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'''オットー・ハインリッヒ・フランク'''('''Otto Heinrich Frank'''、[[1889年]][[5月12日]] - [[1980年]][[8月19日]])は、『[[アンネの日記]]』で知られる[[アンネ・フランク]]とその姉[[マルゴット・フランク]]の父親である。アンネの死後の1947年、彼女の日記を出版した。 |
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{{ActorActress |
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| 芸名 = オットー・フランク<br>Otto Frank |
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| ふりがな = |
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| 画像ファイル = |
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| 本名 = オットー・ハインリッヒ・フランク<br>Otto Heinrich Frank |
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| 別名 = |
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| 愛称 = |
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| 出生地 = {{flagicon|Germany}} [[ヴァイマル共和政|ドイツ帝国]]<br>[[file:Freestate of prussia flag 1920–1947.png|25px]] [[プロイセン州]]<br>[[file:Flagge Preußen - Provinz Hessen-Nassau.svg|25px]] [[:de:Hessen-Nassau|ヘッセン=ナッサウ県]]<br>[[フランクフルト・アム・マイン]] |
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| 国籍 = {{flagicon|Germany}} [[ヴァイマル共和政|ドイツ国]] |
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| 生年 = 1889 |
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| 生月 = 5 |
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| 生日 = 12 |
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| 没年 = 1980 |
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| 没月 = 8 |
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| 没日 = 19 |
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| 職業 = |
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| ジャンル = |
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| 活動期間 = |
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| 活動内容 = |
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| 配偶者 = [[エーディト・フランク]] |
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| 家族 = 長女[[マルゴット・フランク]]<br>次女[[アンネ・フランク]] |
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| 公式サイト = |
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| 主な作品 = |
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| 備考 = 1947年に次女のアンネが書き残した日記を[[アンネの日記]]と題した本を公表した。 |
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{{Flagicon|Switzerland}}[[スイス]]で死亡。 |
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'''オットー・ハインリッヒ・フランク'''('''Otto Heinrich Frank'''、[[1889年]][[5月12日]] - [[1980年]][[8月19日]])は、「[[アンネの日記]]」で知られる[[アンネ・フランク]]と姉[[マルゴット・フランク|マルゴー・フランク]]の父親である。アンネの死後の1947年、彼女の日記を公表した。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 生 |
=== 生まれ === |
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1889年、[[ドイツ帝国]][[領邦]][[プロイセン王国]][[ヘッセン=ナッサウ県]]([[:de:Hessen-Nassau|de]])の都市[[フランクフルト・アム・マイン]]で生まれる。父は銀行家[[ミヒャエル・フランク]]。母はその妻[[アリーセ・ベッティー・フランク|アリーセ・ベッティー]](旧姓シュテルン)<ref name="ハイル(2003)10">[[#ハイル(2003)|ハイル(2003)、p.10]]</ref><ref name="オランダ(1994)9">[[#オランダ(1994)|『アンネの日記 研究版』(1994)、p.9]]</ref>。 |
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1889年、銀行家ミヒャエル・フランクとアリーセ・ベッティー・シュテルン夫妻の次男として[[ドイツ帝国]]の都市[[フランクフルト・アム・マイン]]で生まれる。裕福な[[ユダヤ人|ユダヤ系]]ドイツ人家庭の生まれであった。兄にローベルト、弟にヘルベルト、妹にヘレーネがいる。[[ギムナジウム]]で学んだ後、優秀な成績で[[アビトゥーア]]に合格した。美術や考古学が得意であったオットーは、1908年に[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]美術史科に入学した。ここで[[アメリカ合衆国]]の[[プリンストン大学]]からの留学生である[[ネーサン・ストラウス (1889-1961)|ネーサン・ストラウス・ジュニア]](Nathan Straus jr)と親交を結んだ。このネーサン・ジュニアは[[ニューヨーク]]の巨大百貨店「[[メイシーズ|メイシー百貨店]]」の所有者[[ネーサン・ストラウス]]([[:en:Nathan Straus]])の御曹司で、ネーサン・ジュニアはオットーに「メイシー百貨店」で職を保証するのでニューヨークへ来ないか、と薦めた。オットーはこの申し出を受けてハイデルベルク大学を中退してニューヨークへ移住することとなった。しかし翌年の1909年には父ミヒャエルが死亡したため、急遽ドイツへ帰国することとなった。ミヒャエルの銀行の所有権は母アリーセに移ったが、銀行の実務の多くをオットーが握ることとなった。1910年からは[[デュッセルドルフ]]にある金属工業会社の経営管理も引き受けることとなった。デュッセルドルフでの経営管理の仕事を主とし、片手間で銀行の経営を見て、ときどきニューヨークへ出張するという毎日が続いた。 |
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母アリーセの実家のシュテルン家はユーデンガッセ([[フランクフルト・ゲットー]])から出た家であり、裕福なユダヤ人一家であった<ref name="リー(2002)33">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.33]]</ref>。一方父ミヒャエルは[[プファルツ]]地方の[[ランダウ]]([[:de:Landau in der Pfalz|de]])出身のユダヤ人であり、1879年にフランクフルトに出てきて、1885年にアリーセと結婚することで成功の足掛かりをつかんだ人物である<ref name="ミュラー(1999)54">[[#ミュラー(1999)|ミュラー(1999)、p.54]]</ref><ref name="リー(2002)35">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.35]]</ref>。[[金融業]]で成功し、「ミヒャエル・フランク銀行(Bankgeschaeft Michael Frank)」を所有・経営した<ref name="リー(2002)36">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.36]]</ref><ref name="オランダ(1991)9">[[#オランダ(1994)|『アンネの日記 研究版』(1994)、p.9]]</ref>。上流階級の仲間入りをしたフランク家は1902年にフランクフルト西部の高級住宅地ヨルダン通り(jordanstraße)4番地へ引っ越した<ref name="ハイル(2003)10"/><ref name="リー(2002)36-37">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.36-37]]</ref>。 |
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オットーは夫妻の次男であり、兄にローベルト、弟にヘルベルト、妹にヘレーネがいる<ref name="リー(2002)36">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.36]]</ref>。 |
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=== 青年期 === |
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フランクフルトの[[ギムナジウム]]で学び、優秀な成績で[[アビトゥーア]]に合格した<ref name="ミュラー(1999)111">[[#ミュラー(1999)|ミュラー(1999)、p.111]]</ref><ref name="リー(2002)38">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.38]]</ref>。美術や考古学が得意であったオットーは、1908年に[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]美術史科に入学した<ref name="リー(2002)39">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.39]]</ref>。ここで[[アメリカ合衆国]]の[[プリンストン大学]]からの留学生である[[ネーサン・ストラウス (1889-1961)|ネーサン・ストラウス・ジュニア]](Nathan Straus jr)と親交を結んだ。このネーサン・ジュニアは[[ニューヨーク]]の巨大百貨店「[[メイシーズ|メイシー百貨店]]」の所有者[[ネーサン・ストラウス]]([[:en:Nathan Straus]])の御曹司で、ネーサン・ジュニアはオットーに「メイシー百貨店」で職を保証するのでニューヨークへ来ないか、と薦めた。オットーはこの申し出を受けてハイデルベルク大学を一学期で中退してニューヨークへ移住することとなった<ref name="リー(2002)39"/><ref name="ハイル(2003)12">[[#ハイル(2003)|ハイル(2003)、p.12]]</ref>。 |
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しかし翌年の1909年秋には父ミヒャエルが死亡したため、急遽ドイツへ帰国することとなった<ref name="オランダ(1994)9"/><ref name="ハイル(2003)13">[[#ハイル(2003)|ハイル(2003)、p.13]]</ref><ref name="リー(2002)39">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.39]]</ref>。ミヒャエルの銀行の所有権は母アリーセに移ったが、銀行の実務の多くをオットーが握ることとなった。1910年からは[[デュッセルドルフ]]にある金属工業会社の経営管理も引き受けることとなった。デュッセルドルフでの経営管理の仕事を主とし、片手間で銀行の経営を見て、ときどきニューヨークへ出張するという毎日が続いた<ref name="リー(2002)39-40">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.39-40]]</ref><ref name="オランダ(1994)9"/>。 |
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=== 第一次世界大戦 === |
=== 第一次世界大戦 === |
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1914年の[[第一次世界大戦]]開戦後もしばらくこういった生活が続いた。しかし |
1914年の[[第一次世界大戦]]開戦後もしばらくこういった生活が続いた。しかし1915年に兄や弟ととも[[ドイツ陸軍|陸軍]]に徴兵された<ref name="リー(2002)40">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.40]]</ref>。オットーは砲兵連隊に配属されて射距離測定員となった<ref name="オランダ(1994)9"/><ref name="リー(2002)40"/>。 |
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1916年には[[ソンムの戦い]]に動員された。ドイツ軍は45万人もの戦死者を出した戦いだったが、オットーは生き残った<ref name="リー(2002)40"/>。1917年2月にオットーは部隊長の推薦を受けて少尉(将校)となる<ref name="リー(2002)42">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.42]]</ref>。1917年後半には[[カンブレー]]でイギリス軍の戦車軍団による[[ヒンデンブルク・ライン]]への攻撃の防衛戦に射距離測定隊の一部隊を指揮して参加した。1918年には偵察活動を評価されて中尉に昇進した<ref name="リー(2002)42"/>。また[[一級鉄十字章]]を受章した<ref name="ミュラー(1999)234">[[#ミュラー(1999)|ミュラー(1999)、p.234]]</ref>。 |
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この戦争中にオットーがドイツ人であることとユダヤ人であることの間に葛藤をした形跡はほとんどない。当時の彼の家族への手紙からはほかの多くのドイツ人兵士たちと同様、祖国ドイツ帝国の勝利を信じ切っていた様子がうかがえる。後世にもオットーはこの時期のことを「当時、ユダヤ人であるという意識が全くなかったとは言えません。ただドイツ人であることの意識の方が強かった。そうでなければ大戦中に将校にも出世していなかっただろうし、そもそもドイツのために戦ってはいません。」と語っている。 |
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この戦争中にオットーがドイツ人であることとユダヤ人であることの間に葛藤をした形跡はほとんどない。当時の彼の家族への手紙からはほかの多くのドイツ人兵士たちと同様、祖国ドイツ帝国の勝利を信じ切っていた様子がうかがえる<ref name="リー(2002)40-41">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.40-41]]</ref>。後世にもオットーはこの時期のことを「当時、ユダヤ人であるという意識が全くなかったとは言えません。ただドイツ人であることの意識の方が強かった。そうでなければ大戦中に将校にも出世していなかっただろうし、そもそもドイツのために戦ってはいません。」と語っている<ref name="リー(2002)42"/>。 |
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=== ドイツ在住時代 === |
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[[第一次世界大戦]]末期、[[ドイツ革命]]が発生してドイツの帝政・王政は崩壊し、さらに新ドイツ共和国政府はドイツの降伏を受け入れた。オットーも兄弟も大きな負傷もなく戦争から生還することができた。しかし戦時中、母アリーセが戦時国債に手を出して失敗しており、さらに戦後のインフレでフランク家の銀行業は大きな打撃を受けた。フランク家は、経営の回復を目指してドイツ国外に活路を求め、1923年に「ミヒャエル・フランク&ゾーネン」の名称で[[オランダ]]の[[アムステルダム]]に支店を設立した。この銀行には[[ヨハンネス・クレイマン]]が雇い入れられて勤めていた。彼は後にオットーたちの隠れ家生活の支援者となる。しかしこの支店も結局うまくいかず、1924年には負債の清算に入った。[[1925年]]5月12日、アーヘンのユダヤ人資産家アブラハム・ホーレンダーの娘[[エーディト・フランク|エーディト・ホーレンダー]]と[[シナゴーグ]]で挙式して結婚した。二人が知り合ったのは銀行業務を通じてだったといい、資産家の娘である彼女の実家からフランク家の銀行への経済支援を期待しての政略結婚であったようだ。しかしフランクとエーディトは気も合った。二人はともに裕福なユダヤ家庭に育ち、芸術や自然の愛好者であった。また両者ともユダヤ人ながらそれほど[[ユダヤ教]]に熱心だったわけではなかった。二人の[[ハネムーン]]は[[イタリア]]旅行であった。二人ははじめフランクフルトのヨールダンシュトラーセにあるオットーの母の家で暮らしていたが、1927年には母元を離れて同じフランクフルトのマルバッハヴェークのアパートへ移住している。一階と二階にまたがる広々とした[[メゾネット]]式アパートだった。[[1926年]]2月16日に長女([[マルゴット・フランク|マルゴット・ベッティー・フランク]])、[[1929年]]6月12日に次女([[アンネ・フランク|アンネリーズ・マリー・フランク]])をさずかった。 |
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ちなみに彼の兄弟も常に最前線で戦い、また彼の母や妹も志願して篤志看護婦として陸軍病院に勤務して負傷兵の看護にあたった。また母は戦時国債をたくさん買いいれるなどしており、フランク家は一家をあげて祖国ドイツのために貢献した<ref name="ハイル(2003)13">[[#ハイル(2003)|ハイル(2003)、p.13]]</ref><ref name="リー(2002)43">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.43]]</ref>。 |
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フランク家の銀行経営は相変わらず軌道に乗っていなかったが、家族に金銭的不自由を掛けるほどではなく、フランク一家は週末にはよく旅行に出かけている。地元の名所遺跡やエーディトの[[アーヘン]]の実家などによく遊びに行っていた。スイスのオットーの従姉妹の別荘にアメリカの友達ネーサン・ストラウス・ジュニア(伯父[[イジドー・ストラウス|イジドー]]が1912年[[タイタニック (客船)|タイタニック号沈没事件]]で死亡し、メイシー百貨店はイジドアの子供たちが継いでいた。ネーサンは代わりに「[[エイブラハム&ストラウス]]」社を経営していた)を招待して休暇を過ごしたりもしている。 |
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=== 帰国と銀行業復帰 === |
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しかし[[ベルリン]]に次いでドイツでユダヤ人人口が多い[[フランクフルト]]は常に[[ナチス]]の狂信的活動の場だった。彼らは『[[シオン賢者の議定書]]』など怪しげな書物をばらまいては[[反ユダヤ主義]]を吹聴して歩いていた。オットーたちのアパートの大家もこの手の怪しげな書物に洗脳された一人だった。おそらくその影響で1931年3月にオットーたちはアパートを出ている。ガングホーファーシュトラーセ24番地の新興住宅地のアパートへ移ることとなった。ここは前のアパートよりは狭かったが、広い裏庭があり、マルゴーとアンネの遊び場にするのにちょうどよかった。しかし[[世界大恐慌]]でフランク家の銀行のオランダ支店が閉鎖し、さらに弟のヘルベルトは外国証券の売買を禁止した法律に違反した容疑で逮捕され、フランクフルトの証券取引場は1931年夏にフランク家の銀行との取引を無期限に停止した。これによりフランク家の銀行は一気に経営が苦しくなってしまった。後にヘルベルトは1933年10月に再審で勝訴し、罰金刑の免除を受けているが、その頃にはもう手遅れであった(銀行は最終的にオットーのオランダ移住後の1934年1月に閉鎖している)。 |
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終戦後に除隊してドイツへ帰国した<ref name="リー(2002)43"/>。オットーも兄弟も大きな負傷をすることなく帰還できた<ref name="リー(2002)43"/>。しかし戦時中に母アリーセが手をだした巨額の戦時国債、[[インフレ]]、外貨取引許認可制度の導入などによってフランク家の銀行業は大きな打撃を受けた<ref name="ハイル(2003)14">[[#ハイル(2003)|ハイル(2003)、p.14]]</ref><ref name="リー(2002)43">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.43]]</ref><ref name="オランダ(1994)10">[[#オランダ(1994)|『アンネの日記 研究版』(1994)、p.10]]</ref>。 |
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フランク家は、経営の回復を目指してドイツ国外に活路を求め、1923年11月に「ミヒャエル・フランク&ゾーネン」の名称で[[オランダ]]の[[アムステルダム]]に支店を設立した<ref name="オランダ(1994)10"/><ref name="ミュラー(1999)75">[[#ミュラー(1999)|ミュラー(1999)、p.75]]</ref><ref name="リー(2002)43">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.43]]</ref>。オットーも同社の経営のためにしばらくアムステルダムへ移住した<ref name="オランダ(1994)10"/>。この銀行には[[ヨハンネス・クレイマン]]が雇用されていた<ref name="リー(2002)43">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.43]]</ref><ref name="オランダ(1994)10"/>。彼は後にオットーたちの隠れ家生活の支援者となる。しかしこの支店も結局うまくいかず、1924年12月には負債の清算に入った<ref name="リー(2002)44">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.44]]</ref><ref name="オランダ(1994)10"/>。 |
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いよいよフランク家はアパートの家賃を払うのが難しくなり、ヨールダンシュトラーセにあるオットーの母の家の同居に戻っている。ただ日常の生活はあまり変わらず、相変わらずフランク家は日帰り旅行や友人や親族の家に遊びに行っている。 |
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=== 結婚後の生活 === |
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[[1925年]]5月12日、アーヘンのユダヤ人資産家アブラハム・ホーレンダーの娘[[エーディト・フランク|エーディト・ホーレンダー]]と[[シナゴーグ]]で挙式して結婚した<ref name="リー(2002)47">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.47]]</ref>。二人が知り合ったのは銀行業務を通じてだったといい、資産家の娘である彼女の実家からフランク家の銀行への経済支援を期待しての政略結婚であったようだ<ref name="リー(2002)46-47">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.46-47]]</ref>。しかしフランクとエーディトは気も合った。二人はともに裕福なユダヤ家庭に育ち、芸術や自然の愛好者であった<ref name="リー(2002)47">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.47]]</ref>。また両者ともユダヤ人ながらそれほど[[ユダヤ教]]に熱心だったわけではなかった。二人の[[ハネムーン]]は[[イタリア]]旅行であった。二人ははじめフランクフルトのヨールダンシュトラーセにあるオットーの母の家で暮らしていたが、1927年には母元を離れて同じフランクフルトのマルバッハヴェークのアパートへ移住している<ref name="リー(2002)49">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.49]]</ref>。[[1926年]]2月16日に長女([[マルゴット・フランク|マルゴット・ベッティー・フランク]])、[[1929年]]6月12日に次女([[アンネ・フランク|アンネリーズ・マリー・フランク]])をさずかった<ref name="オランダ(1994)11">[[#オランダ(1994)|『アンネの日記 研究版』(1994)、p.11]]</ref><ref name="ハイル(2003)15">[[#ハイル(2003)|ハイル(2003)、p.15]]</ref>。 |
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フランク家の銀行経営は相変わらず軌道に乗っていなかったが、家族に金銭的不自由を掛けるほどではなく、フランク一家は週末にはよく旅行に出かけている<ref name="リー(2002)50">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.50]]</ref>。地元の名所遺跡やエーディトの[[アーヘン]]の実家などによく遊びに行っていた。スイスのオットーの従姉妹の別荘にアメリカの友達ネーサン・ストラウス・ジュニア(伯父[[イジドー・ストラウス|イジドー]]が1912年[[タイタニック (客船)|タイタニック号沈没事件]]で死亡し、メイシー百貨店はイジドーの子供たちが継いでいた。ネーサンは代わりに「[[エイブラハム&ストラウス]]」社を経営していた)を招待して休暇を過ごしたりもしている<ref name="リー(2002)50">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.50]]</ref>。 |
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しかし[[ベルリン]]に次いでドイツでユダヤ人人口が多い[[フランクフルト]]は常に[[ナチス]]の狂信的活動の場だった。彼らは『[[シオン賢者の議定書]]』など怪しげな書物をばらまいては[[反ユダヤ主義]]を吹聴して歩いていた。オットーたちのアパートの大家もこの手の怪しげな書物に洗脳された一人だった。おそらくその影響で1931年3月にオットーたちはアパートを出ている。ガングホーファーシュトラーセ24番地の新興住宅地のアパートへ移ることとなった<ref name="リー(2002)58">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.58]]</ref>。ここは前のアパートよりは狭かったが、広い裏庭があり、マルゴーとアンネの遊び場にするのにちょうどよかった<ref name="リー(2002)58"/>。 |
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しかし[[世界大恐慌]]でフランク家の銀行のオランダ支店が閉鎖し、さらに弟のヘルベルトは外国証券の売買を禁止した法律に違反した容疑で逮捕され、フランクフルトの証券取引場は1931年夏にフランク家の銀行との取引を無期限に停止した。これによりフランク家の銀行は一気に経営が苦しくなってしまった<ref name="オランダ(1994)11"/><ref name="リー(2002)60">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.60]]</ref>。後にヘルベルトは1933年10月に再審で勝訴し、罰金刑の免除を受けているが、その頃にはもう手遅れであった(銀行は最終的にオットーのオランダ移住後の1934年1月に閉鎖している<ref name="リー(2002)66">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.66]]</ref>)。いよいよフランク家はアパートの家賃を払うのが難しくなり、ヨールダンシュトラーセにあるオットーの母の家の同居に戻っている<ref name="リー(2002)60"/><ref name="オランダ(1994)12">[[#オランダ(1994)|『アンネの日記 研究版』(1994)、p.12]]</ref>。ただ日常の生活はあまり変わらず、相変わらずフランク家は日帰り旅行や友人や親族の家に遊びに行っている<ref name="リー(2002)60"/>。 |
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=== オランダ亡命 === |
=== オランダ亡命 === |
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1933年1月、ナチス党党首[[アドルフ・ヒトラー]]が |
1933年1月、ナチス党党首[[アドルフ・ヒトラー]]がドイツ首相に任命された。オットーはラジオ放送を通じてこれを知った<ref name="リー(2002)62">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.62]]</ref>。同年のフランクフルト市議会選挙もナチス党が圧勝した。フランクフルト市庁舎では[[ハーケンクロイツ]]が壁いっぱいに掲げられ、ナチ党員が集まって「ユダヤ人は出ていけ」などと絶叫しながら[[ナチス式敬礼]]をして気勢をあげていた<ref name="リー(2002)63">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.63]]</ref>。 |
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狂気に包まれつつあるドイツやフランクフルトにこれ以上残るのは危険と考えたオットーは家族をより安全な国に逃がそうと決めた。[[スイス]]にいる義弟エーリヒ・エリーアス(ジャム作りに使う[[ペクチン]]を製造する業者『ポモジン工業』の[[子会社]]『オペクタ商会』のスイス支社長)は、オットーに[[オランダ]]の[[アムステルダム]]に亡命して『オペクタ商会』のアムステルダム支社を起こさないかと薦めた |
狂気に包まれつつあるドイツやフランクフルトにこれ以上残るのは危険と考えたオットーは家族をより安全な国に逃がそうと決めた。[[スイス]]にいる義弟[[エーリヒ・エリーアス]](ジャム作りに使う[[ペクチン]]を製造する業者『ポモジン工業』の[[子会社]]『オペクタ商会』のスイス支社長)は、オットーに[[オランダ]]の[[アムステルダム]]に亡命して『オペクタ商会』のアムステルダム支社を起こさないかと薦めた<ref name="リー(2002)66">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.66]]</ref>。 |
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オットーはかつてアムステルダムで暮らしていた事があり、ある程度の人脈があったこと、またオランダが比較的難民に寛大であることなどを考慮してこの申し出をありがたく受けることとした<ref name="リー(2002)66-67">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.66-67]]</ref>。1933年夏に故国ドイツを離れ、まず仕事と住居を安定させるため、単身アムステルダム市へと移住した(その間エーディトや娘達はアーヘンのエーディトの実家で暮らしていた)<ref name="ミュラー(1999)79">[[#ミュラー(1999)|ミュラー(1999)、p.79]]</ref><ref name="リー(2002)67">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.67]]</ref><ref name="オランダ(1994)12">[[#オランダ(1994)|『アンネの日記 研究版』(1994)、p.12]]</ref>。 |
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1938年にはアムステルダムにもう一つの会社『ペクタコン商会』(Pectacon)を創立している。[[ソーセージ]]の製造のための[[香辛料]]を扱う会社であった。銀行業務の時からの付き合いの[[ヨハンネス・クレイマン]]を『オペクタ商会』と『ペクタコン商会』の[[監査役]]に迎え、また同じくドイツから亡命してきたユダヤ人でソーセージのスパイス商人だった[[ヘルマン・ファン・ペルス]]をペクタコン商会の相談役に迎えた。ファン・ペルス一家はフランク一家の近くに住んでおり、家族ぐるみの付き合いをして、後に隠れ家でフランク一家と同居することとなる。1939年3月にはアーヘンにいたアンネの祖母ローザ・ホーレンダー(当時72歳)もアムステルダムのフランク家へ移ってきた。アンネやマルゴーは、オランダの学校へ通うようになり、一家には再び平穏が戻ってきた。 |
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ここで『ポモジン工業』の子会社としての『オペクタ商会』を開設するはずだったが、取締役に指定した人物との間に問題が生じたので、結局、オットーはエーリヒ・エリーアスから1万5000ギルダーの無利子貸付を受けて自ら会社を起こすことにした<ref name="リー(2002)67"/><ref name="ミュラー(1999)80">[[#ミュラー(1999)|ミュラー(1999)、p.80]]</ref>。「ペクチンをもっぱら[[ケルン]]の『オペクタ商会』からのみから買い付け、『ポモジン工業』に利益の2.5%を支払う」という契約で代わりに『オペクタ商会』の商標を使う権利をもらい、『ポモジン工業』の子会社ではない『オペクタ商会』を経営することになった<ref name="リー(2002)67"/><ref name="オランダ(1994)13">[[#オランダ(1994)|『アンネの日記 研究版』(1994)、p.13]]</ref>。[[ヴィクトール・クーフレル]]や[[ミープ・ヒース|ミープ・ザントルーシッツ]]など信用のできる人々を雇い入れ(彼らは後に隠れ家支援メンバーとなる)、仕事は軌道に乗ってきた。オットーはその間、一家の住居先も探した。エーディトもアーヘンとアムステルダムを行き来して夫の住居探しを手伝った。オットーたちは[[アムステルダム・ザウト]]([[:nl:Amsterdam-Zuid|Amsterdam-Zuid]])の新開発地区に一家四人で暮らすのにちょうどいいアパートを見つけ、そこを購入した。1933年12月にまずエーディトとマルゴット、続いて1934年2月にはアンネもそこへ移住していった<ref name="オランダ(1994)13-14">[[#オランダ(1994)|『アンネの日記 研究版』(1994)、p.13-14]]</ref><ref name="リー(2002)72">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.72]]</ref>。 |
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=== オランダでの生活 === |
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1937年には後の隠れ家支援メンバーの一人である[[ベップ・フォスキュイル]]を事務員・タイピストとして雇用した<ref name="オランダ(1994)17">[[#オランダ(1994)|『アンネの日記 研究版』(1994)、p.17]]</ref><ref name="リー(2002)106">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.106]]</ref>。1938年にはアムステルダムにもう一つの会社『ペクタコン商会』(Pectacon)を創立している。[[ソーセージ]]の製造のための[[香辛料]]を扱う会社であった。銀行業務の時からの付き合いの[[ヨハンネス・クレイマン]]を『オペクタ商会』と『ペクタコン商会』の[[監査役]]に迎え、また同じくドイツから亡命してきたユダヤ人でソーセージのスパイス商人だった[[ヘルマン・ファン・ペルス]]をペクタコン商会の相談役に迎えた<ref name="オランダ(1994)17">[[#オランダ(1994)|『アンネの日記 研究版』(1994)、p.17]]</ref><ref name="リー(2002)101">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.101]]</ref>。ファン・ペルス一家はフランク一家の近くに住んでおり、家族ぐるみの付き合いをして、後に隠れ家でフランク一家と同居することとなる。1939年3月にはアーヘンにいたアンネの祖母ローザ・ホーレンダー(当時72歳)もアムステルダムのフランク家へ移ってきた。アンネやマルゴーは、オランダの学校へ通うようになり、一家には再び平穏が戻ってきた。 |
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=== 隠れ家生活へ === |
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しかしヒトラーが全ヨーロッパの支配を狙っているという噂はたえず、オットー・フランクは、ヨーロッパから離れることを考えていた。そして1940年には実際にオランダ全土がドイツ軍に占領され、ナチス党幹部の[[アルトゥール・ザイス=インクヴァルト]]がオランダ総督として赴任してくる事態となった。 |
しかしヒトラーが全ヨーロッパの支配を狙っているという噂はたえず、オットー・フランクは、ヨーロッパから離れることを考えていた。そして1940年には実際にオランダ全土がドイツ軍に占領され、ナチス党幹部の[[アルトゥール・ザイス=インクヴァルト]]がオランダ総督として赴任してくる事態となった。 |
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オランダでも反ユダヤ立法が本格的に始まり、アンネとマルゴーはユダヤ人学校へと移された。さらに[[1942年]]7月には長女マルゴーに強制収容所への召喚状が届いたため、フランクは自分が経営していたアムステルダム・オペクタ商会の建物の屋根裏で家族とともに隠れ家生活に入る。 |
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2週間後、この隠れ家にファン・ダーン一家([[ヘルマン・ファン・ペルス|ヘルマン]]、[[アウグステ・ファン・ペルス|アウグステ]]、[[ペーター・ファン・ペルス|ペーター]])が加わり、11月には[[フリッツ・プフェファー]](アンネの日記ではMr. Dussel)が加わった。この隠れ家生活はフランクの同僚で1923年以来の知人である[[ヨハンネス・クレイマン]]([[:en:Johannes Kleiman|Johannes Kleiman]])、および[[ミープ・ヒース]]、[[:en:Victor Kugler|ヴィクター・クーフレル]]、[[:en:Bep Voskuijl|エリーザベト(ベップ)・フォスキュイル]]に支えられていた。 |
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1942年6月12日(13回目のアンネの誕生日)、オットーはプレゼントとしてサイン帳をアンネに贈った。表紙全体に赤と白のチェック模様が入っている女の子らしいサイン帳であった<ref name="リー(2002)205">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.205]]</ref>。アンネはこれを最初の日記帳として使用することとなる。 |
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隠れ家生活は2年間続いたが、[[1944年]]8月匿名の密告によって、フランクと家族、同居していた4人、およびヨハンネス・クレイマンは[[親衛隊 (ナチス)|ナチス親衛隊]][[親衛隊曹長|SS曹長]][[カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー]]に逮捕された。ユダヤ系であるフランクらはオランダ北東[[ヴェステルボルク通過収容所]]を経て[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所|アウシュヴィッツ強制収容所]]に送られた。 フランクは妻子と引き離されて男性棟に収容され、[[1945年]]1月27日病棟にいたところを[[赤軍|ソビエト赤軍]]により解放された。フランクはオランダに戻り、逮捕された家族と友人の行方を捜した。1945年末までに、隠れ家で一緒に生活した8人のうち、生き残ったのは自分ひとりであったことを知る。 |
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=== 隠れ家生活へ === |
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オランダでも反ユダヤ立法が本格的に始まり、アンネとマルゴーはユダヤ人学校へと移された。さらに[[1942年]]7月には長女マルゴーに強制労働収容所への召喚状が届いたため、フランクは自分が経営していたアムステルダム・オペクタ商会の建物の屋根裏で家族とともに隠れ家生活に入る。 |
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2週間後、この隠れ家にファン・ダーン一家([[ヘルマン・ファン・ペルス|ヘルマン]]、[[アウグステ・ファン・ペルス|アウグステ]]、[[ペーター・ファン・ペルス|ペーター]])が加わり、11月には[[フリッツ・プフェファー]]が加わった。この隠れ家生活は[[ヨハンネス・クレイマン]]、および[[ミープ・ヒース]]、[[ヴィクトール・クーフレル]]、[[ベップ・フォスキュイル]]に支えられていた。 |
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=== 逮捕、アウシュヴィッツ強制収容所へ === |
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隠れ家生活は2年間続いたが、[[1944年]]8月匿名の密告によって、フランクと家族、同居していた4人、およびクーフレルとクレイマンは[[親衛隊 (ナチス)|ナチス親衛隊]][[親衛隊曹長|SS曹長]][[カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー]]に逮捕された。 |
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オットーら隠れ家メンバー8人はオランダ北東[[ヴェステルボルク通過収容所]]に1カ月弱収容された後、[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所]]へ送られた。1944年9月5日から6日にかけての深夜にビルケナウ強制収容所に到着している<ref name="ハイル(2003)15">[[#ハイル(2003)|ハイル(2003)、p.15]]</ref>。到着後すぐに男女に分けられ、アンネ・マルゴー・エーディトと引き離された。彼女らはビルケナウ収容所に、オットーは3キロ離れたアウシュヴィッツ収容所に収容された。この時がオットーが妻と娘の姿を見た最後となった。 |
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オットーはファン・ペルス父子やプフェファーと一緒にアウシュヴィッツ収容所の第2ブロックに収容された。過酷な野外労働と少ない食料により1.8メートルの身長のオットーの体重が52キロまで下がってしまった<ref name="ミュラー(1999)362">[[#ミュラー(1999)|ミュラー(1999)、p.362]]</ref>。[[ヘルマン・ファン・ペルス]]はやがてガス室に送られたが、その息子[[ペーター・ファン・ペルス]]はオットーの面倒を献身的に見たという<ref name="ミュラー(1999)362"/>。しかし比較的健康だったペーターは1945年1月17日に別の収容所へ移された<ref name="ミュラー(1999)362"/>。 |
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=== 解放 === |
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[[1945年]]1月27日アウシュヴィッツの病棟にいたところを[[赤軍|ソビエト赤軍]]により解放された。赤軍は病人とそれ以外の者を隔離し、オットーもこれまでとは別のバラックに移された<ref name="リー(2002)373">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.373]]</ref>。2月23日にスイスにいる母親に手紙を書くまでに病状が回復した。その手紙の中でオットーは「エーディトと子供たちの所在は分かりません。1944年9月5日に別れたきり、わずかにドイツに移送されたという噂を聞くだけです。三人とも無事でいてくてることを願うだけです」と書いている<ref name="リー(2002)375">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.375]]</ref>。 |
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その後もアウシュヴィッツで療養しながら手紙を書き続けていたオットーだったが、3月になってようやく収容所を出ることが認められ、赤軍のトラックに乗ってポーランド南部[[カトヴィツェ]]へ移動した<ref name="リー(2002)381">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.381]]</ref>。そこでヴェステルボルク収容所で一緒だった[[ローザ・ド・ヴィンテル]]と再会した。彼女はビルケナウ収容所でアンネ・マルゴー・エーディトと一緒にいたので、エーディトが死んだことを知っていた(アンネとマルゴーについては[[ベルゲン・ベルゼン強制収容所|ベルゲン=ベルゼン]]に移送されたため何も知らなかった)。エーディトの死を知らされたオットーは、ショックを受けながらも娘2人が生きていることに望みをかけてアムステルダムへ帰る決意をした<ref name="リー(2002)385">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.385]]</ref>。 |
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4月半ばにはオランダ北東部の大半は解放されていた<ref name="リー(2002)399">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.399]]</ref>。オットーは[[チェルノフツィ]]([[ウクライナ]]西部の都市)を経由して4月25日に[[オデッサ]]に到着した<ref name="リー(2002)400">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.400]]</ref><ref name="ミュラー(1999)398">[[#ミュラー(1999)|ミュラー(1999)、p.398]]</ref>。そこから[[ニュージーランド]]船に乗って5月21日に船出し、5月27日にフランスの[[マルセイユ]]に入港した<ref name="リー(2002)401">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.401]]</ref>。5月28日朝にオランダ行きの列車に乗り込んだ<ref name="リー(2002)401">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.401]]</ref>。 |
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=== アムステルダム帰還 === |
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1945年6月3日にようやくアムステルダムに帰還できた<ref name="ミュラー(1999)398">[[#ミュラー(1999)|ミュラー(1999)、p.398]]</ref><ref name="オランダ(1994)69">[[#オランダ(1994)|『アンネの日記 研究版』(1994)、p.69]]</ref>。オットーは親戚や友人の多さのおかげで強制収容所から解放されたユダヤ人の中では経済的には恵まれた方だった。親戚が小包やお金を贈ってくれた<ref name="ミュラー(1999)400">[[#ミュラー(1999)|ミュラー(1999)、p.400]]</ref>。ニューヨークのネーサン・ストラウスjrも送金してくれた<ref name="リー(2002)428">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.428]]</ref>。また住居を失ったオットーのために[[ミープ・ヒース]]と[[ヤン・ヒース]]夫妻が自宅に同居させてくれ、プリンセンフラハト通りの会社の社業にも復帰できた<ref name="リー(2002)403">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.403]]</ref>。[[ヴィクトール・クーフレル]]とともに会社の[[取締役]]に復帰した(オットーとクーフレルは1955年に会社を売却するまで経営を続けた)<ref name="オランダ(1994)62">[[#オランダ(1994)|『アンネの日記 研究版』(1994)、p.62]]</ref> |
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オットーは仕事をしながら娘たちの情報を探り続けた<ref name="リー(2002)411">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.411]]</ref>。そんな中、1945年7月にベルゲン=ベルゼンでアンネやマルゴーと一緒にいた囚人ヤニー・ブリレスレイペルがオランダ赤十字社からの行方不明者に関する調査に対してアンネとマルゴーの死亡を報告した<ref name="リー(2002)412">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.412]]</ref>。これを知ったオットーはヤニーに直接面会し、アンネとマルゴーについて聞き質した。彼女の口から改めてアンネたちの死を聞かされたオットーの顔は蒼白になり、椅子にどさりと崩れ落ちたという<ref name="リー(2002)412">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.412]]</ref>。7月18日のことだったという<ref name="ミュラー(1999)399">[[#ミュラー(1999)|ミュラー(1999)、p.399]]</ref>。 |
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ロンドンにいる兄ロベルトから「短い間とはいえ家族で幸せに暮らせたことは、お前にとってせめてもの慰めと思う。彼女たちはもう苦しんではいない。生きること、絶望しないこと、愛する者たちの思い出を大事にすること、それがお前の役目だ。こんなに辛い目にあってもお前は怒りや憎しみの言葉を口にしない。本当に感心している。」という手紙を贈られた<ref name="ミュラー(1999)399">[[#ミュラー(1999)|ミュラー(1999)、p.399]]</ref>。 |
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=== アンネの日記 === |
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ミープはアンネ本人に渡そうと思っていた彼女の日記をオットーに渡すことを決意した。塞ぎこんでいたオットーに「アンネのお父さんへの形見です」と言って日記を渡したという<ref name="リー(2002)413">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.413]]</ref>。日記はオットーがアンネに贈った手帳とノート数冊、ばらの用紙327枚から成っていた<ref name="ミュラー(1999)401">[[#ミュラー(1999)|ミュラー(1999)、p.401]]</ref>。手帳とノートはアンネがその日付の日に書いたオリジナルの日記、ばらの用紙はアンネが後から書き直していた日記である(アンネは日記の出版を考えていたので途中から日記の書き直し作業をしていた。1944年3月29日の記述まで書き直しが及んでいる。オランダ国立戦時資料研究所編『アンネの日記 研究版』ではオリジナルをaテキスト、書き直した物をbテキストと呼んでいる)<ref name="オランダ(1994)69"/>。 |
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アンネの日記を読みふけったオットーはこれを親戚や友人たちに読ませたいと考え、日記をタイプし直した。ばらの用紙の改訂版の方を土台にしてドイツ語に翻訳し、家族の悪口や存命中の人物を不愉快にさせるような記述、またアンネの個人的なこと、興味を持たれぬであろう記述などを削除していった(『アンネの日記 研究版』はこのオットーによる編集が加えられた物をcテキストと読んでいる)<ref name="オランダ(1994)69"/><ref name="ミュラー(1999)401"/><ref name="リー(2002)427">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.427]]</ref>。さらに友人の劇作家[[アルベルト・カウフェルン]]と彼の妻イーサに見てもらって文法上の誤りを修正して清書してもらった。こうしてできた物が親戚や友人に配られた<ref name="ミュラー(1999)402">[[#ミュラー(1999)|ミュラー(1999)、p.402]]</ref>。 |
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これを読んだ友人の[[アムステルダム大学]]講師[[クルト・バシュヴィッツ]]はオットーに日記の出版を薦めた<ref name="ミュラー(1999)402"/><ref name="オランダ(1994)71">[[#オランダ(1994)|『アンネの日記 研究版』(1994)、p.71]]</ref>。アンネは日記の出版を夢見ていたからオットーにも公刊したい気持ちはあった。友人の[[ヴェルナー・カーン]](百科事典編集者)が出版してくれる業者を探し回ってくれたが、簡単には見つからなかった<ref name="オランダ(1994)74">[[#オランダ(1994)|『アンネの日記 研究版』(1994)、p.74]]</ref>。しかしカーンの上司である百科事典編集責任者の歴史家[[ヤン・ロメイン]]がその原稿を読んで、[[1946年]]4月3日の「[[ヘト・パロール]]」([[:nl:Het Parool|nl]])紙に「一少女の声」と題するレビューを書いた<ref name="ミュラー(1999)402"/><ref name="リー(2002)434">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.434]]</ref>。これがきっかけでアムステルダムのコンタクト社(Contact Publishing)が興味を持ち、1946年夏に同社が出版を引き受けることとなった<ref name="リー(2002)436">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.436]]</ref>。 |
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=== 日記を世界に伝える === |
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[[1947年]]6月25日、オランダ語による初版が''Het Achterhuis''(後ろの家)というタイトルで出版された<ref name="ミュラー(1999)402"/><ref name="リー(2002)438">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.438]]</ref>。この成功を受けて、1950年には[[ドイツ語]]版''Tagebuch der Anne Frank''(アンネ・フランクの日記)と[[フランス語]]版''Le Journal d'Anne Frank''(アンネ・フランクの日記)が出版された。ついで1952年には[[英語]]版''The Diary of a Young Girl''(少女の日記)と[[日本語]]版『光ほのかに アンネの日記』が出版された<ref name="オランダ(1994)81">[[#オランダ(1994)|『アンネの日記 研究版』(1994)、p.81-82]]</ref><ref name="リー(2002)440-442">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.440-442]]</ref>。[[イギリス]]では初めあまり売れなかったが(イギリスでは1954年に[[ペーパーバック]]版になった後に売れるようになった)、[[西ドイツ]]、[[フランス]]、[[アメリカ]]、[[日本]]では発売とともに好調な売れ行きを示した<ref name="リー(2002)440-442">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.440-442]]</ref>。それにつづいて[[イタリア]]、[[スイス]]、[[北欧]]諸国、[[スペイン]]、[[ソ連]]、[[東ドイツ]]、[[南米]]諸国、[[インド]]、[[韓国]]、[[台湾]]、[[タイ]]、[[インドネシア]]などでも翻訳版が出版された<ref name="オランダ(1994)82">[[#オランダ(1994)|『アンネの日記 研究版』(1994)、p.82]]</ref>。 |
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1955年には『アンネの日記』がニューヨークで舞台化された<ref name="リー(2002)443">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.443]]</ref>。さらに1957年には[[20世紀FOX]]によって映画化されている([[アンネの日記 (1959年の映画)|アンネの日記]]([[:en:The Diary of Anne Frank (1959 film)|en]]))<ref name="リー(2002)446">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.446]]</ref>。 |
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[[1957年]]に隠れ家のある建物が取り壊されそうになった際に建物の保存のために「アンネ・フランク財団」(在アムステルダム)が設立された。財団は一般からの寄付に支えられて、この建物とその周辺を買収し、[[1960年]]5月3日に博物館「[[アンネ・フランクの家]]」として公開した。オットーは様々な民族や宗教の若者の交流を促進して不寛容や差別が防止されることを期待してアンネ・フランク財団青少年センターの設立を支援し、1964年までその初代会長を務めた<ref name="ミュラー(1999)403">[[#ミュラー(1999)|ミュラー(1999)、p.403]]</ref>。 |
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オットーはアンネの日記について「これは戦争文学ではありません。戦争はこの本の背景でしかないのです。同様にこれはユダヤ人の本でもありません。ユダヤ的世界やユダヤ人の心情・境遇が背景にはなっていますが。」と述べ、時代や人種を問わない普遍的なものであることを語っている<ref name="リー(2002)442">[[#リー(2002)|リー(2002)、p.442]]</ref>。オットーは死ぬまで、アンネ・フランクの残した寛容と思いやりのメッセージを世界中に広め続けた。 |
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=== 戦後 === |
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隠れ家が襲われたあと、アンネの日記や書いていた文書はミープ・ヒースが見つけて保管していたが、1945年夏、アンネの死が確認されたあとにオットー・フランクに渡された<ref> [新聞記事]毎日新聞「アンネ・フランク50年の旅 1 : 連行の瞬間 ミープ・ヒースさん 残った日記大事にしまった」 1995.03.31. [http://winet.nwec.jp/opac/disp-query?mode=2&con1=3&kywd1=%E3%82%AE%E3%83%BC%E3%82%B9%20%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%97&con2=3&con3=4&disp=3] |
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</ref>。 |
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フランクはしばらくは日記を読まなかったが、スイスに住む親族のためにオランダ語から転写し始めた。やがてフランクはアンネの書いたものを公刊するようにと説得を受ける。これらはナチの迫害を受けた多くの人々の経験を明らかにするものだからというのである。フランクは日記をタイプして原稿をまとめ、家族のプライバシー上差しさわりがある、あるいは一般読者に見せるには平凡すぎると思った部分を省略した。オランダの歴史家[[ヤン・ロメイン]]が原稿を読んで、[[1946年]]4月3日のHet Parool紙にレビューを書いた。これがアムステルダムのコンタクト社(Contact Publishing)の注意をひき、1946年夏、同社が出版を引き受けることとなった。 |
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=== スイス移住と死去 === |
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[[1947年]]6月25日、オランダ語による初版が''[[The Diary of a Young Girl|Het Achterhuis]]''(後ろの家)というタイトルで出版された。この成功を受けて、1952年には英語による翻訳版が出版され、その後の舞台化、映画化につながった。 |
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オットーは1949年にオランダ国籍を取得していたが、1952年には母と姉がいる[[スイス]]の[[バーゼル]]へ移住した<ref name="オランダ(1994)62">[[#オランダ(1994)|『アンネの日記 研究版』(1994)、p.62]]</ref>。 |
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1953年11月10日には[[エルフリーデ・ガイリンガー=マルコヴィッツ]](Elfriede Geiringer-Markovits)と再婚した。彼女もアムステルダム・メルヴェデプレインで暮らしていたユダヤ人であり、戦時中にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られ、そこで夫と息子を失った<ref name="ミュラー(1999)403">[[#ミュラー(1999)|ミュラー(1999)、p.403]]</ref>。メルヴェデプレイン在住時代にはガイリンガー=マルコヴィッツ家とフランク家はあまり面識がなかったのだが、アウシュヴィッツから解放された後、アムステルダムまでの帰路にオットーと親しくなった<ref name="ミュラー(1999)404">[[#ミュラー(1999)|ミュラー(1999)、p.404]]</ref>。 |
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フランクは、アムステルダムでの隣人で、同じくアウシュビッツを生き延びたエルフリーデ・ガイリンガー=マルコヴィッツ(Elfriede Geiringer-Markovits、[[1905年]] – [[1998年]])と[[1953年]]11月10日アムステルダムで再婚し、[[スイス]]の[[バーゼル]]に移り住んで家庭を持った。 |
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1962年からはエルフリーデとともにバーゼル郊外の[[ビルスフェルデン]]に移住した<ref name="ミュラー(1999)404"/>。 |
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戦時中に住んでいた隠れ家のある建物が取り壊し命令を受けた時、<!--フランクとヨハンネス・クレイマンは←helpしただけとのこと-->建物の保全・維持と一般公開を目的として「アンネ・フランク財団」が[[1957年]]5月3日に設立された。財団は一般からの寄付に支えられて、この建物とその周辺を買収し、[[1960年]]5月3日に博物館として公開した。 |
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オットーは1980年8月19日に死去した。1963年にスイスの法律に基づいて創設した公共財団「アンネ・フランク財団」(在バーゼル)がオットーの包括相続人となっており、『アンネの日記』に関する権利を相続した。アンネの日記のaテキスト(手帳、ノート)とbテキスト(ばらの用紙)はオランダ政府に遺贈されている<ref name="ミュラー(1999)404"/>。 |
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オットー・フランクは死ぬまで、アンネ・フランクの残した寛容と思いやりのメッセージを世界中に広め続けた。 |
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== 関連項目 == |
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== 脚注 == |
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<references/> |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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*{{Cite book|和書|author=[[マティアス・ハイル]]著|translator=[[松本みどり (翻訳家)|松本みどり]]|year=2003|title=永遠のアンネ・フランク|publisher=[[集英社]]|isbn=978-4887241923|ref=ハイル(2003)}} |
|||
*[[メリッサ・ミュラー]]著、[[畔上司]]訳、『アンネの伝記』、1999年、文藝春秋、ISBN 978-4163549705 |
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* |
*{{Cite book|和書|author=[[メリッサ・ミュラー]]著|translator=[[畔上司]]|year=1999|title=アンネの伝記|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4163549705|ref=ミュラー(1999)}} |
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*[[キャロル・アン・リー]]著 |
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*{{Cite book|和書|editor=[[オランダ国立戦時資料研究所]]編|translator=[[深町真理子]]|year=1994|title=アンネの日記―研究版|publisher=文藝春秋|isbn=978-4163495903|ref=オランダ(1994)}} |
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2011年7月18日 (月) 18:21時点における版
オットー・ハインリッヒ・フランク(Otto Heinrich Frank、1889年5月12日 - 1980年8月19日)は、『アンネの日記』で知られるアンネ・フランクとその姉マルゴット・フランクの父親である。アンネの死後の1947年、彼女の日記を出版した。
生涯
生まれ
1889年、ドイツ帝国領邦プロイセン王国ヘッセン=ナッサウ県(de)の都市フランクフルト・アム・マインで生まれる。父は銀行家ミヒャエル・フランク。母はその妻アリーセ・ベッティー(旧姓シュテルン)[1][2]。
母アリーセの実家のシュテルン家はユーデンガッセ(フランクフルト・ゲットー)から出た家であり、裕福なユダヤ人一家であった[3]。一方父ミヒャエルはプファルツ地方のランダウ(de)出身のユダヤ人であり、1879年にフランクフルトに出てきて、1885年にアリーセと結婚することで成功の足掛かりをつかんだ人物である[4][5]。金融業で成功し、「ミヒャエル・フランク銀行(Bankgeschaeft Michael Frank)」を所有・経営した[6][7]。上流階級の仲間入りをしたフランク家は1902年にフランクフルト西部の高級住宅地ヨルダン通り(jordanstraße)4番地へ引っ越した[1][8]。
オットーは夫妻の次男であり、兄にローベルト、弟にヘルベルト、妹にヘレーネがいる[6]。
青年期
フランクフルトのギムナジウムで学び、優秀な成績でアビトゥーアに合格した[9][10]。美術や考古学が得意であったオットーは、1908年にハイデルベルク大学美術史科に入学した[11]。ここでアメリカ合衆国のプリンストン大学からの留学生であるネーサン・ストラウス・ジュニア(Nathan Straus jr)と親交を結んだ。このネーサン・ジュニアはニューヨークの巨大百貨店「メイシー百貨店」の所有者ネーサン・ストラウス(en:Nathan Straus)の御曹司で、ネーサン・ジュニアはオットーに「メイシー百貨店」で職を保証するのでニューヨークへ来ないか、と薦めた。オットーはこの申し出を受けてハイデルベルク大学を一学期で中退してニューヨークへ移住することとなった[11][12]。
しかし翌年の1909年秋には父ミヒャエルが死亡したため、急遽ドイツへ帰国することとなった[2][13][11]。ミヒャエルの銀行の所有権は母アリーセに移ったが、銀行の実務の多くをオットーが握ることとなった。1910年からはデュッセルドルフにある金属工業会社の経営管理も引き受けることとなった。デュッセルドルフでの経営管理の仕事を主とし、片手間で銀行の経営を見て、ときどきニューヨークへ出張するという毎日が続いた[14][2]。
第一次世界大戦
1914年の第一次世界大戦開戦後もしばらくこういった生活が続いた。しかし1915年に兄や弟ととも陸軍に徴兵された[15]。オットーは砲兵連隊に配属されて射距離測定員となった[2][15]。
1916年にはソンムの戦いに動員された。ドイツ軍は45万人もの戦死者を出した戦いだったが、オットーは生き残った[15]。1917年2月にオットーは部隊長の推薦を受けて少尉(将校)となる[16]。1917年後半にはカンブレーでイギリス軍の戦車軍団によるヒンデンブルク・ラインへの攻撃の防衛戦に射距離測定隊の一部隊を指揮して参加した。1918年には偵察活動を評価されて中尉に昇進した[16]。また一級鉄十字章を受章した[17]。
この戦争中にオットーがドイツ人であることとユダヤ人であることの間に葛藤をした形跡はほとんどない。当時の彼の家族への手紙からはほかの多くのドイツ人兵士たちと同様、祖国ドイツ帝国の勝利を信じ切っていた様子がうかがえる[18]。後世にもオットーはこの時期のことを「当時、ユダヤ人であるという意識が全くなかったとは言えません。ただドイツ人であることの意識の方が強かった。そうでなければ大戦中に将校にも出世していなかっただろうし、そもそもドイツのために戦ってはいません。」と語っている[16]。
ちなみに彼の兄弟も常に最前線で戦い、また彼の母や妹も志願して篤志看護婦として陸軍病院に勤務して負傷兵の看護にあたった。また母は戦時国債をたくさん買いいれるなどしており、フランク家は一家をあげて祖国ドイツのために貢献した[13][19]。
帰国と銀行業復帰
終戦後に除隊してドイツへ帰国した[19]。オットーも兄弟も大きな負傷をすることなく帰還できた[19]。しかし戦時中に母アリーセが手をだした巨額の戦時国債、インフレ、外貨取引許認可制度の導入などによってフランク家の銀行業は大きな打撃を受けた[20][19][21]。
フランク家は、経営の回復を目指してドイツ国外に活路を求め、1923年11月に「ミヒャエル・フランク&ゾーネン」の名称でオランダのアムステルダムに支店を設立した[21][22][19]。オットーも同社の経営のためにしばらくアムステルダムへ移住した[21]。この銀行にはヨハンネス・クレイマンが雇用されていた[19][21]。彼は後にオットーたちの隠れ家生活の支援者となる。しかしこの支店も結局うまくいかず、1924年12月には負債の清算に入った[23][21]。
結婚後の生活
1925年5月12日、アーヘンのユダヤ人資産家アブラハム・ホーレンダーの娘エーディト・ホーレンダーとシナゴーグで挙式して結婚した[24]。二人が知り合ったのは銀行業務を通じてだったといい、資産家の娘である彼女の実家からフランク家の銀行への経済支援を期待しての政略結婚であったようだ[25]。しかしフランクとエーディトは気も合った。二人はともに裕福なユダヤ家庭に育ち、芸術や自然の愛好者であった[24]。また両者ともユダヤ人ながらそれほどユダヤ教に熱心だったわけではなかった。二人のハネムーンはイタリア旅行であった。二人ははじめフランクフルトのヨールダンシュトラーセにあるオットーの母の家で暮らしていたが、1927年には母元を離れて同じフランクフルトのマルバッハヴェークのアパートへ移住している[26]。1926年2月16日に長女(マルゴット・ベッティー・フランク)、1929年6月12日に次女(アンネリーズ・マリー・フランク)をさずかった[27][28]。
フランク家の銀行経営は相変わらず軌道に乗っていなかったが、家族に金銭的不自由を掛けるほどではなく、フランク一家は週末にはよく旅行に出かけている[29]。地元の名所遺跡やエーディトのアーヘンの実家などによく遊びに行っていた。スイスのオットーの従姉妹の別荘にアメリカの友達ネーサン・ストラウス・ジュニア(伯父イジドーが1912年タイタニック号沈没事件で死亡し、メイシー百貨店はイジドーの子供たちが継いでいた。ネーサンは代わりに「エイブラハム&ストラウス」社を経営していた)を招待して休暇を過ごしたりもしている[29]。
しかしベルリンに次いでドイツでユダヤ人人口が多いフランクフルトは常にナチスの狂信的活動の場だった。彼らは『シオン賢者の議定書』など怪しげな書物をばらまいては反ユダヤ主義を吹聴して歩いていた。オットーたちのアパートの大家もこの手の怪しげな書物に洗脳された一人だった。おそらくその影響で1931年3月にオットーたちはアパートを出ている。ガングホーファーシュトラーセ24番地の新興住宅地のアパートへ移ることとなった[30]。ここは前のアパートよりは狭かったが、広い裏庭があり、マルゴーとアンネの遊び場にするのにちょうどよかった[30]。
しかし世界大恐慌でフランク家の銀行のオランダ支店が閉鎖し、さらに弟のヘルベルトは外国証券の売買を禁止した法律に違反した容疑で逮捕され、フランクフルトの証券取引場は1931年夏にフランク家の銀行との取引を無期限に停止した。これによりフランク家の銀行は一気に経営が苦しくなってしまった[27][31]。後にヘルベルトは1933年10月に再審で勝訴し、罰金刑の免除を受けているが、その頃にはもう手遅れであった(銀行は最終的にオットーのオランダ移住後の1934年1月に閉鎖している[32])。いよいよフランク家はアパートの家賃を払うのが難しくなり、ヨールダンシュトラーセにあるオットーの母の家の同居に戻っている[31][33]。ただ日常の生活はあまり変わらず、相変わらずフランク家は日帰り旅行や友人や親族の家に遊びに行っている[31]。
オランダ亡命
1933年1月、ナチス党党首アドルフ・ヒトラーがドイツ首相に任命された。オットーはラジオ放送を通じてこれを知った[34]。同年のフランクフルト市議会選挙もナチス党が圧勝した。フランクフルト市庁舎ではハーケンクロイツが壁いっぱいに掲げられ、ナチ党員が集まって「ユダヤ人は出ていけ」などと絶叫しながらナチス式敬礼をして気勢をあげていた[35]。
狂気に包まれつつあるドイツやフランクフルトにこれ以上残るのは危険と考えたオットーは家族をより安全な国に逃がそうと決めた。スイスにいる義弟エーリヒ・エリーアス(ジャム作りに使うペクチンを製造する業者『ポモジン工業』の子会社『オペクタ商会』のスイス支社長)は、オットーにオランダのアムステルダムに亡命して『オペクタ商会』のアムステルダム支社を起こさないかと薦めた[32]。
オットーはかつてアムステルダムで暮らしていた事があり、ある程度の人脈があったこと、またオランダが比較的難民に寛大であることなどを考慮してこの申し出をありがたく受けることとした[36]。1933年夏に故国ドイツを離れ、まず仕事と住居を安定させるため、単身アムステルダム市へと移住した(その間エーディトや娘達はアーヘンのエーディトの実家で暮らしていた)[37][38][33]。
ここで『ポモジン工業』の子会社としての『オペクタ商会』を開設するはずだったが、取締役に指定した人物との間に問題が生じたので、結局、オットーはエーリヒ・エリーアスから1万5000ギルダーの無利子貸付を受けて自ら会社を起こすことにした[38][39]。「ペクチンをもっぱらケルンの『オペクタ商会』からのみから買い付け、『ポモジン工業』に利益の2.5%を支払う」という契約で代わりに『オペクタ商会』の商標を使う権利をもらい、『ポモジン工業』の子会社ではない『オペクタ商会』を経営することになった[38][40]。ヴィクトール・クーフレルやミープ・ザントルーシッツなど信用のできる人々を雇い入れ(彼らは後に隠れ家支援メンバーとなる)、仕事は軌道に乗ってきた。オットーはその間、一家の住居先も探した。エーディトもアーヘンとアムステルダムを行き来して夫の住居探しを手伝った。オットーたちはアムステルダム・ザウト(Amsterdam-Zuid)の新開発地区に一家四人で暮らすのにちょうどいいアパートを見つけ、そこを購入した。1933年12月にまずエーディトとマルゴット、続いて1934年2月にはアンネもそこへ移住していった[41][42]。
オランダでの生活
1937年には後の隠れ家支援メンバーの一人であるベップ・フォスキュイルを事務員・タイピストとして雇用した[43][44]。1938年にはアムステルダムにもう一つの会社『ペクタコン商会』(Pectacon)を創立している。ソーセージの製造のための香辛料を扱う会社であった。銀行業務の時からの付き合いのヨハンネス・クレイマンを『オペクタ商会』と『ペクタコン商会』の監査役に迎え、また同じくドイツから亡命してきたユダヤ人でソーセージのスパイス商人だったヘルマン・ファン・ペルスをペクタコン商会の相談役に迎えた[43][45]。ファン・ペルス一家はフランク一家の近くに住んでおり、家族ぐるみの付き合いをして、後に隠れ家でフランク一家と同居することとなる。1939年3月にはアーヘンにいたアンネの祖母ローザ・ホーレンダー(当時72歳)もアムステルダムのフランク家へ移ってきた。アンネやマルゴーは、オランダの学校へ通うようになり、一家には再び平穏が戻ってきた。
しかしヒトラーが全ヨーロッパの支配を狙っているという噂はたえず、オットー・フランクは、ヨーロッパから離れることを考えていた。そして1940年には実際にオランダ全土がドイツ軍に占領され、ナチス党幹部のアルトゥール・ザイス=インクヴァルトがオランダ総督として赴任してくる事態となった。
1938年と1941年に、オットーは家族のためにアメリカ、イギリス、キューバへの移住ビザを得ようと試みている。1941年12月1日、フランクはキューバへの単身ビザを認められているが、これが彼に届いたかどうかは不明である。この10日後、ナチス・ドイツとイタリアが米国に宣戦布告し、ビザはキューバ政府によりキャンセルされてしまった。[46][47]
1942年6月12日(13回目のアンネの誕生日)、オットーはプレゼントとしてサイン帳をアンネに贈った。表紙全体に赤と白のチェック模様が入っている女の子らしいサイン帳であった[48]。アンネはこれを最初の日記帳として使用することとなる。
隠れ家生活へ
オランダでも反ユダヤ立法が本格的に始まり、アンネとマルゴーはユダヤ人学校へと移された。さらに1942年7月には長女マルゴーに強制労働収容所への召喚状が届いたため、フランクは自分が経営していたアムステルダム・オペクタ商会の建物の屋根裏で家族とともに隠れ家生活に入る。
2週間後、この隠れ家にファン・ダーン一家(ヘルマン、アウグステ、ペーター)が加わり、11月にはフリッツ・プフェファーが加わった。この隠れ家生活はヨハンネス・クレイマン、およびミープ・ヒース、ヴィクトール・クーフレル、ベップ・フォスキュイルに支えられていた。
逮捕、アウシュヴィッツ強制収容所へ
隠れ家生活は2年間続いたが、1944年8月匿名の密告によって、フランクと家族、同居していた4人、およびクーフレルとクレイマンはナチス親衛隊SS曹長カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアーに逮捕された。
オットーら隠れ家メンバー8人はオランダ北東ヴェステルボルク通過収容所に1カ月弱収容された後、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ送られた。1944年9月5日から6日にかけての深夜にビルケナウ強制収容所に到着している[28]。到着後すぐに男女に分けられ、アンネ・マルゴー・エーディトと引き離された。彼女らはビルケナウ収容所に、オットーは3キロ離れたアウシュヴィッツ収容所に収容された。この時がオットーが妻と娘の姿を見た最後となった。
オットーはファン・ペルス父子やプフェファーと一緒にアウシュヴィッツ収容所の第2ブロックに収容された。過酷な野外労働と少ない食料により1.8メートルの身長のオットーの体重が52キロまで下がってしまった[49]。ヘルマン・ファン・ペルスはやがてガス室に送られたが、その息子ペーター・ファン・ペルスはオットーの面倒を献身的に見たという[49]。しかし比較的健康だったペーターは1945年1月17日に別の収容所へ移された[49]。
解放
1945年1月27日アウシュヴィッツの病棟にいたところをソビエト赤軍により解放された。赤軍は病人とそれ以外の者を隔離し、オットーもこれまでとは別のバラックに移された[50]。2月23日にスイスにいる母親に手紙を書くまでに病状が回復した。その手紙の中でオットーは「エーディトと子供たちの所在は分かりません。1944年9月5日に別れたきり、わずかにドイツに移送されたという噂を聞くだけです。三人とも無事でいてくてることを願うだけです」と書いている[51]。
その後もアウシュヴィッツで療養しながら手紙を書き続けていたオットーだったが、3月になってようやく収容所を出ることが認められ、赤軍のトラックに乗ってポーランド南部カトヴィツェへ移動した[52]。そこでヴェステルボルク収容所で一緒だったローザ・ド・ヴィンテルと再会した。彼女はビルケナウ収容所でアンネ・マルゴー・エーディトと一緒にいたので、エーディトが死んだことを知っていた(アンネとマルゴーについてはベルゲン=ベルゼンに移送されたため何も知らなかった)。エーディトの死を知らされたオットーは、ショックを受けながらも娘2人が生きていることに望みをかけてアムステルダムへ帰る決意をした[53]。
4月半ばにはオランダ北東部の大半は解放されていた[54]。オットーはチェルノフツィ(ウクライナ西部の都市)を経由して4月25日にオデッサに到着した[55][56]。そこからニュージーランド船に乗って5月21日に船出し、5月27日にフランスのマルセイユに入港した[57]。5月28日朝にオランダ行きの列車に乗り込んだ[57]。
アムステルダム帰還
1945年6月3日にようやくアムステルダムに帰還できた[56][58]。オットーは親戚や友人の多さのおかげで強制収容所から解放されたユダヤ人の中では経済的には恵まれた方だった。親戚が小包やお金を贈ってくれた[59]。ニューヨークのネーサン・ストラウスjrも送金してくれた[60]。また住居を失ったオットーのためにミープ・ヒースとヤン・ヒース夫妻が自宅に同居させてくれ、プリンセンフラハト通りの会社の社業にも復帰できた[61]。ヴィクトール・クーフレルとともに会社の取締役に復帰した(オットーとクーフレルは1955年に会社を売却するまで経営を続けた)[62]
オットーは仕事をしながら娘たちの情報を探り続けた[63]。そんな中、1945年7月にベルゲン=ベルゼンでアンネやマルゴーと一緒にいた囚人ヤニー・ブリレスレイペルがオランダ赤十字社からの行方不明者に関する調査に対してアンネとマルゴーの死亡を報告した[64]。これを知ったオットーはヤニーに直接面会し、アンネとマルゴーについて聞き質した。彼女の口から改めてアンネたちの死を聞かされたオットーの顔は蒼白になり、椅子にどさりと崩れ落ちたという[64]。7月18日のことだったという[65]。
ロンドンにいる兄ロベルトから「短い間とはいえ家族で幸せに暮らせたことは、お前にとってせめてもの慰めと思う。彼女たちはもう苦しんではいない。生きること、絶望しないこと、愛する者たちの思い出を大事にすること、それがお前の役目だ。こんなに辛い目にあってもお前は怒りや憎しみの言葉を口にしない。本当に感心している。」という手紙を贈られた[65]。
アンネの日記
ミープはアンネ本人に渡そうと思っていた彼女の日記をオットーに渡すことを決意した。塞ぎこんでいたオットーに「アンネのお父さんへの形見です」と言って日記を渡したという[66]。日記はオットーがアンネに贈った手帳とノート数冊、ばらの用紙327枚から成っていた[67]。手帳とノートはアンネがその日付の日に書いたオリジナルの日記、ばらの用紙はアンネが後から書き直していた日記である(アンネは日記の出版を考えていたので途中から日記の書き直し作業をしていた。1944年3月29日の記述まで書き直しが及んでいる。オランダ国立戦時資料研究所編『アンネの日記 研究版』ではオリジナルをaテキスト、書き直した物をbテキストと呼んでいる)[58]。
アンネの日記を読みふけったオットーはこれを親戚や友人たちに読ませたいと考え、日記をタイプし直した。ばらの用紙の改訂版の方を土台にしてドイツ語に翻訳し、家族の悪口や存命中の人物を不愉快にさせるような記述、またアンネの個人的なこと、興味を持たれぬであろう記述などを削除していった(『アンネの日記 研究版』はこのオットーによる編集が加えられた物をcテキストと読んでいる)[58][67][68]。さらに友人の劇作家アルベルト・カウフェルンと彼の妻イーサに見てもらって文法上の誤りを修正して清書してもらった。こうしてできた物が親戚や友人に配られた[69]。
これを読んだ友人のアムステルダム大学講師クルト・バシュヴィッツはオットーに日記の出版を薦めた[69][70]。アンネは日記の出版を夢見ていたからオットーにも公刊したい気持ちはあった。友人のヴェルナー・カーン(百科事典編集者)が出版してくれる業者を探し回ってくれたが、簡単には見つからなかった[71]。しかしカーンの上司である百科事典編集責任者の歴史家ヤン・ロメインがその原稿を読んで、1946年4月3日の「ヘト・パロール」(nl)紙に「一少女の声」と題するレビューを書いた[69][72]。これがきっかけでアムステルダムのコンタクト社(Contact Publishing)が興味を持ち、1946年夏に同社が出版を引き受けることとなった[73]。
日記を世界に伝える
1947年6月25日、オランダ語による初版がHet Achterhuis(後ろの家)というタイトルで出版された[69][74]。この成功を受けて、1950年にはドイツ語版Tagebuch der Anne Frank(アンネ・フランクの日記)とフランス語版Le Journal d'Anne Frank(アンネ・フランクの日記)が出版された。ついで1952年には英語版The Diary of a Young Girl(少女の日記)と日本語版『光ほのかに アンネの日記』が出版された[75][76]。イギリスでは初めあまり売れなかったが(イギリスでは1954年にペーパーバック版になった後に売れるようになった)、西ドイツ、フランス、アメリカ、日本では発売とともに好調な売れ行きを示した[76]。それにつづいてイタリア、スイス、北欧諸国、スペイン、ソ連、東ドイツ、南米諸国、インド、韓国、台湾、タイ、インドネシアなどでも翻訳版が出版された[77]。
1955年には『アンネの日記』がニューヨークで舞台化された[78]。さらに1957年には20世紀FOXによって映画化されている(アンネの日記(en))[79]。
1957年に隠れ家のある建物が取り壊されそうになった際に建物の保存のために「アンネ・フランク財団」(在アムステルダム)が設立された。財団は一般からの寄付に支えられて、この建物とその周辺を買収し、1960年5月3日に博物館「アンネ・フランクの家」として公開した。オットーは様々な民族や宗教の若者の交流を促進して不寛容や差別が防止されることを期待してアンネ・フランク財団青少年センターの設立を支援し、1964年までその初代会長を務めた[80]。
オットーはアンネの日記について「これは戦争文学ではありません。戦争はこの本の背景でしかないのです。同様にこれはユダヤ人の本でもありません。ユダヤ的世界やユダヤ人の心情・境遇が背景にはなっていますが。」と述べ、時代や人種を問わない普遍的なものであることを語っている[81]。オットーは死ぬまで、アンネ・フランクの残した寛容と思いやりのメッセージを世界中に広め続けた。
スイス移住と死去
オットーは1949年にオランダ国籍を取得していたが、1952年には母と姉がいるスイスのバーゼルへ移住した[62]。
1953年11月10日にはエルフリーデ・ガイリンガー=マルコヴィッツ(Elfriede Geiringer-Markovits)と再婚した。彼女もアムステルダム・メルヴェデプレインで暮らしていたユダヤ人であり、戦時中にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られ、そこで夫と息子を失った[80]。メルヴェデプレイン在住時代にはガイリンガー=マルコヴィッツ家とフランク家はあまり面識がなかったのだが、アウシュヴィッツから解放された後、アムステルダムまでの帰路にオットーと親しくなった[82]。
1962年からはエルフリーデとともにバーゼル郊外のビルスフェルデンに移住した[82]。
オットーは1980年8月19日に死去した。1963年にスイスの法律に基づいて創設した公共財団「アンネ・フランク財団」(在バーゼル)がオットーの包括相続人となっており、『アンネの日記』に関する権利を相続した。アンネの日記のaテキスト(手帳、ノート)とbテキスト(ばらの用紙)はオランダ政府に遺贈されている[82]。
関連項目
脚注
- ^ a b ハイル(2003)、p.10
- ^ a b c d 『アンネの日記 研究版』(1994)、p.9
- ^ リー(2002)、p.33
- ^ ミュラー(1999)、p.54
- ^ リー(2002)、p.35
- ^ a b リー(2002)、p.36
- ^ 『アンネの日記 研究版』(1994)、p.9
- ^ リー(2002)、p.36-37
- ^ ミュラー(1999)、p.111
- ^ リー(2002)、p.38
- ^ a b c リー(2002)、p.39
- ^ ハイル(2003)、p.12
- ^ a b ハイル(2003)、p.13
- ^ リー(2002)、p.39-40
- ^ a b c リー(2002)、p.40
- ^ a b c リー(2002)、p.42
- ^ ミュラー(1999)、p.234
- ^ リー(2002)、p.40-41
- ^ a b c d e f リー(2002)、p.43
- ^ ハイル(2003)、p.14
- ^ a b c d e 『アンネの日記 研究版』(1994)、p.10
- ^ ミュラー(1999)、p.75
- ^ リー(2002)、p.44
- ^ a b リー(2002)、p.47
- ^ リー(2002)、p.46-47
- ^ リー(2002)、p.49
- ^ a b 『アンネの日記 研究版』(1994)、p.11
- ^ a b ハイル(2003)、p.15
- ^ a b リー(2002)、p.50
- ^ a b リー(2002)、p.58
- ^ a b c リー(2002)、p.60
- ^ a b リー(2002)、p.66
- ^ a b 『アンネの日記 研究版』(1994)、p.12
- ^ リー(2002)、p.62
- ^ リー(2002)、p.63
- ^ リー(2002)、p.66-67
- ^ ミュラー(1999)、p.79
- ^ a b c リー(2002)、p.67
- ^ ミュラー(1999)、p.80
- ^ 『アンネの日記 研究版』(1994)、p.13
- ^ 『アンネの日記 研究版』(1994)、p.13-14
- ^ リー(2002)、p.72
- ^ a b 『アンネの日記 研究版』(1994)、p.17
- ^ リー(2002)、p.106
- ^ リー(2002)、p.101
- ^ “Anne Frank family letters released”. CNN.com. ( エラー: この日付はリンクしないでください。) 2007年2月14日閲覧。
- ^ “In Old Files, Fading Hopes of Anne Frank’s Family”. NYT.com. ( エラー: この日付はリンクしないでください。) 2007年2月15日閲覧。
- ^ リー(2002)、p.205
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- ^ リー(2002)、p.403
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- ^ リー(2002)、p.411
- ^ a b リー(2002)、p.412
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- ^ リー(2002)、p.413
- ^ a b ミュラー(1999)、p.401
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- ^ a b c d ミュラー(1999)、p.402
- ^ 『アンネの日記 研究版』(1994)、p.71
- ^ 『アンネの日記 研究版』(1994)、p.74
- ^ リー(2002)、p.434
- ^ リー(2002)、p.436
- ^ リー(2002)、p.438
- ^ 『アンネの日記 研究版』(1994)、p.81-82
- ^ a b リー(2002)、p.440-442
- ^ 『アンネの日記 研究版』(1994)、p.82
- ^ リー(2002)、p.443
- ^ リー(2002)、p.446
- ^ a b ミュラー(1999)、p.403
- ^ リー(2002)、p.442
- ^ a b c ミュラー(1999)、p.404
参考文献
- マティアス・ハイル著 著、松本みどり 訳『永遠のアンネ・フランク』集英社、2003年。ISBN 978-4887241923。
- メリッサ・ミュラー著 著、畔上司 訳『アンネの伝記』文藝春秋、1999年。ISBN 978-4163549705。
- キャロル・アン・リー著 著、深町眞理子 訳『アンネ・フランクの生涯』DHC、2002年。ISBN 978-4887241923。
- オランダ国立戦時資料研究所編 編、深町真理子 訳『アンネの日記―研究版』文藝春秋、1994年。ISBN 978-4163495903。
外部リンク
- Profile of Otto Frank's early life, written by the Anne Frank House
- Otto Frank during World War One, written by the Anne Frank House
- Article about Otto Frank and the opening of the Anne Frank House
- BBC video interview with Otto Frank in 1976 (requires Realplayer)
- Video interview with Otto Frank's second wife (Requires Quicktime)
- Short article about Otto Frank's last years, with a photo taken in 1979