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⚫ | '''大同盟戦争'''(だいどうめいせんそう、[[1688年]] - [[1697年]])は、膨張政策をとる[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]と[[アウクスブルク同盟]]に結集した欧州諸国との戦争。'''アウクスブルク同盟戦争'''とも'''九年戦争'''、'''プファルツ戦争'''('''プファルツ継承戦争''')ともいう。主戦場となったのは[[ドイツ]]の[[ラインラント|ライン地方]]や[[南ネーデルラント|スペイン領ネーデルラント]]( |
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| battle_name = 大同盟戦争 |
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| image = [[File:Siege of Namur (1692).JPG|180px]] |
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| caption = ナミュール包囲戦(1692年) |
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| conflict = 大同盟戦争 |
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| date = [[1688年]] - [[1697年]] |
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| place = [[ベルギー]]、[[ドイツ]]、[[イタリア]] |
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| result = [[レイスウェイク条約]]の締結 |
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| combatant1 = [[File:Flag of England.svg|25px]] [[イングランド王国]]<br />{{NLD1581}}<br />{{HRR}}<br />[[ハプスブルク君主国]]<br />[[ファイル:Flag of New Spain.svg|25px]] [[スペイン帝国|スペイン]]<br />[[ファイル:Savoie flag.svg|25px]] [[サヴォイア公国]]<br />[[File:Sweden-Flag-1562.svg|25px]] [[スウェーデン]] |
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| combatant2 = [[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[フランス王国]]<br />[[ジャコバイト]] |
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| commander1 = [[File:Flag of England.svg|25px]][[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]<br />[[File:Flag of England.svg|25px]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|マールバラ伯ジョン・チャーチル]]<br />[[ファイル:Prinsenvlag.svg|25px]][[ゲオルク・フリードリヒ (ヴァルデック=アイゼンベルク侯)|ヴァルデック侯ゲオルク・フリードリヒ]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[シャルル5世 (ロレーヌ公)|ロレーヌ公シャルル5世]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|バイエルン選帝侯マクシミリアン2世]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[ルートヴィヒ・ヴィルヘルム (バーデン=バーデン辺境伯)|バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルム]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[アエネアス・シルウィウス・カプラーラ|アエネアス・カプラーラ]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]<br />[[ファイル:Savoie flag.svg|25px]][[ヴィットーリオ・アメデーオ2世]]<br />[[ファイル:Flag of New Spain.svg|25px]]カスターニャ侯フランシスコ・アントニオ・デ・アグルト |
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| commander2 = [[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[フランソワ・アンリ・ド・モンモランシー (リュクサンブール公)|リュクサンブール公フランソワ・アンリ]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ヴォーバン]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ルイ・ド・クルヴァン (ユミエール公)|ユミエール公ルイ・ド・クルヴァン]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ルイ・フランソワ・ド・ブーフレール|ブーフレール公ルイ・フランソワ]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ニコラ・カティナ]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[アンヌ・ジュール・ド・ノアイユ|ノアイユ公アンヌ・ジュール]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ジャック・アンリ・ド・デュルフォール (デュラス公)|デュラス公ジャック・アンリ]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[フランソワ・ド・ヌフヴィル (ヴィルロワ公)|ヴィルロワ公フランソワ・ド・ヌフヴィル]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン|ヴァンドーム公ルイ・ジョゼフ]]<br />[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]<br />[[リチャード・タルボット (初代ティアコンネル伯)|ティアコンネル伯リチャード・タルボット]] |
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⚫ | '''大同盟戦争'''(だいどうめいせんそう、[[1688年]] - [[1697年]])は、膨張政策をとる[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]と[[アウクスブルク同盟]]に結集した欧州諸国との戦争。'''アウクスブルク同盟戦争'''とも'''九年戦争'''、'''プファルツ戦争'''('''プファルツ継承戦争''')ともいう。主戦場となったのは[[ドイツ]]の[[ラインラント|ライン地方]]や[[南ネーデルラント|スペイン領ネーデルラント]](現在の[[ベルギー]]一帯)で、[[アイルランド王国|アイルランド]]や[[イタリア]]、[[スペイン]]北部、[[北アメリカ]]にも拡大した。アイルランドではしばしば[[ウィリアマイト戦争]]と呼ばれ、北アメリカでは[[ウィリアム王戦争]]と呼ばれる。 |
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== 前史 == |
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当時、フランス王国は欧州最強の[[軍隊]]を有しており、ルイ14世はこの軍事力を背景にスペイン領ネーデルラントの領有を狙って[[ネーデルラント継承戦争]]を起こし、[[ネーデルランド連邦共和国]]([[オランダ]])に圧力をかけられて和睦を結ばされると報復として[[オランダ侵略戦争]]を発生させた。いずれも大した成果を挙げられなかったが、[[フランシュ=コンテ地域圏|フランシュ=コンテ]]とネーデルラントの都市を獲得、国内における名声を高めた。しかし、膨張政策を続けるルイ14世は[[1678年]]から[[1683年]]にかけてフランス東部の継承を一方的に主張、武力行使で併合する領土拡大政策を採用して[[ルクセンブルク]]と[[ストラスブール]]を併合、[[1685年]]に[[フォンテーヌブローの勅令]]を発令して[[プロテスタント]]を国内から追放したことは諸国の警戒を呼び起こした。 |
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当時、フランス王国は欧州最強の[[軍隊]]を有しており、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]が[[オスマン帝国]]と[[バルカン半島]]で死闘を繰り広げている([[大トルコ戦争]])のを見たルイ14世は、[[イングランド王国|イングランド]]王[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]を抱き込み、次第に欧州侵略の意図を露わにしていった。このため、オーストリア、ドイツ諸侯、[[スペイン帝国|スペイン]]、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]、[[バルト帝国|スウェーデン]]などの諸国は[[1686年]]、アウクスブルク同盟を結成してフランスに対抗した。スウェーデンは大同盟戦争には直接参戦せず、[[中立]]を通したが、アウクスブルク同盟国を支援し、[[平和条約|講和条約]]締結に関わった。 |
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[[1685年]]、[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]][[カール2世 (プファルツ選帝侯)|カール2世]]が死去すると遠縁の[[プファルツ=ノイブルク公]][[フィリップ・ヴィルヘルム (プファルツ選帝侯)|フィリップ・ヴィルヘルム]]が継承したが、ルイ14世は弟の[[オルレアン公]][[フィリップ1世 (オルレアン公)|フィリップ1世]]の妃[[エリザベート・シャルロット・ド・バヴィエール|エリザベート・シャルロット]](カール2世の妹)のプファルツ継承権を主張、[[1686年]]に[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]、ドイツ諸侯、[[スペイン帝国|スペイン]]、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]、[[バルト帝国|スウェーデン]]などの諸国はアウクスブルク同盟を結成してフランスに対抗した。スウェーデンは大同盟戦争には直接参戦せず[[中立]]を通したが、アウクスブルク同盟国を支援し、[[平和条約|講和条約]]締結に関わった。 |
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一方、オーストリアが1683年の[[第二次ウィーン包囲]]で[[オスマン帝国]]に勝利、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]を制圧して[[バルカン半島]]でオスマン帝国と死闘を繰り広げている([[大トルコ戦争]])のを見たルイ14世は、[[イングランド王国|イングランド]]王[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]を抱き込み、次第に欧州侵略の意図を露わにしていった。これに反発したのはジェームズ2世の甥でオランダ侵略戦争でフランスと戦った[[オランダ総督]]ウィレム3世で、彼はジェームズ2世に反対するイングランドの政治家達と接触、イングランドを反フランスへ引き込むためイングランドへの遠征を決意した。 |
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ルイ14世は[[亡命]]してきたジェームズ2世を先頭に立て、フランス軍を[[アイルランド王国|アイルランド]]に送り込み、アイルランドの反イングランド反乱を煽った。[[1690年]]、ウィリアム3世はイングランド軍を率いて[[ボイン川の戦い]]でフランス・アイルランド連合軍を破り、ジェームス2世は再びフランスに逃れた。[[1692年]]にはイングランド艦隊が[[バルフルール岬とラ・オーグの海戦]]でフランス艦隊に対して大勝利を収めている。 |
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1688年[[6月3日]]、フィリップ・ヴィルヘルムの同族の[[ケルン大司教|ケルン選帝侯]][[マクシミリアン・ハインリヒ・フォン・バイエルン]]が死去すると、ルイ14世が次のケルン選帝侯を決める選挙で[[補佐司教]]の[[ヴィルヘルム・エゴン・フォン・フュルステンベルク]]を擁立、マクシミリアン・ハインリヒの[[いとこ|従甥]]の[[ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルン]]がレオポルト1世に擁立され決着が着かず、ルイ14世は9月に宣戦布告して[[アルザス地域圏|アルザス]]・ストラスブールから[[プファルツ選帝侯領]]、[[ケルン]]、[[マインツ]]など[[ライン川]]地方([[ラインラント]])に侵攻した。同年末にイングランドで[[名誉革命]]が勃発し、ジェームズ2世はフランスに[[亡命]]、反フランスの先頭に立っていたウィレム3世が[[1689年]]、イングランド王[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]としてイングランド王に推戴された。ウィリアム3世のイングランド・オランダは直ちにアウクスブルク同盟に参加、イングランド・オランダを加えた同盟は大同盟とも呼ばれる。翌[[1690年]]にはスペイン、[[サヴォイア公国]]も参加している<ref>成瀬、P10 - P13、長谷川、P134 - P143、友清、P41 - P114、マッケイ、P29 - P32。</ref>。 |
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だが欧州大陸ではフランス軍は[[南ネーデルラント|スペイン領ネーデルラント]]の諸都市を陥落させ、[[プファルツ選帝侯領]]の[[ハイデルベルク]]に侵攻して[[ハイデルベルク城]]を破壊、[[1693年]]には同盟側の[[サヴォイア公国]]を破り、スペイン北東部の[[カタルーニャ州|カタルーニャ]]にも侵入した。劣勢に追い込まれたサヴォイア公[[ヴィットーリオ・アメデーオ2世]]が[[1696年]]、ルイ14世と秘密条約を結んでアウクスブルク同盟から離脱すると、和平機運が広がり、1697年にオランダの[[レイスウェイク]]で[[レイスウェイク条約]]が締結され、戦争はようやく終結した。 |
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== 戦争の経過 == |
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=== 前期(1688年 - 1691年) === |
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ライン川方面に侵攻した[[ジャック・アンリ・ド・デュルフォール (デュラス公)|デュラス公]]・[[ヴォーバン]]指揮下のフランス軍は[[10月29日]]に[[フィリップスブルク (ドイツ)|フィリップスブルク]]を落とし、北上して[[11月11日]]に[[マンハイム]]も陥落、[[ヴォルムス]]・[[シュパイアー]]・[[マインツ]]もフランス軍の前に陥落、マインツから南のライン川流域はフランス軍に制圧された。ドイツ諸侯がライン川方面の救援に向かうと[[ヴュルテンベルク]]に侵入して略奪を働き、翌[[1689年]][[3月2日]]にプファルツ選帝侯領の首都[[ハイデルベルク]]に放火、[[ハイデルベルク城]]を破壊した。マンハイム・ヴォルムス・シュパイアーにも放火した後にフランス軍は一旦退却したが、これは敵に渡った場合、物資調達及び拠点として活用することを防ぐための処置であった。 |
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ライン川から下流で北の[[モーゼル川]]流域は[[ルイ・フランソワ・ド・ブーフレール|ブーフレール]]が進出、[[コブレンツ]]を砲撃したが、ドイツ諸侯の救援により陥落を阻止された。ドイツ諸侯も対策を取る必要に迫られ、モーゼル川流域は[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]][[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ3世]]が、マインツから東のライン川支流・[[マイン川]]流域は[[カレンベルク侯領|カレンベルク侯]](後に[[ハノーファー王国|ハノーファー選帝侯]])[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)|エルンスト・アウグスト]]、[[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]][[ヨハン・ゲオルク3世 (ザクセン選帝侯)|ヨハン・ゲオルク3世]]、[[ヘッセン=カッセル方伯領|ヘッセン=カッセル方伯]][[カール (ヘッセン=カッセル方伯)|カール]]が防衛に回った。 |
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ルイ14世は亡命してきたジェームズ2世を先頭に立て、フランス軍を[[アイルランド王国|アイルランド]]に送り込み、アイルランドの反イングランド反乱を煽った。ウィリアム3世はジェームズ2世と[[リチャード・タルボット (初代ティアコンネル伯)|ティアコンネル伯]]らアイルランドの[[ジャコバイト]]に釘付けにされたが、オランダ軍は[[ヴァルデック侯国|ヴァルデック侯]][[ゲオルク・フリードリヒ (ヴァルデック=アイゼンベルク侯)|ゲオルク・フリードリヒ]]が率いてネーデルラント方面の[[ルイ・ド・クルヴァン (ユミエール公)|ユミエール公]]と対峙、ライン川方面はハンガリーから[[ロレーヌ公]][[シャルル5世 (ロレーヌ公)|シャルル5世]]、[[バイエルン大公|バイエルン選帝侯]][[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン2世]]が引き抜かれ、シャルル5世が帝国軍司令官として進軍した。1690年になるとスペイン・サヴォイアも同盟側に立ったため、フランスは[[アンヌ・ジュール・ド・ノアイユ|ノアイユ公]]、[[ニコラ・カティナ]]をそれぞれスペイン・イタリアへ派遣、軍勢を複数に分散していった。 |
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シャルル5世は5月にコブレンツに軍勢を集結させるとライン川の解放を狙い、9月にマインツを奪還、北上して6月に[[カイゼルヴェルト]]を落としたフリードリヒ3世の軍と合流すると10月に[[ボン]]も降伏させ、冬にデュラスがアルザスへ引き上げたこともありライン川右岸はひとまず帝国側に渡った。ネーデルラントは[[8月25日]]にユミエール率いるフランス軍をヴァルデックと合流したイングランド軍の将軍・マールバラ伯[[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]](後に[[マールバラ公]])が[[ワルクールの戦い]]で破り、帰国した後はウィリアム3世から総司令官に任じられている。しかし、以後は重用されず不遇の日々を送ることになる。 |
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翌1690年、4月にシャルル5世が亡くなりマクシミリアン2世がライン川の司令官に就任、6月にサヴォイア公[[ヴィットーリオ・アメデーオ2世]]が皇帝・スペインと同盟を結び、[[はとこ|又従弟]]の[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]と共にイタリアへ向かった。7月にアイルランドでウィリアム3世はイングランド軍を率いて[[ボイン川の戦い]]でフランス・アイルランド連合軍を破り、ジェームス2世は再びフランスに逃れた。しかし、ネーデルラントではユミエールから指揮を引き継いだ[[フランソワ・アンリ・ド・モンモランシー (リュクサンブール公)|リュクサンブール公]]が[[フルーリュスの戦い]]でヴァルデックに大勝、[[ビーチー・ヘッドの海戦]]でもフランス艦隊がイングランド・オランダ連合艦隊に勝利するなどフランス有利となり、イングランドにフランスが上陸する恐れも出てきた。8月にヴィットーリオ・アメデーオ2世も[[シュタファルダの戦い]]でカティナ率いるフランス軍に敗北、イタリア戦線は停滞した。 |
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[[1691年]]、ウィリアム3世はアイルランド平定をオランダの将軍[[ゴダード・ファン・ギンケル|ギンケル]]に任せると1月にオランダへ上陸、ネーデルラントのフランス軍対処へ向かい、3月にブーフレール率いるフランス軍に包囲された[[モンス]]の救援に向かったが、ヴォーバンが迅速に包囲戦を進め、スペイン領ネーデルラント総督のカスターニャ侯が足を引っ張ったため動きが取れず、4月にモンスを奪われてしまった。憤慨したウィリアム3世はイングランドへ帰国、5月に大陸へ戻ったが、フランス軍とイングランド軍は互いに牽制したまま動けず、モンス陥落以外に進展は無かった。アイルランドはギンケルによって平定され、マクシミリアン2世はイタリアで指揮を執った後、更迭されたカスターニャ侯に代わってスペイン領ネーデルラント総督に任命され、ライン川方面はハンガリーから引き抜かれた[[バーデン (領邦)|バーデン辺境伯]][[ルートヴィヒ・ヴィルヘルム (バーデン=バーデン辺境伯)|ルートヴィヒ・ヴィルヘルム]]が担当した。他の戦線には進展は見られず停滞したままとなっていた<ref>友清、P130 - P159、P175 - P185。</ref>。 |
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=== 中期(1692年 - 1694年) === |
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[[1692年]]5月、モンスに駐屯していたフランス軍が東に動き、[[5月25日|25日]]にブーフレールが[[ナミュール]]を包囲した。ナミュールはネーデルラントを流れる[[サンブル川]]と[[マース川]]の分岐点に置かれた都市で、ここを落とされるとモンスと合わせてサンブル川流域がフランス軍に占領され、ナミュールから北西の[[ブリュッセル]]が危うくなるため、ウィリアム3世は救援に向かったが、リュクサンブールの牽制と大雨で進軍できず[[6月30日]]にナミュールを奪われた。ただ、イングランド艦隊が[[5月29日|29日]]から[[6月4日]]にかけて[[バルフルール岬とラ・オーグの海戦]]でフランス艦隊に対して大勝利を収め、ジェームズ2世とフランス軍のアイルランド遠征の恐れは解消された。 |
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ウィリアム3世はナミュール陥落後はブリュッセルから南西の[[ハレ (ベルギー)|ハレ]]に進軍、リュクサンブールも後を追い、[[8月3日]]に[[ステーンケルケの戦い]]が起こった。戦いはフランスの勝利に終わったが、両軍共に死者が多数に上ったため、双方はこの年の戦役を打ち切った。イタリアはマクシミリアン2世の後任としてオーストリアの将軍[[アエネアス・シルウィウス・カプラーラ|カプラーラ]]が派遣されたが、南フランスの略奪以外に変化は無かった。 |
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[[1693年]]3月にウィリアム3世はイングランドからオランダへ渡ったが、[[5月22日]]にハイデルベルクが再度フランス軍に奪われ、[[6月17日]]に[[ラゴス湾の海戦]]でイングランド貿易会社の船団がフランス軍に襲われ壊滅、7月にリュクサンブールはナミュールから東進して[[リエージュ]]を狙い、その途上にある[[ユイ (ベルギー)|ユイ]]を落とすなど戦況は同盟軍に不利な状況に陥った。救援に赴いたウィリアム3世は陥落を知り[[ランデン]]付近に停止、[[7月29日]]にリュクサンブールが同盟軍に攻撃した([[ネールウィンデンの戦い]])。同盟軍は1万以上の大損害を出して敗走したが、フランス軍も8000以上の被害のため追撃出来ず、10月に[[シャルルロワ]]を落としてサンブル川は完全にフランス軍の領域になる一方でユイから東のマース川流域は同盟軍が確保した。しかし、イタリア戦線で[[10月4日]]の[[マルサリーアの戦い]]でヴィットーリオ・アメデーオ2世が再度カティナに敗北すると和平を考えるようになっていった。 |
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1694年は全体的に戦線は停滞したままで、同盟軍が9月にユイを奪還、イタリア方面軍指揮官がカプラーラからオイゲンに交代、地中海に派遣されたイングランド艦隊がスペイン北東部の[[カタルーニャ州|カタルーニャ]]に侵入したフランス軍を牽制して[[バルセロナ]]から手を引かせた他は変化が無かった。しかし、フランスは凶作に見舞われ病気による死者が急増、国内経済も危機に瀕していた<ref>友清、P185 - P197、P206 - P209、マッケイ、P32 - P37。</ref>。 |
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=== 後期(1695年 - 1697年) === |
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1695年、1月にリュクサンブールが死去、ルイ14世の友人である[[フランソワ・ド・ヌフヴィル (ヴィルロワ公)|ヴィルロワ公]]がネーデルラント方面軍を担当した。ウィリアム3世は5月に大陸へ上陸するとブーフレールが籠もるナミュールの奪還に向かい、7月にマクシミリアン2世と共に包囲を開始した。ヴィルロワはブリュッセルを包囲して砲撃を行いナミュール包囲軍の退去を迫ったが、変化が無いと見ると自らナミュールへ向かった。ウィリアム3世も迎撃に向かいヴィルロワを牽制、援軍の来ないナミュールは[[9月5日]]に降伏、ブーフレールは捕虜となりフランス軍と同盟軍の捕虜交換で解放された。一方のイタリアでは、劣勢に追い込まれたヴィットーリオ・アメデーオ2世はフランスと秘密交渉を行うようになった。 |
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翌[[1696年]]、ヴィットーリオ・アメデーオ2世がルイ14世と秘密条約を結んでアウクスブルク同盟から離脱すると、皇帝とスペインもイタリア中立を承認、和平機運が広がり、1697年にネーデルラントの都市[[アト (ベルギー)|アト]]がフランス軍に落とされ、バルセロナがフランスの将軍[[ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン|ヴァンドーム公]]に奪われた他は停滞となり交戦国が交渉を始め、オランダの[[レイスウェイク]]で[[レイスウェイク条約]]が締結され、戦争はようやく終結した。 |
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レイスウェイク条約ではフランスは1678年からの占領地の殆どを返還、ストラスブールだけを領有、フランスが占領していたロレーヌをシャルル5世の息子[[レオポルト (ロレーヌ公)|レオポルト]]に返還、ウィリアム3世のイングランド王位を承認、ジェームズ2世の支援を止めることを約束した。また、戦争のきっかけであったプファルツ選帝侯・ケルン選帝侯の問題についてはフィリップ・ヴィルヘルムの息子でプファルツ選帝侯を継いだ[[ヨハン・ヴィルヘルム (プファルツ選帝侯)|ヨハン・ヴィルヘルム]]とヨーゼフ・クレメンスの地位は承認され、エリザベート・シャルロットとフュルステンベルクの擁立を取り下げた。これらは同盟にとって大戦果であり、フランスにとっては事実上の敗北であった。 |
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この大幅な譲歩はスペイン王[[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世]]が病弱で死期が迫っていたため、次のスペイン王位継承問題に決着を着ける意味で早期終結を望むルイ14世の目論見があった。しかし、レイスウェイク条約から3年後にカルロス2世が亡くなるとルイ14世の政策に反発したイングランド・オランダ・ドイツ諸侯は反フランス同盟を再結成、[[スペイン継承戦争]]が勃発した<ref>友清、P209 - P212、P217 - P224、マッケイ、P37 - P42。</ref>。 |
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なおこの戦争は、[[北アメリカ]]や[[インド]]にも波及し、北米では英領[[ニューイングランド]]と仏領[[ヌーベルフランス]]の最初の交戦である[[ウィリアム王戦争]]となり、[[フランス東インド会社]]のインドにおける根拠地[[ポンディシェリ]]が1693年、[[オランダ東インド会社]]に占領された。 |
なおこの戦争は、[[北アメリカ]]や[[インド]]にも波及し、北米では英領[[ニューイングランド]]と仏領[[ヌーベルフランス]]の最初の交戦である[[ウィリアム王戦争]]となり、[[フランス東インド会社]]のインドにおける根拠地[[ポンディシェリ]]が1693年、[[オランダ東インド会社]]に占領された。 |
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== 脚注 == |
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<references/> |
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== 参考文献 == |
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* [[成瀬治]]・[[山田欣吾]]・[[木村靖二]]編『世界歴史大系 ドイツ史2』[[山川出版社]]、1997年。 |
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* [[長谷川輝夫]]『聖なる王権ブルボン家』[[講談社|講談社選書メチエ]]、2002年。 |
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* [[友清理士]]『イギリス革命史(下)』[[研究社]]、2004年。 |
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* [[デレック・マッケイ]]著、[[瀬原義生]]訳『プリンツ・オイゲン・フォン・サヴォア{{smaller|-興隆期ハプスブルク帝国を支えた男-}}』[[文理閣]]、2010年。 |
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2011年12月21日 (水) 05:29時点における版
大同盟戦争 | |
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ナミュール包囲戦(1692年) | |
戦争:大同盟戦争 | |
年月日:1688年 - 1697年 | |
場所:ベルギー、ドイツ、イタリア | |
結果:レイスウェイク条約の締結 | |
交戦勢力 | |
イングランド王国 ネーデルラント連邦共和国 神聖ローマ帝国 ハプスブルク君主国 スペイン サヴォイア公国 スウェーデン |
フランス王国 ジャコバイト |
指導者・指揮官 | |
ウィリアム3世 マールバラ伯ジョン・チャーチル ヴァルデック侯ゲオルク・フリードリヒ ロレーヌ公シャルル5世 バイエルン選帝侯マクシミリアン2世 バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルム ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世 アエネアス・カプラーラ プリンツ・オイゲン ヴィットーリオ・アメデーオ2世 カスターニャ侯フランシスコ・アントニオ・デ・アグルト |
リュクサンブール公フランソワ・アンリ ヴォーバン ユミエール公ルイ・ド・クルヴァン ブーフレール公ルイ・フランソワ ニコラ・カティナ ノアイユ公アンヌ・ジュール デュラス公ジャック・アンリ ヴィルロワ公フランソワ・ド・ヌフヴィル ヴァンドーム公ルイ・ジョゼフ ジェームズ2世 ティアコンネル伯リチャード・タルボット |
大同盟戦争(だいどうめいせんそう、1688年 - 1697年)は、膨張政策をとるフランス王ルイ14世とアウクスブルク同盟に結集した欧州諸国との戦争。アウクスブルク同盟戦争とも九年戦争、プファルツ戦争(プファルツ継承戦争)ともいう。主戦場となったのはドイツのライン地方やスペイン領ネーデルラント(現在のベルギー一帯)で、アイルランドやイタリア、スペイン北部、北アメリカにも拡大した。アイルランドではしばしばウィリアマイト戦争と呼ばれ、北アメリカではウィリアム王戦争と呼ばれる。
前史
当時、フランス王国は欧州最強の軍隊を有しており、ルイ14世はこの軍事力を背景にスペイン領ネーデルラントの領有を狙ってネーデルラント継承戦争を起こし、ネーデルランド連邦共和国(オランダ)に圧力をかけられて和睦を結ばされると報復としてオランダ侵略戦争を発生させた。いずれも大した成果を挙げられなかったが、フランシュ=コンテとネーデルラントの都市を獲得、国内における名声を高めた。しかし、膨張政策を続けるルイ14世は1678年から1683年にかけてフランス東部の継承を一方的に主張、武力行使で併合する領土拡大政策を採用してルクセンブルクとストラスブールを併合、1685年にフォンテーヌブローの勅令を発令してプロテスタントを国内から追放したことは諸国の警戒を呼び起こした。
1685年、プファルツ選帝侯カール2世が死去すると遠縁のプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ヴィルヘルムが継承したが、ルイ14世は弟のオルレアン公フィリップ1世の妃エリザベート・シャルロット(カール2世の妹)のプファルツ継承権を主張、1686年にオーストリアの神聖ローマ皇帝レオポルト1世、ドイツ諸侯、スペイン、オランダ、スウェーデンなどの諸国はアウクスブルク同盟を結成してフランスに対抗した。スウェーデンは大同盟戦争には直接参戦せず中立を通したが、アウクスブルク同盟国を支援し、講和条約締結に関わった。
一方、オーストリアが1683年の第二次ウィーン包囲でオスマン帝国に勝利、ハンガリーを制圧してバルカン半島でオスマン帝国と死闘を繰り広げている(大トルコ戦争)のを見たルイ14世は、イングランド王ジェームズ2世を抱き込み、次第に欧州侵略の意図を露わにしていった。これに反発したのはジェームズ2世の甥でオランダ侵略戦争でフランスと戦ったオランダ総督ウィレム3世で、彼はジェームズ2世に反対するイングランドの政治家達と接触、イングランドを反フランスへ引き込むためイングランドへの遠征を決意した。
1688年6月3日、フィリップ・ヴィルヘルムの同族のケルン選帝侯マクシミリアン・ハインリヒ・フォン・バイエルンが死去すると、ルイ14世が次のケルン選帝侯を決める選挙で補佐司教のヴィルヘルム・エゴン・フォン・フュルステンベルクを擁立、マクシミリアン・ハインリヒの従甥のヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルンがレオポルト1世に擁立され決着が着かず、ルイ14世は9月に宣戦布告してアルザス・ストラスブールからプファルツ選帝侯領、ケルン、マインツなどライン川地方(ラインラント)に侵攻した。同年末にイングランドで名誉革命が勃発し、ジェームズ2世はフランスに亡命、反フランスの先頭に立っていたウィレム3世が1689年、イングランド王ウィリアム3世としてイングランド王に推戴された。ウィリアム3世のイングランド・オランダは直ちにアウクスブルク同盟に参加、イングランド・オランダを加えた同盟は大同盟とも呼ばれる。翌1690年にはスペイン、サヴォイア公国も参加している[1]。
戦争の経過
前期(1688年 - 1691年)
ライン川方面に侵攻したデュラス公・ヴォーバン指揮下のフランス軍は10月29日にフィリップスブルクを落とし、北上して11月11日にマンハイムも陥落、ヴォルムス・シュパイアー・マインツもフランス軍の前に陥落、マインツから南のライン川流域はフランス軍に制圧された。ドイツ諸侯がライン川方面の救援に向かうとヴュルテンベルクに侵入して略奪を働き、翌1689年3月2日にプファルツ選帝侯領の首都ハイデルベルクに放火、ハイデルベルク城を破壊した。マンハイム・ヴォルムス・シュパイアーにも放火した後にフランス軍は一旦退却したが、これは敵に渡った場合、物資調達及び拠点として活用することを防ぐための処置であった。
ライン川から下流で北のモーゼル川流域はブーフレールが進出、コブレンツを砲撃したが、ドイツ諸侯の救援により陥落を阻止された。ドイツ諸侯も対策を取る必要に迫られ、モーゼル川流域はブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世が、マインツから東のライン川支流・マイン川流域はカレンベルク侯(後にハノーファー選帝侯)エルンスト・アウグスト、ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク3世、ヘッセン=カッセル方伯カールが防衛に回った。
ルイ14世は亡命してきたジェームズ2世を先頭に立て、フランス軍をアイルランドに送り込み、アイルランドの反イングランド反乱を煽った。ウィリアム3世はジェームズ2世とティアコンネル伯らアイルランドのジャコバイトに釘付けにされたが、オランダ軍はヴァルデック侯ゲオルク・フリードリヒが率いてネーデルラント方面のユミエール公と対峙、ライン川方面はハンガリーからロレーヌ公シャルル5世、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世が引き抜かれ、シャルル5世が帝国軍司令官として進軍した。1690年になるとスペイン・サヴォイアも同盟側に立ったため、フランスはノアイユ公、ニコラ・カティナをそれぞれスペイン・イタリアへ派遣、軍勢を複数に分散していった。
シャルル5世は5月にコブレンツに軍勢を集結させるとライン川の解放を狙い、9月にマインツを奪還、北上して6月にカイゼルヴェルトを落としたフリードリヒ3世の軍と合流すると10月にボンも降伏させ、冬にデュラスがアルザスへ引き上げたこともありライン川右岸はひとまず帝国側に渡った。ネーデルラントは8月25日にユミエール率いるフランス軍をヴァルデックと合流したイングランド軍の将軍・マールバラ伯ジョン・チャーチル(後にマールバラ公)がワルクールの戦いで破り、帰国した後はウィリアム3世から総司令官に任じられている。しかし、以後は重用されず不遇の日々を送ることになる。
翌1690年、4月にシャルル5世が亡くなりマクシミリアン2世がライン川の司令官に就任、6月にサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世が皇帝・スペインと同盟を結び、又従弟のプリンツ・オイゲンと共にイタリアへ向かった。7月にアイルランドでウィリアム3世はイングランド軍を率いてボイン川の戦いでフランス・アイルランド連合軍を破り、ジェームス2世は再びフランスに逃れた。しかし、ネーデルラントではユミエールから指揮を引き継いだリュクサンブール公がフルーリュスの戦いでヴァルデックに大勝、ビーチー・ヘッドの海戦でもフランス艦隊がイングランド・オランダ連合艦隊に勝利するなどフランス有利となり、イングランドにフランスが上陸する恐れも出てきた。8月にヴィットーリオ・アメデーオ2世もシュタファルダの戦いでカティナ率いるフランス軍に敗北、イタリア戦線は停滞した。
1691年、ウィリアム3世はアイルランド平定をオランダの将軍ギンケルに任せると1月にオランダへ上陸、ネーデルラントのフランス軍対処へ向かい、3月にブーフレール率いるフランス軍に包囲されたモンスの救援に向かったが、ヴォーバンが迅速に包囲戦を進め、スペイン領ネーデルラント総督のカスターニャ侯が足を引っ張ったため動きが取れず、4月にモンスを奪われてしまった。憤慨したウィリアム3世はイングランドへ帰国、5月に大陸へ戻ったが、フランス軍とイングランド軍は互いに牽制したまま動けず、モンス陥落以外に進展は無かった。アイルランドはギンケルによって平定され、マクシミリアン2世はイタリアで指揮を執った後、更迭されたカスターニャ侯に代わってスペイン領ネーデルラント総督に任命され、ライン川方面はハンガリーから引き抜かれたバーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムが担当した。他の戦線には進展は見られず停滞したままとなっていた[2]。
中期(1692年 - 1694年)
1692年5月、モンスに駐屯していたフランス軍が東に動き、25日にブーフレールがナミュールを包囲した。ナミュールはネーデルラントを流れるサンブル川とマース川の分岐点に置かれた都市で、ここを落とされるとモンスと合わせてサンブル川流域がフランス軍に占領され、ナミュールから北西のブリュッセルが危うくなるため、ウィリアム3世は救援に向かったが、リュクサンブールの牽制と大雨で進軍できず6月30日にナミュールを奪われた。ただ、イングランド艦隊が29日から6月4日にかけてバルフルール岬とラ・オーグの海戦でフランス艦隊に対して大勝利を収め、ジェームズ2世とフランス軍のアイルランド遠征の恐れは解消された。
ウィリアム3世はナミュール陥落後はブリュッセルから南西のハレに進軍、リュクサンブールも後を追い、8月3日にステーンケルケの戦いが起こった。戦いはフランスの勝利に終わったが、両軍共に死者が多数に上ったため、双方はこの年の戦役を打ち切った。イタリアはマクシミリアン2世の後任としてオーストリアの将軍カプラーラが派遣されたが、南フランスの略奪以外に変化は無かった。
1693年3月にウィリアム3世はイングランドからオランダへ渡ったが、5月22日にハイデルベルクが再度フランス軍に奪われ、6月17日にラゴス湾の海戦でイングランド貿易会社の船団がフランス軍に襲われ壊滅、7月にリュクサンブールはナミュールから東進してリエージュを狙い、その途上にあるユイを落とすなど戦況は同盟軍に不利な状況に陥った。救援に赴いたウィリアム3世は陥落を知りランデン付近に停止、7月29日にリュクサンブールが同盟軍に攻撃した(ネールウィンデンの戦い)。同盟軍は1万以上の大損害を出して敗走したが、フランス軍も8000以上の被害のため追撃出来ず、10月にシャルルロワを落としてサンブル川は完全にフランス軍の領域になる一方でユイから東のマース川流域は同盟軍が確保した。しかし、イタリア戦線で10月4日のマルサリーアの戦いでヴィットーリオ・アメデーオ2世が再度カティナに敗北すると和平を考えるようになっていった。
1694年は全体的に戦線は停滞したままで、同盟軍が9月にユイを奪還、イタリア方面軍指揮官がカプラーラからオイゲンに交代、地中海に派遣されたイングランド艦隊がスペイン北東部のカタルーニャに侵入したフランス軍を牽制してバルセロナから手を引かせた他は変化が無かった。しかし、フランスは凶作に見舞われ病気による死者が急増、国内経済も危機に瀕していた[3]。
後期(1695年 - 1697年)
1695年、1月にリュクサンブールが死去、ルイ14世の友人であるヴィルロワ公がネーデルラント方面軍を担当した。ウィリアム3世は5月に大陸へ上陸するとブーフレールが籠もるナミュールの奪還に向かい、7月にマクシミリアン2世と共に包囲を開始した。ヴィルロワはブリュッセルを包囲して砲撃を行いナミュール包囲軍の退去を迫ったが、変化が無いと見ると自らナミュールへ向かった。ウィリアム3世も迎撃に向かいヴィルロワを牽制、援軍の来ないナミュールは9月5日に降伏、ブーフレールは捕虜となりフランス軍と同盟軍の捕虜交換で解放された。一方のイタリアでは、劣勢に追い込まれたヴィットーリオ・アメデーオ2世はフランスと秘密交渉を行うようになった。
翌1696年、ヴィットーリオ・アメデーオ2世がルイ14世と秘密条約を結んでアウクスブルク同盟から離脱すると、皇帝とスペインもイタリア中立を承認、和平機運が広がり、1697年にネーデルラントの都市アトがフランス軍に落とされ、バルセロナがフランスの将軍ヴァンドーム公に奪われた他は停滞となり交戦国が交渉を始め、オランダのレイスウェイクでレイスウェイク条約が締結され、戦争はようやく終結した。
レイスウェイク条約ではフランスは1678年からの占領地の殆どを返還、ストラスブールだけを領有、フランスが占領していたロレーヌをシャルル5世の息子レオポルトに返還、ウィリアム3世のイングランド王位を承認、ジェームズ2世の支援を止めることを約束した。また、戦争のきっかけであったプファルツ選帝侯・ケルン選帝侯の問題についてはフィリップ・ヴィルヘルムの息子でプファルツ選帝侯を継いだヨハン・ヴィルヘルムとヨーゼフ・クレメンスの地位は承認され、エリザベート・シャルロットとフュルステンベルクの擁立を取り下げた。これらは同盟にとって大戦果であり、フランスにとっては事実上の敗北であった。
この大幅な譲歩はスペイン王カルロス2世が病弱で死期が迫っていたため、次のスペイン王位継承問題に決着を着ける意味で早期終結を望むルイ14世の目論見があった。しかし、レイスウェイク条約から3年後にカルロス2世が亡くなるとルイ14世の政策に反発したイングランド・オランダ・ドイツ諸侯は反フランス同盟を再結成、スペイン継承戦争が勃発した[4]。
なおこの戦争は、北アメリカやインドにも波及し、北米では英領ニューイングランドと仏領ヌーベルフランスの最初の交戦であるウィリアム王戦争となり、フランス東インド会社のインドにおける根拠地ポンディシェリが1693年、オランダ東インド会社に占領された。
脚注
- ^ 成瀬、P10 - P13、長谷川、P134 - P143、友清、P41 - P114、マッケイ、P29 - P32。
- ^ 友清、P130 - P159、P175 - P185。
- ^ 友清、P185 - P197、P206 - P209、マッケイ、P32 - P37。
- ^ 友清、P209 - P212、P217 - P224、マッケイ、P37 - P42。