コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「クリコヴォの戦い」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m r2.6.4) (ロボットによる 変更: eo:Batalo de Kulikovo
編集の要約なし
(6人の利用者による、間の25版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Battlebox
'''クリコヴォの戦い'''([[ロシア語]]:'''{{lang|ru|Куликовская битва}}'''または'''{{lang|ru|Битва на Куликовом поле}}''')は、[[1380年]][[9月8日]]、[[モスクワ大公]][[ドミートリー・ドンスコイ]]の率いる[[ルーシ]]諸侯連合軍が、キプチャク・ハン国の[[ママイ_(キヤト部)|ママイ・ハーン]]部隊とそれに同盟した[[リトアニア大公国]]・ルーシ諸侯などの連合軍を破った戦い。
| battle_name = クリコヴォの戦い
| campaign =
| colour_scheme = background:#ffccaa
| image = [[ファイル:Yvon kremlin.jpg|300px]]
| caption = 「クリコヴォの戦い」</br>[[フランス]]の画家{{仮リンク|アドルフ・イヴォン|en|Adolphe Yvon}}による絵画([[1850年]])
| conflict = クリコヴォの戦い
| date = [[1380年]][[9月]]
| place = [[ドン川]]付近のクリコヴォ平原
| result = [[モスクワ大公国]]の勝利
| combatant1 = [[ファイル:Coat of Arms of Moscow.svg|23px]] [[モスクワ大公国]]<br>[[ファイル:Coat of Arms of Belozyorsk (Vologda oblast) (1781).png|23px]] [[ベロオーゼロ公国]]<br>[[ファイル:Coat of Arms of Rostov (Yaroslavl oblast).png|23px]] [[ロストフ|ロストフ公国]]<br>[[ファイル:Coat of Arms of Yaroslavl (1995).png|23px]] [[ヤロスラヴリ|ヤロスラヴリ公国]]<br>[[ファイル:Coat of Arms of Nizhny Novgorod (1781).png|23px]] [[ニジニ・ノヴゴロド|スーズダリおよびニジニ・ノヴゴロド公国]]<br>[[ファイル:Coat of Arms of Murom (Vladimir oblast) (1781).png|23px]] [[ムーロム公国]]
| combatant2 = [[ジョチ・ウルス]](キプチャク・ハン国)<br>[[ファイル:Pohonia.svg|23px]][[リトアニア大公国]]<br>[[ファイル:Flag of Genoa.svg|23px]][[ジェノヴァ共和国]]
| commander1 =
[[ファイル:Coat of Arms of Moscow.svg|23px]] [[ドミートリー・ドンスコイ]]
| commander2 =
ママイ
| strength1 =50,000-60,000 <ref name=razin>Разин Е. А. История военного искусства VI — XVI вв. С.-Пб.: ООО «Издательство Полигон», 1999. — 656 с. Тираж 7000 экз. ISBN 5-89173-040-5 (VI — XVI вв.). ISBN 5-89173-038-3. (Военно-историческая библиотека)[http://militera.lib.ru/science/razin_ea/2/06.html]</ref><br />およそ30,000<ref name=Podhorodecki106>L. Podhorodecki, ''Kulikowe Pole 1380'', Warszawa 2008, s. 106</ref>
| strength2 = 100,000<ref>''Карнацевич В. Л.'' 100 знаменитых сражений. — Харьков., 2004. - стр. 139</ref> – 150,000<ref>''Мерников А. Г., Спектор А. А.'' Всемирная история войн. — Минск., 2005.</ref><br />およそ30,000<ref name=Podhorodecki106></ref>
| casualties1 = 死者20,000以上
| casualties2 = ほぼ全滅
}}


'''クリコヴォの戦い'''([[ロシア語]]:'''{{lang|ru|Куликовская битва}}'''または'''{{lang|ru|Битва на Куликовом поле}}''')は、[[1380年]]、[[モスクワ大公]]ドミートリー1世([[ドミートリー・ドンスコイ]])の率いる[[ルーシ]]諸侯連合軍が、[[キプチャク・ハン国]]の事実上の支配者ママイの軍とそれに同盟した[[リトアニア大公国]]・ルーシ諸侯などの連合軍を破った戦い<ref group="注釈">ドミートリー・ドンスコイはモスクワ公ないしモスクワ大公としてはドミートリー1世、ウラジーミル大公としてはドミートリー4世である。</ref>。
なお、[[アレクサンドル・ソルジェニーツィン]]の小説『胴巻のザハール』では地名が「クリーコヴォ」なのか「クリコーヴォ」なのかという問題が出されているが、一般には「'''クリコーヴォ'''」を取っている。

なお、[[アレクサンドル・ソルジェニーツィン]]の小説『胴巻のザハール』では地名が「クリーコヴォ」なのか「クリコーヴォ」なのかという問題が出されているが、一般には「'''クリコーヴォ'''」が採られている。


== 概要 ==
== 概要 ==
[[ファイル:Battle of the Vozha River 1378.PNG|left|thumb|200px|ヴォジャ河畔の戦い(1378年8月11日)
ロシアの諸国にとって、[[タタール]]に対する史上最初の勝利として特筆され、ロシアが「[[タタールのくびき]]」から脱却する最初のきっかけになった出来事として評価される。また、この戦いに勝利したことから[[モスクワ大公国]]の威信は大いに上がり、同国の勢力拡大に大きな影響を及ぼしモスクワ大公ドミートリーは「ドミートリー・ドンスコイ(「ドン川のドミートリー」の意味)」の称号を得た。
----
16世紀の細密画]]

[[モスクワ大公国]]のドミートリー大公は、増税を要求する[[キプチャク・ハン国]](ジョチ・ウルス)に対し公然と反旗を翻し、[[1378年]]に[[リャザン公国]]北部の[[ヴォジャ河畔の戦い]]で[[タタール]]の軍を破ったが<ref group="注釈">ヴォジャ河畔の戦いはハン国軍・モンゴル軍に対して、[[モンゴルのルーシ侵攻]]([[バトゥ]]の大西征)以来はじめてロシア側が勝利した戦いであった。[http://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/russia/medieval_russia.htm 加藤一郎「ロシア古代中世史」]</ref>、[[1380年]]にはハン国の事実上の支配者[[ママイ_(キヤト部)|ママイ]]自身の率いる大軍と再び戦わなければならなくなった<ref name=channon26>[[#チャノンハドソン|チャノン&ハドソン(1999)p.26]]</ref><ref name=kuri92>[[#栗生沢|栗生沢(2002)pp.92-94]]</ref>。

ヴォジャ河畔での敗戦を知ったママイは、モスクワ大公国を討つべく、より綿密な軍事的・外交的準備を進めた<ref name=kato>[http://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/russia/medieval_russia.htm 加藤一郎「ロシア古代中世史」]</ref>。自らの軍を[[イタリア]]の[[ジェノヴァ共和国]]からの[[傭兵]]、{{仮リンク|チェルケス人|de|Tscherkessen}}および[[ヤス人]]の兵で補強し、リトアニア大公国とリャザン公国に対しては、両国と[[同盟]]関係を結んだのである<ref name=kato/>。ロシアにおける覇権を相互に争い、モスクワにとってライヴァル中のライヴァルであったリトアニア大公国の[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヨガイラ]]は一も二もなくこの申し出に乗り、ママイと同盟した。

しかし、リャザン公国の立場は微妙なものであった<ref name=kato/><ref group="注釈">リトアニア大公ヨガイラはクリコヴォ戦後の[[1386年]]に[[ポーランド国王|ポーランド王]]となり、[[ヤゲロー朝]]を創始してヴワディスワフ2世を名乗った。</ref>。[[1373年]]と[[1377年]]の2度にわたり、タタール軍の侵入を受けて荒廃していたリャザン公国は、ママイ軍とモスクワ軍双方の進路にあたり、戦場になることが予想されるため、どちらに味方しても難しい立場に置かれることは明白であったからである<ref name=kato/>。かとといっても、中立を貫くのも不可能な状況にあった。苦しい立場にあるリャザン公オレーク・イヴァノヴィチは、結局、モスクワ打倒が成った際には、ママイの従臣として、ルーシの地をヤガイロと二分して統治するというタタール側の条件にひかれて、基本的にママイ軍に加担するものの、モスクワのドミートリーに対しても友好的な態度を保持しようと努めた<ref name=kato/>。

1380年[[9月8日]]、モスクワのドミートリー大公が率いる[[ルーシ]]諸侯連合軍は、ママイとそれに同盟した[[リトアニア大公国]]・ルーシ諸侯の連合軍と[[ドン川]]近くの[[クリコヴォ平原]]で戦闘状態に入った<ref name=kuri92/>。ドミートリー率いるルーシ軍はドン川を渡って[[背水の陣]]をしき、双方が数万ないし十数万ともいわれる大軍がぶつかり合う激しい会戦となった。戦闘は終日つづき、モスクワ側が最後に温存していた[[伏兵]]部隊を投入し、かろうじて勝利した<ref name=kuri92/>。これがクリコヴォの戦いである。

ロシアの諸国にとって、[[タタール]]に対して本格的な勝利を収めたとして特筆され、ロシアが「[[タタールのくびき]]」から脱却する最初のきっかけになった出来事として評価される。また、この戦いに勝利したことからモスクワ大公国の威信は大いに高まり、同国の勢力拡大に大きな影響を及ぼした。自ら先頭に立って軍を指揮した第4代モスクワ大公(モスクワ公としては第6代)のドミートリー1世は「ドンスコイ(「ドン川の」という意味)」の称号で呼ばれ、英雄視された<ref name=kuriu431>[[#井上栗生沢|井上&栗生沢(1998)pp.431-432]]</ref>。

同年、ハン国の正統ハン[[トクタミシュ]]はママイを[[コルマク川の戦い]]で破り、敗れたママイは[[クリミア半島]]に逃亡したが、[[黒海]]沿岸のジェノヴァ共和国の[[植民地]]カッファ(現[[ウクライナ]]・[[クリミア自治共和国]]の都市[[フェオドシヤ]])において[[イタリア人]]とのあいだに摩擦を生じ、殺害されたといわれる(あるいはトクタミシュに捕殺されたとも伝わる)。</ref>。

敗れたジョチ・ウルスであったが、その後、支配権を回復した新たなハン、トクタミシュの下で巻き返しに成功し、1383年に大挙してモスクワ軍を駆逐、ドミートリーは不意を打たれてモスクワを放棄し、モスクワ北東370キロメートルの[[コストロマ]](現[[ロシア連邦]]・[[コストロマ州]])で再起をはかった<ref name=wada38>[[#和田|和田(2001)pp.38-41]]</ref>。しかし、その間、モンゴルの大軍は[[クレムリン]]を包囲、モスクワを蹂躙したため、モスクワ大公国は荒廃した<ref name=kuri92/><ref name=wada38/>。ドミートリーはコストロマで兵力を再結集し、モスクワを奪回したが、トクタミシュはモンゴルによるロシア再支配を実現し、モンゴルへの貢納も継続された。

しかし、こうした過程を経て次第にジョチ・ウルスの勢力はしだいに減退し、やがて分裂を繰り返すようになった。この戦いは、「無敵のタタール」という従来の観念をゆるがせ、タタールの支配はくつがえすことのできるものであるという希望を[[ロシア人]]にあたえ、モスクワがロシアの諸邦のなかで求心力を発揮し、国家統一と独立闘争における指導的地位を獲得する契機となった<ref name=kuri92/><ref name=kuriu431/><ref group="注釈">ドミートリーは、従来の慣例を破ってハンの意向を問うことなく長男のヴァシーリー([[ヴァシーリー1世]])を後継者と定め、[[1389年]]の[[遺言状]]においては、将来、ハン国に何かがあったから、貢納支払いを停止するよう指示し、ウラジーミル大公国をモスクワの世襲する領地であると述べている。[[#栗生沢|栗生沢(2002)p.94]]</ref>。

このできごとは、ロシア人がモスクワの地に台頭するきっかけとなる歴史的な大事件として[[ロシアの歴史|ロシア史]]では半ば伝説的に語られている。

== 戦闘の詳細 ==
[[ファイル:Kulikovo lubok.jpg|left|thumb|400px|「クリコヴォの戦い」
----
1890年代の[[ルボーク]](民衆版画)、I.G. Blinov作]]

軍事的・外交的に周到な準備をほどこしたジョチ・ウルスの武将ママイは、モスクワ大公ドミートリーに使者を送り、ママイ政権の従臣になること、また、[[ウズベク・ハン]]の時代にウラジミール大公がジョチ・ウルスに納めていたのと同等の貢税の実施を求めた<ref name=kato/>。これは、実質的にママイの対ドミートリー最後通牒に等しかった。ドミートリーはこの要求をすぐに拒否はせず、しかし、ママイ軍の接近の報せを聞くと、戦端を開くことを決心して諸公に軍勢の動員を促した<ref name=kato/>。ルーシ諸公の軍は1380年[[8月15日]]を期日として、[[モスクワ川]]と[[オカ川]]が合流する[[コロムナ]](現ロシア連邦・[[モスクワ州]])に終結することを約していた<ref name=kato/>。

モスクワ大公国側は、ママイ軍、リトアニア大公ヤガイロの軍、リャザン公オレークの軍が集結するとみられるオカ川を越え、さらに南方に進出してママイ軍を迎撃する計画を立てた<ref name=kato/>。ドミートリー率いるルーシ連合軍は9月8日にドン川を渡り、その支流[[ネプリャドヴァ川]]の右岸、クリコヴォ平原に陣を布いた。クリコヴォ平原は、リャザンの領域にあり、その背後をドン川とネプリャドヴァ川が流れ、これはまさに背水の陣であった。この布陣は、ドミートリーの不退転の決意をあらわすとともに、戦術としては、[[タタール]]の[[騎兵]]が迂回してルーシ軍の背後や側面から奇襲をかけることを難しくしていた<ref name=kato/>。

ルーシ連合軍は、騎兵からなる前哨部隊と[[歩兵]]からなる先遣部隊が前衛を構成し、その後方に右翼部隊、主力部隊、左翼部隊が配備された。なお、この三部隊は、両翼の騎兵が中央の歩兵を取り囲むかたちに配された。さらに、その後詰めとして予備部隊と騎兵からなる伏兵部隊が配置された。一方のママイ軍は、軽騎兵からなる先遣部隊、ジェノヴァ傭兵を含む歩兵中心の中央部隊、そして騎兵からなる右翼部隊と左翼部隊が並ぶという布陣を採用した<ref name=kato/>。

戦闘に先立って、当時の慣行で両軍から勇士が選抜され、一騎打ちをおこなった。ロシア側は[[至聖三者聖セルギイ大修道院]]の[[修道士]]アレクサンドル・ペレスヴェート、ママイ側はタタールの[[武将]]チェルベイであった。双方相打ちで倒れ、戦端がひらかれた。

9月8日朝にはじまるクリコヴォの戦いは初め、ルーシ連合軍の前哨部隊・先遣部隊とママイ軍の先遣部隊が衝突し、ルーシ連合軍が敗北して後退した<ref name=kato/>。次に、ママイ有利の状況で両軍の主力が遭遇した。ママイ軍右翼の騎兵がルーシ連合軍左翼を強襲し、さらにルーシ軍の中央主力部隊を包囲する勢いであったが、その戦端が伸びきったところで、今度はルーシ連合軍で温存されていた伏兵部隊が投入され、伏兵部隊と中央主力部隊によってママイ軍右翼が挟撃される形勢となった。これにより、ママイ軍右翼の騎兵隊は混乱に陥って後退をはじめ、さらに、自軍の右翼後退を知ったママイ全軍が混乱して逃亡を開始し、これをルーシ連合軍が追撃して、ついにモスクワは勝利を収めた<ref name=kato/>。終日におよぶ大激戦であり、この戦闘でのロシア側の損失もきわめて大きかった。おびただしい死者を[[葬送]]するため、ドミートリー・ドンスコイはクリコヴォに8日間逗留したといわれる。

しかしながら、モスクワとその連合軍にとってこの戦いが総力を挙げた決戦であったのに対し、ママイ軍にとっては他にさまざまな戦いをかかえているうちの一戦闘にすぎなかった<ref name=kato/>。ママイ側はいまだ予備兵力を十分に確保していたのである。事実、ママイは第2次ロシア遠征を計画していたが、これが実行に移されなかったのは、ママイが同じ[[モンゴル人]]のトクタムィシ(トクタミシュ)との抗争に敗れたためであった<ref name=kato/>。そして、上述のようにトクタムィシは、1382年のモスクワ遠征に勝利を収めたのである。

== モスクワ勝利の原因 ==
[[ファイル:Дмитрий Донской на Куликовом поле.jpg|300px|right|thumb|「クリコヴォのドミートリー・ドンスコイ」
----
{{仮リンク|ヴァシーリー・サザノフ|ru|Сазонов, Василий Кондратьевич}}画、1824年。]]
モスクワの勝因としては、会戦の起こった場所には[[河川]]が縦横に流れており、[[草原]]での戦闘を得意とする[[騎馬民族]]タタールの兵に対して戦略的に有利だった点があげられる<ref name=channon26/>。また、その東にはうっそうとした[[森林]]が広がっており、外部の攻撃から守る役割を果たしていた<ref name=channon26/>。

モンゴル人支配下のロシアで台頭し、モスクワのライヴァルであった{{仮リンク|トヴェリ大公国|en|Grand Duchy of Tver}}は、経済的にも軍事的にもモスクワに比肩する力はすでになく、リトアニアやタタールとの不安定な同盟に依存していた<ref name=channon26/>。クリコヴォの戦いに先立つ[[1375年]]、モスクワはトヴェリ公ミハイルを破り、モスクワ大公を「[[兄]]」として敬うことをトヴェリ公国に認めさせ、タタール軍との戦闘の際には共同作戦をおこなうことを約束させている<ref name=kuriu431/><ref name=wada38/>。

また、モスクワの歴代の公・大公は、[[ロシア正教会]]に広大な[[土地]]を[[寄進]]し、正教会もその支援を目に見えるかたちで表そうとして府主教座をモスクワにうつした<ref name=channon26/><ref group="注釈">[[1326年]]、モスクワ大公[[イヴァン1世]]は、全ルーシの最高位聖職者で当時は[[ウラジーミル州|ウラジーミル]]にいた[[キエフ府主教]]をモスクワに迎え入れ、[[1328年]]にはモスクワに「キエフ及び全ルーシの府主教」を遷座させることに成功している</ref>。ロシア正教会は、ロシアにおいていわばロシア国家に先んじて一大統一組織となっていた<ref name=kuriu427>[[#今井栗生沢|今井&栗生沢(1998)pp.427-430]]</ref>。この戦いでモスクワが勝利した原因としては、正教会の援護が果たした役割も見逃せない<ref name=channon26/>。

さらに、このころのキプチャク・ハン国は長期の内紛に悩まされていた<ref name=kuriu431/>。[[1357年]]の[[ベルディ・ベク]]の父親殺しによるハン位奪取以来、混乱に陥り、ロシアの内政に対し組織的に介入する力を相対的に失っていたが、ドミートリーは、この機を逃さなかったのである<ref name=kuriu431/><ref name=wada38/>。

== ギャラリー(17世紀の本の挿絵より) ==
<gallery>
ファイル:Kulikovo01.jpg|1.ドミートリー・ドンスコイ、捕らえたタタール人からママイのロシア侵掠計画を知る。
ファイル:Kulikovo02.jpg|2.ロシアの戦士を祝福する[[ラドネジのセルギイ]]
ファイル:Kulikovo03.jpg|3.同盟軍と出会うロシア軍-ポロツク公アンドレイ・オルゲルドヴィチとブリャンスク公ドミートリー・オルゲルドヴィチ
ファイル:Kulikovo04.jpg|4.修道士アレクサンドル・ペレスヴェートとタタールの武将チェルベイの一騎打ち
ファイル:Kulikovo05.jpg|5.クリコヴォの戦い
ファイル:Kulikovo06.jpg|6.勝利したロシア軍のコロムナへの入城
</gallery>

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
<div class="references-small">{{Reflist|2}}</div>

== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[井上浩一]]・[[栗生沢猛夫]]||chapter=|editor=[[樺山紘一]]・[[蠣波護]]・[[山内昌之]]編|year=1998|month=2|title=世界の歴史11 ビザンツとスラヴ|publisher=[[中央公論社]]|series=|isbn=4-12-403411-3|ref=井上栗生沢}}
* {{Cite book|和書|author=[[ジョン・チャノン]]、[[ロバート・ハドソン]](共著) [[桃井緑美子]]+[[牧人舎]](訳)|chapter=モスクワ大公国からロシア帝国へ|editor=|year=1999|month=11|title=地図で読む世界の歴史|publisher=[[河出書房新社]]|series=|isbn=4-309-61184-2|ref=チャノンハドソン}}
* {{Cite book|和書|author=[[和田春樹]]|chapter=|editor=|year=2001|month=4|title=ヒストリカルガイド ロシア|publisher=[[山川出版社]]|series=|isbn=4-634-64640-4|ref=和田}}
* {{Cite book|和書|author=栗生沢猛夫|chapter=モスクワ国家の時代|editor=和田春樹編|year=2002|month=8|title=ロシア史|publisher=山川出版社|series=世界各国史|isbn=978-4-634-41520-1|ref=栗生沢}}

== 関連項目 ==
{{commons category|Battle of Kulikovo}}
* [[ジョチ・ウルス]]
* [[モスクワ大公国]]
* [[タタールのくびき]]
*{{仮リンク|ニコライ・カラムジン|en|Nikolay Karamzin}}『[[イリヤー・ムーロメツ]]』


== 外部リンク ==
敗れたジョチ・ウルスであったが、その後新たなハンの下で巻き返しに成功し、モスクワ軍を駆逐した。しかし、こうした過程を経て次第にジョチ・ウルスの勢力は減退と分裂を極めていった。この戦いは、以後[[ロシア人]]がこの地域に台頭するきっかけとなる歴史的な大事件として[[ロシアの歴史|ロシア史]]では半ば伝説的に語られている。
*[http://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/russia/medieval_russia.htm 加藤一郎「ロシア古代中世史」]([[文教大学]])


{{DEFAULTSORT:くりこうおのたたかい}}
{{デフォルトソート:くりこうおのたたかい}}
[[Category:1380年]]
[[Category:1380年]]
[[Category:14世紀の戦闘]]
[[Category:ロシアの戦闘]]
[[Category:ロシアの戦闘]]
[[Category:モンゴル帝国の戦闘]]
[[Category:モンゴル帝国の戦闘]]
[[Category:モスクワ・ロシア]]
[[Category:モスクワ・ロシアの国際関係]]
[[Category:リトアニアの歴史]]
[[Category:リトアニアの歴史]]



2012年9月22日 (土) 14:46時点における版

クリコヴォの戦い

「クリコヴォの戦い」
フランスの画家アドルフ・イヴォンによる絵画(1850年
戦争:クリコヴォの戦い
年月日1380年9月
場所ドン川付近のクリコヴォ平原
結果モスクワ大公国の勝利
交戦勢力
モスクワ大公国
ベロオーゼロ公国
ロストフ公国
ヤロスラヴリ公国
スーズダリおよびニジニ・ノヴゴロド公国
ムーロム公国
ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)
リトアニア大公国
ジェノヴァ共和国
指導者・指揮官
ドミートリー・ドンスコイ ママイ
戦力
50,000-60,000 [1]
およそ30,000[2]
100,000[3] – 150,000[4]
およそ30,000[2]
損害
死者20,000以上 ほぼ全滅

クリコヴォの戦いロシア語:Куликовская битваまたはБитва на Куликовом поле)は、1380年モスクワ大公ドミートリー1世(ドミートリー・ドンスコイ)の率いるルーシ諸侯連合軍が、キプチャク・ハン国の事実上の支配者ママイの軍とそれに同盟したリトアニア大公国・ルーシ諸侯などの連合軍を破った戦い[注釈 1]

なお、アレクサンドル・ソルジェニーツィンの小説『胴巻のザハール』では地名が「クリーコヴォ」なのか「クリコーヴォ」なのかという問題が出されているが、一般には「クリコーヴォ」が採られている。

概要

ヴォジャ河畔の戦い(1378年8月11日)
16世紀の細密画

モスクワ大公国のドミートリー大公は、増税を要求するキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)に対し公然と反旗を翻し、1378年リャザン公国北部のヴォジャ河畔の戦いタタールの軍を破ったが[注釈 2]1380年にはハン国の事実上の支配者ママイ自身の率いる大軍と再び戦わなければならなくなった[5][6]

ヴォジャ河畔での敗戦を知ったママイは、モスクワ大公国を討つべく、より綿密な軍事的・外交的準備を進めた[7]。自らの軍をイタリアジェノヴァ共和国からの傭兵チェルケス人およびヤス人の兵で補強し、リトアニア大公国とリャザン公国に対しては、両国と同盟関係を結んだのである[7]。ロシアにおける覇権を相互に争い、モスクワにとってライヴァル中のライヴァルであったリトアニア大公国のヨガイラは一も二もなくこの申し出に乗り、ママイと同盟した。

しかし、リャザン公国の立場は微妙なものであった[7][注釈 3]1373年1377年の2度にわたり、タタール軍の侵入を受けて荒廃していたリャザン公国は、ママイ軍とモスクワ軍双方の進路にあたり、戦場になることが予想されるため、どちらに味方しても難しい立場に置かれることは明白であったからである[7]。かとといっても、中立を貫くのも不可能な状況にあった。苦しい立場にあるリャザン公オレーク・イヴァノヴィチは、結局、モスクワ打倒が成った際には、ママイの従臣として、ルーシの地をヤガイロと二分して統治するというタタール側の条件にひかれて、基本的にママイ軍に加担するものの、モスクワのドミートリーに対しても友好的な態度を保持しようと努めた[7]

1380年9月8日、モスクワのドミートリー大公が率いるルーシ諸侯連合軍は、ママイとそれに同盟したリトアニア大公国・ルーシ諸侯の連合軍とドン川近くのクリコヴォ平原で戦闘状態に入った[6]。ドミートリー率いるルーシ軍はドン川を渡って背水の陣をしき、双方が数万ないし十数万ともいわれる大軍がぶつかり合う激しい会戦となった。戦闘は終日つづき、モスクワ側が最後に温存していた伏兵部隊を投入し、かろうじて勝利した[6]。これがクリコヴォの戦いである。

ロシアの諸国にとって、タタールに対して本格的な勝利を収めたとして特筆され、ロシアが「タタールのくびき」から脱却する最初のきっかけになった出来事として評価される。また、この戦いに勝利したことからモスクワ大公国の威信は大いに高まり、同国の勢力拡大に大きな影響を及ぼした。自ら先頭に立って軍を指揮した第4代モスクワ大公(モスクワ公としては第6代)のドミートリー1世は「ドンスコイ(「ドン川の」という意味)」の称号で呼ばれ、英雄視された[8]

同年、ハン国の正統ハントクタミシュはママイをコルマク川の戦いで破り、敗れたママイはクリミア半島に逃亡したが、黒海沿岸のジェノヴァ共和国の植民地カッファ(現ウクライナクリミア自治共和国の都市フェオドシヤ)においてイタリア人とのあいだに摩擦を生じ、殺害されたといわれる(あるいはトクタミシュに捕殺されたとも伝わる)。</ref>。

敗れたジョチ・ウルスであったが、その後、支配権を回復した新たなハン、トクタミシュの下で巻き返しに成功し、1383年に大挙してモスクワ軍を駆逐、ドミートリーは不意を打たれてモスクワを放棄し、モスクワ北東370キロメートルのコストロマ(現ロシア連邦コストロマ州)で再起をはかった[9]。しかし、その間、モンゴルの大軍はクレムリンを包囲、モスクワを蹂躙したため、モスクワ大公国は荒廃した[6][9]。ドミートリーはコストロマで兵力を再結集し、モスクワを奪回したが、トクタミシュはモンゴルによるロシア再支配を実現し、モンゴルへの貢納も継続された。

しかし、こうした過程を経て次第にジョチ・ウルスの勢力はしだいに減退し、やがて分裂を繰り返すようになった。この戦いは、「無敵のタタール」という従来の観念をゆるがせ、タタールの支配はくつがえすことのできるものであるという希望をロシア人にあたえ、モスクワがロシアの諸邦のなかで求心力を発揮し、国家統一と独立闘争における指導的地位を獲得する契機となった[6][8][注釈 4]

このできごとは、ロシア人がモスクワの地に台頭するきっかけとなる歴史的な大事件としてロシア史では半ば伝説的に語られている。

戦闘の詳細

「クリコヴォの戦い」
1890年代のルボーク(民衆版画)、I.G. Blinov作

軍事的・外交的に周到な準備をほどこしたジョチ・ウルスの武将ママイは、モスクワ大公ドミートリーに使者を送り、ママイ政権の従臣になること、また、ウズベク・ハンの時代にウラジミール大公がジョチ・ウルスに納めていたのと同等の貢税の実施を求めた[7]。これは、実質的にママイの対ドミートリー最後通牒に等しかった。ドミートリーはこの要求をすぐに拒否はせず、しかし、ママイ軍の接近の報せを聞くと、戦端を開くことを決心して諸公に軍勢の動員を促した[7]。ルーシ諸公の軍は1380年8月15日を期日として、モスクワ川オカ川が合流するコロムナ(現ロシア連邦・モスクワ州)に終結することを約していた[7]

モスクワ大公国側は、ママイ軍、リトアニア大公ヤガイロの軍、リャザン公オレークの軍が集結するとみられるオカ川を越え、さらに南方に進出してママイ軍を迎撃する計画を立てた[7]。ドミートリー率いるルーシ連合軍は9月8日にドン川を渡り、その支流ネプリャドヴァ川の右岸、クリコヴォ平原に陣を布いた。クリコヴォ平原は、リャザンの領域にあり、その背後をドン川とネプリャドヴァ川が流れ、これはまさに背水の陣であった。この布陣は、ドミートリーの不退転の決意をあらわすとともに、戦術としては、タタール騎兵が迂回してルーシ軍の背後や側面から奇襲をかけることを難しくしていた[7]

ルーシ連合軍は、騎兵からなる前哨部隊と歩兵からなる先遣部隊が前衛を構成し、その後方に右翼部隊、主力部隊、左翼部隊が配備された。なお、この三部隊は、両翼の騎兵が中央の歩兵を取り囲むかたちに配された。さらに、その後詰めとして予備部隊と騎兵からなる伏兵部隊が配置された。一方のママイ軍は、軽騎兵からなる先遣部隊、ジェノヴァ傭兵を含む歩兵中心の中央部隊、そして騎兵からなる右翼部隊と左翼部隊が並ぶという布陣を採用した[7]

戦闘に先立って、当時の慣行で両軍から勇士が選抜され、一騎打ちをおこなった。ロシア側は至聖三者聖セルギイ大修道院修道士アレクサンドル・ペレスヴェート、ママイ側はタタールの武将チェルベイであった。双方相打ちで倒れ、戦端がひらかれた。

9月8日朝にはじまるクリコヴォの戦いは初め、ルーシ連合軍の前哨部隊・先遣部隊とママイ軍の先遣部隊が衝突し、ルーシ連合軍が敗北して後退した[7]。次に、ママイ有利の状況で両軍の主力が遭遇した。ママイ軍右翼の騎兵がルーシ連合軍左翼を強襲し、さらにルーシ軍の中央主力部隊を包囲する勢いであったが、その戦端が伸びきったところで、今度はルーシ連合軍で温存されていた伏兵部隊が投入され、伏兵部隊と中央主力部隊によってママイ軍右翼が挟撃される形勢となった。これにより、ママイ軍右翼の騎兵隊は混乱に陥って後退をはじめ、さらに、自軍の右翼後退を知ったママイ全軍が混乱して逃亡を開始し、これをルーシ連合軍が追撃して、ついにモスクワは勝利を収めた[7]。終日におよぶ大激戦であり、この戦闘でのロシア側の損失もきわめて大きかった。おびただしい死者を葬送するため、ドミートリー・ドンスコイはクリコヴォに8日間逗留したといわれる。

しかしながら、モスクワとその連合軍にとってこの戦いが総力を挙げた決戦であったのに対し、ママイ軍にとっては他にさまざまな戦いをかかえているうちの一戦闘にすぎなかった[7]。ママイ側はいまだ予備兵力を十分に確保していたのである。事実、ママイは第2次ロシア遠征を計画していたが、これが実行に移されなかったのは、ママイが同じモンゴル人のトクタムィシ(トクタミシュ)との抗争に敗れたためであった[7]。そして、上述のようにトクタムィシは、1382年のモスクワ遠征に勝利を収めたのである。

モスクワ勝利の原因

「クリコヴォのドミートリー・ドンスコイ」
ヴァシーリー・サザノフロシア語版画、1824年。

モスクワの勝因としては、会戦の起こった場所には河川が縦横に流れており、草原での戦闘を得意とする騎馬民族タタールの兵に対して戦略的に有利だった点があげられる[5]。また、その東にはうっそうとした森林が広がっており、外部の攻撃から守る役割を果たしていた[5]

モンゴル人支配下のロシアで台頭し、モスクワのライヴァルであったトヴェリ大公国は、経済的にも軍事的にもモスクワに比肩する力はすでになく、リトアニアやタタールとの不安定な同盟に依存していた[5]。クリコヴォの戦いに先立つ1375年、モスクワはトヴェリ公ミハイルを破り、モスクワ大公を「」として敬うことをトヴェリ公国に認めさせ、タタール軍との戦闘の際には共同作戦をおこなうことを約束させている[8][9]

また、モスクワの歴代の公・大公は、ロシア正教会に広大な土地寄進し、正教会もその支援を目に見えるかたちで表そうとして府主教座をモスクワにうつした[5][注釈 5]。ロシア正教会は、ロシアにおいていわばロシア国家に先んじて一大統一組織となっていた[10]。この戦いでモスクワが勝利した原因としては、正教会の援護が果たした役割も見逃せない[5]

さらに、このころのキプチャク・ハン国は長期の内紛に悩まされていた[8]1357年ベルディ・ベクの父親殺しによるハン位奪取以来、混乱に陥り、ロシアの内政に対し組織的に介入する力を相対的に失っていたが、ドミートリーは、この機を逃さなかったのである[8][9]

ギャラリー(17世紀の本の挿絵より)

脚注

注釈

  1. ^ ドミートリー・ドンスコイはモスクワ公ないしモスクワ大公としてはドミートリー1世、ウラジーミル大公としてはドミートリー4世である。
  2. ^ ヴォジャ河畔の戦いはハン国軍・モンゴル軍に対して、モンゴルのルーシ侵攻バトゥの大西征)以来はじめてロシア側が勝利した戦いであった。加藤一郎「ロシア古代中世史」
  3. ^ リトアニア大公ヨガイラはクリコヴォ戦後の1386年ポーランド王となり、ヤゲロー朝を創始してヴワディスワフ2世を名乗った。
  4. ^ ドミートリーは、従来の慣例を破ってハンの意向を問うことなく長男のヴァシーリー(ヴァシーリー1世)を後継者と定め、1389年遺言状においては、将来、ハン国に何かがあったから、貢納支払いを停止するよう指示し、ウラジーミル大公国をモスクワの世襲する領地であると述べている。栗生沢(2002)p.94
  5. ^ 1326年、モスクワ大公イヴァン1世は、全ルーシの最高位聖職者で当時はウラジーミルにいたキエフ府主教をモスクワに迎え入れ、1328年にはモスクワに「キエフ及び全ルーシの府主教」を遷座させることに成功している

出典

  1. ^ Разин Е. А. История военного искусства VI — XVI вв. С.-Пб.: ООО «Издательство Полигон», 1999. — 656 с. Тираж 7000 экз. ISBN 5-89173-040-5 (VI — XVI вв.). ISBN 5-89173-038-3. (Военно-историческая библиотека)[1]
  2. ^ a b L. Podhorodecki, Kulikowe Pole 1380, Warszawa 2008, s. 106
  3. ^ Карнацевич В. Л. 100 знаменитых сражений. — Харьков., 2004. - стр. 139
  4. ^ Мерников А. Г., Спектор А. А. Всемирная история войн. — Минск., 2005.
  5. ^ a b c d e f チャノン&ハドソン(1999)p.26
  6. ^ a b c d e 栗生沢(2002)pp.92-94
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 加藤一郎「ロシア古代中世史」
  8. ^ a b c d e 井上&栗生沢(1998)pp.431-432
  9. ^ a b c d 和田(2001)pp.38-41
  10. ^ 今井&栗生沢(1998)pp.427-430

参考文献

  • 井上浩一栗生沢猛夫 著、樺山紘一蠣波護山内昌之編 編『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年2月。ISBN 4-12-403411-3 
  • ジョン・チャノンロバート・ハドソン(共著) 桃井緑美子+牧人舎(訳)「モスクワ大公国からロシア帝国へ」『地図で読む世界の歴史』河出書房新社、1999年11月。ISBN 4-309-61184-2 
  • 和田春樹『ヒストリカルガイド ロシア』山川出版社、2001年4月。ISBN 4-634-64640-4 
  • 栗生沢猛夫 著「モスクワ国家の時代」、和田春樹編 編『ロシア史』山川出版社〈世界各国史〉、2002年8月。ISBN 978-4-634-41520-1 

関連項目

外部リンク