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「ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)」の版間の差分

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{{基礎情報 皇族・貴族
[[ファイル:Cumberland-Reynolds.jpg|thumb|カンバーランド公ウィリアム・オーガスタス。[[ジョシュア・レノルズ|レノルズ]]画]]
| 人名 = ウィリアム・オーガスタス
カンバーランド公爵'''ウィリアム・オーガスタス'''(The Prince William Augustus, Duke of Cumberland、[[1721年]][[4月15日]] - [[1765年]][[10月31日]])は、[[グレートブリテン王国|イギリス]]の王族・軍人。イギリス王[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]と王妃[[キャロライン・オブ・アーンズバック|キャロライン]]の3男。[[ホレーショ・ネルソン|ネルソン]]提督や[[ジェームズ・ウルフ]]らと共に、イギリスにおいて最も有名な軍指揮官の1人である。[[サラブレッド]]の[[三大始祖|始祖]]、[[ヘロド (競走馬)|ヘロド]]及び[[エクリプス (競走馬)|エクリプス]]の生産者としても知られている。
| 各国語表記 = William Augustus
| 家名・爵位 = [[カンバーランド公]]
| 画像 = William Augustus, Duke of Cumberland by Sir Joshua Reynolds.jpg|200px
| 画像サイズ =
| 画像説明 = ウィリアム・オーガスタス
| 在位 = [[1726年]][[7月27日]] - [[1765年]][[10月31日]]
| 続柄 =
| 称号 =
| 全名 =
| 身位 = グレートブリテン王子、公爵
| 敬称 = His Royal Highness, The Duke of Cumberland
| お印 =
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1721|4|26|no}}
| 生地 = {{GBR1606}}、[[ロンドン]]、[[レスターハウス]]
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1721|4|26|1765|10|31}}
| 没地 = {{GBR1606}}、ロンドン
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = {{GBR1606}}、[[ウエストミンスター寺院]]
| 配偶者1 =
| 子女 =
| 家名 = [[ハノーヴァー朝|ハノーヴァー家]]
| 父親 = [[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]
| 母親 = [[キャロライン・オブ・アーンズバック]]
| 役職 = イギリス陸軍将校他
}}
'''カンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタス'''({{lang-en-short|William Augustus, Duke of Cumberland}}, [[1721年]][[4月26日]] - [[1765年]][[10月31日]])は、[[グレートブリテン王国|イギリス]]の[[王族]]・[[軍人]]である。イギリス国王[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]と[[キャロライン・オブ・アーンズバック]]の3男として生まれ、[[1726年]]に[[カンバーランド公]]に叙された。

一般には、[[ジャコバイト]]蜂起による[[1746年]]の[[カロデンの戦い]]の鎮圧で有名であり、「屠殺者カンバーランド」という渾名でも知られている。カロデンの戦いの後の軍事経歴は華麗ではあったがことごとく失敗に終わり、[[1757年]]の[[クローステル・ツェーヴェン協定]]の後は戦場に赴くことはなく、政治と[[競馬]]に関心を向けた。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 幼年時代 ===
[[ロンドン]]で生まれる。4歳で[[カンバーランド公]]の称号を与えられ、その後オルダニー男爵、トレメイトン子爵、ケニングトン伯爵、バークハムステッド侯爵と次々に叙されていった。幼少期から武勇にすぐれ、将来を嘱望されていた。ジョージ2世はウィリアム・オーガスタスを溺愛し、長男である王太子[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ルイス]]([[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の父)以上の遺産を残そうと考えていたともいわれる。[[ハンプトン・コート宮殿]]のなかにウィリアムのために作られた部屋もあった。
[[File:William Augustus, Duke of Cumberland by Charles Jervas.jpg|thumb|150px|left|幼少時のカンバーランド]]
1721年、[[レスターフィールズ]](現在の[[ウェストミンスター]]、[[レスター・スクウェア]])の[[レスターハウス]]で生まれた。ここは祖父である[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]がイギリス国王として即位した後に両親が移り住んだ場所であった<ref name=odnb>{{cite web|url=http://www.oxforddnb.com/view/article/29455|title=Prince William, Duke of Cumberland|publisher=Oxford Dictionary of National Biography|accessdate=5 May 2012}}</ref>。ウィリアムには[[名親]]に[[プロイセン王国|プロイセン]]王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]や[[ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー|ゾフィー王妃]](ウィリアムの父方の叔母)がいたが、王や王妃自身ではなく代理の人物が務めたといわれる<ref>{{cite web|url=http://users.uniserve.com/~canyon/christenings.htm#Christenings |title=Yvonne's Royalty Home Page: Royal Christenings |publisher=Users.uniserve.com |date= |accessdate=2010-06-21}}</ref>。1726年7月27日<ref name="creation">{{cite web|url=http://mypage.uniserve.ca/~canyon/peerage_titles.htm#Holders |title=Yvonne's Royalty: Peerage |publisher=Mypage.uniserve.ca |date= |accessdate=2010-06-21}}</ref>、わずか4歳にしてカンバーランド公、[[ハートフォード・カウンティ]]の[[バークハムステッド侯爵]]、[[サリー (イングランド)|サリー]]の[[ケニングトン伯爵]]、[[コーンウォール・カウンティ]]の[[トレメイトン子爵]]、そして[[オルダニー島]]の男爵に叙された<ref name="gaz">{{LondonGazette|issue=6494|supp=|page=1|date=12 July 1726|accessdate=5 May 2012}}</ref>。{{要出典範囲|ジョージ2世はカンバーランドを溺愛し、長男である王太子[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ルイス]]([[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の父)以上に遺産を残そうと考えていたともいわれる|date=2012年9月}}。


幼いカンバーランドは母キャロラインが家庭教師として[[エドモンド・ハレー]]を雇ったこともあり<ref>Van der Kiste, p. 46</ref>、質の高い教育を受けた。他の家庭教師(時に応じてカンバーランドの代理人でもあった)としては、母のお気に入りの[[アンドリュー・フォンテーヌ]]がいた<ref>{{LondonGazette|issue=6382|supp=|page=2|date=15 June 1725|accessdate=5 May 2012}}</ref>。[[ハンプトン・コート宮殿]]には、[[ウィリアム・ケント]]によって、彼のために広く立派な部屋が作られた<ref>Thurley p. 279</ref>。長兄の王太子フレデリック・ルイスはカンバーランドと国王の所領を分け合うことを提案し、フレデリックはイギリス、カンバーランドは[[ハノーファー王国|ハノーファー]]をと持ちかけたが、結局無に帰した<ref>Van der Kiste, p. 150 (1736 plan suggested by Prince of Wales)</ref>。
[[海軍本部 (イギリス)|海軍本部]]へ補され、[[1740年]]には[[ジェンキンスの耳の戦争]]などの戦闘に参加した。しかし海軍はウィリアムの性分に合っておらず、ほどなく陸軍に転向した。ウィリアムは陸軍でまたたくうちに戦果を積み上げ、特に[[デッティンゲンの戦い]]([[オーストリア継承戦争]]、[[1743年]])では、自らも負傷しながらも華々しい戦果をあげ、一躍英雄となった。


カンバーランドは子供の頃から勇敢であり、肉体的な能力にもすぐれていて、それが両親のお気に入りだった<ref>Van der Kiste, p. 111</ref>。4歳の時に[[第二歩兵近衛連隊]]に登録され、[[バス勲章]]を授与された<ref name=Kiste78>Van der Kiste, p. 78</ref>。国王夫妻はカンバーランドを[[海軍本部 (イギリス)|海軍本部]]に入れるつもりだった。[[1740年]]、カンバーランドは志願兵として[[ジョン・ノリス]]指揮下の艦隊で、{{要出典範囲|1740年には[[ジェンキンスの耳の戦争]]などの戦闘に参加した|date=2012年9月}}が、すぐに[[イギリス海軍|海軍]]に嫌気がさし、代わりに、[[1741年]][[2月20日]]に[[グレナディアガーズ|第一近衛歩兵連隊]]の[[大佐]]の地位を約束された<ref>{{LondonGazette|issue=8094|supp=|page=2|date=16 February 1741|accessdate=5 May 2012}}</ref>。
ウィリアムは指揮官としてよりも、戦士としての能力に優れていた。1745年の[[フォントノワの戦い (1745年)|フォントノワの戦い]]では[[モーリス・ド・サックス|サックス伯]]麾下のフランス軍に叩きのめされたが、ウィリアム自身は八面六臂の活躍でさらに名を挙げた。翌1746年に[[ジャコバイト]]の反乱が起こると本国に呼び戻され、[[カロデンの戦い]]でジャコバイト軍を粉砕した。その後オーガスタス砦を築き、ジャコバイトを根こそぎ刈り取る掃討を始めた。その厳しさから「屠殺屋」(Butcher)と恐れられ、長きにわたって[[スコットランド]]人の怨恨の的となった。


=== オーストリア継承戦争 ===
[[1747年]]、再び大陸にわたりオランダで指揮をとったが、またもサックス伯に敗れるなど精彩を欠いた。その後本国に帰り、名誉挽回の機会を与えられないまま1765年に世を去った。カンバーランド公位は消滅、後に甥の[[ヘンリー・フレデリック (カンバーランド公)|ヘンリー・フレデリック]]が新設の公爵位としてカンバーランド公になった。
[[File:Battle-of-Fontenoy.jpg|thumb|200px|カンバーランドが初めて指揮を執ったフォントノワの戦い]]
[[1742年]]、カンバーランドは陸軍[[少将]]となり、翌[[1743年]]に初めて自らが戦う戦場を目の当たりにした<ref name=odnb/>。勇猛な息子(martial boy)といわれたカンバーランドは[[デッティンゲンの戦い]]の勝利を父と分かち合い<ref>{{LondonGazette|issue=8286|supp=|page=2|date=20 December 1743|accessdate=5 May 2012}}</ref>、この戦いで脚に[[マスケット銃]]によるけがを負った<ref name=odnb/>が、戦後陸軍[[中将]]に就任した<ref>{{LondonGazette|issue=8240|supp=|page=4|date=12 July 1743|accessdate=5 May 2012}}</ref>。
[[File:MarechalMauricedeSaxedeLaTour.jpg|thumb|120px|left|フランス軍元帥モーリス・ド・サックス]]
[[1745年]]、カンバーランドはイギリス陸軍総司令官の称号を得て、経験がなかったにもかかわらず、[[フランドル]]でイギリスとハノーファー、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]連合軍の総指揮を執った。当初カンバーランドはフランスに攻撃を仕掛け、[[パリ]]攻略に持って行く流れを作りたがったが、顧問の軍人達から敵軍が圧倒的な数的優勢に立っているため、不可能であると説得された<ref>Browning p. 206</ref>。やがてフランス側の意図が[[トゥルネー]]を取ることであることが明らかになり、カンバーランドは[[モーリス・ド・サックス]][[元帥]]が包囲しているこの町の救援に向かった<ref>Browning p. 212</ref>が、[[1745年]][[5月11日]]の[[フォントノワの戦い (1745年)|フォントノワの戦い]]の結果、イギリス・オランダ・オーストリア連合軍はフランスに敗れた。


敗因はサックスがイギリス軍相手に戦場を選び、近くの森に狙撃兵を多数配備したのに対し、カンバーランドは作戦計画を立てた時点で森に兵が隠れているという脅威を無視しており、代わりにフォントノワの包囲に専心して、近くにいたフランス軍の主軍に攻撃を仕掛けたことと、フランスの拠点への攻撃の集中で、連合軍が勝つだろうと多くが思ったにもかかわらず森から狙撃兵を追わなかったこと、フォントノワを陥落させようとするオランダ軍のために、カンバーランドの兵が撤退せざるを得なくなったことなどであった。
[[ファイル:Blanc Coursier Tabard.jpg|thumb|200px|The tabard of Blanc Coursier Herald, Cumberland's private officer of arms]]
晩年は失意の中[[競走馬]]生産に力を入れ、1750年からウィンザーで馬産を始めた。[[ヘロド (競走馬)|ヘロド]]、[[エクリプス (競走馬)|エクリプス]]といった[[サラブレッド]]前史における最重要とも言える名馬を送り出した事が最晩年の功績である。ウィリアムをサラブレッド最大の貢献者と言う者もいる。


この戦いの後カンバーランドはしばしば戦術を批判され、特に森を押さえておかなかったことが批判の対象になった<ref>Browning pp. 207-213</ref>。この戦いが終わらないうちにカンバーランドは[[ブリュッセル]]に退却せざるを得なくなり、[[ゲント]]、[[ブルージュ]]、[[オーステンデ]]の陥落を阻止することは不可能になった<ref>Browning p. 219</ref>。
== 人物と伝記 ==

ウィリアムは勇猛であるが思慮が足りず、血の気の多い人物であったと伝えられる。そのため指揮する部隊が小さいうちは武勲をかさねたが、総大将として戦闘に当たると、敵方の奸計にはまって敗走を余儀なくされる場面が多かった。このような短所もあってウィリアムは死後も名を残し、彼の伝記が[[1766年]]および[[1876年]]に出版された。さらに[[2005年]]には、「'''イギリス史上最悪の人物賞'''」(Worst Britons, [[英国放送協会|BBC]])の[[18世紀]]部門賞を「受賞」した。
=== ジャコバイトの反乱 ===
カンバーランドは、当時のイギリスの将軍では主導的立場にあり、1745年の[[ジャコバイト]]蜂起で、[[チャールズ・エドワード・ステュアート]](若王位僭称者)の王位奪取を断固阻止する任務を請け負った。カンバーランドの就任は人望を集め、国民と部隊との士気を高めた<ref>Longmate p. 155</ref>。

フランドルから召喚されて以来、カンバーランドはこの反乱を抑えるための準備を続けてきた、ジャコバイト軍は[[イングランド]]に向けて南進しており、イングランドのジャコバイトが蜂起して彼らに合流することを望んでいた。しかし[[マンチェスター連隊]]のような限られた支援しか受けられず、ジャコバイト軍は[[スコットランド]]に撤退した<ref name=pollard>Pollard p.41-42</ref>。

カンバーランドは{{仮リンク|ジョン・リゴンアー|en|John Ligonier, 1st Earl Ligonier}}指揮下のミッドランド軍に加わり、敵の追跡を始めた。ジャコバイト軍が[[ダービー (イギリス)|ダービー]]から北へと撤退をはじめたからである<ref name=odnb/>。1745年[[12月]]、[[ペンリス]]に着いたところで、ミッドランド軍の先方部隊が[[クリフトン・ムーア]]に撃退され、カンバーランドは撤退中のスコットランド軍に追いつく望みはないことに気付いた<ref>{{cite web|url=http://www.thesonsofscotland.co.uk/thebattleofcliftonmoor1745.htm|title=Clifton skirmish |publisher=Paisley Tartan Army|accessdate=5 May 2012}}</ref>。[[カーライル (イングランド)|カーライル]]を取り戻した後、カンバーランドはロンドンに召還された。ロンドンでは、フランスの侵略を想定しての対戦の準備が進められていた<ref name=odnb/> 。1746年1月の、カンバーランドの代わりに指揮を執った[[ヘンリー・ハウリー]]の敗北は、イングランド国民の恐怖を掻き立てた。この時、雨あられと降りかかる[[拳銃]]の弾の中で、80人の[[竜騎兵]]が倒れて行った。これが[[フォルカーク・ミューアの戦い]]である<ref>Tomasson, p 119</ref>。

===カロデンの戦い===
[[File:Cumberland's Stone - geograph.org.uk - 976487.jpg|thumb|180px|カンバーランド・ストーン。カンバーランドがこの上で、カロデンの戦いの成り行きを見守ったと言われる。]]
{{Main|カロデンの戦い}}
[[1746年]][[1月30日]]にカンバーランドは[[エディンバラ]]に着き、すぐにチャールズの探索に入った。[[アバディーン]]まで遠回りをして<ref>{{LondonGazette|issue=8521|supp=|page=2|date=22 March 1746|accessdate=5 May 2012}}</ref>、来たる戦闘で彼の指揮下となる、装備を整えた部隊の鍛錬に時間を費やした。カンバーランドの鍛錬は、まず、射程内に敵が入るまで射撃を行わないこと、一度射撃すると敵の右側を[[銃剣]]で突くことだった。こうすることで、相手の剣を掲げた腕の下に入るからだった<ref>Bellesiles, p.145</ref>。

1746年の[[4月8日]]、カンバーランドはアバディーンを出発して[[インヴァネス]]に向かい、[[4月16日]]に天王山ともいうべきカロデンの戦いを戦い、チャールズを完敗させた<ref name=pollard/>。カンバーランドは兵たちに、ジャコバイトの反逆者の残党に対して、容赦ない攻撃を加えるように命令した(このジャコバイト軍では、フランス軍の兵や、イギリスや[[アイルランド]]生まれの者も正規な兵士とされていた)。カンバーランドの軍は戦場をくまなく歩き回り、まだ息のある敵兵を突いて去って行った<ref name=thompson>Thompson, p.519</ref>。カンバーランドは、足元に横たわっている負傷兵が反乱軍であると知り、[[少佐]]にその者を撃つように命じた。少佐が命令を拒むと、一兵卒にその任務を果たすよう命じた<ref name=thompson/>。

その後イギリス軍は、ハイランドのジャコバイトが支配する地域でのいわゆる「平和活動」に乗り出した。反乱軍はみな殺され、兵士でないものも殺された。反乱軍に関係した集落は焼かれ、[[家畜]]は大々的に没収された<ref>Plank, p.116</ref>。100人以上の反逆者が[[絞首刑]]にされた<ref>Clee, p.42</ref>。女たちは投獄され、多くの人間が裁判のため船でロンドンに運ばれたが、8か月に及ぶ旅の途中でその多くが死んだ<ref name=thompson/>。

=== 屠殺者カンバーランド ===
[[File:Frederick, Prince of Wales 1754 by Liotard.jpg|thumb|120px|王太子フレデリック・ルイス]]
「屠殺者」は、政治がらみの皮肉として、ロンドンで最初に記録に残されたものである<ref>{{cite web|url=http://www.fullbooks.com/The-Letters-of-Horace-Walpole-Volume15.html |title=The Letters of Horace Walpole, Volume 1 by Horace Walpole Part 15 out of 18 |publisher=Fullbooks.com |date= |accessdate=2010-06-21}}</ref><ref name=Britannica>{{cite web|author=Encyclopædia Britannica |url=http://www.britannica.com/eb/article-9028181/William-Augustus-duke-of-Cumberland |title=Encyclopadia Britannica |publisher=Britannica.com |date= |accessdate=2010-06-21}}</ref>。兄で王太子のフレデリック・ルイスは、父王の代理で従軍する許可が下りておらず、カンバーランドへの悪意のある攻撃を奨励しているようにも見えた。カンバーランドによって、すぐに戦争が終わったと言っても過言ではない。スコットランド住民の大部分、そのスコットランド人以外のイギリス国民、そして植民地の住人が、ジャコバイトの威嚇からの救世主として彼を持てはやした。その一例として、カンバーランドは[[グラスゴー大学]]から、名誉学位を授与されていた<ref name=Britannica/>。

カンバーランドは野営地にかなり厳しい規律を設けていた。彼は任務と判断したことを実践する際、兵をえこひいきせずに使った。そうでありながら、彼の注意を引くような特殊な場合には、温情的に自らの影響力を行使した。何年か後、[[ジェームズ・ウルフ]]がカンバーランドについてこう述べている。「公はいつも高貴で寛大な人物である」カンバーランドの勝利の効果は、年間2万5千ポンドの支出がなされることが決定したこと、さらにその上王室費からも経費が出ることが認められた<ref>W. A. Speck, "[http://www.oxforddnb.com/view/article/29455 William Augustus, Prince, duke of Cumberland (1721?1765)]", ''Oxford Dictionary of National Biography'', Oxford University Press, Sept 2004; online edn, Jan 2008, accessed 16 Oct 2009.</ref>。またウルフやコンウェイには、カンバーランドがパトロンとなっていた<ref name=berkshirehistory>http://www.berkshirehistory.com/bios/cumberland.html RBH Biography: Prince William Augustus,Duke of Cumberland (1721-1765)]</ref>。この勝利の、神への感謝の祈りが[[セントポール寺院]]で捧げられ、[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル]]が、特にカンバーランドのために作曲した[[ユダス・マカベウス]](征服せし英雄)が初演された<ref>Speck, p. 170.</ref>。

=== 敗北と幼君の補佐 ===
{{Main|ラウフフェルトの戦い}}
1746年の[[フランドル方面作戦]]にはカンバーランドは参戦しなかった。この時フランスはブリュッセル包囲へ大きく前進し、[[ロクールの戦い]]で連合軍を破った。翌[[1747年]]、カンバーランドは大陸へ戻って、連勝を続けているサックスにもう一度戦いを挑み、1747年7月2日、[[ラウフフェルトの戦い]](ヴァルの戦い)で大敗を喫した。ここは[[マーストリヒト]]の近くであった<ref>Stanhope, p. 334</ref> 。この戦いと[[ベルヘン・オプ・ゾーム攻囲戦 (1747年)|ベルヘン・オプ・ゾーム攻囲戦]]で、両軍は交渉の席に着き、[[1748年]]に[[アーヘンの和約 (1748年)|アーヘンの和約]]が結ばれて、カンバーランドは帰国した<ref>Sosin, p.516-535</ref>。

カロデンの戦い以降、カンバーランドの人気は下り坂となって行った。これが政治で名を成すことへの妨げになった。フレデリック・ルイスの死によって、その王子であるジョージが次の国王に決まり、カンバーランドは、[[摂政]]の地位が可能であったにもかかわらず、その地位に自分がふさわしいと主張することができなかった。妥協策として、摂政の地位は、王太子未亡人の[[オーガスタ・オブ・サクス=ゴータ|オーガスタ]]に付与された。オーガスタはカンバーランドを敵とみなしていたが、彼女の権力は大きいものではなく、12人から成る[[委員会]]の助言を受けることになった。その委員会の筆頭委員はカンバーランドだった<ref>Van der Kiste, p. 195</ref>。

=== 七年戦争 ===
{{Main|[[ハノーファー侵攻 (1757年)]]}}
[[File:Elderpitt.jpg|thumb|150px|left|ウィリアム・ピット]]
[[1757年]]に七年戦争が勃発し、カンバーランドは偵察軍(Army of Observation)の指揮官となった。これはイギリスが[[ドイツ]]兵を雇って作った軍で、フランスの攻撃からハノーヴァーの軍を守る目的があった<ref>Rolt, p. 498.</ref>。1757年[[7月26日]]、[[ハーメルン]]近くの[[ハステンベックの戦い]]で、カンバーランドの軍は[[ルイ・シャルル・セザール・ル・テリエ (デストレ公爵)|デストレ公爵]]の特別部隊に敗北した。戦闘の終盤に向けてはカンバーランドに有利に展開したものの、軍は退却を始めた。射程に入るまで敵を撃つなという規律は崩壊し、軍勢はばらばらになって北を目指した。カンバーランドは海軍が兵員と物資を持ってきて、それによって再集合と反撃が望めると期待したが、イギリス軍はカンバーランドに支援をする代わりに、[[ロシュフォール襲撃]]の準備に入っていた。その軍が、カンバーランドの支援に派遣されるべきという意見があったのに、それは実現しなかったのである<ref>Anderson, p. 177.</ref>。

1757年9月までに、カンバーランドとその軍勢は、[[北海]]沿岸の[[スタード]]の城塞に退いた。国王ジョージ2世は、カンバーランドに、単独講和のために任意で使える軍をよこした。[[ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ|リシュリュー公爵]]指揮下のフランスの包囲を受けたカンバーランドは、[[クローステル・ツェーヴェン協定]]に同意した。1757年[[9月8日]]のツェーヴェン[[修道院]]で、カンバーランド軍は解散させられることになり、ハノーヴァー領の大部分はフランスに占領された<ref>Anderson, p. 211.</ref>。
ロンドンへ戻ったカンバーランドは、講和への交渉を進める許可を事前に得ていたにもかかわらず、父王から手ひどい待遇を受けた。カンバーランドとの謁見で、ジョージ2世は「この息子は私の名を辱め、自らを貶めた」と発言した<ref>Anderson, p. 212; Van der Kiste, p. 206.</ref>。これに対してカンバーランドは、軍やすべての公職から身を引き、私人として生活することにした<ref>Van der Kiste, p. 207.</ref>。

また、1757年にヨーロッパに出陣する際、カンバーランドは[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|ウィリアム・ピット]]と対立しており、戦場に行く見返りとして、ピットを解任してほしいと父王に要請した<ref name="berkshirehistory" />。ピットは一旦退いたが<ref>[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/146401/William-Augustus-duke-of-Cumberland William Augustus, duke of Cumberland (British general)]</ref>、その後復帰した<ref>Borneman, Walter R. THE FRENCH AND INDIAN WAR, New York:Harper Collins Publishers, 2006, p. 73.</ref>。その後、カンバーランドの敗北により、ピットは自由に戦略を立てることができるようになった<ref name="Borneman101">Borneman, p. 101.</ref>。ジョージ2世もピットの考えを受け入れるようになっていた。ピットはハノーファーより[[北アメリカ]]の植民地を優先させており、カンバーランドが目指したヨーロッパの攻防よりも、はるか上を行く構想をピットは立てていたのだった<ref>Borneman, p. 80.</ref>。

この時のカンバーランド軍には[[ジェフリー・アマースト (初代アマースト男爵)|ジェフリー・アマースト]]がいた。アマーストはその後もヨーロッパの戦線にとどまっていたが、[[1758年]]の1月に本国からの指示で[[カナダ]]に出発し、この年の7月に[[ルイブールの戦い (1758年)|ルイブールの戦い]]でフランス軍を破ることになった<ref name="Borneman101" />。

=== 晩年 ===
[[File:Eclipse(horse).jpg|thumb|180px|right|カンバーランドが育成した馬の一頭であるエクリプス]]
カンバーランドの晩年は、[[1760年]][[10月25日]]のジョージ2世崩御により即位した、甥のジョージ3世の治世の始めのころであった。カンバーランドは国王への、最も影響力のある顧問であり、第一次[[チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)|ロッキンガム]][[内閣]]の組閣を手助けした<ref name=odnb/>。閣議は[[ウィンザー]]の彼の住居であるカンバーランドロッジ、またはロンドンでの邸宅であるアッパー・グロブスナー・ストリートのいずれかで開かれた<ref name=odnb/>。デッティンゲンでのけがが完治することはなく、肥満体であった<ref name=odnb/>。[[1760年]]の[[8月]]に[[脳卒中]]を起こし<ref>Van der Kiste, p. 212</ref>、[[1765年]]の[[10月31日]]にロンドンの邸宅で死去した<ref name=odnb/>。遺体は[[ウェストミンスター寺院]]の[[ヘンリー七世礼拝堂]]の、[[身廊]](ネーブ)の下に埋葬された<ref>Stanley, p.200</ref>。カンバーランドは未婚であった<ref name=odnb/>。

カンバーランド公位は一旦消滅し、後に甥の[[ヘンリー・フレデリック (カンバーランド公)|ヘンリー・フレデリック]]が、再度設けられたカンバーランド公爵に叙された<ref>[http://www.hereditarytitles.com/Page34.html HRH The duke of Cumberland and Teviotdale]</ref>。

=== 競走馬の生産 ===
カンバーランドは[[競走馬]]生産に力を入れ、1750年からウィンザーで馬産を始めた<ref>[http://www.tbheritage.com/Portraits/Herod.html Herod]</ref>。[[ヘロド (競走馬)|ヘロド]]、[[エクリプス (競走馬)|エクリプス]]といった[[サラブレッド]]前史における最重要とも言える名馬を送り出したことはカンバーランドの功績であり、現代競馬に多大な貢献をしたと言える<ref>[http://specialweek.gozaru.jp/horses/herod.html ヘロド]</ref>。

== グレートブリテン王国の称号、栄典そして公式紋 ==
===称号===
* ウィリアム王子殿下<ref name="gaz" />
* カンバーランド公爵殿下<ref name="gaz" />

=== 栄典 ===
[[File:Arms of William Augustus, Duke of Cumberland.svg|thumb|150px|カンバーランドの公式紋章]]
'''グレートブリテン王国の栄典'''
* [[ガーター勲爵士]] (1730年)<ref name=odnb/>
* [[バス勲爵士]](1725年)<ref name=Kiste78/>
* [[枢密顧問官]](1742年)<ref>{{LondonGazette|issue=8119|supp=|page=1|date=15 May 1742|accessdate=5 May 2012}}</ref>

'''学問関連'''
* [[ダブリン大学]][[総長]](1751年-1765年)<ref>{{cite web|url=http://www.tcd.ie/chancellor/former/|title=Former Chancellors|publisher=University of Dublin|accessdate=5 May 2012}}</ref>

=== 公式紋 ===
1725年[[7月20日]]、君主の孫として、カンバーランドはグレートブリテン王国の[[公式紋]]の使用を許可された。この時の紋章は、銀の地に5つの星、真ん中の星に赤の十字、、それ以外の星は赤のカントン(盾)を背景にしている。[[1727年]][[8月30日]]には、王子の公式紋の使用を許可された。それには星が3つ、中央の星に十字があしらわれている<ref>{{cite web|author=Francois R. Velde |url=http://www.heraldica.org/topics/britain/cadency.htm |title=Marks of Cadency in the British Royal Family |publisher=Heraldica.org |date= |accessdate=2010-06-21}}</ref>。

== 後年へ遺されたもの ==
[[Image:CumberlandObelisk.jpg|thumb|120px|right|ウィンザー・グレートパークのオベリスク]]
[[ヴァージニア]]の[[プリンス・ウィリアム郡]]は彼の名にちなむ<ref>{{cite web|url=http://capitolwords.org/date/2006/09/29/E1975-2_commemorating-the-275th-anniversary-of-prince-will/|title=Commemorating the 275th anniversary of Prince William County, Virginia|publisher=Sunlight Foundation|accessdate=5 May 2012}}</ref>。[[13植民地|アメリカ植民地]]には、他にもさまざまなところで彼にちなんだ地名があり、[[カンバーランド川]]<ref>{{cite web|url=http://historicalmarkers.photoshelter.com/image/I0000j6uhnukVrCw|title=KY-2045 Naming of the Cumberland River|publisher=Historical markers|accessdate=5 May 2012}}</ref>、[[カンバーランド峡谷]]<ref>{{cite web|url=http://historicalmarkers.photoshelter.com/image/I0000cXU4MXgbB00|title=VA-K1 Cumberland Gap|publisher=Historical markers|accessdate=5 May 2012}}</ref>、[[カンバーランド山脈]]などがある<ref>{{cite web|url=http://www.1911encyclopedia.org/Cumberland_Mountains|title=1911 Classic Encyclopedia|accessdate=5 May 2012}}</ref>。[[2005年]]には、{{仮リンク|BBCヒストリーマガジン|en|BBC History}}の'''イギリス史上最悪の人物賞'''の[[18世紀]]部門賞を「受賞」した<ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/1/low/uk/4561624.stm |title='Worst' historical Britons list |publisher=BBC News |date=2005-12-27 |accessdate=2010-06-21}}</ref>。{{要出典範囲|彼の伝記が[[1766年]]および[[1876年]]に出版された|date=2012年9月}}。

[[スコットランド]]の[[ネス湖]]岸の集落[[フォート・オーガスタス]]は、カンバーランド公にちなんで命名された砦の名称が地名となったものである<ref>{{cite web|url=http://www.highlandclubscotland.co.uk/the-fort-history|title=The Fort|publisher=Highland Club Scotland|accessdate=2013-03-04}}</ref>。

[[ウィンザー・グレートパーク]]には、カンバーランドの軍功を記念した[[オベリスク]]がある。このオベリスクにはこう刻まれている。「このオベリスクは国王ジョージ2世の、王子カンバーランド公爵ウィリアムの戦功と父王への謝意を記念するという命令により建立された。この[[銘板]]は国王[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世陛下]]により刻まれた」とある。現地のガイドによると、元々は「カロデン」の地名が入っていたが、[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]がカロデンの地名を撤去させたということである<ref>East Berks Ramblers Map, ISBN 978-1-874258-18-6</ref>。

== 脚注 ==
{{Reflist|3}}

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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
22行目: 157行目:
* [[カンバーランド川]]
* [[カンバーランド川]]


== 外部リンク ==
{{DEFAULTSORT:ういりあむ おかすたす}}
* [http://www.highlanderweb.co.uk/culloden/theduke.htm Culloden - The Black Watch]
[[Category:イギリスの王族]]
* [http://www.yourphotocard.com/Ascanius/Home.htm Ascanius; or, the Young Adventurer]
[[Category:イギリス海軍の軍人]]
* {{UK National Archives ID|F71108}}
* {{UK National Archives ID|F257997}}
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[[ru:Уильям Август, герцог Кумберлендский]]
[[sv:Prins Vilhelm, hertig av Cumberland]]

2024年10月6日 (日) 09:09時点における最新版

ウィリアム・オーガスタス
William Augustus
カンバーランド公
ウィリアム・オーガスタス
在位 1726年7月27日 - 1765年10月31日

身位 グレートブリテン王子、公爵
敬称 His Royal Highness, The Duke of Cumberland
出生 (1721-04-26) 1721年4月26日
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国ロンドンレスターハウス
死去 (1765-10-31) 1765年10月31日(44歳没)
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国、ロンドン
埋葬 グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国ウエストミンスター寺院
家名 ハノーヴァー家
父親 ジョージ2世
母親 キャロライン・オブ・アーンズバック
役職 イギリス陸軍将校他
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カンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタス: William Augustus, Duke of Cumberland, 1721年4月26日 - 1765年10月31日)は、イギリス王族軍人である。イギリス国王ジョージ2世キャロライン・オブ・アーンズバックの3男として生まれ、1726年カンバーランド公に叙された。

一般には、ジャコバイト蜂起による1746年カロデンの戦いの鎮圧で有名であり、「屠殺者カンバーランド」という渾名でも知られている。カロデンの戦いの後の軍事経歴は華麗ではあったがことごとく失敗に終わり、1757年クローステル・ツェーヴェン協定の後は戦場に赴くことはなく、政治と競馬に関心を向けた。

生涯

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幼年時代

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幼少時のカンバーランド

1721年、レスターフィールズ(現在のウェストミンスターレスター・スクウェア)のレスターハウスで生まれた。ここは祖父であるジョージ1世がイギリス国王として即位した後に両親が移り住んだ場所であった[1]。ウィリアムには名親プロイセンフリードリヒ・ヴィルヘルム1世ゾフィー王妃(ウィリアムの父方の叔母)がいたが、王や王妃自身ではなく代理の人物が務めたといわれる[2]。1726年7月27日[3]、わずか4歳にしてカンバーランド公、ハートフォード・カウンティバークハムステッド侯爵サリーケニングトン伯爵コーンウォール・カウンティトレメイトン子爵、そしてオルダニー島の男爵に叙された[4]ジョージ2世はカンバーランドを溺愛し、長男である王太子フレデリック・ルイスジョージ3世の父)以上に遺産を残そうと考えていたともいわれる[要出典]

幼いカンバーランドは母キャロラインが家庭教師としてエドモンド・ハレーを雇ったこともあり[5]、質の高い教育を受けた。他の家庭教師(時に応じてカンバーランドの代理人でもあった)としては、母のお気に入りのアンドリュー・フォンテーヌがいた[6]ハンプトン・コート宮殿には、ウィリアム・ケントによって、彼のために広く立派な部屋が作られた[7]。長兄の王太子フレデリック・ルイスはカンバーランドと国王の所領を分け合うことを提案し、フレデリックはイギリス、カンバーランドはハノーファーをと持ちかけたが、結局無に帰した[8]

カンバーランドは子供の頃から勇敢であり、肉体的な能力にもすぐれていて、それが両親のお気に入りだった[9]。4歳の時に第二歩兵近衛連隊に登録され、バス勲章を授与された[10]。国王夫妻はカンバーランドを海軍本部に入れるつもりだった。1740年、カンバーランドは志願兵としてジョン・ノリス指揮下の艦隊で、1740年にはジェンキンスの耳の戦争などの戦闘に参加した[要出典]が、すぐに海軍に嫌気がさし、代わりに、1741年2月20日第一近衛歩兵連隊大佐の地位を約束された[11]

オーストリア継承戦争

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カンバーランドが初めて指揮を執ったフォントノワの戦い

1742年、カンバーランドは陸軍少将となり、翌1743年に初めて自らが戦う戦場を目の当たりにした[1]。勇猛な息子(martial boy)といわれたカンバーランドはデッティンゲンの戦いの勝利を父と分かち合い[12]、この戦いで脚にマスケット銃によるけがを負った[1]が、戦後陸軍中将に就任した[13]

フランス軍元帥モーリス・ド・サックス

1745年、カンバーランドはイギリス陸軍総司令官の称号を得て、経験がなかったにもかかわらず、フランドルでイギリスとハノーファー、オーストリアオランダ連合軍の総指揮を執った。当初カンバーランドはフランスに攻撃を仕掛け、パリ攻略に持って行く流れを作りたがったが、顧問の軍人達から敵軍が圧倒的な数的優勢に立っているため、不可能であると説得された[14]。やがてフランス側の意図がトゥルネーを取ることであることが明らかになり、カンバーランドはモーリス・ド・サックス元帥が包囲しているこの町の救援に向かった[15]が、1745年5月11日フォントノワの戦いの結果、イギリス・オランダ・オーストリア連合軍はフランスに敗れた。

敗因はサックスがイギリス軍相手に戦場を選び、近くの森に狙撃兵を多数配備したのに対し、カンバーランドは作戦計画を立てた時点で森に兵が隠れているという脅威を無視しており、代わりにフォントノワの包囲に専心して、近くにいたフランス軍の主軍に攻撃を仕掛けたことと、フランスの拠点への攻撃の集中で、連合軍が勝つだろうと多くが思ったにもかかわらず森から狙撃兵を追わなかったこと、フォントノワを陥落させようとするオランダ軍のために、カンバーランドの兵が撤退せざるを得なくなったことなどであった。

この戦いの後カンバーランドはしばしば戦術を批判され、特に森を押さえておかなかったことが批判の対象になった[16]。この戦いが終わらないうちにカンバーランドはブリュッセルに退却せざるを得なくなり、ゲントブルージュオーステンデの陥落を阻止することは不可能になった[17]

ジャコバイトの反乱

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カンバーランドは、当時のイギリスの将軍では主導的立場にあり、1745年のジャコバイト蜂起で、チャールズ・エドワード・ステュアート(若王位僭称者)の王位奪取を断固阻止する任務を請け負った。カンバーランドの就任は人望を集め、国民と部隊との士気を高めた[18]

フランドルから召喚されて以来、カンバーランドはこの反乱を抑えるための準備を続けてきた、ジャコバイト軍はイングランドに向けて南進しており、イングランドのジャコバイトが蜂起して彼らに合流することを望んでいた。しかしマンチェスター連隊のような限られた支援しか受けられず、ジャコバイト軍はスコットランドに撤退した[19]

カンバーランドはジョン・リゴンアー英語版指揮下のミッドランド軍に加わり、敵の追跡を始めた。ジャコバイト軍がダービーから北へと撤退をはじめたからである[1]。1745年12月ペンリスに着いたところで、ミッドランド軍の先方部隊がクリフトン・ムーアに撃退され、カンバーランドは撤退中のスコットランド軍に追いつく望みはないことに気付いた[20]カーライルを取り戻した後、カンバーランドはロンドンに召還された。ロンドンでは、フランスの侵略を想定しての対戦の準備が進められていた[1] 。1746年1月の、カンバーランドの代わりに指揮を執ったヘンリー・ハウリーの敗北は、イングランド国民の恐怖を掻き立てた。この時、雨あられと降りかかる拳銃の弾の中で、80人の竜騎兵が倒れて行った。これがフォルカーク・ミューアの戦いである[21]

カロデンの戦い

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カンバーランド・ストーン。カンバーランドがこの上で、カロデンの戦いの成り行きを見守ったと言われる。

1746年1月30日にカンバーランドはエディンバラに着き、すぐにチャールズの探索に入った。アバディーンまで遠回りをして[22]、来たる戦闘で彼の指揮下となる、装備を整えた部隊の鍛錬に時間を費やした。カンバーランドの鍛錬は、まず、射程内に敵が入るまで射撃を行わないこと、一度射撃すると敵の右側を銃剣で突くことだった。こうすることで、相手の剣を掲げた腕の下に入るからだった[23]

1746年の4月8日、カンバーランドはアバディーンを出発してインヴァネスに向かい、4月16日に天王山ともいうべきカロデンの戦いを戦い、チャールズを完敗させた[19]。カンバーランドは兵たちに、ジャコバイトの反逆者の残党に対して、容赦ない攻撃を加えるように命令した(このジャコバイト軍では、フランス軍の兵や、イギリスやアイルランド生まれの者も正規な兵士とされていた)。カンバーランドの軍は戦場をくまなく歩き回り、まだ息のある敵兵を突いて去って行った[24]。カンバーランドは、足元に横たわっている負傷兵が反乱軍であると知り、少佐にその者を撃つように命じた。少佐が命令を拒むと、一兵卒にその任務を果たすよう命じた[24]

その後イギリス軍は、ハイランドのジャコバイトが支配する地域でのいわゆる「平和活動」に乗り出した。反乱軍はみな殺され、兵士でないものも殺された。反乱軍に関係した集落は焼かれ、家畜は大々的に没収された[25]。100人以上の反逆者が絞首刑にされた[26]。女たちは投獄され、多くの人間が裁判のため船でロンドンに運ばれたが、8か月に及ぶ旅の途中でその多くが死んだ[24]

屠殺者カンバーランド

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王太子フレデリック・ルイス

「屠殺者」は、政治がらみの皮肉として、ロンドンで最初に記録に残されたものである[27][28]。兄で王太子のフレデリック・ルイスは、父王の代理で従軍する許可が下りておらず、カンバーランドへの悪意のある攻撃を奨励しているようにも見えた。カンバーランドによって、すぐに戦争が終わったと言っても過言ではない。スコットランド住民の大部分、そのスコットランド人以外のイギリス国民、そして植民地の住人が、ジャコバイトの威嚇からの救世主として彼を持てはやした。その一例として、カンバーランドはグラスゴー大学から、名誉学位を授与されていた[28]

カンバーランドは野営地にかなり厳しい規律を設けていた。彼は任務と判断したことを実践する際、兵をえこひいきせずに使った。そうでありながら、彼の注意を引くような特殊な場合には、温情的に自らの影響力を行使した。何年か後、ジェームズ・ウルフがカンバーランドについてこう述べている。「公はいつも高貴で寛大な人物である」カンバーランドの勝利の効果は、年間2万5千ポンドの支出がなされることが決定したこと、さらにその上王室費からも経費が出ることが認められた[29]。またウルフやコンウェイには、カンバーランドがパトロンとなっていた[30]。この勝利の、神への感謝の祈りがセントポール寺院で捧げられ、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルが、特にカンバーランドのために作曲したユダス・マカベウス(征服せし英雄)が初演された[31]

敗北と幼君の補佐

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1746年のフランドル方面作戦にはカンバーランドは参戦しなかった。この時フランスはブリュッセル包囲へ大きく前進し、ロクールの戦いで連合軍を破った。翌1747年、カンバーランドは大陸へ戻って、連勝を続けているサックスにもう一度戦いを挑み、1747年7月2日、ラウフフェルトの戦い(ヴァルの戦い)で大敗を喫した。ここはマーストリヒトの近くであった[32] 。この戦いとベルヘン・オプ・ゾーム攻囲戦で、両軍は交渉の席に着き、1748年アーヘンの和約が結ばれて、カンバーランドは帰国した[33]

カロデンの戦い以降、カンバーランドの人気は下り坂となって行った。これが政治で名を成すことへの妨げになった。フレデリック・ルイスの死によって、その王子であるジョージが次の国王に決まり、カンバーランドは、摂政の地位が可能であったにもかかわらず、その地位に自分がふさわしいと主張することができなかった。妥協策として、摂政の地位は、王太子未亡人のオーガスタに付与された。オーガスタはカンバーランドを敵とみなしていたが、彼女の権力は大きいものではなく、12人から成る委員会の助言を受けることになった。その委員会の筆頭委員はカンバーランドだった[34]

七年戦争

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ウィリアム・ピット

1757年に七年戦争が勃発し、カンバーランドは偵察軍(Army of Observation)の指揮官となった。これはイギリスがドイツ兵を雇って作った軍で、フランスの攻撃からハノーヴァーの軍を守る目的があった[35]。1757年7月26日ハーメルン近くのハステンベックの戦いで、カンバーランドの軍はデストレ公爵の特別部隊に敗北した。戦闘の終盤に向けてはカンバーランドに有利に展開したものの、軍は退却を始めた。射程に入るまで敵を撃つなという規律は崩壊し、軍勢はばらばらになって北を目指した。カンバーランドは海軍が兵員と物資を持ってきて、それによって再集合と反撃が望めると期待したが、イギリス軍はカンバーランドに支援をする代わりに、ロシュフォール襲撃の準備に入っていた。その軍が、カンバーランドの支援に派遣されるべきという意見があったのに、それは実現しなかったのである[36]

1757年9月までに、カンバーランドとその軍勢は、北海沿岸のスタードの城塞に退いた。国王ジョージ2世は、カンバーランドに、単独講和のために任意で使える軍をよこした。リシュリュー公爵指揮下のフランスの包囲を受けたカンバーランドは、クローステル・ツェーヴェン協定に同意した。1757年9月8日のツェーヴェン修道院で、カンバーランド軍は解散させられることになり、ハノーヴァー領の大部分はフランスに占領された[37]。 ロンドンへ戻ったカンバーランドは、講和への交渉を進める許可を事前に得ていたにもかかわらず、父王から手ひどい待遇を受けた。カンバーランドとの謁見で、ジョージ2世は「この息子は私の名を辱め、自らを貶めた」と発言した[38]。これに対してカンバーランドは、軍やすべての公職から身を引き、私人として生活することにした[39]

また、1757年にヨーロッパに出陣する際、カンバーランドはウィリアム・ピットと対立しており、戦場に行く見返りとして、ピットを解任してほしいと父王に要請した[30]。ピットは一旦退いたが[40]、その後復帰した[41]。その後、カンバーランドの敗北により、ピットは自由に戦略を立てることができるようになった[42]。ジョージ2世もピットの考えを受け入れるようになっていた。ピットはハノーファーより北アメリカの植民地を優先させており、カンバーランドが目指したヨーロッパの攻防よりも、はるか上を行く構想をピットは立てていたのだった[43]

この時のカンバーランド軍にはジェフリー・アマーストがいた。アマーストはその後もヨーロッパの戦線にとどまっていたが、1758年の1月に本国からの指示でカナダに出発し、この年の7月にルイブールの戦いでフランス軍を破ることになった[42]

晩年

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カンバーランドが育成した馬の一頭であるエクリプス

カンバーランドの晩年は、1760年10月25日のジョージ2世崩御により即位した、甥のジョージ3世の治世の始めのころであった。カンバーランドは国王への、最も影響力のある顧問であり、第一次ロッキンガム内閣の組閣を手助けした[1]。閣議はウィンザーの彼の住居であるカンバーランドロッジ、またはロンドンでの邸宅であるアッパー・グロブスナー・ストリートのいずれかで開かれた[1]。デッティンゲンでのけがが完治することはなく、肥満体であった[1]1760年8月脳卒中を起こし[44]1765年10月31日にロンドンの邸宅で死去した[1]。遺体はウェストミンスター寺院ヘンリー七世礼拝堂の、身廊(ネーブ)の下に埋葬された[45]。カンバーランドは未婚であった[1]

カンバーランド公位は一旦消滅し、後に甥のヘンリー・フレデリックが、再度設けられたカンバーランド公爵に叙された[46]

競走馬の生産

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カンバーランドは競走馬生産に力を入れ、1750年からウィンザーで馬産を始めた[47]ヘロドエクリプスといったサラブレッド前史における最重要とも言える名馬を送り出したことはカンバーランドの功績であり、現代競馬に多大な貢献をしたと言える[48]

グレートブリテン王国の称号、栄典そして公式紋

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称号

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  • ウィリアム王子殿下[4]
  • カンバーランド公爵殿下[4]

栄典

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カンバーランドの公式紋章

グレートブリテン王国の栄典

学問関連

公式紋

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1725年7月20日、君主の孫として、カンバーランドはグレートブリテン王国の公式紋の使用を許可された。この時の紋章は、銀の地に5つの星、真ん中の星に赤の十字、、それ以外の星は赤のカントン(盾)を背景にしている。1727年8月30日には、王子の公式紋の使用を許可された。それには星が3つ、中央の星に十字があしらわれている[51]

後年へ遺されたもの

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ウィンザー・グレートパークのオベリスク

ヴァージニアプリンス・ウィリアム郡は彼の名にちなむ[52]アメリカ植民地には、他にもさまざまなところで彼にちなんだ地名があり、カンバーランド川[53]カンバーランド峡谷[54]カンバーランド山脈などがある[55]2005年には、BBCヒストリーマガジン英語版イギリス史上最悪の人物賞18世紀部門賞を「受賞」した[56]彼の伝記が1766年および1876年に出版された[要出典]

スコットランドネス湖岸の集落フォート・オーガスタスは、カンバーランド公にちなんで命名された砦の名称が地名となったものである[57]

ウィンザー・グレートパークには、カンバーランドの軍功を記念したオベリスクがある。このオベリスクにはこう刻まれている。「このオベリスクは国王ジョージ2世の、王子カンバーランド公爵ウィリアムの戦功と父王への謝意を記念するという命令により建立された。この銘板は国王ウィリアム4世陛下により刻まれた」とある。現地のガイドによると、元々は「カロデン」の地名が入っていたが、ヴィクトリア女王がカロデンの地名を撤去させたということである[58]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k Prince William, Duke of Cumberland”. Oxford Dictionary of National Biography. 5 May 2012閲覧。
  2. ^ Yvonne's Royalty Home Page: Royal Christenings”. Users.uniserve.com. 2010年6月21日閲覧。
  3. ^ Yvonne's Royalty: Peerage”. Mypage.uniserve.ca. 2010年6月21日閲覧。
  4. ^ a b c "No. 6494". The London Gazette (英語). 12 July 1726. p. 1. 2012年5月5日閲覧
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  6. ^ "No. 6382". The London Gazette (英語). 15 June 1725. p. 2. 2012年5月5日閲覧
  7. ^ Thurley p. 279
  8. ^ Van der Kiste, p. 150 (1736 plan suggested by Prince of Wales)
  9. ^ Van der Kiste, p. 111
  10. ^ a b Van der Kiste, p. 78
  11. ^ "No. 8094". The London Gazette (英語). 16 February 1741. p. 2. 2012年5月5日閲覧
  12. ^ "No. 8286". The London Gazette (英語). 20 December 1743. p. 2. 2012年5月5日閲覧
  13. ^ "No. 8240". The London Gazette (英語). 12 July 1743. p. 4. 2012年5月5日閲覧
  14. ^ Browning p. 206
  15. ^ Browning p. 212
  16. ^ Browning pp. 207-213
  17. ^ Browning p. 219
  18. ^ Longmate p. 155
  19. ^ a b Pollard p.41-42
  20. ^ Clifton skirmish”. Paisley Tartan Army. 5 May 2012閲覧。
  21. ^ Tomasson, p 119
  22. ^ "No. 8521". The London Gazette (英語). 22 March 1746. p. 2. 2012年5月5日閲覧
  23. ^ Bellesiles, p.145
  24. ^ a b c Thompson, p.519
  25. ^ Plank, p.116
  26. ^ Clee, p.42
  27. ^ The Letters of Horace Walpole, Volume 1 by Horace Walpole Part 15 out of 18”. Fullbooks.com. 2010年6月21日閲覧。
  28. ^ a b Encyclopædia Britannica. “Encyclopadia Britannica”. Britannica.com. 2010年6月21日閲覧。
  29. ^ W. A. Speck, "William Augustus, Prince, duke of Cumberland (1721?1765)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, Sept 2004; online edn, Jan 2008, accessed 16 Oct 2009.
  30. ^ a b http://www.berkshirehistory.com/bios/cumberland.html RBH Biography: Prince William Augustus,Duke of Cumberland (1721-1765)]
  31. ^ Speck, p. 170.
  32. ^ Stanhope, p. 334
  33. ^ Sosin, p.516-535
  34. ^ Van der Kiste, p. 195
  35. ^ Rolt, p. 498.
  36. ^ Anderson, p. 177.
  37. ^ Anderson, p. 211.
  38. ^ Anderson, p. 212; Van der Kiste, p. 206.
  39. ^ Van der Kiste, p. 207.
  40. ^ William Augustus, duke of Cumberland (British general)
  41. ^ Borneman, Walter R. THE FRENCH AND INDIAN WAR, New York:Harper Collins Publishers, 2006, p. 73.
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  44. ^ Van der Kiste, p. 212
  45. ^ Stanley, p.200
  46. ^ HRH The duke of Cumberland and Teviotdale
  47. ^ Herod
  48. ^ ヘロド
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  51. ^ Francois R. Velde. “Marks of Cadency in the British Royal Family”. Heraldica.org. 2010年6月21日閲覧。
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  54. ^ VA-K1 Cumberland Gap”. Historical markers. 5 May 2012閲覧。
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  56. ^ 'Worst' historical Britons list”. BBC News (2005年12月27日). 2010年6月21日閲覧。
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参考文献

[編集]
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  • Clee, Nicholas (2011). Eclipse. Black Swan. ISBN 978-0-552-77442-0 
  • Longmate, Norman (2001). Island Fortress: The Defence of Great Britain, 1603-1945. Pimlico. ISBN 978-0-09-174837-1 
  • Oates, Jonathan: Sweet William or the Butcher? The Duke of Cumberland and the '45, Barnsley 2008.
  • Philipps, Wolfgang: Welfen-Prinz Wilhelm August: Lieblingssohn und schottisches Hassbild, in: Lehrter Land & Leute: Magazin zur Geschichte, Kultur und Heimatkunde, Vol. 41 (2014), p. 35-37.
  • Pollard, Tony (2009). Culloden: The History and Archaeology of the last Clan Battle. Pen & Sword Military. ISBN 978-1-84884-020-1 
  • Rolt, Richard (1767). Historical memoirs of His late Royal Highness William-Augustus, Duke of Cumberland 
  • Sosin, Jack (1957). Louisburg and the Peace of Aix-la-Chapelle, 1748. The William and Mary Quarterly, Third Series, Vol. 14, No. 4 
  • Speck, William (1995). The Butcher: The Duke of Cumberland and the Suppression of the 45. Welsh Academic Press. ISBN 978-1-86057-000-1 
  • Stanhope, Phillip (2002). History of England from the Peace of Utrecht to the Peace of Versailles: 1713 - 1783: Volume 4 : 1748-1763. Adamant Media Corporation. ISBN 978-0-543-67669-6 
  • Stanley, Arthur (2008). Historical memorials of Westminster Abbey. BiblioBazaar. ISBN 978-0-559-69153-9 
  • Tomasson, Katherine (1974). Battles of the '45. Pan Books 
  • Thompson, Arthur (1865). The Victoria history of England: from the landing of Julius Caesar, B.C. 54 to the marriage of H.R.H. Albert Edward Prince of Wales A.D. 1863. Routledge, Warne and Routledge 
  • Thurley, Simon (2003). Hampton Court: A Social and Architectural History. Yale University Press. ISBN 978-0-300-10223-9 
  • Van der Kiste, John (1997). George II and Queen Caroline. Sutton Publishing. ISBN 0-7509-1321-5 
  •  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Cumberland, William Augustus, Duke of". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 7 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 623-624.
  • Whitworth, Rex: William Augustus, Duke of Cumberland: a life, London 1992.

参考図書

[編集]
  • Henderson, Andrew (1766). A Life of the Duke of Cumberland 
  • Maclachlan, Campbell (1876). William Augustus, Duke of Cumberland 
  • Whitworth, Rex (1992). William Augustus Duke of Cumberland: A Life. Pen & Sword Books Ltd. ISBN 978-0-85052-354-6 

関連項目

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外部リンク

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ウィリアム・オーガスタス
ハノーヴァー家
ヴェルフ家分家

1721年4月26日 - 1765年10月31日

軍職
先代
サー・チャールズ・ウィリス
第一近衛歩兵連隊大佐
1742年 - 1757年
次代
リゴニア伯爵
空位
最後の在位者
マールバラ公爵
イギリス陸軍総司令官
1744年 - 1757年
空位
次代の在位者
ヨーク・オールバニ公爵
先代
ジョージ・ウェイド
イギリス陸軍最高指揮官
1745年 - 1757年
次代
リゴニア伯爵
学職
先代
シャンドス公爵
セント・アンドルーズ大学名誉理事長英語版
1746年 - 1765年
次代
キノール伯爵
先代
プリンス・オブ・ウェールズ
ダブリン大学名誉理事長英語版
1751年 - 1765年
次代
ベッドフォード公爵
イギリスの爵位
新設 カンバーランド公
1726年 - 1765年
断絶