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{{Infobox Writer |
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{{Portal|文学}} |
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|name = レイモンド・チャンドラー<br />Raymond Chandler |
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'''レイモンド・ソーントン・チャンドラー'''('''Raymond Thornton Chandler''', [[1888年]][[7月23日]] - [[1959年]][[3月26日]])は、[[アメリカ合衆国]][[シカゴ]]生まれの、20世紀で最も有名な[[ハードボイルド]]作家の一人。 |
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| image = File:Raymond Chandler (Lady in the Lake portrait, 1943).jpg |
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| image_size = 180px |
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| caption = R・チャンドラー 1943年 |
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|birth_date = {{生年月日と年齢|1888|7|23|no}} |
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|birth_place= {{USA}} [[イリノイ州]][[シカゴ]] |
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|death_date = {{死亡年月日と没年齢|1888|7|23|1959|3|26}} |
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|death_place= {{USA}} [[カリフォルニア州]][[ラホヤ]] |
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|occupation = 小説家 |
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|nationality= {{USA}} (1888–1907, 1956–59)<br/>{{GBR}} (1907–56) |
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|period = 1933年–1959年 |
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|genre = [[犯罪]]、[[サスペンス]]、[[ハードボイルド]] |
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|influences = [[ダシール・ハメット]] |
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|influenced = [[マイケル・シェイボン]]、[[ロス・マクドナルド]]、[[マーク・ノップラー]]、[[ロバート・B・パーカー]]、[[マイクル・コナリー]]、[[ロバート・クレイス]]、[[村上春樹]]、[[ポール・オースター]]、[[コーエン兄弟]]、[[クエンティン・タランティーノ]]、[[カズオ・イシグロ]] |
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'''レイモンド・ソーントン・チャンドラー'''(Raymond Thornton Chandler, [[1888年]][[7月23日]] - [[1959年]][[3月26日]])は、[[アメリカ合衆国]][[シカゴ]]生まれの、[[小説家]]で[[脚本家]]。 |
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== 概要 == |
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1932年、44歳のとき[[大恐慌]]の影響で[[石油企業|石油会社]]での職を失い、[[推理小説]]を書き始めた。最初の短編「{{仮リンク|脅迫者は撃たない|en|Blackmailers Don't Shoot}}」は1933年「[[ブラック・マスク (雑誌)|ブラック・マスク]]」という有名な[[パルプ・マガジン]]に掲載された。処女長編は1939年の『[[大いなる眠り]]』である。長編小説は7作品だけで(8作目は後に[[ロバート・B・パーカー]]が完結させた)、他は中、短編であるが、チャンドラーの長編はほとんど先に書いた中篇が元になっている。『[[プレイバック (小説)|プレイバック]]』以外の長編はいずれも映画化されている。死の直前に[[アメリカ探偵作家クラブ]]会長に選ばれた。1959年3月26日、カリフォルニア州[[ラホヤ]]で死去<ref>Chandler, Raymond (1950). ''Trouble is My Business'', Vintage Books a division of Random House, Inc., 1988 pp. "About the Author"</ref>。 |
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1895年に両親が離婚したことにより、母親について[[イギリス]]に渡る。 |
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チャンドラーの文体はアメリカ大衆文学に大きな影響を及ぼし、[[ダシール・ハメット]]や[[ジェームズ・M・ケイン]]といった他の「ブラック・マスク」誌の作家と共に[[ハードボイルド]]探偵小説を生み出したとされている。彼が生み出した[[主人公]][[フィリップ・マーロウ]]はハメットの[[サム・スペード]]と共にハードボイルド系「私立探偵」の代名詞とされている。[[ハンフリー・ボガート]]が映画で両者とも演じているが、チャンドラー自身はマーロウに一番近い俳優として[[ケーリー・グラント]]をあげている。 |
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[[ダリッジ・カレッジ]]を中退して[[パリ]]・[[ミュンヘン]]で学んだ後イギリスへ戻り、[[海軍本部 (イギリス)|海軍省]]に入省するものの長続きせずに退職した。新聞記者としても働く。1912年、安定した職を求めアメリカに向かう。 |
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チャンドラーの長編小説の一部は文学作品として重要とされており、特に『[[大いなる眠り]]』(1939)『[[さらば愛しき女よ]]』(1940)、『[[長いお別れ]]』(1953) の3作品は傑作とされることが多い。あるアメリカ犯罪小説のアンソロジーでは『長いお別れ』について「主流文学の中にミステリーの要素を取り入れた作品。ただし、その1番目は20年以上前に出版されたハメットの『[[ガラスの鍵]]』である」と評している<ref>Pronzini, Bill and Adrian, Jack (editors)(1995). ''Hard-Boiled, An Anthology of American Crime Stories'', Oxford University Press, Inc., 1995, p.169.</ref>。 |
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[[第一次世界大戦]]が勃発すると、[[1917年]]より[[カナダ海外派遣軍]]、その後創成期の[[イギリス空軍]]に従軍する。除隊後再びアメリカに戻る。その後石油会社の役員を務めるようになるが、1932年に解雇されてしまい、これをきっかけに小説の執筆で身を立てることになる。1933年にハードボイルド探偵小説の揺籃であった[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[パルプ・マガジン]]『ブラック・マスク』に中篇「脅迫者は撃たない」が掲載され、デビューする。1939年発表の処女長編『[[大いなる眠り]]』で初登場した[[フィリップ・マーロウ]]は、ハードボイルド派の中で最も有名な[[探偵]]といえる。マーロウを主人公とする作品は何度もハリウッド映画化された。 |
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== 生い立ち == |
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1954年に妻をなくして非常にふさぎ込むようになり、酒におぼれ体調を崩したが、周囲の熱心な支えもあり、1958年に『[[プレイバック (小説)|プレイバック]]』で復帰する。さらに翌1959年、『[[プードル・スプリングス物語]]』の執筆にとりかかるも、冒頭の第4章まで書いたところで亡くなった。同作は1989年、著名なハードボイルド作家であり、チャンドラーの熱心なファンでもあった[[ロバート・B・パーカー]]が遺族の承諾を得た上で、続きを執筆し完成させた。 |
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1888年、イリノイ州シカゴで生まれたが、幼少期は両親と(母方の)叔母と叔父といとこと共に[[ネブラスカ州]]プラッツマスで過ごした。父はアルコール中毒の土木技師で鉄道建設に従事していたが、1895年に家族を捨てて去った。 |
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1900年、母はチャンドラーに最高の教育を受けさせるためイギリスの[[ロンドン]]に引っ越した<ref>1900 US Census, Plattsmouth, Nebraska</ref>。そこで母方の祖母のもとに身を寄せ、アイルランドの[[ウォーターフォード]]で弁護士として成功していた[[クエーカー]]の叔父の支援を受けた<ref name="nyrb-12-06-2007">{{Cite news| first = Pico| last = Iyer| title = The Knight of Sunset Boulevard (paid access only)| work = The New York Review of Books| pages = 31–33| date =December 6, 2007 |url= http://www.nybooks.com/articles/archives/2007/dec/06/the-knight-of-sunset-boulevard/?pagination=false}} - 有償であり、無料で閲覧できる抄録部分には出典となる情報はない。</ref>。 |
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[[P・G・ウッドハウス]]<ref name="nyrb-12-06-2007" />や[[セシル・スコット・フォレスター]]といった出身者のいる[[パブリックスクール]]、[[ダリッジ・カレッジ]]で教育を受けた。当時、イギリスのカレッジには2つのクラスがあった。「現代クラス」(実業界に進む学生向けクラス)と「古典クラス」(ラテン語とギリシャ語を学んで、[[オクスフォード大学|オクスフォード]]と[[ケンブリッジ大学|ケンブリッジ]]に進学する学生向けクラス)である。チャンドラーは「現代クラス」の最上級まで進んでから、「古典クラス」の一番下の学年に移りそちらでも最上級(第六期)まで修了した。<ref name="名前なし-1">{{Cite book|title=レイモンド・チャンドラー語る|date=|year=1984|publisher=早川書房}}</ref>夏休みにはウォーターフォードで母方の親族と共に過ごした<ref>{{Cite web |url= http://waterfordireland.tripod.com/raymond_chandler.htm |title=Raymond Chandler |publisher=Waterfordireland.tripod.com |date= |accessdate=2012-07-19}}</ref>。17歳で学校を離れた。 |
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大学には進学せずに[[パリ]]や[[ミュンヘン]]で6か月ずつ過ごし、語学力を磨いた。1907年、叔父によって公務員試験を受けさせられることとなり(チャンドラー自身は作家志望であった)イギリスに帰化し、試験には600人中3番で合格。[[海軍本部 (イギリス)|イギリス海軍本部]]で職を得て、そこで6か月ほど働いた。最初の詩をこのころ出版している<ref name="dcs.gla.ac.uk">{{Cite web|和書|url=http://www.dcs.gla.ac.uk/~gnik/crime-fiction/chandler/chandler-biography.html |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2013-02-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080504230955/http://www.dcs.gla.ac.uk/~gnik/crime-fiction/chandler/chandler-biography.html |archivedate=2008-05-04 |url-status=dead|url-status-date=2017-09 }}</ref>。なお、アメリカの市民権を得たのは1956年のことである<ref name="dcs.gla.ac.uk" />。 |
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公務員が性に合わず間もなく退職して家族を驚かせ、叔父は激怒した。チャンドラーは[[ブルームスベリー|ブルームズベリー]]にて生活を始め、「アカデミー」(高級週刊評論誌)や「ウェストミンスター・ガゼット」(夕刊紙)の記者となった。 |
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「ウェストミンスター・ガゼット」の編集をしていた、J・A・スペンダーがチャンドラーに何らかの関心を示した最初の編集者であった。スペンダーはチャンドラーの詩やスケッチを買った。風刺的な内容のものであった。チャンドラーにスペンダーを紹介したのは、ローランド・ポンソンビー・ブレナーハセットという法廷弁護士で、アイルランドの大地主でもあった。ブレナーハセットはチャンドラーをナショナル・リベラル・クラブに入れて、読書室に出入りできるようにした。記事の執筆で週に3ギニーほど得ていた。 |
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また、チャンドラーは「アカデミー」に多くの書評を書いた。書評を書く甲斐のある本を宛がわれることはほとんどなかった。彼にとっていくらか価値のあったのはジェフリー・ファーノルの『ひろいハイウェイ』(Jeffery Farnol ”The Broad Highway”, 1910)だけであった。エリノア・グリン(Elinor Glyn)の書評も執筆した。「アカデミー」での担当編集者は判事のセシル・カウパーという人物であった。カウパーは「アカデミー」をアルフレッド・ダグラス卿から引き継いでおり、1910年から1916年まで同誌の編集者であった。「アカデミー」の編集スタッフは中年の婦人記者とヴィズデリーという名の男であった。このヴィズデリーの兄は「[[ボヴァリー夫人]]」の翻訳をアメリカで出版したために猥褻容疑で罪に問われた人物であったという。<ref name="名前なし-1"/> |
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[[ロマン主義]]の詩を書き続けていた。チャンドラーは後にこのころについて幸福ではなかったと述べている<ref>Raymond Chandler: ''Raymond Chandler Speaking'' (Dorothy Gardiner and Kathrine Sorley Wakker, ed.) p. 24 Houghton Mifflin Company (1962) ISBN 978-0-520-20835-3.</ref>。 |
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1912年、23歳の頃にウォーターフォードの叔父から500ポンドを借り、利子をつけて返すことを約束。安定した職を求めアメリカに向かい、叔母と叔父を訪ねた後[[サンフランシスコ]]に落ち着き、そこで簿記を学ぶ。同年末には母を呼び寄せた。1913年、[[ロサンゼルス]]に向かう<ref>Florence arrives 12/1912 - Passenger Manifest SS Merion</ref>。道中[[テニスラケット]]の弦を張る仕事や果樹園での収穫の仕事などをして金を貯めた。ロサンゼルスに着くと、The Los Angeles Creamery(ロサンゼルス乳業)に就職。1914年、カナディアン・ゴードン・ハイランダースに入隊。ブリティッシュ・コロンビアのヴィクトリアに送られて、訓練を受けた。カナダ軍に志願したのは、扶養家族の手当を貰えたからで、彼はその金を母親に送った。[[第一次世界大戦]]が勃発しアメリカが参戦すると(1917年4月6日)、フランスに出征、小隊長になった。1918年にはイギリス空軍(当時はRoyal Flying Corps. 後のR.A.F.)に配属された。終戦時には創成期の[[イギリス空軍]]で飛行訓練を受けていた<ref name="nyrb-12-06-2007"/>。除隊になると母とともにカリフォルニアに戻った。 |
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1919年にカリフォルニアに到着。あんず農園で働いたり、スポーツ用品の会社で働いたりした。独学で簿記を学んだ。彼は3年の簿記のコースを6週間で済ませた。 |
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[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦]]が成立するとカナダ経由でロサンゼルスに戻り、間もなく一緒に入隊したゴードン・パスカルの継母で18歳年上のシシイと恋愛関係となった<ref name="nyrb-12-06-2007" />。シシイは1920年に離婚したが、チャンドラーの母はその関係に反対し、結婚を認めなかった。4年間そのような状態が続いたが、1923年9月26日に母が亡くなり、1924年2月6日にはシシイと結婚<ref name="nyrb-12-06-2007" /><ref name="rcinfo">[http://raymondchandler.info/ Raymond Chandler's Shamus Town] 年表のページなどに公式な記録(死亡診断書、国勢調査、電話帳など)が使われている。</ref>。妻はニューヨークの生まれで、[[クラレンス・デイ]]の母が出た一家と親類関係にあった。 |
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1922年から [[:en:Dabney Oil Syndicate|Dabney Oil Syndicate]] という石油会社で簿記係兼監査役として雇われ、1931年には副社長にまで登りつめたが、飲酒が過ぎること、常習的な欠勤、女性従業員との不倫<ref name="nyrb-12-06-2007" />などが原因で翌年には解雇された。最終的には6つの石油会社の役員になった。 |
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=== 作家生活 === |
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大恐慌で経済的に苦しかったため、チャンドラーは文筆の潜在的才能で生計を立てようと決め、[[E・S・ガードナー]]の[[ペリー・メイスン]]ものから[[パルプ・マガジン]]の小説の書き方を独学で学んだ。1933年にハードボイルド探偵小説の揺籃であったアメリカの[[パルプ・マガジン]]『ブラック・マスク』に18000語の中篇『{{仮リンク|脅迫者は撃たない|en|Blackmailers Don't Shoot}}』(”Blackmailers Don’t Shoot”)が掲載され、デビューする。『脅迫者は撃たない』の執筆には5か月費やした。 |
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1939年発表の処女長編『[[大いなる眠り]]』で初登場した[[フィリップ・マーロウ]]は、ハードボイルド派の中で最も有名な[[探偵]]といえる。『大いなる眠り』の執筆には3か月かけた。 |
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1950年、イギリスでの版元ハミッシュ・ハミルトンへの手紙で、なぜパルプ・マガジンを読むようになり、さらに書くようになったかを説明している。{{Quote|パシフィック・コーストを自動車で行き来していたとき、安くて捨てても惜しくないパルプ・マガジンを読むようになった。女性向け雑誌を読む趣味は全くないのでね。(私がそう言ってよければ)それはブラック・マスク誌の黄金時代で、粗野な面もあるものの、その書きっぷりはかなり力強く正直だと気付いた。そして、小説の書き方を学んで同時に小遣いを稼ぐというのはよい方法かもしれないと思いついた。5カ月かけて18,000語の中編を書き上げ、それを180ドルで売った。それからもかなり不安な時期をすごしたが、私は決して振り返らず前進した。<ref>Chandler, Raymond, forward by Powell, Lawrence Clark (1969). ''The Raymond Chandler Omnibus'', Borzoi Book a division of Alfred A. Knopf, Inc., 1969 p. vii</ref>}} |
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2作目の長編『さらば愛しき女よ』(1940) はそれぞれ別の脚本で3度映画化された。1944年の『{{仮リンク|欲望の果て|en|Murder My Sweet}}』ではディック・パウエルがマーロウを演じた。チャンドラー自身も脚本を依頼されるようになる。[[ビリー・ワイルダー]]と共同で脚本を書いた『[[深夜の告白]]』(1944) は、[[ジェームズ・M・ケイン]]の『倍額保険』が原作だった。この[[フィルム・ノワール]]の古典は、アカデミー賞脚本賞にノミネートされた。 |
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チャンドラーの単独書き下ろし脚本としては『[[青い戦慄]]』(1946) がある。プロデューサーの[[ジョン・ハウスマン]]によれば<ref>『青い戦慄』の脚本の書籍化で、1988年10月に角川書店から刊行されたマシュー・J ・ブラッコリ(Matthew J. Bruccoli)=編集『ブルー・ダリア(原題:THE BLUE DAHLIA A Screenplay)』に、脚本をめぐるチャンドラーとの遣り取りを回想した、ジョン・ハウスマン(John Houseman)「<回想>失われた二週間」を収録、[[石田善彦]]訳。</ref>、チャンドラーは結末部分を完成させることができず、酒を飲ませてくれたら完成させると約束し、ハウスマンがそれに同意したという。この脚本でもアカデミー賞にノミネートされた。 |
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[[アルフレッド・ヒッチコック]]の『[[見知らぬ乗客]]』(1951) でも脚本に参加している。[[パトリシア・ハイスミス]]の同名の小説が原作だが、チャンドラーは「ばかばかしいストーリー」と原作を酷評していた<ref>[[晶文社]]『[[映画術 ヒッチコック/トリュフォー]]』[[フランソワ・トリュフォー]]著、[[山田宏一]]・[[蓮實重彦]]共訳 P211より</ref>。この映画の脚色の際にヒッチコックと衝突し、ヒッチコックをしばしば「あのデブ野郎(that fat bastard)」と、本人に聞こえるように言っていた<ref>http://www.case.edu/artsci/engl/marling/hardboiled/Chandler.HTM</ref>。ヒッチコックは鼻をつまみながらチャンドラーの草稿脚本を撮影所のゴミ箱に投げ入れたという。しかし、最終的にはチャンドラーの名前が脚本として残っている。 |
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1946年、[[サンディエゴ]]に程近い海岸沿いのカリフォルニア州[[ラホヤ|ラ・ホヤ]]に引越す。妻シシイは慢性気管支炎で体が衰弱しており、チャンドラーは家事をする合間に執筆していた。『[[長いお別れ]]』(1953) を書いた。 |
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1954年12月12日に妻をなくして非常にふさぎ込むようになり、酒におぼれ体調を崩したが、周囲の熱心な支えもあり、1958年に『[[プレイバック (小説)|プレイバック]]』で復帰する。『プレイバック』は[[ユニバーサル・ピクチャーズ]]のために書いた脚本(映画化されず)が元になっている。さらに翌1959年、『[[プードル・スプリングス物語]]』の執筆にとりかかるも、冒頭の第4章まで書いたところで亡くなった。同作は1989年、著名なハードボイルド作家であり、チャンドラーの熱心なファンでもあった[[ロバート・B・パーカー]]が遺族の承諾を得た上で、続きを執筆し完成させた。パーカーは他に『大いなる眠り』の続編『[[夢を見るかもしれない]] ''Perchance to Dream''』([[1991年]])も書いている。 |
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チャンドラーによるマーロウを主人公とする最後の短編は1957年ごろの "The Pencil" で、日本語では「マーロウ最後の事件」となっている。[[HBO]]は1983年から1986年にかけて ''Philip Marlowe, Private Detective'' というドラマシリーズを放送しており、「マーロウ最後の事件」も1エピソードの原作として使われた。 |
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== 晩年と死 == |
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1954年、妻シシイが長い闘病の末、亡くなった。傷心で酒におぼれたチャンドラーは、火葬した遺骨の埋葬を怠り、その骨壷は墓地の貯蔵用ロッカーに57年間放置されていた。 |
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シシイの死後、寂しさから[[うつ病]]の傾向が悪化し、長い間飲酒し続け、執筆の質も量も低下した<ref name="nyrb-12-06-2007"/>。1955年2月には自殺未遂している。ジュディス・フリーマンは ''The Long Embrace: Raymond Chandler and the Woman He Loved'' でそれが「助けを求める叫び声」だっとし、その証拠に彼は事前に警察に自殺するつもりだと電話していたとしている。 |
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チャンドラーの私生活と作家生活は、付き合った女性たちに助けられ、同時に複雑化した。例えば、ヘルガ・グリーン(著作権代理人)、ジーン・フラカッセ(秘書)、ソニア・オーウェル([[ジョージ・オーウェル]]未亡人)、ナターシャ・スペンダー([[スティーブン・スペンダー]]の妻)がいる。特に最後の2人はチャンドラーが潜在的同性愛者だったと証言している<ref>{{Cite web |url= http://www.nysun.com/arts/man-who-gave-us-marlowe/65983/ |title=The Man Who Gave Us Marlowe - The New York Sun |publisher=Nysun.com |date= |accessdate=2012-07-19}}</ref>。 |
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イングランドでの休養後、ニューヨーク病院に入院し、[[ラ・ホヤ]]に戻った。1959年3月26日、肺末梢血管ショックと腎前性尿毒症で亡くなった。チャンドラーの6万ドルの遺産は、フラカッセが遺書が[[直筆]]かどうかで訴訟を起こしたものの、ヘルガ・グリーンが相続することで決着した。 |
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彼はサンディエゴの墓地に埋葬された。Frank MacShane の書いた伝記 ''The Life of Raymond Chandler'' によれば、チャンドラーはシシイの隣に埋葬されることを望んでいたという。しかし、実のところシシイは墓に埋葬されておらず、遺書にも埋葬について全く指示を記していなかったため、サンディエゴの墓地に埋葬されることになった<ref>Hiney, Tom (1997). [https://books.google.co.jp/books?id=p5qSfTq0qLAC&pg=PA275&redir_esc=y&hl=ja ''Raymond Chandler: A Biography''], pp. 275-76. Grove Press.</ref>。 |
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2010年、チャンドラー研究者 Loren Latker は弁護士 Aissa Wayne([[ジョン・ウェイン]]の娘)の助力を得て、シシイの遺骨をチャンドラーの隣に埋葬する請願を出した。2010年9月、カリフォルニア高等裁判所はその請願を認める裁定を下した<ref>Bell, Diane (2010-09-08). [http://www.signonsandiego.com/news/2010/sep/08/ashes-chandlers-wife-join-him-eternity/ "Ashes of Chandler's wife to join him for eternity"]. SignOnSanDiego.com. Retrieved 2011-11-26.</ref>。 |
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2011年の[[バレンタインデー]](2月14日)、シシイの遺灰(遺骨)が移され、チャンドラーの墓の隣に埋葬された<ref>Bell, Diane (2011-02-14). [http://www.signonsandiego.com/news/2011/feb/14/philip-marlowe-appears-at-raymond-chandler/ "Raymond Chandler and his wife, Cissy, are finally reunited"]. SignOnSanDiego.com. Retrieved 2011-11-26.</ref>。その式典には百人ほどの人々が参列した。新たな共有の墓石には『大いなる眠り』の一節 "Dead men are heavier than broken hearts" が刻まれている。ジーン・フラカッセが置いた当初の墓石も側に置いてある。 |
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== パルプ小説とチャンドラー == |
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短編集 ''Trouble Is My Business'' (1950) の序文でチャンドラーは、探偵小説の決まりきった枠について考察し、パルプ・マガジンがそれ以前の探偵小説とどう違うのかを考察している。 |
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標準的探偵小説の感情的基盤は、常に殺人が発覚し、正義がなされるということだった。技術的基盤は、大団円へと向かうこと以外は相対的に重視されないということだった。それによって探偵小説を書くということは多少なりとも通り一遍の作業となっていた。大団円が全てを正当化する。一方「ブラック・マスク」型のストーリーの技術的基盤は、プロットよりシーンを重視するという点で、その意味でよいプロットとはよいシーンの連なりでできているものである。理想的なミステリとは、読んでいて結末が読めないものであろう。我々がそれを書くとき、映画製作者と同様の観点に立っている。私が初めてハリウッドに行ったとき、非常に賢いプロデューサーから推理小説を元にして成功する映画を作ることはできないと言われた。なぜなら最も重要な暴露の瞬間が映画ではほんの数秒しかかからず、観客が帽子に手をのばしていたら見逃すだろうと言うのである。彼は間違っていたが、それは間違った種類のミステリを考えていたためだった。 |
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</blockquote> |
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また、パルプ・マガジンの編集者が要求する型に従う際のパルプ作家の苦心を説明している。 |
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私が自分の書いた作品を振り返ったとき、それがもっとよいものならよかったのにと思わないではいられない。しかし、それがもっとよいものだったなら、出版されなかったかもしれない。型枠がもっと柔軟なものだったら、当時の著作物のより多くが世に出ていただろう。我々の何人かはかなり熱心に枠から抜け出そうとしたが、多くは捕まって送り返された。枠を壊さずにその限界を超えることは、絶望した老いぼれ馬以外の全ての雑誌作家の夢だった。<ref>Chandler, Raymond (1950). ''Trouble is My Business'', Vintage Books a division of Random House, Inc., 1988 pp. viii-ix</ref> |
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</blockquote> |
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== 評価 == |
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[[W・H・オーデン]]、[[イーヴリン・ウォー]]、[[イアン・フレミング]]といった評論家や作家はチャンドラーの散文を高く評価している<ref name="nyrb-12-06-2007"/>。ラジオ番組でチャンドラーと対談したフレミングは、チャンドラーの会話文を褒め称えている<ref>Chandler/Fleming discussion, BBC Home Service, 10th July 1958</ref>。素早い展開やハードボイルドなスタイルは[[ダシール・ハメット]]に触発されたものだが、彼の鋭い叙情的な[[直喩]]はオリジナルである。チャンドラーの作品は探偵小説というジャンルを再定義し、"Chandleresque"(チャンドラー的)という形容詞が生まれ、必然的に[[パロディ]]や[[パスティーシュ]]の的となった。探偵フィリップ・マーロウはステレオタイプなタフガイではなく複雑で、時にはセンチメンタルになり、友人は少なく、スペイン語を若干しゃべり、時折メキシコ人を賞賛し、[[チェス]]とクラシック音楽を好む。また、倫理的に問題があると思えばクライアントの金を受け取らない。 |
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今日のチャンドラーの名声とは対照的に、作家として活動していた当時は評論に傷つけられていた。''Selected Letters of Raymond Chandler'' に収録されている1942年3月の Blanche Knopf への手紙で、作風を変えようとすると批判されることに不満を漏らしている。 |
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最近でも彼の作品について批判的な評論が存在する。[[ワシントン・ポスト]]のインタビューで書評家のパトリック・アンダーソンは、プロットが「よく言っても散漫で、悪く言えば一貫性がない」とし、黒人や女性や同性愛者の登場人物の扱いがひどいと指摘した。それでもアンダーソンはチャンドラーを「おそらく主な犯罪小説作家の中で最も叙情的」と賞賛している<ref>{{Cite web |url= http://blogcritics.org/books/article/an-interview-with-patrick-anderson-author1/page-2/ |title=An Interview With Patrick Anderson |publisher=Blogcritics.org |date=2007-08-02 |accessdate=2012-07-19}}</ref>。 |
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チャンドラーの小説は、1930年代から40年代にかけてのロサンゼルスとその近郊の雰囲気をよく伝えている<ref name="nyrb-12-06-2007"/>。ただし地名は変えてある。ベイシティは[[サンタモニカ]]、グレーレイクはシルバーレイク、アイドルバレーは[[サンフェルナンド・バレー]]にそれぞれ対応する。 |
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チャンドラーはパルプ小説の批評家でもあった。エッセイ「簡単な殺人法」は特に有名である。 |
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長編小説は『[[プレイバック (小説)|プレイバック]]』を除いて映画化されている。最も有名なのは[[ハワード・ホークス]]監督で[[ハンフリー・ボガート]]主演の『[[三つ数えろ]]』(1946) である。[[ウィリアム・フォークナー]]が脚本に参加している。チャンドラーの脚本や映画化された小説は、[[フィルム・ノワール]]というジャンルのスタイルやテーマに少なからぬ影響を与えた。 |
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== 人物 == |
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* [[E・S・ガードナー]]と親交があった。チャンドラーは1939年5月5日のガードナー宛の手紙に「私たちがむかしの”アクション・ディテクティブ”誌について語っていたとき、エド・ジェンキンスの身がわりのような人物で、ハリウッドの丘に邸をかまえて恐喝に対抗する組織をつくっていた若い女とかかわりになるレックス・ケーンという男について書いたあなたの作品から、私が短篇の書きかたを学んだことを、あなたに話すのを忘れていました。(中略)私はあなたの小説のひじょうにこまかい梗概をつくり、それから書きなおして、できあがったものをあなたのものとくらべ、またもとにもどって、さらに書きなおして、といったことをくり返しました」と書いており<ref name="名前なし-1"/>、ガードナーの作品を手本のようにしていたようである。 |
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* 以下、チャンドラーによる作家評は、1949年4月16日にアレックス・バリスに宛てた手紙の内容である。 |
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# エリザベス・ホールディングは作品は多くないが堅実に書き続けている個性的なサスペンス作家のナンバーワンである |
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# [[F・W・クロフツ]]は細かい描写のナンバーワンである |
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# [[ドロシー・L・セイヤーズ]]はラテン語とギリシャ語の引用のナンバーワンである |
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# [[フィリップ・マクドナルド]]はとっつきやすい魅力のナンバーワンである |
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# 怖がらせる作家のナンバーワンはいないが、強いて挙げるならドロシー・B・ヒューズである |
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# [[マーガレット・ミラー]]の『目の壁』に登場するMCが最も興味のある人物である |
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* チャンドラーはハミシュ・ハミルトン(チャンドラーの著作を出版していたロンドンの書店の専務)宛の手紙(1949年12月4日)に以下のように書いており、[[サマセット・モーム]]の''”Ashenden”''(1928)”''A Christmas Holiday''”(1939)、[[プロスペル・メリメ]]の『カルメン』(1845)、[[フローベール|グスタフ・フローベール]]の''”Trois Contes”''(『[[三つの物語|三つのコント]]』、1877)に収められている”''Hérodias''”、”''Un cœur simple''”および”Madame Bovaly”(1857)、[[D・H・ローレンス]]の''”The Captain’s Doll”(1923)''、[[ヘンリー・ジェイムズ|ヘンリー・ジェイムス]]の''”The Spoils of Poynton”''(1896)''、”The Wings of a Dove”''(1902、1909)を高く評価していたことがわかる。 |
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== 賞賛の言葉 == |
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{{Quote|チャンドラーはスラム街の天使のように書き、ブラインド越しのロサンゼルスの眺めをロマンチックな存在に変貌させた。|[[ロス・マクドナルド]]<ref name="praise">{{Cite web |url= http://www.randomhouse.com/book/26020/collected-stories-by-raymond-chandler |title=Collected Stories by Raymond Chandler - Praise |publisher=randomhouse.com |date= |accessdate=2011-05-14}}</ref>}} |
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{{Quote|レイモンド・チャンドラーはアメリカについて語る新たな方法を発明し、それ以来我々にとってアメリカは全く違ったものとして映るようになった。|[[ポール・オースター]]<ref name="praise"/>}} |
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{{Quote|その散文はさりげない雄弁さの極みにあり、我々は単なる語り部ではない名文家、ビジョンを持った作家の存在に気付いて興奮を覚える…読者はチャンドラーの誘惑的な散文に魅了される。|[[ジョイス・キャロル・オーツ]], ''New York Review of Books''<ref name="praise"/>}} |
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{{Quote|チャンドラーは私の好きな作家の1人だ。彼の本は数年ごとに読み返すに値する。その小説はアメリカの過去の完全なスナップショットであり、今は亡きロマン主義の表現は昨日書かれたかのように新鮮だ。|[[ジョナサン・レセム]]<ref name="praise"/>}} |
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{{Quote|チャンドラーは戦後の夢を発明したようである。タフで優しいヒーロー、危険なブロンド美女、雨で洗われた歩道、遠くの交通(や海)のうなり声…チャンドラーは我々の時代のクラシックで寂しいロマンチックなアウトサイダーであり、彼がいなければアメリカ文学や英文学はもっと貧しいものだっただろう。| [[:en:Pico Iyer|Pico Iyer]]<ref name="praise"/>}} |
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==主要作品リスト== |
==主要作品リスト== |
||
===長編=== |
===長編=== |
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* [[大いなる眠り]](''The Big Sleep'', [[1939年]]) |
* [[大いなる眠り]](''The Big Sleep'', [[1939年]]) |
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** [[双葉十三郎]]訳、[[創元推理文庫]] |
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* [[ |
** [[村上春樹]]訳、[[早川書房]]<ref>村上春樹訳は、全7作全てハヤカワ・ミステリ文庫で再刊</ref> |
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* [[さらば愛しき女よ]](''Farewell, My Lovely'', [[1940年]]) |
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** さよなら、愛しい人、[[村上春樹]]訳、早川書房 |
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* [[ |
** [[清水俊二]]訳、[[ハヤカワ文庫|ハヤカワ・ミステリ文庫]] |
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**「さよなら、愛しい人」村上春樹訳、早川書房 |
|||
** 同題、[[田中小実昌]]訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ |
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* [[高い窓]](''The High Window'', [[1942年]]) |
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**ハイ・ウィンドォ、 萩明二訳 別冊宝石 |
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**「ハイ・ウィンドォ」萩明二訳、[[宝石 (雑誌)|別冊宝石]](1950年) |
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*[[湖中の女]](''The Lady in the Lake'', [[1943年]])、清水俊二訳、ハヤカワ・ミステリ文庫 |
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** |
** [[田中小実昌]]訳、[[ハヤカワ・ポケット・ミステリ]] |
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** 清水俊二訳、ハヤカワ・ミステリ文庫 |
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** 同題、二宮佳景([[鮎川信夫]])訳、別冊宝石 |
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** 村上春樹訳、早川書房 |
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* [[かわいい女 (チャンドラーの小説)|かわいい女]](''The Little Sister'', [[1949年]])、清水俊二訳、創元推理文庫 |
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*[[湖中の女]](''The Lady in the Lake'', [[1943年]]) |
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**聖林殺人事件、清水俊二訳、別冊宝石 |
|||
** 二宮佳景<ref>この名は[[鮎川信夫]]の筆名と考えられているが、[[北村太郎]]は[[EQ]]1981年5月号のエッセイ「ミステリとわたくし」で、本作は自分が翻訳したと記している。</ref>訳、別冊宝石(1950年) |
|||
** リトル・シスター、村上春樹訳、早川書房 |
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* [[ |
** 田中小実昌訳、[[ハヤカワ・ポケット・ミステリ]] |
||
** 清水俊二訳、ハヤカワ・ミステリ文庫 |
|||
** ロング・グッドバイ、村上春樹訳、早川書房 |
|||
**「水底の女」[[村上春樹]]訳、早川書房 |
|||
* [[プレイバック (小説)|プレイバック]](''Playback'', [[1958年]])、清水俊二訳、ハヤカワ・ミステリ文庫 |
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* [[かわいい女 (チャンドラーの小説)|かわいい女]](''The Little Sister'', [[1949年]]) |
|||
* [[プードル・スプリングス物語]](''Poodle Springs'', [[1959年]]-[[1989年]])、菊池光訳、ハヤカワ・ミステリ文庫(上記の通り、実際に執筆したのは第4章までで、以降は[[ロバート・B・パーカー]]の手に成る) |
|||
**「聖林殺人事件」清水俊二訳、別冊宝石(1950年) |
|||
** 清水俊二訳、創元推理文庫 |
|||
**「リトル・シスター」村上春樹訳、早川書房 |
|||
* [[長いお別れ]](''The Long Goodbye'', [[1953年]]) |
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** 清水俊二訳、ハヤカワ・ミステリ文庫 |
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**「ロング・グッドバイ」村上春樹訳、早川書房 |
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**「長い別れ」[[田口俊樹]]訳、創元推理文庫 |
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**「ザ・ロング・グッドバイ」市川亮平訳、[[小鳥遊書房]] |
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* [[プレイバック (小説)|プレイバック]](''Playback'', [[1958年]]) |
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** 清水俊二訳、ハヤカワ・ミステリ文庫 |
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** 村上春樹訳、早川書房 |
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** 市川亮平訳、小鳥遊書房 |
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** 田口俊樹訳、創元推理文庫 |
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* [[プードル・スプリングス物語]](''Poodle Springs'', [[1959年]]-1989年) |
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** [[菊池光]]訳、ハヤカワ・ミステリ文庫(未完作、実際に執筆したのは第4章まで、以降は[[ロバート・B・パーカー]]の手に成る) |
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===短編=== |
=== 短編集 === |
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[[File:Japanese-edition-of-Ellery-Queens-Mystery-Magazine-1964-October-2.jpg|thumb|190px|{{small|中編小説「ベイ・シティ・ブルース」([[稲葉明雄]]訳)が掲載された『[[エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン|エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン]]』1964年10月号。}}]] |
|||
* 「チャンドラー短編全集1 赤い風」、[[稲葉明雄]]訳、創元推理文庫 |
|||
* ヌーン街で拾ったもの、清水俊二(他)訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ(1960年) |
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** 「脅迫者は撃たない」(''Blackmailers Don't Shoot'', [[1933年]]) |
|||
* チャンドラー短編全集1 赤い風、[[稲葉明雄]]訳、創元推理文庫(1963年) |
|||
** 「赤い風」(''Red Wind'', [[1938年]]) |
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* チャンドラー短編全集2 事件屋稼業、同上(1965年) |
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** 「金魚」(''Goldfish'', [[1936年]]) |
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* チャンドラー短編全集3 待っている、同上(1968年) |
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** 「山には犯罪なし」(''No Crime in the Mountains'', [[1941年]]) |
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* |
* チャンドラー短編全集4 雨の殺人者、同上(1970年) |
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* マーロウ最後の事件、稲葉明雄訳、晶文社(1975年) |
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** 「事件屋稼業」(''Trouble Is My Buisiness'', [[1939年]]) |
|||
* チャンドラー美しい死顔、清水俊二(他)訳、講談社文庫(1979年) |
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** 「ネヴァダ・ガス」(''Nevada Gas'', [[1935年]]) |
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* ベイ・シティ・ブルース、小泉喜美子訳、河出文庫(1988年) |
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** 「指さす男」(''Finger Man'', [[1934年]]) |
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* フィリップ・マーロウ、稲葉明雄訳、集英社文庫(1997年) |
|||
** 「黄色いキング」(''The King in Yellow'', [[1938年]]) |
|||
* チャンドラー短編全集1 キラー・イン・ザ・レイン、小鷹信光(他)訳、ハヤカワ・ミステリ文庫(2007年) |
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** 「簡単な殺人法」(''The Simple Art of Murder'', [[1944年]])、エッセイ |
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* |
* チャンドラー短編全集2 トライ・ザ・ガール、木村二郎(他)訳、ハヤカワ・ミステリ文庫(2007年) |
||
* チャンドラー短編全集3 レイディ・イン・ザ・レイク、小林宏明(他)訳、ハヤカワ・ミステリ文庫(2007年) |
|||
** 「ベイ・シティ・ブルース」(''Bay City Blues'', [[1938年]]) |
|||
* チャンドラー短編全集4 トラブル・イズ・マイ・ビジネス、田口俊樹(他)訳、ハヤカワ・ミステリ文庫(2007年) |
|||
** 「真珠は困りもの」(''Pearls are a Nuisance'', [[1936年]]) |
|||
** 「犬が好きだった男」(''The Man who Liked Dogs'', [[1938年]]) |
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** 「ビンゴ教授の嗅ぎ薬」(''Proffessor Bingo's Snuff'', [[1951年]]) |
|||
** 「待っている」(''I'll be Waiting'', [[1939年]]) |
|||
* 「チャンドラー短編全集4 雨の殺人者」、同上 |
|||
** 「雨の殺人者」(''Killer in the Rain'', [[1935年]]) |
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** 「カーテン」(''The Curtain'', [[1936年]]) |
|||
** 「ヌーン街で拾ったもの」 |
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** 「青銅の扉」(''The Bronze Door'', [[1939年]]) |
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** 「女で試せ」(''Try The Girl'', [[1937年]]) |
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===書簡・エッセイ集=== |
===書簡・エッセイ集=== |
||
* 「レイモンド・チャンドラー語る」(''[[:en:Raymond Chandler Speaking|Raymond Chandler Speaking]]'', [[1962年]]) |
* 「レイモンド・チャンドラー語る」(''[[:en:Raymond Chandler Speaking|Raymond Chandler Speaking]]'', [[1962年]]) |
||
**ガーディナー&ウォーカー編、[[清水俊二]]訳、早川書房、1967年、新版1984年 |
|||
===映画脚本=== |
===映画脚本=== |
||
* [[深夜の告白]](''Double Indemnity'',[[パラマウント映画]], [[1944年]]) - [[ビリー・ワイルダー]]との共同脚本。訳書は2000年に森田義信訳で小学館より刊行(ISBN 978-4093562218)。原作は、[[ジェームズ・M・ケイン]] の同題"Double Indemnity"、邦題は『殺人保険』([[蕗沢忠枝]]訳、新潮文庫)。 |
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* [[深夜の告白]](''Double Indemnity'', [[1944年]]) |
|||
* [[愛のあけぼの]](''And Now Tomorrow'',パラマウント映画, [[1944年]]) - [[フランク・パートス]] との共同脚本、監督=アーヴィング・ビチェル、主演=[[アラン・ラッド]]、[[ロレッタ・ヤング]]、原作={{仮リンク|レイチェル・フィールド|en|Rachel Field}}。 |
|||
** [[ビリー・ワイルダー]]との共同脚本。 |
|||
*{{仮リンク|The Unseen|en|The Unseen (1945 film)}}(パラマウント映画,[[1945年]])日本劇場未公開。監督= {{仮リンク|ルイス・アレン (映画監督)|en|Lewis Allen (director)}}、共同脚本=ヘイガー・ワイルド、主演=[[ジョエル・マクリー]]、ゲイル・ラッセル、原作=[[エセル・リナ・ホワイト]]の"Midnight House"(米題:"Her Heart in Her Throat") 。 |
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* [[愛のあけぼの]](''And Now Tomorrow'', [[1944年]]) |
|||
* [[青い戦慄]](''The Blue Dahlia'',パラマウント映画, [[1946年]]) - オリジナル脚本。監督=ジョージ・マーシャル、主演=[[アラン・ラッド]]、[[ヴェロニカ・レイク]]、訳書は『ブルー・ダリア』[[小鷹信光]]訳、角川書店、1988年(ISBN 978-4047911758)。 |
|||
** [[フランク・パートス]] との共同脚本。 |
|||
* [[見知らぬ乗客]](''Strangers on a Train'',[[ワーナー・ブラザース]], [[1951年]]) - [[パトリシア・ハイスミス]]の小説をチェンツイ・オルモンドと共同で脚本化。監督=[[アルフレッド・ヒッチコック]]、主演=[[ファーリー・グレンジャー]]、[[ロバート・ウォーカー (1918年生の俳優)|ロバート・ウォーカー]]。 |
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* [[青い戦慄]](''The Blue Dahlia'', [[1946年]]) |
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* [[見知らぬ乗客]](''Strangers on a Train'', [[1951年]]) |
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'''映画未製作''' |
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** [[パトリシア・ハイスミス]]の小説をチェンツイ・オルモンドと共同で脚本化。 |
|||
*The Innocent Mrs. Duff(パラマウント映画、1946年)原作={{仮リンク|エリザベス・サンクセイ・ホールディン|en|Elisabeth Sanxay Holding}} |
|||
*Playback([[ユニバーサル・スタジオ|ユニバーサル映画]], [[1948年]]) - オリジナル脚本。[[プレイバック (小説)]]の原型作で1985年にミステリアス・プレス社から「RAYMOND CHANDLER'S UNKNOWN THRILLER The Screenplay of "PLAYBACK"」を刊行。日本語訳は各・小鷹信光訳で、『過去ある女ープレイバック』1986年にサンケイ文庫(ISBN 978-4383025072)、2014年に[[小学館文庫]](ISBN 978-4094060379)で復刊。 |
|||
他にオリジナル脚本のためのシノプシス |
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*Backfire:Story for the Screen(サンタ・テレサ・プレス、1984年)日本語訳は「バックファイア」清水俊二訳《ハヤカワ・ミステリ・マガジン》1986年7月号に掲載。のち『チャンドラー短編全集4 トラブル・イズ・マイ・ビジネス』[[横山啓明]]訳、2007年、ハヤカワミステリ文庫に収録。 |
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== 受賞歴 == |
== 受賞歴 == |
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=== アカデミー賞 === |
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;ノミネート |
;ノミネート |
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:[[1945年]] [[アカデミー脚本賞]] |
:[[1945年]] [[アカデミー脚本賞]]『[[深夜の告白]]』 |
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== 著名なチャンドラリアン == |
== 著名なチャンドラリアン == |
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* |
* 熱心なファンのことを俗に「チャンドラリアン」とよぶ。 |
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===海外=== |
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===他国=== |
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*[[マイクル・コナリー]] |
*[[マイクル・コナリー]] |
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*[[ロバート・B・パーカー]] |
*[[ロバート・B・パーカー]] |
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===日本=== |
===日本=== |
||
*[[大藪春彦]](熱心ではなかったものの影響を受けた作品として『[[長いお別れ]]』を挙げている) |
*[[大藪春彦]](熱心ではなかったものの影響を受けた作品として『[[長いお別れ]]』を挙げている) |
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*[[大沢在昌]] |
*[[大沢在昌]] |
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*[[矢作俊彦]] |
*[[矢作俊彦]] |
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*[[村上春樹]] - 上記の訳書からの至言集『フィリップ・マーロウの教える生き方』(マーティン・アッシャー編、ハヤカワ・ミステリ文庫、2022年)がある。 |
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*[[村上春樹]] |
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*[[原 |
*[[原尞]] |
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*[[生島治郎]] |
*[[生島治郎]] |
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*[[平井和正]] |
*[[平井和正]] |
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*[[稲見一良]] |
*[[稲見一良]] |
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==トリビア== |
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* チャンドラーは[[アルフレッド・ヒッチコック]]を酷く嫌悪していたことでもよく知られ、ヒッチコックをしばしば「あのデブ野郎(that fat bastard)」と、本人に聞こえる所で言っていた<ref>http://www.case.edu/artsci/engl/marling/hardboiled/Chandler.HTM</ref>。『[[見知らぬ乗客]]』の脚色の際にヒッチコックと衝突した事が原因であった。またハイスミスの原作を「ばかばかしいストーリー」とも書いていた<ref>晶文社『映画術―ヒッチコック・トリュフォー』[[フランソワ・トリュフォー]]著、[[山田宏一]]・[[蓮實重彦]]共訳 P211より</ref>。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{Reflist}} |
{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
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{{Refbegin|colwidth=33em}} |
|||
*Bruccoli, Matthew J. (ed.; 1973). ''Chandler Before Marlowe: Raymond Chandler's Early Prose and Poetry, 1908-1912''. Columbia, SC: University of South Carolina Press. |
|||
*Chandler, Raymond (1976). ''The Blue Dahlia'' (screenplay). Carbondale and Edwardsville, IL: Southern Illinois University Press. |
|||
*Chandler, Raymond (1985). ''Raymond Chandler's Unknown Thriller'' (unfilmed screenplay for Playback). N.Y.: The Mysterious Press. |
|||
*Corman, Catherine (2009). [http://www.daylightnoir.com/ ''Daylight Noir: Raymond Chandler's Imagined City''] Milan: Charta. |
|||
*Dorothy Gardiner and Katherine Sorley Walker (eds.; 1962), ''Raymond Chandler Speaking''. Boston: Houghton Miflin. |
|||
*Freeman, Judith (2007). ''The Long Embrace: Raymond Chandler and the Woman He Loved''. N.Y.:Pantheon. ISBN 978-0-375-42351-2 (0-375-42351-6) |
|||
*Gross, Mirian (1977). ''The World of Raymond Chandler''. N.Y.: A & W Publishers. |
|||
*Hiney, Tom (1999). ''Raymond Chandler''. N.Y.: Grove Press. ISBN 0-8021-3637-0 |
|||
*Hiney, Tom and MacShane, Frank (eds.; 2000). ''The Raymond Chandler Papers: Selected Letters and Nonfiction, 1909-1959''. N.Y.: Atlantic Monthly Press. |
|||
*Howe, Alexander N. "The Detective and the Analyst: Truth, Knowledge, and Psychoanalysis in the Hard-Boiled Fiction of Raymond Chandler." ''CLUES: A Journal of Detection'' 24.4 (Summer 2006): 15-29. |
|||
*Howe, Alexander N. (2008). "It Didn't Mean Anything: A Psychoanalytic Reading of American Detective Fiction". North Carolina: McFarland. ISBN 0-7864-3454-6 |
|||
*MacShane, Frank (1976). ''The Life of Raymond Chandler''. N.Y.: E.P. Dutton. |
|||
*MacShane, Frank (1976). ''The Notebooks of Raymond Chandler & English Summer: A Gothic Romance''. N.Y.: The Ecco Press. |
|||
*MacShane, Frank (ed.) (1981). ''Selected Letters of Raymond Chandler''. N.Y.: Columbia University Press. |
|||
*Moss, Robert (2002.) "Raymond Chandler A Literary Reference" New York Carrol & Graf |
|||
*Swirski, Peter (2005). "Chapter 5 Raymond Chandler's Aesthetics of Irony" ''From Lowbrow to Nobrow''. Montreal, London: McGill-Queen's University. ISBN 978-0-7735-3019-5 |
|||
*Ward, Elizabeth and Alain Silver (1987). ''Raymond Chandler's Los Angeles''. Woodstock, N.Y.: Overlook Press. ISBN 0-87951-351-9 |
|||
*レイモンド・チャンドラー/マシュー・J ・ブラッコリ=編『ブルー・ダリア』[[小鷹信光]]訳、角川書店、1988年。ISBN 4047911755 |
|||
**巻末「資料/チャンドラーと映画」マシュー・J ・ブラッコリ/木村二郎編さん |
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{{Refend}} |
|||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{commonscat|Raymond Chandler}} |
|||
*[http://park22.wakwak.com/~phil/ レイモンド・チャンドラーの世界(海外ハードボイルド研究サイト)] |
|||
* [http://park22.wakwak.com/~phil/ レイモンド・チャンドラーの世界(海外ハードボイルド研究サイト)] |
|||
*{en} [http://homepage.mac.com/llatker/ Raymond Chandler's Shamus Town] A history of Los Angeles via the locations where Raymond Chandler lived and wrote about, 1912-1946 |
|||
* [http://raymondchandler.info/Shamus Town: Raymond Chandler's Los Angeles] |
|||
* {{Imdb name|id=0151452|name=Raymond Chandler}} |
|||
* [http://thrillingdetective.com/trivia/chandler.html Raymond Chandler at Thrilling Detective] |
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{{チャンドラー}} |
{{チャンドラー}} |
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{{典拠管理}} |
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{{デフォルトソート:ちやんとらあ れいもんと}} |
{{デフォルトソート:ちやんとらあ れいもんと}} |
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[[Category:レイモンド・チャンドラー|*]] |
[[Category:レイモンド・チャンドラー|*]] |
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[[Category:アメリカ合衆国の小説家]] |
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[[Category:イギリスの小説家]] |
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[[Category:アメリカ合衆国の推理作家]] |
[[Category:アメリカ合衆国の推理作家]] |
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[[Category:イギリスの推理作家]] |
[[Category:イギリスの推理作家]] |
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[[Category:20世紀アメリカ合衆国の小説家]] |
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[[Category:20世紀イングランドの小説家]] |
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[[Category:アメリカ合衆国の脚本家]] |
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[[Category:20世紀の脚本家]] |
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[[Category:エドガー賞 最優秀長篇賞の受賞者]] |
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[[Category:失われた世代]] |
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[[Category:ハードボイルド]] |
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[[Category:イングランド系アメリカ人]] |
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[[Category:アイルランド系アメリカ人]] |
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[[Category:1888年生]] |
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[[Category:1959年没]] |
[[Category:1959年没]] |
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[[Category:失われた世代]] |
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[[an:Raymond Chandler]] |
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[[ar:رايموند تشاندلر]] |
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[[pt:Raymond Chandler]] |
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[[ru:Чандлер, Рэймонд]] |
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[[sh:Raymond Chandler]] |
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[[simple:Raymond Chandler]] |
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[[sk:Dashiell Hammett]] |
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[[sr:Рејмонд Чандлер]] |
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[[sv:Raymond Chandler]] |
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[[tr:Raymond Chandler]] |
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[[uk:Реймонд Чендлер]] |
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[[zh:雷蒙·錢德勒]] |
2024年7月16日 (火) 09:03時点における最新版
レイモンド・チャンドラー Raymond Chandler | |
---|---|
R・チャンドラー 1943年 | |
誕生 |
1888年7月23日 アメリカ合衆国 イリノイ州シカゴ |
死没 |
1959年3月26日(70歳没) アメリカ合衆国 カリフォルニア州ラホヤ |
職業 | 小説家 |
国籍 |
アメリカ合衆国 (1888–1907, 1956–59) イギリス (1907–56) |
活動期間 | 1933年–1959年 |
ジャンル | 犯罪、サスペンス、ハードボイルド |
影響を受けたもの
| |
ウィキポータル 文学 |
レイモンド・ソーントン・チャンドラー(Raymond Thornton Chandler, 1888年7月23日 - 1959年3月26日)は、アメリカ合衆国シカゴ生まれの、小説家で脚本家。
概要
[編集]1932年、44歳のとき大恐慌の影響で石油会社での職を失い、推理小説を書き始めた。最初の短編「脅迫者は撃たない」は1933年「ブラック・マスク」という有名なパルプ・マガジンに掲載された。処女長編は1939年の『大いなる眠り』である。長編小説は7作品だけで(8作目は後にロバート・B・パーカーが完結させた)、他は中、短編であるが、チャンドラーの長編はほとんど先に書いた中篇が元になっている。『プレイバック』以外の長編はいずれも映画化されている。死の直前にアメリカ探偵作家クラブ会長に選ばれた。1959年3月26日、カリフォルニア州ラホヤで死去[1]。
チャンドラーの文体はアメリカ大衆文学に大きな影響を及ぼし、ダシール・ハメットやジェームズ・M・ケインといった他の「ブラック・マスク」誌の作家と共にハードボイルド探偵小説を生み出したとされている。彼が生み出した主人公フィリップ・マーロウはハメットのサム・スペードと共にハードボイルド系「私立探偵」の代名詞とされている。ハンフリー・ボガートが映画で両者とも演じているが、チャンドラー自身はマーロウに一番近い俳優としてケーリー・グラントをあげている。
チャンドラーの長編小説の一部は文学作品として重要とされており、特に『大いなる眠り』(1939)『さらば愛しき女よ』(1940)、『長いお別れ』(1953) の3作品は傑作とされることが多い。あるアメリカ犯罪小説のアンソロジーでは『長いお別れ』について「主流文学の中にミステリーの要素を取り入れた作品。ただし、その1番目は20年以上前に出版されたハメットの『ガラスの鍵』である」と評している[2]。
生い立ち
[編集]1888年、イリノイ州シカゴで生まれたが、幼少期は両親と(母方の)叔母と叔父といとこと共にネブラスカ州プラッツマスで過ごした。父はアルコール中毒の土木技師で鉄道建設に従事していたが、1895年に家族を捨てて去った。
1900年、母はチャンドラーに最高の教育を受けさせるためイギリスのロンドンに引っ越した[3]。そこで母方の祖母のもとに身を寄せ、アイルランドのウォーターフォードで弁護士として成功していたクエーカーの叔父の支援を受けた[4]。
P・G・ウッドハウス[4]やセシル・スコット・フォレスターといった出身者のいるパブリックスクール、ダリッジ・カレッジで教育を受けた。当時、イギリスのカレッジには2つのクラスがあった。「現代クラス」(実業界に進む学生向けクラス)と「古典クラス」(ラテン語とギリシャ語を学んで、オクスフォードとケンブリッジに進学する学生向けクラス)である。チャンドラーは「現代クラス」の最上級まで進んでから、「古典クラス」の一番下の学年に移りそちらでも最上級(第六期)まで修了した。[5]夏休みにはウォーターフォードで母方の親族と共に過ごした[6]。17歳で学校を離れた。
大学には進学せずにパリやミュンヘンで6か月ずつ過ごし、語学力を磨いた。1907年、叔父によって公務員試験を受けさせられることとなり(チャンドラー自身は作家志望であった)イギリスに帰化し、試験には600人中3番で合格。イギリス海軍本部で職を得て、そこで6か月ほど働いた。最初の詩をこのころ出版している[7]。なお、アメリカの市民権を得たのは1956年のことである[7]。
公務員が性に合わず間もなく退職して家族を驚かせ、叔父は激怒した。チャンドラーはブルームズベリーにて生活を始め、「アカデミー」(高級週刊評論誌)や「ウェストミンスター・ガゼット」(夕刊紙)の記者となった。
「ウェストミンスター・ガゼット」の編集をしていた、J・A・スペンダーがチャンドラーに何らかの関心を示した最初の編集者であった。スペンダーはチャンドラーの詩やスケッチを買った。風刺的な内容のものであった。チャンドラーにスペンダーを紹介したのは、ローランド・ポンソンビー・ブレナーハセットという法廷弁護士で、アイルランドの大地主でもあった。ブレナーハセットはチャンドラーをナショナル・リベラル・クラブに入れて、読書室に出入りできるようにした。記事の執筆で週に3ギニーほど得ていた。
また、チャンドラーは「アカデミー」に多くの書評を書いた。書評を書く甲斐のある本を宛がわれることはほとんどなかった。彼にとっていくらか価値のあったのはジェフリー・ファーノルの『ひろいハイウェイ』(Jeffery Farnol ”The Broad Highway”, 1910)だけであった。エリノア・グリン(Elinor Glyn)の書評も執筆した。「アカデミー」での担当編集者は判事のセシル・カウパーという人物であった。カウパーは「アカデミー」をアルフレッド・ダグラス卿から引き継いでおり、1910年から1916年まで同誌の編集者であった。「アカデミー」の編集スタッフは中年の婦人記者とヴィズデリーという名の男であった。このヴィズデリーの兄は「ボヴァリー夫人」の翻訳をアメリカで出版したために猥褻容疑で罪に問われた人物であったという。[5]
ロマン主義の詩を書き続けていた。チャンドラーは後にこのころについて幸福ではなかったと述べている[8]。
1912年、23歳の頃にウォーターフォードの叔父から500ポンドを借り、利子をつけて返すことを約束。安定した職を求めアメリカに向かい、叔母と叔父を訪ねた後サンフランシスコに落ち着き、そこで簿記を学ぶ。同年末には母を呼び寄せた。1913年、ロサンゼルスに向かう[9]。道中テニスラケットの弦を張る仕事や果樹園での収穫の仕事などをして金を貯めた。ロサンゼルスに着くと、The Los Angeles Creamery(ロサンゼルス乳業)に就職。1914年、カナディアン・ゴードン・ハイランダースに入隊。ブリティッシュ・コロンビアのヴィクトリアに送られて、訓練を受けた。カナダ軍に志願したのは、扶養家族の手当を貰えたからで、彼はその金を母親に送った。第一次世界大戦が勃発しアメリカが参戦すると(1917年4月6日)、フランスに出征、小隊長になった。1918年にはイギリス空軍(当時はRoyal Flying Corps. 後のR.A.F.)に配属された。終戦時には創成期のイギリス空軍で飛行訓練を受けていた[4]。除隊になると母とともにカリフォルニアに戻った。
1919年にカリフォルニアに到着。あんず農園で働いたり、スポーツ用品の会社で働いたりした。独学で簿記を学んだ。彼は3年の簿記のコースを6週間で済ませた。
休戦が成立するとカナダ経由でロサンゼルスに戻り、間もなく一緒に入隊したゴードン・パスカルの継母で18歳年上のシシイと恋愛関係となった[4]。シシイは1920年に離婚したが、チャンドラーの母はその関係に反対し、結婚を認めなかった。4年間そのような状態が続いたが、1923年9月26日に母が亡くなり、1924年2月6日にはシシイと結婚[4][10]。妻はニューヨークの生まれで、クラレンス・デイの母が出た一家と親類関係にあった。
1922年から Dabney Oil Syndicate という石油会社で簿記係兼監査役として雇われ、1931年には副社長にまで登りつめたが、飲酒が過ぎること、常習的な欠勤、女性従業員との不倫[4]などが原因で翌年には解雇された。最終的には6つの石油会社の役員になった。
作家生活
[編集]大恐慌で経済的に苦しかったため、チャンドラーは文筆の潜在的才能で生計を立てようと決め、E・S・ガードナーのペリー・メイスンものからパルプ・マガジンの小説の書き方を独学で学んだ。1933年にハードボイルド探偵小説の揺籃であったアメリカのパルプ・マガジン『ブラック・マスク』に18000語の中篇『脅迫者は撃たない』(”Blackmailers Don’t Shoot”)が掲載され、デビューする。『脅迫者は撃たない』の執筆には5か月費やした。
1939年発表の処女長編『大いなる眠り』で初登場したフィリップ・マーロウは、ハードボイルド派の中で最も有名な探偵といえる。『大いなる眠り』の執筆には3か月かけた。
1950年、イギリスでの版元ハミッシュ・ハミルトンへの手紙で、なぜパルプ・マガジンを読むようになり、さらに書くようになったかを説明している。
パシフィック・コーストを自動車で行き来していたとき、安くて捨てても惜しくないパルプ・マガジンを読むようになった。女性向け雑誌を読む趣味は全くないのでね。(私がそう言ってよければ)それはブラック・マスク誌の黄金時代で、粗野な面もあるものの、その書きっぷりはかなり力強く正直だと気付いた。そして、小説の書き方を学んで同時に小遣いを稼ぐというのはよい方法かもしれないと思いついた。5カ月かけて18,000語の中編を書き上げ、それを180ドルで売った。それからもかなり不安な時期をすごしたが、私は決して振り返らず前進した。[11]
2作目の長編『さらば愛しき女よ』(1940) はそれぞれ別の脚本で3度映画化された。1944年の『欲望の果て』ではディック・パウエルがマーロウを演じた。チャンドラー自身も脚本を依頼されるようになる。ビリー・ワイルダーと共同で脚本を書いた『深夜の告白』(1944) は、ジェームズ・M・ケインの『倍額保険』が原作だった。このフィルム・ノワールの古典は、アカデミー賞脚本賞にノミネートされた。
チャンドラーの単独書き下ろし脚本としては『青い戦慄』(1946) がある。プロデューサーのジョン・ハウスマンによれば[12]、チャンドラーは結末部分を完成させることができず、酒を飲ませてくれたら完成させると約束し、ハウスマンがそれに同意したという。この脚本でもアカデミー賞にノミネートされた。
アルフレッド・ヒッチコックの『見知らぬ乗客』(1951) でも脚本に参加している。パトリシア・ハイスミスの同名の小説が原作だが、チャンドラーは「ばかばかしいストーリー」と原作を酷評していた[13]。この映画の脚色の際にヒッチコックと衝突し、ヒッチコックをしばしば「あのデブ野郎(that fat bastard)」と、本人に聞こえるように言っていた[14]。ヒッチコックは鼻をつまみながらチャンドラーの草稿脚本を撮影所のゴミ箱に投げ入れたという。しかし、最終的にはチャンドラーの名前が脚本として残っている。
1946年、サンディエゴに程近い海岸沿いのカリフォルニア州ラ・ホヤに引越す。妻シシイは慢性気管支炎で体が衰弱しており、チャンドラーは家事をする合間に執筆していた。『長いお別れ』(1953) を書いた。
1954年12月12日に妻をなくして非常にふさぎ込むようになり、酒におぼれ体調を崩したが、周囲の熱心な支えもあり、1958年に『プレイバック』で復帰する。『プレイバック』はユニバーサル・ピクチャーズのために書いた脚本(映画化されず)が元になっている。さらに翌1959年、『プードル・スプリングス物語』の執筆にとりかかるも、冒頭の第4章まで書いたところで亡くなった。同作は1989年、著名なハードボイルド作家であり、チャンドラーの熱心なファンでもあったロバート・B・パーカーが遺族の承諾を得た上で、続きを執筆し完成させた。パーカーは他に『大いなる眠り』の続編『夢を見るかもしれない Perchance to Dream』(1991年)も書いている。
チャンドラーによるマーロウを主人公とする最後の短編は1957年ごろの "The Pencil" で、日本語では「マーロウ最後の事件」となっている。HBOは1983年から1986年にかけて Philip Marlowe, Private Detective というドラマシリーズを放送しており、「マーロウ最後の事件」も1エピソードの原作として使われた。
晩年と死
[編集]1954年、妻シシイが長い闘病の末、亡くなった。傷心で酒におぼれたチャンドラーは、火葬した遺骨の埋葬を怠り、その骨壷は墓地の貯蔵用ロッカーに57年間放置されていた。
シシイの死後、寂しさからうつ病の傾向が悪化し、長い間飲酒し続け、執筆の質も量も低下した[4]。1955年2月には自殺未遂している。ジュディス・フリーマンは The Long Embrace: Raymond Chandler and the Woman He Loved でそれが「助けを求める叫び声」だっとし、その証拠に彼は事前に警察に自殺するつもりだと電話していたとしている。
チャンドラーの私生活と作家生活は、付き合った女性たちに助けられ、同時に複雑化した。例えば、ヘルガ・グリーン(著作権代理人)、ジーン・フラカッセ(秘書)、ソニア・オーウェル(ジョージ・オーウェル未亡人)、ナターシャ・スペンダー(スティーブン・スペンダーの妻)がいる。特に最後の2人はチャンドラーが潜在的同性愛者だったと証言している[15]。
イングランドでの休養後、ニューヨーク病院に入院し、ラ・ホヤに戻った。1959年3月26日、肺末梢血管ショックと腎前性尿毒症で亡くなった。チャンドラーの6万ドルの遺産は、フラカッセが遺書が直筆かどうかで訴訟を起こしたものの、ヘルガ・グリーンが相続することで決着した。
彼はサンディエゴの墓地に埋葬された。Frank MacShane の書いた伝記 The Life of Raymond Chandler によれば、チャンドラーはシシイの隣に埋葬されることを望んでいたという。しかし、実のところシシイは墓に埋葬されておらず、遺書にも埋葬について全く指示を記していなかったため、サンディエゴの墓地に埋葬されることになった[16]。
2010年、チャンドラー研究者 Loren Latker は弁護士 Aissa Wayne(ジョン・ウェインの娘)の助力を得て、シシイの遺骨をチャンドラーの隣に埋葬する請願を出した。2010年9月、カリフォルニア高等裁判所はその請願を認める裁定を下した[17]。
2011年のバレンタインデー(2月14日)、シシイの遺灰(遺骨)が移され、チャンドラーの墓の隣に埋葬された[18]。その式典には百人ほどの人々が参列した。新たな共有の墓石には『大いなる眠り』の一節 "Dead men are heavier than broken hearts" が刻まれている。ジーン・フラカッセが置いた当初の墓石も側に置いてある。
パルプ小説とチャンドラー
[編集]短編集 Trouble Is My Business (1950) の序文でチャンドラーは、探偵小説の決まりきった枠について考察し、パルプ・マガジンがそれ以前の探偵小説とどう違うのかを考察している。
標準的探偵小説の感情的基盤は、常に殺人が発覚し、正義がなされるということだった。技術的基盤は、大団円へと向かうこと以外は相対的に重視されないということだった。それによって探偵小説を書くということは多少なりとも通り一遍の作業となっていた。大団円が全てを正当化する。一方「ブラック・マスク」型のストーリーの技術的基盤は、プロットよりシーンを重視するという点で、その意味でよいプロットとはよいシーンの連なりでできているものである。理想的なミステリとは、読んでいて結末が読めないものであろう。我々がそれを書くとき、映画製作者と同様の観点に立っている。私が初めてハリウッドに行ったとき、非常に賢いプロデューサーから推理小説を元にして成功する映画を作ることはできないと言われた。なぜなら最も重要な暴露の瞬間が映画ではほんの数秒しかかからず、観客が帽子に手をのばしていたら見逃すだろうと言うのである。彼は間違っていたが、それは間違った種類のミステリを考えていたためだった。
また、パルプ・マガジンの編集者が要求する型に従う際のパルプ作家の苦心を説明している。
私が自分の書いた作品を振り返ったとき、それがもっとよいものならよかったのにと思わないではいられない。しかし、それがもっとよいものだったなら、出版されなかったかもしれない。型枠がもっと柔軟なものだったら、当時の著作物のより多くが世に出ていただろう。我々の何人かはかなり熱心に枠から抜け出そうとしたが、多くは捕まって送り返された。枠を壊さずにその限界を超えることは、絶望した老いぼれ馬以外の全ての雑誌作家の夢だった。[19]
評価
[編集]W・H・オーデン、イーヴリン・ウォー、イアン・フレミングといった評論家や作家はチャンドラーの散文を高く評価している[4]。ラジオ番組でチャンドラーと対談したフレミングは、チャンドラーの会話文を褒め称えている[20]。素早い展開やハードボイルドなスタイルはダシール・ハメットに触発されたものだが、彼の鋭い叙情的な直喩はオリジナルである。チャンドラーの作品は探偵小説というジャンルを再定義し、"Chandleresque"(チャンドラー的)という形容詞が生まれ、必然的にパロディやパスティーシュの的となった。探偵フィリップ・マーロウはステレオタイプなタフガイではなく複雑で、時にはセンチメンタルになり、友人は少なく、スペイン語を若干しゃべり、時折メキシコ人を賞賛し、チェスとクラシック音楽を好む。また、倫理的に問題があると思えばクライアントの金を受け取らない。
今日のチャンドラーの名声とは対照的に、作家として活動していた当時は評論に傷つけられていた。Selected Letters of Raymond Chandler に収録されている1942年3月の Blanche Knopf への手紙で、作風を変えようとすると批判されることに不満を漏らしている。
最近でも彼の作品について批判的な評論が存在する。ワシントン・ポストのインタビューで書評家のパトリック・アンダーソンは、プロットが「よく言っても散漫で、悪く言えば一貫性がない」とし、黒人や女性や同性愛者の登場人物の扱いがひどいと指摘した。それでもアンダーソンはチャンドラーを「おそらく主な犯罪小説作家の中で最も叙情的」と賞賛している[21]。
チャンドラーの小説は、1930年代から40年代にかけてのロサンゼルスとその近郊の雰囲気をよく伝えている[4]。ただし地名は変えてある。ベイシティはサンタモニカ、グレーレイクはシルバーレイク、アイドルバレーはサンフェルナンド・バレーにそれぞれ対応する。
チャンドラーはパルプ小説の批評家でもあった。エッセイ「簡単な殺人法」は特に有名である。
長編小説は『プレイバック』を除いて映画化されている。最も有名なのはハワード・ホークス監督でハンフリー・ボガート主演の『三つ数えろ』(1946) である。ウィリアム・フォークナーが脚本に参加している。チャンドラーの脚本や映画化された小説は、フィルム・ノワールというジャンルのスタイルやテーマに少なからぬ影響を与えた。
人物
[編集]- E・S・ガードナーと親交があった。チャンドラーは1939年5月5日のガードナー宛の手紙に「私たちがむかしの”アクション・ディテクティブ”誌について語っていたとき、エド・ジェンキンスの身がわりのような人物で、ハリウッドの丘に邸をかまえて恐喝に対抗する組織をつくっていた若い女とかかわりになるレックス・ケーンという男について書いたあなたの作品から、私が短篇の書きかたを学んだことを、あなたに話すのを忘れていました。(中略)私はあなたの小説のひじょうにこまかい梗概をつくり、それから書きなおして、できあがったものをあなたのものとくらべ、またもとにもどって、さらに書きなおして、といったことをくり返しました」と書いており[5]、ガードナーの作品を手本のようにしていたようである。
- 以下、チャンドラーによる作家評は、1949年4月16日にアレックス・バリスに宛てた手紙の内容である。
- エリザベス・ホールディングは作品は多くないが堅実に書き続けている個性的なサスペンス作家のナンバーワンである
- F・W・クロフツは細かい描写のナンバーワンである
- ドロシー・L・セイヤーズはラテン語とギリシャ語の引用のナンバーワンである
- フィリップ・マクドナルドはとっつきやすい魅力のナンバーワンである
- 怖がらせる作家のナンバーワンはいないが、強いて挙げるならドロシー・B・ヒューズである
- マーガレット・ミラーの『目の壁』に登場するMCが最も興味のある人物である
- チャンドラーはハミシュ・ハミルトン(チャンドラーの著作を出版していたロンドンの書店の専務)宛の手紙(1949年12月4日)に以下のように書いており、サマセット・モームの”Ashenden”(1928)”A Christmas Holiday”(1939)、プロスペル・メリメの『カルメン』(1845)、グスタフ・フローベールの”Trois Contes”(『三つのコント』、1877)に収められている”Hérodias”、”Un cœur simple”および”Madame Bovaly”(1857)、D・H・ローレンスの”The Captain’s Doll”(1923)、ヘンリー・ジェイムスの”The Spoils of Poynton”(1896)、”The Wings of a Dove”(1902、1909)を高く評価していたことがわかる。
賞賛の言葉
[編集]チャンドラーはスラム街の天使のように書き、ブラインド越しのロサンゼルスの眺めをロマンチックな存在に変貌させた。
レイモンド・チャンドラーはアメリカについて語る新たな方法を発明し、それ以来我々にとってアメリカは全く違ったものとして映るようになった。
その散文はさりげない雄弁さの極みにあり、我々は単なる語り部ではない名文家、ビジョンを持った作家の存在に気付いて興奮を覚える…読者はチャンドラーの誘惑的な散文に魅了される。—ジョイス・キャロル・オーツ, New York Review of Books[22]
チャンドラーは私の好きな作家の1人だ。彼の本は数年ごとに読み返すに値する。その小説はアメリカの過去の完全なスナップショットであり、今は亡きロマン主義の表現は昨日書かれたかのように新鮮だ。
チャンドラーは戦後の夢を発明したようである。タフで優しいヒーロー、危険なブロンド美女、雨で洗われた歩道、遠くの交通(や海)のうなり声…チャンドラーは我々の時代のクラシックで寂しいロマンチックなアウトサイダーであり、彼がいなければアメリカ文学や英文学はもっと貧しいものだっただろう。
主要作品リスト
[編集]長編
[編集]- 大いなる眠り(The Big Sleep, 1939年)
- さらば愛しき女よ(Farewell, My Lovely, 1940年)
- 清水俊二訳、ハヤカワ・ミステリ文庫
- 「さよなら、愛しい人」村上春樹訳、早川書房
- 高い窓(The High Window, 1942年)
- 「ハイ・ウィンドォ」萩明二訳、別冊宝石(1950年)
- 田中小実昌訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ
- 清水俊二訳、ハヤカワ・ミステリ文庫
- 村上春樹訳、早川書房
- 湖中の女(The Lady in the Lake, 1943年)
- 二宮佳景[24]訳、別冊宝石(1950年)
- 田中小実昌訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ
- 清水俊二訳、ハヤカワ・ミステリ文庫
- 「水底の女」村上春樹訳、早川書房
- かわいい女(The Little Sister, 1949年)
- 「聖林殺人事件」清水俊二訳、別冊宝石(1950年)
- 清水俊二訳、創元推理文庫
- 「リトル・シスター」村上春樹訳、早川書房
- 長いお別れ(The Long Goodbye, 1953年)
- プレイバック(Playback, 1958年)
- 清水俊二訳、ハヤカワ・ミステリ文庫
- 村上春樹訳、早川書房
- 市川亮平訳、小鳥遊書房
- 田口俊樹訳、創元推理文庫
- プードル・スプリングス物語(Poodle Springs, 1959年-1989年)
- 菊池光訳、ハヤカワ・ミステリ文庫(未完作、実際に執筆したのは第4章まで、以降はロバート・B・パーカーの手に成る)
短編集
[編集]- ヌーン街で拾ったもの、清水俊二(他)訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ(1960年)
- チャンドラー短編全集1 赤い風、稲葉明雄訳、創元推理文庫(1963年)
- チャンドラー短編全集2 事件屋稼業、同上(1965年)
- チャンドラー短編全集3 待っている、同上(1968年)
- チャンドラー短編全集4 雨の殺人者、同上(1970年)
- マーロウ最後の事件、稲葉明雄訳、晶文社(1975年)
- チャンドラー美しい死顔、清水俊二(他)訳、講談社文庫(1979年)
- ベイ・シティ・ブルース、小泉喜美子訳、河出文庫(1988年)
- フィリップ・マーロウ、稲葉明雄訳、集英社文庫(1997年)
- チャンドラー短編全集1 キラー・イン・ザ・レイン、小鷹信光(他)訳、ハヤカワ・ミステリ文庫(2007年)
- チャンドラー短編全集2 トライ・ザ・ガール、木村二郎(他)訳、ハヤカワ・ミステリ文庫(2007年)
- チャンドラー短編全集3 レイディ・イン・ザ・レイク、小林宏明(他)訳、ハヤカワ・ミステリ文庫(2007年)
- チャンドラー短編全集4 トラブル・イズ・マイ・ビジネス、田口俊樹(他)訳、ハヤカワ・ミステリ文庫(2007年)
書簡・エッセイ集
[編集]- 「レイモンド・チャンドラー語る」(Raymond Chandler Speaking, 1962年)
- ガーディナー&ウォーカー編、清水俊二訳、早川書房、1967年、新版1984年
映画脚本
[編集]- 深夜の告白(Double Indemnity,パラマウント映画, 1944年) - ビリー・ワイルダーとの共同脚本。訳書は2000年に森田義信訳で小学館より刊行(ISBN 978-4093562218)。原作は、ジェームズ・M・ケイン の同題"Double Indemnity"、邦題は『殺人保険』(蕗沢忠枝訳、新潮文庫)。
- 愛のあけぼの(And Now Tomorrow,パラマウント映画, 1944年) - フランク・パートス との共同脚本、監督=アーヴィング・ビチェル、主演=アラン・ラッド、ロレッタ・ヤング、原作=レイチェル・フィールド。
- The Unseen(パラマウント映画,1945年)日本劇場未公開。監督= ルイス・アレン (映画監督)、共同脚本=ヘイガー・ワイルド、主演=ジョエル・マクリー、ゲイル・ラッセル、原作=エセル・リナ・ホワイトの"Midnight House"(米題:"Her Heart in Her Throat") 。
- 青い戦慄(The Blue Dahlia,パラマウント映画, 1946年) - オリジナル脚本。監督=ジョージ・マーシャル、主演=アラン・ラッド、ヴェロニカ・レイク、訳書は『ブルー・ダリア』小鷹信光訳、角川書店、1988年(ISBN 978-4047911758)。
- 見知らぬ乗客(Strangers on a Train,ワーナー・ブラザース, 1951年) - パトリシア・ハイスミスの小説をチェンツイ・オルモンドと共同で脚本化。監督=アルフレッド・ヒッチコック、主演=ファーリー・グレンジャー、ロバート・ウォーカー。
映画未製作
- The Innocent Mrs. Duff(パラマウント映画、1946年)原作=エリザベス・サンクセイ・ホールディン
- Playback(ユニバーサル映画, 1948年) - オリジナル脚本。プレイバック (小説)の原型作で1985年にミステリアス・プレス社から「RAYMOND CHANDLER'S UNKNOWN THRILLER The Screenplay of "PLAYBACK"」を刊行。日本語訳は各・小鷹信光訳で、『過去ある女ープレイバック』1986年にサンケイ文庫(ISBN 978-4383025072)、2014年に小学館文庫(ISBN 978-4094060379)で復刊。
他にオリジナル脚本のためのシノプシス
- Backfire:Story for the Screen(サンタ・テレサ・プレス、1984年)日本語訳は「バックファイア」清水俊二訳《ハヤカワ・ミステリ・マガジン》1986年7月号に掲載。のち『チャンドラー短編全集4 トラブル・イズ・マイ・ビジネス』横山啓明訳、2007年、ハヤカワミステリ文庫に収録。
受賞歴
[編集]アカデミー賞
[編集]著名なチャンドラリアン
[編集]- 熱心なファンのことを俗に「チャンドラリアン」とよぶ。
他国
[編集]日本
[編集]- 大藪春彦(熱心ではなかったものの影響を受けた作品として『長いお別れ』を挙げている)
- 大沢在昌
- 矢作俊彦
- 村上春樹 - 上記の訳書からの至言集『フィリップ・マーロウの教える生き方』(マーティン・アッシャー編、ハヤカワ・ミステリ文庫、2022年)がある。
- 原尞
- 生島治郎
- 平井和正
- 稲見一良
脚注
[編集]- ^ Chandler, Raymond (1950). Trouble is My Business, Vintage Books a division of Random House, Inc., 1988 pp. "About the Author"
- ^ Pronzini, Bill and Adrian, Jack (editors)(1995). Hard-Boiled, An Anthology of American Crime Stories, Oxford University Press, Inc., 1995, p.169.
- ^ 1900 US Census, Plattsmouth, Nebraska
- ^ a b c d e f g h i Iyer, Pico (December 6, 2007). “The Knight of Sunset Boulevard (paid access only)”. The New York Review of Books: pp. 31–33 - 有償であり、無料で閲覧できる抄録部分には出典となる情報はない。
- ^ a b c レイモンド・チャンドラー語る. 早川書房. (1984)
- ^ “Raymond Chandler”. Waterfordireland.tripod.com. 2012年7月19日閲覧。
- ^ a b “アーカイブされたコピー”. 2008年5月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年2月19日閲覧。
- ^ Raymond Chandler: Raymond Chandler Speaking (Dorothy Gardiner and Kathrine Sorley Wakker, ed.) p. 24 Houghton Mifflin Company (1962) ISBN 978-0-520-20835-3.
- ^ Florence arrives 12/1912 - Passenger Manifest SS Merion
- ^ Raymond Chandler's Shamus Town 年表のページなどに公式な記録(死亡診断書、国勢調査、電話帳など)が使われている。
- ^ Chandler, Raymond, forward by Powell, Lawrence Clark (1969). The Raymond Chandler Omnibus, Borzoi Book a division of Alfred A. Knopf, Inc., 1969 p. vii
- ^ 『青い戦慄』の脚本の書籍化で、1988年10月に角川書店から刊行されたマシュー・J ・ブラッコリ(Matthew J. Bruccoli)=編集『ブルー・ダリア(原題:THE BLUE DAHLIA A Screenplay)』に、脚本をめぐるチャンドラーとの遣り取りを回想した、ジョン・ハウスマン(John Houseman)「<回想>失われた二週間」を収録、石田善彦訳。
- ^ 晶文社『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』フランソワ・トリュフォー著、山田宏一・蓮實重彦共訳 P211より
- ^ http://www.case.edu/artsci/engl/marling/hardboiled/Chandler.HTM
- ^ “The Man Who Gave Us Marlowe - The New York Sun”. Nysun.com. 2012年7月19日閲覧。
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- ^ a b c d e “Collected Stories by Raymond Chandler - Praise”. randomhouse.com. 2011年5月14日閲覧。
- ^ 村上春樹訳は、全7作全てハヤカワ・ミステリ文庫で再刊
- ^ この名は鮎川信夫の筆名と考えられているが、北村太郎はEQ1981年5月号のエッセイ「ミステリとわたくし」で、本作は自分が翻訳したと記している。
参考文献
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- レイモンド・チャンドラー/マシュー・J ・ブラッコリ=編『ブルー・ダリア』小鷹信光訳、角川書店、1988年。ISBN 4047911755
- 巻末「資料/チャンドラーと映画」マシュー・J ・ブラッコリ/木村二郎編さん