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「南京事件論争」の版間の差分

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=== 前史(1971年以前) ===
=== 前史(1971年以前) ===
==== 事件当時 ====
==== 事件当時 ====
:南京事件は、事件当時からニューヨークタイムズなど欧米メディアによって大々的に報道され世界に衝撃を与え、写真誌「ライフ誌」は、1938年1月と5月に特集記事を組んだ。当時の欧米での認識は、数多くのメディアやティンパリーの著作「戦争とは何か」(1938年)などによって「非武装万人殺害、割は兵士でない」というものだった。一方、日本国内では報道されることはなく、当時のほとんどの国民が事件を知ることはなかった。(1937年8月2日の憲兵司令部警務部長通牒「時局に関する言論、文書取締に関する件」では、「国境を超越する人類愛又は生命尊重、肉親愛等を基調として現実を軽蔑する如く強調又は諷刺し、為に犠牲奉公の精神を動揺減退せしむる虞ある事項」などが言論取締りの対象とされた。)」
:南京事件は、事件当時からニューヨークタイムズなど欧米メディアによって大々的に報道され世界に衝撃を与え、写真誌「ライフ誌」は、1938年1月と5月に特集記事を組んだ。当時の欧米での認識は、数多くのメディアやティンパリーの著作「戦争とは何か」(1938年)などによって「非武装4万人殺害、3割は兵士でない」というものだった。一方、日本国内では報道されることはなく、当時のほとんどの国民が事件を知ることはなかった。(1937年8月2日の憲兵司令部警務部長通牒「時局に関する言論、文書取締に関する件」では、「国境を超越する人類愛又は生命尊重、肉親愛等を基調として現実を軽蔑する如く強調又は諷刺し、為に犠牲奉公の精神を動揺減退せしむる虞ある事項」などが言論取締りの対象とされた。)」


==== 戦後 ====
==== 戦後 ====
:南京事件は、[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]において[[日本]]に大きな衝撃を与えた<ref>秦、前掲書。26頁</ref>が、それ以降、日中戦争を取り上げた研究などでは触れられるものの、世間で注目をあびる問題ではなかった<ref>秦、前掲書。263頁―267頁</ref>。専門的な研究は[[洞富雄]]『近代戦史の謎』(人物往来社 [[1967年]])、[[五島広作]]([[毎日新聞]]記者)と[[下野一霍]]の共著『南京作戦の真相』(東京情報社 [[1966年]])がある程度であった(『南京作戦の真相』は、南京大虐殺の存在自体を疑う否定論としては最も早い時期に[[単行本]]として出版されたものであったが、当時この本が注目されることはなかった)。[[家永三郎]]『太平洋戦争』(岩波書店 [[1968年]])は、軍人・記者の回想録や洞の著書を引用しながら、'''南京大虐殺'''として比較的詳細に記述している<ref>笠原十九司『南京事件論争史』平凡社新書、2007年、p103</ref>。
:南京事件は、[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]において[[日本]]に大きな衝撃を与えた<ref>秦、前掲書。26頁</ref>が、それ以降、日中戦争を取り上げた研究などでは触れられるものの、世間で注目をあびる問題ではなかった<ref>秦、前掲書。p263―p267</ref>。専門的な研究は[[洞富雄]]『近代戦史の謎』(人物往来社 [[1967年]])、[[五島広作]]([[毎日新聞]]記者)と[[下野一霍]]の共著『南京作戦の真相』(東京情報社 [[1966年]])がある程度であった(『南京作戦の真相』は、南京大虐殺の存在自体を疑う否定論としては最も早い時期に[[単行本]]として出版されたものであったが、当時この本が注目されることはなかった)。[[家永三郎]]『太平洋戦争』(岩波書店 [[1968年]])は、軍人・記者の回想録や洞の著書を引用しながら、'''南京大虐殺'''として比較的詳細に記述している<ref>笠原十九司『南京事件論争史 <small>日本人は史実をどう認識してきたか</small>』平凡社新書、2007年、p103</ref>。


=== 1971年から1982年まで ===
=== 1971年から1982年まで ===
再び注目を集めるきっかけとなったのは、[[日中国交樹立]]直前の{{和暦|1971}}[[8月]]末より[[朝日新聞]]紙上に掲載された[[本多勝一]]記者の『中国の旅』という連載記事である。[[南京]]を含む中国各地での[[日本軍]]の残虐行為が精細に描写された記事で、南京事件についての一般的日本人の認識はこれ以降大きく広まり、また日本人による南京事件目撃証言がさまざまな雑誌や本に掲載されるようになった<ref>笠原『南京事件論争史』p107-109</ref>。論争は、この記事で当時「[[百人斬り競争]]」が大々的に報道されていたことが取り上げられた時、[[山本七平]]と[[鈴木明]]の“百人斬りは虚構である”という主張から始まった。鈴木明の『「南京大虐殺」のまぼろし』は事件の事実自体は全面否定しない立場からの論考であったが、否定説の象徴とみなされるようになり、この書名に影響されて否定説・否定派を「まぼろし説」「まぼろし派」とも呼ぶようになった<ref>秦、前掲書。52頁184頁270頁</ref>。1975年頃の論争は「「肯定派」と「否定派」、或いはあったとしても「大虐殺というほどではない」人々との間で激しく展開されていた<ref>{{Cite journal|和書 |author=石井和夫(日中友好元軍人の会) |year=1987|month=3 |title=「南京大虐殺」を考える |journal=中国研究月報 |issue=469 |pages=46-49 |publisher=[[中国研究所]] |issn=0910-4348}}</ref>」。
再び注目を集めるきっかけとなったのは、[[日中国交樹立]]直前の{{和暦|1971}}[[8月]]末より[[朝日新聞]]紙上に掲載された[[本多勝一]]記者の『中国の旅』という連載記事である。[[南京]]を含む中国各地での[[日本軍]]の残虐行為が精細に描写された記事で、南京事件についての一般的日本人の認識はこれ以降大きく広まり、また日本人による南京事件目撃証言がさまざまな雑誌や本に掲載されるようになった<ref>笠原『南京事件論争史』p107-109</ref>。論争は、この記事で当時「[[百人斬り競争]]」が大々的に報道されていたことが取り上げられた時、[[山本七平]]と[[鈴木明]]の“百人斬りは虚構である”という主張から始まった。鈴木明の『「南京大虐殺」のまぼろし』(文藝春秋 1973年)は事件の事実自体は全面否定しない立場からの論考であったが、否定説の象徴とみなされるようになり、この書名に影響されて否定説・'''否定派'''を「まぼろし説」「まぼろし派」とも呼ぶようになった<ref>秦、前掲書。p52p184p270</ref>。1975年頃の論争は「「肯定派」と「否定派」、或いはあったとしても「大虐殺というほどではない」人々との間で激しく展開されていた<ref>{{Cite journal|和書 |author=石井和夫(日中友好元軍人の会) |year=1987|month=3 |title=「南京大虐殺」を考える |journal=中国研究月報 |issue=469 |pages=46-49 |publisher=[[中国研究所]] |issn=0910-4348}}</ref>」。


=== 1982年から1984年まで ===
=== 1982年から1990年まで ===
三度目に大きく取り上げられるようになったのは、{{和暦|1982}}の教科書問題の時である。「検定で侵略を進出と書きなおさせた」という誤報([[教科書誤報事件]])をきっかけとして、日本の教科書における事件の記述が政治問題化した。日本政府は首相の訪中により政治決着させることを選んだが、ナショナリストの反発を招き、否定派が支持を拡大した。否定派の中心となったのは[[松井石根]]大将の秘書も務めたこともある、評論家・[[田中正明]]だった。また、[[家永三郎]]が起こした[[教科書検定]]をめぐる訴訟([[家永教科書裁判]])では南京大虐殺の記述を削除したことについて争われた。それを受ける格好で、洞・本多を始め[[ジャーナリスト]]や歴史研究者が集まって{{和暦|1984}}に[[南京事件調査研究会]]を発足。これにより'''大虐殺派'''<ref>南京事件調査研究会自身およびそのメンバーは「史実派」と呼称。</ref>が形成された。研究会は日中双方の資料や証言を照合して虐殺事件の全容の解明に乗り出した<ref>秦、前掲書。52頁272頁</ref>。
三度目に大きく取り上げられるようになったのは、{{和暦|1982}}の教科書問題の時である。「検定で侵略を進出と書きなおさせた」という誤報([[教科書誤報事件]])をきっかけとして、日本の教科書における事件の記述が政治問題化した。日本政府は首相の訪中により政治決着させることを選んだが、ナショナリストの反発を招き、否定派が支持を拡大した。否定派の中心となったのは[[松井石根]]大将の秘書も務めたこともある、評論家・[[田中正明]]だった。また、[[家永三郎]]が起こした[[教科書検定]]をめぐる訴訟([[家永教科書裁判]])では南京大虐殺の記述を削除したことについて争われた。それを受ける格好で、洞・本多を始め[[ジャーナリスト]]や歴史研究者が集まって{{和暦|1984}}に[[南京事件調査研究会]]を発足。これにより'''大虐殺派'''<ref>南京事件調査研究会およびそのメンバーは「史実派」と呼称。</ref>が形成された。研究会は日中双方の資料や証言を照合して虐殺事件の全容の解明に乗り出した<ref>秦、前掲書。p52p272。</ref>。


{{和暦|1984}}に入ると、新たな証言が得られるようになった。当時の兵士が事件について語りだしたのである。陸軍将校の親睦団体である[[偕行社]]は、機関紙『偕行』にて事件の証言を募集した。当初、偕行社は事件の否定を目指していたが、不法行為を示す多くの証言が集まり、総括として中国人民への謝罪を示した。また、{{和暦|1985}}に、[[板倉由明]]が 田中の著書『松井石根大将の陣中日記』の内容を[[陣中日誌]]の原本と比較した結果、田中が[[松井石根]]大将の陣中日誌を編纂する際に600箇所以上の変更ないし[[改竄]]を行い、自ら加筆した部分をもって南京事件がなかったことの根拠とする注釈を付記していたことを発見した。板倉は大虐殺には懐疑的な立場であったが「改竄は明らかに意図的なものであり弁解の余地はない」として田中を強く非難した。田中はのちに自著の後書きでこの件に触れ、加筆の大部分は誤字や仮名遣いの変更であったと弁明し、意図的な改竄を否定した<ref>板倉由明「松井石根大将『陣中日記』改竄の怪」(「歴史と人物 1985年冬号」所収)</ref><ref>秦、前掲書。p286―p288。</ref>。
=== 1984年から1990年まで ===
{{和暦|1984}}に入ると、新たな証言が得られるようになった。当時の兵士が事件について語りだしたのである。陸軍将校の親睦団体である[[偕行社]]は、機関紙『偕行』にて事件の証言を募集した。当初、偕行社は事件の否定を目指していたが、不法行為を示す多くの証言が集まり、総括として中国人民への謝罪を示した。この頃、[[秦郁彦]]ら'''虐殺少数派'''<ref>秦自身は「中間派」と呼称。</ref>が登場し、偕行社はこれに近い立場をとった。偕行社が収集した証言、史料は{{和暦|1988}}に『南京戦史』として刊行された<ref>秦、前掲書。53頁、275頁―279頁。</ref>。


この頃、板倉や[[秦郁彦]]ら'''虐殺少数派'''<ref>秦自身は「中間派」と呼称。</ref>が登場し、偕行社はこれに近い立場をとった。偕行社が収集した証言、史料は1989年(平成元年)に『南京戦史』として刊行され<ref>秦、前掲書。p53、p275―p279。</ref>、その中で少なくとも約1万6000名に上る捕虜などの殺害があったことを認めたため、「あったか」「なかったか」というレベルでの論争は学問的にはほぼ決着がついた<ref>笠原『南京事件論争史』p213</ref>。<!-- 秦は論争のありかたに危惧を抱いており、次のように述べている。{{Bquote|このままだと、歴史的真実の究明はどこかに押しやられ、偏見や立場論が先走った泥仕合になってしまうおそれがある。虚実とりまぜた情報の洪水を整理しつつ、まず南京周辺で何が起こったのか、事実関係を確認したのち、原因と責任の所在を含め、見直し作業をしたい|||秦郁彦|『南京事件』53頁(増補版の頁番号)、初出1986年}} --><!-- 秦個人の意見を大きくピックアップするのはどうか? -->
{{和暦|1985}}に、[[板倉由明]]が 田中の著書『松井石根大将の陣中日記』の内容を[[陣中日誌]]の原本と比較した結果、田中が[[松井石根]]大将の陣中日誌を編纂する際に600箇所以上の変更ないし[[改竄]]を行い、自ら加筆した部分をもって南京事件がなかったことの根拠とする注釈を付記していたことを発見した。板倉は大虐殺には懐疑的な立場であったが「改竄は明らかに意図的なものであり弁解の余地はない」として田中を強く非難した。田中はのちに自著の後書きでこの件に触れ、加筆の大部分は誤字や仮名遣いの変更であったと弁明し、意図的な改竄を否定した<ref>「松井石根大将『陣中日記』改竄の怪」(板倉由明)(「歴史と人物 1985年冬号」所収)</ref><ref>秦、前掲書。286頁―288頁。</ref>が、前記のとおり偕行社が事件の事実を認め、否定派がほぼ存在しなくなったため、論争は一段落をした
<!-- 秦は論争のありかたに危惧を抱いており、次のように述べている。{{Bquote|このままだと、歴史的真実の究明はどこかに押しやられ、偏見や立場論が先走った泥仕合になってしまうおそれがある。虚実とりまぜた情報の洪水を整理しつつ、まず南京周辺で何が起こったのか、事実関係を確認したのち、原因と責任の所在を含め、見直し作業をしたい|||秦郁彦|『南京事件』53頁(増補版の頁番号)、初出1986年}} --><!-- 秦個人の意見を大きくピックアップするのはどうか? -->


=== 1990年代以降 ===
=== 1990年代以降 ===
1990年代にはアメリカ合衆国で反共派の在米華僑が日本の戦争犯罪を非難しはじめた。当初、中国政府は立場の違いからこの運動に関わりを持たなかったため、事件は政治色の薄い人道問題とみなされるようになった。その流れで[[アイリス・チャン]]の『[[ザ・レイプ・オブ・南京]]』が登場し話題を呼んだ<ref>{{Cite book |和書 |author=遠藤誉 |authorlink=遠藤誉 |edition=初版 |year=2008 |title=中国動漫新人類 |publisher=[[日経BP]] |isbn=978-4-8222-4627-3 |pages=301―378頁 |chapter=第6章 愛国主義教育が反日に変わるまで }}</ref>。論争は国際的なものになっていった<ref>秦、前掲書。291頁―295頁。</ref>。一方で、大虐殺派と中国政府の公式見解に対立が見られるようになった<ref>秦、前掲書。291頁―295頁。</ref>。
1990年代にはアメリカ合衆国で反共派の在米華僑が日本の戦争犯罪を非難しはじめた。当初、中国政府は立場の違いからこの運動に関わりを持たなかったため、事件は政治色の薄い人道問題とみなされるようになった。その流れで[[アイリス・チャン]]の『[[ザ・レイプ・オブ・南京]]』が登場し話題を呼んだ<ref>{{Cite book |和書 |author=遠藤誉 |authorlink=遠藤誉 |edition=初版 |year=2008 |title=中国動漫新人類 |publisher=[[日経BP]] |isbn=978-4-8222-4627-3 |pages=301―378頁 |chapter=第6章 愛国主義教育が反日に変わるまで }}</ref>。論争は国際的なものになっていった<ref>秦、前掲書。p291―p295。</ref>。一方で、大虐殺派と中国政府の公式見解に対立が見られるようになった<ref>秦、前掲書。p291―p295。</ref>。

まぼろし派には[[東中野修道]]などが登場し、[[便衣兵]]狩りを虐殺とみなすべきではないと主張するようになった<ref>秦、前掲書。274頁―275頁。</ref>。


否定派には[[東中野修道]]などが登場した。東中野は、捕虜や投降兵などの殺害が行われたことは認めたうえで、それは戦時国際法に照らして合法であり、便衣兵狩りを虐殺とみなすべきではないと主張し<ref>秦、前掲書。p274―p275。</ref>、大虐殺派の[[吉田裕]]との間で戦時国際法についての論争が行われた<ref>笠原『南京事件論争史』p250</ref>。大虐殺派には、[[南京への道・史実を守る会]]のようにインターネット論争を通じて、否定派を批判する研究者も現れた<ref>笠原『南京事件論争史』p271</ref>。


== 学者・研究者の反応 ==
== 学者・研究者の反応 ==

2011年7月7日 (木) 08:17時点における版


南京大虐殺論争(なんきんだいぎゃくさつろんそう)とは、1937年(昭和12年)から始まった日中戦争支那事変)初期に日本軍が行ったとされる南京事件に関して、事件の存否、規模などを論点とした論争である。論争は日中関係を背景に政治的な影響を受け続けた[1]

この論争では事件における日本軍が犯したとされる殺害行為の規模やその法的な評価、各説の論拠となる資料の批判など、さまざまな論点が争われている。

主な論点

主な論点は、日本軍が犯したとされる殺害行為の存否とその規模および、それを虐殺と評価するか否かという点にある。以下、主な論点を概説する。

虐殺数

三十万人以上

中国側論者の見解としてみられる。代表的な論者は、アイリス・チャン(ジャーナリスト)、孫宅巍江蘇省社会科学院研究員)、高興祖南京大学教授)などがおり、中国共産党政府、南京大虐殺紀念館、また台北市国軍歴史文物館[2]も同様の見解をもっている。ただしこれらはいずれも科学的根拠が一切なく、日本側の学者からは支持されていない[3]

孫宅巍の調査では、1,000人以上の大規模な集団虐殺数と、それ以外の集団虐殺数を割り出し、これらの調査結果と埋葬記録とを照らし合わせ、その数を27万4000人と推定する。さらに、記録に残らないような虐殺や埋葬があったことを考慮し、30万以上と推計している。また、現在判明している埋葬数を加算すると40万以上になるが、記録の重複、戦死者が含まれること及び埋葬記録に残らない死体などを考慮し、30万以上と推計する。なお、孫は、南京防衛軍の総数を十万余としている[4]

十数万人以上

代表的な研究者は、南京事件調査研究会のメンバーである洞富雄早稲田大学教授)、藤原彰一橋大学教授)、笠原十九司都留文科大学教授)、吉田裕(一橋大学教授)、井上久士駿河台大学教授)、本多勝一(ジャーナリスト)、高崎隆治(戦争研究家)、小野賢二(化学労働者)、渡辺春巳(弁護士)[5]などが挙げられる。

以下、軍人と民間人ごとの推計被害者数を述べる[6]

  • 軍人虐殺

南京を守備していた中国軍部隊の多くは、上海戦で甚大な損害を受け、撤退途中もしくは南京で補充を受けており、隊員数の判断は非常に困難であるが、その総数を記す記録(中国側の戦闘記録や回想記、日本側の陣中日記など)を総合すると十数万と判断できる。また、当時の中国軍の高級将校の証言によると、中国軍の慣習として後方部隊の数がカウントされないという。これら資料を総合すると中国軍総数は約15万人と推計される。中国軍のそれぞれの部隊の行動と損害補充状況を詳細に検討した結果として、約15万人の中国軍の内、5万人が国民政府軍に帰還、1万人が戦闘中に死亡、1万人が撤退中に逃亡、残り8万人が日本軍に虐殺されたと推計する[7]

  • 民間人虐殺

民間人の犠牲者数の推定は極めて困難とするものの、根拠として次の3つの資料を提示する。
ジョン・ラーベ「ヒトラーへの上申書[8]」 中国側推定10万人、残留外国人推定5-6万人。
・埋葬団体の埋葬記録 埋葬総数18万8674体(虐殺に当たらない死体、埋め直しによる重複がある一方、長江に流された多数の遺体があることも指摘する)。
・スマイス調査[9] 市部(城区)殺害3250人、拉致後殺害された可能性が高い者4200人、農村部(近郊4県半)被虐殺者数2万6870人。[10]

以上、軍人と民間人の被害者総数を合計すると、10万人以上もしくは20万人に近いかそれ以上となる可能性があると結論する。[11]

最上限4万人

歴史学者秦郁彦の説[12]。秦によると、中国軍の総数を日本軍の推定数と台湾の公刊戦史から10万人とし、日本側の戦闘記録・新聞記事などから戦死数5万3,900人、捕らわれて殺害された者3万人、生存捕虜1万0,500人、脱出成功者5,600人と推計する。このうち捕らえられてから殺害された3万(各部隊の戦闘記録から算出)を虐殺数とする。市民に対する虐殺は、スマイス調査による都市部・農村部の被害者総数に修正を加え2万3,000人とし、不法殺害の割合は1/2~1/3と判断し、虐殺数を8,000~1万2,000人と推計する。概数として市民と兵士の虐殺総数を3万8,000人~4万2,000人と結論する。なお、「4万の概数は最高限であること、実数はそれをかなり下まわるであろう」としている[13]

数千~2万

代表的な研究者は、畝本正己(元防衛大学校教授[14])、板倉由明(南京戦史編集委員・南京事件研究家)、原剛防衛研究所調査員)などの他、中村粲獨協大学教授)が挙げられる。

板倉自身は「虐殺数30万人のみを否定する南京事件派」と標榜している[15]。板倉の研究によると、中国軍総数を5万、そのうち戦死者数を1万5,000人、捕らわれて殺害された者を1万6,000人、生存捕虜を5,000人、脱出成功者を1万4,000人と推計する。その上で虐殺数を8,000人と推計する。市民に対する虐殺は、城内と江寧県を合わせた死者総数1万5,000人とし、このうち虐殺に該当するものを5,000人と推計する。兵士と市民の虐殺数の合計は1万3,000人となるが、これに幅を持たせて1~2万人と推計する。

北村稔立命館大学教授)は、南京裁判および東京裁判において南京事件を確定した「戦犯裁判」の判決書を歴史学の手法で検証するという立場で分析[16]、従前から知られていた2万弱の中国軍捕虜の殺害を新たに発掘してきた資料で確認している。一方で、判決書にみえる、南京攻略戦から占領初期にかけて一般市民に対する数十万単位の「大虐殺」が行われたという「認識」については、中国や連合国による各種の戦時宣伝の分析を通じ、1937年以降、徐々に形成されていったものとしており、2007年4月の講演で「一般市民を対象とした虐殺はなかったとの結論に達する」とした[17]

「虐殺」の定義

攻略戦時の兵士・市民の犠牲者を「虐殺」とは見なさない見解がある。主な研究者は、田中正明 (元拓殖大学講師)、東中野修道亜細亜大学教授)、冨澤繁信日本「南京」学会理事)、阿羅健一(近現代史研究家)、勝岡寛次明星大学戦後教育史研究センター)、渡部昇一上智大学名誉教授)、中川八洋筑波大学名誉教授)、杉山徹宗(明海大学教授)など。

東中野の研究によると、便衣兵ゲリラ兵)、投降兵の殺害については戦闘行為の延長であり戦時国際法上合法であるとし虐殺に分類しない[要出典]。日本兵による犯罪行為も若干はあったが大規模な市民殺害は当時の史料では確認できない。しかも、南京大虐殺があったとされる3ヶ月後には南京の人口が5万人増えているという記録があり、大規模な市民殺害があれば人口が増えるはずがないので、百人単位の虐殺もなかったとされる。埋葬記録などの死体数に関する資料は捏造・水増しであり、史料により確認できる死体は虐殺に該当しないと主張する[要出典]。よって、虐殺に該当するような行為はほとんど無かったと主張する。

2007年4月9日、東中野・阿羅などが委員を務める「南京事件の真実を検証する会」は訪日していた温家宝首相に対し、「事件の存在を信じるには無理がある」とする公開質問状を提出した[18]。内容は中国英字紙が報道し[19]、日本の国会でも松原仁衆議院議員によって取り上げられた[20]。 質問状の中では

  • 毛沢東は生涯ただの一度も南京虐殺などということを言わず、当時の中国国民党が行っていた300回の記者会見においても言及されたことがない。
  • 国際委員会の活動記録というべきものが「Documents of the Nanking Safety Zone」と題して1939年に出版されているがそこで述べられている南京の人口は12月中ずっと20万と記録され、翌1月14日には人口25万と記録されると、これ以後は25万とされていた。そして殺害件数は26件と報告されるものの1件を除き目撃情報はなく、その1件も合法的なものとされている。
  • 虐殺を証明する写真がなく、発表されているものについてはいずれもその問題点が指摘されている。

ということが指摘され、これらの点から南京大虐殺は考えられないものだとして温家宝に回答を求めている。

鈴木明は、日本軍の暴行に関する報告や記事などをまとめた『WHAT WAR MEANS』(戦争とは何か)を編集したハロルド・J・ティンパーリが中国国民党顧問の秘密宣伝員であった事を明かした著書を出版。南京事件の存在については「不明」としているが[21]、笠原十九司は鈴木を「否定派の中心メンバー」と評している[22]

戦時国際法上合法説

事実の証明・確定について、多くの日記や証言等は十分に史料批判がなされていないとして安易に証拠価値を認めず、現在では完全な事実の証明は最早不可能としつつも、当時のハーグ国際法を解釈・適用すれば、日本軍は合法的に処理したとし、虐殺に当たる行為は否定されると主張する説。[23]

軍事目標主義(ハーグ25条)[24]によれば、南京城内は安全区も含め防守地域であり、この地域に無差別に攻撃をしても合法であった(一般市民の犠牲は戦死に準じた扱い)が、日本軍は安全区に無差別攻撃を仕掛けなかった[25]。そして、安全区に侵入した中国軍の便衣兵の摘出は、憲兵により取り調べられており[26](予備審問)、これに基づいて裁判(軍律審判)がなされたとする。捕虜の取扱についても、軍事的必要性や復仇の可能性について言及するものもある。南京事件の原因は、第二次上海事変を起こした蒋介石や、日本軍の降伏勧告を無視した唐生智、安全区に侵入した中国便衣兵、侵入を許した安全区委員会にあるとする。

便衣兵に関して

否定説、肯定説とも「虐殺」を国際法違反行為と定義づけているが、何が国際法違反行為に当たるかが争点となっている。

便衣兵の殺害
最も殺害数が多いと思われる、便衣兵の摘出と殺害についても見解が分かれる。
否定説はハーグ陸戦条約第1条の「交戦者資格の四条件」を満たさない便衣兵(いわゆるゲリラ兵の一種。民間人を巻き込む為同条約第23条第2項で禁止されている)は交戦者資格がない非合法戦闘員であって捕虜待遇を受ける資格がない(同条約第3条)と解釈する。また日本軍は民間人の中から便衣兵を識別し摘出しているが、その過程において誤って民間人を殺害したり、戦意を失い平服で逃亡しようとしていた兵士を殺害した場合があったとしても、戦意や兵器所持の識別は困難であり、そもそもその識別のために交戦者資格の四条件において特殊徽章着用や武器を公然と所持することが条件とされていることなどを根拠に、これらの被害の責任は、民間人を巻き込むおそれを省みず、平服を着用していた便衣兵の側にあると主張している。また中国側は最後まで降伏はしておらず、両国間で休戦の合意(ハーグ36・37条)もなされていないことの問題点も指摘する。
肯定説は、これらの処刑は南京が陥落して戦闘が終了した後に行われたものであり、戦闘行為とは見なすことが出来ないと指摘している。また、もう抗戦の意図はなく専ら逃亡目的で平服を着用していた兵士を便衣兵と見なして殺害したり、一般市民から敗残兵を摘出した際に、便衣兵が紛れている可能性があるとして識別の努力もせず殺害した場合等は虐殺にあたると主張している。
便衣兵に対する裁判
便衣兵の殺害に関して裁判が必要か否かで見解が分かれる。当時のハーグ陸戦条約を含む戦時国際法では便衣兵のような非合法戦闘員を想定していなかったのが一因である。
否定説は、便衣兵は交戦者資格がない非合法戦闘員であり裁判の必要はないと主張する。また南京戦では蒋介石をはじめ中国側指揮官逃亡のため、降伏や休戦などの明確な戦闘停止協約が結ばれておらず、南京陥落後も依然として交戦状態が続いていたため、便衣兵の殺傷は戦闘行為であり、処刑にはあたらないと主張する。
肯定説は、便衣兵を死刑として殺害するにはそうと認識する軍事裁判の手続きが必要であったから、裁判を経ずに殺害したということは、その殺害の正当性を証明するべき根拠がなく、違法行為であると主張する。
これに対し否定説からは、肯定説の要求する裁判とは軍律審判のことであり、驚くほど簡易な手続き(憲兵の取調べ調書のみ)で処分が決定できた(さらに即決・非公開・非対審)ことから、軍民の厳格な分離は裁判が行われていても不可能であるとして肯定派の批判には意味がなく、日本軍がこの簡易手続きを省略するのは考えられないと疑問を呈する指摘もある。

投降兵に関して

南京戦において、中国軍は撤退命令を出し、最後まで全面降伏しなかったため、敗残兵の多くは投降兵とはみなされなかった。戦闘中に降伏して投降してきた兵士を受け入れるかについて見解が分かれる。
  • 否定説では違法ではあるが[要出典]それがあったとしても中国軍も行っていた為、お互い様と指摘している。また、軍事作戦の遂行が最優先事項であるから戦闘中において作戦遂行の妨げになる場合には投降を拒否しても合法であるとの指摘もある。
  • 肯定説は、ハーグ陸戦条約第23条第3項「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞へる敵を殺傷すること」を根拠に、投降兵殺害の違法性を指摘している。

捕虜の殺害に関して

一旦捕虜として受け入れたのちに殺害するケースについても見解が分かれている。否定説では、そもそも捕虜の資格がない者(ハーグ陸戦条約第1条 上述便衣兵の殺害参照)が大多数であり、捕虜であっても敵対行動があった場合の処刑は合法としている。さらに戦時国際法学者で戦数否定論者であるオッペンハイムが例外的に捕虜殺害を合法としていた学説部分を引用する。肯定説は、ハーグ陸戦条約第4条「俘虜は、敵の政府の権内に属し、之を捕へたる個人又は部隊の権内に属することなし」や当時の慣習法、一般的な戦時国際法学者の見解[要出典]などを根拠に、捕虜殺害の違法性を指摘している。捕虜の敵対行動に関しては、否定論と同様に処刑の合法性を否定はしていないが、否定説が主張するようなケースでの手続上の問題点や、そのような事実の存在に関して反論を主張している。


事件の期間

東京裁判では「日本軍の南京占領(1937年12月13日)から6週間」という判決を出しており南京大虐殺紀念館や日中両国の研究者もこれを事件の期間とするのが通例である。

肯定派の笠原十九司は「1937年12月4日 - 1938年3月28日4ヶ月」説を唱えている。また当初6週間としていた張も後に笠原説に同調するとともに、始期を「中国の学術界では12月の初めごろと考えております」と述べている。

地理的範囲

この論争での地理的概念は広い順序で示すと次の通りとなる。

  • 地理的概念として地区を限定しないもの
  • 南京行政区 :南京市と近郊6県
  • 南京市 :城区と郷区
  • 城区 :南京城と城外人口密集地である下関・水西門外・中華門外・通済門外
  • 南京城 :城壁を境にした内部
  • 安全区 :南京城内の中心から北西部にかけた一地区(面積3.86km²)

東京裁判では、検察側最終論告で「南京市とその周辺」、判決文で「南京から二百中国里(約66マイル)のすべての部落は、大体同じような状態にあった」としている。事件発生後に行われた被害調査(スマイス報告)では、市部(城区)と南京行政区が調査対象とされた。

三十万人説をとる孫宅巍は南京市(城区+郷区)を地理的範囲と定義する。

笠原十九司は、大本営が南京攻略戦を下命した12月4日における日本軍の侵攻地点、中国側の南京防衛線における南京戦区の規定より、地理的範囲を南京行政区とする[27]。これは、集団虐殺(とされる行為)が長江沿い、紫金山山麓、水西門外などで集中していること、投降兵あるいはゲリラ容疑の者が城内より城外へ連行され殺害された(とされている)こと、日本軍の包囲殲滅戦によって近郊農村にいた100万人以上の市民が多数巻き添えとなっている(とされる)ことなどによるとする[28]。 この定義に対しては、資料に基づいたものとは到底言えず、数合わせのために期間および地理的範囲を拡大しているとの批判が否定派から[要出典]提示されている。

本多勝一は、第10軍と上海派遣軍が南京へ向けて進撃をはじめた時から残虐行為が始まっており、残虐行為の質は上海から南京まで変わらず、南京付近では人口が増えたために被害者数が増大したし、杭州湾・上海近郊から南京までの南京攻略戦の過程すべてを地理的範囲と定義する[29]

板倉由明は「一般には南京の周辺地域まで」とする[30]。この定義に対し、日本軍が進撃した広大な地域で残虐行為が繰り返し行われており、もっと広い地域を定義すべきである、虐殺数を少なくするために地域や時間を限定していると批判がある[31]

人口推移

日本軍による南京陥落の観測が強まる中、南京城内の安全区を管理していた南京安全区国際委員会が食料配給の試算のため、南京城内の人口調査を行った(この調査は食料問題という厳密性が要求される調査であり、当時安全区に居た民間人に加え、区外の民間人も全て安全区に避難してくることを想定していた)。
否定派はこの調査で委員会が南京人口を約20万人と認識していた事から「陥落時の南京の人口は20万人しかなく、30万人を虐殺することは不可能だ」とし、安全区外の住民については、「日本軍による南京攻略前に中国軍による堅壁清野作戦が行われたため、ほとんど存在しなかったはずだ」と主張している(南京防衛軍である中国側は、安全区以外にいる一般市民は、「漢奸(日本側のスパイ)」とみなすとの布令を発している)。
南京安全区国際委員会の事務局長であったルイス・S・C・スマイスが南京陥落の3ヶ月後に実施した戦争被害調査(スマイス報告)では南京の人口が25万人とされており、否定派は「仮に大規模な虐殺が行われていれば、20万を超える市民が、南京にとどまっていたり、周辺地域から流入することはありえないこと」として「陥落時20万人だった人口が、その後すぐに増加していることから、市民が虐殺の存在を認識していなかった」と主張している。
一方で日本国内で30万人を主張している肯定説は無いとした上で、中国側の主張する30万人には上海戦以降の軍人の犠牲者が入っており、単純に南京の人口と比較することは意味をなさないとの主張がある。また、陥落時20万人という人口数は、南京攻略戦が始まる前の予測値であり、陥落時の実測値ではないこと。攻略前の日本軍の展開により周辺地域から戦災避難者の流入は予想できる事であり、さらに堅壁清野作戦後も南京郊外で日本軍による食料の強制徴用が行われていた事から、実際には逃げ切れなかった多くの住民がいたと思われる事、日本軍に囲まれている状況下、南京国際委員会などが機能する城内の方がましではないかと考えた人々が、南京城内に多く残留していたと考えられるとも主張している。


史料批判

肯定説・否定説ともに、反対説に対し、いずれの史料批判も学術的な妥当性が無く、その史料批判が恣意的であると反論している。また、加害側・被害側の証言や記録を一方的に取り上げ、自身の見解に都合の悪い史料に関しては、捏造・偽証というレッテルをはって切り捨てると主張している。

否定説は、虐殺の根拠とする史料には、埋葬記録が水増しされているなど捏造の疑いがある。政治宣伝でしかないものがある。矛盾した被害・加害者証言や写真記録などがあり、またその史料解釈が恣意的であるとしている。実際、朝日新聞(1984年8月4日大阪版夕刊 - 翌朝全国掲載)が「南京大虐殺の証拠写真」として掲載した生首写真が、中国軍が馬賊の首を切り落とした写真であることが判明し、記事中で虐殺に関わったとされた歩兵二十三連隊の戦友会「都城二十三連隊会」が朝日新聞に抗議して訴訟になったり(1986年1月に和解)[32]、南京市にある南京大虐殺記念館が南京事件と無関係であると指摘された写真3枚を撤去したと2008年に一部で報道されるなど[33]、確かに関連性が否定されたり、信憑性の疑わしい資料があり、そもそも南京大虐殺が史実であるのならば、なぜ捏造資料が必要なのかという声もある。

証言者

東史郎中山重夫富永博道舟橋照吉曾根一夫田所耕三太田壽男富沢孝夫上羽武一郎[要出典]らが、南京事件について証言をしており、その証言の信憑性が議論となっている。

肯定説側の証言者の一人である東史郎は、中国戦線での体験などを記した日記を公開したが、その著書をめぐって元上官から名誉棄損で提訴され、最高裁で敗訴が確定している。

否定論者である松村俊夫は、被害者・李秀英について「証言のたびに内容がクルクル変わるのは、実体験でない証拠だろう」と著書に書き、名誉毀損に当たるとして民事裁判を1999年9月に起こされた(李秀英名誉毀損裁判)。東京地裁は、判決理由で「(松村には、李が)嘘を言ったと信じる相当の理由はなかった」と述べ、松村に150万円の支払いを命じた。その後、最高裁まで争われたが、2005年1月に上告棄却となり原告の勝訴が確定した。

これらの裁判の判断を重視する論調もあるが、裁判所はあくまでも当事者の紛争解決機関であり、名誉毀損の裁判では、一般に「真実であると信じるに足りる相当な理由」の有無が争われるのであり、歴史的事実を認定してその事実を世間に対しても拘束させるものではない、という指摘もある。

残虐行為の動機

否定説は、「松井大将が12月9日に「平和開城の勧告文」を飛行機で散布し翌10日正午まで返答を待つなど、南京の軍民を保護しようと尽力したのに、組織的に残虐行為を行ったとするのは根本的に矛盾がある」と主張している。さらに、兵士の体力消耗と弾薬・燃料の浪費であること、サーベルなどで殺害するにしても武器を無駄に傷めることになり、日本軍にとって利益にならないことなどを理由に、日本軍に大虐殺を起こす合理的な動機は存在しないと主張している。

肯定説は、(1)敗残兵の処刑は組織的なものであり、命令があれば動機は必要ないこと、(2)補給(特に食糧の補給)を軽視して現地徴発を多用した結果、この徴発に伴って行われた殺害が多数存在したこと、(3)便衣兵戦術を採る中国軍とのゲリラ戦でかなりの死傷者が出ており、兵士の間で便衣兵への憎しみや恐れが転化して、民間人や捕虜・投降兵の殺害につながったこと、(4)「人を殺した経験がなければ一人前の軍人ではない」という歪んだ英雄主義があったことなどを指摘する。また、多数の予備役・後備役の戦線投入により、兵士の質が低下したことも原因の一つだと考えている。

中島今朝吾日記「捕虜ハセヌ方針」

第16師団長の中島今朝吾中将の1937年12月13日付日記の記述をめぐり、捕虜殺害命令の有無について議論がある。

  • 【注意】研究者の共通認識として、この中島今朝吾日記の記述を裏付ける命令書及び物証は今まで発見されていない。日本軍は捕虜収容所を作り捕虜を収容し汪兆銘政権下の兵士となった者もいる。また戦闘中の捕虜に関しても殺さずに解放している事例も多く見られる。
中島今朝吾日記 12月13日
一、大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタルモ千五千一万ノ群衆トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失イゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ
 部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ
 十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併戦勝直後ノコトナレバ中々実行ハ敏速ニハ出来ズ  斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ
一、後ニ至リテ知ル処ニ拠リテ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約一万五千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約七八千人アリ尚続々投降シ来ル
一、此七八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百二百二分割シタル後適当ノカ処ニ誘キテ処理スル【予定ナリ】[34]

この日記記述について、藤原彰は軍による組織的な捕虜殺害命令と位置付けている。[35]笠原十九司、秦郁彦は、捕虜の殺害命令と解釈している。[36] [37] (文末が「・・・予定ナリ」となっており、これ命令と解釈するのは無理がある。との反論がある。)

吉田裕は、捕虜殺害の方針は「軍」の方針であるとし、裏付けとして次の資料を述べている。()内はそれに対する反論。

  • 第16師団第38連隊の副官・児玉義雄は、師団命令として中国兵の降伏を拒否し、殺害するよう伝えられた証言している。 (混戦時においては、軍事作戦遂行のため、捕虜を拒否することも許される場合がある。オッペンハイム)
  • 第16師団歩兵33連隊「南京附近戦闘詳報」には、捕虜処断として3096名と記されている。 (処断=殺害と解釈するのは無理がある。)
  • 第114師団第66連隊第一大隊の戦闘詳報には、「旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ」という捕虜殺害命令が記されている。[38] (この第114師団第66連隊第一大隊の戦闘詳報が本物であるかについて議論があり、これを疑わしいとした判決がある。)

一方、東中野修道は、「捕虜ハセヌ方針」を捕虜殺害命令だとすると、文章に不自然な捻じれが生じると主張する。「捕虜ハセヌ方針」は、①捕虜にする、②殺害する、③追放する、という3つの解釈ができるが、「①捕虜にする」は「捕虜ハセヌ方針」に反する、「②殺害する」は、当初から殺害する方針であったとすればそのことを日記中に明記するはずであり、明記しなかったということは殺害の方針ではない。したがって、消去法から考えて、投降兵は武装解除後に追放して捕虜にはしない方針だったと解釈する。その裏付けとして、上海派遣軍参謀・大西一大尉「これは銃器を取り上げ、釈放せい、ということです」という証言を挙げる。[39]

しかし、この東中野の見解に対して、以下のような反論がされている。

  • 東中野の検証には、「一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し…」の一節が完全に抜け落ちており、この記述を見ても捕虜の殺害方針であることは明らか
  • 児玉義雄(歩兵第三十八連隊副官)、沢田正久(独立攻城重砲兵第二大隊第一中隊、観測班長、砲兵中尉)、宮本四郎(歩兵第十六師団司令部副官)、助川静二(歩兵第38連隊長)は、それぞれ証言や回想において、捕虜殺害命令を受けたとしている。
  • 釈放説を唱える大西一証言は、偕行社からさえも「シロだシロだというだけ」として、信憑性について批判を受けている。[40]

山田支隊の捕虜集団虐殺

第13師団第65連隊を主力した山田支隊(長・山田栴二少将)は、1937年12月13日~15日にかけて、烏龍山砲台、幕府山砲台その他掃討地域で14777名以上の捕虜を捕獲し、幕府山にあった国民党軍の兵舎に収容した。1937年12月17日付『東京朝日新聞』朝刊には、「持余す捕虜大漁、廿二棟鮨詰め、食糧難が苦労の種」という見出しで記事が掲載されている。山田少将は軍上層部へ処置を問い合わせたところ、殺害するように命令を受けた。この多数の捕虜の処置について、殺害数や殺害理由について議論される。

自衛発砲説
自衛発砲説とは、当時、第65連隊長だった両角業作大佐手記証言に基づいた見解で、主に虐殺少数説・否定説が採用している。 両角手記によれば、捕らえた捕虜は15300余名であったが、非戦闘員を抽出し解放した結果、8000人程度を幕府山南側の十数棟の建物に収容した。給養のため炊事をした際に火災となり、混乱によって半数が逃亡した。
軍上層部より山田少将へ捕虜を殺害するように督促がなされ、山田少将は両角大佐へ捕虜を処分するよう命令する。両角大佐はこの命令に反し、夜陰に乗じて捕虜を長江対岸へ逃がすことを部下に命じた。長江渡河の最初の船が対岸へ進んだところ、対岸より機関銃による攻撃を受けた。渡河を待っていた残りの捕虜は、この攻撃の音を自分たちを江上で殺害するものと錯覚し、暴動となった為、やむ得ず銃火をもって制止し、その結果、僅少の死者を出し、他は逃亡した。[41]

小野賢二説
小野賢二は、歩兵第65連隊の元将兵に対する聞き取り調査の結果、証言数約200本、陣中日記等24冊、証言ビデオ10本およびその他資料を入手し、これらの資料を基に、自衛発砲説には一次資料による裏づけが無いと批判、以下のような調査結果を発表する。
山田支隊が捕らえた捕虜は、12月13日~14日にかけて烏龍山・幕府山各砲台付近で14777名、その後の掃討戦における捕虜を合わせると総数17000~18000名になった。この捕虜を幕府山南側の22棟の兵舎に収容する。
12月16日、昼頃に収容所が火災となるが捕虜の逃亡はなかった。この夜、軍命令により長江岸の魚雷営で2000~3000人が虐殺され、長江へ流される。 12月17日夕~18日朝、残りの捕虜を長江岸の大湾子で虐殺した。同日は、魚雷営でも捕虜虐殺が行われた可能性がある。山田支隊は、18日~19日にかけて死体の処理を行った。
小野は、山田支隊による一連の捕虜虐殺を、長勇参謀一人による独断や、山田少将による独断ではなく、軍命令によって計画的・組織的に実行されたものであり、この命令を受けた山田支隊は、準備も行動も一貫として捕虜殺害を行ったことが証言や陣中日記などで実証されているとし、自衛発砲説が成立しないと断じた。 この小野説は、 南京事件調査研究会など中心とする肯定説において支持されている。[42][43]

物理的な「大量虐殺」の可能性について

否定説は、「当時南京に進軍した日本軍の武器弾薬の質・量などを検討すると、虐殺の実行は極めて困難になる」「大虐殺に要する時間、労力。虐殺が市外に及ぶならその範囲を考えると、大虐殺を行う合理性はおろか余力もない」と主張する。また「30万人もの虐殺があったとして、およそ18,000トンにおよぶ膨大な量の遺体はどこに消えてしまったのか」との疑問にも肯定説は答えていないとしている。また、ラーベの感謝状からもわかるとおり、日本軍は、大多数の避難民が存在している安全区に対して、砲撃を始めとする無差別攻撃はしておらず、数万の虐殺は否定されている。また一部肯定派の学者(笠原)についても、南京城内において数千にわたる虐殺はなかったと主張しているものもある。[44]

肯定説は、南京に進軍した日本軍が総勢20万人近くいること、各兵士が銃剣銃弾、連隊の一部に重機関銃を持っていることを考慮すれば大量殺害は可能である。また、たとえ計画性が無くても、竹やりや素手でも大量虐殺は可能だと主張している。遺体の処理については、揚子江に流すという手段を指摘している。否定説はこれに対し、いずれも可能性を示すのみでありこれを示す資料が存在しない(河川への死体遺棄はあったと日本側の記録にもあるが、小規模である)と主張している[要出典]。また、東京裁判で「殺害20万」の根拠となった埋葬数についても、遺体15万以上が慈善団体により埋葬されたとなっているが、殺害が南京城区とその近郊を含む広大な地域で行われた可能性があると肯定説が主張していることと矛盾すると主張している。また、その後の調査で埋葬を行ったという慈善団体に活動実態がなかったとの指摘もある。

事件前後における日本軍の軍紀について

否定説は、南京攻略戦まで日本軍の軍紀は保たれており、そのことは従軍の外国人記者も証言しているとして、南京攻略戦時のみに虐殺を行ったというのは不自然であると主張している。

肯定説は、ティンパーリーの著作や本多勝一の取材によれば上海 - 南京間でも虐殺行為が行われていた事。一部の史料や参戦者の証言によれば上海上陸時から住民に対して殺害する命令が存在していたと主張している。

強姦被害者の存否について

否定説は、多数の女性が強姦されたと言われていることに対して、被害者が出産したという記録が存在しない以上、彼女らの証言全てを信用することはできないと主張している。堕胎について、当時南京に取り残された人々は遠方に逃れる費用も無かった者であり、これらの者に堕胎費用が捻出できたとは考えられない。強姦致死についても、当時の埋葬記録を参考に否定している。

肯定説は、ベイツの手紙などにより、当時から被害者の堕胎は問題視されていた。中国での子どもの間引きの習慣、一般的な強姦の事件の証明の難しさなどを考慮すると多数起きたとされる強姦事件の否定はできないと主張している。これに対し否定説からは、第二次世界大戦末期の赤軍によるドイツを中心とした被占領地の女性に対する強姦や、ベトナム戦争に従軍した韓国軍兵士による多数のベトナム人女性強姦によって生まれた多くの混血児が実在していることから、南京に限って堕胎の記録がない、一人の混血児やその子孫もいないというのは、無理のある主張であるとの意見がある。

写真の真偽

否定説・東中野は、南京大虐殺を肯定する立場から記述されている書物等で掲載されている写真が捏造されたものであったと主張する。その上で、”南京大虐殺の証拠写真はすべて捏造である”と主張している。これについては南京大虐殺関連の写真を検証してきた松尾一郎も数多くの「証拠写真」を捏造写真として指摘している[45][46]

この主張に対して肯定説は、 (1) 今までの学術的な南京大虐殺の研究において、写真を根拠資料とするものはほとんどなく、その写真を「南京大虐殺の証拠写真」と主張すること自体がおかしい、 (2) 東中野の研究の根拠には主観的なものが多く、学術的な研究とは言い難い、 (3) 一部に問題があるという点を明らかにしただけで、すべての写真を否定することはできない、などの反論をしている。[要出典]

陰謀説

否定説・東中野は、国民政府が、ティンパーリーやベイツなど外国人に依頼し、大虐殺を捏造したと主張する。その根拠として、台湾で発見したとする『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』(1941年)やアメリカイェール大学で発見したとする新聞記事の切り抜きを挙げる。

これに対し肯定説は、 (1) 『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』からでは、ティンパーリーが国民政府の依頼を受けて記者活動を行ったことは証明できない、 (2) ティンパーリーの著作は、事件を伝える主要な部分は南京在住者の手記で構成されていることが確認されているので、その出自をもって捏造とすることは論理的に不可能である、 (3) ベイツの国民党顧問説の根拠である新聞記事は出所がまったく不明であり、他の史料と比べても内容の信憑性に欠けると批判している。

当時の報道についての議論

否定派の見解では、中国側が国際連盟において「南京における日本軍の暴虐」(犠牲者は2万人としている)を演説しても非難決議が出されなかったことを挙げて、「南京大虐殺」は当時の国際社会でほとんど話題になっていなかったと主張している(日本軍が中国への渡洋爆撃を行った際には国際連盟が全会一致で非難決議をしている)。

肯定派は「国際連盟では話題にならなかったが当時の欧米メディアは虐殺を伝えていた」と反論している。日本軍の南京入城後『ニューヨークタイムズ』などでは「南京の暴虐」などとして取り上げられ、また日本の外交官宛にイギリス人外交官が「市民への虐殺被害」を外電で報告しており、日本政府(もしくは軍部)は早い段階でこの事件を認知していたのではないかとしている。


否定派はこれに対し「南京の欧米人記者は報道はしていたがその情報源はほぼ伝聞によるもので信憑性が乏しい」と主張している。南京の欧米人記者は日本軍の南京入城後(12月15日と16日)に戦艦で南京を脱出しており、スティール、ダーディン両記者の記事のベースは国際委員会のベイツ教授が「さまざまな特派員に利用してもらおうと(ベイツの手紙より)」手渡したティンパーリ編「戦争とは何か」ではないかとの指摘がある。「戦争とは何か」の記述の多くが伝聞に基づくものであって、実際、南京陥落後の12月13~15日は日本軍は掃討戦中であり、国際委員会に届けられた殺人事件もそれが全てではないにせよ目撃者のないものが5件のみであり(国際委員会編「市民重大被害報告」)、スティールら外国人記者が見たという殺人事件の信憑性を疑う声もある。また日本の外交官宛の「虐殺の外電」についても同様に「伝聞が情報源であり日本政府(もしくは軍部)は誤情報を報告されていたのではないか」としている[47]

上海から南京まで追撃される中国軍に従軍していた『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン通信員は、1989年10月号の『文藝春秋』においてインタビューに答え、「捕虜の処刑は実際に目撃しましたか」という質問に対し、「捕虜たちは50人くらいずつにまとめられ、並べられて射殺されるのです。そのあとにすぐまた50人ほどの次のグループが引き出され、機関銃の連射で殺されるのです。」と証言。一方で「(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)ありませんでした。」と断言し、「私は当時、虐殺に類することは何も目撃しなかったし、聞いたこともありません」「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった」「上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。」として「上海から南京までの間で日本軍による大規模な殺害や略奪があった」という一部の説とはくいちがっている証言をした。しかし南京においては「数多くの関係者に質問し、自分の体験や見聞も含めて推定した数」として2万の軍人捕虜と数千の民間人の殺害があったと主張したが、民間人殺害の原因としては、南京の『安全地区』は10万人ほどおり、そこに中国兵が多数まぎれこんで民間人を装っていたことが原因であるとし、また日本軍が外部からいきなり『安全地区』に攻撃をかけるようなことはしなかったと証言している。


論争史

前史(1971年以前)

事件当時

南京事件は、事件当時からニューヨークタイムズなど欧米メディアによって大々的に報道され世界に衝撃を与え、写真誌「ライフ誌」は、1938年1月と5月に特集記事を組んだ。当時の欧米での認識は、数多くのメディアやティンパリーの著作「戦争とは何か」(1938年)などによって「非武装4万人殺害、3割は兵士でない」というものだった。一方、日本国内では報道されることはなく、当時のほとんどの国民が事件を知ることはなかった。(1937年8月2日の憲兵司令部警務部長通牒「時局に関する言論、文書取締に関する件」では、「国境を超越する人類愛又は生命尊重、肉親愛等を基調として現実を軽蔑する如く強調又は諷刺し、為に犠牲奉公の精神を動揺減退せしむる虞ある事項」などが言論取締りの対象とされた。)」

戦後

南京事件は、東京裁判において日本に大きな衝撃を与えた[48]が、それ以降、日中戦争を取り上げた研究などでは触れられるものの、世間で注目をあびる問題ではなかった[49]。専門的な研究は洞富雄『近代戦史の謎』(人物往来社 1967年)、五島広作毎日新聞記者)と下野一霍の共著『南京作戦の真相』(東京情報社 1966年)がある程度であった(『南京作戦の真相』は、南京大虐殺の存在自体を疑う否定論としては最も早い時期に単行本として出版されたものであったが、当時この本が注目されることはなかった)。家永三郎『太平洋戦争』(岩波書店 1968年)は、軍人・記者の回想録や洞の著書を引用しながら、南京大虐殺として比較的詳細に記述している[50]

1971年から1982年まで

再び注目を集めるきっかけとなったのは、日中国交樹立直前の1971年(昭和46年)8月末より朝日新聞紙上に掲載された本多勝一記者の『中国の旅』という連載記事である。南京を含む中国各地での日本軍の残虐行為が精細に描写された記事で、南京事件についての一般的日本人の認識はこれ以降大きく広まり、また日本人による南京事件目撃証言がさまざまな雑誌や本に掲載されるようになった[51]。論争は、この記事で当時「百人斬り競争」が大々的に報道されていたことが取り上げられた時、山本七平鈴木明の“百人斬りは虚構である”という主張から始まった。鈴木明の『「南京大虐殺」のまぼろし』(文藝春秋 1973年)は事件の事実自体は全面否定しない立場からの論考であったが、否定説の象徴とみなされるようになり、この書名に影響されて否定説・否定派を「まぼろし説」「まぼろし派」とも呼ぶようになった[52]。1975年頃の論争は「「肯定派」と「否定派」、或いはあったとしても「大虐殺というほどではない」人々との間で激しく展開されていた[53]」。

1982年から1990年まで

三度目に大きく取り上げられるようになったのは、1982年(昭和57年)の教科書問題の時である。「検定で侵略を進出と書きなおさせた」という誤報(教科書誤報事件)をきっかけとして、日本の教科書における事件の記述が政治問題化した。日本政府は首相の訪中により政治決着させることを選んだが、ナショナリストの反発を招き、否定派が支持を拡大した。否定派の中心となったのは松井石根大将の秘書も務めたこともある、評論家・田中正明だった。また、家永三郎が起こした教科書検定をめぐる訴訟(家永教科書裁判)では南京大虐殺の記述を削除したことについて争われた。それを受ける格好で、洞・本多を始めジャーナリストや歴史研究者が集まって1984年(昭和59年)に南京事件調査研究会を発足。これにより大虐殺派[54]が形成された。研究会は日中双方の資料や証言を照合して虐殺事件の全容の解明に乗り出した[55]

1984年(昭和59年)に入ると、新たな証言が得られるようになった。当時の兵士が事件について語りだしたのである。陸軍将校の親睦団体である偕行社は、機関紙『偕行』にて事件の証言を募集した。当初、偕行社は事件の否定を目指していたが、不法行為を示す多くの証言が集まり、総括として中国人民への謝罪を示した。また、1985年(昭和60年)に、板倉由明が 田中の著書『松井石根大将の陣中日記』の内容を陣中日誌の原本と比較した結果、田中が松井石根大将の陣中日誌を編纂する際に600箇所以上の変更ないし改竄を行い、自ら加筆した部分をもって南京事件がなかったことの根拠とする注釈を付記していたことを発見した。板倉は大虐殺には懐疑的な立場であったが「改竄は明らかに意図的なものであり弁解の余地はない」として田中を強く非難した。田中はのちに自著の後書きでこの件に触れ、加筆の大部分は誤字や仮名遣いの変更であったと弁明し、意図的な改竄を否定した[56][57]

この頃、板倉や秦郁彦虐殺少数派[58]が登場し、偕行社はこれに近い立場をとった。偕行社が収集した証言、史料は1989年(平成元年)に『南京戦史』として刊行され[59]、その中で少なくとも約1万6000名に上る捕虜などの殺害があったことを認めたため、「あったか」「なかったか」というレベルでの論争は学問的にはほぼ決着がついた[60]

1990年代以降

1990年代にはアメリカ合衆国で反共派の在米華僑が日本の戦争犯罪を非難しはじめた。当初、中国政府は立場の違いからこの運動に関わりを持たなかったため、事件は政治色の薄い人道問題とみなされるようになった。その流れでアイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』が登場し話題を呼んだ[61]。論争は国際的なものになっていった[62]。一方で、大虐殺派と中国政府の公式見解に対立が見られるようになった[63]

否定派には東中野修道などが登場した。東中野は、捕虜や投降兵などの殺害が行われたことは認めたうえで、それは戦時国際法に照らして合法であり、便衣兵狩りを虐殺とみなすべきではないと主張し[64]、大虐殺派の吉田裕との間で戦時国際法についての論争が行われた[65]。大虐殺派には、南京への道・史実を守る会のようにインターネット論争を通じて、否定派を批判する研究者も現れた[66]

学者・研究者の反応

肯定論者は、完全否定説はほとんどの歴史家・専門の歴史研究者の間では受け入れられる傾向はないと主張している。

否定論者は、30万という大量虐殺説はほとんどの歴史家・専門の歴史研究者の間では受け入れられる傾向はないと主張している。

日本の研究者で、30万人説を主張したり、時代によって変遷する中国政府の公式発表を鵜呑みにしてその度に自説を変更している研究者はいない。多くの研究者は百から十数万の虐殺者数を推測しているがその差は激しく、仮に少なめに推測するならばそれは歴史上あえて取り沙汰するほどの規模ではなく、多めに推測するならば注目すべき事件となり、その意義も変わってくる。

論争に対する識者からの批判

以上のような日本のおける南京大虐殺論争に対して、各方面の識者から批判がなされている。

  • 心理学者の中山治は、「(虐殺肯定派と否定派が)互いに誹謗中傷、揚げ足の取り合いをし、ドロ試合を繰り広げている。事実をしっかり確認するどころの騒ぎではなくなっているのである。こうなったら残念ながら収拾が付かない。」と論評[67]
  • 政治学者の藤原帰一は、「(南京大虐殺論争が)生産的な形を取ることはなかった。論争当事者が自分の判断については疑いを持たず、相手の判断を基本的に信用しないため、自分の偏見を棚に上げて、相手の偏見を暴露するという形でしか、この議論は進みようがなかったからである。(中略)新たな認識を生むというよりは、偏見の補強しか招いていない。」と論評[68]
  • SF作家でありと学会会長の山本弘は自身のホームページにて、この論争は学術論争ではなくイデオロギー論争であり、左寄りの論者(30万人派、虐殺派)は、中国人の犠牲者数を多くしたいために、「南京」「虐殺」の範囲を広くし、右寄りの論者(少数派、まぼろし派)は、中国人の犠牲者数を少なくしたい(なかったことにしたい)ために「南京」「虐殺」の範囲を狭くしている。論争の当事者達は歴史の真実を知りたいのではなく、自分たちの信条を正当化したいだけである、と論評している[69]

資料

  • 「松井石根大将『陣中日記』改竄の怪」(板倉由明)(「歴史と人物 1985年冬号」所収)
  • (レジュメ)「いわゆる「南京事件」」原剛(大阪教育大学 社会教育学研究第15号2009.1)※本文[1]※紹介(山田正行)[2]

脚注

  1. ^ 秦郁彦『南京事件 「虐殺の構造」』(増補版)中央公論新社中公新書〉、2007年、184頁頁。ISBN 978-4-12-190795-0 
  2. ^ 国軍歴史文物館の常設展説明より。中華民国国軍の軍事博物館、「凡是被認為有抗日嫌疑者,立遭殺害。此一大規模劫掠、姦淫、屠殺行動,計死傷中國軍民竟高達30餘萬人。」と記述している
  3. ^ 五十嵐武士 北岡伸一「[論争]東京裁判とは何だったのか」P224。
  4. ^ 孫宅巍 「南京防衛軍と唐生智」、洞富雄 藤原彰 本多勝一編「南京事件を考える」、大月書店、1987年、ISBN 978-4272520152、P142。
  5. ^ 洞富雄 藤原彰 本多勝一 編著、南京事件を考える、大月書店、1987年、ISBN 978-4272520152、P28。
  6. ^ 笠原十九司『南京事件』(岩波書店、1997年)
  7. ^ 笠原十九司「南京防衛戦と中国軍」(所収 『南京大虐殺の研究』(洞富雄、藤原彰、本多勝一編、晩声社、ISBN 4-89188-223-9)214-328頁。および、笠原十九司「南京防衛軍の崩壊から虐殺まで」(所収 『南京大虐殺の現場へ』(洞富雄、藤原彰、本多勝一編、朝日新聞社、1988年、ISBN 4-02-255962-4)77-117頁
  8. ^ 「南京の真実」講談社文庫,2000
  9. ^ 参考「スマイス報告」をめぐる「議論」
  10. ^ 笠原十九司『南京事件』218-228頁
  11. ^ 笠原十九司『南京事件』218-228頁
  12. ^ 『南京事件』中公新書
  13. ^ 『南京事件』(2007年増補版)
  14. ^ 『南京戦史』(偕行社)の編集に携わった
  15. ^ 著書『本当はこうだった南京事件』日本図書刊行会
  16. ^ 北村、2001
  17. ^ 2007年4月2日の外国特派員協会における講演。2007/04/19週刊新潮
  18. ^ 質問状提出経緯, 公開質問状本文
  19. ^ http://www20.tok2.com/home/nanking/scmp.htm
  20. ^ 国会議事録
  21. ^ 「まぼろし派 中間派 大虐殺派 三派合同大アンケート」、『諸君!』2001年2月号、P164。
  22. ^ 笠原十九司 『南京事件と日本人』、柏書房、2002年、ISBN 978-4760121984 、P163。
  23. ^ 佐藤和男氏「南京事件と戦時国際法」『正論』平成13年3月号、日本会議国際広報委員会・大原 康男・竹本 忠雄『再審「南京大虐殺」―世界に訴える日本の冤罪』、小室直樹・渡部昇一『封印の昭和史―戦後50年自虐の終焉』(徳間書店)等
  24. ^ 原爆判決-東京地方裁判所昭和38年12月7日判決中理由二(五)及び(七)参照
  25. ^ 『南京安全区トウ案』 第1号文書(Z1)いわゆる「ラーベの感謝状」
  26. ^ 笠原十九司『南京事件』(岩波書店、1997年)107頁写真参照
  27. ^ 笠原十九司「南京事件における民間人虐殺」(所収=『南京事件70周年 国際シンポジウムの記録』(記録集編集委員会編、日本評論社、2009年、ISBN 978-4-535-51669-4)18-20頁)。
  28. ^ 笠原十九司「数字いじり不毛な論争は虐殺の実態解明を遠ざける」(所収=『南京大虐殺否定論 13のウソ』(南京事件調査研究会編、柏書房、1999年、ISBN 4-7601-1784-9)92-93頁)。
  29. ^ 本多勝一『南京大虐殺と日本の現在』(金曜日、2007年、ISBN 978-4-906605-31-6)69-70頁
  30. ^ 板倉由明『本当はこうだった南京事件』(日本図書刊行会、1999年、ISBN 4-8231-0504-4)11頁
  31. ^ 藤原彰「南京攻略戦の展開」(所収 『南京大虐殺の研究』(洞富雄、藤原彰、本多勝一編、晩声社、ISBN 4-89188-223-9)88-91頁。
  32. ^ 田辺敏雄による「朝日報道 都城23連隊と南京虐殺」、松尾一郎が運営する電脳日本の歴史研究会のサイトにある「朝日新聞」の犯罪を参照。
  33. ^ 南京大虐殺記念館、信憑性乏しい写真3枚を撤去 - MSN産経ニュース(2008年12月17日)による。ただし、この内容を中国側が否定したとする報道、南京大虐殺記念館が産経新聞に反発「写真撤去はない」- サーチナ(2008年12月20日)もある。
  34. ^ 南京戦史編集委員会編 『南京戦史資料集』 偕行社、1989年、219-220頁。
  35. ^ 藤原彰 『新版 南京大虐殺』 岩波書店<岩波ブックレット>、1988年、ISBN 4-00-003435-9、28-29頁。
  36. ^ 笠原十九司 『南京事件』 岩波書店<岩波新書>、1997年、ISBN 4-00-430530-6
  37. ^ 秦郁彦 『南京事件』 中央公論社<中公新書>、1986年、ISBN 4-12-100795-6
  38. ^ 吉田裕 『新装版 天皇の軍隊と南京事件』 青木書店、1986年、ISBN 4-250-98019-7、104-106頁。
  39. ^ 東中野修道 『「南京虐殺」の徹底検証』 展転社、1998年、ISBN 4-88656-153-5、115-123頁。
  40. ^ 「捕虜ハセヌ方針」をめぐって、「南京事件-日中戦争 小さな資料集」所収。
  41. ^ 南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集2』偕行社、1993年、339-341頁。
  42. ^ 本多勝一・小野賢二「幕府山の捕虜集団虐殺」(所収 『南京大虐殺の研究』洞富雄、藤原彰、本多勝一編、晩声社、ISBN 4-89188-223-9、128-149頁)。
  43. ^ 小野賢二「虐殺か解放か----山田支隊捕虜約二万の行方」(所収 『南京大虐殺否定論 13のウソ』南京事件調査研究会編、柏書房、ISBN 4-7601-1784-9、138-156頁)。
  44. ^ 笠原十九司1998年12月23日号「SAPIO」、南京問題小委員会の調査検証の総括p5
  45. ^ 南京事件で使用される・ニセ写真
  46. ^ 大虐殺派のウソ写真と証言
  47. ^ 東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』、展転社、1998年、ISBN 978-4886561534
  48. ^ 秦、前掲書。26頁
  49. ^ 秦、前掲書。p263―p267
  50. ^ 笠原十九司『南京事件論争史 日本人は史実をどう認識してきたか』平凡社新書、2007年、p103
  51. ^ 笠原『南京事件論争史』p107-109
  52. ^ 秦、前掲書。p52、p184、p270
  53. ^ 石井和夫(日中友好元軍人の会)「「南京大虐殺」を考える」『中国研究月報』第469号、中国研究所、1987年3月、46-49頁、ISSN 0910-4348{{issn}}のエラー: 無効なISSNです。 
  54. ^ 南京事件調査研究会およびそのメンバーは「史実派」と呼称。
  55. ^ 秦、前掲書。p52、p272。
  56. ^ 板倉由明「松井石根大将『陣中日記』改竄の怪」(「歴史と人物 1985年冬号」所収)
  57. ^ 秦、前掲書。p286―p288。
  58. ^ 秦自身は「中間派」と呼称。
  59. ^ 秦、前掲書。p53、p275―p279。
  60. ^ 笠原『南京事件論争史』p213
  61. ^ 遠藤誉「第6章 愛国主義教育が反日に変わるまで」『中国動漫新人類』(初版)日経BP、2008年、301―378頁頁。ISBN 978-4-8222-4627-3 
  62. ^ 秦、前掲書。p291―p295。
  63. ^ 秦、前掲書。p291―p295。
  64. ^ 秦、前掲書。p274―p275。
  65. ^ 笠原『南京事件論争史』p250
  66. ^ 笠原『南京事件論争史』p271
  67. ^ 中山治『日本人はなぜ多重人格なのか』、洋泉社、1999年、ISBN 978-4896913712、p142。
  68. ^ 藤原帰一『戦争を記憶する――広島・ホロコーストと現在』、講談社、2001年、ISBN 978-4061495401、p32。
  69. ^ 目からウロコの南京大虐殺論争

外部リンク

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関連項目