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[[Image:Lady_Godiva_by_John_Collier.jpg|right|300px|thumb|[[ジョン・コリア (画家)|ジョン・コリア]]作「ゴダイヴァ夫人」。1898年頃の作品]] |
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'''ゴダイヴァ夫人'''(Lady Godiva、[[990年]]頃 - [[1067年]][[9月10日]]?)は[[11世紀]][[イギリス]]の女性。マーシア伯レオフリックの夫人で、自身も後に領主となった。夫レオフリックの圧政を諌めるため[[コヴェントリー]]の街を裸で行進したという伝説が残っている。 |
'''ゴダイヴァ夫人'''(Lady Godiva、[[990年]]頃 - [[1067年]][[9月10日]]?)は[[11世紀]][[イギリス]]の女性。[[マーシア]]伯'''レオフリック'''の夫人で、自身も後に領主となった。夫レオフリックの圧政を諌めるため[[コヴェントリー]]の街を裸で行進したという伝説が残っている。同時代頃(?)の偽イングルフの年代記によれば、ゴダイヴァは「美しいかぎりの、聖い心もちの女性」であったといわれる<ref>Ingulph's (?) [[:en:Croyland Chronicle|Historia Croylandensis] (she was 'tunc fœminarum pulcherrima sic corde sanctissima"), Hales & Furnival 編 "Leoffricus"序、p.473 で引用; "a most beautiful and devout lady," (Gentleman's Mag. Lib. 4, p.110)</ref>。 |
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== 伝説 == |
== 伝説 == |
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英米の人口に膾炙する漠然とした伝説は、'''領民に対して情けぶかい夫人'''が、'''理不尽な夫'''に難癖をいわれて'''素裸'''で長髪をなびかせ'''馬に乗って町内を横断'''する羽目になり、町人は夫人に恩義を感じて目をそむけ野次馬をさしひかえたのだが、ただ一人、'''トム'''という男が盗み見たため、以来、[[#ピーピング・トム]]といえば覗き見をする人間の'''代名詞'''となった、というものであるが、このうちどの部分がどのように成立したかを以下に説明する。</br> |
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[[イングランド]]に伝わる伝説によると、夫レオフリックの圧政に苦しむ[[コヴェントリー]]の領民を哀れみ、彼女はことあるごとに夫を諌めたという。美しい妻の度重なる要請にうんざりしたレオフリックは、彼女を諦めさせるため、「裸で[[ウマ|馬]]に乗り城下を巡回するのであれば言い分を認めよう」と応えた。しかし夫の思惑に反し、彼女は「当日は外出せず戸や窓を閉めよ」とする布告を発した上で、本当に裸身で馬に乗り城下を練り歩いた。 |
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この伝説については、'''{{仮リンク|ロジャー・オブ・ウェンドーヴァー|en|Roger of Wendover|}}''' (1236年没)の年代記、『史華』(?)がもっとも簡素かつ最古とされる典拠であるが<ref>Dict. Nat. Biog. (DNB), "the simplest and oldest form.. by Roger of Wendover, whose Flores.." </ref>、それは次のような記述である:<ref>Giles 英訳, p.314-5 より重訳</ref> |
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領民たちは彼女を支持し、布告の通り屋内に引き籠った。しかし、ひとり仕立て屋のトムという男がこっそり夫人の裸身を覗き見たために、神罰を受けて失明した('''ピーピング・トム''')。レオフリックは彼女との約束を守り苛政を改めたといわれる。 |
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伯爵夫人ゴダイヴァは、聖母の大そうな敬愛者で、コヴェントリーの町を重税の苦から解放せんと欲し、たびたび夫に対して祈願して(減税を)迫った、.. 伯爵はいつもきつく叱りつけ、二度とその話はせぬよう、とたしなめたが、(それでもなお粘るので)ついに、「馬にまたがり、民衆の皆がいるまえで、裸で乗りまわせ。町の市場をよぎり、端から端まで渡ったならば、お前の要求はかなえてやろう」と言った。ゴダイヴァは「では私にその意があれば、お許し頂けますのですね?」念をおしたが、「許す」という。さすれば神に愛されし伯爵夫人は、'''髪を解きほどき、髪の房を垂らして、全身をヴェールのように覆わせた'''。そして馬にまたがり、二人の騎士を供につけ、市場を駆けてつっきり、その美しいおみ足以外は、誰にも見られなった。そして道程を完走すると、彼女は喜々として驚愕する夫のところに舞い戻り、求めた要求を得た。レオフリク伯は、コヴェントリーの町を前述の役から免じ、勅令(憲章)によってこれを認定した。</blockquote> |
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ロジャーの『史華』よりも広く書写されて中世時代のベストセラーだったのが、同じ僧院の後輩による、その補訂版ともいうべき'''{{仮リンク|マシュー・パリス|en|Matthew Paris|}}'''の年代記、『史華』こと『大年代記(クロニカ・マイオーラ)』であるが、その記述も上と大差はなく、ただ、誰にも見られなかったことを伯爵が'''奇跡'''だと感じ入った、という部分が誇張である。<ref>Mathhew Paris (一次資料)</ref><br> |
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{{仮リンク|トマス・パーシー司教|en|Thomas Percy (Bishop of Dromore)|}}のフォリオ写本(1650年頃の写本)所収のバラッドの一篇'''「レオフリクス」'''(<small>Leoffricus</small>)<ref>Hales & Furnivall, 第3巻, p.473- (一次資料)</ref><ref>匿名 Collection of Old Ballads (1723-5)にも異本が収録。</ref>では、伯爵はすでに市民に対し免税優遇策を施してはいたが、ただ'''馬税'''だけがいまだ徴収されていたので、妻のゴダイヴァ(<small>Godiua</small>)が、更にその撤廃を嘆願した。ゴダイヴァは、裸で馬乗りすることを命じられた日を指定して、町内中の役人に通知すると、役人たちは彼女の意を汲み、町民たち命じて、'''その日は家にこもって戸も窓も締め切るように'''、と言いつけた<ref>"wherfore to all the officers of all the towne she sent .. that on the that shee shold ryde, all persons through the towne / shold keepe their houses, & shutt their dore, & clap their windowes downe," 53-60 行。</ref>(町民に屋内に閉じこもれという発令がされるのは、このバラッドが初だという<ref>DNB, "This ballad first mention the order.."</ref>) |
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=== ピーピング・トム (伝説) === |
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レオフリックもゴダイヴァも共に信仰活動に熱心で、Roger of Wendoverによって書かれた12世紀の記録によると、1043年にレオフリックがコヴェントリーにベネディクト会修道院を建立した陰には、ゴダイヴァの強い影響があったとされる<ref>[http://www.anglo-saxons.net/hwaet/?do=seek&query=S+1226 Anglo-Saxons.net, S 1226]</ref> 。下って1050年代には、ウスターのセントメアリー修道院への土地の寄進状において、またリンカーンシャーのストウセントメアリーにおける教会堂の建立の記録においても、ゴダイヴァの名はレオフリックの名と連記されている<ref>[http://www.anglo-saxons.net/hwaet/?do=seek&query=S+1232 Anglo-Saxons.net, S 1232]</ref><ref>[http://www.anglo-saxons.net/hwaet/?do=seek&query=S+1478 Anglo-Saxons.net, S 1478]</ref> 。さらに夫妻の名前はレオミンスター、チェスター、マッチウェンロック、エヴェシャムの教会堂の後援者として記録されている<ref>''The Chronicle of John of Worcester'' ed. and trans. R.R. Darlington, P. McGurk and J. Bray(Clarendon Press: Oxford 1995), pp.582-583</ref>。 |
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町衆みんなが守った礼儀にさからって、一糸まとわぬゴダイヴァ夫人をただひとり'''のぞき見'''したという、'''ピーピング・トム'''伝説は、文学作品から広まった形跡はない。これは、17 世紀以降、コヴェントリー地域の巷に出現した伝説とされている。</br> |
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1826 年に投稿された W. Reader という地元通の記事によれば、夫人をのぞき見したある'''仕立屋(テーラー)'''がいたという伝説はそのころすでに定着しており、町をあげての恒例の祭り(Trinity Great Fair 現今[[:en:Godiva Festival]])では、'''ゴダイヴァ夫人に扮した人が行列に参列'''し([[:en:Godiva Festival#Godiva processions|Godiva processions]])、街角には「ピーピング・トム」と呼ばれる木像が置かれるしきたりであった(そのイラスト画像などは[[#二次資料]]を参照)。同記事の筆者は、この木像の甲冑・異称などから、それが[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]](1685年没)時代頃のものと推定する。また、古物収集家'''{{仮リンク|ウィリアム・ダグデール|en|William Dugdale|}} '''(1686年没)が、その巨著らのなかで「のぞき野郎」のことにひとことも触れていないことから、伝説の発祥はその後と結論した。<ref>W. Reader, "Peeping Tom of Coventry and Lady Godiva", ''Gentleman's Magazine'' 96 (1826), p.22, "yet no one, including the late Sir W. Dugdale, even hint at the circumstance in question. We may safely, therefore, appropriate it to the reign of Charles II. </ref>。</br> |
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ゴダイヴァ夫人の行進の行事が始めて開催されたのは、'''1678 年'''であり、その年は James Swinnerton という男の子がゴダイヴァ夫人役だったという<ref>Hartland, E. Sydney, ''Science of Fairy Tales'', (1890), [http://books.google.co.jp/books?id=fgniX8PvfG4C&pg=PA75 p.75] コヴェントリー市の年代記の写本Dより抜粋:"31 May 1678, being the great Fair at Coventry.. and Ja. Swinnertons Son represented Lady Godiva"</ref>。</br> |
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文献における「覗き男」登場の経緯はどうかというと、これは英国人物事典(DNB)に詳しい<ref>That one person disobeyed the order .. first stated by Rapin (1732)... Pennant (Journey from Chester to London)(1782) calls him 'a certain taylor.' The name 'peeping Tom' occurs in the city accounts on 11 June 1773 when a new wig and fresh paint were supplied for his effigy.</ref>。まず史家'''{{仮リンク|ポール・ド・ラパン=トワラ|en|Paul de Rapin|}} '''(1732年)によれば、戸窓を閉めきって見るな、死罪に処すぞ、ときついお達しがあったのに、のぞき見した男がおり、そいつは'''命で償った'''と伝わっているということで、その故事を記念して、ある家からこの男の像が、窓から外を覗くようにして飾られていると報告している<ref>Paul M. Rapin de Thoyras 著, Thomas, N. Tindal 英訳 ''The History of England" [http://books.google.co.jp/books?id=pHJZAAAAYAAJ&pg=PA135 Vol. I, 2nd ed. 1782年版 p.135], "Notwithstanding, there was one, who could not forebear giving a look.."</ref>。次にトマス・ペナント『チェスターからロンドン』( 1732 年)によれば、 のぞき見したのは'''「とある仕立屋(Taylor)」'''だったとし、ゴダイヴァ夫人の行進では、ゴダイヴァ役が、むろん全裸ではないが、四肢にぴったり合わせた純白の絹衣をまとう、とする<ref>Pennant, Thomas, ''The Journey from Chester to London" [http://books.google.co.jp/books?id=ii82AAAAMAAJ&pg=PA190 1811年版 p.190], "the curiousity of a certain taylor overcoming his fear, he took a single peep"(この版では、すでにこのころ絹ではなく綿衣がつかわれている、と脚注する)</ref>。英国人物事典によれば、「ピーピング・トム」が名指しで文書にに登場する最古例は、コヴェントリー市の公式年代記(1773年6月11日付)で、木偶に新しいかつらと塗料が支給された記録である。<br> |
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⚫ | 1057年にレオフリックと死別した後、未亡人として[[ノルマン・コンクエスト]]後まで生き延びた。[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]による検地台帳「[[ドゥームズデイ・ブック]]」には、[[ノルマン人]]によるイングランド征服後もわずかながら残ったアングロサクソン人領主の一人として、また唯一の女性領主として記されている。ただし土地調査が行われた1086年には既にゴダイヴァは死去していたとする説もあり<ref>K.S.B.Keats-Rohan, ''Domesday People: A prosopography of persons occurring in English documents 1066-1166'', vol.1: Domesday (Boydell Press: Woodbridge, Suffolk 1999), p.218</ref>、1066年から1086年の間に死去したとする説、1067年9月10日をゴダイヴァの命日とする説など、諸説ある<ref>[http://www.localhistory.scit.wlv.ac.uk/articles/Penn/history/Godiva.htm "A History of Penn and its People"], Wolverhampton History & Heritage Society</ref>。また、ゴダイヴァの墓所についても、夫の隣に埋葬されたとする説、すでに現存しないエヴェシャムの教会に埋葬されたとする説など、諸説ある。 |
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このほか、覗き男の名が、アクティオン(?)(<small>Action</small>)であったという1700年以前の書簡があるという<ref>DFB" Poole quotes from the 'Gentleman's Magazine' a letter from Canon Seward (ca. before 1700) which makes the peeper 'a groom of the countess,' named Action (?Actæon)"</ref>。 |
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トム(トーマス)という名は、アングロサクソン名ではないので、実在のゴダイヴァ夫人の時代の領民の名としてはありえないことが指摘されている。<br> |
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また、トマスはこののちに天罰がくだって盲目にされた、あるいは、住民によって視力を奪われてしまったとも伝えられるようになったそうだ<ref>Leman Rede, "Peeping Tom", The New Monthly Magazine and Humorist, (1838), Part the First, p. 115: Tradition adds, that the people resolved to close up their houses,.. but.. that one, whose name has not survived, looked forth upon her, and was strcken blind, as some affirm, by the vengeance of Heaven; or, according to others, was deprived of sight by the inhabitants." (引用だが、典拠を"a modern writer" としか明かさない)</ref>。 |
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== ピーピング・トム == |
=== ピーピング・トム (俗語) === |
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'''ピーピング・トム'''(Peeping Tom)は英語の俗語で、覗き魔のこと。ゴダイヴァ夫人の裸身を覗き見た上記の男の名に由来する。日本語の同意の俗語「[[出歯亀]]」(でばがめ)に相当。 |
'''ピーピング・トム'''(Peeping Tom)は英語の俗語で、覗き魔のこと。ゴダイヴァ夫人の裸身を覗き見た上記の男の名に由来する。日本語の同意の俗語「[[出歯亀]]」(でばがめ)に相当。 |
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⚫ | マーシア伯レオフリック(968年-1057年)の妻。名前の綴りは一定しない。アングロサクソン名は Godgifu または Godgyfu であり、これは「神の賜物」を意味する。Godiva はラテン風の綴りである。{{仮リンク|イーリー大聖堂|en|Ely Abbey|}}年代記 ''Liber Eliensis'' (12世紀末) によれば、ゴダイヴァという名の伯爵未亡人が1028-9年頃、死期を悟り同寺院に土地を寄贈したとあるが、もしこれと同一人物であるとすれば、その彼女が病状から回復して、そののちにレオフリックと再婚したことになる<ref>Dict. Nat. Biog. (二次資料参照)</ref>。</br> |
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レオフリックもゴダイヴァも共に信仰活動に熱心であった。ロジャー・オブ・ウェンドーヴァー(前出)によれば、レオフリック伯が1057年が死去したとき、みずから建立したコヴェントリーの修道院に埋葬されたが、この建立は、妻であるゴダイヴァ伯爵夫人の助言によるものであったという<ref>Roger of Wendover, 前述(西暦1057年の記述), 英訳p.314 "Leofric earl of Chester.. was buried in the monastery he had founded at Coventy...by the advice of his wife the noble countess Godiva."</ref>。このベネディクト会修道院、{{仮リンク|聖メアリーの小修道院|en|St. Mary's Priory and Cathedral|}}は、1043年に設立されたが<ref>Dugdale. William (1686年没) , [http://books.google.co.jp/books?id=r71LN35ZEG4C&pg=PA177 ''Monasticon Anglicanum'' (Bohn, 1846), Vol. III, p.177。1043年は, 付録 Num. IV のアレクサンダー[[教皇勅書]]にみえ、また、建立[[勅令]]の。 異説では1044年、1051年]</ref><ref>1043年の勅令の数々の異本は [http://www.anglo-saxons.net/hwaet/?do=seek&query=S+1226 Anglo-Saxons.net, S 1226]に提示。ただし真贋については、うたがわしいらしい('spurious')</ref>、{{仮リンク|修道院解散令|en|Dissolution of the Monasteries|}}に廃院となった 。下って1050年代には、[[ウスター]]市の聖メアリー修道院 (<small>St Mary's Priory</small>) への土地の寄進状において、また[[リンカンシャー]]州の{{仮リンク|ストウ村の聖メアリー教会|en|Stow Minster|}}(<small>Minster Church of St Mary, Stow in Lindsey</small>)の建立[[勅令]]にも、ゴダイヴァ(<small>Godgife</small>)の名がレオフリックの名と連記されている<ref>ウスターの勅令には[「レオフリクとその妻」とのみ表記。[http://www.anglo-saxons.net/hwaet/?do=seek&query=S+1232 Anglo-Saxons.net, S 1232]</ref><ref>ストウ勅令では"Godgife" と表記。[http://www.anglo-saxons.net/hwaet/?do=seek&query=S+1478 Anglo-Saxons.net, S 1478]. Thorpe (現代英語訳付) [http://books.google.co.jp/books?id=02dnAAAAMAAJ&pg=PA370 p.320]</ref> 。さらに夫妻の名前はレオミンスター、チェスター、マッチウェンロック、エヴェシャムの教会堂の後援者として記録されている<ref>''The Chronicle of John of Worcester'' ed. and trans. R.R. Darlington, P. McGurk and J. Bray(Clarendon Press: Oxford 1995), pp.582-583</ref>。 |
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⚫ | 1057年にレオフリックと死別した後、未亡人として[[ノルマン・コンクエスト]]後まで生き延びた。[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]による検地台帳「[[ドゥームズデイ・ブック]]」には、[[ノルマン人]]によるイングランド征服後もわずかながら残ったアングロサクソン人領主の一人として、また唯一の女性領主として記されている。ただし土地調査が行われた1086年には既にゴダイヴァは死去していたとする説もあり<ref>K.S.B.Keats-Rohan, ''Domesday People: A prosopography of persons occurring in English documents 1066-1166'', vol.1: Domesday (Boydell Press: Woodbridge, Suffolk 1999), p.218</ref>、1066年から1086年の間に死去したとする説、1067年9月10日をゴダイヴァの命日とする説など、諸説ある<ref>[http://www.localhistory.scit.wlv.ac.uk/articles/Penn/history/Godiva.htm "A History of Penn and its People"], Wolverhampton History & Heritage Society</ref>。また、ゴダイヴァの墓所についても、夫の隣に埋葬されたとする説、すでに現存しないエヴェシャムの教会に埋葬されたとする説など、諸説ある。 |
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==関連情報== |
==関連情報== |
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*欧米では、増税反対のために街頭抗議デモを行う場合に、ゴダイヴァ夫人の故事にならい、スキンカラーのボディスーツをまとった女性が白馬にまたがり、ねり歩くパフォーマンスを行うことがある。 |
*欧米では、増税反対のために街頭抗議デモを行う場合に、ゴダイヴァ夫人の故事にならい、スキンカラーのボディスーツをまとった女性が白馬にまたがり、ねり歩くパフォーマンスを行うことがある。 |
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<references/> |
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== 一次資料== |
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(勅令など史料) |
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* Coxe, Henry O., 編 Rogeri de Wendover, Chronica, sive Flores Historiarum, Vol. 1, London, 1891 [http://books.google.co.jp/books?id=COEsAAAAMAAJ&pg=PA499 p.496-7] (A.D. 1057) |
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* Thorpe, Benjamin ([[ベンジャミン・ソープ]]), Diplomatarium anglicum aevi saxonici: A collection of English charters, Vol. 1 (London, 1865) (古英語と現代英語対訳) ([http://books.google.co.jp/books?id=02dnAAAAMAAJ books.google]) |
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(史書) |
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** Giles, J. A. 英訳 Roger of Wendover's Flowers of history, Vol. 1, London, Henry G. Bohn, 1899, [http://books.google.co.jp/books?id=TiYRa8nIJYwC&pg=PA314 p.314] |
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* Matthew Paris, |
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** Yonge, C. D., 英訳 The flowers of History, .. collected by Matthew of Westminster, Vol. 1, London, Henry G. Bohn, 1853 [http://books.google.co.jp/books?id=kykJAQAAIAAJ&pg=PA544 p.544] |
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(創作) |
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* Hales & Furnivall 共編、Bishop Percy's folio manuscript: Ballads and romances, Vol. 3, "Leoffricus"[http://books.google.co.jp/books?id=gc0jAAAAMAAJ&pg=PA477 p.473] |
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== 二次資料== |
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* -- The history of lady Godiva and Peeping Tom of Coventry, with a description, Coventry, J. W. Mills, sixth ed., sans date. [http://books.google.co.jp/books?id=tMoHAAAAQAAJ books.google](トム像は蝶ネクタイをしている) |
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* Dugdale, William, Antiquities of Warwickshire (1656)、p.66 [http://www.archive.org/details/antiquitiesofwar00dugd Internet Archive] |
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* Hartland, E. Sydney, "Peeping Tom and Lady Godiva," Folk-Lore, I, 2 (June, 1890) 217-226 ([http://books.google.co.jp/books?id=u4QZAAAAYAAJ&pg=PA217 books.google]) |
|||
* Lee, Sir Sidney, Dictionary of national biography, 第 22 巻, "Godiva or Godgifu (fl. 1040-1080)の項。[http://en.wikisource.org/wiki/Page:Dictionary_of_National_Biography_volume_22.djvu/42 wikisource];[http://books.google.co.jp/books?id=qSYJAAAAIAAJ&pg=PA36 p.36-] |
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* Poole, Benjamin, The history of Coventry (トム像の木版画) |
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* Reader, W. "Peeping Tom of Coventry and Lady Godiva", p.20-, "Show Fair at Coventry described," p.22- Gentleman's Magazine: and Historical Chronicle. Vol. XCVI (Jul-Dec 1826) ([http://books.google.co.jp/books?id=N6hJAAAAYAAJ&pg=PA20 books.google])] (ピーピング・トムの木像のスケッチ) |
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** (再版/絵カット無)''The Gentleman's magazine library'' 4 (1885) (1731-1868年の記事を主題別に分類), p.111 |
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==外部リンク== |
==外部リンク== |
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{{commons&cat|Lady Godiva|Lady Godiva}} |
{{commons&cat|Lady Godiva|Lady Godiva}} |
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* [http://penelope.uchicago.edu/~grout/encyclopaedia_romana/britannia/anglo-saxon/flowers/godiva.html James Grout: ''Lady Godiva'', part of the Encyclopædia Romana] |
* [http://penelope.uchicago.edu/~grout/encyclopaedia_romana/britannia/anglo-saxon/flowers/godiva.html James Grout: ''Lady Godiva'', part of the Encyclopædia Romana] |
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* [http://www.sexualfables.com/how_to_look_at_a_naked_lady.php How Lady Godiva Got a Tax Break] |
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*{{Cite book| |
*{{Cite book| |
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|last = Donoghue |
|last = Donoghue |
2012年1月31日 (火) 06:10時点における版
ゴダイヴァ夫人(Lady Godiva、990年頃 - 1067年9月10日?)は11世紀イギリスの女性。マーシア伯レオフリックの夫人で、自身も後に領主となった。夫レオフリックの圧政を諌めるためコヴェントリーの街を裸で行進したという伝説が残っている。同時代頃(?)の偽イングルフの年代記によれば、ゴダイヴァは「美しいかぎりの、聖い心もちの女性」であったといわれる[1]。
伝説
英米の人口に膾炙する漠然とした伝説は、領民に対して情けぶかい夫人が、理不尽な夫に難癖をいわれて素裸で長髪をなびかせ馬に乗って町内を横断する羽目になり、町人は夫人に恩義を感じて目をそむけ野次馬をさしひかえたのだが、ただ一人、トムという男が盗み見たため、以来、#ピーピング・トムといえば覗き見をする人間の代名詞となった、というものであるが、このうちどの部分がどのように成立したかを以下に説明する。
この伝説については、ロジャー・オブ・ウェンドーヴァー (1236年没)の年代記、『史華』(?)がもっとも簡素かつ最古とされる典拠であるが[2]、それは次のような記述である:[3]
伯爵夫人ゴダイヴァは、聖母の大そうな敬愛者で、コヴェントリーの町を重税の苦から解放せんと欲し、たびたび夫に対して祈願して(減税を)迫った、.. 伯爵はいつもきつく叱りつけ、二度とその話はせぬよう、とたしなめたが、(それでもなお粘るので)ついに、「馬にまたがり、民衆の皆がいるまえで、裸で乗りまわせ。町の市場をよぎり、端から端まで渡ったならば、お前の要求はかなえてやろう」と言った。ゴダイヴァは「では私にその意があれば、お許し頂けますのですね?」念をおしたが、「許す」という。さすれば神に愛されし伯爵夫人は、髪を解きほどき、髪の房を垂らして、全身をヴェールのように覆わせた。そして馬にまたがり、二人の騎士を供につけ、市場を駆けてつっきり、その美しいおみ足以外は、誰にも見られなった。そして道程を完走すると、彼女は喜々として驚愕する夫のところに舞い戻り、求めた要求を得た。レオフリク伯は、コヴェントリーの町を前述の役から免じ、勅令(憲章)によってこれを認定した。
ロジャーの『史華』よりも広く書写されて中世時代のベストセラーだったのが、同じ僧院の後輩による、その補訂版ともいうべきマシュー・パリスの年代記、『史華』こと『大年代記(クロニカ・マイオーラ)』であるが、その記述も上と大差はなく、ただ、誰にも見られなかったことを伯爵が奇跡だと感じ入った、という部分が誇張である。[4]
トマス・パーシー司教のフォリオ写本(1650年頃の写本)所収のバラッドの一篇「レオフリクス」(Leoffricus)[5][6]では、伯爵はすでに市民に対し免税優遇策を施してはいたが、ただ馬税だけがいまだ徴収されていたので、妻のゴダイヴァ(Godiua)が、更にその撤廃を嘆願した。ゴダイヴァは、裸で馬乗りすることを命じられた日を指定して、町内中の役人に通知すると、役人たちは彼女の意を汲み、町民たち命じて、その日は家にこもって戸も窓も締め切るように、と言いつけた[7](町民に屋内に閉じこもれという発令がされるのは、このバラッドが初だという[8])
また、「裸で」という言葉の解釈にも諸説あり、「長い髮が効果的に体を隠していた」「下着のようなものは身に着けていた」「貴族の象徴である装飾や宝石類を外した格好だったことを『裸で』と言い表した」など複数の説がある。ただし、彼女の時代の"naked"という語は「いかなる衣服も身につけず」という文字通りの意味であり、それ以上の比喩的な使い方があったわけではなく、後付がましい解釈である感も否めない。また、領民のためではなく、自らの懺悔のために行ったという説もある[要出典]。
ピーピング・トム (伝説)
町衆みんなが守った礼儀にさからって、一糸まとわぬゴダイヴァ夫人をただひとりのぞき見したという、ピーピング・トム伝説は、文学作品から広まった形跡はない。これは、17 世紀以降、コヴェントリー地域の巷に出現した伝説とされている。
1826 年に投稿された W. Reader という地元通の記事によれば、夫人をのぞき見したある仕立屋(テーラー)がいたという伝説はそのころすでに定着しており、町をあげての恒例の祭り(Trinity Great Fair 現今en:Godiva Festival)では、ゴダイヴァ夫人に扮した人が行列に参列し(Godiva processions)、街角には「ピーピング・トム」と呼ばれる木像が置かれるしきたりであった(そのイラスト画像などは#二次資料を参照)。同記事の筆者は、この木像の甲冑・異称などから、それがチャールズ2世(1685年没)時代頃のものと推定する。また、古物収集家ウィリアム・ダグデール (1686年没)が、その巨著らのなかで「のぞき野郎」のことにひとことも触れていないことから、伝説の発祥はその後と結論した。[9]。
ゴダイヴァ夫人の行進の行事が始めて開催されたのは、1678 年であり、その年は James Swinnerton という男の子がゴダイヴァ夫人役だったという[10]。
文献における「覗き男」登場の経緯はどうかというと、これは英国人物事典(DNB)に詳しい[11]。まず史家ポール・ド・ラパン=トワラ (1732年)によれば、戸窓を閉めきって見るな、死罪に処すぞ、ときついお達しがあったのに、のぞき見した男がおり、そいつは命で償ったと伝わっているということで、その故事を記念して、ある家からこの男の像が、窓から外を覗くようにして飾られていると報告している[12]。次にトマス・ペナント『チェスターからロンドン』( 1732 年)によれば、 のぞき見したのは「とある仕立屋(Taylor)」だったとし、ゴダイヴァ夫人の行進では、ゴダイヴァ役が、むろん全裸ではないが、四肢にぴったり合わせた純白の絹衣をまとう、とする[13]。英国人物事典によれば、「ピーピング・トム」が名指しで文書にに登場する最古例は、コヴェントリー市の公式年代記(1773年6月11日付)で、木偶に新しいかつらと塗料が支給された記録である。
このほか、覗き男の名が、アクティオン(?)(Action)であったという1700年以前の書簡があるという[14]。
トム(トーマス)という名は、アングロサクソン名ではないので、実在のゴダイヴァ夫人の時代の領民の名としてはありえないことが指摘されている。
また、トマスはこののちに天罰がくだって盲目にされた、あるいは、住民によって視力を奪われてしまったとも伝えられるようになったそうだ[15]。
ピーピング・トム (俗語)
ピーピング・トム(Peeping Tom)は英語の俗語で、覗き魔のこと。ゴダイヴァ夫人の裸身を覗き見た上記の男の名に由来する。日本語の同意の俗語「出歯亀」(でばがめ)に相当。
史実
マーシア伯レオフリック(968年-1057年)の妻。名前の綴りは一定しない。アングロサクソン名は Godgifu または Godgyfu であり、これは「神の賜物」を意味する。Godiva はラテン風の綴りである。イーリー大聖堂年代記 Liber Eliensis (12世紀末) によれば、ゴダイヴァという名の伯爵未亡人が1028-9年頃、死期を悟り同寺院に土地を寄贈したとあるが、もしこれと同一人物であるとすれば、その彼女が病状から回復して、そののちにレオフリックと再婚したことになる[16]。
レオフリックもゴダイヴァも共に信仰活動に熱心であった。ロジャー・オブ・ウェンドーヴァー(前出)によれば、レオフリック伯が1057年が死去したとき、みずから建立したコヴェントリーの修道院に埋葬されたが、この建立は、妻であるゴダイヴァ伯爵夫人の助言によるものであったという[17]。このベネディクト会修道院、聖メアリーの小修道院は、1043年に設立されたが[18][19]、修道院解散令に廃院となった 。下って1050年代には、ウスター市の聖メアリー修道院 (St Mary's Priory) への土地の寄進状において、またリンカンシャー州のストウ村の聖メアリー教会(Minster Church of St Mary, Stow in Lindsey)の建立勅令にも、ゴダイヴァ(Godgife)の名がレオフリックの名と連記されている[20][21] 。さらに夫妻の名前はレオミンスター、チェスター、マッチウェンロック、エヴェシャムの教会堂の後援者として記録されている[22]。
1057年にレオフリックと死別した後、未亡人としてノルマン・コンクエスト後まで生き延びた。ウィリアム1世による検地台帳「ドゥームズデイ・ブック」には、ノルマン人によるイングランド征服後もわずかながら残ったアングロサクソン人領主の一人として、また唯一の女性領主として記されている。ただし土地調査が行われた1086年には既にゴダイヴァは死去していたとする説もあり[23]、1066年から1086年の間に死去したとする説、1067年9月10日をゴダイヴァの命日とする説など、諸説ある[24]。また、ゴダイヴァの墓所についても、夫の隣に埋葬されたとする説、すでに現存しないエヴェシャムの教会に埋葬されたとする説など、諸説ある。
関連情報
- 欧米では、増税反対のために街頭抗議デモを行う場合に、ゴダイヴァ夫人の故事にならい、スキンカラーのボディスーツをまとった女性が白馬にまたがり、ねり歩くパフォーマンスを行うことがある。
- SF作家ロバート・A・ハインラインは、「効果的なパフォーマンス」「印象的な出来事」の例として、ゴダイヴァ夫人の故事を頻繁に引用している。
- ベルギーのチョコレートメーカー「ゴディバ」の社名およびシンボルマークはゴダイヴァ夫人に由来する。
- 小惑星(3018)のゴダイヴァは、彼女に因んで命名された。
- ノースロップ・グラマンF-14トムキャット戦闘機の偵察機バージョン(偵察ポッドを搭載)は、ニックネームがピーピング・トムである。
- クイーンの楽曲「ドント・ストップ・ミー・ナウ」の歌詞では、競技用自動車について、ゴダイヴァ夫人のように駆け抜けると表現されている。
脚注
- ^ Ingulph's (?) [[:en:Croyland Chronicle|Historia Croylandensis] (she was 'tunc fœminarum pulcherrima sic corde sanctissima"), Hales & Furnival 編 "Leoffricus"序、p.473 で引用; "a most beautiful and devout lady," (Gentleman's Mag. Lib. 4, p.110)
- ^ Dict. Nat. Biog. (DNB), "the simplest and oldest form.. by Roger of Wendover, whose Flores.."
- ^ Giles 英訳, p.314-5 より重訳
- ^ Mathhew Paris (一次資料)
- ^ Hales & Furnivall, 第3巻, p.473- (一次資料)
- ^ 匿名 Collection of Old Ballads (1723-5)にも異本が収録。
- ^ "wherfore to all the officers of all the towne she sent .. that on the that shee shold ryde, all persons through the towne / shold keepe their houses, & shutt their dore, & clap their windowes downe," 53-60 行。
- ^ DNB, "This ballad first mention the order.."
- ^ W. Reader, "Peeping Tom of Coventry and Lady Godiva", Gentleman's Magazine 96 (1826), p.22, "yet no one, including the late Sir W. Dugdale, even hint at the circumstance in question. We may safely, therefore, appropriate it to the reign of Charles II.
- ^ Hartland, E. Sydney, Science of Fairy Tales, (1890), p.75 コヴェントリー市の年代記の写本Dより抜粋:"31 May 1678, being the great Fair at Coventry.. and Ja. Swinnertons Son represented Lady Godiva"
- ^ That one person disobeyed the order .. first stated by Rapin (1732)... Pennant (Journey from Chester to London)(1782) calls him 'a certain taylor.' The name 'peeping Tom' occurs in the city accounts on 11 June 1773 when a new wig and fresh paint were supplied for his effigy.
- ^ Paul M. Rapin de Thoyras 著, Thomas, N. Tindal 英訳 The History of England" Vol. I, 2nd ed. 1782年版 p.135, "Notwithstanding, there was one, who could not forebear giving a look.."
- ^ Pennant, Thomas, The Journey from Chester to London" 1811年版 p.190, "the curiousity of a certain taylor overcoming his fear, he took a single peep"(この版では、すでにこのころ絹ではなく綿衣がつかわれている、と脚注する)
- ^ DFB" Poole quotes from the 'Gentleman's Magazine' a letter from Canon Seward (ca. before 1700) which makes the peeper 'a groom of the countess,' named Action (?Actæon)"
- ^ Leman Rede, "Peeping Tom", The New Monthly Magazine and Humorist, (1838), Part the First, p. 115: Tradition adds, that the people resolved to close up their houses,.. but.. that one, whose name has not survived, looked forth upon her, and was strcken blind, as some affirm, by the vengeance of Heaven; or, according to others, was deprived of sight by the inhabitants." (引用だが、典拠を"a modern writer" としか明かさない)
- ^ Dict. Nat. Biog. (二次資料参照)
- ^ Roger of Wendover, 前述(西暦1057年の記述), 英訳p.314 "Leofric earl of Chester.. was buried in the monastery he had founded at Coventy...by the advice of his wife the noble countess Godiva."
- ^ Dugdale. William (1686年没) , Monasticon Anglicanum (Bohn, 1846), Vol. III, p.177。1043年は, 付録 Num. IV のアレクサンダー教皇勅書にみえ、また、建立勅令の。 異説では1044年、1051年
- ^ 1043年の勅令の数々の異本は Anglo-Saxons.net, S 1226に提示。ただし真贋については、うたがわしいらしい('spurious')
- ^ ウスターの勅令には[「レオフリクとその妻」とのみ表記。Anglo-Saxons.net, S 1232
- ^ ストウ勅令では"Godgife" と表記。Anglo-Saxons.net, S 1478. Thorpe (現代英語訳付) p.320
- ^ The Chronicle of John of Worcester ed. and trans. R.R. Darlington, P. McGurk and J. Bray(Clarendon Press: Oxford 1995), pp.582-583
- ^ K.S.B.Keats-Rohan, Domesday People: A prosopography of persons occurring in English documents 1066-1166, vol.1: Domesday (Boydell Press: Woodbridge, Suffolk 1999), p.218
- ^ "A History of Penn and its People", Wolverhampton History & Heritage Society
一次資料
(勅令など史料)
- Coxe, Henry O., 編 Rogeri de Wendover, Chronica, sive Flores Historiarum, Vol. 1, London, 1891 p.496-7 (A.D. 1057)
- Thorpe, Benjamin (ベンジャミン・ソープ), Diplomatarium anglicum aevi saxonici: A collection of English charters, Vol. 1 (London, 1865) (古英語と現代英語対訳) (books.google)
(史書)
- Giles, J. A. 英訳 Roger of Wendover's Flowers of history, Vol. 1, London, Henry G. Bohn, 1899, p.314
- Matthew Paris,
- Yonge, C. D., 英訳 The flowers of History, .. collected by Matthew of Westminster, Vol. 1, London, Henry G. Bohn, 1853 p.544
(創作)
- Hales & Furnivall 共編、Bishop Percy's folio manuscript: Ballads and romances, Vol. 3, "Leoffricus"p.473
二次資料
- -- The history of lady Godiva and Peeping Tom of Coventry, with a description, Coventry, J. W. Mills, sixth ed., sans date. books.google(トム像は蝶ネクタイをしている)
- Dugdale, William, Antiquities of Warwickshire (1656)、p.66 Internet Archive
- Hartland, E. Sydney, "Peeping Tom and Lady Godiva," Folk-Lore, I, 2 (June, 1890) 217-226 (books.google)
- Lee, Sir Sidney, Dictionary of national biography, 第 22 巻, "Godiva or Godgifu (fl. 1040-1080)の項。wikisource;p.36-
- Poole, Benjamin, The history of Coventry (トム像の木版画)
- Reader, W. "Peeping Tom of Coventry and Lady Godiva", p.20-, "Show Fair at Coventry described," p.22- Gentleman's Magazine: and Historical Chronicle. Vol. XCVI (Jul-Dec 1826) (books.google)] (ピーピング・トムの木像のスケッチ)
- (再版/絵カット無)The Gentleman's magazine library 4 (1885) (1731-1868年の記事を主題別に分類), p.111
外部リンク
- Donoghue, Daniel (2002-12-30) (英語). Lady Godiva:The History of the Legend. Wiley-Blackwell. ASIN 1405100478. ISBN 9781405100465
- ダニエル・ドナヒュー、伊藤盡(訳)、2011、『貴婦人ゴディヴァ: 語り継がれる伝説』、慶應義塾大学出版会(原著2002年) ISBN 978-4766418590 ASIN 476641859X