「アラー・ウッディーン・ハルジー」の版間の差分
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{{基礎情報 君主 |
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'''アラーウッディーン・ハルジー'''('''علاء الدين خلجی''' ‘Alā’al-Dīn Khaljī, [[1266年]]? - [[1316年]])は、[[ハルジー朝]]の第3代[[スルターン]](在位:[[1296年]] - 1316年)。 |
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| 人名 = アラーウッディーン・ハルジー |
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| 各国語表記 = علاء الدين خلجی |
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| 君主号 = |
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| 画像 = Sultan-Allahudeen-Gherzai.jpg |
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| 画像サイズ = |
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| 画像説明 = アラーウッディーン・ハルジー |
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| 在位 = [[1296年]] - [[1316年]] |
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| 戴冠日 = |
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| 別号 = |
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| 全名 = アラーウッディーン・ムハンマド・ハルジー |
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| 出生日 = [[1266年]] もしくは[[1267年]] |
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| 生地 = |
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| 死亡日 = [[1316年]][[1月2日]] |
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| 没地 = |
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| 埋葬日 = |
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| 埋葬地 = |
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| 継承者 = |
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| 継承形式 = |
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| 配偶者1 = ジャラールッディーン・ハルジーの娘 |
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| 配偶者2 = マーフルー<ref name="ibn410">バットゥータ『大旅行記』4巻(家島彦一訳注)、410頁</ref><ref group="notes">イブン・バットゥータは彼女を「マーヘ・ハック」と呼んだ。(バットゥータ『大旅行記』4巻(家島彦一訳注)、378,410頁)</ref> |
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| 配偶者3 = ジャティアパーリ |
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| 子女 = ヒズル・ハーン<br>シャーディー・ハーン<br>クトゥブッディーン・ムバーラク<br>シハーブッディーン・ウマル<br>ファリード・ハーン<br>アブー・バクル<br>バハー・ハーン<br>ウスマン・ハーン |
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| 王家 = ハルジー家 |
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| 王朝 = [[ハルジー朝]] |
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| 父親 = シハーブッディーン・マスード |
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| 母親 = |
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| 宗教 = |
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| サイン = |
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'''アラーウッディーン・ハルジー'''('''علاء الدين خلجی''' ‘Alā’al-Dīn Khaljī, [[1266年]]もしくは[[1267年]] - [[1316年]][[1月2日]])は、[[北インド]]を支配した[[デリー・スルタン朝]]の一つである[[ハルジー朝]]の第3代[[スルターン]](在位:[[1296年]] - 1316年)。南インドに初めてイスラム勢力を拡大し、インド南部におけるイスラム教信仰の基盤を築いた<ref name="horupu&ona">ブライヤン.K.グプタ「アラ・ウッディーン」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録 小名「ハルジー朝」『南アジアを知る事典』収録</ref>。デリー・スルタン朝を「インド=トルコ人国家」から「インド=ムスリム帝国」へと方向付け、デリー・スルタン朝のインド化を進めた人物と評価されている<ref>佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、54-55頁</ref>。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 即位以前 === |
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[[デリー・スルタン朝]]に加わった[[テュルク]]系部族集団ハルジーの出身で、[[奴隷王朝]]を滅ぼしてハルジー朝を開いた[[ジャラールッディーン・ハルジー]]の甥にあたり、娘婿でもあった。[[1296年]]に[[デカン高原]]遠征を率いて大勝を収め、ハルジー朝における自身の実力を確固たるものとした。そして同年、伯父のジャラールッディーンを軍隊の支持のもとに暗殺し、その息子をしばらく擁立した後にそれも廃して、自らスルターンとして即位した。 |
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[[奴隷王朝]]に加わった[[テュルク]]系部族集団ハルジー族の出身で、奴隷王朝を滅ぼしてハルジー朝を開いた[[ジャラールッディーン・ハルジー]]の甥にあたり、娘婿でもあった。[[1292年]]に肥沃な土壌と高級織物の生産地である<ref>バットゥータ『大旅行記』4巻(家島彦一訳注)、374頁</ref>[[デリー]]東部の都市カラー<ref group="notes">[[ヤムナー川]]と[[ガンジス川]]の合流点の近く、[[イラーハーバード]]の西に位置する。(バットゥータ『大旅行記』4巻(家島彦一訳注)、406頁)</ref>とその一帯の知事に任ぜられた。彼とジャラールッディーンの関係については、[[トゥグルク朝]]に仕官した経験もある[[イブン・バットゥータ]]は『[[旅行記 (イブン・バットゥータ)|大旅行記]]』で、アラーウッディーンとジャラールッディーンの娘の夫婦仲は悪く、そのためにジャラールッディーンとアラーウッディーンの関係もこじれたものになったと述べた<ref>バットゥータ『大旅行記』4巻(家島彦一訳注)、374頁</ref>。彼はジャラールッディーンの寛容な施策に不満を持つ将校たちの支持を得るため、ジャラールッディーンの許可を得て1294年よりイスラム王朝の軍隊として初めて<ref name="horupu&ona"/>[[ヴィンディヤ山脈]]を越えて[[デカン高原]]に南進し、デカンのヒンドゥー教国[[ヤーダヴァ朝]]を攻撃した。 |
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[[1296年]]にヤーダヴァ朝の首都デーヴァギリ(現在の[[ダウラターバード]])を占領し、17250ポンドの[[金]]、200ポンドの[[真珠]]、28250ポンドの[[銀]]を戦利品として手に入れるが<ref name="horupu">ブライヤン.K.グプタ「アラ・ウッディーン」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録</ref>、デリー・スルタン朝の慣例に反してこの時に得た膨大な戦利品をジャラールッディーンに献上せず<ref name="rob127">F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、127頁</ref>、自軍の軍費に充てた。同年に自分の陣営を訪れたジャラールッディーンを暗殺し、ジャラールッディーン殺害に協力した部下にはあらかじめ約束しておいた褒賞を与え、3か月かけてゆっくりとデリーへと進軍した<ref name="chuko46">佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、46頁</ref>。ジャラールッディーン暗殺の報告が届いたデリーではジャラールッディーンの妃マリカイ・ジャハーンは彼女の子[[ルクン・ウッディーン・イブラーヒーム・シャー|ルクン・ウッディーン]]をスルターンに擁立していたが、アラーウッディーンは道中でデカン遠征で得た戦利品<ref>佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、46頁 真下「デリー・スルターン朝の時代」『南アジア史 2』、110頁</ref>で兵士を徴募し、沿道の住民に金銀貨をばらまいて人気取りを図るとともに<ref name="chuko46"/>マリカイ・ジャハーンの支持者を買収して<ref name="rob127"/>彼らの寝返りを待った。デリーの貴族と軍人のほとんどがアラーウッディーンの支持に回るとデリーに入城し、ルクン・ウッディーンを盲目に、マリカイ・ジャハーンを居住に軟禁した上で、スルターンに即位した。 |
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[[1297年]]、[[北インド]]に侵攻した[[チャガタイ・ハン国]]の軍を[[デリー]]付近で撃退する。[[1299年]]から[[1303年]]の[[ラージプート]]遠征では[[パラマーラ朝]]、[[チャンデーラ朝]]など北インドの有力な諸王朝を滅ぼすとともに、[[マリク・カーフール]]に軍を預けて積極的な[[南インド]]遠征を行なった。[[1307年]]に[[ヤーダヴァ朝]]に壊滅的な打撃を与え、王の[[ラーマチャンドラ]]を捕らえて[[デリー]]へ連行し、[[1310年]]には、[[カーカティヤ朝]]の首都・[[ワランガル]]を陥落させ、はるか南方の[[ホイサラ朝]]を攻略し、バッラーラ3世をデリーまで連行している。このように[[インド亜大陸]]南端近くまで征服し、南インドのヒンドゥー系王朝を属国化した。また、現在の[[アフガニスタン]]の山岳地帯に駐留してインドへの侵入を繰り返す[[モンゴル]]軍を撃退して譲らず、事実上のインド統一を実現した。 |
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=== モンゴルとの戦い === |
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内政面においては、[[スパイ]]網と密告制度によるテュルク系の貴族の統制、地方の農村で中間支配層となる[[ヒンドゥー教徒]]の領主・地主層の抑圧を行ってスルターン権力を強化し、厳しい物価統制や検地の実施による税収の安定強化をはかり、強大な直属軍をつくって反乱を防ぐなど、強権的な政策をとった。また、南インド遠征の成功により、北インドには莫大な戦利品がもたらされたので、ハルジー朝は文化的・経済的にも大きく繁栄し、版図的にもデリー・スルタン朝の最盛期を実現した。 |
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治世の初期より、[[チャガタイ・ハン国]]の[[ハーン|ハン]]・[[ドゥア]]の軍が頻繁に北インドに侵入し、デリーは二度陥落の危険に晒された<ref name="sasia203">小谷、辛島「イスラーム世界の拡大とインド亜大陸」『南アジア史』、203頁</ref>。 |
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[[1298年]]のモンゴル軍侵入の撃退に成功して威信が大いに高まったことを利用し、かつて買収でジャラールッディーン側から寝返ったデリーの貴族を粛清した<ref name="chuko46"/>。[[1299年]]から[[1300年]]にかけてのモンゴル軍の侵入では、ドゥアの子であるクトゥルグ・ホージャの率いる200000の軍<ref>S.チャンドラ『中世インドの歴史』、83頁</ref>がデリー近郊にまで迫るが、アラーウッディーン自らが指揮する軍隊の奮戦によってデリー近郊で撃退した<ref name="mashita110">真下「デリー・スルターン朝の時代」『南アジア史 2』、110頁</ref>。[[1302年]]の冬にアラーウッディーンが[[ランタンボール]]に遠征していた時、120000のモンゴル軍<ref name="cha84">S.チャンドラ『中世インドの歴史』、84頁</ref>が北インドに侵入し、デリーに包囲を布いた。デリーへの交通路はモンゴル軍に遮断されていたために援軍と食料の供給は絶たれ<ref name="mashita110"/>、帰国したアラーウッディーンはデリーに入城できずにやむなくデリー東北のシーリー(スィーリー)に拠点を移した<ref name="sasia203"/>。 |
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晩年のアラーウッディーンは奢侈に走るようになり、強権を背景に自身の姿を移した貨幣を鋳造したり、イスラムからの逸脱をあらわにするなど失政を繰り返して、貴族たちの不満を鬱積させていった。 |
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しかし、小競り合いが繰り返された2か月後にモンゴル軍は包囲を解いて突如撤退<ref>S.チャンドラ『中世インドの歴史』、84頁 真下「デリー・スルターン朝の時代」『南アジア史 2』、110頁</ref>、撤退の理由について[[イギリス]]の研究者P.ジャクソンは[[カイドゥ]]を中心とした同盟の崩壊と、崩壊に伴う[[中央アジア]]方面の政情の変化が背景にあると考察した<ref name="mashita110"/>。 |
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[[1310年]]から[[1311年]]にかけて[[イルハン朝]]のハン・[[オルジェイトゥ]]より降伏を勧告する使節団が送られるが、アラーウッディーンは要求を容れず、18人の使節団全員を象に踏み殺させる<ref name="rob129">F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、129頁</ref>。将軍のガーズィー・マリク(後のトゥグルク朝の創始者[[ギャースッディーン・トゥグルク]])を[[アフガニスタン]]の山岳地帯に駐留させ、インド北部への侵入を繰り返すモンゴル軍を撃退させてインド北部の草原地帯の安全を確保した<ref name="rob129"/>。 |
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1316年にアラーウッディーンは51歳で死去する。一説に、家臣による[[暗殺]]ともいわれる。末子のシハーブ・ウッディーン・ウマル・シャーが宦官のマリクによって後継者として擁立された。 |
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こうしてハルジー朝の軍隊は[[モンゴル]]軍との戦いで勝利を重ね、ハルジー朝・トゥグルク朝に出仕した歴史家[[バラニー]]の言うところでは<br>/''「ムガル人(モンゴル人)はイスラーム軍を極度に恐れたので、ヒンドゥスターンを征服するという夢は彼らの頭からきれいに消え去った」''<small>(フランシス・ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』(小名康之監修, 創元社, 2009年5月)、129頁より引用)</small>戦況になった。 |
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アラーウッディーンの死後、[[宦官]]や貴族たちの間での内紛がたちまち起こり、その死からわずか4年後の[[1320年]]にハルジー朝は滅亡した。 |
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=== インド亜大陸での遠征活動 === |
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== エピソード == |
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[[1299年]]には[[グジャラート]]の[[ヴァーゲーラー朝]]([[後期チャールキヤ朝]]の後継国家)に[[ムルターン]]のウルグ・ハーンとデリーのヌスラト・ハーンを派遣し、国王カルナ2世の軍をアーシャーパッリー(現在の[[アフマダーバード]])近郊で破り、首都アナヒラパータカを攻略した。アラーウッディーンは征服地に長官を置かず、またヴァーゲーラー朝と臣従関係を結ぶこともなく、軍隊をデリーに引き上げさせたためにカルナ2世が従来通りグジャラートを統治するが、カルナ2世と婚姻関係を築いた後に彼が謀反を企んでいる情報が入ると、[[1304年]]に再びグジャラートに軍を進め、ヴァーゲーラー朝を滅ぼした<ref>三田「南アジアにおける中世的世界の形成」『南アジア史 2』、40頁</ref>。 |
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*自らを「第2の[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]」と自称した。 |
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*イスラム教徒であったが、マリク・カーフールなどのヒンドゥー改宗者など有能な人材を多数登用した点では名君として評価が高い。ただしこれはアラーウッディーンという強力な指導者がいたからこそ彼らを抑制できたのであり、その死後はマリクが暴走するなどして王朝の滅亡を早める一因を成した。 |
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1299年のグジャラート遠征の帰途で、戦利品の分配に不満を持ったハルジー朝内のイスラム教に改宗したモンゴル人(新ムスリム)が[[ジャーロール]]([[:en:Jalor district]])近郊で反乱を起こし、彼らから助けを求められたランタンボールの[[チャウハーン朝]]が反乱者を保護する事件が起きる<ref>佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、16,46-47頁</ref>。この事件がきっかけとなってウルグ・ハーン、ヌスラト・ハーンが率いる10000の軍隊をランタンボールへ派遣し<ref>三田「南アジアにおける中世的世界の形成」『南アジア史 2』、42頁</ref>、ヒンドゥワートでランタンボール軍を撃破する。ハルジー朝側は反乱者の処刑と貢納品を要求するがランタンボールの王ハンミーラは要求を拒絶し、ランタンボール城砦に籠城した。兵糧攻めの末にハンミーラは突撃を敢行して部下と共に戦死し、ランタンボールの内通者を主人を裏切った者は信用できないとして処刑<ref name="chuko47">佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、47頁</ref>、ランタンボールをウルグ・ハーンの統治下に置いた。また、アラーウッディーンは反乱に直面して、治安維持を名目にデリーの郊外に居住する反乱者の子を虐殺し、妻女を奴隷とした<ref>S.チャンドラ『中世インドの歴史』、91頁 佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、16頁 F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、129頁</ref>。この行為について宮廷の歴史家バラニーは男たちの罪を彼らの妻子に負わせる前例は無いと、虐殺を批判する記述を残した<ref name="chuko16">佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、16頁</ref>。 |
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*当時、多くの諸侯が乱立していた南北インドを統一し、モンゴル軍の侵攻を5度にもわたって撃退した軍事の天才であった。 |
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*伯父であり養父でもあるジャラール・ウッディーン・フィールーズ・シャーを殺したり、モンゴル兵の捕虜を虐殺したり、甥に謀反の嫌疑ありとしてその両目を潰して殺すなど、強力な圧制のために数々の残虐行為を行なっている。 |
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[[1303年]]に[[メーワール]]([[:en:Mewar]])を支配する[[グヒラ朝]]の王が籠る[[チットゥール県|チットール]]城砦を陥落させ、1299年の新ムスリムの反乱で、反乱軍を支援したジャーロールのチャウハーン朝([[ソーニーグラー朝]])へもハルジー朝の軍隊が送られた。[[1305年]]にジャーロール城砦を包囲した後、アラーウッディーンは朝貢を条件としてジャーロール王カーンハダデーヴァを許し<ref name="chuko16"/>、カーンハダデーヴァはハルジー朝の呼びかけに応じてデリーの宮廷を訪れたが、カーンハダデーヴァ親子はデリーに人質を置くことを拒んでジャーロール城砦に立て籠もり、再びハルジー朝に敵対した<ref name="chuko17">佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、17頁</ref>。[[1308年]]にアラーウッディーン率いる軍はシワーナー城砦を攻略し、各地でジャーロール軍と交戦した後、ジャーロール城砦を包囲しての兵糧攻めを行った。ジャーロール軍は都市の富裕商人から食料の供給を受けて奮戦するが<ref name="mita44">三田「南アジアにおける中世的世界の形成」『南アジア史 2』、44頁</ref>、[[1311年]]にジャーロールの内通者の手引きによってハルジー軍は城砦の中に入り<ref name="mita44"/>、城内のカーンハダデーヴァと一族と家臣、婦女子が戦死した末に<ref name="chuko17"/>、ジャーロールはハルジー朝の支配下に収まった。 |
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=== マリク・カーフールの南征 === |
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モンゴル軍の侵入は1308年の攻撃を持って一旦終息し、[[ラージャスターン州|ラージャスターン]]のラージプート国家の征服事業も1308年までにはジャーロールを残してほぼ完了していた<ref>佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、52頁</ref>。 |
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かつて臣従させたヤーダヴァ朝が貢納を拒むと、[[1307年]]にヒンドゥー教徒から改宗した解放奴隷[[マリク・カーフール]]に軍を預けてヤーダヴァ朝に向かわせ<ref>佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、52-53頁</ref>、王のラーマチャンドラを捕らえてデリーへ連行した<ref name="cha98">S.チャンドラ『中世インドの歴史』、98頁</ref>。アラーウッディーンはデリーに送られたラーマチャンドラを丁重に扱い、彼に金品とグジャラート地方に領地を与え、婚姻関係を結んだうえで同盟を結んだ<ref name="cha98"/>。カーフールはヤーダヴァ朝をデカン高原のヒンドゥー教国遠征の拠点として<ref name="chuko53">佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、53頁</ref>、1309年頃に[[マディヤ・プラデーシュ州|マディヤ・プラデーシュ]]北部の[[チャンデーラ朝]]を滅ぼし、1310年には、[[カーカティヤ朝]]の首都[[ワランガル]]を陥落させ、翌[[1311年]]にはるか南方の[[ホイサラ朝]]の首都ドゥバーラサムドラを攻略し、ホイサラ王バッラーラ3世をデリーまで連行している。1310年から1311年にかけてカーフールの軍隊は[[パーンディヤ朝]]が支配するマーバールをも攻撃して首都マドゥライを略奪、破壊し、彼らは[[インド亜大陸]]南端の[[カンニヤークマリ|コモリン岬]]にまで達した<ref>ブライヤン.K.グプタ「アラ・ウッディーン」『世界伝記大事典 世界編』1巻 小名「ハルジー朝」『南アジアを知る事典』収録</ref>。 |
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バラニーは、この遠征で得られた戦利品について、612頭の[[象]]、多量の金と宝石類、20000頭の馬を持って翌[[1311年]]初頭にデリーに帰還したと伝える<ref>F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、130頁</ref>。このハルジー朝の南方遠征の主目的は財貨の獲得にあり、永続的な支配を意図したものではなかった<ref name="mashita111">真下「デリー・スルターン朝の時代」『南アジア史 2』、111頁</ref>。従属させた国家にはデリーへの貢納を拒むものも多く、ヤーダヴァ朝もラーマチャンドラが没した後にはハルジー朝との従属関係を断ち切り、反乱が起こるたびにカーフールの率いる軍隊が派遣された<ref name="cha98">S.チャンドラ『中世インドの歴史』、98-99頁</ref>。 |
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ハルジー朝の遠征を受けて弱体化したデカンと南インドに割拠していた諸王朝は、アラーウッディーンの没後のデリー・スルタン朝、あるいは[[ヴィジャヤナガル王国]]によって次々に滅ぼされる<ref name="mashita111"/>。 |
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=== 晩年 === |
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晩年のアラーウッディーンは奢侈に溺れて健康を害し、また宮廷ではマリク・カーフールの影響力が増していった。彼はカーフールの意見を容れて正妃を宮廷から追放、妃の兄弟を処刑し、自身の息子で後継者としていたヒズル・ハーンをも投獄する<ref name="rob131">F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、131頁</ref>。1316年1月2日に[[水腫]]に罹って病没するが、国内ではカーフールによって彼の死期が早まったと噂された<ref name="rob131"/>。 |
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== 内政 == |
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[[File:Copper coin of Alauddin Khilji.jpg|thumb|140px|アラーウッディーンの発行した銅貨]] |
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[[File:Coin of Alauddin Khilji.jpg|thumb|140px|アラーウッディーンの発行した硬貨]] |
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[[File:063Qutb uddin mubarak-4.jpg|thumb|140px|アラーウッディーンの発行した硬貨。インドで最初に発行された正方形の貨幣である<ref name="chuko47"/>]] |
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アラーウッディーンは軍事と税制の改革に着手し、その政策は都市と農村の双方に影響を及ぼした<ref>荒「アラーウッディーン・ヒルジー」『アジア歴史事典』1巻収録</ref> |
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人事面では、インド・ムスリム(ヒンドゥー教からの改宗者)を積極的に登用し、奴隷王朝のスルターン・[[シャムスッディーン・イルトゥミシュ|イルトゥトゥミシュ]]と同様にイスラム神学者([[ウラマー]])の政治への影響力を削ごうと試みた<ref>S.チャンドラ『中世インドの歴史』、113頁 佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、54頁</ref>。 |
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彼が打ち出した政策には実施されずに終わったものも多いが、中には後の時代になって施行されたものもある<ref>小名「ハルジー朝」『南アジアを知る事典』収録</ref>。 |
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=== 監視と重税 === |
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アラーウッディーンは相次ぐ反乱にあたって<ref name="chuko47"/>、抵抗する勢力の察知と<ref name="rob129"/>反乱の防止のために国内に秘密警察をくまなく張り巡らせ<ref name="horupu"/>、力によって反対勢力を抑えつけようとした<ref name="rob129"/>。貴族、高官から庶民まで、行動や日常生活が彼の布いた監視網のもとに置かれたのである<ref name="chuko47"/>。 |
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貴族間の結婚はアラーウッディーンの許可無くして行うことはできず<ref>ブライヤン.K.グプタ「アラ・ウッディーン」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録</ref>、貴族の私有財産も削減された<ref name="horupu"/>。宴会は陰謀が交わされる場だとして禁止され、宴会に欠かせない飲酒、酒類の製造と販売も禁止されたが、禁酒令は徹底できず、自分で飲むための酒を個人で製造することは認めざるを得なかった<ref>S.チャンドラ『中世インドの歴史』、91頁 佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、47頁</ref>。 |
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役人には民衆に富と時間的余裕が残らないよう厳しい徴税を行うことが命じられ、この命令には時間的余裕が無くなれば反抗や反乱を考えるほどの余裕も無くなるという意図があった<ref name="chuko48">佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、48頁</ref>。インドで最初となる<ref name="chuko48"/>事前の測量に基づいて収穫高の半分を税とする貢租徴収<ref>小名「ハルジー朝」『南アジアを知る事典』収録 F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、129頁</ref>、兵糧の1つである[[牛乳]]を確保するための牧草地への課税<ref name="rob129"/>、徴税の過程で国家と農民の中間に立つ世襲的な在地支配者層を排除しての直接徴税<ref>小谷汪之、三田昌彦、水島司「中世的世界から近世・近代へ」『南アジア史 2』、13頁</ref><ref group="notes">この政策はトゥグルク朝期に廃され、在地支配者層が16世紀にも存続していたことより、アラーウッディーンの政策が恒久的に機能したとは言い難い。(小谷汪之、三田昌彦、水島司「中世的世界から近世・近代へ」『南アジア史 2』、13頁)</ref>、在地支配者層の免税特権の廃止を実施した。実施の程度と施行された地域に限りはあったものの、彼の治世に確立された徴税制度は後の時代に建国された[[スール朝]]、[[ムガル帝国]]で導入された徴税制度の基礎となった<ref name="chuko48">S.チャンドラ『中世インドの歴史』、104頁 佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、48頁</ref>。 |
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アラーウッディーン治下の北インドにおいて最も重い税が課せられたのはヒンドゥー教徒であり、彼らは重税以外に武器の所持、騎乗、奢侈にも厳しい制限が課される苛烈な処遇を受けた<ref name="horupu"/>。ただ、ヒンドゥー教徒への課税は迫害を目的としたものではなく、税収の確立が目的であったと思われる<ref name="mashita210">真下「デリー・スルターン朝の時代」『南アジア史 2』、210頁</ref>。厳しい徴税はイスラム教徒にも課され、宗教家や功労者に与えられていた土地は接収され、年金も停止された。 |
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=== 軍制の改革と物価の統制 === |
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度重なるモンゴル軍の侵攻を撃退するため、アラーウッディーンは砦の修復と並行して、強力な軍隊を作り出そうと軍制の改革に着手した<ref name="cha84"/>。デリー・スルタン朝の君主として初めて常備軍を設置<ref name="chuko49">佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、49頁</ref>、常備軍の増強のため軍事組織の再編、兵の名簿の作成、土地の給付に代わる給与の現金支給を実施し<ref name="chuko49"/>、軍馬要求の際の不正を一掃するために騎兵隊の馬に烙印を押すダーグ制度を導入した<ref>ブライヤン.K.グプタ「アラ・ウッディーン」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録 S.チャンドラ『中世インドの歴史』、121頁</ref>。475000にも上る数の騎兵<ref group="notes">バラニーとF.ロビンソンは騎兵の数を300000以上とし、S.チャンドラはバラニーの記した数を誇張と評している。(S.チャンドラ『中世インドの歴史』、121頁 F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、128頁)</ref>、騎兵以外に存在したと思われる歩兵を維持するための国家負担は非常に重く、農民への課税額は限度まで引き上げられて増税の余地は無かった<ref name="chuko49"/>。アラーウッディーンは膨大な数の軍隊を維持するために、軍費と給与を抑える様々な方策を考案し、特に物価の統制に着目した<ref name="chuko49"/>。 |
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政府によって日用品([[米]]、[[コムギ|小麦]]、豆、[[砂糖]]、精製されたバター油、食用油など<ref name="mashita210"/>)から高価な商品(輸入布地、馬、[[家畜]]、[[奴隷]]など<ref name="cha100">S.チャンドラ『中世インドの歴史』、100頁</ref>)に至る物価は低く抑えられ<ref name="horupu"/>、市民と都市部の軍隊が必要とする<ref name="cha101">S.チャンドラ『中世インドの歴史』、101頁</ref>穀物については密かに蓄えることを禁じ、飢饉に備えて国の穀倉に貯蔵された<ref name="rob128">F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、128頁</ref>。物資の流通の円滑化、[[公定価格]]と[[利潤率]]の調整、取引業者の登録を実施し、不法な商取引はもちろんのこと、物資の売り惜しみにも罰則が設けられた<ref name="chuko49"/>。[[イブン・バットゥータ]]の『[[旅行記 (イブン・バットゥータ)|大旅行記]]』でもアラーウッディーンの治下で行われた肉類、穀物、衣服の価格調整に触れられており、牛肉にかけられた税の撤廃、国の穀倉に貯蔵された穀物の開放などによって物価を抑制していたことが述べられている<ref>バットゥータ『大旅行記』4巻(家島彦一訳注)、376-377頁</ref>。飢饉に見舞われた時にも食料品の値上げは許されず、バラニーはハルジー朝下の穀物価格が安定していたことを称賛した<ref name="cha101"/>。 |
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市場の規則を破った者には厳しい罰則が加えられ、目方の不足に違反した商人は不足分の分量に相当する部位を身体から切り取られたという<ref name="rob128"/>。また、価格統制のためにデリーには穀物、高級布地、最期に馬や家畜や奴隷を扱う3つの市場が設置され<ref name="cha100"/>、これらの市場の管理は監督官(シャーフナーイエ・マンディー)を通して行われたが<ref name="mashita210"/>、一連の政策は全国的に行われたわけではなく、政策の実効力があったのはデリーとその周辺、および地方の一部の都市のみであったと考えられている<ref name="chuko49"/>。 |
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=== 文化事業 === |
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物価の統制と南インドで得た戦利品によって国庫は潤い、文化事業と建築事業に投資を行う余裕もできた。[[イラク]]、中央アジア方面から流入した学者文人は手厚く保護され<ref name="horupu"/>、またアラーウッディーンは70000人にも上る建築職人と石工を擁していた<ref>佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、88頁</ref>。彼はデリーに豪華絢爛なジャマーアート・ハーナ・モスクを建て<ref name="horupu"/>、[[アイバク]]が建造した[[クワットゥル・イスラーム・モスク]](クトゥブ・モスク、[[:en:Qutb complex]])を元の11倍の広さに拡張し<ref>佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、85頁</ref>、クトゥブへの入り口にアラーイー・ダルワーザという門を建てた<ref>S.チャンドラ『中世インドの歴史』、190頁</ref>。また、クトゥブ・モスクの境内に高さ150メートルにも達するアラーイー・ミナールの建造を企画したが未完に終わり、今日では基部だけが残る<ref>佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、85-86頁</ref>。 |
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彼の保護を受けていた学者文人の中で著名な人物として、詩人[[アミール・ホスロー]]([[:en:Amir Khusrow]])が挙げられる。ランタンボール遠征に随行したアミール・ホスローは、ランタンボール城砦を巡る攻防戦を鮮烈な描写で記した<ref>S.チャンドラ『中世インドの歴史』、95頁</ref>。 |
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== 人物像 == |
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=== 自己賛美 === |
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彼は「第二の[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス]](スィカンダル・サーニー)」を自称し、礼拝の際の[[フトバ]]で自らを第二のアレクサンドロスと呼ばせ、その名を刻ませた貨幣を鋳造した<ref name="horupu"/>。しかし、側近に諌められて過度の自己賛美は行わなくなった<ref name="horupu"/>。 |
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=== アラーウッディーンと乗馬 === |
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1299年から1300年にかけての冬、デリー近郊のティルパトの平原で甥のスライマーン・シャー・アーカト・ハーンがアラーウッディーンの暗殺を企てる事件が起きた<ref>バットゥータ『大旅行記』4巻(家島彦一訳注)、409-410頁</ref>。アラーウッディーンは狩りの途中で食事の時に馬から降りようとした時にスライマーン・シャーに射られて意識を失い、あわや落命の危機に遭う。それ以来金曜の礼拝や祭礼の時でも、彼は決して馬に乗ろうとしなかったという<ref>バットゥータ『大旅行記』4巻(家島彦一訳注)、377頁</ref>。 |
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この事件はバラニー、バダウーニーらデリー・スルタン朝の歴史家の著書以外に、イブン・バットゥータの『大旅行記』においても記されている<ref name="ibn410"/>。 |
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== ギャラリー == |
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File:Delhi - Alai Darwaza at Qutb complex.jpg|アラーイー・ダルワーザ |
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File:Qutb Complex Alai Minar.JPG|アラーイー・ミナールの基部 |
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File:Courts outside Quwwat ul-Islam mosque, Qutb complex.jpg|クワットゥル・イスラーム・モスク |
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File:Tomb of Alauddin Khilji, Qutub Minar complex, Delhi.jpg|[[クトゥブ・ミナール]]とその建造物群([[:en:Qutb complex]])内のアラーウッディーンの墓 |
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</gallery> |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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<references group="notes"/> |
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=== 引用元 === |
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<references/> |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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*「アジア歴史事典 |
* [[荒松雄]]「アラーウッディーン・ヒルジー」『アジア歴史事典』1巻収録([[平凡社]], 1959年) |
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* ブライヤン.K.グプタ「アラ・ウッディーン」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録([[桑原武夫]]編, [[ほるぷ出版]], 1978年 - 1981年) |
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*「中世インドの歴史」(山川出版社) |
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* [[佐藤正哲]]、[[中里成章]]、[[水島司]]『ムガル帝国から英領インドへ』(世界の歴史14, [[中央公論社]], 1998年9月) |
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* サティーシュ・チャンドラ『中世インドの歴史』([[小名康之]]、長島弘訳, [[山川出版社]], 1999年3月) |
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* [[イブン・バットゥータ]]『[[旅行記 (イブン・バットゥータ)|大旅行記]]』4巻([[家島彦一]]訳注, [[東洋文庫 (平凡社)]], 平凡社, 1999年9月) |
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* 小名康之「ハルジー朝」『南アジアを知る事典』収録(平凡社, 2002年4月) |
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* [[小谷汪之]]、[[辛島昇]]「イスラーム世界の拡大とインド亜大陸」『南アジア史』収録(辛島昇編, 世界各国史, 山川出版社, 2004年3月) |
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* [[三田昌彦]]「南アジアにおける中世的世界の形成」『南アジア史 2』収録(小谷汪之編, 世界歴史体系, 山川出版社, 2007年8月) |
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* [[真下裕之]]「デリー・スルターン朝の時代」『南アジア史 2』収録(小谷汪之編, 世界歴史体系, 山川出版社, 2007年8月) |
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* フランシス・ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』(小名康之監修, [[創元社]], 2009年5月) |
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{{先代次代|[[ハルジー朝]]の君主|1296年 - 1316年|[[ルクン・ウッディーン・イブラーヒーム・シャー]]|[[シハーブ・ウッディーン・ウマル・シャー]]}} |
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2011年10月3日 (月) 14:50時点における版
アラーウッディーン・ハルジー علاء الدين خلجی | |
---|---|
ファイル:Sultan-Allahudeen-Gherzai.jpg アラーウッディーン・ハルジー | |
在位 | 1296年 - 1316年 |
全名 | アラーウッディーン・ムハンマド・ハルジー |
出生 |
1266年 もしくは1267年 |
死去 |
1316年1月2日 |
配偶者 | ジャラールッディーン・ハルジーの娘 |
マーフルー[1][notes 1] | |
ジャティアパーリ | |
子女 |
ヒズル・ハーン シャーディー・ハーン クトゥブッディーン・ムバーラク シハーブッディーン・ウマル ファリード・ハーン アブー・バクル バハー・ハーン ウスマン・ハーン |
家名 | ハルジー家 |
王朝 | ハルジー朝 |
父親 | シハーブッディーン・マスード |
アラーウッディーン・ハルジー(علاء الدين خلجی ‘Alā’al-Dīn Khaljī, 1266年もしくは1267年 - 1316年1月2日)は、北インドを支配したデリー・スルタン朝の一つであるハルジー朝の第3代スルターン(在位:1296年 - 1316年)。南インドに初めてイスラム勢力を拡大し、インド南部におけるイスラム教信仰の基盤を築いた[2]。デリー・スルタン朝を「インド=トルコ人国家」から「インド=ムスリム帝国」へと方向付け、デリー・スルタン朝のインド化を進めた人物と評価されている[3]。
生涯
即位以前
奴隷王朝に加わったテュルク系部族集団ハルジー族の出身で、奴隷王朝を滅ぼしてハルジー朝を開いたジャラールッディーン・ハルジーの甥にあたり、娘婿でもあった。1292年に肥沃な土壌と高級織物の生産地である[4]デリー東部の都市カラー[notes 2]とその一帯の知事に任ぜられた。彼とジャラールッディーンの関係については、トゥグルク朝に仕官した経験もあるイブン・バットゥータは『大旅行記』で、アラーウッディーンとジャラールッディーンの娘の夫婦仲は悪く、そのためにジャラールッディーンとアラーウッディーンの関係もこじれたものになったと述べた[5]。彼はジャラールッディーンの寛容な施策に不満を持つ将校たちの支持を得るため、ジャラールッディーンの許可を得て1294年よりイスラム王朝の軍隊として初めて[2]ヴィンディヤ山脈を越えてデカン高原に南進し、デカンのヒンドゥー教国ヤーダヴァ朝を攻撃した。
1296年にヤーダヴァ朝の首都デーヴァギリ(現在のダウラターバード)を占領し、17250ポンドの金、200ポンドの真珠、28250ポンドの銀を戦利品として手に入れるが[6]、デリー・スルタン朝の慣例に反してこの時に得た膨大な戦利品をジャラールッディーンに献上せず[7]、自軍の軍費に充てた。同年に自分の陣営を訪れたジャラールッディーンを暗殺し、ジャラールッディーン殺害に協力した部下にはあらかじめ約束しておいた褒賞を与え、3か月かけてゆっくりとデリーへと進軍した[8]。ジャラールッディーン暗殺の報告が届いたデリーではジャラールッディーンの妃マリカイ・ジャハーンは彼女の子ルクン・ウッディーンをスルターンに擁立していたが、アラーウッディーンは道中でデカン遠征で得た戦利品[9]で兵士を徴募し、沿道の住民に金銀貨をばらまいて人気取りを図るとともに[8]マリカイ・ジャハーンの支持者を買収して[7]彼らの寝返りを待った。デリーの貴族と軍人のほとんどがアラーウッディーンの支持に回るとデリーに入城し、ルクン・ウッディーンを盲目に、マリカイ・ジャハーンを居住に軟禁した上で、スルターンに即位した。
モンゴルとの戦い
治世の初期より、チャガタイ・ハン国のハン・ドゥアの軍が頻繁に北インドに侵入し、デリーは二度陥落の危険に晒された[10]。
1298年のモンゴル軍侵入の撃退に成功して威信が大いに高まったことを利用し、かつて買収でジャラールッディーン側から寝返ったデリーの貴族を粛清した[8]。1299年から1300年にかけてのモンゴル軍の侵入では、ドゥアの子であるクトゥルグ・ホージャの率いる200000の軍[11]がデリー近郊にまで迫るが、アラーウッディーン自らが指揮する軍隊の奮戦によってデリー近郊で撃退した[12]。1302年の冬にアラーウッディーンがランタンボールに遠征していた時、120000のモンゴル軍[13]が北インドに侵入し、デリーに包囲を布いた。デリーへの交通路はモンゴル軍に遮断されていたために援軍と食料の供給は絶たれ[12]、帰国したアラーウッディーンはデリーに入城できずにやむなくデリー東北のシーリー(スィーリー)に拠点を移した[10]。 しかし、小競り合いが繰り返された2か月後にモンゴル軍は包囲を解いて突如撤退[14]、撤退の理由についてイギリスの研究者P.ジャクソンはカイドゥを中心とした同盟の崩壊と、崩壊に伴う中央アジア方面の政情の変化が背景にあると考察した[12]。
1310年から1311年にかけてイルハン朝のハン・オルジェイトゥより降伏を勧告する使節団が送られるが、アラーウッディーンは要求を容れず、18人の使節団全員を象に踏み殺させる[15]。将軍のガーズィー・マリク(後のトゥグルク朝の創始者ギャースッディーン・トゥグルク)をアフガニスタンの山岳地帯に駐留させ、インド北部への侵入を繰り返すモンゴル軍を撃退させてインド北部の草原地帯の安全を確保した[15]。
こうしてハルジー朝の軍隊はモンゴル軍との戦いで勝利を重ね、ハルジー朝・トゥグルク朝に出仕した歴史家バラニーの言うところでは
/「ムガル人(モンゴル人)はイスラーム軍を極度に恐れたので、ヒンドゥスターンを征服するという夢は彼らの頭からきれいに消え去った」(フランシス・ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』(小名康之監修, 創元社, 2009年5月)、129頁より引用)戦況になった。
インド亜大陸での遠征活動
1299年にはグジャラートのヴァーゲーラー朝(後期チャールキヤ朝の後継国家)にムルターンのウルグ・ハーンとデリーのヌスラト・ハーンを派遣し、国王カルナ2世の軍をアーシャーパッリー(現在のアフマダーバード)近郊で破り、首都アナヒラパータカを攻略した。アラーウッディーンは征服地に長官を置かず、またヴァーゲーラー朝と臣従関係を結ぶこともなく、軍隊をデリーに引き上げさせたためにカルナ2世が従来通りグジャラートを統治するが、カルナ2世と婚姻関係を築いた後に彼が謀反を企んでいる情報が入ると、1304年に再びグジャラートに軍を進め、ヴァーゲーラー朝を滅ぼした[16]。
1299年のグジャラート遠征の帰途で、戦利品の分配に不満を持ったハルジー朝内のイスラム教に改宗したモンゴル人(新ムスリム)がジャーロール(en:Jalor district)近郊で反乱を起こし、彼らから助けを求められたランタンボールのチャウハーン朝が反乱者を保護する事件が起きる[17]。この事件がきっかけとなってウルグ・ハーン、ヌスラト・ハーンが率いる10000の軍隊をランタンボールへ派遣し[18]、ヒンドゥワートでランタンボール軍を撃破する。ハルジー朝側は反乱者の処刑と貢納品を要求するがランタンボールの王ハンミーラは要求を拒絶し、ランタンボール城砦に籠城した。兵糧攻めの末にハンミーラは突撃を敢行して部下と共に戦死し、ランタンボールの内通者を主人を裏切った者は信用できないとして処刑[19]、ランタンボールをウルグ・ハーンの統治下に置いた。また、アラーウッディーンは反乱に直面して、治安維持を名目にデリーの郊外に居住する反乱者の子を虐殺し、妻女を奴隷とした[20]。この行為について宮廷の歴史家バラニーは男たちの罪を彼らの妻子に負わせる前例は無いと、虐殺を批判する記述を残した[21]。
1303年にメーワール(en:Mewar)を支配するグヒラ朝の王が籠るチットール城砦を陥落させ、1299年の新ムスリムの反乱で、反乱軍を支援したジャーロールのチャウハーン朝(ソーニーグラー朝)へもハルジー朝の軍隊が送られた。1305年にジャーロール城砦を包囲した後、アラーウッディーンは朝貢を条件としてジャーロール王カーンハダデーヴァを許し[21]、カーンハダデーヴァはハルジー朝の呼びかけに応じてデリーの宮廷を訪れたが、カーンハダデーヴァ親子はデリーに人質を置くことを拒んでジャーロール城砦に立て籠もり、再びハルジー朝に敵対した[22]。1308年にアラーウッディーン率いる軍はシワーナー城砦を攻略し、各地でジャーロール軍と交戦した後、ジャーロール城砦を包囲しての兵糧攻めを行った。ジャーロール軍は都市の富裕商人から食料の供給を受けて奮戦するが[23]、1311年にジャーロールの内通者の手引きによってハルジー軍は城砦の中に入り[23]、城内のカーンハダデーヴァと一族と家臣、婦女子が戦死した末に[22]、ジャーロールはハルジー朝の支配下に収まった。
マリク・カーフールの南征
モンゴル軍の侵入は1308年の攻撃を持って一旦終息し、ラージャスターンのラージプート国家の征服事業も1308年までにはジャーロールを残してほぼ完了していた[24]。
かつて臣従させたヤーダヴァ朝が貢納を拒むと、1307年にヒンドゥー教徒から改宗した解放奴隷マリク・カーフールに軍を預けてヤーダヴァ朝に向かわせ[25]、王のラーマチャンドラを捕らえてデリーへ連行した[26]。アラーウッディーンはデリーに送られたラーマチャンドラを丁重に扱い、彼に金品とグジャラート地方に領地を与え、婚姻関係を結んだうえで同盟を結んだ[26]。カーフールはヤーダヴァ朝をデカン高原のヒンドゥー教国遠征の拠点として[27]、1309年頃にマディヤ・プラデーシュ北部のチャンデーラ朝を滅ぼし、1310年には、カーカティヤ朝の首都ワランガルを陥落させ、翌1311年にはるか南方のホイサラ朝の首都ドゥバーラサムドラを攻略し、ホイサラ王バッラーラ3世をデリーまで連行している。1310年から1311年にかけてカーフールの軍隊はパーンディヤ朝が支配するマーバールをも攻撃して首都マドゥライを略奪、破壊し、彼らはインド亜大陸南端のコモリン岬にまで達した[28]。
バラニーは、この遠征で得られた戦利品について、612頭の象、多量の金と宝石類、20000頭の馬を持って翌1311年初頭にデリーに帰還したと伝える[29]。このハルジー朝の南方遠征の主目的は財貨の獲得にあり、永続的な支配を意図したものではなかった[30]。従属させた国家にはデリーへの貢納を拒むものも多く、ヤーダヴァ朝もラーマチャンドラが没した後にはハルジー朝との従属関係を断ち切り、反乱が起こるたびにカーフールの率いる軍隊が派遣された[26]。
ハルジー朝の遠征を受けて弱体化したデカンと南インドに割拠していた諸王朝は、アラーウッディーンの没後のデリー・スルタン朝、あるいはヴィジャヤナガル王国によって次々に滅ぼされる[30]。
晩年
晩年のアラーウッディーンは奢侈に溺れて健康を害し、また宮廷ではマリク・カーフールの影響力が増していった。彼はカーフールの意見を容れて正妃を宮廷から追放、妃の兄弟を処刑し、自身の息子で後継者としていたヒズル・ハーンをも投獄する[31]。1316年1月2日に水腫に罹って病没するが、国内ではカーフールによって彼の死期が早まったと噂された[31]。
内政
アラーウッディーンは軍事と税制の改革に着手し、その政策は都市と農村の双方に影響を及ぼした[32]
人事面では、インド・ムスリム(ヒンドゥー教からの改宗者)を積極的に登用し、奴隷王朝のスルターン・イルトゥトゥミシュと同様にイスラム神学者(ウラマー)の政治への影響力を削ごうと試みた[33]。
彼が打ち出した政策には実施されずに終わったものも多いが、中には後の時代になって施行されたものもある[34]。
監視と重税
アラーウッディーンは相次ぐ反乱にあたって[19]、抵抗する勢力の察知と[15]反乱の防止のために国内に秘密警察をくまなく張り巡らせ[6]、力によって反対勢力を抑えつけようとした[15]。貴族、高官から庶民まで、行動や日常生活が彼の布いた監視網のもとに置かれたのである[19]。
貴族間の結婚はアラーウッディーンの許可無くして行うことはできず[35]、貴族の私有財産も削減された[6]。宴会は陰謀が交わされる場だとして禁止され、宴会に欠かせない飲酒、酒類の製造と販売も禁止されたが、禁酒令は徹底できず、自分で飲むための酒を個人で製造することは認めざるを得なかった[36]。
役人には民衆に富と時間的余裕が残らないよう厳しい徴税を行うことが命じられ、この命令には時間的余裕が無くなれば反抗や反乱を考えるほどの余裕も無くなるという意図があった[37]。インドで最初となる[37]事前の測量に基づいて収穫高の半分を税とする貢租徴収[38]、兵糧の1つである牛乳を確保するための牧草地への課税[15]、徴税の過程で国家と農民の中間に立つ世襲的な在地支配者層を排除しての直接徴税[39][notes 3]、在地支配者層の免税特権の廃止を実施した。実施の程度と施行された地域に限りはあったものの、彼の治世に確立された徴税制度は後の時代に建国されたスール朝、ムガル帝国で導入された徴税制度の基礎となった[37]。
アラーウッディーン治下の北インドにおいて最も重い税が課せられたのはヒンドゥー教徒であり、彼らは重税以外に武器の所持、騎乗、奢侈にも厳しい制限が課される苛烈な処遇を受けた[6]。ただ、ヒンドゥー教徒への課税は迫害を目的としたものではなく、税収の確立が目的であったと思われる[40]。厳しい徴税はイスラム教徒にも課され、宗教家や功労者に与えられていた土地は接収され、年金も停止された。
軍制の改革と物価の統制
度重なるモンゴル軍の侵攻を撃退するため、アラーウッディーンは砦の修復と並行して、強力な軍隊を作り出そうと軍制の改革に着手した[13]。デリー・スルタン朝の君主として初めて常備軍を設置[41]、常備軍の増強のため軍事組織の再編、兵の名簿の作成、土地の給付に代わる給与の現金支給を実施し[41]、軍馬要求の際の不正を一掃するために騎兵隊の馬に烙印を押すダーグ制度を導入した[42]。475000にも上る数の騎兵[notes 4]、騎兵以外に存在したと思われる歩兵を維持するための国家負担は非常に重く、農民への課税額は限度まで引き上げられて増税の余地は無かった[41]。アラーウッディーンは膨大な数の軍隊を維持するために、軍費と給与を抑える様々な方策を考案し、特に物価の統制に着目した[41]。
政府によって日用品(米、小麦、豆、砂糖、精製されたバター油、食用油など[40])から高価な商品(輸入布地、馬、家畜、奴隷など[43])に至る物価は低く抑えられ[6]、市民と都市部の軍隊が必要とする[44]穀物については密かに蓄えることを禁じ、飢饉に備えて国の穀倉に貯蔵された[45]。物資の流通の円滑化、公定価格と利潤率の調整、取引業者の登録を実施し、不法な商取引はもちろんのこと、物資の売り惜しみにも罰則が設けられた[41]。イブン・バットゥータの『大旅行記』でもアラーウッディーンの治下で行われた肉類、穀物、衣服の価格調整に触れられており、牛肉にかけられた税の撤廃、国の穀倉に貯蔵された穀物の開放などによって物価を抑制していたことが述べられている[46]。飢饉に見舞われた時にも食料品の値上げは許されず、バラニーはハルジー朝下の穀物価格が安定していたことを称賛した[44]。
市場の規則を破った者には厳しい罰則が加えられ、目方の不足に違反した商人は不足分の分量に相当する部位を身体から切り取られたという[45]。また、価格統制のためにデリーには穀物、高級布地、最期に馬や家畜や奴隷を扱う3つの市場が設置され[43]、これらの市場の管理は監督官(シャーフナーイエ・マンディー)を通して行われたが[40]、一連の政策は全国的に行われたわけではなく、政策の実効力があったのはデリーとその周辺、および地方の一部の都市のみであったと考えられている[41]。
文化事業
物価の統制と南インドで得た戦利品によって国庫は潤い、文化事業と建築事業に投資を行う余裕もできた。イラク、中央アジア方面から流入した学者文人は手厚く保護され[6]、またアラーウッディーンは70000人にも上る建築職人と石工を擁していた[47]。彼はデリーに豪華絢爛なジャマーアート・ハーナ・モスクを建て[6]、アイバクが建造したクワットゥル・イスラーム・モスク(クトゥブ・モスク、en:Qutb complex)を元の11倍の広さに拡張し[48]、クトゥブへの入り口にアラーイー・ダルワーザという門を建てた[49]。また、クトゥブ・モスクの境内に高さ150メートルにも達するアラーイー・ミナールの建造を企画したが未完に終わり、今日では基部だけが残る[50]。
彼の保護を受けていた学者文人の中で著名な人物として、詩人アミール・ホスロー(en:Amir Khusrow)が挙げられる。ランタンボール遠征に随行したアミール・ホスローは、ランタンボール城砦を巡る攻防戦を鮮烈な描写で記した[51]。
人物像
自己賛美
彼は「第二のアレクサンドロス(スィカンダル・サーニー)」を自称し、礼拝の際のフトバで自らを第二のアレクサンドロスと呼ばせ、その名を刻ませた貨幣を鋳造した[6]。しかし、側近に諌められて過度の自己賛美は行わなくなった[6]。
アラーウッディーンと乗馬
1299年から1300年にかけての冬、デリー近郊のティルパトの平原で甥のスライマーン・シャー・アーカト・ハーンがアラーウッディーンの暗殺を企てる事件が起きた[52]。アラーウッディーンは狩りの途中で食事の時に馬から降りようとした時にスライマーン・シャーに射られて意識を失い、あわや落命の危機に遭う。それ以来金曜の礼拝や祭礼の時でも、彼は決して馬に乗ろうとしなかったという[53]。
この事件はバラニー、バダウーニーらデリー・スルタン朝の歴史家の著書以外に、イブン・バットゥータの『大旅行記』においても記されている[1]。
ギャラリー
-
アラーイー・ダルワーザ
-
アラーイー・ミナールの基部
-
クワットゥル・イスラーム・モスク
-
クトゥブ・ミナールとその建造物群(en:Qutb complex)内のアラーウッディーンの墓
脚注
注釈
- ^ イブン・バットゥータは彼女を「マーヘ・ハック」と呼んだ。(バットゥータ『大旅行記』4巻(家島彦一訳注)、378,410頁)
- ^ ヤムナー川とガンジス川の合流点の近く、イラーハーバードの西に位置する。(バットゥータ『大旅行記』4巻(家島彦一訳注)、406頁)
- ^ この政策はトゥグルク朝期に廃され、在地支配者層が16世紀にも存続していたことより、アラーウッディーンの政策が恒久的に機能したとは言い難い。(小谷汪之、三田昌彦、水島司「中世的世界から近世・近代へ」『南アジア史 2』、13頁)
- ^ バラニーとF.ロビンソンは騎兵の数を300000以上とし、S.チャンドラはバラニーの記した数を誇張と評している。(S.チャンドラ『中世インドの歴史』、121頁 F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、128頁)
引用元
- ^ a b バットゥータ『大旅行記』4巻(家島彦一訳注)、410頁
- ^ a b ブライヤン.K.グプタ「アラ・ウッディーン」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録 小名「ハルジー朝」『南アジアを知る事典』収録
- ^ 佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、54-55頁
- ^ バットゥータ『大旅行記』4巻(家島彦一訳注)、374頁
- ^ バットゥータ『大旅行記』4巻(家島彦一訳注)、374頁
- ^ a b c d e f g h i ブライヤン.K.グプタ「アラ・ウッディーン」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録
- ^ a b F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、127頁
- ^ a b c 佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、46頁
- ^ 佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、46頁 真下「デリー・スルターン朝の時代」『南アジア史 2』、110頁
- ^ a b 小谷、辛島「イスラーム世界の拡大とインド亜大陸」『南アジア史』、203頁
- ^ S.チャンドラ『中世インドの歴史』、83頁
- ^ a b c 真下「デリー・スルターン朝の時代」『南アジア史 2』、110頁
- ^ a b S.チャンドラ『中世インドの歴史』、84頁
- ^ S.チャンドラ『中世インドの歴史』、84頁 真下「デリー・スルターン朝の時代」『南アジア史 2』、110頁
- ^ a b c d e F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、129頁
- ^ 三田「南アジアにおける中世的世界の形成」『南アジア史 2』、40頁
- ^ 佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、16,46-47頁
- ^ 三田「南アジアにおける中世的世界の形成」『南アジア史 2』、42頁
- ^ a b c d 佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、47頁
- ^ S.チャンドラ『中世インドの歴史』、91頁 佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、16頁 F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、129頁
- ^ a b 佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、16頁
- ^ a b 佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、17頁
- ^ a b 三田「南アジアにおける中世的世界の形成」『南アジア史 2』、44頁
- ^ 佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、52頁
- ^ 佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、52-53頁
- ^ a b c S.チャンドラ『中世インドの歴史』、98頁 引用エラー: 無効な
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タグ; name "cha98"が異なる内容で複数回定義されています - ^ 佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、53頁
- ^ ブライヤン.K.グプタ「アラ・ウッディーン」『世界伝記大事典 世界編』1巻 小名「ハルジー朝」『南アジアを知る事典』収録
- ^ F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、130頁
- ^ a b 真下「デリー・スルターン朝の時代」『南アジア史 2』、111頁
- ^ a b F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、131頁
- ^ 荒「アラーウッディーン・ヒルジー」『アジア歴史事典』1巻収録
- ^ S.チャンドラ『中世インドの歴史』、113頁 佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、54頁
- ^ 小名「ハルジー朝」『南アジアを知る事典』収録
- ^ ブライヤン.K.グプタ「アラ・ウッディーン」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録
- ^ S.チャンドラ『中世インドの歴史』、91頁 佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、47頁
- ^ a b c 佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、48頁 引用エラー: 無効な
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タグ; name "chuko48"が異なる内容で複数回定義されています - ^ 小名「ハルジー朝」『南アジアを知る事典』収録 F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、129頁
- ^ 小谷汪之、三田昌彦、水島司「中世的世界から近世・近代へ」『南アジア史 2』、13頁
- ^ a b c 真下「デリー・スルターン朝の時代」『南アジア史 2』、210頁
- ^ a b c d e f 佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、49頁
- ^ ブライヤン.K.グプタ「アラ・ウッディーン」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録 S.チャンドラ『中世インドの歴史』、121頁
- ^ a b S.チャンドラ『中世インドの歴史』、100頁
- ^ a b S.チャンドラ『中世インドの歴史』、101頁
- ^ a b F.ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、128頁
- ^ バットゥータ『大旅行記』4巻(家島彦一訳注)、376-377頁
- ^ 佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、88頁
- ^ 佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、85頁
- ^ S.チャンドラ『中世インドの歴史』、190頁
- ^ 佐藤、中里、水島『ムガル帝国から英領インドへ』、85-86頁
- ^ S.チャンドラ『中世インドの歴史』、95頁
- ^ バットゥータ『大旅行記』4巻(家島彦一訳注)、409-410頁
- ^ バットゥータ『大旅行記』4巻(家島彦一訳注)、377頁
参考文献
- 荒松雄「アラーウッディーン・ヒルジー」『アジア歴史事典』1巻収録(平凡社, 1959年)
- ブライヤン.K.グプタ「アラ・ウッディーン」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1978年 - 1981年)
- 佐藤正哲、中里成章、水島司『ムガル帝国から英領インドへ』(世界の歴史14, 中央公論社, 1998年9月)
- サティーシュ・チャンドラ『中世インドの歴史』(小名康之、長島弘訳, 山川出版社, 1999年3月)
- イブン・バットゥータ『大旅行記』4巻(家島彦一訳注, 東洋文庫 (平凡社), 平凡社, 1999年9月)
- 小名康之「ハルジー朝」『南アジアを知る事典』収録(平凡社, 2002年4月)
- 小谷汪之、辛島昇「イスラーム世界の拡大とインド亜大陸」『南アジア史』収録(辛島昇編, 世界各国史, 山川出版社, 2004年3月)
- 三田昌彦「南アジアにおける中世的世界の形成」『南アジア史 2』収録(小谷汪之編, 世界歴史体系, 山川出版社, 2007年8月)
- 真下裕之「デリー・スルターン朝の時代」『南アジア史 2』収録(小谷汪之編, 世界歴史体系, 山川出版社, 2007年8月)
- フランシス・ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』(小名康之監修, 創元社, 2009年5月)