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{{Infobox 島 |
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'''瀬底島'''(せそこじま)は、[[沖縄県]][[国頭郡]][[本部町]]に属する[[島]]である。 |
'''瀬底島'''(せそこじま)は、[[沖縄県]][[国頭郡]][[本部町]]に属する[[島]]である<ref name="kadokawa-sesokojima"/><ref name="sugata"/><ref name="katou"/><ref name="ootaka"/><ref name="area"/><ref name="okinawa-sesokojima"/>。 |
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== 地理 == |
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[[本部半島]]の西方沖約600mの[[東シナ海]]に位置し、[[西洋ナシ]]の形をした台地状の低平な島である<ref name="kadokawa-sesokojima"/><ref name="sugata">菅田(1995年)pp.192 - 193</ref><ref name="ootaka">大高(1991年)pp.286 - 287</ref>。島全域は本部町の[[大字]]である瀬底に属し、瀬底島西約6kmの海上にある[[水納島 (沖縄県本部町)|水納島]]も同字に帰属する<ref name="kadokawa-motobu891">『角川日本地名大辞典』「本部町 瀬底」(1991年)p.891</ref>。面積2.99km²<ref name="area">{{Cite web|date=2012-10-01|url=http://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/201210/shima.pdf|title=平成24年全国都道府県市区町村別面積調 島面積|publisher=[[国土地理院]]|format=PDF|page=9|accessdate=2013-02-16}}</ref>、周囲7.3km<ref name="katou">加藤(2010年)p.336</ref>、標高76m<ref name="kadokawa-sesokojima">『角川日本地名大辞典』「瀬底島」(1991年)p.423</ref><ref name="okinawa-sesokojima">『沖繩大百科事典 中巻』「瀬底島」(1983年)p.568</ref>、[[2010年]]の[[国勢調査 (日本)|国勢調査]]に基づく[[人口]]は808人<ref name="island">{{Cite web|year=2012|month=1|url=http://www.pref.okinawa.jp/site/kikaku/chiikirito/ritoshinko/documents/number1.pdf|title=離島関係資料 第1 指定離島・島しょ・人口|format=PDF|publisher=沖縄県企画部地域・離島課|page=1|accessdate=2013-01-31}}</ref><ref name="census">{{Cite web|date=2012-12-11|url=http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/Csvdl.do?sinfid=000012671639|title=平成22年国勢調査 小地域集計 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等 47.沖縄県|format=Excel|publisher=[[総務省]][[統計局]]|accessdate=2013-02-16}}</ref>{{refnest|group=注|本部町の大字である瀬底は瀬底島と水納島から成る<ref name="kadokawa-sesoko">『角川日本地名大辞典』「瀬底」(1991年)p.422</ref>。『離島関係資料p.1』<ref name="island"/>によれば、水納島の平成22年国勢調査確報値に基づく人口は42人であるから、『平成22年国勢調査 小地域集計 男女別人口及び世帯数 - 町丁・字等』<ref name="census"/>に掲載されている本部町字瀬底の人口850人から差し引いた。}}である。隆起[[サンゴ礁]]の島で、主に[[琉球石灰岩]]で構成され<ref name="okinawa-sesokojima"/><ref name="ootaka"/>、島中央部は今帰仁帯と呼ばれる[[三畳紀]]の基盤岩類で成る<ref name="kadokawa-sesokojima"/><ref>中村(1996年)p.101</ref>。2段または3段の[[海岸段丘]]が見受けられ<ref name="okinawa-sesokojima"/><ref name="nakata166">仲田(2009年)p.166</ref><ref>河名(1988年)p.69</ref>、その段丘面には[[カルスト地形]]の一つである[[ドリーネ]]が、さらに島北部にはカレンフェルトも発達している<ref name="kadokawa-sesokojima"/>。北方からの強風に晒される為、[[防風林]]が設置されている箇所もある<ref name="nakata166"/>。集落は島中央を通る道路沿いに立地<ref name="kadokawa-motobu891"/>、また島南岸には[[琉球大学]]熱帯生物圏研究センターの研究施設が所在する<ref name="kadokawa-sesokojima"/>。 |
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[[沖縄本島]]の北端、[[東シナ海]]に浮かぶ瀬底島は、周囲約8km小さな島である。[[1985年]](昭和60年)に全長762mの瀬底大橋で沖縄島と接続された。島の西側に白い砂浜が広がる静かな瀬底ビーチがある。ビーチから眺める[[伊江島]]や[[水納島 (沖縄県本部町)|水納島]]の情景も美しく、特に島の向こうに沈む[[夕日]]が周囲を染めていく様子は圧巻である。また瀬底ビーチでは、[[海水浴]]シーズンには売店もオープンし、[[キャンプ]]を楽しむ家族連れや若者達で、夜通しにぎわう。瀬底大橋を渡って、気軽に遊びにいけるのが魅力であるが故にリゾート[[ホテル]]の建設が始まり土砂による[[海洋汚染]]および[[生態系]]の変化が心配される。 |
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なお、[[1985年]](昭和60年)の瀬底大橋完成までは、上陸用舟艇の渡し船が行き来した。ちなみに、[[渥美清]]主演の映画「[[男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花]]」で、リリーが東京に帰ったと聞いて寅さんがあわてて飛び乗るのがこの船であった。そんな船に乗っても[[東京]]には帰れないぞ、と思ってみてると、島づたいに一ヶ月かけて帰り着いたとあとで説明されてあった。 |
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[[沖永良部与論沖縄北部諸方言|方言]]で「瀬底」は「シーク」と呼ばれる<ref>{{Cite web|year=2000|month=4|url=http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/nkjn/details.php?ID=NK17112|title=今帰仁方言音声データベース 「瀬底」|publisher=[[琉球大学]] 沖縄言語研究センター|accessdate=2013-01-31}}</ref>。15世紀後半に編纂された[[李氏朝鮮]]時代の歴史書『[[海東諸国紀]]』には「世々九」と、『[[マシュー・ペリー|ペリー]]提督沖縄訪問記』にはスコ島(''Suco Island'' )と記されている。瀬底島という名称は17世紀前半に著された『琉球国高究帳』に記載され、それ以降この地名は一般に広まったとされる。<ref name="kadokawa-sesokojima"/> |
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[[先史時代]]の貝塚や[[グスク]]時代の多数の遺構が発見され<ref name="sugata"/>、中でも瀬底グスク(ウチグスク)では、[[青磁]]や染付けされた[[陶磁器]]が出土している<ref name="okinawa-sesokogusuku">『沖繩大百科事典 中巻』「瀬底グスク」(1983年)p.568</ref>。伝承によると、ウチグスク周辺に生活していた7世帯が瀬底島を開闢したとされる。[[1469年]]に[[第一尚氏]]王統最後の[[尚徳王]]が死去すると、同系の今帰仁[[按司]]のある一人の子供がウチグスクに住み渡り、瀬底島に村落を形成したと言われる。またこれとは別に[[沖縄本島]]中部の[[具志川市|具志川]]や[[石川市|石川]](現在の[[うるま市]]の一部)<ref name="sugata"/>からの移住者が、集落を築いたとも伝えられている。<ref name="kadokawa-sesoko"/> |
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南岸に[[琉球大学]]熱帯生物圏研究センター瀬底実験所がある。 |
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当初の瀬底島の人口は少なく、土地が余分にあった為、[[沖縄本島]]から海を渡って農作業を行いに来る人々もいた<ref name="kadokawa-ishikawa">『角川日本地名大辞典』「石嘉波村」(1991年)p.422</ref>。しかし、島内には[[水田]]はなく、また[[麻疹]]や[[天然痘]]などの[[疫病]]も度々発生し、[[飢餓]]に苦しむことも多かった。[[1826年]]に飢饉による困窮のため、琉球王府から金銭を借り入れている。島中央部に位置する土帝君の祠は瀬底の[[親雲上]]である上間家の一人が[[1712年]]に[[清]]へ渡航した際、持ち帰った木像を祀ったのが始まりとされる。代々上間家は本部間切の[[琉球の位階#地方役人の位階|地頭代]]を務め、[[1772年]]に沖縄本島全域に疫病が流行した際、間切全土の復興支援を行った<ref name="kadokawa-motobu887">『角川日本地名大辞典』「本部町 〔沿革〕 土帝君と上間家」(1991年)p.887</ref>。特に5代目は貧民救援に尽力した功績が認められ、[[1831年]]に王府から[[掛軸]]と[[上布]]を受け賜った。<ref name="kadokawa-sesoko-earlymodern">『角川日本地名大辞典』「〔近世〕瀬底村」(1991年)p.422</ref> |
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* 面積:2.99km² |
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* 人口:442人 |
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* 小学校:1校 |
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* 信号:1ヶ所 |
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* 医療施設:無し |
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瀬底島は元来[[今帰仁村|今帰仁]][[間切]]の所属であったが、1666年に今帰仁間切から新たに伊野波間切として分割された<ref name="kadokawa-motobu886">『角川日本地名大辞典』「本部町 〔沿革〕 本部間切の村々」(1991年)p.886</ref>。翌年[[1667年]]に本部間切に名称を変更、『[[琉球国由来記]]』にも本部間切瀬底村と記述されている<ref name="kadokawa-sesoko-earlymodern"/>。琉球王国時代初頭は瀬底村の1村のみであったが、[[1736年]]石嘉波村が農地開拓のため本部半島から移り2村体制となり、[[1896年]](明治29年)に両村とも国頭郡へ編入、[[1903年]](明治36年)に石嘉波村は瀬底村に合併された<ref name="kadokawa-ishikawa"/>。そして[[1908年]](明治41年)に本部村の、[[1940年]](昭和15年)に本部町の[[大字]]となり現在に至る<ref name="kadokawa-sesoko-earlymodern"/><ref name="kadokawa-sesoko-modern">『角川日本地名大辞典』「〔近代〕瀬底村」(1991年)p.422</ref>。 |
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* [[沖縄県道172号瀬底健堅線]]([[都道府県道|一般県道]]) |
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** 瀬底大橋 |
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*:[[1985年]](昭和60年)[[2月13日]]に開通した。全長762mで完成当時、沖縄県で最長の橋であった。 |
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瀬底島に[[井戸]]は存在せず、昔から[[天水]]に依存してきた<ref name="okinawa-sesoko">『沖繩大百科事典 中巻』「瀬底」(1983年)p.568</ref>。現在でも雨水をためる[[貯水池]]が集落東側の[[御嶽 (沖縄)|御嶽]]に4箇所残存している<ref name="kadokawa-sesoko-modern423">『角川日本地名大辞典』「〔近代〕瀬底村」(1991年)p.423</ref>。旱魃で[[水不足]]に陥ると、沖縄本島から生活用水を輸送していたが、[[1964年]](昭和39年)に[[ボーリング]]機材を用いて[[地下水]]を汲み上げてから、幾分水不足は解消された<ref name="kadokawa-sesoko-modern423"/>。そして[[1982年]](昭和57年)に沖縄本島から海底送水が実施された<ref>{{Cite web|year=2012|month=1|url=http://www.pref.okinawa.lg.jp/site/kikaku/chiikirito/ritoshinko/documents/number4.pdf|title=離島関係資料 第4 生活環境施設等|format=PDF|publisher=沖縄県企画部地域・離島課|page=124|accessdate=2013-02-16}}</ref>。1973年(昭和48年)に[[電話]]回線が開設<ref name="kadokawa-sesoko-modern423"/>、また電力も対岸の本部半島から[[海底ケーブル]]で送電されている<ref name="okinawa-sesokojima"/>。 |
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== 最寄バス停 == |
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* 渡久地バス停 |
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: [[名護バスターミナル]]より[[沖縄本島のバス路線#65番・66番|系統番号65番]]、[[沖縄本島のバス路線#65番・66番|66番]]、[[沖縄本島のバス路線#70番・76番|70番]]、[[沖縄本島のバス路線#70番・76番|76番]]に乗車、「渡久地」下車。ビーチまでは渡久地よりタクシーで3.5kmほどである(バス便数:1日平日47便、休日40本)。 |
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[[1890年]](明治23年)に島内に簡易小学校を設立したのが最初で、3年後に瀬底[[尋常小学校]]に改称した<ref name="kadokawa-sesoko-earlymodern"/>。[[1921年]]([[大正]]10年)に[[高等科]]が新設され、戦後に瀬底中学校を設置した<ref name="kadokawa-sesoko-modern"/>。[[2011年]]に瀬底中学校は沖縄本島の本部中学校へ統合される事が決定し<ref>{{cite news|title=本部町 瀬底、本部中に統合 来年度計画|newspaper=[[琉球新報]]|date=2011-06-22|url=http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-178474-storytopic-7.html|accessdate=2013-02-15}}</ref>、翌年[[2012年]][[3月11日]]に閉校式が行われた<ref>{{Cite web|author= |authorlink= |coauthors= |date=2012-03-30|url=http://www.town.motobu.okinawa.jp/flippermaker/kouhou277/#page=7|title=まちの広報誌 第277号 64年の歴史に幕 瀬底中学校閉校式典|format=FlipperMaker|publisher=本部町企画政策課|page=7|accessdate=2013-02-16}}</ref>。 |
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* 瀬底公民館前バス停 |
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: 名護バスターミナルより下記「外部リンク」の様に系統番号65番、66番の瀬底経由、または76番に乗車、「瀬底公民館前」下車。ビーチまでは徒歩1kmほどである(バス便数:全日1日4往復、全8便)。 |
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※参考:[http://www.kotsu-okinawa.org バスマップ沖縄] |
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主な産業は[[農業]]である。[[サトウキビ]]、[[スイカ]]、[[花卉]]類が主要な産物で<ref name="sugata"/><ref name="ootaka"/><ref name="okinawa-sesokojima"/>、過去に[[サツマイモ]]や[[麦]]、[[豆]]類も栽培していた<ref name="kadokawa-sesoko-modern423"/>。昭和初期に石灰質岩石の[[トラバーチン]]を産出し<ref name="okinawa-sesokojima"/>、[[国会議事堂]]の建材に使用された<ref name="kadokawa-sesokojima"/>。ムンジュル笠と呼ばれる[[麦わら]](方言でムンジュル)を編んで作った[[菅笠]]状の日笠が瀬底島の[[工芸品]]で、沖縄本島北部ではシーク笠(瀬底笠)とも言われる<ref name="okinawa-munjurugasa">『沖繩大百科事典 下巻』「ムンジュル笠」(1983年)p.645</ref>。明治時代から[[1960年代]]まで農家の副業として生産してきた<ref name="okinawa-sesoko"/><ref name="kadokawa-sesoko-modern423"/>。しかし、多種多様な[[帽子]]が大量且つ安価に生産される今日では、ムンジュル笠はそれらに圧倒され、[[1991年]]頃の生産人口はわずか2、3人までに衰退した<ref name="okinawa-sesokojima"/>。島西部の海岸には全長約1kmに及ぶ[[砂浜]]が広がり、毎年夏場は観光客で盛況する<ref name="katou"/><ref name="ootaka"/>。 |
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== 文化 == |
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瀬底島中央部に、古来より[[中国]]における農業の神様として崇拝された土帝君の祠があり、当地で毎年[[旧暦2月2日]]に豊年祭が行われる<ref name="kadokawa-sesoko-earlymodern"/>。またこの祭祀施設は[[1997年]][[12月3日]]に「瀬底土帝君」として国の[[重要文化財]]に指定されている<ref name="katou"/><ref>{{Cite web|url=http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=187806&isHighlight=true&pageId=3|title=瀬底土帝君|publisher=[[文化庁]]|accessdate=2013-02-16}}</ref>。昭和初期まで[[氏神]]に奉げる村踊りと綱引きは毎年交互に行われたが、[[1935年]](昭和10年)から5年ごとに1回交互に開催するようになった<ref name="kadokawa-sesoko-modern"/>。村踊りは[[旧暦8月]]中旬の4日間、綱引きは[[旧暦8月11日|11日]]に行われ、帰省者や近郊の沖縄本島から訪れる観客で賑わう<ref name="kadokawa-sesoko-modern"/>。島南部には参詣毛(サンケーモー)と呼ばれる小高い丘があり、そこから毎年[[旧暦5月15日]]に[[酒]]と[[肴]]を用意し祖先の故郷([[本部町|本部]]や[[石川市|石川]]など)を訪れ、参拝するグングヮチウマチー(5月祭り)を行う<ref name="kadokawa-sesokojima"/><ref name="sugata"/><ref name="ootaka"/><ref name="okinawa-sesokojima"/>。[[獅子舞]]踊りや[[旧暦7月]]に[[伝統芸能]]「シヌグ」も催される<ref name="kadokawa-sesokojima"/><ref name="okinawa-sesokojima"/>。シヌグは作物の収穫終了後と次の農作へ移行する間に開催する祭事で、沖縄本島北部や[[奄美群島]]の一部でも行われる<ref name="okinawa-shinugu">『沖繩大百科事典 中巻』「シヌグ」(1983年)p.317</ref>。毎年5月と11月に「ピージャーオーラサイ」と言われる雄[[ヤギ]]同士で闘う伝統行事も行われる<ref>{{cite news|title=迫力満点 瀬底でピージャーオーラサイ|newspaper=[[琉球新報]]|date=2012-05-16|url=http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-191257-storytopic-5.html|accessdate=2013-03-14}}</ref>。 |
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瀬底島で使用される[[方言]]は[[沖永良部与論沖縄北部諸方言|沖縄北部方言]]に含まれるが、この方言の特徴である[[有気音]]と[[無気音]]の区別はない。それ以外の[[発音]]は他の[[琉球方言]]と比較して際立った特徴は見受けられず、また[[文法]]もほぼ変わらない。瀬底島の西に位置する[[水納島 (沖縄県本部町)|水納島]]は瀬底島から移住した人々で構成されている為、瀬底島と同一である。<ref name="okinawa-sesokohogen">『沖繩大百科事典 中巻』「瀬底島の方言」(1983年)p.568</ref> |
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== 交通 == |
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昔から瀬底島周辺の沖合は荒れやすく、王朝時代から[[船舶]]の[[転覆]]・[[座礁]]事故が多発していた<ref name="kadokawa-sesoko-earlymodern"/>。それに対して瀬底島と本部半島に挟まれた[[海峡]]は穏やかである為、外航船の避難港として利用されていた<ref name="kadokawa-sesoko"/>。沖縄本島と架橋する以前は[[渡し船]]が唯一の交通手段で、[[1946年]](昭和21年)から橋梁完成まで[[汽船]]が運航した<ref name="kadokawa-sesoko-modern"/>。当時の瀬底港と沖縄本島側の浜崎港(両港とも[[2006年]]に[[本部港]]に統合)を1日11便で結び<ref name="kadokawa-motobu891"/><ref name="motobu-port">{{Cite web|year=2009|month=10|url=http://www.pref.okinawa.jp/kowan/okinawa/H21kouwan/motobu.pdf|title=沖縄の港湾 本部港|format=PDF|publisher=沖縄県土木建築部港湾課|accessdate=2013-02-16}}</ref>、朝方と夕方には島内の学生が沖縄本島の学校へ通学するため、頻繁に利用していた<ref name="katou"/>。大橋開通後の瀬底港は[[漁港]]として使用され、現在は近くに[[ビーチ]]や[[キャンプ場]]が整備されている<ref name="motobu-port"/>。同字に属する水納島への渡航は、本部町の中心地にある渡久地港のみで客船が運行し、所要時間は45分を有する<ref name="kadokawa-motobu891"/>。 |
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[[1972年]](昭和47年)から7年間、瀬底大橋の建設に関する調査が行われた<ref name="okinawa-sesoko-oohashi">『沖繩大百科事典 中巻』「瀬底大橋」(1983年)p.568</ref>。[[1974年]](昭和49年)に島内の主要道路が[[沖縄県道172号瀬底健堅線]]に指定され、[[1979年]](昭和54年)に工事を着工した<ref name="kadokawa-sesoko-oohashi">『角川日本地名大辞典』「瀬底大橋」(1991年)p.423</ref>。[[1985年]](昭和60年)[[2月13日]]に完成し<ref name="shimatate">{{Cite web|year=2002|month=10|url=http://www.shimatate.or.jp/20kouhou/simatatei/sima_23/sima23-17.pdf|title=復帰30年特集シリーズ 4.技術者たちの声|format=PDF|publisher=一般社団法人 沖縄しまたて協会|pages=68 - 69|accessdate=2013-02-16}}</ref>、全長762mで当時の沖縄県において最長の橋であった<ref name="kadokawa-sesoko-oohashi"/>。また翌月の[[3月31日]]に完成を祝して島内に開通[[記念碑]]が建立された<ref name="shimatate"/>。現在は島民の生活道路のみでなく、[[景勝地]]として観光資源の一役も担っている<ref name="kadokawa-sesoko-oohashi"/><ref name="shimatate"/>。 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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<div class="references-small"><references group="注"/></div> |
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=== 出典 === |
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{{Reflist}} |
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== 参考文献 == |
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*大高利夫 『島嶼大事典』 [[日外アソシエーツ]]、1991年。ISBN 4-8169-1113-8 |
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*菅田正昭 『日本の島事典』 [[三交社]]、1995年。ISBN 4-87919-554-5 |
|||
*「角川日本地名大辞典」編纂委員会 『[[角川日本地名大辞典]] 47.沖縄県』 [[角川書店]]、1991年。ISBN 4-04-001470-7 |
|||
*沖繩大百科事典刊行事務局 『沖繩大百科事典 中巻』 [[沖縄タイムス]]、1983年。 |
|||
*加藤庸二 『原色 日本島図鑑』 [[新星出版社]]、2010年。ISBN 978-4-405-07130-8 |
|||
*仲田邦彦 『沖縄県の地理』 編集工房東洋企画、2009年。ISBN 978-4-938984-68-7 |
|||
*中村和郎ほか 『日本の自然 地域編 8 南の島々』 [[岩波書店]]、1996年。ISBN 4-00-007938-7 |
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*河名俊男 『シリーズ沖縄の自然 琉球列島の地形』 新星図書出版、1988年。 |
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== 関連項目 == |
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*[[日本の離島架橋]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* [http://parade.psend.com/aquattb/sezokTTB.htm バス時刻表](旭橋駅(那覇) → 瀬底公民館前(本部町)) |
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* [http://town.motobu.okinawa.jp/ 本部町役場] |
* [http://town.motobu.okinawa.jp/ 本部町役場] |
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* [http://www.tbc.u-ryukyu.ac.jp/sesoko/home.html 琉球大学熱帯生物圏研究センター瀬底研究施設] |
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{{沖縄諸島}} |
{{沖縄諸島}} |
2013年3月26日 (火) 01:48時点における版
瀬底島 | |
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1977年撮影。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成 | |
所在地 | 日本・沖縄県国頭郡本部町 |
所在海域 | 東シナ海 |
所属諸島 | 沖縄諸島 |
座標 | 北緯26度38分46秒 東経127度51分54秒 / 北緯26.64611度 東経127.86500度 |
面積 | 2.99 km² |
海岸線長 | 7.3 km |
最高標高 | 76 m |
プロジェクト 地形 |
瀬底島(せそこじま)は、沖縄県国頭郡本部町に属する島である[1][2][3][4][5][6]。
地理
本部半島の西方沖約600mの東シナ海に位置し、西洋ナシの形をした台地状の低平な島である[1][2][4]。島全域は本部町の大字である瀬底に属し、瀬底島西約6kmの海上にある水納島も同字に帰属する[7]。面積2.99km²[5]、周囲7.3km[3]、標高76m[1][6]、2010年の国勢調査に基づく人口は808人[8][9][注 1]である。隆起サンゴ礁の島で、主に琉球石灰岩で構成され[6][4]、島中央部は今帰仁帯と呼ばれる三畳紀の基盤岩類で成る[1][11]。2段または3段の海岸段丘が見受けられ[6][12][13]、その段丘面にはカルスト地形の一つであるドリーネが、さらに島北部にはカレンフェルトも発達している[1]。北方からの強風に晒される為、防風林が設置されている箇所もある[12]。集落は島中央を通る道路沿いに立地[7]、また島南岸には琉球大学熱帯生物圏研究センターの研究施設が所在する[1]。
歴史
方言で「瀬底」は「シーク」と呼ばれる[14]。15世紀後半に編纂された李氏朝鮮時代の歴史書『海東諸国紀』には「世々九」と、『ペリー提督沖縄訪問記』にはスコ島(Suco Island )と記されている。瀬底島という名称は17世紀前半に著された『琉球国高究帳』に記載され、それ以降この地名は一般に広まったとされる。[1]
先史時代の貝塚やグスク時代の多数の遺構が発見され[2]、中でも瀬底グスク(ウチグスク)では、青磁や染付けされた陶磁器が出土している[15]。伝承によると、ウチグスク周辺に生活していた7世帯が瀬底島を開闢したとされる。1469年に第一尚氏王統最後の尚徳王が死去すると、同系の今帰仁按司のある一人の子供がウチグスクに住み渡り、瀬底島に村落を形成したと言われる。またこれとは別に沖縄本島中部の具志川や石川(現在のうるま市の一部)[2]からの移住者が、集落を築いたとも伝えられている。[10]
当初の瀬底島の人口は少なく、土地が余分にあった為、沖縄本島から海を渡って農作業を行いに来る人々もいた[16]。しかし、島内には水田はなく、また麻疹や天然痘などの疫病も度々発生し、飢餓に苦しむことも多かった。1826年に飢饉による困窮のため、琉球王府から金銭を借り入れている。島中央部に位置する土帝君の祠は瀬底の親雲上である上間家の一人が1712年に清へ渡航した際、持ち帰った木像を祀ったのが始まりとされる。代々上間家は本部間切の地頭代を務め、1772年に沖縄本島全域に疫病が流行した際、間切全土の復興支援を行った[17]。特に5代目は貧民救援に尽力した功績が認められ、1831年に王府から掛軸と上布を受け賜った。[18]
瀬底島は元来今帰仁間切の所属であったが、1666年に今帰仁間切から新たに伊野波間切として分割された[19]。翌年1667年に本部間切に名称を変更、『琉球国由来記』にも本部間切瀬底村と記述されている[18]。琉球王国時代初頭は瀬底村の1村のみであったが、1736年石嘉波村が農地開拓のため本部半島から移り2村体制となり、1896年(明治29年)に両村とも国頭郡へ編入、1903年(明治36年)に石嘉波村は瀬底村に合併された[16]。そして1908年(明治41年)に本部村の、1940年(昭和15年)に本部町の大字となり現在に至る[18][20]。
瀬底島に井戸は存在せず、昔から天水に依存してきた[21]。現在でも雨水をためる貯水池が集落東側の御嶽に4箇所残存している[22]。旱魃で水不足に陥ると、沖縄本島から生活用水を輸送していたが、1964年(昭和39年)にボーリング機材を用いて地下水を汲み上げてから、幾分水不足は解消された[22]。そして1982年(昭和57年)に沖縄本島から海底送水が実施された[23]。1973年(昭和48年)に電話回線が開設[22]、また電力も対岸の本部半島から海底ケーブルで送電されている[6]。
1890年(明治23年)に島内に簡易小学校を設立したのが最初で、3年後に瀬底尋常小学校に改称した[18]。1921年(大正10年)に高等科が新設され、戦後に瀬底中学校を設置した[20]。2011年に瀬底中学校は沖縄本島の本部中学校へ統合される事が決定し[24]、翌年2012年3月11日に閉校式が行われた[25]。
産業
主な産業は農業である。サトウキビ、スイカ、花卉類が主要な産物で[2][4][6]、過去にサツマイモや麦、豆類も栽培していた[22]。昭和初期に石灰質岩石のトラバーチンを産出し[6]、国会議事堂の建材に使用された[1]。ムンジュル笠と呼ばれる麦わら(方言でムンジュル)を編んで作った菅笠状の日笠が瀬底島の工芸品で、沖縄本島北部ではシーク笠(瀬底笠)とも言われる[26]。明治時代から1960年代まで農家の副業として生産してきた[21][22]。しかし、多種多様な帽子が大量且つ安価に生産される今日では、ムンジュル笠はそれらに圧倒され、1991年頃の生産人口はわずか2、3人までに衰退した[6]。島西部の海岸には全長約1kmに及ぶ砂浜が広がり、毎年夏場は観光客で盛況する[3][4]。
文化
瀬底島中央部に、古来より中国における農業の神様として崇拝された土帝君の祠があり、当地で毎年旧暦2月2日に豊年祭が行われる[18]。またこの祭祀施設は1997年12月3日に「瀬底土帝君」として国の重要文化財に指定されている[3][27]。昭和初期まで氏神に奉げる村踊りと綱引きは毎年交互に行われたが、1935年(昭和10年)から5年ごとに1回交互に開催するようになった[20]。村踊りは旧暦8月中旬の4日間、綱引きは11日に行われ、帰省者や近郊の沖縄本島から訪れる観客で賑わう[20]。島南部には参詣毛(サンケーモー)と呼ばれる小高い丘があり、そこから毎年旧暦5月15日に酒と肴を用意し祖先の故郷(本部や石川など)を訪れ、参拝するグングヮチウマチー(5月祭り)を行う[1][2][4][6]。獅子舞踊りや旧暦7月に伝統芸能「シヌグ」も催される[1][6]。シヌグは作物の収穫終了後と次の農作へ移行する間に開催する祭事で、沖縄本島北部や奄美群島の一部でも行われる[28]。毎年5月と11月に「ピージャーオーラサイ」と言われる雄ヤギ同士で闘う伝統行事も行われる[29]。
瀬底島で使用される方言は沖縄北部方言に含まれるが、この方言の特徴である有気音と無気音の区別はない。それ以外の発音は他の琉球方言と比較して際立った特徴は見受けられず、また文法もほぼ変わらない。瀬底島の西に位置する水納島は瀬底島から移住した人々で構成されている為、瀬底島と同一である。[30]
交通
昔から瀬底島周辺の沖合は荒れやすく、王朝時代から船舶の転覆・座礁事故が多発していた[18]。それに対して瀬底島と本部半島に挟まれた海峡は穏やかである為、外航船の避難港として利用されていた[10]。沖縄本島と架橋する以前は渡し船が唯一の交通手段で、1946年(昭和21年)から橋梁完成まで汽船が運航した[20]。当時の瀬底港と沖縄本島側の浜崎港(両港とも2006年に本部港に統合)を1日11便で結び[7][31]、朝方と夕方には島内の学生が沖縄本島の学校へ通学するため、頻繁に利用していた[3]。大橋開通後の瀬底港は漁港として使用され、現在は近くにビーチやキャンプ場が整備されている[31]。同字に属する水納島への渡航は、本部町の中心地にある渡久地港のみで客船が運行し、所要時間は45分を有する[7]。
1972年(昭和47年)から7年間、瀬底大橋の建設に関する調査が行われた[32]。1974年(昭和49年)に島内の主要道路が沖縄県道172号瀬底健堅線に指定され、1979年(昭和54年)に工事を着工した[33]。1985年(昭和60年)2月13日に完成し[34]、全長762mで当時の沖縄県において最長の橋であった[33]。また翌月の3月31日に完成を祝して島内に開通記念碑が建立された[34]。現在は島民の生活道路のみでなく、景勝地として観光資源の一役も担っている[33][34]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j 『角川日本地名大辞典』「瀬底島」(1991年)p.423
- ^ a b c d e f 菅田(1995年)pp.192 - 193
- ^ a b c d e 加藤(2010年)p.336
- ^ a b c d e f 大高(1991年)pp.286 - 287
- ^ a b “平成24年全国都道府県市区町村別面積調 島面積” (PDF). 国土地理院. p. 9 (2012年10月1日). 2013年2月16日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 『沖繩大百科事典 中巻』「瀬底島」(1983年)p.568
- ^ a b c d 『角川日本地名大辞典』「本部町 瀬底」(1991年)p.891
- ^ a b “離島関係資料 第1 指定離島・島しょ・人口” (PDF). 沖縄県企画部地域・離島課. p. 1 (2012年1月). 2013年1月31日閲覧。
- ^ a b “平成22年国勢調査 小地域集計 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等 47.沖縄県” (Excel). 総務省統計局 (2012年12月11日). 2013年2月16日閲覧。
- ^ a b c 『角川日本地名大辞典』「瀬底」(1991年)p.422
- ^ 中村(1996年)p.101
- ^ a b 仲田(2009年)p.166
- ^ 河名(1988年)p.69
- ^ “今帰仁方言音声データベース 「瀬底」”. 琉球大学 沖縄言語研究センター (2000年4月). 2013年1月31日閲覧。
- ^ 『沖繩大百科事典 中巻』「瀬底グスク」(1983年)p.568
- ^ a b 『角川日本地名大辞典』「石嘉波村」(1991年)p.422
- ^ 『角川日本地名大辞典』「本部町 〔沿革〕 土帝君と上間家」(1991年)p.887
- ^ a b c d e f 『角川日本地名大辞典』「〔近世〕瀬底村」(1991年)p.422
- ^ 『角川日本地名大辞典』「本部町 〔沿革〕 本部間切の村々」(1991年)p.886
- ^ a b c d e 『角川日本地名大辞典』「〔近代〕瀬底村」(1991年)p.422
- ^ a b 『沖繩大百科事典 中巻』「瀬底」(1983年)p.568
- ^ a b c d e 『角川日本地名大辞典』「〔近代〕瀬底村」(1991年)p.423
- ^ “離島関係資料 第4 生活環境施設等” (PDF). 沖縄県企画部地域・離島課. p. 124 (2012年1月). 2013年2月16日閲覧。
- ^ “本部町 瀬底、本部中に統合 来年度計画”. 琉球新報. (2011年6月22日) 2013年2月15日閲覧。
- ^ “まちの広報誌 第277号 64年の歴史に幕 瀬底中学校閉校式典” (FlipperMaker). 本部町企画政策課. p. 7 (2012年3月30日). 2013年2月16日閲覧。
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- ^ “瀬底土帝君”. 文化庁. 2013年2月16日閲覧。
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- ^ a b “沖縄の港湾 本部港” (PDF). 沖縄県土木建築部港湾課 (2009年10月). 2013年2月16日閲覧。
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- ^ a b c 『角川日本地名大辞典』「瀬底大橋」(1991年)p.423
- ^ a b c “復帰30年特集シリーズ 4.技術者たちの声” (PDF). 一般社団法人 沖縄しまたて協会. pp. 68 - 69 (2002年10月). 2013年2月16日閲覧。
参考文献
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- 中村和郎ほか 『日本の自然 地域編 8 南の島々』 岩波書店、1996年。ISBN 4-00-007938-7
- 河名俊男 『シリーズ沖縄の自然 琉球列島の地形』 新星図書出版、1988年。