「須賀浦海水浴場」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
2行目: | 2行目: | ||
==概要== |
==概要== |
||
*須賀浦海水浴場はここ須賀浦海水浴場とも云い、[[大正時代]]中期から快適な海水浴場として名乗り上げた。ここは、文字通り白砂・青松の遠浅の砂はまがきが続き、しかも、波はまことに静かで遠く[[知多半島]]を望む事ができ、海水浴場として好条件であった。しかし不利な条件として交通が不便であるため多くの客を呼ぶ事ができなかった。 |
*須賀浦海水浴場はここ須賀浦海水浴場とも云い、[[大正時代]]中期から快適な海水浴場として名乗り上げた。「ここ須賀浦」は、文字通り白砂・青松の遠浅の砂はまがきが続き、しかも、波はまことに静かで遠く[[知多半島]]を望む事ができ、海水浴場として好条件であった。しかし不利な条件として交通が不便であるため多くの客を呼ぶ事ができなかった。 |
||
*ところが、[[1929年]](昭和4年)に、[[伊勢電鉄]]が(現在の[[近畿日本鉄道]])が[[四日市駅]]から~[[桑名駅]]間が開通した事と、三重郡富洲原町松原地区平町に伊勢電鉄富洲原駅が開設された事によって、[[桑名市]]方面や[[名古屋市]]方面からの客が急増した。富洲原駅開設の同時に'''ここ須賀浦'''海水浴場がある天ヶ須賀地区の浜辺には、(松茂亭・青松軒・常盤亭・千鳥館・浦島亭・気楽亭・森田屋・新栄軒・やっこ)などの葭簀張りの売店が立ち並び、天ヶ須賀本町の浜には、噴水もできて7月から~8月の2か月間は大いに賑わった。海水浴客の中には、日帰りの客以外に、「汐とり」や「汐湯治さん」と云う、長期間宿泊して[[海水浴]]をする人々があった。ここ須賀浦海水浴場の観光の最盛期には、天ヶ須賀の民家に150軒位が海水浴客を受け入れた。以前は2階建ての家はほとんど存在しなかったが、団体客が宿泊するようになると全体が総2階建てに家を建築して、1階~2階を開放して、家族は夏の期間に小屋に居住する家の存在した。都会の名古屋の家族と田舎の富洲原の須賀浦の家族が1つの家の共同居住する飾り気のない交流が存在した事は、天ヶ須賀の人達にとって貴重な体験で、良い思い出だった。戦後は須賀浦海水浴場に名古屋の学童が水泳訓練や海浜学校を行う伊勢湾水練学校が開設されて、夏休み中に名古屋から~富洲原間を学童貸切電車が走行していた。また、名古屋の[[健康保険組合]]や、[[三重郡]][[朝日町]]の[[東芝]]三重工場の『海の家』の建設された。しかし天ヶ須賀地区に魚の加工業が盛んになる、水産物の悪臭とともに売店の衰退して、伊勢湾台風の[[1959年]](昭和34年)頃には、浜店も草分けの浦島亭だけになっていた。 |
*ところが、[[1929年]](昭和4年)に、[[伊勢電鉄]]が(現在の[[近畿日本鉄道]])が[[四日市駅]]から~[[桑名駅]]間が開通した事と、三重郡富洲原町松原地区平町に伊勢電鉄富洲原駅が開設された事によって、[[桑名市]]方面や[[名古屋市]]方面からの客が急増した。富洲原駅開設の同時に'''ここ須賀浦'''海水浴場がある天ヶ須賀地区の浜辺には、(松茂亭・青松軒・常盤亭・千鳥館・浦島亭・気楽亭・森田屋・新栄軒・やっこ)などの葭簀張りの売店が立ち並び、天ヶ須賀本町の浜には、噴水もできて7月から~8月の2か月間は大いに賑わった。海水浴客の中には、日帰りの客以外に、「汐とり」や「汐湯治さん」と云う、長期間宿泊して[[海水浴]]をする人々があった。ここ須賀浦海水浴場の観光の最盛期には、天ヶ須賀の民家に150軒位が海水浴客を受け入れた。以前は2階建ての家はほとんど存在しなかったが、団体客が宿泊するようになると全体が総2階建てに家を建築して、1階~2階を開放して、家族は夏の期間に小屋に居住する家の存在した。都会の名古屋の家族と田舎の富洲原の須賀浦の家族が1つの家の共同居住する飾り気のない交流が存在した事は、天ヶ須賀の人達にとって貴重な体験で、良い思い出だった。戦後は須賀浦海水浴場に名古屋の学童が水泳訓練や海浜学校を行う伊勢湾水練学校が開設されて、夏休み中に[[近鉄名古屋駅]]から~富洲原駅の間を学童専用の貸切電車が走行していた。また、名古屋の[[健康保険組合]]や、[[三重郡]][[朝日町]]の[[東芝]]三重工場の『海の家』の建設された。しかし天ヶ須賀地区に魚などの水産加工業が盛んになる、水産物の悪臭とともに売店の衰退して、伊勢湾台風の[[1959年]](昭和34年)頃には、浜店も草分けの浦島亭だけになっていた。 |
||
==現在== |
==現在== |
||
*[[伊勢湾台風]]以後は、[[防波堤]]や[[国道23号]]線(名四国道)の建設が進み、昔の波打際は一変して1日に数万台の車両が通過する国道となり、今までの自然ある須賀浦の風景は見るかげもなくなった。名四国道開通で須賀浦海水浴場もなくなった。埋立地に昭和60年代に天ヶ須賀新町工業団地や富洲原地区運動場が造成された。<ref>四日市市立富洲原小学校100周年記念誌162ページ17行目~163ページ(昭和51年発行)</ref>。 |
*[[伊勢湾台風]]以後は、[[防波堤]]や[[国道23号]]線(名四国道)の建設が進み、昔の波打際は一変して1日に数万台の車両が通過する国道となり、今までの自然ある須賀浦の風景は見るかげもなくなった。名四国道開通で須賀浦海水浴場もなくなった。埋立地に昭和60年代に天ヶ須賀新町工業団地や富洲原地区運動場が造成された。<ref>四日市市立富洲原小学校100周年記念誌162ページ17行目~163ページ(昭和51年発行)</ref>。 |
2012年7月1日 (日) 03:47時点における版
須賀浦海水浴場(すがうらかいすいよくじょう)は、三重県四日市市天ヶ須賀地区の伊勢湾沿岸に開設されていた海水浴場である。ここ須賀浦とも云う。遠浅の海水浴場として有名で、交通アクセスとして近鉄富洲原駅から下車するたくさんの観光客で賑わった。
概要
- 須賀浦海水浴場はここ須賀浦海水浴場とも云い、大正時代中期から快適な海水浴場として名乗り上げた。「ここ須賀浦」は、文字通り白砂・青松の遠浅の砂はまがきが続き、しかも、波はまことに静かで遠く知多半島を望む事ができ、海水浴場として好条件であった。しかし不利な条件として交通が不便であるため多くの客を呼ぶ事ができなかった。
- ところが、1929年(昭和4年)に、伊勢電鉄が(現在の近畿日本鉄道)が四日市駅から~桑名駅間が開通した事と、三重郡富洲原町松原地区平町に伊勢電鉄富洲原駅が開設された事によって、桑名市方面や名古屋市方面からの客が急増した。富洲原駅開設の同時にここ須賀浦海水浴場がある天ヶ須賀地区の浜辺には、(松茂亭・青松軒・常盤亭・千鳥館・浦島亭・気楽亭・森田屋・新栄軒・やっこ)などの葭簀張りの売店が立ち並び、天ヶ須賀本町の浜には、噴水もできて7月から~8月の2か月間は大いに賑わった。海水浴客の中には、日帰りの客以外に、「汐とり」や「汐湯治さん」と云う、長期間宿泊して海水浴をする人々があった。ここ須賀浦海水浴場の観光の最盛期には、天ヶ須賀の民家に150軒位が海水浴客を受け入れた。以前は2階建ての家はほとんど存在しなかったが、団体客が宿泊するようになると全体が総2階建てに家を建築して、1階~2階を開放して、家族は夏の期間に小屋に居住する家の存在した。都会の名古屋の家族と田舎の富洲原の須賀浦の家族が1つの家の共同居住する飾り気のない交流が存在した事は、天ヶ須賀の人達にとって貴重な体験で、良い思い出だった。戦後は須賀浦海水浴場に名古屋の学童が水泳訓練や海浜学校を行う伊勢湾水練学校が開設されて、夏休み中に近鉄名古屋駅から~富洲原駅の間を学童専用の貸切電車が走行していた。また、名古屋の健康保険組合や、三重郡朝日町の東芝三重工場の『海の家』の建設された。しかし天ヶ須賀地区に魚などの水産加工業が盛んになる、水産物の悪臭とともに売店の衰退して、伊勢湾台風の1959年(昭和34年)頃には、浜店も草分けの浦島亭だけになっていた。
現在
- 伊勢湾台風以後は、防波堤や国道23号線(名四国道)の建設が進み、昔の波打際は一変して1日に数万台の車両が通過する国道となり、今までの自然ある須賀浦の風景は見るかげもなくなった。名四国道開通で須賀浦海水浴場もなくなった。埋立地に昭和60年代に天ヶ須賀新町工業団地や富洲原地区運動場が造成された。[1]。
関連項目
脚注
- ^ 四日市市立富洲原小学校100周年記念誌162ページ17行目~163ページ(昭和51年発行)
参考文献
- 四日市市史(第18巻・通史編・近代)
- 四日市市立富洲原小学校100周年記念誌(昭和51年に発行)