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'''ハロルド・J・ティンパーリ'''(Harold John Timperley、中国表記:田伯烈、[[1898年]] - [[1954年]])は、[[オーストラリア]]・[[バンバリー (西オーストラリア州)|バンバリー]]出身のジャーナリスト。 |
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== 略歴 == |
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[[1898年]][[6月22日]]、 [[西オーストラリア州]]、バンバリーで生まれ、のち[[パース (西オーストラリア州)|パース]]に移った。[[1914年]]、18歳のとき[[デイリー・テレグラフ]]紙のレポーターとなったが、同年、[[第一次世界大戦]]に徴兵される。[[1919年]]に帰国後、記者に戻り、[[1921年]]に[[香港]]の新聞社に勤務するために中国に渡る。 |
[[1898年]][[6月22日]]、 [[西オーストラリア州]]、バンバリーで生まれ、のち[[パース (西オーストラリア州)|パース]]に移った。[[1914年]]、18歳のとき[[デイリー・テレグラフ]]紙のレポーターとなったが、同年、[[第一次世界大戦]]に徴兵される。[[1919年]]に帰国後、記者に戻り、[[1921年]]に[[香港]]の新聞社に勤務するために中国に渡る。後に[[北平]](北京、1924-1936年)に移り[[クリスチャン・サイエンス・モニター]]、[[AP通信|AP]]、[[ロイター]]通信社北京支局記者など様々な新聞の特派員となった。[[1928年]]から[[マンチェスター・ガーディアン]]紙特派員。[[1934年]]からは[[ASIA]]誌顧問編集者<ref>記事の著者名には H. J. Timperley という名前を使っている。</ref>。[[1936年]]5月頃、上海に事務所を移し、1年間マンチェスター・ガーディアン紙の専従特派員となるが、[[1937年]]5月にAP特派員として[[南京]]へ移動した。 |
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=== 南京移住後 === |
=== 南京移住後 === |
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1937年8月28日、鉄道部の広報誌 |
1937年8月28日、鉄道部の広報誌『The Quaterly Review of Chinese Railway』の編集をしていた[[エリザベス・J・チェインバース]]と南京の英国大使館で結婚した。9月初めに[[上海]]に移り[[上海租界|フランス租界]]のアパートに居を構えた。[[第二次上海事変]]に際し、上海国際赤十字の副主席で難民委員会委員長であったフランス人神父[[ジャキノ]]の設立した[[第二次上海事変#上海南市難民区|南市安全区]]に関与し、中国市民の保護に貢献した{{要出典|date=2009年12月}}。 |
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===『WHAT WAR MEANS』の出版とフィッチの渡米=== |
=== 『WHAT WAR MEANS』の出版とフィッチの渡米 === |
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1937年[[12月13日]]の南京陥落時とその後の日本軍占領時に起こったといわれる[[南京事件 (1937年)|南京事件]]に際して、ティンパーリは南京城内の[[安全区委員会]]のメンバーであった[[ジョージ・アシュモア・フィッチ]]、[[マイナー・シール・ベイツ]]からの報告や安全区委員会文書、その他各地の日本軍の暴行に関する報告や記事などをまとめ、 |
1937年[[12月13日]]の南京陥落時とその後の日本軍占領時に起こったといわれる[[南京事件 (1937年)|南京事件]]に際して、ティンパーリは南京城内の[[安全区委員会]]のメンバーであった[[ジョージ・アシュモア・フィッチ]]、[[マイナー・シール・ベイツ]]からの報告や安全区委員会文書、その他各地の日本軍の暴行に関する報告や記事などをまとめ、『What War Means: The Japanese Terror in China(戦争とは何か-中国における日本の暴虐)』を編集する。 |
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{{Squote|ジョージ・フィッチが持参したマギー(南京安全区国際委員会委員ジョン |
{{Squote|ジョージ・フィッチが持参したマギー(南京安全区国際委員会委員[[ジョン・マギー]])のすばらしいフィルムを一見してから、妙案を考えています。ジョージに直ちにアメリカに帰ってもらい、ワシントンで国務省の役人や上院議員などにこの話をするよう進言しました。効果はてきめんです。中国人への同情が喚起されて、(中略)ハル国務長官からは会見を申し込まれるだろうし、(ルーズベルト)大統領とも会う事になるかもしれません。(中略)これはまったく私一人で考えついたことです。(中略)資金の手配はしているところです。}} |
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しかし、当時のティンパーリを知るティルマン・ダーディンの証言によれば、ティンパーリは金銭的に厳しい生活をしていた<ref> |
しかし、当時のティンパーリを知るティルマン・ダーディンの証言によれば、ティンパーリは金銭的に厳しい生活をしていた<ref>『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』における[[笠原十九司]]との対談。</ref>。まもなくフィッチは渡米し、政府関係者と面会し、以後7ヶ月ものあいだ全米各地で講演会を開いた。北村稔はこれらの資金源は国民党であったとしている<ref>[[北村稔]]『「南京事件」の探求』文春新書</ref>。 |
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⚫ | ティンパーリは、[[1938年]]4月初めに上海からロンドンに向い、7月にヴィクター・ゴランツ書店([[:en:Victor Gollancz Ltd]])から『What War Means: The Japanese Terror in China』を刊行した。ヴィクター・ゴランツはイギリスの出版者で、[[ハロルド・ラスキ]]とも交流のあった代表的な左翼知識人であった<ref>北村,28頁</ref>。ティンパーリの『WHAT WAR MEANS』はレフト・ブッククラブ(LEFT BOOK CLUB,左翼叢書)という叢書のひとつとして刊行された。同叢書からは[[エドガー・スノー]]『中国の赤い星』や[[アグネス・スメドレー]]『中国は抵抗する』なども刊行されている<ref>[[ジョン•ルイス]]『出版と読書 レフトブッククラブの歴史』晶文社,1991年。北村,29頁</ref><ref>なお、この『WHAT WAR MEANS』の日本語訳を収録する『日中戦争―南京大残虐事件資料集 第二巻』([[洞富雄]]編,青木書店)の解題では、同書の出版元が明示されていないと北村稔は批判している(北村,28頁)。</ref>。また『WHAT WAR MEANS』は刊行と同時に中国語訳も出版された([[由楊明]]訳『外人目睹中之日軍暴行』漢口民国出版社、1938年7月)。刊行後、ティンパーリは米国を旅行した後、マンチェスター・ガーディアン紙やASIA誌を辞し、[[1939年]]3月頃、重慶に入った。 |
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また『WHAT WAR MEANS』は刊行と同時に中国語訳も出版された(由楊明訳『外人目睹中之日軍暴行』漢口民国出版社、1938年7月)。 |
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刊行後、ティンパーリは米国を旅行した後、[[マンチェスター・ガーディアン]]紙やASIA誌を辞し、[[1939年]]3月頃、重慶に入った。 |
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=== 第二次世界大戦後 === |
=== 第二次世界大戦後 === |
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[[第二次世界大戦]]後[[国際連合|国連]]の様々な機関の役職についた。[[1946年]]、前年に開設されたばかりの[[UNRRA]]の上海事務所に勤務した。 |
[[第二次世界大戦]]後[[国際連合|国連]]の様々な機関の役職についた。[[1946年]]、前年に開設されたばかりの[[UNRRA]]の上海事務所に勤務した。 |
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また、[[南京軍事裁判]]や[[極東国際軍事裁判]]には、ティンパーリは出廷しなかった<ref>北村 |
また、[[南京軍事裁判]]や[[極東国際軍事裁判]]には、ティンパーリは出廷しなかった<ref>北村,34頁</ref>。北村稔は、ティンパーリが裁判に参考人として出廷しなかった理由を、ティンパーリが情報工作者であったためではないかとの見方を提出している<ref>北村,34頁</ref>。なお『WHAT WAR MEANS』の前言に出てくる「善良な日本人」は親交のあった同盟通信[[松本重治]]、上海日本総領事[[日高信六郎]]、上海派遣軍報道部[[宇都宮直賢]]であったという<ref>[[洞富雄]]編『日中戦争 南京大残虐事件資料集 英文資料編』青木書店,20頁。北村,60頁</ref>。 |
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[[インドネシア]]と[[オランダ]]の紛争が深刻化すると、その仲介のために[[国際連合安全保障理事会|国連安全保障理事会]]は、インドネシアに対する[[仲裁委員会]]を設置した。ティンパーリは事務方責任者として会議に参加。[[1948年]]10月に任期を終えたティンパーリは、その後[[パリ]]の[[国際連合教育科学文化機関]]事務所に勤務した。[[1950年]]、仲裁委員会を通して[[インドネシア]]に信頼されていたティンパーリは国際連合教育科学文化機関を辞して、[[インドネシア外務省]]の技術的な指導をするために[[ジャカルタ]]へ渡るが、[[1951年]]、[[熱帯病]]に冒され、[[イギリス]] へ渡る。その後、まもなくして英国[[クエーカー]]に入会。[[1952年]]に、 |
[[インドネシア]]と[[オランダ]]の紛争が深刻化すると、その仲介のために[[国際連合安全保障理事会|国連安全保障理事会]]は、インドネシアに対する[[仲裁委員会]]を設置した。ティンパーリは事務方責任者として会議に参加。[[1948年]]10月に任期を終えたティンパーリは、その後[[パリ]]の[[国際連合教育科学文化機関]]事務所に勤務した。[[1950年]]、仲裁委員会を通して[[インドネシア]]に信頼されていたティンパーリは国際連合教育科学文化機関を辞して、[[インドネシア外務省]]の技術的な指導をするために[[ジャカルタ]]へ渡るが、[[1951年]]、[[熱帯病]]に冒され、[[イギリス]] へ渡る。その後、まもなくして英国[[クエーカー]]に入会。[[1952年]]に、ゴランツの呼び掛けによる<ref>マンチェスター・ガーディアンへ宛てた手紙がきっかけとなった。</ref>[[War on Want]](貧困への戦い)という団体が設立された際には、ティンパーリはその指導者となった<ref>また[[1954年]][[5月]]に開かれた最初の会議を組織した。</ref>。 |
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[[1954年]][[11月25日]]、滞在先のベッドで意識不明のところを発見され、 [[イングランド]][[クックフィールド]]の病院に救急車で搬送されたが、翌26日に死去。56歳。 |
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== 国民党中央宣伝部との関わり == |
== 国民党中央宣伝部との関わり == |
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従来、ティンパーリの書籍『WHAT WAR MEANS』は第三者的なジャーナリストによるものとして認識され、「客観的な資料」として扱われてきた。しかし、近年の研究に |
従来、ティンパーリの書籍『WHAT WAR MEANS』は第三者的なジャーナリストによるものとして認識され、「客観的な資料」として扱われてきた。しかし、近年の研究には、ティンパーリは左翼思想の持ち主で、イギリス共産党をはじめとする当時の国際的な[[共産主義]]運動に関与し、かつ国民党中央宣伝部の顧問として就任していたとする主張がある。 |
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{{Squote|ティンパーリーは都合のよい事に、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の『抗戦委員会』に参加していた三人の重要人物のうちの一人であった。オーストラリア人である。〔中略〕直接に会って全てを相談した。我々は秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。〔中略〕我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。〔中略〕二つの書物は〔中略〕宣伝の目的を達した。}} |
{{Squote|ティンパーリーは都合のよい事に、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の『抗戦委員会』に参加していた三人の重要人物のうちの一人であった。オーストラリア人である。〔中略〕直接に会って全てを相談した。我々は秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。〔中略〕我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。〔中略〕二つの書物は〔中略〕宣伝の目的を達した。}} |
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⚫ | また、北村は中国社会科学院が1981年に編集した『近代来華外国人名辞典』<ref>中国社会科学院近代史研究所翻訳室編『[[近代来華外国人名辞典]]』1981年</ref>には、ティンパーリについて「1937年[[盧溝橋事件]]後、国民党により欧米に派遣され宣伝工作に従事、続いて[[中国国民党|国民党]]中央宣伝部顧問に就任した」と |
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また、渡辺はティンパーリ関係の原資料を調査して確認したところ、ティンパーリが国民党中央宣伝部顧問に就任したのは[[マンチェスター・ガーディアン]]の特派員を辞めた1939年であり、『WHAT WAR MEANS』出版時には国民党中央宣伝部顧問ではないとしている<ref>『季刊 中帰連』21号 2002・夏,75頁</ref>。 |
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⚫ | [[笠原十九司]]は渡辺と井上の論文に依拠しながら、「曽虚白の自伝は、自画自賛的で信憑性がない」と断定し<ref>[[笠原十九司]]『南京事件論争史—日本人は史実をどう認識してきたか』平凡社新書,2007年,259頁</ref>、国際宣伝処がティンパレーから翻訳権を買い取り、中国語版10万部を出版するために資金を出したことを、曽虚白は「自分がティンパレーに書かせたかのように誇張した」と断定している<ref>笠原,260頁</ref>。さらに笠原は北村の研究に対して、その最大の「トリック」は、ティンパレーが国民党の宣伝工作員でないときに執筆した「戦争とは何か」を、国民党のスパイとして書いたかのように思わせようとした点であると指摘し、また北村は「裁判における起訴状と判決書の区別もできずに、裁判官がティンパレーの本から引用して判決文を書いたとするなど、裁判のイロハがわかっていない」と批判した<ref>笠原,264頁</ref>。 |
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== 著作 == |
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* フランス語訳=MM.l'Abbe Gripekoven et M.Harfort, "Ce Que Signifie la Guerre", Belgioue,1940(推定),Amities Chinoises |
* フランス語訳=MM.l'Abbe Gripekoven et M.Harfort, "Ce Que Signifie la Guerre", Belgioue,1940(推定),Amities Chinoises |
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* 日本語訳=[[洞富雄]]編『日中戦争史資料 9』河出書房新社、1973年(昭和48年) |
* 日本語訳=[[洞富雄]]編『日中戦争史資料 9』河出書房新社、1973年(昭和48年) |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* 鈴木明『新「南京大虐殺」のまぼろし』 |
* [[鈴木明]]『新「南京大虐殺」のまぼろし』飛鳥新社 |
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* 北村稔『「南京事件」の探求』 |
* [[北村稔]]『「南京事件」の探求』文春新書 |
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* [[竹本忠雄]]『アンチヤマトイズムスを止めよ!』 |
* [[竹本忠雄]]『アンチヤマトイズムスを止めよ!』日本政策研究センター |
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* 渡辺久志「求めているのは実像か虚像か」(『中帰連』第21号、2002年夏号) |
* [[渡辺久志]]「求めているのは実像か虚像か」(『中帰連』第21号、2002年夏号) |
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* [[笠原十九司]]・[[吉田裕]]編『現代歴史学と南京事件』柏書房、2006年 |
* [[笠原十九司]]・[[吉田裕]]編『現代歴史学と南京事件』柏書房、2006年 |
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* 東中野修道『南京「虐殺」研究の最前線・平成十五年版』 |
* [[東中野修道]]『南京「虐殺」研究の最前線・平成十五年版』 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
2012年6月1日 (金) 03:09時点における版
ハロルド・J・ティンパーリ(Harold John Timperley、中国表記:田伯烈、1898年 - 1954年)は、オーストラリア・バンバリー出身のジャーナリスト。
略歴
1898年6月22日、 西オーストラリア州、バンバリーで生まれ、のちパースに移った。1914年、18歳のときデイリー・テレグラフ紙のレポーターとなったが、同年、第一次世界大戦に徴兵される。1919年に帰国後、記者に戻り、1921年に香港の新聞社に勤務するために中国に渡る。後に北平(北京、1924-1936年)に移りクリスチャン・サイエンス・モニター、AP、ロイター通信社北京支局記者など様々な新聞の特派員となった。1928年からマンチェスター・ガーディアン紙特派員。1934年からはASIA誌顧問編集者[1]。1936年5月頃、上海に事務所を移し、1年間マンチェスター・ガーディアン紙の専従特派員となるが、1937年5月にAP特派員として南京へ移動した。
南京移住後
1937年8月28日、鉄道部の広報誌『The Quaterly Review of Chinese Railway』の編集をしていたエリザベス・J・チェインバースと南京の英国大使館で結婚した。9月初めに上海に移りフランス租界のアパートに居を構えた。第二次上海事変に際し、上海国際赤十字の副主席で難民委員会委員長であったフランス人神父ジャキノの設立した南市安全区に関与し、中国市民の保護に貢献した[要出典]。
『WHAT WAR MEANS』の出版とフィッチの渡米
1937年12月13日の南京陥落時とその後の日本軍占領時に起こったといわれる南京事件に際して、ティンパーリは南京城内の安全区委員会のメンバーであったジョージ・アシュモア・フィッチ、マイナー・シール・ベイツからの報告や安全区委員会文書、その他各地の日本軍の暴行に関する報告や記事などをまとめ、『What War Means: The Japanese Terror in China(戦争とは何か-中国における日本の暴虐)』を編集する。
なお、出版にあたって、南京安全区国際委員会委員であり金陵大学(現:南京大学)教授でかつ中華民国政府の顧問であったマイナー・シール・ベイツへの書簡(1938年2月4日付)においてティンパーリは次のように書いている[2]。
ジョージ・フィッチが持参したマギー(南京安全区国際委員会委員ジョン・マギー)のすばらしいフィルムを一見してから、妙案を考えています。ジョージに直ちにアメリカに帰ってもらい、ワシントンで国務省の役人や上院議員などにこの話をするよう進言しました。効果はてきめんです。中国人への同情が喚起されて、(中略)ハル国務長官からは会見を申し込まれるだろうし、(ルーズベルト)大統領とも会う事になるかもしれません。(中略)これはまったく私一人で考えついたことです。(中略)資金の手配はしているところです。 |
しかし、当時のティンパーリを知るティルマン・ダーディンの証言によれば、ティンパーリは金銭的に厳しい生活をしていた[3]。まもなくフィッチは渡米し、政府関係者と面会し、以後7ヶ月ものあいだ全米各地で講演会を開いた。北村稔はこれらの資金源は国民党であったとしている[4]。
ティンパーリは、1938年4月初めに上海からロンドンに向い、7月にヴィクター・ゴランツ書店(en:Victor Gollancz Ltd)から『What War Means: The Japanese Terror in China』を刊行した。ヴィクター・ゴランツはイギリスの出版者で、ハロルド・ラスキとも交流のあった代表的な左翼知識人であった[5]。ティンパーリの『WHAT WAR MEANS』はレフト・ブッククラブ(LEFT BOOK CLUB,左翼叢書)という叢書のひとつとして刊行された。同叢書からはエドガー・スノー『中国の赤い星』やアグネス・スメドレー『中国は抵抗する』なども刊行されている[6][7]。また『WHAT WAR MEANS』は刊行と同時に中国語訳も出版された(由楊明訳『外人目睹中之日軍暴行』漢口民国出版社、1938年7月)。刊行後、ティンパーリは米国を旅行した後、マンチェスター・ガーディアン紙やASIA誌を辞し、1939年3月頃、重慶に入った。
1939年(4月?)から1943年3月まで、ティンパーリは中国国民党の中央宣伝部顧問となる[8]。その後、1943年から1945年まで、連合国(のInformation Officeに勤務。
第二次世界大戦後
第二次世界大戦後国連の様々な機関の役職についた。1946年、前年に開設されたばかりのUNRRAの上海事務所に勤務した。
また、南京軍事裁判や極東国際軍事裁判には、ティンパーリは出廷しなかった[9]。北村稔は、ティンパーリが裁判に参考人として出廷しなかった理由を、ティンパーリが情報工作者であったためではないかとの見方を提出している[10]。なお『WHAT WAR MEANS』の前言に出てくる「善良な日本人」は親交のあった同盟通信松本重治、上海日本総領事日高信六郎、上海派遣軍報道部宇都宮直賢であったという[11]。
インドネシアとオランダの紛争が深刻化すると、その仲介のために国連安全保障理事会は、インドネシアに対する仲裁委員会を設置した。ティンパーリは事務方責任者として会議に参加。1948年10月に任期を終えたティンパーリは、その後パリの国際連合教育科学文化機関事務所に勤務した。1950年、仲裁委員会を通してインドネシアに信頼されていたティンパーリは国際連合教育科学文化機関を辞して、インドネシア外務省の技術的な指導をするためにジャカルタへ渡るが、1951年、熱帯病に冒され、イギリス へ渡る。その後、まもなくして英国クエーカーに入会。1952年に、ゴランツの呼び掛けによる[12]War on Want(貧困への戦い)という団体が設立された際には、ティンパーリはその指導者となった[13]。
1954年11月25日、滞在先のベッドで意識不明のところを発見され、 イングランドクックフィールドの病院に救急車で搬送されたが、翌26日に死去。56歳。
国民党中央宣伝部との関わり
従来、ティンパーリの書籍『WHAT WAR MEANS』は第三者的なジャーナリストによるものとして認識され、「客観的な資料」として扱われてきた。しかし、近年の研究には、ティンパーリは左翼思想の持ち主で、イギリス共産党をはじめとする当時の国際的な共産主義運動に関与し、かつ国民党中央宣伝部の顧問として就任していたとする主張がある。
北村稔は、王凌霄『中国国民党新聞政策之研究(1928–1945)』(1996年)[14]および国際宣伝処処長曽虚白の回想記[15]に「ティンパーリーとスマイスに宣伝刊行物の二冊の本を書いてもらった」と記されていることから、国際宣伝処が関与していた可能性を示唆している[16]。
『曾虚白自伝(上)』の記述は以下のようになっている。[17]。
ティンパーリーは都合のよい事に、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の『抗戦委員会』に参加していた三人の重要人物のうちの一人であった。オーストラリア人である。〔中略〕直接に会って全てを相談した。我々は秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。〔中略〕我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。〔中略〕二つの書物は〔中略〕宣伝の目的を達した。 |
また、北村は中国社会科学院が1981年に編集した『近代来華外国人名辞典』[18]には、ティンパーリについて「1937年盧溝橋事件後、国民党により欧米に派遣され宣伝工作に従事、続いて国民党中央宣伝部顧問に就任した」と記されており[19]、同人名辞典の編集をした孫瑞芹が1937年当時にはロイター通信社北京支局に携わっていて、ティンパーリを個人的に知っていたとしている[20]。
鈴木明は『近代来華外国人名辞典』の記述を根拠に、ティンパーリが中華民国政府顧問の秘密宣伝員であるとしている[21]。
東中野修道は、日本軍が南京を占領した1937年12月以後約3年間の中国国民党の宣伝工作を記録した「国民党中央宣伝部国際宣伝処工作概要」[22]という1941年に作成された文書中の「対敵宣伝本の編集製作」の部分に『外国人目睹之日軍暴行』("What War Means"の中国名)は同機関が編集印刷した対敵宣伝書籍と明記されているとして、ティンパーリの著作は中国国民党の宣伝書籍であるとする鈴木や北村の見方は確実なものだとしている[23]。
これに対して、渡辺久志は、曽虚白はティンパーリが日本軍占領下の南京にいたとする誤りを前提として語っていることなどを指摘、この証言には問題があるとし、また、曽虚白は当時ティンパーリが中央宣伝部と関係があったとはしていないとして北村説を批判している[24]。
また、渡辺はティンパーリ関係の原資料を調査して確認したところ、ティンパーリが国民党中央宣伝部顧問に就任したのはマンチェスター・ガーディアンの特派員を辞めた1939年であり、『WHAT WAR MEANS』出版時には国民党中央宣伝部顧問ではないとしている[25]。
井上久士は「中央宣伝部国際宣伝処二十七年度工作報告」[26]には「われわれはティンパリー本人および彼を通じてスマイスの書いた二冊の日本軍の南京大虐殺目撃実録を買い取り、印刷出版した」とあり、曽虚白の回想記の「二冊の本を書いてもらった」という記述は誤りと主張している[27]。
笠原十九司は渡辺と井上の論文に依拠しながら、「曽虚白の自伝は、自画自賛的で信憑性がない」と断定し[28]、国際宣伝処がティンパレーから翻訳権を買い取り、中国語版10万部を出版するために資金を出したことを、曽虚白は「自分がティンパレーに書かせたかのように誇張した」と断定している[29]。さらに笠原は北村の研究に対して、その最大の「トリック」は、ティンパレーが国民党の宣伝工作員でないときに執筆した「戦争とは何か」を、国民党のスパイとして書いたかのように思わせようとした点であると指摘し、また北村は「裁判における起訴状と判決書の区別もできずに、裁判官がティンパレーの本から引用して判決文を書いたとするなど、裁判のイロハがわかっていない」と批判した[30]。
著作
- What War Means: The Japanese Terror in China, London, Victor Gollancz Ltd,1938. (レフト・ブック・クラブ版と一般向版の2種がある)
- The Japanese Terror in China, New York, Modern Age Books, 1938.
- Japan: A World Problem, New York, The John Day Company, 1942.
- Australia and the Australians, New York, Oxford University Press, 1942
- Some Contrast Between China and Japan in The Light of History /10 page leaflet, London, The China Society, publication date unknown.
- The War on Want /5 page leaflet, London, Gledhill & Ballinger Ltd., 1953
What War Means翻訳書:
- 中国語訳=由楊明訳『外人目睹中之日軍暴行』漢口民国出版社、1938年7月
- 日本語訳=訳者不明『外国人の見た日本軍の暴行』(中国語訳からの重訳、1938-1941年に軍関係者によって出版されたものと推定される)
- フランス語訳=MM.l'Abbe Gripekoven et M.Harfort, "Ce Que Signifie la Guerre", Belgioue,1940(推定),Amities Chinoises
- 日本語訳=洞富雄編『日中戦争史資料 9』河出書房新社、1973年(昭和48年)
脚注
- ^ 記事の著者名には H. J. Timperley という名前を使っている。
- ^ 『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』青木書店,1992年
- ^ 『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』における笠原十九司との対談。
- ^ 北村稔『「南京事件」の探求』文春新書
- ^ 北村,28頁
- ^ ジョン•ルイス『出版と読書 レフトブッククラブの歴史』晶文社,1991年。北村,29頁
- ^ なお、この『WHAT WAR MEANS』の日本語訳を収録する『日中戦争―南京大残虐事件資料集 第二巻』(洞富雄編,青木書店)の解題では、同書の出版元が明示されていないと北村稔は批判している(北村,28頁)。
- ^ マンチェスター・ガーディアン及びタイムズによるティンパーリの死亡記事より。1954年11月29日付両紙記事。
- ^ 北村,34頁
- ^ 北村,34頁
- ^ 洞富雄編『日中戦争 南京大残虐事件資料集 英文資料編』青木書店,20頁。北村,60頁
- ^ マンチェスター・ガーディアンへ宛てた手紙がきっかけとなった。
- ^ また1954年5月に開かれた最初の会議を組織した。
- ^ 王凌霄『中国国民党新聞政策之研究(1928–1945)』近代中国出版社,1996年
- ^ 『曽虚白自伝(上集)』聯経出版,1988年
- ^ 北村,43-4頁
- ^ 『曾虚白自伝(上集)』,200-201頁
- ^ 中国社会科学院近代史研究所翻訳室編『近代来華外国人名辞典』1981年
- ^ 北村,31頁
- ^ 北村,36頁
- ^ 鈴木明『新・南京大虐殺のまぼろし』飛鳥新社,1999年
- ^ 台北・党史館所蔵
- ^ 東中野修道『南京「虐殺」研究の最前線・平成十五年版』265-6頁
- ^ 中国帰還者連絡会『季刊 中帰連』21号 2002・夏,69-72頁
- ^ 『季刊 中帰連』21号 2002・夏,75頁
- ^ 中国第二歴史档案館所蔵
- ^ 笠原十九司・吉田裕編『現代歴史学と南京事件』柏書房,249頁
- ^ 笠原十九司『南京事件論争史—日本人は史実をどう認識してきたか』平凡社新書,2007年,259頁
- ^ 笠原,260頁
- ^ 笠原,264頁
参考文献
- 鈴木明『新「南京大虐殺」のまぼろし』飛鳥新社
- 北村稔『「南京事件」の探求』文春新書
- 竹本忠雄『アンチヤマトイズムスを止めよ!』日本政策研究センター
- 渡辺久志「求めているのは実像か虚像か」(『中帰連』第21号、2002年夏号)
- 笠原十九司・吉田裕編『現代歴史学と南京事件』柏書房、2006年
- 東中野修道『南京「虐殺」研究の最前線・平成十五年版』