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{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=わてるろのたたかい_世界史}} |
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|commander2={{Flagicon|UK}}[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公]]<br />[[ファイル:Flag of Prussia (1803).gif|20px]][[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヘル]] |
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|strength1=フランス軍 72,000<ref name=matumura1999>[[#松村 2006|松村 2006]],p.199;[[#大橋 1983|大橋 1983]],p.412.</ref> |
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'''ワーテルローの戦い'''(ワーテルローのたたかい、{{lang-en-short|The Battle of Waterloo}}、{{lang- |
'''ワーテルローの戦い'''(ワーテルローのたたかい、{{lang-fr-short|Bataille de Waterloo}}、{{lang-en-short|The Battle of Waterloo}}、{{lang-nl-short|Slag bij Waterloo}}、{{lang-de-short|Schlacht bei Waterloo/Schlacht bei Belle-Alliance}})は、[[1815年]][[6月18日]]に[[イギリス帝国|イギリス]]・[[オランダ]]連合軍および[[プロイセン王国|プロイセン]]軍が、[[フランス第一帝政|フランス]]皇帝[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]率いるフランス軍を破った戦いである。ナポレオン最後の戦いとして知られる。[[英語]]での発音は'''ウォータールー'''である。[[ドイツ]]では'''ラ・ベル・アリアンスの戦い'''とも呼ばれる。[[ベルギー]]のラ・ベル・アリアンスを主戦場としたが、初代[[ウェリントン公爵]][[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|アーサー・ウェルズリー]]により近郊の[[ワーテルロー]]の名を取り、このように命名された。 |
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1815年にナポレオンが復位すると彼に敵対していた諸国は[[第七次対仏大同盟]]を結成し、軍隊の動員を始めた。ウェリントン公の英蘭連合軍とブリュッヘル元帥のプロイセン軍がフランス国境北東部付近に集結していた。ナポレオンは彼らが合流して他の連合国諸国とともにフランスに侵攻する前にウェリントンとブリュッヘルを撃破しようと考えていた。この3日間のワーテルロー戦役(1815年6月16日 - 19日)で生起した決戦がワーテルローの戦いであった。ウェリントンは友人に対して「きみが生涯に目にする最も際どい出来事であったろう」と語っている<ref>[[:en:q:Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington|Wikiquote:Wellington]] citing ''Creevey Papers'', ch. x, p. 236</ref>。 |
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[[英語]]での発音は'''ウォータールー'''である。[[ドイツ]]では'''ラ・ベル・アリアンスの戦い'''(ラ・ベル・アリアンスのたたかい, {{lang-de|Schlacht bei Belle-Alliance}})とも呼ばれる。[[ベルギー]]のラ・ベル・アリアンスを主戦場としたが、初代[[ウェリントン公爵]][[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|アーサー・ウェルズリー]]により近郊の[[ワーテルロー]]の名を取り、このように命名された。 |
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12万の主力部隊を率いてベルギーに攻め込んだナポレオンは6月16日の[[リニーの戦い]]でブリュッヘルのプロイセン軍に勝利するが、決定的な打撃を与えてはいなかった。ナポレオンはグルーシー元帥に兵33,000を与えて追撃に向かわせ、自らはウェリントンの英蘭連合軍と対した。 |
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== 背景 == |
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[[1815年]][[2月26日]]、[[エルバ島]]から脱出したナポレオンはフランスの[[ジュアン湾]]に上陸し、パリへ進軍した。途中、[[ミシェル・ネイ]]および[[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト]]の両元帥を従え、7,000にふくれ上がった軍隊を率いて3月20日パリに入城し再び皇帝となった。 |
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6月18日、ナポレオンはぬかるんだ地面が乾く、午後まで戦闘開始を遅らせた。この頃、グルーシーはプロイセン軍主力の捕捉に失敗し、そしてナポレオンの主力部隊と合流するにも遠すぎる場所にいた。ブリュッセル街道にまたがるモン・サン・ジャン尾根の斜面に布陣したウェリントン公の英蘭軍は繰り返されるフランス軍の攻撃を耐え抜き、夕方にブリュッヘルのプロイセン軍が到着してフランス軍の右側面を突破する。同時に英蘭連合軍も反撃を開始し、フランス軍を潰走させた。連合軍はこれを追撃してフランスに侵攻し、ルイ18世を復位させた。退位したナポレオンはイギリスに降伏して[[セントヘレナ|セントヘレナ島]]に流され、1821年にこの地で死去した。 |
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ナポレオンは[[イギリス帝国|イギリス]]・[[オランダ]]連合軍と[[プロイセン王国|プロイセン]]軍がまだ合流しないうちに各個撃破を計画し、12万4,000の兵を率いて連合軍に戦いを挑むべくベルギーへ向かった。兵の士気は高かった。ベルギーに布陣していたのは[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公]]率いるイギリス・オランダ連合軍の9万5,000と[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヒャー]]元帥率いるプロイセン軍12万であった。 |
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戦場は現在の[[ベルギー]]国内で、[[ブリュッセル]]からおよそ13km 南東にあり、[[ワーテルロー]]の町からは1.6kmほど離れている。[[古戦場]]には「{{仮リンク|ライオンの丘|en|Butte du Lion}}」と呼ばれる巨大な記念碑がそびえ立っている。 |
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6月16日、[[リニーの戦い]]でナポレオンはプロイセン軍と戦い、死傷者1万6,000の損害を与えたが、完全な撃滅はできなかった。ブリュッヒャーは重傷を負い、参謀長の[[アウグスト・フォン・グナイゼナウ|グナイゼナウ]]が代わりにプロイセン軍の指揮を取った。ナポレオンはプロイセン軍が東へ退却したと誤認し、翌朝[[グルーシー]]元帥に3万の別働隊を与えてプロイセン軍を追撃させた。ナポレオン自身は7万2,000の兵を率いて[[ブリュッセル]]を目指したが、ラ・ベル・アリアンスで6万8,000のイギリス・オランダ連合軍と対峙した。 |
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==背景== |
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=== ナポレオンの帰還 === |
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[[ファイル:Battle of Waterloo.svg|300px|thumb|ワーテルローの戦い(布陣図)]] |
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{{Main|百日天下|第七次対仏大同盟}} |
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[[6月18日]]、前夜からの雨で地面がぬかるみ、[[大砲]]の動きがとれないと判断したナポレオンは、部下の進言を退けて戦闘開始を昼ごろまで延期した。イギリス軍の方針はフランス軍を防ぎつつ時間を稼ぎ、プロイセン軍の来援を待つことだった為、この判断は大きなミスだった。これに代表されるように、この頃のナポレオンの気力と判断力に往年の冴えはなく、参謀総長[[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト|スールト]]は不慣れな参謀業務を果たせず、命令は明瞭さを欠いていた。ただし、戦闘開始を延期した理由については、雨のためフランス軍の戦場への到着がそもそも遅れていたので、やむを得なかったとの異論もある。 |
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1812年6月、[[フランス皇帝]][[ナポレオン・ボナパルト]]は64万の大軍を率いて[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]を開始するが、結果は兵力の大部分を失う惨敗に終わった<ref>{{cite web|title=モスクワ遠征- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AF%E9%81%A0%E5%BE%81/|author=[[栗生沢猛夫]]|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年9月1日}}</ref>。1813年、ナポレオン率いるフランス軍([[大陸軍 (フランス)|大陸軍]])はドイツにおいて[[ロシア帝国|ロシア]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]を中心とする反仏諸国と[[解放戦争 (ドイツ)|解放戦争]](諸国民戦争)を戦うことになり、連合軍に[[スウェーデン]]そして[[オーストリア帝国|オーストリア]]が参加したことでナポレオンはこの戦いでも敗退した。1814年、フランス国内に侵攻する連合軍との戦いで劣勢な兵力のナポレオンは巧みな指揮ぶりを示して善戦をするが<ref>[[#大橋 1983|大橋 1983]],pp.394-395.</ref>、[[パリ]]が開城したことで4月6日にナポレオンは退位を余儀なくされ、[[地中海]]の[[エルバ島]]に流された。 |
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[[File:Napoleon returned.jpg|thumb|300px|ナポレオンの帰還。<br>Charles de Steuben画。1818年。]] |
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戦勝した[[列強|列強国]]が開催した[[ウィーン会議]]の取り決めによってフランスでは[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]が即位して[[ブルボン朝|ブルボン王朝]]が復活した。だが、この[[王政復古]]は人気がなく、国内では不満が高まった<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],pp.215,223-224.</ref>。1815年2月26日、エルバ島から脱出したナポレオンはフランスの[[ジュアン湾]]に上陸し、パリへ進軍した。途中、[[ミシェル・ネイ]]元帥を従え<ref group="注釈">ルイ18世からナポレオン討伐を命じられたネイ元帥は「ナポレオンを鉄の檻に入れてパリに連れ帰りましょう」と豪語して出立したが、ナポレオンから手紙を受け取ると態度を豹変させ兵士たちに「皇帝万歳!」と叫び、彼に帰順した。[[#ストローソン 1998|ストローソン 1998]],pp.265-266</ref>、7,000にふくれ上がった軍隊を率いて3月20日パリに入城し再び皇帝となった。 |
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ナポレオンがパリに到着する6日前の3月13日、ウィーン会議の列強国は[[:en:s:Declaration at the Congress of Vienna|彼を無法者であると宣告した]]<ref>[http://dl.lib.brown.edu/napoleon/time7.html Timeline: The Congress of Vienna, the Hundred Days, and Napoleon's Exile on St Helena], Center of Digital Initiatives, [[:en:Brown University]] Library</ref>。4日後、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]、ロシア、オーストリアそしてプロイセンはナポレオンを倒すべく動員を開始する<ref>[[#Hamilton-Williams(1994)|Hamilton-Williams(1994)]],p.59.</ref>。ナポレオンは連合軍を国内で迎え撃つ守勢戦略も考慮していたが、王党派を勢いづかせる危険があり、連合国の準備が遅れていると看破した彼は機先を制することにした<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],pp.227-228;[[#大橋 1983|大橋 1983]],pp.399-400.</ref>。 |
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イギリス軍はワーテルローの南方の[[モン・サン・ジャン]]の丘陵の尾根の背後に主力を配し、自軍右翼の[[ウーグモン]]、中央の[[ラ・エイ・サント]]、左翼の[[パペロット]]の3拠点に比較的強力な前哨部隊を配置。ナポレオンはまず、ウーグモンを攻撃・占拠して、イギリス軍の主力を誘引し、しかる後、戦線の中央を突破しようと企図した。この構想によって、11時30分頃にフランス軍の左翼はウーグモンへの攻撃を開始した。 |
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ナポレオンはイギリス・[[オランダ]]連合軍とプロイセン軍がまだ合流しないうちに各個撃破を計画し、12万の兵を率いて連合軍に戦いを挑むべくベルギーへ向かった。ベルギーに駐留していたのは[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公]]率いるイギリス・オランダ連合軍の11万と[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヘル]]元帥率いるプロイセン軍12万であった。[[ブリュッセル]]南方に駐屯する連合軍を増援が到着する前に撃破できればイギリス軍を海に追いやり、プロイセンを戦争から脱落させられる。これに加えてベルギーにはフランス語圏の親仏派住民が多く、フランス軍の勝利は革命の引き金になるであろうことも考慮されていた。またイギリス軍は[[半島戦争]]でのベテラン兵の多くを[[米英戦争|対米戦]]へ送っており、ベルギー駐留軍のほとんどは二線級の兵士でもあった<ref>{{Harvnb|Chandler|1966|pp=1016, 1017, 1093}}</ref>。 |
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イギリス軍は防御に徹し、突撃してくるフランス軍に猛射を浴びせた。戦場の要所、ウーグモンをめぐってナポレオンの弟[[ジェローム・ボナパルト|ジェローム]]の師団は攻撃を繰り返した。しかし、ウーグモンは頑強なつくりの城館だったため、そこに篭るイギリス軍部隊への攻撃は難航を極め、ナポレオンの構想はつまずいてしまう。 |
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ウェリントンの当初の配置は[[モンス]]を経てブリュッセル南西に進出して連合軍の包囲を図るであろうナポレオンの脅威に対処することを意図していた<ref>{{Harvnb|Siborne|1990|p=82}}.</ref>。これはウェリントンの策源地である[[オーステンデ]]との連絡線が失われることになるが、彼の軍はプロイセン軍に近づくことにもなる。ナポレオンは誤った情報により、ウェリントンは海峡諸港との補給線が断たれることを恐れていると計算していた<ref>{{Harvnb|Hofschröer|2005|pp= 136–160}}</ref>。ナポレオンは左翼をネイ元帥、右翼を[[エマニュエル・ド・グルーシー|グルーシー]]元帥におのおの指揮させ、予備軍は自ら率い、これら三軍は相互支援が可能な距離に展開させた。フランス軍は6月15日明け方に[[シャルルロワ]]から国境を越えて連合軍の前哨部隊を蹂躙し、フランス軍を英蘭軍とプロイセン軍との中間に進出させた。 |
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ウーグモンの占拠とイギリス軍主力の誘い出しができないままに、13時30分頃から、仏軍中央と右翼の各部隊が攻撃を本格化。この攻撃により、イギリス軍左翼のパペロットは陥落し、指揮官[[ピクトン]]の戦死によってイギリス軍は混乱に陥る。状況の打開のために、ウェリントンは[[ポンソンビー]]将軍率いるスコットランド竜騎兵を中核とする重騎兵2個旅団に突撃を命ずる。このイギリス軍騎兵の戦線中央部への突撃は、フランス軍に強烈な打撃を与えるが、これに対抗して繰り出されたフランス槍騎兵(仏語ランシエ)の猛反撃を受けて潰走する。ポンソンビーも槍騎兵の槍を多数体に受けて壮絶な戦死を遂げるが、この突撃によってイギリス軍の戦線は小康を得た。 |
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=== 前哨戦:リニーの戦いとカトル・ブラの戦い === |
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その後、戦況は一進一退。ついに前々日[[リニー]]で撃破したはずのプロイセン軍が、フランス軍右翼を間近に見る位置へと到着する。ナポレオンは予備に後置していた[[ジョルジュ・モートン|ロボー]]の軍団を右翼に振り向けて、その足止めを図る。この会戦が始まる以前から、ナポレオンは決戦場に[[エマニュエル・ド・グルーシー|グルーシー]]軍を呼ぼうと命じてはいたが、スルトはたった一人しか伝令を出さず(かつての参謀総長[[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ|ベルティエ]]元帥なら一ダースの伝令を出しただろう、とナポレオンは後に語っている)、しかも命令書は明瞭さに著しく欠けていたこともあり、グルーシー軍はプロイセン軍に振り切られてワーテルローと逆方面へ向かっていた。 |
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[[File:The Duchess of Richmond's Ball by Robert Alexander Hillingford.jpg|thumb|left|250px|ウェリントンはリッチモンド公爵夫人の舞踏会でナポレオン軍来襲の急報を受けた。<br>Robert Alexander Hillingford画。1870年代。]] |
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6月15日深夜にウェリントンはシャルルロワの攻撃がフランス軍の主攻勢であることを確信した。6月16日夜明け前にブリュッセルのリッチモンド公爵夫人の舞踏会{{enlink|Duchess of Richmond's ball|英語版}}に出席していたウェリントンは[[ウィレム2世 (オランダ王)|オラニエ公]]からの急報を受け取り、フランス軍の進撃の速さに驚愕させられた<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],pp.234-235.</ref>。彼は自軍に対し急ぎ[[カトル・ブラ]]に集結するよう命じた。ここではオラニエ公が[[カール・ベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ|ザクセン=ヴァイマル公ベルンハルト]]の旅団とともにネイ元帥の左翼部隊と対峙していた<ref>{{Harvnb|Longford|1971|p=508}}</ref>。ネイ元帥が受けた命令はカトル・ブラの交差路を確保し、後に必要になれば東に旋回してナポレオンの本隊に増援できるようにしておくことであった。 |
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ナポレオンはまずは集結していたプロイセン軍に向かった。6月16日、予備軍の一部と右翼軍を率いるナポレオンは{{仮リンク|リニーの戦い|en|Battle of Ligny}}でブリュッヘルのプロイセン軍と戦い、死傷者16,000の損害を与えたが、完全な撃滅はできなかった。プロイセンの中央軍はフランス軍の猛攻の前に敗退したが、両翼は持ちこたえた。前線に出たブリュッヘル元帥が一時行方不明になったため、参謀長の[[アウグスト・フォン・グナイゼナウ|グナイゼナウ]]中将が代わりに後退の指揮を取った<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],p.238;[[#大橋 1983|大橋 1983]],pp.406-407.</ref>。 |
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一方、ウェリントンは、兵の消耗が著しいことから、自軍中央と左翼の部隊の一時的な後退を命ずる。ナポレオンがプロイセン軍に対する処置を行っている間に、ネイがイギリス軍のこの後退を全面退却と誤って判断、騎兵5,000を率いてイギリス軍への突撃を敢行する。しかし、待ち構えていた歩兵方陣への強襲となり、戦力をかなり損耗してしまう。ネイは5回も乗馬を撃たれて落馬したという。当時の騎兵は銃剣の槍ぶすまを築いて一斉射撃を行う歩兵方陣を突破できず、イギリス軍は持ちこたえた。しかもフランス軍はイギリス軍の大砲の尾栓を破壊するのを忘れていた。 |
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[[File:Wollen, Battle of Quatre Bras.jpg|thumb|250px|ワーテルローの戦いの前哨戦となったカトル・ブラの戦い。<br>James B. Wollen画。]] |
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一方、ネイ元帥はカトル・ブラの交差路を守る少数のオラニエ公の部隊と対戦した。ネイが逡巡したためフランス軍の攻撃は遅れてイギリス・オランダ連合軍に兵力を増強する猶予を与えてしまい、オラニエ公はネイの攻撃を凌ぐことができた<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],p.236;[[#大橋 1983|大橋 1983]],pp.407-408.</ref>。やがて、増援の第一陣とウェリントン自身が到着し、ネイを後退させて夕刻までに交差路を確保したが、既にプロイセン軍はリニーの戦いで敗れており、彼らを救援することはできなかった({{仮リンク|カトル・ブラの戦い|en|Battle of Quatre Bras}})。プロイセン軍の敗北により、ウェリントンが守るカトル・ブラは非常に危険な場所となった。このため、翌日になって彼は北方へと退却し、この年の春に個人的に視察しておいた場所、{{仮リンク|モン・サン・ジャン|en|Mont-Saint-Jean}}の低い尾根、[[ワーテルロー]]村と{{仮リンク|フォレ・ド・ソワヌ|label=ソワヌの森|en|Sonian Forest}} の南に防御陣地を築いた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.182.{{Harvnb|Longford|1971|p=527}}.</ref>。 |
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プロイセン軍はフランス軍に遮られることなく、恐らくは気付かれもせずにリニーから撤退した<ref name=Chesney-136>{{Harvnb|Chesney|1907|p=136}}.</ref>。後衛部隊の大部分は真夜中まで持ち場を守っており、一部は翌朝まで動いておらず、フランス軍に完全に見過ごされていた<ref name=Chesney-136/>。ナポレオンは敗走したプロイセン軍は連絡線を辿って北東方向に退却すると考えていたが、プロイセン軍はウェリントンの進軍路と並行する北方に向かっており、支援可能な距離を保ち、終始連絡を取り合っていた<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],pp.238-239.</ref>。プロイセン軍はリニーの戦いに参加せず無傷の{{仮リンク|フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フライヘア・フォン・ビューロー|label=ビューロー|en|Friedrich Wilhelm Freiherr von Bülow}}将軍の第4軍団が位置する[[ワーヴル]]南方に集結した<ref name=Chesney-136/>。 |
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こうしてイギリス軍の方陣20個はネイの突撃を持ちこたえ、戦線を建て直したものの、この後は、数に劣るイギリス軍がフランス軍の猛攻の前にじりじりと押されていった。しかし、フランス軍も、イギリス軍を全面退却に追い込むには、決定的な決め手に欠いていた。特に、ネイが行った突撃により騎兵を損耗したうえ、予備の軍団もプロイセン軍への対処のために割いていたことが響いた。 |
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かつてナポレオンは「私は戦陣に敗れることはあるかもしれないが、自信過剰や怠慢によって数分たりとも浪費することはない」と語っていたが、この戦役での彼は時間を浪費しがちだった<ref name=foffrin238>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],p.238;[[#ストローソン 1998|ストローソン 1998]],pp.282-283.</ref>。リニーで勝利したナポレオンは緩慢に時を過ごし、翌6月17日11時にようやく各隊に命令を下すと進発し、13時にカトル・ブラのネイの軍と合流をして英蘭軍を攻撃しようとしたものの、既に敵陣はもぬけの殻だった<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],pp.239-240;[[#大橋 1983|大橋 1983]],pp.408-410.</ref>。フランス軍はウェリントンを追撃したが、{{仮リンク|ジュナップ|en|Genappe}}で騎兵同士の小競り合いが起こっただけで、その日の夜は土砂降りとなった<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],pp.240-241.</ref>。リニーを出立する際にナポレオンは右翼軍司令のグルーシー元帥に兵33,000をもってプロイセン軍を追撃するよう命じた。遅すぎる出発、プロイセン軍の針路が不明なこと、そして命令の意味が曖昧だったことで、グルーシーがプロイセン軍のワーヴル到着を阻止するには手遅れだった。 |
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そんな中、夕刻に至り、イギリス軍中央の前哨拠点ラ・エイ・サントが陥落。19時頃、イギリス軍にとどめを刺すべくナポレオンは、最後の切り札とも言うべき[[古参近衛隊]]の投入を命じる。しかし、この近衛隊の攻撃は、イギリス近衛部隊の激しい射撃の前に撃退される。(この時のイギリス近衛兵の横隊防御火力は、のちにThe Thin Red Lineと賞賛され、フランス近衛兵のかぶっていた熊毛帽を、イギリス近衛兵が勝利の記念として着用するようになった。)無敵を謳われた近衛隊の敗北を目の当たりにしたフランス軍部隊の士気は著しく低下。さらに、プロイセン軍がロボー軍団を撃破し、フランス軍の側面へ猛攻をかけた。これに呼応してイギリス軍も反撃し、フランス軍は全面的な潰走に移る。最後まで戦場に残った古参近衛隊は味方の退却を勇敢に援護したが、最終的には包囲され、降伏勧告を蹴ったために多くが壮絶な戦死を遂げた。プロイセン軍参謀長の[[アウグスト・フォン・グナイゼナウ|グナイゼナウ]]は強行軍と会戦で疲弊した部隊を叱咤して夜通しの追撃を行い、フランス軍を完全に崩壊させた。 |
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6月17日の終わりに英蘭軍はワーテルローに到着し、ナポレオン軍の本隊がこれに続いた。この頃、ブリュッヘルのプロイセン軍はワーヴルの町から東へ13kmの位置に集結していた。ラ・ベル・アリアンスでナポレオン率いるフランス軍72,000<ref name=matumura1999/>とイギリス・オランダ連合軍68,000<ref name=ohashi412/>が対峙した。 |
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== 影響 == |
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ワーテルローの戦いでフランス軍は3万を失い、連合軍も25,000の死傷者を出した。ナポレオンは退位してイギリスへ亡命し[[百日天下]]は終わった。ナポレオンはイギリスの[[プリマス]]への上陸を求めたが、ヨーロッパの混乱の元凶はナポレオンにあるとされ、[[アンリ・グランティエ・ベルトラン|ベルトラン]]、[[シャルル=トリスタン・ド・モントロン|モントロン]]、[[ガスパール・グールゴ|グールゴ]]の3人の将軍とともに[[セントヘレナ島]]に流されて1821年5月5日、彼の死を看取った<ref>{{cite web|url=http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/dernier.html |title=1821年5月5日 セント=ヘレナ |accessdate=2011-05-07}}</ref>。 |
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! 1815年戦役の戦略状況 |
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| style="font-size:small" | {{color|Aqua|■}}:フランス軍、 {{color|#f36|■}}:英蘭連合軍、 {{color|#C0C0C0|■}}:プロイセン軍、 □:オーストリア・ドイツ諸国・イタリア諸国軍、 {{color|#0F0|■}}:ロシア軍、 {{color|yellow|■}}:スペイン軍<br />参考文献 -{{Cite book|和書|author=アルバート・A.ノフィ|translator=諸岡良史|editor=|year=2004|title=ワーテルロー戦役|series=|publisher=コイノニア社|isbn=978-4901943055|page=301-340}} |
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{| border="0" align="left" cellpadding="0" cellspacing="0" style="margin: 0 0 0 0; background: #f9f9f9; border: 2px #aaaaaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 090%;" |
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|<div style="position: relative">[[File:Strategic Situation of Western Europe 1815.jpg|800px|center]] |
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<!--地名--> |
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<div style="position:absolute;font-size:100%;left:415px;top:120px"> |
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[[ファイル:Battle icon active (crossed swords).svg|25px]] |
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</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:90%;left:300px;top:130px;background-color:#FFFFFF;line-height: 100%"><center>'''ワーテルローの戦い'''<br>1815.6.18</center></div> |
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<!--フランス軍--> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:352px;top:160px;line-height: 100%"> |
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{| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:Aqua" |
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|- |
|||
|xxxx<br><big>'''北部方面軍'''</big><br>ナポレオン<br>122,600人 |
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|} |
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</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:436px;top:231px;line-height: 100%"> |
|||
{| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:Aqua" |
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|- |
|||
|xxxx<br>'''ライン方面軍'''<br>ラップ<br>24,400人 |
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|} |
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</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:342px;top:409px;line-height: 100%"> |
|||
{| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:Aqua" |
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|- |
|||
|xxxx<br>'''アルプス方面軍'''<br>スュシェ<br>25,100人 |
|||
|} |
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</div> |
|||
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:390px;top:310px;line-height: 100%"> |
|||
{| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:Aqua" |
|||
|- |
|||
|xxx<br>'''第1監視軍団'''<br>ル・クールブ<br>14,800人 |
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|} |
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</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:415px;top:494px;line-height: 100%"> |
|||
{| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:Aqua" |
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|- |
|||
|xxx<br>'''第2監視軍団'''<br>ブリューヌ<br>10,000人 |
|||
|} |
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</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:262px;top:500px;line-height: 100%"> |
|||
{| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:Aqua" |
|||
|- |
|||
|xxx<br>'''第3監視軍団'''<br>ドゥカン<br>15,000人 |
|||
|} |
|||
</div> |
|||
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:156px;top:460px;line-height: 100%"> |
|||
{| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:Aqua" |
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|- |
|||
|xxx<br>'''第4監視軍団'''<br>クローゼ<br>15,000人 |
|||
|} |
|||
</div> |
|||
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:208px;top:205px;line-height: 100%"> |
|||
{| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:Aqua" |
|||
|- |
|||
|xxxx<br>'''西部方面軍'''<br>ラマルク<br>1,500人 |
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|} |
|||
</div> |
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<!--英蘭連合軍--> |
|||
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:382px;top:47px;line-height: 100%"> |
|||
{| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:#ff3366" |
|||
|- |
|||
|xxxx<br><big>'''低地方面軍'''</big><br>ウェリントン<br>112,000人 |
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|} |
|||
</div> |
|||
<!--プロイセン軍--> |
|||
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:451px;top:110px;line-height: 100%"> |
|||
{| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:#C0C0C0" |
|||
|- |
|||
|xxxx<br>'''低ライン方面軍'''<br>ブリュッヘル<br>123,000人 |
|||
|} |
|||
</div> |
|||
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:531px;top:159px;line-height: 100%"> |
|||
{| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:#C0C0C0" |
|||
|- |
|||
|xxx<br>'''北ドイツ軍団'''<br>クライスト<br>26,200人 |
|||
|} |
|||
</div> |
|||
<!--その他--> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:552px;top:230px;line-height: 100%"> |
|||
{| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:#FFFFFF" |
|||
|- |
|||
|xxxx<br><big>'''ライン方面軍'''</big><br>シュヴァルツェンベルク<br>272,700人 |
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|} |
|||
</div> |
|||
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:532px;top:402px;line-height: 100%"> |
|||
{| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:#FFFFFF" |
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|- |
|||
|xxxx<br>'''オーストリア=<br>ピエモンテ連合軍'''<br>フリモント<br>62,000人 |
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|} |
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</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:654px;top:105px;line-height: 100%"> |
|||
{| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:#00FF00" |
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|- |
|||
|xxxx<br><big>'''ロ シ ア 軍'''</big><br>バルクライ<br>157,000人 |
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|} |
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</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:42px;top:502px;line-height: 100%"> |
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{| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:yellow" |
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|- |
|||
|xxxx<br><big>'''スペイン軍'''</big><br>カスターニョス<br>24,000人 |
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|} |
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</div> |
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</div> |
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|} |
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|} |
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[[File:Waterloo Campaign map-alt3.svg|thumb|500px|center|ベルギーでのワーテルロー戦役(6月15日 - 18日){{en icon}}]] |
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==軍隊== |
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{{Main|:en:Order of Battle of the Waterloo Campaign}} |
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=== フランス軍 === |
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復位したナポレオンの戦略は英蘭軍とプロイセン軍を分断し、各個撃破することであった。ワーテルローの戦いに参加したナポレオンの北部方面軍(''Armée du Nord'')は72,000人で歩兵57,000、騎兵15,000、大砲250門からなっている<ref>[[#大橋 1983|大橋 1983]],p.414</ref><ref group="注釈">総兵力69,000人、歩兵48,000、騎兵14,000、砲兵7,000、大砲250門とする資料もある。{{Harvnb|Barbero|2005|p=75}}.</ref>。ナポレオンは政権を奪取すると18万人のルイ18世の軍隊に加えて緊縮財政のために長期休暇や非公式に除隊させられていた兵や1814年戦役で脱走していた者たちといった実戦経験のある兵をかき集めており<ref name=nofi25>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.25.</ref>、彼ら古参兵を中核に訓練未熟な新兵を合わせたものがワーテルローの戦いのナポレオンの軍隊だった<ref name=nofi314>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.314.</ref>。古参兵たちの士気は高く「前年の恥辱を晴らすべく、狂信的な熱意を示していた」と伝えられる<ref>[[#ストローソン 1998|ストローソン 1998]],p.267.</ref>。兵器は比較的充足していたが、多年の戦乱によって軍馬が著しく不足しており<ref name=nofi25/>、馬術も不十分だった<ref name=nofi314/>。この戦いのフランス軍は14個[[胸甲騎兵]]連隊、7個[[槍騎兵]]連隊からなっていた。 |
|||
この戦いの1年前の1814年のフランス戦役ではナポレオンは圧倒的に不利な状況の中、彼の最高傑作といわれる程の戦術的技量を示した<ref>[[#松村 2005|松村 2005]],p.194;[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.268-269.</ref>。だが、この1815年戦役では肉体的な衰えを見せており<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.269-270.</ref><ref>{{Harvnb|Wootten|1992|p=10}}.</ref>、何よりも時間を浪費しがちで戦機を幾度も失っている<ref name=foffrin238/>。長年、ナポレオンの参謀総長を務めた[[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ|ベルティエ]]がナポレオンの復位に馳せ参ぜずドイツで自殺しており、代わって[[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト|スールト]]元帥が総参謀長に就任したことも打撃となった<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],pp.229-230;[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.262-263.</ref>。スールトは優れた野戦指揮官であったが、参謀畑には不慣れであり、ナポレオンの簡潔にすぎかつしばしば意味不明瞭な命令を適確に解釈して完璧な命令文書に仕上げるベルティエの特別な能力も持ち合わせていなかった<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.262.</ref><ref>{{Harvnb|Wootten|1992|p=11}}.</ref>。この結果、スールトは幾度も不手際や意味不明瞭な命令文書伝達を繰り返し、その度にフランス軍の作戦行動を鈍らせている<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],pp.231,237-238.</ref><ref group="注釈">スールトは6月17日午後10時のグルーシーへの命令伝達に一人の伝令を出していたが、これを知ったナポレオンから「ベルティエなら百人の伝令を送っていたぞ」と叱責されている。[[#長塚 1986|長塚 1986]],p.565.<br>ベルティエは特別に編成された伝騎の小集団を組織しており、伝令も6人を出していた。[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.262.</ref>。戦後、ナポレオンはスールトを「よい参謀長ではなかった」と述懐している<ref>[[#マルロー 2004|マルロー 2004]],p.431.</ref>。 |
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== 逸話 == |
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[[ファイル:Waterloo Lion.jpg|thumb|240px|ワーテルローのライオンの丘]] |
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この戦いの後ワーテルローには[[ライオン]]の丘が築かれた。頂上にはナポレオン軍の大砲を鋳潰してつくられたライオンの像がある。ウェリントン公はこの丘を見て「なんて事をするんだ。私の戦場が台無しではないか。」と叫んだといわれている。 |
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北部方面軍の左翼を任され、ワーテルロー会戦では実戦指揮を執ることになるネイ元帥はナポレオンから「勇者の中の勇者」と呼ばれた歴戦の猛将であったが、ロシア遠征以後は移り気になり、気力の衰えを見せていた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.114-115;[[#ストローソン 1998|ストローソン 1998]],pp.267-268.</ref>。前哨戦のカトル・ブラの戦いでは徒に逡巡して英蘭軍に決定的打撃を与える機会を逃している<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],p.236.</ref>。ナポレオンもネイの戦略能力は低く評価していたが、ネイが兵士たちからカリスマ的人気を得ていたことが軍の一翼を任せた理由だった<ref>{{Harvnb|Wootten|1992|p=12}}.</ref>。 |
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この戦いを主戦場の名を取り'''ラ・ベル・アリアンスの戦い'''と呼ぶこともある。ウェリントンが司令部を置いた村落の名から勝手にワーテルローと命名したことに対して、戦局をひっくり返したプロイセン軍元帥のブリュッヒャーはそれが気に入らず、自分たちが活躍した主戦場の名を命名した。今でもドイツではこの名前の方が通りが良い。 |
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==== フランス軍戦闘序列 ==== |
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<div style="overflow: auto;white-space:nowrap; font-size:70%"> |
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{{familytree/start}} |
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{{familytree | | | | |NA| | | | | | | | | | | | | | | | |NA=<big>'''北部方面軍'''</big><BR>''L'Armée du Nord'' |
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|boxstyle_NA =background-color: #aaf; |
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}} |
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{{familytree | | | | |NA| | | | | | | | | | | | | | | | |NA=総司令官 - [[フランス皇帝|皇帝]][[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]<span style="color:White">あ</span><br>総参謀長 - [[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト|スールト]]元帥<span style="color:White">ああ</span><br>左翼軍司令 - [[ミシェル・ネイ|ネイ]]元帥<span style="color:White">あああ</span><br>右翼軍司令 - [[エマニュエル・ド・グルーシー|グルーシー]]元帥<br>122,600名、砲368門}}<!--「あ」は文字を揃えるためのダミー--> |
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当時世界経済の中心だったイギリスの株式市場は、その座をフランスに奪われるか否かの運命が掛かったこの戦いの勝敗に注目していた。そんな中、ナポレオン敗北の報をいち早く入手した銀行家[[ネイサン・メイアー・ロスチャイルド]]は、後に「ネイサンの逆売り」と呼ばれる株式売買で巨額の利益を獲得、[[ロスチャイルド財閥]]の礎を築いた。 |
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{{familytree | |,|-|-|-|+|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|.| | | | | |}} |
|||
{{familytree |GD| |C1| |C2| |C6| |!| | | | | | | |C1='''第1軍団'''|C2='''第2軍団'''|C6='''第6軍団'''|GD='''皇帝近衛軍団''' |
|||
|boxstyle_C1 =background-color: #aaf; |
|||
|boxstyle_C2 =background-color: #aaf; |
|||
|boxstyle_C6 =background-color: #aaf; |
|||
|boxstyle_GD =background-color: #aaf; |
|||
}} |
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{{familytree |GD| |C1| |C2| |C6| |!| | | | | | | |C1={{仮リンク|ジャン=バティスト・ドルーエ (初代デルロン伯)|label=デルロン|en|Jean-Baptiste Drouet, Comte d'Erlon}}師団将軍<br>19,800名、砲46門|C2={{仮リンク|オノレ・シャルル・レイユ|label=レイユ|en|Honoré Charles Reille}}師団将軍<br>25,150名、砲46門|C6={{仮リンク|ジョルジュ・ムートン|label=ロバウ|en|Georges Mouton, Count de Lobau}}師団将軍<br>10,450名、砲38門|GD={{仮リンク|アントワーヌ・ドルーオ|label=ドルーオ|en|Antoine Drouot}}師団将軍<br>20,700名、砲110門 |
|||
}} |
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{{familytree |GD| |C1| |C2| |C6| |!| | | | | | | |C1=第1師団(キオ旅団将軍)<br>第2師団({{仮リンク|フランソワ=グザヴィエ・ドンズロ|label=ドンズロ|en|François-Xavier Donzelot}}師団将軍)<br>第3師団({{仮リンク|ピエール・ルイ・ビネー・マルコニェ|label=マルコニェ|en|Pierre-Louis Binet de Marcognet}}師団将軍)<br>第4師団({{仮リンク|ピエール・フランソワ・ジョセフ・デュリット|label=デュリット|en|Pierre François Joseph Durutte}}師団将軍)<br>第1騎兵師団(ジャノッキ師団将軍)|C2=第5師団(バシュリュ師団将軍)<br>第6師団([[ジェローム・ボナパルト]]師団将軍)<br>第7師団({{仮リンク|ジャン・バティスト・ジラール|label=ジラール|en|Jean Baptiste Girard}}師団将軍)<br>第9師団({{仮リンク|マクシミリアン・セバスチャン・フォワ|label=フォワ|en|Maximilien Sebastien Foy}}師団将軍)<br>第2騎兵師団(ピレ師団将軍)|C6=第19師団(サンメ師団将軍)<br>第20師団({{仮リンク|ジャン=バティスト・ジャナン|label=ジャナン|en|Jean-Baptiste Jeanin}}師団将軍)<br>第21師団(テスト師団将軍)<br>第4軍団予備砲兵(ヌーリー師団将軍)|GD=近衛擲弾歩兵師団({{仮リンク|ルイ・フィリアン|label=フィリアン|en|Louis Friant}}師団将軍)<br>近衛猟歩兵師団({{仮リンク|シャルル・アントワーヌ・モラン|label=モラン|en|Charles Antoine Morand}}師団将軍)<br>新規近衛歩兵師団({{仮リンク|ギヨーム・フィリベール・デュエーム|label=デュエーム|en|Guillaume Philibert Duhesme}}師団将軍)<br>近衛重騎兵師団({{仮リンク|クロード=エティエンヌ・ギヨー|label=ギヨー|en|Claude-Étienne Guyot}}師団将軍)<br>近衛軽騎兵師団({{仮リンク|シャルル・ルフェーブル=デヌエット|label=ルフェーブル=デヌエット|en|Charles Lefebvre-Desnouettes}}師団将軍)<br>近衛砲兵隊(デヴォー・ドゥ・サン=モーリス師団将軍) |
|||
|boxstyle_C1 =text-align:left;vertical-align:top; |
|||
|boxstyle_C2 =text-align:left;vertical-align:top; |
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|boxstyle_C6 =text-align:left;vertical-align:top; |
|||
|boxstyle_GD =text-align:left;vertical-align:top; |
|||
}} |
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{{familytree | |,|-|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|(| | | | | |}} |
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{{familytree |C3| |C4| | | | | | | | | |:| | | |C3='''第3騎兵軍団'''|C4='''第4騎兵軍団''' |
|||
|boxstyle_C3 =background-color: #aaf; |
|||
|boxstyle_C4 =background-color: #aaf; |
|||
}} |
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{{familytree |C3| |C4| | | | | | | | | |:| | | |C3=[[フランソワ・エティエンヌ・ケレルマン|ケレルマン]]師団将軍<br>3,900名、砲12門|C4={{仮リンク|エドゥアール・ジャン・バプティスト・ミヨー|label=ミヨー|en|Edouard Jean Baptiste Milhaud}}師団将軍<br>3,100名、砲12門 |
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}} |
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{{familytree |C3| |C4| | | | | | | | | |:| | | |C3=第11騎兵師団({{仮リンク|サミュエル=フランシス・レリティエ|label=レリティエ|en|Samuel-François Lhéritier}}師団将軍)<br>第12騎兵師団({{仮リンク|ルーセル・デュルバル|label=デュルバル|en|Roussel d'Hurbal}}師団将軍)|C4=第13騎兵師団(ワティエ師団将軍)<br>第14騎兵師団(ドゥロール師団将軍) |
|||
|boxstyle_C3 =text-align:left;vertical-align:top; |
|||
|boxstyle_C4 =text-align:left;vertical-align:top; |
|||
}} |
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{{familytree | |F|~|~|~|V|~|~|~|V|~|~|~|V|~|~|J| | | | | |}} |
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{{familytree |C3| |C4| |C1| |C2| | | | | | | | | |C3='''第3軍団'''|C4='''第4軍団'''|C1='''第1騎兵軍団'''|C2='''第2騎兵軍団''' |
|||
|boxstyle_C3 =background-color: #dfd;border:2px dashed |
|||
|boxstyle_C4 =background-color: #dfd;border:2px dashed |
|||
|boxstyle_C1 =background-color: #dfd;border:2px dashed |
|||
|boxstyle_C2 =background-color: #dfd;border:2px dashed |
|||
}} |
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{{familytree |C3| |C4| |C1| |C2| | | | | | | | | |C3=[[ドミニク・ヴァンダム|ヴァンダム]]師団将軍<br>17,600名、砲38門|C4={{仮リンク|エティエンヌ・ジェラール|label=ジェラール|en|Etienne Gérard}}師団将軍<br>14,874名、砲30門|C1={{仮リンク|クロード・ピエール・パジョール|label=パジョール|en|Claude Pierre Pajol}}師団将軍<br>3,000名、砲12門|C2={{仮リンク|レミ・ジョセフ・イシドール・エグゼルマン|label=エグゼルマン|en|Rémi Joseph Isidore Exelmans}}師団将軍<br>3,400名、砲12門 |
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|boxstyle_C3 =border:2px dashed; |
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|boxstyle_C4 =border:2px dashed; |
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|boxstyle_C1 =border:2px dashed; |
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|boxstyle_C2 =border:2px dashed; |
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}} |
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英語でウォータールー (Waterloo) は「完膚なきまでにやぶれた惨敗」の喩えとなっている(参考:[[ABBA]]「[[恋のウォータールー]]」、[[RUNNING WILD]]「[[Battle Of Waterloo]]」)。 |
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{{familytree/end}} |
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</div> |
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<BR> |
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{| class="wikitable" |
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|- |
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| *参考文献 - *{{Cite book|和書|author=アルバート・A.ノフィ|translator=諸岡良史|editor=|year=2004|title=ワーテルロー戦役|series=|publisher=コイノニア社|isbn=978-4901943055|page=301-314}} |
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※兵員数・砲数は戦役の始まる前の数値であり、6月18日の会戦で実際に戦った人数とは異なる。点線の枠はグルーシー元帥の部隊でワーテルローの戦いには不在。 |
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|} |
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<gallery caption="フランス軍主要将帥" widths="150px" perrow="8"> |
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== 後日談== |
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File:Napoleon at Fontainebleau, 31 March 1814 by Paul Hippolyte Delaroche (Paris 1797-1856).jpg|フランス皇帝ナポレオン1世 |
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[[1974年]]に[[スウェーデン]]の音楽グループ[[ABBA]]が「[[恋のウォータールー]]」を発表したが「英語の辞書を引けば『ワーテルロー(ウォータールー)』とは『惨めな敗北』という意味なのね」という歌詞にもかかわらず、同年のフランスのシングル・チャートでは3位となる大ヒットとなった。 |
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File:Nicolas Soult.jpg|総参謀長スールト元帥 |
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File:Marechal Ney.jpg|ネイ元帥 |
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File:General Antoine Drouot.jpg|皇帝近衛軍団長ドルーオ師団将軍 |
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File:Général Jean Baptiste Drouet.jpg|第1軍団長デルロン師団将軍 |
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File:Général Honoré Charles Michel Joseph Reille.jpg|第2軍団長レイユ師団将軍 |
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File:Général GEORGES MOUTON, CAPITAINE AU 9E BATAILLON DE LA MEURTHE EN 1792 (1770-1838).jpg|第6軍団長ロバウ師団将軍 |
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File:Kellermann, Francois Etienne.jpg|第3騎兵軍団長ケレルマン師団将軍 |
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File:Général Edouard Jean Baptiste Milhaud.jpg|第4騎兵軍団長ミヨー師団将軍 |
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File:Jérôme Bonaparte - Sophie Lienard.png|第6師団長ジェローム・ボナパルト師団将軍 |
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File:Donzelot par Dutertre.jpg|第2師団長ドンズロ師団将軍 |
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File:Général Durutte(1767-1827).jpg|第4師団長デュリット師団将軍 |
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File:Louis Friant.JPG|近衛擲弾歩兵師団長フィリアン師団将軍 |
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File:Général Charles Antoine Louis Alexis Morand1.jpg|近衛猟歩兵師団長モラン師団将軍 |
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File:Général Claude Etienne Guyot.jpg|近衛重騎兵師団長ギヨー師団将軍 |
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File:Lefebvre Desnouettes.jpg|近衛軽騎兵師団長ルフェーブル=デヌエット師団将軍 |
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</gallery> |
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=== 英蘭連合軍 === |
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[[1994年]]に[[英仏海峡トンネル]]が完成し、[[パリ]]と[[ロンドン]]を結ぶ高速列車[[ユーロスター]]が運行を開始した際、ロンドン側ターミナルが皮肉にも[[ウォータールー駅]]であった。このため、フランス側は、幾度となく駅の改名や変更を求めたという。 |
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英蘭連合軍を指揮したウェリントン公は[[半島戦争]]における歴戦の将軍であった。ウェリントンは自らの軍について「ひどい軍隊、とても弱く装備も劣り、参謀たちはまったく経験不足だった」と述べている<ref>{{Harvnb|Longford|1971|p=485}}</ref>。ワーテルローの戦いに参加した68,000人の彼の軍隊は歩兵50,000、騎兵12,000、砲兵6,000、砲156門で構成されていた<ref name=ohashi412/>。このうち24,000人がイギリス兵であり、6,000人は{{仮リンク|国王直属ドイツ人部隊|en|King's German Legion}}(''King's German Legion'':KGL)の兵士であった<ref name=ohashi412/>。[[イギリス陸軍|イギリス軍]]の全員が正規兵であったが、半島戦争に従軍した古参兵は7,000人に過ぎなかった<ref>{{Harvnb|Longford|1971|p=484}}</ref>。これに加えて、17,000人のオランダ人とベルギー人の兵隊がおり、[[ハノーファー朝|ハノーファー]]兵11,000、{{仮リンク|ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国|label=ブラウンシュヴァイク|en|Duchy of Brunswick-Lüneburg}}兵6,000、{{仮リンク|ナッソー公国|label=ナッサウ|en|Nassau (state)}}兵3,000からなっていた<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|pp=75–76}}.</ref>。 |
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連合軍兵士の多くが戦闘未経験だった<ref group="注釈">マーサー砲兵大尉はブラウンシュヴァイク兵について「完全に子供だ」と評した。{{Harv|Mercer|1870|loc=}}.</ref><ref group="注釈">6月13日、{{仮リンク|アト (ベルギー)|label=アト|en|Ath}}に駐屯するハノーファー予備連隊の兵士は火薬と薬包を要求したが、彼らは一度も発砲したことがなかった。 {{Harv|Longford|1971|p=486}}.</ref>。オランダ軍は先年のナポレオンの敗北を受けて1815年に再編されたものであった。スペインでの半島戦争に従軍したイギリス兵およびイギリス軍に加わった一部のハノーファー兵とブラウンシュヴァイク兵を除き、連合軍の職業軍人の多くがナポレオン体制下でフランス軍の同盟軍としてともに戦った経験を持っていた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.323.</ref>。ウェリントンは騎兵も不足しており、イギリス軍騎兵7個連隊、オランダ軍騎兵3個連隊しかいなかった。[[フレデリック (ヨーク・オールバニ公)|ヨーク公]]は自分の参謀将校の多くをウェリントンに押しつけており、この中には副司令の{{仮リンク|ヘンリー・パジェット (初代アングルシー侯爵)|label=アックスブリッジ|en|Henry Paget, 1st Marquess of Anglesey}}将軍も含まれる。アックスブリッジは騎兵を指揮しており、彼はウェリントンから指揮下の部隊の行動の自由を認められていた。ウェリントンは13km西方の{{仮リンク|ハレ (ベルギー)|label=ハレ|en|Halle, Belgium}}に兵17,000を後置させており、この兵力は戦闘に参加させず、敗北した場合の退却援護として用いることになっており、オラニエ公の弟の[[フレデリック・ファン・オラニエ=ナッサウ (1797-1881)|フレデリック]]が指揮するオランダ兵であった<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.323-324.</ref>。 |
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[[2007年]]には[[CTRL|イギリス国内の高速新線]]が完成し、ターミナルも[[セント・パンクラス駅]]に変更されたため、ようやくフランス側の悲願が叶った。 |
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==== 英蘭連合軍戦闘序列 ==== |
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<div style="overflow: auto;white-space:nowrap; font-size:70%"> |
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{{familytree/start}} |
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{{familytree | | | | |HQ| | | | | | | | | | | | | | | | |HQ=<big>'''低地方面軍'''</big> |
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|boxstyle_HQ =background-color: #fdd; |
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}} |
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{{familytree | | | | |HQ| | | | | | | | | | | | | | | | |HQ=[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン]]元帥<br>122,000名、砲203門}} |
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当時ウェリントン公の秘書官を務めていた[[ラグラン男爵・フィッツロイ・サマセット]]は、この戦いで右腕を負傷し切断を余儀なくされた([[ラグラン袖]]は彼の失われた右腕に合わせて作られたものである)。彼は後に陸軍最高司令官となり、[[クリミア戦争]]の総指揮を執る事になる。 |
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{{familytree | |,|-|-|-|+|-|-|-|v|-|-|-|.| | | | | | | | |}} |
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== ワーテルローの戦いを題材とした作品 == |
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{{familytree |C1| |C2| |CC| | |!| | | | | | | | |C1='''第1軍団'''|C2='''第2軍団'''|CC='''騎兵軍団''' |
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* [[ワーテルロー (映画)]] |
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|boxstyle_C1 =background-color: #fdd; |
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* [[コナン・ドイル]]『勇将ジェラールの回想』創元推理文庫(Fト-1-1) |
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|boxstyle_C2 =background-color: #fdd; |
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* コナン・ドイル『勇将ジェラールの冒険』創元推理文庫(Fト-1-2) |
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|boxstyle_CC =background-color: #fdd; |
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* [[ウォータールーの戦い(ピアノ曲)]] - イギリスの女流作曲家[[ウィルマ・アンダーソン・ギルマン]]が作曲したピアノ曲。及び、ワーテルローの戦いの出来事を基づいて作曲されたピアノ曲。初級レベルの曲で、発表会でもしばしば取り上げられる。本曲では「ワーテルロー」より「ウォータールー」の表記が定着されている。 |
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}} |
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{{familytree |C1| |C2| |CC| | |!| | | | | | | | |C1=[[ウィレム2世 (オランダ王)|オラニエ公ウィレム]]少将<br>38,400名、砲56門|C2={{仮リンク|ローランド・ヒル (ヒル子爵)|label=ヒル|en|Rowland Hill, 1st Viscount Hill}}中将<br>27,300名、砲40門|CC={{仮リンク|ヘンリー・パジェット (第2アクスブリッジ伯爵)|label=アクスブリッジ|en|Henry Paget, 1st Marquess of Anglesey}}中将<br>16,500名、砲43門 |
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}} |
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{{familytree |C1| |C2| |CC| | |!| | | | | | | | |C1=第1近衛師団({{仮リンク|ジョージ・クック (軍人)|label=クック|en|George Cooke (British Army officer)}}少将)<br>第3師団({{仮リンク|チャールズ・アルテン|label=アルテン|en|Charles Alten}}中将)<br>オランダ軍第2師団(ペルポンシェ=セドルニッツキ中将)<br>オランダ軍第3師団({{仮リンク|ダヴィット・ヘンドリック・シャッセ|label=シャッセ|en|David Hendrik Chassé}}中将)|C2=第2師団({{仮リンク|ヘンリー・クリントン (ナポレオン戦争)|label=クリントン|en|Henry Clinton (Napoleonic Wars)}}中将)<br>第4師団({{仮リンク|チャールズ・コルヴィール|label=コルヴィール|en|Charles Colville}}少将)<br>オランダ軍第1師団({{仮リンク|ヨハン・ステッドマン|label=ステッドマン|en|John Stedman}}中将 )|CC=近衛騎兵旅団({{仮リンク|エドワード・サマセット|label=サマセット|en|Lord Edward Somerset}}少将)<br>連合騎兵旅団({{仮リンク|ウィリアム・ポンソンビー (イギリス陸軍)|label=ポンソンビー|en|William Ponsonby (British Army officer)}}少将)<br>第3騎兵旅団({{仮リンク|ヴィルヘルム・フォン・ドルンベルク|label=ドルンベルク|en|Wilhelm von Dörnberg}}少将)<br>第4騎兵旅団(ヴァンドルー少将)<br>第5騎兵旅団({{仮リンク|コフーン・グラント (イギリス軍人)|label=グラント|en|Colquhoun Grant (British cavalry general)}}少将)<br>第6騎兵旅団({{仮リンク|ハッセー・ヴィヴィアン (初代ヴィヴィアン伯爵)|label=ヴィヴィアン|en|Hussey Vivian, 1st Baron Vivian}}少将)<br>第7騎兵旅団(アレントシルト名誉大佐)<br>ハノーファー軍第1騎兵旅団(エルストッフ少将)<br>オランダ軍騎兵師団(コラエール中将 )<br>予備騎馬砲兵隊({{仮リンク|アウグスト・サイモン・フレイザー|label=フレイザー|en|Augustus Simon Frazer}}中佐) |
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|boxstyle_C1 =text-align:left;vertical-align:top; |
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|boxstyle_C2 =text-align:left;vertical-align:top; |
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|boxstyle_CC =text-align:left;vertical-align:top; |
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}} |
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{{familytree | |,|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|'| | | | | | | | |}} |
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{{familytree |CR| | | | | | | | | | | | | | | |CR='''予備軍団''' |
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|boxstyle_CR =background-color: #fdd; |
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}} |
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{{familytree |CR| | | | | | | | | | | | | | | |CR=ウェリントン元帥<br>36,900名、砲64門 |
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}} |
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{{familytree |CR| | | | | | | | | | | | | | | |CR=第5師団({{仮リンク|トーマス・ピクトン|label=ピクトン|en|Thomas Picton}}中将)<br>第6師団({{仮リンク|ローリー・コール|label=コール|en|Lowry Cole}}中将)<br>ブラウンシュヴァイク師団<br>ハノーファー軍予備師団(デッケン中将)※不在<br>予備砲兵隊(ドルモント少将)|boxstyle_C1 =text-align:left;vertical-align:top; |
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|boxstyle_CR =text-align:left;vertical-align:top; |
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}} |
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{{familytree/end}} |
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== 脚注 == |
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</div> |
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{{脚注ヘルプ}} |
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{{Reflist}} |
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{| class="wikitable" |
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|*参考文献 - *{{Cite book|和書|author=アルバート・A.ノフィ|translator=諸岡良史|editor=|year=2004|title=ワーテルロー戦役|series=|publisher=コイノニア社|isbn=978-4901943055|page=314-324}} |
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※兵員数・砲数は戦役の始まる前の数値であり、6月18日の会戦で実際に戦った人数とは異なる。イギリス軍師団にはハノーファー兵、ブラウンシュヴァイク兵、ナッサウ兵の部隊も含まれる。第1軍団のオランダ=ベルギー軍部隊の多くは会戦には不参加だった。 |
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|} |
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<gallery caption="英蘭連合軍主要将帥" widths="150px" perrow="8"> |
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Lord Arthur Wellesley the Duke of Wellington.jpg|ウェリントン公 |
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YoungwilliamII.jpg|第1軍団長オラニエ公ウィレム |
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File:General Sir Rowland Hill (1815).jpg|第2軍団長ヒル中将 |
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File:Henry William Paget, 1st Marquess of Anglesey by George Dawe.jpg|騎兵軍団長アクスブリッジ中将 |
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File:Sir Thomas Picton.jpg|第5師団長ピクトン中将 |
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File:Lord Robert Edward Somerset by William Salter.jpg|近衛騎兵旅団長サマセット少将 |
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File:Major General William Ponsonby, Lt Coll of the Fifth Dragoon Guards.jpg|連合騎兵旅団長ポンゾビー少将 |
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File:General D H Chassé.jpg|オランダ軍第3師団長シャッセ中将 |
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</gallery> |
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=== プロイセン軍 === |
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司令官の[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヘル]]元帥は[[ライプツィヒの戦い]]でナポレオンを撃破した連合軍のうちのプロイセン軍を率いていた。参謀長の[[アウグスト・フォン・グナイゼナウ|グナイゼナウ]]中将はプロイセンの軍制改革を推進した中心的人物である<ref>{{cite web|title=プロイセン改革- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E6%94%B9%E9%9D%A9/|author=[[岡崎勝世]]|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年9月17日}}</ref>。 |
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プロイセン軍は困難な再編成の途上にあった。1815年時点で、以前の予備連隊、外人部隊そして1813年から1814年にかけて編成された義勇軍(''Freikorps'')は正規軍や多数の後備兵([[ラントヴェーア (軍事)|ラントヴェーア]]:民兵)連隊に統合される過程にあった。ベルギーに到着した時点ではラントヴェーアのほとんどは未訓練かつ兵器も支給されていなかった。プロイセン軍の騎兵も同様の状態だった<ref>{{Harvnb|Hofschröer|2005|p=59}}.</ref>。砲兵隊も再編中であり、万全に行動しうる状態になく、砲や装備は会戦中そして後に到着する有り様だった。しかしながら、これらの不利も戦役中にプロイセン軍参謀部の見せた見事な指揮統率によって埋め合わされた。これらの将校は参謀教育のためにつくられた四つの学校の出身者であり、共通した基準の訓練を受け任務についていた。このシステムは矛盾し、曖昧な命令を発しがちだったフランス軍のそれとは対照的なものであった。この参謀システムによってプロイセン軍はリニーの戦いの前に僅か24時間で兵力の4分の3を集結することを可能にさせた。リニーの戦いの後も、プロイセン軍は敗北はしたものの補給段列を再調整し、自軍を再編成し、48時間以内にワーテルローの戦場に駆けつけることが可能であった<ref>{{Harvnb|Hofschröer|2005|pp=60–62}}.</ref>。プロイセンの2個半の軍団48,000人がワーテルローの戦いに参戦した。ビューロー第4軍団長の率いる2個旅団が16時30分に{{仮リンク|ジョルジュ・ムートン|label=ロバウ|en|Georges Mouton}}のフランス軍第6軍団に攻撃をかけ、{{仮リンク|ハンス・カール・エルンスト (ツィーテン伯)|label=ツィーテン|en|Hans Ernst Karl, Graf von Zieten}}の第1軍団とピルヒの第2軍団の一部は18時に来援した。 |
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==== プロイセン軍戦闘序列 ==== |
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<div style="overflow: auto;white-space:nowrap; font-size:70%"> |
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{{familytree/start}} |
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{{familytree | | | | |HQ| | | | | | | | | | | | | | | | |HQ=<big>'''低ライン方面軍'''</big> |
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|boxstyle_HQ =background-color: #b8b8b8; |
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}} |
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{{familytree | | | | |HQ| | | | | | | | | | | | | | | | |HQ=司令官 - [[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヘル]]元帥<br>参謀長 - [[アウグスト・フォン・グナイゼナウ|グナイゼナウ]]中将<br>123,000名、砲296門}} |
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{{familytree | |,|-|-|-|+|-|-|-|v|-|-|-|.| | | | | | | | |}} |
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{{familytree |C1| |C2| |C4| | |:| | | | | | | | |C1='''第1軍団'''|C2='''第2軍団'''|C4='''第4軍団''' |
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|boxstyle_C1 =background-color: #b8b8b8; |
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|boxstyle_C2 =background-color: #b8b8b8; |
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|boxstyle_C4 =background-color: #b8b8b8; |
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}} |
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{{familytree |C1| |C2| |C4| | |:| | | | | | | | |C1={{仮リンク|ハンス・カール・エルンスト (ツィーテン伯)|label=ツィーテン|en|Hans Ernst Karl, Graf von Zieten}}中将<br>31,800名、砲80門|C2=ピルヒ中将<br>35,100名、砲80門|C4={{仮リンク|フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フライヘア・フォン・ビューロー|label=ビューロー|en|Friedrich Wilhelm Freiherr von Bülow}}中将<br>31,900名、砲88門 |
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}} |
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{{familytree |C1| |C2| |C4| | |:| | | | | | | | |C1=第1旅団(シュタインメッツ少将)<br>第2旅団(ピルヒ少将)<br>第3旅団(ヤゴウ少将)<br>第4旅団({{仮リンク|ヘンケル=ドナーススマルク|label=ヘンケル=ドナーススマルク|en|Henckel von Donnersmarck}}少将)<br>予備騎兵(レーダー中将)<br>予備砲兵(レーマン少将)|C2=第5旅団(ティペルスキルヒ少将)<br>第6旅団(クラフト少将)<br>第7旅団(ブラウゼ少将)<br>第8旅団(ボーゼ少将)<br>予備騎兵(ヴァーレン=ユルガス少将)<br>予備砲兵(ロール)|C4=第13旅団(ハッケ)<br>第14旅団(ライセル)<br>第15旅団(ロシュッティン)<br>第16旅団(ヒラー)<br>予備騎兵([[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム大公]])<br>予備砲兵(ブライオン) |
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|boxstyle_C1 =text-align:left;vertical-align:top; |
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|boxstyle_C2 =text-align:left;vertical-align:top; |
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|boxstyle_C4 =text-align:left;vertical-align:top; |
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}} |
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{{familytree | |F|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|J| | | | | | | | |}} |
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{{familytree |C3| | | | | | | | | | | | | | | |C3='''第3軍団''' |
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|boxstyle_C3 =background-color: #b8b8b8;border:2px dashed; |
|||
}} |
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{{familytree |C3| | | | | | | | | | | | | | | |C3={{仮リンク|ヨハン・フォン・ティールマン|label=ティールマン|en|Johann von Thielmann}}中将<br>27,925名、砲64門 |
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|boxstyle_C3 =vertical-align:top;border:2px dashed; |
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}} |
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{{familytree |C3| | | | | | | | | | | | | | | |C3=第9旅団(ボルッケ)<br>第10旅団(カンプフェン)<br>第11旅団(ルック)<br>第12旅団(シュトゥルプナゲル)<br>予備騎兵(ホーベ)<br>予備砲兵(モンハウプト) |
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|boxstyle_C3 =text-align:left;vertical-align:top;border:2px dashed; |
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}} |
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{{familytree/end}} |
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</div> |
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<BR> |
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{| class="wikitable" |
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|- |
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|*参考文献 - *{{Cite book|和書|author=アルバート・A.ノフィ|translator=諸岡良史|editor=|year=2004|title=ワーテルロー戦役|series=|publisher=コイノニア社|isbn=978-4901943055|page=324-331}} |
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※兵員数・砲数は戦役の始まる前の数値であり、6月18日の会戦で実際に戦った人数とは異なる。点線の枠はティールマン中将の第3軍団でワーテルローの戦いには不参加。 |
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|} |
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<gallery caption="プロイセン軍主要将帥" widths="150px" perrow="8"> |
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Blücher (nach Gebauer).jpg|ブリュッヘル元帥 |
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File:Bundesarchiv Bild 183-R06118, August Graf Neidhardt von Gneisenau (Zeichnung).jpg|参謀長グナイゼナウ中将 |
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File:Zieten-by-Kruger.jpg|第1軍団長ツィーテン中将 |
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File:Friedrich Wilhelm Freiherr von Bulow.jpg|第4軍団長ビューロー中将 |
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</gallery> |
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==戦場== |
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ワーテルローは要害堅固な場所だった。ここはブリュッセルに至る主要街道に対して垂直に切り立ち、かつ横切られている長い尾根が東西に走っていた。尾根の頂きに沿って深い窪んだ小道{{enlink|sunken lane|英語版}}の{{仮リンク|オヘイン|en|Ohain, Belgium}}道が通っている。ブリュッセル街道との交差路には大きな楡の木があり、ここはウェリントンの布陣のほぼ中央に位置しており、会戦中のほとんどの時間、彼はこの場所を本営とした。ウェリントンはオヘイン道に沿った尾根の頂の背後に歩兵を一線状に布陣させた。彼が過去の戦闘でしばしば行ったように、今回も{{仮リンク|反対斜面戦術|label=反対斜面|en|Reverse slope defence}}を活用して敵軍から(散兵や砲兵を除く)自軍の兵力を隠した<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|pp=78,79}}.</ref>。戦場の長さは比較的狭い4kmだった。これによって彼は{{仮リンク|ブレーヌ・ラルー|en|Braine-l'Alleud}}村までの範囲に布陣させた(プロイセン軍がこの日のうちに来援することになっている左翼を除く)中央および右翼の部隊に縦深を持たせることができた<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|p=80}}.</ref>。 |
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{{Wide image|Panorama waterloo.jpg|1000px|現在のワーテルローの風景。東(EST) - 南(SUD) - 西(OUEST)}} |
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尾根の前面には陣地化が可能な三つの場所があった。右端には{{仮リンク|ウーグモン|en|Hougoumont (farmhouse)}}の館と庭園そして果樹園があった。ここは広くしっかりした造りの邸宅であり、当初は木々で隠されていた。家の北側には窪んで隠された小道があり(イギリスでは「窪み道」(''the hollow-way'')と呼ばれている)、これを使って補給ができた。左端にはパプロンの小集落があった。ウーグモンとパプロンは陣地化されて守備兵が配置され、英蘭軍の側面を確保していた。パプロンはまた英蘭軍を救援に来るプロイセン軍が通るワーヴルへの道を見おろしていた。残りの英蘭軍の布陣の前面にあたる主要街道の西側には{{仮リンク|ラ・エー・サント|en|La Haye Sainte}}の農場と果樹園があり、{{仮リンク|国王直属ドイツ人部隊|en|King's German Legion}}(KGL)の軽歩兵400人が守備に置かれた<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|p=149}}.</ref>。道路の反対側には閉鎖された採石場があり、ここには{{仮リンク|第95小銃連隊|en|95th Rifles}}が狙撃兵として配置された<ref>{{Harvnb|Parry|1900|p=58}}.</ref>。 |
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これらの場所は攻撃側にとって厄介な障害となった。ウェリントンの右側面を攻撃すれば陣地化されたウーグモンからの攻撃を引き起こし、中央右側を進撃すればウーグモンとラ・エー・サントからの縦射{{enlink|Enfilade and defilade|英語版}}に曝されることになる。中央左側からではラ・エー・サントと隣接する採石場から縦射を受けることになり、左側面を突こうにも地面はぬかるんでおり、パプロン集落の通りや生け垣に配置された兵からの銃撃を受けることになる<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|pp=141,235}}.</ref> |
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フランス軍は南方の別の尾根の斜面に布陣した。ナポレオンは英蘭軍の布陣を見ることができず、ブリュッセル街道に対するかたちで布陣を行った。右翼は{{仮リンク|ジャン=バティスト・ドルーエ (デルロン伯)|label=デルロン|en|Jean-Baptiste Drouet, Comte d'Erlon}}の率いる第1軍団で歩兵13,000、騎兵1,300、予備騎兵4,700からなっていた。左翼は{{仮リンク|オノレ・シャルル・レイユ|label=レイユ|en|Honoré Charles Reille}}の第2軍団で兵力は歩兵13,000、騎兵1,300、予備騎兵4,600であった。街道の南側、宿場{{仮リンク|ラ・ベル・アリアンス|en|La Belle Alliance}}の周辺にはロバウの第6軍団(兵6,000)、{{仮リンク|近衛隊 (ナポレオン)|label=皇帝近衛隊|en|Imperial Guard (Napoleon I)}}(歩兵13,000)そして予備騎兵2,000が置かれた<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|pp=83–85}}.</ref>。フランス軍の右翼後方には{{仮リンク|プランスノワ|en|Plancenoit}}の集落があり、右端には「パリの森」(''Bois de Paris'')があった。当初、ナポレオンは戦場を見渡すことができるロッサム農場に本営を置いていたが、午後になってラ・ベル・アリアンスに移っている。(ナポレオンのいる場所からは見渡せなくなったために)戦場での統率はネイ元帥に委ねられることになった<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|p=91}}.</ref>。 |
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{| |
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|- |
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|style="vertical-align:top"| |
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{| border="0" align="left" cellpadding="0" cellspacing="0" style="margin: 0 0 0 0; background: #f9f9f9; border: 2px #aaaaaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 090%;" |
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|<div style="position: relative">[[File:Battle of Waterloo.svg|800px|center]] |
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<!--地名--> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:329px;top:245px;background-color: #ffffff">'''ラ・エー・サント'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:230px;top:122px;background-color: #ffffff">'''モン・サン・ジャン'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:379px;top:369px;background-color: #ffffff">'''ラ・ベル・アリアンス'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:217px;top:315px;background-color: #ffffff">'''ウーグモン'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:44px;top:185px;background-color: #ffffff">'''ブレーヌ・ラルー'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:143px;top:84px;background-color: #ffffff">'''ル・メニル'''</div> |
|||
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:152px;top:165px;background-color: #ffffff">'''ブレーヌ'''</div> |
|||
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:448px;top:237px;background-color: #ffffff">'''パプロット'''</div> |
|||
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:572px;top:221px;background-color: #ffffff">'''フリシェルモン'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:514px;top:210px;background-color: #ffffff">'''ラ・エイ'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:441px;top:473px;background-color: #ffffff">'''プランスノワ'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:388px;top:510px;background-color: #ffffff">'''ロッサム'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:730px;top:235px;background-color: #ffffff">'''パリの森'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:657px;top:19px;background-color: #ffffff">'''オアンの森'''</div> |
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<!--フランス軍--> |
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<div style="position:absolute;font-size:100%;left:445px;top:320px;background-color: #ffffff"><span style="color:blue">'''デルロン'''</span></div> |
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<div style="position:absolute;font-size:100%;left:244px;top:393px;background-color: #ffffff"><span style="color:blue">'''レイユ'''</span></div> |
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<div style="position:absolute;font-size:100%;left:340px;top:405px;background-color: #ffffff"><span style="color:blue">'''ロバウ'''</span></div> |
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<div style="position:absolute;font-size:100%;left:356px;top:460px;background-color: #ffffff"><span style="color:blue">'''皇帝近衛隊'''</span></div> |
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<div style="position:absolute;font-size:100%;left:278px;top:480px;background-color: #ffffff"><span style="color:blue">'''ケレルマン'''</span></div> |
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<div style="position:absolute;font-size:100%;left:497px;top:389px;background-color: #ffffff"><span style="color:blue">'''ミヨー'''</span></div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:92px;top:455px;background-color: #ffffff"><span style="color:blue">フランス軍(歩兵/騎兵/砲兵)</span></div> |
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<!--英蘭連合軍--> |
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<div style="position:absolute;font-size:100%;left:410px;top:207px;background-color: #ffffff"><span style="color:red">'''ピクトン'''</span></div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:300px;top:227px;background-color: #ffffff"><span style="color:red">'''アルテン'''</span></div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:248px;top:280px;background-color: #ffffff"><span style="color:red">'''クック'''</span></div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:147px;top:236px;background-color: #ffffff"><span style="color:red">'''クリントン'''</span></div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:77px;top:255px;background-color: #ffffff"><span style="color:red">'''オランダ軍'''</span></div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:92px;top:475px;background-color: #ffffff"><span style="color:red">英蘭連合軍(歩兵/騎兵/砲兵)</span></div> |
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<!--プロイセン軍--> |
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<div style="position:absolute;font-size:100%;left:669px;top:175px;background-color: #ffffff"><span style="color:gray">'''ビューロー'''</span></div> |
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<div style="position:absolute;font-size:100%;left:530px;top:13px;background-color: #ffffff"><span style="color:gray">'''ツィーテン'''</span></div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:92px;top:495px;background-color: #ffffff"><span style="color:gray">プロイセン軍団</span></div> |
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</div> |
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<gallery widths="200" heights="150"> |
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File:Belle-Alliance.jpg|ナポレオンが本営を置いたラ・ベル・アリアンス。1880年代撮影 |
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File:Zuidpoort hougoumont.jpg|ウーグモン。戦場西側の激戦地となった。 |
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File:La Haye Sainte.jpg|ラ・エー・サント<br>戦場中央部の要衝であり、熾烈な攻防戦が行われた。 |
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</gallery> |
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==会戦== |
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=== 戦闘準備 === |
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[[File:Hillingford - Wellington and Blucher Meeting Before the Battle of Waterloo.jpg|thumb|200px|left|ワーテルローの戦いの前に会談を行うウェリントンとブリュッヘル。<br>Robert Alexander Hillingford画。]] |
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ウェリントンは2時から3時頃に起床し、夜明けまで手紙を書いている。彼はブリュッヘルに対して「少なくとも1個軍団を送ってくれればモン・サン・ジャンで戦うが、そうでなければブリュッセルまで後退する」と書き送った。6時にウェリントンは自軍の布陣を視察した。 |
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その日の未明の軍議でブリュッヘルの参謀長グナイゼナウはウェリントンの作戦に対して不信感を示していたが、ブリュッヘルはウェリントンの軍を救援せねばならないと彼を説得した<ref>{{Harvnb|Longford|1971|pp=535,536}}</ref>。ワーヴルでは、ビューローの第4軍団がワーテルローの戦場に向けて先発しており、この軍団はリニーの戦いに参加しておらず無傷の状態であった。もっとも、第4軍団は犠牲者は出ていなかったが、プロイセン軍のリニーからの撤退援護のための二日間に渡る行軍で疲労していた。彼らは戦場からはるか西方に位置しており、進軍は遅々としたものだった。前夜の豪雨によって道路の状態は悪く、ビューローの兵と88門の大砲はワーヴルの渋滞した道路を通らねばならなかった。ワーヴルでの戦闘が始まったことにより事態はさらに悪化し、ビューローの軍が通過する予定だった道のいくつかが閉鎖されている。しかしながら、10時には行軍も順調になり、この頃、先発した部隊は英蘭軍左翼から8kmのところまで進んでいた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.187.</ref>。ビューローの兵に続いて、第1軍団と第2軍団がワーテルローに向かった<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|p=141}}.</ref>。 |
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[[File:NapoleonsHeadquartersAtWaterloo.jpg|thumb|200px|会戦中にナポレオンの司令部が置かれたラ・カイユー(''Le Caillou'')農場]] |
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ナポレオンは前夜を過ごしたラ・カイユー(''Le Caillou'')の館で朝食をとった。スールトがグルーシーの軍を呼び戻して本隊と合流させるべきではないかと意見具申をするとナポレオンは「卿はウェリントンを買い被っているのではないか。余に言わせれば、ウェリントンは愚将であり、イギリス人は弱兵だ。連中を打ち負かすなぞ朝飯前だ」と言い返した<ref>{{Harvnb|Longford|1971|p=547}}</ref>。しかしながら、このナポレオンのひどく侮蔑的な言葉を額面通りに取るべきではないだろう。彼の格言のひとつに「戦場においては士気がすべてである」という言葉があり、敵を称賛することは常に誤りであり、いたずらに自軍の士気を低下させることにつながる。実際、彼は過去のいくつもの会戦の前に士気を高揚させる演説を行っており、このワーテルローの戦いの前の朝も幕僚たちの悲観論や臆病に対処せねばならず、一部の将官たちからの執拗かつほとんど敗北主義的な反対論に対抗しなければならなかった<ref>{{Harvnb|Roberts|2001|pp=163–166}}.</ref>。 |
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この後、ナポレオンは末弟の[[ジェローム・ボナパルト|ジェローム]]から、宿屋の給仕がイギリス軍将校から漏れ聞いたプロイセン軍がワーヴルを出立したという噂話が伝えられたものの、ナポレオンはプロイセン軍が再起するには少なくとも二日は必要であり、グルーシー元帥が対処するだろうと断言した<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|p=73}}.</ref>。驚くべきことに、このジェロームの噂話を別にすると、この日のラ・カイユーの軍議に出席したフランス軍の指揮官たちは誰もプロイセン軍が危険なほど近づいている情報を持っておらず、この僅か5時間後にワーテルローの戦場になだれ込むべく進発することを想像もしていなかった<ref>{{Harvnb|Roberts|2001|p=xxxii}}.</ref>。 |
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戦闘開始は9時と計画されていたが、前夜の豪雨で地面が水浸しになり、騎兵と砲兵の移動が困難になっていたためナポレオンは戦闘開始を13時まで遅らせた<ref name=nofi191>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.191.</ref>。結果的には、この攻撃開始の遅延により、プロイセン軍の戦場への来援が間に合い、ナポレオンにとって致命的となった<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]];[[#松村 2005|松村 2005]],p.199;pp.243-244;[[#大橋 1983|大橋 1983]],p.415.</ref>。10時、彼は6時間前にグルーシーから受けた急報への返信を発し、「(グルーシーの現在位置から南方の)ワーヴルへ向かい、(グルーシーから西方の)我々との接触を維持する場所に位置し」それからプロイセン軍を「押し出せ」と命じた<ref>{{Harvnb|Longford|1971|p=548}}</ref>。その内容は曖昧であり、グルーシーは合流すべきなのか独自の行動をすべきなのか分かりにくいものだった<ref name=nofi191/>。 |
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11時にナポレオンは一般命令を発し、左翼はレイユ将軍の第2軍団で、右翼はデルロン将軍の第1軍団が担いモン・サン・ジャン村にある主要街道の十字路を確保することになった<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.192-193.</ref>。この命令は英蘭軍の戦線は尾根ではなくその奥の村にあると想定していた<ref>{{harvnb|Bonaparte|1869|pp=292,293}}.</ref>。これを行うためにジェロームの師団がウーグモンへの先制攻撃を行い、ナポレオンは(ここを失えば海への連絡線が断たれるために)英蘭軍の予備兵力を誘い込むことができると見込んでいた{{sfn|Fletcher|1994|p=[http://books.google.com/books?id=US-QQxjHnn8C&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false 20]}}。作戦は13時頃に第1、第2そして第6軍団の[[大砲列]]([[:en:Grand Battery|''grande batterie'']])が英蘭軍中央への砲撃を開始をし、その後、デルロンの軍団が英蘭軍の左翼を攻撃して突破し、東から西に旋回して包囲する計画になっていた。ナポレオンの手記によれば、彼は英蘭軍をプロイセン軍から分断して海に叩き落とすことを企図していた<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|pp=95–98}}.</ref>。 |
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===ウーグモン=== |
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[[File:Andrieux - La bataille de Waterloo.jpg|thumb|left|300px|ワーテルローの戦い。<br>Clément-Auguste Andrieux画、1852年。]] |
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「ワーテルローの戦いにおける奇妙な事実はこの戦いがいつ始まったのか確証できる者が誰もいないことである」と歴史家アンドリュー・ロバートは述べている<ref>{{Harvnb|Roberts|2005|p=55}}.</ref>。ウェリントンは公文書で「10時頃にナポレオンが我が軍の拠点が置かれたウーグモンに対して熾烈な攻撃を仕掛けてきた」と記録している<ref>{{Harvnb|Wellesley|1815|loc=}}</ref>。その他の史料は11時30分に攻撃が始まったと述べている<ref>{{Harvnb|Fitchett|2006|loc=Chapter: King-making Waterloo}}.</ref>。 |
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ウーグモンの館とその周辺は近衛軽歩兵4個中隊、森と果樹園はハノーファー軍[[猟兵]]およびナッサウ軍第2連隊第1大隊がおのおの守備についていた<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|pp=113–114}}.</ref>。ジェローム・ボナパルトの第6師団が攻撃の口火を切り、麾下のボードワン将軍の第1旅団が突入して森と果樹園の守備隊を駆逐したものの、指揮官のボードワンが戦死する<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.193.</ref>。ジェロームは騎馬砲兵の支援のもとでソワイエ将軍の第2旅団を投入して攻撃を続けさせるが、イギリス軍王室騎馬砲兵の曲射砲の砲撃を受けて進撃が鈍ってしまう<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.194-195.</ref>。フランス軍砲兵が前進して対砲兵射撃によて英軍砲兵が制圧されると、ソワイエは兵を進めて館の北門を打ち壊して内部に突入した<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.195.</ref>。フランス兵の一部は中庭までたどり着くが、イギリス兵に門を奪回されて閉じ込められ全滅してしまった<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.197-198.</ref>。ジェロームは主攻勢前の牽制攻撃の役割は果たしたのだが、なおも攻撃を続け、フォワ将軍の第9師団までこの戦いに巻き込み、一方、ウェリントンも[[コールドストリームガーズ|第2近衛歩兵連隊]]と第3近衛歩兵連隊の一部をウーグモンに送り込んだ<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.198.</ref>。 |
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[[File:Hougemont engraving by William Miller after Turner R520.jpg|thumb|ウーグモン。<br>William Miller画、1836年。]] |
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ウーグモンでの戦闘は午後いっぱい続いた。その周囲はフランス軍軽歩兵によって幾重にも取り囲まれ、連携した攻撃がウーグモン内の部隊に仕掛けられた。英蘭軍は館と北へ通じる窪み道を守った。午後になってナポレオンは砲撃によって家に火をかけるよう命じ<ref name=Barbero298 group="注釈">火災を見たウェリントンは館の守備隊長にいかなる犠牲を払ってもその場所を死守せよと命じた。{{Harvnb|Barbero|2005|p=298}}.</ref>、その結果、礼拝堂を除くすべての建物が破壊された。国王直属ドイツ人部隊のデュ・プラの旅団は窪み道の防御に差し向けられ、高級士官を欠いた状態でこの任務を果たさねばならなかった。最終的に彼らは英軍の{{仮リンク|第71歩兵連隊 (ハイランド)|label=第71歩兵連隊|en|71st (Highland) Regiment of Foot}}によって救出された。アダム将軍のイギリス軍第3旅団は{{仮リンク|ヒュー・ハケット|en|Hugh Halkett}}のハノーファー軍第3旅団によって増強され、レイユによって差し向けられたフランス軍歩兵および騎兵のさらなる攻撃を撃退することに成功した。結局、ウーグモンはこの会戦の間中、持ちこたえた。 |
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{{Quotation|遺棄されたロイズ隊の大砲にたどり着くと、私は状況を視察するためにおよそ1分間ここに立ち止った。それは想像を越えた光景だった。ウーグモンとそこの木々は炎と戦場にたちこめる黒煙の中にそびえ立っていた。この煙の下にフランス兵たちがぼんやりと見えた。そこには揺れ動く長く赤い羽根飾りの集団を見ることができた。鋼の板の煌めきは重騎兵が移動していることを示しており、400門の大砲による砲撃によって双方に死者を出していた。怒号と悲鳴が区別つかなく混じり合い、これらはわたしに活動する火山を思い起こさせた。歩兵と騎兵の死体が我々の周りに散らばっており、そして私は視察を終えるべきと思い、我が軍の軍旗の方へ向かい、そこには広場に整列している私の部隊がいた。|マクリーディ少佐、イギリス軍第30連隊|<ref name=Creasy-XV>{{Harvnb|Creasy|1877|loc=[http://www.standin.se/fifteen15a.htm Chapter XV]}}</ref>}} |
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ウーグモンでの戦いはもともとはウェリントンの予備兵力を誘引するための陽動攻撃であったものが終日の戦闘にエスカレートし、逆にフランス軍の予備兵力が消耗させられる結果となったとしばしば言われる<ref>[[#ストローソン 1998|ストローソン 1998]],p.277.</ref><ref>{{Harvnb|Longford|1971|pp=552–554}}.</ref>。しかしながら、実際はナポレオンとウェリントンの双方がウーグモンの確保が会戦の勝利のカギであったと考えていたとする見方もある。ウーグモンはナポレオンが戦場を見渡すことができる場所であり<ref name=Barbero298 group="注釈"/>、彼は午後の間中、兵力をこことその周辺に送り続けている(総計で33個大隊、14,000人)。同じ様にウェリントンも、本来なら大兵力を収容することができないこの邸宅に21個大隊(12,000人)を投入し、窪み道を守り通せたため補充兵や弾薬を邸宅内の建物に供給し続けることができた。戦闘中、ウェリントンは敵軍からの過大な圧力を受けている中央部から砲兵隊を引き抜いてウーグモンを支援させており<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|pp=305,306}}.</ref>、後になって彼は「会戦の勝利はウーグモンの門を閉じ続けることにかかっていた」と述べている<ref>{{Harvnb|Roberts|2005|p=57}}.</ref> |
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{{Quotation|私はこの拠点をここの背後に布陣していたビング将軍の近衛旅団の分遣隊によって占拠させ、指揮はマクドナルド中佐、次いでホーム大佐が執った。そして、大規模な敵軍がここを奪取しようと幾度も試みたが、これらの勇敢な兵士たちが最大限の勇気を示して、この日の間中、守り通したと付け加えられることを嬉しく思う。|ウェリントン|<ref name=Booth-10>{{Harvnb|Booth|1815|p=10}}</ref>}} |
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===フランス軍歩兵の第一次攻撃=== |
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{{multiple image |
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| align = |
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| direction = vertical |
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| width = 200 |
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| image1 = French 6 pounder field gun cast 1813 in Metz captured at Waterloo by the Duke of Wellington.jpg |
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| caption1 = フランス軍の6ポンド野砲{{enlink|Canon de 6 système An XI}}。1813年に[[メス (フランス)|メス]]で鋳造。ワーテルローの戦いでウェリントン公に鹵獲された。[[ロンドン塔]]蔵。 |
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| image2 = Crofts Ernest The Battle Of Waterloo.jpg |
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| caption2 = ワーテルローの戦場を進むフランス軍歩兵。<br>Ernest Crofts画、19世紀から20世紀初頭。 |
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}} |
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フランス軍の大砲列(''grande batterie'')80門が中央部に整列した。砲撃の開始は英蘭軍第2軍団長{{仮リンク|ローランド・ヒル (初代ヒル子爵)|label=ローランド・ヒル|en|Rowland Hill, 1st Viscount Hill}}によれば11時50分<ref>{{Harvnb|Fitchett|2006|loc=Chapter: King-making Waterloo}}</ref>、その他の史料では正午または13時30分になっている<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|p=131}}.</ref>。大砲列は正確な照準を付けるには遠すぎる位置に布陣しており、目視できたのはオランダ軍師団の一部だけであり、その他の英蘭軍の部隊は反対斜線に布陣していた<ref name=Barbero-130>{{Harvnb|Barbero|2005|p=130}}.</ref>。加えて地面が軟弱で砲撃による跳弾効果が妨げられ<ref group="注釈">フランス軍砲兵は砲弾を直接命中させるのではなく、地表に命中させて周囲の岩や土塊を跳ね飛ばして殺傷範囲を広げる跳弾戦術を用いていた。[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.201.</ref>、さらにフランス軍砲兵は英蘭軍の布陣全域をカバーせねばならず、砲撃の集弾性が低くなった。しかしながら、この時のナポレオンの命令は「敵を驚かせ、士気を萎えさせる」ことであり、敵に大きな物理的損害を出させることではなかった<ref name="Barbero-130" />。 |
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[[File:Emmanuel de Grouchy.jpg|thumb|200px|left|グルーシー元帥。<br>優れた騎兵指揮官であったが、ワーテルロー戦役では臨機応変の対応ができず、ナポレオンの敗戦の原因となった。<br>Jean-Sébastien Rouillard画、1835年。]] |
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およそ13時頃、ナポレオンはフランス軍右側面から4-5マイルほど(3時間程度の行軍距離)の場所にある{{仮リンク|ラスン|label=ラスン=シャペル=サン=ランベール|en|Lasne}}村周辺にいるプロイセン軍の第一陣を目にした<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|p=136}}.</ref>。ナポレオンは参謀長のスールトに対して「ただちに戦場に駆けつけプロイセン軍を攻撃せよ」との伝令をグルーシー元帥へ送るように命じた<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|p=145}}.</ref>。だが、この時のグルーシーは「(プロイセン軍を追撃して)貴官の剣をもって敵の背後を突け」との以前のナポレオンの命令を遂行するためワーヴルに向かっており、6月18日の朝には決戦場のモン・サン・ジャンから20kmも離れた場所にいた<ref>[[#長塚 1986|長塚 1986]],p.565.</ref>。 |
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モン・サン・ジャンの方向からの砲声はグルーシーの司令部でも聞かれ、グルーシーは部下の{{仮リンク|エンティエンヌ・モーリス・ジェラール|label=ジェラール|en|Étienne Maurice Gérard}}将軍から「砲声の方角へ進軍すべきです」との進言を受けていたが、彼は以前に受けた命令に固執して{{仮リンク|ヨハン・フォン・ティールマン|label=|en|Johann von Thielmann}}中将率いるプロイセン軍第3軍団後衛部隊との{{仮リンク|ワーヴルの戦い|en|Battle of Wavre}}を始めた<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],pp.216-220;[[#ストローソン 1998|ストローソン 1998]],pp.280-281.</ref>。このグルーシーの判断により、彼の麾下の33,000人ものフランス軍がワーテルローの戦いに参戦できなくなり、作家[[シュテファン・ツヴァイク]]は「世界の運命を決定した世界史的瞬間」と呼んだ<ref>[[#長塚 1986|長塚 1986]],pp.565-566.</ref>。さらに不味いことに、13時にスールトがグルーシーに宛てた「直ちに移動して本隊と合流し、ビューローを叩け」とのナポレオンの命令を携えた伝令は道に迷い、19時になるまで到着しなかった<ref>[[#長塚 1986|長塚 1986]],p.566.</ref>。 |
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13時過ぎにデルロンの第1軍団が攻撃を開始した。左翼をキオ将軍の第1師団、中央を{{仮リンク|フランソワ=グザヴィエ・ドンズロ|label=ドンズロ|en|François-Xavier Donzelot}}将軍の第2師団・マルコニェ将軍の第3師団そして右翼をデュリット将軍の第4師団が受け持ったが、第1・第2・第3師団は「大隊編成の師団縦隊」と呼ばれる密集隊形をとおり、この隊形は戦術的融通性がなく敵砲兵の格好の的になった<ref name=nofi202>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.202.</ref>。デュリット将軍の第4師団のみは「分割された大隊縦隊」と呼ばれる縦深の深い隊形で進軍している。これは本来「分割」を意味していた''division'' を「師団」の意味と取り違えた命令が司令部から伝達される不手際だったと考えられている<ref name=nofi202/>。後に[[軍事学者]][[アントワーヌ=アンリ・ジョミニ|ジョミニ]]は第1軍団のこの隊形を「信じがたい」と酷評している<ref name=Jomini223224/>。 |
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ドンズロ将軍率いる左端の第2師団がラ・エー・サントに進撃した。1個大隊が正面の守備隊と交戦する間に後続の大隊が両側に展開し、いくつかの胸甲騎兵大隊の支援を受けつつ、農場の孤立化に成功する。ラ・エー・サントが分断されたと見たオラニエ公はハノーファー・リューネブルク大隊を投入してこれを救出しようと試みた。だが、地面の窪みに隠れていた胸甲騎兵がこれを捕捉して瞬時に撃破してしまい、それからラ・エー・サントを通り越して尾根の頂にまで進出し、進撃を続けるデルロンの左側面を守った。 |
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13時30分頃、デルロンは残る3個師団に前進を命じ、14,000人以上のフランス軍兵士が英蘭軍左翼の守るおよそ1,000mの戦線に展開した。彼らが対する英蘭軍は6,000人であり、第一線は{{仮リンク|ウィレム・フレデリク・バイラント|label=バイラント|en|willem Frederik van Bylandt}}率いるオランダ=ベルギー軍第2師団第1旅団によって構成されていた。第二線は{{仮リンク|トマス・ピクトン|en|Thomas Picton}}中将率いるイギリスおよびハノーファー兵の部隊であり、尾根の背後の死角に伏せていた。これらの部隊はいずれもカトル・ブラの戦いで大きな損害を出していた。加えて、戦場のほぼ中央部に配置されたバイラントの旅団は砲撃に身をさらす斜面前方に布陣していた<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|pp=166-168}}.</ref>。命令を受けていなかった彼らは危険な場所に留まっていた<ref group="注釈">これはオランダ側の史料、特にオランダ軍第2師団の戦闘詳報と矛盾する。; 右を参照せよ。[http://home.tiscali.nl/erwinmuilwijk/pdf-files/18-2-1.pdf Erwin Muilwijk,Bylandt's brigade during the morning]</ref>。 |
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砲撃によって大打撃を受けていたバイラントの旅団はフランス軍の攻撃に抗しきれずに窪み道へ退却し、将校のほとんどが戦死するか負傷し兵力の40%を失ってしまい<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.205.</ref>、ベルギー第7大隊を残して戦場から離脱した<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|p=177}}.</ref><ref group="注釈">戦場を離脱したことによりオランダは友軍部隊から非難を受けたが、これに同意せず、彼らは臆病なのではなくボナパルティストだったのだろうとする意見もある。{{Harvnb|Longford|1971|p=556}}</ref>。 |
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デルロンの兵は斜面を駆け上がり、そこにピクトンの兵が立ち上がって銃撃を浴びせた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.207.</ref>。フランス歩兵も応戦し、8,000対2,000と数に勝る彼らはイギリス兵を圧迫した<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.207.</ref>。デルロンの攻撃は英蘭軍中央部をたじろがせることに成功し<ref>第92高地歩兵連隊所属ホープ中尉の書簡 ({{Harvnb|Glover|2004}})</ref>、デルロンの左側の英蘭軍戦列が崩れはじめた。ピクトンは再集結を命じた直後に戦死し<ref name=nofi208>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.208.</ref>、敵の数に圧倒された英蘭軍の兵士たちも挫けかけていた。 |
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{{-}} |
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===イギリス騎兵の突撃=== |
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{{Quotation|我が軍の騎兵将校たちは馬を疾走させる悪ふざけに夢中になってしまった。彼らは置かれた状況を考慮せず、敵前で機動していると思ってもおらず、自制することも予備を控置することもしなかった。|ウェリントン|<ref name="WellingtonCavalry" />}} |
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[[File:Butler Lady Scotland for Ever.jpg|thumb|left|300px|『スコットランドよ永遠なれ』<br>第2竜騎兵連隊(''Scots Greys'')の突撃。<br>{{仮リンク|エリザベス・トンプソン|en|Elizabeth Thompson}}画]] |
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この決定的な時点で、英蘭軍の騎兵軍団を指揮するアックスブリッジは過大な重圧を受けている歩兵部隊を救援すべく、敵から見えない尾根の背後で整列していた近衛騎兵旅団(''Household Brigade'')の名で知られる{{仮リンク|第1騎兵旅団 (イギリス)|label=第1騎兵旅団|en|1st Cavalry Brigade (United Kingdom)}}({{仮リンク|エドワード・サマセット|en|Lord Edward Somerset}}少将)と連合騎兵旅団(''Union Brigade'')の名で知られる{{仮リンク|第2騎兵旅団 (イギリス)|label=第2騎兵旅団|en|1st Cavalry Brigade (United Kingdom)}}({{仮リンク|ウィリアム・ポンソビー|en|William Ponsonby (general)}}少将)の2個重騎兵旅団に突撃を命じた。 |
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およそ20年におよぶ戦乱により、ヨーロッパ大陸では騎乗に適した馬が激減しており、この結果、1815年戦役に参加したイギリス軍重騎兵は同時代の欧州諸国の騎兵部隊の中でも最も優れた馬を用いており、彼らはまた優れた馬上剣術の訓練を受けてもいた<ref>{{Harvnb|Wootten|1992|p=51}}.</ref>。しかしながら、彼らは大部隊での機動についてフランス騎兵に劣り、態度は尊大であり、歩兵と違って実戦経験が不足していた<ref group="注釈">例えば第2竜騎兵連隊(''Scots Greys'')は1801年以降実戦経験がなかった。{{Harvnb|Wootten|1992|p=21}}.</ref>。ウェリントンの言によれば、彼らは戦術能力も思慮分別もほとんどなかった<ref name="WellingtonCavalry">{{Harvnb|Barbero|2005|pp= 85–187}}.</ref>。 |
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[[File:Sunken-road-at-waterloo.jpg|thumb|300px|窪み道に落ちるフランス騎兵。<br>Stanley Berkley画、1902年。<br>この伝説は後に[[ヴィクトル・ユーゴー]]の小説『[[レ・ミゼラブル]]』で用いられ有名になったが、実際の窪み道の高低差は大きなものではなく、影響は僅かだった<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.220.</ref>。]] |
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2個の騎兵旅団の兵力はおよそ2,000騎(定数2,651騎)であり、47歳になるアックスブリッジが率いていたが、彼は不適切な数の予備兵力しか用意しておかなかった<ref group="注釈">{{Harvnb|Barbero|2005|p=188}}. <br>近衛騎兵旅団(9-10個大隊)からは近衛騎兵2個大隊が予備とされたが、連合騎兵旅団(9個大隊)は予備をつくらなかった。({{Harvnb|Siborne|1993|loc=Letter 5}},および、{{Harvnb|Glover|2004|loc=Letter 16}})<br>総兵力はおよそらく18個大隊だが、近衛竜騎兵連隊が3個大隊なのか4個なの確定する史料が存在しない。アックスブリッジは4個大隊と述べているものの({{Harvnb|Siborne|1993|loc=Letter 5}})、連隊の中央部の大隊を指揮したネイラー大尉は3個大隊だったと述べている({{Harvnb|Siborne|1993|loc=Letter 21}})。</ref>。会戦の日の朝、アックスブリッジは配下の騎兵旅団長たちに対して戦場では自分の命令が常に届くとは限らないので、おのおの自らの判断で行動するよう告げ、「前線に対して支援する運動をせよ」と命じていた<ref>Frederick Stovin (ADC to Sir Thomas Picton){{Harvnb|Glover|2004|loc=Letter 16}},</ref>。この際、アックスブリッジはヴァンドルー少将、ヴィヴィアン少将そしてオランダ=ベルギーの各騎兵隊がイギリス重騎兵隊を支援することを期待していた。後にアックスブリッジは前進に際して十分な数の予備隊を編成させなかったことに関して「私は大きな誤りを犯した」と後悔の念を吐露している<ref>{{Harvnb|Siborne|1993|loc=Letter 5}}.</ref>。 |
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近衛騎兵旅団は尾根の頂の連合軍布陣地を越えて丘の下へと突撃した。デルロンの左翼を守っていた胸甲騎兵は散開しており、深く窪んだ街道へと追いやられ、総崩れになった<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|p=426}}.</ref>。窪み道は罠と化し、イギリス軍騎兵に追われた胸甲騎兵たちを彼らの右方向へと押し流した。胸甲騎兵たちの一部は窪み道の急勾配と前方の混乱した友軍歩兵の集団との間に挟まれてしまい、そこへ英軍第95歩兵連隊が窪み道の北側から銃撃をし、サマセットの重騎兵が背後から彼らを押し続けた<ref>{{Harvnb|Siborne|1990|pp=410,411}}.</ref>。この装甲化した敵とのもの珍しい戦闘はイギリス騎兵たちに強い印象を与えており、近衛騎兵旅団長はこう記録している。 |
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{{Quotation|胸甲騎兵へのサーベルの一撃は火鉢を叩くのと同じ音がした。|エドワード・サマセット卿|<ref>{{Harvnb|Houssaye|1900|p=182}}</ref>}} |
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近衛騎兵旅団左翼の大隊は戦闘を続け、フランス軍第2師団第2旅団(オーラール旅団将軍)を撃破した。司令部は彼らを呼び戻そうと試みたものの、彼らは前進を続けてしまい、ラ・エー・サントを通り過ぎて丘の下に出たところで[[方陣]]を組む第1旅団(シュミット旅団将軍)と出くわした。 |
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[[File:Richard_Ansdell_—_The_Fight_For_The_Standard.jpg|thumb|upright|200px|第45連隊の鷲章旗を奪取するスコットランド騎兵の{{仮リンク|チャールズ・エドワード|label=エドワード軍曹|en|Charles Ewart}}。<br>Richard Ansdell画、1847年。]] |
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左翼では連合騎兵旅団が自軍の歩兵の隊列をすり抜けて突撃しており、この際に{{仮リンク|第92歩兵連隊(ゴードン・ハイランダーズ)|label=第92歩兵連隊|en|92nd (Gordon Highlanders) Regiment of Foot}}(''Gordon Highlanders'')の兵士の幾人が馬の[[鐙|鐙金]]にしがみついて突撃に参加したとの伝説が生まれている<ref name=nofi208/><ref group="注釈">この逸話はE・ブルース・ローの''The Waterloo Papers''に見られる。これは突撃に参加した最後の生き残り兵士であるディクソン曹長に由来する話である。''With Napoleon at Waterloo,'' MacBride, M., (editor), London 1911. </ref>。中央左側では第2竜騎兵連隊(''Scots Greys'')が第1師団第2旅団(ブルジョワ旅団将軍)の第105連隊を撃破して鷲章旗を奪取した。第6竜騎兵連隊(''Inniskillings'')はその他のフランス軍第1師団(キオ旅団将軍)の旅団を敗走させ、第2竜騎兵連隊は第3師団第2旅団(クルニエ旅団将軍)も叩きのめして第45連隊の鷲章旗を奪い取っている<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|pp=198–204}}.</ref>。だが、英蘭軍の左端では{{仮リンク|ピエール・フランソワ・ジョセフ・デュリット|label=デュリット|en|Pierre François Joseph Durutte}}将軍のフランス軍第4師団が方陣を組む時間的余裕を得て、第2竜騎兵連隊を追い払った。 |
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[[File:Napoleon French Lancer by Bellange.jpg|thumb|left|175px|フランス軍の槍騎兵(''Chevau-légers'')]] |
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近衛騎兵旅団と同様、連合騎兵旅団の将校たちも部隊の統率が失われていたために兵を引くことが難しくなっていた。第2竜騎兵連隊の指揮官{{仮リンク|ジェームズ・ハミルトン (イギリス陸軍将校)|label=ジェームズ・ハミルトン|en|James Hamilton (British Army officer, born 1777)}}は攻撃続行を命じ、フランス軍砲兵隊列に突進した。第2竜騎兵連隊は大砲を使用不能にしたり鹵獲する道具も時間的余裕もなかったが、彼らが砲兵たちを殺すか逃亡させたため結果的に大砲のほとんどが無力化された<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|p=211}}.</ref>。 |
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この様子を見ていたナポレオンは即座にフラリンヌとトラバーサーの2個胸甲騎兵旅団そして第1軍団の軽騎兵師団に所属する2個槍騎兵(''[[:en:Chevau-léger|Chevau-léger]]'')連隊に反撃を命じた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.208.</ref>。イギリス軍騎兵はすでに疲労困憊しており、そこをフランス騎兵に突かれ、連合騎兵旅団は叩きのめされ、近衛騎兵旅団は包囲され、たちまち危機に陥った<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.209.</ref>。ウェリントンはヴァンドルー少将率いるイギリス軍軽竜騎兵隊、ヴァヴィアン少将のオランダ=ベルギー軽竜騎兵および[[ユサール|驃騎兵]]そしてトリップ少将のオランダ=ベルギー{{仮リンク|騎銃兵|en|carabinier}}を救出に差し向けたが、英蘭軍の騎兵隊はこの突撃で2,500騎を失う甚大な被害を蒙ることになった<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.209</ref><ref group="注釈">犠牲者数はこの戦いの後に会戦全体のものとして集計されたものしかなく、この突撃の結果生じた騎兵旅団の損害に関する数値は全て推定である。会戦後に作成された報告書によると損害は次の通り。近衛騎兵旅団:初期戦力1,319人、戦死 – 95人、戦傷 – 248人、 行方不明 – 250人、合計 – 593人, 軍馬喪失 – 672頭。 連合騎兵旅団:初期戦力1,332人、戦死 – 264人、戦傷 – 310人、行方不明 – 38人 合計 – 612人, 軍馬喪失 – 631.<br>{{Harvnb|Adkin|2001|p=217}} (初期戦力),{{Harvnb|Smith|1998|p=544}} (損害)</ref>。 |
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連合騎兵旅団は将校と兵士が多数戦死傷し、旅団長のウィリアム・ポンソビーと第2竜騎兵連隊長のハミルトン大佐が戦死している。近衛騎兵旅団の第2近衛騎兵連隊(''Life Guards'')と近衛竜騎兵連隊もまた近衛竜騎兵連隊長フラー大佐の戦死を含む大損害を出した。 この一方で突撃の最右翼にいた第1近衛騎兵連隊(''Life Guards'')と予備に控置された王室近衛騎兵連隊(''Blues'')は統率を保つことができ、犠牲者数はごく少数だった。第8ベルギー軽騎兵連隊の戦いぶりを見た、この突撃の目撃者による手記は「気違いじみた勇敢さ」と回想している<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|pp=219–223}}.</ref><ref>{{Harvnb|Siborne|1990|pp=329,349}} (composition of brigades), pp. 422–424 (actions of brigades)</ref> |
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20,000以上のフランス軍将兵がこの攻撃に加わった。この失敗は多数の犠牲者(捕虜3,000を出している)だけでなく、ナポレオンに貴重な時間を失わせることになり、今やプロイセン軍が戦場の右手に姿を現し始めていた。ナポレオンはプロイセン軍を押し止めるべく、ロバウの第6軍団と2個騎兵師団の兵15,000の予備兵力を割かざる得なくなった。これにより、ナポレオンは近衛軍団を除く予備の歩兵戦力を全て投入したことになり、今や彼は劣勢な兵力をもって英蘭軍を速やかに打ち破らねばならなくなった<ref name=Hofschroer-122/>。 |
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===ネイ元帥の騎兵攻撃=== |
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[[File:Grande Armée - 10th Regiment of Cuirassiers - Colonel.jpg|thumb|175px|フランス軍の胸甲騎兵。<br>Carle Vernet画、1812年]] |
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15時30分、ナポレオンはネイ元帥に対してラ・エー・サントの奪取を厳命し、ネイはデルロンの第1軍団から引き抜いた2個旅団の兵力を持ってラ・エー・サントへの攻撃を開始した<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.214-215.</ref>。 |
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この戦闘が行われていた16時少し前、ネイは英蘭軍中央部に後退の動きがあると感じ取った。彼はこの機を逃さず突破口にしようと考えたが、実際には彼は負傷兵や捕虜の後送を撤退の兆候であると誤解していた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.215.</ref>。デルロンの敗退の後、ネイの手元には僅かな数の歩兵予備戦力しか残されておらず、他は実りのないウーグモン攻撃か、右翼の防衛に回されてた。このためネイ元帥は英蘭軍中央部を騎兵戦力のみで突破しようとした<ref name=Siborne439>{{Harvnb|Siborne|1990|p=439}}.</ref>。 |
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第一次攻撃は{{仮リンク|エドアルド=ジャン=パプディスト・ミヨー|label=ミヨー|en|Édouard Jean Baptiste Milhaud}}将軍の第4騎兵軍団の胸甲騎兵と{{仮リンク|シャルル・ルフェーヴル=デヌエット|label=デヌエット|en|Charles Lefebvre-Desnouettes}}将軍の近衛軽騎兵師団の合わせて4,800騎をもって敢行された。この攻撃はあまりに性急に組織されたものであり、掩護の歩兵も砲兵もなく決行された<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.216.</ref>。 |
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英蘭軍の歩兵は20個の[[方陣]](四角形の陣形)を組んでこれに対抗した<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.218.</ref>。方陣は戦闘を題材とした絵画によく描かれるものよりも小さめで、500人の大隊方陣は18m四方程度である。方陣は砲撃や歩兵に対しては脆弱だが騎兵にとっては致命的だった。方陣には側面攻撃ができず、馬は銃剣の矢ぶすまの中に突入できない。ウェリントンは砲兵に対して敵騎兵が近づいたら方陣の中に逃げ込み、敵が退却したら再び大砲に戻り戦うように命令していた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.219.</ref>。 |
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フランス軍騎兵の攻撃を目撃したイギリス軍近衛歩兵将校はその印象を非常に明快かつ幾分か詩的に書き残している。 |
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{{Quotation|午後4時頃、敵軍の砲撃が突然止み、我々は騎兵の大集団の進撃を目にした。この場にいて生き残った者は恐ろしい程に壮観なこの突撃を生涯忘れることはないだろう。圧倒的な、長く揺れ動く戦列が現れ、彼らはさらに前進し、陽光を浴びた海の大波のごとくに煌めいた。彼らが近づくにつれて雷鳴のような馬蹄の響きによって地面が揺れ動くようだった。この恐ろしい動く集団の衝撃に抗しうると考えるものは誰もいなかったろう。彼らは有名な胸甲騎兵、そのほとんどがヨーロッパの数々の戦場でその名をはせた古参兵たちだった。驚くほど短い時間で彼らは20ヤードにまで迫り、「皇帝陛下万歳」("''Vive l'Empereur!''")と叫んだ。「騎兵に備えよ」と命令が下り、最前列の兵たちが跪き、そして鋼鉄の棘が逆立ったひとつの壁となり、団結して、怒り狂う胸甲騎兵に立ち向かった。|リース・ハウエル・グロノウ近衛歩兵大尉|<ref>{{Harvnb|Gronow|1862|loc=}}</ref>}} |
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[[File:Wellington at Waterloo Hillingford.jpg|thumb|300px|戦場を巡り兵を鼓舞するウェリントン。<br>Robert Alexander Hillingford画。]] |
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このタイプの騎兵による集団攻撃は心理的衝撃効果の有無にほとんど完全に依存していた<ref>{{Harvnb|Weller|1992|pp=211,212}}</ref>。砲兵による近接支援が歩兵の方陣を崩して騎兵の突入を可能にするが、ワーテルローの戦いにおいてはフランス軍騎兵と砲兵の協同は拙劣なものだった。英蘭軍歩兵を叩ける距離まで近づいた砲兵の数は十分ではなかった<ref>{{Harvnb|Adkin|2001|pp=252,361}}.</ref>。 |
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この突撃に際してフランス軍の砲撃は英蘭軍に死傷者を出させたが、これらの砲撃のほとんどは比較的長距離か、目標が尾根の向こう側にいたために間接射撃となっている。もしも、攻撃を受けた歩兵が方陣防御の陣形をしっかり保ち、パニックに陥らなければ、騎兵それ自体では歩兵に対してほんの僅かな被害しか与えられない。フランス軍騎兵の突撃は不動の歩兵方陣によって繰り返し撃退され、イギリス砲兵の絶え間ない砲撃によってフランス騎兵は再編成のために斜面を下ることを強いられ、そしてイギリス軍軽騎兵連隊、オランダ軍重騎兵旅団そして近衛騎兵旅団の生き残りによる果断な反撃を受けることになった。 |
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少なくとも一人の砲兵士官は突撃を受ければ最寄りの方陣に逃げ込めとのウェリントンの命令に従わなかった。[[王室騎馬砲兵]](''[[:en:Royal Horse Artillery|Royal Horse Artillery]]'')の{{仮リンク|キャヴァリエ・マーサー|label=マーサー大尉|en|Cavalié Mercer}}は両側で方陣を組むブラウンシュヴァイク兵は当てにならないと考え、この戦闘の間中、9門の6ポンド砲を敵に向けて戦い続け、多大な戦果をあげた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.219-220.</ref>。 |
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{{Quotation|私は彼らの縦隊の先頭が50から60ヤードに近づくまで、彼らを前進するにまかせ、それから「撃て!」と命じた。その効果は恐るべきものだった。先鋒のほとんど全員が一度に倒れ、縦隊を突き抜ける砲弾は全体に混乱を引き起こした … すべての大砲からの砲撃が続けられ、人や馬を倒し、それはまるで草刈鎌で雑草を薙ぎ払うようだった。 |キャヴァリエ・マーサー、王室騎馬砲兵(RHA)|<ref name="M70">{{Harvnb|Mercer|1870|loc=}}</ref>}} |
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[[File:Charge of the French Cuirassiers at Waterloo.jpg|left|thumb|300px|英蘭軍の方陣はフランス軍騎兵の突撃に対して頑強に抵抗した。<br>Henri Félix Emmanuel Philippoteaux画、19世紀。]] |
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理由は定かではないが、フランス軍が英蘭連合軍の砲兵隊列を制圧しても、砲尾に穴を開けて使用不能にしておかなかった。そのため、方陣に逃げ込んでいた英蘭軍砲兵たちはフランス騎兵が撃退されると大砲のあった場所に戻り、再び彼らに砲撃を浴びせることができた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.222-223.</ref>。 |
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ネイは4度の突撃を敢行させたが、遂に英蘭軍の方陣を突破することはできなかった<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.223.</ref>。 |
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ナポレオンはネイの攻撃は時期尚早にすぎ失策であるとは思っていたが、一方でプロイセン軍が右側面から迫っている状況でもあり、まずは早急に英蘭軍を撃破すべきであり、中央部への攻撃を続行させる決断をした<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.224.</ref>。 |
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ミヨーとデヌエットの残存兵力に[[フランソワ・エティエンヌ・ケレルマン|ケレルマン]]将軍の第3騎兵軍団と{{仮リンク|クロード・エティエンヌ・ギヨー|label=ギヨー|en|Claude-Étienne Guyot}}将軍の近衛重騎兵師団が加えられ、総兵力は67個騎兵大隊9,000騎となった<ref>{{Harvnb|Adkin|2001|p=356}}.</ref>。この攻撃は無意味であると認識していたケレルマンは精鋭の銃騎兵旅団を予備として控えさせ、戦闘に参加させなかったが、このことを見抜いたネイが彼らの投入を要求している<ref name=Adkin359>{{Harvnb|Adkin|2001|p=359}}.</ref>。 |
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8度の突撃が行われ、ある方陣は23度も攻撃を受けたが、今回も砲兵は1個中隊しか加わっておらず、英蘭軍は一つの方陣も崩壊せず、ネイの攻撃はまたも頓挫した<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.225,227.</ref><ref group="注釈">ナポレオンの側近のアンドレ・マルローは騎兵部隊の攻撃がイギリス軍の方陣をいくつか破壊したと主張している。[[#マルロー 2004|マルロー 2004]],pp.424-425.</ref>。 |
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被害の大きい、だが実りのない攻撃がモン・サン・ジャン尾根に繰り返された末にフランス軍騎兵は消耗し尽くしてしまった<ref>{{Harvnb|Weller|1992|p=114}}</ref>。フランス軍の高級騎兵将校、とりわけ将官、は大きな損失を被った。勇敢さゆえ、そして指揮官が部隊の先頭に立つ習慣のために、フランス軍の師団長4人が負傷し、旅団長は9人が負傷し、1人が戦死した<ref name=Adkin359/>。死傷者数は簡単には見積もれないが、例として、6月15日時点で796人いた近衛擲弾騎兵連隊(''Grenadiers à Cheval'' )は6月19日には462人になっており、近衛竜騎兵連隊(''l'Impératrice Dragons'')は同じ期間に816人中416人を失った<ref>{{Harvnb|Houssaye|1900|p=522}}</ref>。 |
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ここに至り、騎兵単独では僅かしか成し得ないと、ネイ元帥もようやく悟った。遅まきながら彼は[[諸兵科連合]]での攻撃を組織することにし、レイユ将軍の第2軍団からバシュルュ将軍の第5師団とフォワ将軍の第9師団からティソ大佐の連隊を抽出させて兵6,500を集め、これに騎兵のうち未だに戦闘可能なものたちを加えさせた。今回の攻撃もそれまでの重騎兵による攻撃と同じ経路が用いられた<ref name=Adkin361>{{Harvnb|Adkin|2001|p=361}}.</ref> 。この攻撃はアックスブリッジ率いる近衛騎兵旅団によって止められた。だが、イギリス騎兵の攻撃はフランス軍歩兵を突破することができず、銃撃の損害により後退を強いられている<ref>{{Harvnb|Siborne|1993|pp=14,38–39}}.</ref>。バシュルュとティソの歩兵と彼らを支援する騎兵たちは砲撃とアダム将軍のイギリス軍第3旅団の銃撃にひどく叩かれ、後退を余儀なくされた<ref name=Adkin361/>。フランス騎兵自体は英蘭軍中央部に僅かな死傷者しか与えられなかったが、方陣に対する砲撃は多数の犠牲者を出させていた。最左翼に布陣していたヴァンドルーの第4騎兵旅団とヴィヴィアンの第6騎兵旅団を除く、英蘭軍の騎兵はこの戦闘に投入されて、多大な損害を受けていた。英蘭軍にとっても危険な状態であり、カンバーランド驃騎兵連隊(この戦いに参加した唯一のハノーファー騎兵)は戦場から逃げ出し、ブリュッセルまでの道中で敗戦の噂をまき散らしている<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.234.</ref><ref group="注釈">その後、連隊長は軍法会議にかけられて除隊させられている。この際、彼は部下の兵士(全員が裕福な若いハノーファー人)たちは自らの馬で参戦しており、彼らに戦場に留まるよう命じられなかったと主張している。戦いの後に連隊は解散させられ、兵士たちは彼らが不名誉と考える任務に就かされた。({{Harvnb|Siborne|1990|p=465}})4名がマーサー大尉の騎馬砲兵隊に配属されたが、大尉は彼らを「どいつもこいつも呆れるほど怒りっぽく、すねている」と評した。 ({{Harvnb|Mercer|1870|loc=}}).</ref> |
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[[File:Knotel - The storming of La Haye Sainte.jpg|right|thumb|300px|alt=The storming of La Haye Sainte by Knötel|ラ・エー・サントへの突入。<br>Knötel画。]] |
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ネイの諸兵科連合攻撃が決行されたと時を同じくして、デルロンの第1軍団も兵を集結させ、第13歩兵連隊を先鋒にラ・エー・サントへの攻撃を再開した<ref>{{Harvnb|Beamish|1995|p=367}}.</ref>。ラ・エー・サントは国王直属ドイツ人部隊(KGL)が守備していたが、英蘭軍は他の方面での戦闘に忙殺されてここへの弾薬の補給が滞っており<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.235.</ref>、フランス軍の猛攻を受けた国王直属ドイツ人部隊は支えきれずに退却し、400人いた兵士は僅か42人に減っていた<ref>[[#Wootten 1992|Wootten 1992]],pp.73.</ref>。 |
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ラ・エー・サントを占領したネイは[[騎馬砲兵]]を英蘭軍中央部に向けて移動させると歩兵の方陣に対して短射程の[[ぶどう弾]]を用いた砲撃を加えた<ref name=Siborne439/>。これによって目に付きやすい方陣を組んでいた第27歩兵連隊(''Inniskilling'')そして第30および第73歩兵連隊は多数の犠牲者を出して撃破された。 |
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この時、英蘭軍の中央部は危険なほど手薄になっており、もう一撃でネイは中央部を突破しえるところまで来たが、彼にはそれを実行する予備兵力がなかった<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.237;[[#Wootten 1992|Wootten 1992]],pp.73.</ref>。ネイはナポレオンの本営に増援を求めたものの、この時すでにプランスノワでプロイセン軍との戦闘が始まっている状況でありその余裕はなく、使者に対してナポレオンは「もっと兵隊をよこせだと!?どこからそんなものが手に入る?奴は私が兵士をつくれるとでも思ってるのか?」と言い放った<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.205;[[#Wootten 1992|Wootten 1992]],pp.73.</ref>。 |
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実際にはナポレオンの手元には皇帝近衛軍団の15個大隊の無傷の兵力が残されていたが、彼はこの最後の予備戦力を投入する決断ができなかった<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.237-238.</ref>。 |
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ウェリントンは兵力をかき集めて戦線の穴を塞ぐよう努め、「最後の一兵まで戦場に踏みとどまれ、今少しで救済は得られる」と兵を叱咤した<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.237-239.</ref>。 |
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===プロイセン軍の来援=== |
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[[File:Prussian Attack Plancenoit by Adolf Northern.jpg|thumb|300px|プロイセン軍のプランスノワ攻撃。<br>Adolph Northern画、1863年。]] |
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16時頃、ビューロー中将のプロイセン軍第4軍団がフランス軍の前哨部隊と接触し始めた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.227.</ref>。彼の目標はプランスノワであり、プロイセン軍はここをフランス軍の背後に回り込む跳躍台に使うことを計画していた。ブリュッヘル元帥はパリの森の道を通過する自軍の右側面を守るためにフリシェルモンの集落を確保することを考えている<ref name="Hofschroer-116">{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=116}}</ref>。ブリュッヘルとウェリントンはこの日の10時から連絡を取り合っており、もしも英蘭軍の中央部が攻撃されていたら、フリシェルモンへ進出することになっていた<ref name="Hofschroer-95">{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=95}};{{Harvnb|Chesney|1907|p=165}}</ref>。 |
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プランスノワへの道が空いているとビューロー将軍が気づいたのは16時30分のことだった<ref name="Hofschroer-116"/>。この時はフランス軍騎兵による攻撃が最高潮に達しており、英蘭軍の左側面を守るナッサウ軍と連携すべくフリシェルモン=ラ・エイ間の地域へ第15旅団が派遣された<ref name="Hofschroer-117">{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=117}}</ref>。ナポレオンはプランスノワへ向けて進軍中のビューローの第4軍団を迎撃すべく、ロバウ将軍の第6軍団を差し向けた。プロイセン軍第15旅団は決死の銃剣突撃でフリシェルモンにいたロバウの兵を追い払い、そのままフリシェルモンの高地に進出して12ポンド砲でフランス軍猟兵を打ちのめすとプランスノワへ向かった。これによってロバウの軍団はプランスノワ方面へ退却させられ、結果的にロバウはフランス軍の右翼後方を通り過ぎることになり、唯一の退却路であるシャルルロワ―ブリュッセル街道が直接脅かされることになる<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.228.</ref>。 |
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ヒラー将軍のプロイセン軍第16旅団もまた6個大隊をもってプランスノワへと進撃していた。ナポレオンは押しまくられているロバウへの増援として新規近衛隊の全力である8個大隊を送った。新規近衛隊は反撃を行い、激戦の末にいったんはプランスノワを確保したものの、プロイセン軍の逆襲を受けて駆逐されてしまう<ref name="Hofschroer-122">{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=122}}</ref>。ナポレオンは更に中堅近衛隊と古参近衛隊から2個大隊を派遣し、熾烈な銃剣戦闘の末に村を奪回した<ref name="Hofschroer-122"/>。頑強なプロイセン軍は未だ打ち倒されてはおらず、18時30分にはピルヒの第2軍団の兵15,000も来着し、ビューローの第1軍団主力とともにプランスノワ攻撃を準備した<ref name=nofi232>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.232.</ref>。 |
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18時頃、ツィーテン将軍の第1軍団20,000がオアンに到着した<ref name=nofi230>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.230.</ref>。ウェリントンとの連絡将校を務めるミュッフリンクが第1軍団のもとを訪れた。この時、ツィーテンは既に第1旅団を繰り出していたが、英蘭軍左翼のナッサウ軍部隊やプロイセン軍第15旅団の戦いぶりと犠牲者数を見て憂慮するようになっていた。これらの部隊は退却しているように見受けられ、自分の部隊が総崩れに巻き込まれるのではないかと恐れたツィーテンは英蘭軍の側面から離れてプロイセン軍の主力がいるプランスノワへ向かおうとしていた<ref name=nofi230/>。この動きを知ったミュッフリンクは英蘭軍の退却は事実無根であり、彼らの左翼を支援するようツィーテンを説得した<ref name=nofi230/>。ツィーテンは当初の方針通りに英蘭軍を直接支援することにし、彼の軍団の到着により、ウェリントンは左翼の騎兵を崩壊しかけていた中央へ振り向けることができた<ref>{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=125}}</ref>。 |
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第1軍団はパプロット前面でフランス軍を攻撃し、19時30分にはフランス軍の戦線は馬蹄型がねじ曲げられてしまう。戦線の左端はウーグモン、右がプランスノワ、中央はラ・エイとなった<ref name=Hofschroer-139>{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=139}}</ref>。一連の攻撃を受けたデュリュットのフランス軍第4師団はラ・エイとパプロットに陣取っていたが<ref name=Hofschroer-139/>、プロイセン軍第24連隊に抵抗することなくソムランの背後にまで後退した。第24連隊は新たなフランス軍の布陣地を攻撃したが撃退され、シュレジェン・ライフル兵(''Schützen'' )連隊と第1後備兵(''Landwehr'')連隊の支援を受けて再度攻撃を仕掛けた<ref name=Hofschroer-140>{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=140}}</ref>。この再攻撃を受けフランス軍はいったんは後退させられたものの、激しく抵抗し始め、ソムラン奪回を図り、尾根やパプロットの集落の最後の数軒の立て籠もって死守した<ref name=Hofschroer-140/>。第24連隊は右側でイギリス軍ハイランダー大隊と結びつき、第13後備兵連隊や騎兵の支援を受けてこの場所からフランス軍の兵士を追い立てた。第13後備兵連隊と第15旅団の攻撃により、フランス軍はフリシェルモンから駆逐された<ref>{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=141}}.</ref>。デュリュットの師団はツィーテンの第1軍団騎兵予備から大規模な突撃を受けかねないと考え、戦場から退却した。これにより、第1軍団はフランス軍の唯一の退路だったブリュッセル街道へ前進した。 |
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===皇帝近衛隊の突撃=== |
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| image1 = Crofts-Napoleon's last grand attack at Waterloo.jpg |
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| caption1 = [[古参近衛隊]]に英蘭連合軍への攻撃準備を命じるナポレオン。<br>William M. Sloane画、1895年。 |
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| image2 = Plas Newydd (Anglesey) - Waterloo 1.jpg |
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| caption2 = 戦闘の最終局面でフランス兵を攻撃するイギリス軍第10軽騎兵連隊。<br>Wolfgang Sauber画。 |
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この一方、ラ・エー・サントが陥ちたことで英蘭軍中央部がむき出しになり、プランスノワの戦線は一時的に小康を得た。ナポレオンはこれまで無敵を誇ってきた皇帝近衛隊の投入を決めた。19時30分に決行されたこの攻撃は英蘭軍の中央を突破してその戦線をプロイセン軍から引き離すことにあった。この突撃は軍事史上名高い出来事の一つではあるが、具体的にどの部隊が参加したのかは不明確である。この攻撃は古参近衛隊の擲弾兵や猟歩兵ではなく、中堅近衛隊5個大隊によって行われたと見られる<ref name=Adkin391 group="注釈"/>。古参近衛隊3個大隊は前進し、攻撃の第二陣を構成したものの、彼らは予備のまま留め置かれ英蘭軍に対する攻撃には直接加わっていない<ref name=Adkin391 group="注釈">攻撃を敢行したのは第1中堅近衛擲弾兵連隊の第3および第4大隊、第1中堅近衛猟歩兵連隊第3大隊、第2中堅近衛猟歩兵連隊第3および第4大隊であり、第2古参近衛擲弾兵連隊第24大隊、第2古参近衛猟歩兵連隊第1および第2大隊は予備となった。{{Harvnb|Adkin|2001|p=391}}</ref>。 |
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{{Quotation|・・・私は皇帝によって指揮される近衛隊の4個連隊の到着を目にした。これらの部隊をもって、皇帝は攻撃を再開し、敵軍中央部を突破することを望んだ。皇帝は私に彼らを率いるよう命じ、将軍、将校そして兵士たちはみな、非の打ちどころのない豪胆さを示して見せた。だが、この一群の兵士たちは、敵に対して長きに渡って抵抗するには弱すぎた。そして、この攻撃が(ほんの僅かな間ではあったが)奮い立たせた希望をすぐに捨てざる得なくなった。|ネイ元帥|<ref name=Booth-73-74>{{Harvnb|Booth|1815|pp=73,74}}</ref>}} |
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[[File:Soldat-der-Alten-Garde.png|thumb|140px|left|古参近衛隊の擲弾兵。<br>Édouard Detaille画。]] |
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ぶどう弾による砲撃や散兵からの銃撃を受けつつ、およそ3,000の中堅近衛兵はラ・エー・サントの西側にまで前進し、攻撃のために三方向に別たれた。2個中堅近衛擲弾兵大隊からなる集団はイギリス、ブラウンシュヴァイクそしてナッサウ兵からなる第一線を突破し<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.245-246.</ref>、比較的損害の少ない{{仮リンク|ダビッド・ヘンドリック・シャッセ|label=シャッセ|en|David Hendrik Chassé}}将軍のオランダ=ベルギー軍第3師団が彼らに対するべく差し向けられ、英蘭軍の砲兵が勝ち誇る中堅近衛擲弾兵の側面を攻撃した。これでもなお中堅近衛隊の前進を止められなかったために、シャッセは自らの第1旅団に数に劣る中堅近衛隊に対する突撃を命じ、中堅近衛隊はひるみそして粉砕された<ref name=Chesney-178>{{Harvnb|Chesney|1907|pp=178,179}}</ref>。 |
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西側では{{仮リンク|ペレグリン・メイトランド|label=メイトランド|en|Peregrine Maitland}}少将のイギリス軍第1近衛旅団1500人がフランス軍の砲撃から身を守るために伏せていた。フランス軍第二派である2個中堅近衛猟歩兵大隊が接近するとメイトランドの近衛歩兵は立ち上がり、猛烈な一斉射撃を浴びせた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.246.</ref>。中堅近衛隊の猟歩兵はこれに応戦すべく展開したが、浮き足立ち始めた。イギリス軍近衛歩兵隊による銃剣突撃がこれを打ち破った。無傷の近衛猟歩兵大隊からなる第三派が支援のために駆けつけた。イギリス軍近衛兵は後退し、フランス軍の中堅近衛猟歩兵がこれを追うが、{{仮リンク|ジョン・コルボーン|en|John Colborne}}中佐率いる{{仮リンク|第52歩兵連隊 (オックスフォードシャー)|label=第52軽歩兵連隊|en|52nd (Oxfordshire) Regiment of Foot}}が彼らの側面に回りこみ強烈的な射撃を浴びせかけ、突撃した<ref name=Chesney-178/><ref name=Parry-70>{{Harvnb|Parry|1900|p=70}}</ref>。この猛攻により、フランス軍第三派も撃破された<ref name=Parry-70/>。 |
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最後の皇帝近衛隊がいちもくさんに退却すると、フランス軍の前線に仰天すべき知らせが駆け巡り、パニックが巻き起こった。「近衛隊が退却した。我が身を守れ!」( "''La Garde recule. Sauve qui peut''!" )。一方、愛馬のコペンハーゲン号{{enlink|Wellington Statue Aldershot|en}}に跨ったウェリントンは帽子を頭上に振って総進撃を命じ、「始めたからにはやり通せ」(''"[[:en:wikt:in for a penny, in for a pound|In for a penny, in for a pound]]"'')と言った<ref>[[#ストローソン 1998|ストローソン 1998]],p.287.</ref>。陣地から飛び出した彼の軍隊は、退却するフランス軍に襲いかかった<ref name=Chesney-178/>。 |
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生き残った皇帝近衛隊の兵士たちは最後の抵抗の場所{{enlink|last stand|英語版}}とすべく予備としてラ・エー・サント南側に後置されていた3個大隊(いくつかの史料は4個としてる)のもとに集まった。{{仮リンク|フレデリック・アダム|label=アダム|en|Frederick Adam}}少将の第3旅団とハノーファー軍後備兵連隊オスナブリュック大隊に加えてヴァンドルー少将とヴィヴィアン少将の比較的傷が浅い騎兵旅団が右側から突撃し、皇帝近衛隊を混乱に陥れた。ある程度統率を保っていた左側の皇帝近衛隊はラ・ベル・アリアンスの方向へ退却した。この退却のさなか、皇帝近衛隊の一部が降伏を勧告され、有名な返答をしている。皇帝近衛隊の指揮官は「近衛兵は死ぬ。降伏などしない!」("''La Garde meurt, elle ne se rend pas!''")<ref group="注釈">この発言は一般に[[ピエール・カンブロンヌ]]旅団将軍のものとされ、1815年6月24日に出版された"Journal General"誌の"journalist Balison de Rougemont"が原典であるが (Shapiro (2006) [http://books.google.co.uk/books?id=w5-GR-qtgXsC&pg=PA128&dq=Rougemont+Waterloo p. 128])、 カンブロンヌ自身は「くそったれ!」( "''Merde!''" )と言ったと主張している(Boller [http://books.google.co.uk/books?id=NCOEYJ0q-DUC&printsec=frontcover#PPA12,M1 p. 12])。『[[ザ・タイムズ]]』1932年6月号に掲載された書簡によるとカンブロンヌはこれ以前に既にヒューグ・ハケット大佐の捕虜になっており、もしも本当にこの言葉が発せられたとするならば、それはクロード=エティエンヌ・ミシェル将軍のものとなる(White, and {{Harvnb|Parry|1900|p=p. 70}})</ref>またはただ一言「[[メルド (フランス語)|くそったれ!]]」(''"Merde!"'')と叫んだという<ref group="注釈">「近衛兵は死ぬ。降伏などしない!」は後世に創作された歴史上の発言の一つであるとする見方もある。この言葉を発したとするカンブロンヌ将軍はこんなことを言ってはいなかった。ビクトル・ユゴーが『レ・ミゼラブル』の文中で本当の言葉を再現している。それはたった一言「メルド(フランス語で「糞便」の意味)」("''Merde!''")だった。 (David Masson, ''et al''. ''Macmillan's magazine'', Volume 19, Macmillan and Co., 1869, [http://books.google.co.uk/books?id=xt76rS3-RbwC&q=fictitious+The+Guard+dies,+it+does+not+surrender&dq=fictitious+The+Guard+dies,+it+does+not+surrender p. 164])</ref>。 |
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===プランスノワ奪取=== |
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[[File:Ludwig Elsholtz Erstürmung von Planchenois.jpg|thumb|300px|プランスノワ突入。<br>Ludwig Elsholtz画、1843年。]] |
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同じ頃、プロイセン軍第5、第14そして第16旅団がこの日三度目となるプランスノワへの攻撃を開始した<ref name=Hofschroer-144/>。村の教会は炎上し、フランス軍の抵抗の中心となっていた墓地では「竜巻が起きたよう」に死体が撒き散らされた<ref name=Hofschroer-144>Hofschröer, pp. 144,145 </ref>。新規近衛隊を支援するために中堅近衛隊5個大隊が展開したものの、実際上、彼らの全てがロバウの軍団の残余とともに防戦を行っていた<ref name=Hofschroer-144/>。プランスノワ攻防の要は南側にあるシャトレの森であり、ピルヒの第2軍団に所属する2個旅団が到着して、この森を突破しようとする第4軍団を増強した。プロイセン軍第25連隊マスケット銃大隊は第1古参近衛擲弾兵連隊第2大隊をシャトレの森から逐うとプランスノワの側面を攻撃し、フランス軍に退却を強いた。これはこの日、プランスノワの持ち主が変わる5度目にして最後のことだった。古参近衛隊は整然と退却したが、パニック状態で退却する友軍の群れに巻き込まれて、彼らもその一部となってしまった<ref name=Hofschroer-144/>。 |
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プロイセン第4軍団がプランスノワを越えて前進するとイギリス軍の追撃を受けて無秩序に敗走するフランス軍の群れに遭遇した<ref name=Hofschroer-144/>。プロイセン軍は英蘭軍部隊にあたることを恐れて発砲を控えた。皇帝近衛隊とともに退却しなかったフランス軍部隊は持ち場で降伏して殺害され、その際、双方とも慈悲を求めも申し出もしなかった。プランスノワの攻防の死傷者数に関する資料は存在しないが、この戦いに参加したフランス軍第6軍団と新規近衛師団の将校のうち3分の1が死傷していることが戦いの激しさを物語っている<ref name=nofi232/>。 |
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{{Quotation|偉大な勇気と粘り強さにも関わらず、村で戦っていた皇帝近衛隊は動揺の兆しを見せ始めた。教会はすでに炎上しており、赤い火柱が窓や側廊そして扉から吹き上がっていた。いまだに激しい白兵戦闘が行われている集落の家々も燃えており、混乱を増させた。しかしながら、フォン・ヴィッツレーベン少佐の機動が完了して皇帝近衛隊の側面と背面が脅かされると、彼らも撤退を始めた。{{仮リンク|ジャン=ジャック•ジェルマン・ペレテ=クリュゾー|label=ペレテ|en|Jean-Jacques Germain Pelet-Clozeau}}将軍の率いる近衛猟歩兵が殿(しんがり)を努めた。残りの皇帝近衛隊は大慌てで撤退し、大量の大砲、その他の装備と弾薬輸送馬車が遺棄された。プランスノワからの脱出はシャルルロワへのフランス軍の退路を守る場所を失うことを意味していた。戦場のその他の場所とは異なり、ここでは「わが身を守れ!」("''Sauve qui peut!''")との悲鳴は聞かれなかった。その代わりに「我らが軍旗を守れ!」("''Sauvons nos aigles!''" )との雄叫びが聞こえた。|プロイセン軍第4軍団所属第24連隊公刊戦史<ref>{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=145}}</ref>}} |
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===崩壊=== |
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[[File:Dernier carre de la Garde - gen Hill.png|thumb|300px|皇帝近衛隊の最後の残兵に降伏を勧告する{{仮リンク|ローランド・ヒル (初代ヒル子爵)|label=ヒル|en|Rowland Hill, 1st Viscount Hill}}将軍。 <br>Robert Alexander Hillingford画。]] |
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今やフランス軍の右翼と左翼そして中央はすべて瓦解した<ref name=Hofschroer-144/>。ラ・ベル・アリアンスに布陣している古参近衛隊の2個大隊が未だ統制を維持している最後のフランス軍であり、彼らは最後の予備兵力そしてナポレオンの護衛として残されていた。ナポレオンはフランス軍を彼らの背後で再集結させようと望んだが<ref>{{cite web|title=Waterloo, 18 June 1815: The Finale.|url=http://home.iprimus.com.au/cpcook/letters/pages/waterfini.htm|publisher=|author=Kincaid, Captain J., Rifle Brigade|page=|accessdate=2007年9月14日}}</ref>、後退は敗走となり、古参近衛隊もまた撤退を余儀なくされ、連合軍の騎兵隊からの防御のためにラ・ベル・アリアンスの両側に1個大隊づつが方陣を組んだ。もはやこの戦いには敗れており、ここを去るべきだと説得されたナポレオンは皇帝近衛隊の方陣にここの宿場を離れるよう命じた<ref name=Creasy-XV/><ref>{{Harvnb|Comte d'Erlon|1815|loc=}}</ref>。 |
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アダム少将の第3旅団が突撃をかけて皇帝近衛隊の方陣は後退を余儀なくされ<ref name=Parry-70/><ref name=Hofschroer-149>{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=149}}</ref>、プロイセン軍はその他の部隊と交戦した。夕闇が降りるとともに二つの方陣は比較的整然と撤退したが、フランス軍の大砲やその他の装備は連合軍の手に落ちた。撤退する皇帝近衛隊は何千人もの逃げ惑い支離滅裂となったフランス軍兵士たちの群れに飲み込まれた。追撃は比較的消耗の少ないプロイセン軍が受け持ち、プロイセン軍参謀長グナイゼナウは「月光下の狩猟」と称して、夜更けまで敗残兵たちを追い回した<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.252.</ref>。追撃戦でフランス軍の大砲78門が鹵獲され、多数の将軍を含む2,000人が捕虜になっている<ref name=Hofschroer-150>{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=150}}</ref>。 |
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{{Quotation|我々には後退を援護するための四つの古参近衛隊による方陣がまだ残されていた。軍から選ばれた彼ら勇敢な擲弾兵は数に圧倒されて次々と後退を強いられ、次第々々に地面を明け渡していき、最終的に彼らは完全に殲滅された。この時から兵たちは背を向けて逃げ始め、軍隊は単なる混乱した群衆と化した。しかしながら、これは総崩れではなく、また巷間で中傷的に言われているような「わが身を守れ!」(''sauve qui peut'')との悲鳴は聞かれなかった。|ネイ元帥|<ref name=Booth-74>{{Harvnb|Booth|1815|p=74}}</ref>}} |
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{{-}} |
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==戦後== |
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| image1 = Morgen nach der Schlacht967b.jpg |
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| caption1 = 『戦いから一夜明けたワーテルロー』<br>John Heaviside Clark画、1816年。 |
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| image2 = Wilkie chelseapensioners.jpg |
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| caption2 = ワーテルローの戦勝報を読む{{仮リンク|ロイヤル・ホスピタル・チェルシー|en|Royal Hospital, Chelsea}}(退役軍人用の病院)の入居者たち。<br>{{仮リンク|デイヴィッド・ウィルキー (画家)|label=デイヴィッド・ウィルキー|en|David Wilkie (artist)}}画、1882年。 |
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{{Quotation|フランス軍の布陣のほぼ中央、高地の上にある建物が、ラ・ベル・アリアンス(''La Belle Alliance'')と呼ばれる農場だった。すべてのプロイセン軍は、この戦場のあらゆる場所から見ることができる、この農場へ向けて進軍した。ここはこの会戦中にナポレオンがいた場所であり、ここで彼は命令を下し、勝利の希望に自惚れていた。そして、ここが彼の破滅が決定的となる場所となった。夜の闇の中、幸運にも、この場所でブリュッヘル元帥とウェリントン公が会見する機会が得られ、彼らは勝者として敬礼しあった。|グナイゼナウ将軍|<ref name=Booth-23>{{Harvnb|Booth|1815|p=23}}</ref>}} |
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ウェリントン公とブリュッヘル元帥との会見は21時頃にナポレオンの本営があったラ・ベル・アリアンスで行われた<ref>[http://www2.army.mod.uk/infantry/regts/the_rifles/history_traditions/ Regimental history of the Rifles]: [http://www2.army.mod.uk/infantry/regts/the_rifles/history_traditions/origins_campaigns/the_battle_of_waterloo.htm Battle of Waterloo] on an old website of the [[:en:British Ministry of Defence]]. See the link near the bottom called [http://www2.army.mod.uk/linkedfiles/lightinfantry/regimental_downloads/the_battle_of_waterloo.ppt "here" (ppt)] Slide 39</ref><ref group="注釈">歴史家[[:en:Peter Hofschröer|Peter Hofschröer]]は会見は22時頃にジュナップで行われ、会戦の終了を確認しあったとしている。{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=151}}</ref>。ブリュッヘルはこの戦いをナポレオンの本営があった戦場の中心地であり、両軍の「同盟」(''alliance'')の意味にもかけた「ラ・ベル・アリアンスの戦い」(直訳すると「良き同盟の戦い」)と命名したいとウェリントンに通達したが、ウェリントンは英語での発音を気にかけて戦場とはやや離れた場所にあるワーテルロー村(英語の発音はウォータールー)の地名に拠る'''ワーテルローの戦い'''(''Battle of Waterloo'')と命名して報告書を本国に送った<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.253.</ref>。このため、ドイツではこの戦いは'''ラ・ベル・アリアンスの戦い'''(''Schlacht bei Belle-Alliance'')とも呼ばれる。 |
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ワーテルローの戦いでウェリントンの英蘭軍は戦死傷約17,000人・行方不明10,000人を出しており<ref name=nofi255/>、ブリュッヘルのプロイセン軍のそれは約7,000人であり<ref name=nofi255/>、そのうち810人はフリシェルモンとプランスノワの両方の攻防戦に参加したビューローの第4軍団に所属する第18連隊のみから出ており、連隊は33個もの[[鉄十字章]]を得ている<ref>''Prussian Reserve Infantry 1813–1815'', Robert Mantle, Napoleonic Association, 1977 [http://www.napoleon-series.org/military/organization/c_resinf2.html Napolean-series.org]</ref>。ナポレオンのフランス軍は約40,000人の死傷・捕虜・逃亡を出し、砲220門を失った<ref name=nofi255/>。 |
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{{Quotation|6月22日の朝、私は戦場を見に行った。そこはワーテルローの村から少し先にあるモン・サン・ジャンの台地にあった。だが、そこに到着するとその光景は身の毛もよだつものだった。私は胃が痛くなり、この場から帰ることを願いたい気持ちになった。それは私が生涯忘れることのない惨状であり、大量の死体、大勢の負傷者、彼らは足を砕かれて歩くこともできない。彼らは負傷によるものだけでなく飢えによっても非業の最期を迎えようとしており、連合軍は(当然のことだか)彼らのもとに外科医と荷馬車を連れて来なければならない。連合軍とフランス軍双方の負傷者たちは、等しく悲惨な状態にあった。|W・E・フライ少佐|After Waterloo: Reminiscences of European Travel 1815–1819.<ref>{{Harvnb|Frye|2004|loc=}}</ref>}} |
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ナポレオンから受けていた命令を遵守したグルーシー元帥はティーレマン将軍のプロイセン軍を{{仮リンク|ワーヴルの戦い|label=ワーヴル|en|Battle of Wavre}}で撃破し、6月19日の10時30分に整然と撤退できたが、その代償は33,000人のフランス軍将兵がワーテルローの主戦場に来着できなかったことであった。 |
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ナポレオンはシャルルロワを経てフィリップヴィルまで逃れ、そこから留守政府を預かる元[[スペイン王]]の兄[[ジョゼフ・ボナパルト]]に楽観的な内容の報告書を送り、軍隊の再建を指示したが、彼の命運はすでに尽きていた<ref>[[#マルロー 2004|マルロー 2004]],pp.425-427;[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.254-255.</ref>。6月20日にナポレオンは幕僚に促され、軍隊を置き去りにしてパリに帰還したが、プロイセンの軍事学者[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ|クラウゼヴィッツ]]はこれを大きな誤りだったと非難している<ref>[[#長塚 1986|長塚 1986]],pp.567-568.</ref>。ナポレオンはなお政権維持に希望を持ち、議会を解散して独裁権を獲得しようと画策したが、議会はこれに反対して国家反逆罪にあたるとナポレオンを非難し、ついには退位をも要求しはじめた<ref>[[#長塚 1986|長塚 1986]],pp.568-569.</ref>。 |
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一方、ウェリントンは6月19日に戦闘の詳細について報告する急報を本国に送り、6月21日に到着して翌22日に{{仮リンク|ロンドン・ガゼッタ|en|London Gazette}}紙で告知された<ref>{{London Gazette|issue=17028|startpage=1213|date=22 June 1815|accessdate=19 May 2010}}</ref>。ワーテルローの戦いの帰趨はロンドンの株式市場も注視しており、カトル・ブラの戦いの敗報によってコンソル公債は下落していたが、ワーテルローの勝報をいち早く手に入れた銀行家[[ネイサン・メイアー・ロスチャイルド]]はすぐに買いを入れずに意図的に公債を投げ売りして暴落させ、二束三文になったところで大量買いをし、そして公式な報道により大暴騰した<ref>[[#モートン 1975|モートン 1975]],pp.51-52.</ref>。後に「ネイサンの逆売り」と呼ばれる株式売買でロスチャイルド家は巨額の利益を獲得した。 |
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ウェリントン公とブリュッヘル元帥そしてその他の連合国軍はパリへ向けて進撃した。6月24日、ナポレオンは2度目の退位を宣言し、[[ジョゼフ・フーシェ|フーシェ]]を首班とする臨時政府がつくられた。7月3日、ナポレオン戦争の最後の会戦として{{仮リンク|イシーの戦い|en|Battle of Issy}}が起こり、ナポレオンに戦争大臣に任命されていた[[ルイ=ニコラ・ダヴー|ダヴー]]がブリュッヘルのプロイセン軍に敗れている<ref>[http://www.fromoldbooks.org/Wood-NuttallEncyclopaedia/i/issy.html Nuttal Encyclopaedia: Issy]</ref>。 |
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[[File:Napoleon on Board the Bellerophon - Sir William Quiller Orchardson.jpg|thumb|left|300px|ベレロフォン号の甲板に立つナポレオン。<br>William Quiller Orchardson画、1880年。]] |
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ナポレオンは北アメリカへ逃亡を図るが、イギリス海軍はこの動きを予見しておりフランスの港を封鎖していた。結局、ナポレオンは7月15日にイギリス海軍の[[戦列艦]][[ベレロフォン (戦列艦)|ベレロフォン号]]の{{仮リンク|フレデリック・ルイス・メイトランド|label=メイトランド|en|Frederick Lewis Maitland (Rear Admiral)}}海軍大尉に投降した。 |
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{{Quotation|王太子殿下 – 我が国を分裂させた諸党派そしてヨーロッパ列強諸国の敵とみなされ、私は政治的経歴を終えました故に、私は[[テミストクレス]](古代[[アテネ]]の政治家)の如く、英国民の歓待(''m'asseoir sur le foyer'')の中に参ります。、私は王太子殿下からの法の下の保護を求め、我が敵国の中で最も強大で最も志操堅固で最も高貴な貴国に身を寄せます。|ナポレオン| 英国摂政太子<ref group="注釈">イギリス王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の精神異常により、1811年以降、王太子(後の[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]])が摂政に就任していた。<br>{{cite web|title=ジョージ(3世)- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%EF%BC%883%E4%B8%96%EF%BC%89/|author=青木康|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年9月18日}}</ref>への降伏書簡<ref name=Booth-57>{{Harvnb|Booth|1815|p=57}}</ref>}} |
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一部のフランス軍要塞は降伏を拒んでおり、9月13日に[[ロンウィ]]が降伏して、すべての抵抗が終わった。11月20日に連合国とフランスとの間で[[パリ条約 (1815年)|パリ条約]]が締結されルイ18世が復位した。ナポレオンはイギリスの[[プリマス]]への上陸を求めたが、ヨーロッパの混乱の元凶はナポレオンにあるとされ、[[アンリ・グランティエ・ベルトラン|ベルトラン]]、[[シャルル=トリスタン・ド・モントロン|モントロン]]、[[ガスパール・グールゴ|グールゴ]]の3人の将軍とともに[[セントヘレナ島]]に流されて1821年5月5日に死去した<ref>[[#長塚 1986|長塚 1986]],pp.573-576.</ref><ref name=Hofschroer-274-276-320>{{Harvnb|Hofschröer|1999|pp=274–276,320}}</ref>。 |
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王党派が復帰したフランスではナポレオンの部下たちに対する報復が行われた。ネイ元帥は12月に銃殺刑となり、参謀長のスールト、戦争大臣のダヴーの両元帥をはじめ30人以上の将官が投獄または流刑に処されている<ref>[[#長塚 1986|長塚 1986]],pp.574-575.</ref>。 |
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[[File:Waterloomedaille 1816 Verenigd Koninkrijk.jpg|thumb|150px|ワーテルロー戦役に従軍した英蘭軍将兵に贈られたワーテルロー・メダル。]] |
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イギリスではこの戦いの後、ウォータールー(''Waterloo'')の単語はスラングとして英語の語彙に組み込まれ、「惨敗」の喩えとなった<ref>{{cite web|title=Waterloo の意味とは - Yahoo!辞書|url=http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=Waterloo&dtype=1&dname=1na&stype=0&pagenum=1&index=079564000|publisher=eプログレッシブ英和中辞|author=|page=|accessdate=2012年9月13日}}</ref>。 |
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皇帝近衛隊の擲弾兵を撃破した(実際には猟歩兵部隊だった)イギリス軍第1近衛旅団所属第1近衛歩兵連隊(ヘンリー・アスキン中佐)はその功績が認められて「[[グレナディアガーズ|擲弾兵近衛連隊]]」(''Grenadier Guards'')の称号が与えられ、擲弾兵の様式の毛皮製高帽が採用された。イギリス近衛騎兵旅団もフランス軍の胸甲騎兵を撃破した功績が認められて1821年に胸甲の使用が認められた。この戦いに参加した者たちに槍騎兵の有効さが印象づけられ、その後、ヨーロッパ中で採用されるようになり、1816年にイギリス軍は軽騎兵4個連隊を槍騎兵に改編させている<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.256.</ref>。 |
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戦後、ウェリントンは軍の重鎮となって陸軍総司令官に2度就任し<ref>[[#ストローソン 1998|ストローソン 1998]],pp.319,339-342.</ref>、政治家としても要職を歴任して外交使節としても活動しており<ref>[[#ストローソン 1998|ストローソン 1998]],pp.321-322,326-328.</ref>、[[イギリス首相|首相]]を2度務めている(任期:1828年 - 1830年、1834年 - 1834年)<ref>[[#ストローソン 1998|ストローソン 1998]],pp.328-331.</ref>。英蘭軍の騎兵部隊を任されたアックスブリッジは会戦の終盤に負傷して片脚を失ったが、その後は要職を歴任し1846年に元帥に叙された<ref>[[#バーソープ 2001|バーソープ 2001]],p.9.</ref>。また、英蘭軍第1軍団長を務めたオラニエ公は1840年にオランダ王[[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]として即位している。 |
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この会戦中戦場を駆け巡ったウェリントンの幕僚のほとんどが死傷しており<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.239,255.</ref>、その一人でウェリントンの秘書官を務めていた{{仮リンク|フィッツロイ・サマセット (初代ラグラン男爵)|label=ラグラン男爵フィッツロイ・サマセット|en|FitzRoy Somerset, 1st Baron Raglan}}は、この戦いで右腕を負傷し切断を余儀なくされた([[ラグラン袖]]は彼の失われた右腕に合わせて作られたものである)。彼は後に陸軍最高司令官となり、[[クリミア戦争]](1853年 - 1856年)の総指揮を執ることになる<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.285.</ref>。 |
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1848年に開業したロンドンの複合[[ターミナル駅]]である[[ウォータールー駅]](ワーテルローの英語読み)はワーテルローの戦いが由来である<ref name=bbc/>。[[1994年]]に[[英仏海峡トンネル]]が完成し、[[パリ]]と[[ロンドン]]を結ぶ高速列車[[ユーロスター]]が運行を開始した際、ロンドン側ターミナルが皮肉にもここであった。このため、フランス側は、幾度となく駅の改名や変更を求めている<ref name=bbc>{{cite web|title=BBC News-UK-Waterloo insult to French visitors|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/208881.stm|publisher=BBC|author=|page=|accessdate=2012年9月13日}}</ref>。[[2007年]]には[[CTRL|イギリス国内の高速新線]]が完成し、ターミナルも[[セント・パンクラス駅]]に変更された。 |
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プロイセン軍司令官の[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヘル]]元帥は既に高齢であり、この年のうちに退役し、1819年に77歳で死去した。プロイセン軍に参謀本部組織を確立させこの戦いでも参謀長として重要な役割を果たした[[アウグスト・フォン・グナイゼナウ|グナイゼナウ]]中将は後に元帥に列せられたが、進歩的な考えの彼はプロイセンの保守的な体質によって戦後は権力からは遠ざけられている<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.116</ref>。『[[戦争論]]』で知られるプロイセン軍の[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ|クラウゼヴィッツ]]はこの戦役では第3軍団の参謀を務めており、後にこの戦いを研究した『1815年のフランス戦役』を著し、後世に資することになる。 |
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19世紀の著名な[[軍事学者]][[アントワーヌ=アンリ・ジョミニ|ジョミニ]]将軍はナポレオン時代の戦略戦術に関する主導的研究者の一人でもあり、ワーテルローの戦いにおけるナポレオンの敗因をいくつか提示している。 |
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{{Quotation|私が考えるに、四つの主な要因が彼に破滅をもたらした。<BR>第一のそして最も重要な要因は絶妙な連携によるブリュッヘルの到着とこの到着を利させた(グルーシーの)拙い行軍である。第二の要因はイギリス歩兵の賞賛すべき粘り強さ、そして指揮官たちの冷静さである。第三はひどい天候であり、これによって地面がぬかるみ、行軍が非常に困難になり、さらにその日の朝に行われるはずであった攻撃開始が午後1時にまで遅延することになった。第四は第1軍団の信じがたい隊形であり、彼らはあまりにも密集しすぎており、第一次攻撃を成功させることは難しかった。|アントワーヌ=アンリ・ジョミニ|<ref name=Jomini223224>{{Harvnb|Jomini|1864|pp=223,224}}</ref>}} |
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==古戦場== |
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[[File:Waterloo Lion.jpg|thumb|ライオンの丘]] |
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戦場の地形の一部は1815年当時ものから変えられている。観光は会戦の翌日から始まっており、6月19日付の書簡でメーサー大尉は「一台の荷馬車がブリュッセルからやって来て、その乗客たちが戦場を見て回っていた」と書き残している<ref name="M70"/>。1820年、オランダ王[[ウィレム1世 (オランダ王)|ウィレム1世]]は彼の息子の[[ウィレム2世 (オランダ王)|オラニエ公]]が負傷したとされる場所に記念碑を建てるよう命じた。イギリス軍戦線中央部があった尾根の地域の300,000立方メートル相当の土壌を用いて「{{仮リンク|ライオンの丘|en|Lion's Hillock}}」と呼ばれる小山がここに造られており、これによって英蘭軍の窪み道の南側の土手が取り除かれてしまった。 |
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[[ヴィクトル・ユーゴー]]は小説『[[レ・ミゼラブル]]』の中でこう述べている。 |
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{{Quotation|ナポレオンとウェリントンとの会戦の場所である種々の勾配をなした平地の起伏は、人の知るとおり、一八一五年六月十八日とは今日大いにそのありさまを異にしている。その災厄の場所から、すべて記念となるものを人々は奪い去ってしまって、実際の形態はそこなわれたのである。そしてその歴史も面目を失って、もはやそこに痕跡を認め難くなっている。その地に光栄を与えんために、人々はその地のありさまを変えてしまった。二年後にウェリントンは再びワーテルローを見て叫んだ、「私の戦場は形が変えられてしまった。」今日獅子の像の立っている大きな土盛りのある場所には、その当時一つの丘があってニヴェルの道の方へは上れるくらいの傾斜で低くなっていたが、ジュナップの道路の方ではほとんど断崖だんがいをなしていた。その断崖の高さは、ジュナップからブラッセルへ行く道をはさんでる二つの大きな墳墓の丘の高さによって、今日なお測ることができる。その一つはイギリス兵の墓であって左手にあり、も一つはドイツ兵のであって右手にある。フランス兵の墓はない。フランスにとっては、その平原すべてが墓地である。|ヴィクトル・ユーゴー, 『レ・ミゼラブル』|[[豊島与志雄]]訳(1918年)<ref name="Hugo">{{cite web|title=ビクトル・ユーゴー Victor Hugo [[豊島与志雄]]訳 レ・ミゼラブル LES MISERABLES 第二部 コゼット|url=http://www.aozora.gr.jp/cards/001094/files/42601_25759.html|publisher=[[青空文庫]]|author=|page=|accessdate=2012年9月14日}}</ref>}} |
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その他の地形や会戦に関係する場所は当時からほとんど変わっていない。この中にはブリュッセル=シャルルロワ街道東側のなだらかに起伏する農地やウーグモン、ラ・エー・サントそしてラ・ベル・アリアンスといった建物も含まれる<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.297.</ref>。 |
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「ライオンの丘」の他にも古戦場にはいくつもの記念碑が存在する。ブリュッセル=シャルルロワ街道とブレン・ラルー =オヘイン街道の十字路にはイギリス兵、オランダ兵、ハノーファー兵そしてドイツ人義勇兵の集団墓地がある。フランス軍戦死者に対する記念碑は「傷ついた鷲」("The Wounded Eagle")と名づけられ、ここは戦いの終盤に皇帝近衛隊が最後の方陣を組んだ場所とされる。プロイセン軍戦死者の記念碑はプランスノワにあり、ここはプロイセン軍の砲兵隊が布陣したとされる場所である。ブリュッセル市内の{{仮リンク|ウェイ (ベルギー)|label=ウェイ|en|Ways, Belgium}}のマルティン教会には{{仮リンク|ギヨーム・フィリベール・デュエズム|label=デュエズム|en|Guillaume Philibert Duhesme}}将軍の墓所がある。{{仮リンク|エベレ|en|Evere}}の{{仮リンク|ブリュッセル墓地|en|Brussels_Cemetery}}には「イギリス人の碑」("British Monument")と呼ばれる戦死した17人のイギリス軍士官の墓所がある<ref>C Van Hoorebeeke ''Blackman, John-Lucie : pourquoi sa tombe est-elle à Hougomont?'' Bulletin de l'Association belge napoléonienne, n° 118, septembre – octobre 2007, pages 6 à 21)</ref>。 |
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「ライオンの丘」のふもとにある「ワーテルロー・パノラマ館」(Panorama de la Bataille de Waterloo)の内部には1912年にルイ・デュムーランが描いた周囲110m、高さ12mものワーテルローの戦いのパノラマ画が展示されており<ref> |
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{{cite web|title=Voile acté-Champ de bataille de Waterloo : la dernière bataille de Napoléon, Waterloo - Géré par Culturespaces|url=http://www.waterloo1815.be/fr/evenements/voile-acte|publisher=Panorama de la Bataille de Waterloo|author=|page=|accessdate=2012年9月13日}}</ref>、また館内では20分のワーテルローの戦いの映画も上映されている<ref>{{cite web|title=ワーテルロー・パノラマ館(Panorama de la Bataille de Waterloo)|url=http://www.belgium-travel.jp/opt/elems/detail/688|publisher=ベルギー観光局ワロン・ブリュッセル公式サイト|author=|page=|accessdate=2012年9月13日}}</ref>。この古戦場では毎年、ワーテルローの戦いの再現イベントが行われている<ref>{{cite web|title=History fans recreate Waterloo|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4110194.stm|publisher=[[BBC NEWS]]|author=|page=|accessdate=2012年9月13日}}</ref>。ワーテルローは[[小牧・長久手の戦い|長久手の戦い]]の古戦場がある日本の[[長久手市]]と[[姉妹都市]]を提携している<ref>{{cite web|title=ワーテルローの紹介|url=http://www.city.nagakute.lg.jp/bunka/kokusaikoryu/kyodo/simaitoshi_waterloo.html |publisher=[[長久手市]]役所公式サイト|author=|page=|accessdate=2012年9月15日}}</ref>。 |
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Image:Dernier QG Napoleon.JPG|ナポレオンの最後の本営。(博物館になっている<ref>{{cite web|title=ワーテルロー[WATERLOO]ミニ観光ガイド|url=http://www.waterloo-tourisme.com/Public1/doc/pdf/petit-guide-visite-JPN-light.pdf|publisher=ワーテルロー観光局|author=|page=|accessdate=2012年9月13日}}</ref>。) |
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Image:Belgium-Waterloo-The-Thombs-1900.jpg|国王直属ドイツ人部隊(KGL)(左)と英軍士官ゴードン(右)の記念碑。背後は「ライオンの丘」。 |
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Image:Waterloo JPG01 (9).jpg| ナポレオンの鷲 |
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Image:Waterloo JPG01 (10).jpg|ナポレオン像。 ''Bivouac de l'Empereur'' ホテル、ワーテルロー。 |
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Image:8 ligne infanterie stele.jpg|第8歩兵連隊:この場所でデュリットの師団に所属する第8歩兵連隊はフォン・オンプテダ大佐のプロイセン部隊への攻撃に成功した。KGLの記念碑のそば。 |
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Image:Braine-l'Alleud CF1aJPG.jpg|ウーグモン農場の南玄関。 |
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Image:Waterloo derniers combattants.JPG|大陸軍軍最後の戦士の記念碑。 (傷ついた鷲:The Wounded Eagle) |
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Image:Mausolée Duhesme 2011.jpg|デュエズム将軍の墓所。ブリュッセル、ウェイ。 |
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Image:Cimetière de Bruxelles 02b.JPG.JPG|ブリュッセル墓地のワーテルロー戦役の記念碑。 |
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</gallery></center> |
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File:Waterloo - Juin 2012 (17).JPG|2012年の再現イベント |
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File:Bataille Waterloo 1815 reconstitution 2011 cuirassier.jpg|フランス軍の胸甲騎兵。<br>2011年の再現イベント |
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File:Bataille Waterloo 1815 reconstitution 2011 3.jpg|プロイセン歩兵の一斉射撃。<br>2011年の再現イベント |
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File:Reenactment of the Battle of Waterloo, 2010.jpg|2010年の再現イベント |
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</gallery></center> |
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== 作品 == |
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[[Image:Monument Hugo Waterloo.jpg|thumb|200px|ヴィクトル・ユーゴーの記念柱の肖像。<br>ベルギー、ワーテルロー。]] |
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19世紀の激動のフランスを時代背景とした[[ヴィクトル・ユーゴー]]の長編小説 『[[レ・ミゼラブル]]』第二部コゼット第一編の主題はワーテルローであり、1861年5月に物語の著者(ユーゴー)がベルギーの戦場跡を訪れる場面から始まり、ワーテルローの戦いの詳細な戦場描写からナポレオンの没落までが語られている。『レ・ミゼラブル』の作中では本筋とはあまり関係のない歴史挿話やユーゴーの歴史考察が交えられており、第二部第一編もそのひとつである<ref>{{cite web|title=レ・ミゼラブル- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%82%BC%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%AB/|author=佐藤実枝|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年9月13日}}</ref>。 |
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ユーゴーは手がけている大作にこの世紀の一戦を挿入したいと考えており、1861年3月から喉の病気の転地療養を兼ねてワーテルローに滞在し、古戦場を散策しながら『レ・ミゼラブル』の執筆を行い、6月30日にいちおうの完成をみた<ref>[[#金柿 1976|金柿 1976]],pp.656-657.</ref>。彼は作品の完成を知らせる友人に宛てた手紙で「偶然にもワーテルローの古戦場で、私は自分の戦いを戦った」と書き送っている<ref>[[#金柿 1976|金柿 1976]],p.657.</ref>。その後もユーゴーは加筆と修正を続けており、第二部第一編「ワーテルロー」は12月21日に書き上げている<ref>[[#金柿 1976|金柿 1976]],p.657.</ref>。『レ・ミゼラブル』は1862年3月と4月にベルギーとフランスで出版され、爆発的な売れ行きとなった<ref>[[#金柿 1976|金柿 1976]],pp.660-661</ref>。『レ・ミゼラブル』完成の地となったベルギーのワーテルローにはヴィクトル・ユーゴーの記念柱が建立されている。 |
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[[コナン・ドイル]]の『勇将ジェラールの回想』、『勇将ジェラールの冒険』の2部作はナポレオンに忠誠を尽くす騎兵将校エティエンヌ・ジェラールを主人公とした冒険小説であり、『勇将ジェラールの冒険』に収録される中編「准将がワーテルローで奮戦した顛末」はこの戦いにおける彼の活躍を描いている。日本人の作家によるワーテルローの戦いを主題とした作品としては[[柘植久慶]]の『逆撃 ナポレオン ワーテルロー会戦』上下巻がある。これは現代の日本人御厩太郎がナポレオンの将軍となって歴史改編を試みる[[架空戦記]]的な作品である。 |
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ナポレオン戦争の時代を扱った映像作品ではワーテルローの戦いも数多く登場するが<ref name=nofi296>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.296.</ref>、会戦自体を主題とした作品には1928年の[[ドイツ映画]]『{{仮リンク|ワーテルロー (1928年映画)|label=ワーテルロー|en|Waterloo (1929 film)}}』<ref>{{cite web|title=ワーテルロー(1928) - goo 映画|url=http://movie.goo.ne.jp/movies/p15027/index.html|publisher=|author=|page=|accessdate=2012年9月13日}}</ref>と1970年の[[イタリア映画|イタリア]]・[[ロシア映画|ソ連]]合作映画『[[ワーテルロー (映画)|ワーテルロー]]』とがある。後者は監督をソ連の[[セルゲーイ・ボンダルチューク]]が務める製作費1200万ドルの大作映画であり、[[ソ連軍]]の協力を受けて2万人の兵士を使って会戦を大規模に再現した<ref>『ワーテルロー 劇場パンフレット』[解説]、1970年。</ref>。また、日本のアニメ『[[ヤッターマン]]』の最終回は「アワテルローの戦いだコロン」であり、この戦いのパロディとなっている([[1979年]][[1月27日]]放映)。 |
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ワーテルローの戦いは音楽の題材ともなっており、イギリスの女流作曲家[[ウィルマ・アンダーソン・ギルマン]]のピアノ曲『[[ウォータールーの戦い (ピアノ曲)|ウォータールーの戦い]]』は描写音楽風に戦いの始まりから終わりまで8つの接続曲のスタイルで作曲されており、発表会でもしばしば取り上げられる<ref>[[#青山 2008|青山 2008]],p.266.</ref>。本曲では「ワーテルロー」より「ウォータールー」の表記が定着されている。[[1974年]]に[[スウェーデン]]の音楽グループ[[ABBA]]がリリースした『[[恋のウォータールー]]』は全英ヒット・チャートで2週1位、[[ビルボード]]で6位を獲得し<ref>{{cite web|title=Waterloo の意味とは - Yahoo!辞書|url=http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=Waterloo&dtype=1&dname=1na&stype=0&pagenum=1&index=T14359000|publisher=eプログレッシブ英和中辞|author=|page=|accessdate=2012年9月13日}}</ref>、フランスでもシングル・チャートでは3位となる大ヒットとなった。この曲では「惨敗」を意味する英語の[[俗語]]としての「ウォータールー」(''Waterloo'')がかけられている。 |
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欧米圏で知名度の高いワーテルローの戦いは当然のごとく[[ウォー・シミュレーションゲーム|ボード・シミュレーションゲーム]]の題材として取り上げられており、[[アバロンヒル]]社の最初期の作品『''Waterloo''』や[[SPI]]社の『''Napoleon at Waterloo''』そして爆発的に売れた『''Wellington's Victory''』(SPI/[[TSR]])をはじめ非常に多くのゲームが製作されている<ref name=nofi296/>。日本製のゲームには『ワーテルロー』([[翔企画]])や『ワーテルローの落日』([[ゲームジャーナル|Gamejournal]] No.41)<ref>{{cite web|title=ワーテルローの落日 - GameJournal.net|url=http://www.gamejournal.net/bknmbr/gj41/gj41.htm|publisher=ゲームジャーナル|author=|page=|accessdate=2012年9月14日}}</ref>がある。 |
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{{-}} |
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==脚注== |
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=== 注釈 === |
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{{脚注ヘルプ}} |
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{{Reflist|group="注釈"|2}} |
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===出典=== |
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{{reflist|colwidth=30em}} |
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==参考文献== |
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{{Refbegin|colwidth=30em}} |
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*{{Citation|last=Adkin |first=Mark |year=2001| title=The Waterloo Companion |publisher=Aurum |isbn=1-85410-764-X}} |
|||
*{{Citation|last=Barbero |first=Alessandro |year=2005 |title=The Battle: A New History of Waterloo |publisher=Atlantic Books |isbn=1-84354-310-9}} |
|||
*{{Citation| last=Beamish |first=N. Ludlow |year=1995 |origyear=1832 |title=History of the King's German Legion |publisher=Dallington: Naval and Military Press |isbn=0-9522011-0-0}} |
|||
*{{Citation|last=Bonaparte |first=Napoleon |year=1869 |editor1-last=Polon |editor1-first=Henri |editor2-last=Dumaine |editor2-first=J. |title=Correspondance de Napoléon Ier; publiée par ordre de l'empereur Napoléon III (1858)|url=http://www.archive.org/stream/correspondancede28napouoft#page/292/mode/1up |chapter=No. 22060|volume=28 |pages=292, 293}}. |
|||
*{{Citation |last=Booth |first=John |year=1815 |title=The Battle of Waterloo: Containing the Accounts Published by Authority, British and Foreign, and Other Relevant Documents, with Circumstantial Details, Previous and After the Battle, from a Variety of Authentic and Original Sources |url=http://books.google.com/books?id=9IIBAAAAYAAJ |edition=2 |publisher=London: printed for J. Booth and T. Ergeton; Military Library, Whitehall}} |
|||
*{{Citation |last=Chandler |first=David |year=1966 |title=The Campaigns of Napoleon |publisher=New York: Macmillan}} |
|||
*{{Citation |last=Chesney |first=Charles C. |year=1907 |title=Waterloo Lectures: A Study Of The Campaign Of 1815 |publisher=Longmans, Green, and Co |isbn=1-4286-4988-3}} |
|||
*{{Citation| last=Creasy |first=Sir Edward |year=1877 |url=http://www.gutenberg.org/etext/4061 |title=The Fifteen Decisive Battles of the World: from Marathon to Waterloo |publisher=London: Richard Bentley & Son |isbn=0-306-80559-6}} |
|||
*{{Citation| last=Fitchett |first=W. H. |year=2006 |origyear=1897 |title=Deeds that Won the Empire. Historic Battle Scenes |url=http://www.gutenberg.org/etext/19255 |=London: John Murray |= ([[:en:Project Gutenberg]]). |chapter-url=http://www.gutenberg.org/files/19255/19255-h/19255-h.htm#chap1900 |chapter=Chapter: King-making Waterloo}} |
|||
*{{Citation|last=Fletcher |first=Ian |year=1994 |title=Wellington's Foot Guards |volume=52 of Elite Series |edition=illustrated |publisher=Osprey Publishing|isbn=1-85532-392-3}} |
|||
*{{Citation| last=Frye |first=W. E. |year=2004 |origyear=1908 |url=http://infomotions.com/etexts/gutenberg/dirs/1/0/9/3/10939/10939.htm |title=After Waterloo: Reminiscences of European Travel 1815–1819| publisher=[[:en:Project Gutenberg]]}} |
|||
*{{Citation| authorlink=:en:Rees Howell Gronow |last=Gronow |first=R. H. |year=1862 |url=http://www.gutenberg.org/etext/3798 |title=Reminiscences of Captain Gronow|publisher=London |isbn=1-4043-2792-4}} |
|||
*{{Citation| authorlink=:en:Peter Hofschröer |last=Hofschröer| first=Peter |year=1999|title=1815: The Waterloo Campaign. The German Victory |volume=2 |publisher=London: Greenhill Books |isbn=978-1-85367-368-9}} |
|||
*{{Citation| last=Hofschröer| first=Peter |year=2005 |title=Waterloo 1815: Quatre Bras and Ligny |publisher=London: Leo Cooper |isbn=978-1-84415-168-4}} |
|||
*{{Citation |last=Houssaye |first=Henri |year=1900 |title=Waterloo (translated from the French)|publisher=London}} |
|||
*{{Citation| authorlink=:en:Antoine-Henri Jomini |last=Jomini |first=Antoine-Henri |year=1864 |url=http://books.google.com/books?id=FVdEAAAAIAAJ&printsec=frontcover&dq=Jomini+Waterloo+Campaign |title=The Political and Military History of the Campaign of Waterloo| edition=3 |publisher=New York; D. Van Nostrand }} (Translated by Benet S.V.) |
|||
*{{Citation|authorlink=:en:Elizabeth Longford |last=Longford |first=Elizabeth |year=1971 |title=Wellington the Years of the Sword |publisher=London: Panther| isbn=0-586-03548-6}} |
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{{Refend}} |
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==関連図書== |
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*{{Citation |
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| last = Fletcher |
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| first = Ian |
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| publication-date = 2001 |
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| year = 2001 |
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| title = A Desperate Business: Wellington, the British Army and the Waterloo Campaign |
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| publisher=Spellmount Publishers Ltd |
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| isbn = 1-86227-118-6}}; |
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*{{Citation| editor-last=Gleig |editor-first=George Robert |year=1845 |url=http://www.napoleonic-literature.com/Book_24/Book24.htm |title=The Light Dragoon |publisher=London: George Routledge & Co.}} |
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*{{Citation| last=Hofschröer |first=Peter |year=2004 |title=Wellington's Smallest Victory: The Duke, the Model Maker and the Secret of Waterloo |publisher=London: Faber & Faber |isbn=0-571-21769-9}} |
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*{{Citation |last=Howarth |first=David |year=1997 |origyear=1968|title=Waterloo a Near Run Thing |publisher=London: Phoenix/Windrush Press |isbn=1-84212-719-5}} |
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*{{Citation| last=Keegan| first=John|title=The Face of Battle}} |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{Commonscat|Battle of Waterloo}} |
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* ワーテルローの戦いでのフランス軍、プロイセン軍そして英蘭軍の軍服 : [http://centjours.mont-saint-jean.com/unites.php Mont-Saint-Jean] (FR) |
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* [http://www.town.nagakute.aichi.jp/bunka/kokusaikoryu/kyodo/simaitoshi_waterloo.html 長久手市役所によるワーテルローの紹介] |
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2012年9月27日 (木) 03:33時点における版
ワーテルローの戦い | |
---|---|
戦争:ナポレオン戦争 | |
年月日:1815年6月18日 | |
場所:ベルギーのワーテルロー | |
結果:フランス・ナポレオン軍の敗北 | |
交戦勢力 | |
フランス | イギリス オランダ プロイセン王国 |
指導者・指揮官 | |
ナポレオン・ボナパルト |
ウェリントン公 ブリュッヘル |
戦力 | |
フランス軍 72,000[1] | 英蘭軍 68,000[2] プロイセン軍 50,000[3] |
損害 | |
死傷者・捕虜計 約40,000[4] | 死傷者・行方不明計 英蘭軍 27,000[4] プロイセン軍 7,000[4] |
ワーテルローの戦い(ワーテルローのたたかい、仏: Bataille de Waterloo、英: The Battle of Waterloo、蘭: Slag bij Waterloo、独: Schlacht bei Waterloo/Schlacht bei Belle-Alliance)は、1815年6月18日にイギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍が、フランス皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍を破った戦いである。ナポレオン最後の戦いとして知られる。英語での発音はウォータールーである。ドイツではラ・ベル・アリアンスの戦いとも呼ばれる。ベルギーのラ・ベル・アリアンスを主戦場としたが、初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーにより近郊のワーテルローの名を取り、このように命名された。
1815年にナポレオンが復位すると彼に敵対していた諸国は第七次対仏大同盟を結成し、軍隊の動員を始めた。ウェリントン公の英蘭連合軍とブリュッヘル元帥のプロイセン軍がフランス国境北東部付近に集結していた。ナポレオンは彼らが合流して他の連合国諸国とともにフランスに侵攻する前にウェリントンとブリュッヘルを撃破しようと考えていた。この3日間のワーテルロー戦役(1815年6月16日 - 19日)で生起した決戦がワーテルローの戦いであった。ウェリントンは友人に対して「きみが生涯に目にする最も際どい出来事であったろう」と語っている[5]。
12万の主力部隊を率いてベルギーに攻め込んだナポレオンは6月16日のリニーの戦いでブリュッヘルのプロイセン軍に勝利するが、決定的な打撃を与えてはいなかった。ナポレオンはグルーシー元帥に兵33,000を与えて追撃に向かわせ、自らはウェリントンの英蘭連合軍と対した。
6月18日、ナポレオンはぬかるんだ地面が乾く、午後まで戦闘開始を遅らせた。この頃、グルーシーはプロイセン軍主力の捕捉に失敗し、そしてナポレオンの主力部隊と合流するにも遠すぎる場所にいた。ブリュッセル街道にまたがるモン・サン・ジャン尾根の斜面に布陣したウェリントン公の英蘭軍は繰り返されるフランス軍の攻撃を耐え抜き、夕方にブリュッヘルのプロイセン軍が到着してフランス軍の右側面を突破する。同時に英蘭連合軍も反撃を開始し、フランス軍を潰走させた。連合軍はこれを追撃してフランスに侵攻し、ルイ18世を復位させた。退位したナポレオンはイギリスに降伏してセントヘレナ島に流され、1821年にこの地で死去した。
戦場は現在のベルギー国内で、ブリュッセルからおよそ13km 南東にあり、ワーテルローの町からは1.6kmほど離れている。古戦場には「ライオンの丘」と呼ばれる巨大な記念碑がそびえ立っている。
背景
ナポレオンの帰還
1812年6月、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトは64万の大軍を率いてロシア遠征を開始するが、結果は兵力の大部分を失う惨敗に終わった[6]。1813年、ナポレオン率いるフランス軍(大陸軍)はドイツにおいてロシア、プロイセンを中心とする反仏諸国と解放戦争(諸国民戦争)を戦うことになり、連合軍にスウェーデンそしてオーストリアが参加したことでナポレオンはこの戦いでも敗退した。1814年、フランス国内に侵攻する連合軍との戦いで劣勢な兵力のナポレオンは巧みな指揮ぶりを示して善戦をするが[7]、パリが開城したことで4月6日にナポレオンは退位を余儀なくされ、地中海のエルバ島に流された。
戦勝した列強国が開催したウィーン会議の取り決めによってフランスではルイ18世が即位してブルボン王朝が復活した。だが、この王政復古は人気がなく、国内では不満が高まった[8]。1815年2月26日、エルバ島から脱出したナポレオンはフランスのジュアン湾に上陸し、パリへ進軍した。途中、ミシェル・ネイ元帥を従え[注釈 1]、7,000にふくれ上がった軍隊を率いて3月20日パリに入城し再び皇帝となった。
ナポレオンがパリに到着する6日前の3月13日、ウィーン会議の列強国は彼を無法者であると宣告した[9]。4日後、イギリス、ロシア、オーストリアそしてプロイセンはナポレオンを倒すべく動員を開始する[10]。ナポレオンは連合軍を国内で迎え撃つ守勢戦略も考慮していたが、王党派を勢いづかせる危険があり、連合国の準備が遅れていると看破した彼は機先を制することにした[11]。
ナポレオンはイギリス・オランダ連合軍とプロイセン軍がまだ合流しないうちに各個撃破を計画し、12万の兵を率いて連合軍に戦いを挑むべくベルギーへ向かった。ベルギーに駐留していたのはウェリントン公率いるイギリス・オランダ連合軍の11万とブリュッヘル元帥率いるプロイセン軍12万であった。ブリュッセル南方に駐屯する連合軍を増援が到着する前に撃破できればイギリス軍を海に追いやり、プロイセンを戦争から脱落させられる。これに加えてベルギーにはフランス語圏の親仏派住民が多く、フランス軍の勝利は革命の引き金になるであろうことも考慮されていた。またイギリス軍は半島戦争でのベテラン兵の多くを対米戦へ送っており、ベルギー駐留軍のほとんどは二線級の兵士でもあった[12]。
ウェリントンの当初の配置はモンスを経てブリュッセル南西に進出して連合軍の包囲を図るであろうナポレオンの脅威に対処することを意図していた[13]。これはウェリントンの策源地であるオーステンデとの連絡線が失われることになるが、彼の軍はプロイセン軍に近づくことにもなる。ナポレオンは誤った情報により、ウェリントンは海峡諸港との補給線が断たれることを恐れていると計算していた[14]。ナポレオンは左翼をネイ元帥、右翼をグルーシー元帥におのおの指揮させ、予備軍は自ら率い、これら三軍は相互支援が可能な距離に展開させた。フランス軍は6月15日明け方にシャルルロワから国境を越えて連合軍の前哨部隊を蹂躙し、フランス軍を英蘭軍とプロイセン軍との中間に進出させた。
前哨戦:リニーの戦いとカトル・ブラの戦い
6月15日深夜にウェリントンはシャルルロワの攻撃がフランス軍の主攻勢であることを確信した。6月16日夜明け前にブリュッセルのリッチモンド公爵夫人の舞踏会 (英語版) に出席していたウェリントンはオラニエ公からの急報を受け取り、フランス軍の進撃の速さに驚愕させられた[15]。彼は自軍に対し急ぎカトル・ブラに集結するよう命じた。ここではオラニエ公がザクセン=ヴァイマル公ベルンハルトの旅団とともにネイ元帥の左翼部隊と対峙していた[16]。ネイ元帥が受けた命令はカトル・ブラの交差路を確保し、後に必要になれば東に旋回してナポレオンの本隊に増援できるようにしておくことであった。
ナポレオンはまずは集結していたプロイセン軍に向かった。6月16日、予備軍の一部と右翼軍を率いるナポレオンはリニーの戦いでブリュッヘルのプロイセン軍と戦い、死傷者16,000の損害を与えたが、完全な撃滅はできなかった。プロイセンの中央軍はフランス軍の猛攻の前に敗退したが、両翼は持ちこたえた。前線に出たブリュッヘル元帥が一時行方不明になったため、参謀長のグナイゼナウ中将が代わりに後退の指揮を取った[17]。
一方、ネイ元帥はカトル・ブラの交差路を守る少数のオラニエ公の部隊と対戦した。ネイが逡巡したためフランス軍の攻撃は遅れてイギリス・オランダ連合軍に兵力を増強する猶予を与えてしまい、オラニエ公はネイの攻撃を凌ぐことができた[18]。やがて、増援の第一陣とウェリントン自身が到着し、ネイを後退させて夕刻までに交差路を確保したが、既にプロイセン軍はリニーの戦いで敗れており、彼らを救援することはできなかった(カトル・ブラの戦い)。プロイセン軍の敗北により、ウェリントンが守るカトル・ブラは非常に危険な場所となった。このため、翌日になって彼は北方へと退却し、この年の春に個人的に視察しておいた場所、モン・サン・ジャンの低い尾根、ワーテルロー村とソワヌの森 の南に防御陣地を築いた[19]。
プロイセン軍はフランス軍に遮られることなく、恐らくは気付かれもせずにリニーから撤退した[20]。後衛部隊の大部分は真夜中まで持ち場を守っており、一部は翌朝まで動いておらず、フランス軍に完全に見過ごされていた[20]。ナポレオンは敗走したプロイセン軍は連絡線を辿って北東方向に退却すると考えていたが、プロイセン軍はウェリントンの進軍路と並行する北方に向かっており、支援可能な距離を保ち、終始連絡を取り合っていた[21]。プロイセン軍はリニーの戦いに参加せず無傷のビューロー将軍の第4軍団が位置するワーヴル南方に集結した[20]。
かつてナポレオンは「私は戦陣に敗れることはあるかもしれないが、自信過剰や怠慢によって数分たりとも浪費することはない」と語っていたが、この戦役での彼は時間を浪費しがちだった[22]。リニーで勝利したナポレオンは緩慢に時を過ごし、翌6月17日11時にようやく各隊に命令を下すと進発し、13時にカトル・ブラのネイの軍と合流をして英蘭軍を攻撃しようとしたものの、既に敵陣はもぬけの殻だった[23]。フランス軍はウェリントンを追撃したが、ジュナップで騎兵同士の小競り合いが起こっただけで、その日の夜は土砂降りとなった[24]。リニーを出立する際にナポレオンは右翼軍司令のグルーシー元帥に兵33,000をもってプロイセン軍を追撃するよう命じた。遅すぎる出発、プロイセン軍の針路が不明なこと、そして命令の意味が曖昧だったことで、グルーシーがプロイセン軍のワーヴル到着を阻止するには手遅れだった。
6月17日の終わりに英蘭軍はワーテルローに到着し、ナポレオン軍の本隊がこれに続いた。この頃、ブリュッヘルのプロイセン軍はワーヴルの町から東へ13kmの位置に集結していた。ラ・ベル・アリアンスでナポレオン率いるフランス軍72,000[1]とイギリス・オランダ連合軍68,000[2]が対峙した。
1815年戦役の戦略状況 | ||||||||||||||||
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■:フランス軍、 ■:英蘭連合軍、 ■:プロイセン軍、 □:オーストリア・ドイツ諸国・イタリア諸国軍、 ■:ロシア軍、 ■:スペイン軍 参考文献 -アルバート・A.ノフィ 著、諸岡良史 訳『ワーテルロー戦役』コイノニア社、2004年、301-340頁。ISBN 978-4901943055。 | ||||||||||||||||
|
軍隊
フランス軍
復位したナポレオンの戦略は英蘭軍とプロイセン軍を分断し、各個撃破することであった。ワーテルローの戦いに参加したナポレオンの北部方面軍(Armée du Nord)は72,000人で歩兵57,000、騎兵15,000、大砲250門からなっている[25][注釈 2]。ナポレオンは政権を奪取すると18万人のルイ18世の軍隊に加えて緊縮財政のために長期休暇や非公式に除隊させられていた兵や1814年戦役で脱走していた者たちといった実戦経験のある兵をかき集めており[26]、彼ら古参兵を中核に訓練未熟な新兵を合わせたものがワーテルローの戦いのナポレオンの軍隊だった[27]。古参兵たちの士気は高く「前年の恥辱を晴らすべく、狂信的な熱意を示していた」と伝えられる[28]。兵器は比較的充足していたが、多年の戦乱によって軍馬が著しく不足しており[26]、馬術も不十分だった[27]。この戦いのフランス軍は14個胸甲騎兵連隊、7個槍騎兵連隊からなっていた。
この戦いの1年前の1814年のフランス戦役ではナポレオンは圧倒的に不利な状況の中、彼の最高傑作といわれる程の戦術的技量を示した[29]。だが、この1815年戦役では肉体的な衰えを見せており[30][31]、何よりも時間を浪費しがちで戦機を幾度も失っている[22]。長年、ナポレオンの参謀総長を務めたベルティエがナポレオンの復位に馳せ参ぜずドイツで自殺しており、代わってスールト元帥が総参謀長に就任したことも打撃となった[32]。スールトは優れた野戦指揮官であったが、参謀畑には不慣れであり、ナポレオンの簡潔にすぎかつしばしば意味不明瞭な命令を適確に解釈して完璧な命令文書に仕上げるベルティエの特別な能力も持ち合わせていなかった[33][34]。この結果、スールトは幾度も不手際や意味不明瞭な命令文書伝達を繰り返し、その度にフランス軍の作戦行動を鈍らせている[35][注釈 3]。戦後、ナポレオンはスールトを「よい参謀長ではなかった」と述懐している[36]。
北部方面軍の左翼を任され、ワーテルロー会戦では実戦指揮を執ることになるネイ元帥はナポレオンから「勇者の中の勇者」と呼ばれた歴戦の猛将であったが、ロシア遠征以後は移り気になり、気力の衰えを見せていた[37]。前哨戦のカトル・ブラの戦いでは徒に逡巡して英蘭軍に決定的打撃を与える機会を逃している[38]。ナポレオンもネイの戦略能力は低く評価していたが、ネイが兵士たちからカリスマ的人気を得ていたことが軍の一翼を任せた理由だった[39]。
フランス軍戦闘序列
北部方面軍 L'Armée du Nord | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
総司令官 - 皇帝ナポレオンあ 総参謀長 - スールト元帥ああ 左翼軍司令 - ネイ元帥あああ 右翼軍司令 - グルーシー元帥 122,600名、砲368門 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
皇帝近衛軍団 | 第1軍団 | 第2軍団 | 第6軍団 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ドルーオ師団将軍 20,700名、砲110門 | デルロン師団将軍 19,800名、砲46門 | レイユ師団将軍 25,150名、砲46門 | ロバウ師団将軍 10,450名、砲38門 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
近衛擲弾歩兵師団(フィリアン師団将軍) 近衛猟歩兵師団(モラン師団将軍) 新規近衛歩兵師団(デュエーム師団将軍) 近衛重騎兵師団(ギヨー師団将軍) 近衛軽騎兵師団(ルフェーブル=デヌエット師団将軍) 近衛砲兵隊(デヴォー・ドゥ・サン=モーリス師団将軍) | 第1師団(キオ旅団将軍) 第2師団(ドンズロ師団将軍) 第3師団(マルコニェ師団将軍) 第4師団(デュリット師団将軍) 第1騎兵師団(ジャノッキ師団将軍) | 第5師団(バシュリュ師団将軍) 第6師団(ジェローム・ボナパルト師団将軍) 第7師団(ジラール師団将軍) 第9師団(フォワ師団将軍) 第2騎兵師団(ピレ師団将軍) | 第19師団(サンメ師団将軍) 第20師団(ジャナン師団将軍) 第21師団(テスト師団将軍) 第4軍団予備砲兵(ヌーリー師団将軍) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第3騎兵軍団 | 第4騎兵軍団 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ケレルマン師団将軍 3,900名、砲12門 | ミヨー師団将軍 3,100名、砲12門 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第11騎兵師団(レリティエ師団将軍) 第12騎兵師団(デュルバル師団将軍) | 第13騎兵師団(ワティエ師団将軍) 第14騎兵師団(ドゥロール師団将軍) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第3軍団 | 第4軍団 | 第1騎兵軍団 | 第2騎兵軍団 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴァンダム師団将軍 17,600名、砲38門 | ジェラール師団将軍 14,874名、砲30門 | パジョール師団将軍 3,000名、砲12門 | エグゼルマン師団将軍 3,400名、砲12門 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
*参考文献 - *アルバート・A.ノフィ 著、諸岡良史 訳『ワーテルロー戦役』コイノニア社、2004年、301-314頁。ISBN 978-4901943055。
※兵員数・砲数は戦役の始まる前の数値であり、6月18日の会戦で実際に戦った人数とは異なる。点線の枠はグルーシー元帥の部隊でワーテルローの戦いには不在。 |
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フランス皇帝ナポレオン1世
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総参謀長スールト元帥
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ネイ元帥
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皇帝近衛軍団長ドルーオ師団将軍
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第1軍団長デルロン師団将軍
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第2軍団長レイユ師団将軍
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第6軍団長ロバウ師団将軍
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第3騎兵軍団長ケレルマン師団将軍
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第4騎兵軍団長ミヨー師団将軍
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第6師団長ジェローム・ボナパルト師団将軍
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第2師団長ドンズロ師団将軍
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第4師団長デュリット師団将軍
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近衛擲弾歩兵師団長フィリアン師団将軍
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近衛猟歩兵師団長モラン師団将軍
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近衛重騎兵師団長ギヨー師団将軍
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近衛軽騎兵師団長ルフェーブル=デヌエット師団将軍
英蘭連合軍
英蘭連合軍を指揮したウェリントン公は半島戦争における歴戦の将軍であった。ウェリントンは自らの軍について「ひどい軍隊、とても弱く装備も劣り、参謀たちはまったく経験不足だった」と述べている[40]。ワーテルローの戦いに参加した68,000人の彼の軍隊は歩兵50,000、騎兵12,000、砲兵6,000、砲156門で構成されていた[2]。このうち24,000人がイギリス兵であり、6,000人は国王直属ドイツ人部隊(King's German Legion:KGL)の兵士であった[2]。イギリス軍の全員が正規兵であったが、半島戦争に従軍した古参兵は7,000人に過ぎなかった[41]。これに加えて、17,000人のオランダ人とベルギー人の兵隊がおり、ハノーファー兵11,000、ブラウンシュヴァイク兵6,000、ナッサウ兵3,000からなっていた[42]。
連合軍兵士の多くが戦闘未経験だった[注釈 4][注釈 5]。オランダ軍は先年のナポレオンの敗北を受けて1815年に再編されたものであった。スペインでの半島戦争に従軍したイギリス兵およびイギリス軍に加わった一部のハノーファー兵とブラウンシュヴァイク兵を除き、連合軍の職業軍人の多くがナポレオン体制下でフランス軍の同盟軍としてともに戦った経験を持っていた[43]。ウェリントンは騎兵も不足しており、イギリス軍騎兵7個連隊、オランダ軍騎兵3個連隊しかいなかった。ヨーク公は自分の参謀将校の多くをウェリントンに押しつけており、この中には副司令のアックスブリッジ将軍も含まれる。アックスブリッジは騎兵を指揮しており、彼はウェリントンから指揮下の部隊の行動の自由を認められていた。ウェリントンは13km西方のハレに兵17,000を後置させており、この兵力は戦闘に参加させず、敗北した場合の退却援護として用いることになっており、オラニエ公の弟のフレデリックが指揮するオランダ兵であった[44]。
英蘭連合軍戦闘序列
低地方面軍 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ウェリントン元帥 122,000名、砲203門 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第1軍団 | 第2軍団 | 騎兵軍団 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
オラニエ公ウィレム少将 38,400名、砲56門 | ヒル中将 27,300名、砲40門 | アクスブリッジ中将 16,500名、砲43門 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第1近衛師団(クック少将) 第3師団(アルテン中将) オランダ軍第2師団(ペルポンシェ=セドルニッツキ中将) オランダ軍第3師団(シャッセ中将) | 第2師団(クリントン中将) 第4師団(コルヴィール少将) オランダ軍第1師団(ステッドマン中将 ) | 近衛騎兵旅団(サマセット少将) 連合騎兵旅団(ポンソンビー少将) 第3騎兵旅団(ドルンベルク少将) 第4騎兵旅団(ヴァンドルー少将) 第5騎兵旅団(グラント少将) 第6騎兵旅団(ヴィヴィアン少将) 第7騎兵旅団(アレントシルト名誉大佐) ハノーファー軍第1騎兵旅団(エルストッフ少将) オランダ軍騎兵師団(コラエール中将 ) 予備騎馬砲兵隊(フレイザー中佐) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
予備軍団 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ウェリントン元帥 36,900名、砲64門 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第5師団(ピクトン中将) 第6師団(コール中将) ブラウンシュヴァイク師団 ハノーファー軍予備師団(デッケン中将)※不在 予備砲兵隊(ドルモント少将) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
*参考文献 - *アルバート・A.ノフィ 著、諸岡良史 訳『ワーテルロー戦役』コイノニア社、2004年、314-324頁。ISBN 978-4901943055。
※兵員数・砲数は戦役の始まる前の数値であり、6月18日の会戦で実際に戦った人数とは異なる。イギリス軍師団にはハノーファー兵、ブラウンシュヴァイク兵、ナッサウ兵の部隊も含まれる。第1軍団のオランダ=ベルギー軍部隊の多くは会戦には不参加だった。 |
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ウェリントン公
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第1軍団長オラニエ公ウィレム
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第2軍団長ヒル中将
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騎兵軍団長アクスブリッジ中将
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第5師団長ピクトン中将
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近衛騎兵旅団長サマセット少将
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連合騎兵旅団長ポンゾビー少将
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オランダ軍第3師団長シャッセ中将
プロイセン軍
司令官のブリュッヘル元帥はライプツィヒの戦いでナポレオンを撃破した連合軍のうちのプロイセン軍を率いていた。参謀長のグナイゼナウ中将はプロイセンの軍制改革を推進した中心的人物である[45]。
プロイセン軍は困難な再編成の途上にあった。1815年時点で、以前の予備連隊、外人部隊そして1813年から1814年にかけて編成された義勇軍(Freikorps)は正規軍や多数の後備兵(ラントヴェーア:民兵)連隊に統合される過程にあった。ベルギーに到着した時点ではラントヴェーアのほとんどは未訓練かつ兵器も支給されていなかった。プロイセン軍の騎兵も同様の状態だった[46]。砲兵隊も再編中であり、万全に行動しうる状態になく、砲や装備は会戦中そして後に到着する有り様だった。しかしながら、これらの不利も戦役中にプロイセン軍参謀部の見せた見事な指揮統率によって埋め合わされた。これらの将校は参謀教育のためにつくられた四つの学校の出身者であり、共通した基準の訓練を受け任務についていた。このシステムは矛盾し、曖昧な命令を発しがちだったフランス軍のそれとは対照的なものであった。この参謀システムによってプロイセン軍はリニーの戦いの前に僅か24時間で兵力の4分の3を集結することを可能にさせた。リニーの戦いの後も、プロイセン軍は敗北はしたものの補給段列を再調整し、自軍を再編成し、48時間以内にワーテルローの戦場に駆けつけることが可能であった[47]。プロイセンの2個半の軍団48,000人がワーテルローの戦いに参戦した。ビューロー第4軍団長の率いる2個旅団が16時30分にロバウのフランス軍第6軍団に攻撃をかけ、ツィーテンの第1軍団とピルヒの第2軍団の一部は18時に来援した。
プロイセン軍戦闘序列
低ライン方面軍 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
司令官 - ブリュッヘル元帥 参謀長 - グナイゼナウ中将 123,000名、砲296門 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第1軍団 | 第2軍団 | 第4軍団 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ツィーテン中将 31,800名、砲80門 | ピルヒ中将 35,100名、砲80門 | ビューロー中将 31,900名、砲88門 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第1旅団(シュタインメッツ少将) 第2旅団(ピルヒ少将) 第3旅団(ヤゴウ少将) 第4旅団(ヘンケル=ドナーススマルク少将) 予備騎兵(レーダー中将) 予備砲兵(レーマン少将) | 第5旅団(ティペルスキルヒ少将) 第6旅団(クラフト少将) 第7旅団(ブラウゼ少将) 第8旅団(ボーゼ少将) 予備騎兵(ヴァーレン=ユルガス少将) 予備砲兵(ロール) | 第13旅団(ハッケ) 第14旅団(ライセル) 第15旅団(ロシュッティン) 第16旅団(ヒラー) 予備騎兵(ヴィルヘルム大公) 予備砲兵(ブライオン) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第3軍団 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ティールマン中将 27,925名、砲64門 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第9旅団(ボルッケ) 第10旅団(カンプフェン) 第11旅団(ルック) 第12旅団(シュトゥルプナゲル) 予備騎兵(ホーベ) 予備砲兵(モンハウプト) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
*参考文献 - *アルバート・A.ノフィ 著、諸岡良史 訳『ワーテルロー戦役』コイノニア社、2004年、324-331頁。ISBN 978-4901943055。
※兵員数・砲数は戦役の始まる前の数値であり、6月18日の会戦で実際に戦った人数とは異なる。点線の枠はティールマン中将の第3軍団でワーテルローの戦いには不参加。 |
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ブリュッヘル元帥
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参謀長グナイゼナウ中将
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第1軍団長ツィーテン中将
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第4軍団長ビューロー中将
戦場
ワーテルローは要害堅固な場所だった。ここはブリュッセルに至る主要街道に対して垂直に切り立ち、かつ横切られている長い尾根が東西に走っていた。尾根の頂きに沿って深い窪んだ小道 (英語版) のオヘイン道が通っている。ブリュッセル街道との交差路には大きな楡の木があり、ここはウェリントンの布陣のほぼ中央に位置しており、会戦中のほとんどの時間、彼はこの場所を本営とした。ウェリントンはオヘイン道に沿った尾根の頂の背後に歩兵を一線状に布陣させた。彼が過去の戦闘でしばしば行ったように、今回も反対斜面を活用して敵軍から(散兵や砲兵を除く)自軍の兵力を隠した[48]。戦場の長さは比較的狭い4kmだった。これによって彼はブレーヌ・ラルー村までの範囲に布陣させた(プロイセン軍がこの日のうちに来援することになっている左翼を除く)中央および右翼の部隊に縦深を持たせることができた[49]。
尾根の前面には陣地化が可能な三つの場所があった。右端にはウーグモンの館と庭園そして果樹園があった。ここは広くしっかりした造りの邸宅であり、当初は木々で隠されていた。家の北側には窪んで隠された小道があり(イギリスでは「窪み道」(the hollow-way)と呼ばれている)、これを使って補給ができた。左端にはパプロンの小集落があった。ウーグモンとパプロンは陣地化されて守備兵が配置され、英蘭軍の側面を確保していた。パプロンはまた英蘭軍を救援に来るプロイセン軍が通るワーヴルへの道を見おろしていた。残りの英蘭軍の布陣の前面にあたる主要街道の西側にはラ・エー・サントの農場と果樹園があり、国王直属ドイツ人部隊(KGL)の軽歩兵400人が守備に置かれた[50]。道路の反対側には閉鎖された採石場があり、ここには第95小銃連隊が狙撃兵として配置された[51]。
これらの場所は攻撃側にとって厄介な障害となった。ウェリントンの右側面を攻撃すれば陣地化されたウーグモンからの攻撃を引き起こし、中央右側を進撃すればウーグモンとラ・エー・サントからの縦射 (英語版) に曝されることになる。中央左側からではラ・エー・サントと隣接する採石場から縦射を受けることになり、左側面を突こうにも地面はぬかるんでおり、パプロン集落の通りや生け垣に配置された兵からの銃撃を受けることになる[52]
フランス軍は南方の別の尾根の斜面に布陣した。ナポレオンは英蘭軍の布陣を見ることができず、ブリュッセル街道に対するかたちで布陣を行った。右翼はデルロンの率いる第1軍団で歩兵13,000、騎兵1,300、予備騎兵4,700からなっていた。左翼はレイユの第2軍団で兵力は歩兵13,000、騎兵1,300、予備騎兵4,600であった。街道の南側、宿場ラ・ベル・アリアンスの周辺にはロバウの第6軍団(兵6,000)、皇帝近衛隊(歩兵13,000)そして予備騎兵2,000が置かれた[53]。フランス軍の右翼後方にはプランスノワの集落があり、右端には「パリの森」(Bois de Paris)があった。当初、ナポレオンは戦場を見渡すことができるロッサム農場に本営を置いていたが、午後になってラ・ベル・アリアンスに移っている。(ナポレオンのいる場所からは見渡せなくなったために)戦場での統率はネイ元帥に委ねられることになった[54]。
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ナポレオンが本営を置いたラ・ベル・アリアンス。1880年代撮影
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ウーグモン。戦場西側の激戦地となった。
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ラ・エー・サント
戦場中央部の要衝であり、熾烈な攻防戦が行われた。
会戦
戦闘準備
ウェリントンは2時から3時頃に起床し、夜明けまで手紙を書いている。彼はブリュッヘルに対して「少なくとも1個軍団を送ってくれればモン・サン・ジャンで戦うが、そうでなければブリュッセルまで後退する」と書き送った。6時にウェリントンは自軍の布陣を視察した。
その日の未明の軍議でブリュッヘルの参謀長グナイゼナウはウェリントンの作戦に対して不信感を示していたが、ブリュッヘルはウェリントンの軍を救援せねばならないと彼を説得した[55]。ワーヴルでは、ビューローの第4軍団がワーテルローの戦場に向けて先発しており、この軍団はリニーの戦いに参加しておらず無傷の状態であった。もっとも、第4軍団は犠牲者は出ていなかったが、プロイセン軍のリニーからの撤退援護のための二日間に渡る行軍で疲労していた。彼らは戦場からはるか西方に位置しており、進軍は遅々としたものだった。前夜の豪雨によって道路の状態は悪く、ビューローの兵と88門の大砲はワーヴルの渋滞した道路を通らねばならなかった。ワーヴルでの戦闘が始まったことにより事態はさらに悪化し、ビューローの軍が通過する予定だった道のいくつかが閉鎖されている。しかしながら、10時には行軍も順調になり、この頃、先発した部隊は英蘭軍左翼から8kmのところまで進んでいた[56]。ビューローの兵に続いて、第1軍団と第2軍団がワーテルローに向かった[57]。
ナポレオンは前夜を過ごしたラ・カイユー(Le Caillou)の館で朝食をとった。スールトがグルーシーの軍を呼び戻して本隊と合流させるべきではないかと意見具申をするとナポレオンは「卿はウェリントンを買い被っているのではないか。余に言わせれば、ウェリントンは愚将であり、イギリス人は弱兵だ。連中を打ち負かすなぞ朝飯前だ」と言い返した[58]。しかしながら、このナポレオンのひどく侮蔑的な言葉を額面通りに取るべきではないだろう。彼の格言のひとつに「戦場においては士気がすべてである」という言葉があり、敵を称賛することは常に誤りであり、いたずらに自軍の士気を低下させることにつながる。実際、彼は過去のいくつもの会戦の前に士気を高揚させる演説を行っており、このワーテルローの戦いの前の朝も幕僚たちの悲観論や臆病に対処せねばならず、一部の将官たちからの執拗かつほとんど敗北主義的な反対論に対抗しなければならなかった[59]。
この後、ナポレオンは末弟のジェロームから、宿屋の給仕がイギリス軍将校から漏れ聞いたプロイセン軍がワーヴルを出立したという噂話が伝えられたものの、ナポレオンはプロイセン軍が再起するには少なくとも二日は必要であり、グルーシー元帥が対処するだろうと断言した[60]。驚くべきことに、このジェロームの噂話を別にすると、この日のラ・カイユーの軍議に出席したフランス軍の指揮官たちは誰もプロイセン軍が危険なほど近づいている情報を持っておらず、この僅か5時間後にワーテルローの戦場になだれ込むべく進発することを想像もしていなかった[61]。
戦闘開始は9時と計画されていたが、前夜の豪雨で地面が水浸しになり、騎兵と砲兵の移動が困難になっていたためナポレオンは戦闘開始を13時まで遅らせた[62]。結果的には、この攻撃開始の遅延により、プロイセン軍の戦場への来援が間に合い、ナポレオンにとって致命的となった[63]。10時、彼は6時間前にグルーシーから受けた急報への返信を発し、「(グルーシーの現在位置から南方の)ワーヴルへ向かい、(グルーシーから西方の)我々との接触を維持する場所に位置し」それからプロイセン軍を「押し出せ」と命じた[64]。その内容は曖昧であり、グルーシーは合流すべきなのか独自の行動をすべきなのか分かりにくいものだった[62]。
11時にナポレオンは一般命令を発し、左翼はレイユ将軍の第2軍団で、右翼はデルロン将軍の第1軍団が担いモン・サン・ジャン村にある主要街道の十字路を確保することになった[65]。この命令は英蘭軍の戦線は尾根ではなくその奥の村にあると想定していた[66]。これを行うためにジェロームの師団がウーグモンへの先制攻撃を行い、ナポレオンは(ここを失えば海への連絡線が断たれるために)英蘭軍の予備兵力を誘い込むことができると見込んでいた[67]。作戦は13時頃に第1、第2そして第6軍団の大砲列(grande batterie)が英蘭軍中央への砲撃を開始をし、その後、デルロンの軍団が英蘭軍の左翼を攻撃して突破し、東から西に旋回して包囲する計画になっていた。ナポレオンの手記によれば、彼は英蘭軍をプロイセン軍から分断して海に叩き落とすことを企図していた[68]。
ウーグモン
「ワーテルローの戦いにおける奇妙な事実はこの戦いがいつ始まったのか確証できる者が誰もいないことである」と歴史家アンドリュー・ロバートは述べている[69]。ウェリントンは公文書で「10時頃にナポレオンが我が軍の拠点が置かれたウーグモンに対して熾烈な攻撃を仕掛けてきた」と記録している[70]。その他の史料は11時30分に攻撃が始まったと述べている[71]。
ウーグモンの館とその周辺は近衛軽歩兵4個中隊、森と果樹園はハノーファー軍猟兵およびナッサウ軍第2連隊第1大隊がおのおの守備についていた[72]。ジェローム・ボナパルトの第6師団が攻撃の口火を切り、麾下のボードワン将軍の第1旅団が突入して森と果樹園の守備隊を駆逐したものの、指揮官のボードワンが戦死する[73]。ジェロームは騎馬砲兵の支援のもとでソワイエ将軍の第2旅団を投入して攻撃を続けさせるが、イギリス軍王室騎馬砲兵の曲射砲の砲撃を受けて進撃が鈍ってしまう[74]。フランス軍砲兵が前進して対砲兵射撃によて英軍砲兵が制圧されると、ソワイエは兵を進めて館の北門を打ち壊して内部に突入した[75]。フランス兵の一部は中庭までたどり着くが、イギリス兵に門を奪回されて閉じ込められ全滅してしまった[76]。ジェロームは主攻勢前の牽制攻撃の役割は果たしたのだが、なおも攻撃を続け、フォワ将軍の第9師団までこの戦いに巻き込み、一方、ウェリントンも第2近衛歩兵連隊と第3近衛歩兵連隊の一部をウーグモンに送り込んだ[77]。
ウーグモンでの戦闘は午後いっぱい続いた。その周囲はフランス軍軽歩兵によって幾重にも取り囲まれ、連携した攻撃がウーグモン内の部隊に仕掛けられた。英蘭軍は館と北へ通じる窪み道を守った。午後になってナポレオンは砲撃によって家に火をかけるよう命じ[注釈 6]、その結果、礼拝堂を除くすべての建物が破壊された。国王直属ドイツ人部隊のデュ・プラの旅団は窪み道の防御に差し向けられ、高級士官を欠いた状態でこの任務を果たさねばならなかった。最終的に彼らは英軍の第71歩兵連隊によって救出された。アダム将軍のイギリス軍第3旅団はヒュー・ハケットのハノーファー軍第3旅団によって増強され、レイユによって差し向けられたフランス軍歩兵および騎兵のさらなる攻撃を撃退することに成功した。結局、ウーグモンはこの会戦の間中、持ちこたえた。
遺棄されたロイズ隊の大砲にたどり着くと、私は状況を視察するためにおよそ1分間ここに立ち止った。それは想像を越えた光景だった。ウーグモンとそこの木々は炎と戦場にたちこめる黒煙の中にそびえ立っていた。この煙の下にフランス兵たちがぼんやりと見えた。そこには揺れ動く長く赤い羽根飾りの集団を見ることができた。鋼の板の煌めきは重騎兵が移動していることを示しており、400門の大砲による砲撃によって双方に死者を出していた。怒号と悲鳴が区別つかなく混じり合い、これらはわたしに活動する火山を思い起こさせた。歩兵と騎兵の死体が我々の周りに散らばっており、そして私は視察を終えるべきと思い、我が軍の軍旗の方へ向かい、そこには広場に整列している私の部隊がいた。 — マクリーディ少佐、イギリス軍第30連隊、[78]
ウーグモンでの戦いはもともとはウェリントンの予備兵力を誘引するための陽動攻撃であったものが終日の戦闘にエスカレートし、逆にフランス軍の予備兵力が消耗させられる結果となったとしばしば言われる[79][80]。しかしながら、実際はナポレオンとウェリントンの双方がウーグモンの確保が会戦の勝利のカギであったと考えていたとする見方もある。ウーグモンはナポレオンが戦場を見渡すことができる場所であり[注釈 6]、彼は午後の間中、兵力をこことその周辺に送り続けている(総計で33個大隊、14,000人)。同じ様にウェリントンも、本来なら大兵力を収容することができないこの邸宅に21個大隊(12,000人)を投入し、窪み道を守り通せたため補充兵や弾薬を邸宅内の建物に供給し続けることができた。戦闘中、ウェリントンは敵軍からの過大な圧力を受けている中央部から砲兵隊を引き抜いてウーグモンを支援させており[81]、後になって彼は「会戦の勝利はウーグモンの門を閉じ続けることにかかっていた」と述べている[82]
私はこの拠点をここの背後に布陣していたビング将軍の近衛旅団の分遣隊によって占拠させ、指揮はマクドナルド中佐、次いでホーム大佐が執った。そして、大規模な敵軍がここを奪取しようと幾度も試みたが、これらの勇敢な兵士たちが最大限の勇気を示して、この日の間中、守り通したと付け加えられることを嬉しく思う。 — ウェリントン、[83]
フランス軍歩兵の第一次攻撃
フランス軍の大砲列(grande batterie)80門が中央部に整列した。砲撃の開始は英蘭軍第2軍団長ローランド・ヒルによれば11時50分[84]、その他の史料では正午または13時30分になっている[85]。大砲列は正確な照準を付けるには遠すぎる位置に布陣しており、目視できたのはオランダ軍師団の一部だけであり、その他の英蘭軍の部隊は反対斜線に布陣していた[86]。加えて地面が軟弱で砲撃による跳弾効果が妨げられ[注釈 7]、さらにフランス軍砲兵は英蘭軍の布陣全域をカバーせねばならず、砲撃の集弾性が低くなった。しかしながら、この時のナポレオンの命令は「敵を驚かせ、士気を萎えさせる」ことであり、敵に大きな物理的損害を出させることではなかった[86]。
およそ13時頃、ナポレオンはフランス軍右側面から4-5マイルほど(3時間程度の行軍距離)の場所にあるラスン=シャペル=サン=ランベール村周辺にいるプロイセン軍の第一陣を目にした[87]。ナポレオンは参謀長のスールトに対して「ただちに戦場に駆けつけプロイセン軍を攻撃せよ」との伝令をグルーシー元帥へ送るように命じた[88]。だが、この時のグルーシーは「(プロイセン軍を追撃して)貴官の剣をもって敵の背後を突け」との以前のナポレオンの命令を遂行するためワーヴルに向かっており、6月18日の朝には決戦場のモン・サン・ジャンから20kmも離れた場所にいた[89]。
モン・サン・ジャンの方向からの砲声はグルーシーの司令部でも聞かれ、グルーシーは部下のジェラール将軍から「砲声の方角へ進軍すべきです」との進言を受けていたが、彼は以前に受けた命令に固執してヨハン・フォン・ティールマン中将率いるプロイセン軍第3軍団後衛部隊とのワーヴルの戦いを始めた[90]。このグルーシーの判断により、彼の麾下の33,000人ものフランス軍がワーテルローの戦いに参戦できなくなり、作家シュテファン・ツヴァイクは「世界の運命を決定した世界史的瞬間」と呼んだ[91]。さらに不味いことに、13時にスールトがグルーシーに宛てた「直ちに移動して本隊と合流し、ビューローを叩け」とのナポレオンの命令を携えた伝令は道に迷い、19時になるまで到着しなかった[92]。
13時過ぎにデルロンの第1軍団が攻撃を開始した。左翼をキオ将軍の第1師団、中央をドンズロ将軍の第2師団・マルコニェ将軍の第3師団そして右翼をデュリット将軍の第4師団が受け持ったが、第1・第2・第3師団は「大隊編成の師団縦隊」と呼ばれる密集隊形をとおり、この隊形は戦術的融通性がなく敵砲兵の格好の的になった[93]。デュリット将軍の第4師団のみは「分割された大隊縦隊」と呼ばれる縦深の深い隊形で進軍している。これは本来「分割」を意味していたdivision を「師団」の意味と取り違えた命令が司令部から伝達される不手際だったと考えられている[93]。後に軍事学者ジョミニは第1軍団のこの隊形を「信じがたい」と酷評している[94]。
ドンズロ将軍率いる左端の第2師団がラ・エー・サントに進撃した。1個大隊が正面の守備隊と交戦する間に後続の大隊が両側に展開し、いくつかの胸甲騎兵大隊の支援を受けつつ、農場の孤立化に成功する。ラ・エー・サントが分断されたと見たオラニエ公はハノーファー・リューネブルク大隊を投入してこれを救出しようと試みた。だが、地面の窪みに隠れていた胸甲騎兵がこれを捕捉して瞬時に撃破してしまい、それからラ・エー・サントを通り越して尾根の頂にまで進出し、進撃を続けるデルロンの左側面を守った。
13時30分頃、デルロンは残る3個師団に前進を命じ、14,000人以上のフランス軍兵士が英蘭軍左翼の守るおよそ1,000mの戦線に展開した。彼らが対する英蘭軍は6,000人であり、第一線はバイラント率いるオランダ=ベルギー軍第2師団第1旅団によって構成されていた。第二線はトマス・ピクトン中将率いるイギリスおよびハノーファー兵の部隊であり、尾根の背後の死角に伏せていた。これらの部隊はいずれもカトル・ブラの戦いで大きな損害を出していた。加えて、戦場のほぼ中央部に配置されたバイラントの旅団は砲撃に身をさらす斜面前方に布陣していた[95]。命令を受けていなかった彼らは危険な場所に留まっていた[注釈 8]。
砲撃によって大打撃を受けていたバイラントの旅団はフランス軍の攻撃に抗しきれずに窪み道へ退却し、将校のほとんどが戦死するか負傷し兵力の40%を失ってしまい[96]、ベルギー第7大隊を残して戦場から離脱した[97][注釈 9]。
デルロンの兵は斜面を駆け上がり、そこにピクトンの兵が立ち上がって銃撃を浴びせた[98]。フランス歩兵も応戦し、8,000対2,000と数に勝る彼らはイギリス兵を圧迫した[99]。デルロンの攻撃は英蘭軍中央部をたじろがせることに成功し[100]、デルロンの左側の英蘭軍戦列が崩れはじめた。ピクトンは再集結を命じた直後に戦死し[101]、敵の数に圧倒された英蘭軍の兵士たちも挫けかけていた。
イギリス騎兵の突撃
我が軍の騎兵将校たちは馬を疾走させる悪ふざけに夢中になってしまった。彼らは置かれた状況を考慮せず、敵前で機動していると思ってもおらず、自制することも予備を控置することもしなかった。 — ウェリントン、[102]
この決定的な時点で、英蘭軍の騎兵軍団を指揮するアックスブリッジは過大な重圧を受けている歩兵部隊を救援すべく、敵から見えない尾根の背後で整列していた近衛騎兵旅団(Household Brigade)の名で知られる第1騎兵旅団(エドワード・サマセット少将)と連合騎兵旅団(Union Brigade)の名で知られる第2騎兵旅団(ウィリアム・ポンソビー少将)の2個重騎兵旅団に突撃を命じた。
およそ20年におよぶ戦乱により、ヨーロッパ大陸では騎乗に適した馬が激減しており、この結果、1815年戦役に参加したイギリス軍重騎兵は同時代の欧州諸国の騎兵部隊の中でも最も優れた馬を用いており、彼らはまた優れた馬上剣術の訓練を受けてもいた[103]。しかしながら、彼らは大部隊での機動についてフランス騎兵に劣り、態度は尊大であり、歩兵と違って実戦経験が不足していた[注釈 10]。ウェリントンの言によれば、彼らは戦術能力も思慮分別もほとんどなかった[102]。
2個の騎兵旅団の兵力はおよそ2,000騎(定数2,651騎)であり、47歳になるアックスブリッジが率いていたが、彼は不適切な数の予備兵力しか用意しておかなかった[注釈 11]。会戦の日の朝、アックスブリッジは配下の騎兵旅団長たちに対して戦場では自分の命令が常に届くとは限らないので、おのおの自らの判断で行動するよう告げ、「前線に対して支援する運動をせよ」と命じていた[105]。この際、アックスブリッジはヴァンドルー少将、ヴィヴィアン少将そしてオランダ=ベルギーの各騎兵隊がイギリス重騎兵隊を支援することを期待していた。後にアックスブリッジは前進に際して十分な数の予備隊を編成させなかったことに関して「私は大きな誤りを犯した」と後悔の念を吐露している[106]。
近衛騎兵旅団は尾根の頂の連合軍布陣地を越えて丘の下へと突撃した。デルロンの左翼を守っていた胸甲騎兵は散開しており、深く窪んだ街道へと追いやられ、総崩れになった[107]。窪み道は罠と化し、イギリス軍騎兵に追われた胸甲騎兵たちを彼らの右方向へと押し流した。胸甲騎兵たちの一部は窪み道の急勾配と前方の混乱した友軍歩兵の集団との間に挟まれてしまい、そこへ英軍第95歩兵連隊が窪み道の北側から銃撃をし、サマセットの重騎兵が背後から彼らを押し続けた[108]。この装甲化した敵とのもの珍しい戦闘はイギリス騎兵たちに強い印象を与えており、近衛騎兵旅団長はこう記録している。
胸甲騎兵へのサーベルの一撃は火鉢を叩くのと同じ音がした。 — エドワード・サマセット卿、[109]
近衛騎兵旅団左翼の大隊は戦闘を続け、フランス軍第2師団第2旅団(オーラール旅団将軍)を撃破した。司令部は彼らを呼び戻そうと試みたものの、彼らは前進を続けてしまい、ラ・エー・サントを通り過ぎて丘の下に出たところで方陣を組む第1旅団(シュミット旅団将軍)と出くわした。
左翼では連合騎兵旅団が自軍の歩兵の隊列をすり抜けて突撃しており、この際に第92歩兵連隊(Gordon Highlanders)の兵士の幾人が馬の鐙金にしがみついて突撃に参加したとの伝説が生まれている[101][注釈 12]。中央左側では第2竜騎兵連隊(Scots Greys)が第1師団第2旅団(ブルジョワ旅団将軍)の第105連隊を撃破して鷲章旗を奪取した。第6竜騎兵連隊(Inniskillings)はその他のフランス軍第1師団(キオ旅団将軍)の旅団を敗走させ、第2竜騎兵連隊は第3師団第2旅団(クルニエ旅団将軍)も叩きのめして第45連隊の鷲章旗を奪い取っている[110]。だが、英蘭軍の左端ではデュリット将軍のフランス軍第4師団が方陣を組む時間的余裕を得て、第2竜騎兵連隊を追い払った。
近衛騎兵旅団と同様、連合騎兵旅団の将校たちも部隊の統率が失われていたために兵を引くことが難しくなっていた。第2竜騎兵連隊の指揮官ジェームズ・ハミルトンは攻撃続行を命じ、フランス軍砲兵隊列に突進した。第2竜騎兵連隊は大砲を使用不能にしたり鹵獲する道具も時間的余裕もなかったが、彼らが砲兵たちを殺すか逃亡させたため結果的に大砲のほとんどが無力化された[111]。
この様子を見ていたナポレオンは即座にフラリンヌとトラバーサーの2個胸甲騎兵旅団そして第1軍団の軽騎兵師団に所属する2個槍騎兵(Chevau-léger)連隊に反撃を命じた[112]。イギリス軍騎兵はすでに疲労困憊しており、そこをフランス騎兵に突かれ、連合騎兵旅団は叩きのめされ、近衛騎兵旅団は包囲され、たちまち危機に陥った[113]。ウェリントンはヴァンドルー少将率いるイギリス軍軽竜騎兵隊、ヴァヴィアン少将のオランダ=ベルギー軽竜騎兵および驃騎兵そしてトリップ少将のオランダ=ベルギー騎銃兵を救出に差し向けたが、英蘭軍の騎兵隊はこの突撃で2,500騎を失う甚大な被害を蒙ることになった[114][注釈 13]。
連合騎兵旅団は将校と兵士が多数戦死傷し、旅団長のウィリアム・ポンソビーと第2竜騎兵連隊長のハミルトン大佐が戦死している。近衛騎兵旅団の第2近衛騎兵連隊(Life Guards)と近衛竜騎兵連隊もまた近衛竜騎兵連隊長フラー大佐の戦死を含む大損害を出した。 この一方で突撃の最右翼にいた第1近衛騎兵連隊(Life Guards)と予備に控置された王室近衛騎兵連隊(Blues)は統率を保つことができ、犠牲者数はごく少数だった。第8ベルギー軽騎兵連隊の戦いぶりを見た、この突撃の目撃者による手記は「気違いじみた勇敢さ」と回想している[115][116]
20,000以上のフランス軍将兵がこの攻撃に加わった。この失敗は多数の犠牲者(捕虜3,000を出している)だけでなく、ナポレオンに貴重な時間を失わせることになり、今やプロイセン軍が戦場の右手に姿を現し始めていた。ナポレオンはプロイセン軍を押し止めるべく、ロバウの第6軍団と2個騎兵師団の兵15,000の予備兵力を割かざる得なくなった。これにより、ナポレオンは近衛軍団を除く予備の歩兵戦力を全て投入したことになり、今や彼は劣勢な兵力をもって英蘭軍を速やかに打ち破らねばならなくなった[117]。
ネイ元帥の騎兵攻撃
15時30分、ナポレオンはネイ元帥に対してラ・エー・サントの奪取を厳命し、ネイはデルロンの第1軍団から引き抜いた2個旅団の兵力を持ってラ・エー・サントへの攻撃を開始した[118]。
この戦闘が行われていた16時少し前、ネイは英蘭軍中央部に後退の動きがあると感じ取った。彼はこの機を逃さず突破口にしようと考えたが、実際には彼は負傷兵や捕虜の後送を撤退の兆候であると誤解していた[119]。デルロンの敗退の後、ネイの手元には僅かな数の歩兵予備戦力しか残されておらず、他は実りのないウーグモン攻撃か、右翼の防衛に回されてた。このためネイ元帥は英蘭軍中央部を騎兵戦力のみで突破しようとした[120]。
第一次攻撃はミヨー将軍の第4騎兵軍団の胸甲騎兵とデヌエット将軍の近衛軽騎兵師団の合わせて4,800騎をもって敢行された。この攻撃はあまりに性急に組織されたものであり、掩護の歩兵も砲兵もなく決行された[121]。
英蘭軍の歩兵は20個の方陣(四角形の陣形)を組んでこれに対抗した[122]。方陣は戦闘を題材とした絵画によく描かれるものよりも小さめで、500人の大隊方陣は18m四方程度である。方陣は砲撃や歩兵に対しては脆弱だが騎兵にとっては致命的だった。方陣には側面攻撃ができず、馬は銃剣の矢ぶすまの中に突入できない。ウェリントンは砲兵に対して敵騎兵が近づいたら方陣の中に逃げ込み、敵が退却したら再び大砲に戻り戦うように命令していた[123]。
フランス軍騎兵の攻撃を目撃したイギリス軍近衛歩兵将校はその印象を非常に明快かつ幾分か詩的に書き残している。
午後4時頃、敵軍の砲撃が突然止み、我々は騎兵の大集団の進撃を目にした。この場にいて生き残った者は恐ろしい程に壮観なこの突撃を生涯忘れることはないだろう。圧倒的な、長く揺れ動く戦列が現れ、彼らはさらに前進し、陽光を浴びた海の大波のごとくに煌めいた。彼らが近づくにつれて雷鳴のような馬蹄の響きによって地面が揺れ動くようだった。この恐ろしい動く集団の衝撃に抗しうると考えるものは誰もいなかったろう。彼らは有名な胸甲騎兵、そのほとんどがヨーロッパの数々の戦場でその名をはせた古参兵たちだった。驚くほど短い時間で彼らは20ヤードにまで迫り、「皇帝陛下万歳」("Vive l'Empereur!")と叫んだ。「騎兵に備えよ」と命令が下り、最前列の兵たちが跪き、そして鋼鉄の棘が逆立ったひとつの壁となり、団結して、怒り狂う胸甲騎兵に立ち向かった。 — リース・ハウエル・グロノウ近衛歩兵大尉、[124]
このタイプの騎兵による集団攻撃は心理的衝撃効果の有無にほとんど完全に依存していた[125]。砲兵による近接支援が歩兵の方陣を崩して騎兵の突入を可能にするが、ワーテルローの戦いにおいてはフランス軍騎兵と砲兵の協同は拙劣なものだった。英蘭軍歩兵を叩ける距離まで近づいた砲兵の数は十分ではなかった[126]。
この突撃に際してフランス軍の砲撃は英蘭軍に死傷者を出させたが、これらの砲撃のほとんどは比較的長距離か、目標が尾根の向こう側にいたために間接射撃となっている。もしも、攻撃を受けた歩兵が方陣防御の陣形をしっかり保ち、パニックに陥らなければ、騎兵それ自体では歩兵に対してほんの僅かな被害しか与えられない。フランス軍騎兵の突撃は不動の歩兵方陣によって繰り返し撃退され、イギリス砲兵の絶え間ない砲撃によってフランス騎兵は再編成のために斜面を下ることを強いられ、そしてイギリス軍軽騎兵連隊、オランダ軍重騎兵旅団そして近衛騎兵旅団の生き残りによる果断な反撃を受けることになった。
少なくとも一人の砲兵士官は突撃を受ければ最寄りの方陣に逃げ込めとのウェリントンの命令に従わなかった。王室騎馬砲兵(Royal Horse Artillery)のマーサー大尉は両側で方陣を組むブラウンシュヴァイク兵は当てにならないと考え、この戦闘の間中、9門の6ポンド砲を敵に向けて戦い続け、多大な戦果をあげた[127]。
私は彼らの縦隊の先頭が50から60ヤードに近づくまで、彼らを前進するにまかせ、それから「撃て!」と命じた。その効果は恐るべきものだった。先鋒のほとんど全員が一度に倒れ、縦隊を突き抜ける砲弾は全体に混乱を引き起こした … すべての大砲からの砲撃が続けられ、人や馬を倒し、それはまるで草刈鎌で雑草を薙ぎ払うようだった。 — キャヴァリエ・マーサー、王室騎馬砲兵(RHA)、[128]
理由は定かではないが、フランス軍が英蘭連合軍の砲兵隊列を制圧しても、砲尾に穴を開けて使用不能にしておかなかった。そのため、方陣に逃げ込んでいた英蘭軍砲兵たちはフランス騎兵が撃退されると大砲のあった場所に戻り、再び彼らに砲撃を浴びせることができた[129]。
ネイは4度の突撃を敢行させたが、遂に英蘭軍の方陣を突破することはできなかった[130]。
ナポレオンはネイの攻撃は時期尚早にすぎ失策であるとは思っていたが、一方でプロイセン軍が右側面から迫っている状況でもあり、まずは早急に英蘭軍を撃破すべきであり、中央部への攻撃を続行させる決断をした[131]。
ミヨーとデヌエットの残存兵力にケレルマン将軍の第3騎兵軍団とギヨー将軍の近衛重騎兵師団が加えられ、総兵力は67個騎兵大隊9,000騎となった[132]。この攻撃は無意味であると認識していたケレルマンは精鋭の銃騎兵旅団を予備として控えさせ、戦闘に参加させなかったが、このことを見抜いたネイが彼らの投入を要求している[133]。
8度の突撃が行われ、ある方陣は23度も攻撃を受けたが、今回も砲兵は1個中隊しか加わっておらず、英蘭軍は一つの方陣も崩壊せず、ネイの攻撃はまたも頓挫した[134][注釈 14]。
被害の大きい、だが実りのない攻撃がモン・サン・ジャン尾根に繰り返された末にフランス軍騎兵は消耗し尽くしてしまった[135]。フランス軍の高級騎兵将校、とりわけ将官、は大きな損失を被った。勇敢さゆえ、そして指揮官が部隊の先頭に立つ習慣のために、フランス軍の師団長4人が負傷し、旅団長は9人が負傷し、1人が戦死した[133]。死傷者数は簡単には見積もれないが、例として、6月15日時点で796人いた近衛擲弾騎兵連隊(Grenadiers à Cheval )は6月19日には462人になっており、近衛竜騎兵連隊(l'Impératrice Dragons)は同じ期間に816人中416人を失った[136]。
ここに至り、騎兵単独では僅かしか成し得ないと、ネイ元帥もようやく悟った。遅まきながら彼は諸兵科連合での攻撃を組織することにし、レイユ将軍の第2軍団からバシュルュ将軍の第5師団とフォワ将軍の第9師団からティソ大佐の連隊を抽出させて兵6,500を集め、これに騎兵のうち未だに戦闘可能なものたちを加えさせた。今回の攻撃もそれまでの重騎兵による攻撃と同じ経路が用いられた[137] 。この攻撃はアックスブリッジ率いる近衛騎兵旅団によって止められた。だが、イギリス騎兵の攻撃はフランス軍歩兵を突破することができず、銃撃の損害により後退を強いられている[138]。バシュルュとティソの歩兵と彼らを支援する騎兵たちは砲撃とアダム将軍のイギリス軍第3旅団の銃撃にひどく叩かれ、後退を余儀なくされた[137]。フランス騎兵自体は英蘭軍中央部に僅かな死傷者しか与えられなかったが、方陣に対する砲撃は多数の犠牲者を出させていた。最左翼に布陣していたヴァンドルーの第4騎兵旅団とヴィヴィアンの第6騎兵旅団を除く、英蘭軍の騎兵はこの戦闘に投入されて、多大な損害を受けていた。英蘭軍にとっても危険な状態であり、カンバーランド驃騎兵連隊(この戦いに参加した唯一のハノーファー騎兵)は戦場から逃げ出し、ブリュッセルまでの道中で敗戦の噂をまき散らしている[139][注釈 15]
ネイの諸兵科連合攻撃が決行されたと時を同じくして、デルロンの第1軍団も兵を集結させ、第13歩兵連隊を先鋒にラ・エー・サントへの攻撃を再開した[140]。ラ・エー・サントは国王直属ドイツ人部隊(KGL)が守備していたが、英蘭軍は他の方面での戦闘に忙殺されてここへの弾薬の補給が滞っており[141]、フランス軍の猛攻を受けた国王直属ドイツ人部隊は支えきれずに退却し、400人いた兵士は僅か42人に減っていた[142]。
ラ・エー・サントを占領したネイは騎馬砲兵を英蘭軍中央部に向けて移動させると歩兵の方陣に対して短射程のぶどう弾を用いた砲撃を加えた[120]。これによって目に付きやすい方陣を組んでいた第27歩兵連隊(Inniskilling)そして第30および第73歩兵連隊は多数の犠牲者を出して撃破された。
この時、英蘭軍の中央部は危険なほど手薄になっており、もう一撃でネイは中央部を突破しえるところまで来たが、彼にはそれを実行する予備兵力がなかった[143]。ネイはナポレオンの本営に増援を求めたものの、この時すでにプランスノワでプロイセン軍との戦闘が始まっている状況でありその余裕はなく、使者に対してナポレオンは「もっと兵隊をよこせだと!?どこからそんなものが手に入る?奴は私が兵士をつくれるとでも思ってるのか?」と言い放った[144]。
実際にはナポレオンの手元には皇帝近衛軍団の15個大隊の無傷の兵力が残されていたが、彼はこの最後の予備戦力を投入する決断ができなかった[145]。
ウェリントンは兵力をかき集めて戦線の穴を塞ぐよう努め、「最後の一兵まで戦場に踏みとどまれ、今少しで救済は得られる」と兵を叱咤した[146]。
プロイセン軍の来援
16時頃、ビューロー中将のプロイセン軍第4軍団がフランス軍の前哨部隊と接触し始めた[147]。彼の目標はプランスノワであり、プロイセン軍はここをフランス軍の背後に回り込む跳躍台に使うことを計画していた。ブリュッヘル元帥はパリの森の道を通過する自軍の右側面を守るためにフリシェルモンの集落を確保することを考えている[148]。ブリュッヘルとウェリントンはこの日の10時から連絡を取り合っており、もしも英蘭軍の中央部が攻撃されていたら、フリシェルモンへ進出することになっていた[149]。
プランスノワへの道が空いているとビューロー将軍が気づいたのは16時30分のことだった[148]。この時はフランス軍騎兵による攻撃が最高潮に達しており、英蘭軍の左側面を守るナッサウ軍と連携すべくフリシェルモン=ラ・エイ間の地域へ第15旅団が派遣された[150]。ナポレオンはプランスノワへ向けて進軍中のビューローの第4軍団を迎撃すべく、ロバウ将軍の第6軍団を差し向けた。プロイセン軍第15旅団は決死の銃剣突撃でフリシェルモンにいたロバウの兵を追い払い、そのままフリシェルモンの高地に進出して12ポンド砲でフランス軍猟兵を打ちのめすとプランスノワへ向かった。これによってロバウの軍団はプランスノワ方面へ退却させられ、結果的にロバウはフランス軍の右翼後方を通り過ぎることになり、唯一の退却路であるシャルルロワ―ブリュッセル街道が直接脅かされることになる[151]。
ヒラー将軍のプロイセン軍第16旅団もまた6個大隊をもってプランスノワへと進撃していた。ナポレオンは押しまくられているロバウへの増援として新規近衛隊の全力である8個大隊を送った。新規近衛隊は反撃を行い、激戦の末にいったんはプランスノワを確保したものの、プロイセン軍の逆襲を受けて駆逐されてしまう[117]。ナポレオンは更に中堅近衛隊と古参近衛隊から2個大隊を派遣し、熾烈な銃剣戦闘の末に村を奪回した[117]。頑強なプロイセン軍は未だ打ち倒されてはおらず、18時30分にはピルヒの第2軍団の兵15,000も来着し、ビューローの第1軍団主力とともにプランスノワ攻撃を準備した[152]。
18時頃、ツィーテン将軍の第1軍団20,000がオアンに到着した[153]。ウェリントンとの連絡将校を務めるミュッフリンクが第1軍団のもとを訪れた。この時、ツィーテンは既に第1旅団を繰り出していたが、英蘭軍左翼のナッサウ軍部隊やプロイセン軍第15旅団の戦いぶりと犠牲者数を見て憂慮するようになっていた。これらの部隊は退却しているように見受けられ、自分の部隊が総崩れに巻き込まれるのではないかと恐れたツィーテンは英蘭軍の側面から離れてプロイセン軍の主力がいるプランスノワへ向かおうとしていた[153]。この動きを知ったミュッフリンクは英蘭軍の退却は事実無根であり、彼らの左翼を支援するようツィーテンを説得した[153]。ツィーテンは当初の方針通りに英蘭軍を直接支援することにし、彼の軍団の到着により、ウェリントンは左翼の騎兵を崩壊しかけていた中央へ振り向けることができた[154]。
第1軍団はパプロット前面でフランス軍を攻撃し、19時30分にはフランス軍の戦線は馬蹄型がねじ曲げられてしまう。戦線の左端はウーグモン、右がプランスノワ、中央はラ・エイとなった[155]。一連の攻撃を受けたデュリュットのフランス軍第4師団はラ・エイとパプロットに陣取っていたが[155]、プロイセン軍第24連隊に抵抗することなくソムランの背後にまで後退した。第24連隊は新たなフランス軍の布陣地を攻撃したが撃退され、シュレジェン・ライフル兵(Schützen )連隊と第1後備兵(Landwehr)連隊の支援を受けて再度攻撃を仕掛けた[156]。この再攻撃を受けフランス軍はいったんは後退させられたものの、激しく抵抗し始め、ソムラン奪回を図り、尾根やパプロットの集落の最後の数軒の立て籠もって死守した[156]。第24連隊は右側でイギリス軍ハイランダー大隊と結びつき、第13後備兵連隊や騎兵の支援を受けてこの場所からフランス軍の兵士を追い立てた。第13後備兵連隊と第15旅団の攻撃により、フランス軍はフリシェルモンから駆逐された[157]。デュリュットの師団はツィーテンの第1軍団騎兵予備から大規模な突撃を受けかねないと考え、戦場から退却した。これにより、第1軍団はフランス軍の唯一の退路だったブリュッセル街道へ前進した。
皇帝近衛隊の突撃
この一方、ラ・エー・サントが陥ちたことで英蘭軍中央部がむき出しになり、プランスノワの戦線は一時的に小康を得た。ナポレオンはこれまで無敵を誇ってきた皇帝近衛隊の投入を決めた。19時30分に決行されたこの攻撃は英蘭軍の中央を突破してその戦線をプロイセン軍から引き離すことにあった。この突撃は軍事史上名高い出来事の一つではあるが、具体的にどの部隊が参加したのかは不明確である。この攻撃は古参近衛隊の擲弾兵や猟歩兵ではなく、中堅近衛隊5個大隊によって行われたと見られる[注釈 16]。古参近衛隊3個大隊は前進し、攻撃の第二陣を構成したものの、彼らは予備のまま留め置かれ英蘭軍に対する攻撃には直接加わっていない[注釈 16]。
・・・私は皇帝によって指揮される近衛隊の4個連隊の到着を目にした。これらの部隊をもって、皇帝は攻撃を再開し、敵軍中央部を突破することを望んだ。皇帝は私に彼らを率いるよう命じ、将軍、将校そして兵士たちはみな、非の打ちどころのない豪胆さを示して見せた。だが、この一群の兵士たちは、敵に対して長きに渡って抵抗するには弱すぎた。そして、この攻撃が(ほんの僅かな間ではあったが)奮い立たせた希望をすぐに捨てざる得なくなった。 — ネイ元帥、[158]
ぶどう弾による砲撃や散兵からの銃撃を受けつつ、およそ3,000の中堅近衛兵はラ・エー・サントの西側にまで前進し、攻撃のために三方向に別たれた。2個中堅近衛擲弾兵大隊からなる集団はイギリス、ブラウンシュヴァイクそしてナッサウ兵からなる第一線を突破し[159]、比較的損害の少ないシャッセ将軍のオランダ=ベルギー軍第3師団が彼らに対するべく差し向けられ、英蘭軍の砲兵が勝ち誇る中堅近衛擲弾兵の側面を攻撃した。これでもなお中堅近衛隊の前進を止められなかったために、シャッセは自らの第1旅団に数に劣る中堅近衛隊に対する突撃を命じ、中堅近衛隊はひるみそして粉砕された[160]。
西側ではメイトランド少将のイギリス軍第1近衛旅団1500人がフランス軍の砲撃から身を守るために伏せていた。フランス軍第二派である2個中堅近衛猟歩兵大隊が接近するとメイトランドの近衛歩兵は立ち上がり、猛烈な一斉射撃を浴びせた[161]。中堅近衛隊の猟歩兵はこれに応戦すべく展開したが、浮き足立ち始めた。イギリス軍近衛歩兵隊による銃剣突撃がこれを打ち破った。無傷の近衛猟歩兵大隊からなる第三派が支援のために駆けつけた。イギリス軍近衛兵は後退し、フランス軍の中堅近衛猟歩兵がこれを追うが、ジョン・コルボーン中佐率いる第52軽歩兵連隊が彼らの側面に回りこみ強烈的な射撃を浴びせかけ、突撃した[160][162]。この猛攻により、フランス軍第三派も撃破された[162]。
最後の皇帝近衛隊がいちもくさんに退却すると、フランス軍の前線に仰天すべき知らせが駆け巡り、パニックが巻き起こった。「近衛隊が退却した。我が身を守れ!」( "La Garde recule. Sauve qui peut!" )。一方、愛馬のコペンハーゲン号 (en) に跨ったウェリントンは帽子を頭上に振って総進撃を命じ、「始めたからにはやり通せ」("In for a penny, in for a pound")と言った[163]。陣地から飛び出した彼の軍隊は、退却するフランス軍に襲いかかった[160]。
生き残った皇帝近衛隊の兵士たちは最後の抵抗の場所 (英語版) とすべく予備としてラ・エー・サント南側に後置されていた3個大隊(いくつかの史料は4個としてる)のもとに集まった。アダム少将の第3旅団とハノーファー軍後備兵連隊オスナブリュック大隊に加えてヴァンドルー少将とヴィヴィアン少将の比較的傷が浅い騎兵旅団が右側から突撃し、皇帝近衛隊を混乱に陥れた。ある程度統率を保っていた左側の皇帝近衛隊はラ・ベル・アリアンスの方向へ退却した。この退却のさなか、皇帝近衛隊の一部が降伏を勧告され、有名な返答をしている。皇帝近衛隊の指揮官は「近衛兵は死ぬ。降伏などしない!」("La Garde meurt, elle ne se rend pas!")[注釈 17]またはただ一言「くそったれ!」("Merde!")と叫んだという[注釈 18]。
プランスノワ奪取
同じ頃、プロイセン軍第5、第14そして第16旅団がこの日三度目となるプランスノワへの攻撃を開始した[164]。村の教会は炎上し、フランス軍の抵抗の中心となっていた墓地では「竜巻が起きたよう」に死体が撒き散らされた[164]。新規近衛隊を支援するために中堅近衛隊5個大隊が展開したものの、実際上、彼らの全てがロバウの軍団の残余とともに防戦を行っていた[164]。プランスノワ攻防の要は南側にあるシャトレの森であり、ピルヒの第2軍団に所属する2個旅団が到着して、この森を突破しようとする第4軍団を増強した。プロイセン軍第25連隊マスケット銃大隊は第1古参近衛擲弾兵連隊第2大隊をシャトレの森から逐うとプランスノワの側面を攻撃し、フランス軍に退却を強いた。これはこの日、プランスノワの持ち主が変わる5度目にして最後のことだった。古参近衛隊は整然と退却したが、パニック状態で退却する友軍の群れに巻き込まれて、彼らもその一部となってしまった[164]。
プロイセン第4軍団がプランスノワを越えて前進するとイギリス軍の追撃を受けて無秩序に敗走するフランス軍の群れに遭遇した[164]。プロイセン軍は英蘭軍部隊にあたることを恐れて発砲を控えた。皇帝近衛隊とともに退却しなかったフランス軍部隊は持ち場で降伏して殺害され、その際、双方とも慈悲を求めも申し出もしなかった。プランスノワの攻防の死傷者数に関する資料は存在しないが、この戦いに参加したフランス軍第6軍団と新規近衛師団の将校のうち3分の1が死傷していることが戦いの激しさを物語っている[152]。
偉大な勇気と粘り強さにも関わらず、村で戦っていた皇帝近衛隊は動揺の兆しを見せ始めた。教会はすでに炎上しており、赤い火柱が窓や側廊そして扉から吹き上がっていた。いまだに激しい白兵戦闘が行われている集落の家々も燃えており、混乱を増させた。しかしながら、フォン・ヴィッツレーベン少佐の機動が完了して皇帝近衛隊の側面と背面が脅かされると、彼らも撤退を始めた。ペレテ将軍の率いる近衛猟歩兵が殿(しんがり)を努めた。残りの皇帝近衛隊は大慌てで撤退し、大量の大砲、その他の装備と弾薬輸送馬車が遺棄された。プランスノワからの脱出はシャルルロワへのフランス軍の退路を守る場所を失うことを意味していた。戦場のその他の場所とは異なり、ここでは「わが身を守れ!」("Sauve qui peut!")との悲鳴は聞かれなかった。その代わりに「我らが軍旗を守れ!」("Sauvons nos aigles!" )との雄叫びが聞こえた。 — プロイセン軍第4軍団所属第24連隊公刊戦史[165]
崩壊
今やフランス軍の右翼と左翼そして中央はすべて瓦解した[164]。ラ・ベル・アリアンスに布陣している古参近衛隊の2個大隊が未だ統制を維持している最後のフランス軍であり、彼らは最後の予備兵力そしてナポレオンの護衛として残されていた。ナポレオンはフランス軍を彼らの背後で再集結させようと望んだが[166]、後退は敗走となり、古参近衛隊もまた撤退を余儀なくされ、連合軍の騎兵隊からの防御のためにラ・ベル・アリアンスの両側に1個大隊づつが方陣を組んだ。もはやこの戦いには敗れており、ここを去るべきだと説得されたナポレオンは皇帝近衛隊の方陣にここの宿場を離れるよう命じた[78][167]。
アダム少将の第3旅団が突撃をかけて皇帝近衛隊の方陣は後退を余儀なくされ[162][168]、プロイセン軍はその他の部隊と交戦した。夕闇が降りるとともに二つの方陣は比較的整然と撤退したが、フランス軍の大砲やその他の装備は連合軍の手に落ちた。撤退する皇帝近衛隊は何千人もの逃げ惑い支離滅裂となったフランス軍兵士たちの群れに飲み込まれた。追撃は比較的消耗の少ないプロイセン軍が受け持ち、プロイセン軍参謀長グナイゼナウは「月光下の狩猟」と称して、夜更けまで敗残兵たちを追い回した[169]。追撃戦でフランス軍の大砲78門が鹵獲され、多数の将軍を含む2,000人が捕虜になっている[170]。
我々には後退を援護するための四つの古参近衛隊による方陣がまだ残されていた。軍から選ばれた彼ら勇敢な擲弾兵は数に圧倒されて次々と後退を強いられ、次第々々に地面を明け渡していき、最終的に彼らは完全に殲滅された。この時から兵たちは背を向けて逃げ始め、軍隊は単なる混乱した群衆と化した。しかしながら、これは総崩れではなく、また巷間で中傷的に言われているような「わが身を守れ!」(sauve qui peut)との悲鳴は聞かれなかった。 — ネイ元帥、[171]
戦後
フランス軍の布陣のほぼ中央、高地の上にある建物が、ラ・ベル・アリアンス(La Belle Alliance)と呼ばれる農場だった。すべてのプロイセン軍は、この戦場のあらゆる場所から見ることができる、この農場へ向けて進軍した。ここはこの会戦中にナポレオンがいた場所であり、ここで彼は命令を下し、勝利の希望に自惚れていた。そして、ここが彼の破滅が決定的となる場所となった。夜の闇の中、幸運にも、この場所でブリュッヘル元帥とウェリントン公が会見する機会が得られ、彼らは勝者として敬礼しあった。 — グナイゼナウ将軍、[172]
ウェリントン公とブリュッヘル元帥との会見は21時頃にナポレオンの本営があったラ・ベル・アリアンスで行われた[173][注釈 19]。ブリュッヘルはこの戦いをナポレオンの本営があった戦場の中心地であり、両軍の「同盟」(alliance)の意味にもかけた「ラ・ベル・アリアンスの戦い」(直訳すると「良き同盟の戦い」)と命名したいとウェリントンに通達したが、ウェリントンは英語での発音を気にかけて戦場とはやや離れた場所にあるワーテルロー村(英語の発音はウォータールー)の地名に拠るワーテルローの戦い(Battle of Waterloo)と命名して報告書を本国に送った[174]。このため、ドイツではこの戦いはラ・ベル・アリアンスの戦い(Schlacht bei Belle-Alliance)とも呼ばれる。
ワーテルローの戦いでウェリントンの英蘭軍は戦死傷約17,000人・行方不明10,000人を出しており[4]、ブリュッヘルのプロイセン軍のそれは約7,000人であり[4]、そのうち810人はフリシェルモンとプランスノワの両方の攻防戦に参加したビューローの第4軍団に所属する第18連隊のみから出ており、連隊は33個もの鉄十字章を得ている[175]。ナポレオンのフランス軍は約40,000人の死傷・捕虜・逃亡を出し、砲220門を失った[4]。
6月22日の朝、私は戦場を見に行った。そこはワーテルローの村から少し先にあるモン・サン・ジャンの台地にあった。だが、そこに到着するとその光景は身の毛もよだつものだった。私は胃が痛くなり、この場から帰ることを願いたい気持ちになった。それは私が生涯忘れることのない惨状であり、大量の死体、大勢の負傷者、彼らは足を砕かれて歩くこともできない。彼らは負傷によるものだけでなく飢えによっても非業の最期を迎えようとしており、連合軍は(当然のことだか)彼らのもとに外科医と荷馬車を連れて来なければならない。連合軍とフランス軍双方の負傷者たちは、等しく悲惨な状態にあった。 — W・E・フライ少佐、After Waterloo: Reminiscences of European Travel 1815–1819.[176]
ナポレオンから受けていた命令を遵守したグルーシー元帥はティーレマン将軍のプロイセン軍をワーヴルで撃破し、6月19日の10時30分に整然と撤退できたが、その代償は33,000人のフランス軍将兵がワーテルローの主戦場に来着できなかったことであった。
ナポレオンはシャルルロワを経てフィリップヴィルまで逃れ、そこから留守政府を預かる元スペイン王の兄ジョゼフ・ボナパルトに楽観的な内容の報告書を送り、軍隊の再建を指示したが、彼の命運はすでに尽きていた[177]。6月20日にナポレオンは幕僚に促され、軍隊を置き去りにしてパリに帰還したが、プロイセンの軍事学者クラウゼヴィッツはこれを大きな誤りだったと非難している[178]。ナポレオンはなお政権維持に希望を持ち、議会を解散して独裁権を獲得しようと画策したが、議会はこれに反対して国家反逆罪にあたるとナポレオンを非難し、ついには退位をも要求しはじめた[179]。
一方、ウェリントンは6月19日に戦闘の詳細について報告する急報を本国に送り、6月21日に到着して翌22日にロンドン・ガゼッタ紙で告知された[180]。ワーテルローの戦いの帰趨はロンドンの株式市場も注視しており、カトル・ブラの戦いの敗報によってコンソル公債は下落していたが、ワーテルローの勝報をいち早く手に入れた銀行家ネイサン・メイアー・ロスチャイルドはすぐに買いを入れずに意図的に公債を投げ売りして暴落させ、二束三文になったところで大量買いをし、そして公式な報道により大暴騰した[181]。後に「ネイサンの逆売り」と呼ばれる株式売買でロスチャイルド家は巨額の利益を獲得した。
ウェリントン公とブリュッヘル元帥そしてその他の連合国軍はパリへ向けて進撃した。6月24日、ナポレオンは2度目の退位を宣言し、フーシェを首班とする臨時政府がつくられた。7月3日、ナポレオン戦争の最後の会戦としてイシーの戦いが起こり、ナポレオンに戦争大臣に任命されていたダヴーがブリュッヘルのプロイセン軍に敗れている[182]。
ナポレオンは北アメリカへ逃亡を図るが、イギリス海軍はこの動きを予見しておりフランスの港を封鎖していた。結局、ナポレオンは7月15日にイギリス海軍の戦列艦ベレロフォン号のメイトランド海軍大尉に投降した。
一部のフランス軍要塞は降伏を拒んでおり、9月13日にロンウィが降伏して、すべての抵抗が終わった。11月20日に連合国とフランスとの間でパリ条約が締結されルイ18世が復位した。ナポレオンはイギリスのプリマスへの上陸を求めたが、ヨーロッパの混乱の元凶はナポレオンにあるとされ、ベルトラン、モントロン、グールゴの3人の将軍とともにセントヘレナ島に流されて1821年5月5日に死去した[184][185]。
王党派が復帰したフランスではナポレオンの部下たちに対する報復が行われた。ネイ元帥は12月に銃殺刑となり、参謀長のスールト、戦争大臣のダヴーの両元帥をはじめ30人以上の将官が投獄または流刑に処されている[186]。
イギリスではこの戦いの後、ウォータールー(Waterloo)の単語はスラングとして英語の語彙に組み込まれ、「惨敗」の喩えとなった[187]。
皇帝近衛隊の擲弾兵を撃破した(実際には猟歩兵部隊だった)イギリス軍第1近衛旅団所属第1近衛歩兵連隊(ヘンリー・アスキン中佐)はその功績が認められて「擲弾兵近衛連隊」(Grenadier Guards)の称号が与えられ、擲弾兵の様式の毛皮製高帽が採用された。イギリス近衛騎兵旅団もフランス軍の胸甲騎兵を撃破した功績が認められて1821年に胸甲の使用が認められた。この戦いに参加した者たちに槍騎兵の有効さが印象づけられ、その後、ヨーロッパ中で採用されるようになり、1816年にイギリス軍は軽騎兵4個連隊を槍騎兵に改編させている[188]。
戦後、ウェリントンは軍の重鎮となって陸軍総司令官に2度就任し[189]、政治家としても要職を歴任して外交使節としても活動しており[190]、首相を2度務めている(任期:1828年 - 1830年、1834年 - 1834年)[191]。英蘭軍の騎兵部隊を任されたアックスブリッジは会戦の終盤に負傷して片脚を失ったが、その後は要職を歴任し1846年に元帥に叙された[192]。また、英蘭軍第1軍団長を務めたオラニエ公は1840年にオランダ王ウィレム2世として即位している。
この会戦中戦場を駆け巡ったウェリントンの幕僚のほとんどが死傷しており[193]、その一人でウェリントンの秘書官を務めていたラグラン男爵フィッツロイ・サマセットは、この戦いで右腕を負傷し切断を余儀なくされた(ラグラン袖は彼の失われた右腕に合わせて作られたものである)。彼は後に陸軍最高司令官となり、クリミア戦争(1853年 - 1856年)の総指揮を執ることになる[194]。
1848年に開業したロンドンの複合ターミナル駅であるウォータールー駅(ワーテルローの英語読み)はワーテルローの戦いが由来である[195]。1994年に英仏海峡トンネルが完成し、パリとロンドンを結ぶ高速列車ユーロスターが運行を開始した際、ロンドン側ターミナルが皮肉にもここであった。このため、フランス側は、幾度となく駅の改名や変更を求めている[195]。2007年にはイギリス国内の高速新線が完成し、ターミナルもセント・パンクラス駅に変更された。
プロイセン軍司令官のブリュッヘル元帥は既に高齢であり、この年のうちに退役し、1819年に77歳で死去した。プロイセン軍に参謀本部組織を確立させこの戦いでも参謀長として重要な役割を果たしたグナイゼナウ中将は後に元帥に列せられたが、進歩的な考えの彼はプロイセンの保守的な体質によって戦後は権力からは遠ざけられている[196]。『戦争論』で知られるプロイセン軍のクラウゼヴィッツはこの戦役では第3軍団の参謀を務めており、後にこの戦いを研究した『1815年のフランス戦役』を著し、後世に資することになる。
19世紀の著名な軍事学者ジョミニ将軍はナポレオン時代の戦略戦術に関する主導的研究者の一人でもあり、ワーテルローの戦いにおけるナポレオンの敗因をいくつか提示している。
私が考えるに、四つの主な要因が彼に破滅をもたらした。
第一のそして最も重要な要因は絶妙な連携によるブリュッヘルの到着とこの到着を利させた(グルーシーの)拙い行軍である。第二の要因はイギリス歩兵の賞賛すべき粘り強さ、そして指揮官たちの冷静さである。第三はひどい天候であり、これによって地面がぬかるみ、行軍が非常に困難になり、さらにその日の朝に行われるはずであった攻撃開始が午後1時にまで遅延することになった。第四は第1軍団の信じがたい隊形であり、彼らはあまりにも密集しすぎており、第一次攻撃を成功させることは難しかった。 — アントワーヌ=アンリ・ジョミニ、[94]
古戦場
戦場の地形の一部は1815年当時ものから変えられている。観光は会戦の翌日から始まっており、6月19日付の書簡でメーサー大尉は「一台の荷馬車がブリュッセルからやって来て、その乗客たちが戦場を見て回っていた」と書き残している[128]。1820年、オランダ王ウィレム1世は彼の息子のオラニエ公が負傷したとされる場所に記念碑を建てるよう命じた。イギリス軍戦線中央部があった尾根の地域の300,000立方メートル相当の土壌を用いて「ライオンの丘」と呼ばれる小山がここに造られており、これによって英蘭軍の窪み道の南側の土手が取り除かれてしまった。
ヴィクトル・ユーゴーは小説『レ・ミゼラブル』の中でこう述べている。
ナポレオンとウェリントンとの会戦の場所である種々の勾配をなした平地の起伏は、人の知るとおり、一八一五年六月十八日とは今日大いにそのありさまを異にしている。その災厄の場所から、すべて記念となるものを人々は奪い去ってしまって、実際の形態はそこなわれたのである。そしてその歴史も面目を失って、もはやそこに痕跡を認め難くなっている。その地に光栄を与えんために、人々はその地のありさまを変えてしまった。二年後にウェリントンは再びワーテルローを見て叫んだ、「私の戦場は形が変えられてしまった。」今日獅子の像の立っている大きな土盛りのある場所には、その当時一つの丘があってニヴェルの道の方へは上れるくらいの傾斜で低くなっていたが、ジュナップの道路の方ではほとんど断崖だんがいをなしていた。その断崖の高さは、ジュナップからブラッセルへ行く道をはさんでる二つの大きな墳墓の丘の高さによって、今日なお測ることができる。その一つはイギリス兵の墓であって左手にあり、も一つはドイツ兵のであって右手にある。フランス兵の墓はない。フランスにとっては、その平原すべてが墓地である。 — ヴィクトル・ユーゴー, 『レ・ミゼラブル』、豊島与志雄訳(1918年)[197]
その他の地形や会戦に関係する場所は当時からほとんど変わっていない。この中にはブリュッセル=シャルルロワ街道東側のなだらかに起伏する農地やウーグモン、ラ・エー・サントそしてラ・ベル・アリアンスといった建物も含まれる[198]。
「ライオンの丘」の他にも古戦場にはいくつもの記念碑が存在する。ブリュッセル=シャルルロワ街道とブレン・ラルー =オヘイン街道の十字路にはイギリス兵、オランダ兵、ハノーファー兵そしてドイツ人義勇兵の集団墓地がある。フランス軍戦死者に対する記念碑は「傷ついた鷲」("The Wounded Eagle")と名づけられ、ここは戦いの終盤に皇帝近衛隊が最後の方陣を組んだ場所とされる。プロイセン軍戦死者の記念碑はプランスノワにあり、ここはプロイセン軍の砲兵隊が布陣したとされる場所である。ブリュッセル市内のウェイのマルティン教会にはデュエズム将軍の墓所がある。エベレのブリュッセル墓地には「イギリス人の碑」("British Monument")と呼ばれる戦死した17人のイギリス軍士官の墓所がある[199]。
「ライオンの丘」のふもとにある「ワーテルロー・パノラマ館」(Panorama de la Bataille de Waterloo)の内部には1912年にルイ・デュムーランが描いた周囲110m、高さ12mものワーテルローの戦いのパノラマ画が展示されており[200]、また館内では20分のワーテルローの戦いの映画も上映されている[201]。この古戦場では毎年、ワーテルローの戦いの再現イベントが行われている[202]。ワーテルローは長久手の戦いの古戦場がある日本の長久手市と姉妹都市を提携している[203]。
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ナポレオンの最後の本営。(博物館になっている[204]。)
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国王直属ドイツ人部隊(KGL)(左)と英軍士官ゴードン(右)の記念碑。背後は「ライオンの丘」。
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ナポレオンの鷲
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ナポレオン像。 Bivouac de l'Empereur ホテル、ワーテルロー。
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第8歩兵連隊:この場所でデュリットの師団に所属する第8歩兵連隊はフォン・オンプテダ大佐のプロイセン部隊への攻撃に成功した。KGLの記念碑のそば。
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ウーグモン農場の南玄関。
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大陸軍軍最後の戦士の記念碑。 (傷ついた鷲:The Wounded Eagle)
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デュエズム将軍の墓所。ブリュッセル、ウェイ。
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ブリュッセル墓地のワーテルロー戦役の記念碑。
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2012年の再現イベント
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フランス軍の胸甲騎兵。
2011年の再現イベント -
プロイセン歩兵の一斉射撃。
2011年の再現イベント -
2010年の再現イベント
作品
19世紀の激動のフランスを時代背景としたヴィクトル・ユーゴーの長編小説 『レ・ミゼラブル』第二部コゼット第一編の主題はワーテルローであり、1861年5月に物語の著者(ユーゴー)がベルギーの戦場跡を訪れる場面から始まり、ワーテルローの戦いの詳細な戦場描写からナポレオンの没落までが語られている。『レ・ミゼラブル』の作中では本筋とはあまり関係のない歴史挿話やユーゴーの歴史考察が交えられており、第二部第一編もそのひとつである[205]。
ユーゴーは手がけている大作にこの世紀の一戦を挿入したいと考えており、1861年3月から喉の病気の転地療養を兼ねてワーテルローに滞在し、古戦場を散策しながら『レ・ミゼラブル』の執筆を行い、6月30日にいちおうの完成をみた[206]。彼は作品の完成を知らせる友人に宛てた手紙で「偶然にもワーテルローの古戦場で、私は自分の戦いを戦った」と書き送っている[207]。その後もユーゴーは加筆と修正を続けており、第二部第一編「ワーテルロー」は12月21日に書き上げている[208]。『レ・ミゼラブル』は1862年3月と4月にベルギーとフランスで出版され、爆発的な売れ行きとなった[209]。『レ・ミゼラブル』完成の地となったベルギーのワーテルローにはヴィクトル・ユーゴーの記念柱が建立されている。
コナン・ドイルの『勇将ジェラールの回想』、『勇将ジェラールの冒険』の2部作はナポレオンに忠誠を尽くす騎兵将校エティエンヌ・ジェラールを主人公とした冒険小説であり、『勇将ジェラールの冒険』に収録される中編「准将がワーテルローで奮戦した顛末」はこの戦いにおける彼の活躍を描いている。日本人の作家によるワーテルローの戦いを主題とした作品としては柘植久慶の『逆撃 ナポレオン ワーテルロー会戦』上下巻がある。これは現代の日本人御厩太郎がナポレオンの将軍となって歴史改編を試みる架空戦記的な作品である。
ナポレオン戦争の時代を扱った映像作品ではワーテルローの戦いも数多く登場するが[210]、会戦自体を主題とした作品には1928年のドイツ映画『ワーテルロー』[211]と1970年のイタリア・ソ連合作映画『ワーテルロー』とがある。後者は監督をソ連のセルゲーイ・ボンダルチュークが務める製作費1200万ドルの大作映画であり、ソ連軍の協力を受けて2万人の兵士を使って会戦を大規模に再現した[212]。また、日本のアニメ『ヤッターマン』の最終回は「アワテルローの戦いだコロン」であり、この戦いのパロディとなっている(1979年1月27日放映)。
ワーテルローの戦いは音楽の題材ともなっており、イギリスの女流作曲家ウィルマ・アンダーソン・ギルマンのピアノ曲『ウォータールーの戦い』は描写音楽風に戦いの始まりから終わりまで8つの接続曲のスタイルで作曲されており、発表会でもしばしば取り上げられる[213]。本曲では「ワーテルロー」より「ウォータールー」の表記が定着されている。1974年にスウェーデンの音楽グループABBAがリリースした『恋のウォータールー』は全英ヒット・チャートで2週1位、ビルボードで6位を獲得し[214]、フランスでもシングル・チャートでは3位となる大ヒットとなった。この曲では「惨敗」を意味する英語の俗語としての「ウォータールー」(Waterloo)がかけられている。
欧米圏で知名度の高いワーテルローの戦いは当然のごとくボード・シミュレーションゲームの題材として取り上げられており、アバロンヒル社の最初期の作品『Waterloo』やSPI社の『Napoleon at Waterloo』そして爆発的に売れた『Wellington's Victory』(SPI/TSR)をはじめ非常に多くのゲームが製作されている[210]。日本製のゲームには『ワーテルロー』(翔企画)や『ワーテルローの落日』(Gamejournal No.41)[215]がある。
脚注
注釈
- ^ ルイ18世からナポレオン討伐を命じられたネイ元帥は「ナポレオンを鉄の檻に入れてパリに連れ帰りましょう」と豪語して出立したが、ナポレオンから手紙を受け取ると態度を豹変させ兵士たちに「皇帝万歳!」と叫び、彼に帰順した。ストローソン 1998,pp.265-266
- ^ 総兵力69,000人、歩兵48,000、騎兵14,000、砲兵7,000、大砲250門とする資料もある。Barbero 2005, p. 75.
- ^ スールトは6月17日午後10時のグルーシーへの命令伝達に一人の伝令を出していたが、これを知ったナポレオンから「ベルティエなら百人の伝令を送っていたぞ」と叱責されている。長塚 1986,p.565.
ベルティエは特別に編成された伝騎の小集団を組織しており、伝令も6人を出していた。ノフィ 2004,p.262. - ^ マーサー砲兵大尉はブラウンシュヴァイク兵について「完全に子供だ」と評した。(Mercer 1870).
- ^ 6月13日、アトに駐屯するハノーファー予備連隊の兵士は火薬と薬包を要求したが、彼らは一度も発砲したことがなかった。 (Longford 1971, p. 486).
- ^ a b 火災を見たウェリントンは館の守備隊長にいかなる犠牲を払ってもその場所を死守せよと命じた。Barbero 2005, p. 298.
- ^ フランス軍砲兵は砲弾を直接命中させるのではなく、地表に命中させて周囲の岩や土塊を跳ね飛ばして殺傷範囲を広げる跳弾戦術を用いていた。ノフィ 2004,p.201.
- ^ これはオランダ側の史料、特にオランダ軍第2師団の戦闘詳報と矛盾する。; 右を参照せよ。Erwin Muilwijk,Bylandt's brigade during the morning
- ^ 戦場を離脱したことによりオランダは友軍部隊から非難を受けたが、これに同意せず、彼らは臆病なのではなくボナパルティストだったのだろうとする意見もある。Longford 1971, p. 556
- ^ 例えば第2竜騎兵連隊(Scots Greys)は1801年以降実戦経験がなかった。Wootten 1992, p. 21.
- ^ Barbero 2005, p. 188.
近衛騎兵旅団(9-10個大隊)からは近衛騎兵2個大隊が予備とされたが、連合騎兵旅団(9個大隊)は予備をつくらなかった。(Siborne 1993, Letter 5,および、Glover 2004, Letter 16)
総兵力はおよそらく18個大隊だが、近衛竜騎兵連隊が3個大隊なのか4個なの確定する史料が存在しない。アックスブリッジは4個大隊と述べているものの(Siborne 1993, Letter 5)、連隊の中央部の大隊を指揮したネイラー大尉は3個大隊だったと述べている(Siborne 1993, Letter 21)。 - ^ この逸話はE・ブルース・ローのThe Waterloo Papersに見られる。これは突撃に参加した最後の生き残り兵士であるディクソン曹長に由来する話である。With Napoleon at Waterloo, MacBride, M., (editor), London 1911.
- ^ 犠牲者数はこの戦いの後に会戦全体のものとして集計されたものしかなく、この突撃の結果生じた騎兵旅団の損害に関する数値は全て推定である。会戦後に作成された報告書によると損害は次の通り。近衛騎兵旅団:初期戦力1,319人、戦死 – 95人、戦傷 – 248人、 行方不明 – 250人、合計 – 593人, 軍馬喪失 – 672頭。 連合騎兵旅団:初期戦力1,332人、戦死 – 264人、戦傷 – 310人、行方不明 – 38人 合計 – 612人, 軍馬喪失 – 631.
Adkin 2001, p. 217 (初期戦力),Smith 1998, p. 544 (損害) - ^ ナポレオンの側近のアンドレ・マルローは騎兵部隊の攻撃がイギリス軍の方陣をいくつか破壊したと主張している。マルロー 2004,pp.424-425.
- ^ その後、連隊長は軍法会議にかけられて除隊させられている。この際、彼は部下の兵士(全員が裕福な若いハノーファー人)たちは自らの馬で参戦しており、彼らに戦場に留まるよう命じられなかったと主張している。戦いの後に連隊は解散させられ、兵士たちは彼らが不名誉と考える任務に就かされた。(Siborne 1990, p. 465)4名がマーサー大尉の騎馬砲兵隊に配属されたが、大尉は彼らを「どいつもこいつも呆れるほど怒りっぽく、すねている」と評した。 (Mercer 1870).
- ^ a b 攻撃を敢行したのは第1中堅近衛擲弾兵連隊の第3および第4大隊、第1中堅近衛猟歩兵連隊第3大隊、第2中堅近衛猟歩兵連隊第3および第4大隊であり、第2古参近衛擲弾兵連隊第24大隊、第2古参近衛猟歩兵連隊第1および第2大隊は予備となった。Adkin 2001, p. 391
- ^ この発言は一般にピエール・カンブロンヌ旅団将軍のものとされ、1815年6月24日に出版された"Journal General"誌の"journalist Balison de Rougemont"が原典であるが (Shapiro (2006) p. 128)、 カンブロンヌ自身は「くそったれ!」( "Merde!" )と言ったと主張している(Boller p. 12)。『ザ・タイムズ』1932年6月号に掲載された書簡によるとカンブロンヌはこれ以前に既にヒューグ・ハケット大佐の捕虜になっており、もしも本当にこの言葉が発せられたとするならば、それはクロード=エティエンヌ・ミシェル将軍のものとなる(White, and Parry 1900, p. p. 70)
- ^ 「近衛兵は死ぬ。降伏などしない!」は後世に創作された歴史上の発言の一つであるとする見方もある。この言葉を発したとするカンブロンヌ将軍はこんなことを言ってはいなかった。ビクトル・ユゴーが『レ・ミゼラブル』の文中で本当の言葉を再現している。それはたった一言「メルド(フランス語で「糞便」の意味)」("Merde!")だった。 (David Masson, et al. Macmillan's magazine, Volume 19, Macmillan and Co., 1869, p. 164)
- ^ 歴史家Peter Hofschröerは会見は22時頃にジュナップで行われ、会戦の終了を確認しあったとしている。Hofschröer 1999, p. 151
- ^ イギリス王ジョージ3世の精神異常により、1811年以降、王太子(後のジョージ4世)が摂政に就任していた。
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外部リンク
- ワーテルローの戦いでのフランス軍、プロイセン軍そして英蘭軍の軍服 : Mont-Saint-Jean (FR)
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