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[[イタリア]]における[[ドイツ国防軍]]との戦いにおいて、[[1945年]][[4月21日]]に右腕を失い、1年8ヶ月に亘って陸軍病院に入院したものの、多くの部隊員とともに数々の勲章を授与され帰国し、日系アメリカ人社会だけでなくアメリカ陸軍から[[英雄]]としてたたえられる。[[1947年]]に陸軍大尉として名誉除隊した。右腕を失ったことにより、当初目指していた[[医学]]の道をあきらめた。[[ハワイ大学]]に復学し[[1950年]]に同大学を政治学[[学士|BA Government and Economics]]を得て卒業した。[[ジョージ・ワシントン大学]]の法務大学院に進学し、[[1953年]]に[[法務博士 (専門職)|J.D.]]を授与された。 |
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=== 日系人初の上下両院議員 === |
=== 日系人初の上下両院議員 === |
2011年6月7日 (火) 07:16時点における版
ダニエル・ケン・イノウエ Daniel Ken "Dan" Inouye | |
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アメリカ合衆国上院議員 ハワイ州選出 | |
就任 1963年1月3日 ダニエル・K・アカカとサービング | |
前任者 | オレン・E・ロング |
アメリカ合衆国上院仮議長 | |
就任 2010年6月28日 | |
前任者 | ロバート・バード |
米国上院歳出委員会委員長 | |
就任 2009年1月3日 | |
前任者 | ロバート・バード |
米国上院通商科学運輸委員会委員長 | |
任期 2007年1月3日 – 2009年1月3日 | |
前任者 | テッド・スティーヴンス |
後任者 | ジョン・ロックフェラー4世 |
米国上院原住民問題委員会委員長 | |
任期 1987年1月3日 – 1995年1月3日 | |
前任者 | マーク・アンドリュース |
後任者 | ジョン・マケイン |
任期 2001年1月3日 – 2001年1月20日 | |
前任者 | ベン・ナイトホース・キャンベル |
後任者 | ベン・ナイトホース・キャンベル |
任期 2001年6月6日 – 2003年1月3日 | |
前任者 | ベン・ナイトホース・キャンベル |
後任者 | ベン・ナイトホース・キャンベル |
米国上院情報問題特別調査委員会委員長 | |
任期 1975年1月3日 – 1979年1月3日 | |
前任者 | (新設) |
後任者 | バーチ・バイ |
アメリカ合衆国下院議員 | |
任期 1959年8月21日 – 1963年1月3日 | |
前任者 | ジョン・A・バーンズ |
後任者 | トーマス・ポンス・ギル |
個人情報 | |
生誕 | 1924年9月7日(100歳) ハワイ州ホノルル |
国籍 | アメリカ合衆国 |
政党 | 民主党 |
配偶者 | マーガレット・シノブ・アワムラ(1949-1996、死別) アイリーン・ヒラノ(2008-、全米日系人博物館館長) |
住居 | ハワイ州ホノルル |
出身校 | ハワイ大学マノア校 ジョージ・ワシントン大学 |
職業 | 弁護士 |
宗教 | メソジスト |
受賞 | 名誉勲章 青銅星章 パープルハート章 |
署名 | |
公式サイト | United States Senator Daniel Inouye |
兵役経験 | |
所属国 | アメリカ合衆国 |
所属組織 | アメリカ陸軍 |
軍歴 | 1943年 - 1947年 |
最終階級 | 大尉 |
部隊 | 第442連隊戦闘団 |
戦闘 | 第二次世界大戦 |
ダニエル・ケン・“ダン”・イノウエ(Daniel Ken "Dan" Inouye、日本名:井上 建(いのうえ けん)、1924年9月7日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。元アメリカ陸軍将校。上院議員、現・上院仮議長。
1963年から47年以上にわたって上院議員に在任している長老議員であり、上院民主党の重鎮議員の1人である。2010年6月28日に最古参であったロバート・バード上院議員が死去したことで、上院で最も古参の議員となり、またこれに伴い慣例に沿うかたちで上院仮議長に選出された。上院仮議長は実質名誉職ではあるものの、大統領継承順位第3位の高位であり、アメリカの歴史上アジア系アメリカ人が得た地位としては最上位のものとなる。また第二次世界大戦時はアメリカ陸軍に従軍し、数多くの栄誉を受けた。アメリカ陸軍での最終階級は陸軍大尉。
プロフィール
生い立ち
一家の失火による借金を返済する為に、1899年9月28日に福岡県八女郡横山村(現広川町・八女市)から祖父母の浅吉・モヨとともに渡米した父・兵太郎と母・かめ(旧姓:今永)のもと、1924年に当時アメリカの準州であったハワイのホノルルで生まれる。その後ホノルルの高校を経てハワイの名門大学であるハワイ大学マノア校に進学した。
第442連隊の英雄
ハワイ大学在学中の1941年12月に日本軍による真珠湾攻撃が行われ、アメリカが第二次世界大戦に参戦した後は日系アメリカ人として人種差別待遇を受けるものの、アメリカ人としての忠誠心を示すためにアメリカ軍に志願し、アメリカ陸軍の日系人部隊である第442連隊戦闘団に配属され、ヨーロッパ前線で戦う。
イタリアにおけるドイツ国防軍との戦いにおいて、1945年4月21日に右腕を失い、1年8ヶ月に亘って陸軍病院に入院したものの、多くの部隊員とともに数々の勲章を授与され帰国し、日系アメリカ人社会だけでなくアメリカ陸軍から英雄としてたたえられる。1947年に陸軍大尉として名誉除隊した。右腕を失ったことにより、当初目指していた医学の道をあきらめた。ハワイ大学に復学し1950年に同大学を政治学BA Government and Economicsを得て卒業した。ジョージ・ワシントン大学の法務大学院に進学し、1953年にJ.D.を授与された。 1954年に退役軍人のElton Sakamoto 、Sakae TakahashiらとCentral Pacific Bankを設立した。
日系人初の上下両院議員
その後は政界に進出し、1954年には準州であったハワイ議会の議員に当選した。1959年には民主党からハワイ州選出の連邦下院議員に立候補し当選し、アメリカ初の日系人議員となる。
その後、1963年には上院議員となり(同じく第442連隊戦闘団員であったスパーク・マツナガも下院議員に当選する)、戦時補償法の制定などに尽力する傍ら、1973年にはウォータゲート事件と1987年にはイラン・コントラ事件の上院調査特別委委員長となり注目を浴びる。アメリカ軍の予算に大きな権限を持つ上院歳出委員会国防小委員会の民主党長老議員として、エリック・シンセキ大将の陸軍参謀総長就任に尽力している。
現在
現在も民主党の上院議員として上院歳出委員会の国防小委員会で上級委員を勤める他、カリフォルニア州ロサンゼルスの日本人街リトル・トーキョーにある全米日系人博物館の理事長を勤めるなど活躍を続けている。2000年6月21日に、陸軍殊勲十字章、青銅星章の受賞理由が見直され、軍人の贈られる最高位の勲章である名誉勲章を受章したほか、2007年11月、フランス政府からレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)を授与された。2010年の中間選挙にて民主党は上下院共に苦戦を強いられたが、再選を果たしている。
イノウエは、1980年代に、日米間の貿易摩擦が政治問題化した際には、リチャード・ゲッパートなどと共に、対日批判の急先鋒として立ち回ったが、現在は日本に対して融和的で、中華人民共和国や韓国が主張する「従軍慰安婦・強制連行説」に立脚するアメリカ合衆国下院121号決議を対日外交の継続性の観点から反対した。
なお1996年に前妻と死別し独身となっていたが、2008年1月29日に「全米日系人博物館」館長 アイリーン・ヒラノと再婚した。また、2008年アメリカ合衆国大統領選挙においては、ヒラリー・クリントン上院議員を支持していた。
名誉勲章
イノウエが受章した名誉勲章には下記のように記されている。
- ダニエル・K・イノウエ少尉は1945年4月21日、イタリアのサン・テレンツォ近郊における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。重要な交差点を守るべく、防御された尾根を攻撃している間、イノウエ少尉は自動兵器と小銃砲火による素早い攻撃によって巧みに自身の小隊を指揮し、大砲と迫撃砲の陣地を占領し、部下達を敵の集団から40ヤード以内の場所にまで導いた。掩蔽壕と岩盤に3丁の機関銃を据え付け、十字砲火により敵の前進を停止させた。イノウエ少尉は自身の安全を完全に度外視し、最も近くにある機関銃から5ヤード以内の位置まで危ない斜面を這って進んで、2つの手榴弾を投擲し、砲床を破壊した。敵が反撃を仕掛けてくる前に、彼は立ち上がって、第2の機関銃の砲床を沈黙させた。狙撃手の弾丸によって負傷するも、彼は手榴弾の炸裂によって右腕を失うまで、近距離で他の敵の陣地と交戦し続けた。激しい痛みにも関わらず、敵の抵抗が破れるまで、彼は避難を拒否して、小隊を指揮し続け、部下達は再び防御の位置に配置した。攻撃の結果、敵兵25名が死亡し、8名が捕虜となった。イノウエ少尉の勇敢かつ積極的な戦術と不屈のリーダーシップによって、彼の小隊は激しい抵抗の中、前進することができ、峰の占領に成功した。イノウエ少尉の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍隊の最も崇高な伝統を維持し、また、彼本人やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな信頼をもたらすものであった。
栄典
著書
- 「ワシントンへの道」(原題:Journey to Washington)
関連項目
外部リンク
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