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「アントニヌス・ピウス」の版間の差分

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{{ネルウァ・アントニヌス朝系図}}
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| 人名 = アントニヌス・ピウス
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| 画像説明 = アントニヌス・ピウス胸像
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| 全名 = ティトゥス・アウレリウス・フルウィウス・ボイオニウス・アリウス・アントヌス・ピウス
| 全名 = ティトゥス・アウレリウス・フルウィウス・ボイオニウス・アリウス・アントニヌス(出生時)<BR>''Titus Aurelius Fulvus Boionius Arrius Antoninus''<BR>ティトゥス・アエリウス・カエサル・アントニヌス(副帝時)<BR>''Titus Aelius Caesar Antoninus''<BR>カエサル・ティトゥス・アエリウス・ハドリアヌス・アントニヌス・アウグストゥス・ピウス(即位時)<BR>''Caesar Titus Aelius Hadrianus Antoninus Augustus Pius''
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'''ティトゥス・アウレリウス・フルウィウス・ボイオニウス・アリウス・アントニヌス''' ({{lang-la|Titus Aelius Hadrianus Antoninus Augustus Pius}};<ref name="Weigel, Antoninus Pius">Weigel, ''Antoninus Pius''</ref><ref>In [[Classical Latin]], Antoninus' name would be inscribed as <small>TITVS AELIVS HADRIANVS ANTONINVS AVGVSTVS PIVS</small>.</ref> [[86年]][[9月19日]] ? [[161年]][[3月7日]])は第15代ローマ皇帝で、[[ネルウァ=アントニヌス朝]]の第4代君主。彼はアウレリウス氏族の出身者として最初の皇帝であり、また皇妃[[大ファウスティナ]]を通じて[[ネルウァ=アントニヌス朝]]と外戚関係を持っていた<ref name="Bowman, pg. 150">Bowman, pg. 150</ref>。妻の甥であるマルクス・アウレリウスと長女ファウスティナを結婚させた上でアウレリウスを後継者とし、娘と甥の間に生まれた孫コモドゥスにまで三代に亘る家族間での帝位継承の基盤を作った。
'''アントニヌス・ピウス'''({{llang|la|言語記事名=古典ラテン語|'''Titus Aurelius Fulvus Boionius Arrius Antoninus Pius'''|ティトゥス・アウレーリウス・フルウィウス・ボイオニウス・アッリウス・アントーニーヌス・ピウス}}、[[86年]][[9月19日]] - [[161年]][[3月7日]])は、第15代[[ローマ皇帝一覧|ローマ皇帝]](在位:[[138年]] - [[161年]])である。'''ピウス'''とは「敬虔な」の意で、[[元老院 (ローマ)|元老院]]から贈られた尊称である。[[五賢帝]]の4人目。先帝[[ハドリアヌス]]の国内安定化策を継承し、その治世は終始平穏であった。一方、対外的には内向きで消極的な対応に終始し、蛮族への外征を怠ったことから、後代に禍根を残したともいわれる。


こうした点から一部の歴史学者は王朝の支配権がトラヤヌスの王統から外戚であるアントニヌスの一族へと移動したと見なし、祖父アントニヌスから孫コモドゥスまでの三代を'''アントニヌス朝'''と別称している。
==治世・歴史的評価==
===生い立ち===
アントニヌス・ピウスは、86年9月19日、[[執政官]]経験者である父[[ティトゥス・アウレリウス・フルウィウス]]の息子として、[[ローマ]]郊外のラヌウィウムで生まれた。父方の家系は[[ガリア]]のネマウスス(現[[ニーム (フランス)|ニーム]])に出自を持つ貴族であった。[[ウェスパシアヌス]]帝の治世下で活躍を認められ、祖父の代に[[元老院階級]]への仲間入りを果たした名門の家柄であった。父の死後は、[[大プリニウス]]の友人で母方の祖父アミウス・アントニヌスによって養育された。


「アントニヌス・ピウス(Antoninus Pius、慈悲深きアントニヌス)」の名で知られるが、これは先帝ハドリアヌスが元老院から憎まれていたにも関わらず、神として祭るように奔走した事が美談として受け取られた事に由来する<ref>Birley, pg. 54; Dio, 70:1:2</ref>。しかし『ローマ皇帝群像』はハドリアヌス帝によって処刑される事になっていた人々を救った為であると主張している<ref>Birley, pg. 55; Historia Augusta, ''Life of Hadrian'' 24.4</ref>。
===業績===
アントニヌス・ピウス自身は、先帝[[トラヤヌス]]や[[ハドリアヌス]]とは異なり軍事的キャリアが全くなかったものの、ハドリアヌスが視察巡幸中の[[ローマ]]を預かる内閣の一人として優れた行政手腕を発揮し、皇帝からの信任も厚かった。


==生い立ち==
[[アシア属州|属州アシア]][[属州総督|総督]]、2度の執政官などの要職を歴任後、アントニヌス・ピウスは4人の[[プロコンスル]]からなるイタリアの行政官に任命された。ハドリアヌスには実子がなく、当初は後継者を親戚で養子の[[ルキウス・アエリウス・カエサル]]({{lang|la|[[:en:Lucius Aelius|Lucius Aelius]]}})としていたが早世したため、アントニヌス・ピウスを条件つきで養子とし、新しい後継者に指名した。その条件とは、妻の甥にあたるマルクス・アンニウス・ウェルスと、ルキウス・アエリウス・カエサルの遺児ルキウス・ウェルスの2人を養子とすることであった。後の皇帝[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]]と共同皇帝[[ルキウス・ウェルス]]である。[[138年]][[7月11日]]にハドリアヌスの跡を継ぎ、第15代皇帝に即位した。
===出自===
西暦[[86年]][[9月19日]]、執政官経験を持つ元老院議員[[:en:Titus Aurelius Fulvus|ティトゥス・アウレリウス・フルウィウス]]とアリア・ファディラの一人息子として[[ラウィニウム]]に生まれる<ref name="Bowman, pg. 150">Bowman, pg. 150</ref><ref>Harvey, Paul B., ''Religion in republican Italy'', Cambridge University Press, 2006, pg. 134; Canduci, pg. 39</ref>。父の故郷は南ガリアの殖民市[[ニーム (フランス)|コローニア・ネマウサ]]の出身で、同地は[[ガリア遠征]]時にローマ人の退役兵が入植した歴史を持つ古い殖民市である<ref name="Bury, pg. 523">Bury, pg. 523</ref>。父は祖父のと共に早くに亡くなってしまい、母方の祖父[[:en:Gnaeus Arrius Antoninus|グナエウス・アリウス・アントニヌス]]に引き取られて養育され<ref name="Bowman, pg. 150">Bowman, pg. 150</ref>、祖父の親友は『博物誌』の著者である[[大プリニウス]]であった。また母は後に別の貴族の男性と再婚して二人の娘を儲け、異父妹を持つ事になった<ref>Birley, pg. 242; Historia Augusta, ''Life of Antoninus Pius'' 1:6</ref>。フルウィウス家、アントニヌス家と二つの家督と財産を受け継いだ事はアントニヌスにとって大きな利点となった。


111年、宮殿や元老院に出入りする様になったアントニヌスは[[クァエストル|財務官]](クァエストル)に任命されて元老院議席を得た<ref>Traver, Andrew G., ''From polis to empire, the ancient world, c. 800 B.C.-A.D. 500'', (2002) pg. 33; Historia Augusta, ''Life of Antoninus Pius'' 2:9</ref>。続く117年には法務官に叙任され、上流貴族としての立場を着々と継承していった<ref>Traver, Andrew G., ''From polis to empire, the ancient world, c. 800 B.C.-A.D. 500'', (2002) pg. 33; Historia Augusta, ''Life of Antoninus Pius'' 2:9</ref>。この間となる110年から115年頃には私生活でも当時の王朝である[[ネルウァ=アントニヌス朝]]の一員であった[[大ファウスティナ]]と結婚している。彼女の父は執政官[[:en:Marcus Annius Verus|マルクス・アンニウス・ウェルス]]であり<ref name="Bowman, pg. 150">Bowman, pg. 150</ref>、母ルピリア・ファウスティナはトラヤヌス帝の大姪にして、ハドリアヌス帝の皇妃ウィビア・サビナの従姉妹であった。
アントニヌス・ピウスの即位時、[[元老院 (ローマ)|元老院]]では、先帝ハドリアヌスに対する[[記録抹殺刑]]の決定がなされようとしていた。これは各地の視察巡幸のため長らくローマを留守がちであったハドリアヌスに対する元老院の不満や、[[ダキア]]をめぐり両者が確執を繰り返したことが原因であったが、アントニヌス・ピウスはその決定を必死になって阻止した。これにより、ハドリアヌスに対する記録抹殺刑は見送られ、さらにピウスの終始一貫した高潔な態度に対する敬意を込めて、元老院の総意により'''ピウス'''の尊称が贈られることとなった。


[[大ファウスティナ]]との結婚は政略ではなく自由恋愛であったと言われ、仲睦まじい夫婦であった。後に大ファウスティナが皇帝時代の141年に死ぬと非常に落胆し<ref>Bury, pg. 528</ref> 、元老院の許可を得て妻を女神として神殿に祭ったり<ref>Birley, pg. 77; Historia Augusta, ''Life of Antoninus Pius'' 6:7</ref>、妻を描いた金貨や名を冠した孤児院を建設したりしたと伝えられる<ref name="Weigel, Antoninus Pius"/> 。
アントニヌス・ピウス自身は、一度もローマを離れることなく政務を執り、内政安定化に尽力した。元老院との協調体制を構築できなかったハドリアヌスを自らの教訓としたためであり、対外的に[[ゲルマン民族]]など蛮族への対応が後手に回ったという後世の批判も、こうした経緯からやむを得ない側面があったといえる。一方、アントニヌス・ピウスの在位中、[[ブリタンニア]]総督ロリウスに命じて[[グレートブリテン島|ブリテン島]]北部(現[[スコットランド]])への侵攻を行い、これと並行して[[ハドリアヌスの長城]]よりもさらに160kmほど北方に[[アントニヌスの長城]]を構築し、ブリタンニア辺境の守りに備えたが、軍事的に芳しい成果を得ることはなかった。また、この時期に[[ゲルマニア]]国境付近に居住するゲルマン人諸部族よりたびたびローマ帝国の庇護を求められ、彼らの居住地域をローマ帝国へ編入するよう申し出がなされているが、アントニヌス・ピウスはこれを拒絶している。


両者の間には4人の子供が生まれたが、長男と次男には先立たれた<ref>Birley, pg. 34; Historia Augusta, ''Life of Antoninus Pius'' 1:7</ref>。
アントニヌス・ピウスは元老院との協調とすぐれた統治により、ローマ帝国に長きにわたる平和な時代を実現させた皇帝であった。しかし、ピウス自身に軍事的キャリアが全くなかったこともあり、その在位中も直接現地で軍を指揮する機会や経験は皆無であった。その結果、対外的には消極かつ内向きな対応に始終することになり、この点について見るべき成果はほとんどない。むしろ、周辺諸民族の勢力増長を許す結果となり、次代の皇帝マルクス・アウレリウスの時代には、ゲルマン民族との抗争や隣国[[パルティア]]との抗争が勃発する一方で、国内では内乱が発生するなど、ローマ帝国はゆるやかに衰退へと向かい、以降の内憂外患の時代を迎える端緒となっていく。


* 長男マルクス・アウレリウス・フルウィウス・アントニヌス(西暦138年没);ハドリアヌス廟に墓と石碑が残る<ref name="Magie, David 1921">Magie, David, ''Historia Augusta'' (1921), Life of Antoninus Pius, Note 6</ref>
アントニヌス・ピウスは、ローマから12kmほどの郊外にある[[エトルリア]]のロリウムで、熱病のため161年に死亡した。74歳。次期皇帝にはマルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスが指名され、共同でローマ帝国の舵取りを担っていくことになる。
* 次男マルクス・ガレルウス・アウレルウス・アントニヌス(西暦138年没); ハドリアヌス廟に墓と石碑が残る<ref name="Magie, David 1921"/>
* 長女アウレリア・ファディラ(135年没); 執政官ルキウス・ラミア・シルウァヌスと結婚、子はなかったと見られる<ref>Magie, David, ''Historia Augusta'' (1921), Life of Antoninus Pius, Note 7</ref>
* 次女[[アンニア・ガレリア・ファウスティナ・ミノル|小ファウスティナ]]; 両親の甥である[[マルクス・アウレリウス]]と[[いとこ婚|従兄弟婚]]<ref name="Bury, pg. 523">Bury, pg. 523</ref>


西暦120年、ハドリアヌス帝時代に執政官に叙任され<ref name="Weigel, Antoninus Pius"/>、皇帝の側近としての立場を強めていく。アントニヌスはハドリアヌス帝よりイタリア本土における長官の一人に指名され<ref name="Bowman, pg. 149">Bowman, pg. 149</ref>、続いて134年にはアシア総督として活躍し名声を高めた<ref name="Bowman, pg. 149">Bowman, pg. 149</ref>。同性愛者で跡継ぎの居なかったハドリアヌス帝は寵愛していた重臣ルキウス・アエリウスを後継者に予定していたと言われている。だがアエリウスが謎の急死を遂げると予定を変更し<ref>Bury, pg. 517</ref>、138年2月25日にアントニヌスとその子息を後継者に指名した。しかしアントニヌスも息子に先立たれると、甥である[[マルクス・アウレリウス]]とアエリウスの息子[[ルキウス・ウェルス]]を後継者にする事を遺言される<ref name="Weigel, Antoninus Pius"/>。
===その他===
アントニヌス・ピウスは大変な家族思いであり、特に娘[[アンニア・ガレリア・ファウスティナ・ミノル|ファウスティナ]](小ファウスティナ)に対する溺愛ぶりでは有名だった。妻の[[大ファウスティナ]]との間に2男2女をもうけたが、娘ファウスティナを除き、彼の皇帝即位前に全員他界している。小ファウスティナは後の第16代皇帝[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス|マルクス・アウレリウス]]の妻となった。またアントニヌス・ピウスは、妻との死別を機に女子孤児院を設立している。


西暦138年7月10日、ハドリアヌス帝が病没するとアントニヌスは皇帝'''インペトラル・カエサル・ティトゥス・アエリウス・ハドリアヌス・アントニヌス・アウグストゥス・ポンティフェクス・マキシムス'''(Imperator Caesar Titus Aelius Hadrianus Antoninus Augustus Pontifex Maximus)として即位を宣言した。
アントニヌス・ピウスの高潔な人格は、養子で次期皇帝のマルクス・アウレリウスにも多大な影響を与えた。しかし、アントニヌス・ピウスは自身と同様にマルクス・アウレリウスに対して軍事的素養を身に着ける機会を与えなかったため、マルクス・アウレリウスが皇帝就任後の紛争に対して有効に対処できない原因を作り出したといわれている。


==治世==
アントニヌス・ピウスは、[[中国]]の史書『[[後漢書]]』に「大秦王安敦」として最初に登場するローマ皇帝である(ただし、次代のマルクス・アウレリウス・アントニヌスを指すとする異説もある)。
[[Image:AntoninusAureus.jpg|300px|thumb|left|アントニヌス帝を描いた金貨]]
[[Image:Roman Empire in 150 AD.png|300px|thumb|left|アントニヌス帝時代の帝国領域]]
[[File:Antoninus Pius (Museo del Prado) 01.jpg|thumb|right|アントニヌス帝胸像]]
[[Image:RomaForoRomanoTempioAntoninoFaustina.JPG|thumb|大ファウスティナを祭って建設されたファウスティナ神殿。自らの死後に「アントニヌス・ファウスティナ神殿」と改められた。]]
===ピウスの称号===
帝位継承から真っ先にアントニヌス帝が行ったのは先帝ハドリアヌスを歴代皇帝と同じく神に祭る事であった。この提案はハドリアヌス帝と対立していた元老院に反対されたが<ref name="Bowman, pg. 151">Bowman, pg. 151</ref>、アントニヌス帝は賢明に元老院を説得する事に努めて遂に元老院を説き伏せた。この行動は主君に対する[[:en:Pietas|ピエタス]](献身)であると賞賛され、元老院はハドリアヌス帝を神に祭るのと合わせて彼に「アントニヌス・ピウス(慈悲深きアントニヌス)」の称号を与えた<ref>Birley, pg. 55; Canduci, pg. 39</ref>。他に晩年のハドリアヌス帝を献身的に支えた事も理由に含められた<ref name="Bury, pg. 523">Bury,pg. 523</ref>。


そしてハドリアヌス帝の路線をできる限り継承する事を望み、残された先帝時代に予定された事業の完成を急いだ<ref name="Bowman, pg. 151">Bowman, pg. 151</ref>。
== 建築物 ==
===ローマ市内===
*ハドリアヌス神殿
*大ファウスティナ神殿
===属州地===
*なし


==参考文献==
===対外政策===
一方、帝国軍とは一貫して距離を置く事を志向した事で知られている。アントニヌス帝の20年以上に亘る治世で大規模な軍事遠征が行われた記録は一切残っておらず、軍に対する命令や記録も僅かである。現代における古代ローマ史の研究誌『The Journal of Roman Studies』は「23年の治世においてアントニヌス帝は軍団に対して命令や指揮はおろか、根拠地の500マイル以内に近付いた経験すらなかった」と評している<ref>J. J. Wilkes, ''The Journal of Roman Studies'', Volume LXXV 1985, ISSN 0075-4358, p. 242.</ref>。同時にそれは彼の治世が前期帝政(プリンキパトゥス)の中で最も平穏を維持した証でもある<ref name="Bury, pg. 525">Bury, pg. 525</ref>。
* [[塩野七生]]『[[ローマ人の物語]]IX 賢帝の世紀』([[新潮社]]、2000年 [[新潮文庫]]全3分冊、2006年)

* [[クリス・スカー]]『ローマ皇帝歴代誌』([[創元社]]、1998年)
戦闘が起きなかったという訳ではなくブリタニアやマウレタニアで小規模な動乱があったが、重大な事件とは誰も受け取っていなかった<ref name="Bury, pg. 525">Bury, pg. 525</ref>。ただしブリタニアについては139年に新しい属州総督[[:en:Quintus Lollius Urbicus|クィントゥス・ロリウス・ウルビクス]]を指名する積極策を用いている<ref name="Bowman, pg. 151">Bowman, pg. 151</ref>。彼はスコットランド南部にまで軍を進出させて、クライド湾からフォース湾にかけて[[アントニヌスの長城]]を建設した<ref>Bowman, pg. 152</ref>。だがこの城壁線は明確でない理由によって後に放棄された<ref name="Bowman, pg. 155">Bowman, pg. 155</ref>。他にダキア・インフェリオルでの動乱は兵士の増員を必要とさせ<ref name="Bowman, pg. 155">Bowman, pg. 155</ref>、また上ゲルマニア総督カイウス・ポプリウス・カルスによって[[:en:Limes Germanicus|リーメス・ゲルマニクス]]の拡張が行われた<ref>Birley, pg. 113</ref>。

こうした動乱の最中でもアントニヌス帝がイタリア本土を離れた事は一度としてなく、歴代皇帝の中でも特異な治世であった<ref>Speidel, Michael P., ''Riding for Caesar: The Roman Emperors' Horse Guards'', Harvard University Press, 1997, pg. 50; Canduci, pg. 40</ref>。属州での問題は全てそれぞれの属州総督に一任され、彼らは責務の見返りとしてより強い統治権を与えられた。アントニヌス帝は宮殿から総督達を統制する間接的な支配体制を作り上げ、皇帝の宮殿在住と広大化した帝国支配の両立を満たしたこの方法は後世において踏襲される事になる<ref>See Victor, 15:3</ref>。
===国内政策===
アントニヌス帝は学問や芸術・文化の保護に熱心で多くの劇場や神殿を建設し、学者達の報酬を引き上げさせた<ref name="Weigel, Antoninus Pius">Weigel,''Antoninus Pius''</ref>。またアントニヌス帝はユダヤ教のラビ(司祭)で高名な神学者であった[[イェフーダー・ハン=ナーシー]]の友人であり、彼が生涯の目標とした経典の編纂を帝国皇帝として後援した<ref>A. Mischcon, Abodah Zara, p.10a Soncino, 1988. Mischcon cites various sources, "SJ Rappaport... is of opinion that our Antoninus is Antoninus Pius." Other opinions cited suggest "Antoninus" was [[Caracalla]], [[Lucius Verus]] or [[Alexander Severus]].</ref>。アントニヌス帝は宮殿にイェフーダを招いて彼と問答を行ったという。

アントニヌス帝時代の記録は乏しい部分があり、22年間という長期間の治世に対して大規模な公共建築も残さなかった。だがその代わりに帝国の法体系([[ローマ法]])や行政制度の改革に熱意を注いだ<ref name="Bury, pg. 526">Bury, pg. 526</ref>。彼は革命的という程ではないものの、それまでのローマ法に重大な修正を加えようとした。帝国がラテン人を祖とする国家としてだけでなく、もっと多様な人々を糾合する多文化・多民族の国家に転身する必要を強く感じ、アントニヌス帝は市民権や奴隷制に関する大胆な改革を志した<ref name="Bury, pg. 526">Bury, pg. 526</ref>。

この一大事業はアントニヌス帝が選抜した5人の法律の専門家による諮問機関を伴って行われた。法律に関する論文を後世に残したフルウィウス・アブルニウス・ウァレンス(Fulvius Aburnius Valens)、甥である皇子マルクス・アウレリウスの法律教師で遺産管理人でもあったウォルシウス・マエキアヌス(Volusius Maecianus )、法律書の著名な執筆者として知られていたウルピウス・マルケルス(Ulpius Marcellus)、他に記録が散逸している2名の法学者がローマ法の改革に参加していた<ref name="Bury, pg. 526">Bury, pg. 526</ref>。改革の内容は帝政末期から東ローマ時代に多大な影響を与える同時代の法律教師[[ガイウス (法学者)|ガイウス]]の教本『法律概要』(Institutes of Gaius)により知る事ができる<ref name="Bury, pg. 526">Bury, pg. 526</ref>。

法改革によって奴隷の市民権獲得に関する必要条件が緩和され、狭き門であった[[解放奴隷]]への道が大きく開かれた<ref name="Bury, pg. 527">Bury, pg. 527</ref>。また衛兵によって拘束された人間をまず罪人である事を前提に扱う慣習を廃止し、容疑者と罪人の立場を明確に分離した<ref name="Bury, pg. 527">Bury, pg. 527</ref>。取調べにおける拷問の使用についても新たな制度を設け、14歳以下の市民権保持者に対する拷問は特例を除いて違法とした<ref name="Bury, pg. 527">Bury, pg. 527</ref>。

西暦148年、アントニヌス帝の治世における象徴的な出来事が、900年目となるローマ建国祭の記念行事であった<ref>Bowman, pg, 154</ref>。アントニヌス帝は盛大な記念式典と競技大会を開催し、[[ロムルス]]王の時代から900年の繁栄が続いた事を祝った。皇帝主催の大会は大いに彼の名声を高めたが、資金捻出の為にデナリウス銀貨の銀含有量を89%から83.5%に切り下げねばならなくなった<ref name="Bowman, pg. 155">Bowman, pg. 155</ref><ref>[http://www.tulane.edu/~august/handouts/601cprin.htm Tulane University "Roman Currency of the Principate"]</ref>。

===病没===
西暦161年、アントニヌス帝はロリウム市に滞在している所で熱病を患い、2ヶ月間に亘る治療の甲斐なく3月7日に病没した<ref name="Bowman, pg. 156">Bowman, pg. 156</ref>。その治世はアウグストゥス帝を凌ぎ、ティベリウス帝より2ヶ月短いのみという長期間であった<ref>Bowman, pg. 156; Victor, 15:7</ref>。彼の遺骸は甥のアウレリウスらによって弔われ、遺灰はハドリアヌス廟に葬られた。同時に[[カンプス・マルティウス]]に偉業を讃えた神殿が建設され<ref name="Weigel, Antoninus Pius"/>、皇妃であった大ファウスティナの神殿も「アントニヌス・ファウスティナ神殿」と改称された<ref name="Bury, pg. 532">Bury, pg. 532</ref>。

== 家系図 ==
{{ネルウァ・アントニヌス朝系図}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[アントニヌス・ピウスとファウスティナ神殿]]
* [[アントニヌス・ピウスとファウスティナ神殿]]

==出典==
{{reflist}}

==資料==
;主要資料
* [[Historia Augusta]], ''The Life of Antoninus Pius'', [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Historia_Augusta/Antoninus_Pius*.html English version of Historia Augusta]
* [[Cassius Dio]], ''Roman History'', Book 70, [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/70*.html]
* [[Aurelius Victor]],'' "Epitome de Caesaribus"'', [http://www.roman-emperors.org/epitome.htm English version of Epitome de Caesaribus]

;副次的資料
* [http://www.roman-emperors.org/tonypis.htm Weigel, Richard D., "Antoninus Pius (A.D. 138-161)", ''De Imperatoribus Romanis'']
* Bowman, Alan K. ''The Cambridge Ancient History: The High Empire, A.D. 70-192''. Cambridge University Press, 2000
* Birley, Anthony, ''Marcus Aurelius'', Routledge, 2000
* {{citation | last = Canduci | first = Alexander | title =Triumph & Tragedy: The Rise and Fall of Rome's Immortal Emperors | publisher = Pier 9 | year = 2010 | isbn = 978-1741965988}}
* Bury, J. B. ''A History of the Roman Empire from its Foundation to the Death of Marcus Aurelius'' (1893)
* Huttl, W. Antoninus Pius vol. I & II, Prag 1933 & 1936.

;帰属
*{{1911|title=Antoninus Pius|url=http://www.1911encyclopedia.com/Antoninus_Pius}} This source lists:
** Bossart-Mueller, ''Zur Geschichte des Kaisers A.'' (1868)
** Bryant, ''The Reign of Antonine'' (Cambridge Historical Essays, 1895)
** Lacour-Gayet, ''A. le Pieux et son Temps'' (1888)
** Watson, P. B. ''Marcus Aurelius Antoninus'' (London, 1884), chap. ii.

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2011年9月19日 (月) 08:42時点における版

アントニヌス・ピウス
Antoninus Pius
ローマ皇帝
アントニヌス・ピウス胸像

全名 ティトゥス・アウレリウス・フルウィウス・ボイオニウス・アリウス・アントニヌス(出生時)
Titus Aurelius Fulvus Boionius Arrius Antoninus
ティトゥス・アエリウス・カエサル・アントニヌス(副帝時)
Titus Aelius Caesar Antoninus
カエサル・ティトゥス・アエリウス・ハドリアヌス・アントニヌス・アウグストゥス・ピウス(即位時)
Caesar Titus Aelius Hadrianus Antoninus Augustus Pius
出生 86年9月19日
ラウィニウム(イタリア本土)
死去 161年3月7日(74歳没)
ロリウム(イタリア本土)
継承 マルクス・アウレリウス(甥、娘婿)
ルキウス・ウェルス
配偶者 大ファウスティナ
子女 小ファウスティナ(次女)
王朝 ネルウァ=アントニヌス朝
父親 ティトゥス・アウレリウス・フルウィウス
母親 アリア・ファディラ
Arria Fadilla
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ティトゥス・アウレリウス・フルウィウス・ボイオニウス・アリウス・アントニヌス (ラテン語: Titus Aelius Hadrianus Antoninus Augustus Pius;[1][2] 86年9月19日 ? 161年3月7日)は第15代ローマ皇帝で、ネルウァ=アントニヌス朝の第4代君主。彼はアウレリウス氏族の出身者として最初の皇帝であり、また皇妃大ファウスティナを通じてネルウァ=アントニヌス朝と外戚関係を持っていた[3]。妻の甥であるマルクス・アウレリウスと長女ファウスティナを結婚させた上でアウレリウスを後継者とし、娘と甥の間に生まれた孫コモドゥスにまで三代に亘る家族間での帝位継承の基盤を作った。

こうした点から一部の歴史学者は王朝の支配権がトラヤヌスの王統から外戚であるアントニヌスの一族へと移動したと見なし、祖父アントニヌスから孫コモドゥスまでの三代をアントニヌス朝と別称している。

「アントニヌス・ピウス(Antoninus Pius、慈悲深きアントニヌス)」の名で知られるが、これは先帝ハドリアヌスが元老院から憎まれていたにも関わらず、神として祭るように奔走した事が美談として受け取られた事に由来する[4]。しかし『ローマ皇帝群像』はハドリアヌス帝によって処刑される事になっていた人々を救った為であると主張している[5]

生い立ち

出自

西暦86年9月19日、執政官経験を持つ元老院議員ティトゥス・アウレリウス・フルウィウスとアリア・ファディラの一人息子としてラウィニウムに生まれる[3][6]。父の故郷は南ガリアの殖民市コローニア・ネマウサの出身で、同地はガリア遠征時にローマ人の退役兵が入植した歴史を持つ古い殖民市である[7]。父は祖父のと共に早くに亡くなってしまい、母方の祖父グナエウス・アリウス・アントニヌスに引き取られて養育され[3]、祖父の親友は『博物誌』の著者である大プリニウスであった。また母は後に別の貴族の男性と再婚して二人の娘を儲け、異父妹を持つ事になった[8]。フルウィウス家、アントニヌス家と二つの家督と財産を受け継いだ事はアントニヌスにとって大きな利点となった。

111年、宮殿や元老院に出入りする様になったアントニヌスは財務官(クァエストル)に任命されて元老院議席を得た[9]。続く117年には法務官に叙任され、上流貴族としての立場を着々と継承していった[10]。この間となる110年から115年頃には私生活でも当時の王朝であるネルウァ=アントニヌス朝の一員であった大ファウスティナと結婚している。彼女の父は執政官マルクス・アンニウス・ウェルスであり[3]、母ルピリア・ファウスティナはトラヤヌス帝の大姪にして、ハドリアヌス帝の皇妃ウィビア・サビナの従姉妹であった。

大ファウスティナとの結婚は政略ではなく自由恋愛であったと言われ、仲睦まじい夫婦であった。後に大ファウスティナが皇帝時代の141年に死ぬと非常に落胆し[11] 、元老院の許可を得て妻を女神として神殿に祭ったり[12]、妻を描いた金貨や名を冠した孤児院を建設したりしたと伝えられる[1]

両者の間には4人の子供が生まれたが、長男と次男には先立たれた[13]

  • 長男マルクス・アウレリウス・フルウィウス・アントニヌス(西暦138年没);ハドリアヌス廟に墓と石碑が残る[14]
  • 次男マルクス・ガレルウス・アウレルウス・アントニヌス(西暦138年没); ハドリアヌス廟に墓と石碑が残る[14]
  • 長女アウレリア・ファディラ(135年没); 執政官ルキウス・ラミア・シルウァヌスと結婚、子はなかったと見られる[15]
  • 次女小ファウスティナ; 両親の甥であるマルクス・アウレリウス従兄弟婚[7]

西暦120年、ハドリアヌス帝時代に執政官に叙任され[1]、皇帝の側近としての立場を強めていく。アントニヌスはハドリアヌス帝よりイタリア本土における長官の一人に指名され[16]、続いて134年にはアシア総督として活躍し名声を高めた[16]。同性愛者で跡継ぎの居なかったハドリアヌス帝は寵愛していた重臣ルキウス・アエリウスを後継者に予定していたと言われている。だがアエリウスが謎の急死を遂げると予定を変更し[17]、138年2月25日にアントニヌスとその子息を後継者に指名した。しかしアントニヌスも息子に先立たれると、甥であるマルクス・アウレリウスとアエリウスの息子ルキウス・ウェルスを後継者にする事を遺言される[1]

西暦138年7月10日、ハドリアヌス帝が病没するとアントニヌスは皇帝インペトラル・カエサル・ティトゥス・アエリウス・ハドリアヌス・アントニヌス・アウグストゥス・ポンティフェクス・マキシムス(Imperator Caesar Titus Aelius Hadrianus Antoninus Augustus Pontifex Maximus)として即位を宣言した。

治世

ファイル:AntoninusAureus.jpg
アントニヌス帝を描いた金貨
アントニヌス帝時代の帝国領域
アントニヌス帝胸像
大ファウスティナを祭って建設されたファウスティナ神殿。自らの死後に「アントニヌス・ファウスティナ神殿」と改められた。

ピウスの称号

帝位継承から真っ先にアントニヌス帝が行ったのは先帝ハドリアヌスを歴代皇帝と同じく神に祭る事であった。この提案はハドリアヌス帝と対立していた元老院に反対されたが[18]、アントニヌス帝は賢明に元老院を説得する事に努めて遂に元老院を説き伏せた。この行動は主君に対するピエタス(献身)であると賞賛され、元老院はハドリアヌス帝を神に祭るのと合わせて彼に「アントニヌス・ピウス(慈悲深きアントニヌス)」の称号を与えた[19]。他に晩年のハドリアヌス帝を献身的に支えた事も理由に含められた[7]

そしてハドリアヌス帝の路線をできる限り継承する事を望み、残された先帝時代に予定された事業の完成を急いだ[18]

対外政策

一方、帝国軍とは一貫して距離を置く事を志向した事で知られている。アントニヌス帝の20年以上に亘る治世で大規模な軍事遠征が行われた記録は一切残っておらず、軍に対する命令や記録も僅かである。現代における古代ローマ史の研究誌『The Journal of Roman Studies』は「23年の治世においてアントニヌス帝は軍団に対して命令や指揮はおろか、根拠地の500マイル以内に近付いた経験すらなかった」と評している[20]。同時にそれは彼の治世が前期帝政(プリンキパトゥス)の中で最も平穏を維持した証でもある[21]

戦闘が起きなかったという訳ではなくブリタニアやマウレタニアで小規模な動乱があったが、重大な事件とは誰も受け取っていなかった[21]。ただしブリタニアについては139年に新しい属州総督クィントゥス・ロリウス・ウルビクスを指名する積極策を用いている[18]。彼はスコットランド南部にまで軍を進出させて、クライド湾からフォース湾にかけてアントニヌスの長城を建設した[22]。だがこの城壁線は明確でない理由によって後に放棄された[23]。他にダキア・インフェリオルでの動乱は兵士の増員を必要とさせ[23]、また上ゲルマニア総督カイウス・ポプリウス・カルスによってリーメス・ゲルマニクスの拡張が行われた[24]

こうした動乱の最中でもアントニヌス帝がイタリア本土を離れた事は一度としてなく、歴代皇帝の中でも特異な治世であった[25]。属州での問題は全てそれぞれの属州総督に一任され、彼らは責務の見返りとしてより強い統治権を与えられた。アントニヌス帝は宮殿から総督達を統制する間接的な支配体制を作り上げ、皇帝の宮殿在住と広大化した帝国支配の両立を満たしたこの方法は後世において踏襲される事になる[26]

国内政策

アントニヌス帝は学問や芸術・文化の保護に熱心で多くの劇場や神殿を建設し、学者達の報酬を引き上げさせた[1]。またアントニヌス帝はユダヤ教のラビ(司祭)で高名な神学者であったイェフーダー・ハン=ナーシーの友人であり、彼が生涯の目標とした経典の編纂を帝国皇帝として後援した[27]。アントニヌス帝は宮殿にイェフーダを招いて彼と問答を行ったという。

アントニヌス帝時代の記録は乏しい部分があり、22年間という長期間の治世に対して大規模な公共建築も残さなかった。だがその代わりに帝国の法体系(ローマ法)や行政制度の改革に熱意を注いだ[28]。彼は革命的という程ではないものの、それまでのローマ法に重大な修正を加えようとした。帝国がラテン人を祖とする国家としてだけでなく、もっと多様な人々を糾合する多文化・多民族の国家に転身する必要を強く感じ、アントニヌス帝は市民権や奴隷制に関する大胆な改革を志した[28]

この一大事業はアントニヌス帝が選抜した5人の法律の専門家による諮問機関を伴って行われた。法律に関する論文を後世に残したフルウィウス・アブルニウス・ウァレンス(Fulvius Aburnius Valens)、甥である皇子マルクス・アウレリウスの法律教師で遺産管理人でもあったウォルシウス・マエキアヌス(Volusius Maecianus )、法律書の著名な執筆者として知られていたウルピウス・マルケルス(Ulpius Marcellus)、他に記録が散逸している2名の法学者がローマ法の改革に参加していた[28]。改革の内容は帝政末期から東ローマ時代に多大な影響を与える同時代の法律教師ガイウスの教本『法律概要』(Institutes of Gaius)により知る事ができる[28]

法改革によって奴隷の市民権獲得に関する必要条件が緩和され、狭き門であった解放奴隷への道が大きく開かれた[29]。また衛兵によって拘束された人間をまず罪人である事を前提に扱う慣習を廃止し、容疑者と罪人の立場を明確に分離した[29]。取調べにおける拷問の使用についても新たな制度を設け、14歳以下の市民権保持者に対する拷問は特例を除いて違法とした[29]

西暦148年、アントニヌス帝の治世における象徴的な出来事が、900年目となるローマ建国祭の記念行事であった[30]。アントニヌス帝は盛大な記念式典と競技大会を開催し、ロムルス王の時代から900年の繁栄が続いた事を祝った。皇帝主催の大会は大いに彼の名声を高めたが、資金捻出の為にデナリウス銀貨の銀含有量を89%から83.5%に切り下げねばならなくなった[23][31]

病没

西暦161年、アントニヌス帝はロリウム市に滞在している所で熱病を患い、2ヶ月間に亘る治療の甲斐なく3月7日に病没した[32]。その治世はアウグストゥス帝を凌ぎ、ティベリウス帝より2ヶ月短いのみという長期間であった[33]。彼の遺骸は甥のアウレリウスらによって弔われ、遺灰はハドリアヌス廟に葬られた。同時にカンプス・マルティウスに偉業を讃えた神殿が建設され[1]、皇妃であった大ファウスティナの神殿も「アントニヌス・ファウスティナ神殿」と改称された[34]

家系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マルキア
 
大トラヤヌス
 
ネルウァ
 
ウルピア英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マルキアナ
 
トラヤヌス
 
ポンペイア
英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハドリアヌス・
アフェル
英語版
 
大パウリナ
英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フルギ
英語版
 
マティディア
英語版
 
 
 
サビニウス
英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ルピリア・アンニア
 
アンニウス・
ウェルス
英語版
 
ルピリア
英語版
 
ウィビア・サビナ
英語版
 
ハドリアヌス
 
アンティノウス
 
小パウリナ
英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ドミティア・
ルキッラ
英語版
 
アンニウス・
ウェルス
英語版
 
リボ英語版
 
大ファウスティナ
 
アントニヌス・
ピウス
 
ルキウス・
アエリウス
 
ユリア・パウリナ
英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大コルニフィキア
英語版
 
マルクス・
アウレリウス
 
小ファウスティナ
 
アウレリア・
ファディラ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
サリナトル
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小コルニフィキア
英語版
 
ファディッラ
英語版
 
コンモドゥス
 
ルキッラ
 
ルキウス・ウェルス
 
ケイオニア・
プラウティア
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アンニア・
ファウスティナ
 
 
 
ユリア・マエサ
 
 
 
ユリア・ドムナ
 
セプティミウス・
セウェルス
 
セルウィリア・
ケイオニア
 
 
 
 
 
ゴルディアヌス1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ユリア・ソエミアス
 
ユリア・アウィタ
 
カラカラ
 
ゲタ
 
リキニウス・
バルブス
 
アントニア・
ゴルディアナ
 
ゴルディアヌス2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アウレリア・
ファウスティナ
 
ヘリオガバルス
 
アレクサンデル・
セウェルス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ゴルディアヌス3世
 

関連項目

出典

  1. ^ a b c d e f Weigel, Antoninus Pius 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "Weigel, Antoninus Pius"が異なる内容で複数回定義されています
  2. ^ In Classical Latin, Antoninus' name would be inscribed as TITVS AELIVS HADRIANVS ANTONINVS AVGVSTVS PIVS.
  3. ^ a b c d Bowman, pg. 150
  4. ^ Birley, pg. 54; Dio, 70:1:2
  5. ^ Birley, pg. 55; Historia Augusta, Life of Hadrian 24.4
  6. ^ Harvey, Paul B., Religion in republican Italy, Cambridge University Press, 2006, pg. 134; Canduci, pg. 39
  7. ^ a b c Bury, pg. 523 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "Bury, pg. 523"が異なる内容で複数回定義されています
  8. ^ Birley, pg. 242; Historia Augusta, Life of Antoninus Pius 1:6
  9. ^ Traver, Andrew G., From polis to empire, the ancient world, c. 800 B.C.-A.D. 500, (2002) pg. 33; Historia Augusta, Life of Antoninus Pius 2:9
  10. ^ Traver, Andrew G., From polis to empire, the ancient world, c. 800 B.C.-A.D. 500, (2002) pg. 33; Historia Augusta, Life of Antoninus Pius 2:9
  11. ^ Bury, pg. 528
  12. ^ Birley, pg. 77; Historia Augusta, Life of Antoninus Pius 6:7
  13. ^ Birley, pg. 34; Historia Augusta, Life of Antoninus Pius 1:7
  14. ^ a b Magie, David, Historia Augusta (1921), Life of Antoninus Pius, Note 6
  15. ^ Magie, David, Historia Augusta (1921), Life of Antoninus Pius, Note 7
  16. ^ a b Bowman, pg. 149
  17. ^ Bury, pg. 517
  18. ^ a b c Bowman, pg. 151
  19. ^ Birley, pg. 55; Canduci, pg. 39
  20. ^ J. J. Wilkes, The Journal of Roman Studies, Volume LXXV 1985, ISSN 0075-4358, p. 242.
  21. ^ a b Bury, pg. 525
  22. ^ Bowman, pg. 152
  23. ^ a b c Bowman, pg. 155
  24. ^ Birley, pg. 113
  25. ^ Speidel, Michael P., Riding for Caesar: The Roman Emperors' Horse Guards, Harvard University Press, 1997, pg. 50; Canduci, pg. 40
  26. ^ See Victor, 15:3
  27. ^ A. Mischcon, Abodah Zara, p.10a Soncino, 1988. Mischcon cites various sources, "SJ Rappaport... is of opinion that our Antoninus is Antoninus Pius." Other opinions cited suggest "Antoninus" was Caracalla, Lucius Verus or Alexander Severus.
  28. ^ a b c d Bury, pg. 526
  29. ^ a b c Bury, pg. 527
  30. ^ Bowman, pg, 154
  31. ^ Tulane University "Roman Currency of the Principate"
  32. ^ Bowman, pg. 156
  33. ^ Bowman, pg. 156; Victor, 15:7
  34. ^ Bury, pg. 532

資料

主要資料
副次的資料
  • Weigel, Richard D., "Antoninus Pius (A.D. 138-161)", De Imperatoribus Romanis
  • Bowman, Alan K. The Cambridge Ancient History: The High Empire, A.D. 70-192. Cambridge University Press, 2000
  • Birley, Anthony, Marcus Aurelius, Routledge, 2000
  • Canduci, Alexander (2010), Triumph & Tragedy: The Rise and Fall of Rome's Immortal Emperors, Pier 9, ISBN 978-1741965988 
  • Bury, J. B. A History of the Roman Empire from its Foundation to the Death of Marcus Aurelius (1893)
  • Huttl, W. Antoninus Pius vol. I & II, Prag 1933 & 1936.
帰属
アントニヌス・ピウス

86年9月19日 - 161年3月7日

爵位・家督
先代
ハドリアヌス
ローマ皇帝
138年 - 161年
次代
マルクス・アウレリウス
ルキウス・ウェルス
公職
先代
ハドリアヌス
プブリウス・ダスミウス・ルスティクス
執政官
120年
次代
マルクス・アンニウス・ウェルス
クナエウス・アリウス・アウグル
先代
カヌス・イニウス・ニゲル
ガイウス・ポンペイウス・カメリヌス
執政官
139年 - 140年
次代
ティトゥス・ホエニウス・セウェルス
マルクス・ペドゥカエウス・ストロガ・プリスキヌス
(Marcus Peducaeus Stloga Priscinus)
先代
ロッリアヌス
ティトゥス・サタティリウス・マキシムス
執政官
145年
次代
セクストゥス・エルキウス・クラルス
グナエウス・クラウディウス・セウェルス・アラビアヌス

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