ノート:オットー・フランク
この「オットー・フランク」は、下記のような選考・審査を経て良質な記事に選出されています。さらなる加筆と改善によって、秀逸な記事となるような編集を歓迎します。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
---|---|---|---|
1. | 2011年9月10日 | 良質な記事の選考 | 通過 |
記述の一部修正について
[編集]以下の部分ですが、
戦後家族を失った後にはいくらか信仰心を強め、アムステルダム改革派ユダヤ教信徒共同体の共同設立者になっている。とはいえ結局彼は最後まで敬虔な人間にはならなかったようである<ref name="ミュラー(1999)400">[[#ミュラー(1999)|ミュラー(1999)、p.400]]</ref>。
メリッサ・ミュラー『アンネの伝記』 p.400 にはこうあって
戦後、自ら共同設立者の一人となって発足させたアムステルダム改革派ユダヤ教信徒共同体も、心の拠り所となった。ただし、ユダヤ教一筋の敬虔な人間には、彼は一生ならなかった。
ですから、「ユダヤ教一筋の敬虔な人間には、彼は一生ならなかった。」あるいは同趣旨の事を書くのが正しいと思われます。また
この信仰心の薄さはアンネも同じだった。
としている部分ですが、ハンネリ・ホースラルが「アンネは父親似なのか信仰心が全くなかった」と回顧しているのは、あくまで隠れ家に潜伏前の話であって、日記では途中から神に関する言及が増えています。とりわけ、アンネがペーターと沈黙しながら窓から外を眺めるエピソードがある1944年2月23日の記述では
大空と、自然と、神様とだけいられる場所へ出ることこそ、恐れるひと、寂しいひと、不幸なひと、こういう人たちにとっての最高の良薬です。そのときはじめてその人は、万物があるべき姿のままにあり、神様は人間が自然の簡素な美しさのなかで、幸福でいることを願っておいでなのだと感じるでしょうから。(『研究版』深町真理子訳 p549 aテキスト)
とあるように、日記を読めば潜伏中に神に対し信仰を持つようになった事が明らかです。潜伏前のアンネを知るハンネリのコメントが、潜伏中の心情を詳しく綴った『アンネの日記』の記述より優先されるべきではないでしょう。このあたりは日記をオランダ語からドイツ語に訳したミリヤム・プレスラー著『わたしは憧れているの アンネ・フランク』が詳しいですが、オットー氏の記事でアンネの信仰に関して長々と書くこともないでしょうから、「アンネも隠れ家潜伏前は信仰心がなかった。」と短く修正しました。
「エルフリーデ・ガイリンガー=マルコヴィッツ」表記ですが、出典にそう書かれているので悩ましいですが、
- エルフリーデは”フィリッツイ”と書かれる事が多い。本人も手紙にそう署名している。
- マルコヴィッツは旧姓というか、生まれた時のファミリーネーム
- ガイリンガーは最初の結婚の時の夫の姓。
よって、生まれてからエリッヒ・ガイリンガー氏と結婚するまでの事に言及する場合はエルフリーデ・マルコヴィッツ、最初の結婚から再婚まではエルフリーデ・ガイリンガー、オットー氏と再婚後はエルフリーデ・フランクかと思いますが、英語版には彼女の記事があって、その冒頭に Elfriede («Fritzi», geborene Geiringer) とあります。どの時点を重視するかですが、オットーの妻としてアンネ・フランク財団で夫を助ける活動がもっとも顕著かと思います。それらを総合し、マルコヴィッツは省きました。アンネも、アンネリーゼ・マリー・フランクが記事名にはなっていませんし。
メルヴェデプレイン在住時代にはガイリンガー=マルコヴィッツ家とフランク家はあまり面識がなかったのだが
"Fritzi" Markovits was born in Vienna, Austria, in 1905. She fled from the Nazis to the Netherlands in 1938 with her husband Erich Geiringer, son Heinz and daughter Eva. The Geiringer family settled in Amsterdam and lived on the Merwedeplein 46, opposite the Frank family.
とあります。こちらはマルコヴィッツとガイリンガーの姓の使い分けがきちっとできていますね。潜伏前は家が近くの向かい側です。娘のエファ (アンネの死後に義理の姉になる) は英語版に記事があって、アンネと同じ 1929年生まれです。また、『研究版』p.62 には「アンネは彼女の娘と知り合いだった」とありますが、Anne Frank's step-sister highlights post-Holocaust traumas には
The two families had been friends
とありますが、『研究版』の記述が最も正確だとみなした記述にしました。
さらに、エファが出版した本には少し違う事が書いてあるかもしれません。
1962年からはエルフリーデとともにバーゼル郊外の[[ビルスフェルデン]]に移住した<ref name="ミュラー(1999)404"/>。
これも『アンネの伝記』の書き方あるいは翻訳の問題かもしれませんが、1962年は実際には「引っ越した」が正解です。それまでは、バーゼルで庭の無い家に住んでいました。(『アンネ・フランクのバラ』p.130 を参照)
メリッサ・ミュラーは『アンネの伝記』p.21で「フォクションは一つもない」と書いていますが、p.22で、歴史を分析することより歴史を語る事の重要性を力説し、「多くの人がわたしの言葉に耳を貸してくださるように祈りつつ、アンネ・フランクとその一家、友人達の生活史を語ってみた」とある通りで、『アンネの伝記』は事実を基にメリッサ・ミュラーが語るドラマのような本であって、正確性は追求していません。p.34の「まるでその収容所が湯治場ででもあるかのような口ぶり。」に至っては見てぞっとする「寒いギャグ」「見てきたような※」のレベル。一部の文学者は自分の空想を確固たる事実と思い込む性質があり、ついて行けません。
- プリンセンフラハト通り → プリンセン運河通り
- フラハトは「運河通り」という意味であるため。
以上ですが、説明も無しに書き換えるのは問題と思い理由を挙げて記述の一部修正をさせていただいたものであり、Wikipedia:検証可能性には
例えばニューヨーク・タイムズの記事の中身が真実かどうか検証する責任があるという意味ではありません。実際のところ、編集者はその種の調査をしないよう強く求められます。 (中略) それは個々の編集者が真実であると思うかどうかには関係ありません。
とある通りで、私は個人的にはメリッサ・ミュラーの書いた本は出典に用いないほうが良いと思いましたが、アンネ関係の本が多い文芸春秋から出版されている以上、この書籍を出典にした事を理由に記事に何か問題があるかのように指摘するものではありません。--118.21.20.12 2015年9月15日 (火) 00:55 (UTC)