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「テッサロニキ」の版間の差分

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{{Otheruses|都市|県|テッサロニキ県}}
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{{世界の市
{{世界の市
|正式名称 =テッサロニキ<br />{{Flagicon|GRE}}<br />{{Lang|el|Θεσσαλονίκη}}
|正式名称 =テッサロニキ
|公用語名称 ={{Lang|el|Θεσσαλονίκη}} <!--必須-->
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|画像 =Salonica-view-aerial.jpg
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|画像サイズ指定 =250px
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|画像の見出し =テッサロニキ市街
|画像の見出し =テッサロニキ港とテッサロニキ市街
|市旗 =Thessaloniki Municipal Flag.png
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|市章 =
|市章 =Thessaloniki Seal.svg
|位置図 =Thessaloniki.png
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|位置図の見出し =テッサロニキの位置
|位置図の見出し =テッサロニキの位置
|区分種類 =
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|下位区分名 ={{GRE}}
|位置図の見出し2 =
|緯度度 =40 |緯度分 =65 |緯度秒 = |N(北緯)及びS(南緯) =N
|経度度 =22 |経度分 =9 |経度秒 = |E(東経)及びW(西経) =E
|成立区分 =設立
|成立日 =紀元前375年
|成立区分1 =
|成立日1 =
|成立区分2 =
|成立日2 =
|旧名 =
|創設者 =
|下位区分名 ={{GRE}} <!--必須-->
|下位区分種類1 =[[地方]]
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|下位区分名1 =[[中央マケドニア]]
|下位区分名1 =[[中央マケドニア]]
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|下位区分種類2 =[[県]]
|下位区分名2 =[[テッサロニキ県]]
|下位区分名2 =[[テッサロニキ県]]
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|最高行政執行者名 =
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|下位区分名4 =
|成立日 =
|規模 =
|規模 = <!--必須-->
|最高行政執行者称号 =市長
|総面積(平方キロ) =17.8
|最高行政執行者名 =Yiánnis Boutáris
|人口の時点 =2001年
|最高行政執行者所属党派 =[[全ギリシャ社会主義運動|PASCO]]
|人口に関する備考 =
|総面積(平方キロ) =('''都市的地域''')111.703
|総人口 =36万3987
|人口密度(平方キロ当たり)=2万0449
|総面積(平方マイル) =
|陸上面積(平方キロ) =
|都市圏人口 =105万7825
|都市圏人口密度(平方キロ)=9,787
|陸上面積(平方マイル) =
|水面面積(平方キロ) =
|等時帯 =[[東ヨーロッパ時間|EET]]
|水面面積(平方マイル) =
|水面面積比率 =
|市街地面積(平方キロ) =('''基礎自治体''')20.85
|市街地面積(平方マイル) =
|都市圏面積(平方キロ) =1,455.62
|都市圏面積(平方マイル) =
|標高(メートル) =
|標高(フィート) =
|人口の時点 =2011年
|人口に関する備考 =<ref name="2011census">{{cite web|publisher=National Statistical Service of Greece: Ανακοίνωση προσωρινών αποτελεσμάτων Απογραφής Πληθυσμού 2011, 22 Ιουλίου 2011|url=http://www.tovima.gr/files/1/2011/07/22/apografh22.pdf|title='Πίνακας 1: Προσωρινά αποτελέσματα του Μόνιμου Πληθυσμού της Ελλάδος' |accessdate=不明}}</ref>
|総人口 =('''都市的地域''')790,824
|人口密度(平方キロ当たり) =7,338.8
|人口密度(平方マイル当たり) =
|市街地人口 =('''基礎自治体''')322,240
|市街地人口密度(平方キロ) =15,455.16
|市街地人口密度(平方マイル) =
|都市圏人口 =1,006,730
|都市圏人口密度(平方キロ) =665.2
|都市圏人口密度(平方マイル) =
|等時帯 =[[東ヨーロッパ時間]]
|協定世界時との時差 =+2
|協定世界時との時差 =+2
|夏時間の等時帯 =EEST
|夏時間の等時帯 =[[東ヨーロッパ夏時間]]
|夏時間の協定世界時との時差=+3
|夏時間の協定世界時との時差 =+3
|郵便番号の区分 =郵便番号
|緯度度=40 |緯度分=38 |緯度秒= |N(北緯)及びS(南緯)=N
|郵便番号 =53xxx, 54xxx, 55xxx, 56xxx
|経度度=22 |経度分=57 |経度秒= |E(東経)及びW(西経)=E
|市外局番 =231-xxx-xxxx
|標高(メートル) =20
|ナンバープレート =NAx-xxxx - NXx-xxxx
|公式ウェブサイト =[http://www.thessalonikicity.gr]
|ISOコード =
|公式ウェブサイト =[http://www.thessaloniki.gr/ www.thessaloniki.gr]
|備考 =
|備考 =
}}
}}
[[ファイル:StSophiaSalonica.jpg|thumb|220px|right|テッサロニキの[[アギア・ソフィア聖堂 (テッサロニキ)|アギア・ソフィア聖堂]]。貴重なイコンや壁画が多く残されている。[[ギリシャ正教会]]。]]
'''テッサロニキ'''({{Lang|el|Θεσσαλονίκη}}、ラテン文字転写:Thessaloniki)は[[ギリシャ]]の第二の都市。[[中央マケドニア]]地方の首府である。古代においては'''テサロニケ'''と呼ばれ日本語でも表記されることが多い。また'''テサロニキ'''(Thessaloniki)、'''テサロニカ'''(Thessalonica)、'''サロニカ'''(Salonica)とも呼ばれる。[[トルコ語]]では'''セラーニク'''(Selanik、[[オスマン語]]表記:سلانیك)である。人口は36万3987人、郊外まで含む大都市圏では80万9457人である。


[[ファイル:StSophiaSalonica.jpg|thumb|220px|right|テッサロニキの[[アギア・ソフィア聖堂 (テッサロニキ)|アギア・ソフィア聖堂]]。貴重なイコンや壁画が多く残されている。[[ギリシャ正教会]]。]]
== 概要 ==
[[東ローマ帝国]]時代の[[教会]]や城壁が多数残されており、アテネが古代ギリシャを象徴する街なのに対して、中世東ローマ時代のギリシャを象徴する街と言われている。[[アトス山]]の修道院共同体もこのテッサロニキが入り口となる。
'''テッサロニキ'''({{Lang|el|Θεσσαλονίκη}}、ラテン文字転写:Thessaloniki)は[[ギリシャ]]の第二の都市。[[中央マケドニア]]地方の首府である。古代においては'''テサロニケ'''と呼ばれ日本語でも表記されることが多い。また'''テサロニキ'''(Thessaloniki)、'''テサロニカ'''(Thessalonica)、'''サロニカ'''(Salonica)とも呼ばれる。[[トルコ語]]では'''セラーニク'''(Selanik、[[オスマン語]]表記:سلانیك)である。人口は36万3987人、郊外まで含む大都市圏では80万9457人である。[[東ローマ帝国]]時代の[[教会]]や城壁が多数残されており、アテネが古代ギリシャを象徴する街なのに対して、中世東ローマ時代のギリシャを象徴する街と言われている。[[アトス山]]の修道院共同体もこのテッサロニキが入り口となる。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
{{see also|:w:History of Thessaloniki}}
テッサロニキは[[紀元前310年代|紀元前315年]]前後に[[マケドニア王国|マケドニア]]王・[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]によって創建。大王の死後、アレクサンドロスの王統より王位を奪った[[カッサンドロス]]は王妃[[テッサロニカ]](アレクサンドロスの腹違いの姉妹)の名を取りテッサロニケーと名付けた。[[紀元前168年]]にマケドニア王国が滅びてから、[[共和制ローマ]]領の都市となる。ローマと[[ビュザンティオン|ビザンチウム]](後のローマ帝国の[[首都]]・[[コンスタンティノポリス]]、現在の[[イスタンブル]])を結ぶ[[エグナティア街道]]沿いの重要拠点となり、東西交易の場所として栄えた。ローマが東西に分割されたあとは、[[東ローマ帝国]]の権力下に置かれた。[[581年]]頃には[[スラヴ人]]、[[586年]]には[[アヴァール人]]による包囲を受けたが、強固な城壁によって守られた。しかし、[[620年]]に大地震に見舞われたことで、ローマ時代の[[フォルム]]などの公共施設が崩壊するなど激しい打撃を受けた。
=== 古代からローマ時代まで ===
テッサロニキは[[カッサンドロス]]により紀元前315年頃に創建された。<ref>[[Strabo]] VIII Fr. 21,24 – Paul's early period By [[Rainer Riesner]], Doug Scott, p. 338, ISBN 0-8028-4166-X</ref>カッサンドロスは妻の[[テッサロニカ]]の名に因み、テッサロニケーと名付け<ref name="Paul of Tarsus">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=qLdRFMbHfGIC&pg=PA209&dq=Thessalonika&hl=en&ei=9L1GTsCbB4SSswbmyezFBw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CD0Q6AEwAQ#v=onepage&q=Thessalonika&f=false|title=The three worlds of Paul of Tarsus|author=Richard Wallace, Wynne Williams|year=1998|accessdate=13 August 2011}}</ref>たが、テッサロニカは[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の異母妹でマケドニアの王妃で[[ピリッポス2世]]の娘である。[[マケドニア王国]]支配下のテッサロニキは徐々に都市としての重要性が高まっていった。<ref name="Paul of Tarsus" />


マケドニア王国が[[紀元前168年]]に倒れると、テッサロニキは[[共和制ローマ]]の自由都市{{enlink|free city (antiquity)|a=on}}となり<ref name="Paul of Tarsus" />、[[ディラキウム|ドゥラス]]と[[ビュザンティオン]]を結ぶ<ref name="Via Egnatia">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=W-L1DA1ptKQC&pg=PA409&dq=Via+Egnatia&hl=en&ei=vbpGTti9NorFswa_9pisBw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=5&ved=0CD8Q6AEwBA#v=onepage&q=Via%20Egnatia&f=false|title=The Book of Acts in Its Graeco-Roman Setting|author=David W. J. Gill, Conrad Gempf|year=1994|accessdate=13 August 2011}}</ref> [[エグナティア街道]]に面した交易の要衝となり<ref name="LPTH">[http://www.lpth.org/en/ White Tower Museum - A Timeline of Thessaloniki]{{dead link|date=March 2012}}</ref>、大商業地のローマやビザンティオンとの間の交易が促進された。<ref name="Urban history">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=cXuCjDbxC1YC&pg=PA188&dq=Via+Egnatia+Thessaloniki&hl=en&ei=prtGTtiVJ4XHsgb1w9SyBw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=5&ved=0CEIQ6AEwBA#v=onepage&q=Via%20Egnatia%20Thessaloniki&f=false|title=Urban world history: an economic and geographical perspective|author=Luc-Normand Tellier|year=2009|accessdate=13 August 2011}}</ref>テッサロニキはまたバルカン半島を南北に[[大モラヴァ川]]や[[ヴァルダル川|アクシオス川]]に沿って走る街道の南端でギリシャとバルカンの諸都市を結んでいた。<ref>{{cite book|title=The Early Medieval Balkans|last=Fine|first=John V.A.|year=1991|publisher=University of Michigan Press|location=|isbn=978-0-472-08149-3|page=336}}</ref>テッサロニキは後にローマのマケドニア地方にある4地区のうちの1地区の首府となり<ref name="LPTH"/> 、その後はバルカン半島での重要性から属州の首都となった。ローマ帝国が[[テトラルキア]]により分割統治されるようになると、テッサロニキは4分割された帝国のうち[[ガレリウス]]が統治する領域の首府となり<ref name="Roman Empire">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=DWiyzw91atgC&pg=PA400&dq=Roman+Empire+tetrarchy+Thessaloniki&hl=en&ei=QaBGTu7bIY2PswaPs8m9CQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=3&ved=0CD4Q6AEwAg#v=onepage&q=Thessalonika&f=false|title=The Roman Empire from Severus to Constantine|author=Pat Southern|year=2001|accessdate=13 August 2011}}</ref><ref name="Roman Empire 2">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=zJl-n-BakRcC&pg=PA52&dq=Roman+Empire+tetrarchy+Thessaloniki&hl=en&ei=6aFGTqWcJ8aUswbZ-fW0Bw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=4&ved=0CEMQ6AEwAw#v=onepage&q=Roman%20Empire%20tetrarchy%20Thessaloniki&f=false|title=Meaning and geography: the social conception of the region in northern Greece|author=Alexandros Ph Lagopoulos, Karin Boklund-Lagopoulou|year=1992|accessdate=13 August 2011}}</ref>、ガレリウスは宮殿や新しい競馬場{{enlink|hippodrome|a=on}}、[[凱旋門]]、[[廟]]などの建設を命じた。<ref name="Roman Empire 2" /><ref name="Roman Art">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=r-r0S-z-UxkC&pg=PA289&dq=Roman+Empire+tetrarchy+Thessaloniki&hl=en&ei=6aFGTqWcJ8aUswbZ-fW0Bw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CDIQ6AEwAA#v=onepage&q=Roman%20Empire%20tetrarchy%20Thessaloniki&f=false|title=A History of Roman Art, Enhanced Edition|author=Fred S. Kleiner|year=2010|accessdate=13 August 2011}}</ref><ref name="Canepa">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=57szORf0_B0C&pg=PA84&dq=Roman+Empire+tetrarchy+Thessaloniki&hl=en&ei=4aNGTur8O4nHsga_o9zJBw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=5&ved=0CEoQ6AEwBA#v=onepage&q=Roman%20Empire%20tetrarchy%20Thessaloniki&f=false|title=The two eyes of the Earth: art and ritual of kingship between Rome and Sasanian Iran|author=Matthew P. Canepa|year=2009|accessdate=13 August 2011}}</ref>
コンスタンティノポリスに次ぐ、帝国第二の都市として栄え、多くの教会が建設された。テッサロニキの人々は[[聖像破壊運動]]の時代にも[[イコン]]を隠して守ったため、他の旧東ローマ帝国領内では失われてしまった聖像破壊運動以前の貴重なイコンや[[モザイク]]画が数多く残っている。


379年、ローマのイリュリア県{{enlink|praetorian prefecture of Illyricum|a=on}}は東西のローマ帝国に分割され、テッサロニキは新しいイリュシア県の首府となった。<ref name="LPTH"/>476年に西ローマ帝国が倒れると{{enlink|Decline of the Roman Empire|a=on}}とテッサロニキは[[東ローマ帝国]]の中では2番目に大きな都市となる。ローマ帝国にあったテッサロニキは[[キリスト教]]の拡大の中心として重要で、[[パウロ]]によって[[新約聖書]]の一書[[テサロニケの信徒への手紙一]]が書かれている。
[[1430年]]に[[オスマン帝国]]によって占領され、以後オスマン帝国の都市となる。トルコ人からはセラーニク(Selânik)、また近在の[[スラヴ人]]からはソルン({{Lang|bg|Солун}}、Solun)と呼ばれた。この期間、[[イスラム教]]徒と[[ユダヤ教]]徒の人口が増え、社会基盤が整備されていった。[[バルカン半島]]の中心都市として、東西貿易の拠点としてオスマン帝国でも最も重要な都市の一つとなっていた。[[1888年]]に鉄道が敷設され、[[1896年]]から[[1904年]]の間には港湾が整備された。現代[[トルコ]]の[[建国の父]]、[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク]]は[[1881年]]にこの町で生まれた。[[青年トルコ人革命]]はここが本部となっていた。


=== 中世・ビザンティン時代 ===
{{See also|テッサロニキ王国}}
[[東ローマ帝国]](ビザンティン)の初期、テッサロニキは[[コンスタンティノープル]]に次いで2番目に大きな都市であったと考えられ<ref name="DCCXVI">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=7D3PAAAAMAAJ&pg=PA316&dq=Thessalonica+second+city+Byzantine+Empire&hl=en&ei=9wtHTuTcHM_xsgaC8aScBw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&sqi=2&ved=0CCwQ6AEwAA#v=onepage&q=Thessalonica%20second%20city%20Byzantine%20Empire&f=false|title=History of the Byzantine empire from DCCXVI to MLVII.|author=George Finlay|year=1856|accessdate=14 August 2011}}</ref><ref name="Browing">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=qp8ocRg7r2sC&pg=PA73&dq=Thessalonica+second+city+Byzantine+Empire+population&hl=en&ei=6QxHTpuaJ8ORswbioOy8Bw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=5&ved=0CDsQ6AEwBA#v=onepage&q=Thessalonica&f=false|title=The Byzantine Empire|author=Robert Browning|year=1992|accessdate=14 August 2011}}</ref><ref name="Last Centuries">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=y2d6OHLqwEsC&pg=PA20&dq=Thessalonica+second+city+Byzantine+Empire+population&hl=en&ei=xg1HTvuLHIz5sga-lt2fBw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=10&ved=0CF0Q6AEwCQ#v=onepage&q=Second%20city&f=false|title=The last centuries of Byzantium, 1261-1453|author=Donald MacGillivray Nicol|year=1993|accessdate=14 August 2011}}</ref> 、その地位は1423年にヴェネツィア共和国の支配に代わるまで保っていた。14世紀のテッサロニキの人口は100,000人程度で<ref name="Cambridge">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=LOS1c0w91AcC&pg=PA811&dq=Thessaloniki+population+1300s&hl=en&ei=YA5HTvL7EMbCswanxbS9CQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CCwQ6AEwAA#v=onepage&q&f=false|title=The New Cambridge Medieval History: c. 1300-c. 1415|author=Michael Jones|year=1995|accessdate=14 August 2011}}</ref><ref name="The Balkans">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=j3i8muwLf8AC&pg=PA196&dq=thessalonica+population&hl=en&ei=2Ms7Tsz6CsvOsgaDvLka&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CDEQ6AEwAQ#v=snippet&q=150%2C000&f=false|title=The Balkans and the Near East: Introduction to a Shared History|author=Karl Kaser|year=2011|accessdate=5 August 2011}}</ref>、当時のロンドンを凌いでいた。<ref name="Progress">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=QkcQAgIFffUC&pg=PA96&dq=Population+of+London+1300&hl=en&ei=uw9HTp7UH4PMswaL9eGyBw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=4&ved=0CEUQ6AEwAw#v=onepage&q=Population%20of%20London%201300&f=false|title=Progress and Problems in Medieval England: Essays in Honour of Edward Miller|author=Richard Britnell, John Hatcher|year=2002|accessdate=14 August 2011}}</ref>

6世紀から7世紀にかけテッサロニキ周辺では[[アヴァール]]や[[スラヴ人]]が侵入し、テッサロニキを幾度も包囲したがいずれも失敗している。<ref>{{cite book|last=Skedros|first=James C.|title=Saint Demetrios of Thessaloniki : civic patron and divine protector, 4th-7th centuries CE|year=1999|publisher=Trinity Press International|location=Harrisburg, Pa|isbn=978-1-56338-281-9|page=105|url=http://books.google.gr/books?ei=lHVBT5OCIev14QTipMzACA&hl=el&id=zWvYAAAAMAAJ&dq=thessaloniki+avars&q=%22In+586+a+combined+Avar-Slav+siege+of+Thessaloniki+was+undertaken.+Although+it+failed%2C+repeated+attacks+upon+the+city+continued+well+into+the+next+century.+In+the+words+of+George+Ostrogorsky%2C+%22Innumerable+hordes+of+Slavs+and+Avars%22#search_anchor}}</ref>
これまでの歴史的な 文献では多くのスラヴ人がテッサロニキの後背地に居住したとされるが<ref name="google61">{{cite book|url=http://books.google.ca/books?id=1Z9ItAtbJ5AC&pg=PA61&dq=slavs+thessalonica&hl=en&sa=X&ei=C706T5HPBIXf0QGf_PmhCw&ved=0CEwQ6AEwBDgK#v=onepage&q=macedonian%20sclavinia&f=false|title=The early Slavs: culture and society in early medieval Eastern Europe|author=Paul M. Barford|accessdate=18 February 2012|page=61}}</ref>、この移住は実際にはこれまで考えられたきたものより小規模なものである。<ref name="google61"/><ref name="google61"/><ref>T E Gregory, ''A History of Byzantium''. Wiley- Blackwell, 2010. Pg 169. ''"It is now generally agreed that the people who lived in the Balkans after the Slavic "invasions" were probably for the most part the same as those who had lived there earlier, although the creation of new political groups and arrival of small immigrants caused people to look at themselves as distinct from their neighbours, including the Byzantines".''</ref>

9世紀になるとテッサロニキ出身の[[キュリロス (スラヴの(亜)使徒)|キュリロス]]と[[メトディオス (スラヴの(亜)使徒)|メトディオス]]によりスラヴ人にとっては最初の文字である[[グラゴル文字]]が考案された。[[古代教会スラヴ語]]は当時、このテッサロニキなどマケドニア地方で話されていたスラヴ人の言葉を基にしているとされている。<ref>{{cite book|last=Curta|first=Florin|title=Southeastern Europe in the Middle Ages : 500 - 1250|year=2006|publisher=Cambridge Univ. Press|location=Cambridge|isbn=978-0-521-81539-0|page=125|url=http://books.google.gr/books?id=YIAYMNOOe0YC&pg=PA125&dq=%22At+the+emperor's+request,+Con-+stantine+and+his+brother+started+the+translation+of+religious+texts+into+Old+Church+Slavonic,+a+literary+language+most+likely+based+on+the+Macedonian+dialect+allegedly+used+in+the+hinterland+of+their+%22&hl=el&sa=X&ei=ro9CT9PAEPHT4QT1pNmwAg&ved=0CC8Q6AEwAA#v=onepage&q=%22At%20the%20emperor's%20request%2C%20Con-%20stantine%20and%20his%20brother%20started%20the%20translation%20of%20religious%20texts%20into%20Old%20Church%20Slavonic%2C%20a%20literary%20language%20most%20likely%20based%20on%20the%20Macedonian%20dialect%20allegedly%20used%20in%20the%20hinterland%20of%20their%20%22&f=false|quote=At the emperor's request, Constantine and his brother started the translation of religious texts into Old Church Slavonic, a literary language most likely based on the Macedonian dialect allegedly used in the hinterland of their hometown, Thessalonica}}</ref><ref>{{cite book|title=Southeastern Europe in the Middle Ages, 500-1250|publisher=Cambridge University Press|year=2006|author=Florin Curta & Paul Stephenson|accessdate=18 February 2012|page=214}}</ref><ref>{{cite book|url=http://books.google.ca/books?ei=C0Y_T8bZEKbY0QGemLmqBw&id=nk9oAAAAMAAJ&dq=thessaloniki+slavs+birth+place&q=role+of+the+city+in+the+enlightenment+of+the+Slavs#search_anchor|title=A history of Thessaloniki by Apostolos Euangelou Vakalopoulos, pages 32-34|publisher=Books.google.ca|date=|accessdate=2012-03-11}}</ref><ref>{{cite book|url=http://books.google.ca/books?id=6FQ7ALNZXdUC&printsec=frontcover&dq=The+Cambridge+history+of+Russian+literature&hl=en&sa=X&ei=uPw_T-3ZD-f40gGtuuWvBw&ved=0CDYQ6AEwAA#v=onepage&q=thessaloniki&f=false|title=The Cambridge history of Russian literature by Charles A. Moser, pg. 3|publisher=Books.google.ca|date=1992-04-30|accessdate=2012-03-11}}</ref><ref>{{cite book|last=Dixon-Kennedy|first=Mike|title=Encyclopedia of Russian and Slavic myth and legend.|year=1999|publisher=ABC-Clio|location=Oxford|isbn=978-1-57607-130-4|page=56|url=http://books.google.gr/books?id=eD5AkdM83iIC&pg=PA56&dq=cyril+slavs&hl=el&sa=X&ei=z3tBT5aLF8zT4QTKtJmGCA&ved=0CEMQ6AEwBA#v=onepage&q=cyril%20slavs&f=false|edition=2nd printing.}}</ref>

904年にアラブの侵入によって短い間、テッサロニキは攻略された。<ref>{{cite book|last=Jr|first=John V. A. Fine,|title=The early medieval Balkans : a critical survey from the sixth to the late twelfth century|year=2000|publisher=Univ. of Michigan Press|location=Ann Arbor|isbn=978-0-472-08149-3|page=140|url=http://books.google.gr/books?id=YbS9QmwDC58C&pg=PA140&dq=thessaloniki+arabs+capture&hl=el&sa=X&ei=s3ZBT-WZJcPN4QST6ZGgCA&ved=0CE0Q6AEwBQ#v=onepage&q=thessaloniki%20arabs%20capture&f=false|edition=1. paperback ed., 10.[Dr.]}}</ref>テッサロニキは12世紀の[[コムネノス王朝]]期にも経済成長は継続し、ビザンティンは北へと支配を広げた。1204年に[[第4回十字軍]]によりコンスタンティノープルが包囲{{enlink|Siege of Constantinople (1204)|a=on}}された時、テッサロニキはビザンティンの支配を離れ<ref name="Byzantium and the Crusades">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=PXizk1RZ88wC&pg=PA152&dq=Fourth+Crusade+Thessalonica+1204&hl=en&ei=mwlHTsXNFsP1sgb606CsDw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CDIQ6AEwAQ#v=onepage&q=Fourth%20Crusade%20Thessalonica%201204&f=false|title=Byzantium and the Crusades|author=Jonathan Harris|year=2006|accessdate=14 August 2011}}</ref> [[ラテン帝国]]の最大の隷属国となった。1224年、[[テッサロニキ王国]]はビザンティンの亡命政権である[[テオドロス1世コムネノス・ドゥーカス]]の[[エピロス専制侯国]]により侵略された。テオドロス1世は自ら皇帝と称し<ref name="Coinage">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=EXJ3gSLOTtAC&pg=PR69&dq=Empire+of+Thessalonica&hl=en&ei=vwJHTs23O4z6sgaHi72jBw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CCwQ6AEwAA#v=onepage&q=Empire%20of%20Thessalonica&f=false|title=Catalogue of the coins of the Vandals, Ostrogoths and Lombards: and of the empires of Thessalonica, Nicaea and Trebizond in the British museum|author=Warwick William Wroth|year=1911|accessdate=14 August 2011}}</ref> その首都となった。<ref name="Coinage" /><ref name="Theodore">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=j6y0E6YO-oEC&pg=PA97&dq=Thessaloniki+co-capital+Byzantine+Empire&hl=en&ei=ff9GTu-3As7tsgaGw4DsAw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CC8Q6AEwADgK#v=onepage&q&f=false|title=Routledge Companion to Medieval Warfare|author=Jim Bradbury|year=2004|accessdate=14 August 2011}}</ref>この時代のエピロス専制国はテッサロニカ帝国としても知られていた。<ref name="Coinage" /><ref name="Late Byzantine">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=rUs-hHd89xAC&pg=PA23&dq=Empire+of+Thessaloniki&hl=en&ei=1QBHToi4DorzsgbDxcWgBw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CDEQ6AEwAQ#v=onepage&q=Empire%20of%20Thessaloniki&f=false|title=The late Byzantine army: arms and society, 1204-1453|author=Mark C. Bartusis|year=1997|accessdate=14 August 2011}}</ref><ref name="History of Greece">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=w54BAAAAQAAJ&pg=PA144&dq=Empire+of+Thessalonica&hl=en&ei=vwJHTs23O4z6sgaHi72jBw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CDEQ6AEwAQ#v=onepage&q=Empire%20of%20Thessalonica&f=false|title=The history of Greece from its conquest by the Crusaders to its conquest by the Turks, and of the empire of Trebizond, 1204-1461|author=George Finlay|year=1851|accessdate=14 August 2011}}</ref>1230年に[[クロコトニッツァの戦い]]で打ち負かされると<ref name="Coinage" /><ref name="Late Byzantine">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=Dh6jydKXikoC&pg=PA535&dq=Klokotnitsa&hl=en&ei=LgJHToSIGo_bsgbh_qWvCQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CDIQ6AEwAQ#v=onepage&q=Klokotnitsa&f=false|title=Dictionary of Battles and Sieges: F-O|author=Tony Jaques|year=2007|accessdate=14 August 2011}}</ref>、テッサロニキ帝国は[[第二次ブルガリア帝国]]の1246年に再び回復すまで属国であった。当時は[[ニカイア帝国]]であった。<ref name="Coinage" />1342年になると<ref name="Zealots 2">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=LvVbRrH1QBgC&pg=PA309&dq=Zealots+of+Thessaloniki&hl=en&ei=AAVHTtS1EsbNswbN2IC_Bw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CDEQ6AEwAQ#v=onepage&q=Zealots%20of%20Thessaloniki&f=false|title=The Late Medieval Balkans: A Critical Survey from the Late Twelfth Century to the Ottoman Conquest|author=John Van Antwerp Fine|year=1994|accessdate=14 August 2011}}</ref>
船員や貧民による反貴族主義の[[テッサロニキ・ゼアロット]]{{enlink|Zealots of Thessalonica|a=on}}が隆盛し<ref name="Zealots">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=gXCl9P0vKS4C&pg=PA358&dq=Zealots+of+Thessaloniki&hl=en&ei=AAVHTtS1EsbNswbN2IC_Bw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CCwQ6AEwAA#v=onepage&q=Zealots%20of%20Thessaloniki&f=false|title=A History of Byzantium|author=Timothy E. Gregory|year=2010|accessdate=14 August 2011}}</ref>、今日では社会革命と言われている。<ref name="Zealots 2" />町は事実上、帝国からは独立している状態にあり<ref name="Zealots 2" /><ref name="Zealots" /><ref name="Byzantine State and Society">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=nYbnr5XVbzUC&pg=PA770&dq=Zealots+of+Thessalonica&hl=en&ei=SQRHTse2EJCLswb2gOWyBw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=3&ved=0CDYQ6AEwAg#v=onepage&q=Zealots%20of%20Thessalonica&f=false|title=A history of the Byzantine state and society|author=Warren T. Treadgold|year=1997|accessdate=14 August 2011}}</ref> ゼアロットの運動は1350年に打倒され、町は帝国に再統合された。<ref name="Zealots 2" />1423年、アンドロニクス専制公によりテッサロニキは統治されていたがオスマン帝国からの防御を期待しヴェネツィア共和国に割譲されている。1422年から1430年にかけオスマンにより封鎖されたが、1430年3月29日に[[ムラト2世]]に攻略されるまではヴェネツィア側が押させていた。<ref>cf. the account of John Anagnostes.</ref>テッサロニキのランドマークでもあるホワイトタワーはこの頃に築かれたものである。

=== オスマン帝国時代===
[[ファイル:Thessaloniki in 1688.png|thumb|1688年頃のテッサロニキ]]
テッサロニキは攻略されると一時的に市民に対する酷い扱いや<ref>{{cite book|author= Nicol, Donald M.|title= Byzantium and Venice: A Study in Diplomatic and Cultural Relations|publisher= Cambridge University Press|year= 1992|page=371|isbn= 0-521-42894-7|quote= The capture and sack of Thessalonica is vividly described by an eye-witness, John Anagnostes.... He reckoned that 7000 citizens, perhaps one-fifth of the population, were carried off to slavery.}}</ref> 略奪などから多くの人口が流出し<ref>{{cite book|author= Harris, Jonathan|title= Greek emigres in the West 1400–1520|publisher= Porphyrogenitus|year= 1995|page= 12|isbn= 1-871328-11-X|quote= Many of the inhabitants of Thessalonica fled to the Venetian colonies in the early 15th century, in the face of sporadic attacks which culminated in the city’s capture by Murad II in the 1430’s.}}</ref> その中には知識人も含まれていた。<ref>{{cite book|author= Milner, Henry|title= The Turkish Empire: The Sultans, the Territory, and the People|publisher= BiblioBazaar|year= 2009|page=87|isbn= 1-113-22399-5|quote= Theodore Gaza, one of these exiles, escaped from Saloniki, his native city, upon its capture by Amurath. }}</ref>しかしながら、 ビザンティンからオスマンへ君主が変わってもテッサロニキの帝国の大都市や交易の中心としての地位や評判は変わることはなかった。<ref name="Economic History">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=OtW2axOSn10C&pg=PA39&dq=Thessalonica+and+Smyrna+trading+Ottoman+Empire&hl=en&ei=KddHTvvoA4vasgbT2vWcBw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CCwQ6AEwAA#v=onepage&q=Thessaloniki&f=false|title=Balkan economic history, 1550-1950: from imperial borderlands to developing nations|author=John R. Lampe, Marvin R. Jackson|year=1982|accessdate=14 August 2011}}</ref><ref name="Ottoman Encyclopedia">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=QjzYdCxumFcC&pg=PA502&dq=Thessalonica+economy+Ottoman+Empire&hl=en&ei=jNhHToChJo71sgba7-nKBw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CDIQ6AEwAQ#v=onepage&q&f=false|title=Encyclopedia of the Ottoman Empire|author=Gábor Ágoston, Bruce Alan Masters|year=2009|accessdate=14 August 2011}}</ref> テッサロニキや[[スミルナ]](現在の[[イズミル]]付近)はコンスタンティノープルよりは小さいがオスマン帝国にとっては交易の中枢として重視されていた。<ref name="Economic History" />テッサロニキは海運だけでなく<ref name="Economic History" />手工業でも重視され<ref name="Ottoman Encyclopedia" />そのほとんどはギリシャ人が取り仕切っていた。<ref name="Economic History" />

オスマン支配期にはムスリムやユダヤ人の人口が増加している。1500年の記録ではギリシャ人7,986人、ムスリム8,775人、ユダヤ人3,770人であったとされる。1519年には[[セファルディム]]が15,715人で都市人口の54%を占めていた。一部の歴史家からはオスマン統治の時代に民族的にギリシャ人(東方正教徒)を阻止するための手段としてユダヤ系の人々を招き入れたと言う説もある。<ref name="Cambridge">Rosamond McKitterick, Christopher Allmand, ''The New Cambridge Medieval History'', p. 779</ref>

[[File:Souvenir de Salonique, Turquie.png|thumb|left|オスマン支配下のテッサロニキの絵葉書]]

テッサロニキは1826年まで[[ルメリ州]]{{enlink|Rumelia Province, Ottoman Empire|a=on}}内のセラーニクサンジャクの首府で<ref name="Society">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=khnnAAAAMAAJ&pg=PA392&dq=Selanik+sanjak&hl=en&ei=0dxHTu6zE4uSswbqvcGpBw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=3&ved=0CD0Q6AEwAg#v=onepage&q=Selanik&f=false|title=The Penny cyclopædia of the Society for the Diffusion of Useful Knowledge|author=Society for the Diffusion of Useful Knowledge (Great Britain)|year=1843|accessdate=14 August 2011}}</ref>、その後は1864年まで[[サロニカ州]]{{enlink|Salonika Province, Ottoman Empire|a=on}}の首府であった<ref name="Studies">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=082osLxyBDgC&pg=PA201&dq=Ottoman+vilayets&hl=en&ei=Vt5HTqGiLofusgaEiYW6Bw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=6&ved=0CEUQ6AEwBQ#v=onepage&q=Selanik&f=false|title=Studies on Ottoman social and political history: selected articles and essays|author=Kemal H. Karpat|year=2002|accessdate=14 August 2011}}</ref><ref name="History and progress">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=gLFJAAAAMAAJ&pg=PA292&dq=Selanik+Eyaleti&hl=en&ei=HN9HTpTCIsbysgaTnby6Bw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CDEQ6AEwAQ#v=onepage&q=Selanik%20Eyaleti&f=false|title=Turkey: its history and progress: from the journals and correspondence of Sir James Porter continued to the present time, with a memoir of Sir James Porter, Volume 2|author=Sir James Porter, Sir George Gerard de Hochepied Larpent|year=1854|accessdate=14 August 2011}}</ref>。テッサロニキはまた[[イェニチェリ]]の本拠地で<ref name="Janissary">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=jBBYD2J2oE4C&pg=PA149&dq=The+Auspicious+Incident&hl=en&ei=7-FHTqPdOY_1sgaFs_CxCQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CDIQ6AEwAQ#v=onepage&q=The%20Auspicious%20Incident&f=false|title=Conflict and Conquest in the Islamic World: A Historical Encyclopedia|author=ABC-CLIO|year=2011|accessdate=14 August 2011}}</ref>新参のイェニチェリが訓練を受けていた。1826年6月にオスマントルコの常備兵がイェニチェリの基地の攻撃と破壊を行い10,000人以上のイェニチェリが殺され<ref name="Janissary" />、オスマンの歴史の中では[[アウスピキオス事件]]{{enlink|The Auspicious Incident|a=on}}として知られている。<ref name="Janissary" />

=== 20世紀 ===
[[1912年]]に[[バルカン戦争]]で[[ギリシャ軍]]がテッサロニキに攻め込み、[[オスマン帝国]]から奪還した。[[1913年]]にギリシャの[[国王]][[ゲオルギオス1世 (ギリシャ王)|ゲオルギオス1世]]がテッサロニキ訪問中に暗殺されるという事件が起こった。[[1915年]]には[[第一次世界大戦]]の最中、[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]軍がテッサロニキに集結し、ドイツ・[[ブルガリア]]連合軍と対峙した。ギリシャの当時の首相[[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]は国王の反対を押し切りここに臨時政府を建てた。[[1917年]][[8月17日]]の大火災で町のほとんどが消失し、エレフテリオス・ヴェニゼロス首相の命でフランス人設計の都市計画による欧州的な近代都市が建設された。その後[[希土戦争 (1919年-1922年)|希土戦争]]が勃発し、[[小アジア]]地方からの多くの難民を受け入れた。
[[1912年]]に[[バルカン戦争]]で[[ギリシャ軍]]がテッサロニキに攻め込み、[[オスマン帝国]]から奪還した。[[1913年]]にギリシャの[[国王]][[ゲオルギオス1世 (ギリシャ王)|ゲオルギオス1世]]がテッサロニキ訪問中に暗殺されるという事件が起こった。[[1915年]]には[[第一次世界大戦]]の最中、[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]軍がテッサロニキに集結し、ドイツ・[[ブルガリア]]連合軍と対峙した。ギリシャの当時の首相[[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]は国王の反対を押し切りここに臨時政府を建てた。[[1917年]][[8月17日]]の大火災で町のほとんどが消失し、エレフテリオス・ヴェニゼロス首相の命でフランス人設計の都市計画による欧州的な近代都市が建設された。その後[[希土戦争 (1919年-1922年)|希土戦争]]が勃発し、[[小アジア]]地方からの多くの難民を受け入れた。


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[[1978年]][[6月20日]]に[[マグニチュード]]6.5の大地震に見舞われた。[[1988年]]には町の[[ビザンティン建築|ビザンティン様式]]の建築群が、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]][[世界遺産]]に登録された([[テッサロニキの初期キリスト教とビザンティン様式の建造物群]])。
[[1978年]][[6月20日]]に[[マグニチュード]]6.5の大地震に見舞われた。[[1988年]]には町の[[ビザンティン建築|ビザンティン様式]]の建築群が、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]][[世界遺産]]に登録された([[テッサロニキの初期キリスト教とビザンティン様式の建造物群]])。

== 地理 ==
{{wide image|Thessaloniki view.jpg|1000px|<center>[[オリンポス山]]を背景に望むテッサロニキの街</center>}}

=== 地勢 ===
[[image:Thessaloniki from space.png|thumb|テッサロニキの衛星写真 (1996)]]
テッサロニキは[[テルマイコス湾]]{{enlink|Thermaic Gulf|a=on}}の北縁の東岸に位置し、南東部は[[ホルティアティス山]]{{enlink|Mount Chortiatis|a=on}}の範囲に位置する。印象的な山脈や丘陵、断層線はとくに南東方向に向かって走っており、歴史的にテッサロニキの都市に対して地質的な変化をもたらす傾向がある。中世以来、テッサロニキでは大きな地震が発生しておりとくに[[1759年]]、[[1902年]]、[[1978年]]、[[1995年]]の地震は特筆される。<ref name="Thessaloniki earthquakes">{{cite web |url=http://www.ngdc.noaa.gov/nndc/struts/results?bt_0=&st_0=&type_17=EXACT&query_17=None+Selected&op_12=eq&v_12=&type_12=Or&query_14=None+Selected&type_3=Like&query_3=Thessaloniki&st_1=&bt_2=&st_2=&bt_1=&bt_4=&st_4=&bt_5=&st_5=&bt_6=&st_6=&bt_7=&st_7=&bt_8=&st_8=&bt_9=&st_9=&bt_10=&st_10=&type_11=Exact&query_11=&type_16=Exact&query_16=&display_look=1&t=101650&s=1&submit_all=Search+Database |title=5 Significant Earthquakes where Location Name includes Thessaloniki |work= United States Department of Interior, US Geological Survey |accessdate=18 August 2011}}</ref>1978年6月19日、20日に発生した[[1978年テッサロニキ地震]]{{enlink|1978 Thessaloniki earthquake|a=on}}では[[マグニチュード]]5.5、6.5<ref name="USGS">{{cite web |url=http://earthquake.usgs.gov/earthquakes/eqarchives/significant/sig_1978.php |title=Significant earthquakes of the world - 1978 |work= United States Department of Interior, US Geological Survey |accessdate=18 August 2011}}</ref><ref name="Maniateas">{{cite book |title=100+1 Χρόνια Ελλάδα |trans_title=100+1 Years of Greece |publisher= Maniateas Publishings |year= 1999 |volume=Volume II |pages=210–211 |accessdate=18 August 2011}}</ref> を記録している。いくつかの建物や古代の遺跡は損害を受けている<ref name="USGS" /> が、町は大きな災害からは持ちこたえ大きな問題は無かった。2度目に起きた地震によりテッサロニキ中心部のアパートメントが倒壊し多くの死者が発生し最終的には51名に達した。<ref name="USGS" /><ref name="Maniateas" />

=== 気候 ===
海に面したテッサロニキの気候は直接的にその影響を受けている。<ref name="Energy and Climate">{{cite book |url=http://books.google.com/books?id=8XyBZEZFtiUC&pg=PA315&dq=Thessaloniki+climate&hl=en&ei=ZvZQTt-BNe304QT2_KSEDQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CDEQ6AEwAQ#v=onepage&q=Thessaloniki%20climate&f=false |title=Energy and climate in the urban built environment, Volume 1 |year=2001 |author=Matheos Santamouris, Demosthenes N. Asimakopoulos |accessdate=21 August 2011}}</ref> テッサロニキの気候は[[ケッペンの気候区分]]では[[温暖湿潤気候]](Cfa)と[[ステップ気候]](BSkまたはBSh)の境界に位置し、年平均降水量は{{convert|440|mm|in}} で[[プロクレティイェ山脈]]{{enlink|Prokletije|a=on}}の[[雨蔭]]から西風で乾燥している。霧は良く発生し年間平均193日は発生している。<ref name="Weatherbase">{{cite web |url=http://www.weatherbase.com/weather/weatherall.php3?s=22661&refer=&units=metric&cityname=Thessaloniki-Kentriki-Makedonia-Greece |title=Thessaloniki, Greece |publisher=www.weatherbase.com |accessdate=21 August 2011}}</ref>
テッサロニキは[[大陸性気候]]と[[地中海性気候]]の気候帯が変化する地点に位置し、気候表にはその特徴が表れている。冬季は比較的乾燥し、朝方に良く霧が発生している。降雪は毎冬見られるが数日間も続くことはない。その間は冬の最も寒い期間にあたり気温は{{convert|&minus;10|C|F}}以下になる。<ref name="Weatherbase" />テッサロニキでの今までの最低気温の記録は {{convert|&minus;14|C|F|0}}<ref name="HNMS">{{cite web |url=http://www.hnms.gr/hnms/english/climatology/climatology_region_diagrams_html?dr_city=Thessaloniki_Mikra |title=Thessaloniki Mikra |publisher=Hellenic National Meteorological Service - Greek Ministry of Defence |accessdate=21 August 2011}}</ref>で年平均32日は{{convert|0|C|F}}以下を記録する日がある。<ref name="Weatherbase" />最寒月は1月で24時間の平均気温は{{convert|6|C|F|0}}<ref name="24 hour average">{{cite web |url=http://www.worldclimate.com/cgi-bin/data.pl?ref=N40E023+1202+0004066G2 |title=Thessaloniki/Mikra Greece |publisher=www.worldclimate.org |accessdate=21 August 2011}}</ref>である。風もまた通常は冬に見られ、1月には平均風速26&nbsp;km/h (16&nbsp;mph)<ref name="Weatherbase" />の風が吹く。
テッサロニキの夏は暑く夜はやや湿度が高い。 <ref name="Weatherbase" />最高気温は通常30°C (86F)程度<ref name="Weatherbase" /> まで上がるが希に{{convert|40|C|F}}まで上がり何日間は平均して{{convert|32|C|F|0}}を超える。<ref name="Weatherbase" />テッサロニキの最高気温の記録は{{convert|42|C|F|0}}<ref name="Weatherbase" /><ref name="HNMS" />である。夏の期間は普通の雨は滅多に降らず主に激しい雷雨があり、強い[[熱波]]もテッサロニキでは起こる。<ref name="Climate, change and risk">{{cite book |url=http://books.google.com/books?id=UbtG3vFfNtoC&pg=RA1-PA294&dq=Thessaloniki+climate&hl=en&ei=ZvZQTt-BNe304QT2_KSEDQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=3&ved=0CDcQ6AEwAg#v=onepage&q=Thessaloniki&f=false |year=1999 |title=Climate, change and risk |author=Thomas E. Downing, Alexander A. Olsthoorn, Richard S. J. Tol |accessdate=21 August 2011}}</ref> 最暖月は7月で24時間の平均気温は {{convert|26|C|F|0}}である。<ref name="24 hour average" />6月や7月の平均風速は {{convert|20|km/h|mph|0}}<ref name="Weatherbase" />である。

{{Weather box
| location = テッサロニキ
| metric first = yes
| single line = yes
| Jan high C = 9.3
| Feb high C = 10.9
| Mar high C = 14.2
| Apr high C = 19.0
| May high C = 24.5
| Jun high C = 29.2
| Jul high C = 31.5
| Aug high C = 31.1
| Sep high C = 27.2
| Oct high C = 21.2
| Nov high C = 15.4
| Dec high C = 11.0
| year high C = 20.38
| Jan mean C = 5.3
| Feb mean C = 6.6
| Mar mean C = 9.4
| Apr mean C = 13.3
| May mean C = 18.3
| Jun mean C = 22.8
| Jul mean C = 25.1
| Aug mean C = 24.7
| Sep mean C = 21.1
| Oct mean C = 16.0
| Nov mean C = 11.1
| Dec mean C = 7.0
| year mean C = 15.06
| Jan low C = 1.3
| Feb low C = 2.2
| Mar low C = 4.5
| Apr low C = 7.5
| May low C = 12.1
| Jun low C = 16.3
| Jul low C = 18.6
| Aug low C = 18.3
| Sep low C = 14.9
| Oct low C = 10.8
| Nov low C = 6.8
| Dec low C = 3.0
| year low C = 9.69
| Jan precipitation mm = 36.8
| Feb precipitation mm = 38.0
| Mar precipitation mm = 40.6
| Apr precipitation mm = 37.5
| May precipitation mm = 44.4
| Jun precipitation mm = 29.6
| Jul precipitation mm = 23.9
| Aug precipitation mm = 20.4
| Sep precipitation mm = 27.4
| Oct precipitation mm = 40.8
| Nov precipitation mm = 54.4
| Dec precipitation mm = 54.9
| Jan precipitation days = 11
| Feb precipitation days = 8
| Mar precipitation days = 9
| Apr precipitation days = 9
| May precipitation days = 10
| Jun precipitation days = 7
| Jul precipitation days = 4
| Aug precipitation days = 3
| Sep precipitation days = 5
| Oct precipitation days = 8
| Nov precipitation days = 11
| Dec precipitation days = 11
| unit precipitation days =
| Jan sun = 124
| Feb sun = 140
| Mar sun = 155
| Apr sun = 240
| May sun = 279
| Jun sun = 300
| Jul sun = 372
| Aug sun = 341
| Sep sun = 240
| Oct sun = 186
| Nov sun = 120
| Dec sun = 120
| source 1 = [[世界気象機関|World Meteorological Organization]] (UN),<ref>{{cite web
| url = http://www.worldweather.org/063/c00178.htm
| title = Weather Information for Thessaloniki
| publisher = United Nations
| accessdate = 21 August 2011}}</ref> BBC weather<ref>{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/weather/forecast/241?.htm# |title=Thessaloniki |publisher=BBC Weather |accessdate=21 August 2011}}</ref> <small>for data of sunshine hours</small>
| date = August 2011}}

== 行政 ==
[[ファイル:Thessaloniki urban and metropolitan areas map.svg|thumb|テッサロニキの都市的地域とテッサロニキ都市圏の範囲 2011年現在]]

=== テッサロニキ都市圏の自治体===
2011年1月1日に行われた「カリクラティス改革」と呼ばれる大規模な地方制度改革によってギリシャの行政区画は大きく再編された。テッサロニキでもテッサロニキの[[都市的地域]]を構成していた13の独立した基礎自治体は6の独立した基礎自治体({{lang|el|Δήμοι}})と他の自治体に吸収された1地区({{lang|el|Δημοτική ενότητα}})に再編され、これにより「テッサロニキの街」は構成されている。テッサロニキの都市的地域に含まれる自治体は最大の人口で中心部のテッサロニキと、[[カラマリア]]、[[ネアポリ=シキエス]]、[[パヴロス・メラス]]、[[コルデリオ=エヴォスモス]]、[[アンベロキピ=メネメニ]]の6つの基礎自治体と以前は独立した自治体で現在は[[ピレア=ホリティアティス]]に含まれる[[ピレア]]である。カリクラティス改革以前は多くのかなり小規模な自治体により構成され官僚的な問題が生じていた。<ref>[http://www.agelioforos.gr/default.asp?pid=7&ct=1&artid=36593 The Metropolitan Governance of Thessaloniki!] (in Greek)</ref>

=== その他 ===
テッサロニキにはギリシャでは首都アテネに次いで2番目に大きな都市である。ギリシャ北部では有力な都市であり、[[中央マケドニア]]や[[テッサロニキ県]]の首府となっている。ギリシャ政府の行政機関[[マケドニア・トラキア総局]]{{enlink|General Secretariat for Macedonia and Thrace|a=on}}がテッサロニキを本拠地としおり、事実上の[[マケドニア (ギリシャ)|マケドニア地方]]の主都である。
毎年恒例の演説でギリシャの首相は政権を運営して行く上で多くの課題があり、例えば経済的なことであるとテッサロニキ国際トレードフェアの開催初日の夜に表明している。2010年に起こった[[ギリシャの経済#ギリシャ経済危機 (2010年-)|ギリシャ経済危機]]の最初の月にギリシャの全閣僚がテッサロニキに集まり将来について話し合っている。<ref>{{cite web|last=ΔΗΜΟΣΙΕΥΣΗ|title=Πρεμιέρα Υπουργικού με τρία νομοσχέδια|url=http://www.tovima.gr/politics/article/?aid=353414|publisher=Δημοσιογραφικός Οργανισμός Λαμπράκη Α.Ε.|accessdate=9 April 2011}}</ref>

== 都市景観 ==
=== 建築物 ===
[[image:ThessaloniqueHébrard.PNG|thumb|エルネスト・エブラールによって計画されたテッサロニキ中心部]]
テッサロニキの建築物はバルカン半島で都市がすべての歴史の中で中心として開発された結果である。商業的な重要性と並びテッサロニキは軍事的にも行政的にも多くの世紀でこの地域の中枢で、他のヨーロッパや[[レバント]]([[シリア]]、[[レバノン]]、[[ヨルダン]]、[[イスラエル]]、[[パレスティナ]])などと結ばれ商人や難民などがヨーロッパ各地からテッサロニキやって来て住み着いた。繁栄の新時代には商業や公共の建物を必要とし、大規模な建築物が町の中心部に築かれていった。この間の建築物には銀行、大規模な宿泊施設、劇場、倉庫、工場である。

街並は1870年以後大きく変わり、海辺の要塞が大規模な桟橋に取って代わり町の[[ホワイトタワー]]{{enlink|White Tower of Thessaloniki|a=on}}周辺の古い城壁の多くは壊された。ホワイトタワーは今日ではテッサロニキの主要なランドマークとなっている。初期ビザンティンの城壁の取り壊しによってテルマイコス湾沿岸に沿って市街地が東西に広がることになった。<ref>{{cite web|url=http://www.thessaloniki.gr/portal/page/portal/DioikitikesYpiresies/PolitistikesYpiresies/DnsiBibliothikwn/TmimaKentrIstorias/PeripatoiKlironomiassthThessaloniki/Thessaloniki.pdf|title=thessaloniki.gr|accessdate=不明}}</ref>

エルフセリアス広場が海側に向かって広げられ新しい町の商業の中心が完成し、当時テッサロニキではもっとも活気がある広場と見なされていた。都市は成長し労働者は工場や産業立地が近い西側に移動し、その間中産階級や上流階級は徐々に都市の中心から東郊に移動しており主にビジネスから離れた人々である。1917年、破壊的な大火が町を襲い何も出来ないまま32時間燃え続けていた。<ref name=Gerolympos>Gerolympos, Alexandra Karadimou. ''The Redesign of Thessaloniki after the Fire of 1917''. University Studio Press, Thessaloniki, 1995</ref>この大火によって町の歴史的な中心や大部分の考古学的な遺産は損害を受けたが、テッサロニキは多くの近代的な建物で満たされるようになり、よりヨーロッパ的な町の中心となり対角線型の通りの整備や記念碑的な広場も含まれた。

{{wide image|Thessaloniki-Aristotelous360.png|1000px|<center>アリストテレス広場</center>}}

=== 中心部 ===
1917年のテッサロニキ大火後、[[トーマス・モーソン]]や[[エルネスト・エブラール]]を含む建築や都市計画家のチームとフランスの建築家はビザンティン時代を基礎としたテッサロニキ中心部の再建案を選択した。新しい都市計画の軸には、対角線状の通りや記念碑的な広場、交通の流れをスムーズにする格子状の通りが含まれていた。1917年の計画には将来の人口増加や通りや道路網の拡張なども含まれ、今日でも十分な状態にある。<ref name=Gerolympos /> 再建策には公共の建物やビザンティンの教会やオスマンのモスクなどの復興も含まれていた。

今日のテッサロニキ中心部では計画に含まれた設計の特徴が含まれ、市内にあるほとんどの公共の建築物や歴史的な場所、娯楽箇所の他、店舗などを形作る場所である。中心部の多くの建物やアーケード、小道は[[アール・ヌーヴォー]]や[[アールデコ]]などそれぞれ異なった建築様式が特徴付け、それらの多くを見ることが出来る。テッサロニキの中心部は歴史の中心地区とも呼ばれ、いくつかの地区に分けられる。その中には飲食店([[タヴェルナ]])や娯楽施設が多いラダディカ、中央市場があるカパニ(Kapani)、ディアゴニス(Diagonios)、ナウアリノウ(Nauarinou)、ロトンタ(Rotonta)、アギア・ソフィア(Agia Sofia)、イッポドロミオ(Ippodromio)(ホワイトタワー)がありこれらの地区はテッサロニキの中心部[[アリストテレス広場]]{{enlink|Aristotelous Square|a=on}}の周辺に位置する。

中心部の西側にはテッサロニキ裁判所、テッサロニキ新駅、テッサロニキ港があり、東側には2つの大学、テッサロニキエキシビションセンター、テッサロニキのメインスタジアムである[[カフタンゾグリオスタジアム]]{{enlink|Kaftanzoglio Stadium|a=on}}、考古学とビザンティンの博物館、新市庁舎、中央公園や庭園がある。中央通りはテッサロニキ中心部を通る動脈で[[エルネスト・エブラール]]が設計した。エルネストの計画にはツィミスキ通りやエグナティア通り、ニキス、ミトロポレオス、ヴェニゼロウ、聖デメトリウス通りなどが含まれている。

=== アノ・ポリ===
[[File:Thessaloniki-Ano-Poli.png|thumb|典型的なアノ・ポリの建物]]
上町、旧市街を意味するアノ・ポリはテッサロニキ市街北部の文化遺産として登録され、1917年のテッサロニキ大火には襲われることはなかった。テッサロニキの中でももっとも歴史がある地区を構成し、小さな石の石畳の通りや古い広場や、古いギリシャ様式やオスマン様式の建築物の特徴が残されている。アノ・ポリはテッサロニキでは一番標高が高い場所でテッサロニキの「[[アクロポリス]]」がある場所で、ビザンティンの要塞であるヘプタピルギオン要塞と多くのオスマンとビザンティンの建造物が残されている。この地域は ''Seich Sou'' 森林国立公園への入口にもなっており<ref>{{cite web|url=http://www.seihsou.gr/index.php?option=com_content&task=view&id=16&Itemid=32|title=Σεϊχ Σου (Seich-Sou)|work=Seich Sou Forest National Park Web site (in Greek)|accessdate=不明}}</ref>、円形状のテッサロニキ市街やテルマイコス湾の景色を特徴としている。見通しが良い日には湾を挟んで100km先の水平線の先にそびえるオリンポス山を望むことが出来る。

=== テッサロニキ南東部 ===
1920年代までテッサロニキ南東部はテッサロニキではもっとも裕福な住宅地で当時、テッサロニキの一番外縁の郊外部を形成しテルマイコス湾に近く田園地帯を意味する''Exoches''と呼ばれた。今日、テッサロニキ南東部にもテッサロニキ市街が拡大しいくつもの通りが通り、テッサロニキ南東部のカルマリアやピライアにも広がっており中心部のホワイトタワーからは9kmほど離れている。
テッサロニキ南東部は現代的な建築物と高層住宅が建ち、中産階級の住宅地と見なされテッサロニキの人口の半分以上が居住する。今日、この地域には3つのメインとなるサッカースタジアムとテッサロニキコンサートホール、スポーツ複合施設の他、歴史的な邸宅が保存され博物館や文化施設として使われている。[[カルマリア]]はテッサロニキ南東部に位置する自治体で、テッサロニキではもっとも求められる場所となると多くのオープンスペースやハイエンドなバーやカフェ、娯楽施設が立地するようになった。沿岸のプラスティラ通りは顕著である。

=== テッサロニキ北西部 ===
テッサロニキ北西部は産業と労働者が常に関連付けられるが、1920年代の都市の成長によって労働者が工場や産業を求めて移動したためである。今日では多くの工場や産業がさらに西や急速な経済成長が経験した南東部に移動している。多くの工場は周辺部に建設された軍用地が公園に転換されるのを待っているうちに文化センターに変わっている。テッサロニキ北西部は市内に入って来る通りの入口で''Monastiriou''、'' Lagkada''、''26is Septemvriou''が通り、A1高速道路も通り市内へと入って行く。北西部はマケドニア中央バスターミナルや連合国軍の共同墓地(Zeitenlik)、大規模な娯楽施設がある。

===初期キリスト教とビザンティン様式の建造物===
{{Main|テッサロニキの初期キリスト教とビザンティン様式の建造物群}}
[[image:Agios Dimitrios1.jpg|thumb|アギオス・ディミトリオス聖堂]]
テッサロニキは[[初代教会]]や[[東ローマ帝国|ビザンティン]]時代には重要な都市で、いくつかの初期キリスト教の記念物が残され[[ビザンティン美術]]や[[ビザンティン建築]]の発展にビザンティン帝国やセルビア全体に貢献している。都市が継続して発展していた時のビザンティン建築の発展とテッサロニキの繁栄は、帝国が創建した最初の年代に関連している。4、5世紀にローマ皇帝ガレリウスのロタンダとアーチの建築物{{enlink|Arch of Galerius and Rotunda|a=on}}や最初の教会[[アギオス・ディミトリオス聖堂 (テッサロニキ)|ディミトリオス聖堂]]が造られた。8世紀、テッサロニキはビザンティン帝国の行政の中心となり多くのビザンティン帝国やバルカンの事柄を扱った。<ref name="AUTH 2">[http://www.auth.gr/univ/city/city/index_el.html Aristotle University of Thessaloniki, "The City of Thessaloniki"] (in Greek)</ref>この間、テッサロニキではより卓越した教会が造られ、現在ではそれらは[[世界文化遺産]]に登録された[[テッサロニキの初期キリスト教とビザンティン様式の建造物群]]である。1430年にテッサロニキがオスマン帝国の支配下に入ると多くの教会はモスクに転換されたが、今日でもこれらの教会は残っている。
アギオス・ディミトリオス聖堂や市内の他の多くの記念物は1917年の大火により焼失したが、その後再建されている。第二次世界大戦中は市内の広い範囲で爆撃を受け、多くの初期キリスト教とビザンティンの建造物は大きな被害を受けた。<ref name="AUTH 2" />多くの場所では1980年代まで修復されなかった。テッサロニキは他のギリシャの都市に比べて多くの場所が世界文化遺産に登録され、その数は15に上る。これらは1988年以来のものである。

=== テッサロニキ2012プログラム ===
テッサロニキがギリシャに戻った1912年から100年とみなされる記念に政府は大規模なスケールでテッサロニキの街を再開発するプログラムを発表した。これはテッサロニキが直面する、環境や都市空間の問題に取り組むことを目的としている。<ref name="2012-1">[http://government.gov.gr/2010/09/22/1937/ Hellenic Government – Thessaloniki 2012 Program] (in Greek)</ref> 計画によってテッサロニキの都市の様相は大きく変わり<ref name="2012-1" /> 、テッサロニキ国際トレードフェアが行われるテッサロニキ国際エキシビションセンターは市中心部からは移転し跡地には大規模な都市公園が整備され<ref name="2012-2">[http://www.ypeka.gr/LinkClick.aspx?fileticket=ojoG1PRSCZg%3d&tabid=367 Ministry of the Environment, of Energy and of Climate Change – Complete presentation] (in Greek)</ref> 、沿岸部の再開発も計画されている。<ref name="2012-2" />また、市内の多くの軍事基地や工場は大規模な公園や文化施設が造られ<ref name="2012-2" /> 、再開発が完了している港や''Lachanokipoi''や''Dendropotamos'' の港に近い地区では商業地区として超高層建築物の開発の可能性もある。<ref>{{cite news|title=Σε επιχειρηματικό πάρκο μεταμορφώνονται οι Λαχανόκηποι ("Laxanokipoi is transformed into business district")|url=http://boreia.gr/index.php?module=news&func=display&sid=11225|accessdate=8 August 2011|newspaper=VORIA.gr|date=26 February 2010}}</ref>将来的には新しい広い道路を郊外に整備し<ref name="2012-2" />テッサロニキ中心部は歩行者専用の空間にする。<ref name="2012-2" />さらに森林国立公園''Seich Sou'' の拡大や<ref name="2012-1" />、旧市街へのアクセスの改善も含まれている。<ref name="2012-1" />大臣の発言ではこれらの計画には15年かかり完成は2025年が予定されている。<ref name="2012-2" />

計画の一部は市街東側のウォーターフロントを活性化させる手段で ''Nea Paralia''はモダンで活気がある設計になっている。テッサロニキ自治体は市内の再開発とくにウォーターフロントの予算に2011年単年度で2820万ユーロあまりを充てている。<ref>{{Cite news|url=http://www.makthes.gr/news/reportage/71129/|title=Στα 28 εκατ. ευρώ το τεχνικό πρόγραμμα του δήμου|newspaper=Makedonia|location=Thessaloniki|date=23 March 2011|accessdate=25 March 2011|language=Greek}}</ref>2011年8月にテッサロニキヨットクラブからホワイトタワーまで延ばす残りのウォーターフロントの活性化l計画が始まった。<ref name="Agelioforos Ergotaksio">{{Cite news|url=http://www.agelioforos.gr/default.asp?pid=7&ct=4&artid=111465|title=Θεσσαλονίκη: Απέραντο εργοτάξιο η Νέα Παραλία|trans_title=Thessaloniki:Nea Paralia is an endless worksite|newspaper=Agelioforos|location=Thessaloniki|date=15 September 2011|accessdate=15 September 2011|language=Greek}}</ref>これにより次の2年間で新しい公園が完成、合計で2000千万ユーロがかかる。<ref name="Agelioforos Ergotaksio" />すでに完成している''Nea Paralia''には12のテーマ別の公園と13kmの連続的な遊歩道が沿岸に沿って整備される。<ref name="Agelioforos Ergotaksio" /><ref>{{cite web|url=http://www.nikiforidis-cuomo.com/work/appropriation/thessaloniki/1|title=Ανάπλαση της Νέας Παραλίας Θεσσαλονίκης – Νικηφορίδης / Cuomo|publisher=Nikiforidis-cuomo.com|date=|accessdate=2012-03-11}}</ref>

== 経済 ==
市内にある[[テッサロニキ港]]{{enlink| Port of Thessaloniki|a=on}}は[[エーゲ海]]域にある港では最大規模の港の一つで[[自由港]]でもあり、バルカン半島を後背地に抱える主要な海の玄関口である。<ref name="THPA">{{cite web |url=http://www.thpa.gr/files/general/leaflet.pdf |title=The port CITY |year=2010 |publisher=Thessaloniki Port Authority |accessdate=2 December 2011}}</ref>2010年の製品取扱量は1,580万トンで<ref name="Eurostat ports">{{cite web |url=http://appsso.eurostat.ec.europa.eu/nui/show.do?dataset=mar_go_aa&lang=en |title=Maritime transport - Goods (gross weight) - Annual data - All ports - by direction |year=2010 |publisher=[[Eurostat]] |accessdate=2 December 2011}}</ref>、ギリシャでは[[アイイ・テオドリ]]に次いで取扱量が多く、コンテナ取扱量は273,282[[TEU]]でピレウスに次いで取扱量が多い。<ref name="Statistical Data">{{cite web |url=http://www.thpa.gr/files/statistics/statistics2008en.pdf |title=Statistical Data 2010 |publisher=Thessaloniki Port Authority |accessdate=2 December 2011}}</ref> この結果、テッサロニキはすべての南東ヨーロッパにとって重要な輸送の要衝で<ref>{{cite web |url=http://www.snpth.gr/index.php?option=com_content&view=article&id=51&Itemid=14&lang=en |title=Shipping Agents Association of Thessaloniki |publisher=www.snpth.gr |accessdate=2 December 2011}}{{clarify|date=December 2011}}</ref>、とりわけ近隣国との貿易において役割を果たしている。
近年テッサロニキは[[地中海]]東部の主要なクルージング港になり始めている。<ref name="THPA" /> ギリシャの観光省はテッサロニキは2番目に重要な商業港と考え<ref name="Royal Caribbean">{{cite web|url=http://www.thpa.gr/files/general/portthess7.pdf |title=I"Οχημα" η κρουαζιέρα για τον ελληνικό τουρισμό |trans_title=Cruising as a means for Greek tourism |publisher=www.thpa.gr |work=Port.Thess (July–August 2011 edition) |page=3 |year=2011 |accessdate=16 August 2011}}{{dead link|date=March 2012}}</ref>、[[ロイヤル・カリビアン・インターナショナル]]はテッサロニキ港からの就航地の追加に関心があることを表明している。<ref name="Royal Caribbean" />

2009年の[[テッサロニキ県]]の[[国内総生産|域内総生産]]は213億2100万[[ユーロ]]でギリシャの県の中では2番目に多く<ref name="Eurostat GDPs">{{cite web |url=http://appsso.eurostat.ec.europa.eu/nui/show.do?dataset=nama_r_e3gdp&lang=en |title=Gross domestic product (GDP) at current market prices at NUTS level 3 |year=2010 |publisher=[[Eurostat]] |accessdate=2 December 2011}}</ref>これは[[バーレン]]や[[キプロス]]の国内総生産に匹敵する。一人当たりの域内総生産は18,400ユーロで15位であった。<ref name="Eurostat GDPs" />[[購買力平価説|購買力平価]](PPP)はテッサロニキ県内では229億9800万ユーロで一人当たりでは19,800ユーロ(15位)であった。<ref name="Eurostat GDPs" />EU平均と比べるとテッサロニキのGDPはEU平均の78%で<ref name="Eurostat GDPs" /> 、PPPではEU平均の84%である。<ref name="Eurostat GDPs" />テッサロニキ県のギリシャ経済に占める割合は9.2%で<ref name="Eurostat GDPs" />、2009年の経済成長率は-1.6%であった。<ref name="Eurostat GDPs" />2010年以降のギリシャ経済の悪化に伴って現在ではさらに経済は減速しており、行政部門でも効率化が求められ清掃部門の民営化計画に対し自治体職員と警察との間で衝突が起きた。<ref>[http://greece.greekreporter.com/2012/05/30/police-and-employees-of-the-municipality-of-thessaloniki-clash/ Police and Employees of the Municipality of Thessaloniki Clash] greekreporte 2012.5.31</ref>

== 統計 ==
=== 過去の民族構成 ===
[[ファイル:Saloniki population graph.png|thumb|right|300px|1500年から1950年までのテッサロニキの民族構成の変化]]
19世紀終わりから20世紀初期にかけての民族構成の変化は以下の通りである。

{| class="wikitable"
|-
!年
!人口合計
!ユダヤ人
!トルコ人 (ムスリム)
!ギリシャ人
!ブルガリア人
!ロマ
!その他
|-
|1890年<ref name=19thcen>{{cite book |author=Васил Кънчов |title="Избрани произведения", Том II, "Македония. Етнография и статистика" |url=http://www.promacedonia.org/vk/vk_2_01.htm |publisher=Издателство "Наука и изкуство" |location=София |year=1970 |page=g. 440 |language=Bulgarian |accessdate=2007-10-19}}</ref>
| style="text-align:right;"|118,000
| style="text-align:right;"|55,000
| style="text-align:right;"|26,000
| style="text-align:right;"|16,000
| style="text-align:right;"|10,000
| style="text-align:right;"|2,500
| style="text-align:right;"|8,500
|-
|1913年頃<ref name=20thcen>{{cite book |author=Συλλογικο εργο |title="Ιστορια του Ελληνικου Εθνους",History of Greek Nation Том ΙΔ, |publisher="ΕΚΔΟΤΙΚΗ ΑΘΗΝΩΝ" |location=ATHENS |year=1973 |page=g. 340 |language=Greek and English |accessdate=2007-10-19}}</ref>
| style="text-align:right;"|157,889
| style="text-align:right;"|61,439
| style="text-align:right;"|45,889
| style="text-align:right;"|39,956
| style="text-align:right;"|6,263
| style="text-align:right;"|2,721
| style="text-align:right;"|1,621
|}

=== 人口増加 ===
テッサロニキ自治体はテッサロニキの[[都市的地域]]や「テッサロニキ市」を構成する自治体の中ではもっとも人口が多い自治体である。だが、最新の国勢調査によればテッサロニキ自治体の人口は減少しているが都市的地域での人口増加は維持されている。テッサロニキ都市圏の基礎を形作る自治体の合計人口数は最新の2011年の国勢調査によれば1,006,730人であった。<ref name="2011census" />

{| class="wikitable" style="width:400px;"
|+ '''テッサロニキの都市的地域、都市圏の人口'''
! 年 !! 自治体 !! 都市的地域 !! 都市圏 !! 順位
|-
| 2001 || 363,987 || 786,212 || 954,027 || {{flagicon|Greece}} 2位
<!--http://www.statistics.gr/gr_tables/pinakas2-39.PDF -->
|-
| 2004 || 386,627<ref name="Eurostat Population">{{cite web |url=http://epp.eurostat.ec.europa.eu/cache/ITY_PUBLIC/RY_CH01_2010/EN/RY_CH01_2010-EN.XLS |title= Eurostat regional yearbook 2010 |work=[[Eurostat]] |publisher=www.eurostat.eu |accessdate=16 April 2011 |year=2010 |archiveurl = http://epp.eurostat.ec.europa.eu/portal/page/portal/publications/regional_yearbook |archivedate=2010}}</ref> || –|| 995,766<ref name="Eurostat Population"/> || {{flagicon|Greece}} 2位
|-
| 2011 || 322,240 || 790,824<ref name="2011census" /> || 1,006,730<ref name="2011census" /> || {{flagicon|Greece}} 2位
|}

=== テッサロニキのユダヤ人===
[[File:Saloniquefemmejuive19e.jpg|thumb|left|upright|19世紀後半のテッサロニキのユダヤ人女性]]
[[File:Bundesarchiv Bild 101I-168-0894-21A, Griechenland, Saloniki, Erfassung von Juden.jpg|thumb|テッサロニキ中心部でのナチスによるユダヤ人男性の登録]]
[[image:Bundesarchiv Bild 183-R99237, Griechenland, Saloniki, antijüdisches Plakat.jpg|thumb|第二次世界大戦時、ナチの傀儡政権であった[[ギリシャ国]]の時にあった「ユダヤ人お断り」のサイン]]
[[File:Jewish museum thessaloniki sign.jpg|thumb|テッサロニキのユダヤ人博物館]]

ギリシャでのユダヤ人人口はヨーロッパ本土ではもっとも古いもので、そのほとんどが[[セファルディム]]である。テッサロニキはセファルディム系ユダヤ人の最大の中心となり、「イスラエルの母」''la madre de Israel''と言う愛称<ref name="Holocaust"/> や「バルカンのエルサレム」 "Jerusalem of the Balkans"と言う愛称が町に付けられていた。<ref>Abrams, Dennis (2009); ''[http://books.google.co.uk/books?id=YkKVeMIMOmoC&pg=PA26&dq=sarkozy+jewish&hl=en&ei=eYaETe3tLsOxhAerjPGzBA&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CCkQ6AEwAA#v=onepage&q=sarkozy%20jewish&f=false Nicolas Sarkozy (Modern World Leaders)]'', Chelsea House Publishers, p. 26, Library Binding edition, ISBN 1-60413-081-4</ref> また、歴史的に重要で古代のギリシャ語を話す[[ロマニオット]]のコミュニティも含まれていた。オスマン帝国が支配していた時代、セファルディムのコミュニティはテッサロニキの人口の半分以上を占め、ギリシャが独立しギリシャ人の人口が増える1912年まで商業の分野を支配していた。1680年代、300のセファルディムの家族、[[シャブタイ・ツヴィ]]の信奉者は[[イスラム教]]に改宗し、彼らは[[デンメ派]]{{enlink|Dönmeh|a=on}}として知られサロニカ(テッサロニキ)に移住しユダヤ人の多数派を占め、活発なコミュニティを設立し約250年間にわたり繁栄した。デンメ派の多くの子孫たちは後に交易の分野で目立つようになっている。<ref>Kirsch, Adam [http://www.tnr.com/book/review/the-other-secret-jews?utm_source=TNR+Books+%26+Arts&utm_campaign=4866964be0-TNR_BA_021810&utm_medium=email ''The Other Secret Jews''] – Review of Marc David Baer's ''The Dönme: Jewish Converts, Muslim Revolutionaries, and Secular Turks'', ''The New Republic'', 15 February 2010, accessed 21 February 2010</ref> 多くのテッサロニキに居住するユダヤ人たちは[[ジュデズモ語]]を話し、セファルディム系のユダヤ人たちは[[ロマンス諸語]]を話していた。<ref>{{cite web|last=Kushner|first=Aviya|title=Is the language of Sephardic Jews, undergoing a revival?|url=http://www.myjewishlearning.com/culture/2/Languages/Other_Jewish_Languages/Ladino/Today.shtml|work=My Jewish Learning|publisher=Ladino Today|accessdate=9 April 2011}}</ref>

[[1917年テッサロニキ大火]]{{enlink|Great Thessaloniki Fire of 1917|a=on}}では市中心部のほとんどが焼け50,000のユダヤ人の家を失い、合計72,000人の居住者が家を焼尽されている。大火の後、家や仕事を失ったユダヤ人の多くは[[アメリカ]]や[[パレスチナ]]、[[パリ]]などに移住している。ユダヤ人たちは、その後ついには実行された政府が作る再建のための新しい都市計画を待てなかった。<ref>{{cite web|title=The Great Fire in Salonica|url=http://www.mlahanas.de/Greece/History/GreatFireInSalonica1917.html|work=Greece History|publisher=Hellenica Website|accessdate=9 April 2011}}</ref>
[[希土戦争 (1919年-1922年)|希土戦争]]後の1922年にトルコからギリシャ人が追放され多くの難民がギリシャにやって来た。10万人近くのギリシャ人たちがテッサロニキに再定住することになり、ユダヤ人の割合は減ることになり市の人口に占める割合は20%になった。[[戦間期]]にギリシャ政府はユダヤ人に他のギリシャ市民と同様の公民権を認めた。1926年3月にギリシャ政府は市民が等しく権利を享受することを再強調し、相当数のテッサロニキのユダヤ人は留まることを決心した。第二次世界大戦に突入すると、1941年からドイツがギリシャを占領し反ユダヤ政策を始めたためユダヤ系のギリシャ人にとって災いがもたらされた。1940年代の大多数のユダヤ系ギリシャ人のコミュニティはユダヤ、ギリシャ両方で確固として同一視された。[[ミーシャ・グラニー]]{{enlink|Misha Glenny|a=on}}によれば大部分のユダヤ系ギリシャ人たちは北ヨーロッパで起こったような反ユダヤ主義には遭遇しなかったとしている。<ref>Misha Glenny, ''The Balkans'', p.&nbsp;512.</ref>

1943年に[[ナチス・ドイツ]]はテッサロニキで反ユダヤ政策を始め、鉄道線路近くの[[ゲットー]]へ入ることを強要したり国外追放を行い強制収容所への連行を開始した。[[ホロコースト]]の期間、全ての年代のテッサロニキのユダヤ人の約96%は追放されたり殺害されている。<ref name="Holocaust">[http://www.ushmm.org/museum/exhibit/online/greece/nonflash/eng/salonika.htm www.ushmm.org "Jewish Community in Greece"], Online Exhibit, US Holocaust Museum, accessed 29 December 2010</ref>今日、テッサロニキのユダヤ人コミュニティは約1,200人程度が残っている。<ref name="Holocaust"/>テッサロニキのユダヤ人コミュニティ(セファルディム、ロマニオット)の子孫たちは主にアメリカやイスラエルなど他国で暮らしている。<ref name="Holocaust"/>

{| class="wikitable sortable"
|-
! 年
! 合計 <br>人口数
! ユダヤ人の <br>人口数
! ユダヤ人の <br>人口割合
! 出典
|-
| 1842
| style="text-align:right;"| 70,000
| style="text-align:right;"| 36,000
| style="text-align:right;"| 51%
| Jakob Philipp Fallmerayer
|-
| 1870
| style="text-align:right;"| 90,000
| style="text-align:right;"| 50,000
| style="text-align:right;"| 56%
| ギリシャの教科書 (G.K. Moraitopoulos, 1882)
|-
| 1882/84
| style="text-align:right;"| 85,000
| style="text-align:right;"| 48,000
| style="text-align:right;"| 56%
| オスマン帝国の国勢調査
|-
| 1902
| style="text-align:right;"| 126,000
| style="text-align:right;"| 62,000
| style="text-align:right;"| 49%
| オスマン帝国の国勢調査
|-
| 1913
| style="text-align:right;"| 157,889
| style="text-align:right;"| 61,439
| style="text-align:right;"| 39%
| ギリシャ政府による国勢調査
|-
| 1917
| style="text-align:right;"| 271,157
| style="text-align:right;"| 52,000
| style="text-align:right;"| 19%
|<ref>J. Nehama, ''Histoire des Israélites de Salonique,'' t. VI-VII, Thessalonique 1978, p.&nbsp;765 (via [[:el:Μεγάλη πυρκαγιά της Θεσσαλονίκης 1917#cite note-2|Greek Wikipedia]]): the population was inflated because of refugees from the First World War</ref>
|-
| 1943
| style="text-align:right;"|
| style="text-align:right;"| 50,000
| style="text-align:right;"|
|
|-
| 2000
| style="text-align:right;"| 363,987
| style="text-align:right;"| 1,000
| style="text-align:right;"| 0.27%
|
|}

== 文化 ==
=== 公園 ===
テッサロニキの都心部はあまり緑が多いとは見られておらず、そのスペースも少ない。オープンスペースが多くあるのは沿岸のウオーターフロント周辺で、 ''ΧΑΝΘ/Palios Zoologikos Kipos''と名付けられている。<ref>{{cite web|url=http://voria.gr/index.php?module=news&func=display&sid=60907|title=Χώρος άθλησης και ψυχαγωγίας το πάρκο της ΧΑΝΘ|language=Greek|publisher=www.voria.gr|date=22 August 2011|accessdate=16 September 2011}}</ref>ペディオ・トウ・アレオス公園''Pedio tou Areos''は年間を通じて混雑しており、 ネオ・パラリア公園''Nea Paralia''は沿岸に沿って3kmの長さがありホワイトタワーからコンサートホールまで続いている。ネオ・パラリア公園では年間を通して様々なイベントが行われており、カフェやバーなどがある。テッサロニキを離れた郊外には風光明媚な自然公園やビーチが多くあり、夏のヴァカンスで過ごしたり市民の憩いの場所となっている。

=== 博物館・美術館===
[[ファイル:NOESIS-Planetarium.jpg|thumb|upright|テッサロニキ科学センター・技術博物館のプラネタリウム]]
テッサロニキは豊富で多様な歴史から多くの種類の博物館が立地している。市の中心部にはテッサロニキ考古学博物館とビザンティン文化博物館のテッサロニキではもっとも有名な2つの博物館がある。テッサロニキ考古学博物館は1962年に設立され重要な[[マケドニア王国]]の遺物が収蔵され<ref>[http://www.amth.gr/english/vr_museum_2_makedonia.html In Macedonia from the 7th c. BC until late antiquity]{{dead link|date=March 2012}}</ref>、その範囲は広く[[ヴェルギナ]]と[[ペラ]]の王宮の黄金の遺物も含まれる。<ref>[http://www.amth.gr/english/vr_museum_2_xrusos.html The Gold of Macedon]{{dead link|date=March 2012}}</ref>また、新石器時代や青銅器時代に遡るものも展示されている。<ref>[http://www.amth.gr/english/vr_museum_2_proistoria.html 5,000, 15,000, 200,000 years ago... An exhibition about prehistoric life in Macedonia]{{dead link|date=March 2012}}</ref>ビザンティン文化博物館はテッサロニキではもっとも有名な博物館の一つでテッサロニキの栄光であったビザンティン帝国時代のものが展示されている。<ref>[http://www.mbp.gr/html/en/mu_mouseio.htm About the Museum] (in Greek)</ref> 博物館は2005年に[[欧州評議会]]から博物館賞を受賞している。<ref>[http://www.mbp.gr/html/gr/nea_vraveio.htm Award of the Council of Europe to the Museum of Byzantine Culture] (in Greek)</ref>ホワイトタワー博物館はホワイトタワーが築かれた15世紀から最近までのテッサロニキに関連したものが展示されている。<ref>[http://www.lpth.org/en/ Introduction video of the White Tower Museum]{{dead link|date=March 2012}}</ref>

テッサロニキでもっともモダンな博物館はテッサロニキ科学センター・技術博物館でギリシャや南東ヨーロッパの中でも先進的なものである。<ref name="NOESIS">[http://www.noesis.edu.gr/index.php?action=noesis NOESIS – About the Museum] (in Greek)</ref> この博物館の特徴はギリシャでは最大の[[プラネタリウム]]がある。<ref name="NOESIS" />他に産業や技術に関連した博物館にはテッサロニキ鉄道博物館があり、オリジナルのオリエントエクスプレスの列車が収蔵されている。テッサロニキには教育やスポーツに関連した博物館であるテッサロニキオリンピック博物館とテッサロニキスポーツ博物館がある。
アタテュルク博物館には近代トルコを建国した[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク]]に関連した博物館で、アタチュルクはテッサロニキで生まれている。現在、博物館にはトルコの領事館が併設されているが入場料は無料である。<ref name="Ataturk">{{cite web|url=http://www.hotelrotonda.com/thessaloniki-city-guide/atatuerk-museum.aspx|title=About Ataturk Museum|publisher=Hotelrotonda.com|date=|accessdate=2012-03-11}}</ref>
その他に民族に関連した博物館としてバルカン戦争歴史博物館やテッサロニキユダヤ博物館、マケドニア闘争博物館などがある。<ref>[http://www.imma.edu.gr/imma/index.html The Museum of the Macedonian Struggle – Introduction] (in Greek)</ref>

テッサロニキはマケドニア近代美術館のような美術館もあり、ギリシャ人の名の知れた画家や海外の作品が展示されている。<ref>{{cite web|url=http://www.mmca.org.gr/mmst/el/collection.htm?m=1|title=The Macedonian Museum of Contemporary Art – List of artists|publisher=Mmca.org.gr|date=|accessdate=2012-03-11}}</ref>テログリオン芸術財団はアリストレス大学の一部で19世紀から20世紀にかけての幅広く重要な画家の作品を収集している。<ref>[http://www.tf.auth.gr/teloglion/default.aspx?lang=en-US&loc=1&page=516 The Teloglion Foundation of Art – The Collection]</ref>テッサロニキ写真博物館には多くの重要な作品が展示されテッサロニキ旧港内に位置している。<ref>{{cite web|url=http://www.thmphoto.gr/index.asp?park=c_list&cns=1&cat=82&lng=en|title=Photography Museum of Thessaloniki – Exhibitions|publisher=Thmphoto.gr|date=|accessdate=2012-03-11}}</ref>

=== 遺跡 ===
[[image:Thessaloniki-Roman forum.png|thumb|ローマのフォルム跡]]
テッサロニキでは多くの貴重な遺跡が発見され、その中からは[[ユネスコ]]の[[世界文化遺産]]に登録されているものもある。テッサロニキには二つの台地状の[[フォルム]]の遺構が残され<ref name="Frommer's Greece Forum 1">{{cite book|url=http://books.google.co.uk/books?id=t5Gdko3i7BYC&pg=PA611&dq=thessaloniki+forum&hl=en&ei=wFbdTtejEMqGsgaM372zBA&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=8&ved=0CFkQ6AEwBw#v=onepage&q=thessaloniki%20forum&f=false|title=Frommer's Greece|author= John S. Bowman, Sherry Marker, Peter Kerasiotis, Rebecca Tobin|date=25 January 2008|publisher=Frommer's|accessdate=5 December 2011}}</ref>、二つの階段と[[柱廊]] を特徴とし<ref name="A Guide" /> 1960年代に偶然掘られたものである。<ref name="Frommer's Greece Forum 1" />フォルムは二つの[[古代ローマの公衆浴場|ローマ風呂]]を誇った複合施設で<ref name="A Companion 1">{{cite book|url=http://books.google.co.uk/books?id=QsJ183uUDkMC&pg=PT275&dq=thessaloniki+forum&hl=en&ei=4FTdTqnmIM_Nsga16ZSMBA&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y#v=onepage&q=thessaloniki%20forum&f=false|title=A Companion to Ancient Macedonia|author=Joseph Roisman, Ian Worthington|year=2011|publisher=Wiley-Backwell|accessdate=5 December 2011}}</ref>、一つは掘り起こされもう一つは埋められている。<ref name="A Companion 1" />フォルムはまた、小さな劇場も特徴とし<ref name="Frommer's Greece Forum 1" /><ref name="A Companion 1" />[[剣闘士]]の試合に使われたりした。<ref name="A Guide" />これらの建物は[[古代ローマ|ローマ時代]]に建てられたものでなく、大部分は2世紀に一新されたものである。<ref name="A Companion 1" />フォルムは6世紀頃まで使われていたと考えらている。<ref name="From Early Roman">{{cite book|url=http://books.google.co.uk/books?id=o8f_f04haw8C&pg=PA169&dq=thessaloniki+archaeology&hl=en&ei=ZFjdTt-LKIPIsgbQppWMBA&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CDYQ6AEwAA#v=onepage&q=forum&f=false|title=From Roman to early Christian Thessalonikē: studies in religion and archaeology|author=Laura Salah Nasrallah, Charalambos Bakirtzis, Steven J. Friesen|year=2010|publisher=Harvard College|accessdate=5 December 2011}}</ref>

他の重要な遺跡は皇帝の宮殿の複合施設でテッサロニキは[[ガレリウス]] の時代、ローマ帝国のマケドニア管区の首都が置かれた。施設の大きい八角形の部分は今日、もっとも良く残っている部分で皇帝の玉座があった部屋であると考えられている。<ref name="A Guide">{{cite book|url=http://books.google.co.uk/books?id=248rXe16v9YC&pg=PA136&dq=palace+of+galerius&hl=en&ei=IFrdTqHrAYvGswbqqv2wBA&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CDwQ6AEwAQ#v=onepage&q=palace%20of%20galerius&f=false|title=A guide to biblical sites in Greece and Turkey|author=Clyde E. Fant, Mitchell Glenn Reddish|year=2003|publisher=Oxford University Press|accessdate=5 December 2011}}</ref>
宮殿の複合体からの多数のモザイクも今日でも残されている。<ref name="The Archaeology">{{cite book|url=http://books.google.co.uk/books?id=L5g9AAAAIAAJ&pg=PA108&dq=palace+of+galerius&hl=en&ei=TVzdTprsPIfMtAax4P2rBA&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=4&ved=0CEYQ6AEwAzgU#v=onepage&q=palace%20of%20galerius&f=false|title=The archeology of the New Testament: the Mediterranean world of the early Christian Apostles|author=Jack Finegan|year=1981|publisher=Westview Press|accessdate=5 December 2011}}</ref> 歴史家の一部はこの複合建築は11世紀頃まで使っていたと考えている。<ref name="From Early Roman" />
宮殿から遠くない[[ガレリウスのアーチ]]<ref name="The Archaeology" />は砕けた言い方でカマラ(Kamara)で知られている。このアーチは皇帝がペルシャとの戦いで勝利したことを記念して造られている。<ref name="A Guide" /><ref name="The Archaeology" />オリジナルは3つのアーチを特徴としていたが<ref name="A Guide" /> 、現在では2つの完全なアーチと3本目の一部のアーチが残されている。アーチの大理石の部位は良く残って
いるが<ref name="A Guide" />、今日見られるのはほとんどが煉瓦の内装である。

他のテッサロニキの記念物は''Incantadas''で、古代のフォルムからの前廊の[[カレリウス]]は取り除かれるか破壊されている。'' Incantadas''は ルーヴル美術館に展示されている。<ref name="Frommer's Greece Forum 1" /><ref name="Skai Incantadas" />18万ユーロの私的な寄付により2011年12月に'' Incantadas''はのレプリカが委託された後、テッサロニキで展示されることが発表された。<ref name="Skai Incantadas">{{cite web|url=http://www.skai.gr/news/culture/article/188325/thessaloniki-kataskeui-adigrafon-apo-to-louvro/|title=Θεσσαλονίκη: Κατασκευή αντιγράφων από το Λούβρο
|trans_title=Thessaloniki: Construction of replicas from the Louvre|language=Greek|date=6 December 2011|publisher=[[Skai TV]]|accessdate=6 December 2011}}</ref>

<center>
<gallery>
File:THES-Agora odeum overview.jpg|劇場
File:THES-Agora odeum facade.jpg|柱廊と入口
File:THES-Agora cryptoporticus 1.jpg|
File:THES-Agora baths 2.jpg|
File:Thessaloniki Arch and tomb of Galerius.jpg|ガレリウスのアーチ
File:Thessaloniki ruins of the palace of Roman emperor Galerius.png|ガレリウス宮殿の一部
</gallery>
</center>

=== 演劇 ===
[[File:Thessaloniki Music Hall buildings.png|thumb|テッサロニキコンサートホール]]
テッサロニキはギリシャ北部の文化やエンターテイメントの中心として<ref name="AUTH 2" /><ref name="Lonely Planet guide">{{cite book|url=http://books.google.com/books?id=2oOeiyMEEf4C&pg=PA280&dq=Thessaloniki+ancient+Macedonia&hl=en&ei=GqdGTonUFovRsgbH8a3EBw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=9&ved=0CFUQ6AEwCDgK#v=onepage&q=Thessaloniki&f=false|title=Greece|author=Korina Miller, Kate Armstrong, Michael Stamatios Clark, Chris Deliso|year=2010|publisher=[[Lonely Planet]]|accessdate=13 August 2011}}</ref>だけでなく、ギリシャ全土の文化の中心である。テッサロニキのメインシアターは北部ギリシャ国立劇場(Κρατικό Θέατρο Βορείου Ελλάδος)により運営され、1961年に設立された。<ref name="NTNG">[http://www.ntng.gr/default.aspx?lang=el-GR&page=3 'History', National Theater of Northern Greece website] (in Greek)</ref> 野外演劇も行われている。<ref name="NTNG" />1997年にテッサロニキは[[欧州文化首都]]に指定され、テッサロニキでは初のオペラが誕生し<ref>{{cite web|url=http://www.music.columbia.edu/~icmc97/polpot.html|title=Cultural Capital|publisher=Music.columbia.edu|date=|accessdate=2009-05-06}}</ref> 、今日では北部ギリシャ国立劇場の独立した部門となっている。<ref>{{cite web|title=Όπερα Θεσσαλονίκης|url=http://www.ntng.gr/default.aspx?lang=el-GR&page=6|publisher=Ntng.gr|accessdate=9 April 2011}}</ref>オペラはテッサロニキコンサートホールを拠点としているが、このコンサートホールはギリシャでは最大規模のものである。最近では日本人建築家[[磯崎新]]による設計によって二番目の建物が建築された。テッサロニキには二つの交響楽団「テッサロニキ国立交響楽団」と「テッサロニキ市立交響楽団」が拠点としている。

=== イベント ===
テッサロニキは多くのフェスティバルやイベントが行われている。[[テッサロニキ国際トレードフェア]]はテッサロニキとっては重要な行事で毎年行われており、経済振興に役割を果たしている。トレードフェアが始まったのは1926年<ref name="DETH">[http://www.tif.gr/index.php?name=News&file=article&sid=1 Thessaloniki International Trade Fair – History and actions] (in Greek)</ref> のことで毎年テッサロニキ国際エキシビジョンセンターで開催されている。このフェアでは大きな政治的な注目も集めており、ギリシャの首相が翌年の政権運営の大綱を表明する場にもなっている。2010年のトレードフェアでは25万人以上の来訪者を集めた。<ref>{{cite web|url=http://issuu.com/helexpo/docs/76tif_el_v1.5?viewMode=presentation&mode=embed|title=Παρουσίαση 76ης Δ.Ε.Θ.|trans_title=Presentation of the 76th Thessaloniki International Trade Fair|publisher=www.helexpo.gr|accessdate=10 August 2011}}</ref>

[[テッサロニキ国際映画祭]]は南欧ではもっとも重要な映画祭の一つで<ref>[http://www.filmfestival.gr/default.aspx?lang=el-GR&loc=1&page=586 Thessaloniki International Film Festival – Profile] (in Greek)</ref>、[[フランシス・フォード・コッポラ]]、[[フェイ・ダナウェイ]]、[[カトリーヌ・ドヌーヴ]]、[[イレーネ・パパス]]、[[ファティ・アキン]]など著名な映画監督や俳優を集めている。映画祭は1960年以来開催されている。<ref>{{cite web|url=http://www.filmfestival.gr/default.aspx?lang=el-GR&loc=1&page=591|title=List of posters|publisher=Filmfestival.gr|date=|accessdate=2012-03-11}}</ref> テッサロニキドキュメンタリーフェスティバルは1999年に設立され[[ドキュメンタリー]]に特化し多くの作品が参加し[[FIPRESCI]]や聴衆により賞が選出される。<ref>[http://tdf.filmfestival.gr/default.aspx?lang=el-GR&loc=10&page=940 Thessaloniki Documentary Festival – Awards] {{gr icon}}</ref>

=== スポーツ===
[[File:Kaftanzoglio west stand.jpg|thumb|カフタンゾグリオスタジアム]]
[[File:Thessaloniki_Olympic_Museum,_main_facade,_night.jpg|thumb|テッサロニキオリンピック博物館]]
テッサロニキのメインスタジアムは[[カフタンゾグリオスタジアム]]で''Iraklis Thessaloniki F.C.''のホームスタジアムになっている。他にメインとなるスタジアムはサッカーではトウンバスタジアムやクレアンティススタジアムで[[ギリシャ・スーパーリーグ]]の[[PAOKテッサロニキ]]や''Aris F.C.''のホームスタジアムとなっている。多目的スタジアムであるカフランゾグリオスタジアムでは陸上競技の行事も行われ、[[ヨーロッパ陸上競技連盟]]の行事であるテッサロニキオリンピック会議が毎年行われたり、ギリシャナショナルチャンピオンシップ2009の開催など様々な陸上競技の大会に使用されている。2004年の[[アテネオリンピック (2004年)|アテネオリンピック]]の時には公式スタジアムに指定され<ref>[http://www.stadia.gr/2004-gr.html List of Athens 2004 venues] (in Greek)</ref>、2009年には[[IAAFワールドアスレチックツアー]]の''2009 IAAF World Athletics Final''が開催された。

テッサロニキにはインドアのアリーナも多くあり、国営の''Alexandreio Melathron''やPAOKスポーツアリーナ、YMCAのインドアホールがある。テッサロニキ近隣のカルマリアをベーストする''Apollon Kalamarias F.C.''や[[エヴォスモス]]をベーストする''Agrotikos Asteras FC''などのサッカーのクラブチームがある。テッサロニキをベーストするサッカーやバスケットボール、水球のクラブチームにはトーナメントで優勝した歴史もあり経験が豊富である。<ref>{{cite web|url=http://www.galanissportsdata.com/football/national/season2008_09/history.asp|title=Galanis Sports Data|publisher=Galanissportsdata.com|date=|accessdate=2009-01-05}}</ref> <ref name="galanissportsdata.com">{{cite web|url=http://www.galanissportsdata.com/basketball/mena1/season2007_08/history.asp|title=Galanis Sports Data|publisher=Galanissportsdata.com|date=|accessdate=2009-01-05}}</ref><ref>{{cite web|url=http://sports.pathfinder.gr/other-sports/polo/615322.html|title=Κόκκινος Ποσειδώνας: Πρωταθλητής Ελλάδας στο πόλο ο Ολυμπιακός για 21η φορά στην ιστορία του! – Pathfinder Sports|publisher=Sports.pathfinder.gr|date=|accessdate=2009-01-05}}</ref> テッサロニキの街はギリシャでのバスケットボール発展にとって大きな役割を果たしており地元のYMCAが最初にスポーツとして導入している。

=== メディア ===
テッサロニキはギリシャ国営放送のテレビやラジオ局が拠点としている<ref>{{cite web|title=PROFILE|url=http://tvradio.ert.gr/radioen/radioprofil.asp?id=21|publisher=EPT TV-Radio|accessdate=9 April 2011}}</ref>。また、テッサロニキ自治体がFM100、FM101、FM100.6などの3局のラジオ局を運営しており<ref name="FM100">[http://www.fm100.gr/portal/index.php/company/histcom/67-histcom History of the Company]{{dead link|date=March 2012}} (in Greek)</ref>、TV100は1988年にギリシャでは初の国営ではないテレビ局として開局した。<ref name="FM100" />テッサロニキからいくつかの民放局も放送を行っており、マケドニアテレビアはその中でももっともポピュラーである。新聞も各紙が流通しており、その中でもマケドニアはテッサロニキで1911年に最初に創刊された新聞である。

=== 料理 ===
[[image:Bougatsa.png|thumb|テッサロニキ発祥の典型的なブガツァ]]
[[ファイル:Frappedia3.JPG|thumb|200px|フラッペコーヒー]]
テッサロニキはオスマンの支配下にギリシャ南部よりも100年近く長く残ったことにより、料理には多くのオリエントからの影響が残されている。<ref name="Frommer's Food">{{cite book|title=Frommer's Greece|url=http://books.google.co.uk/books?id=t5Gdko3i7BYC&pg=PA627&dq=Cuisine+Thessaloniki&hl=en&sa=X&ei=5hA0T7P5A4qx0AXkxvWYAg&redir_esc=y#v=onepage&q=Cuisine%20Thessaloniki&f=false|year=2008|publisher=Wiley Publishing Inc.|accessdate=9 February 2012}}</ref> テッサロニキの料理ではスパイスはとくに重要な役割を果たし<ref name="Frommer's Food" />、ギリシャ南部と同じ程度と言うことは真実ではない。<ref name="Frommer's Food" />
テッサロニキのラダディカ地区はとくにテッサロニキの食に関しては活気がある場所で、ほとんどのタベルナ(レストラン)では伝統的な[[メゼ]]や美味しい料理を提供している。<ref name="Frommer's Food" />[[ブガツァ]]は朝食に食べられる[[ペイストリー]]でテッサロニキではポピュラーな食べ物として市内に広がり、ギリシャや他のバルカンの地にも広がっている。ステレオタイプ的な見方ではテッサロニキ人はギリシャ風の[[フラッペコーヒー]]{{enlink|Frappé coffee|a=on}}を飲んでいると言われる。フラッペコーヒーは1957年のテッサロニキ国際トレードフェアの時に考案されそれ以来、ギリシャや[[キプロス]]に広まりギリシャの[[コーヒー文化]]{{enlink|coffee culture|a=on}}の特徴となった。

== 教育 ==
[[image:Thessaloniki Old Philosophical School.jpg|thumb|upright|[[アリストテレス大学]]の哲学科の旧館]]
テッサロニキは学術においてギリシャでは重要な中心的都市である。テッサロニキ中心部には[[アリストテレス大学]]{{enlink|Aristotle University of Thessaloniki|a=on}}と[[マケドニア大学]]{{enlink|University of Macedonia|a=on}}の2つのギリシャでは最大規模の大学がある。アリストテレス大学は1926年に設立され現在、ギリシャでは最大の大学で 2010年現在の学生数は80,000人に上り、欧州間の大学の連携であるユトレヒトネットワーク{{enlink|Utrecht Network|a=on}}の会員である。 ''the academic year 2009-2010''によればアリストテレス大学は芸術、人文科学の分野で世界のベスト150の大学に含まれ、[[タイムズ・ハイアー・エデュケーション]]と''Quacquarelli Symonds''が共同発行する''Times Higher Education-QS World University Rankings''{{enlink|Times Higher Education–QS World University Rankings|a=on}}で世界のベスト250の大学に含まれており<ref name="QS">{{cite web|url=http://www.topuniversities.com/institution/aristotle-university-thessaloniki/wur |title=Times Higher Education-QS World University Rankings |publisher=Topuniversities.com |date= |accessdate=2012-03-11}}</ref> 、全世界のトップ2%の1つに含まれているとされる他<ref>The International Journal of Scientometrics, Infometrics and Bibliometrics estimates that there are 17036 universities in the world.</ref>、欧州域内やギリシャ国内でも著名な大学である。<ref>{{cite web|url=http://www.cwts.nl/ranking/top100_green_lst.html |title=official list |publisher=Cwts.nl |date= |accessdate=2012-03-11}}</ref>2010年以来、テッサロニキは一般市民にも広く開かれたオープン・ユニバーシティの拠点で<ref>[http://www.thessaloniki.gr/portal/page/portal/DioikitikesYpiresies/YpiresiesEkpaideusisNeolaiasAthlitismou/Anoichto-Panepistimio-2010-2011 Open University] (in Greek).</ref>、これはアリストテレス大学とマケドニア大学、テッサロニキ自治体により設立されている。

公立の[[テッサロニキ・アレクサンダー技術高等専門校]]{{enlink|Alexander Technological Educational Institute of Thessaloniki|a=on}}が西郊のシンドスにあり、専門校がある地区はテッサロニキの産業ゾーンである。非常に多くの公立や私立の職業訓練機関(IEK)が若い生徒にプロの職業訓練を提供している他、 私立の大学によってアメリカやイギリスのアカデミックなカリュキラムが海外の大学との共同運営経由で組まれている。ギリシャ人の学生に加えて多くの海外の留学生を公立大学のエラスムスプログラムや全て揃った課程、市内の私立大学によってテッサロニキに惹き付けており、2006年現在のテッサロニキ市内の学生数はおよそ200,000人である。<ref>{{cite web|title=Thessaloniki has no Apple’s real representation| url=http://www.wewantapplegreece.com/index.php/site/comments/thessaloniki_has_no_apples_real_representation/|publisher=Karakatsanis, Dimitris|accessdate=9 April 2011}}</ref>


== 交通 ==
== 交通 ==
=== バス交通 ===
* [[テッサロニキ・マケドニア国際空港]](Thessaloniki International Airport, "Makedonia")
テッサロニキの公共交通は路線バスが担っている。テッサロニキ市内のバス会社は[[テッサロニキ都市圏交通局]]{{enlink|Thessaloniki Urban Transport Organization|a=on}}(OASTH)でテッサロニキでは唯一の公共交通機関である。テッサロニキ都市圏内で604台のバスにより75系統のバス路線を運行している。<ref>{{cite web | url=http://oasth.gr/organization/general_eng.php | title=OASTH – General characteristics | publisher=[[OASTH|oasth.gr]] | accessdate=February 14, 2012}}</ref>
国際間や地域間のバス路線は市中心部の西にあるマケドニアバスステーション(国際バスターミナル)から発着している。<ref>{{cite web | url=http://ktelmacedonia.gr/en/content/Location.168/ | title=Location of Macedonia Intercity Bus Station | publisher=[[KTEL (Greece)|KTEL Makedonia]] | accessdate=February 14, 2012}}</ref>


=== テッサロニキメトロ ===
== 姉妹都市 ==
テッサロニキ都市圏鉄道{{enlink|Thessaloniki Metro|a=on}}の建設は2006年に始まっており、2014年の完成が予定され運行が開始されれば市内ではもっとも重要な公共交通機関になる。<ref name="Attiko Metro">{{cite web |url=http://www.ametro.gr/page/default.asp?la=1&id=38&pl=281&pk=186&ap=261 |title=Δηλώσεις του Υφυπουργού κ. Γιάννη Μαγκριώτη στο Σταθμό ΕΥΚΛΕΙΔΗΣ του ΜΕΤΡΟ |author=Attiko Metro A.E. |date=10 March 2011 |accessdate=11 April 2011}}</ref>1次計画では営業距離{{convert|9.6|km}}に13駅が設けられ<ref>{{cite web |url=http://www.ana.gr/anaweb/user/showplain?maindoc=2203508&service=8 |title=Thessaloniki metro "top priority", Public Works minister says |work=Athens News Agency |date=2007-02-12 |publisher=www.ana.gr |accessdate=2007-08-13}}</ref>、1日当たり25万人が利用する予定である。<ref name=AE>{{cite web |url=http://www.ametro.gr/cgi-bin/showpress.cgi?id=77 |title=CONCLUSION OF CONTRACT FOR THE THESSALONIKI METRO |date=2006-04-07 |accessdate=2007-08-13 |work=Attiko Metro S.A. |publisher=www.ametro.gr |archiveurl = http://web.archive.org/web/20070312035937/http://www.ametro.gr/cgi-bin/showpress.cgi?id=77 |archivedate = 2007-03-12}}</ref>テッサロニキメトロのいくつかの駅建設予定地では遺跡が発見されている。<ref name=AF>{{cite web |url=http://www.ametro.gr/cgi-bin/showpress.cgi?id=88 |title=CONCLUSION THESSALONIKI METRO & ARCHAEOLOGICAL EXCAVATION |date=2007-04-12 |accessdate=2007-08-13 |work=Attiko Metro S.A. |publisher=www.ametro.gr |archiveurl = http://web.archive.org/web/20070927203721/http://www.ametro.gr/cgi-bin/showpress.cgi?id=88 <!-- Bot retrieved archive --> |archivedate = 2007-09-27}}</ref>テッサロニキの交通拠点であるマケドニア中央バスステーションや[[テッサロニキ・マケドニア国際空港]]へのテッサロニキメトロの将来的な延伸は既に話し合われている。空港への延伸ではメトロの所有者である[[アテネ地下鉄]]では地上鉄道か[[モノレール]]方式を検討している。テッサロニキ南西部の自治体[[カラマリア]]地区への延伸は既に建設計画に含まれ、北部の[[エフカリピア]]や西部の[[エヴォスモス]]へのさらなる延伸も検討されている。戦略的なプランとしてテッサロニキメトロでは2018年から2020年には3路線にする構想もある。<ref>{{cite web |url=http://www.ametro.gr/page/default.asp?la=1&id=38&pl=281&pk=171&ap=261 |title=Το 2018 η Θεσσαλονίκη θα έχει Δίκτυο Γραμμών Μετρό |author=Attiko Metro A.E. |date=3 February 2011 |accessdate=11 April 2011}}</ref>
* {{Flagicon|USA}} [[ハートフォード (コネチカット州)|ハートフォード]]、[[コネティカット州]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[1962年]]より
* {{Flagicon|BUL}} [[プロヴディフ]]、[[ブルガリア]]、[[1984年]]より
* {{Flagicon|AUS}} [[メルボルン]]、[[オーストラリア]]、1984年より
* {{Flagicon|CYP}} [[リマソル]]、[[キプロス]]、1984年より
* {{Flagicon|GER}} [[ライプツィヒ]]、[[ドイツ]]、1984年より
* {{Flagicon|ITA}} [[ボローニャ]]、[[イタリア]]、1984年より
* {{Flagicon|SVK}} [[ブラチスラヴァ]]、[[スロヴァキア]]、[[1986年]]より
* {{Flagicon|GER}} [[ケルン]]、ドイツ、[[1988年]]より
* {{Flagicon|ROU}} [[コンスタンツァ]]、[[ルーマニア]]、1988年より
* {{Flagicon|USA}} [[サンフランシスコ]]、[[カリフォルニア州]]、アメリカ、[[1990年]]より
* {{Flagicon|FRA}} [[ニース]]、[[フランス]]、[[1992年]]より
* {{Flagicon|EGY}} [[アレクサンドリア]]、[[エジプト]]、[[1993年]]より
* {{Flagicon|ISR}} [[テルアビブ]]、[[イスラエル]]、[[1994年]]より
* {{Flagicon|CHN}} [[天津市]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[2002年]]より
* {{Flagicon|IND}} [[コルカタ]]、[[インド]]、[[2005年]]より
* {{Flagicon|ALB}} [[コルチャ]]、[[アルバニア]]、[[2005年]]より
* {{Flagicon|CHN}} [[東莞市]]、中国、[[2008年]]より


== スポーツ ==
=== 近郊鉄道 ===
[[ギリシャ国鉄]]による近郊鉄道の運行はテッサロニキでは2007年より始められ、テッサロニキと[[ラリサ]]を結んでいる。この鉄道はギリシャ語で[[通勤列車|郊外鉄道]]を意味する[[プロアスティアコス]]{{enlink|Proastiakos|a=on}}(Προαστιακός/Proastiakos)と呼ばれている。電化された複線の鉄道にはシーメンス製の[[デジロ]]の電車が使われ、テッサロニキとラリサの間には11の刷新された駅があり所要時間は1時間33分である。<ref>{{cite web | url=http://www.naftemporiki.gr/audionews/listenstory.asp?id=1558931 | title=Επέκταση Προαστιακού στο τμήμα Λιτόχωρο - Λάρισα [Expansion of Proastiakos towards Litohoro - Larissa] | publisher=''Naftemporiki'' | accessdate=February 15, 2012}}</ref> さらに今までの地域間列車に代わり[[エデッサ]]との間にも設定される。
* [[PAOKテッサロニキ]]

* [[GSイラクリス・テッサロニキ]]
=== 航空 ===
* [[アリス・テッサロニキ]]
テッサロニキの空の玄関口はテッサロニキ・マケドニア国際空港が担っており、国際線国内線両方が就航している。空港には2,400m級の短い滑走路が2本あるが、これらの滑走路では大陸間の路線が就航出来ないため現在大規模な拡張工事が行われている。テルマイコス湾側に向かって滑走路の延伸が行われている<ref>{{cite web | url=http://www.express.gr/news/finance/511934oz_20110830511934.php3 | title=Αναβαθμίζεται με 286 εκατ. το αεροδρόμιο "Μακεδονία" [The "Macedonia" Airport is being upgraded with 286 million Euros] | publisher=''Express'' | date=August 30, 2011|accessdate=不明}} {{el icon}}</ref>が、地元の環境団体からはかなりの反対がある。滑走路の改良工事が完成すると、長距離の国際線や大型機によるチャーター便が可能となる。マスタープランでは新しいターミナルの建設やエプロンが構想されているが<ref>{{cite web | url=http://www.makthes.gr/news/reportage/44882/ | title=ΝΕΟ ΑΕΡΟΔΡΟΜΙΟ Ιδανική θέση 45 χλμ. δυτικά της Θεσσαλονίκης προτείνουν ειδικοί [Specialists suggest an ideal place for the airport 45km west of Thessaloniki] | publisher=''[[Makedonia (newspaper)|Makedonia]]'' | date=September 27, 2009 | author=Koutsabaris, Fotis|accessdate=不明}} {{el icon}}</ref>、経済状況の悪化で見通しは定かでない。

=== 鉄道・航路 ===
2011年2月にギリシャの経済危機によりすべての国際列車の運行が休止されている。<ref>{{cite web | url=http://www.tanea.gr/ellada/article/?aid=4618021 | title=Αναστέλλονται όλα τα διεθνή δρομολόγια του ΟΣΕ [All international routes of OSE have been suspended] | publisher=''[[Ta Nea]]'' | date=February 13, 2011|accessdate=不明}} {{el icon}}</ref>休止以前はテッサロニキはバルカン半島では国際的な鉄道の要衝で[[ソフィア]]や[[スコピエ]]、[[ベオグラード]]、[[モスクワ]]、[[ブダペスト]]、[[ブカレスト]]、[[イスタンブル]]などと国際列車により直接結ばれていた。国際列車が休止された現在でもギリシャ国内の鉄道の要衝としては中心的な機能は残されており、ギリシャでは最大の[[操車場 (鉄道)|操車場]]がある。町の中央駅である[[テッサロニキ新駅]]{{enlink|New Railway Station, Thessaloniki|a=on}}から[[ギリシャ国鉄]]の運行部門である[[TrainOSE]]が運行する列車がアテネなどをはじめギリシャ国内の各地へ向け運行されている。

テッサロニキ港からは季節運行のフェリーによって[[スポラデス]]や他のエーゲ海の島々と結ぶ航路が運航されており、テッサロニキのターミナルは2007年に162,731人の旅客を扱いエーゲ海域では最大規模となっている。<ref>[http://www.thpa.gr/index.php?option=com_content&view=article&id=78&Itemid=95&lang=en Port of Thessaloniki passenger terminal]</ref>より多くの航路の開設や港の改良が行われ、テッサロニキ港は徐々にではあるが東地中海の著名なクルージングの観光港へと変化している。

=== 道路 ===
テッサロニキは欧州自動車道路[[E75号線]](A1)、[[E90号線]](A2)、A25の幹線道路が交わる要衝である。これらの道路によって近隣の[[マケドニア共和国]]や[[ブルガリア]]、[[トルコ]]と結ばれている。テッサロニキ周辺を走るC形のバイパスによって先の幹線道路同士は結ばれている。高速道路では片側3車線で最高速度は {{convert|90|km/h}}である。1日あたり120,000台以上の通行があり、市内では最も通行量がある。<ref>{{cite web | url=http://www.makthes.gr/news/reportage/57082/ | title=Περιφερειακή οδός: Επικίνδυνη εάν δεν γίνουν παρεμβάσεις [Ring Road: Dangerous if measures are not taken] | publisher=''[[Makedonia (newspaper)|Makedonia]]'' | date=June 19, 2010 | author=Koutsabaris, Fotis|accessdate=不明}} {{el icon}}</ref>1975年に30,000台の通行量で計画されたため<ref>{{cite web | url=http://wheels.ana-mpa.gr/articleview2.php?id=2145 | title=- Καρμανιόλα" η περιφερειακή οδός Θεσσαλονίκης που θεωρείται πλέον πεπερασμένη [The Ring Road is considered dangerous and outdated] | publisher=''[[Athens News Agency]]'' | date=April 25, 2006|accessdate=不明}} {{el icon}}</ref>、現在では計画通行量を大幅に上回るようになってしまった。2004年に高速道路の改良の努力にも関わらず2011年にはより大規模なスケールでの再構築が表面化し<ref name="2011 Ring Road works">{{cite web | url=http://www.agelioforos.gr/default.asp?pid=7&ct=1&artid=118477 | title=Εργα - "ανάσα" στην περιφερειακή οδό ["Relief" works at the Ring Road] | publisher=''Aggelioforos'' | date=November 12, 2011 | author=Tasioulas, Tasos|accessdate=不明}} {{el icon}}</ref>、2012年の早い時期に入札が予定されており<ref name="2011 Ring Road works"/> 計画には[[路肩|緊急レーン]]の追加や西側に新しいジャンクションの設置、既存区間への新たな高架区間の追加、東側での車線の追加などが含まれている。<ref name="2011 Ring Road works"/><ref name="2011 Ring Road redevelopment plans">{{cite web | url=http://www.agelioforos.gr/default.asp?pid=7&ct=4&artid=117630 | title=Θεσσαλονίκη: Η περιφερειακή οδός... απογειώνεται![" the Ring Road] | publisher=''Aggelioforos'' | date=November 6, 2011 | author=Kanitsaki, Ntonia|accessdate=不明}} {{el icon}}</ref>
環状道路の西側部分の建設も計画されている。<ref>{{cite web | url=http://portal.kathimerini.gr/4dcgi/_w_articles_kathbreak_1_16/03/2011_383152 | title=Ηχορύπανση από τα αυτοκίνητα στο κέντρο της Θεσσαλονίκης [Noise polution from cars at the center of Thessaloniki] | publisher=''[[Kathimerini]]'' | date=March 16, 2011|accessdate=不明}} {{el icon}}</ref>

*高速道路
**A1/E75([[マケドニア共和国]]、[[ラリサ]]、[[アテネ]]) 西方向
**A2/E90([[コザニ]]、[[ヨアニナ]]、[[イグメニツァ]]) 西方向([[カヴァラ (ギリシャ)|カヴァラ]]、[[クサンティ]]、[[アレクサンドルーポリ]]、[[トルコ]]) 東方向
**A25/EO12/E79([[セレス (ギリシャ)|セレス]]、[[ブルガリア]]) 北方向
**A25/EO67(テッサロニキ・マケドニア国際空港、[[ネア・モウダニア]])南方向

*国道
**EO2号線/E86([[エデッサ]]、[[フロリナ]]) 西方向
**EO12/E79([[セレス (ギリシャ)|セレス]]、[[ドラマ (ギリシャ)|ドラマ]]) 北方向
**EO16([[ポリギロス]]、[[オウラノポリ]]) 南西方向
**EO65([[キルキス]]、[[ドイラニ]]) 北方向

<center>
<gallery widths="120" heights="120px" perrow="5" style="border: 5px solid #a86; box-shadow: 0.1em 0.1em 0.5em rgba(0,0,0,0.75); -moz-box-shadow: 0.1em 0.1em 0.5em rgba(0,0,0,0.75); -webkit-box-shadow: 0.1em 0.1em 0.5em rgba(0,0,0,0.75); border-radius: 0.5em; -moz-border-radius: 0.5em; -webkit-border-radius: 0.5em;">
ファイル:Citaro O530G.jpg|テッサロニキ都市圏交通局の路線バス
ファイル:Thessaloniki Suburban Railway map.svg|近郊鉄道網
ファイル:Thessaloniki Metro Map.svg|テッサロニキメトロの路線図
ファイル:Macedonia airport.JPG|テッサロニキ・マケドニア国際空港
ファイル:Thessaloniki train station.jpg|テッサロニキ新駅
</gallery>
</center>

== 出身者・ゆかりの人物 ==
{|class="wikitable"
|- valign="top"
|
*[[モーリス・アブラヴァネル]] - 指揮者
*[[アリスタルコ]] - 新約聖書に登場する人物
*[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク]] - オスマン帝国の将軍、トルコ共和国の元帥、トルコ共和国初代大統領
*[[ニコラオス・カヴァシラス]] - ビザンティン帝国の神秘主義者、神学著作家
*[[イサーク・カラッソ]] - 医師、実業家、[[ダノン]]の創業者
||
*[[キュリロス (スラヴの(亜)使徒)|キュリロス]] - キリスト教修道士
*[[トライアノス・デラス]] - サッカー選手
*[[ガス・G]] - ギタリスト
*[[ナーズム・ヒクメット]] - 詩人、劇作家、共産主義者
*[[アフェト・イナン]] - 歴史家、社会学者
||
*[[メトディオス (スラヴの(亜)使徒)|メトディオス]] - キリスト教聖職者
*[[ナイトレイジ]] - [[メロディックデスメタル]]のバンド
*[[サーリフ・オムルタク]] - 軍人
*[[ディミトリオス・サルピンギディス]] - サッカー選手
*[[ニコラス・ジシス]] - バスケットボール選手
||
*[[マルクス・トゥッリウス・キケロ]] - 政治家、文筆家、哲学者
*[[グレゴリオス・パラマス]] - 神学者、アトス山の修道士、テサロニケの大主教
|}

== 国際関係 ==
[[image:Thessaloniki stele, Melbourne.jpg|thumb|upright|メルボルンにある姉妹都市の記念石柱]]

テッサロニキは以下の都市と姉妹都市、協力都市の関係にある。<ref name=twins>{{cite web |url=http://www.thessaloniki.gr/portal/page/portal/DioikitikesYpiresies/YpiresiesYpostiriksis/DiefDimosDiethnSxesTyp/AdelfopoimPoleis/AdelfopoiimenesPoleis |title=Αδελφοποιημένες Πόλεις |work=City of Thessaloniki |accessdate=2010-08-07}}</ref>
{|
|- valign="top"
|
=== 姉妹都市 ===
*{{flagicon|USA}} [[ハートフォード (コネチカット州)|ハートフォード]], [[アメリカ]] since 1962.3.5<ref>{{cite web |url=http://hplct.org/tap/cultural_exchange/sister_cities/hartford_sister_cities_internati.htm#Thessaloniki%20Sister%20City |title=Hartford Sister Cities International |accessdate=2008-02-02 |work=Harford Public Library}}{{dead link|date=March 2012}}</ref>
*{{flagicon|Egypt}} [[アレクサンドリア]], [[エジプト]], since 1993.7.12
*{{flagicon|Italy}} [[ボローニャ]], [[イタリア]], since 1984.10.20
*{{flagicon|Slovakia}} [[ブラチスラバ]], [[スロバキア]], since 1986.4.23<ref name="Bratislava">{{cite web|url=http://www.bratislava-city.sk/bratislava-twin-towns|title=''Bratislava City – Twin Towns''|publisher=[[copyright|©]] 2003–2008 Bratislava-City.sk|accessdate=2008-10-26}}</ref>
*{{flagicon|Germany}} [[ケルン]], ドイツ, since 1988.5.3
*{{flagicon|Romania}} [[コンスタンツァ]], [[ルーマニア]], since 1988.7.5
*{{flagicon|Turkey}} [[アクヒサール]], [[トルコ]], since 1988.8.25
* {{flagicon|Albania}} [[ドゥラス]], [[アルバニア]] since 2012.4.5<ref>[http://www.durres.gov.al/index.php?option=com_content&view=article&id=342 Kryebashkiaku i Durrësit Vangjush Dako dhe kryebashkiaku i Selanikut Yiannis Boutaris nënshkruajnë një marrëveshje binjakëzimi midis dy qyteteve], Municipality of Durrës, 2012-04-05 (in Albanian)</ref>
*{{flagicon|Albania}} [[コルチャ]], [[アルバニア]] since 2005.10.14
*{{flagicon|Germany}} [[ライプツィヒ]], [[ドイツ]], since 1984.10.17
*{{flagicon|Cyprus}} [[リマソール]], [[キプロス]], since 1984.6.30
*{{flagicon|Australia}} [[メルボルン]], [[オーストラリア]] since 1984.3.19<ref name="Melbourne">{{cite web |url=http://www.melbourne.vic.gov.au/info.cfm?top=161&pg=1643 |title=International relations: Thessaloniki |accessdate=2009-07-07 |work=City of Melbourne}}</ref>
*{{flagicon|France}} [[ニース]], [[フランス]], since 1992.3.20
*{{flagicon|Bulgaria}} [[プロヴディフ]], [[ブルガリア]], since 1984.2.17
*{{flagicon|USA}} [[サンフランシスコ]], アメリカ since 1990.8.6<ref>{{cite web |url=http://www.sfgov.org/site/visitor_index.asp?id=7717 |title=Fun Facts and Statistics |accessdate=2008-02-02 |work=City and County of San Francisco}}{{dead link|date=March 2012}}</ref>
*{{flagicon|Israel}} [[テルアビブ]], [[イスラエル]], since 1994.11.24
*{{flagicon|India}} [[コルカタ]], [[インド]], since 2001.3.13
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*{{flagicon|PRC}} [[天津市]], 中国 since 2002.3.4
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*{{flagicon|KOR}} [[釜山広域市]], 韓国 since 2010.3.8
||

=== 協力都市 ===
*{{flagicon|USA}} [[ボストン]], [[アメリカ]] since 1996.4.21
*{{flagicon|USA}} [[ブルックリン・センター(ミネソタ州)|ブルックリン・センター]], [[アメリカ]] since 1992.7.5
*{{flagicon|Hungary}} [[ブダペスト]], ハンガリー since 1993.4.5
*{{flagicon|Ukraine}} [[ドニプロペトロウシク]], [[ウクライナ]] since 2003.4.18
*{{flagicon|Armenia}} [[ギュムリ]], [[アルメニア]] since 2000.11.23
*{{flagicon|France}} [[マルセイユ]], [[フランス]], since 1991.6.4
*{{flagicon|USA}} [[フィラデルフィア]], [[アメリカ]] since 2004.4.1
*{{flagicon|Russia}} [[サンクト・ペテルブルク]], [[ロシア]], since 2003
*{{flagicon|PRC}} [[瀋陽市]], [[中国]] since 2000.3.23
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*{{flagicon|Italy}} [[ヴェネツィア]], [[イタリア]], since 2003.7.17
*{{flagicon|Libya}} [[トリポリ]], [[リビヤ]], since 2007.6.23
*{{flagicon|Turkey}} [[イズミル]], [[トルコ]], since 2009.2.6
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [[テサロニケの信徒への手紙二]]
* [[テサロニケの信徒への手紙二]]
* [[コンスタンディノス・コスモプロス]]
* [[コンスタンディノス・コスモプロス]]

== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2012年6月11日 (月) 19:26時点における版

テッサロニキ
Θεσσαλονίκη
テッサロニキ港とテッサロニキ市街
テッサロニキ港とテッサロニキ市街
テッサロニキの市旗 テッサロニキの市章
市旗 市章
位置
テッサロニキの位置の位置図
テッサロニキの位置
座標 : 北緯40度65分 東経22度9分 / 北緯41.083度 東経22.150度 / 41.083; 22.150 座標: 緯度の分が60以上です
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歴史
設立 紀元前375年
行政
ギリシャの旗 ギリシャ
 地方 中央マケドニア
  テッサロニキ県
 市 テッサロニキ
市長 Yiánnis Boutáris
PASCO
地理
面積  
  市域 都市的地域)111.703 km2
  市街地 基礎自治体)20.85 km2
  都市圏 1,455.62 km2
人口
人口 (2011年現在)
  市域 都市的地域)790,824人
    人口密度   7,338.8人/km2
  市街地 基礎自治体)322,240人
    市街地人口密度   15,455.16人/km2
  都市圏 1,006,730人
    都市圏人口密度   665.2人/km2
  備考 [1]
その他
等時帯 東ヨーロッパ時間 (UTC+2)
夏時間 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3)
郵便番号 53xxx, 54xxx, 55xxx, 56xxx
市外局番 231-xxx-xxxx
ナンバープレート NAx-xxxx - NXx-xxxx
公式ウェブサイト : www.thessaloniki.gr
テッサロニキのアギア・ソフィア聖堂。貴重なイコンや壁画が多く残されている。ギリシャ正教会

テッサロニキΘεσσαλονίκη、ラテン文字転写:Thessaloniki)はギリシャの第二の都市。中央マケドニア地方の首府である。古代においてはテサロニケと呼ばれ日本語でも表記されることが多い。またテサロニキ(Thessaloniki)、テサロニカ(Thessalonica)、サロニカ(Salonica)とも呼ばれる。トルコ語ではセラーニク(Selanik、オスマン語表記:سلانیك)である。人口は36万3987人、郊外まで含む大都市圏では80万9457人である。東ローマ帝国時代の教会や城壁が多数残されており、アテネが古代ギリシャを象徴する街なのに対して、中世東ローマ時代のギリシャを象徴する街と言われている。アトス山の修道院共同体もこのテッサロニキが入り口となる。

歴史

古代からローマ時代まで

テッサロニキはカッサンドロスにより紀元前315年頃に創建された。[2]カッサンドロスは妻のテッサロニカの名に因み、テッサロニケーと名付け[3]たが、テッサロニカはアレクサンドロス大王の異母妹でマケドニアの王妃でピリッポス2世の娘である。マケドニア王国支配下のテッサロニキは徐々に都市としての重要性が高まっていった。[3]

マケドニア王国が紀元前168年に倒れると、テッサロニキは共和制ローマの自由都市 (enとなり[3]ドゥラスビュザンティオンを結ぶ[4] エグナティア街道に面した交易の要衝となり[5]、大商業地のローマやビザンティオンとの間の交易が促進された。[6]テッサロニキはまたバルカン半島を南北に大モラヴァ川アクシオス川に沿って走る街道の南端でギリシャとバルカンの諸都市を結んでいた。[7]テッサロニキは後にローマのマケドニア地方にある4地区のうちの1地区の首府となり[5] 、その後はバルカン半島での重要性から属州の首都となった。ローマ帝国がテトラルキアにより分割統治されるようになると、テッサロニキは4分割された帝国のうちガレリウスが統治する領域の首府となり[8][9]、ガレリウスは宮殿や新しい競馬場 (en凱旋門などの建設を命じた。[9][10][11]

379年、ローマのイリュリア県 (enは東西のローマ帝国に分割され、テッサロニキは新しいイリュシア県の首府となった。[5]476年に西ローマ帝国が倒れると (enとテッサロニキは東ローマ帝国の中では2番目に大きな都市となる。ローマ帝国にあったテッサロニキはキリスト教の拡大の中心として重要で、パウロによって新約聖書の一書テサロニケの信徒への手紙一が書かれている。

中世・ビザンティン時代

東ローマ帝国(ビザンティン)の初期、テッサロニキはコンスタンティノープルに次いで2番目に大きな都市であったと考えられ[12][13][14] 、その地位は1423年にヴェネツィア共和国の支配に代わるまで保っていた。14世紀のテッサロニキの人口は100,000人程度で[15][16]、当時のロンドンを凌いでいた。[17]

6世紀から7世紀にかけテッサロニキ周辺ではアヴァールスラヴ人が侵入し、テッサロニキを幾度も包囲したがいずれも失敗している。[18] これまでの歴史的な 文献では多くのスラヴ人がテッサロニキの後背地に居住したとされるが[19]、この移住は実際にはこれまで考えられたきたものより小規模なものである。[19][19][20]

9世紀になるとテッサロニキ出身のキュリロスメトディオスによりスラヴ人にとっては最初の文字であるグラゴル文字が考案された。古代教会スラヴ語は当時、このテッサロニキなどマケドニア地方で話されていたスラヴ人の言葉を基にしているとされている。[21][22][23][24][25]

904年にアラブの侵入によって短い間、テッサロニキは攻略された。[26]テッサロニキは12世紀のコムネノス王朝期にも経済成長は継続し、ビザンティンは北へと支配を広げた。1204年に第4回十字軍によりコンスタンティノープルが包囲 (enされた時、テッサロニキはビザンティンの支配を離れ[27] ラテン帝国の最大の隷属国となった。1224年、テッサロニキ王国はビザンティンの亡命政権であるテオドロス1世コムネノス・ドゥーカスエピロス専制侯国により侵略された。テオドロス1世は自ら皇帝と称し[28] その首都となった。[28][29]この時代のエピロス専制国はテッサロニカ帝国としても知られていた。[28][30][31]1230年にクロコトニッツァの戦いで打ち負かされると[28][30]、テッサロニキ帝国は第二次ブルガリア帝国の1246年に再び回復すまで属国であった。当時はニカイア帝国であった。[28]1342年になると[32] 船員や貧民による反貴族主義のテッサロニキ・ゼアロット (enが隆盛し[33]、今日では社会革命と言われている。[32]町は事実上、帝国からは独立している状態にあり[32][33][34] ゼアロットの運動は1350年に打倒され、町は帝国に再統合された。[32]1423年、アンドロニクス専制公によりテッサロニキは統治されていたがオスマン帝国からの防御を期待しヴェネツィア共和国に割譲されている。1422年から1430年にかけオスマンにより封鎖されたが、1430年3月29日にムラト2世に攻略されるまではヴェネツィア側が押させていた。[35]テッサロニキのランドマークでもあるホワイトタワーはこの頃に築かれたものである。

オスマン帝国時代

1688年頃のテッサロニキ

テッサロニキは攻略されると一時的に市民に対する酷い扱いや[36] 略奪などから多くの人口が流出し[37] その中には知識人も含まれていた。[38]しかしながら、 ビザンティンからオスマンへ君主が変わってもテッサロニキの帝国の大都市や交易の中心としての地位や評判は変わることはなかった。[39][40] テッサロニキやスミルナ(現在のイズミル付近)はコンスタンティノープルよりは小さいがオスマン帝国にとっては交易の中枢として重視されていた。[39]テッサロニキは海運だけでなく[39]手工業でも重視され[40]そのほとんどはギリシャ人が取り仕切っていた。[39]

オスマン支配期にはムスリムやユダヤ人の人口が増加している。1500年の記録ではギリシャ人7,986人、ムスリム8,775人、ユダヤ人3,770人であったとされる。1519年にはセファルディムが15,715人で都市人口の54%を占めていた。一部の歴史家からはオスマン統治の時代に民族的にギリシャ人(東方正教徒)を阻止するための手段としてユダヤ系の人々を招き入れたと言う説もある。[15]

オスマン支配下のテッサロニキの絵葉書

テッサロニキは1826年までルメリ州 (en内のセラーニクサンジャクの首府で[41]、その後は1864年までサロニカ州 (enの首府であった[42][43]。テッサロニキはまたイェニチェリの本拠地で[44]新参のイェニチェリが訓練を受けていた。1826年6月にオスマントルコの常備兵がイェニチェリの基地の攻撃と破壊を行い10,000人以上のイェニチェリが殺され[44]、オスマンの歴史の中ではアウスピキオス事件 (enとして知られている。[44]

20世紀

1912年バルカン戦争ギリシャ軍がテッサロニキに攻め込み、オスマン帝国から奪還した。1913年にギリシャの国王ゲオルギオス1世がテッサロニキ訪問中に暗殺されるという事件が起こった。1915年には第一次世界大戦の最中、連合国軍がテッサロニキに集結し、ドイツ・ブルガリア連合軍と対峙した。ギリシャの当時の首相エレフテリオス・ヴェニゼロスは国王の反対を押し切りここに臨時政府を建てた。1917年8月17日の大火災で町のほとんどが消失し、エレフテリオス・ヴェニゼロス首相の命でフランス人設計の都市計画による欧州的な近代都市が建設された。その後希土戦争が勃発し、小アジア地方からの多くの難民を受け入れた。

第二次世界大戦時には、1941年4月から1944年10月までナチス・ドイツの支配下に入り、連合国側からの空爆で町は被害を受けた。

1978年6月20日マグニチュード6.5の大地震に見舞われた。1988年には町のビザンティン様式の建築群が、ユネスコ世界遺産に登録された(テッサロニキの初期キリスト教とビザンティン様式の建造物群)。

地理

オリンポス山を背景に望むテッサロニキの街

地勢

テッサロニキの衛星写真 (1996)

テッサロニキはテルマイコス湾 (enの北縁の東岸に位置し、南東部はホルティアティス山 (enの範囲に位置する。印象的な山脈や丘陵、断層線はとくに南東方向に向かって走っており、歴史的にテッサロニキの都市に対して地質的な変化をもたらす傾向がある。中世以来、テッサロニキでは大きな地震が発生しておりとくに1759年1902年1978年1995年の地震は特筆される。[45]1978年6月19日、20日に発生した1978年テッサロニキ地震 (enではマグニチュード5.5、6.5[46][47] を記録している。いくつかの建物や古代の遺跡は損害を受けている[46] が、町は大きな災害からは持ちこたえ大きな問題は無かった。2度目に起きた地震によりテッサロニキ中心部のアパートメントが倒壊し多くの死者が発生し最終的には51名に達した。[46][47]

気候

海に面したテッサロニキの気候は直接的にその影響を受けている。[48] テッサロニキの気候はケッペンの気候区分では温暖湿潤気候(Cfa)とステップ気候(BSkまたはBSh)の境界に位置し、年平均降水量は440ミリメートル (17 in) でプロクレティイェ山脈 (en雨蔭から西風で乾燥している。霧は良く発生し年間平均193日は発生している。[49] テッサロニキは大陸性気候地中海性気候の気候帯が変化する地点に位置し、気候表にはその特徴が表れている。冬季は比較的乾燥し、朝方に良く霧が発生している。降雪は毎冬見られるが数日間も続くことはない。その間は冬の最も寒い期間にあたり気温は−10 °C (14 °F)以下になる。[49]テッサロニキでの今までの最低気温の記録は −14 °C (7 °F)[50]で年平均32日は0 °C (32 °F)以下を記録する日がある。[49]最寒月は1月で24時間の平均気温は6 °C (43 °F)[51]である。風もまた通常は冬に見られ、1月には平均風速26 km/h (16 mph)[49]の風が吹く。 テッサロニキの夏は暑く夜はやや湿度が高い。 [49]最高気温は通常30°C (86F)程度[49] まで上がるが希に40 °C (104 °F)まで上がり何日間は平均して32 °C (90 °F)を超える。[49]テッサロニキの最高気温の記録は42 °C (108 °F)[49][50]である。夏の期間は普通の雨は滅多に降らず主に激しい雷雨があり、強い熱波もテッサロニキでは起こる。[52] 最暖月は7月で24時間の平均気温は 26 °C (79 °F)である。[51]6月や7月の平均風速は 20キロメートル毎時 (12 mph)[49]である。

テッサロニキの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C°F 9.3
(48.7)
10.9
(51.6)
14.2
(57.6)
19.0
(66.2)
24.5
(76.1)
29.2
(84.6)
31.5
(88.7)
31.1
(88)
27.2
(81)
21.2
(70.2)
15.4
(59.7)
11.0
(51.8)
20.38
(68.68)
日平均気温 °C°F 5.3
(41.5)
6.6
(43.9)
9.4
(48.9)
13.3
(55.9)
18.3
(64.9)
22.8
(73)
25.1
(77.2)
24.7
(76.5)
21.1
(70)
16.0
(60.8)
11.1
(52)
7.0
(44.6)
15.06
(59.11)
平均最低気温 °C°F 1.3
(34.3)
2.2
(36)
4.5
(40.1)
7.5
(45.5)
12.1
(53.8)
16.3
(61.3)
18.6
(65.5)
18.3
(64.9)
14.9
(58.8)
10.8
(51.4)
6.8
(44.2)
3.0
(37.4)
9.69
(49.44)
降水量 mm (inch) 36.8
(1.449)
38.0
(1.496)
40.6
(1.598)
37.5
(1.476)
44.4
(1.748)
29.6
(1.165)
23.9
(0.941)
20.4
(0.803)
27.4
(1.079)
40.8
(1.606)
54.4
(2.142)
54.9
(2.161)
448.7
(17.664)
平均降水日数 11 8 9 9 10 7 4 3 5 8 11 11 96
平均月間日照時間 124 140 155 240 279 300 372 341 240 186 120 120 2,617
出典:World Meteorological Organization (UN),[53] BBC weather[54] for data of sunshine hours

行政

テッサロニキの都市的地域とテッサロニキ都市圏の範囲 2011年現在

テッサロニキ都市圏の自治体

2011年1月1日に行われた「カリクラティス改革」と呼ばれる大規模な地方制度改革によってギリシャの行政区画は大きく再編された。テッサロニキでもテッサロニキの都市的地域を構成していた13の独立した基礎自治体は6の独立した基礎自治体(Δήμοι)と他の自治体に吸収された1地区(Δημοτική ενότητα)に再編され、これにより「テッサロニキの街」は構成されている。テッサロニキの都市的地域に含まれる自治体は最大の人口で中心部のテッサロニキと、カラマリアネアポリ=シキエスパヴロス・メラスコルデリオ=エヴォスモスアンベロキピ=メネメニの6つの基礎自治体と以前は独立した自治体で現在はピレア=ホリティアティスに含まれるピレアである。カリクラティス改革以前は多くのかなり小規模な自治体により構成され官僚的な問題が生じていた。[55]

その他

テッサロニキにはギリシャでは首都アテネに次いで2番目に大きな都市である。ギリシャ北部では有力な都市であり、中央マケドニアテッサロニキ県の首府となっている。ギリシャ政府の行政機関マケドニア・トラキア総局 (enがテッサロニキを本拠地としおり、事実上のマケドニア地方の主都である。 毎年恒例の演説でギリシャの首相は政権を運営して行く上で多くの課題があり、例えば経済的なことであるとテッサロニキ国際トレードフェアの開催初日の夜に表明している。2010年に起こったギリシャ経済危機の最初の月にギリシャの全閣僚がテッサロニキに集まり将来について話し合っている。[56]

都市景観

建築物

エルネスト・エブラールによって計画されたテッサロニキ中心部

テッサロニキの建築物はバルカン半島で都市がすべての歴史の中で中心として開発された結果である。商業的な重要性と並びテッサロニキは軍事的にも行政的にも多くの世紀でこの地域の中枢で、他のヨーロッパやレバントシリアレバノンヨルダンイスラエルパレスティナ)などと結ばれ商人や難民などがヨーロッパ各地からテッサロニキやって来て住み着いた。繁栄の新時代には商業や公共の建物を必要とし、大規模な建築物が町の中心部に築かれていった。この間の建築物には銀行、大規模な宿泊施設、劇場、倉庫、工場である。

街並は1870年以後大きく変わり、海辺の要塞が大規模な桟橋に取って代わり町のホワイトタワー (en周辺の古い城壁の多くは壊された。ホワイトタワーは今日ではテッサロニキの主要なランドマークとなっている。初期ビザンティンの城壁の取り壊しによってテルマイコス湾沿岸に沿って市街地が東西に広がることになった。[57]

エルフセリアス広場が海側に向かって広げられ新しい町の商業の中心が完成し、当時テッサロニキではもっとも活気がある広場と見なされていた。都市は成長し労働者は工場や産業立地が近い西側に移動し、その間中産階級や上流階級は徐々に都市の中心から東郊に移動しており主にビジネスから離れた人々である。1917年、破壊的な大火が町を襲い何も出来ないまま32時間燃え続けていた。[58]この大火によって町の歴史的な中心や大部分の考古学的な遺産は損害を受けたが、テッサロニキは多くの近代的な建物で満たされるようになり、よりヨーロッパ的な町の中心となり対角線型の通りの整備や記念碑的な広場も含まれた。

アリストテレス広場

中心部

1917年のテッサロニキ大火後、トーマス・モーソンエルネスト・エブラールを含む建築や都市計画家のチームとフランスの建築家はビザンティン時代を基礎としたテッサロニキ中心部の再建案を選択した。新しい都市計画の軸には、対角線状の通りや記念碑的な広場、交通の流れをスムーズにする格子状の通りが含まれていた。1917年の計画には将来の人口増加や通りや道路網の拡張なども含まれ、今日でも十分な状態にある。[58] 再建策には公共の建物やビザンティンの教会やオスマンのモスクなどの復興も含まれていた。

今日のテッサロニキ中心部では計画に含まれた設計の特徴が含まれ、市内にあるほとんどの公共の建築物や歴史的な場所、娯楽箇所の他、店舗などを形作る場所である。中心部の多くの建物やアーケード、小道はアール・ヌーヴォーアールデコなどそれぞれ異なった建築様式が特徴付け、それらの多くを見ることが出来る。テッサロニキの中心部は歴史の中心地区とも呼ばれ、いくつかの地区に分けられる。その中には飲食店(タヴェルナ)や娯楽施設が多いラダディカ、中央市場があるカパニ(Kapani)、ディアゴニス(Diagonios)、ナウアリノウ(Nauarinou)、ロトンタ(Rotonta)、アギア・ソフィア(Agia Sofia)、イッポドロミオ(Ippodromio)(ホワイトタワー)がありこれらの地区はテッサロニキの中心部アリストテレス広場 (enの周辺に位置する。

中心部の西側にはテッサロニキ裁判所、テッサロニキ新駅、テッサロニキ港があり、東側には2つの大学、テッサロニキエキシビションセンター、テッサロニキのメインスタジアムであるカフタンゾグリオスタジアム (en、考古学とビザンティンの博物館、新市庁舎、中央公園や庭園がある。中央通りはテッサロニキ中心部を通る動脈でエルネスト・エブラールが設計した。エルネストの計画にはツィミスキ通りやエグナティア通り、ニキス、ミトロポレオス、ヴェニゼロウ、聖デメトリウス通りなどが含まれている。

アノ・ポリ

典型的なアノ・ポリの建物

上町、旧市街を意味するアノ・ポリはテッサロニキ市街北部の文化遺産として登録され、1917年のテッサロニキ大火には襲われることはなかった。テッサロニキの中でももっとも歴史がある地区を構成し、小さな石の石畳の通りや古い広場や、古いギリシャ様式やオスマン様式の建築物の特徴が残されている。アノ・ポリはテッサロニキでは一番標高が高い場所でテッサロニキの「アクロポリス」がある場所で、ビザンティンの要塞であるヘプタピルギオン要塞と多くのオスマンとビザンティンの建造物が残されている。この地域は Seich Sou 森林国立公園への入口にもなっており[59]、円形状のテッサロニキ市街やテルマイコス湾の景色を特徴としている。見通しが良い日には湾を挟んで100km先の水平線の先にそびえるオリンポス山を望むことが出来る。

テッサロニキ南東部

1920年代までテッサロニキ南東部はテッサロニキではもっとも裕福な住宅地で当時、テッサロニキの一番外縁の郊外部を形成しテルマイコス湾に近く田園地帯を意味するExochesと呼ばれた。今日、テッサロニキ南東部にもテッサロニキ市街が拡大しいくつもの通りが通り、テッサロニキ南東部のカルマリアやピライアにも広がっており中心部のホワイトタワーからは9kmほど離れている。 テッサロニキ南東部は現代的な建築物と高層住宅が建ち、中産階級の住宅地と見なされテッサロニキの人口の半分以上が居住する。今日、この地域には3つのメインとなるサッカースタジアムとテッサロニキコンサートホール、スポーツ複合施設の他、歴史的な邸宅が保存され博物館や文化施設として使われている。カルマリアはテッサロニキ南東部に位置する自治体で、テッサロニキではもっとも求められる場所となると多くのオープンスペースやハイエンドなバーやカフェ、娯楽施設が立地するようになった。沿岸のプラスティラ通りは顕著である。

テッサロニキ北西部

テッサロニキ北西部は産業と労働者が常に関連付けられるが、1920年代の都市の成長によって労働者が工場や産業を求めて移動したためである。今日では多くの工場や産業がさらに西や急速な経済成長が経験した南東部に移動している。多くの工場は周辺部に建設された軍用地が公園に転換されるのを待っているうちに文化センターに変わっている。テッサロニキ北西部は市内に入って来る通りの入口でMonastiriou Lagkada26is Septemvriouが通り、A1高速道路も通り市内へと入って行く。北西部はマケドニア中央バスターミナルや連合国軍の共同墓地(Zeitenlik)、大規模な娯楽施設がある。

初期キリスト教とビザンティン様式の建造物

アギオス・ディミトリオス聖堂

テッサロニキは初代教会ビザンティン時代には重要な都市で、いくつかの初期キリスト教の記念物が残されビザンティン美術ビザンティン建築の発展にビザンティン帝国やセルビア全体に貢献している。都市が継続して発展していた時のビザンティン建築の発展とテッサロニキの繁栄は、帝国が創建した最初の年代に関連している。4、5世紀にローマ皇帝ガレリウスのロタンダとアーチの建築物 (enや最初の教会ディミトリオス聖堂が造られた。8世紀、テッサロニキはビザンティン帝国の行政の中心となり多くのビザンティン帝国やバルカンの事柄を扱った。[60]この間、テッサロニキではより卓越した教会が造られ、現在ではそれらは世界文化遺産に登録されたテッサロニキの初期キリスト教とビザンティン様式の建造物群である。1430年にテッサロニキがオスマン帝国の支配下に入ると多くの教会はモスクに転換されたが、今日でもこれらの教会は残っている。 アギオス・ディミトリオス聖堂や市内の他の多くの記念物は1917年の大火により焼失したが、その後再建されている。第二次世界大戦中は市内の広い範囲で爆撃を受け、多くの初期キリスト教とビザンティンの建造物は大きな被害を受けた。[60]多くの場所では1980年代まで修復されなかった。テッサロニキは他のギリシャの都市に比べて多くの場所が世界文化遺産に登録され、その数は15に上る。これらは1988年以来のものである。

テッサロニキ2012プログラム

テッサロニキがギリシャに戻った1912年から100年とみなされる記念に政府は大規模なスケールでテッサロニキの街を再開発するプログラムを発表した。これはテッサロニキが直面する、環境や都市空間の問題に取り組むことを目的としている。[61] 計画によってテッサロニキの都市の様相は大きく変わり[61] 、テッサロニキ国際トレードフェアが行われるテッサロニキ国際エキシビションセンターは市中心部からは移転し跡地には大規模な都市公園が整備され[62] 、沿岸部の再開発も計画されている。[62]また、市内の多くの軍事基地や工場は大規模な公園や文化施設が造られ[62] 、再開発が完了している港やLachanokipoiDendropotamos の港に近い地区では商業地区として超高層建築物の開発の可能性もある。[63]将来的には新しい広い道路を郊外に整備し[62]テッサロニキ中心部は歩行者専用の空間にする。[62]さらに森林国立公園Seich Sou の拡大や[61]、旧市街へのアクセスの改善も含まれている。[61]大臣の発言ではこれらの計画には15年かかり完成は2025年が予定されている。[62]

計画の一部は市街東側のウォーターフロントを活性化させる手段で Nea Paraliaはモダンで活気がある設計になっている。テッサロニキ自治体は市内の再開発とくにウォーターフロントの予算に2011年単年度で2820万ユーロあまりを充てている。[64]2011年8月にテッサロニキヨットクラブからホワイトタワーまで延ばす残りのウォーターフロントの活性化l計画が始まった。[65]これにより次の2年間で新しい公園が完成、合計で2000千万ユーロがかかる。[65]すでに完成しているNea Paraliaには12のテーマ別の公園と13kmの連続的な遊歩道が沿岸に沿って整備される。[65][66]

経済

市内にあるテッサロニキ港 (enエーゲ海域にある港では最大規模の港の一つで自由港でもあり、バルカン半島を後背地に抱える主要な海の玄関口である。[67]2010年の製品取扱量は1,580万トンで[68]、ギリシャではアイイ・テオドリに次いで取扱量が多く、コンテナ取扱量は273,282TEUでピレウスに次いで取扱量が多い。[69] この結果、テッサロニキはすべての南東ヨーロッパにとって重要な輸送の要衝で[70]、とりわけ近隣国との貿易において役割を果たしている。 近年テッサロニキは地中海東部の主要なクルージング港になり始めている。[67] ギリシャの観光省はテッサロニキは2番目に重要な商業港と考え[71]ロイヤル・カリビアン・インターナショナルはテッサロニキ港からの就航地の追加に関心があることを表明している。[71]

2009年のテッサロニキ県域内総生産は213億2100万ユーロでギリシャの県の中では2番目に多く[72]これはバーレンキプロスの国内総生産に匹敵する。一人当たりの域内総生産は18,400ユーロで15位であった。[72]購買力平価(PPP)はテッサロニキ県内では229億9800万ユーロで一人当たりでは19,800ユーロ(15位)であった。[72]EU平均と比べるとテッサロニキのGDPはEU平均の78%で[72] 、PPPではEU平均の84%である。[72]テッサロニキ県のギリシャ経済に占める割合は9.2%で[72]、2009年の経済成長率は-1.6%であった。[72]2010年以降のギリシャ経済の悪化に伴って現在ではさらに経済は減速しており、行政部門でも効率化が求められ清掃部門の民営化計画に対し自治体職員と警察との間で衝突が起きた。[73]

統計

過去の民族構成

1500年から1950年までのテッサロニキの民族構成の変化

19世紀終わりから20世紀初期にかけての民族構成の変化は以下の通りである。

人口合計 ユダヤ人 トルコ人 (ムスリム) ギリシャ人 ブルガリア人 ロマ その他
1890年[74] 118,000 55,000 26,000 16,000 10,000 2,500 8,500
1913年頃[75] 157,889 61,439 45,889 39,956 6,263 2,721 1,621

人口増加

テッサロニキ自治体はテッサロニキの都市的地域や「テッサロニキ市」を構成する自治体の中ではもっとも人口が多い自治体である。だが、最新の国勢調査によればテッサロニキ自治体の人口は減少しているが都市的地域での人口増加は維持されている。テッサロニキ都市圏の基礎を形作る自治体の合計人口数は最新の2011年の国勢調査によれば1,006,730人であった。[1]

テッサロニキの都市的地域、都市圏の人口
自治体 都市的地域 都市圏 順位
2001 363,987 786,212 954,027 ギリシャの旗 2位
2004 386,627[76] 995,766[76] ギリシャの旗 2位
2011 322,240 790,824[1] 1,006,730[1] ギリシャの旗 2位

テッサロニキのユダヤ人

19世紀後半のテッサロニキのユダヤ人女性
テッサロニキ中心部でのナチスによるユダヤ人男性の登録
第二次世界大戦時、ナチの傀儡政権であったギリシャ国の時にあった「ユダヤ人お断り」のサイン
テッサロニキのユダヤ人博物館

ギリシャでのユダヤ人人口はヨーロッパ本土ではもっとも古いもので、そのほとんどがセファルディムである。テッサロニキはセファルディム系ユダヤ人の最大の中心となり、「イスラエルの母」la madre de Israelと言う愛称[77] や「バルカンのエルサレム」 "Jerusalem of the Balkans"と言う愛称が町に付けられていた。[78] また、歴史的に重要で古代のギリシャ語を話すロマニオットのコミュニティも含まれていた。オスマン帝国が支配していた時代、セファルディムのコミュニティはテッサロニキの人口の半分以上を占め、ギリシャが独立しギリシャ人の人口が増える1912年まで商業の分野を支配していた。1680年代、300のセファルディムの家族、シャブタイ・ツヴィの信奉者はイスラム教に改宗し、彼らはデンメ派 (enとして知られサロニカ(テッサロニキ)に移住しユダヤ人の多数派を占め、活発なコミュニティを設立し約250年間にわたり繁栄した。デンメ派の多くの子孫たちは後に交易の分野で目立つようになっている。[79] 多くのテッサロニキに居住するユダヤ人たちはジュデズモ語を話し、セファルディム系のユダヤ人たちはロマンス諸語を話していた。[80]

1917年テッサロニキ大火 (enでは市中心部のほとんどが焼け50,000のユダヤ人の家を失い、合計72,000人の居住者が家を焼尽されている。大火の後、家や仕事を失ったユダヤ人の多くはアメリカパレスチナパリなどに移住している。ユダヤ人たちは、その後ついには実行された政府が作る再建のための新しい都市計画を待てなかった。[81] 希土戦争後の1922年にトルコからギリシャ人が追放され多くの難民がギリシャにやって来た。10万人近くのギリシャ人たちがテッサロニキに再定住することになり、ユダヤ人の割合は減ることになり市の人口に占める割合は20%になった。戦間期にギリシャ政府はユダヤ人に他のギリシャ市民と同様の公民権を認めた。1926年3月にギリシャ政府は市民が等しく権利を享受することを再強調し、相当数のテッサロニキのユダヤ人は留まることを決心した。第二次世界大戦に突入すると、1941年からドイツがギリシャを占領し反ユダヤ政策を始めたためユダヤ系のギリシャ人にとって災いがもたらされた。1940年代の大多数のユダヤ系ギリシャ人のコミュニティはユダヤ、ギリシャ両方で確固として同一視された。ミーシャ・グラニー (enによれば大部分のユダヤ系ギリシャ人たちは北ヨーロッパで起こったような反ユダヤ主義には遭遇しなかったとしている。[82]

1943年にナチス・ドイツはテッサロニキで反ユダヤ政策を始め、鉄道線路近くのゲットーへ入ることを強要したり国外追放を行い強制収容所への連行を開始した。ホロコーストの期間、全ての年代のテッサロニキのユダヤ人の約96%は追放されたり殺害されている。[77]今日、テッサロニキのユダヤ人コミュニティは約1,200人程度が残っている。[77]テッサロニキのユダヤ人コミュニティ(セファルディム、ロマニオット)の子孫たちは主にアメリカやイスラエルなど他国で暮らしている。[77]

合計
人口数
ユダヤ人の
人口数
ユダヤ人の
人口割合
出典
1842 70,000 36,000 51% Jakob Philipp Fallmerayer
1870 90,000 50,000 56% ギリシャの教科書 (G.K. Moraitopoulos, 1882)
1882/84 85,000 48,000 56% オスマン帝国の国勢調査
1902 126,000 62,000 49% オスマン帝国の国勢調査
1913 157,889 61,439 39% ギリシャ政府による国勢調査
1917 271,157 52,000 19% [83]
1943 50,000
2000 363,987 1,000 0.27%

文化

公園

テッサロニキの都心部はあまり緑が多いとは見られておらず、そのスペースも少ない。オープンスペースが多くあるのは沿岸のウオーターフロント周辺で、 ΧΑΝΘ/Palios Zoologikos Kiposと名付けられている。[84]ペディオ・トウ・アレオス公園Pedio tou Areosは年間を通じて混雑しており、 ネオ・パラリア公園Nea Paraliaは沿岸に沿って3kmの長さがありホワイトタワーからコンサートホールまで続いている。ネオ・パラリア公園では年間を通して様々なイベントが行われており、カフェやバーなどがある。テッサロニキを離れた郊外には風光明媚な自然公園やビーチが多くあり、夏のヴァカンスで過ごしたり市民の憩いの場所となっている。

博物館・美術館

テッサロニキ科学センター・技術博物館のプラネタリウム

テッサロニキは豊富で多様な歴史から多くの種類の博物館が立地している。市の中心部にはテッサロニキ考古学博物館とビザンティン文化博物館のテッサロニキではもっとも有名な2つの博物館がある。テッサロニキ考古学博物館は1962年に設立され重要なマケドニア王国の遺物が収蔵され[85]、その範囲は広くヴェルギナペラの王宮の黄金の遺物も含まれる。[86]また、新石器時代や青銅器時代に遡るものも展示されている。[87]ビザンティン文化博物館はテッサロニキではもっとも有名な博物館の一つでテッサロニキの栄光であったビザンティン帝国時代のものが展示されている。[88] 博物館は2005年に欧州評議会から博物館賞を受賞している。[89]ホワイトタワー博物館はホワイトタワーが築かれた15世紀から最近までのテッサロニキに関連したものが展示されている。[90]

テッサロニキでもっともモダンな博物館はテッサロニキ科学センター・技術博物館でギリシャや南東ヨーロッパの中でも先進的なものである。[91] この博物館の特徴はギリシャでは最大のプラネタリウムがある。[91]他に産業や技術に関連した博物館にはテッサロニキ鉄道博物館があり、オリジナルのオリエントエクスプレスの列車が収蔵されている。テッサロニキには教育やスポーツに関連した博物館であるテッサロニキオリンピック博物館とテッサロニキスポーツ博物館がある。 アタテュルク博物館には近代トルコを建国したムスタファ・ケマル・アタテュルクに関連した博物館で、アタチュルクはテッサロニキで生まれている。現在、博物館にはトルコの領事館が併設されているが入場料は無料である。[92] その他に民族に関連した博物館としてバルカン戦争歴史博物館やテッサロニキユダヤ博物館、マケドニア闘争博物館などがある。[93]

テッサロニキはマケドニア近代美術館のような美術館もあり、ギリシャ人の名の知れた画家や海外の作品が展示されている。[94]テログリオン芸術財団はアリストレス大学の一部で19世紀から20世紀にかけての幅広く重要な画家の作品を収集している。[95]テッサロニキ写真博物館には多くの重要な作品が展示されテッサロニキ旧港内に位置している。[96]

遺跡

ローマのフォルム跡

テッサロニキでは多くの貴重な遺跡が発見され、その中からはユネスコ世界文化遺産に登録されているものもある。テッサロニキには二つの台地状のフォルムの遺構が残され[97]、二つの階段と柱廊 を特徴とし[98] 1960年代に偶然掘られたものである。[97]フォルムは二つのローマ風呂を誇った複合施設で[99]、一つは掘り起こされもう一つは埋められている。[99]フォルムはまた、小さな劇場も特徴とし[97][99]剣闘士の試合に使われたりした。[98]これらの建物はローマ時代に建てられたものでなく、大部分は2世紀に一新されたものである。[99]フォルムは6世紀頃まで使われていたと考えらている。[100]

他の重要な遺跡は皇帝の宮殿の複合施設でテッサロニキはガレリウス の時代、ローマ帝国のマケドニア管区の首都が置かれた。施設の大きい八角形の部分は今日、もっとも良く残っている部分で皇帝の玉座があった部屋であると考えられている。[98] 宮殿の複合体からの多数のモザイクも今日でも残されている。[101] 歴史家の一部はこの複合建築は11世紀頃まで使っていたと考えている。[100] 宮殿から遠くないガレリウスのアーチ[101]は砕けた言い方でカマラ(Kamara)で知られている。このアーチは皇帝がペルシャとの戦いで勝利したことを記念して造られている。[98][101]オリジナルは3つのアーチを特徴としていたが[98] 、現在では2つの完全なアーチと3本目の一部のアーチが残されている。アーチの大理石の部位は良く残って いるが[98]、今日見られるのはほとんどが煉瓦の内装である。

他のテッサロニキの記念物はIncantadasで、古代のフォルムからの前廊のカレリウスは取り除かれるか破壊されている。 Incantadasは ルーヴル美術館に展示されている。[97][102]18万ユーロの私的な寄付により2011年12月に Incantadasはのレプリカが委託された後、テッサロニキで展示されることが発表された。[102]

演劇

ファイル:Thessaloniki Music Hall buildings.png
テッサロニキコンサートホール

テッサロニキはギリシャ北部の文化やエンターテイメントの中心として[60][103]だけでなく、ギリシャ全土の文化の中心である。テッサロニキのメインシアターは北部ギリシャ国立劇場(Κρατικό Θέατρο Βορείου Ελλάδος)により運営され、1961年に設立された。[104] 野外演劇も行われている。[104]1997年にテッサロニキは欧州文化首都に指定され、テッサロニキでは初のオペラが誕生し[105] 、今日では北部ギリシャ国立劇場の独立した部門となっている。[106]オペラはテッサロニキコンサートホールを拠点としているが、このコンサートホールはギリシャでは最大規模のものである。最近では日本人建築家磯崎新による設計によって二番目の建物が建築された。テッサロニキには二つの交響楽団「テッサロニキ国立交響楽団」と「テッサロニキ市立交響楽団」が拠点としている。

イベント

テッサロニキは多くのフェスティバルやイベントが行われている。テッサロニキ国際トレードフェアはテッサロニキとっては重要な行事で毎年行われており、経済振興に役割を果たしている。トレードフェアが始まったのは1926年[107] のことで毎年テッサロニキ国際エキシビジョンセンターで開催されている。このフェアでは大きな政治的な注目も集めており、ギリシャの首相が翌年の政権運営の大綱を表明する場にもなっている。2010年のトレードフェアでは25万人以上の来訪者を集めた。[108]

テッサロニキ国際映画祭は南欧ではもっとも重要な映画祭の一つで[109]フランシス・フォード・コッポラフェイ・ダナウェイカトリーヌ・ドヌーヴイレーネ・パパスファティ・アキンなど著名な映画監督や俳優を集めている。映画祭は1960年以来開催されている。[110] テッサロニキドキュメンタリーフェスティバルは1999年に設立されドキュメンタリーに特化し多くの作品が参加しFIPRESCIや聴衆により賞が選出される。[111]

スポーツ

カフタンゾグリオスタジアム
ファイル:Thessaloniki Olympic Museum, main facade, night.jpg
テッサロニキオリンピック博物館

テッサロニキのメインスタジアムはカフタンゾグリオスタジアムIraklis Thessaloniki F.C.のホームスタジアムになっている。他にメインとなるスタジアムはサッカーではトウンバスタジアムやクレアンティススタジアムでギリシャ・スーパーリーグPAOKテッサロニキAris F.C.のホームスタジアムとなっている。多目的スタジアムであるカフランゾグリオスタジアムでは陸上競技の行事も行われ、ヨーロッパ陸上競技連盟の行事であるテッサロニキオリンピック会議が毎年行われたり、ギリシャナショナルチャンピオンシップ2009の開催など様々な陸上競技の大会に使用されている。2004年のアテネオリンピックの時には公式スタジアムに指定され[112]、2009年にはIAAFワールドアスレチックツアー2009 IAAF World Athletics Finalが開催された。

テッサロニキにはインドアのアリーナも多くあり、国営のAlexandreio MelathronやPAOKスポーツアリーナ、YMCAのインドアホールがある。テッサロニキ近隣のカルマリアをベーストするApollon Kalamarias F.C.エヴォスモスをベーストするAgrotikos Asteras FCなどのサッカーのクラブチームがある。テッサロニキをベーストするサッカーやバスケットボール、水球のクラブチームにはトーナメントで優勝した歴史もあり経験が豊富である。[113] [114][115] テッサロニキの街はギリシャでのバスケットボール発展にとって大きな役割を果たしており地元のYMCAが最初にスポーツとして導入している。

メディア

テッサロニキはギリシャ国営放送のテレビやラジオ局が拠点としている[116]。また、テッサロニキ自治体がFM100、FM101、FM100.6などの3局のラジオ局を運営しており[117]、TV100は1988年にギリシャでは初の国営ではないテレビ局として開局した。[117]テッサロニキからいくつかの民放局も放送を行っており、マケドニアテレビアはその中でももっともポピュラーである。新聞も各紙が流通しており、その中でもマケドニアはテッサロニキで1911年に最初に創刊された新聞である。

料理

テッサロニキ発祥の典型的なブガツァ
フラッペコーヒー

テッサロニキはオスマンの支配下にギリシャ南部よりも100年近く長く残ったことにより、料理には多くのオリエントからの影響が残されている。[118] テッサロニキの料理ではスパイスはとくに重要な役割を果たし[118]、ギリシャ南部と同じ程度と言うことは真実ではない。[118] テッサロニキのラダディカ地区はとくにテッサロニキの食に関しては活気がある場所で、ほとんどのタベルナ(レストラン)では伝統的なメゼや美味しい料理を提供している。[118]ブガツァは朝食に食べられるペイストリーでテッサロニキではポピュラーな食べ物として市内に広がり、ギリシャや他のバルカンの地にも広がっている。ステレオタイプ的な見方ではテッサロニキ人はギリシャ風のフラッペコーヒー (enを飲んでいると言われる。フラッペコーヒーは1957年のテッサロニキ国際トレードフェアの時に考案されそれ以来、ギリシャやキプロスに広まりギリシャのコーヒー文化 (enの特徴となった。

教育

アリストテレス大学の哲学科の旧館

テッサロニキは学術においてギリシャでは重要な中心的都市である。テッサロニキ中心部にはアリストテレス大学 (enマケドニア大学 (enの2つのギリシャでは最大規模の大学がある。アリストテレス大学は1926年に設立され現在、ギリシャでは最大の大学で 2010年現在の学生数は80,000人に上り、欧州間の大学の連携であるユトレヒトネットワーク (enの会員である。 the academic year 2009-2010によればアリストテレス大学は芸術、人文科学の分野で世界のベスト150の大学に含まれ、タイムズ・ハイアー・エデュケーションQuacquarelli Symondsが共同発行するTimes Higher Education-QS World University Rankings (enで世界のベスト250の大学に含まれており[119] 、全世界のトップ2%の1つに含まれているとされる他[120]、欧州域内やギリシャ国内でも著名な大学である。[121]2010年以来、テッサロニキは一般市民にも広く開かれたオープン・ユニバーシティの拠点で[122]、これはアリストテレス大学とマケドニア大学、テッサロニキ自治体により設立されている。

公立のテッサロニキ・アレクサンダー技術高等専門校 (enが西郊のシンドスにあり、専門校がある地区はテッサロニキの産業ゾーンである。非常に多くの公立や私立の職業訓練機関(IEK)が若い生徒にプロの職業訓練を提供している他、 私立の大学によってアメリカやイギリスのアカデミックなカリュキラムが海外の大学との共同運営経由で組まれている。ギリシャ人の学生に加えて多くの海外の留学生を公立大学のエラスムスプログラムや全て揃った課程、市内の私立大学によってテッサロニキに惹き付けており、2006年現在のテッサロニキ市内の学生数はおよそ200,000人である。[123]

交通

バス交通

テッサロニキの公共交通は路線バスが担っている。テッサロニキ市内のバス会社はテッサロニキ都市圏交通局 (en(OASTH)でテッサロニキでは唯一の公共交通機関である。テッサロニキ都市圏内で604台のバスにより75系統のバス路線を運行している。[124] 国際間や地域間のバス路線は市中心部の西にあるマケドニアバスステーション(国際バスターミナル)から発着している。[125]

テッサロニキメトロ

テッサロニキ都市圏鉄道 (enの建設は2006年に始まっており、2014年の完成が予定され運行が開始されれば市内ではもっとも重要な公共交通機関になる。[126]1次計画では営業距離9.6キロメートル (6.0 mi)に13駅が設けられ[127]、1日当たり25万人が利用する予定である。[128]テッサロニキメトロのいくつかの駅建設予定地では遺跡が発見されている。[129]テッサロニキの交通拠点であるマケドニア中央バスステーションやテッサロニキ・マケドニア国際空港へのテッサロニキメトロの将来的な延伸は既に話し合われている。空港への延伸ではメトロの所有者であるアテネ地下鉄では地上鉄道かモノレール方式を検討している。テッサロニキ南西部の自治体カラマリア地区への延伸は既に建設計画に含まれ、北部のエフカリピアや西部のエヴォスモスへのさらなる延伸も検討されている。戦略的なプランとしてテッサロニキメトロでは2018年から2020年には3路線にする構想もある。[130]

近郊鉄道

ギリシャ国鉄による近郊鉄道の運行はテッサロニキでは2007年より始められ、テッサロニキとラリサを結んでいる。この鉄道はギリシャ語で郊外鉄道を意味するプロアスティアコス (en(Προαστιακός/Proastiakos)と呼ばれている。電化された複線の鉄道にはシーメンス製のデジロの電車が使われ、テッサロニキとラリサの間には11の刷新された駅があり所要時間は1時間33分である。[131] さらに今までの地域間列車に代わりエデッサとの間にも設定される。

航空

テッサロニキの空の玄関口はテッサロニキ・マケドニア国際空港が担っており、国際線国内線両方が就航している。空港には2,400m級の短い滑走路が2本あるが、これらの滑走路では大陸間の路線が就航出来ないため現在大規模な拡張工事が行われている。テルマイコス湾側に向かって滑走路の延伸が行われている[132]が、地元の環境団体からはかなりの反対がある。滑走路の改良工事が完成すると、長距離の国際線や大型機によるチャーター便が可能となる。マスタープランでは新しいターミナルの建設やエプロンが構想されているが[133]、経済状況の悪化で見通しは定かでない。

鉄道・航路

2011年2月にギリシャの経済危機によりすべての国際列車の運行が休止されている。[134]休止以前はテッサロニキはバルカン半島では国際的な鉄道の要衝でソフィアスコピエベオグラードモスクワブダペストブカレストイスタンブルなどと国際列車により直接結ばれていた。国際列車が休止された現在でもギリシャ国内の鉄道の要衝としては中心的な機能は残されており、ギリシャでは最大の操車場がある。町の中央駅であるテッサロニキ新駅 (enからギリシャ国鉄の運行部門であるTrainOSEが運行する列車がアテネなどをはじめギリシャ国内の各地へ向け運行されている。

テッサロニキ港からは季節運行のフェリーによってスポラデスや他のエーゲ海の島々と結ぶ航路が運航されており、テッサロニキのターミナルは2007年に162,731人の旅客を扱いエーゲ海域では最大規模となっている。[135]より多くの航路の開設や港の改良が行われ、テッサロニキ港は徐々にではあるが東地中海の著名なクルージングの観光港へと変化している。

道路

テッサロニキは欧州自動車道路E75号線(A1)、E90号線(A2)、A25の幹線道路が交わる要衝である。これらの道路によって近隣のマケドニア共和国ブルガリアトルコと結ばれている。テッサロニキ周辺を走るC形のバイパスによって先の幹線道路同士は結ばれている。高速道路では片側3車線で最高速度は 90キロメートル毎時 (56 mph)である。1日あたり120,000台以上の通行があり、市内では最も通行量がある。[136]1975年に30,000台の通行量で計画されたため[137]、現在では計画通行量を大幅に上回るようになってしまった。2004年に高速道路の改良の努力にも関わらず2011年にはより大規模なスケールでの再構築が表面化し[138]、2012年の早い時期に入札が予定されており[138] 計画には緊急レーンの追加や西側に新しいジャンクションの設置、既存区間への新たな高架区間の追加、東側での車線の追加などが含まれている。[138][139] 環状道路の西側部分の建設も計画されている。[140]

出身者・ゆかりの人物

国際関係

メルボルンにある姉妹都市の記念石柱

テッサロニキは以下の都市と姉妹都市、協力都市の関係にある。[141]

姉妹都市

協力都市

関連項目

脚注

  1. ^ a b c d 'Πίνακας 1: Προσωρινά αποτελέσματα του Μόνιμου Πληθυσμού της Ελλάδος'”. National Statistical Service of Greece: Ανακοίνωση προσωρινών αποτελεσμάτων Απογραφής Πληθυσμού 2011, 22 Ιουλίου 2011. accessdate引数が正しくありません。
  2. ^ Strabo VIII Fr. 21,24 – Paul's early period By Rainer Riesner, Doug Scott, p. 338, ISBN 0-8028-4166-X
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外部リンク

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