「ミケランジェロ・ブオナローティ」の版間の差分
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| caption = [[ダニエレ・ダ・ヴォルテッラ]]が描いたミケランジェロの肖像画<br />[[File:Michelangelo Signature2.svg|center|frameless|upright]]ミケランジェロのサイン |
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| caption = 肖像画(60歳) |
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[[ファイル:Lire_10000_(Michelangelo_Buonarroti).JPG|250px|サムネイル|ミケランジェロの肖像がデザインされている10000リラ紙幣。1963年 - 1977年発行。]] |
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'''ミケランジェロ・ブオナローティ'''('''Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni''', [[1475年]][[3月6日]] - [[1564年]][[2月18日]])は、[[イタリア]][[ルネサンス]]期の[[彫刻家]]、[[画家]]、[[建築家]]、[[詩人]]。名前は[[ミカエル]]({{lang-it|Michele}})と天使({{lang-it|angelo}})を併せたもの。 |
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'''ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ'''({{lang-it-short|Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni}}<ref name=wga>{{cite web|url=http://www.wga.hu/frames-e.html?/bio/m/michelan/biograph.html|title=Web Gallery of Art, image collection, virtual museum, searchable database of European fine arts (1100–1850)|publisher=wga.hu|accessdate=13 June 2008 |
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}}</ref>、[[1475年]][[3月6日]] - [[1564年]][[2月18日]])は、[[イタリア]][[盛期ルネサンス|盛期ルネサンス期]]の[[彫刻家]]、[[画家]]、[[建築家]]、[[詩人]]。 |
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[[西洋美術史]]上のあらゆる分野に、大きな影響を与えた[[芸術家]]である<ref name="eb.com">{{Cite news|url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/379957/Michelangelo|title=Michelangelo biography|work=Encyclopædia Britannica }}</ref>。ミケランジェロ自身が本業と考えていた彫刻分野以外の作品は決して多くはないにもかかわらず、様々な分野で優れた芸術作品を残したその多才さから、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]と同じく、ルネサンス期の典型的な「'''万能(の)人'''」と呼ばれる。 |
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西洋で最も巨大な絵画の一つとも言われる[[バチカン]]の[[システィーナ礼拝堂]]の[[システィーナ礼拝堂天井画|天井フレスコ画]]や『[[最後の審判 (ミケランジェロ)|最後の審判]]』、[[パオリーナ礼拝堂]]にある『[[ペトロ|聖ペテロの磔刑]]』、『[[パウロ|パウロの改宗]]』を描いたことでよく知られている。もともとは彫刻家であり、『[[ピエタ (ミケランジェロ)|ピエタ]]』や『[[ダビデ像 (ミケランジェロ)|ダビデ像]]』等の傑作のほかにも『[[バックス (ローマ神話)|バッカス]]』、『[[モーセ]]』、『[[ラケル]]』、『[[レア]]』などが有名である。バチカンの『[[サン・ピエトロ大聖堂]]』の設計者でもある。 |
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ミケランジェロは存命中から非常に優れた芸術家として高い評価を得ており、現在でも西洋美術史上における最高の芸術家の一人と見なされている<ref name="eb.com" />。ミケランジェロが制作した絵画、彫刻、建築のいずれをとっても、現存するあらゆる芸術家の作品のなかで、最も有名なものの一つとなっている<ref name="eb.com" />。長寿を保ったミケランジェロの創作活動は前述以外の芸術分野にも及ぶ膨大なもので、書簡、スケッチ、回想録なども多く現存している。また、ミケランジェロは16世紀の芸術家の中で最もその記録が詳細に残っている人物でもある。 |
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[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]、[[ラファエロ・サンティ]]とともにルネサンスの三大巨匠と呼ばれる。ミケランジェロは長命であり、作品も盛期[[ルネサンス]]の時代から、[[マニエリスム]]の時代への移り変わりを示している。また躍動的な表現は、次の[[バロック]]の時代を準備したといわれる。 |
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ミケランジェロの彫刻で最も有名と思われる『[[ピエタ (ミケランジェロ)|ピエタ]]』(1498年 - 1499年、[[サン・ピエトロ大聖堂]])と『[[ダビデ像 (ミケランジェロ)|ダヴィデ像]]』(1504年、[[アカデミア美術館 (フィレンツェ)|アカデミア美術館]])は、どちらもミケランジェロが20歳代のときの作品である。また、ミケランジェロ自身は絵画作品を軽視していたが、西洋美術界に非常に大きな影響を与えた2点の[[フレスコ画]]、[[システィーナ礼拝堂]]の『[[システィーナ礼拝堂天井画]]』と祭壇壁画『[[最後の審判 (ミケランジェロ)|最後の審判]]』を描いている。 |
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== 生涯 == |
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[[ファイル:Michelangelo_Buonarroti.jpg|thumb|left|200px|ミケランジェロ・ブオナローティ(後世の画家による肖像)]] |
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ミケランジェロは[[フィレンツェ共和国]](現在の[[イタリア]]の[[トスカーナ州]])[[カプレーゼ・ミケランジェロ|カプレーゼ]]に生まれた<ref>{{Cite book|和書|title=ルネサンスの三大芸術家|first=クラウディオ|last=メルロ|translator=坂巻広樹|publisher=PHPエディターズ・グループ|isbn=4569608833|pages=42}}</ref>。 |
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さらに建築家としてもフィレンツェの{{仮リンク|ラウレンツィアーナ図書館|en|Laurentian Library}}で、[[マニエリスム|マニエリスム建築]]の先駆けといえる様式で設計を行っている。74歳のときには[[アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネ]]の死去をうけて、当時改築中だったサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命された。このときミケランジェロは従前の設計を変更し、建物西側(奥)はミケランジェロの設計どおりに建てられた。ただし、主ドーム部分はミケランジェロの死後になって、別の設計に変更されて完成している。 |
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幼少の頃から絵画や彫刻に興味を示し、[[1488年]]、13歳で[[ドメニコ・ギルランダイオ]]に弟子入りした。ドメニコは彼の才能に感心し、フィレンツェの支配者だった[[ロレンツォ・デ・メディチ]]に紹介した。ロレンツォはミケランジェロを自宅に引き取り学ばせた。その間に[[プラトン・アカデミー]]に集まる[[人文主義者]]たちやベルトルド・ディ・ジョバンニなど多くの突出した人々と出会い、芸術に関する着想を広げ、大きな影響を受けた。ミケランジェロはこの時期に『ケンタウロスの戦い』『階段の聖母』の二つの浮き彫りを制作している。 |
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[[File:Detail of the Judith and Holofernes fresco in the Sistine Chapel - Holofernes.jpg|thumb|『[[システィーナ礼拝堂天井画]]』の『ユディトとホロフェルネス』の部分拡大画像。描かれているホロフェルネスは、ミケランジェロの自画像といわれている。]] |
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ロレンツォが亡くなった[[1492年]]、ロレンツォの子で後継ぎの[[ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ|ピエロ]]はミケランジェロへの後援をやめた。ミケランジェロはフィレンツェを離れ[[ボローニャ]]で3年ほど生活した。その後すぐの[[1496年]]にサンジョルジオ枢機卿がミケランジェロ作の大理石の天使を購入し、彼を[[ローマ]]へと招いた。ミケランジェロはローマで古代彫刻の影響を受けながら、5年の間とどまり、『[[ピエタ (ミケランジェロ)|ピエタ]]』(サン・ピエトロ大聖堂)とバッカスを作った。 |
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ミケランジェロは、存命中に伝記が出版された初めての西洋美術家であるという点でも、際立った存在といえる<ref name="Britannica1">Michelangelo. (2008). Encyclopædia Britannica. ''Ultimate Reference Suite''.</ref>。そのなかで[[ジョルジョ・ヴァザーリ]]が著した『[[画家・彫刻家・建築家列伝]]』では、ミケランジェロをルネサンス期の芸術における頂点として絶賛し、その作品は何世紀にもわたって西洋美術界で通用するだろうとしている。ミケランジェロは存命中から「神から愛された男 (''Il Divino'' )」と呼ばれることもあり<ref>{{cite book|last=Emison|first=Patricia. A|title=Creating the "Divine Artist": from Dante to Michelangelo|publisher=Brill|year=2004|isbn=978-90-04-13709-7|url=https://books.google.co.jp/books?id=1EofecqX_vsC&pg=PA144&lpg=PA144&dq=michelangelo+%22il+divino%22&redir_esc=y&hl=ja}}</ref>、当時の人々からは偉人として[[畏敬]]の念を持って見られていた。ミケランジェロの作品に見られる情熱的で独特な作風は後続の芸術家たちの模範となり、[[盛期ルネサンス]]の次の西洋芸術運動である[[マニエリスム]]となって結実していった。 |
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== 生涯と作品 == |
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[[ファイル:Michelangelo Buonarroti statua.jpg|thumb|180px|[[フィレンツェ]]にあるミケランジェロの像]] |
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=== 幼少期 === |
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この間、フィレンツェでは[[メディチ家]]の追放、[[サヴォナローラ]]による神制政治、サヴォナローラの失脚、新たな共和国体制、と政変が続いていた。ミケランジェロはそうした時期のフィレンツェに戻り、[[1501年]]に共和国政府の依頼で彼の代表作のひとつである[[ダビデ像 (ミケランジェロ)|ダビデ像]]を4年かけて制作した。ダビデ像は市庁舎(のち[[ヴェッキオ宮殿]])前に設置された(現在は[[アカデミア美術館]]に移され、市庁舎前にはレプリカが置いてある)。ダビデ像はフィレンツェの共和制のシンボルとなった。また、『[[聖家族 (ミケランジェロ)|聖家族と幼児洗礼者ヨハネ]]』もこのときに制作している。 |
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[[File:Buonarotti-scala.jpg|thumb|『階段の聖母』(1491年頃)<br />カーサ・ブオナローティ(フィレンツェ)]] |
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ミケランジェロは1475年3月6日<ref group="注釈">ミケランジェロの父はミケランジェロの誕生日を1474年3月6日と記録している。ただし、この記録は当時フィレンツェで用いられていた年記法によるもので、ローマで採用されていた年記法では1475年となる。</ref>に、現在の[[トスカーナ州]][[アレッツォ]]近郊にあたる[[フィレンツェ共和国]]の[[カプレーゼ・ミケランジェロ|カプレーゼ]]に生まれた<ref name="Tolnay11">J. de Tolnay, ''The Youth of Michelangelo'', 11</ref><ref>{{Cite book|和書|title=ルネサンスの三大芸術家|first=クラウディオ|last=メルロ|translator=坂巻広樹|publisher=PHPエディターズ・グループ|isbn=4569608833|page=42}}</ref>。ミケランジェロの一族は数世代にわたってフィレンツェで小さな銀行業を営んでいたが、ミケランジェロの父ルドヴィーコ・ディ・レオナルド・ディ・ブオナローティ・シモーニは銀行経営に失敗し、共和国政府の臨時職員として生計を立てていた<ref name="Britannica1"/>。ミケランジェロ誕生当時のルドヴィーコはカプレーゼの小さな町の判事職と、[[キウージ]]の首席行政官を務めていた。母親の名前はフランチェスカ・ディ・ネリ・デル・ミニアート・シエーナである<ref name="clement5">C. Clément, ''Michelangelo'', 5</ref>。ルドヴィーコは、トスカーナ女伯[[マティルデ・ディ・カノッサ]]の末裔を自称しており、ミケランジェロもこれを信じていたが、事実かどうかは立証されていない<ref>A. Condivi, ''The Life of Michelangelo'', 5</ref>。ミケランジェロの誕生後数ヶ月で一家はフィレンツェへと戻り、ミケランジェロは幼少期をフィレンツェで送った。1481年、ミケランジェロが6歳の時、母フランチェスカが長い闘病生活の末に死去している。当時のミケランジェロ一家は石工の一家と共に[[セッティニャーノ]]に住んでおり、父ルドヴィーコはこの地で大理石採石場と小さな農園を経営していた<ref name="clement5"/>。[[ジョルジョ・ヴァザーリ]]は著書でミケランジェロの言葉として「私が幸運だったのは、アレッツォの繊細な環境に生まれたことだ。乳母の乳を飲みながら鑿と金槌の使い方と人物彫刻のコツをつかむことができた」と記載している。 |
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[[File:Michelangelo, centauromachia, 1492 ca. 01.JPG|thumb|left|『ケンタウロスの戦い』(1492年頃)<br />カーサ・ブオナローティ(フィレンツェ)]] |
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[[1506年]]、ミケランジェロはローマ教皇[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]にローマへ呼び戻され、教皇の墓廟を制作するよう命ぜられる。墓といっても彫刻を多数並べた巨大な構築物である。しかし多数の仕事を命ぜられたミケランジェロは、制作を何度も中断せざるを得なかった。また墓標の規模も度々変更された。墓廟の制作には40年も関わることになり、モーセ像などが制作された。 |
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父ルドヴィーコは、ミケランジェロ少年を[[人文主義者]]フランチェスコ・ダ・ウルビーノのもとへ送り、学問を学ばせようとした<ref name="Tolnay11" /><ref name="Condivi9">A. Condivi, ''The Life of Michelangelo'', p.9</ref><ref group="注釈">ミケランジェロが学問を学ぶために親元を離れた年齢は文献ごとに相違がある。ド・トルナイは10歳とし、アスカニオ・コンディヴィの伝記を翻訳したセジウィクは7歳としている。</ref>。しかしミケランジェロは学問には興味を示さず、教会の装飾絵画の模写や画家たちと交際することを好んた<ref name="Condivi9" />。ミケランジェロは13歳のときに画家[[ドメニコ・ギルランダイオ]]に弟子入りし<ref name="wga" /><ref name="Liebert59">R. Liebert, ''Michelangelo: A Psychoanalytic Study of his Life and Images'', p.59</ref>、わずか14歳でギルランダイオに一人前の画家と認められたが、これは当時としては極めて異例のことだった<ref>C. Clément, ''Michelangelo'', p.7</ref>。1489年にメディチ家当主でフィレンツェの最大権力者[[ロレンツォ・デ・メディチ]]がギルランダイオに、最も優れた弟子を2名、自分のところへ寄こすように求め、このときにミケランジェロと{{仮リンク|フランチェスコ・グラナッチ|en|Francesco Granacci}}がロレンツォの元へと派遣されている<ref>C. Clément, ''Michelangelo'', p.9</ref>。1490年から1492年にかけて、ミケランジェロはメディチ家が創設した人文主義の[[プラトン・アカデミー]]に参加している。当時のミケランジェロは{{仮リンク|ベルトルド・ディ・ジョヴァンニ|en|Bertoldo di Giovanni}}のもとで彫刻を学んでおり、16歳の頃には、私的なサークルであるプラトン・アカデミーに集う[[マルシリオ・フィチーノ]]、[[ピコ・デラ・ミランドラ]]、[[アンジェロ・ポリツィアーノ]]など当代一流の人文主義者や詩人たちと交流していた<ref name="Tolnay1819">J. de Tolnay, ''The Youth of Michelangelo'', pp.18 - 19</ref>。この時期にミケランジェロが制作した[[レリーフ]]として『{{仮リンク|階段の聖母 (ミケランジェロ)|en|Madonna of the Steps|label=階段の聖母}}』(1490年 - 1492年)、『{{仮リンク|ケンタウロスの戦い|en|Battle of the Centaurs (Michelangelo)}}』(1491年 - 1492年)が挙げられる。『ケンタウロスの戦い』はポリツィアーノがミケランジェロに語ったギリシア神話のエピソードをもとに制作されたもので、ロレンツォ・デ・メディチがミケランジェロに依頼した作品だった<ref name="Condivi15">A. Condivi, ''The Life of Michelangelo'', p.15</ref>。ベルトルド・ディ・ジョヴァンニのもとで修行していた17歳のミケランジェロは、ロレンツォ・デ・メディチの後援で彫刻を勉強していた3歳年長の{{仮リンク|ピエトロ・トッリジャーノ|en|Pietro Torrigiano}}に顔を殴られて鼻骨が曲がってしまい、現存するミケランジェロの肖像画の多くはこの特徴がはっきりととらえられている<ref>{{cite web|url=http://arthistory.about.com/b/2008/07/27/will-the-real-michelangelo-please-stand-up.htm|accessdate=14 December 2009|title=Will the Real Michelangelo Please Stand Up?}}</ref>。 |
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=== 青年期 === |
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[[1508年]]、今度はユリウス2世から墓廟の制作より先に [[バチカン宮殿]]にあるシスティーナ礼拝堂の[[システィーナ礼拝堂天井画|天井画]]を描くよう命じられた。自分は彫刻家であり、画家ではないと拒んだが、しぶしぶ教皇の命令に従った。礼拝堂内に約20mもの高さのある足場を組み、横になって苦しい作業を続け、[[1512年]]までの4年間をかけて創世記をテーマにした『[[天地創造]]』の大フレスコ画が完成した。 |
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1492年4月8日に後援者のロレンツォ・デ・メディチが死去したことにより、ミケランジェロを取り巻く環境は激変し<ref name="Tolnay2021">J. de Tolnay, ''The Youth of Michelangelo'', pp. 20 - 21</ref>、ミケランジェロはメディチ家の庇護から離れて父親の元へと戻った。その後数ヶ月をかけて、フィレンツェのサント・スピリト修道院長への奉献用に、木彫の『{{仮リンク|キリスト磔刑像 (ミケランジェロ)|label=キリスト磔刑像|en|Crucifix (Michelangelo)}}』(1492年、フィレンツェ、サント・スピリト教会)を制作している。修道院長は修道院付属病院で死去した人の身体を、解剖学の勉強のためにミケランジェロに提供した人物だった<ref name="Condivi17">A. Condivi, ''The Life of Michelangelo'', p.17</ref>。ミケランジェロは1493年から1494年にかけて、ギリシア神話の英雄[[ヘーラクレース|ヘラクレス]]の大きな立像制作のために大理石の塊を購入している。このヘラクレス像はフィレンツェに送られたという記録が残っているが、18世紀に行方不明になっている<ref name="Condivi15" /><ref group="注釈">ヘラクレス像を購入したのはストロッツィ家である。1529年に一族のフィリッポ・ストロッツィがこの彫刻をフランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]に売却した。1594年には[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]が[[フォンテーヌブロー]]の別宅に持ち込んだ記録があるが、1713年にその別宅が破壊されて以降、行方不明となっている。</ref>。大雪が降り積もった1494年1月20日に、ロレンツォ・デ・メディチの後継者[[ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ]]からミケランジェロに雪像制作の依頼が舞い込み、再びミケランジェロはメディチ家宮廷に迎えられることとなった。 |
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しかし同年、フィレンツェの支配者メディチ家は、フランス軍の[[イタリア戦争|イタリア侵攻]]と修道士[[ジロラモ・サヴォナローラ]]の扇動による排斥運動でフィレンツェから追放されてしまう。ミケランジェロもこの政変の直前にフィレンツェを去っており、[[ヴェネツィア]]を経て[[ボローニャ]]へと居を移した<ref name="Tolnay2021" />。移住先のボローニャでミケランジェロは、サン・ドメニコ聖堂の聖遺物櫃の小さな人物像彫刻を完成させる仕事を引き受けている。その後、1494年の終わりごろにはフィレンツェの政争は落ち着きつつあり、フランス王[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]率いるフランス軍もローマ教皇、神聖ローマ皇帝らが結んだ軍事同盟の前に撤退したため、当面の危機は回避した状態だった。ミケランジェロはこのような情勢下のフィレンツェへと戻ったが、メディチ家不在のフィレンツェ政府からは作品制作の注文を受けることはなく、フィレンツェ外のメディチ家からの庇護に頼らざるを得なかった<ref name="Tolnay2425">J. de Tolnay, ''The Youth of Michelangelo'', pp.24 - 25</ref>。ミケランジェロがフィレンツェで制作した彫刻に、『幼児洗礼者ヨハネ』と『キューピッド』の2つの小品があるが、どちらも現存していない。{{仮リンク|アスカニオ・コンディヴィ|en|Ascanio Condivi}}が著した16世紀のミケランジェロの伝記によれば、これらの作品をミケランジェロに作らせたのはメディチ家傍流のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチである。ロレンツォはミケランジェロに「これ(『キューピッド』をさす)をどこかからの発掘品のように加工しろ」と命じ「古代ローマの古美術品としてローマに送れば……高値で売ることができる」と考えたとしている。『幼児洗礼者ヨハネ』をロレンツォから購入した[[枢機卿]]{{仮リンク|ラファエーレ・リアーリオ|en|Raffaele Riario}}はこの作品が偽物であることに気付いたが、彫刻自体の出来栄えに感銘を受けてミケランジェロをローマへと招いた<ref name="Condivi1920">A. Condivi, ''The Life of Michelangelo'', pp.19 - 20</ref><ref group="注釈">[[ジョルジョ・ヴァザーリ|ヴァザーリ]]の『[[画家・彫刻家・建築家列伝]]』には、このエピソードに関する記述はない。[[パオロ・ジョヴィオ]]の『ミケランジェロの生涯』には、ミケランジェロがこの彫像を古美術品として売却しようとしたことを示唆する記述がある。</ref>。自身の彫刻作品がローマで認められたことと、当時のフィレンツェの保守的な情勢とが、ミケランジェロに枢機卿からの招待に応じることを決意させた<ref name="Tolnay2425" />。 |
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[[1513年]]にユリウス2世が死ぬと、メディチ家出身の[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]](ロレンツォの次男)が教皇に即位し、ミケランジェロにフィレンツェの[[サン・ロレンツォ教会]]外観の設計などを命じた。ミケランジェロは渋々承諾し、図書館やメディチ家礼拝堂の新聖器室などを建設するが、教会の外観は現在に至るも未完成のままである。[[1527年]]、教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]](レオ10世の従弟)のときに[[ローマ略奪]]が起こると、メディチ家はフィレンツェから再び追放される。共和制に共感したミケランジェロはフィレンツェ共和国の築城長官に就任するが、これはメディチ家に対する背信的な行為であった。 |
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==== ローマ時代 ==== |
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[[1530年]]にメディチ家がフィレンツェに復帰すると、ミケランジェロはフランスへ逃亡するが、クレメンス7世はミケランジェロの行為を不問にしてローマに呼び戻す。クレメンスはシスティーナ礼拝堂の祭壇背後の壁画を依頼するが、ミケランジェロは壁画の仕事には気が進まなかった。しかし、次の教皇[[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]]が強く催促したため、壁画『最期の審判』を[[1536年]]から[[1541年]]までかけて完成させた。 |
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[[File:Michelangelo's Pieta 5450 cropncleaned.jpg|thumb|『[[ピエタ (ミケランジェロ)|ピエタ]]』(1498年 - 1500年)<br />[[サン・ピエトロ大聖堂]]]] |
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ミケランジェロがローマに到着したのは1496年6月25日で<ref name="Tolnay2628">J. de Tolnay, ''The Youth of Michelangelo'', p.26 - 28</ref>、ミケランジェロが21歳のときだった。同年7月4日に、ミケランジェロをローマに招いた枢機卿ラファエーレ・リアーリオからの依頼を受け、ローマ神話のワインの神をモチーフとした『{{仮リンク|バッカス像 (ミケランジェロ)|label=バッカス像|en|Bacchus (Michelangelo)}}』 の制作を開始した。しかし、この作品はリアーリオから受け取りを拒否されてしまい、後に銀行家ヤコポ・ガッリのコレクションとしてその庭に飾られている<ref group="注釈">現在はフィレンツェの[[バルジェロ美術館]]が所蔵している。</ref>。 |
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1497年11月にミケランジェロは教皇庁のフランス大使から、代表作の一つである『[[ピエタ (ミケランジェロ)|ピエタ]]』の制作を打診され、翌年8月に正式な契約を交わした。完成した『ピエタ』は当時「人間の潜在能力の発露であり、彫刻作品の限界を超えた」と評価され、ヴァザーリは「間違いなく奇跡といえる彫刻で、単なる大理石の塊から切り出されたとは到底思えない、あたかも実物を目の前にしているかのような完璧な作品」だとしている。 |
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[[1546年]]には建設工事中であった[[サン・ピエトロ大聖堂]]の建築主任となる。当時、構造上の問題や度々の設計変更で工事は停滞していたが、ユリウス2世当時のプラン(建築家[[ドナト・ブラマンテ]]が構想していた集中式の教会堂)を元に設計し直し、建設を進めていった。[[1564年]]、ミケランジェロが亡くなったときは、大ドームの基部付近まで工事が進んでいた。 |
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ローマでのミケランジェロは{{仮リンク|ロレート聖母教会|en|Santa Maria di Loreto, Rome}}の近くに住んでいた。<!-- 伝説ではこの場所でペスカーラ侯爵夫人ヴィットリア・コロンナに恋したといわれている{{Citation needed|date=January 2009}}。 -->ミケランジェロが住んでいた建物は1874年に取り壊され、新たな所有者によって残されていた遺構も1930年に破壊された。その後復元されたミケランジェロの住居が、ローマ西部の[[ジャニコロの丘]]で公開されている。また、[[バチカン美術館]]が所蔵する有名な古代彫刻『[[ラオコーン像]]』は、この時代のミケランジェロの作品であると主張する者も一部存在する<ref>Catterson, Lynn. "Michelangelo's 'Laocoön?'" Artibus et historiae. 52. 2005: p. 33</ref>。 |
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== 代表作 == |
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=== 彫刻 === |
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[[ファイル:Michelangelo's Pieta 5450 cropncleaned.jpg|thumb|200px|サン・ピエトロのピエタ]] |
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[[ファイル:Michelangelos David.jpg|thumb|200px|ダビデ像]] |
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; [[ピエタ (ミケランジェロ)|ピエタ]] |
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: 死せるイエスを抱きかかえながら、嘆き悲しむ聖母マリアの像である。これはミケランジェロが自らの署名を書き入れた唯一の作品である。4種類制作し、それぞれ以下のように呼ばれている。なお4作目の「ロンダニーニのピエタ」は、晩年の頃に盲目で手探りの中で制作しようとした未完成品である。 |
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:# サン・ピエトロのピエタ(バチカン、[[サン・ピエトロ大聖堂]]) |
|||
:# フィレンツェのピエタ(フィレンツェ、ドゥオーモ博物館) |
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:# パレストリーナのピエタ(フィレンツェ、[[アカデミア美術館 (フィレンツェ)|アカデミア美術館]]) |
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:# ロンダニーニのピエタ(ミラノ、[[スフォルツェスコ城|スフォルツァ城]]博物館) |
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; [[ダビデ像 (ミケランジェロ)|ダビデ像]] |
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: (フィレンツェ、アカデミア美術館、現在ヴェッキオ宮前にあるのはレプリカ) |
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: 高さ4.34mの巨大な像である。敵である[[ゴリアテ]]を見据える激しい表情は「テリビリタ」と呼ばれる。キリスト教の教典である旧約聖書のダビデは[[割礼]]を神との契約とするユダヤ人の王であるが、この彫像に割礼の痕はない。このことは、ダビデの父がユダヤ人ではなくパレスチナ人だったと考えているネストリアンやムスリムの歴史認識と一致している。また、瞳の形は丸ではなく、当時割礼に使われた器具と同様のハート型をしている。 |
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; [[モーセ]]像 |
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: (ローマ、サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会) |
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: もとはユリウス2世から依頼のあった墓廟の一部とすべく造られたもの。このモーセには2本の角が生えている。これは[[旧約聖書]]の[[出エジプト記]]の[[ラテン語]]訳で、「モーセの顔は光を放っていた」と訳すべきところを「角が生えていた」と誤訳されていたためとされている。ただし、現在でも、イスラエルの国が出版しているユダヤ経典のタウラー([[モーセ五書]])には、「角が生えていた」と、二箇所にわたって記載がある。その角が生えた理由は「主と語ったゆえ」とされており、モーセの時代にこの地域で頭上に角の生えた神はエジプトの女神だったことが有名で、ルネサンスの歴史認識と一致する。 |
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また、現在[[ロンドン]]の[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]が所蔵する、以前はミケランジェロの作品かどうか異論の多かった『[[マンチェスターの聖母]]』も、この時期にミケランジェロがローマで描いた作品だと考えられている<ref>[http://www.nationalgallery.org.uk/cgi-bin/WebObjects.dll/CollectionPublisher.woa/wa/work?workNumber=ng809 ナショナル・ギャラリー公式サイト]</ref>。 |
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=== 建築 === |
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* サン・ロレンツォ教会図書館 |
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* [[サン・ピエトロ大聖堂]](ローマ) |
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* ファルネーゼ宮増築(ローマ) |
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* [[カンピドリオ|カンピドーリオ広場]](ローマ) |
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* サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会(ローマ) |
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* [[ピア門|ポルタ・ピア]](ローマ) |
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=== ダヴィデ像 === |
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{{Main|ダビデ像 (ミケランジェロ)}} |
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[[ファイル:God2-Sistine Chapel.png|thumb|300px|システィーナ礼拝堂の天井画・アダムの創造]] |
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[[ファイル:Michelangelo's David - right view 2.jpg|左|サムネイル|『[[ダビデ像 (ミケランジェロ)|ダヴィデ像]]』、1504年<br />[[アカデミア美術館 (フィレンツェ)|アカデミア美術館]](フィレンツェ)]] |
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; [[システィーナ礼拝堂天井画]] |
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メディチ家のフィレンツェ追放に大きな役割を果たした、ルネサンス美術を含む芸術否定論者にしてフィレンツェの指導者だった聖職者[[ジロラモ・サヴォナローラ]]は失脚し、1498年に処刑された。代わって[[ゴンファロニエーレ]]の[[ピエロ・ソデリーニ]]が台頭して、以前とは状況が変わったフィレンツェ共和国に、ミケランジェロは1499年から1501年にかけて帰還している。ミケランジェロは羊毛ギルドの参事たちに、40年前に彫刻家{{仮リンク|アゴスティーノ・ディ・ドゥッチオ|en|Agostino di Duccio}}によって開始されたものの、様々な理由で放棄されていた彫刻群制作計画の完遂を申し込まれた。このときミケランジェロに打診されたのは、フィレンツェの自主性を表す象徴として壮大な[[ダビデ|ダヴィデ]]の彫刻を制作し、[[ヴェッキオ宮殿]]に面した[[シニョリーア広場]]に設置するというものだった。ミケランジェロが、この最も有名な代表作といえる『[[ダビデ像 (ミケランジェロ)|ダヴィデ像]]』を完成させたのは1504年である。イタリア北部の都市[[カッラーラ]]の採石場から切り出され、前任者による大まかな下絵が描かれていた大理石を原材料として制作されたこの『ダヴィデ像』が、ミケランジェロが持つ彫刻家としてのたぐいまれな才能、技量、創造力への評価を決定的なものとしたのである。 |
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: [[旧約聖書]][[創世記]]の9場面、[[天地創造]]から大洪水までを描いたフレスコ画で構成されている。 |
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; [[最後の審判 (ミケランジェロ)|最後の審判]] |
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また、ミケランジェロはフィレンツェに滞在していたこの時期に[[聖母マリア]]、[[聖ヨセフ]]、幼児キリストを描いた円形の絵画『[[聖家族 (ミケランジェロ)|聖家族]]』を完成させている。この作品はアニョロ・ドーニとマッダレーナ・ストロッツィの結婚記念として注文されたもので、17世紀にはフィレンツェ庁舎(現在の[[ウフィツィ美術館]])の通称「護民官の間」と呼ばれる部屋に飾られていた。 |
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: (バチカン、システィーナ礼拝堂、正祭壇背面壁画) |
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{{-}} |
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: マタイ福音書などに記される「最後の審判」をテーマにした世界的に有名なフレスコ画である。大きく四つの階層に分かれており、上から、[[天使]]たちの群像、キリストを中心とした[[天国]]、[[地獄 (キリスト教)|地獄]]に引きずり落とされる人々、地獄、が描かれている。地獄の描写には[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]『[[神曲]]』地獄篇のイメージで描かれているという。 |
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; [[聖家族 (ミケランジェロ)|聖家族と幼児洗礼者ヨハネ]] |
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=== システィーナ礼拝堂天井画 === |
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: 現存する唯一の完成している[[板絵|パネル絵]]で、油彩とテンペラで描かれている。フィレンツェの商人アニョロ・ドーニの依頼で描かれた作品といわれ、[[救世主イエス・キリスト|キリスト]]、[[聖母マリア]]、[[ナザレのヨセフ|聖ヨセフ]]を主題としている。 |
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{{Main|システィーナ礼拝堂天井画}} |
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[[File:Lightmatter Sistine Chapel ceiling.jpg|thumb|『[[システィーナ礼拝堂天井画]]』(1508年 - 1512年)<br />[[システィーナ礼拝堂]]([[バチカン市国|ヴァチカン]])]] |
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1505年にミケランジェロは、新しく選出されたローマ教皇[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]にローマへと呼びもどされ、ユリウス2世が死後に納められる霊廟の制作を命じられた。教皇の後援を受けたミケランジェロだったが、ユリウス2世以外にも後継の歴代教皇から続々と発注された多くの芸術作品の制作に追われ、当初の目的だったユリウス2世の霊廟制作作業を何度も中断せざるを得なかった。このため、最終的にユリウス2世の霊廟の完成までに40年の歳月を要している。司教座聖堂{{仮リンク|サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ|en|San Pietro in Vincoli}}に安置されている、中央にミケランジェロの彫刻『{{仮リンク|モーゼ像 (ミケランジェロ)|label=モーゼ像|en|Moses (Michelangelo)}}』が配されたこの壮麗な霊廟は、ミケランジェロ自身には満足のいくものではなかった。 |
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[[File:God2-Sistine Chapel.png |thumb|left|『アダムの創造』(1508年 - 1512年)<br />[[システィーナ礼拝堂]]([[バチカン市国|ヴァチカン]])]] |
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ユリウス2世の霊廟制作途中にミケランジェロは、その完成までに約4年を費やすことになる[[システィーナ礼拝堂]]の[[システィーナ礼拝堂天井画|天井画]]制作をユリウス2世に引き受けさせられた。ミケランジェロ自身の記録によれば、[[ドナト・ブラマンテ]]と[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]が、ミケランジェロのことをよく知らないにもかかわらず、ユリウス2世に推薦したとされている。さらに、自身は彫刻家であるとの自負を持っていたミケランジェロにとって、システィーナ礼拝堂天井画制作は好ましい仕事ではなく、当時フレスコ画家の第一人者として絶頂期にありユリウス2世お気に入りの画家だったラファエロに比べると不快な経験だったとされている。しかしこれらのエピソードは、現存する当時の資料から現在の美術史家たちに疑問視されており、ミケランジェロ側からの一方的な見方にすぎないと考えられている。 |
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もともとミケランジェロに与えられた計画は、システィーナ礼拝堂の天井に空を背景とした[[十二使徒]]を描くというものだった<ref>Giacometti, Massimo (1986). The Sistine Chapel.</ref>。しかしミケランジェロはこの当初計画を破棄し、『[[創世記]]』のエピソードをもとにした人類の堕天と救済を、[[預言者|預言者たち]]とキリストの家系に連なる人々によって描きだすという、はるかに複雑な構成を採用した。そしてこの天井画は、[[ペルジーノ]]、[[サンドロ・ボッティチェッリ]]、[[ドメニコ・ギルランダイオ|ギルランダイオ]]らの壁画、そして後年にミケランジェロが描いた祭壇画『[[最後の審判 (ミケランジェロ)|最後の審判]]』などとともに、ローマ・カトリック教会の教義を描きだすという壮大な計画の一部を担う作品となっている<ref name= "Shearman 2">Shearman 1986b, pp.38 - 87</ref><ref name= OM>O'Malley 1986, pp.92 - 148</ref>。 |
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システィーナ礼拝堂天井画は『創世記』の九つのエピソードを主題として構成されており、描かれている人物像は300を超えている。これらのエピソードはさらに、「天地創造」、「アダムとイヴ」、「[[ノア (聖書)|ノア]]とその一族に仮託した人類の現状」の三つに大別できる。天井を支える[[穹隅|ペンデンティヴ]]部分には、キリスト降誕を予言したとされる男女である、7人の[[預言者]]と5人の[[シビュラ|巫女]]が描かれている。このシスティーナ礼拝堂天井画では『[[アダムの創造]]』、『[[原罪と楽園追放]]』、『大洪水』、『イザヤ』、『クマエの巫女』などが有名で、その他、窓の周りにはキリストの祖先とされている人物が描かれている。 |
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=== メディチ家出身のローマ教皇との関係 === |
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[[File:Raffael 040.jpg|thumb|『[[レオ10世と二人の枢機卿|ローマ教皇レオ10世]]』(1518年 - 1519年)、[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]<br />[[ウフィツィ美術館]](フィレンツェ)<br />左に描かれている枢機卿は後の[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]であるジュリオ・デ・メディチである。]] |
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1513年に教皇ユリウス2世が死去し、後継のローマ教皇に[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]が選出された。レオ10世はロレンツォ・デ・メディチの次男ジョヴァンニ・デ・メディチであり、ミケランジェロとは全くの見知らぬ他人というわけではなかった。このような背景のなかで、レオ10世が、未完成のままだったメディチ一族の教会[[サン・ロレンツォ大聖堂]]の[[ファサード]]再建と彫刻による装飾をミケランジェロに依頼するのはごく自然なことだった<ref name=Stanley>{{cite book|last=Stanley|first=Diane|title=Michelangelo|year=2000|publisher=Harper Collins|isbn=0-688-15085-3}}</ref>。ミケランジェロの前任者[[フィリッポ・ブルネレスキ]]は、大聖堂の内装は完成させていたが、ファサードは未完成のまま死去していた。ブルネレスキの作業を引継がせるにあたってレオ10世は何人かの建築家を招いており、必ずしもミケランジェロが第一人者ではなかったが、1518年になってレオ10世はミケランジェロに一任している。ミケランジェロにとって、このサン・ロレンツォ大聖堂のファサード建築が建築家として事実上の初仕事であり、過去に大規模な建設作業計画の作成や見積などの経験はなかった。ミケランジェロはこの作業を担当するに当たって、イタリア北部の都市[[カッラーラ]]の採石場に足を運び、産する石材を試掘している。そして2年をかけて工程表を作成し、切り出す石材の選別、大理石搬出の指揮などの計画を立てた。大聖堂の円柱、[[コーニス]]などに使用された建築用大理石は、それまでミケランジェロが彫刻に用いていた大理石とはまったく異なるものだった<ref name=Crain>''Michelangelo: artist and man''. Dir. Michael Crain. Perpetual Motion Films, 1994. VHS.</ref>。 |
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ミケランジェロはファサードのデザインや計画作成に3年を費やしており、カッラーラだけではなく、[[ピエトラサンタ]]にもこの事業のために新しく大理石採石場を設けることも決定していた。しかしフィレンツェへと大理石を運ぶ道路の整備が捗らず、計画全体が遅延し始めた。このためレオ10世は採石場を[[セラヴェッツァ]]へと変更することを要求したが、当時のセラヴェッツァの採石場は放棄されており、石工もおらず道路も整備されていない場所だった。これらの問題に関するミケランジェロの意見は無視され、一方的に採石場をセラヴェッツァへと変更する指示がなされた。カッラーラとの石材購入契約を破棄したとして、不当にもミケランジェロが非難される結果となり、ミケランジェロとレオ10世の間で論争となっている。結局サン・ロレンツォ大聖堂のファサード再建は、3年間の遅延の後に放棄されてしまった<ref name=Copplestone>{{cite book|last=Copplestone|first=Trewin|title=Michelangelo|year=2002|publisher=Wellfleet Press|isbn=0-7858-1461-2}}</ref>。以来、現在にいたるまでサン・ロレンツォ大聖堂にはファサードは設置されておらず、レオ10世がファサードを放棄した理由については歴史家の間でも大きな謎となっている<ref name="Copplestone"/>。 |
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レオ10世は1521年に急死し、後継の[[ハドリアヌス6世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス6世]]も教皇就任後1年足らずで死去した。ハドリアヌス6世の後を襲ったのは、レオ10世の従弟にあたるメディチ家出身の[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]だった。クレメンス7世はミケランジェロにとって最重要なパトロンの一人となっていった。クレメンス7世はミケランジェロを気に入って寵愛したが、ミケランジェロのほうは自分が関心のあることにしか興味を示さない身勝手な芸術家のままだった<ref name=Wallace>''The Genius of Michelangelo''. Dir. William E. Wallace. The Teaching Company, 2007. DVD.</ref>。 |
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[[ローマ略奪]]に後押しされたフィレンツェ市民は、1527年に再びメディチ家を追放してフィレンツェ共和国の再興を図ったが、政情はなお混沌としており、ミケランジェロも愛するフィレンツェのために要塞建築監督の任にあたった。しかし、1530年に神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]がフィレンツェを陥落させ、このときにメディチ家もフィレンツェへと帰還して往年の権力を取り戻し、公爵位を獲得した。メディチ公爵家のフィレンツェ施政は苛烈なもので、メディチ家礼拝堂の制作途中だったミケランジェロも、礼拝堂を完成するに足る弟子を残して、自身は1530年代半ばにフィレンツェを離れている。 |
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=== 『最後の審判』と晩年 === |
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[[File:Michelangelo, Giudizio Universale 02.jpg|thumb|『[[最後の審判 (ミケランジェロ)|最後の審判]]』(1541年 - 1547年)<br />[[システィーナ礼拝堂]](ヴァチカン)]] |
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システィーナ礼拝堂の祭壇壁画である、[[フレスコ]]で描かれた『[[最後の審判 (ミケランジェロ)|最後の審判]]』は、メディチ家出身のローマ教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス6世]]の注文による絵画だが、クレメンス6世はミケランジェロとの制作契約が締結されて間もなく死去している。メディチ家支配下のフィレンツェを離れたミケランジェロはローマに落ち着くことに決め、1505年に作業を開始したまま、半ば放置していたローマ教皇[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]の霊廟の完成に集中しようとしていた。しかしながらクレメンス6世の後を襲ったローマ教皇[[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]]もこの祭壇画制作の続行を望み、ミケランジェロはユリウス2世の霊廟制作を中断してシスティーナ礼拝堂のフレスコ壁画に取りかからざるを得なかった<ref name="Stanley"/>。 |
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[[File:Last judgement.jpg|thumb|left|『[[最後の審判 (ミケランジェロ)|最後の審判]]』の拡大画像(1537年 - 1541年)<br />[[システィーナ礼拝堂]](ヴァチカン)<br />[[バルトロマイ|聖バルトロマイ]]が手にしている自身の皮は、頭部がミケランジェロの自画像だとされている。]] |
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ミケランジェロは1541年から1547年10月まで、この困難な壁画制作に従事した。『最後の審判』はシスティーナ礼拝堂の主祭壇の背後の壁一面に描かれた、1370cm×1200cmにおよぶ非常に大規模な作品で、キリストの再臨と現世の終末を、天使に囲まれたキリストが生前の行いによって人々の魂を裁いている情景で描いている。『最後の審判』に描かれているキリストの位置は、15世紀のイタリア人画家[[メロッツォ・ダ・フォルリ]]が1480年ごろにローマの{{仮リンク|サンティ・アポストリ教会|en|Santi Apostoli}}に描いた天井フレスコ画『キリスト昇天』<ref group="注釈">『キリスト昇天』はキリストとともに多くの天使などが描かれていた作品で、現在ではキリストを描いた部分はローマの[[クイリナーレ宮殿]]に、その他の部分はバチカン美術館サンピエトロ大聖堂聖具室に収蔵されている。</ref>に影響を受けている。 |
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当初ミケランジェロが完成させた『最後の審判』は、キリストも聖母マリアも裸体で表現されていた。裸体が不信心、不道徳であるとして、カラファ枢機卿(後のローマ教皇[[パウルス4世 (ローマ教皇)|パウルス4世]])と[[マントヴァ公国]]公使セルニーニが、壁面から除去するなどの処置を講じるべきだと主張したが、パウルス3世はこれに応じなかった。しかし、ミケランジェロの死後に、裸体で描かれた人物の局部を隠すことが決定された。この仕事を任され、『最後の審判』の人物像の局部に下穿きを描いたのが、ミケランジェロのもとで絵画を学んでいた[[ダニエレ・ダ・ヴォルテッラ]]である。その後、1993年に『最後の審判』が修復されたときにも、ダ・ヴォルテッラが加筆した下穿き部分が全て除去されたわけではなかった。これは、歴史的資料として一部保存するという意味合いと、後世の画家たちの「慎み深い」加筆によってミケランジェロのオリジナル部分がすでに削り取られて失われていたことによる。[[ナポリ]]の[[カポディモンテ美術館]]には、[[マルチェッロ・ヴェヌスティ]]が描いた、修正前の『最後の審判』の模写が所蔵されている。 |
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[[File:Michelangelo-Christ.jpg|thumb|『ミネルヴァのキリスト』(1521年)[[サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会]](ローマ)<br />股間を覆う布の彫刻は後世になってから付け加えられた。]] |
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道徳的、宗教的な検閲はミケランジェロについてまわり、「わいせつ美術の考案者 (''inventor delle porcherie'' )」とまでいわれたこともあった。16世紀の[[対抗宗教改革]]が推進した、絵画や彫刻の裸身を隠そうと試みる悪名高き「[[イチジクの葉]]運動」は、ミケランジェロの作品が契機となって開始されたものである。大理石彫刻『{{仮リンク|ミネルヴァのキリスト|en|Cristo della Minerva}}』(1521年、ローマ、[[サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会]])の下半身には彫刻に布が後からかぶせられており、現在に至るまでこの状態で所蔵されている。さらに、彫刻『{{仮リンク|ブルッヘの聖母|en|Madonna of Bruges}}』(1501年 - 1504年、ブルッヘ、聖母教会)の、裸体の幼児キリストには数世紀にわたって覆いがかけられていた。また、ロンドンの[[ヴィクトリア&アルバート博物館]]{{仮リンク|キャストコート展示室|en|Cast Courts (Victoria and Albert Museum)}}が所蔵するダヴィデ像の複製彫刻の背後には箱に納められた「イチジクの葉」があり、女性王族が気を悪くしないようにダビデ像の局部を隠すために使用されていた。 |
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1546年にミケランジェロは、それまで[[ドナト・ブラマンテ|ブラマンテ]]、[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]らが40年以上にわたって続けてきた、ヴァチカンの[[サン・ピエトロ大聖堂]]改築の設計とドームのデザインを一任された。最終的にミケランジェロはドームの完成を待たずしてこの世を去っているが、存命時にはドーム下部と支持環まで着工済みであり、ドーム全体の基本的なデザインはすでに完成していた。ミケランジェロは1564年、88歳でローマで死去した。フィレンツェを愛したミケランジェロの遺言どおりに、遺体はローマからフィレンツェへと運ばれて、[[サンタ・クローチェ聖堂 (フィレンツェ)|サンタ・クローチェ聖堂]]に埋葬された。 |
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=== 遺作の発見 === |
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2007年12月7日に[[バチカン秘密文書館]]で、ミケランジェロがその没年の1564年に赤いチョークで描いたサン・ピエトロ大聖堂のデザイン・スケッチが発見された<ref>[https://www.theguardian.com/world/2007/dec/07/art.artnews Michelangelo sketch for St Peter's dome found]([[ガーディアン|The Guardian)]])</ref><ref>{{cite news| url=http://www.telegraph.co.uk/culture/books/7772052/The-Vatican-Archive-the-Popes-private-library.html | work=The Daily Telegraph | first=John | last=Preston | title=The Vatican Archive: the Pope's private library | date=1 June 2010}}</ref>。ミケランジェロは自身でスケッチを破棄していたため、現存するサン・ピエトロ大聖堂のデザイン・スケッチは極めて稀少なものである。このスケッチには、半球の屋根(クーポラ)を支える放射状の柱の構成計画が描かれていた<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7133116.stm |title=Michelangelo 'last sketch' found |publisher=BBC News |date=7 December 2007|accessdate=9 February 2009}}</ref>。 |
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=== 真贋が疑われている作品 === |
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ミケランジェロの作品とされるものには多くの真贋論争がある。有名な作品としては、フィレンツェの[[アカデミア美術館 (フィレンツェ)|アカデミア美術館]]が所蔵する彫刻『[[ピエタ (ミケランジェロ)#パレストリーナのピエタ|パレストリーナのピエタ]]』や、フォートワースの[[キンベル美術館]]が近年購入した『聖アントニウスの苦悩』<ref group="注釈">以前はギルランダイオの工房作といわれており、ミケランジェロの作品ではないかとする説は2度否定されていた。</ref>などがある。1996年にニューヨークのフランス大使館でミケランジェロ作として「再発見」され、現在は[[メトロポリタン美術館]]に貸与されているキューピッドの彫刻も、真贋がはっきりとしていない作品である<ref>{{cite web |last=Budd |first= Denise |title=Michelangelo's first painting (exhibition review) |work=Metropolitan Museum of Art |location=New York |year= 2010 |url=http://www.thefreelibrary.com/Michelangelo%27s+First+Painting.-a0240916107 |publisher=thefreelibrary.com |accessdate=2012/06/26}}</ref>。 |
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== 建築作品 == |
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[[File:Petersdom von Engelsburg gesehen.jpg|thumb|ミケランジェロが設計したサン・ピエトロ大聖堂のドーム。]] |
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ミケランジェロには別人が始めた計画を引き継いだ建築物も多く、それらの中でも最も有名なのがブラマンテ、ラファエロらの作業を受け継いだローマの[[サン・ピエトロ大聖堂]]である。[[カンピドリオ|カンピドリオ広場]]の、建物と空間とで明快に表現された設計も、ミケランジェロがサン・ピエトロ大聖堂と同時期に手がけたものである。カンピドリオ広場は正方形ではなく菱形で構成されており、このことが見かけ上の遠近感を弱める役割を果たしている。 |
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フィレンツェでミケランジェロが建築に関わった有名な建物としては、[[サン・ロレンツォ大聖堂]]の未完に終わったファサード、同じくサン・ロレンツォ大聖堂付属のメディチ家礼拝堂、{{仮リンク|ラウレンツィアーナ図書館|en|Laurentian Library}}、要塞などがある。 |
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ローマでは、サン・ピエトロ大聖堂、[[パラッツォ・ファルネーゼ|ファルネーゼ宮殿]]([[パラッツォ・ファルネーゼ]]とも。1530~46年)や、{{仮リンク|サン・ジョヴァンニ・ディ・フィオレンティーニ教会|en|San Giovanni dei Fiorentini}}、[[サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂]]スフォルツァ家礼拝堂、[[ピア門|ポルタ・ピア]]、[[サンタ・マリア・デリ・アンジェリ・エ・デイ・マルティーリ大聖堂]]、[[パラッツォ・デル・セナトーレ]](ローマ、カンピドリオの丘、1592年~<ref>{{Cite book|和書 |title=新装版 図説 西洋建築の歴史 |year=2022 |publisher=河出書房新社 |page= |pages=65-66}}</ref>)などがある。 |
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=== ラウレンツィアーナ図書館 === |
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[[File:Biblioteca medicea laurenziana, vestibolo e scala di michelangelo, 03.jpg|thumb|right|ラウレンツィアーナ図書館の階段と付柱]] |
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メディチ家の私設図書館を欲したローマ教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]の依頼で、ミケランジェロがフィレンツェのサン・ロレンツォ大聖堂付属ラウレンツィアーナ図書館の設計を開始したのは1523年ごろである。下部に行くにつれて細くなっていく装飾用の[[付柱]]や直線と曲線が組合された階段など、新しい要素を設計に取り入れている。その後13年の間、ミケランジェロは設計作業を断続的に進め<ref name="Stanley"/>、図書館が完成、開館したのはミケランジェロの死後、1571年になってからだった<ref name="Crain"/>。現在では、このラウレンツィアーナ図書館はマニエリスム様式の代表的建築物と見なされている<ref>''Medicean-Laurentian Library.'' Encyclopædia Britannica. 2007.</ref><ref>{{Cite book|和書 |author= 池上英洋|authorlink=池上英洋 |year = 2013 |title = 神のごときミケランジェロ |publisher = [[新潮社]] |page = 21 |isbn = 978-4-10-602247-0}}</ref>。 |
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=== メディチ家礼拝堂 === |
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{{Main|メディチ家礼拝堂}} |
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サン・ロレンツォ大聖堂でミケランジェロは[[メディチ家礼拝堂]]の設計も手がけ、構成はミケランジェロに一任された。メディチ家礼拝堂は「君主の礼拝堂 (''Cappella dei Principi'' )」と「新聖具室 (''Sagrestia Nuova'' )」で構成され、内部にはメディチ一族に捧げられた記念碑が存在している。ミケランジェロはこの礼拝堂の完成を見ずにフィレンツェを離れており、礼拝堂は最終的にミケランジェロの弟子たちの手によって仕上げられた。メディチ家の墓所としても使用されている新聖具室の入り口には、壁際に[[ロレンツォ・デ・メディチ|ロレンツォ]]と[[ジュリアーノ・デ・メディチ (ヌムール公)|ジュリアーノ]]のメディチ家兄弟の墓所として用意された2つの霊廟がある。霊廟は一日の時間帯を表現した裸体の人物彫刻で飾られており、ロレンツォの側には『{{仮リンク|夕暮 (ミケランジェロ)|label=夕暮|en|Dusk (Michelangelo)}}』と『{{仮リンク|曙 (ミケランジェロ)|label=曙|en|Dawn (Michelangelo)}}』が、ジュリアーノの側には『{{仮リンク|夜 (ミケランジェロ)|label=夜|en|Night (Michelangelo)}}』と『{{仮リンク|昼 (ミケランジェロ)|label=昼|en|Day (Michelangelo)}}』が、それぞれ存在する。さらにロレンツォの霊廟には『聖母子』と、メディチ家の守護聖人である聖コスマスと聖ダミアンの彫刻で飾られており、この『聖母子』はミケランジェロ自身の作品である。ミケランジェロが彫刻と内装計画の両方を担当した仕事のなかでも、サン・ロレンツォ大聖堂メディチ家礼拝堂の聖具室は、ミケランジェロの彫刻と建築の才能が総合的に発揮された好例といえる<ref>James Beck, Antonio Paolucci, Bruni Santi ''Michelangelo. The Medici Chapel'', Nhames and Hudson, New York,1994</ref>。また、1976年には聖具室の下に、壁にミケランジェロのドローイングがある隠し廊下が発見されている<ref>[http://www.florentine-society.ru/Medici_Chapel_Mysteries.htm Peter Barenboim, Sergey Shiyan, ''Michelangelo: Mysteries of Medici Chapel'', SLOVO, Moscow, 2006]. ISBN 5-85050-825-2</ref><ref>Peter Barenboim, "Michelangelo Drawings – Key to the Medici Chapel Interpretation", Moscow, Letny Sad, 2006, ISBN 5-98856-016-4</ref>。 |
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== 私生活 == |
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ミケランジェロの私生活は禁欲的なもので、弟子で画家、伝記作家の{{仮リンク|アスカニオ・コンディヴィ|en|Ascanio Condivi}}に「自分は金持ちなのかもしれないが、つねに質素な暮らしを送っている」と語っている<ref name=CondiviLOM106>Condivi, ''The Life of Michelangelo'', p. 106.</ref>。コンディヴィは、ミケランジェロが食べ物や飲み物に無関心で「楽しむためではなく、単に必要にせまられて」食事をとり、「服を着たままで靴も履いたままで眠り込むことがよくあった」としている<ref name=CondiviLOM106/>。このような習慣を持っていたこともあって、ミケランジェロは私生活で他人から好かれる性質ではなかった。ミケランジェロの伝記を書いた[[パオロ・ジョヴィオ]]も「洗練されていない粗野な人柄で、その暮らしぶりは信じられないほどむさ苦しく、そうでなければ彼に師事する者もいたであろうに、結局は後世に弟子を残さなかった」と記している<ref>Paola Barocchi (ed.) ''Scritti d'arte del cinquecento'', Milan, 1971; vol. I p. 10.</ref>。ミケランジェロは本質的に孤独を好む陰鬱な性格で、人付き合いを避けて引き篭もり、周囲にどう思われようと頓着しない人物だった<ref>Condivi, ''The Life of Michelangelo'', p. 102.</ref>。 |
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== 性的指向 == |
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[[File:Vittoria Colonna.jpg|thumb|大英博物館が所蔵する、ヴィットリア・コロンナを描いたミケランジェロのドローイング。ミケランジェロ65歳、ヴィットリア50歳のときの作品と考えられている]] |
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アスカニオ・コンディヴィはミケランジェロが「修道僧のように貞節」と書いているが、ミケランジェロが持った肉体的交渉を明らかにすることは不可能である<ref name="Hughes, Anthony page 326">Hughes, Anthony: "Michelangelo.", p.326. Phaidon, 1997.</ref>。しかしミケランジェロが残した詩文、美術作品から、その一端を垣間見ることができる可能性はある<ref>Scigliano, Eric: [http://books.simonandschuster.ca/9780743254779 "Michelangelo's Mountain; The Quest for Perfection in the Marble Quarries of Carrara."] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090630155910/http://books.simonandschuster.ca/9780743254779 |date=2009年6月30日 }}, Simon and Schuster, 2005. Retrieved 27 January 2007</ref>。 |
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; 同性愛的傾向 |
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: ミケランジェロは300以上の[[ソネット]]と[[マドリガーレ]]を書いた。最も長い作品は1532年の、57歳のミケランジェロと出会ったときに23歳前後だった{{仮リンク|トンマーゾ・デイ・カヴァリエーリ|en|Tommaso dei Cavalieri}}に捧げたものである。このソネットは、男性が他のひとりの男性に話しかける構成で書いたまとまった量の詩歌としては現存する最古のもので、男性にあてて多くのソネットを書いた[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]に先立つことおよそ50年となる。 |
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|<poem> |
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:I feel as lit by fire a cold countenance |
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:That burns me from afar and keeps itself ice-chill; |
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:A strength I feel two shapely arms to fill |
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:Which without motion moves every balance.</poem> |
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::— (Michael Sullivan, translation) |
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|} |
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Cavalieri replied: ''I swear to return your love. Never have I loved a man more than I love you, never have I wished for a friendship more than I wish for yours.'' Cavalieri remained devoted to Michelangelo until his death.<ref name="Hughes, Anthony page 326">Hughes, Anthony: "Michelangelo.", page 326. Phaidon, 1997.</ref> |
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--> |
|||
: 他にもミケランジェロは友人だったチェッキーノ・デイ・ブラッチが、知り合って1年後に15歳で死去したときに、その死を悼む[[エピグラム]]を書いている<ref>[http://www.oliari.com/storia/michelangelo.html "Michelangelo Buonarroti"] by Giovanni Dall'Orto Babilonia n. 85, January 1991, pp. 14–16 {{It icon}}</ref>。 |
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<!-- |
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:{| |
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| style="width:160px;"|<poem>La carne terra, e qui l'ossa mia, prive |
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de' lor begli occhi, e del leggiadro aspetto |
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fan fede a quel ch'i' fu grazia nel letto, |
|||
che abbracciava, e' n che l'anima vive.<ref>[http://www.oliari.com/storia/michelangelo.html "Michelangelo Buonarroti"] by Giovanni Dall'Orto Babilonia n. 85, January 1991, pp. 14–16 {{It icon}}</ref></poem> |
|||
|<poem>The flesh now earth, and here my bones, |
|||
Bereft of handsome eyes, and jaunty air, |
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Still loyal are to him I joyed in bed, |
|||
Whom I embraced, in whom my soul now lives.</poem> |
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|} |
|||
Some of the objects of Michelangelo's affections, and subjects of his poetry, took advantage of him: the model [[Febo di Poggio]] asked for money in response to a love-poem, and a second model, [[Gherardo Perini]], stole from him shamelessly.<ref name="Hughes, Anthony page 326"/> |
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--> |
|||
: ミケランジェロが同性愛的傾向のある詩歌を書いたことは、後世{{いつ|date=2013年11月}}の人々に忌避感を持って受けとめられた。このため、甥の息子で同名のミケランジェロが、1623年に男女の性別を入れ替えた形でミケランジェロの詩歌集を出版している<ref>Rictor Norton, "The Myth of the Modern Homosexual"., page 143. Cassell, 1997.</ref>。そして1893年にイギリスの詩人、文芸評論家{{仮リンク|ジョン・アディントン・シモンズ|en|John Addington Symonds}}が英語訳版を出版するときまで、この性別の変更は元に戻されることはなかった。ただし、ミケランジェロに実際に同性愛的傾向が見られたかどうかについては証明されていない。「精神的恋愛感情を、無感動で洗練された筆致で表現した想像上の詩歌である。官能的とされる詩歌も上品で感受性が豊かであることの表出にすぎない」と断言する研究者もいる<ref name="Hughes, Anthony page 326"/>。 |
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; 未亡人との恋 |
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: ミケランジェロは1536年か1538年にローマで知り合った、40歳代後半の詩人で貴族階級の未亡人[[ヴィットリア・コロンナ]]に大きな愛情を抱いた。互いにソネットを送りあうなど、2人の交歓はヴィットリアが死去する1547年まで絶えることがなかった。アスカニオ・コンディヴィはミケランジェロが、ヴィットリアの手にキスをしたことはあったが、頬にキスをしなかったことが生涯唯一の後悔だと語っていたことを記している<ref>A. Condivi (ed. Hellmut Wohl), 'The Life of Michelangelo,' p. 103, Phaidon, 1976.</ref>。 |
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{{-}} |
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<!-- 【出典を付与して復活させてください。ほとんどヴァザーリの『Vita』がネタ元だとは思いますが。】 |
|||
== その他 == |
== その他 == |
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* 同時代の人の数々の証言から、かっとなりやすい性格だったことがうかがえる。その性格のため若い頃はけんかも多く、あるとき顔を殴られて鼻が曲がってしまった。このためもあって容姿にコンプレックスを持ち、自画像を残さず、さらに気難しい性格になってしまった。 |
* 同時代の人の数々の証言から、かっとなりやすい性格だったことがうかがえる。その性格のため若い頃はけんかも多く、あるとき顔を殴られて鼻が曲がってしまった。このためもあって容姿にコンプレックスを持ち、自画像を残さず、さらに気難しい性格になってしまった。 |
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* システィナ礼拝堂の天井画の制作は大変な重労働であった。上を向いて首を曲げた格好で制作を続けたため首の骨が曲がり、滴る[[絵具]]が目に落ちて視力を損なってしまったという。 |
* システィナ礼拝堂の天井画の制作は大変な重労働であった。上を向いて首を曲げた格好で制作を続けたため首の骨が曲がり、滴る[[絵具]]が目に落ちて視力を損なってしまったという。 |
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* 制作初期の段階でユリウス教皇に「完成はいつ頃になるのだ」と聞かれたところ、連日の制作に疲れていたミケランジェロは苛立ち、「私が『出来た』と言った時です」と返答した。これに対し、気の荒いことで知られた教皇は'''「早く完成させないと足場から突き落とすぞ」'''と言い返したという。 |
* 制作初期の段階でユリウス教皇に「完成はいつ頃になるのだ」と聞かれたところ、連日の制作に疲れていたミケランジェロは苛立ち、「私が『出来た』と言った時です」と返答した。これに対し、気の荒いことで知られた教皇は'''「早く完成させないと足場から突き落とすぞ」'''と言い返したという。 |
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* かつてのイタリア10000[[リラ (通貨)|リラ]] |
* かつてのイタリア10000[[リラ (通貨)|リラ]]紙幣に肖像が描かれていた。 |
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== 作品 == |
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*作品一覧がイタリア語版「Opere di Michelangelo」にある<ref>[[:it:Opere_di_Michelangelo|Opere di Michelangelo]]</ref>。 |
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=== 彫刻 === |
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<gallery> |
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File:Michelangelo Bacchus.jpg|『バッカス像』(1497年)<br />[[バルジェロ美術館]](フィレンツェ) |
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File:Madonna michelangelo.jpg|『ブルッヘの聖母子』(1501年 - 1504年)<br />聖母教会(ブルッヘ) |
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File:Michelangelo.St Peter.Duomo di Siena.jpg|『聖パウロ』(1503年 - 1504年)<br />[[シエナ大聖堂]](シエーナ) |
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File:Michelangelo, san pietro 01.JPG|『聖ペテロ』(1503年 - 1504年)<br />[[シエナ大聖堂]](シエーナ) |
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File:Moses San Pietro in Vincoli.jpg|『モーゼ』ローマ教皇[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]霊廟の彫刻(1513年 - 1515年頃)<br />サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ(ローマ) |
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File:Dying slave Louvre MR 1590.jpg|『瀕死の奴隷』(1513年 - 1515年)<br />[[ルーヴル美術館]](パリ) |
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</gallery> |
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=== 絵画 === |
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<gallery> |
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File:Michelangelo manchaster.jpg|『[[マンチェスターの聖母]]』(1497年頃)<br />[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]](ロンドン) |
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File:Entombment Michelangelo.jpg|『[[キリストの埋葬 (ミケランジェロ)|キリストの埋葬]]』(1500年 - 1501年頃)<br />[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]](ロンドン) |
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File:Michelangelo Buonarroti - Tondo Doni - Google Art Project.jpg|『[[聖家族 (ミケランジェロ)|聖家族]]』(1507年頃)<br />[[ウフィツィ美術館]](フィレンツェ) |
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File:Conversion of Saint Paul (Michelangelo Buonarroti).jpg|『サウルの改宗』(1542年 - 1545年頃)<br />パオリナ礼拝堂(ヴァチカン) |
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File:Martyrdom Michelangelo.jpg|『聖ペテロの殉教』(1546年 - 1550年頃)<br />パオリナ礼拝堂(ヴァチカン) |
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</gallery> |
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=== 建築 === |
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<gallery> |
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ファイル:San Lorenzo Sagrestia Nuova Firenze.JPG|メディチ家礼拝堂新聖具室(1520年 - 1534年)(フィレンツェ) |
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ファイル:Biblioteca medicea laurenziana, sala di lettura di michelangelo, 01.jpg|ラウレンツィアーナ図書館(1523年 - 1559年)(フィレンツェ) |
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ファイル:Campidoglio Roma.jpg|カンピドリオ広場(1536年 - 1546年)(ローマ) |
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ファイル:Palais Farnese.jpg|[[パラッツォ・ファルネーゼ|ファルネーゼ宮殿]](1546年)(ローマ) |
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ファイル:Porta Pia - internal side.jpg|[[ピア門|ポルタ・ピア]](1561年 - 1565年)(ローマ) |
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</gallery> |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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<references/> |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist|group=注釈}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist}} |
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== 関連文献 == |
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{{refbegin}} |
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* {{Cite book|last=Ackerman |first=James |title=The Architecture of Michelangelo |publisher=University of Chicago Press |year=1986 |isbn=978-0-226-00240-8}} |
|||
* {{Cite book|last=Clément|first=Charles|year=1892|title=''Michelangelo''|publisher=S. Low, Marston, Searle, & Rivington, ltd.: London|location=Harvard University, Digitized 25 June 2007| url=https://books.google.co.jp/books?id=G-sDAAAAYAAJ&printsec=frontcover&dq=michelangelo&redir_esc=y&hl=ja}} |
|||
* {{Cite book |last=Condivi |first=Ascanio |title=The Life of Michelangelo |year=1553 |coauthors=Alice Sedgewick |publisher=Pennsylvania State University Press |isbn=0-271-01853-4}} |
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* {{Cite book|last=Baldini |first=Umberto |title=The Sculpture of Michelangelo |publisher=Rizzoli |coauthors=Liberto Perugi |year=1982 |url=https://books.google.co.jp/books?id=pCEWAQAAIAAJ&redir_esc=y&hl=ja |isbn=0-8478-0447-X}} |
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* Einem, Herbert von (1973). ''Michelangelo''. Trans. Ronald Taylor. London: Methuen. |
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* Gilbert, Creighton (1994). ''Michelangelo On and Off the Sistine Ceiling''. New York: George Braziller. |
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* Hibbard, Howard (1974). ''Michelangelo''. New York: Harper & Row. |
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* Hirst, Michael and Jill Dunkerton. (1994) ''The Young Michelangelo: The Artist in Rome 1496–1501''. London: National Gallery Publications. |
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* {{Cite book|last=Liebert |first=Robert |title=Michelangelo: A Psychoanalytic Study of his Life and Images |publisher=Yale University Press |location=New Haven and London |year=1983 |isbn=0-300-02793-1}} |
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* {{Cite book|last=Néret|first=Gilles|title=Michelangelo|publisher=Taschen|year=2000|isbn=978-3-8228-5976-6}} |
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* Pietrangeli, Carlo, et al. (1994). ''The Sistine Chapel: A Glorious Restoration''. New York: Harry N. Abrams |
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* {{Cite book|last=Sala |first=Charles |title=Michelangelo: Sculptor, Painter, Architect |publisher=Editions Pierre Terrail |year=1996 |isbn=978-2-87939-069-7}} |
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* Saslow, James M. (1991). ''The Poetry of Michelangelo: An Annotated Translation''. New Haven and London: Yale University Press. |
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* {{Cite book|last=Rolland |first=Romain |title=Michelangelo|publisher=BiblioLife |year=2009 |isbn=1-110-00353-6}} |
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* Seymour, Charles, Jr. (1972). ''Michelangelo: The Sistine Chapel Ceiling''. New York: W. W. Norton. |
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* {{Cite book|last=Stone |first=Irving |title=The Agony and the Ecstasy |publisher=Signet |year=1987 |isbn=0-451-17135-7}} |
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* Summers, David (1981). ''Michelangelo and the Language of Art''. Princeton University Press. |
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* {{Cite book |title=The Youth of Michelangelo |last=Tolnay |first=Charles |year=1947 |publisher=Princeton University Press |location=Princeton, NJ}} |
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* Tolnay, Charles de. (1964). ''The Art and Thought of Michelangelo''. 5 vols. New York: Pantheon Books. |
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* {{Cite book|last=Wallace |first=William E. |title= [http://www.themontrealreview.com/2009/Michelangelo-the-artist-the-man-and-his-times-by-William-Wallace.php ''Michelangelo: The Artist, the Man and his Times''] |publisher=Cambridge University Press |year=2011 |isbn=1-107-67369-0}} |
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* Wilde, Johannes (1978). ''Michelangelo: Six Lectures''. Oxford: Clarendon Press. |
|||
{{refend}} |
|||
* フランク・ツォルナー/クリストフ・テーネス/トーマス・ペッパー (2008年) "ミケランジェロ全作品集" TASCHEN. ISBN 978-4-88783-365-4 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]] |
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* [[華麗なる激情 (映画)|華麗なる激情]](1965年 原作:[[アーヴィング・ストーン]] 監督:[[キャロル・リード]]) |
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* [[ラファエロ・サンティ]] |
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* [[フィリッポ・ブオナローティ]](革命家。ミケランジェロの末裔といわれている。) |
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* [[ルネサンス期のイタリア絵画]] |
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* [[ピルグリム・イェーガー]] - [[冲方丁]]原作の漫画作品。ミケランジェロがキャラクターの一人として登場している。 |
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* [[ジョルジョ・ヴァザーリ|ヴァザーリ]] -「[[画家・彫刻家・建築家列伝|美術家列伝]]」 |
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* [[ミゲル・アンヘル]] - スペイン語によるミケランジェロの名称 |
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* [[ミケランジェロの詩による3つの歌曲]] |
* [[ミケランジェロの詩による3つの歌曲]] |
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* [[華麗なる激情 (映画)]] |
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* [[石川雲蝶]] |
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* [[小惑星]][[ミケランジェロ (小惑星)|(3001) Michelangelo]] - ミケランジェロにちなんで命名された |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{ |
{{Wikiquote|en:Michelangelo|ミケランジェロ・ブオナローティ}} |
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{{Commons category|Michelangelo Buonarroti}} |
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* [http://graphics.stanford.edu/projects/mich/ The Digtal Michelangelo Project] |
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* {{gutenberg author| id=Michelangelo+Buonarroti}} |
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* [http://www.michelangelomodels.com/ Michelangelo's Models] |
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* {{Zeno-Künstler|Kunstwerke/A/Michelangelo+Buonarroti}} |
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* [http://graphics.stanford.edu/projects/mich/ The Digital Michelangelo Project] |
|||
* [http://www.owlstand.com/#/exhibitions/aab9b11c-56b2-4af0-8a00-14de91b85e23 ミケランジェロ 彫刻高解像度展示会] |
|||
* [http://www.britishmuseum.org/explore/online_tours/europe/michelangelos_drawings/michelangelos_drawings.aspx The BP Special Exhibition Michelangelo Drawings – closer to the master] |
|||
* [https://web.archive.org/web/20060411203848/http://www.zipser.nl/michelangelo1.html Michelangelo's Drawings: Real or Fake?] How to decide if a drawing is by Michelangelo. |
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* [http://michelangelo.syr.edu/ "Michelangelo: The Man and the Myth"] |
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{{ミケランジェロ・ブオナローティ}} |
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{{Normdaten}} |
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{{デフォルトソート:ふおなろてい みけらんしえろ}} |
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{{デフォルトソート:みけらんしえろ ふおなろおてい}} |
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[[Category:ルネサンス]] |
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[[Category:ミケランジェロ・ブオナローティ|*]] |
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[[Category:15世紀イタリアの建築家]] |
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[[Category:15世紀イタリアの芸術家]] |
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[[Category:イタリアの彫刻家]] |
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[[Category:イタリア出身のLGBTの芸術家]] |
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[[af:Michelangelo]] |
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[[am:ማይክል አንጄሎ ቡናሮቲ]] |
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[[bs:Michelangelo Buonarroti]] |
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[[haw:Michelangelo]] |
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[[he:מיכלאנג'לו]] |
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[[hr:Michelangelo Buonarroti]] |
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[[ia:Michelangelo]] |
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[[id:Michaelangelo Buonarroti]] |
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[[io:Michelangelo]] |
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[[is:Michelangelo Buonarroti]] |
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[[it:Michelangelo Buonarroti]] |
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ミケランジェロ・ブオナローティ Michelangelo Buonarroti | |
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ダニエレ・ダ・ヴォルテッラが描いたミケランジェロの肖像画 ミケランジェロのサイン | |
生誕 |
Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni 1475年3月6日 フィレンツェ共和国、カプレーゼ |
死没 |
1564年2月18日 (88歳没) 教皇領、 ローマ |
著名な実績 | 彫刻、絵画、建築、 |
代表作 |
『ダビデ像』 『アダムの創造』 『ピエタ』 『システィーナ礼拝堂天井画』 |
運動・動向 | 盛期ルネサンス |
ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ(伊: Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni[1]、1475年3月6日 - 1564年2月18日)は、イタリア盛期ルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人。
西洋美術史上のあらゆる分野に、大きな影響を与えた芸術家である[2]。ミケランジェロ自身が本業と考えていた彫刻分野以外の作品は決して多くはないにもかかわらず、様々な分野で優れた芸術作品を残したその多才さから、レオナルド・ダ・ヴィンチと同じく、ルネサンス期の典型的な「万能(の)人」と呼ばれる。
ミケランジェロは存命中から非常に優れた芸術家として高い評価を得ており、現在でも西洋美術史上における最高の芸術家の一人と見なされている[2]。ミケランジェロが制作した絵画、彫刻、建築のいずれをとっても、現存するあらゆる芸術家の作品のなかで、最も有名なものの一つとなっている[2]。長寿を保ったミケランジェロの創作活動は前述以外の芸術分野にも及ぶ膨大なもので、書簡、スケッチ、回想録なども多く現存している。また、ミケランジェロは16世紀の芸術家の中で最もその記録が詳細に残っている人物でもある。
ミケランジェロの彫刻で最も有名と思われる『ピエタ』(1498年 - 1499年、サン・ピエトロ大聖堂)と『ダヴィデ像』(1504年、アカデミア美術館)は、どちらもミケランジェロが20歳代のときの作品である。また、ミケランジェロ自身は絵画作品を軽視していたが、西洋美術界に非常に大きな影響を与えた2点のフレスコ画、システィーナ礼拝堂の『システィーナ礼拝堂天井画』と祭壇壁画『最後の審判』を描いている。
さらに建築家としてもフィレンツェのラウレンツィアーナ図書館で、マニエリスム建築の先駆けといえる様式で設計を行っている。74歳のときにはアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネの死去をうけて、当時改築中だったサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命された。このときミケランジェロは従前の設計を変更し、建物西側(奥)はミケランジェロの設計どおりに建てられた。ただし、主ドーム部分はミケランジェロの死後になって、別の設計に変更されて完成している。
ミケランジェロは、存命中に伝記が出版された初めての西洋美術家であるという点でも、際立った存在といえる[3]。そのなかでジョルジョ・ヴァザーリが著した『画家・彫刻家・建築家列伝』では、ミケランジェロをルネサンス期の芸術における頂点として絶賛し、その作品は何世紀にもわたって西洋美術界で通用するだろうとしている。ミケランジェロは存命中から「神から愛された男 (Il Divino )」と呼ばれることもあり[4]、当時の人々からは偉人として畏敬の念を持って見られていた。ミケランジェロの作品に見られる情熱的で独特な作風は後続の芸術家たちの模範となり、盛期ルネサンスの次の西洋芸術運動であるマニエリスムとなって結実していった。
生涯と作品
[編集]幼少期
[編集]ミケランジェロは1475年3月6日[注釈 1]に、現在のトスカーナ州アレッツォ近郊にあたるフィレンツェ共和国のカプレーゼに生まれた[5][6]。ミケランジェロの一族は数世代にわたってフィレンツェで小さな銀行業を営んでいたが、ミケランジェロの父ルドヴィーコ・ディ・レオナルド・ディ・ブオナローティ・シモーニは銀行経営に失敗し、共和国政府の臨時職員として生計を立てていた[3]。ミケランジェロ誕生当時のルドヴィーコはカプレーゼの小さな町の判事職と、キウージの首席行政官を務めていた。母親の名前はフランチェスカ・ディ・ネリ・デル・ミニアート・シエーナである[7]。ルドヴィーコは、トスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサの末裔を自称しており、ミケランジェロもこれを信じていたが、事実かどうかは立証されていない[8]。ミケランジェロの誕生後数ヶ月で一家はフィレンツェへと戻り、ミケランジェロは幼少期をフィレンツェで送った。1481年、ミケランジェロが6歳の時、母フランチェスカが長い闘病生活の末に死去している。当時のミケランジェロ一家は石工の一家と共にセッティニャーノに住んでおり、父ルドヴィーコはこの地で大理石採石場と小さな農園を経営していた[7]。ジョルジョ・ヴァザーリは著書でミケランジェロの言葉として「私が幸運だったのは、アレッツォの繊細な環境に生まれたことだ。乳母の乳を飲みながら鑿と金槌の使い方と人物彫刻のコツをつかむことができた」と記載している。
父ルドヴィーコは、ミケランジェロ少年を人文主義者フランチェスコ・ダ・ウルビーノのもとへ送り、学問を学ばせようとした[5][9][注釈 2]。しかしミケランジェロは学問には興味を示さず、教会の装飾絵画の模写や画家たちと交際することを好んた[9]。ミケランジェロは13歳のときに画家ドメニコ・ギルランダイオに弟子入りし[1][10]、わずか14歳でギルランダイオに一人前の画家と認められたが、これは当時としては極めて異例のことだった[11]。1489年にメディチ家当主でフィレンツェの最大権力者ロレンツォ・デ・メディチがギルランダイオに、最も優れた弟子を2名、自分のところへ寄こすように求め、このときにミケランジェロとフランチェスコ・グラナッチがロレンツォの元へと派遣されている[12]。1490年から1492年にかけて、ミケランジェロはメディチ家が創設した人文主義のプラトン・アカデミーに参加している。当時のミケランジェロはベルトルド・ディ・ジョヴァンニのもとで彫刻を学んでおり、16歳の頃には、私的なサークルであるプラトン・アカデミーに集うマルシリオ・フィチーノ、ピコ・デラ・ミランドラ、アンジェロ・ポリツィアーノなど当代一流の人文主義者や詩人たちと交流していた[13]。この時期にミケランジェロが制作したレリーフとして『階段の聖母』(1490年 - 1492年)、『ケンタウロスの戦い』(1491年 - 1492年)が挙げられる。『ケンタウロスの戦い』はポリツィアーノがミケランジェロに語ったギリシア神話のエピソードをもとに制作されたもので、ロレンツォ・デ・メディチがミケランジェロに依頼した作品だった[14]。ベルトルド・ディ・ジョヴァンニのもとで修行していた17歳のミケランジェロは、ロレンツォ・デ・メディチの後援で彫刻を勉強していた3歳年長のピエトロ・トッリジャーノに顔を殴られて鼻骨が曲がってしまい、現存するミケランジェロの肖像画の多くはこの特徴がはっきりととらえられている[15]。
青年期
[編集]1492年4月8日に後援者のロレンツォ・デ・メディチが死去したことにより、ミケランジェロを取り巻く環境は激変し[16]、ミケランジェロはメディチ家の庇護から離れて父親の元へと戻った。その後数ヶ月をかけて、フィレンツェのサント・スピリト修道院長への奉献用に、木彫の『キリスト磔刑像』(1492年、フィレンツェ、サント・スピリト教会)を制作している。修道院長は修道院付属病院で死去した人の身体を、解剖学の勉強のためにミケランジェロに提供した人物だった[17]。ミケランジェロは1493年から1494年にかけて、ギリシア神話の英雄ヘラクレスの大きな立像制作のために大理石の塊を購入している。このヘラクレス像はフィレンツェに送られたという記録が残っているが、18世紀に行方不明になっている[14][注釈 3]。大雪が降り積もった1494年1月20日に、ロレンツォ・デ・メディチの後継者ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチからミケランジェロに雪像制作の依頼が舞い込み、再びミケランジェロはメディチ家宮廷に迎えられることとなった。
しかし同年、フィレンツェの支配者メディチ家は、フランス軍のイタリア侵攻と修道士ジロラモ・サヴォナローラの扇動による排斥運動でフィレンツェから追放されてしまう。ミケランジェロもこの政変の直前にフィレンツェを去っており、ヴェネツィアを経てボローニャへと居を移した[16]。移住先のボローニャでミケランジェロは、サン・ドメニコ聖堂の聖遺物櫃の小さな人物像彫刻を完成させる仕事を引き受けている。その後、1494年の終わりごろにはフィレンツェの政争は落ち着きつつあり、フランス王シャルル8世率いるフランス軍もローマ教皇、神聖ローマ皇帝らが結んだ軍事同盟の前に撤退したため、当面の危機は回避した状態だった。ミケランジェロはこのような情勢下のフィレンツェへと戻ったが、メディチ家不在のフィレンツェ政府からは作品制作の注文を受けることはなく、フィレンツェ外のメディチ家からの庇護に頼らざるを得なかった[18]。ミケランジェロがフィレンツェで制作した彫刻に、『幼児洗礼者ヨハネ』と『キューピッド』の2つの小品があるが、どちらも現存していない。アスカニオ・コンディヴィが著した16世紀のミケランジェロの伝記によれば、これらの作品をミケランジェロに作らせたのはメディチ家傍流のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチである。ロレンツォはミケランジェロに「これ(『キューピッド』をさす)をどこかからの発掘品のように加工しろ」と命じ「古代ローマの古美術品としてローマに送れば……高値で売ることができる」と考えたとしている。『幼児洗礼者ヨハネ』をロレンツォから購入した枢機卿ラファエーレ・リアーリオはこの作品が偽物であることに気付いたが、彫刻自体の出来栄えに感銘を受けてミケランジェロをローマへと招いた[19][注釈 4]。自身の彫刻作品がローマで認められたことと、当時のフィレンツェの保守的な情勢とが、ミケランジェロに枢機卿からの招待に応じることを決意させた[18]。
ローマ時代
[編集]ミケランジェロがローマに到着したのは1496年6月25日で[20]、ミケランジェロが21歳のときだった。同年7月4日に、ミケランジェロをローマに招いた枢機卿ラファエーレ・リアーリオからの依頼を受け、ローマ神話のワインの神をモチーフとした『バッカス像』 の制作を開始した。しかし、この作品はリアーリオから受け取りを拒否されてしまい、後に銀行家ヤコポ・ガッリのコレクションとしてその庭に飾られている[注釈 5]。
1497年11月にミケランジェロは教皇庁のフランス大使から、代表作の一つである『ピエタ』の制作を打診され、翌年8月に正式な契約を交わした。完成した『ピエタ』は当時「人間の潜在能力の発露であり、彫刻作品の限界を超えた」と評価され、ヴァザーリは「間違いなく奇跡といえる彫刻で、単なる大理石の塊から切り出されたとは到底思えない、あたかも実物を目の前にしているかのような完璧な作品」だとしている。
ローマでのミケランジェロはロレート聖母教会の近くに住んでいた。ミケランジェロが住んでいた建物は1874年に取り壊され、新たな所有者によって残されていた遺構も1930年に破壊された。その後復元されたミケランジェロの住居が、ローマ西部のジャニコロの丘で公開されている。また、バチカン美術館が所蔵する有名な古代彫刻『ラオコーン像』は、この時代のミケランジェロの作品であると主張する者も一部存在する[21]。
また、現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する、以前はミケランジェロの作品かどうか異論の多かった『マンチェスターの聖母』も、この時期にミケランジェロがローマで描いた作品だと考えられている[22]。
ダヴィデ像
[編集]メディチ家のフィレンツェ追放に大きな役割を果たした、ルネサンス美術を含む芸術否定論者にしてフィレンツェの指導者だった聖職者ジロラモ・サヴォナローラは失脚し、1498年に処刑された。代わってゴンファロニエーレのピエロ・ソデリーニが台頭して、以前とは状況が変わったフィレンツェ共和国に、ミケランジェロは1499年から1501年にかけて帰還している。ミケランジェロは羊毛ギルドの参事たちに、40年前に彫刻家アゴスティーノ・ディ・ドゥッチオによって開始されたものの、様々な理由で放棄されていた彫刻群制作計画の完遂を申し込まれた。このときミケランジェロに打診されたのは、フィレンツェの自主性を表す象徴として壮大なダヴィデの彫刻を制作し、ヴェッキオ宮殿に面したシニョリーア広場に設置するというものだった。ミケランジェロが、この最も有名な代表作といえる『ダヴィデ像』を完成させたのは1504年である。イタリア北部の都市カッラーラの採石場から切り出され、前任者による大まかな下絵が描かれていた大理石を原材料として制作されたこの『ダヴィデ像』が、ミケランジェロが持つ彫刻家としてのたぐいまれな才能、技量、創造力への評価を決定的なものとしたのである。
また、ミケランジェロはフィレンツェに滞在していたこの時期に聖母マリア、聖ヨセフ、幼児キリストを描いた円形の絵画『聖家族』を完成させている。この作品はアニョロ・ドーニとマッダレーナ・ストロッツィの結婚記念として注文されたもので、17世紀にはフィレンツェ庁舎(現在のウフィツィ美術館)の通称「護民官の間」と呼ばれる部屋に飾られていた。
システィーナ礼拝堂天井画
[編集]1505年にミケランジェロは、新しく選出されたローマ教皇ユリウス2世にローマへと呼びもどされ、ユリウス2世が死後に納められる霊廟の制作を命じられた。教皇の後援を受けたミケランジェロだったが、ユリウス2世以外にも後継の歴代教皇から続々と発注された多くの芸術作品の制作に追われ、当初の目的だったユリウス2世の霊廟制作作業を何度も中断せざるを得なかった。このため、最終的にユリウス2世の霊廟の完成までに40年の歳月を要している。司教座聖堂サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリに安置されている、中央にミケランジェロの彫刻『モーゼ像』が配されたこの壮麗な霊廟は、ミケランジェロ自身には満足のいくものではなかった。
ユリウス2世の霊廟制作途中にミケランジェロは、その完成までに約4年を費やすことになるシスティーナ礼拝堂の天井画制作をユリウス2世に引き受けさせられた。ミケランジェロ自身の記録によれば、ドナト・ブラマンテとラファエロが、ミケランジェロのことをよく知らないにもかかわらず、ユリウス2世に推薦したとされている。さらに、自身は彫刻家であるとの自負を持っていたミケランジェロにとって、システィーナ礼拝堂天井画制作は好ましい仕事ではなく、当時フレスコ画家の第一人者として絶頂期にありユリウス2世お気に入りの画家だったラファエロに比べると不快な経験だったとされている。しかしこれらのエピソードは、現存する当時の資料から現在の美術史家たちに疑問視されており、ミケランジェロ側からの一方的な見方にすぎないと考えられている。
もともとミケランジェロに与えられた計画は、システィーナ礼拝堂の天井に空を背景とした十二使徒を描くというものだった[23]。しかしミケランジェロはこの当初計画を破棄し、『創世記』のエピソードをもとにした人類の堕天と救済を、預言者たちとキリストの家系に連なる人々によって描きだすという、はるかに複雑な構成を採用した。そしてこの天井画は、ペルジーノ、サンドロ・ボッティチェッリ、ギルランダイオらの壁画、そして後年にミケランジェロが描いた祭壇画『最後の審判』などとともに、ローマ・カトリック教会の教義を描きだすという壮大な計画の一部を担う作品となっている[24][25]。
システィーナ礼拝堂天井画は『創世記』の九つのエピソードを主題として構成されており、描かれている人物像は300を超えている。これらのエピソードはさらに、「天地創造」、「アダムとイヴ」、「ノアとその一族に仮託した人類の現状」の三つに大別できる。天井を支えるペンデンティヴ部分には、キリスト降誕を予言したとされる男女である、7人の預言者と5人の巫女が描かれている。このシスティーナ礼拝堂天井画では『アダムの創造』、『原罪と楽園追放』、『大洪水』、『イザヤ』、『クマエの巫女』などが有名で、その他、窓の周りにはキリストの祖先とされている人物が描かれている。
メディチ家出身のローマ教皇との関係
[編集]1513年に教皇ユリウス2世が死去し、後継のローマ教皇にレオ10世が選出された。レオ10世はロレンツォ・デ・メディチの次男ジョヴァンニ・デ・メディチであり、ミケランジェロとは全くの見知らぬ他人というわけではなかった。このような背景のなかで、レオ10世が、未完成のままだったメディチ一族の教会サン・ロレンツォ大聖堂のファサード再建と彫刻による装飾をミケランジェロに依頼するのはごく自然なことだった[26]。ミケランジェロの前任者フィリッポ・ブルネレスキは、大聖堂の内装は完成させていたが、ファサードは未完成のまま死去していた。ブルネレスキの作業を引継がせるにあたってレオ10世は何人かの建築家を招いており、必ずしもミケランジェロが第一人者ではなかったが、1518年になってレオ10世はミケランジェロに一任している。ミケランジェロにとって、このサン・ロレンツォ大聖堂のファサード建築が建築家として事実上の初仕事であり、過去に大規模な建設作業計画の作成や見積などの経験はなかった。ミケランジェロはこの作業を担当するに当たって、イタリア北部の都市カッラーラの採石場に足を運び、産する石材を試掘している。そして2年をかけて工程表を作成し、切り出す石材の選別、大理石搬出の指揮などの計画を立てた。大聖堂の円柱、コーニスなどに使用された建築用大理石は、それまでミケランジェロが彫刻に用いていた大理石とはまったく異なるものだった[27]。
ミケランジェロはファサードのデザインや計画作成に3年を費やしており、カッラーラだけではなく、ピエトラサンタにもこの事業のために新しく大理石採石場を設けることも決定していた。しかしフィレンツェへと大理石を運ぶ道路の整備が捗らず、計画全体が遅延し始めた。このためレオ10世は採石場をセラヴェッツァへと変更することを要求したが、当時のセラヴェッツァの採石場は放棄されており、石工もおらず道路も整備されていない場所だった。これらの問題に関するミケランジェロの意見は無視され、一方的に採石場をセラヴェッツァへと変更する指示がなされた。カッラーラとの石材購入契約を破棄したとして、不当にもミケランジェロが非難される結果となり、ミケランジェロとレオ10世の間で論争となっている。結局サン・ロレンツォ大聖堂のファサード再建は、3年間の遅延の後に放棄されてしまった[28]。以来、現在にいたるまでサン・ロレンツォ大聖堂にはファサードは設置されておらず、レオ10世がファサードを放棄した理由については歴史家の間でも大きな謎となっている[28]。
レオ10世は1521年に急死し、後継のハドリアヌス6世も教皇就任後1年足らずで死去した。ハドリアヌス6世の後を襲ったのは、レオ10世の従弟にあたるメディチ家出身のクレメンス7世だった。クレメンス7世はミケランジェロにとって最重要なパトロンの一人となっていった。クレメンス7世はミケランジェロを気に入って寵愛したが、ミケランジェロのほうは自分が関心のあることにしか興味を示さない身勝手な芸術家のままだった[29]。
ローマ略奪に後押しされたフィレンツェ市民は、1527年に再びメディチ家を追放してフィレンツェ共和国の再興を図ったが、政情はなお混沌としており、ミケランジェロも愛するフィレンツェのために要塞建築監督の任にあたった。しかし、1530年に神聖ローマ皇帝カール5世がフィレンツェを陥落させ、このときにメディチ家もフィレンツェへと帰還して往年の権力を取り戻し、公爵位を獲得した。メディチ公爵家のフィレンツェ施政は苛烈なもので、メディチ家礼拝堂の制作途中だったミケランジェロも、礼拝堂を完成するに足る弟子を残して、自身は1530年代半ばにフィレンツェを離れている。
『最後の審判』と晩年
[編集]システィーナ礼拝堂の祭壇壁画である、フレスコで描かれた『最後の審判』は、メディチ家出身のローマ教皇クレメンス6世の注文による絵画だが、クレメンス6世はミケランジェロとの制作契約が締結されて間もなく死去している。メディチ家支配下のフィレンツェを離れたミケランジェロはローマに落ち着くことに決め、1505年に作業を開始したまま、半ば放置していたローマ教皇ユリウス2世の霊廟の完成に集中しようとしていた。しかしながらクレメンス6世の後を襲ったローマ教皇パウルス3世もこの祭壇画制作の続行を望み、ミケランジェロはユリウス2世の霊廟制作を中断してシスティーナ礼拝堂のフレスコ壁画に取りかからざるを得なかった[26]。
ミケランジェロは1541年から1547年10月まで、この困難な壁画制作に従事した。『最後の審判』はシスティーナ礼拝堂の主祭壇の背後の壁一面に描かれた、1370cm×1200cmにおよぶ非常に大規模な作品で、キリストの再臨と現世の終末を、天使に囲まれたキリストが生前の行いによって人々の魂を裁いている情景で描いている。『最後の審判』に描かれているキリストの位置は、15世紀のイタリア人画家メロッツォ・ダ・フォルリが1480年ごろにローマのサンティ・アポストリ教会に描いた天井フレスコ画『キリスト昇天』[注釈 6]に影響を受けている。
当初ミケランジェロが完成させた『最後の審判』は、キリストも聖母マリアも裸体で表現されていた。裸体が不信心、不道徳であるとして、カラファ枢機卿(後のローマ教皇パウルス4世)とマントヴァ公国公使セルニーニが、壁面から除去するなどの処置を講じるべきだと主張したが、パウルス3世はこれに応じなかった。しかし、ミケランジェロの死後に、裸体で描かれた人物の局部を隠すことが決定された。この仕事を任され、『最後の審判』の人物像の局部に下穿きを描いたのが、ミケランジェロのもとで絵画を学んでいたダニエレ・ダ・ヴォルテッラである。その後、1993年に『最後の審判』が修復されたときにも、ダ・ヴォルテッラが加筆した下穿き部分が全て除去されたわけではなかった。これは、歴史的資料として一部保存するという意味合いと、後世の画家たちの「慎み深い」加筆によってミケランジェロのオリジナル部分がすでに削り取られて失われていたことによる。ナポリのカポディモンテ美術館には、マルチェッロ・ヴェヌスティが描いた、修正前の『最後の審判』の模写が所蔵されている。
道徳的、宗教的な検閲はミケランジェロについてまわり、「わいせつ美術の考案者 (inventor delle porcherie )」とまでいわれたこともあった。16世紀の対抗宗教改革が推進した、絵画や彫刻の裸身を隠そうと試みる悪名高き「イチジクの葉運動」は、ミケランジェロの作品が契機となって開始されたものである。大理石彫刻『ミネルヴァのキリスト』(1521年、ローマ、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会)の下半身には彫刻に布が後からかぶせられており、現在に至るまでこの状態で所蔵されている。さらに、彫刻『ブルッヘの聖母』(1501年 - 1504年、ブルッヘ、聖母教会)の、裸体の幼児キリストには数世紀にわたって覆いがかけられていた。また、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館キャストコート展示室が所蔵するダヴィデ像の複製彫刻の背後には箱に納められた「イチジクの葉」があり、女性王族が気を悪くしないようにダビデ像の局部を隠すために使用されていた。
1546年にミケランジェロは、それまでブラマンテ、ラファエロらが40年以上にわたって続けてきた、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂改築の設計とドームのデザインを一任された。最終的にミケランジェロはドームの完成を待たずしてこの世を去っているが、存命時にはドーム下部と支持環まで着工済みであり、ドーム全体の基本的なデザインはすでに完成していた。ミケランジェロは1564年、88歳でローマで死去した。フィレンツェを愛したミケランジェロの遺言どおりに、遺体はローマからフィレンツェへと運ばれて、サンタ・クローチェ聖堂に埋葬された。
遺作の発見
[編集]2007年12月7日にバチカン秘密文書館で、ミケランジェロがその没年の1564年に赤いチョークで描いたサン・ピエトロ大聖堂のデザイン・スケッチが発見された[30][31]。ミケランジェロは自身でスケッチを破棄していたため、現存するサン・ピエトロ大聖堂のデザイン・スケッチは極めて稀少なものである。このスケッチには、半球の屋根(クーポラ)を支える放射状の柱の構成計画が描かれていた[32]。
真贋が疑われている作品
[編集]ミケランジェロの作品とされるものには多くの真贋論争がある。有名な作品としては、フィレンツェのアカデミア美術館が所蔵する彫刻『パレストリーナのピエタ』や、フォートワースのキンベル美術館が近年購入した『聖アントニウスの苦悩』[注釈 7]などがある。1996年にニューヨークのフランス大使館でミケランジェロ作として「再発見」され、現在はメトロポリタン美術館に貸与されているキューピッドの彫刻も、真贋がはっきりとしていない作品である[33]。
建築作品
[編集]ミケランジェロには別人が始めた計画を引き継いだ建築物も多く、それらの中でも最も有名なのがブラマンテ、ラファエロらの作業を受け継いだローマのサン・ピエトロ大聖堂である。カンピドリオ広場の、建物と空間とで明快に表現された設計も、ミケランジェロがサン・ピエトロ大聖堂と同時期に手がけたものである。カンピドリオ広場は正方形ではなく菱形で構成されており、このことが見かけ上の遠近感を弱める役割を果たしている。
フィレンツェでミケランジェロが建築に関わった有名な建物としては、サン・ロレンツォ大聖堂の未完に終わったファサード、同じくサン・ロレンツォ大聖堂付属のメディチ家礼拝堂、ラウレンツィアーナ図書館、要塞などがある。
ローマでは、サン・ピエトロ大聖堂、ファルネーゼ宮殿(パラッツォ・ファルネーゼとも。1530~46年)や、サン・ジョヴァンニ・ディ・フィオレンティーニ教会、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂スフォルツァ家礼拝堂、ポルタ・ピア、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ・エ・デイ・マルティーリ大聖堂、パラッツォ・デル・セナトーレ(ローマ、カンピドリオの丘、1592年~[34])などがある。
ラウレンツィアーナ図書館
[編集]メディチ家の私設図書館を欲したローマ教皇クレメンス7世の依頼で、ミケランジェロがフィレンツェのサン・ロレンツォ大聖堂付属ラウレンツィアーナ図書館の設計を開始したのは1523年ごろである。下部に行くにつれて細くなっていく装飾用の付柱や直線と曲線が組合された階段など、新しい要素を設計に取り入れている。その後13年の間、ミケランジェロは設計作業を断続的に進め[26]、図書館が完成、開館したのはミケランジェロの死後、1571年になってからだった[27]。現在では、このラウレンツィアーナ図書館はマニエリスム様式の代表的建築物と見なされている[35][36]。
メディチ家礼拝堂
[編集]サン・ロレンツォ大聖堂でミケランジェロはメディチ家礼拝堂の設計も手がけ、構成はミケランジェロに一任された。メディチ家礼拝堂は「君主の礼拝堂 (Cappella dei Principi )」と「新聖具室 (Sagrestia Nuova )」で構成され、内部にはメディチ一族に捧げられた記念碑が存在している。ミケランジェロはこの礼拝堂の完成を見ずにフィレンツェを離れており、礼拝堂は最終的にミケランジェロの弟子たちの手によって仕上げられた。メディチ家の墓所としても使用されている新聖具室の入り口には、壁際にロレンツォとジュリアーノのメディチ家兄弟の墓所として用意された2つの霊廟がある。霊廟は一日の時間帯を表現した裸体の人物彫刻で飾られており、ロレンツォの側には『夕暮』と『曙』が、ジュリアーノの側には『夜』と『昼』が、それぞれ存在する。さらにロレンツォの霊廟には『聖母子』と、メディチ家の守護聖人である聖コスマスと聖ダミアンの彫刻で飾られており、この『聖母子』はミケランジェロ自身の作品である。ミケランジェロが彫刻と内装計画の両方を担当した仕事のなかでも、サン・ロレンツォ大聖堂メディチ家礼拝堂の聖具室は、ミケランジェロの彫刻と建築の才能が総合的に発揮された好例といえる[37]。また、1976年には聖具室の下に、壁にミケランジェロのドローイングがある隠し廊下が発見されている[38][39]。
私生活
[編集]ミケランジェロの私生活は禁欲的なもので、弟子で画家、伝記作家のアスカニオ・コンディヴィに「自分は金持ちなのかもしれないが、つねに質素な暮らしを送っている」と語っている[40]。コンディヴィは、ミケランジェロが食べ物や飲み物に無関心で「楽しむためではなく、単に必要にせまられて」食事をとり、「服を着たままで靴も履いたままで眠り込むことがよくあった」としている[40]。このような習慣を持っていたこともあって、ミケランジェロは私生活で他人から好かれる性質ではなかった。ミケランジェロの伝記を書いたパオロ・ジョヴィオも「洗練されていない粗野な人柄で、その暮らしぶりは信じられないほどむさ苦しく、そうでなければ彼に師事する者もいたであろうに、結局は後世に弟子を残さなかった」と記している[41]。ミケランジェロは本質的に孤独を好む陰鬱な性格で、人付き合いを避けて引き篭もり、周囲にどう思われようと頓着しない人物だった[42]。
性的指向
[編集]アスカニオ・コンディヴィはミケランジェロが「修道僧のように貞節」と書いているが、ミケランジェロが持った肉体的交渉を明らかにすることは不可能である[43]。しかしミケランジェロが残した詩文、美術作品から、その一端を垣間見ることができる可能性はある[44]。
- 同性愛的傾向
- ミケランジェロは300以上のソネットとマドリガーレを書いた。最も長い作品は1532年の、57歳のミケランジェロと出会ったときに23歳前後だったトンマーゾ・デイ・カヴァリエーリに捧げたものである。このソネットは、男性が他のひとりの男性に話しかける構成で書いたまとまった量の詩歌としては現存する最古のもので、男性にあてて多くのソネットを書いたシェイクスピアに先立つことおよそ50年となる。
- 他にもミケランジェロは友人だったチェッキーノ・デイ・ブラッチが、知り合って1年後に15歳で死去したときに、その死を悼むエピグラムを書いている[45]。
- ミケランジェロが同性愛的傾向のある詩歌を書いたことは、後世[いつ?]の人々に忌避感を持って受けとめられた。このため、甥の息子で同名のミケランジェロが、1623年に男女の性別を入れ替えた形でミケランジェロの詩歌集を出版している[46]。そして1893年にイギリスの詩人、文芸評論家ジョン・アディントン・シモンズが英語訳版を出版するときまで、この性別の変更は元に戻されることはなかった。ただし、ミケランジェロに実際に同性愛的傾向が見られたかどうかについては証明されていない。「精神的恋愛感情を、無感動で洗練された筆致で表現した想像上の詩歌である。官能的とされる詩歌も上品で感受性が豊かであることの表出にすぎない」と断言する研究者もいる[43]。
- 未亡人との恋
- ミケランジェロは1536年か1538年にローマで知り合った、40歳代後半の詩人で貴族階級の未亡人ヴィットリア・コロンナに大きな愛情を抱いた。互いにソネットを送りあうなど、2人の交歓はヴィットリアが死去する1547年まで絶えることがなかった。アスカニオ・コンディヴィはミケランジェロが、ヴィットリアの手にキスをしたことはあったが、頬にキスをしなかったことが生涯唯一の後悔だと語っていたことを記している[47]。
作品
[編集]- 作品一覧がイタリア語版「Opere di Michelangelo」にある[48]。
彫刻
[編集]-
『バッカス像』(1497年)
バルジェロ美術館(フィレンツェ) -
『ブルッヘの聖母子』(1501年 - 1504年)
聖母教会(ブルッヘ) -
『聖パウロ』(1503年 - 1504年)
シエナ大聖堂(シエーナ) -
『聖ペテロ』(1503年 - 1504年)
シエナ大聖堂(シエーナ) -
『モーゼ』ローマ教皇ユリウス2世霊廟の彫刻(1513年 - 1515年頃)
サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ(ローマ) -
『瀕死の奴隷』(1513年 - 1515年)
ルーヴル美術館(パリ)
絵画
[編集]-
『サウルの改宗』(1542年 - 1545年頃)
パオリナ礼拝堂(ヴァチカン) -
『聖ペテロの殉教』(1546年 - 1550年頃)
パオリナ礼拝堂(ヴァチカン)
建築
[編集]-
メディチ家礼拝堂新聖具室(1520年 - 1534年)(フィレンツェ)
-
ラウレンツィアーナ図書館(1523年 - 1559年)(フィレンツェ)
-
カンピドリオ広場(1536年 - 1546年)(ローマ)
-
ファルネーゼ宮殿(1546年)(ローマ)
-
ポルタ・ピア(1561年 - 1565年)(ローマ)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ ミケランジェロの父はミケランジェロの誕生日を1474年3月6日と記録している。ただし、この記録は当時フィレンツェで用いられていた年記法によるもので、ローマで採用されていた年記法では1475年となる。
- ^ ミケランジェロが学問を学ぶために親元を離れた年齢は文献ごとに相違がある。ド・トルナイは10歳とし、アスカニオ・コンディヴィの伝記を翻訳したセジウィクは7歳としている。
- ^ ヘラクレス像を購入したのはストロッツィ家である。1529年に一族のフィリッポ・ストロッツィがこの彫刻をフランス王フランソワ1世に売却した。1594年にはアンリ4世がフォンテーヌブローの別宅に持ち込んだ記録があるが、1713年にその別宅が破壊されて以降、行方不明となっている。
- ^ ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』には、このエピソードに関する記述はない。パオロ・ジョヴィオの『ミケランジェロの生涯』には、ミケランジェロがこの彫像を古美術品として売却しようとしたことを示唆する記述がある。
- ^ 現在はフィレンツェのバルジェロ美術館が所蔵している。
- ^ 『キリスト昇天』はキリストとともに多くの天使などが描かれていた作品で、現在ではキリストを描いた部分はローマのクイリナーレ宮殿に、その他の部分はバチカン美術館サンピエトロ大聖堂聖具室に収蔵されている。
- ^ 以前はギルランダイオの工房作といわれており、ミケランジェロの作品ではないかとする説は2度否定されていた。
出典
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関連文献
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関連項目
[編集]- レオナルド・ダ・ヴィンチ
- ラファエロ・サンティ
- ルネサンス期のイタリア絵画
- ヴァザーリ -「美術家列伝」
- ミケランジェロの詩による3つの歌曲
- 華麗なる激情 (映画)
- 石川雲蝶
- 小惑星(3001) Michelangelo - ミケランジェロにちなんで命名された
外部リンク
[編集]- ミケランジェロ・ブオナローティの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- ミケランジェロ・ブオナローティの作品 - Zeno.org
- The Digital Michelangelo Project
- ミケランジェロ 彫刻高解像度展示会
- The BP Special Exhibition Michelangelo Drawings – closer to the master
- Michelangelo's Drawings: Real or Fake? How to decide if a drawing is by Michelangelo.
- "Michelangelo: The Man and the Myth"