コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「エリック・チゾーム」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
ChuispastonBot (会話 | 投稿記録)
m r2.7.1) (ロボットによる 追加: fr:Erik Chisholm
外部リンク: {{Normdaten|TYP=p|GND=10387769X|VIAF=41966846|LCCN=no/97/053108}}
(4人の利用者による、間の8版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照-->
{{クラシック音楽}}
| Name = エリック・チゾーム<br/> Erik Chisholm
'''エリック・チゾーム'''(''Erik Chisholm''、[[1904年]][[1月4日]] - [[1965年]][[6月8日]])は、[[スコットランド]]出身の[[イギリス]]の[[作曲家]]、[[指揮者]]。
| Img =
| Img_capt =
| Img_size =
| Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 -->
| Background = classic
| Birth_name = <!-- 個人のみ --><!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 -->
| Alias =
| Blood = <!-- 個人のみ -->
| School_background = <!-- 個人のみ -->[[エディンバラ大学]]
| Born = {{生年月日と年齢|1904|1|4|no}}
| Died = {{死亡年月日と没年齢|1904|1|4|1965|6|8}}<br />{{ZAF1961}} [[ケープタウン]]
| Origin = {{SCO}} [[グラスゴー]]
| Instrument =
| Genre = [[近代音楽]]
| Occupation = [[作曲家]]、[[指揮者]]
| Years_active    =
| Label =
| Production =
| Associated_acts =
| Influences =
| URL =
| Current_members = <!-- グループのみ -->
| Past_members = <!-- グループのみ -->
| Notable_instruments =
}}
{{Portal クラシック音楽}}
'''エリック・チゾーム'''('''Erik Chisholm'''、[[1904年]][[1月4日]] - [[1965年]][[6月8日]])は、[[スコットランド]]出身の[[イギリス]]の[[作曲家]]、[[指揮者]]。


[[グラスゴ]]出身。[[1928年]]に[[エディンバラ大学]]に入学し、[[ドナド・フランシス・ーヴィー]]に学び、[[1931年]]に学士号を、[[1934年]]に博士号を得た。スコットランドの[[オペラ]]の復活尽力、またスコットランドの[[バレエ]]の基礎つくった。[[1946年]]に[[南アフリカ共和国]]に招かれ、[[ケープタウン大学]]の教授、[[南アフリカ音楽大学]]の音楽監督となり、死去までの19年間務めた。作風はスコットランドの音楽に[[バルトーク・ベーラ]]、[[パウル・ヒンデミット]]、[[アルフレード・カゼッラ]]の要素を取り入れたものである。
チゾムはしばしば、「スコットランドの忘れられた作曲家」として知られるチゾームの伝記作家によれば、彼は「[[ケルト人|ケルト]]の語法を形式のみならず内容も取り入れた最初の作曲家であり、理解の深さと大胆さという意味においてその功績は[[バルトーク・ベー|バルトーク]]に比肩得る<ref name=home>{{cite web | url = http://www.erikchisholm.com/ect/index.php |title=Erik Chisholm: Home Page|accessdate=2007-08-15}}</ref>。」そのため彼は「マックバルトーク ''MacBartók''<ref name= MacBartok group= "注">訳注:"Mac"が[[ルト語派]]に属する[[ゲール語]]において使用される単語であることに注意。参照「[[マック (ゲール語)]]」</ref>」とあだ名され<ref name=drone/>また彼はケルト[[バレエ]]の創始者であり、マーガレット・モリス<ref group= "注">訳注:イギリスの[[舞踏家]]。英国で最初に[[イサド・ダンカン]]の技法賛同した。([[:en: Margaret Morris (dancer)|Margaret Morris]])</ref>と共に初のスコットランドの完全なバレエ「孤独な人魚 ''The Forsaken Mermaid''」製作し<ref name=home />彼は[[ケープタウン大学]]の教授、[[南アフリカ音楽大学]]の音楽監督となり、19年間務めた。チゾームは[[ケープタウン]]に南アフリカ大学オペラ会社を設立し、スコットランド、[[イングランド]]、[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]に新たな[[オペラ]]を紹介するのに欠かせない役割を果たした。彼は[[1965年]]にこの世を去るまでに、100を超える作品を作曲した。作風はスコットランドの音楽に[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]、[[パウル・ヒンデミット|ヒンデミット]]、[[アルフレード・カゼッラ|カゼッラ]]の要素を取り入れたものである。


==主な作品==
== 生涯 ==
=== 幼少期から大学まで ===
===バレエ===
エリック・チゾームは、家屋塗装工のジョン・チゾーム(John -)とその妻エリザベス・マギチー・マクラウド(Elizabeth McGeachy Macleod)の間の息子として生まれた<ref name=odnb>{{cite web|url=http://www.oxforddnb.com/view/article/58761?_fromAuth=1|title=Raymond Holden, 'Chisholm, Erik William (1904–1965)', Oxford Dictionary of National Biography, 2004|accessdate=2007-08-15}}</ref>。彼は13歳の時に健康状態が優れないことを理由にクイーンズ・パーク・スクール(Queen's Park School)を退学するが、作曲に才能を見せ始めており子どもの頃に出版された作品もある<ref name=odnb/>。彼はピアノをスコットランド王立音楽院<ref group= "注">訳注:[[1845年]]設立。スコットランド、[[グラスゴー]]中心部にある。([[:en: Royal Conservatoire of Scotland|Royal Conservatoire of Scotland]])</ref>でフィリップ・ホルステッド(Philip Halstead)に、[[オルガン]]をグラスゴー大聖堂<ref group= "注">訳注:遅くとも[[12世紀]]までには建立されていた[[ゴシック建築|ゴシック様式]]の大聖堂。([[:en: Glasgow Cathedral|Glasgow Cathedral]])</ref>の[[オルガニスト]]だったハーバート・ウォルトン(Herbert Walton)に師事した<ref>{{cite web|url=http://www.scottish-places.info/people/famousfirst1879.html |publisher=Gazetteer for Scotland|title = Overview of Erik Chisholm|accessdate=2007-08-15}}</ref>。12歳の時までにはオルガンリサイタルを開いており、中でも[[キングストン・アポン・ハル]]で行ったものは重要である<ref name = tribute>{{cite web |url = http://www.musicweb-international.com/Chisholm/Janacek/index.htm|last = Wright|first = Ken (tribute to Erik Chisholm)|coauthors =Chisholm, Erik|year = 1971|publisher = Pergamon Press|title = The Operas of Leos Janáček|accessdate = 2008-06-08}}</ref>。ピアニストのレフ・ポウニッシュオフ<ref group= "注">訳注:[[1891年]]、[[ウクライナ]]生まれのピアニスト、作曲家。1920年代以降イギリスに家を持ち、主に[[西側諸国|西側]]で活動した。([[:en: Leff Pouishnoff|Leff Pouishnoff]])</ref>が彼の担当となり指導を行った。チゾームは[[1927年]]に[[カナダ]]の[[ノバスコシア州]]に赴き、そこでニュー・グラスゴー<ref group= "注">訳注:ノバスコシア州、ピックトウ[[カウンティ]]([[:en: Pictou County, Nova Scotia|en]])の町。([[:en: New Glasgow, Nova Scotia|New Glasgow, Nova Scotia]])</ref>のウェストミンスター長老派教会のオルガニスト、合唱指導者に任命される。また、ピックトウ・アカデミー<ref group= "注">訳注:[[1816年]]設立のピックトウの[[中高一貫校|セカンダリースクール]]。自由主義で無宗教の学校。([[:en: Pictou Academy|Pictou Academy]])</ref>の音楽科の主任となった。

しばらくして、チゾームはスコットランドに帰国してバロニー教会(Barony Church)のオルガニストになった。彼は小学校を卒業していなかったため、大学で学ぶことができなかった。後に妻となるダイアナ・ブロディ(Diana Brodie)の影響もあり、彼はなんとか大学に特例入学できるよう、音楽つながりの顔のきく友人たちに推薦状を書いて欲しいと持ちかけた<ref>{{cite journal|url=http://www.news.uct.ac.za/mondaypaper/archives/?id=4273|first=Fiona|last=Chisholm|publisher= Monday Paper |volume=23|date=17 February 2004|issue=1|title=Feisty dean once barred from university education|accessdate=2007-08-15}}</ref>。[[1928年]]に[[エディンバラ大学]]に入学を許され、友人でもあり、かつ担当教官となった高名な[[音楽学|音楽学者]][[ドナルド・フランシス・トーヴィー|サー・ドナルド・トーヴィー]]に学んだ。チゾームは[[1931年]]に音楽学士([[:en: Bachelor of Music|Bachelor of Music]])、[[1934年]]には音楽博士([[:en: Doctor of Music|Doctor of Music]])の[[学位]]をとった。大学在学中の[[1928年]]にスコティッシュ・バレエ協会を創設し、[[1929年]]にはフランシス・スコット<ref name= scott group= "注">訳注:[[1880年]]、スコットランド生まれの作曲家。ジョーダンヒル教員訓練大学の講師となり、25年以上務めた。([[:en: Francis George Scott|Francis George Scott]])</ref>、パット・シャノン(Pat Shannon)といった同僚の作曲家と共に、現代音楽宣伝活動協会を設立した。また彼は[[1930年]]から[[1934年]]の間、グラスゴー・ウィークリー・ヘラルドとスコティッシュ・デイリー・エクスプレスで音楽批評の仕事もしていた<ref name=odnb/>。

=== スコットランドでのキャリアと第二次世界大戦 ===
学位取得後のチゾームの作品は、サー・ヒュー・ロバートン(Sir Hugh Roberton)の言うところの「大胆かつ独創的な」ものであった<ref>{{cite web|url=http://www.scottishmusiccentre.com/members/index.php?entity_name=erik_chisholm&section=home&sub=full_biography|publisher=Scottish Music Centre|title=Full biography of Erik Chisholm |accessdate=2007-09-28}}</ref>。一方で、「[[ピアノ協奏曲第1番 (チゾーム)|ピアノ協奏曲第1番 ピーブロック]] ''Pibroch''」([[1930年]])、「管弦楽のためのストラロック組曲 ''Straloch Suite''」([[1933年]])やソナタ「リオバン・デーグ ''An Riobhan Dearg''」([[1939年]])ではスコットランド的な作風を強く打ち出している。1933年に[[オランダ]]、[[アムステルダム]]で行われたピアノ協奏曲第1番の初演では、彼自身が[[ソリスト]]を務めた。1930年からはグラスゴー大オペラ協会<ref group= "注">訳注:[[1906年]]創設のグラスゴーのオペラ公演会社。[[2000年]]に解散。([[:en: Glasgow Grand Opera Society|Glasgow Grand Opera Society]])</ref>の監督に就任し<ref>{{cite journal | jstor=00274666 |title=Obituary |publisher=The Musical Times|volume=106|issue=1470|date=August 1965|page=623}}</ref>、グラスゴーの王立歌劇場<ref group= "注">訳注:[[1867年]]開場のグラスゴー、カウカデンズ([[:en: Cowcaddens|en]])の劇場。1541席。([[:en: Theatre Royal, Glasgow|Theatre Royal]])</ref>で[[1934年]]に[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の「[[イドメネオ]]」、[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]の「[[トロイアの人々]]」を[[1935年]]に、「[[ベアトリスとベネディクト]]」を[[1936年]]にそれぞれ英国初演した。また、彼はバロニーオペラ協会、スコティッシュバレエ協会、職業オルガニスト組合の初代常任指揮者となり、[[1938年]]にはケルトバレエ団の音楽監督に任命された。音楽監督して彼はマーガレット・モリスと共同で4つの作品を作曲した。最も有名なのは史上初のスコットランドの完全なバレエである「孤独な人魚 ''The Forsaken Mermaid''」である。チゾームは音楽界に多くの友人がおり、作曲家では[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]、[[パウル・ヒンデミット|ヒンデミット]]、[[フレデリック・ディーリアス|ディーリアス]]、[[アーノルド・バックス|バックス]]、[[ニコライ・メトネル|メトネル]]、[[カロル・シマノフスキ|シマノフスキ]]、[[ジョン・アイアランド|アイアランド]]、[[アラン・ブッシュ|ブッシュ]]である。チゾームは彼らの多くをスコットランドに招待し、その作品を紹介する演奏会を開いた<ref>{{cite journal|last = McLellan|first = William|coauthors = McQuaid, John|url = http://www.erikchisholm.com/ect/index.php?section_id=4|title = Scottish Composers|publisher = Con Brio|year = 1952|accessdate = 2008-06-05}}</ref>。

[[第二次世界大戦]]が勃発すると、チゾームは良心から反戦を唱え、視力が悪いことと腕が湾曲しているということを理由に従軍を拒否した<ref>{{cite web|url=http://www.erikchisholm.com/ect/index.php?id=160|title=My Job in Wartime (From a radio broadcast in Features Programmes and Topical talks).|accessdate=2007-11-14}}</ref>。戦時中の1940年にはカール・ローザ・オペラ・カンパニー<ref group= "注">訳注:[[カール・ローザ]]が[[1873年]]に設立。[[1960年]]に資金難から一度解散するも、[[1997年]]に再結成されて主に[[アーサー・サリヴァン|サリヴァン]]の喜劇などを上演している。([[:en: Carl Rosa Opera Company|Carl Rosa Opera Company]])</ref>を指揮、後の[[1943年]]には国家娯楽興行組合<ref group= "注">訳注:[[1939年]]創設。第二次世界大戦中に[[イギリス軍]]の[[軍人]]に娯楽を提供した。([[:en: Entertainments National Service Association|Entertainments National Service Association]])</ref>に[[大佐]]として入隊してアングロ=ポリッシュ・バレエを伴って[[1943年]]に[[イタリア]]に演奏旅行に赴き、1943年から[[1945年]]には東南アジア司令部<ref group= "注">訳注:イギリス軍東南アジア戦線の統括本部。([[:en: South East Asia Command|South East Asia Command]])</ref>の音楽監督として従軍した。彼はまず[[インド]]で他民族[[オーケストラ]]を結成したが、上官のジャック・ホーキンス(Jack Hawkins)大佐との不和により、[[シンガポール]]へ転属となった<ref name=tribute/>。彼は移動先で、シンガポール交響楽団を設立した<ref name=odnb/>{{refnest|group= "注"|訳注:現行の[[シンガポール交響楽団]]は[[1979年]]設立。別団体のことか<ref>{{Cite web |url=http://www.sso.org.sg/index.php?option=com_content&view=article&id=5&Itemid=15 |title= SSO story| accessdate=2012-10-27}}</ref>。}}。オーケストラのメンバーは戦争の元囚人ばかりであり、その中からチゾームは[[シモン・ゴールドベルク]]をリーダーに据えた{{refnest|group= "注"|訳注:ゴールドベルクは囚人キャンプにおいて、所有していた銘器[[アントニオ・ストラディバリ|ストラディバリウス]]を3年半に渡って煙突の中に隠し通した<ref>{{cite web |url = http://www.bbc.co.uk/scotland/music/scotlandsmusic/pdfs/scotlandsmusic_41.pdf |title = Scotland's Music|publisher = BBC|date = 21 October 2007|accessdate = 2008-06-07}}</ref><ref group= "注">訳注:ゴールドベルクの記事では彼の所有楽器は「[[グァルネリ]]」であるが、出典文献の間違い、もしくは複数所有か。</ref>。}}。チゾームが組織したオーケストラは実に国際色豊かで、東西の15カ国から団員が参加しており<ref name=tribute/>、半年の間に[[マラヤ]]で50の公演を行った<ref>{{cite web|url = http://www.scottishmusiccentre.com/db/CART/product_details.php?product_id=660&no_rurl=1|title = Erik Chisholm: Songs for a Year and a Day|year = 2003|publisher = Scottish Music Centre|accessdate = 2008-06-08}}</ref>。彼はスコットランドに帰国後、フランシス・ジョージ・スコット<ref name= scott group= "注"/>の娘である、リリアス(Lillias)を後妻に迎えた。[[1946年]]、彼は[[ケープタウン大学]]の[[教授]]、[[南アフリカ音楽大学]]の音楽監督に任命された<ref name=odnb/>。

=== 南アフリカでのキャリア ===
[[File:SA College of Music.jpg|thumb|right|250px|南アフリカ音楽大学の本拠、ストラベンホーム(Strubenholm)]]
「エジンバラ・タットラー ''The Edinburgh Tatler''{{refnest|group= "注"|訳注:''tatler''はイギリスの雑誌名。[[1968年]]から[[イギリスのカウンティ|カウンティ]]ごとの地方誌形態のものが出始めたことを考えると、おそらくそのエジンバラ版と思われる<ref>{{cite news|title=The truth about the new Tatler |date=10 March 1968|work=The Observer|publisher=ProQuest |pages=40|accessdate=19 October 2009}}
</ref> 。([[:en: Tatler|Tatler]])}}」誌のチゾーム追悼特集はこう記している。「彼の人生のハイライトは次の3つの出来事にあるだろう。1つ目は7歳の時にフレデリック・ラモンド<ref group= "注">訳注:スコットランドのピアニスト、作曲家。[[フランツ・リスト|リスト]]の最後から2番目の弟子となった。([[:en: Frederic Lamond (pianist)|Frederic Lamond]])</ref>が弾く[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[ピアノソナタ第14番 (ベートーヴェン)|月光ソナタ]]の[[ピアノロール]]を聴いたとき。2つ目はインドの音楽を知ったとき。最後は[[1947年]]にケープタウン大学の音楽科長の誘いを受けたときである<ref name=walker>{{cite news|url = http://www.erikchisholm.com/ect/index.php?section_id=17| first = Agnes| last = Walker|title = Dr Erik Chisholm: an appreciation|publisher= The Edinburgh Tatler |year = 1965|accessdate = 2008-06-05}}</ref>。」

その年、チゾームはアフリカ音楽大学を再始動させ、そこでついには作曲家ステファンス・グローヴェ<ref group= "注">訳注:[[1922年]]生まれ。南アフリカの作曲家。([[:en: Stefans Grové|Stefans Grové]])</ref>と[[歌手]]のデジレー・タルボット<ref group= "注">訳注:[[1926年]]生まれ。南アフリカのオペラ、[[ソプラノ]]歌手。既に引退している。([[:en: Désirée Talbot|Désirée Talbot]])</ref>を教えることになる。エジンバラ大学をモデルとし、チゾームは新たな職員を任用し、学科の数を増やし、学位号を新設した。芽を出しはじめた[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]の音楽家を勇気付ける目的で、彼は[[1948年]]に南アフリカ国音楽出版を創設した。さらに[[イタリア]]の[[バリトン]]であるグレゴリオ・フィアスコナーロ(Gregorio Fiasconaro)の助力を得て、チゾームは[[1951年]]に大学のオペラ興行会社を、[[1954年]]にオペラ学校を創設した<ref name=walker />。それらに加え、1948年には[[国際現代音楽協会]]の南アフリカ支部を創り、国際的な指揮者のキャリアを追求した<ref>{{cite web|last=Mears|first=Caroline|coauthors=May, James|title='Chisholm, Erik'|publisher = Grove Music Online |accessdate = 2008-06-05|url = http://www.grovemusic.com/shared/views/article.html?section=music.05630}}</ref>。

南アフリカ音楽大学のオペラ興行会社は国家的成功を収め、[[ザンビア]]やイギリスに演奏旅行を行った。[[1956年]]冬、チゾームが夢に描いていた南アフリカの音楽と音楽家の祭典は、[[ロンドン]]の[[ウィグモア・ホール]]での演奏会とルドルフ・スタイナー劇場でのバルトークのオペラ「[[青ひげ公の城]]」のロンドン初演で大きな成功を収めた。興行会社はまた、[[ジャン=カルロ・メノッティ|メノッティ]]の「領事官 ''The Consul''<ref group= "注">訳注:[[1950年]]初演。反体制派の男を妻が国外へ逃がそうとするが、ついに男は捕まり妻は死んでしまう。([[:en: The Consul|The Consul]])</ref>」や、[[アイルランド]]の作家であるメアリ・レヴィン<ref group= "注">訳注:伝統的に男性優位であったアイルランドの言葉による創作活動で、初めて道を切り開いた女性とされる。[[1996年]]没。([[:en: Mary Lavin|Mary Lavin]])</ref>の劇を基にしたチゾームのオペラ「アイルランドの女 ''The Inland Woman''」を上演した。[[1952年]]にはシモン・ゴールドベルクが自作のヴァイオリン協奏曲を、[[ケープタウン]]のヴァン・リービーック音楽祭(Van Riebeeck Music Festival)で初演した。チゾームのオペラ三部作「3つの鍵の殺人 ''Murder in Three Keys''」は[[1954年]]の[[ニューヨーク]]で6週間にわたるシーズン上演され<ref name=guy>{{cite web|url=http://www.erikchisholm.com/ect/index.php?id=70|title=Erik Chisholm And The Future Of South African Opera |first=Guy|last= Willoughby|accessdate=2007-11-14}}</ref>、2年後には[[モスクワ]]に招かれて[[モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団]]を指揮し、自作の「[[ピアノ協奏曲第2番 (チゾーム)|ピアノ協奏曲第2番 インドの主題による]]」を演奏した。[[1961年]]には彼の会社が南アフリカの作曲家ジョン・ジューベアール<ref group= "注">訳注:南アフリカ生まれ、イギリスの作曲家。主に合唱作品を手がける。([[:en: John Joubert (composer)|John Joubert]] {{IPAc-en|icon|dʒ|uː|ˈ|b|ɛər}})</ref>の初のオペラ「サイラス・マーナー ''Silas Marner''」の初演を行った<ref name=odnb/>。

チゾームは南アフリカが施行していた[[アパルトヘイト]]には与せず、[[社会主義]]的傾向を有していた。彼はロナルド・スティーブンソン<ref group= "注">訳注:イギリスの作曲家、ピアニスト、音楽に関する作家。[[フェルッチョ・ブゾーニ|ブゾーニ]]や[[パーシー・グレインジャー|グレインジャー]]の作品の復活に力を注ぎ、[[パーシー・グレインジャー|グレインジャー]]とは文通する仲であった。([[:en: Ronald Stevenson|Ronald Stevenson]])</ref>や友人のスコットを説得し、ケープタウン大学で演奏を行った。スティーブンソンの「パッサカリア ''Passacaglia''」の演奏中、プログラムは[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]の[[スローガン]]である「平和とパンと土地」に言及し、また「アフリカの隆盛」に経緯を評していた<ref group= "注">訳注:この「パッサカリア」はおそらく「DSCHによるパッサカリア」である。この曲は[[オスティナート]]の上で、[[ドミトリ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]の[[イニシャル]]のドイツ語転写であるD.Schに基づく主題(ショスタコーヴィチ自身も度々自作に用いた音形)を厳格に変奏していくもので、演奏には1時間15分を有する。その演奏の間に様々な企画が催されたものと考えられる。参照「[[:en: Passacaglia on DSCH|Passacaglia on DSCH]]」</ref>。翌日には南アフリカ警察が、チゾームの仕事と[[ソビエト連邦|ソ連]]との関係を疑い、彼の学科を捜索した<ref name=stevenson>{{cite web|url=http://journals.cambridge.org/download.php?file=%2FTEM%2FTEM57_225%2FS0040298203000226a.pdf&code=cc60d6de34ea67f6d298f403f4d38dc7|title=Composer in Interview: Ronald Stevenson - a Scot in 'emergent Africa'|accessdate=2007-09-28}}</ref>。

=== 晩年および遺産 ===
<!--[[File:Chisholmdog.jpg|thumb|left|150px|Composing at his [[Petrof]] piano with Towser, his concert-going Spaniel, at his feet.]]-->
バックスはチゾームを「スコットランドではこれまで誰も成しえなかったほど進歩的な作曲家」と呼んだ<ref>{{cite journal|url=http://www.news.uct.ac.za/mondaypaper/archives/?id=4896|title=Chisholm remembered in centenary competition|volume=23|issue=36|date=22 November 2004|publisher=Monday Paper|accessdate=2007-09-28}} {{dead link| date=June 2010 | bot=DASHBot}}</ref>。南アフリカ音楽大学での19年間の勤務の後、チゾームはさらに12作のオペラを作曲した。それらは「インド、[[ヘブリディーズ諸島|ヘブリディーズ]]の大西洋側、[[新古典主義音楽|新古典主義]]や[[バロック音楽|バロック]]、[[バグパイプ|パイプ音楽]]、[[占星術]]、[[文学]]に至るほど様々なもの」にインスピレーションを得ている<ref>{{cite web|url=http://www.musicweb-international.com/classrev/2003/Oct03/Chisholm_Piano_Music.htm|last=Sutherland|first=Colin Scott |title=Review of ''Erik Chisholm, Piano music'' |accessdate=2007-09-28}}</ref>。

チゾームは61歳で心臓発作に倒れ、作品を全てケープタウン大学に残してこの世を去った<ref name=odnb/>。100を超える作品を作曲したものの出版されたものは17作品で、印刷譜となったのはそのうちわずか14作品である<ref name = jones/>。スコットランドの作曲家がわずかしかいないことと、彼の作品に良質なものが多いことを考えれば、彼の音楽はもっと一般的に聴かれてしかるべきだとチゾームを擁護するものたちは言う<ref name=odnb/>。彼の作風は様々で、興奮を呼ぶような、挑発的なものと言われるが<ref>{{cite web|url = http://www.erikchisholm.com/ect/index.php?id=166| title = Overview of Chisholm|last = Purser|first = John|accessdate=2008-06-05}}</ref>、同時に耳障りで聴き手にとっては魅力のないものであることも多いと考えられている<ref name=odnb/>。そうではあるものの、ピアノと声楽のための曲などを含む多くの作品が蘇演、録音されている。

[[Image:UCT_Upper_Campus_landscape_view.jpg|left|thumb|250px|[[ケープタウン大学]]、アッパー・キャンパスの遠景]]
チゾームは生涯にわたってスコットランドの音楽に興味を持ち続け、[[1964年]]には収集したケルトの[[民謡]]を出版している。また彼は[[チェコ]]の音楽にも関心を持っており、死の直前に著作「[[レオシュ・ヤナーチェク]]のオペラ作品 ''The Operas of Leoš Janáček''」を完成させた。彼のチェコ音楽への貢献は、[[1956年]]にチェコ人以外の音楽家として初めて[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]メダルを授与されたことで公式に認知されている<ref>{{cite journal|doi = 10.2307/957619|jstor = 957619|title = Janáček's 'Fate' |last = Tyrrell |first = John|publisher = The Musical Times|volume = 113|issue = 1547|date = January 1972|pages=34–37|journal = The Musical Times}}</ref>。ケープタウン大学の原稿・公文書図書館にはチゾームの論文や原稿がまとめて保管されている。出版譜は音楽大学図書館にあり、多くの写しがグラスゴーのスコットランド音楽情報センターに送られている。彼の記念として、南アフリカ音楽大学は彼の名を冠した奨学金を設けており、スコティッシュ国際ピアノコンクールではエリック・チゾーム・メモリアル賞が授与されている<ref>{{cite web|url=http://www.scottishinternationalpianocompetition.com/awards_2004.htm|title=Scottish International Piano Competition|accessdate=2007-09-28|archiveurl = http://web.archive.org/web/20080129045349/http://www.scottishinternationalpianocompetition.com/awards_2004.htm |archivedate = 29 January 2008|deadurl=yes}}</ref>。

ジョン・パーサー{{refnest |group= "注"|訳注:[[1942年]]、グラスゴー生まれ。作曲家、[[音楽学者]]、音楽史家。著作に「スコットランドの音楽 ''Scotland's Music''<ref>Purser, John, ''Scotland's Music: A History of the Traditional and Classical Music of Scotland from the Earliest Times to the Present Day'', Mainstream Publishing 1992 ISBN 1-85158-426-9</ref>」など([[:en: John Purser|John Purser]])}}が記し[[チャールズ・マッケラス]]が序文を書いたチゾームの伝記「落ち着きのないミューズを追う: エリック・チゾーム スコットランドの現代作曲家 ''Chasing A Restless Muse: Erik Chisholm, Scottish Modernist (1904–1965)''」は[[2009年]][[6月19日]]に出版された<ref name = launch>{{cite web|url=http://www.erikchisholm.com/ect/index.php?section_id=7|title=Biography Launch Event|accessdate=2010-06-12}}</ref>。公式な壮行会はバーミンガム市大学<ref group= "注">訳注:[[1992年]]にUniversityとなった新しい大学。[[1843年]]まで歴史を遡ることができるバーミンガム芸術大学(Birmingham College of Art)がルーツとなる。([[:en: Birmingham City University|Birmingham City University]])</ref>の音楽院で2009年[[10月22日]]に夫人、娘のモラッグ(Morag)、孫娘と曾孫息子の2人が出席して行われた<ref name = launch/>。夫人のリリアスは、[[クラリネット]]奏者のジョン・フォーブス(John Forbes)と再婚している<ref>{{cite web |url = http://www.nls.uk/catalogues/online/cnmi/inventories/acc11567.pdf|page = 32|title = Inventory of [[:en: Ronald Stevenson|Ronald Stevenson]]'s Musicological correspondence|publisher = National Library of Scotland: Manuscripts Division|format= PDF|year = 2000|accessdate = 2008-06-07}}</ref>。近年、マレイ・マクラチラン<ref name= murray group= "注">訳注:[[1965年]]生まれ、イギリスのピアニスト。[[20世紀]]最後の[[BBCプロムス|プロムス]]に登場し、[[ジョージ・ガーシュウィン|ガーシュウィン]]の[[ラプソディ・イン・ブルー]]を弾いた。([[:en: Murray McLachlan (musician)|Murray McLachlan]])</ref>がチゾームの作品のCD録音を多くリリースしている。

== 作品 ==
{{main2|詳細は[[チゾームの楽曲一覧]]を}}

エリック・チゾームは100を優に超える作品を遺している。[[管弦楽曲]]が35曲、[[協奏曲]]が7曲(ヴァイオリン協奏曲と2つのピアノ協奏曲を含む)、7曲の管弦楽伴奏の合唱および声楽作品、54曲のピアノ曲、3曲のオルガン曲、43曲の[[歌曲]]、8曲のパートソング<ref group= "注">訳注:通例、最上声部を主旋律とする無伴奏、[[ホモフォニー]]の合唱曲。([[:en: Part song|Part song]])</ref>、7曲のバレエ、9曲のオペラ(「ロバート・バーンズ([[ロバート・バーンズ|人物に関する解説]])」を含む)である。彼は、[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]や[[ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]作品の興味深い[[編曲]]もいくつか手がけている。また、当時はまだほとんど知られていなかった[[シャルル=ヴァランタン・アルカン|アルカン]]作曲、「[[短調による12の練習曲]] Op.39」の第4曲から第7曲にあたる「独奏ピアノのための交響曲」を弦楽オーケストラ用に編曲している<ref name = jones>{{cite web|url=http://www.erikchisholm.com/resources/doc/Michael%20Jones%20Introduces%20Erik%20Chisholm.doc |first=Michael |last=Jones |year=2000|title= A lecture given by Michael Jones at the Ronald Stevenson Symposium|accessdate=2007-08-15}}</ref>。

マレイ・マクラチラン<ref name= murray group= "注" />はチゾームの作品を4つの時期に分類している。初期、「スコットランド」期、[[新古典主義音楽|新古典主義]]期、「インド音楽」期である<ref name=hero1>{{cite journal|url=http://www.erikchisholm.com/resources/doc/Unsung%20heoes%20murray.doc|year=2003|first=Murray|last=McLachlan|publisher=Piano|title=Unsung heroes, Making Time|accessdate=2008-03-24}}</ref>。初期は非常に長く、18歳で作曲した「ソナチナ ト短調」の努力など10代の頃に始まり、ジョン・マクウェイン<ref group= "注">訳注:[[1868年]]生まれ。スコットランドの作曲家、教育者。[[1931年]]に[[ナイト]]に叙されている。([[:en: John Blackwood McEwen|John Blackwood McEwen]])</ref>からの影響が顕著である<ref name =hero1/>。「スコットランド」期は1930年代初頭に始まり、この頃の作品はスコットランドの国民的色彩に淡く色づけられている。同時代の[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]のように、祖先や故郷の音楽によって自らのスタイルを形作りたいという作曲家の野心が感じ取れる<ref name =hero1/>。チゾームの「ソナチネ・エコセーズ ''Sonatine Ecossaise''」、4つのエレジー、「スコットランドの歌 ''Scottish Airs''」そして「[[ピアノ協奏曲第1番 (チゾーム)|ピアノ協奏曲第1番 ピーブロック]]」は「バルトーク形式」の不協和音、クラスター音塊、そして跳ねるリズムにより打撃的な痛烈さや生命力を表現しているが、それらはスコットランドの[[民謡]]やリズミカルなダンスの装飾音に素材を得たものである<ref name =hero1/>。彼の方法論は、批評家たちが繰り返し「マクバルトーク ''MacBartók''<ref name= MacBartok group= "注" />」と呼ぶように、非常にバルトークに似通ったものである<ref name = drone>{{cite news| url = http://www.telegraph.co.uk/culture/music/classicalmusic/3609661/The-drone-of-bagpipes-and-Bartoks-ghost.html|title = The drone of bagpipes and Bartok's ghost|publisher= The Telegraph|date = 6 January 2004|accessdate = 2012-08-06 | location=London | first=Geoffrey | last=Norris}}</ref>。

チゾームの新古典主義期は、古代や[[古典派音楽|古典期]]以前の埋もれた素材に触発された作品の時期のことをいう。彼の「ソナチナ第3番」はジョアン・ダルザ<ref group= "注">訳注:[[1508年]]頃に活躍したイタリアの作曲家。生涯については未詳である。([[:en: Joan Ambrosio Dalza|Joan Ambrosio Dalza]])</ref>の[[リチェルカーレ]]に基づいているのが明らかで、そこに[[ベンジャミン・ブリテン|ブリテン]]流の和声を重ね、いかにも技巧的なピアノ書法で穏やかに不協和音の色づけをしたものである<ref name =hero1/>。最後の「インド音楽」期はチゾームの[[東洋]]、[[オカルト]]への愛着と、[[カイホスルー・シャプルジ・ソラブジ|ソラブジ]]との友好関係を反映している<ref name =hero1/>。この時期の重要な作品は「[[ピアノ協奏曲第2番 (チゾーム)|ピアノ協奏曲第2番 インドの主題による]]」や「6つの夜想曲 吟遊詩人の夜の歌 ''Night Song of the Bards''<ref group= "注">訳注:"Bard"はケルトの職業詩人のこと。([[:en: Bard|Bard]])</ref>」である。これらの作品には官能的なテクスチュアが綾なし、[[フェルッチョ・ブゾーニ|ブゾーニ]]や[[カロル・シマノフスキ|シマノフスキ]]、[[ニコライ・メトネル|メトネル]]、ソラブジに匹敵する超絶技巧の要求、強烈さが見られる<ref name =hero1/>。

近年、2つのピアノ協奏曲の録音がリリースされた<ref>{{Cite web|url=http://www.hyperion-records.co.uk/al.asp?al=CDA67880 |title=Erik Chisholm Piano Concertos|accessdate= 2012-10-27}}</ref>。

== 主な作品 ==
=== バレエ ===
* 孤独な人魚(1936)
* 孤独な人魚(1936)
* ハーメルンの笛吹き(1937)
* ハーメルンの笛吹き(1937)


===オペラ===
=== オペラ ===
* 暗いソネット(1952)
* 暗いソネット(1952)
* 黒いバラ(1954)
* 黒いバラ(1954)
* カンタベリー物語(1960-61)
* カンタベリー物語(1960-61)


===交響曲===
=== 交響曲 ===
* 交響曲第1番ハ長調
* 交響曲第1番ハ長調
* 交響曲第2番(1939)
* {{仮リンク|交響曲第2番 (チゾーム)|label=交響曲第2番|nl|Symfonie nr. 2 (Chisholm)}}(1939)


===管弦楽曲===
=== 管弦楽曲 ===
* シャコンヌ(1922)
* シャコンヌ(1922)
* 舞踏組曲(1932)
* 舞踏組曲(1932)


===協奏曲===
=== 協奏曲 ===
* ピアノ協奏曲第1番「ピーブロック」(1937)
* [[ピアノ協奏曲第1番 (チゾーム)|ピアノ協奏曲第1番「ピーブロック」]](1937)
* ピアノ協奏曲第2番「インドの主題による」(1948-49)
* [[ピアノ協奏曲第2番 (チゾーム)|ピアノ協奏曲第2番「インドの主題による」]](1948-49)
* ヴァイオリン協奏曲(1950)
* ヴァイオリン協奏曲(1950)


===室内楽曲===
=== 室内楽曲 ===
* 無伴奏チェロソナタ(1930)
* 無伴奏チェロソナタ(1930)
* 無伴奏ヴァイオリンソナタ(1930)
* 無伴奏ヴァイオリンソナタ(1930)
* ヴァイオリンとピアノのガヴォット(1934)
* ヴァイオリンとピアノのガヴォット(1934)


===ピアノ曲===
=== ピアノ曲 ===
* ソナチネト短調(1922)
* ソナチネト短調(1922)


===声楽曲===
=== 声楽曲 ===
* ろば(1923)
* ろば(1923)
* 妖精(1923)
* 妖精(1923)
* 子守歌(1926)
* 子守歌(1926)


==文献==
=== 著作 ===
* Chisholm, E. (1971) 「レオシュ・ヤナーチェクのオペラ作品 ''The Operas of Leoš Janáček''」 ISBN 0-08-012854-8.

== 脚注 ==
;注釈
<references group= "注" />
;出典
<references />

== 文献 ==
* [http://www.erikchisholm.com/ect/index.php?id=81 Chisholm, Morag, 'Erik Chisholm and The Trojans', Musicweb, 2003.]
* [http://www.erikchisholm.com/ect/index.php?id=81 Chisholm, Morag, 'Erik Chisholm and The Trojans', Musicweb, 2003.]
* Galloway, D., 'Dr Erik Chisholm: a retrospective profile', ''Opus'', Vol. 1, No. 1 (1966).
* Galloway, D., 'Dr Erik Chisholm: a retrospective profile', ''Opus'', Vol. 1, No. 1 (1966).
53行目: 133行目:
* Wright, K., 'Erik Chisholm: a Tribute', ''Composer'', Vol. 17 (Oct 1965), 34–5.
* Wright, K., 'Erik Chisholm: a Tribute', ''Composer'', Vol. 17 (Oct 1965), 34–5.
==外部リンク==
== 外部リンク ==
* [http://www.erikchisholm.com/ect/index.php エリック・チゾーム・ホームページ]
* [http://www.erikchisholm.com/ect/index.php エリック・チゾーム・ホームページ]
{{Normdaten|TYP=p|GND=10387769X|VIAF=41966846|LCCN=no/97/053108}}

{{DEFAULTSORT:ちそおむ えりつく}}
{{DEFAULTSORT:ちそおむ えりつく}}

[[Category:イギリスの作曲家]]
[[Category:イギリスの作曲家]]
[[Category:近現代の作曲家]]
[[Category:近現代の作曲家]]
65行目: 146行目:
[[Category:1965年没]]
[[Category:1965年没]]


{{classic-stub}}
{{People-stub}}
{{Link GA|en}}
{{Link GA|en}}



2012年11月5日 (月) 11:16時点における版

エリック・チゾーム
Erik Chisholm
生誕 (1904-01-04) 1904年1月4日
出身地 スコットランドの旗 スコットランド グラスゴー
死没 (1965-06-08) 1965年6月8日(61歳没)
南アフリカの旗 南アフリカ共和国 ケープタウン
学歴 エディンバラ大学
ジャンル 近代音楽
職業 作曲家指揮者

エリック・チゾームErik Chisholm1904年1月4日 - 1965年6月8日)は、スコットランド出身のイギリス作曲家指揮者

チゾームはしばしば、「スコットランドの忘れられた作曲家」として知られる。チゾームの伝記作家によれば、彼は「ケルトの語法を形式のみならず内容にも取り入れた最初の作曲家であり、理解の深さと大胆さという意味においてその功績はバルトークに比肩し得る[1]。」そのため、彼は「マックバルトーク MacBartók[注 1]」とあだ名された[2]。また彼はケルトバレエの創始者であり、マーガレット・モリス[注 2]と共に初のスコットランドの完全なバレエ「孤独な人魚 The Forsaken Mermaid」を製作した[1]。彼はケープタウン大学の教授、南アフリカ音楽大学の音楽監督となり、19年間務めた。チゾームはケープタウンに南アフリカ大学オペラ会社を設立し、スコットランド、イングランド南アフリカに新たなオペラを紹介するのに欠かせない役割を果たした。彼は1965年にこの世を去るまでに、100を超える作品を作曲した。作風はスコットランドの音楽にバルトークヒンデミットカゼッラの要素を取り入れたものである。

生涯

幼少期から大学まで

エリック・チゾームは、家屋塗装工のジョン・チゾーム(John -)とその妻エリザベス・マギチー・マクラウド(Elizabeth McGeachy Macleod)の間の息子として生まれた[3]。彼は13歳の時に健康状態が優れないことを理由にクイーンズ・パーク・スクール(Queen's Park School)を退学するが、作曲に才能を見せ始めており子どもの頃に出版された作品もある[3]。彼はピアノをスコットランド王立音楽院[注 3]でフィリップ・ホルステッド(Philip Halstead)に、オルガンをグラスゴー大聖堂[注 4]オルガニストだったハーバート・ウォルトン(Herbert Walton)に師事した[4]。12歳の時までにはオルガンリサイタルを開いており、中でもキングストン・アポン・ハルで行ったものは重要である[5]。ピアニストのレフ・ポウニッシュオフ[注 5]が彼の担当となり指導を行った。チゾームは1927年カナダノバスコシア州に赴き、そこでニュー・グラスゴー[注 6]のウェストミンスター長老派教会のオルガニスト、合唱指導者に任命される。また、ピックトウ・アカデミー[注 7]の音楽科の主任となった。

しばらくして、チゾームはスコットランドに帰国してバロニー教会(Barony Church)のオルガニストになった。彼は小学校を卒業していなかったため、大学で学ぶことができなかった。後に妻となるダイアナ・ブロディ(Diana Brodie)の影響もあり、彼はなんとか大学に特例入学できるよう、音楽つながりの顔のきく友人たちに推薦状を書いて欲しいと持ちかけた[6]1928年エディンバラ大学に入学を許され、友人でもあり、かつ担当教官となった高名な音楽学者サー・ドナルド・トーヴィーに学んだ。チゾームは1931年に音楽学士(Bachelor of Music)、1934年には音楽博士(Doctor of Music)の学位をとった。大学在学中の1928年にスコティッシュ・バレエ協会を創設し、1929年にはフランシス・スコット[注 8]、パット・シャノン(Pat Shannon)といった同僚の作曲家と共に、現代音楽宣伝活動協会を設立した。また彼は1930年から1934年の間、グラスゴー・ウィークリー・ヘラルドとスコティッシュ・デイリー・エクスプレスで音楽批評の仕事もしていた[3]

スコットランドでのキャリアと第二次世界大戦

学位取得後のチゾームの作品は、サー・ヒュー・ロバートン(Sir Hugh Roberton)の言うところの「大胆かつ独創的な」ものであった[7]。一方で、「ピアノ協奏曲第1番 ピーブロック Pibroch」(1930年)、「管弦楽のためのストラロック組曲 Straloch Suite」(1933年)やソナタ「リオバン・デーグ An Riobhan Dearg」(1939年)ではスコットランド的な作風を強く打ち出している。1933年にオランダアムステルダムで行われたピアノ協奏曲第1番の初演では、彼自身がソリストを務めた。1930年からはグラスゴー大オペラ協会[注 9]の監督に就任し[8]、グラスゴーの王立歌劇場[注 10]1934年モーツァルトの「イドメネオ」、ベルリオーズの「トロイアの人々」を1935年に、「ベアトリスとベネディクト」を1936年にそれぞれ英国初演した。また、彼はバロニーオペラ協会、スコティッシュバレエ協会、職業オルガニスト組合の初代常任指揮者となり、1938年にはケルトバレエ団の音楽監督に任命された。音楽監督して彼はマーガレット・モリスと共同で4つの作品を作曲した。最も有名なのは史上初のスコットランドの完全なバレエである「孤独な人魚 The Forsaken Mermaid」である。チゾームは音楽界に多くの友人がおり、作曲家ではバルトークヒンデミットディーリアスバックスメトネルシマノフスキアイアランドブッシュである。チゾームは彼らの多くをスコットランドに招待し、その作品を紹介する演奏会を開いた[9]

第二次世界大戦が勃発すると、チゾームは良心から反戦を唱え、視力が悪いことと腕が湾曲しているということを理由に従軍を拒否した[10]。戦時中の1940年にはカール・ローザ・オペラ・カンパニー[注 11]を指揮、後の1943年には国家娯楽興行組合[注 12]大佐として入隊してアングロ=ポリッシュ・バレエを伴って1943年イタリアに演奏旅行に赴き、1943年から1945年には東南アジア司令部[注 13]の音楽監督として従軍した。彼はまずインドで他民族オーケストラを結成したが、上官のジャック・ホーキンス(Jack Hawkins)大佐との不和により、シンガポールへ転属となった[5]。彼は移動先で、シンガポール交響楽団を設立した[3][注 14]。オーケストラのメンバーは戦争の元囚人ばかりであり、その中からチゾームはシモン・ゴールドベルクをリーダーに据えた[注 16]。チゾームが組織したオーケストラは実に国際色豊かで、東西の15カ国から団員が参加しており[5]、半年の間にマラヤで50の公演を行った[13]。彼はスコットランドに帰国後、フランシス・ジョージ・スコット[注 8]の娘である、リリアス(Lillias)を後妻に迎えた。1946年、彼はケープタウン大学教授南アフリカ音楽大学の音楽監督に任命された[3]

南アフリカでのキャリア

南アフリカ音楽大学の本拠、ストラベンホーム(Strubenholm)

「エジンバラ・タットラー The Edinburgh Tatler[注 17]」誌のチゾーム追悼特集はこう記している。「彼の人生のハイライトは次の3つの出来事にあるだろう。1つ目は7歳の時にフレデリック・ラモンド[注 18]が弾くベートーヴェン月光ソナタピアノロールを聴いたとき。2つ目はインドの音楽を知ったとき。最後は1947年にケープタウン大学の音楽科長の誘いを受けたときである[15]。」

その年、チゾームはアフリカ音楽大学を再始動させ、そこでついには作曲家ステファンス・グローヴェ[注 19]歌手のデジレー・タルボット[注 20]を教えることになる。エジンバラ大学をモデルとし、チゾームは新たな職員を任用し、学科の数を増やし、学位号を新設した。芽を出しはじめた南アフリカの音楽家を勇気付ける目的で、彼は1948年に南アフリカ国音楽出版を創設した。さらにイタリアバリトンであるグレゴリオ・フィアスコナーロ(Gregorio Fiasconaro)の助力を得て、チゾームは1951年に大学のオペラ興行会社を、1954年にオペラ学校を創設した[15]。それらに加え、1948年には国際現代音楽協会の南アフリカ支部を創り、国際的な指揮者のキャリアを追求した[16]

南アフリカ音楽大学のオペラ興行会社は国家的成功を収め、ザンビアやイギリスに演奏旅行を行った。1956年冬、チゾームが夢に描いていた南アフリカの音楽と音楽家の祭典は、ロンドンウィグモア・ホールでの演奏会とルドルフ・スタイナー劇場でのバルトークのオペラ「青ひげ公の城」のロンドン初演で大きな成功を収めた。興行会社はまた、メノッティの「領事官 The Consul[注 21]」や、アイルランドの作家であるメアリ・レヴィン[注 22]の劇を基にしたチゾームのオペラ「アイルランドの女 The Inland Woman」を上演した。1952年にはシモン・ゴールドベルクが自作のヴァイオリン協奏曲を、ケープタウンのヴァン・リービーック音楽祭(Van Riebeeck Music Festival)で初演した。チゾームのオペラ三部作「3つの鍵の殺人 Murder in Three Keys」は1954年ニューヨークで6週間にわたるシーズン上演され[17]、2年後にはモスクワに招かれてモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮し、自作の「ピアノ協奏曲第2番 インドの主題による」を演奏した。1961年には彼の会社が南アフリカの作曲家ジョン・ジューベアール[注 23]の初のオペラ「サイラス・マーナー Silas Marner」の初演を行った[3]

チゾームは南アフリカが施行していたアパルトヘイトには与せず、社会主義的傾向を有していた。彼はロナルド・スティーブンソン[注 24]や友人のスコットを説得し、ケープタウン大学で演奏を行った。スティーブンソンの「パッサカリア Passacaglia」の演奏中、プログラムはレーニンスローガンである「平和とパンと土地」に言及し、また「アフリカの隆盛」に経緯を評していた[注 25]。翌日には南アフリカ警察が、チゾームの仕事とソ連との関係を疑い、彼の学科を捜索した[18]

晩年および遺産

バックスはチゾームを「スコットランドではこれまで誰も成しえなかったほど進歩的な作曲家」と呼んだ[19]。南アフリカ音楽大学での19年間の勤務の後、チゾームはさらに12作のオペラを作曲した。それらは「インド、ヘブリディーズの大西洋側、新古典主義バロックパイプ音楽占星術文学に至るほど様々なもの」にインスピレーションを得ている[20]

チゾームは61歳で心臓発作に倒れ、作品を全てケープタウン大学に残してこの世を去った[3]。100を超える作品を作曲したものの出版されたものは17作品で、印刷譜となったのはそのうちわずか14作品である[21]。スコットランドの作曲家がわずかしかいないことと、彼の作品に良質なものが多いことを考えれば、彼の音楽はもっと一般的に聴かれてしかるべきだとチゾームを擁護するものたちは言う[3]。彼の作風は様々で、興奮を呼ぶような、挑発的なものと言われるが[22]、同時に耳障りで聴き手にとっては魅力のないものであることも多いと考えられている[3]。そうではあるものの、ピアノと声楽のための曲などを含む多くの作品が蘇演、録音されている。

ケープタウン大学、アッパー・キャンパスの遠景

チゾームは生涯にわたってスコットランドの音楽に興味を持ち続け、1964年には収集したケルトの民謡を出版している。また彼はチェコの音楽にも関心を持っており、死の直前に著作「レオシュ・ヤナーチェクのオペラ作品 The Operas of Leoš Janáček」を完成させた。彼のチェコ音楽への貢献は、1956年にチェコ人以外の音楽家として初めてドヴォルザークメダルを授与されたことで公式に認知されている[23]。ケープタウン大学の原稿・公文書図書館にはチゾームの論文や原稿がまとめて保管されている。出版譜は音楽大学図書館にあり、多くの写しがグラスゴーのスコットランド音楽情報センターに送られている。彼の記念として、南アフリカ音楽大学は彼の名を冠した奨学金を設けており、スコティッシュ国際ピアノコンクールではエリック・チゾーム・メモリアル賞が授与されている[24]

ジョン・パーサー[注 26]が記しチャールズ・マッケラスが序文を書いたチゾームの伝記「落ち着きのないミューズを追う: エリック・チゾーム スコットランドの現代作曲家 Chasing A Restless Muse: Erik Chisholm, Scottish Modernist (1904–1965)」は2009年6月19日に出版された[26]。公式な壮行会はバーミンガム市大学[注 27]の音楽院で2009年10月22日に夫人、娘のモラッグ(Morag)、孫娘と曾孫息子の2人が出席して行われた[26]。夫人のリリアスは、クラリネット奏者のジョン・フォーブス(John Forbes)と再婚している[27]。近年、マレイ・マクラチラン[注 28]がチゾームの作品のCD録音を多くリリースしている。

作品

エリック・チゾームは100を優に超える作品を遺している。管弦楽曲が35曲、協奏曲が7曲(ヴァイオリン協奏曲と2つのピアノ協奏曲を含む)、7曲の管弦楽伴奏の合唱および声楽作品、54曲のピアノ曲、3曲のオルガン曲、43曲の歌曲、8曲のパートソング[注 29]、7曲のバレエ、9曲のオペラ(「ロバート・バーンズ(人物に関する解説)」を含む)である。彼は、ヘンデルモーツァルト作品の興味深い編曲もいくつか手がけている。また、当時はまだほとんど知られていなかったアルカン作曲、「短調による12の練習曲 Op.39」の第4曲から第7曲にあたる「独奏ピアノのための交響曲」を弦楽オーケストラ用に編曲している[21]

マレイ・マクラチラン[注 28]はチゾームの作品を4つの時期に分類している。初期、「スコットランド」期、新古典主義期、「インド音楽」期である[28]。初期は非常に長く、18歳で作曲した「ソナチナ ト短調」の努力など10代の頃に始まり、ジョン・マクウェイン[注 30]からの影響が顕著である[28]。「スコットランド」期は1930年代初頭に始まり、この頃の作品はスコットランドの国民的色彩に淡く色づけられている。同時代のバルトークのように、祖先や故郷の音楽によって自らのスタイルを形作りたいという作曲家の野心が感じ取れる[28]。チゾームの「ソナチネ・エコセーズ Sonatine Ecossaise」、4つのエレジー、「スコットランドの歌 Scottish Airs」そして「ピアノ協奏曲第1番 ピーブロック」は「バルトーク形式」の不協和音、クラスター音塊、そして跳ねるリズムにより打撃的な痛烈さや生命力を表現しているが、それらはスコットランドの民謡やリズミカルなダンスの装飾音に素材を得たものである[28]。彼の方法論は、批評家たちが繰り返し「マクバルトーク MacBartók[注 1]」と呼ぶように、非常にバルトークに似通ったものである[2]

チゾームの新古典主義期は、古代や古典期以前の埋もれた素材に触発された作品の時期のことをいう。彼の「ソナチナ第3番」はジョアン・ダルザ[注 31]リチェルカーレに基づいているのが明らかで、そこにブリテン流の和声を重ね、いかにも技巧的なピアノ書法で穏やかに不協和音の色づけをしたものである[28]。最後の「インド音楽」期はチゾームの東洋オカルトへの愛着と、ソラブジとの友好関係を反映している[28]。この時期の重要な作品は「ピアノ協奏曲第2番 インドの主題による」や「6つの夜想曲 吟遊詩人の夜の歌 Night Song of the Bards[注 32]」である。これらの作品には官能的なテクスチュアが綾なし、ブゾーニシマノフスキメトネル、ソラブジに匹敵する超絶技巧の要求、強烈さが見られる[28]

近年、2つのピアノ協奏曲の録音がリリースされた[29]

主な作品

バレエ

  • 孤独な人魚(1936)
  • ハーメルンの笛吹き(1937)

オペラ

  • 暗いソネット(1952)
  • 黒いバラ(1954)
  • カンタベリー物語(1960-61)

交響曲

管弦楽曲

  • シャコンヌ(1922)
  • 舞踏組曲(1932)

協奏曲

室内楽曲

  • 無伴奏チェロソナタ(1930)
  • 無伴奏ヴァイオリンソナタ(1930)
  • ヴァイオリンとピアノのガヴォット(1934)

ピアノ曲

  • ソナチネト短調(1922)

声楽曲

  • ろば(1923)
  • 妖精(1923)
  • 子守歌(1926)

著作

  • Chisholm, E. (1971) 「レオシュ・ヤナーチェクのオペラ作品 The Operas of Leoš JanáčekISBN 0-08-012854-8.

脚注

注釈
  1. ^ a b 訳注:"Mac"がケルト語派に属するゲール語において使用される単語であることに注意。参照「マック (ゲール語)
  2. ^ 訳注:イギリスの舞踏家。英国で最初にイサドラ・ダンカンの技法に賛同した。(Margaret Morris
  3. ^ 訳注:1845年設立。スコットランド、グラスゴー中心部にある。(Royal Conservatoire of Scotland
  4. ^ 訳注:遅くとも12世紀までには建立されていたゴシック様式の大聖堂。(Glasgow Cathedral
  5. ^ 訳注:1891年ウクライナ生まれのピアニスト、作曲家。1920年代以降イギリスに家を持ち、主に西側で活動した。(Leff Pouishnoff
  6. ^ 訳注:ノバスコシア州、ピックトウカウンティen)の町。(New Glasgow, Nova Scotia
  7. ^ 訳注:1816年設立のピックトウのセカンダリースクール。自由主義で無宗教の学校。(Pictou Academy
  8. ^ a b 訳注:1880年、スコットランド生まれの作曲家。ジョーダンヒル教員訓練大学の講師となり、25年以上務めた。(Francis George Scott
  9. ^ 訳注:1906年創設のグラスゴーのオペラ公演会社。2000年に解散。(Glasgow Grand Opera Society
  10. ^ 訳注:1867年開場のグラスゴー、カウカデンズ(en)の劇場。1541席。(Theatre Royal
  11. ^ 訳注:カール・ローザ1873年に設立。1960年に資金難から一度解散するも、1997年に再結成されて主にサリヴァンの喜劇などを上演している。(Carl Rosa Opera Company
  12. ^ 訳注:1939年創設。第二次世界大戦中にイギリス軍軍人に娯楽を提供した。(Entertainments National Service Association
  13. ^ 訳注:イギリス軍東南アジア戦線の統括本部。(South East Asia Command
  14. ^ 訳注:現行のシンガポール交響楽団1979年設立。別団体のことか[11]
  15. ^ 訳注:ゴールドベルクの記事では彼の所有楽器は「グァルネリ」であるが、出典文献の間違い、もしくは複数所有か。
  16. ^ 訳注:ゴールドベルクは囚人キャンプにおいて、所有していた銘器ストラディバリウスを3年半に渡って煙突の中に隠し通した[12][注 15]
  17. ^ 訳注:tatlerはイギリスの雑誌名。1968年からカウンティごとの地方誌形態のものが出始めたことを考えると、おそらくそのエジンバラ版と思われる[14] 。(Tatler
  18. ^ 訳注:スコットランドのピアニスト、作曲家。リストの最後から2番目の弟子となった。(Frederic Lamond
  19. ^ 訳注:1922年生まれ。南アフリカの作曲家。(Stefans Grové
  20. ^ 訳注:1926年生まれ。南アフリカのオペラ、ソプラノ歌手。既に引退している。(Désirée Talbot
  21. ^ 訳注:1950年初演。反体制派の男を妻が国外へ逃がそうとするが、ついに男は捕まり妻は死んでしまう。(The Consul
  22. ^ 訳注:伝統的に男性優位であったアイルランドの言葉による創作活動で、初めて道を切り開いた女性とされる。1996年没。(Mary Lavin
  23. ^ 訳注:南アフリカ生まれ、イギリスの作曲家。主に合唱作品を手がける。(John Joubert [[無効な指定です: 'icon']ˈbɛər]
  24. ^ 訳注:イギリスの作曲家、ピアニスト、音楽に関する作家。ブゾーニグレインジャーの作品の復活に力を注ぎ、グレインジャーとは文通する仲であった。(Ronald Stevenson
  25. ^ 訳注:この「パッサカリア」はおそらく「DSCHによるパッサカリア」である。この曲はオスティナートの上で、ショスタコーヴィチイニシャルのドイツ語転写であるD.Schに基づく主題(ショスタコーヴィチ自身も度々自作に用いた音形)を厳格に変奏していくもので、演奏には1時間15分を有する。その演奏の間に様々な企画が催されたものと考えられる。参照「Passacaglia on DSCH
  26. ^ 訳注:1942年、グラスゴー生まれ。作曲家、音楽学者、音楽史家。著作に「スコットランドの音楽 Scotland's Music[25]」など(John Purser
  27. ^ 訳注:1992年にUniversityとなった新しい大学。1843年まで歴史を遡ることができるバーミンガム芸術大学(Birmingham College of Art)がルーツとなる。(Birmingham City University
  28. ^ a b 訳注:1965年生まれ、イギリスのピアニスト。20世紀最後のプロムスに登場し、ガーシュウィンラプソディ・イン・ブルーを弾いた。(Murray McLachlan
  29. ^ 訳注:通例、最上声部を主旋律とする無伴奏、ホモフォニーの合唱曲。(Part song
  30. ^ 訳注:1868年生まれ。スコットランドの作曲家、教育者。1931年ナイトに叙されている。(John Blackwood McEwen
  31. ^ 訳注:1508年頃に活躍したイタリアの作曲家。生涯については未詳である。(Joan Ambrosio Dalza
  32. ^ 訳注:"Bard"はケルトの職業詩人のこと。(Bard
出典
  1. ^ a b Erik Chisholm: Home Page”. 2007年8月15日閲覧。
  2. ^ a b Norris, Geoffrey (6 January 2004). “The drone of bagpipes and Bartok's ghost”. London: The Telegraph. http://www.telegraph.co.uk/culture/music/classicalmusic/3609661/The-drone-of-bagpipes-and-Bartoks-ghost.html 2012年8月6日閲覧。 
  3. ^ a b c d e f g h i Raymond Holden, 'Chisholm, Erik William (1904–1965)', Oxford Dictionary of National Biography, 2004”. 2007年8月15日閲覧。
  4. ^ Overview of Erik Chisholm”. Gazetteer for Scotland. 2007年8月15日閲覧。
  5. ^ a b c Wright, Ken (tribute to Erik Chisholm); Chisholm, Erik (1971年). “The Operas of Leos Janáček”. Pergamon Press. 2008年6月8日閲覧。
  6. ^ Chisholm, Fiona (17 February 2004). Feisty dean once barred from university education. 23. Monday Paper. http://www.news.uct.ac.za/mondaypaper/archives/?id=4273 2007年8月15日閲覧。. 
  7. ^ Full biography of Erik Chisholm”. Scottish Music Centre. 2007年9月28日閲覧。
  8. ^ Obituary. 106. The Musical Times. (August 1965). p. 623. JSTOR 00274666. 
  9. ^ McLellan, William; McQuaid, John (1952). Scottish Composers. Con Brio. http://www.erikchisholm.com/ect/index.php?section_id=4 2008年6月5日閲覧。. 
  10. ^ My Job in Wartime (From a radio broadcast in Features Programmes and Topical talks).”. 2007年11月14日閲覧。
  11. ^ SSO story”. 2012年10月27日閲覧。
  12. ^ Scotland's Music”. BBC (21 October 2007). 2008年6月7日閲覧。
  13. ^ Erik Chisholm: Songs for a Year and a Day”. Scottish Music Centre (2003年). 2008年6月8日閲覧。
  14. ^ “The truth about the new Tatler”. The Observer (ProQuest): pp. 40. (10 March 1968) 
  15. ^ a b Walker, Agnes (1965年). “Dr Erik Chisholm: an appreciation”. The Edinburgh Tatler. http://www.erikchisholm.com/ect/index.php?section_id=17 2008年6月5日閲覧。 
  16. ^ Mears, Caroline; May, James. “'Chisholm, Erik'”. Grove Music Online. 2008年6月5日閲覧。
  17. ^ Willoughby, Guy. “Erik Chisholm And The Future Of South African Opera”. 2007年11月14日閲覧。
  18. ^ Composer in Interview: Ronald Stevenson - a Scot in 'emergent Africa'”. 2007年9月28日閲覧。
  19. ^ Chisholm remembered in centenary competition. 23. Monday Paper. (22 November 2004). http://www.news.uct.ac.za/mondaypaper/archives/?id=4896 2007年9月28日閲覧。.  [リンク切れ]
  20. ^ Sutherland, Colin Scott. “Review of Erik Chisholm, Piano music”. 2007年9月28日閲覧。
  21. ^ a b Jones, Michael (2000年). “A lecture given by Michael Jones at the Ronald Stevenson Symposium”. 2007年8月15日閲覧。
  22. ^ Purser, John. “Overview of Chisholm”. 2008年6月5日閲覧。
  23. ^ Tyrrell, John (January 1972). “Janáček's 'Fate'”. The Musical Times (The Musical Times) 113 (1547): 34–37. doi:10.2307/957619. JSTOR 957619. 
  24. ^ Scottish International Piano Competition”. 29 January 2008時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年9月28日閲覧。
  25. ^ Purser, John, Scotland's Music: A History of the Traditional and Classical Music of Scotland from the Earliest Times to the Present Day, Mainstream Publishing 1992 ISBN 1-85158-426-9
  26. ^ a b Biography Launch Event”. 2010年6月12日閲覧。
  27. ^ Inventory of Ronald Stevenson's Musicological correspondence” (PDF). National Library of Scotland: Manuscripts Division. p. 32 (2000年). 2008年6月7日閲覧。
  28. ^ a b c d e f g McLachlan, Murray (2003). Unsung heroes, Making Time. Piano. http://www.erikchisholm.com/resources/doc/Unsung%20heoes%20murray.doc 2008年3月24日閲覧。. 
  29. ^ Erik Chisholm Piano Concertos”. 2012年10月27日閲覧。

文献

  • Chisholm, Morag, 'Erik Chisholm and The Trojans', Musicweb, 2003.
  • Galloway, D., 'Dr Erik Chisholm: a retrospective profile', Opus, Vol. 1, No. 1 (1966).
  • Glasser, S., 'Professor Erik Chisholm', Res Musicae, Vol. 6, No. 4 (1960), 5–6.
  • Hinton, Alistair, 'Kaikhosru Sorabji and Erik Chisholm', Jagger Journal, 10 (1989/90), 20-35.
  • Pulvermacher, G., 'Chaucer into opera', Opera, Vol. 13 (1962), 187–8.
  • Saunders, W., 'Erik Chisholm', MT, Vol. 73 (1932), 508–9.
  • Saunders, W., 'Scottish chiefs, no. XV: a chief composer', Scots Magazine, Vol. 19 (1933), 17–20.
  • Scott-Sutherland, C., 'A peek into Erik Chisholm's archives', British Music, Vol. 21 (1999), 67–71.
  • Shephard, D., 'Erik Chisholm's new piano concerto', Scottish Music and Drama (1949), 25.
  • Walker, A., 'Erik Chisholm', Stretto, Vol. 6, No. 1 (summer 1986).
  • Wright, K., 'Erik Chisholm: a Tribute', Composer, Vol. 17 (Oct 1965), 34–5.

外部リンク

Template:Link GA