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「セーチェーニ鎖橋」の版間の差分

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{{橋
[[Image:Budapest Chain Bridge.jpg|300px|right|thumb|セーチェーニ鎖橋]]'''セーチェーニ鎖橋'''(Széchenyi Lánchíd)は[[ハンガリー]]の首都・[[ブダペスト]]を流れる[[ドナウ川]]に架かる吊り橋である。全長375メートル。ブダペストのドナウ川で最初に架かった橋であり、西岸のブダ地区と東岸のペスト地区を結んでいる。
|名称 = セーチェーニ鎖橋 Széchenyi Lánchíd
|画像 = [[Image:Budapest Chain Bridge.jpg|300px|セーチェーニ鎖橋]]{{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=13|frame-align=center|frame-width=250}}
|国 = [[ハンガリー]]
|都市 = [[ブダペスト]]
|水域 = [[ドナウ川]]
| 緯度度 = 47|緯度分 = 29|緯度秒 = 56|N(北緯)及びS(南緯) = N
| 経度度 = 19|経度分 = 02|経度秒 = 37|E(東経)及びW(西経) = E
| 地図国コード =
|長さ = 380[[メートル|m]]<ref name="#1">メドベド (1999) p.50</ref><ref group = "注釈">佐藤 (1989) p.146、小林 (2003) p.36 では375.0 m となっている。</ref>
|主径間長 = 202.62 m<ref>メドベド (1999) p.50、小林 (2003) p.36</ref>
|幅 = 16.0 m<ref>小林 (2003) p.36、外山 (2006) p.15</ref>
|高さ = 48.0 m<ref>小林 (2003) p.36</ref>
|建築家と技術者 = ウィリアム・ティアニー・クラーク、アダム・クラーク
|形式 = [[吊り橋]](アイバーチェーン吊橋)
|素材 = 鉄、石
|建設 = [[1842年]]<ref group = "注釈">起工式以前の建設準備も考慮に入れれば1839年。</ref> - [[1849年]]
|地図名 = Hungary Budapest#Hungary
}}'''セーチェーニ鎖橋'''(セーチェーニくさりばし、'''セーチェーニ・ラーンツヒード'''、Széchenyi Lánchíd [ˈse̝ːt͡ʃe̝ːɲiˌlɑ̈ːnt͡s(h)iːd])は、[[ハンガリー]]の首都[[ブダペスト]]に架かる[[吊り橋]]である。全長380メートル<ref name="#1"/>。ブダペスト市内の[[ドナウ川]]沿岸で最初に架かった恒常的な橋であり、西岸の[[ブダ|ブダ地区]]と東岸の[[ペシュト|ペシュト地区(ペスト地区)]]を結んでいる<ref>{{Cite book|和書 |year = 2017 |title = 地球の歩き方 2017〜18 ハンガリー |publisher = ダイヤモンド・ビッグ社 |page = 64 |isbn = 978-4-478-06009-4}}</ref>。単に'''鎖橋'''とも呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.jcca.or.jp/dobokuisan/world/easteurope/kusari.html |title = 鎖橋(ハンガリー、ブダペスト) |publisher = 一般社団法人 建設コンサルタンツ協会 |accessdate = 2018-04-10 }}</ref>。


ギリス人の技師[[ウィリアム・ティアニー・クラーク]]([[:en:William Tierney Clark|William Tierney Clark]])が設計し、建設はスコットランド系ハンガリー人[[アダム・クラーク]]([[:hu:Clark Ádám|Clark Ádám]])の監督とハンガリー人[[セーチェーニ・イシュトヴァーン]]伯爵の支援のもとでなされた。1849年に開通した当時は中央径間(202メートル)が世界最長だった。夜間ライトアップされ、連なる電球が鎖のように見えることから鎖橋と呼ばれる
ングランドの技師[[ウィリアム・ティアニー・クラーク]]([[:en:William Tierney Clark|William Tierney Clark]])が設計し、建設はスコットランド[[アダム・クラーク]](のちハンガリーに帰化してクラーク・アーダーム<ref>土木学会関西支部 (1991) p.103</ref>、[[:hu:Clark Ádám|Clark Ádám]])の監督とハンガリー人[[セーチェーニ・イシュトヴァーン]]伯爵の支援のもとでなされた。


橋の両側はルーズヴェルト広場とアダムクラーク広場になっている。アダムクラーク広場はハンガリー国内の道路の0キロメートル点となっており、原標が設置されている。
橋の両側は彼らの名前を冠したセーチェーニ・イシュトヴァーン広場(Széchenyi István tér, 旧ルーズヴェルト広場 Roosevelt tér)とクラーク・アーダーム広場 (Clark Ádám tér)になっている。クラーク・アーダーム広場はハンガリー国内の道路の0キロメートル点となっており、原標 ([[:en:Zero Kilometre Stone (Budapest)|Zero Kilometer Stone]]) が設置されている<ref>cf. 地球の歩き方編集室 (2012) p.65</ref>


== 逸話 ==
== 歴史 ==
=== 前史 ===
橋の両側のたもとにあるライオン像(合計4頭)は1852年に設置された。このライオン像に関して、舌がないので人々が彫刻家をからかい、彫刻家はドナウ川に投身自殺してしまったという逸話が有名だが実際は舌はあり(ただし像を見上げると見えない)、彫刻家は1890年代まで存命であった。
ブダとペシュトはドナウ川を挟んで発展した町で、それらを結ぶ橋を建設しようという試みは15世紀初頭以来、何度も見られたが、いずれも成功しなかった<ref>南塚 (2007) p.212</ref>。


恒常的な橋の代わりに使われていたのは、並べた舟の上に橋を渡す「[[舟橋]]」や、一種の[[フェリー]]を利用する「飛び橋」などであったが、いずれも冬場になると押し寄せる氷を避けるために解体された。そのかわり、その時期にはやがて凍った川を渡れるようになるので、それが橋の代わりになった<ref>南塚 (2007) pp.213-217</ref>。

=== 橋の建設にいたる動き ===
19世紀になると伯爵[[セーチェーニ・イシュトヴァーン]]が恒常的な橋の建設を本格的に検討するようになる。彼が恒常的な橋の必要を痛感したのは、1820年のことだったとされている。その年の12月に父の訃報を受け取ったセーチェーニは、急いで駆けつけようと川を渡ろうとしたが、舟橋などはすでに解体されていた。その一方で、まだ川の上を歩けるほどには凍結しておらず、氷を避けて向こう岸に届けてくれる渡し守を手配するのに時間がかかった。彼はこのときの経験から、恒常的な橋の重要性を認識するようになった<ref>南塚 (2007) pp.217-218</ref>。

セーチェーニ・イシュトヴァーンは1832年2月10日に「ブダペシュト橋同盟」を発足させ、構想の実現に向けて動き出した。「ブダペシュト」(ブダペスト)という名称が初めて使われたのは、この団体名だったとされる<ref>南塚 (2007) pp.218-219</ref>。同年7月にペシュト県が建設を承認すると、セーチェーニは翌月にヨーロッパにおいて架橋の技術が進んでいたイギリスに赴き、橋の視察を行なった<ref name="#2">南塚 (2007) p.219</ref>。あわせて、[[メナイ橋]]をはじめ、多くの橋に携わった技師[[トーマス・テルフォード]]とも会見し、流氷などによって橋脚が押し流されないようにする工夫として、吊橋なら少ない橋脚でも長大な橋を架けられると助言された<ref>メドベド (1999) pp.168-169</ref>。

[[ファイル:William Tierney Clark Barabás Miklós.jpg|150px|thumb|ウィリアム・ティアニー・クラーク]]
[[ファイル:Adam Clark.jpg|150px|thumb|アダム・クラーク]]
このイギリス視察中に、セーチェーニは技師ウィリアム・ティアニー・クラークとも知り合った。クラークは[[マーロウ橋]]をはじめとして、複数のチェーン吊橋を建設した実績を持っており、その年の10月には最初の計画図をまとめあげた<ref name="#3">メドベド (1999) p.172</ref>。チェーン吊橋とは、[[吊り橋#大規模橋の構造|メインケーブル]]にチェーンを使用する吊橋である。19世紀初頭には、ネックレスチェーンのような鉄輪をつなぎ合わせたリンクチェーンを使った吊橋も複数建設されたが、強度の問題などからあまり建設されなくなっていった<ref>川田 (2002) pp.18-26</ref>。これに対して、上記マーロウ橋などで用いられているチェーンは、[[アイバー]]([[:en:eyebar|eyebar]])と呼ばれる両端に穴の開いた細長い鉄板をつなぎ合わせて鎖状にしたアイバーチェーンで、自転車のチェーンなどに近いとも言われる<ref name="#4">山田 (2005) p.114</ref>。セーチェーニ鎖橋で採用されたのも、このアイバーチェーンである。

W. T. クラークは設計はしたものの、実際にはブダペシュトに赴いていた時期は、年間に1、2か月程度と短いものだった<ref name="#3"/>。かわりに現地で工事の監督に当たった技師がアダム・クラークである。2人のクラークはかつて兄弟などとされることもあったが<ref name="#5">ブリタニカ百科事典第11版</ref>、現在では血縁関係自体が否定されている<ref>メドベド (1999) p.50、川田 (2002) p.35</ref>。アダム・クラークは出自も経歴もはっきりしない人物で、様々な説がある<ref>メドベド (1999) p.173</ref>。彼はイギリス技術士協会の認定技師ではなかったが、ドナウ川の浚渫用機械の建造に携わったのがきっかけでセーチェーニの知るところとなり、セーチェーニは彼が非認定技師であることを承知の上で、経験豊富さを評価して橋の建設への協力を要請した<ref name="#3"/>。

橋の建設には、従来の舟橋や凍結した川を渡る際に通行税を徴収していたブダ市、ペシュト市の当局に根強い反対論があったほか、従来の通行税を免除されていた貴族たちも橋の建設費用を負担するべきかなど、建設費用をめぐる問題もあった<ref name="#2"/>。これに関連して、1836年には[[ウィーン]]の銀行家ゲオルグ・シナたちが、橋の建設のために株式会社を設立した<ref>南塚 (2007) pp.219-220</ref>。

=== 最初の橋の完成 ===
1839年には防水堰を建設するなど、実際の建設が始まった。水中での作業にはイギリスから輸入された潜水服などが活用され<ref>川田 (1981) p.139</ref>、花崗岩などはオーストリアから調達された<ref name="#6">メドベド (1999) p.51</ref>。1842年8月24日には起工式が行われ、1848年3月に起こった[[1848年革命|三月革命]]の影響なども受けつつ、橋の建設は続いた。ハンガリーの独立運動に対し、オーストリア兵が橋の[[アンカーブロック|アンカレイジ]]を破壊しようとしたが、アダム・クラークの機転もあって、失敗に終わった。かわりにオーストリア兵が橋床の上に置いた爆薬は木造だった橋床の一部を破壊したが、アイバーチェーンは無傷だった<ref>メドベド (1999) p.52</ref>。その[[錬鉄]]製のチェーンはイギリス製で、1846年秋から1年以上かけて順次ブダペストに搬入されており、1848年3月から実際に架けられ始めていた<ref name="#6"/>。この架設作業では終盤に滑車が壊れ、落下したチェーンによる死亡事故なども起こったが、橋は1849年11月20日に完成した<ref>メドベド (1999) pp.51-52</ref><ref group ="注釈">南塚 (2007) では完成は11月21日とされている(p.220)。</ref>。

当初、建設様式から単に「鎖橋」(ラーンツヒード)と呼ばれていたこの橋を「セーチェーニ橋」と名付けようと提案したのは、ハンガリーでの革命で指導的立場にあった[[コシュート・ラヨシュ]]であった<ref>南塚 (2007) p.220、河野 (2009) pp.113-115</ref>。現在の名前「セーチェーニ鎖橋」は、こうした経緯からついたものだという<ref>南塚 (2007) p.220</ref>。しかし、セーチェーニ自身は完成した時点で病気療養中で、結局この橋を見ることも渡ることもないまま歿した<ref>メドベド (1999) p.52、南塚 (2007) p.220</ref>。

最初に完成した橋は長さ410[[ヤード]](約375 [[メートル|m]])、幅39フィート(約12 m)、高さ海抜36フィート(約11 m)、主塔の高さ160フィート(約48.8 m)であった<ref name="#5"/><ref group = "注釈">川田 (2002) p.36では、中央径間203.1 m、両側径間は各90.9 m、幅14 m だったとされている。</ref>。完成した時点では世界最長の吊橋だったといわれることもあるが<ref>河野 (2009) p.113</ref>、中央径間(主塔に挟まれた区間)でいえばスイスの[[フリブール]]にこれよりも長い橋があった<ref name="#7">メドベド (1999) p.53</ref>。ただし、セーチェーニ鎖橋については、建設途中の1846年の時点で「世界で最も偉大な吊橋」と評していたアメリカの技師もおり、高く評価されていた<ref name="#7"/>。

[[ファイル:Budapest Chain bridge lion.jpg|180px|thumb|舌がないと言われるライオン像]]
橋の両側のたもとにあるライオン像(合計4頭)は1852年に設置された。手がけたのは彫刻家のマルシャルコー・ヤーノシュ ([[:hu:Marschalkó János|Marschalkó János]]) である<ref name = Minamizuka_Lion />。このライオン像に関して、舌がないので除幕式の際に人々が彫刻家をからかい、彫刻家はドナウ川に投身自殺してしまったという逸話がしばしば紹介される<ref>ライオン像に舌がないと紹介している文献として、外山 (2006) p.15など。さらに、それが原因で彫刻家が自殺した(とされる)という形でこの逸話を紹介している文献として、水村 (2004) p.215、小泉 (2008) p.105など。</ref><!--除去する前にノートで議論に参加を。-->。しかし、実際は口の奥に舌はあり、彫刻家はライオンは舌を垂らさないという判断でそのように彫ったのだという<ref name = Minamizuka_Lion>南塚 (2007) pp.220-221</ref>。<!--彫刻家は1890年代まで存命であった。--><!--要出典箇所としてコメントアウト。なお、ハンガリー語版の[[:hu:Marschalkó János]]では1877年没とされている。-->

=== 改修と破壊 ===
1870年に橋は国有化された<ref>南塚 (2007) p.221</ref>。1877年の[[ブダペスト工科大学]]の調査で、いくつかの点について改修の必要のあることが分かったが、実際の改修は1913年まで行われなかった<ref name = Medved_1913>メドベド (1999) p.53</ref>。ブダペストではセーチェーニ鎖橋の後、[[マルギット橋]](1876年)、[[自由橋|フェレンツ・ヨージェフ橋]](1896年)、[[エルジェーベト橋]](1903年)が建造されたが、こうした橋の建造は都市人口の急増に対応するという側面もあった<ref>メドベド (1999) p.46</ref>。言い換えると、セーチェーニ鎖橋に代わりうる橋が複数できたことが、橋を何年も閉鎖して抜本的な改修を行うことを可能にしたのである<ref name = Medved_1913 />。

[[ファイル:Lanchid-budaipiller.jpg|thumb|200px|現在の重厚なアイバーチェーンと主塔]]
チェーン吊橋は19世紀半ばには広く用いられていたが、橋桁のみでなく、かなりの重量になるアイバーチェーン自体も支える必要があることから、より軽量なワイヤーケーブルがメインケーブルに使われるようになると、次第に使われなくなっていった<ref name="#4"/>。しかし、セーチェーニ鎖橋の改修を任された技師ベケとガリクは、外観の大幅な変更を禁じられていた<ref name = Medved_1913 />。アイバーチェーン吊橋の外観を損ねないようにしつつ、交通量の増大にも対応できるように、チェーン自体の強化が図られた。従来の錬鉄製のアイバーの引張強さが3300 - 3400 kg / [[平方センチメートル|cm<sup>2</sup>]] だったのに対し、新しい高張力鋼のアイバーの引張強さは4900 - 5600 kg / cm<sup>2</sup> で、アイバーチェーンの長さも倍増した<ref>メドベド (1999) pp.51 & 53</ref>。アイバーチェーンの伸長に伴い、そこからぶら下がる、橋を吊り下げる[[吊り橋#大規模橋の構造|ハンガー]]の間隔も以前の2倍に当たる3.6 m になった<ref name = Medved_1913 />。この工事は1915年11月に終わった<ref name = Medved_1913 />。

ブダペストは[[第二次世界大戦]]中の1944年3月にドイツ軍によって占領されており、侵攻してきた[[ソビエト社会主義共和国連邦|ソ連]]軍との間で激しい戦闘になった。ドイツ軍は戦略上の理由から、同年12月から市内に架かる橋を次々と破壊し、セーチェーニ鎖橋も1945年1月18日に中央径間が破壊された<ref>南塚 (2007) pp.298-299。破壊箇所は山田 (2005) pp.112-113</ref>。

=== 再建 ===
セーチェーニ鎖橋は戦後に再建され、開通100周年に当たる1949年11月20日に開通式が行われた<ref>南塚 (2007) p.301、小林 (2003) p.40</ref>。再建にあたっては、以前の姿を復元することはもちろんのこと、河中に落ちた鋼材も可能な限り再利用された。セチィとパロタスという2人の人物の指導によって再建された橋は、その鋼材の55[[パーセント|%]]が再利用されたものだった<ref>メドベド (1999) p.54</ref>。

セーチェーニ鎖橋は1987年に「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区」の一部として、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録された(のち拡大されて「[[ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区およびアンドラーシ通り]]」)。

1989年10月23日には、共産主義体制の終焉を祝う市民たちがこの橋に集まった<ref>地球の歩き方編集室 (2012) p.65</ref>。

現在のセーチェーニ鎖橋は、ブダペスト市内に架かる橋の中で最も美しいとも言われ<ref>山田 (2005) p.110</ref>、ヨーロッパ全体で見ても特に美しい橋のひとつであるとも言われる<ref>佐藤 (1989) p.146</ref>。この橋は夜になると美しくライトアップされる。日本語文献では、鎖橋の名の由来を(前記のような構造に基づく由来ではなく)電球が鎖状に連なる美しい装飾によるものと説明している文献も少なからず見られる<ref>小林 (2003) p.34、水村 (2004) p.218-219、小泉 (2008) p.105、『トラベルストーリー ウィーン・プラハ・ブダペスト』(昭文社、2007年)p.177、『最新版 週刊 世界遺産 No.37 ハンガリー ブダペストのドナウ河岸とブダ城』(講談社、2011年)p.15、『まっぷる2013年版 ウィーン・プラハ・ブダペスト』(昭文社、2013年)p.98</ref>。

車道と歩道とが存在する橋だが、6月中旬から8月中旬には休日だけ[[歩行者天国]]になる<ref>地球の歩き方編集室 (2012) p.64</ref>。

== ギャラリー ==
<gallery>
<gallery>
Image:Hungary Chain Bridge 1.JPG|王宮から望む鎖橋
ファイル:Hungary Chain Bridge 1.JPG|王宮から望む鎖橋
Image:Hungary Chain Bridge 2.JPG|鎖橋の上から
ファイル:Hungary Chain Bridge 2.JPG|鎖橋の上から
Image:Budapest chainbridge sunset.JPG|夕暮れの鎖橋
ファイル:Budapest chainbridge sunset.JPG|夕暮れの鎖橋
ファイル:Podul cu lanturi din Budapesta.jpg|ライトアップされた夜景
Image:Budapest Chain bridge lion.jpg|舌がないと言われるライオン像
Image:Podul cu lanturi din Budapesta.jpg
</gallery>
</gallery>

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{reflist|group="注釈"}}

=== 出典 ===
{{reflist}}

== 参考文献 ==
* [[ブリタニカ百科事典第11版]]
* [[川田忠樹]] (1981) 『吊橋の文化史』 [[技報堂出版]]
* 川田忠樹 (2002) 『近代吊橋の歴史』 [[建設図書]]
* [[小泉澄夫]]撮影 / 文 (2008) 『世界遺産ビジュアルブック(8) 中欧(2) チェコ / ハンガリー』[[世界遺産アカデミー]] 監修、[[毎日コミュニケーションズ]]
* [[河野純一]] (2009) 『ハプスブルク三都物語』[[中央公論新社]]〈[[中公新書]]〉
* [[小林康昭]] (2003) 「名橋紀行・ブダペスト・セーチェニ鎖橋」(『Structure Painting』 Vol.31, No.2)
* 佐藤健 (1989) 『切手に見る世界の橋』 [[理工図書]]
* [[地球の歩き方|地球の歩き方編集室]] (2012) 『地球の歩き方 ハンガリー 2012 - 2013年版』[[ダイヤモンド社]]・[[ダイヤモンド・ビッグ社]]
* [[土木学会]]関西支部 編 (1991) 『橋のなんでも小事典』 講談社〈[[講談社ブルーバックス]]〉
* [[外山純子]] (2006) 『ブダペスト旅物語』[[東京書籍]]
* [[ベルト・ハインリッヒ]] (1991) 『橋の文化史 - 桁からアーチへ』[[宮本裕]] [[小林英信]]訳、[[鹿島出版会]]
* [[水村光男]] 監修 (2004)『ヨーロッパの世界遺産 (4) ドイツ・オーストリア・チェコ・ハンガリー・スイス』 講談社〈[[講談社+α文庫]]〉
* [[南塚信吾]] (2007) 『ブダペシュト史』 [[現代思潮新社]]
* [[ガボル・メドベド]] (1999) 『世界の橋物語』 [[成瀬輝男]] 監修・訳、[[山海堂 (出版社)|山海堂]]
* 山田耕治 (2004) 「鎖橋」(『Cosultant』第222号)
** 山田耕治 (2005) 「鎖橋」(建設コンサルタンツ協会『Consultant』編集部 『土木遺産 ヨーロッパ編』[[ダイヤモンド社]]、pp.110-119)

== 関連項目 ==
* [[ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区およびアンドラーシ通り]]
* [[セーチェーニ・イシュトヴァーン]]
* [[吊り橋]]
* [[清洲橋]] - 上掲の『土木遺産 ヨーロッパ編』では、「日本の類似土木遺産」として、アイバーチェーンを使った吊橋であるこの橋が挙げられている。
* [[2015年レッドブル・エアレース・ワールドシリーズ ブダペスト]] - スタート前に橋の下をくぐってコースに進入する。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{commonscat|Széchenyi lánchíd}}
{{commonscat|Chain Bridge, Budapest}}
* [http://dbridges.fw.hu/hidak/lanchid.html Duna-hidak | Lánchíd]
* [http://dbridges.fw.hu/hidak/lanchid.html Duna-hidak | Lánchíd]


{{ブダペストの橋}}
{{DEFAULTSORT:せいちえにくさりはし}}
[[Category:ハンガリーの橋]]
[[Category:ブダペスト]]
[[Category:ブダペストの歴史]]


{{Link FA|hu}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:せえちえにくさりはし}}

[[Category:ハンガリーの世界遺産]]
[[ca:Pont de les Cadenes]]
[[Category:ハンガリーの道路橋]]
[[cs:Széchenyi Lánchíd]]
[[Category:ドナウ川の橋]]
[[da:Kædebroen]]
[[Category:ブダペストの橋]]
[[de:Kettenbrücke (Budapest)]]
[[Category:ブダペストの歴史]]
[[en:Chain Bridge (Budapest)]]
[[Category:ブダペストのドナウ河岸]]
[[eo:Széchenyi-Ĉenponto]]
[[Category:橋の世界遺産]]
[[es:Puente de las Cadenas]]
[[Category:セーチェーニ・イシュトヴァーン]]
[[fi:Széchenyin ketjusilta]]
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[[he:גשר השלשלאות]]
[[hu:Széchenyi lánchíd]]
[[hy:Սեչենյիի շղթայակապ կամուրջ]]
[[id:Jembatan Rantai Széchenyi]]
[[it:Ponte delle Catene (Budapest)]]
[[ko:세체니 다리]]
[[mk:Сеченов синџирест мост]]
[[nl:Kettingbrug]]
[[pl:Most Łańcuchowy w Budapeszcie]]
[[pt:Ponte Széchenyi Lánchíd]]
[[ro:Podul cu lanțuri din Budapesta]]
[[ru:Цепной мост Сечени]]
[[sk:Széchenyi Lánchíd]]
[[sr:Сечењијев ланчани мост]]
[[sv:Kedjebron]]
[[zh:塞切尼鏈橋]]

2023年10月19日 (木) 05:45時点における最新版

セーチェーニ鎖橋 Széchenyi Lánchíd
セーチェーニ鎖橋地図
基本情報
ハンガリー
所在地 ブダペスト
交差物件 ドナウ川
設計者
施工者
ウィリアム・ティアニー・クラーク、アダム・クラーク
建設 1842年[注釈 1] - 1849年
座標 北緯47度29分56秒 東経19度02分37秒 / 北緯47.49889度 東経19.04361度 / 47.49889; 19.04361
構造諸元
形式 吊り橋(アイバーチェーン吊橋)
材料 鉄、石
全長 380m[1][注釈 2]
16.0 m[2]
高さ 48.0 m[3]
地図
セーチェーニ鎖橋の位置(ブダペスト内)
セーチェーニ鎖橋
セーチェーニ鎖橋の位置(ハンガリー内)
セーチェーニ鎖橋
関連項目
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式
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セーチェーニ鎖橋(セーチェーニくさりばし、セーチェーニ・ラーンツヒード、Széchenyi Lánchíd [ˈse̝ːt͡ʃe̝ːɲiˌlɑ̈ːnt͡s(h)iːd])は、ハンガリーの首都ブダペストに架かる吊り橋である。全長380メートル[1]。ブダペスト市内のドナウ川沿岸で最初に架かった恒常的な橋であり、西岸のブダ地区と東岸のペシュト地区(ペスト地区)を結んでいる[4]。単に鎖橋とも呼ばれる[5]

イングランドの技師ウィリアム・ティアニー・クラークWilliam Tierney Clark)が設計し、建設はスコットランドのアダム・クラーク(のちハンガリーに帰化してクラーク・アーダーム[6]Clark Ádám)の監督とハンガリー人セーチェーニ・イシュトヴァーン伯爵の支援のもとでなされた。

橋の両側は彼らの名前を冠したセーチェーニ・イシュトヴァーン広場(Széchenyi István tér, 旧ルーズヴェルト広場 Roosevelt tér)とクラーク・アーダーム広場 (Clark Ádám tér)になっている。クラーク・アーダーム広場はハンガリー国内の道路の0キロメートル点となっており、原標 (Zero Kilometer Stone) が設置されている[7]

歴史

[編集]

前史

[編集]

ブダとペシュトはドナウ川を挟んで発展した町で、それらを結ぶ橋を建設しようという試みは15世紀初頭以来、何度も見られたが、いずれも成功しなかった[8]

恒常的な橋の代わりに使われていたのは、並べた舟の上に橋を渡す「舟橋」や、一種のフェリーを利用する「飛び橋」などであったが、いずれも冬場になると押し寄せる氷を避けるために解体された。そのかわり、その時期にはやがて凍った川を渡れるようになるので、それが橋の代わりになった[9]

橋の建設にいたる動き

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19世紀になると伯爵セーチェーニ・イシュトヴァーンが恒常的な橋の建設を本格的に検討するようになる。彼が恒常的な橋の必要を痛感したのは、1820年のことだったとされている。その年の12月に父の訃報を受け取ったセーチェーニは、急いで駆けつけようと川を渡ろうとしたが、舟橋などはすでに解体されていた。その一方で、まだ川の上を歩けるほどには凍結しておらず、氷を避けて向こう岸に届けてくれる渡し守を手配するのに時間がかかった。彼はこのときの経験から、恒常的な橋の重要性を認識するようになった[10]

セーチェーニ・イシュトヴァーンは1832年2月10日に「ブダペシュト橋同盟」を発足させ、構想の実現に向けて動き出した。「ブダペシュト」(ブダペスト)という名称が初めて使われたのは、この団体名だったとされる[11]。同年7月にペシュト県が建設を承認すると、セーチェーニは翌月にヨーロッパにおいて架橋の技術が進んでいたイギリスに赴き、橋の視察を行なった[12]。あわせて、メナイ橋をはじめ、多くの橋に携わった技師トーマス・テルフォードとも会見し、流氷などによって橋脚が押し流されないようにする工夫として、吊橋なら少ない橋脚でも長大な橋を架けられると助言された[13]

ウィリアム・ティアニー・クラーク
アダム・クラーク

このイギリス視察中に、セーチェーニは技師ウィリアム・ティアニー・クラークとも知り合った。クラークはマーロウ橋をはじめとして、複数のチェーン吊橋を建設した実績を持っており、その年の10月には最初の計画図をまとめあげた[14]。チェーン吊橋とは、メインケーブルにチェーンを使用する吊橋である。19世紀初頭には、ネックレスチェーンのような鉄輪をつなぎ合わせたリンクチェーンを使った吊橋も複数建設されたが、強度の問題などからあまり建設されなくなっていった[15]。これに対して、上記マーロウ橋などで用いられているチェーンは、アイバーeyebar)と呼ばれる両端に穴の開いた細長い鉄板をつなぎ合わせて鎖状にしたアイバーチェーンで、自転車のチェーンなどに近いとも言われる[16]。セーチェーニ鎖橋で採用されたのも、このアイバーチェーンである。

W. T. クラークは設計はしたものの、実際にはブダペシュトに赴いていた時期は、年間に1、2か月程度と短いものだった[14]。かわりに現地で工事の監督に当たった技師がアダム・クラークである。2人のクラークはかつて兄弟などとされることもあったが[17]、現在では血縁関係自体が否定されている[18]。アダム・クラークは出自も経歴もはっきりしない人物で、様々な説がある[19]。彼はイギリス技術士協会の認定技師ではなかったが、ドナウ川の浚渫用機械の建造に携わったのがきっかけでセーチェーニの知るところとなり、セーチェーニは彼が非認定技師であることを承知の上で、経験豊富さを評価して橋の建設への協力を要請した[14]

橋の建設には、従来の舟橋や凍結した川を渡る際に通行税を徴収していたブダ市、ペシュト市の当局に根強い反対論があったほか、従来の通行税を免除されていた貴族たちも橋の建設費用を負担するべきかなど、建設費用をめぐる問題もあった[12]。これに関連して、1836年にはウィーンの銀行家ゲオルグ・シナたちが、橋の建設のために株式会社を設立した[20]

最初の橋の完成

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1839年には防水堰を建設するなど、実際の建設が始まった。水中での作業にはイギリスから輸入された潜水服などが活用され[21]、花崗岩などはオーストリアから調達された[22]。1842年8月24日には起工式が行われ、1848年3月に起こった三月革命の影響なども受けつつ、橋の建設は続いた。ハンガリーの独立運動に対し、オーストリア兵が橋のアンカレイジを破壊しようとしたが、アダム・クラークの機転もあって、失敗に終わった。かわりにオーストリア兵が橋床の上に置いた爆薬は木造だった橋床の一部を破壊したが、アイバーチェーンは無傷だった[23]。その錬鉄製のチェーンはイギリス製で、1846年秋から1年以上かけて順次ブダペストに搬入されており、1848年3月から実際に架けられ始めていた[22]。この架設作業では終盤に滑車が壊れ、落下したチェーンによる死亡事故なども起こったが、橋は1849年11月20日に完成した[24][注釈 3]

当初、建設様式から単に「鎖橋」(ラーンツヒード)と呼ばれていたこの橋を「セーチェーニ橋」と名付けようと提案したのは、ハンガリーでの革命で指導的立場にあったコシュート・ラヨシュであった[25]。現在の名前「セーチェーニ鎖橋」は、こうした経緯からついたものだという[26]。しかし、セーチェーニ自身は完成した時点で病気療養中で、結局この橋を見ることも渡ることもないまま歿した[27]

最初に完成した橋は長さ410ヤード(約375 m)、幅39フィート(約12 m)、高さ海抜36フィート(約11 m)、主塔の高さ160フィート(約48.8 m)であった[17][注釈 4]。完成した時点では世界最長の吊橋だったといわれることもあるが[28]、中央径間(主塔に挟まれた区間)でいえばスイスのフリブールにこれよりも長い橋があった[29]。ただし、セーチェーニ鎖橋については、建設途中の1846年の時点で「世界で最も偉大な吊橋」と評していたアメリカの技師もおり、高く評価されていた[29]

舌がないと言われるライオン像

橋の両側のたもとにあるライオン像(合計4頭)は1852年に設置された。手がけたのは彫刻家のマルシャルコー・ヤーノシュ (Marschalkó János) である[30]。このライオン像に関して、舌がないので除幕式の際に人々が彫刻家をからかい、彫刻家はドナウ川に投身自殺してしまったという逸話がしばしば紹介される[31]。しかし、実際は口の奥に舌はあり、彫刻家はライオンは舌を垂らさないという判断でそのように彫ったのだという[30]

改修と破壊

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1870年に橋は国有化された[32]。1877年のブダペスト工科大学の調査で、いくつかの点について改修の必要のあることが分かったが、実際の改修は1913年まで行われなかった[33]。ブダペストではセーチェーニ鎖橋の後、マルギット橋(1876年)、フェレンツ・ヨージェフ橋(1896年)、エルジェーベト橋(1903年)が建造されたが、こうした橋の建造は都市人口の急増に対応するという側面もあった[34]。言い換えると、セーチェーニ鎖橋に代わりうる橋が複数できたことが、橋を何年も閉鎖して抜本的な改修を行うことを可能にしたのである[33]

現在の重厚なアイバーチェーンと主塔

チェーン吊橋は19世紀半ばには広く用いられていたが、橋桁のみでなく、かなりの重量になるアイバーチェーン自体も支える必要があることから、より軽量なワイヤーケーブルがメインケーブルに使われるようになると、次第に使われなくなっていった[16]。しかし、セーチェーニ鎖橋の改修を任された技師ベケとガリクは、外観の大幅な変更を禁じられていた[33]。アイバーチェーン吊橋の外観を損ねないようにしつつ、交通量の増大にも対応できるように、チェーン自体の強化が図られた。従来の錬鉄製のアイバーの引張強さが3300 - 3400 kg / cm2 だったのに対し、新しい高張力鋼のアイバーの引張強さは4900 - 5600 kg / cm2 で、アイバーチェーンの長さも倍増した[35]。アイバーチェーンの伸長に伴い、そこからぶら下がる、橋を吊り下げるハンガーの間隔も以前の2倍に当たる3.6 m になった[33]。この工事は1915年11月に終わった[33]

ブダペストは第二次世界大戦中の1944年3月にドイツ軍によって占領されており、侵攻してきたソ連軍との間で激しい戦闘になった。ドイツ軍は戦略上の理由から、同年12月から市内に架かる橋を次々と破壊し、セーチェーニ鎖橋も1945年1月18日に中央径間が破壊された[36]

再建

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セーチェーニ鎖橋は戦後に再建され、開通100周年に当たる1949年11月20日に開通式が行われた[37]。再建にあたっては、以前の姿を復元することはもちろんのこと、河中に落ちた鋼材も可能な限り再利用された。セチィとパロタスという2人の人物の指導によって再建された橋は、その鋼材の55%が再利用されたものだった[38]

セーチェーニ鎖橋は1987年に「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区」の一部として、ユネスコ世界遺産に登録された(のち拡大されて「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区およびアンドラーシ通り」)。

1989年10月23日には、共産主義体制の終焉を祝う市民たちがこの橋に集まった[39]

現在のセーチェーニ鎖橋は、ブダペスト市内に架かる橋の中で最も美しいとも言われ[40]、ヨーロッパ全体で見ても特に美しい橋のひとつであるとも言われる[41]。この橋は夜になると美しくライトアップされる。日本語文献では、鎖橋の名の由来を(前記のような構造に基づく由来ではなく)電球が鎖状に連なる美しい装飾によるものと説明している文献も少なからず見られる[42]

車道と歩道とが存在する橋だが、6月中旬から8月中旬には休日だけ歩行者天国になる[43]

ギャラリー

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脚注

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注釈

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  1. ^ 起工式以前の建設準備も考慮に入れれば1839年。
  2. ^ 佐藤 (1989) p.146、小林 (2003) p.36 では375.0 m となっている。
  3. ^ 南塚 (2007) では完成は11月21日とされている(p.220)。
  4. ^ 川田 (2002) p.36では、中央径間203.1 m、両側径間は各90.9 m、幅14 m だったとされている。

出典

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  1. ^ a b メドベド (1999) p.50
  2. ^ 小林 (2003) p.36、外山 (2006) p.15
  3. ^ 小林 (2003) p.36
  4. ^ 『地球の歩き方 2017〜18 ハンガリー』ダイヤモンド・ビッグ社、2017年、64頁。ISBN 978-4-478-06009-4 
  5. ^ 鎖橋(ハンガリー、ブダペスト)”. 一般社団法人 建設コンサルタンツ協会. 2018年4月10日閲覧。
  6. ^ 土木学会関西支部 (1991) p.103
  7. ^ cf. 地球の歩き方編集室 (2012) p.65
  8. ^ 南塚 (2007) p.212
  9. ^ 南塚 (2007) pp.213-217
  10. ^ 南塚 (2007) pp.217-218
  11. ^ 南塚 (2007) pp.218-219
  12. ^ a b 南塚 (2007) p.219
  13. ^ メドベド (1999) pp.168-169
  14. ^ a b c メドベド (1999) p.172
  15. ^ 川田 (2002) pp.18-26
  16. ^ a b 山田 (2005) p.114
  17. ^ a b ブリタニカ百科事典第11版
  18. ^ メドベド (1999) p.50、川田 (2002) p.35
  19. ^ メドベド (1999) p.173
  20. ^ 南塚 (2007) pp.219-220
  21. ^ 川田 (1981) p.139
  22. ^ a b メドベド (1999) p.51
  23. ^ メドベド (1999) p.52
  24. ^ メドベド (1999) pp.51-52
  25. ^ 南塚 (2007) p.220、河野 (2009) pp.113-115
  26. ^ 南塚 (2007) p.220
  27. ^ メドベド (1999) p.52、南塚 (2007) p.220
  28. ^ 河野 (2009) p.113
  29. ^ a b メドベド (1999) p.53
  30. ^ a b 南塚 (2007) pp.220-221
  31. ^ ライオン像に舌がないと紹介している文献として、外山 (2006) p.15など。さらに、それが原因で彫刻家が自殺した(とされる)という形でこの逸話を紹介している文献として、水村 (2004) p.215、小泉 (2008) p.105など。
  32. ^ 南塚 (2007) p.221
  33. ^ a b c d e メドベド (1999) p.53
  34. ^ メドベド (1999) p.46
  35. ^ メドベド (1999) pp.51 & 53
  36. ^ 南塚 (2007) pp.298-299。破壊箇所は山田 (2005) pp.112-113
  37. ^ 南塚 (2007) p.301、小林 (2003) p.40
  38. ^ メドベド (1999) p.54
  39. ^ 地球の歩き方編集室 (2012) p.65
  40. ^ 山田 (2005) p.110
  41. ^ 佐藤 (1989) p.146
  42. ^ 小林 (2003) p.34、水村 (2004) p.218-219、小泉 (2008) p.105、『トラベルストーリー ウィーン・プラハ・ブダペスト』(昭文社、2007年)p.177、『最新版 週刊 世界遺産 No.37 ハンガリー ブダペストのドナウ河岸とブダ城』(講談社、2011年)p.15、『まっぷる2013年版 ウィーン・プラハ・ブダペスト』(昭文社、2013年)p.98
  43. ^ 地球の歩き方編集室 (2012) p.64

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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