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Omaemona1982 (会話 | 投稿記録) m →大統領の権限 |
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{{Otheruses|ドイツ国の大統領|現在のドイツ連邦共和国の大統領|連邦大統領 (ドイツ)}} |
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[[ファイル:Reichspräsidentenpalais, Berlin.jpg|300px|thumb|ヴァイマル共和政時代の大統領 |
[[ファイル:Reichspräsidentenpalais, Berlin.jpg|300px|thumb|ヴァイマル共和政時代の大統領官邸]] |
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'''ドイツ国大統領'''(ドイツこくだいとうりょう、{{lang-de|Reichspräsident}})は、[[ヴァイマル共和政]]([[1919年]] - [[1934年]])および[[ナチス・ドイツ]](1934年 - [[1945年]])における[[ドイツ国]]({{lang|de|Deutsches Reich}})の[[国家元首]]である。 |
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== 帝政の崩壊と共和制への移行 == |
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[[ファイル:Bundesarchiv Bild 175-01448, Berlin, Reichskanzlei, Philipp Scheidemann.jpg|thumb|180px|共和制宣言を行うシャイデマン(1918年11月9日)]] |
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== ドイツ国大統領の誕生 == |
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[[File:Bundesarchiv Bild 146-1977-074-08, Volksbeauftragte Landsberg, Scheidemann, Noske, Ebert, Wissell.jpg|thumb|250px|1918年12月、右から二人目が初代大統領[[フリードリヒ・エーベルト]]、その左隣は国防相[[グスタフ・ノスケ]]。]] |
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{{Main|ドイツ革命}} |
{{Main|ドイツ革命}} |
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[[第一次世界大戦]]末、敗色濃き[[ドイツ帝国]]で[[ドイツ革命|革命]]が発生した。[[1918年]][[11月9日]]、ベルリンの宰相官邸に在って革命により進退窮まった帝国宰相[[マクシミリアン・フォン・バーデン]]は、[[スパ (ベルギー)|スパ]]大本営にいた[[ドイツ皇帝|皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の退位を独断で宣言し、さらに[[ドイツ社会民主党]](SPD)党首[[フリードリヒ・エーベルト]]に宰相職を譲った。さらに同党の共同党首[[フィリップ・シャイデマン]]がエーベルトに独断で共和国宣言を行うに至った<ref name="アイク(1983)80">[[#アイク(1983)|アイク(1983)I巻]]、p.36</ref><ref name="モムゼン(2001)36">[[#モムゼン(2001)|モムゼン(2001)]]、p.36</ref>。 |
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[[1919年]][[1月19日]]に憲法制定のための国民議会議員選挙が行われ、[[2月6日]]に国民議会が[[ヴァイマル]]に召集された<ref name="阿部(2001)50">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]]、p.50</ref>。[[2月10日]]にそこで臨時憲法「[[暫定国家権力法]]」([[:de:Gesetz über die vorläufige Reichsgewalt|de]])が採択され、この中ではじめてドイツ国大統領(Reichspräsident)の存在が規定された<ref name="アイク(1983)108">[[#アイク(1983)|アイク(1983)I巻]]、p.108</ref><ref name="モムゼン(2001)66">[[#モムゼン(2001)|モムゼン(2001)]]、p.66</ref>。その翌日にエーベルトが国民議会議員の投票によって大統領に選出された<ref name="アイク(1983)110">[[#アイク(1983)|アイク(1983)I巻]]、p.110</ref><ref name="阿部(2001)50">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]]、p.50</ref><ref name="林(1968)51">[[#林(1968)|林(1968)]]、p.51</ref>。 |
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翌年、国民議会選挙の実施後、[[ヴァイマル]]の地で国民議会が召集され、[[ヴァイマル憲法]]が制定されたことにより、皇帝に代わって大統領がドイツの[[国家元首]]となり、[[フリードリヒ・エーベルト]]が初代大統領となった(シャイデマンは[[ドイツ国首相|首相]]に就任)。 |
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暫定国家権力法の大統領には憲法とそれに基づく政府が設立されるまでの間、担当閣僚の[[連署・副署|副署]]を得たうえで[[政令]]を発する任務が与えられていた<ref name="タルマン(2003)26">[[#タルマン(2003)|タルマン(2003)]]、p.26</ref>。 |
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== 大統領の権限および選出方法 == |
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[[ファイル:Friedrich Ebert.jpg|thumb|180px|初代大統領[[フリードリヒ・エーベルト]]]] |
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== ヴァイマル共和政のドイツ国大統領 == |
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1919年[[7月31日]]に[[ヴァイマル憲法]]が国民議会で採択された<ref name="阿部(2001)58">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]]、p.58</ref><ref name="タルマン(2003)30">[[#タルマン(2003)|タルマン(2003)]]、p.30</ref>。同憲法においてドイツ国大統領は第3章「大統領及び政府」(41条から59条)を中心に規定されている<ref name="グズィ(2002)395">[[#グズィ(2002)|グズィ(2002)]]、p.395</ref>。 |
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=== 大統領の選出 === |
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大統領は、20歳以上の全ドイツ国民による[[普通選挙]]・[[直接選挙]]によって選出される。[[選挙]]では、第1次投票での当選には過半数の得票が必要であるが、第2次投票では最多得票者が当選者となる。任期は7年で、以下のような権限を有していた。 |
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[[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-13355, Berlin, Reichspräsidentenwahl, Wahlwerbung.jpg|250px|thumb|1932年の大統領選挙における、選挙活動の様子。]] |
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ヴァイマル憲法41条はドイツ国大統領の[[被選挙権]]を35歳以上の全ドイツ国民に認め、大統領は全ドイツ国民から選出されると定めていた。細かい選挙制度は[[法律]]によって定めるとしていた<ref name="グズィ(2002)395">[[#グズィ(2002)|グズィ(2002)]]、p.395</ref>。ドイツ国大統領選挙法によってそれが規定されていた<ref name="グズィ(2002)21">[[#グズィ(2002)|グズィ(2002)]]、p.21</ref>。同法は最初の投票では当選には過半数の得票が必要であり、この投票で過半数を得票した候補がいない場合には第2次投票が行われ、最多得票者を当選者とするとしていた。また第2次投票の出馬のために第1次投票に出馬している必要はないとしていた<ref name="グズィ(2002)21">[[#グズィ(2002)|グズィ(2002)]]、p.21</ref>。 |
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憲法43条は大統領の任期を7年とし、また再選可能としていた<ref name="グズィ(2002)395">[[#グズィ(2002)|グズィ(2002)]]、p.395</ref><ref name="阿部(2001)122">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]]、p.122</ref><ref name="林(1968)54">[[#林(1968)|林(1968)]]、p.54</ref>。なおエーベルトは憲法制定前に国民議会から暫定的に大統領に選出されたため、ヴァイマル憲法の定めるドイツ国民からの選出を受けていないが、憲法180条によって次の大統領選挙までエーベルトが大統領職に在職することが認められていた<ref name="グズィ(2002)417">[[#グズィ(2002)|グズィ(2002)]]、p.417</ref>。エーベルト自身は1920年6月以降国民による大統領選挙の実施を希望していたが、内外の事情がそれを許さず、最終的に[[シレジア蜂起|シレジア]]での紛争が終わった1922年になってエーベルトの任期を1925年6月30日までとする憲法180条の改正が行われた<ref name="グズィ(2002)20-21">[[#グズィ(2002)|グズィ(2002)]]、p.20-21</ref>。 |
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* [[国会 (ドイツ)|国会]]の信任に基づき、[[行政機関|行政府]]の長である首相と各大臣を任免する権限 |
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* 国会を[[解散 (議会)|解散]]する権利 |
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* 国会が議決した法案を[[国民投票]]に付す権限 |
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* [[ドイツ軍|軍]]の[[統帥権]] |
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* [[大統領令|大統領緊急令]]の発令 |
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* 憲法停止・武力行使などを含む非常時大権 |
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しかしこの任期切れ前の1925年2月28日にエーベルトが死去した<ref name="阿部(2001)122">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]]、p.122</ref><ref name="グズィ(2002)21">[[#グズィ(2002)|グズィ(2002)]]、p.21</ref>。これによりヴァイマル憲法に則った初めての国民直接投票による大統領選挙が行われることとなった<ref name="林(1968)121">[[#林(1968)|林(1968)、p.121]]</ref>。[[3月29日]]に大統領選挙がおこなわれたが、過半数を獲得した候補はいなかった<ref name="阿部(2001)124">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.124]]</ref><ref name="モムゼン(2001)222">[[#モムゼン(2001)|モムゼン(2001)]]、p.222</ref>。そのため[[4月26日]]に第二次選挙がおこなわれ、[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]が僅差で[[ヴィルヘルム・マルクス]]を破って大統領に当選した([[1925年ドイツ大統領選挙]])<ref name="阿部(2001)126">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]]、p.126</ref><ref name="ベネット(1970)230">[[#ベネット(1970)|ウィーラー=ベネット(1970)]]、p.230</ref><ref name="モムゼン(2001)224">[[#モムゼン(2001)|モムゼン(2001)]]、p.224</ref>。 |
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このように、大統領に非常に強い権限が与えられていたため、第2代大統領[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]の時代には、国会を無視した大統領緊急令の頻繁な発令や、大統領の非常時大権による国会の信任を得ない[[内閣]]の交代、大統領の指揮下にある軍の政治介入などの問題が起き、これに加えて国会も[[分極的多党制|小党乱立]]を招きやすい選挙制度([[比例代表制]])で選出されていたため、政情不安の常態化を招くことになった。 |
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ヒンデンブルクの7年の任期満了に伴う[[1932年]]の大統領選挙には[[ナチ党]]党首[[アドルフ・ヒトラー]]が出馬していた。[[3月13日]]の選挙の結果、再選を目指すヒンデンブルクが最多得票したが、得票率49.6%とわずかに過半数に届かなかった<ref name="タルマン(2003)147">[[#タルマン(2003)|タルマン(2003)]]、p.147</ref><ref name="モムゼン(2001)372">[[#モムゼン(2001)|モムゼン(2001)]]、p.372</ref>。そのため[[4月10日]]に二度目の選挙があり、この選挙で53%の得票率を得たヒンデンブルクが再選した([[1932年ドイツ大統領選挙]])<ref name="林(1968)176">[[#林(1968)|林(1968)]]、p.174</ref><ref name="タルマン(2003)148">[[#タルマン(2003)|タルマン(2003)]]、p.148</ref><ref name="モムゼン(2001)373">[[#モムゼン(2001)|モムゼン(2001)]]、p.373</ref>。 |
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こうした問題点が、[[立法府]]である国会の形骸化や、国民のヴァイマル憲法体制への不信へとつながり、最終的には[[ナチ党の権力掌握]]によってヴァイマル憲法体制自体が崩壊してゆくこととなった。 |
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=== 大統領の代行 === |
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憲法51条は任期期間中に大統領が任務遂行不可能となった場合には首相がこれを代行し、その期間が長くなり得る際に法律の定めるところによって代行を擁立すると定めていた<ref name="グズィ(2002)397/417">[[#グズィ(2002)|グズィ(2002)]]、p.397/417</ref>。[[1925年]][[2月28日]]に大統領在職のままエーベルトが死去した際には、当時の最高裁判所長官であった[[ヴァルター・ジモンス]]が大統領代行に就任している<ref name="阿部(2001)122">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]]、p.122</ref>。国会第一党ナチ党はこれを恒常化すべきであるとして憲法改正を提案し、結果1932年12月17日に憲法改正条項である憲法76条{{#tag:ref|ヴァイマル憲法76条は「立法で憲法改正を行う事が出来る。ただし憲法改正に関する国会の決議は国会議員総数の3分の2以上が出席しており、かつ3分の2以上が賛成していることを要する」と定めている<ref name="グズィ(2002)400">[[#グズィ(2002)|グズィ(2002)]]、p.400</ref>。|group=#}}に基づいて憲法51条の規定は法律で修正され、大統領が職務を執れない場合は最高裁判所長官が大統領職を代行すると規定された。ナチ党がこの修正を行わせたのは首相[[クルト・フォン・シュライヒャー]]が大統領を兼務することを阻止するためであった<ref name="グズィ(2002)23">[[#グズィ(2002)|グズィ(2002)]]、p.23</ref>。 |
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=== 大統領の権限 === |
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なお、任期期間中に大統領が任務遂行不可能となった場合には首相がこれを代行し、その期間が長くなり得る際には法の定めるところによって代行を擁立するとあり、1925年にエーベルトが死去した際には、[[1925年]][[3月10日]]に大統領代行に関する法案を決議し、当時の最高裁長官であった[[ヴァルター・ジモンス]]を大統領代行とした。 |
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大統領は憲法24条により[[国会 (ドイツ)|国会]][[召集]]権、また25条により国会[[解散 (議会)|解散]]権を有した<ref name="グズィ(2002)24">[[#グズィ(2002)|グズィ(2002)]]、p.24</ref>。ただし解散権が濫用されないよう同一案件での解散は1回のみに限定されていた<ref name="グズィ(2002)24/392">[[#グズィ(2002)|グズィ(2002)]]、p.24/392</ref>。しかしこの規定に罰則はなく、もし違反して解散総選挙を行ってもその選挙は有効とされていた<ref name="グズィ(2002)25">[[#グズィ(2002)|グズィ(2002)]]、p.25</ref>。憲法25条により総選挙は解散後60日以内に行わねばならなかったが、政治的混乱が多かったヴァイマル共和政時代においてはこの規定は政府が2カ月の間国会から自由になれるという意味があった<ref name="グズィ(2002)25">[[#グズィ(2002)|グズィ(2002)]]、p.25</ref>。 |
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[[File:Bundesarchiv Bild 102-10884, Berlin, Reichswehr-Feier, Friedrich Ebert.jpg|250px|thumb|国軍を閲兵する最高司令官フリードリヒ・エーベルト大統領(1923年8月ベルリン)]] |
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憲法45条により大統領は[[国際法]]上ドイツ国を代表し、諸外国と[[条約]]を結び、また諸外国使節の認証や接受を行うとされていた<ref name="グズィ(2002)396"/><ref name="アイク(1983)122">[[#アイク(1983)|アイク(1983)I巻]]、p.122</ref><ref name="モムゼン(2001)68">[[#モムゼン(2001)|モムゼン(2001)]]、p.68</ref>。憲法46条は法律に別個定めがある場合を除き大統領に官吏・将校の任免権を認めている<ref name="グズィ(2002)396">[[#グズィ(2002)|グズィ(2002)]]、p.396</ref>。さらに憲法47条は大統領に[[ヴァイマル共和国軍|国軍]][[最高指揮権]]を認めている<ref name="グズィ(2002)396"/>。 |
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憲法48条は州政府が憲法の義務を果たさない場合は大統領は武力をもって州政府に対して義務を履行させることができると定めており、さらに公共の秩序が阻害または危機にある場合も武力を含めた必要な処置を執ることが認められており、その際に[[基本的人権]]に関する一定の条項につき一時的に停止することを認めていた。ただしこれらの処置を行った場合は国会に遅滞なく報告せねばならず、国会の要求があればその処置は停止されるとも定められていた<ref name="グズィ(2002)396"/><ref name="林(1968)54">[[#林(1968)|林(1968)]]、p.54</ref><ref name="モムゼン(2001)68"/>。 |
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== 首相職との統合 == |
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[[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-14569, Berlin, Mai-Feier, Hindenburg und Hitler.jpg|right|thumb|300px|ヒンデンブルクとヒトラー(1933年5月1日)]] |
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この非常時の強力な大権によりヴァイマル憲法のドイツ大統領は「代理皇帝(Ersatzkaiser)」とも呼ばれていた<ref name="モムゼン(2001)68"/>。大統領にこのような権限が認められたのは憲法を創案した[[フーゴ・プロイス]]や[[マックス・ウェーバー]]らが議会政治に慣れていないドイツ人が完全なる議会政治の中に投げ込まれれば混乱に陥ると考えたためだった<ref name="林(1968)55">[[#林(1968)|林(1968)、p.55]]</ref>。しかし結局はこの憲法48条が後に拡大解釈されて[[#大統領内閣について|大統領内閣]]の道を開き、事実上議会政治が終焉してしまった<ref name="モムゼン(2001)68"/><ref name="林(1968)55"/>。 |
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[[ファイル:Wahlschein.jpg|200px|thumb|1932年の大統領選挙における、第2次投票時の投票用紙。<br>候補者名は、上から順に[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]](無所属)、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]([[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]])、[[エルンスト・テールマン|テールマン]]([[ドイツ共産党|共産党]])。]] |
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憲法53条は大統領に政府の議長たる[[ドイツ国首相|首相]]の任免権を認めていた(閣僚は首相の提案したがって任免)。首相の任命にあたって国会が関与できるのかどうかは議論のあるところだったが、54条は政府は国会の信任を必要とし不信任を受けた場合は退陣しなければならない旨を定めていたため、結局任命にあたっても国会が影響を及ぼすことになった<ref name="グズィ(2002)27/397">[[#グズィ(2002)|グズィ(2002)]]、p.27/397</ref>。実際的な運用としては事前に大統領が国会の各会派と協議を行ったが、それは徐々に各党への圧力という形に変化していった<ref name="グズィ(2002)27-28">[[#グズィ(2002)|グズィ(2002)]]、p.27-28</ref>。しかしそれは政府が強かったというより国会の弱さが原因であった。国会議員の選挙制度が[[比例代表制]]だったため<ref name="グズィ(2002)41">[[#グズィ(2002)|グズィ(2002)]]、p.41</ref>、国会は常に多数派が安定せず、首相選定にあたって安定した首相候補を推せる立場になかった<ref name="グズィ(2002)28">[[#グズィ(2002)|グズィ(2002)]]、p.28</ref>。それでもまだエーベルトの時代には国会との協力の上で組閣を行うことが重視されていたが、ヒンデンブルクの時代になると徐々に首相任免権は大統領にあることが強調されて組閣にあたって首相に指針を与えることが増え、ついには国会軽視の大統領内閣が組閣されるに至った<ref name="グズィ(2002)29">[[#グズィ(2002)|グズィ(2002)]]、p.29</ref>。 |
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{{Main|ナチ党の権力掌握|総統}} |
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[[1933年]][[1月30日]]に[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]の[[アドルフ・ヒトラー]]が首相に就任すると、[[3月24日]]には[[ドイツ国家人民党]]と[[中央党 (ドイツ)|中央党]]の協力を得て[[全権委任法]]を可決させる。これにより、ヴァイマル憲法は事実上死文化して国会も無力化し、ヒトラーは独裁的権力を持つようになる。その後、[[1934年]][[8月2日]]にヒンデンブルクが現職大統領のまま死去すると、ヒトラーは「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を発効させ、首相職に大統領職を統合するとともに、「指導者兼首相(Führer und Reichskanzler)であるアドルフ・ヒトラー」個人に対してドイツ国大統領の権能を帰属させた<ref>南、指導者-国家-憲法体制の構成、19p。また翌日、ヒンデンブルクの死去に伴って発されたヒトラーの布告「元首法の執行に関する命令」には、内務大臣[[ヴィルヘルム・フリック]]に対し「内閣により決定され、かつ憲法に基づき合法的に私の人格及びライヒ首相職に対しかつてのライヒ大統領の権限が委任された」と記述されている。南、21p</ref>。この措置は[[8月19日]]に行われた国民投票において圧倒的多数の賛成を受けた。以後ヒトラーは「Führer」もしくは「Führer und Reichskanzler」の呼称を用い、大統領(Reichspräsident)という呼称は使用されなくなった。 |
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憲法73条は大統領に国会が制定した法律を国民投票に付す権限を認めていたが、それが実施されることはなかった。国会解散権の方が強力であり、そちらで十分だったからである<ref name="グズィ(2002)14-15">[[#グズィ(2002)|グズィ(2002)]]、p.14-15</ref>。 |
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[[第二次世界大戦]]に敗れてベルリンが陥落すると、ヒトラーは[[自殺]]して[[ナチス・ドイツ]]は事実上崩壊した。ヒトラーの遺書に基づき、[[カール・デーニッツ]]が[[臨時政府]]([[フレンスブルク政府]])の後継者となった。ヒトラーの遺書では、デーニッツの地位は「総統」ではなく、ヒトラーが総統を名乗り始めて以来、事実上空位となっていた「大統領」であった(首相には[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]が指名されていたが直後に自殺したため、デーニッツの任命により[[ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク]]が代行を務めた)。しかしデーニッツ本人はヒトラーの後継者であることは認めつつも、自らを大統領であると称することは控えていた。降伏後、デーニッツらの臨時政府関係者は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]によって逮捕された。 |
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憲法50条は大統領が出す全ての命令と処分を発効するためには首相か担当閣僚の[[連署・副署|副署]]が必要としており、その政治責任は首相か担当閣僚が負うと定めていた<ref name="グズィ(2002)396">[[#グズィ(2002)|グズィ(2002)]]、p.396</ref>。このことも非常時には大統領が直接政治指導するのだという解釈を強めた<ref name="モムゼン(2001)68-69">[[#モムゼン(2001)|モムゼン(2001)]]、p.68-69</ref>。 |
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== 歴代大統領 == |
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'''「[[ドイツの国家元首一覧#ヴァイマル共和政時代(大統領)]]」を参照。''' |
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== 大統領 |
=== 大統領内閣について === |
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[[世界恐慌]]の中の[[1930年]][[3月27日]]、[[ヘルマン・ミュラー]]大連立内閣は失業者対策で社民党の党内合意を得られずに瓦解した<ref name="阿部(2001)164">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.164]]</ref>。社民党、[[ヤング案]]反対運動に興じる[[ドイツ国家人民党|国家人民党]]、ヴァイマル共和政を「ブルジョア共和政」として忌み嫌う[[ドイツ共産党|共産党]]、いずれからも政府支持を期待できない中、ヒンデンブルクは議会に拘束されない政治を志向し、側近の[[クルト・フォン・シュライヒャー]]の薦めに従って[[ハインリヒ・ブリューニング]]を首相に任命しつつ、憲法48条に基づいて公布する緊急令を使って政治を行う「大統領内閣」を開始した<ref name="林(1968)154-156">[[#林(1968)|林(1968)]]、p.154-156</ref><ref name="阿部(2001)165">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]]、p.165</ref>。ブリューニング辞職後も[[フランツ・フォン・パーペン]]内閣、[[クルト・フォン・シュライヒャー]]内閣と大統領内閣を継続した。 |
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ヴァイマル共和政時代、大統領選挙は[[1925年]]と[[1932年]]の2回実施され、2回ともパウル・フォン・ヒンデンブルクが当選者となっている。第1回の1925年の選挙は、初代大統領フリードリヒ・エーベルトの急死に伴って実施され、第2回の1932年の選挙は任期満了に伴って実施された。2回とも,第1次投票で過半数の票を得た候補者はおらず、第2次投票にてヒンデンブルクが選出されている。大統領選挙についての詳細は以下の項目を参照。 |
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1930年[[7月16日]]にブリューニング内閣が提出した赤字補填案が国会で否決されるとヒンデンブルクは緊急令を出して強引に可決させたが、社民党がこれを国会の投票で否決し、国会解散につながった。1930年[[10月18日]]には緊急令で国会から予算審議権を剥奪している<ref name="阿部(2001)172">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]]、p.172</ref>。また台頭する[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)の弾圧にもしばしば使用され、[[1931年]][[3月28日]]にはナチ党の集会と新聞を禁止する緊急令が出され<ref name="阿部(2001)175">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]]、p.175</ref>、1932年[[4月23日]]にもナチ党の[[突撃隊]]と[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]を禁止する緊急令が出されている<ref name="林(1968)174">[[#林(1968)|林(1968)]]、p.174</ref>。パーペン内閣時代の1932年[[7月20日]]には緊急令で社民党の[[オットー・ブラウン]]首相率いる[[プロイセン州]]政府を解体した<ref name="阿部(2001)200">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]]、p.200</ref>。従来ならば緊急令の対象にはならなかった分野に続々と緊急令が出されるようになっていった。乱発される緊急令に国会の重要性は低下していった<ref name="モムゼン(2001)329">[[#モムゼン(2001)|モムゼン(2001)]]、p.339</ref>。しかし緊急令の拡大は最高裁判所や多数の憲法学者、[[ドイツ民主党]]など中道ブルジョア政党から独自の立法権としてむしろ擁護されていた<ref name="モムゼン(2001)230/330">[[#モムゼン(2001)|モムゼン(2001)]]、p.230/330</ref>。 |
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* [[1925年ドイツ大統領選挙]] |
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* [[1932年ドイツ大統領選挙]] |
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しかし大統領内閣ではナチ党や国家人民党とうまくいかず、結局[[1933年]][[1月30日]]にナチ党・国家人民党による連立と大統領内閣を組み合わせたような[[ヒトラー内閣]]が誕生するに至った<ref name="阿部(2001)213-214">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]]、p.213-214</ref>。 |
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== 戦後ドイツの大統領制に与えた影響 == |
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ヴァイマル憲法が大統領に強大な権限を与えた結果、ヒトラーによる独裁を許してしまったため、戦後に[[西ドイツ]]で制定された[[ドイツ連邦共和国基本法]]では、大統領の役割は形式的・儀礼的なものにほぼ限定されており、選出方法も[[間接選挙]]となっている。戦後のドイツ大統領についての詳細は[[連邦大統領 (ドイツ)]]を参照。 |
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== ナチス体制下のドイツ国大統領 == |
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=== 大統領と首相の二頭政治 === |
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[[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-14569, Berlin, Mai-Feier, Hindenburg und Hitler.jpg|right|thumb|250px|ドイツ国大統領[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]とドイツ国首相[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]](1933年5月1日)]] |
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[[1933年]][[1月30日]]にヒトラーが首相に就任し、2月28日にヒトラーの要請を受けたヒンデンブルクはヴァイマル憲法の基本的人権に関する条項を停止する大統領緊急令「[[国民及び国家の保護のための大統領緊急令]]」([[:de:Verordnung des Reichspräsidenten zum Schutz von Volk und Staat|de]])を布告した<ref name="阿部(2001)221">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.221]]</ref>。ついで[[3月24日]]には[[ドイツ国家人民党]]と[[中央党 (ドイツ)|中央党]]の協力を得て憲法76条の憲法改正立法の手続きを踏んで[[全権委任法]]を国会で可決させる。これにより、憲法をのぞくあらゆる法律の制定権限が首相に認められた<ref name="阿部(2001)226">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.226]]</ref>。さらに一党独裁体制を構築した後の[[1934年]]1月30日には憲法76条の憲法改正立法の手続きを踏んで国家新構成法を制定し、その中で「政府は憲法を制定できる」と定めた<ref name="南(2003)21">[[#南(2003)|南(2003)]]、p.21</ref>。 |
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これらの処置によりヴァイマル憲法は事実上死文化して国会も無力化し、ヒトラーは独裁的権力を持つようになる<ref name="阿部(2001)226">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.226]]</ref>。しかし憲法上の大統領の権限については浸食せず、そのため首相・閣僚任免権や国軍の最高指揮権は依然としてヒンデンブルクにあり、首相ヒトラーとの[[二頭政治]]はヒンデンブルクの死まで続いた<ref name="阿部(2001)226"/>。 |
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1934年6月21日には国軍最高指揮権と首相任免権を有するヒンデンブルクがヒトラーに対して[[突撃隊]]問題を解決できないならば大統領権限で戒厳令を布告し、ヒトラーの権限を陸軍に移すと通達しており、これによりヒトラーは突撃隊粛清の決意を固めて[[長いナイフの夜]]の粛清を行ったとみられる<ref name="阿部(2001)274">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.274]]</ref>。 |
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=== 首相との統合 === |
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[[file:RGBL I 1934 S 0747.png|thumb|180px|1934年8月2日の官報に載る元首法]] |
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{{Main|ナチ党の権力掌握|総統}} |
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1934年8月1日にヒトラーは国家新構成法を根拠として元首法(Staatsoberhauptgesetz)を制定し<ref name="南(2003)21"/>、その中でヒンデンブルクが死去した場合には憲法が定める大統領の権能は「指導者兼首相(Führer und Reichskanzler)であるアドルフ・ヒトラー」個人に対して帰属させると定めた<ref name="南(2003)19">[[#南(2003)|南(2003)]]、p.19</ref>{{#tag:ref|またヒンデンブルクの死去に伴って発されたヒトラーの布告「元首法の執行に関する命令」には、内務大臣[[ヴィルヘルム・フリック]]に対し「内閣により決定され、かつ憲法に基づき合法的に私の人格及びライヒ首相職に対しかつてのライヒ大統領の権限が委任された」と記述されている<ref name="南(2003)21">[[#南(2003)|南(2003)]]、p.21</ref>。|group=#}}。 |
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その翌日8月2日にヒンデンブルクは死去し、一時間とたたずに大統領の権能はヒトラーに統合された旨が発表された<ref name="ベネット(1970)398-399">[[#ベネット(1970)|ウィーラー=ベネット(1970)]]、p.398-399</ref>。軍はヒトラー個人に対して[[忠誠宣誓]]を行った<ref name="ベネット(1970)399">[[#ベネット(1970)|ウィーラー=ベネット(1970)]]、p.399</ref>。[[8月19日]]に元首法の賛否についての国民投票が行われ、89.9%の賛成票を受けた<ref name="阿部(2001)284">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.284]]</ref><ref name="南(2003)23">[[#南(2003)|南(2003)]]、p.23</ref>。 |
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しかし大統領(Reichspräsident)という呼称はヒンデンブルクへの敬意のためとして永久に廃止するとされた<ref name="阿部(2001)284">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]]、p.284</ref>。以後ヒトラーは「Führer」もしくは「Führer und Reichskanzler」の称号を用いた。国家元首、首相、そしてナチ党の党首としてドイツ国の最高指導者となったヒトラーの地位を日本では「総統」と称している。 |
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=== デーニッツの大統領就任 === |
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[[第二次世界大戦]]に敗れてベルリンが陥落すると、ヒトラーは自殺してナチス・ドイツは事実上崩壊した。ヒトラーの遺書に基づき、[[カール・デーニッツ]]が[[臨時政府]]([[フレンスブルク政府]])の後継者となった。ヒトラーの遺書では、デーニッツの地位は「総統」ではなく、ヒトラーが指導者兼首相を名乗り始めて以来、事実上空位となっていた「大統領(Reichspräsident)」であった<ref name="阿部(2001)649">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.649]]</ref>(首相には[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]が指名されていたが直後に自殺したため、デーニッツの任命により[[ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク]]が代行を務めた)。しかし、デーニッツ本人はヒトラーの後継者であることは認めつつも、自らを大統領であると称することは控えていた。降伏後、[[5月23日]]にデーニッツらの臨時政府関係者は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]によって逮捕された<ref name="阿部(2001)657">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.657]]</ref>。臨時政府の解体によりドイツ国大統領の職は終焉を迎えた。 |
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== ドイツ国の歴代大統領 == |
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{{See also|ドイツの国家元首一覧}} |
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ドイツ国の歴代大統領は以下のとおりである<ref name="秦(2001)334">[[#秦(2001)|秦(2001)、p.334]]</ref>。 |
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! 画像 |
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! width=200|名前<br><small>(生年 - 没年) |
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! 就任日 |
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! 退任日 |
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! 所属政党 |
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| 1 || [[File:Bundesarchiv Bild 102-00015, Friedrich Ebert.jpg|60px]] || [[フリードリヒ・エーベルト]]<br>(1871年 - 1925年) || 1919年2月11日 || 1925年2月28日<br>(死去) ||[[ドイツ社会民主党|ドイツ社民党(SPD)]] |
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|- bgcolor=#EDEDED |
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| * || [[File:Bundesarchiv Bild 102-12279, Walter Simons.jpg|60px]] || [[ヴァルター・ジーモンス]]([[:de:Walter Simons|de]])<br>(1861年 - 1937年)</br>(大統領代行) || 1925年2月28日 || 1925年5月12日<br>(ヒンデンブルクの大統領就任) || 無所属 |
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|- bgcolor=#EDEDED |
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| 2 || [[File:Bundesarchiv Bild 183-C06886, Paul v. Hindenburg.jpg|60px]] || [[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]<br>(1847年 - 1934年) || 1925年5月12日 || 1934年8月2日<br>(死去) || 無所属 |
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|- bgcolor=#EDCBA9 |
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| * || [[File:Bundesarchiv Bild 183-S62600, Adolf Hitler.jpg|60px]] ||[[アドルフ・ヒトラー]]<br>(1889年 - 1945年)</br>(指導者兼[[ドイツ国首相|首相]]([[総統]]))</br>(大統領の権能を吸収) || 1934年8月2日 || 1945年4月30日<br>([[アドルフ・ヒトラーの死|自殺]]) || [[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党(NSDAP)]] |
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|- bgcolor=#EDCBA9 |
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| 3 || [[File:Karl Dönitz.jpg|60px]] ||[[カール・デーニッツ]]<br>(1891年 - 1980年) || 1945年5月1日 || 1945年5月23日<br>(逮捕・フレンスブルク政府解体) || [[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党(NSDAP)]] |
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|} |
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== ドイツ国の大統領旗 == |
== ドイツ国の大統領旗 == |
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=== ヴァイマル共和政時代 === |
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ファイル:Standarte Reichspräsident 1921-1926.gif|<div style="text-align:center;">1921年 - 1926年</div> |
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ファイル:Standarte Reichspräsident 1926-1933.gif|<div style="text-align:center;">1926年 - 1933年</div> |
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ファイル:Standarte Reichspräsident 1933-1935.svg|<div style="text-align:center;">1933年 - 1934年</div> |
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=== ナチ党による権力奪取以後 === |
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ファイル:Standarte |
ファイル:Standarte Adolf Hitlers.svg|<div style="text-align:center;">1934年 - 1945年4月30日<br>(ヒトラー総統旗)</div> |
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ファイル:Standarte Reichspräsident 1926-1933.gif|1926年~1933年 |
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ファイル:Standarte Reichspräsident 1933-1935.svg|1933年~1934年 |
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ファイル:Standarte Adolf Hitlers.svg|1934年~1945年 |
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ファイル:Großadmiralflagge 1939-1945.svg|1945年4月30日~1945年5月23日 |
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== 戦後ドイツの大統領制に与えた影響 == |
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== 参考文献 == |
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ヴァイマル憲法が大統領に強大な権限を与えた結果、ヒトラーによる独裁を許してしまったため、戦後に[[西ドイツ]]で制定された[[ドイツ連邦共和国基本法]]では、大統領の役割は形式的・儀礼的なものにほぼ限定されており、選出方法も[[間接選挙]]となっている。戦後のドイツ大統領についての詳細は[[連邦大統領 (ドイツ)]]を参照。 |
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* [[南利明 (法学者)|南利明]]『[http://ir.lib.shizuoka.ac.jp/bitstream/10297/3574/1/090603026.pdf 〈論説〉指導者-国家-憲法体制の構成]』[[静岡大学]]法政研究第7巻3号 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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{{reflist|1}} |
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{{reflist|group=#|1}} |
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=== 出典 === |
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{{reflist|3}} |
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== 参考文献 == |
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*{{Cite book|和書|author=[[南利明 (法学者)|南利明]]|year=[[2003年]]|title=〈論説〉指導者-国家-憲法体制の構成|url=http://ir.lib.shizuoka.ac.jp/bitstream/10297/3574/1/090603026.pdf|format=PDF|journal=法政研究第7巻3号|publisher=[[静岡大学]]|ref=南(2003)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[エーリッヒ・アイク]]([[:de:Erich Eyck|de]])|translator=[[救仁郷繁]]|year=[[1983年]]|title=ワイマル共和国史 I 1917-1922|publisher=[[ぺりかん社]]|isbn=978-4831503299|ref=アイク(1983)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[阿部良男]]|year=[[2001年]]|title=ヒトラー全記録 :20645日の軌跡|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760120581|ref=阿部(2001)}} |
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*{{Cite book|和書|author=Ch.グズィ|translator=[[原田武夫]]|year=[[2002年]]|title=ヴァイマール憲法―全体像と現実|publisher=[[風行社]]|isbn=978-4938662431|ref=グズィ(2002)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[リタ・タルマン]]|translator=[[長谷川公昭]]|year=[[2003年]]|title=ヴァイマル共和国|publisher=[[白水社]]|isbn=978-4560058657|ref=タルマン(2003)}} |
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*{{Cite book|和書|year=[[2001年]]|title=世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000|editor=[[秦郁彦]]編|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130301220|ref=秦(2001)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[林健太郎]]|year=[[1968年]]|title=ワイマル共和国 :ヒトラーを出現させたもの|publisher=[[中公新書]]|isbn=978-4121000279|ref=林(1968)}} |
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* {{Cite book|和書|author=ジョン・ウィーラー=ベネット|translator=[[木原健男]]|year=[[1970年]]|title=ヒンデンブルクからヒトラーへ :ナチス第三帝国への道|publisher=[[東邦出版]]|asin=B000J9FIVS|ref=ベネット(1970)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[ハンス・モムゼン]]([[:de:Hans Mommsen|de]])|translator=[[関口宏道]]|year=[[2001年]]|title=ヴァイマール共和国史―民主主義の崩壊とナチスの台頭|publisher=[[水声社]]|isbn=978-4891764494|ref=モムゼン(2001)}} |
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== 関連項目 == |
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2011年10月22日 (土) 22:51時点における版
ドイツ国大統領(ドイツこくだいとうりょう、ドイツ語: Reichspräsident)は、ヴァイマル共和政(1919年 - 1934年)およびナチス・ドイツ(1934年 - 1945年)におけるドイツ国(Deutsches Reich)の国家元首である。
ドイツ国大統領の誕生
第一次世界大戦末、敗色濃きドイツ帝国で革命が発生した。1918年11月9日、ベルリンの宰相官邸に在って革命により進退窮まった帝国宰相マクシミリアン・フォン・バーデンは、スパ大本営にいた皇帝ヴィルヘルム2世の退位を独断で宣言し、さらにドイツ社会民主党(SPD)党首フリードリヒ・エーベルトに宰相職を譲った。さらに同党の共同党首フィリップ・シャイデマンがエーベルトに独断で共和国宣言を行うに至った[1][2]。
1919年1月19日に憲法制定のための国民議会議員選挙が行われ、2月6日に国民議会がヴァイマルに召集された[3]。2月10日にそこで臨時憲法「暫定国家権力法」(de)が採択され、この中ではじめてドイツ国大統領(Reichspräsident)の存在が規定された[4][5]。その翌日にエーベルトが国民議会議員の投票によって大統領に選出された[6][3][7]。
暫定国家権力法の大統領には憲法とそれに基づく政府が設立されるまでの間、担当閣僚の副署を得たうえで政令を発する任務が与えられていた[8]。
ヴァイマル共和政のドイツ国大統領
1919年7月31日にヴァイマル憲法が国民議会で採択された[9][10]。同憲法においてドイツ国大統領は第3章「大統領及び政府」(41条から59条)を中心に規定されている[11]。
大統領の選出
ヴァイマル憲法41条はドイツ国大統領の被選挙権を35歳以上の全ドイツ国民に認め、大統領は全ドイツ国民から選出されると定めていた。細かい選挙制度は法律によって定めるとしていた[11]。ドイツ国大統領選挙法によってそれが規定されていた[12]。同法は最初の投票では当選には過半数の得票が必要であり、この投票で過半数を得票した候補がいない場合には第2次投票が行われ、最多得票者を当選者とするとしていた。また第2次投票の出馬のために第1次投票に出馬している必要はないとしていた[12]。
憲法43条は大統領の任期を7年とし、また再選可能としていた[11][13][14]。なおエーベルトは憲法制定前に国民議会から暫定的に大統領に選出されたため、ヴァイマル憲法の定めるドイツ国民からの選出を受けていないが、憲法180条によって次の大統領選挙までエーベルトが大統領職に在職することが認められていた[15]。エーベルト自身は1920年6月以降国民による大統領選挙の実施を希望していたが、内外の事情がそれを許さず、最終的にシレジアでの紛争が終わった1922年になってエーベルトの任期を1925年6月30日までとする憲法180条の改正が行われた[16]。
しかしこの任期切れ前の1925年2月28日にエーベルトが死去した[13][12]。これによりヴァイマル憲法に則った初めての国民直接投票による大統領選挙が行われることとなった[17]。3月29日に大統領選挙がおこなわれたが、過半数を獲得した候補はいなかった[18][19]。そのため4月26日に第二次選挙がおこなわれ、パウル・フォン・ヒンデンブルクが僅差でヴィルヘルム・マルクスを破って大統領に当選した(1925年ドイツ大統領選挙)[20][21][22]。
ヒンデンブルクの7年の任期満了に伴う1932年の大統領選挙にはナチ党党首アドルフ・ヒトラーが出馬していた。3月13日の選挙の結果、再選を目指すヒンデンブルクが最多得票したが、得票率49.6%とわずかに過半数に届かなかった[23][24]。そのため4月10日に二度目の選挙があり、この選挙で53%の得票率を得たヒンデンブルクが再選した(1932年ドイツ大統領選挙)[25][26][27]。
大統領の代行
憲法51条は任期期間中に大統領が任務遂行不可能となった場合には首相がこれを代行し、その期間が長くなり得る際に法律の定めるところによって代行を擁立すると定めていた[28]。1925年2月28日に大統領在職のままエーベルトが死去した際には、当時の最高裁判所長官であったヴァルター・ジモンスが大統領代行に就任している[13]。国会第一党ナチ党はこれを恒常化すべきであるとして憲法改正を提案し、結果1932年12月17日に憲法改正条項である憲法76条[# 1]に基づいて憲法51条の規定は法律で修正され、大統領が職務を執れない場合は最高裁判所長官が大統領職を代行すると規定された。ナチ党がこの修正を行わせたのは首相クルト・フォン・シュライヒャーが大統領を兼務することを阻止するためであった[30]。
大統領の権限
大統領は憲法24条により国会召集権、また25条により国会解散権を有した[31]。ただし解散権が濫用されないよう同一案件での解散は1回のみに限定されていた[32]。しかしこの規定に罰則はなく、もし違反して解散総選挙を行ってもその選挙は有効とされていた[33]。憲法25条により総選挙は解散後60日以内に行わねばならなかったが、政治的混乱が多かったヴァイマル共和政時代においてはこの規定は政府が2カ月の間国会から自由になれるという意味があった[33]。
憲法45条により大統領は国際法上ドイツ国を代表し、諸外国と条約を結び、また諸外国使節の認証や接受を行うとされていた[34][35][36]。憲法46条は法律に別個定めがある場合を除き大統領に官吏・将校の任免権を認めている[34]。さらに憲法47条は大統領に国軍最高指揮権を認めている[34]。
憲法48条は州政府が憲法の義務を果たさない場合は大統領は武力をもって州政府に対して義務を履行させることができると定めており、さらに公共の秩序が阻害または危機にある場合も武力を含めた必要な処置を執ることが認められており、その際に基本的人権に関する一定の条項につき一時的に停止することを認めていた。ただしこれらの処置を行った場合は国会に遅滞なく報告せねばならず、国会の要求があればその処置は停止されるとも定められていた[34][14][36]。
この非常時の強力な大権によりヴァイマル憲法のドイツ大統領は「代理皇帝(Ersatzkaiser)」とも呼ばれていた[36]。大統領にこのような権限が認められたのは憲法を創案したフーゴ・プロイスやマックス・ウェーバーらが議会政治に慣れていないドイツ人が完全なる議会政治の中に投げ込まれれば混乱に陥ると考えたためだった[37]。しかし結局はこの憲法48条が後に拡大解釈されて大統領内閣の道を開き、事実上議会政治が終焉してしまった[36][37]。
憲法53条は大統領に政府の議長たる首相の任免権を認めていた(閣僚は首相の提案したがって任免)。首相の任命にあたって国会が関与できるのかどうかは議論のあるところだったが、54条は政府は国会の信任を必要とし不信任を受けた場合は退陣しなければならない旨を定めていたため、結局任命にあたっても国会が影響を及ぼすことになった[38]。実際的な運用としては事前に大統領が国会の各会派と協議を行ったが、それは徐々に各党への圧力という形に変化していった[39]。しかしそれは政府が強かったというより国会の弱さが原因であった。国会議員の選挙制度が比例代表制だったため[40]、国会は常に多数派が安定せず、首相選定にあたって安定した首相候補を推せる立場になかった[41]。それでもまだエーベルトの時代には国会との協力の上で組閣を行うことが重視されていたが、ヒンデンブルクの時代になると徐々に首相任免権は大統領にあることが強調されて組閣にあたって首相に指針を与えることが増え、ついには国会軽視の大統領内閣が組閣されるに至った[42]。
憲法73条は大統領に国会が制定した法律を国民投票に付す権限を認めていたが、それが実施されることはなかった。国会解散権の方が強力であり、そちらで十分だったからである[43]。
憲法50条は大統領が出す全ての命令と処分を発効するためには首相か担当閣僚の副署が必要としており、その政治責任は首相か担当閣僚が負うと定めていた[34]。このことも非常時には大統領が直接政治指導するのだという解釈を強めた[44]。
大統領内閣について
世界恐慌の中の1930年3月27日、ヘルマン・ミュラー大連立内閣は失業者対策で社民党の党内合意を得られずに瓦解した[45]。社民党、ヤング案反対運動に興じる国家人民党、ヴァイマル共和政を「ブルジョア共和政」として忌み嫌う共産党、いずれからも政府支持を期待できない中、ヒンデンブルクは議会に拘束されない政治を志向し、側近のクルト・フォン・シュライヒャーの薦めに従ってハインリヒ・ブリューニングを首相に任命しつつ、憲法48条に基づいて公布する緊急令を使って政治を行う「大統領内閣」を開始した[46][47]。ブリューニング辞職後もフランツ・フォン・パーペン内閣、クルト・フォン・シュライヒャー内閣と大統領内閣を継続した。
1930年7月16日にブリューニング内閣が提出した赤字補填案が国会で否決されるとヒンデンブルクは緊急令を出して強引に可決させたが、社民党がこれを国会の投票で否決し、国会解散につながった。1930年10月18日には緊急令で国会から予算審議権を剥奪している[48]。また台頭する国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の弾圧にもしばしば使用され、1931年3月28日にはナチ党の集会と新聞を禁止する緊急令が出され[49]、1932年4月23日にもナチ党の突撃隊と親衛隊を禁止する緊急令が出されている[50]。パーペン内閣時代の1932年7月20日には緊急令で社民党のオットー・ブラウン首相率いるプロイセン州政府を解体した[51]。従来ならば緊急令の対象にはならなかった分野に続々と緊急令が出されるようになっていった。乱発される緊急令に国会の重要性は低下していった[52]。しかし緊急令の拡大は最高裁判所や多数の憲法学者、ドイツ民主党など中道ブルジョア政党から独自の立法権としてむしろ擁護されていた[53]。
しかし大統領内閣ではナチ党や国家人民党とうまくいかず、結局1933年1月30日にナチ党・国家人民党による連立と大統領内閣を組み合わせたようなヒトラー内閣が誕生するに至った[54]。
ナチス体制下のドイツ国大統領
大統領と首相の二頭政治
1933年1月30日にヒトラーが首相に就任し、2月28日にヒトラーの要請を受けたヒンデンブルクはヴァイマル憲法の基本的人権に関する条項を停止する大統領緊急令「国民及び国家の保護のための大統領緊急令」(de)を布告した[55]。ついで3月24日にはドイツ国家人民党と中央党の協力を得て憲法76条の憲法改正立法の手続きを踏んで全権委任法を国会で可決させる。これにより、憲法をのぞくあらゆる法律の制定権限が首相に認められた[56]。さらに一党独裁体制を構築した後の1934年1月30日には憲法76条の憲法改正立法の手続きを踏んで国家新構成法を制定し、その中で「政府は憲法を制定できる」と定めた[57]。
これらの処置によりヴァイマル憲法は事実上死文化して国会も無力化し、ヒトラーは独裁的権力を持つようになる[56]。しかし憲法上の大統領の権限については浸食せず、そのため首相・閣僚任免権や国軍の最高指揮権は依然としてヒンデンブルクにあり、首相ヒトラーとの二頭政治はヒンデンブルクの死まで続いた[56]。
1934年6月21日には国軍最高指揮権と首相任免権を有するヒンデンブルクがヒトラーに対して突撃隊問題を解決できないならば大統領権限で戒厳令を布告し、ヒトラーの権限を陸軍に移すと通達しており、これによりヒトラーは突撃隊粛清の決意を固めて長いナイフの夜の粛清を行ったとみられる[58]。
首相との統合
1934年8月1日にヒトラーは国家新構成法を根拠として元首法(Staatsoberhauptgesetz)を制定し[57]、その中でヒンデンブルクが死去した場合には憲法が定める大統領の権能は「指導者兼首相(Führer und Reichskanzler)であるアドルフ・ヒトラー」個人に対して帰属させると定めた[59][# 2]。
その翌日8月2日にヒンデンブルクは死去し、一時間とたたずに大統領の権能はヒトラーに統合された旨が発表された[60]。軍はヒトラー個人に対して忠誠宣誓を行った[61]。8月19日に元首法の賛否についての国民投票が行われ、89.9%の賛成票を受けた[62][63]。
しかし大統領(Reichspräsident)という呼称はヒンデンブルクへの敬意のためとして永久に廃止するとされた[62]。以後ヒトラーは「Führer」もしくは「Führer und Reichskanzler」の称号を用いた。国家元首、首相、そしてナチ党の党首としてドイツ国の最高指導者となったヒトラーの地位を日本では「総統」と称している。
デーニッツの大統領就任
第二次世界大戦に敗れてベルリンが陥落すると、ヒトラーは自殺してナチス・ドイツは事実上崩壊した。ヒトラーの遺書に基づき、カール・デーニッツが臨時政府(フレンスブルク政府)の後継者となった。ヒトラーの遺書では、デーニッツの地位は「総統」ではなく、ヒトラーが指導者兼首相を名乗り始めて以来、事実上空位となっていた「大統領(Reichspräsident)」であった[64](首相にはヨーゼフ・ゲッベルスが指名されていたが直後に自殺したため、デーニッツの任命によりルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージクが代行を務めた)。しかし、デーニッツ本人はヒトラーの後継者であることは認めつつも、自らを大統領であると称することは控えていた。降伏後、5月23日にデーニッツらの臨時政府関係者は連合国によって逮捕された[65]。臨時政府の解体によりドイツ国大統領の職は終焉を迎えた。
ドイツ国の歴代大統領
ドイツ国の歴代大統領は以下のとおりである[66]。
# | 画像 | 名前 (生年 - 没年) |
就任日 | 退任日 | 所属政党 |
---|---|---|---|---|---|
1 | フリードリヒ・エーベルト (1871年 - 1925年) |
1919年2月11日 | 1925年2月28日 (死去) |
ドイツ社民党(SPD) | |
* | ヴァルター・ジーモンス(de) (1861年 - 1937年) (大統領代行) |
1925年2月28日 | 1925年5月12日 (ヒンデンブルクの大統領就任) |
無所属 | |
2 | パウル・フォン・ヒンデンブルク (1847年 - 1934年) |
1925年5月12日 | 1934年8月2日 (死去) |
無所属 | |
* | アドルフ・ヒトラー (1889年 - 1945年) (指導者兼首相(総統)) (大統領の権能を吸収) |
1934年8月2日 | 1945年4月30日 (自殺) |
ナチ党(NSDAP) | |
3 | カール・デーニッツ (1891年 - 1980年) |
1945年5月1日 | 1945年5月23日 (逮捕・フレンスブルク政府解体) |
ナチ党(NSDAP) |
ドイツ国の大統領旗
ヴァイマル共和政時代
-
1921年 - 1926年
-
1926年 - 1933年
-
1933年 - 1934年
ナチ党による権力奪取以後
-
1934年 - 1945年4月30日
(ヒトラー総統旗)
戦後ドイツの大統領制に与えた影響
ヴァイマル憲法が大統領に強大な権限を与えた結果、ヒトラーによる独裁を許してしまったため、戦後に西ドイツで制定されたドイツ連邦共和国基本法では、大統領の役割は形式的・儀礼的なものにほぼ限定されており、選出方法も間接選挙となっている。戦後のドイツ大統領についての詳細は連邦大統領 (ドイツ)を参照。
脚注
注釈
- ^ ヴァイマル憲法76条は「立法で憲法改正を行う事が出来る。ただし憲法改正に関する国会の決議は国会議員総数の3分の2以上が出席しており、かつ3分の2以上が賛成していることを要する」と定めている[29]。
- ^ またヒンデンブルクの死去に伴って発されたヒトラーの布告「元首法の執行に関する命令」には、内務大臣ヴィルヘルム・フリックに対し「内閣により決定され、かつ憲法に基づき合法的に私の人格及びライヒ首相職に対しかつてのライヒ大統領の権限が委任された」と記述されている[57]。
出典
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- ^ モムゼン(2001)、p.36
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- ^ ウィーラー=ベネット(1970)、p.398-399
- ^ ウィーラー=ベネット(1970)、p.399
- ^ a b 阿部(2001)、p.284 引用エラー: 無効な
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- ^ 阿部(2001)、p.649
- ^ 阿部(2001)、p.657
- ^ 秦(2001)、p.334
参考文献
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- エーリッヒ・アイク(de) 著、救仁郷繁 訳『ワイマル共和国史 I 1917-1922』ぺりかん社、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4831503299。
- 阿部良男『ヒトラー全記録 :20645日の軌跡』柏書房、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4760120581。
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- リタ・タルマン 著、長谷川公昭 訳『ヴァイマル共和国』白水社、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4560058657。
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- 林健太郎『ワイマル共和国 :ヒトラーを出現させたもの』中公新書、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4121000279。
- ジョン・ウィーラー=ベネット 著、木原健男 訳『ヒンデンブルクからヒトラーへ :ナチス第三帝国への道』東邦出版、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ASIN B000J9FIVS。
- ハンス・モムゼン(de) 著、関口宏道 訳『ヴァイマール共和国史―民主主義の崩壊とナチスの台頭』水声社、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4891764494。