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{{Infobox 人物 |
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[[Image:Nao Deguchi.jpg|thumb|200px|出口なお([[1916年]])]] |
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|氏名 = 出口 直 |
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|ふりがな = でぐち なお |
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|画像 = Nao Deguchi.jpg |
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|画像サイズ = |
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|画像説明 = 1916年撮影 |
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|生年月日 = [[1837年]][[1月22日]] |
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|生誕地 = [[京都府]][[福知山市]] |
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|没年月日 = [[1918年]][[11月6日]] |
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|死没地 = |
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|墓地 = |
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|国籍 = |
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|肩書き = 大本開祖 |
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|後任者 = |
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|宗教 = 大本 |
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|配偶者 = 出口政五郎 |
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|非婚配偶者 = |
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|子供 = 五女・出口澄(大本二代教主)<br/>養子・[[出口王仁三郎]](大本二代教主輔) |
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|親 = |
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|署名 = |
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|補足 = |
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'''出口 直'''('''でぐち なお'''、[[1837年]][[1月22日]]([[天保]]7年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]]) - [[1918年]]([[大正]]7年)[[11月6日]])は、[[大本]]の教祖。大本では'''開祖'''と呼ばれている。 |
'''出口 直'''('''でぐち なお'''、[[1837年]][[1月22日]]([[天保]]7年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]]) - [[1918年]]([[大正]]7年)[[11月6日]])は、[[大本]]の教祖。大本では'''開祖'''と呼ばれている。 |
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== 概要 == |
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出口直は、江戸時代末期~明治時代中期の極貧の生活の中で日本神話の高級神「[[国之常立神|国常立尊]]」の神憑り現象を起こした。当時、[[天理教]]の[[中山みき]]など神憑りが相次いでおり、直の身に起ったことも日本の伝統的な[[巫女]]/[[シャーマニズム]]に属する<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]59頁、[[#女性教祖と救済思想]]164頁</ref>。当初は京都丹波地方の小さな民間宗教教祖にすぎなかったが、[[カリスマ]]的指導者・霊能力者である[[出口王仁三郎]]を娘婿としたことで、彼女の教団「大本」は全国規模に拡大した。大本は昭和前期の日本に大きな影響を与えた。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 地獄の釜の焦げ起こし === |
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天保7年([[1836年]])12月、農業を営む桐村五郎三郎の長女として現在の[[福知山市]]に出生。出生直後から身寄りの近親者を次々と亡くし、また折からの[[天保の大飢饉]]などの影響により、桐村家は窮乏と貧困の極に達したため、幼少の頃から下女奉公に出て働くようになる。[[嘉永]]2年([[1849年]])には[[福知山藩]]主[[朽木綱張]]公より集落の孝行娘として表彰されるほど真面目な働きぶりが評判だった。 |
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出口なお(以下、名前のみ『'''直'''』と漢字表記)は{{和暦|1837}}1月、大工の父/桐村五郎三郎と母/すみの長女として福知山藩上紺屋町(現[[福知山市]]字上紺屋町)に出生<ref>[[#いり豆の花]]81頁。戸籍上「なか」と誤記。</ref>。折からの[[天保の大飢饉]]ため両親は[[子殺し#人間の場合|減児]]を相談したが、気難しい姑が断固反対し生を得ることが出来た<ref>[[#いり豆の花]]82頁、[[#女性教祖と救済思想]]23頁</ref>。だが桐村家は五郎三郎の放蕩により没落<ref>[[#いり豆の花]]90頁、[[#神々の目覚め]]216頁</ref>、五郎三郎は直11歳(10歳とも)の時[[コレラ]]で急死した<ref>[[#いり豆の花]]114頁、[[#神々の目覚め]]217頁</ref>。直は下女奉公に出て働くようになる<ref>[[#いり豆の花]]115頁、[[#神々の目覚め]]217頁</ref>。[[嘉永]]2年([[1849年]])には[[福知山藩]]主[[朽木綱張]]公より集落の孝行娘として表彰されるほど真面目な働きぶりが評判だった<ref>[[#いり豆の花]]116、[[#神々の目覚め]]217頁</ref>。米屋や呉服屋など幾度か勤め先をかえたが、どの家々でも信頼されると同時にシャーマン的素質も見せることがあった<ref>[[#いり豆の花]]115-116頁、[[#大本襲撃]]67頁</ref>。また信仰心の篤さは幼少時から変わらなかった<ref>[[#いり豆の花]]196頁、[[#金光と大本]]94-95頁</ref>。 |
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{{和暦|1854}}、京都綾部町の出口ゆり(直の叔母)の強い要望により、養女となって出口家を相続するが、最初から財産争いに巻き込まれた<ref>[[#いり豆の花]]126-129頁、[[#神々の目覚め]]220頁</ref>。出口家菩提寺に10歳の直が初代出口政五郎の[[喪主]]になったことが記録されており、既に入籍済みだった可能性もある<ref>[[#いり豆の花]]241頁</ref>。{{和暦|1855}}3月20日(旧2月3日)には[[宮大工]]の四方豊助(婿養子となり出口政五郎の名を襲名)と結婚する<ref>[[#いり豆の花]]130頁、[[#神々の目覚め]]221頁</ref>。政五郎は弟子達に慕われる名大工だったが楽天家で浪費家という欠点があり、資産家だった出口家は数年で没落した<ref>[[#いり豆の花]]161-164頁、[[#女性教祖と救済思想]]44-45頁</ref>。直は出稼ぎや饅頭屋などの内職をして家計を支えた<ref>[[#いり豆の花]]182-183.214頁、[[#大本襲撃]]68頁</ref>。子供11人をもうけるが3人は夭折し、3男5女が成人した<ref>[[#女性教祖と救済思想]]46頁、[[#大本襲撃]]68頁</ref>。全員を家で養うことは出来ず、10歳にならないうちに殆どの者が奉公に出ている。五女(後の大本二代目教主)'''出口澄'''は{{和暦|1883}}[[2月3日]](旧12月26日)に生まれた<ref>[[#いり豆の花]]208頁。戸籍上2月8日。</ref>。{{和暦|1887}}3月、負傷して寝たきりになっていた政五郎が死亡する<ref>[[#大本襲撃]]72頁</ref>。直は52歳、32年間の結婚生活だった<ref>[[#いり豆の花]]236頁</ref>。さらに嫁いだ長女や三女が一時的に発狂、長男は[[自殺未遂]]のあと失踪、次男は[[近衛兵]]として徴兵され後に戦死<ref>[[#いり豆の花]]373頁。徴兵、明治25年12月。</ref>、次女も駆け落ちするなど、子供達を巡っても苦労を重ねた<ref>[[#宗教の昭和史]]51-52頁、 [[#大本襲撃]]84頁</ref>。直は「地獄の釜の焦げ起こし」と呟いたほどだった<ref>[[#いり豆の花]]227頁、[[#女性教祖と救済思想]]40頁</ref>。 |
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嘉永6年([[1853年]])京都綾部町に嫁いでいた、出口ゆり(なおの叔母)の子となる縁ができ、養女となる。[[安政]]2年([[1855年]])には夫となる四方豊助を婿養子として結婚する(四方豊助は結婚後、出口政五郎の名を襲名)。 |
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直の伝記を著した[[曾孫]]の[[出口和明]]は、『直は名刀、政五郎は[[砥石]]』と表現し、夫・政五郎の無責任な態度や行動が直を人間的に成長させ、大本の基盤を作ったとする<ref>[[#いり豆の花]]236-238頁</ref>。正五郎の戒名は「説法明教信士」(法を説き教えを明らかにする)という立派なもので、後年になって娘婿・出口王仁三郎がつけた可能性が高い<ref>[[#いり豆の花]]239頁</ref>。 |
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夫との間に数人の子をもうけるが明治16年([[1883年]])2月、五女・'''出口澄'''(二代教祖)を産む。 |
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=== 艮の金神 === |
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明治25年([[1892年]])2月、帰神(神懸かり)状態で13日間の断食となる。帰神状態となって大声の金切り声で叫ぶなどの奇行を行なうようになると、周囲の人々からの理解はなくなり、座敷牢に押し込まれるなどの虐待にあうが、入牢中に落ちていた釘で神の言葉を文字に刻むようになり、これが後年の「おふでさき」([[自動書記]])と呼ばれるものへとなって行く。 |
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直の住む丹波・綾部町は宗教色の強い土地で、明治に入ると従来の神道や仏教に加え[[天理教]]、[[黒住教]]、[[妙霊教]]、[[金光教]]、[[キリスト教]]が進出していた<ref>[[#金光と大本]]107-112頁</ref>。三女・久を治癒したのが金光教亀岡教会長・大橋亀吉であり、これが直と金光教の出会いとなる<ref>[[#いり豆の花]]285-286頁、[[#女性教祖と救済思想]]95頁</ref>。後の神懸かりに、同教が説いた[[金神]]の影響も指摘される<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]57頁</ref>。{{和暦|1892}}1月30日(旧正月元旦)、57歳の直は『艮の金神、元の[[国之常立神]]』と宣言する神と出会う[[霊夢]]を見た<ref>[[#いり豆の花]]292頁、[[#大本襲撃]]88頁</ref>。[[2月3日]](旧正月5日)、本格的に『艮の金神』が[[憑依|帰神(神懸かり)]]した<ref>[[#いり豆の花]]296頁、[[#あるカリスマの生涯]]16頁</ref>。この神は「[[鬼門]]の[[金神]]」とも云われる[[祟り神]]である<ref>[[#いり豆の花]]304頁、[[#女性教祖と救済思想]]151頁</ref>。大本では、この日を開教の日としている<ref>[[#いり豆の花]]298頁、[[#大本襲撃]]88頁</ref>。目撃した澄は、その時の母の声には普段と違う威厳があり、染み透るような力だったと回想した<ref>[[#いり豆の花]]296-297頁、[[#大本襲撃]]85頁</ref>。本来の美しい声と神の威厳のある声が交互に出るため、まるで自問自答しているようだったという<ref>[[#いり豆の花]]298頁</ref>。ただ9歳だった澄の記憶にあいまいな所があり、大正3年旧4月7日の筆先より、霊夢を見たのが2月3日・発動は2月8日という見解もある<ref>[[#いり豆の花]]299-300頁</ref>。いずれにせよ、2月3日[[節分|節分の日]]が直の転機となった。 |
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帰神状態となった直は、まず13日間の絶食と75日間の寝ずの水行を行う<ref>[[#いり豆の花]]300-302頁</ref>。同居していた四女・龍と五女・澄のうち、澄にだけ村の各場所に塩をまかせる等の用事を頼んだ<ref>[[#いり豆の花]]317-318頁</ref>。こうした奇行は周囲から「狸か狐がついた」と思われ、当初は大目に見られた<ref>[[#いり豆の花]]306頁</ref>。やがて[[放火|放火犯]]と間違われて警察に拘留され、釈放されるも長女の家の[[座敷牢]]に40日間押し込まれる<ref>[[#いり豆の花]]396頁、[[#女性教祖と救済思想]]119頁</ref>。入牢中に落ちていた釘で神の言葉を文字に刻むようになり、これが後年の「御筆先/おふでさき」となった<ref>[[#いり豆の花]]406頁、[[#金光と大本]]136頁</ref>。彼女は[[文盲]]であったが、[[自動書記]]により没するまで20年間半紙10万枚を綴ったという<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]56頁、[[#あるカリスマの生涯]]17頁</ref>。殆ど平仮名で記された内容は『さんぜんせかい、いちどにひら九 うめのはな。きもんおこんじんのよになりたぞよ』という痛烈な社会批判を含んだ[[終末論]]・[[黙示録]]であった<ref>[[#日本の10大新宗教]]60頁、[[#帝国時代のカリスマ]]58頁</ref>。尚、平仮名を漢字に置き換えて「大本神論」として発表したのが娘婿・出口王仁三郎であるが、その解釈を巡って大本教団内部で対立が起きている<ref>[[#大本襲撃]]97頁</ref>。 |
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宗教を発足させた当初は、[[金光教]]の傘下として宗教活動を開始したが、かねてから独立した活動を希望していた。ようやく独立した活動が可能となったのは、明治31年([[1898年]])10月の上田喜三郎(のちに聖師・[[出口王仁三郎]])の出現以降となる。(明治33年([[1900年]])1月、上田と娘の出口澄とを養子結婚させる) |
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=== 出口王仁三郎との出会い === |
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大正5年([[1916年]])10月の神島参拝で、出口なおの筆先に「未申の金神どの、[[素盞嗚尊]]と小松林の霊が五六七神の御霊・・・」という神示があり、これによって出口なおは、婿養子の上田こそ、本当の「みろく様」であったという確信に至る。教団では、この時を境に未見真実から見真実となったと言われているが、なかでも重要なことは、なおの神業的役割が王仁三郎に懸かっている神霊を正確に[[審神者]]することであり、大正5年の神島参拝において、王仁三郎への審神者を完了したことにある。 |
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直は僅かな全財産を長女の娘婿に譲ることで座敷牢から出ることが出来た<ref>[[#いり豆の花]]406-408頁、[[#女性教祖と救済思想]]120-121頁</ref>。当初、直は自分に懸かった神の正体がわからず、また『[[艮の金神]]』が当時恐れられていた[[祟り神]]だったこともあって不安を抱いていた<ref>[[#いり豆の花]]316頁、[[#女性教祖と救済思想]]104頁</ref>。僧侶や易者を頼ったが力にならず、[[金光教]]に相談している<ref>[[#いり豆の花]]326-327.364頁</ref>。[[天理教]]では偽者扱いされている<ref>[[#いり豆の花]]412.426頁</ref>。しかし病気治療や[[日清戦争]]の予言によって「綾部の金神さん」として地元の評判を呼び<ref>[[#いり豆の花]]422頁、[[#女性教祖と救済思想]]130-132頁</ref>、小規模の信者グループが形成された<ref>[[#大本襲撃]]100頁、[[#あるカリスマの生涯]]57頁</ref>。一方、金光教も直に注目し、彼女を利用して綾部に進出しようと考えていた<ref>[[#女性教祖と救済思想]]139頁、[[#神々の目覚め]]232頁</ref>。{{和暦|1894}}10月、金光教の傘下として最初の会合が開かれ、公認の広前(布教所)が出来たことで警察の干渉から逃れることができた<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]58頁、[[#いり豆の花]]434頁</ref>。だが終末論を唱える直/艮の金神と、日常生活における信仰を説く金光教は根本的に合致せず、両者の関係は次第に悪化する<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]59頁、[[#女性教祖と救済思想]]148-149頁</ref>。彼女の霊能力に惹かれて支援者となった金光教信者もおり、彼らが独立を目指す直を支援して初期の幹部となった<ref>[[#いり豆の花]]465-468頁</ref>。{{和暦|1897}}4月4日(旧3月3日)、綾部市裏町に住む信者の倉に移り、初めて単独で「艮の金神」を祭った<ref>[[#大本襲撃]]101頁</ref>。 |
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直の教えが日本全国に広まるには、出口王仁三郎という[[カリスマ]]が必要であった。{{和暦|1898}}8月、事前に幾度か啓示されていた''上田喜三郎''(王仁三郎)と初体面する<ref>[[#いり豆の花]]475頁</ref>。後に上田は大本事件における精神鑑定で『それは偉い人と思ひました、非常に人を圧する様な偉い人で、そして何とも言えない神様が憑いて居ると思ひました』と直の印象を語っている<ref>[[#いり豆の花]]477頁</ref>。ところが、上田の所属が[[稲荷神|稲荷講社]]であることに直が不信感を持ってしまい、初対面は物別れに終わった<ref>[[#女性教祖と救済思想]]186頁、[[#あるカリスマの生涯]]58-59頁</ref>。それでも直は考えを改め、再び上田を綾部に招いた<ref>[[#あるカリスマの生涯]]60頁</ref>。上田も綾部行きを熱望していた<ref>[[#いり豆の花]]491-493頁</ref>。{{和暦|1899}}7月3日、上田は鎮魂帰神法で「艮の金神」は「国武彦命」と見分けた<ref>[[#女性教祖と救済思想]]195頁</ref>。 |
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大正7年死去。[[享年]]81。綾部の天王平に埋葬されている。 |
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上田は新教団「金明霊学会」の会長、直は教主となり、後の大本の原型が誕生した<ref>[[#新宗教創始者伝]]109頁、[[#金光と大本]]161頁</ref>。稲荷講社の傘下に入ることで、合法的に集会を行うことも可能になった<ref>[[#女性教祖と救済思想]]195頁、[[#いり豆の花]]518頁</ref>。彼の手腕と能力を高く評価した直は、後継者と決めていた五女・出口澄と結婚させることにする<ref>[[#あるカリスマの生涯]]62頁、[[#大本襲撃]]103頁</ref>。{{和暦|1900}}1月、上田は澄と養子結婚して'''出口王仁三郎'''と改名した<ref>[[#あるカリスマの生涯]]62頁</ref>。直は「これで大本の基礎固まれり」と喜んでいる<ref>[[#大本襲撃]]104頁</ref>。こうして王仁三郎の神道の知識を得て新教団の教義が確立していく一方、直の中には違和感も存在していた<ref>[[#いり豆の花]]523頁、[[#女性教祖と救済思想]]203頁</ref>。そもそも直と信者に見られる強烈な排外思想・民族主義・欧米の風習への警戒感は王仁三郎になく、性格も正反対であり、二人の対立は必然だった<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]61頁</ref>。 |
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==著書== |
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=== 教団内部の戦い === |
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世継ぎに決めていた澄と王仁三郎が結婚したことで直の大きな役割は終わり、基本的に筆先と神事に全てを捧げる生活が始まった<ref>[[#いり豆の花]]528頁</ref>。当初、教団は国常立尊(男神)が懸かった直を「変性男子」、豊雲野尊(国常立尊の妻神)が懸かった王仁三郎を「変性女子」と定めており、現実での養母・養子婿関係は宗教的に夫婦関係という微妙な状態だった<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]62頁、[[#いり豆の花]]508頁</ref>。直に[[天照大神]]が、王仁三郎に[[スサノオ]]が懸かって「火水の戦い」という大喧嘩をしたことがある<ref>[[#いり豆の花]]509.557頁、[[#神々の目覚め]]238-239頁</ref>。独断で教団の法人組織化・公認化を進めようとした王仁三郎を反省させるべく、直は綾部近くの弥仙山の金峰神社に「岩戸ごもり」として篭ったこともある<ref>[[#いり豆の花]]569-571頁、[[#あるカリスマの生涯]]67頁</ref>。さらに警察の干渉と、教団の複雑な人間関係が王仁三郎を苦しめた<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]65頁</ref>。「お筆先」を文字通りに解釈する[[原理主義]]に陥る者も多く<ref>[[#予言・確言]]49-50頁、[[#新宗教創始者伝]]115-117頁</ref>、彼らは開明的な王仁三郎を激しく攻撃した<ref>[[#大本襲撃]]109頁、[[#いり豆の花]]566頁</ref>。澄と結婚して教団の後継者を望む者もおり、権力争いという一面や<ref>[[#いり豆の花]]478.522頁、[[#帝国時代のカリスマ]]63頁</ref>、金光教由来信者の反発もあった<ref>[[#いり豆の花]]534頁</ref>。一方で王仁三郎の方も、直と教団を曲津神・邪神群として痛烈に批判している<ref>[[#いり豆の花]]559頁</ref>。母と夫に挟まれた澄は自殺を試みるほど対応に苦慮した<ref>[[#予言・確言]]90頁</ref>。直と王仁三郎の対立は旧道と新道の対立という「型」という側面があり、澄によれば大喧嘩のあとに談笑する光景がしばしば見られた<ref>[[#いり豆の花]]563頁</ref>。また反対派が王仁三郎の排除を訴え直が神に相談すると、神は娘婿を庇い続けたという<ref>[[#いり豆の花]]564頁</ref>。二人の対立には宗教的な意味合いが存在したのである<ref>[[#女性教祖と救済思想]]317頁</ref>。 |
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{{和暦|1904}}に[[日露戦争]]が勃発すると、直と信者達は戦争が敗戦に終わり現世の根本的な改革が行われると説いた<ref>[[#あるカリスマの生涯]]69頁、[[#女性教祖と救済思想]]255-256頁</ref>。教団は宗教的[[ナショナリズム]]も重なって終末論的な盛り上がりをみせたが、王仁三郎は冷めた目で彼らを批判している<ref>[[#いり豆の花]]589.594.606頁、[[#女性教祖と救済思想]]221-222.233頁</ref>。王仁三郎の筆先にも「今度の戦争は門口である」と信者達の先走りを警告する文面が出ている<ref>[[#いり豆の花]]601頁</ref>。その後、日露戦争が日本の勝利で終わると立替熱が冷め、また警察の干渉も厳しくなって失望した信者が次々に教団を去った<ref>[[#いり豆の花]]646頁、[[#帝国時代のカリスマ]]65-66頁</ref>。反面、火水と戦いといわれた直と王仁三郎の対立は終息した<ref>[[#いり豆の花]]639.644頁</ref>。 |
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{{和暦|1906}}9月、王仁三郎は妻子を残して教団を去り、京都に設置されたばかりの神職養成機関([[皇典講究所]])に入学、教団合法化を目指して活動を開始する<ref>[[#大本襲撃]]110頁、[[#あるカリスマの生涯]]70頁</ref>。王仁三郎が去った教団は出口家しか残らないほど衰退した<ref>[[#いり豆の花]]646頁、[[#女性教祖と救済思想]]266-267頁</ref>。筆先に用いる紙すら用意するのに苦労し、家財道具を売らねばならなかったという<ref>[[#いり豆の花]]647頁、[[#大本襲撃]]111頁</ref>。「(王仁三郎が)この大本を出たらあとは火の消えたように、1人も立ち寄る人民はなくなるぞよ。」と啓示されていた通りになった<ref>[[#新宗教創始者伝]]124頁</ref>。 |
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{{和暦|1908}}3月、王仁三郎が教団に戻ると再び信者が集まりだした<ref>[[#いり豆の花]]953頁</ref>。彼に懸かる「坤(ひつじさる)の金神」を公式に祭ったことで幹部信者の態度も変わり、教団経営の一切は王仁三郎にまかされた<ref>[[#いり豆の花]]654頁</ref>。大本はメディア活動を展開し、新たな信者層を開拓<ref>[[#あるカリスマの生涯]]71頁</ref>。財政状況は劇的に改善したが、直は質素な生活を続ける<ref>[[#あるカリスマの生涯]]77頁</ref>。贅沢を好まず、農村の生活そのものを送り、神事や啓示の執筆に専念した<ref>[[#女性教祖と救済思想]]286-287頁</ref>。 |
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=== 隠居 === |
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{{和暦|1910}}12月26日、王仁三郎の正式な出口姓改名・入籍を待って出口家当主を譲る<ref>[[#いり豆の花]]662頁</ref>。直は人生を通じて大きな病気・怪我をしたことがなかったが、足を挫いたことから梅の杖に頼るようになり、畑仕事をやめた<ref>[[#いり豆の花]]668頁</ref>。{{和暦|1916}}10月4日、出口家・教団幹部と共に[[家島諸島]]神島(上島)に参拝する<ref>[[#いり豆の花]]694頁</ref>。夜、直の筆先に『未申(ひつじさる)の金神どの、[[素盞嗚尊]]と小松林の霊が五六七神の御霊でけっこうな御用がさしてありたぞよ。みろく様が根本の天の御先祖様であるぞよ。国常立尊(艮の金神)は地の先祖であるぞよ』という神示があり、婿養子の王仁三郎こそ、本当の「[[弥勒菩薩|みろく様]]」であったという確信に至る<ref>[[#いり豆の花]]697頁、[[#新宗教創始者伝]]130頁</ref>。王仁三郎は、この時を境に直は未見真実から見真実となったとしている<ref>[[#いり豆の花]]699-700頁</ref>。なかでも重要なことは、直の神業的役割が王仁三郎に懸かっている神霊を正確に[[審神者]]することであり、大正5年の神島参拝において、王仁三郎への審神者を完了したことにある<ref>[[#予言・確言]]129頁</ref>。 |
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{{和暦|1917}}、大本は機関誌「神霊界」を発行、筆先は「大本教神論」として発表され注目を集めた<ref>[[#大本襲撃]]114頁</ref>。教団は急速に拡大し、整備拡張も進んだ。[[浅野和三郎]]は直と体面し、カリスマ性に魅せられて大本に入信した<ref>[[#いり豆の花]]703-706頁</ref>。その一方、直は筆先を書かなくなり、自分の役目が終わったことを王仁三郎に告げる<ref>[[#いり豆の花]]723-724頁</ref>。ある日、王仁三郎に背負われて神苑を巡り「結構でした。ご苦労でした」と感謝の言葉をかけた<ref>[[#大本襲撃]]頁117</ref>。側近には教団の発展を褒めると同時に「1人でも誠の者ができたら、どんなにかこの胸の中が楽になるのだが」と心中を語る<ref>[[#いり豆の花]]724頁、[[#新宗教創始者伝]]131頁</ref>。王仁三郎を頼もしく思う反面、権威や世俗への妥協を懸念したともされる<ref>[[#女性教祖と救済思想]]276頁</ref>。 |
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{{和暦|1918}}11月5日、親しい信者数名に「今夜が峠」と呟き、遅くまで談笑した<ref>[[#女性教祖と救済思想]]288頁</ref>。翌日早朝に倒れ、午後10時30分に死去<ref>[[#あるカリスマの生涯]]79頁</ref>。[[享年]]83歳<ref>[[#いり豆の花]]747頁</ref>。当初、綾部の天王平に埋葬されていたが[[大本事件#第一次大本事件|第一次大本事件]]で墓の縮小改装を余儀なくされた<ref>[[#いり豆の花]]759頁、[[#大本襲撃]]130頁</ref>。[[大本事件#第二次大本事件|第二次大本事件]]では墓を暴かれて柩を共同墓地に移され、「衆人に頭を踏まさねば成仏出来ぬ大罪人極悪人」として[[特別高等警察]]により腹部付近に墓標を建てられる<ref>[[#いり豆の花]]759頁、[[#大本襲撃]]177頁</ref>。現在は再建され、王仁三郎夫妻と共に埋葬されている<ref>[[#新宗教創始者伝]]139頁</ref>。 |
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== 評価 == |
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出口直は幕藩体制の崩壊~明治・大正という激動の時代に生きた。83年間の生涯のうち、2/3を社会の最底辺で過ごした、無口で辛抱強い無名の女性だった<ref>[[#いり豆の花]]764頁、[[#女性教祖と救済思想]]7頁</ref>。だが「神懸かり」後の彼女は娘婿・出口王仁三郎とは違ったカリスマを持ち、晩年は初対面で圧倒され心酔した者も多い<ref>[[#いり豆の花]]703-705.726-727頁</ref>。一方で素朴で純粋な文明批判論は時に厳しい終末論・反文明論・天皇制否定論に飛躍した<ref>[[#女性教祖と救済思想]]262頁</ref>。直はあくまで神の言葉を伝えた[[預言者]]であり、神学や[[言霊学]]に深く通じた王仁三郎とは役割が違ったと言える<ref>[[#女性教祖と救済思想]]317頁</ref>。直の終末論・社会批判・[[黙示録]]的予言は王仁三郎のコミュニケーションと経営の才能によって世に出た<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]20頁</ref>。王仁三郎が参加していなければ大本が地域的カルトに留まったことは間違いないが、彼も直がいなければ世に出られなかった可能性が高い<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]20頁、[[#大本襲撃]]305-306頁</ref>。 |
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== 年譜 == |
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*{{和暦|1837}} - 京都府福知山紺屋町に桐村五郎三郎・そよの長女として誕生。 |
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*{{和暦|1846}} - 父・五郎三郎死亡。奉公に出る。 |
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*{{和暦|1853}} - 綾部の叔母・出口ゆりの養女となる。 |
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*{{和暦|1855}} - 四方豊助と結婚。豊助は出口政五郎を襲名する。 |
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*{{和暦|1871}} - 上田喜三郎、誕生する。 |
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*{{和暦|1883}} - 五女・出口澄が誕生。 |
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*{{和暦|1887}} - 出口政五郎、61歳で死亡。直52歳。 |
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*{{和暦|1892}} - 直、初めて神懸かり状態となる。 |
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*{{和暦|1894}} - 金光教に所属して最初の集会場を開く。 |
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*{{和暦|1898}} - 初めて上田喜三郎と対面する。 |
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*{{和暦|1899}} - 上田喜三郎、直に懸かった神を審神して教団入りする。 |
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*{{和暦|1900}} - 上田喜三郎、直の五女・澄と結婚。入婿して出口王仁三郎を名乗る。 |
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*{{和暦|1902}} - 王仁三郎夫妻の長女・浅野(後に三代教主・出口直日)産まれる。 |
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*{{和暦|1905}} - [[日露戦争]]の最中、終末論が最高潮となる。舞鶴沖合いの沓島に篭る。 |
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*{{和暦|1906}} - 王仁三郎、一時教団を離れる。教団と出口家は逼迫する。 |
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*{{和暦|1908}} - 王仁三郎、教団に戻る。金明霊学会を大日本修斎会に改名する。 |
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*{{和暦|1916}} - 教団名を皇道大本とする。浅野和三郎が入信。 |
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*{{和暦|1918}} - 83歳で死去。 |
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== エピソード == |
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* [[大本]]では、直を「女性の肉体に男性の魂が宿った変性男子」、王仁三郎を「男性の肉体に女性の魂が宿った変性女子」と定義している。直の生き方は男性的本質的を持っていたとされる<ref>[[#女性教祖と救済思想]]161-162頁、[[#大本襲撃]]321-頁</ref>。「神の織物の経糸は直、緯糸は王仁三郎」という別の表現もあるが、これも二人の対称性をうまく捉えている<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]62頁</ref>。 |
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* 神懸かりが始まって間もなく放火犯と間違えられた際、[[綾部警察署]]の警官3名が連行しようとしたところ、直の体を1人で動かせなかった<ref>[[#いり豆の花]]389頁</ref>。[[モッコ]]と担い棒を借りて3人がかりで運んだが、疲労のあまり近くにあった建設中の新庁舎に収容先を変更している<ref>[[#いり豆の花]]390頁</ref>。直は新庁舎の留置人第一号となり、同時に生涯最初で最後の拘留となった<ref>[[#いり豆の花]]392頁</ref>。警察は直をもてあまし、真犯人が逮捕されたあと座敷牢に入れることを前提に長女夫妻(大槻鹿蔵と米。米は発狂中)に引き取らせた<ref>[[#いり豆の花]]396頁</ref>。 |
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* 生涯にわたって神に絶対の信頼を寄せた直だが、{{和暦|1895}}7月7日に[[近衛兵]]の次男・清吉が[[台湾]]で戦死した際に一度だけ「嘘をぬかした。もう言う事は聞いてやらぬ」と激昂している<ref>[[#いり豆の花]]442頁、[[#女性教祖と救済思想]]178頁</ref>。後に、清吉は霊界で重要な働きをする魂という啓示が出た<ref>[[#いり豆の花]]443頁</ref>。だが王仁三郎が活躍するようになっても直や周辺信者の間で清吉への愛着が垣間見られ、まだ生きているという希望も持たれていた<ref>[[#いり豆の花]]444頁、[[#女性教祖と救済思想]]180頁</ref>。 |
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* 直は近代文明と技術に批判的だった。代表例が、孫にして大本三代目教主[[出口直日]]の[[種痘]]問題である<ref>[[#女性教祖と救済思想]]218頁</ref>。[[天然痘]]の種痘を受けることは法律で定められていたが、直と教団は「外国から来たものは穢れ」として断固拒否の立場をとり、王仁三郎・澄夫妻は直日が小学4年生になるまで罰金を払う事になった<ref>[[#いり豆の花]]596頁</ref>。夫妻は娘に種痘を試みたが度々信者の妨害にあい、罰金を払ったことでも「神の意思より法律を優先した」と批判される<ref>[[#いり豆の花]]597頁</ref>。説得に訪れた医者に対し直は迷惑を謝罪しつつ「直日に種痘植えさすまいと頑固張りますのも、神さまがお命じになるからです。たとえ私が殺されても、直日の水晶の血だけは守りとうございます」と答える<ref>[[#いり豆の花]]599頁</ref>。信仰心の篤さに感銘を受けた[[カトリック]]の医師は、直の血液を用いた擬似種痘で問題を解決した<ref>[[#いり豆の花]]599頁</ref>。 |
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* {{和暦|1905}}5月15日、[[若狭湾]]の無人島[[沓島]]に神事のため信者2人を連れて渡った<ref>[[#いり豆の花]]611頁、[[#予言・確言]]98頁</ref>。この時[[大日本帝国海軍]][[舞鶴鎮守府]]では3人をロシア軍スパイと勘違いして騒動となり、新聞にも載ったという<ref>[[#いり豆の花]]617.627頁</ref>。直は5月26日に島を去り<ref>[[#いり豆の花]]625頁</ref>、翌日、[[日本海海戦]]が発生した。 |
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* 死の一週間前、[[浄瑠璃]]の名人二代目[[竹本春子太夫]]が大本教団に来た<ref>[[#いり豆の花]]736頁</ref>。普段の直は「世界の大芝居を見ているのに人間の作品など見られない」と断っていたが、澄が取り次ぐと珍しく承諾した<ref>[[#いり豆の花]]736頁、[[#新宗教創始者伝]]132頁</ref>。観賞すると「神様が明治25年から世界の人民に筆先をおさとしになるのが、どうして人民に分らぬかと思っていたが、浄瑠璃でさえ初めて聞くと分らんのだから、神様の教えが人民に分らんのも無理がないと、よう分らして貰った」と感想を述べている<ref>[[#女性教祖と救済思想]]287頁</ref>。 |
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* 直が逝去したあと、王仁三郎は自室で号泣<ref>[[#予言・確言]]198頁</ref>。あまりに泣くので、妻に追い出されるようにして教祖室に戻ったという<ref>[[#予言・確言]]199頁</ref>。祖母を慕っていた[[出口直日]]は「神がかり はげしかりしときく 吾が祖母は 起居しずけく 匂やかにましき」と詠った<ref>[[#大本襲撃]]117頁</ref>。 |
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== 著書 == |
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*大本神諭 民衆宗教の聖典・大本教 天の巻 火の巻 [[村上重良]]校注 平凡社 1979.1 (東洋文庫 |
*大本神諭 民衆宗教の聖典・大本教 天の巻 火の巻 [[村上重良]]校注 平凡社 1979.1 (東洋文庫 |
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==伝記等== |
== 伝記等 == |
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*出口なお [[安丸良夫]] 朝日新聞社 1977.1 (朝日評伝選 のち選書、洋泉社(MC新書 |
*出口なお [[安丸良夫]] 朝日新聞社 1977.1 (朝日評伝選 のち選書、洋泉社(MC新書 |
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*大本 出口なお・出口王仁三郎の生涯 [[伊藤栄蔵]] 講談社 1984.4 (新宗教創始者伝) |
*大本 出口なお・出口王仁三郎の生涯 [[伊藤栄蔵]] 講談社 1984.4 (新宗教創始者伝) |
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*いり豆の花 大本開祖出口なおの生涯 [[出口和明]] 八幡書店 1995.7 |
*いり豆の花 大本開祖出口なおの生涯 [[出口和明]] 八幡書店 1995.7 |
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== 文献 == |
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=== 主要文献 === |
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*{{Cite book|和書|author=[[出口和明]]|year=1979|month=9|title=出口なお 王仁三郎の予言・確言|publisher=[[光書房]]|isbn=|ref=}} |
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**{{Cite book|和書|author=[[出口和明]]|year=2005|month=3|title=出口なお 王仁三郎の予言・確言|publisher=[[みいづ舎]]|isbn=4-900441-72-4|ref=予言・確言}} 光書房版を復刻。 |
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*{{Cite book|和書|author=[[伊藤栄蔵]]|year=1984|month=4|title=出口なお・出口王仁三郎の生涯 {{small|新宗教創始者伝・大本}}|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-201171-9|ref=新宗教創始者伝}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[出口和明]]|year=1995|month=7|title=いり豆の花 {{small|大本開祖出口なおの生涯}}|publisher=[[八幡書店]]|isbn=4-89350-180-1|ref=いり豆の花}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[安丸良夫]]|year=2009|month=5|title=出口なお {{small|女性教祖と救済思想}}|publisher=[[洋泉社]]MC新書|isbn=978-4-86248-377-5|ref=女性教祖と救済思想}} |
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=== 参考文献 === |
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*{{Cite book|和書|author=[[村上重良]]|year=1985|month=11|title=宗教の昭和史|publisher=[[三嶺社]]|isbn=4-914906-35-X|ref=宗教の昭和史}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[丸山照雄]]|year=1986|month=7|title=現代人の宗教3 金光と大本 {{small|教典その心と読み方}}|publisher=[[御茶の水書房]]|isbn=4-275-00686-0|ref=金光と大本}} |
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**[[出口栄二]]『お筆先と霊界物語 {{small|その心と読み方}}』 |
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*{{Cite book|和書|author=[[丸山照雄]]|year=1995|month=6|title=日本人にとって宗教とは何か|publisher=[[藤原書店]]|isbn=4-89434-018-6|ref=日本人にとって宗教とは何か}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[百瀬明治]]|year=1995|month=10|title=出口王仁三郎 {{small|あるカリスマの生涯}}|publisher=PHP文庫|isbn=4-569-56810-6|ref=あるカリスマの生涯}} |
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**{{Cite book|和書|author=[[百瀬明治]]|year=2001|month=5|title={{small|大本教大成者}} 巨人出口王仁三郎の生涯|publisher=[[勁文社]]|isbn=4-7669-3762-7|ref=}}PHP文庫版を再録。 |
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*{{Cite book|和書|author=[[小滝透]]|year=1997|month=7|title=神々の目覚め {{small|近代日本の宗教革命}}|publisher=春秋社|isbn=4-393-29124-7|ref=神々の目覚め}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[早瀬圭一]]|year=2007|month=5|title=大本襲撃 {{small|出口すみとその時代}}|publisher=毎日新聞社|isbn=978-4-620-31814-1|ref=大本襲撃}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[島田祐巳]]|year=2007|month=11|title=日本の10大新宗教|publisher=幻冬舎新書|isbn=978-4-344-98060-0|ref=日本の10大新宗教}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[ナンシー・K・ストーカー]]著|coauthors=[[井上順孝]]監修、[[岩坂彰]]翻訳|year=2009|month=6|title=出口王仁三郎 {{small|帝国の時代のカリスマ}}|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4-562-04292-0|ref=帝国時代のカリスマ}} |
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== 脚注 == |
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{{Reflist|2}} |
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== 関連項目 == |
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* [[国之常立神]] |
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* [[シャーマニズム]] |
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[[Category:神道に関連する人物]] |
[[Category:神道に関連する人物]] |
2012年2月17日 (金) 05:06時点における版
でぐち なお 出口 直 | |
---|---|
1916年撮影 | |
生誕 |
1837年1月22日 京都府福知山市 |
死没 | 1918年11月6日 |
肩書き | 大本開祖 |
宗教 | 大本 |
配偶者 | 出口政五郎 |
子供 |
五女・出口澄(大本二代教主) 養子・出口王仁三郎(大本二代教主輔) |
出口 直(でぐち なお、1837年1月22日(天保7年12月16日) - 1918年(大正7年)11月6日)は、大本の教祖。大本では開祖と呼ばれている。
概要
出口直は、江戸時代末期~明治時代中期の極貧の生活の中で日本神話の高級神「国常立尊」の神憑り現象を起こした。当時、天理教の中山みきなど神憑りが相次いでおり、直の身に起ったことも日本の伝統的な巫女/シャーマニズムに属する[1]。当初は京都丹波地方の小さな民間宗教教祖にすぎなかったが、カリスマ的指導者・霊能力者である出口王仁三郎を娘婿としたことで、彼女の教団「大本」は全国規模に拡大した。大本は昭和前期の日本に大きな影響を与えた。
生涯
地獄の釜の焦げ起こし
出口なお(以下、名前のみ『直』と漢字表記)は1837年(天保8年)1月、大工の父/桐村五郎三郎と母/すみの長女として福知山藩上紺屋町(現福知山市字上紺屋町)に出生[2]。折からの天保の大飢饉ため両親は減児を相談したが、気難しい姑が断固反対し生を得ることが出来た[3]。だが桐村家は五郎三郎の放蕩により没落[4]、五郎三郎は直11歳(10歳とも)の時コレラで急死した[5]。直は下女奉公に出て働くようになる[6]。嘉永2年(1849年)には福知山藩主朽木綱張公より集落の孝行娘として表彰されるほど真面目な働きぶりが評判だった[7]。米屋や呉服屋など幾度か勤め先をかえたが、どの家々でも信頼されると同時にシャーマン的素質も見せることがあった[8]。また信仰心の篤さは幼少時から変わらなかった[9]。
1854年(安政元年)、京都綾部町の出口ゆり(直の叔母)の強い要望により、養女となって出口家を相続するが、最初から財産争いに巻き込まれた[10]。出口家菩提寺に10歳の直が初代出口政五郎の喪主になったことが記録されており、既に入籍済みだった可能性もある[11]。1855年(安政2年)3月20日(旧2月3日)には宮大工の四方豊助(婿養子となり出口政五郎の名を襲名)と結婚する[12]。政五郎は弟子達に慕われる名大工だったが楽天家で浪費家という欠点があり、資産家だった出口家は数年で没落した[13]。直は出稼ぎや饅頭屋などの内職をして家計を支えた[14]。子供11人をもうけるが3人は夭折し、3男5女が成人した[15]。全員を家で養うことは出来ず、10歳にならないうちに殆どの者が奉公に出ている。五女(後の大本二代目教主)出口澄は1883年(明治16年)2月3日(旧12月26日)に生まれた[16]。1887年(明治20年)3月、負傷して寝たきりになっていた政五郎が死亡する[17]。直は52歳、32年間の結婚生活だった[18]。さらに嫁いだ長女や三女が一時的に発狂、長男は自殺未遂のあと失踪、次男は近衛兵として徴兵され後に戦死[19]、次女も駆け落ちするなど、子供達を巡っても苦労を重ねた[20]。直は「地獄の釜の焦げ起こし」と呟いたほどだった[21]。
直の伝記を著した曾孫の出口和明は、『直は名刀、政五郎は砥石』と表現し、夫・政五郎の無責任な態度や行動が直を人間的に成長させ、大本の基盤を作ったとする[22]。正五郎の戒名は「説法明教信士」(法を説き教えを明らかにする)という立派なもので、後年になって娘婿・出口王仁三郎がつけた可能性が高い[23]。
艮の金神
直の住む丹波・綾部町は宗教色の強い土地で、明治に入ると従来の神道や仏教に加え天理教、黒住教、妙霊教、金光教、キリスト教が進出していた[24]。三女・久を治癒したのが金光教亀岡教会長・大橋亀吉であり、これが直と金光教の出会いとなる[25]。後の神懸かりに、同教が説いた金神の影響も指摘される[26]。1892年(明治25年)1月30日(旧正月元旦)、57歳の直は『艮の金神、元の国之常立神』と宣言する神と出会う霊夢を見た[27]。2月3日(旧正月5日)、本格的に『艮の金神』が帰神(神懸かり)した[28]。この神は「鬼門の金神」とも云われる祟り神である[29]。大本では、この日を開教の日としている[30]。目撃した澄は、その時の母の声には普段と違う威厳があり、染み透るような力だったと回想した[31]。本来の美しい声と神の威厳のある声が交互に出るため、まるで自問自答しているようだったという[32]。ただ9歳だった澄の記憶にあいまいな所があり、大正3年旧4月7日の筆先より、霊夢を見たのが2月3日・発動は2月8日という見解もある[33]。いずれにせよ、2月3日節分の日が直の転機となった。
帰神状態となった直は、まず13日間の絶食と75日間の寝ずの水行を行う[34]。同居していた四女・龍と五女・澄のうち、澄にだけ村の各場所に塩をまかせる等の用事を頼んだ[35]。こうした奇行は周囲から「狸か狐がついた」と思われ、当初は大目に見られた[36]。やがて放火犯と間違われて警察に拘留され、釈放されるも長女の家の座敷牢に40日間押し込まれる[37]。入牢中に落ちていた釘で神の言葉を文字に刻むようになり、これが後年の「御筆先/おふでさき」となった[38]。彼女は文盲であったが、自動書記により没するまで20年間半紙10万枚を綴ったという[39]。殆ど平仮名で記された内容は『さんぜんせかい、いちどにひら九 うめのはな。きもんおこんじんのよになりたぞよ』という痛烈な社会批判を含んだ終末論・黙示録であった[40]。尚、平仮名を漢字に置き換えて「大本神論」として発表したのが娘婿・出口王仁三郎であるが、その解釈を巡って大本教団内部で対立が起きている[41]。
出口王仁三郎との出会い
直は僅かな全財産を長女の娘婿に譲ることで座敷牢から出ることが出来た[42]。当初、直は自分に懸かった神の正体がわからず、また『艮の金神』が当時恐れられていた祟り神だったこともあって不安を抱いていた[43]。僧侶や易者を頼ったが力にならず、金光教に相談している[44]。天理教では偽者扱いされている[45]。しかし病気治療や日清戦争の予言によって「綾部の金神さん」として地元の評判を呼び[46]、小規模の信者グループが形成された[47]。一方、金光教も直に注目し、彼女を利用して綾部に進出しようと考えていた[48]。1894年(明治27年)10月、金光教の傘下として最初の会合が開かれ、公認の広前(布教所)が出来たことで警察の干渉から逃れることができた[49]。だが終末論を唱える直/艮の金神と、日常生活における信仰を説く金光教は根本的に合致せず、両者の関係は次第に悪化する[50]。彼女の霊能力に惹かれて支援者となった金光教信者もおり、彼らが独立を目指す直を支援して初期の幹部となった[51]。1897年(明治30年)4月4日(旧3月3日)、綾部市裏町に住む信者の倉に移り、初めて単独で「艮の金神」を祭った[52]。
直の教えが日本全国に広まるには、出口王仁三郎というカリスマが必要であった。1898年(明治31年)8月、事前に幾度か啓示されていた上田喜三郎(王仁三郎)と初体面する[53]。後に上田は大本事件における精神鑑定で『それは偉い人と思ひました、非常に人を圧する様な偉い人で、そして何とも言えない神様が憑いて居ると思ひました』と直の印象を語っている[54]。ところが、上田の所属が稲荷講社であることに直が不信感を持ってしまい、初対面は物別れに終わった[55]。それでも直は考えを改め、再び上田を綾部に招いた[56]。上田も綾部行きを熱望していた[57]。1899年(明治32年)7月3日、上田は鎮魂帰神法で「艮の金神」は「国武彦命」と見分けた[58]。
上田は新教団「金明霊学会」の会長、直は教主となり、後の大本の原型が誕生した[59]。稲荷講社の傘下に入ることで、合法的に集会を行うことも可能になった[60]。彼の手腕と能力を高く評価した直は、後継者と決めていた五女・出口澄と結婚させることにする[61]。1900年(明治33年)1月、上田は澄と養子結婚して出口王仁三郎と改名した[62]。直は「これで大本の基礎固まれり」と喜んでいる[63]。こうして王仁三郎の神道の知識を得て新教団の教義が確立していく一方、直の中には違和感も存在していた[64]。そもそも直と信者に見られる強烈な排外思想・民族主義・欧米の風習への警戒感は王仁三郎になく、性格も正反対であり、二人の対立は必然だった[65]。
教団内部の戦い
世継ぎに決めていた澄と王仁三郎が結婚したことで直の大きな役割は終わり、基本的に筆先と神事に全てを捧げる生活が始まった[66]。当初、教団は国常立尊(男神)が懸かった直を「変性男子」、豊雲野尊(国常立尊の妻神)が懸かった王仁三郎を「変性女子」と定めており、現実での養母・養子婿関係は宗教的に夫婦関係という微妙な状態だった[67]。直に天照大神が、王仁三郎にスサノオが懸かって「火水の戦い」という大喧嘩をしたことがある[68]。独断で教団の法人組織化・公認化を進めようとした王仁三郎を反省させるべく、直は綾部近くの弥仙山の金峰神社に「岩戸ごもり」として篭ったこともある[69]。さらに警察の干渉と、教団の複雑な人間関係が王仁三郎を苦しめた[70]。「お筆先」を文字通りに解釈する原理主義に陥る者も多く[71]、彼らは開明的な王仁三郎を激しく攻撃した[72]。澄と結婚して教団の後継者を望む者もおり、権力争いという一面や[73]、金光教由来信者の反発もあった[74]。一方で王仁三郎の方も、直と教団を曲津神・邪神群として痛烈に批判している[75]。母と夫に挟まれた澄は自殺を試みるほど対応に苦慮した[76]。直と王仁三郎の対立は旧道と新道の対立という「型」という側面があり、澄によれば大喧嘩のあとに談笑する光景がしばしば見られた[77]。また反対派が王仁三郎の排除を訴え直が神に相談すると、神は娘婿を庇い続けたという[78]。二人の対立には宗教的な意味合いが存在したのである[79]。
1904年(明治37年)に日露戦争が勃発すると、直と信者達は戦争が敗戦に終わり現世の根本的な改革が行われると説いた[80]。教団は宗教的ナショナリズムも重なって終末論的な盛り上がりをみせたが、王仁三郎は冷めた目で彼らを批判している[81]。王仁三郎の筆先にも「今度の戦争は門口である」と信者達の先走りを警告する文面が出ている[82]。その後、日露戦争が日本の勝利で終わると立替熱が冷め、また警察の干渉も厳しくなって失望した信者が次々に教団を去った[83]。反面、火水と戦いといわれた直と王仁三郎の対立は終息した[84]。
1906年(明治39年)9月、王仁三郎は妻子を残して教団を去り、京都に設置されたばかりの神職養成機関(皇典講究所)に入学、教団合法化を目指して活動を開始する[85]。王仁三郎が去った教団は出口家しか残らないほど衰退した[86]。筆先に用いる紙すら用意するのに苦労し、家財道具を売らねばならなかったという[87]。「(王仁三郎が)この大本を出たらあとは火の消えたように、1人も立ち寄る人民はなくなるぞよ。」と啓示されていた通りになった[88]。
1908年(明治41年)3月、王仁三郎が教団に戻ると再び信者が集まりだした[89]。彼に懸かる「坤(ひつじさる)の金神」を公式に祭ったことで幹部信者の態度も変わり、教団経営の一切は王仁三郎にまかされた[90]。大本はメディア活動を展開し、新たな信者層を開拓[91]。財政状況は劇的に改善したが、直は質素な生活を続ける[92]。贅沢を好まず、農村の生活そのものを送り、神事や啓示の執筆に専念した[93]。
隠居
1910年(明治43年)12月26日、王仁三郎の正式な出口姓改名・入籍を待って出口家当主を譲る[94]。直は人生を通じて大きな病気・怪我をしたことがなかったが、足を挫いたことから梅の杖に頼るようになり、畑仕事をやめた[95]。1916年(大正5年)10月4日、出口家・教団幹部と共に家島諸島神島(上島)に参拝する[96]。夜、直の筆先に『未申(ひつじさる)の金神どの、素盞嗚尊と小松林の霊が五六七神の御霊でけっこうな御用がさしてありたぞよ。みろく様が根本の天の御先祖様であるぞよ。国常立尊(艮の金神)は地の先祖であるぞよ』という神示があり、婿養子の王仁三郎こそ、本当の「みろく様」であったという確信に至る[97]。王仁三郎は、この時を境に直は未見真実から見真実となったとしている[98]。なかでも重要なことは、直の神業的役割が王仁三郎に懸かっている神霊を正確に審神者することであり、大正5年の神島参拝において、王仁三郎への審神者を完了したことにある[99]。
1917年(大正6年)、大本は機関誌「神霊界」を発行、筆先は「大本教神論」として発表され注目を集めた[100]。教団は急速に拡大し、整備拡張も進んだ。浅野和三郎は直と体面し、カリスマ性に魅せられて大本に入信した[101]。その一方、直は筆先を書かなくなり、自分の役目が終わったことを王仁三郎に告げる[102]。ある日、王仁三郎に背負われて神苑を巡り「結構でした。ご苦労でした」と感謝の言葉をかけた[103]。側近には教団の発展を褒めると同時に「1人でも誠の者ができたら、どんなにかこの胸の中が楽になるのだが」と心中を語る[104]。王仁三郎を頼もしく思う反面、権威や世俗への妥協を懸念したともされる[105]。
1918年(大正7年)11月5日、親しい信者数名に「今夜が峠」と呟き、遅くまで談笑した[106]。翌日早朝に倒れ、午後10時30分に死去[107]。享年83歳[108]。当初、綾部の天王平に埋葬されていたが第一次大本事件で墓の縮小改装を余儀なくされた[109]。第二次大本事件では墓を暴かれて柩を共同墓地に移され、「衆人に頭を踏まさねば成仏出来ぬ大罪人極悪人」として特別高等警察により腹部付近に墓標を建てられる[110]。現在は再建され、王仁三郎夫妻と共に埋葬されている[111]。
評価
出口直は幕藩体制の崩壊~明治・大正という激動の時代に生きた。83年間の生涯のうち、2/3を社会の最底辺で過ごした、無口で辛抱強い無名の女性だった[112]。だが「神懸かり」後の彼女は娘婿・出口王仁三郎とは違ったカリスマを持ち、晩年は初対面で圧倒され心酔した者も多い[113]。一方で素朴で純粋な文明批判論は時に厳しい終末論・反文明論・天皇制否定論に飛躍した[114]。直はあくまで神の言葉を伝えた預言者であり、神学や言霊学に深く通じた王仁三郎とは役割が違ったと言える[115]。直の終末論・社会批判・黙示録的予言は王仁三郎のコミュニケーションと経営の才能によって世に出た[116]。王仁三郎が参加していなければ大本が地域的カルトに留まったことは間違いないが、彼も直がいなければ世に出られなかった可能性が高い[117]。
年譜
- 1837年(天保8年) - 京都府福知山紺屋町に桐村五郎三郎・そよの長女として誕生。
- 1846年(弘化3年) - 父・五郎三郎死亡。奉公に出る。
- 1853年(嘉永6年) - 綾部の叔母・出口ゆりの養女となる。
- 1855年(安政2年) - 四方豊助と結婚。豊助は出口政五郎を襲名する。
- 1871年(明治4年) - 上田喜三郎、誕生する。
- 1883年(明治16年) - 五女・出口澄が誕生。
- 1887年(明治20年) - 出口政五郎、61歳で死亡。直52歳。
- 1892年(明治25年) - 直、初めて神懸かり状態となる。
- 1894年(明治27年) - 金光教に所属して最初の集会場を開く。
- 1898年(明治31年) - 初めて上田喜三郎と対面する。
- 1899年(明治32年) - 上田喜三郎、直に懸かった神を審神して教団入りする。
- 1900年(明治33年) - 上田喜三郎、直の五女・澄と結婚。入婿して出口王仁三郎を名乗る。
- 1902年(明治35年) - 王仁三郎夫妻の長女・浅野(後に三代教主・出口直日)産まれる。
- 1905年(明治38年) - 日露戦争の最中、終末論が最高潮となる。舞鶴沖合いの沓島に篭る。
- 1906年(明治39年) - 王仁三郎、一時教団を離れる。教団と出口家は逼迫する。
- 1908年(明治41年) - 王仁三郎、教団に戻る。金明霊学会を大日本修斎会に改名する。
- 1916年(大正5年) - 教団名を皇道大本とする。浅野和三郎が入信。
- 1918年(大正7年) - 83歳で死去。
エピソード
- 大本では、直を「女性の肉体に男性の魂が宿った変性男子」、王仁三郎を「男性の肉体に女性の魂が宿った変性女子」と定義している。直の生き方は男性的本質的を持っていたとされる[118]。「神の織物の経糸は直、緯糸は王仁三郎」という別の表現もあるが、これも二人の対称性をうまく捉えている[119]。
- 神懸かりが始まって間もなく放火犯と間違えられた際、綾部警察署の警官3名が連行しようとしたところ、直の体を1人で動かせなかった[120]。モッコと担い棒を借りて3人がかりで運んだが、疲労のあまり近くにあった建設中の新庁舎に収容先を変更している[121]。直は新庁舎の留置人第一号となり、同時に生涯最初で最後の拘留となった[122]。警察は直をもてあまし、真犯人が逮捕されたあと座敷牢に入れることを前提に長女夫妻(大槻鹿蔵と米。米は発狂中)に引き取らせた[123]。
- 生涯にわたって神に絶対の信頼を寄せた直だが、1895年(明治28年)7月7日に近衛兵の次男・清吉が台湾で戦死した際に一度だけ「嘘をぬかした。もう言う事は聞いてやらぬ」と激昂している[124]。後に、清吉は霊界で重要な働きをする魂という啓示が出た[125]。だが王仁三郎が活躍するようになっても直や周辺信者の間で清吉への愛着が垣間見られ、まだ生きているという希望も持たれていた[126]。
- 直は近代文明と技術に批判的だった。代表例が、孫にして大本三代目教主出口直日の種痘問題である[127]。天然痘の種痘を受けることは法律で定められていたが、直と教団は「外国から来たものは穢れ」として断固拒否の立場をとり、王仁三郎・澄夫妻は直日が小学4年生になるまで罰金を払う事になった[128]。夫妻は娘に種痘を試みたが度々信者の妨害にあい、罰金を払ったことでも「神の意思より法律を優先した」と批判される[129]。説得に訪れた医者に対し直は迷惑を謝罪しつつ「直日に種痘植えさすまいと頑固張りますのも、神さまがお命じになるからです。たとえ私が殺されても、直日の水晶の血だけは守りとうございます」と答える[130]。信仰心の篤さに感銘を受けたカトリックの医師は、直の血液を用いた擬似種痘で問題を解決した[131]。
- 1905年(明治38年)5月15日、若狭湾の無人島沓島に神事のため信者2人を連れて渡った[132]。この時大日本帝国海軍舞鶴鎮守府では3人をロシア軍スパイと勘違いして騒動となり、新聞にも載ったという[133]。直は5月26日に島を去り[134]、翌日、日本海海戦が発生した。
- 死の一週間前、浄瑠璃の名人二代目竹本春子太夫が大本教団に来た[135]。普段の直は「世界の大芝居を見ているのに人間の作品など見られない」と断っていたが、澄が取り次ぐと珍しく承諾した[136]。観賞すると「神様が明治25年から世界の人民に筆先をおさとしになるのが、どうして人民に分らぬかと思っていたが、浄瑠璃でさえ初めて聞くと分らんのだから、神様の教えが人民に分らんのも無理がないと、よう分らして貰った」と感想を述べている[137]。
- 直が逝去したあと、王仁三郎は自室で号泣[138]。あまりに泣くので、妻に追い出されるようにして教祖室に戻ったという[139]。祖母を慕っていた出口直日は「神がかり はげしかりしときく 吾が祖母は 起居しずけく 匂やかにましき」と詠った[140]。
著書
- 大本神諭 民衆宗教の聖典・大本教 天の巻 火の巻 村上重良校注 平凡社 1979.1 (東洋文庫
伝記等
- 出口なお 安丸良夫 朝日新聞社 1977.1 (朝日評伝選 のち選書、洋泉社(MC新書
- 大本 出口なお・出口王仁三郎の生涯 伊藤栄蔵 講談社 1984.4 (新宗教創始者伝)
- いり豆の花 大本開祖出口なおの生涯 出口和明 八幡書店 1995.7
文献
主要文献
- 出口和明『出口なお 王仁三郎の予言・確言』光書房、1979年9月。
- 出口和明『出口なお 王仁三郎の予言・確言』みいづ舎、2005年3月。ISBN 4-900441-72-4。 光書房版を復刻。
- 伊藤栄蔵『出口なお・出口王仁三郎の生涯 新宗教創始者伝・大本』講談社、1984年4月。ISBN 4-06-201171-9。
- 出口和明『いり豆の花 大本開祖出口なおの生涯』八幡書店、1995年7月。ISBN 4-89350-180-1。
- 安丸良夫『出口なお 女性教祖と救済思想』洋泉社MC新書、2009年5月。ISBN 978-4-86248-377-5。
参考文献
- 村上重良『宗教の昭和史』三嶺社、1985年11月。ISBN 4-914906-35-X。
- 丸山照雄『現代人の宗教3 金光と大本 教典その心と読み方』御茶の水書房、1986年7月。ISBN 4-275-00686-0。
- 出口栄二『お筆先と霊界物語 その心と読み方』
- 丸山照雄『日本人にとって宗教とは何か』藤原書店、1995年6月。ISBN 4-89434-018-6。
- 百瀬明治『出口王仁三郎 あるカリスマの生涯』PHP文庫、1995年10月。ISBN 4-569-56810-6。
- 百瀬明治『大本教大成者 巨人出口王仁三郎の生涯』勁文社、2001年5月。ISBN 4-7669-3762-7。PHP文庫版を再録。
- 小滝透『神々の目覚め 近代日本の宗教革命』春秋社、1997年7月。ISBN 4-393-29124-7。
- 早瀬圭一『大本襲撃 出口すみとその時代』毎日新聞社、2007年5月。ISBN 978-4-620-31814-1。
- 島田祐巳『日本の10大新宗教』幻冬舎新書、2007年11月。ISBN 978-4-344-98060-0。
- ナンシー・K・ストーカー著、井上順孝監修、岩坂彰翻訳『出口王仁三郎 帝国の時代のカリスマ』原書房、2009年6月。ISBN 978-4-562-04292-0。
脚注
- ^ #帝国時代のカリスマ59頁、#女性教祖と救済思想164頁
- ^ #いり豆の花81頁。戸籍上「なか」と誤記。
- ^ #いり豆の花82頁、#女性教祖と救済思想23頁
- ^ #いり豆の花90頁、#神々の目覚め216頁
- ^ #いり豆の花114頁、#神々の目覚め217頁
- ^ #いり豆の花115頁、#神々の目覚め217頁
- ^ #いり豆の花116、#神々の目覚め217頁
- ^ #いり豆の花115-116頁、#大本襲撃67頁
- ^ #いり豆の花196頁、#金光と大本94-95頁
- ^ #いり豆の花126-129頁、#神々の目覚め220頁
- ^ #いり豆の花241頁
- ^ #いり豆の花130頁、#神々の目覚め221頁
- ^ #いり豆の花161-164頁、#女性教祖と救済思想44-45頁
- ^ #いり豆の花182-183.214頁、#大本襲撃68頁
- ^ #女性教祖と救済思想46頁、#大本襲撃68頁
- ^ #いり豆の花208頁。戸籍上2月8日。
- ^ #大本襲撃72頁
- ^ #いり豆の花236頁
- ^ #いり豆の花373頁。徴兵、明治25年12月。
- ^ #宗教の昭和史51-52頁、 #大本襲撃84頁
- ^ #いり豆の花227頁、#女性教祖と救済思想40頁
- ^ #いり豆の花236-238頁
- ^ #いり豆の花239頁
- ^ #金光と大本107-112頁
- ^ #いり豆の花285-286頁、#女性教祖と救済思想95頁
- ^ #帝国時代のカリスマ57頁
- ^ #いり豆の花292頁、#大本襲撃88頁
- ^ #いり豆の花296頁、#あるカリスマの生涯16頁
- ^ #いり豆の花304頁、#女性教祖と救済思想151頁
- ^ #いり豆の花298頁、#大本襲撃88頁
- ^ #いり豆の花296-297頁、#大本襲撃85頁
- ^ #いり豆の花298頁
- ^ #いり豆の花299-300頁
- ^ #いり豆の花300-302頁
- ^ #いり豆の花317-318頁
- ^ #いり豆の花306頁
- ^ #いり豆の花396頁、#女性教祖と救済思想119頁
- ^ #いり豆の花406頁、#金光と大本136頁
- ^ #帝国時代のカリスマ56頁、#あるカリスマの生涯17頁
- ^ #日本の10大新宗教60頁、#帝国時代のカリスマ58頁
- ^ #大本襲撃97頁
- ^ #いり豆の花406-408頁、#女性教祖と救済思想120-121頁
- ^ #いり豆の花316頁、#女性教祖と救済思想104頁
- ^ #いり豆の花326-327.364頁
- ^ #いり豆の花412.426頁
- ^ #いり豆の花422頁、#女性教祖と救済思想130-132頁
- ^ #大本襲撃100頁、#あるカリスマの生涯57頁
- ^ #女性教祖と救済思想139頁、#神々の目覚め232頁
- ^ #帝国時代のカリスマ58頁、#いり豆の花434頁
- ^ #帝国時代のカリスマ59頁、#女性教祖と救済思想148-149頁
- ^ #いり豆の花465-468頁
- ^ #大本襲撃101頁
- ^ #いり豆の花475頁
- ^ #いり豆の花477頁
- ^ #女性教祖と救済思想186頁、#あるカリスマの生涯58-59頁
- ^ #あるカリスマの生涯60頁
- ^ #いり豆の花491-493頁
- ^ #女性教祖と救済思想195頁
- ^ #新宗教創始者伝109頁、#金光と大本161頁
- ^ #女性教祖と救済思想195頁、#いり豆の花518頁
- ^ #あるカリスマの生涯62頁、#大本襲撃103頁
- ^ #あるカリスマの生涯62頁
- ^ #大本襲撃104頁
- ^ #いり豆の花523頁、#女性教祖と救済思想203頁
- ^ #帝国時代のカリスマ61頁
- ^ #いり豆の花528頁
- ^ #帝国時代のカリスマ62頁、#いり豆の花508頁
- ^ #いり豆の花509.557頁、#神々の目覚め238-239頁
- ^ #いり豆の花569-571頁、#あるカリスマの生涯67頁
- ^ #帝国時代のカリスマ65頁
- ^ #予言・確言49-50頁、#新宗教創始者伝115-117頁
- ^ #大本襲撃109頁、#いり豆の花566頁
- ^ #いり豆の花478.522頁、#帝国時代のカリスマ63頁
- ^ #いり豆の花534頁
- ^ #いり豆の花559頁
- ^ #予言・確言90頁
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- ^ #いり豆の花564頁
- ^ #女性教祖と救済思想317頁
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- ^ #いり豆の花601頁
- ^ #いり豆の花646頁、#帝国時代のカリスマ65-66頁
- ^ #いり豆の花639.644頁
- ^ #大本襲撃110頁、#あるカリスマの生涯70頁
- ^ #いり豆の花646頁、#女性教祖と救済思想266-267頁
- ^ #いり豆の花647頁、#大本襲撃111頁
- ^ #新宗教創始者伝124頁
- ^ #いり豆の花953頁
- ^ #いり豆の花654頁
- ^ #あるカリスマの生涯71頁
- ^ #あるカリスマの生涯77頁
- ^ #女性教祖と救済思想286-287頁
- ^ #いり豆の花662頁
- ^ #いり豆の花668頁
- ^ #いり豆の花694頁
- ^ #いり豆の花697頁、#新宗教創始者伝130頁
- ^ #いり豆の花699-700頁
- ^ #予言・確言129頁
- ^ #大本襲撃114頁
- ^ #いり豆の花703-706頁
- ^ #いり豆の花723-724頁
- ^ #大本襲撃頁117
- ^ #いり豆の花724頁、#新宗教創始者伝131頁
- ^ #女性教祖と救済思想276頁
- ^ #女性教祖と救済思想288頁
- ^ #あるカリスマの生涯79頁
- ^ #いり豆の花747頁
- ^ #いり豆の花759頁、#大本襲撃130頁
- ^ #いり豆の花759頁、#大本襲撃177頁
- ^ #新宗教創始者伝139頁
- ^ #いり豆の花764頁、#女性教祖と救済思想7頁
- ^ #いり豆の花703-705.726-727頁
- ^ #女性教祖と救済思想262頁
- ^ #女性教祖と救済思想317頁
- ^ #帝国時代のカリスマ20頁
- ^ #帝国時代のカリスマ20頁、#大本襲撃305-306頁
- ^ #女性教祖と救済思想161-162頁、#大本襲撃321-頁
- ^ #帝国時代のカリスマ62頁
- ^ #いり豆の花389頁
- ^ #いり豆の花390頁
- ^ #いり豆の花392頁
- ^ #いり豆の花396頁
- ^ #いり豆の花442頁、#女性教祖と救済思想178頁
- ^ #いり豆の花443頁
- ^ #いり豆の花444頁、#女性教祖と救済思想180頁
- ^ #女性教祖と救済思想218頁
- ^ #いり豆の花596頁
- ^ #いり豆の花597頁
- ^ #いり豆の花599頁
- ^ #いり豆の花599頁
- ^ #いり豆の花611頁、#予言・確言98頁
- ^ #いり豆の花617.627頁
- ^ #いり豆の花625頁
- ^ #いり豆の花736頁
- ^ #いり豆の花736頁、#新宗教創始者伝132頁
- ^ #女性教祖と救済思想287頁
- ^ #予言・確言198頁
- ^ #予言・確言199頁
- ^ #大本襲撃117頁