機関車は1922年から1923年にかけて製造され、ロンドンの有名な住民にちなんで名づけられた。4基の300馬力(約220 kW)電動機を装備して合計1,200馬力(約890 kW、1時間定格)であり、最高速度は65マイル毎時(約105 km/h)であった[183]。
5号機の「ジョン・ハムデン」ロンドン交通博物館で静態保存され[267]、12号機「サラ・シドンズ」は歴史的なイベントに用いられ、2013年1月のメトロポリタン鉄道150周年記念イベントでも走行した[242]。
電車
最初の電車の注文はメトロポリタン・アマルガメイテッドに対して1902年に出され、ウェスティングハウス製の装備を搭載した50両の付随車と20両の電動車で、6両編成を構成した。一等車と三等車がオープンサルーン形式で製造され、二等車はメトロポリタン鉄道では廃止された[268]。客室への出入りは車端のデッキの格子戸からで[269]、閑散時には3両編成で走行できるようになっていた[270]。ハマースミス&シティー線での共同運行に対しては、メトロポリタン鉄道とグレート・ウェスタン鉄道は6両編成12本をトムソン=ヒューストン製の装備品で購入した[271]。1904年にメトロポリタン鉄道はさらに36両の電動車と62両の付随車、オプションとしてさらに20両の電動車と40両の付随車の注文を出した。ウェスティングハウス製の装備品に問題があったためオプションが実行された際にはトムソン=ヒューストン製の装備品が指定され、さらに強力な電動機が装備された[269]。1918年以前は、強力な電動機を装備した電動車が3両の付随車を牽いてサークル線の運用に使われた[272]。車端デッキの格子戸は地上走行時に問題であるとみなされ、すべての車両がベスティビュール付に1907年までに改造された[270]。また両端のドアからのみの出入りは需要の多いサークル線での運行には問題であったため、1911年から中央部に引き戸が装備された[273]。
1906年からは、アシュベリー製のボギー客車の一部に運転台、制御器、電動機を搭載して電車に改造が行われた[263]。1910年に2両の電動車について両端に運転台を取り付ける改造を行った。この車両はアクスブリッジ-サウス・ハーロー間のシャトル列車に使用され、1918年にアディソン・ロードのシャトル列車に転用された。1925年から1934年まではこれらの車両はワトフォードとリクマンズワースの間で運用された[274]。
1913年に23両の電動車と20両の付随車が発注され、これは引き戸を両端と中央に備えたオープンサルーン客車であった。これらの車両はサークル線と、新しく電車で運転されるようになった、イースト・ロンドン鉄道経由のニュー・クロス駅までの運用に用いられた[275]。1921年に20両の電動車、33両の付随車、6両の一等制御車が3つの両引き戸を備えた形で納入された。これらもサークル線に投入された[276]。
1927年から1933年にかけて、メオロポリタン・キャリッジ・アンド・ワゴンとバーミンガム・レールウェイ・キャリッジ・アンド・ワゴンによって順次コンパートメント式の電車がベイカー・ストリート駅とシティからワトフォードおよびリックマンズワースへの運用に用いるために製造された。最初の注文は電動車のみで、半分はウェスティングハウスブレーキとメトロポリタン=ヴィッカースの制御器、4基のMV153電動機を装備し、ボギー客車の付随車を牽引していた電動車を置き換えた。残りの電動車は同じ電動機を装備していたが真空ブレーキを装備しており、1920年から1923年にかけて改造されたドレッドノート客車とともにMV車両を構成した。1929年にMW車両が発注され、MV車両と似ていたがウェステイlングハウスブレーキを装備する30両の電動車と25両の付随車であった。さらにMW車両の発注が1931年に、今度はバーミンガム・レールウェイ・アンド・キャリッジに対して出された。これは7本の8両編成を構成するためのもので、またこれまでのMW車両を8両編成に増強するための追加の付随車も含んでいた。この車両はゼネラル・エレクトリック・カンパニー製のWT545電動機を装備しており、MV153電動機装備の車両と連結して使えるように設計されたのだが、実際にはうまく動作しなかった。メトロポリタン鉄道がロンドン地下鉄となってから、MV車両はウェスティングハウスブレーキを装備し、GEC製電動機を装備した車両はMV153電動機装備の車両と連結して使えるようにギア比を変更された。1938年に、9本の8両編成と10本の6両編成のMW車両が形式変更されてロンドン地下鉄T形電車となった[277]。
脚注
注釈
- ^ 1801年には現在のグレーター・ロンドンの範囲におよそ100万人の人々が住んでいた。1851年にはこれが倍になった[3]。
- ^ 禁止された地域は、ロンドン橋、バラ・ハイストリート、ブラックマン・ストリート、バラ・ストリート、ランベスロード、ヴォクスホール・ブリッジ、ヴォクスホール・ブリッジ・ロード、グロスベナー・プレイス、パーク・レーン、エッジウェア・ロード、ニューロード、シティロード、フィンスベリー・スクエア、ビショップスゲートで囲まれた範囲である[7]。
- ^ 経路はウェストボーン・テラスの南端からグランド・ジャンクションロード(現在のサセックス・ガーデンズ)、サウサンプトンロード(現在のオールド・メリルボーン・ロード)、ニューロード(現在のメリルボーンロードとユーストンロード)の下を通るものであった。グレート・ウェスタン鉄道のターミナル駅と接続する支線が計画されていた[10]。
- ^ こうした法律には鉄道会社ができるだけ早くその路線を完成させるよう促すために期限が設定されていた。またこれにより、建設されなかった鉄道路線の許可が他の鉄道計画を妨げないようにしていた。
- ^ グレート・ウェスタン鉄道のターミナルに接続する代わりに、メトロポリタン鉄道はパディントン駅北側のビショップス・ロードにパディントン駅と並行に自身の駅を建設した。メトロポリタン鉄道はビショップス・ロードの駅の先でグレート・ウェスタン鉄道の線路に接続していた[16]。
- ^ この株は後に収益目的で売却された[17]。
- ^ ユーストン・スクエアより西側の建設工事契約者はスミス・アンド・ナイト、東側ではジョン・ジェイであった[16]。
- ^ メトロポリタン鉄道によれば、高架線に建設する費用は地下線に建設する場合の4倍にもなったであろうとしている[29]。
- ^ マンチェスターのベイヤー・ピーコックが製造した機関車は、よくメトロポリタン鉄道側の技術者、ジョン・ファウラーが設計したとされるが、実際にはスペインのトゥデラ-ビルバオ鉄道向けにベイヤー・ピーコックが製造したものの発展形で、ファウラーは動輪直径、軸重、急曲線での走行性能について指示をしただけであった[37]。
- ^ この報告によれば、エッジウェア・ロードとキングス・クロスの間で平日は1日に528本の旅客列車と14本の貨物列車が運行されており、ベイカー・ストリートとキングス・クロスの間ではピーク時に片道19本の列車が運行され、1,500ポンド(約760 kg)の石炭が燃やされ、1,650ガロン(約7,500リットル)の水が消費され、このうち半分が復水され残りが蒸発していた[42]。
- ^ メトロポリタン鉄道法1861年 (Metropolitan Railway Act 1861) およびメトロポリタン鉄道(フィンスベリー・サーカス延長)法1861年 (Metropolitan Railway (Finsbury Circus Extension) Act 1861) およびメトロポリタン鉄道法は、1864年7月25日に国王裁可を得て、キングス・クロス駅までの追加の線路を承認された。
- ^ このうちの1本のトンネルは1862年に完成しており、1863年8月にグレート・ウェスタン鉄道が車両を引き上げた際に、グレート・ノーザン鉄道から借り受けた車両を搬入するために使用された[47]。
- ^ ハマースミス・パディントン・アンド・シティ・ジャンクション鉄道という名目であった[54]。
- ^ ロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道のリッチモンドまでの線路は、現在ではロンドン地下鉄ディストリクト線の一部となっている。ハマースミス駅からリッチモンド駅までの間でメトロポリタン鉄道の列車が停車した駅は、レイブンスコート・パーク駅、ターンハム・グリーン駅、ガナーズベリー駅、キュー・ガーデンズ駅であった[32]。
- ^ 1863年11月にタイムズ紙は、次の議会ではおよそ30のロンドンにおける鉄道計画が提出されて検討されるであろうと報じた。その多くは「その場の思い付きで計画されたもので、建設費用や建設の実現可能性についてあまり考慮されていない」と考えられていた[62]。
- ^ これらは、メトロポリタン鉄道(ノッティング・ヒルおよびブロンプトン延長)法 (Metropolitan Railway (Notting Hill and Brompton Extension) Act) と、メトロポリタン鉄道(タワー・ヒル延長)法 (Metropolitan Railway (Tower Hill Extension) Act)、そしてメトロポリタン・ディストリクト鉄道法 (Metropolitan District Railway Act) であった[63]。
- ^ 初期のインナー・サークル線の運行については文献によって異なる。Jackson 1986, p. 56では、運行は両社等分であったとし、Lee 1956, pp. 28–29ではメトロポリタン鉄道がすべてを運行したとしている。
- ^ 駅は1871年7月19日に完成し、メトロポリタン鉄道とディストリクト鉄道は共同で1871年の国際博覧会まで駅から連絡バスを運行した[78]。
- ^ ワトキンはケントのハイス選出の議員でもあり、サウス・イースタン鉄道に対してイギリスとフランスを結ぶ英仏海峡トンネルを推進するよう勧めていた。1883年までに、イギリス側から直径7フィート(約2.1 m)のトンネルを2,026ヤード(約1.853 km)まで、フランス側から1,825ヤード(約1.669 km)まで掘られていたが、1882年に高等法院が低潮線より下に工事を進める許可は得られていないと判断したため中断された。その後許可を得る努力がなされたが、侵略のリスクを強調する軍の主張により失敗に終わった[83]。ワトキンは、マンチェスターやシェフィールドからこの英仏海峡トンネルを通じて大陸へ通じるルートを建設する野望を抱いていたとよく言われているが、これに関する証拠は何も残されていない[84][82]。
- ^ メトロポリタンおよびディストリクト鉄道(シティ・ラインズおよび延長)法1879年 (Metropolitan and District Railways (City Lines and Extensions) Act, 1879、1879年8月11日国王裁可[89]
- ^ イースト・ロンドン鉄道は現在はロンドン・オーバーグラウンドの一部である。この路線はテムズ川の下を1843年完成のテムズトンネルで潜っている。セント・メアリーズ駅とニュー・クロス駅の間でメトロポリタン鉄道の列車が停車したのは、シャドウェル駅、ワッピング駅、ロザーハイズ駅、サーリー・クエイズ駅である[32]。
- ^ メトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道法 (Metropolitan & Saint John's Wood Railway Act)、1873年7月21日国王裁可[99]。
- ^ キングスベリー・アンド・ハーロー法 (Kingsbury and Harrow Billはメトロポリタン鉄道とメトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道の共同で推進され、1874年7月16日に国王裁可を得た[99]。
- ^ これらの土地は1989年に保護地域となっている[106]。
- ^ ロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道はこの路線を借り受け、1879年7月21日にはバッキンガムシャー鉄道を吸収している[108]。
- ^ ロンドン・アンド・エイルズベリー鉄道法 (London & Aylesbury Railway Act) は1871年に国王裁可を得た。リックマンズワースおよびハーロー延長法 (Rickmansworth and Harrow Extension Act) は1874年7月16日に国王裁可を得た[99]。
- ^ リックマンズワースまで路線を延長するリックマンズワース延長鉄道法 (Rickmansworth Extension Railway Act) は1880年8月6日に国王裁可を得た。エイルズベリーまでのエイルズベリー・アンド・リックマンズワース鉄道法 (Aylesbury and Rickmansworth Railway Act) は1881年7月18日に国王裁可を得た[111]。
- ^ 蒸気機関車牽引のままで運転された列車もあった。1909年9月に、バーニー・ジャンクションからラムズゲートまで往復した周遊列車は、ブラックフライアーズにおいてメトロポリタン鉄道の機関車からサウス・イースタン・アンド・チャタム鉄道の機関車に交換された[151]。1961年10月1日に、サザン・カウンティーズ旅行協会は臨時列車の運行を企画し、メトロポリタン鉄道の1号蒸気機関車(当時はL44と呼ばれていた)が牽引してスタンモアからファリンドンとイースト・ロンドン線を経由してニュー・クロスまで運転された[152]。
- ^ ロバート・ホープ・セルビー CBE(1868年 - 1930年)はマンチェスターのマンチェスターグラマースクール、そしてオーウェンズ・カレッジで教育を受け、1883年にランカシャー・アンド・ヨークシャー鉄道に入り、ゼネラルマネージャーの秘書や主任運行管理者の助手を務めた。彼は1903年からメトロポリタン鉄道で秘書を務め、1908年からゼネラルマネージャーを務め、1919年にメトロポリタン鉄道不動産の取締役に任命され、1922年にはメトロポリタン鉄道の取締役になった。彼の大英帝国勲章は第一次世界大戦における商務省や道路交通委員会、陸軍資料委員会での活動に対して与えられた。彼は1930年にセント・ポール教会において息子の堅信の儀式に参加しているときに亡くなった[153]。
- ^ 1845年土地条項合同法では、鉄道路線を許可した法律で定めた完成期限から10年以内に余分の土地を売却することを定めていた[167]。
- ^ ニーズデンと同様に、セシル・パーク[171]とウィルズデン[172]はともに保護地域となっている。
- ^ ワードルはユーストン・スクエア駅の新しい駅名標にユーストン・スクエア・メトロとするように希望していたが、セルビーによって覆されて、メトロポリタン鉄道とフルスペルで書かれた[179]。
- ^ チルターン・コートはロンドンでも高い評判を得られる場所となった。小説家のアーノルド・ベネットやハーバート・ジョージ・ウェルズなどが居住した[180]。ウェルズを記念するブルー・プラークが2002年5月8日に建物に取り付けられている[181]。
- ^ 当初の駅から現在のワトフォード・ジャンクション駅の位置に1858年に移転した[187]。
- ^ ディストリクト鉄道は、乗務員を路線に慣れさせておくために、日曜日に4本の列車を運転し続けた[199]。
- ^ これは720万ポンド相当の4.5パーセントA株、200万ポンド相当の5パーセントA株、530万ポンド相当の5パーセントB株、510万ポンド相当のC株からなっていた[208]。
- ^ 他社の貨物扱い設備は既にファリンドン近くのワイドンド線に開設されていた。グレート・ウェスタン鉄道が運行するスミスフィールド・マーケットの側線は1869年5月1日に開設された。グレート・ノーザン鉄道は1874年11月2日に自社の施設を開設し、ミッドランド鉄道もホワイトクロス貨物扱い施設を1878年1月1日に開設した[219]。
- ^ ケント・アンド・イーストウッド鉄道で保存されている車両は、かつては短い4輪のディストリクト鉄道の車両と考えられていたが、現在ではメトロポリタン鉄道の8輪客車を切り詰めたものだと考えられている[243][244]
- ^ メイフラワー (Mayflower)、ガラティー (Galatea) の名前が付けられた2両のプルマン客車は19席の座席があり、6ペンスまたは1シリングの追加料金を払うことで、朝食、昼食、喫茶、夕食などを取ることができた。トイレを装備しており、蒸気暖房装備で製造され1925年に電気暖房が装備された[261]。
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外部リンク
- A trip on the Metropolitan Railwayという1910年頃のサイレント映画 ロンドン交通博物館
- Metropolitan Line Clive's UndergrounD Line Guides