「白川郷・五箇山の合掌造り集落」の版間の差分
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{{世界遺産概要表 |
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|area = 68 [[ヘクタール|ha]]<ref group = "注釈">後述する構成要素の合算とは0.000002 ha だけ一致しないが、世界遺産センターが提供している数字に従う。</ref> (緩衝地域 58,873 ha) |
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[[ファイル:Hakusan_from_Ookuraone_2000-8-6.jpg|thumb|白山]] |
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'''白川郷・五箇山の合掌造り集落'''(しらかわごう・ごかやまのがっしょうづくりしゅうらく)は、飛騨地方の[[白川郷]]([[岐阜県]][[大野郡 (岐阜県)|大野郡]][[白川村]])と[[五箇山]]([[富山県]][[南砺市]])にある[[合掌造り]]の集落群で、[[1995年]][[12月9日]]に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]([[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]])に登録された。日本では6件目の世界遺産であった。 |
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この記事名は[[文化庁]]の表記に基づくが、「[[中黒|・]]」を「と」にして「'''白川郷と五箇山の合掌造り集落'''」とする文献も見られる<ref>ユネスコ世界遺産センター (1998)、世界遺産アカデミー (2005) など。なお、世界遺産アカデミーは『世界遺産検定公式テキスト (1)』([[毎日コミュニケーションズ]]、2009年)では、「白川郷・五箇山の - 」としている。</ref>。 |
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'''白川郷・五箇山の合掌造り集落'''(しらかわごう・ごかやまのがっしょうづくりしゅうらく)は、飛騨地方の[[白川郷]]([[岐阜県]][[大野郡 (岐阜県)|大野郡]][[白川村]])と[[五箇山]]([[富山県]][[南砺市]])にある[[合掌造り]]の集落で、[[1995年]][[12月9日]]に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]([[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]])に登録された。 |
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== 歴史 == |
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{{see also|白川郷|五箇山}} |
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合掌造りは、[[江戸時代]]から始められた[[養蚕]]のため、屋根裏に棚を設置したのが始まりと言われている。[[豪雪]]による雪下ろしの作業軽減と[[屋根裏]]の床面積拡大のため、急な角度を持っている特徴的な[[茅葺|茅葺屋根]]になったと考えられている。 |
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「[[白川郷]]」と「[[五箇山]]」は、いずれも[[庄川]]流域の歴史的地名で、白川郷は上流域、五箇山は中流域である。白川郷は荘白川(しょうしらかわ)ともいい、現在は[[白川村]]と[[荘川村]]に分かれている。五箇山は富山県の旧[[平村 (富山県)|平村]]、[[上平村 (富山県)|上平村]]、[[利賀村]]の3村に含まれていたが、現在はいずれも[[南砺市]]に属する<ref>『コンサイス日本地名事典』第4版、2005年、pp.476, 605, 615</ref>。 |
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この地域は[[白山]]信仰の[[修験者]]や[[平家の落人|平家の落人伝説]]とも結びつきが深い。白川郷の地名は12世紀半ば、五箇山の地名は16世紀にはそれぞれ確認できるが<ref name = Suisen3a>日本国政府・文化庁 (1994) の「3-a. 歴史」</ref><ref>ICOMOS (1995) p.43</ref>、合掌造りがいつ始められたのかは定かではない。江戸時代中期にあたる17世紀末に原型ができたと推測されている<ref>日本国政府・文化庁 (1994) の「合掌造り家屋の成立時期」</ref>。 |
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構造上、通常の家屋に比べて天井裏部分の容積が大きくなる。その天井裏部分は風通しが良く、盛んに[[養蚕]]が行われた。 |
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加賀藩では五箇山の絹を重要な資金源としていたほか、蚕の糞を利用して[[焔硝]]の密造を行っていた。 |
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江戸時代の白川郷は[[金森藩]]領と[[浄土真宗]][[照蓮寺]]領となり、前者はのちに[[天領]]となった。一方の五箇山は[[加賀藩]]領となり、[[塩硝]]生産が保護されていた<ref>ユネスコ世界遺産センター (1998) p.237</ref>。塩硝は[[火薬]]の原料となる[[硝酸カリウム]]で、五箇山では雑草と蚕の糞を利用して抽出する培養法が行われていた。五箇山は流刑地にもなっていた陸の孤島である分、原料調達の長所のほかに秘伝の漏洩を防ぐという意味でも適しており<ref>中西・日吉・本浄 (1991) p.421</ref>、稲作に不向きな土地柄で養蚕とともに発達した家内工業の一つであった<ref>世界遺産アカデミー (2005) p.109</ref>。一帯では現在は水田が見られるが、それらのうち少なからぬ部分が戦後に転作されたものであり、もともとの農業の中心は、[[焼畑]]による[[ヒエ]]、[[アワ]]、[[ソバ]]、および養蚕のための桑である。ヒエやアワの収穫は自給分が精一杯であったから、その分家内工業の存在が大きくなった<ref>世界遺産アカデミー (2005) p.109</ref>。 |
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また、合掌造りの屋根はどの家屋も[[東]][[西]]を向いている。これは、屋根に満遍なく日が当たるようにするため、集落の[[南]][[北]]に細長い谷にあり、南北それぞれの方向から強い[[風]]が吹くので、風を受ける[[面積]]を少なくするためと言われている。 |
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合掌造りは、そうした家内工業の発展にあわせて、大型化、多層化していったと考えられている<ref>宮沢 (2005) p.30</ref>。なお、合掌造りが普及する以前の住居形式については、まだはっきりしていない<ref>宮沢 (2005) pp.30-31</ref>。 |
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合掌造りを守る地域住民の連携形式の「[[結]](ゆい)」により、補修や茅葺の葺き替えが30年 - 40年に一度は行われている。屋根の葺き替えには、多くの人手と[[時間]](全て葺き替えるのに二日間はかかる)を要する。 |
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=== 合掌造りの発達 === |
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[[白川郷]]と[[五箇山]]の集落地帯は、有数の[[豪雪地帯]]であることによって、周囲との道路整備が遅れたため、奇跡的に合掌造りの住居構造が残った。しかし、過疎化や住民の高齢化により、「結」の活動による、合掌造りの維持活動も限界となっている。 |
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{{main|合掌造り}} |
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「合掌造り」はそれほど古い用語ではなく、1930年頃に[[フィールドワーク]]を行なった研究者らによって使われるようになったと推測されている<ref name = SuisenHoron>日本国政府・文化庁 (1994) の「補論 合掌造り家屋の概要」</ref>。その定義は一様ではないが、日本政府が世界遺産に推薦した際には、「小屋内を積極的に利用するために、叉首構造の切妻造り屋根とした茅葺きの家屋」と定義づけた<ref name = SuisenHoron />。名称の由来は、掌を合わせたように三角形に組む丸太組みを「合掌」と呼ぶことから来たと推測されている<ref name = SuisenHoron /><ref>宮沢 (2005) p.11</ref>。 |
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日本政府の定義では屋根の急勾配に触れられていないが、実際のところ、合掌造りの屋根はおよそ45度から60度まで幅があり、初期のものほど傾斜がゆるい傾向にある<ref name = Academy107>世界遺産アカデミー (2005) p.107</ref>。この傾斜は、[[豪雪]]による雪下ろしの作業軽減や多雨地帯でもあることによる水はけを考慮したものと考えられている<ref name = Academy107 />。合掌造り家屋の中では、家内工業として[[和紙]]漉き、[[塩硝]]作り、[[養蚕]]が行なわれていたが、明治時代以降も継続され、家屋の大型化にも大きく寄与したのは養蚕業であった<ref>日本国政府・文化庁 (1994) の「3a. 歴史 iii. 産業」</ref>。 |
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戦後は林野、水源開発の影響、産業の衰退、人口の都市部流出などもあって、多くの家屋が廃屋となった。特に[[御母衣ダム]]建設の際に、数多くの伝統建築が取り壊された。その後、伝統的な家屋形式を反故にしてはいけないと近隣住民を中心に資源保存の機運が高まることになる。その後、後述の重要伝統的建造物群保存地区選定を経、また世界遺産登録後、急激に観光客が増加している。近くを走っている[[高速道路]]([[東海北陸自動車道]])も[[飛騨トンネル]]の完成により[[2008年]]に全線開通しており、地域社会の生活と観光地化の狭間で、様々な問題も発生している。例として、現住建造物問わず心ない観光客が勝手に戸を開けるなど、住民のプライバシーを尊重しない重大なマナー違反等がある。 |
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[[ファイル:Gassho-zukuri minka 3rd-floor 20060801.jpg|thumb|白川郷・長瀬家の三階内部]] |
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「[[白川郷]]」や「[[五箇山]]」と言われているのだが、細かく言うと白川郷の「[[荻町 (白川村)|荻町]]」と、五箇山の「[[相倉]]」、「[[菅沼 (南砺市)|菅沼]]」の三つの集落がある。荻町は[[1976年]]に、相倉と菅沼は[[1994年]]に[[重要伝統的建造物群保存地区]]に選ばれている。 |
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養蚕は地域によっては住居と別棟を作って行うこともあったが、山間にあった集落では少しでも農地を確保するために、住居の屋根裏を活用する必要があったと考えられている<ref>宮沢 (2005) p.21、水村 (2002) p.108</ref>。合掌造りが[[切妻造|切妻屋根]]を採用したのも、[[入母屋造]]や[[寄棟造]]よりも屋根裏の容積を大きくできるからだろうと指摘されている<ref>宮沢 (2005) p.21</ref>。また、屋根の勾配を急にしたことは、屋根裏に二層もしくは三層の空間を確保することにつながり、豪雪への対策以外に養蚕業にとっても都合が良いものであった<ref>宮沢 (2005) p.21、水村 (2002) p.108</ref>。ことに、気候によって普通ならば他の地域のように年に2回[[蚕]]を育てることが難しい白川郷や五箇山では、春の遅れを生活で出る暖気によって補うためにも、屋根裏を有効活用する必要があったのである<ref>水村 (2002) p.108</ref>。屋根裏の床材には[[竹簀]]が利用され、煙などが屋根裏に抜けやすいようになっている<ref>タウト (2011) p.58</ref>。 |
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なお、名義上「白川郷・五箇山の合掌造り集落」となっているが、世界遺産に登録されているのはこの3集落の合掌造りのみであり、他の集落のものについては世界遺産には登録されていない。 |
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[[ファイル:Bird View Shirakawa-go.jpg|thumb|白川郷の景観]] |
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== 登録基準 == |
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また、白川郷の合掌造り屋根はいずれも[[切妻造|妻]]を南北に向けている。これは、(1) 屋根に満遍なく日が当たるようにして冬場の融雪と茅葺き屋根の乾燥を促進させるため、(2) 集落は南北に細長い谷にあり、それぞれの方向から強い風が吹くので、風を受ける面積を少なくするため、(3) 夏場は逆に屋根裏部屋の窓を開放し、南北の風を吹き抜けさせることで夏蚕が暑さにやられないようにするため、という3つの効果が指摘されている<ref>(1) と (2) は世界遺産アカデミー (2005) p.107, (2) と (3) は水村 (2002) pp.106, 108, 110</ref>。 |
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{{世界遺産基準|文化}} |
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{{世界遺産文化4}} |
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{{世界遺産文化5}} |
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合掌造りの床面積の広さや多層化は集落の大家族制とも結びついている。かつての白川郷や五箇山では、せまい耕作地が相続によって細分化されることなどを防ぐために、結婚できるのは長男だけだった。その結果として、一つの住居に家長とその嫡流だけでなく、傍系に当たる親族や使用人たちも多数暮らす形となり、力をあわせて農業や家内工業に精を出したのである<ref>水村 (2002) pp.104, 108, 世界遺産アカデミー (2005) p.109</ref>。ただし、屋根裏のうち上層部はせますぎて居住には適さず、あくまでも養蚕などの産業用であった<ref>水村 (2002) pp.108-109</ref>。 |
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== 白川郷風景 == |
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ファイル:SHIRAKAWA GOU.JPG|合掌集落 |
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ファイル:Shirakawago Japanese Old Village 006.jpg|明善寺庫裏 |
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ファイル:Shirakawa-goFireplace.jpg|和田家 |
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ファイル:Gassho-zukuri farmhouse-02.jpg|屋根の葺き替え |
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ファイル:Gassho-zukuri minka 3rd-floor 20060801.jpg|長瀬家の三階内部 |
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</gallery> |
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[[ファイル:Gassho-zukuri farmhouse-03.jpg|thumb|left|屋根裏。部材が縄で縛られているのが分かる。]] |
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== 五箇山風景 == |
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屋根組みには釘を1本も使わず、丈夫な縄<ref group = "注釈">白川村では主に[[マンサク]]の縄が用いられる。2007年には病害によってマンサクが大被害を受けて問題となった(日本ユネスコ協会連盟 (2008) 『世界遺産年報2008』 日経ナショナルジオグラフィック社、p.35)。</ref>で固定する。これは、雪の重さや風の強さに対する柔軟性を生み、家の耐久性を増す工夫とされている<ref>世界遺産アカデミー (2005) p.108</ref><ref group = "注釈">[[建築工学]]の観点から本当に効果があるものなのかは実証されてこなかったため、白川村の「世界遺産白川郷合掌造り保存財団」と[[東京大学生産技術研究所]]は、2010年から共同で実地調査を行なっている(日本ユネスコ協会連盟 (2011) 『世界遺産年報2011』 東京書籍、p.32)。</ref>。なお、釘を一切使わないわけではなく、床板などの打ち付けには使われている。この釘が[[和釘]](角釘)なのか[[洋釘]](丸釘)なのかは、築造年代を判断する手がかりにもなる<ref>宮沢 (2005) p.44</ref>。 |
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ファイル:Ainokura in Gokayama area.jpg|相倉合掌集落 |
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[[ファイル:Gassho-zukuri farmhouse-02.jpg|thumb|屋根の葺き替え]] |
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ファイル:Gokayama ainokura gassho shuraku 20050504 5.jpg|相倉合掌集落 |
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合掌造りは保全のために、大規模な補修や屋根の葺き替えを30年 - 40年に一度行う必要がある。これは多くの人手と時間を要する大掛かりなものであり、住民総出で行われた。住民たちは近隣で「組」(くみ)と呼ばれる互助の組織を形成し、その単位を土台として「[[結]]」(ゆい)を行う。屋根の葺き替えにおいて重要な「結」は、鎌倉時代にこの地に根付いたとされる[[浄土真宗]]の信仰に起源を持つものである<ref>世界遺産アカデミー (2005) p.111</ref>。屋根は原則として1日で葺き替えた。これは降雨を警戒したからとか<ref>世界遺産アカデミー (2005) p.111</ref>、春先に行なわれることが多く、農作業との兼ね合いで複数日にわたって村人達の協力を仰ぐことが難しかったからなどと説明される<ref>宮沢 (2005) p.38</ref>。ただし、加須良集落<ref group = "注釈">加須良(かずら)はかつて白川村に存在した集落だったが、1967年の集団離村を経て翌年に廃村となった(宮沢 (2005) p.57, 矢野 (2006) p.41)。</ref>などは住民が少なかったため、複数日に分けざるをえなかったという<ref>宮沢 (2005) p.37</ref>。 |
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ファイル:Gokayama Japanese Old Village 002.jpg|菅沼合掌集落 |
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ファイル:Gokayama Japanese Old Village 001.jpg|菅沼・塩硝の館 |
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なお、小規模な補修は毎年のように行なわれる。これは大雪が降った後に、屋根に積もった雪が滑り落ちるのにあわせて、茅が巻き込まれて抜け落ちることがあるためである。そうした小規模な補修を「差茅」(さしがや)と呼ぶ<ref>宮沢 (2005) p.38</ref>。 |
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ファイル:Gokayama gassho-zukuri yane-ura 20050504 1.jpg|三階内部屋根裏 |
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</gallery> |
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明治時代中期に当たる19世紀末頃が最も合掌造り集落が多かった時期と考えられており、一帯にはおよそ1850棟が存在していたとされる。ただし、この時でさえも、当時の日本全体の農家(約550万戸)の0.03%ほどを占める例外的存在に過ぎなかった<ref name = SuisenRiyuu />。 |
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=== 保存に向けた動き === |
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[[白川郷]]と[[五箇山]]の集落地帯は、有数の[[豪雪地帯]]であることによって、周囲との道路整備が遅れたため、奇跡的に合掌造りの住居構造が残った。それに関する研究は明治・大正期にも見られたが、秘境に奇妙な民俗を見出そうとするような興味を中心におき、質の高いものではなかった<ref>黒田・小野 (2003) pp.665-666</ref>。かつて合掌造りが[[天地根元造]] <ref group = "注釈">天地根元造は、切妻屋根の下端がそのまま接地する様式の住居で(宮沢 (2005) p.15)、外見的には[[竪穴住居]]を切妻造にしたような感じである。</ref>から派生したとする説があったのも、「秘境」には原始的なものが残っているはずという偏見に基づいたのではないかといわれている<ref>宮沢 (2005) pp.18-19</ref>。 |
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その後、1930年代に日本の主要な建築物を見て回っていたドイツの建築家[[ブルーノ・タウト]]は、1935年5月17日と18日に白川村を訪れ、同じ年の講演においてこう評した<ref>タウト [1939](2011) p.21. なお、p.57 にも同様の評言がある。</ref>。 |
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{{Quotation|これらの家屋は、その構造が合理的であり論理的であるという点においては、日本全国を通じてまったく独特の存在である。|ブルーノ・タウト|「日本建築の基礎」(於華族会館、1935年10月)}} |
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この評価は民家研究の黎明期にあった日本において、合掌造り家屋の価値を認識させる上で重要だったとされる<ref>宮沢 (2005) p.30</ref>。タウトのこの評言は、後に日本政府が世界遺産に推薦する際に、合掌造り集落が持つ顕著な価値の証明としてそのまま引用されることになる<ref name = SuisenRiyuu />。 |
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[[ファイル:Miboro_Dam.jpg|thumb|御母衣ダム]] |
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しかし、[[第二次世界大戦]]後は電源開発の影響、産業の衰退、人口の都市部流出などもあって、多くの家屋が廃屋となった。[[庄川]]流域にはいくつものダムが建造されたが、特に日本最大級の[[ロックフィルダム]]である[[御母衣ダム]](1961年完成)の建設時には、白川郷の4集落が水没した<ref>ユネスコ世界遺産センター (1998) p.236. 世界遺産アカデミー (2005) p.111 では水没は5集落とされている。</ref>。ほぼ同じ時期(1963年)に大豪雪によって集落が半年も孤立した状況も外部への人口流出を促進したとされ、[[高度経済成長期]]を通じて消滅した集落は17に及び<ref name = Yano />、合掌造り家屋は1945年の300棟からほぼ半減した<ref>世界遺産アカデミー (2005) p.111</ref>。同時に、相次ぐダム建設や高速道路建設などの[[公共事業]]の存在は、[[第一次産業]]人口の減少と相俟って、残された地域の産業構造を変化させたとも指摘されている<ref name = Yano />。 |
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しかし、それと並行して、伝統的な家屋形式をこれ以上失ってはいけないと、近隣住民を中心に文化遺産保存の機運が高まることになる。五箇山では1958年に3つの民家(村上家住宅、羽馬家住宅、[[岩瀬家住宅]])が国の[[重要文化財]]に指定され、1970年には相倉集落と菅沼集落が国の[[史跡]]となった<ref name = Kodansha240>ユネスコ世界遺産センター (1998) p.240</ref>。 |
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白川郷でも住民たちから集落を守ろうとする動きが起こり、1971年には「荻町集落の自然環境を守る会」が発足し、[[野外博物館]]「白川郷合掌村」も生まれた(のちに幾度もの移築・新築や改称を経て「[[合掌造り民家園|白川郷野外博物館合掌造り民家園]]」となる)<ref>宮沢 (2005) pp.56-57</ref>。そして、1975年の[[文化財保護法]]改正で伝統的な集落や街並みも保護対象になったことを踏まえ、翌年に[[荻町 (白川村)|荻町集落]]の[[重要伝統的建造物群保存地区]]選定に漕ぎ着けた<ref name = Kodansha240 />。 |
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=== 世界遺産への登録経緯 === |
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日本は[[世界遺産条約]]を批准した[[1992年]]に、10件の文化遺産と2件の自然遺産を[[世界遺産#暫定リスト|世界遺産の暫定リスト]]に掲載した。「白川郷・五箇山の合掌造り集落」は、そのうちの一つである。なお、史跡になっていた相倉集落と菅沼集落は、世界遺産登録を見据えて1994年12月に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。 |
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日本政府は推薦理由として、日本の木造建築群の中でもきわめて特異な要素、すなわち急勾配の屋根、屋根裏の積極的な産業的活用などを備えていることや、そのような集落が、それを支える伝統的な大家族制などとともに稀少なものになってきており、保護の必要性があることなどを挙げていた<ref name = SuisenRiyuu>日本国政府・文化庁 (1994) の「5a. 世界遺産価値基準に適合する根拠及び他の同種遺産との比較」</ref>。また、日本では「[[法隆寺地域の仏教建造物]]」「[[古都京都の文化財]]」に次ぐ3例目のシリアルノミネーション<ref group = "注釈">シリアル・ノミネーション(連続性のある資産)とは、相互に関連性の深い物件をまとめて1件の世界遺産として推薦・登録することである。[[世界遺産#登録対象]]も参照のこと。</ref>となったことについては、それが合掌造りの地域的な広がりを示すものであるとともに、地域ごとの差異を示す上でも好適とした<ref name = SuisenRiyuu />。 |
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普通、世界遺産は推薦に当たって国内・国外の類似の物件との比較研究を行う必要があるが、日本政府は木を重んじる文化的伝統を持つ国内でも特殊なものであるとし、[[ブルーノ・タウト]]の評価などを引用してはいたが、他の物件との具体的な比較は示さなかった<ref name = SuisenRiyuu />。この点については、[[国際記念物遺跡会議|ICOMOS]]の評価でも特に問題とされず、そのまま受け入れられている<ref>ICOMOS (1995) p.46</ref>。 |
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[[ファイル:Hollokohungary101.jpg|thumb|[[ホッローケー]]。住民意識の高さや境遇などが白川郷・五箇山とよく似ているとも指摘される<ref>国土庁計画・調整局 (1998) pp.60-63</ref>。]] |
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1995年12月の第19回[[世界遺産委員会]]([[ベルリン]])で初めて審議され、世界遺産リストへの登録が認められた。人が住み続けている[[村落]]で世界遺産に登録されたのは、[[ホッローケー]]([[ハンガリー]]、1987年)、[[ヴルコリニェツ]]([[スロバキア]]、1993年)に続いて3件目だった<ref>[[太田邦夫]]ほか (1998) 『世界遺産を旅する (4) オーストリア・東欧』 [[近畿日本ツーリスト]]、pp.129-130、[[水村光男]]監修 (2004)『ヨーロッパの世界遺産 (4) ドイツ・オーストリア・チェコ・ハンガリー・スイス』[[講談社]]〈[[講談社+α文庫]]〉、p.224</ref>。 |
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==== 登録基準 ==== |
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日本政府はこれが国内でも特異な伝統集落であり、稀少なものになっていることを理由として挙げ、登録基準(4) と (5) に合致すると主張した<ref name = SuisenRiyuu />。ICOMOSの評価でもそれは追認され<ref>ICOMOS (1995) p.47</ref>、世界遺産委員会でも覆ることはなかった。 |
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そのため、{{世界遺産基準|4|5}} |
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ちなみに、日本の[[文化遺産 (世界遺産)|世界文化遺産]]12件のうち、適用された基準に (4) を含むものは他に7件<ref group = "注釈">「[[法隆寺地域の仏教建造物]]」「[[姫路城]]」「[[古都京都の文化財]]」「[[厳島神社]]」「[[古都奈良の文化財]]」「[[日光の社寺]]」「[[紀伊山地の霊場と参詣道]]」の7件。</ref>あるが、(5) を含むものはこれと「[[石見銀山|石見銀山遺跡とその文化的景観]]」しかない(2011年の第35回世界遺産委員会終了時点)。 |
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=== 世界遺産登録後 === |
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世界遺産登録後も、独特の景観を守ろうとする努力は行なわれている。茅葺きの木造建築という特徴から、もともと火事に対する意識は高く、荻町地区では「組」単位で1日に3回(昼、夕方、21時)、「火の用心」を呼びかけて見回りを行っている。また、当番を決めておいて23時に集落全体を見回る「大まわり」も実施されている<ref>宮沢 (2005) pp.55-56</ref>。荻町には重要伝統的建造物群保存地区選定後に設置された[[放水銃]]も50基以上あり、毎年秋に一斉放水する訓練が行われている<ref>水村 (2002) p.109, 宮沢 (2005) pp.55-56</ref>。 |
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[[電線]]を地中に埋設することなども行なって景観保護に配慮されているが、他方で急速な観光地化が景観にも悪影響を及ぼしていることが指摘されている。この点は後述の[[#観光地化]]を参照のこと。 |
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== 登録名 == |
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世界遺産センターが公式に示している世界遺産の登録名は Historic Villages of Shirakawa-go and Gokayama (英語)/ Villages historiques de Shirakawa-go et Gokayama (フランス語)である<ref>[http://whc.unesco.org/en/list/734 Historic Villages of Shirakawa-go and Gokayama], [http://whc.unesco.org/fr/list/734 Villages historiques de Shirakawa-go et Gokayama](いずれも世界遺産センターによる概要。2011年7月15日閲覧)</ref>。文化庁は日本語名を「白川郷・五箇山の合掌造り集落」としている<ref> [http://www.bunka.go.jp/bunkazai/shoukai/sekai_isan.html 文化庁|世界遺産]</ref>。 |
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== 登録対象 == |
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「[[白川郷]]」や「[[五箇山]]」のうち、合掌造りの集落が良好に残っている3集落、すなわち白川郷の荻町集落と、五箇山の相倉・菅沼の両集落のみを対象としている。すでに述べたように、荻町集落は1976年に、相倉集落と菅沼集落は1994年に[[重要伝統的建造物群保存地区]]にも選ばれている。 |
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これらはすでに述べたように、地域的な広がりと差異を示すものであるが、五箇山で2箇所選ばれたのは、大規模(荻町)、中規模(相倉)、小規模(菅沼)という集落の多様性を示すためでもあった<ref name = SuisenRiyuu />。 |
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=== 荻町集落 === |
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[[ファイル:Shirakawago Japanese Old Village 006.jpg|thumb|明善寺庫裏]] |
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[[ファイル:Ogi_Shirakawa22s3s4110.jpg|thumb|和田家住宅]] |
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荻町集落(おぎまちしゅうらく、Ogimachi Village<ref group = "注釈">ユネスコ世界遺産センターが公式に掲げている英語名([http://whc.unesco.org/en/list/734/multiple=1&unique_number=868 世界遺産センターによる構成資産リスト]、2011年7月15日閲覧)。相倉集落と菅沼集落の節も同じである。</ref>)は[[白川村]]の一部で、南北方向に約1500 m、東西方向には最も広いところで350m の広がりを持っている集落である<ref name = SuisenOgimachi />。状態の良い合掌造り住宅59棟が残るが、[[明善寺]][[庫裏]]の様式も合掌造りに分類されるため、これを含む場合は60棟となる<ref name = SuisenOgimachi />。世界遺産の登録面積は45.599998 ha で<ref name = WHClocation> [http://whc.unesco.org/en/list/734/multiple=1&unique_number=868 世界遺産センターによる構成資産リスト](英語。2011年7月15日閲覧)</ref>、世界遺産登録面積の約3分の2を占める。 |
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この集落の合掌造り家屋は、おおむね江戸時代末期から明治時代末期に建てられた<ref name = SuisenOgimachi>日本国政府・文化庁 (1994) の「3-b-i. 荻町集落」</ref>。ほかに合掌造りを改築した住居や、合掌造りでない住居群もあるが、いずれも明治時代初期から20世紀中頃までに建造されたもので、十分に伝統的な集落の景観に調和しているとされる<ref name = SuisenOgimachi />。すでに述べたように、荻町の合掌造り集落は[[切妻造|妻]]を南北に向けて整然と並んでいる点に特色があり、家ごとの塀がないことと相俟って、それが独特の景観を形成している。 |
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荻町の合掌造り家屋の中で特徴的なのは[[和田家住宅]]である。これは江戸時代に[[塩硝]]の取引で栄えた[[名主]]の家で、国の[[重要文化財]]に指定されている。江戸時代末期の建築と推測され<ref group = "注釈">江戸末期とするのは宮沢 (2005) によるものだが、日本ユネスコ協会連盟 (2007) 『世界遺産年報2007』p.48 では1573年建造とある。</ref>、[[高山]]大工が建てたとされる明善寺庫裏と酷似した間取りを持つことから、こちらも高山大工の作と推測する者もいる<ref>宮沢 (2005) pp.16-18</ref>。有力者の家屋であるため他よりも大きく、特別な客を迎えるための[[式台]]が存在している点で通常の合掌造り家屋と顕著に異なる<ref>宮沢 (2005) pp.16,18, 世界遺産アカデミー (2005) p.105</ref>。 |
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なお、世界遺産の3集落のうち、最も規模が大きく、また交通の便が良くなっているため、後述のように観光地化によって大きな影響を受けている集落でもある。 |
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=== 相倉集落 === |
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[[ファイル:Ainokura in Gokayama area.jpg|thumb|相倉の合掌造り集落]] |
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[[ファイル:Gokayama ainokura gassho shuraku 20050504 5.jpg|thumb|相倉の合掌造り家屋。妻側に入り口がある。]] |
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相倉集落(あいのくらしゅうらく、Ainokura Village)は[[南砺市]]の旧[[平村 (富山県)|平村]]に含まれる集落で、世界遺産登録の3集落では最も北にある<ref name = Academy106 />。南北方向に約500 m、東西方向に約200 mから300 mほどの広がりを持ち、20棟の合掌造り家屋が残る集落で<ref name = SuisenAinokura>日本国政府・文化庁 (1994) の「3-b-ii. 相倉集落」</ref>、世界遺産登録範囲は 18 ha である<ref name = WHClocation />。 |
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現在残る合掌造り家屋は主として江戸時代末期から明治時代末期に建てられたものである<ref name = SuisenAinokura />。その入り口の多くは[[切妻造#平入り・妻入り|妻入り]]であり、平入りを中心とした白川郷の合掌造りとは趣きを異にし、その妻側の[[下屋]]の存在によって一見すると[[入母屋造]]のようにも見える<ref name = SuisenAinokura />。また、屋根に煙抜きが存在する点も異なっている。煙抜きを設置することで室内に囲炉裏の煙が充満することは避けられるが、その代わりに屋根の水はけが悪くなり、茅葺屋根の葺き替え周期が短めになるという短所も存在する<ref name = Academy106>世界遺産アカデミー (2005) pp.106-108</ref><ref group = "注釈">白川村でも茅葺き屋根の寿命が短くなったといわれるが、それは囲炉裏を使わなくなったことで茅の乾き具合などに影響した事をはじめ、いくつもの要因が指摘されている(宮沢 (2005) pp.36-37)。</ref>。 |
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塀などを持たない点は荻町集落と同じで、敷地いっぱいに建物を建てたため、前庭などはないのが普通である<ref name = SuisenAinokura />。 |
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現在では水田の景観が見られるが、かつての平村では4番目に大きい集落であるとともに養蚕業が最も盛んな集落であり、桑畑が多く見られた。水田への転作は[[第二次世界大戦]]後のことである<ref name = SuisenAinokura />。 |
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=== 菅沼集落 === |
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[[ファイル:Gokayama Japanese Old Village 002.jpg|thumb|菅沼の合掌造り集落]] |
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[[ファイル:Gokayama Japanese Old Village 001.jpg|thumb|菅沼・塩硝の館]] |
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菅沼集落(すがぬましゅうらく、Suganuma Village)は[[南砺市]]の旧[[上平村]]に含まれる集落である。南北方向に約230m、東西方向に約240mという広がりを持ち、9棟の合掌造り家屋が残る集落で<ref name = SuisenSuganuma>日本国政府・文化庁 (1994) の「3-b-iii. 菅沼集落」</ref>、世界遺産登録面積は4.4 ha である<ref name = WHClocation />。 |
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合掌造り家屋のうち、江戸時代末期に建てられたのは2棟で、6棟は明治時代に建てられている。残り1棟は[[大正時代]]末期に当たる1925年に建てられた<ref name = SuisenSuganuma />。妻入りで外観が入母屋造に似ているという点は相倉集落と共通する<ref name = SuisenSuganuma />。 |
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塀などがない点は他2つの集落と同じだが、それらと比べて土地がせまいため、住居区域と農業区域が分けられている点は特徴的である<ref>世界遺産アカデミー (2005) p.106</ref>。 |
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== 課題 == |
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=== 後継者問題 === |
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合掌造り家屋が減少していく懸念がある一方、集落内の合掌造りでない家屋は増加しており、伝統的な「結」を維持していくことが困難になってきている。非合掌造り家屋に住む住民にとっては、屋根の葺き替え労働などは一方的に負わされるだけになってしまうからである<ref>楊 (2006) pp.133-134</ref>。この結果、現在の結は合掌造り家屋の保有者内で行なわれ、足りない人手は専門の業者や[[ボランティア]]を頼ることになる<ref>宮沢 (2005) pp.23-24, 世界遺産センター (2005) p.111</ref>。 |
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=== 観光地化 === |
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世界遺産登録後、急激に観光客が増加している。白川村は、世界遺産登録の数年前には年間観光客数が60万人台後半で推移していたが、2002年には150万人を突破した<ref>日本ユネスコ協会連盟 (2008) 『世界遺産年報2008』 日経ナショナルジオグラフィック社、p.42</ref><ref name = Sataki2006>佐滝 (2006) pp.116-117</ref>。白川郷は[[飛騨トンネル]]の完成によって[[2008年]]に全線開通した[[東海北陸自動車道]]に近い上、世界遺産登録を機に白川郷向けに若干の延伸が行なわれて2002年に[[白川郷インターチェンジ]]ができたこともその後押しとなった<ref name = Sataki2006 />。この高速道路の存在が登録対象(とくに荻町集落)に与える影響は、ICOMOSの事前評価でも懸念が示されていた<ref>ICOMOS (1995) p.47</ref>。 |
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急激に進んだ観光地化は、地域社会の生活面で様々な問題を引き起こしている。実際に人が住んでいることへの配慮に欠ける観光客が勝手に戸を開けるなど、住民の[[プライバシー]]を尊重しない重大なマナー違反もしばしば指摘される<ref>国土庁計画・調整局 (1998) p.62、谷口 (1998) p.35, 楊 (2006) p.131</ref>。 |
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また、[[生活道路]]にまで観光客の自家用車が多く見られ、無断駐車も含め、住民生活に悪影響を及ぼしている<ref>国土庁計画・調整局 (1998) p.18</ref><ref name = Sataki2006 />。そうした混雑が観光地の良さを減殺しているとも指摘されており<ref name = Yano /><ref> [http://www.michelin.co.jp/Home/Maps-Guide/Green-guide/6 日本ミシュランタイヤ「グリーンガイド 第6回 白川郷」]</ref>、白川村では2009年9月から大型バスの通行規制が敷かれている<ref>日本ユネスコ協会連盟 (2010) 『世界遺産年報2010』 [[東京書籍]]、p.30</ref>。 |
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観光客の増大を受け、白川村では旅館、土産物屋、喫茶店などが次々と建てられた<ref name = Sataki2006 />。[[昭和40年代]]の景観を守るのが理想でも、それ自体がかなり困難になっているという認識は、世界遺産登録から2年と経たない時点で、関係者から示されていた<ref>谷口 (1998) p.35</ref>。こうした観光客目当ての建物群は景観保護との関連で問題視され、観光客がひしめいて騒々しいこととあわせ、かつての物静かな山村の景観が失われた度合いは[[危機にさらされている世界遺産|危機遺産]]に相当するレベルと見なす者もいる<ref>佐滝 (2009) pp.198-199</ref>。他方で、白川村ではすでに[[第一次産業]]従事者が激減しており、高速道路全通に伴い従来の[[公共事業]]も減少していくとなれば、今後さらに観光業への依存度が高まるという予測もある<ref name = Yano>矢野 (2006) pp.40-42</ref>。 |
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なお、観光客の増大とは逆に一人当たりの滞在時間は減っており、宿泊客はむしろ漸減傾向にある<ref>楊 (2006) p.131</ref>。特にトイレ休憩・ゴミ捨て休憩を兼ねて短時間しか滞在しない団体旅行客の存在は、村にとって環境悪化を招くだけという指摘もある<ref>国土庁計画・調整局 (1998) p.24</ref>。滞在時間減少の理由としては、観光客の側に世界遺産の価値を深く理解しようという意志が欠けていること<ref>楊 (2006) p.132</ref>や、交通の便が良くなったことで往復が容易になったこと<ref>国土庁計画・調整局 (1998) p.62</ref>などが指摘されている。 |
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== アクセス == |
== アクセス == |
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* [[名古屋駅|名古屋駅前]]([[名鉄バスセンター]]) - 白川郷の高速バス([[岐阜乗合自動車]])※冬季運休 |
* [[名古屋駅|名古屋駅前]]([[名鉄バスセンター]]) - 白川郷の高速バス([[岐阜乗合自動車]])※冬季運休 |
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* [[高岡駅]] - [[城端駅]] - 相倉口 - 菅沼 - 萩町の路線バス([[加越能鉄道]]) |
* [[高岡駅]] - [[城端駅]] - 相倉口 - 菅沼 - 萩町の路線バス([[加越能鉄道]]) |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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<references group = "注釈" /> |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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* [[国際記念物遺跡会議|ICOMOS]] (1995), [http://whc.unesco.org/archive/advisory_body_evaluation/734.pdf Shirakawa-go and Gokayama](世界遺産登録に先立つICOMOSの評価書) |
|||
* [[黒田乃生]] [[小野良平]] (2003) 「[http://ci.nii.ac.jp/naid/110004308057 白川村研究の系譜にみる文化財としての集落景観保全における問題点]」『ランドスケープ研究 : 日本造園学会誌』66(5), pp.665-668 |
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* [[国土庁|国土庁計画・調整局]] 監修 (1998) 『歴史と風土とまちづくり 世界遺産と地域』 [[ぎょうせい]] |
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* [[佐滝剛弘]] (2006) 『旅する前の「世界遺産」』 [[文藝春秋社]]〈[[文春新書]]〉 |
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* 佐滝剛弘 (2009) 『「世界遺産」の真実』 [[祥伝社]]〈[[祥伝社新書]]〉 |
|||
* [[世界遺産アカデミー]] (2005) 『世界遺産学検定公式テキストブック (1)』 [[講談社]] |
|||
* [[ブルーノ・タウト]] [1939](2011) 『日本美の再発見〔増補改訳版〕』 [[篠田英雄]]訳、[[岩波書店]]〈[[岩波新書]] 旧赤版〉、第55刷 |
|||
* [[中西孝]] [[日吉芳朗]] [[本浄高治]] (1991)「[http://ci.nii.ac.jp/naid/110001827172 加賀藩の産業・工芸の史跡と遺品]」『化学と教育』 39(4), pp.420-424 |
|||
* [[日本政府|日本国政府]]・[[文化庁]] (1994) 『[http://bunka.nii.ac.jp/jp/world/suisensyo/shirakawago/index-j.html 世界遺産一覧表記載推薦書 日本/白川郷・五箇山の合掌造り集落]』 |
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* [[日本ユネスコ協会連盟]] 『世界遺産年報』 各年版 |
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** [[ジョアン・ドミセリ]] (1997) 「白川郷・五箇山の合掌造り集落を訪ねて - その独自性と普遍性」(日本ユネスコ協会連盟 『ユネスコ世界遺産年報1996』 pp.46-47) |
|||
** 谷口尚 (1998) 「観光・開発と保全の狭間で - 岐阜県白川村」(日本ユネスコ協会連盟 『ユネスコ世界遺産年報1997-1998』 p.35, 世界遺産シンポジウム報告) |
|||
** [[矢野和之]] (2006) 「世界遺産、白川郷・五箇山の合掌造り集落の現状と課題」(日本ユネスコ協会連盟『世界遺産年報2006』pp.39-42) |
|||
* [[水村光男]] (2002) 『オールカラー完全版 世界遺産第7巻 - 日本・オセアニア』 [[講談社]]〈[[講談社+α文庫]]〉 |
|||
* [[宮沢智士]] (2005) 『白川郷合掌造Q&A』 [[智書房]] |
|||
* ユネスコ世界遺産センター 監修 (1998) 『ユネスコ世界遺産4 東アジア・ロシア』 [[講談社]] |
|||
* 楊潔 (2006)「[http://ci.nii.ac.jp/naid/110006178010 サスティナブル・ツーリズムの展開と可能性 - 白川郷における観光の現状と展望]」『愛知県立大学大学院国際文化研究科論集』 7, pp.115-144 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[日本の世界遺産]] |
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* [[世界遺産の一覧 (アジア)|世界遺産の一覧]] |
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* [[和田家住宅]] |
* [[和田家住宅]] |
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* [[白川郷]] |
* [[白川郷]] |
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* [[五箇山]] |
* [[五箇山]] |
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* [[合掌造り]] |
* [[合掌造り]] |
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* [[岩瀬家住宅]] - 旧[[上平村 (富山県)|上平村]]の合掌造り家屋([[重要文化財]])だが、世界遺産登録対象ではない。 |
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* 人が住む世界遺産の村 |
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** [[シリア北部の古村落群]](シリア) |
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** [[ヴルコリニェツ]](スロバキア) |
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** [[河回村]]と[[良洞村]](大韓民国) |
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** [[西逓村]]と[[宏村]](中華人民共和国) |
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** [[ホッローケー]](ハンガリー) |
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== 外部リンク == |
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2011年7月18日 (月) 04:39時点における版
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白川郷の合掌造り集落 | |||
英名 | Historic Villages of Shirakawa-go and Gokayama | ||
仏名 | Villages historiques de Shirakawa-go et Gokayama | ||
面積 | 68 ha[注釈 1] (緩衝地域 58,873 ha) | ||
登録区分 | 文化遺産 | ||
登録基準 | (4), (5) | ||
登録年 | 1995年 | ||
公式サイト | 世界遺産センター | ||
地図 | |||
使用方法・表示 |
白川郷・五箇山の合掌造り集落(しらかわごう・ごかやまのがっしょうづくりしゅうらく)は、飛騨地方の白川郷(岐阜県大野郡白川村)と五箇山(富山県南砺市)にある合掌造りの集落群で、1995年12月9日にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。日本では6件目の世界遺産であった。
この記事名は文化庁の表記に基づくが、「・」を「と」にして「白川郷と五箇山の合掌造り集落」とする文献も見られる[1]。
歴史
「白川郷」と「五箇山」は、いずれも庄川流域の歴史的地名で、白川郷は上流域、五箇山は中流域である。白川郷は荘白川(しょうしらかわ)ともいい、現在は白川村と荘川村に分かれている。五箇山は富山県の旧平村、上平村、利賀村の3村に含まれていたが、現在はいずれも南砺市に属する[2]。
この地域は白山信仰の修験者や平家の落人伝説とも結びつきが深い。白川郷の地名は12世紀半ば、五箇山の地名は16世紀にはそれぞれ確認できるが[3][4]、合掌造りがいつ始められたのかは定かではない。江戸時代中期にあたる17世紀末に原型ができたと推測されている[5]。
江戸時代の白川郷は金森藩領と浄土真宗照蓮寺領となり、前者はのちに天領となった。一方の五箇山は加賀藩領となり、塩硝生産が保護されていた[6]。塩硝は火薬の原料となる硝酸カリウムで、五箇山では雑草と蚕の糞を利用して抽出する培養法が行われていた。五箇山は流刑地にもなっていた陸の孤島である分、原料調達の長所のほかに秘伝の漏洩を防ぐという意味でも適しており[7]、稲作に不向きな土地柄で養蚕とともに発達した家内工業の一つであった[8]。一帯では現在は水田が見られるが、それらのうち少なからぬ部分が戦後に転作されたものであり、もともとの農業の中心は、焼畑によるヒエ、アワ、ソバ、および養蚕のための桑である。ヒエやアワの収穫は自給分が精一杯であったから、その分家内工業の存在が大きくなった[9]。
合掌造りは、そうした家内工業の発展にあわせて、大型化、多層化していったと考えられている[10]。なお、合掌造りが普及する以前の住居形式については、まだはっきりしていない[11]。
合掌造りの発達
「合掌造り」はそれほど古い用語ではなく、1930年頃にフィールドワークを行なった研究者らによって使われるようになったと推測されている[12]。その定義は一様ではないが、日本政府が世界遺産に推薦した際には、「小屋内を積極的に利用するために、叉首構造の切妻造り屋根とした茅葺きの家屋」と定義づけた[12]。名称の由来は、掌を合わせたように三角形に組む丸太組みを「合掌」と呼ぶことから来たと推測されている[12][13]。
日本政府の定義では屋根の急勾配に触れられていないが、実際のところ、合掌造りの屋根はおよそ45度から60度まで幅があり、初期のものほど傾斜がゆるい傾向にある[14]。この傾斜は、豪雪による雪下ろしの作業軽減や多雨地帯でもあることによる水はけを考慮したものと考えられている[14]。合掌造り家屋の中では、家内工業として和紙漉き、塩硝作り、養蚕が行なわれていたが、明治時代以降も継続され、家屋の大型化にも大きく寄与したのは養蚕業であった[15]。
養蚕は地域によっては住居と別棟を作って行うこともあったが、山間にあった集落では少しでも農地を確保するために、住居の屋根裏を活用する必要があったと考えられている[16]。合掌造りが切妻屋根を採用したのも、入母屋造や寄棟造よりも屋根裏の容積を大きくできるからだろうと指摘されている[17]。また、屋根の勾配を急にしたことは、屋根裏に二層もしくは三層の空間を確保することにつながり、豪雪への対策以外に養蚕業にとっても都合が良いものであった[18]。ことに、気候によって普通ならば他の地域のように年に2回蚕を育てることが難しい白川郷や五箇山では、春の遅れを生活で出る暖気によって補うためにも、屋根裏を有効活用する必要があったのである[19]。屋根裏の床材には竹簀が利用され、煙などが屋根裏に抜けやすいようになっている[20]。
また、白川郷の合掌造り屋根はいずれも妻を南北に向けている。これは、(1) 屋根に満遍なく日が当たるようにして冬場の融雪と茅葺き屋根の乾燥を促進させるため、(2) 集落は南北に細長い谷にあり、それぞれの方向から強い風が吹くので、風を受ける面積を少なくするため、(3) 夏場は逆に屋根裏部屋の窓を開放し、南北の風を吹き抜けさせることで夏蚕が暑さにやられないようにするため、という3つの効果が指摘されている[21]。
合掌造りの床面積の広さや多層化は集落の大家族制とも結びついている。かつての白川郷や五箇山では、せまい耕作地が相続によって細分化されることなどを防ぐために、結婚できるのは長男だけだった。その結果として、一つの住居に家長とその嫡流だけでなく、傍系に当たる親族や使用人たちも多数暮らす形となり、力をあわせて農業や家内工業に精を出したのである[22]。ただし、屋根裏のうち上層部はせますぎて居住には適さず、あくまでも養蚕などの産業用であった[23]。
屋根組みには釘を1本も使わず、丈夫な縄[注釈 2]で固定する。これは、雪の重さや風の強さに対する柔軟性を生み、家の耐久性を増す工夫とされている[24][注釈 3]。なお、釘を一切使わないわけではなく、床板などの打ち付けには使われている。この釘が和釘(角釘)なのか洋釘(丸釘)なのかは、築造年代を判断する手がかりにもなる[25]。
合掌造りは保全のために、大規模な補修や屋根の葺き替えを30年 - 40年に一度行う必要がある。これは多くの人手と時間を要する大掛かりなものであり、住民総出で行われた。住民たちは近隣で「組」(くみ)と呼ばれる互助の組織を形成し、その単位を土台として「結」(ゆい)を行う。屋根の葺き替えにおいて重要な「結」は、鎌倉時代にこの地に根付いたとされる浄土真宗の信仰に起源を持つものである[26]。屋根は原則として1日で葺き替えた。これは降雨を警戒したからとか[27]、春先に行なわれることが多く、農作業との兼ね合いで複数日にわたって村人達の協力を仰ぐことが難しかったからなどと説明される[28]。ただし、加須良集落[注釈 4]などは住民が少なかったため、複数日に分けざるをえなかったという[29]。
なお、小規模な補修は毎年のように行なわれる。これは大雪が降った後に、屋根に積もった雪が滑り落ちるのにあわせて、茅が巻き込まれて抜け落ちることがあるためである。そうした小規模な補修を「差茅」(さしがや)と呼ぶ[30]。
明治時代中期に当たる19世紀末頃が最も合掌造り集落が多かった時期と考えられており、一帯にはおよそ1850棟が存在していたとされる。ただし、この時でさえも、当時の日本全体の農家(約550万戸)の0.03%ほどを占める例外的存在に過ぎなかった[31]。
保存に向けた動き
白川郷と五箇山の集落地帯は、有数の豪雪地帯であることによって、周囲との道路整備が遅れたため、奇跡的に合掌造りの住居構造が残った。それに関する研究は明治・大正期にも見られたが、秘境に奇妙な民俗を見出そうとするような興味を中心におき、質の高いものではなかった[32]。かつて合掌造りが天地根元造 [注釈 5]から派生したとする説があったのも、「秘境」には原始的なものが残っているはずという偏見に基づいたのではないかといわれている[33]。
その後、1930年代に日本の主要な建築物を見て回っていたドイツの建築家ブルーノ・タウトは、1935年5月17日と18日に白川村を訪れ、同じ年の講演においてこう評した[34]。
これらの家屋は、その構造が合理的であり論理的であるという点においては、日本全国を通じてまったく独特の存在である。 — ブルーノ・タウト、「日本建築の基礎」(於華族会館、1935年10月)
この評価は民家研究の黎明期にあった日本において、合掌造り家屋の価値を認識させる上で重要だったとされる[35]。タウトのこの評言は、後に日本政府が世界遺産に推薦する際に、合掌造り集落が持つ顕著な価値の証明としてそのまま引用されることになる[31]。
しかし、第二次世界大戦後は電源開発の影響、産業の衰退、人口の都市部流出などもあって、多くの家屋が廃屋となった。庄川流域にはいくつものダムが建造されたが、特に日本最大級のロックフィルダムである御母衣ダム(1961年完成)の建設時には、白川郷の4集落が水没した[36]。ほぼ同じ時期(1963年)に大豪雪によって集落が半年も孤立した状況も外部への人口流出を促進したとされ、高度経済成長期を通じて消滅した集落は17に及び[37]、合掌造り家屋は1945年の300棟からほぼ半減した[38]。同時に、相次ぐダム建設や高速道路建設などの公共事業の存在は、第一次産業人口の減少と相俟って、残された地域の産業構造を変化させたとも指摘されている[37]。
しかし、それと並行して、伝統的な家屋形式をこれ以上失ってはいけないと、近隣住民を中心に文化遺産保存の機運が高まることになる。五箇山では1958年に3つの民家(村上家住宅、羽馬家住宅、岩瀬家住宅)が国の重要文化財に指定され、1970年には相倉集落と菅沼集落が国の史跡となった[39]。
白川郷でも住民たちから集落を守ろうとする動きが起こり、1971年には「荻町集落の自然環境を守る会」が発足し、野外博物館「白川郷合掌村」も生まれた(のちに幾度もの移築・新築や改称を経て「白川郷野外博物館合掌造り民家園」となる)[40]。そして、1975年の文化財保護法改正で伝統的な集落や街並みも保護対象になったことを踏まえ、翌年に荻町集落の重要伝統的建造物群保存地区選定に漕ぎ着けた[39]。
世界遺産への登録経緯
日本は世界遺産条約を批准した1992年に、10件の文化遺産と2件の自然遺産を世界遺産の暫定リストに掲載した。「白川郷・五箇山の合掌造り集落」は、そのうちの一つである。なお、史跡になっていた相倉集落と菅沼集落は、世界遺産登録を見据えて1994年12月に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
日本政府は推薦理由として、日本の木造建築群の中でもきわめて特異な要素、すなわち急勾配の屋根、屋根裏の積極的な産業的活用などを備えていることや、そのような集落が、それを支える伝統的な大家族制などとともに稀少なものになってきており、保護の必要性があることなどを挙げていた[31]。また、日本では「法隆寺地域の仏教建造物」「古都京都の文化財」に次ぐ3例目のシリアルノミネーション[注釈 6]となったことについては、それが合掌造りの地域的な広がりを示すものであるとともに、地域ごとの差異を示す上でも好適とした[31]。
普通、世界遺産は推薦に当たって国内・国外の類似の物件との比較研究を行う必要があるが、日本政府は木を重んじる文化的伝統を持つ国内でも特殊なものであるとし、ブルーノ・タウトの評価などを引用してはいたが、他の物件との具体的な比較は示さなかった[31]。この点については、ICOMOSの評価でも特に問題とされず、そのまま受け入れられている[41]。
1995年12月の第19回世界遺産委員会(ベルリン)で初めて審議され、世界遺産リストへの登録が認められた。人が住み続けている村落で世界遺産に登録されたのは、ホッローケー(ハンガリー、1987年)、ヴルコリニェツ(スロバキア、1993年)に続いて3件目だった[43]。
登録基準
日本政府はこれが国内でも特異な伝統集落であり、稀少なものになっていることを理由として挙げ、登録基準(4) と (5) に合致すると主張した[31]。ICOMOSの評価でもそれは追認され[44]、世界遺産委員会でも覆ることはなかった。
そのため、この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
- (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
- (5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。
ちなみに、日本の世界文化遺産12件のうち、適用された基準に (4) を含むものは他に7件[注釈 7]あるが、(5) を含むものはこれと「石見銀山遺跡とその文化的景観」しかない(2011年の第35回世界遺産委員会終了時点)。
世界遺産登録後
世界遺産登録後も、独特の景観を守ろうとする努力は行なわれている。茅葺きの木造建築という特徴から、もともと火事に対する意識は高く、荻町地区では「組」単位で1日に3回(昼、夕方、21時)、「火の用心」を呼びかけて見回りを行っている。また、当番を決めておいて23時に集落全体を見回る「大まわり」も実施されている[45]。荻町には重要伝統的建造物群保存地区選定後に設置された放水銃も50基以上あり、毎年秋に一斉放水する訓練が行われている[46]。
電線を地中に埋設することなども行なって景観保護に配慮されているが、他方で急速な観光地化が景観にも悪影響を及ぼしていることが指摘されている。この点は後述の#観光地化を参照のこと。
登録名
世界遺産センターが公式に示している世界遺産の登録名は Historic Villages of Shirakawa-go and Gokayama (英語)/ Villages historiques de Shirakawa-go et Gokayama (フランス語)である[47]。文化庁は日本語名を「白川郷・五箇山の合掌造り集落」としている[48]。
登録対象
「白川郷」や「五箇山」のうち、合掌造りの集落が良好に残っている3集落、すなわち白川郷の荻町集落と、五箇山の相倉・菅沼の両集落のみを対象としている。すでに述べたように、荻町集落は1976年に、相倉集落と菅沼集落は1994年に重要伝統的建造物群保存地区にも選ばれている。
これらはすでに述べたように、地域的な広がりと差異を示すものであるが、五箇山で2箇所選ばれたのは、大規模(荻町)、中規模(相倉)、小規模(菅沼)という集落の多様性を示すためでもあった[31]。
荻町集落
荻町集落(おぎまちしゅうらく、Ogimachi Village[注釈 8])は白川村の一部で、南北方向に約1500 m、東西方向には最も広いところで350m の広がりを持っている集落である[49]。状態の良い合掌造り住宅59棟が残るが、明善寺庫裏の様式も合掌造りに分類されるため、これを含む場合は60棟となる[49]。世界遺産の登録面積は45.599998 ha で[50]、世界遺産登録面積の約3分の2を占める。
この集落の合掌造り家屋は、おおむね江戸時代末期から明治時代末期に建てられた[49]。ほかに合掌造りを改築した住居や、合掌造りでない住居群もあるが、いずれも明治時代初期から20世紀中頃までに建造されたもので、十分に伝統的な集落の景観に調和しているとされる[49]。すでに述べたように、荻町の合掌造り集落は妻を南北に向けて整然と並んでいる点に特色があり、家ごとの塀がないことと相俟って、それが独特の景観を形成している。
荻町の合掌造り家屋の中で特徴的なのは和田家住宅である。これは江戸時代に塩硝の取引で栄えた名主の家で、国の重要文化財に指定されている。江戸時代末期の建築と推測され[注釈 9]、高山大工が建てたとされる明善寺庫裏と酷似した間取りを持つことから、こちらも高山大工の作と推測する者もいる[51]。有力者の家屋であるため他よりも大きく、特別な客を迎えるための式台が存在している点で通常の合掌造り家屋と顕著に異なる[52]。
なお、世界遺産の3集落のうち、最も規模が大きく、また交通の便が良くなっているため、後述のように観光地化によって大きな影響を受けている集落でもある。
相倉集落
相倉集落(あいのくらしゅうらく、Ainokura Village)は南砺市の旧平村に含まれる集落で、世界遺産登録の3集落では最も北にある[53]。南北方向に約500 m、東西方向に約200 mから300 mほどの広がりを持ち、20棟の合掌造り家屋が残る集落で[54]、世界遺産登録範囲は 18 ha である[50]。
現在残る合掌造り家屋は主として江戸時代末期から明治時代末期に建てられたものである[54]。その入り口の多くは妻入りであり、平入りを中心とした白川郷の合掌造りとは趣きを異にし、その妻側の下屋の存在によって一見すると入母屋造のようにも見える[54]。また、屋根に煙抜きが存在する点も異なっている。煙抜きを設置することで室内に囲炉裏の煙が充満することは避けられるが、その代わりに屋根の水はけが悪くなり、茅葺屋根の葺き替え周期が短めになるという短所も存在する[53][注釈 10]。
塀などを持たない点は荻町集落と同じで、敷地いっぱいに建物を建てたため、前庭などはないのが普通である[54]。
現在では水田の景観が見られるが、かつての平村では4番目に大きい集落であるとともに養蚕業が最も盛んな集落であり、桑畑が多く見られた。水田への転作は第二次世界大戦後のことである[54]。
菅沼集落
菅沼集落(すがぬましゅうらく、Suganuma Village)は南砺市の旧上平村に含まれる集落である。南北方向に約230m、東西方向に約240mという広がりを持ち、9棟の合掌造り家屋が残る集落で[55]、世界遺産登録面積は4.4 ha である[50]。
合掌造り家屋のうち、江戸時代末期に建てられたのは2棟で、6棟は明治時代に建てられている。残り1棟は大正時代末期に当たる1925年に建てられた[55]。妻入りで外観が入母屋造に似ているという点は相倉集落と共通する[55]。
塀などがない点は他2つの集落と同じだが、それらと比べて土地がせまいため、住居区域と農業区域が分けられている点は特徴的である[56]。
課題
後継者問題
合掌造り家屋が減少していく懸念がある一方、集落内の合掌造りでない家屋は増加しており、伝統的な「結」を維持していくことが困難になってきている。非合掌造り家屋に住む住民にとっては、屋根の葺き替え労働などは一方的に負わされるだけになってしまうからである[57]。この結果、現在の結は合掌造り家屋の保有者内で行なわれ、足りない人手は専門の業者やボランティアを頼ることになる[58]。
観光地化
世界遺産登録後、急激に観光客が増加している。白川村は、世界遺産登録の数年前には年間観光客数が60万人台後半で推移していたが、2002年には150万人を突破した[59][60]。白川郷は飛騨トンネルの完成によって2008年に全線開通した東海北陸自動車道に近い上、世界遺産登録を機に白川郷向けに若干の延伸が行なわれて2002年に白川郷インターチェンジができたこともその後押しとなった[60]。この高速道路の存在が登録対象(とくに荻町集落)に与える影響は、ICOMOSの事前評価でも懸念が示されていた[61]。
急激に進んだ観光地化は、地域社会の生活面で様々な問題を引き起こしている。実際に人が住んでいることへの配慮に欠ける観光客が勝手に戸を開けるなど、住民のプライバシーを尊重しない重大なマナー違反もしばしば指摘される[62]。
また、生活道路にまで観光客の自家用車が多く見られ、無断駐車も含め、住民生活に悪影響を及ぼしている[63][60]。そうした混雑が観光地の良さを減殺しているとも指摘されており[37][64]、白川村では2009年9月から大型バスの通行規制が敷かれている[65]。
観光客の増大を受け、白川村では旅館、土産物屋、喫茶店などが次々と建てられた[60]。昭和40年代の景観を守るのが理想でも、それ自体がかなり困難になっているという認識は、世界遺産登録から2年と経たない時点で、関係者から示されていた[66]。こうした観光客目当ての建物群は景観保護との関連で問題視され、観光客がひしめいて騒々しいこととあわせ、かつての物静かな山村の景観が失われた度合いは危機遺産に相当するレベルと見なす者もいる[67]。他方で、白川村ではすでに第一次産業従事者が激減しており、高速道路全通に伴い従来の公共事業も減少していくとなれば、今後さらに観光業への依存度が高まるという予測もある[37]。
なお、観光客の増大とは逆に一人当たりの滞在時間は減っており、宿泊客はむしろ漸減傾向にある[68]。特にトイレ休憩・ゴミ捨て休憩を兼ねて短時間しか滞在しない団体旅行客の存在は、村にとって環境悪化を招くだけという指摘もある[69]。滞在時間減少の理由としては、観光客の側に世界遺産の価値を深く理解しようという意志が欠けていること[70]や、交通の便が良くなったことで往復が容易になったこと[71]などが指摘されている。
アクセス
- 東海北陸自動車道 白川郷インターチェンジ・五箇山インターチェンジ
- 高山駅前 - 白川郷の高速バス(濃飛乗合自動車・北陸鉄道)
- 高山駅 - 白川郷 - 高山駅の定期観光バス(濃飛乗合自動車)
- 金沢駅前 - 白川郷の高速バス(濃飛乗合自動車・北陸鉄道)
- 名古屋駅前(名鉄バスセンター) - 白川郷の高速バス(岐阜乗合自動車)※冬季運休
- 高岡駅 - 城端駅 - 相倉口 - 菅沼 - 萩町の路線バス(加越能鉄道)
脚注
注釈
- ^ 後述する構成要素の合算とは0.000002 ha だけ一致しないが、世界遺産センターが提供している数字に従う。
- ^ 白川村では主にマンサクの縄が用いられる。2007年には病害によってマンサクが大被害を受けて問題となった(日本ユネスコ協会連盟 (2008) 『世界遺産年報2008』 日経ナショナルジオグラフィック社、p.35)。
- ^ 建築工学の観点から本当に効果があるものなのかは実証されてこなかったため、白川村の「世界遺産白川郷合掌造り保存財団」と東京大学生産技術研究所は、2010年から共同で実地調査を行なっている(日本ユネスコ協会連盟 (2011) 『世界遺産年報2011』 東京書籍、p.32)。
- ^ 加須良(かずら)はかつて白川村に存在した集落だったが、1967年の集団離村を経て翌年に廃村となった(宮沢 (2005) p.57, 矢野 (2006) p.41)。
- ^ 天地根元造は、切妻屋根の下端がそのまま接地する様式の住居で(宮沢 (2005) p.15)、外見的には竪穴住居を切妻造にしたような感じである。
- ^ シリアル・ノミネーション(連続性のある資産)とは、相互に関連性の深い物件をまとめて1件の世界遺産として推薦・登録することである。世界遺産#登録対象も参照のこと。
- ^ 「法隆寺地域の仏教建造物」「姫路城」「古都京都の文化財」「厳島神社」「古都奈良の文化財」「日光の社寺」「紀伊山地の霊場と参詣道」の7件。
- ^ ユネスコ世界遺産センターが公式に掲げている英語名(世界遺産センターによる構成資産リスト、2011年7月15日閲覧)。相倉集落と菅沼集落の節も同じである。
- ^ 江戸末期とするのは宮沢 (2005) によるものだが、日本ユネスコ協会連盟 (2007) 『世界遺産年報2007』p.48 では1573年建造とある。
- ^ 白川村でも茅葺き屋根の寿命が短くなったといわれるが、それは囲炉裏を使わなくなったことで茅の乾き具合などに影響した事をはじめ、いくつもの要因が指摘されている(宮沢 (2005) pp.36-37)。
出典
- ^ ユネスコ世界遺産センター (1998)、世界遺産アカデミー (2005) など。なお、世界遺産アカデミーは『世界遺産検定公式テキスト (1)』(毎日コミュニケーションズ、2009年)では、「白川郷・五箇山の - 」としている。
- ^ 『コンサイス日本地名事典』第4版、2005年、pp.476, 605, 615
- ^ 日本国政府・文化庁 (1994) の「3-a. 歴史」
- ^ ICOMOS (1995) p.43
- ^ 日本国政府・文化庁 (1994) の「合掌造り家屋の成立時期」
- ^ ユネスコ世界遺産センター (1998) p.237
- ^ 中西・日吉・本浄 (1991) p.421
- ^ 世界遺産アカデミー (2005) p.109
- ^ 世界遺産アカデミー (2005) p.109
- ^ 宮沢 (2005) p.30
- ^ 宮沢 (2005) pp.30-31
- ^ a b c 日本国政府・文化庁 (1994) の「補論 合掌造り家屋の概要」
- ^ 宮沢 (2005) p.11
- ^ a b 世界遺産アカデミー (2005) p.107
- ^ 日本国政府・文化庁 (1994) の「3a. 歴史 iii. 産業」
- ^ 宮沢 (2005) p.21、水村 (2002) p.108
- ^ 宮沢 (2005) p.21
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- ^ 水村 (2002) p.108
- ^ タウト (2011) p.58
- ^ (1) と (2) は世界遺産アカデミー (2005) p.107, (2) と (3) は水村 (2002) pp.106, 108, 110
- ^ 水村 (2002) pp.104, 108, 世界遺産アカデミー (2005) p.109
- ^ 水村 (2002) pp.108-109
- ^ 世界遺産アカデミー (2005) p.108
- ^ 宮沢 (2005) p.44
- ^ 世界遺産アカデミー (2005) p.111
- ^ 世界遺産アカデミー (2005) p.111
- ^ 宮沢 (2005) p.38
- ^ 宮沢 (2005) p.37
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- ^ a b c d e f g 日本国政府・文化庁 (1994) の「5a. 世界遺産価値基準に適合する根拠及び他の同種遺産との比較」
- ^ 黒田・小野 (2003) pp.665-666
- ^ 宮沢 (2005) pp.18-19
- ^ タウト [1939](2011) p.21. なお、p.57 にも同様の評言がある。
- ^ 宮沢 (2005) p.30
- ^ ユネスコ世界遺産センター (1998) p.236. 世界遺産アカデミー (2005) p.111 では水没は5集落とされている。
- ^ a b c d 矢野 (2006) pp.40-42
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参考文献
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- 黒田乃生 小野良平 (2003) 「白川村研究の系譜にみる文化財としての集落景観保全における問題点」『ランドスケープ研究 : 日本造園学会誌』66(5), pp.665-668
- 国土庁計画・調整局 監修 (1998) 『歴史と風土とまちづくり 世界遺産と地域』 ぎょうせい
- 佐滝剛弘 (2006) 『旅する前の「世界遺産」』 文藝春秋社〈文春新書〉
- 佐滝剛弘 (2009) 『「世界遺産」の真実』 祥伝社〈祥伝社新書〉
- 世界遺産アカデミー (2005) 『世界遺産学検定公式テキストブック (1)』 講談社
- ブルーノ・タウト [1939](2011) 『日本美の再発見〔増補改訳版〕』 篠田英雄訳、岩波書店〈岩波新書 旧赤版〉、第55刷
- 中西孝 日吉芳朗 本浄高治 (1991)「加賀藩の産業・工芸の史跡と遺品」『化学と教育』 39(4), pp.420-424
- 日本国政府・文化庁 (1994) 『世界遺産一覧表記載推薦書 日本/白川郷・五箇山の合掌造り集落』
- 日本ユネスコ協会連盟 『世界遺産年報』 各年版
- 水村光男 (2002) 『オールカラー完全版 世界遺産第7巻 - 日本・オセアニア』 講談社〈講談社+α文庫〉
- 宮沢智士 (2005) 『白川郷合掌造Q&A』 智書房
- ユネスコ世界遺産センター 監修 (1998) 『ユネスコ世界遺産4 東アジア・ロシア』 講談社
- 楊潔 (2006)「サスティナブル・ツーリズムの展開と可能性 - 白川郷における観光の現状と展望」『愛知県立大学大学院国際文化研究科論集』 7, pp.115-144
関連項目