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「クンタ・キンテ島と関連遺跡群」の版間の差分

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「'''[[ジェームズ島_(ガビア)|ジェームズ島]]と関連遺跡群'''」は、[[ガンビア]]にある[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]登録物件のひとつ。[[セネガルの世界遺産]]である[[ゴレ島]]と並び、西アフリカにおける[[奴隷貿易]]の拠点となって事が評価されて登録された、[[世界遺産#負の世界遺産|負の世界遺産]]のひとつある。
「'''[[タ・キンテ島]]と関連遺跡群'''」は、[[ガンビア]]にある[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]登録物件のひとつである。[[セネガルの世界遺産]]である[[ゴレ島]]とともに西アフリカにおける[[奴隷貿易]]の中心地となって歴史を持ち<ref>世界遺産アカデミー (2010) p.188</ref>、日本では[[負の世界遺産]]のひとつと位置づけられることがある<ref name = furuta /><ref>世界遺産アカデミー (2010) で「未来への教訓」の物件に分類されている。</ref>。ただし、この物件はそれだけにとどまらず、後述するようにヨーロッパと西アフリカの交流の諸段階の様子を伝えていることも、登録理由の一つとなった

登録当初は「'''ジェームズ島と関連遺跡群'''」だったが、島の改名に伴って[[2011年]]に現在の名称に変更された。

== 歴史 ==
{{see also|ガンビア#歴史}}
現在の[[ガンビア]]は[[ガンビア川]]流域に細長く伸びる国であり、面積は1.1万[[平方キロメートル|km&sup2;]]で、日本の[[岐阜県]]と同じ程度の国である。

15世紀には[[マリ帝国]]の西端に含まれていた。当時は、[[ポルトガル]]が[[サハラ交易|イスラーム商人]]や[[ヴェネツィア]]の商人を介さずに[[大西洋]]を渡って直接アジアや西アフリカの物資を得ようとしていた時期であり、[[ベルデ岬]](1444年)、[[シエラレオネ]](1460年)、[[エルミナ城|エルミナ]](1471年)と、徐々に到達範囲を広げていった<ref>宮本・松田 (1997) pp.250-254</ref>。彼らがガンビア川沿岸に到達したのもその途上のことで、1446年から1456年の間とされている<ref name = IslandHistory />。

当初のポルトガルと西アフリカの交易は友好的なものであり、現地の有力者の許可を得て拠点を築き、そこで[[金]]、[[象牙]]、[[香辛料]]などとヨーロッパの加工品の交換が行なわれた<ref>宮本・松田 (1997) pp.256-257</ref>。ポルトガル人はガンビア川沿岸部でも1456年までに現地民との交流を始めた<ref name = IslandHistory />。世界遺産を構成するサン・ドミンゴの小集落も、それから間もない時期に築かれたものである<ref name = SanDomingoDescription />。

しかし、その後、[[西インド諸島]]や南北アメリカ大陸での[[プランテーション]]経営の拡大などを受けて、黒人奴隷を商品とする[[奴隷貿易#大西洋奴隷貿易|大西洋奴隷貿易]]が行われるようになり<ref>宮本・松田 (1997) pp.257-259</ref>、16世紀後半になるとイギリス人の貿易商会もこの地に進出するようになった<ref>『データブック・オブ・ザ・ワールド』2009年版、p.266「ガンビア共和国」</ref>。

[[セネガル川]]からガンビア川にかけての[[セネガンビア]]地方は大西洋奴隷貿易の初期において、特に重要な奴隷供給地となった<ref name = muroi>室井 (1999) pp.124-127</ref>。ガンビア川は外洋船でも上流へ300 [[キロメートル|km]]以上遡上できる川であり、内陸部の交易部族であったジャハンケ人との交流にも活用された。ジャハンケ人は象牙のほかに奴隷も扱った。16世紀には、[[ウォロフ王国]]や[[マリ帝国]]の崩壊にともなう民族対立などから、捕虜として奴隷にされる人々がおり、数多くの奴隷が輸出された<ref name = muroi />。

ガンビア川における奴隷貿易の主要な拠点はジェームズ島(現クンタ・キンテ島)であり、後述するように1651年に要塞も築かれた。1661年からはイギリスがジェームズ島を支配し、以降、フランスなどとたびたび領有権を巡って争った<ref name = GTA /><ref name = IslandHistory />。1660年には王立アフリカ企業会社が設立され、奴隷貿易を取り仕切った。この独占は1672年の[[王立アフリカ会社]]に引き継がれ、自由化された1698年以降は他の商人たちも奴隷貿易に参入した<ref>宮本・松田 (1997) p.272</ref>。しかしながら、[[セネガンビア]]からの奴隷の輸出は世紀ごとに減っていき、18世紀にはアフリカ全体の3%を占める程度に過ぎなくなった<ref name = muroi />。他方で、この島から送り出された黒人奴隷は3世紀の間で300万人に及んだともいわれる<ref name = GTA />。

イギリスは1807年に奴隷貿易の廃止を決め、ガンビアでも密貿易を厳しく監視するようになった。しかし、アフリカにおいて奴隷貿易が根絶されていったことは[[植民地]]支配の強化と表裏一体をなしていた<ref name = muroi />。ガンビアにしても、独立を達成したのは[[1965年]]になってからだった。

ガンビア一帯が経験してきた奴隷貿易は、[[アフリカ系アメリカ人]]作家[[アレックス・ヘイリー]]の小説『[[ルーツ (小説)|ルーツ]]』と、[[ルーツ (テレビドラマ)|それを原作とするテレビドラマ]]によって広く知られるところとなった。ヘイリーの先祖[[クンタ・キンテ]] ([[:en:Kunta Kinte|Kunta Kinteh]]) もまた、ジェームズ島からアメリカ大陸に送られた黒人奴隷であった。この小説とドラマ以来、奴隷として世界に離散した人々の子孫が、自らのルーツ探しでクンタ・キンテ島などを訪れる事が増えたという<ref name = GambiaValue>The Gambia (2001) pp.10-11</ref>。

世界遺産に推薦されることになる物件は独立後も朽ち果てたままだったが、六連砲台以外は1995年に国定史跡に指定され、六連砲台も後に国定史跡の指定手続きがとられた<ref name = Shiseki>The Gambia (2001) p.24, ICOMOS (2003) p.118</ref>。なお、現在、世界遺産構成資産はすべて国有物になっている<ref name = Shiseki />。


== 登録物件 ==
== 登録物件 ==
クンタ・キンテ島と6つの関連遺跡で構成されており、首都[[バンジュール]]に残る六連砲台と[[ノースバンク地方]]アッパー・ニウミ地区 (Upper Niumi District) に残るバレン要塞を除けば、全てノースバンク地方ロウアー・ニウミ地区 (Lower Niumi District) に属している<ref name = property />。
主として[[ガンビア川]]流域の以下の物件が登録されている。

=== ジェームズ島 ===
=== クンタ・キンテ島 ===
[[ジェームズ島_(ガンビア)|ジェームズ島]](世界遺産登録ID 761-001)は、この物件の中心的な遺産である0.35ヘクタールの小島。[[:en:Lower Niumi District|Lower Niumi District]]に含まれている。かつて奴隷貿易を行っていた当時の要塞や船出前の奴隷の宿泊施設などの遺構が残っている。
{{main|クンタ・キンテ島}}
[[クンタ・キンテ島]](旧ジェームズ島、世界遺産登録ID 761-001)は、この世界遺産の中心的な構成資産となっている小島で、世界遺産としての登録面積は 0.35 [[ヘクタール|ha]] である<ref name = property> [http://whc.unesco.org/en/decisions/729 UNESCO World Heritage Centre - Decision - 27COM 8C.34](2011年8月28日閲覧)</ref>。

[[ガンビア川]]の河口から30 [[キロメートル|km]] の位置に浮かぶ中島で<ref>The Gambia (2001) p.15</ref>、現地民の口承によれば、ヨーロッパ人たちの到来前は釣り人たちが一休みするのに使っていた場所だったという<ref name = IslandHistory>The Gambia (2001) pp.20-21</ref>。

[[ファイル:River_gambia_galleryfull.jpg|thumb|バオバブなどに覆われた現在の島]]
ガンビア川は前述のようにかなり上流まで外洋船が遡上できる川であり、そこでの交易の拠点として、島の所有権が争われた。[[1651年]]には[[クールラント・ゼムガレン公国]]が要塞を築き始めたが、1661年には[[イングランド]]が攻囲し、占領した。それとともにクールラント人たちが聖アンデレ島 (St. Andrews Island) と呼んでいた島の名前を<ref name = GTA />、[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ヨーク公ジェームズ]]にちなんでジェームズ島と改称した<ref name = IslandHistory />。それ以後、ヨーロッパ諸国の植民地戦争の影響を受けて、島とそこに築かれた要塞の所有権はイギリス、フランス、オランダなどの間で揺れ動き、度重なる攻防によって要塞は7度もの破壊と再建を繰り返した。しかし、要塞は[[1779年]]にフランス軍が破壊したのを最後に再建されることはなかった<ref name = IslandHistory />。島はその後もしばらくは利用されたが、修復不可能な状態になった上に拠点としての重要性が失われたため、1815年には完全に放棄された<ref name = IslandHistory />。島が放棄された後に[[バオバブ]]が生い茂るようになり、[[ペリカン]]の生息地にもなっている<ref name = IslandDescription>The Gambia (2001) pp.15-16</ref>。2001年時点では島に定住者はいない<ref>The Gambia (2001) p.29</ref>。

[[ファイル:James_Island_and_Fort_Gambia.jpg|thumb|クンタ・キンテ島の要塞(1755年)]]
現在の島に残る要塞の遺構は、方形で四隅に見張り塔が設置されており、塔と塔の間には防壁が張り巡らされている。防壁と塔の高さは5 m で<ref name = IslandDescription />、後述するバレン要塞よりも高い。

その要塞のほか、奴隷貿易が行われていた頃に、船出前の奴隷たちを収容していた施設などの遺構も残っている<ref name = IslandDescription /><ref name = NHK>[http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards746.html NHK世界遺産 | 世界遺産ライブラリー [ジェームズ島と関連遺産]](2011年8月28日閲覧)</ref>。先述した『ルーツ』の[[クンタ・キンテ]]も、船出前にこの島に移送された<ref name = NHK />。ガンビア政府はその名をとって、2011年2月6日にジェームズ島をクンタ・キンテ島と改名した<ref name = furuta >[http://worldheritage.travel.yahoo.co.jp/detail.html?wc=1361 クンタ・キンテ島と関連遺跡群 - 世界遺産ガイド - Yahoo!トラベル]([[古田陽久]]監修)(2011年8月28日閲覧)</ref>。

ガンビア政府はこの島を奴隷貿易の開始とその拡大の様子を伝える資産の一つと位置付けて、世界遺産の構成資産に含めた<ref name = GambiaCriteria>The Gambia (2001) p.14</ref>。また、アフリカの地を二度と踏むことができなかった人々にとって、船出の前に見た最後の光景がこの島の景色だったはずという点からも、大西洋奴隷貿易を伝える文化遺産の中で特殊な位置を占めているとした<ref name = GambiaValue />。


=== 六連砲台 ===
=== 六連砲台 ===
六連砲台 (Six-Gun Battery, ID761-002) は、ガンビアの首都[[バンジュール]]市内にある砲台。1816年に建造され1821年に完成した。世界遺産登録範囲は0.17ヘクタール
六連砲台 (Six-Gun Battery, ID761-002) は、ガンビアの首都[[バンジュール]]市内にある砲台の遺構で、世界遺産登録面積は0.17 ha である<ref name = property />

バンジュールは1816年にセント・マリー島に建造された都市で、当時の名前はバサースト (Buthurst) といった。この都市はもともとクンタ・キンテ島の要塞に代わる防衛拠点として築かれたもので<ref name = GTA>The Gambia Tourism Authority (2011) pp.8-9</ref><ref name = furuta />、その中心をなすものとして[[1821年]]に完成したのが、24 ポンド砲 (24 pounder gun) を6門備えた六連砲台である<ref name = BatteryDescription>The Gambia (2001) p.18</ref>。この砲台は現在も議事堂 (State House) の敷地内に残っているが、許可なく近づくことは認められていない<ref name = BatteryDescription />。この世界遺産を構成する資産の中で自由なアクセスが制限されているのは、ここだけである<ref>The Gambia (2001) p.23</ref>。

[[1807年]]にイギリスでは奴隷貿易が禁止されたが、ガンビア川流域ではなおも継続しようとする者たちもいた。この砲台はそうした目的で河口から外洋へ出航しようとする船を砲撃するためにつくられたもので、奴隷貿易に関して肯定的に機能したクンタ・キンテ島の要塞などとは対照的である<ref>The Gambia (2001) p.11</ref>。

しかし、実際には砲弾が対岸に届かないという欠点があり、必ずしも有効に機能していなかった<ref name = BatteryDescription /><ref name = BatteryHistory>The Gambia (2001) p.21</ref>。この欠点を補うべく対岸に建設されたのが、次に述べるバレン要塞である<ref name = BatteryHistory />。


=== バレン要塞 ===
=== バレン要塞 ===
バレン要塞 (Fort Bullen, ID761-003) は、[[:en:Upper Niumi District|Upper Niumi District]]、1826年に建造された要塞。中核地域としての世界遺産登録範囲は6.3ヘクタール
バレン要塞 (Fort Bullen, ID761-003) は、構成資産で唯一アッパー・ニウミ地区位置する要塞で、登録面積は6.3 ha である<ref name = property />


バンジュールの対岸に位置し、六連砲台の欠点を補うために、チャールズ・バレン[[提督]] (Commodore Charles Bullen) のもとで1827年に竣工した<ref name = BatteryHistory />。
=== サン・ドミンゴ ===
方形で見張り塔が四隅に聳える形式はクンタ・キンテ島の要塞とほぼ同じだが、周囲の防壁の高さは 3.5 m で、こちらの方が低い<ref name = BatteryDescription />。
サン・ドミンゴの廃墟 (Ruins of San Domingo, ID761-004) は、[[:en:Lower Niumi District|Lower Niumi District]]にある遺構。元々は15世紀にポルトガル人が交易で使うために建てた建造物群であるが、現在は全て廃墟となっている。中核地域としての登録範囲は0.723ヘクタール。


このバレン要塞と六連砲台は、ガンビア川の交易をイギリスが掌握することに貢献したが、1870年に放棄された<ref name = BatteryHistory />。ただし、バレン要塞だけは[[第二次世界大戦中]]にイギリス軍に再び使われる場面もあった<ref name = BatteryHistory />。そのときの使用で、本来存在していなかったコンクリート製の構築物が追加された場所もあったが、2000年6月の修復工事の際に撤去された<ref name = BatteryDescription />。
=== アルブレダ ===
[[Image:Gambia_cfao_building_aggeboe.jpg|thumb|CAFOの廃墟]]
[[アルブレダ]]は、[[:en:Lower Niumi District|Lower Niumi District]]に属する[[マンディンカ族|マンディンゴ人]]が暮らす農村。この村自体が緩衝地域に指定されているが、ポルトガル、フランスなど領有国が転々とした結果残された遺構が現存し、なかでも特に重要なのが中核地域に指定されている次の二つである。
* ポルトガル人の礼拝堂の遺構 (Remains of Portuguese Chapel, ID761-005)
*: 15世紀にポルトガル人によって建てられた礼拝堂。登録範囲は0.006ヘクタール。
* CAFOの建物 (CFAO Building, ID761-006)
*: [[フランス西アフリカ会社]] (CAFO, Compagnie française d'Affrique Occidentale) の建物の廃墟で、もとは19世紀に建てられたもの。登録範囲は0.03ヘクタール。


1995年に[[世界遺産#暫定リスト|世界遺産の暫定リスト]]に登録された時には、「バレン要塞」の名で、クンタ・キンテ島とは別の資産として単独掲載されていた<ref>cf. [[古田陽久]] (2009) 『世界遺産ガイド 暫定リスト記載物件編』 シンクタンクせとうち、p.19</ref>。
=== ジュフレ ===

世界遺産の構成資産としては、六連砲台とともに、奴隷制が否定されるようになった植民地時代についての例証として評価されて推薦された<ref name = GambiaCriteria />。

=== サン・ドミンゴの遺跡群 ===
サン・ドミンゴの遺跡群 (Ruins of San Domingo, ID761-004) は、15世紀にポルトガル人が交易のために建てた建造物群の跡であり、登録面積は0.723 ha である<ref name = property />。

もともとは拠点として住居、教会、井戸、墓地などを備えた小集落を形成していたようだが、現在残っているのは住居跡と推測される壁と床の遺跡のみである<ref name = BatteryHistory /><ref name = SanDomingoDescription />。床には抜け道が確認され、当時のポルトガル人たちの用心深さをうかがわせる。また、考古学的な調査によっても、当時の集落の姿がいくらか復元されている<ref name = SanDomingoDescription>The Gambia (2001) p.17</ref>。サン・ドミンゴの小集落は、かつてはクンタ・キンテ島の真水の供給源などとして重要な位置を占めていた<ref name = BatteryHistory />。

この構成資産は、ヨーロッパ人が最初に拠点を置いて交易を始めた頃の様子を伝える例証として評価され、推薦された<ref name = GambiaCriteria />。

=== ポルトガル人の礼拝堂の遺構群 ===
ポルトガル人の礼拝堂の遺構群 (Remains of Portuguese Chapel, ID761-005) は[[アルブレダ]]にある遺跡で、登録面積は 0.006 ha である<ref name = property />。アルブレダは、ロウアー・ニウミ地区に属する[[マンディンカ族|マンディンゴ人]]が暮らす農村で、この村自体が緩衝地域に指定されている<ref>ICOMOS (2003) p.117</ref>。アルブレダにはポルトガル、フランスなど領有国が転々とした結果残された遺構が複数現存し、そのうち、ポルトガル人の礼拝堂とCFAOの社屋が世界遺産に登録されている。

前述のように、ポルトガル人が[[セネガンビア]]に初めて到達したのは15世紀半ばのことであった<ref name = IslandHistory />。アルブレダの礼拝堂はそれから半世紀と経たない15世紀後半のうちに、ポルトガル人によって建造されたと考えられている<ref name = AlbredaDescription>The Gambia (2001) p.16</ref>。現在は[[砂岩]]や[[ラテライト]]を使った壁面の半分以上が、当時の姿のまま建っているに過ぎない<ref name = AlbredaDescription />。

この遺構は、サン・ドミンゴと同じく、ごく初期の交流の様子を伝えるものとして推薦資産に加えられた<ref name = GambiaCriteria />。

=== CFAOの社屋 ===
[[ファイル:JuffarehCFAOBuilding.jpg|thumb|廃墟となったCAFOの社屋]]
CFAOの社屋 (CFAO Building<ref group = "注釈">ガンビア政府の推薦書でも世界遺産委員会の決議文書でもCFAOと略されており、いずれも欄外で正式名称の注記がある。</ref>, ID761-006) は[[フランス西アフリカ会社]] (CFAO, [[:fr:CFAO (entreprise)|Compagnie Française d'Affrique Occidentale]]) の店舗兼住居の廃墟で、登録面積は0.03 haである<ref name = property />。
アルブレダの川辺にあるレンガと石を使った2階建ての建物で、かつては1階部分が店舗、2階部分が社員の住居となっていた<ref name = AlbredaDescription />。かなり長い間様々な材質で補修された形跡などはあるが、最初に誰が建てたのかは分からなくなっている。1847年の地図には石造建築物が描かれているので、そのときには原型となる建物が存在していたと推測されているが、CFAOがこの建物を購入したのは1902年のことである<ref name = AlbredaDescription />。

このCFAOの社屋は、ガンビア政府の推薦書の中で登録基準との対照が明示されていない。ただし、アルブレダ村自体は、クンタ・キンテ島の要塞などとともに奴隷貿易の歴史と結び付けられている<ref name = GambiaCriteria />。

=== モーレル兄弟の倉庫 ===
[[Image:276210434_a390c2d63b_o.jpg|thumb|ジュフレにある遺構のひとつ]]
[[Image:276210434_a390c2d63b_o.jpg|thumb|ジュフレにある遺構のひとつ]]
モーレル兄弟の倉庫 (Maurel Frères Building, ID761-007) は、[[ジュフレ]]にある建物で、世界遺産登録面積は0.0191 ha である<ref name = GambiaCriteria />。
[[ジュフレ]]もマンディンゴ人が暮らす村だが、かつては奴隷狩りが行われた土地でもある。『[[ルーツ (テレビドラマ)|ルーツ]]』で知られる作家[[アレックス・ヘイリー]]の先祖もこの村の出身とされる。この村には、次の物件がある。

* モーレル兄弟商会の建物 (Maurel Frères Building, ID761-007)
ジュフレもアルブレダと同じくマンディンゴ人が暮らす村だが、かつては奴隷狩りが行われた土地でもある。『[[ルーツ (テレビドラマ)|ルーツ]]』で知られる[[クンタ・キンテ]]もこの村の出身とされ、キンテ家の末裔は21世紀初頭の時点でもジュフレで暮らしている<ref name = SanDomingoDescription /><ref name = NHK />。また、クンタ・キンテの生家も復元されている<ref name = NHK />。ガンビア政府はアルブレダとともに、ジュフレも村そのものを緩衝地域と位置付けていた<ref>The Gambia (2001) p.10</ref>。
*: 19世紀にイギリス人が建てた建物だったが、[[レバノン]]系のモーレル兄弟商会が買い取って使った。現在では、奴隷貿易に関する展示を行う博物館になっている。中核地域としての登録範囲は0.0191ヘクタール。

このジュフレで唯一世界遺産に登録されているのが、モーレル兄弟の倉庫 (Warehouse) である。もともとは1840年頃にイギリス人が建てたが、のちに[[レバノン]]系の交易商人モーレル兄弟が買い取って倉庫として使った。1996年に修復された後、奴隷貿易に関する展示を行う博物館になっている<ref name = SanDomingoDescription />。

ガンビア政府の推薦書の中では、登録基準との対照が明示されていない。ただし、ジュフレ自体が、奴隷貿易開始前の交易の様子や、奴隷貿易がひどくなっていく過程と結び付けられている<ref name = GambiaCriteria />。そのジュフレの昔の倉庫で残っているのは、このモーレル兄弟の建物だけだという<ref name = SanDomingoDescription />。

== 登録と改名 ==
1995年に、「ジェームス島とアルブレダ / ジュフレ / サン・ドミンゴの歴史地域」 (James Island and the Albreda / Juffure / San Domingo Historic Zone) という名称で登録申請がなされたが、翌年に[[国際記念物遺跡会議|ICOMOS]]は、西アフリカにおける植民地化以前の交易の様子を伝える文化遺産に関する比較研究の不足などを理由に、「[[世界遺産#世界遺産委員会の決議|登録延期]]」を勧告していた<ref>ICOMOS (2003) p.119</ref>。この結果、1996年の第20回[[世界遺産委員会]]([[メリダ (ユカタン州)|ユカタン州メリダ]])での登録は果たされなかった。

ガンビア政府はすでに世界遺産に登録されていた西アフリカの奴隷貿易に関わる[[ゴレ島]]([[セネガル]])や[[ヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州の城塞群]]([[ガーナ]])などと比較研究を行い<ref>The Gambia (2001) pp.11-12</ref>、資産名を「ジェームズ島と関連遺跡群」と改めた推薦書を再提出した。

これに対してICOMOSは、後述するように適用する登録基準について意見をつけたものの「登録」を勧告し、2003年の第27回世界遺産委員会([[パリ]])で登録が実現した<ref name = property />。これはガンビアでは初の世界遺産であり、同じ年に初登録を果たした[[スーダン]]、[[モンゴル]]、[[カザフスタン]]とともに、[[世界遺産条約]]に批准していながら登録資産を持っていなかった状態から脱することができた<ref>日本ユネスコ協会連盟 (2003) p.50</ref>。

2011年2月にジェームズ島がクンタ・キンテ島と改名したことを踏まえ、同年の第35回世界遺産委員会(パリ)で「クンタ・キンテ島と関連遺跡群」と改名することが承認された<ref> [http://whc.unesco.org/en/decisions/4272 UNESCO World Heritage Centre - Decision - 35COM 8B.1](2011年8月28日閲覧)</ref>。

== 登録基準 ==
ガンビア政府は基準 (4) と (6) に当てはまるとして推薦していた。基準 (4) は以下の通りである。
{{世界遺産基準||||4|||||||11}}
ガンビアが理由として挙げていたのは、推薦資産がヨーロッパとアフリカの交流の変遷を物語る建造物群であるという点だった。つまり、ヨーロッパ人の到来前の時代を伝えるジュフレ、白人が交易の拠点を築いた時代を伝えるアルブレダ、奴隷貿易が始まった時代を伝えるクンタ・キンテ島(およびジュフレ、アルブレダなどの一部の建造物)、奴隷制に対する規制と植民地支配を伝える六連砲台とバレン要塞といった具合である<ref>The Gambia (2001) p.14</ref>。

しかし、ICOMOSはそうした理由はむしろ基準 (3) に適合するものであるとして、基準 (3) と (6) での登録を勧告した<ref>ICOMOS (2003) p.120</ref>。

世界遺産委員会でもそれが踏襲されたため、{{世界遺産基準|3|6}}

具体的には、基準 (3) は構成資産群が当初アフリカ内陸部との交易の窓口として、そしてやがては黒人奴隷の供給口としてヨーロッパ人に使われたことなどを示すもので、ヨーロッパとアフリカの交易の変遷を伝えている点に対して適用された。基準 (6) は、それらの資産群が、アフリカ人たちが奴隷として世界各地へ離散させられたことも含めた奴隷貿易の歴史と関わっている点に適用された<ref name = property />。

== 観光 ==
中心的な遺跡であるクンタ・キンテ島には、首都バンジュールからアルブレダまで、まずバスで約1時間半かけて行き、そこからさらにボートで約1時間かかる<ref>『21世紀世界遺産の旅』(小学館、2007年)p.290</ref>。

ガンビア政府によると、クンタ・キンテ島には1998年に団体客・個人客合わせて18620人、1999年には13911人が訪れたという。また、バレン要塞には1999年に2500人、2000年には3019人の来訪があったという<ref>The Gambia (2001) p.27</ref>。この数字について、ガンビア政府は遺跡の保存の上で脅威になる数ではないとし<ref>The Gambia (2001) p.29</ref>、ICOMOSもその点について特に注意はしなかった。

むしろICOMOSが脅威として強調したのは、川の氾濫や熱帯特有の豪雨による[[侵食]]作用、植物の成長による遺跡の損壊などであった<ref>ICOMOS (2003) p.119</ref>。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{reflist|group = "注釈"}}


== 世界遺産登録 ==
=== 出典 ===
{{reflist}}
1995年に、「ジェームス島とアルブレダ / ジュフレ / サント・ドミンゴの歴史区域(James Island and the Albreda/Juffure/Santo Domingo Historic Zone)」という名称で登録申請がなされたが、[[国際記念物遺跡会議|ICOMOS]]は適正な登録範囲策定のための検証が不十分であるとして登録の延期を勧告していた。この結果1996年の会議では登録延期が決定されたが、2002年に範囲を拡張して再申請が行われ、翌年に正式登録された。


== 参考文献 ==
世界遺産としての登録ID (761rev) が、1996年に登録された[[アムステルダムの防塞線]] (ID759) などと近い数字なのは、こうした経緯による。
* The Gambia (2001), ''{{pdf|[http://whc.unesco.org/uploads/nominations/761rev.pdf James Island and Related Sites]}}''(ガンビア政府による登録推薦書)
=== 登録基準 ===
* The Gambia Tourism Authority (2011), ''[http://www.visitthegambia.gm/publications-Gambia-Tourism-Authority-application-forms.html The Gambia Go. Discover - Official Country Guide2011]''
{{世界遺産基準|3|6}}
* [[国際記念物遺跡会議|ICOMOS]] (2003), ''{{pdf|[http://whc.unesco.org/archive/advisory_body_evaluation/761rev.pdf James Island (Gambia) / Île James (Gambie)]}}''(ICOMOSによる勧告書)
* [[世界遺産アカデミー]] (2010) 『世界遺産検定公式ガイド300』 [[毎日コミュニケーションズ]]
* [[日本ユネスコ協会連盟]] (2003) 『世界遺産年報2004』 [[平凡社]]
* [[宮本正興]] [[松田素二]] 編 (1997) 『新書アフリカ史』 [[講談社]]〈[[講談社現代新書]]〉
* [[室井義雄]] (1999) 「強制移民としての大西洋奴隷貿易」([[樺山紘一]]ほか 編 『移動と移民 - 岩波講座 世界歴史19』 [[岩波書店]]、pp.109-142)
* 『21世紀世界遺産の旅』 [[小学館]]、2007年
** [[私市正年]] 監修 (2007) 「世界遺産でめぐる アフリカの4つの海とその周辺の文化遺産」(上掲書 pp.270-273)


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[世界遺産の一覧 (アフリカ)]]
* [[世界遺産の一覧 (アフリカ)]]
** [[ガンビアの世界遺産]]
** [[ガンビアの世界遺産]]
* [[奴隷貿易]]
** [[ゴレ島]](セネガルの世界遺産)
** [[ヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州の城塞群]](ガーナの世界遺産)
** [[シダーデ・ヴェーリャ]](カーボベルデの世界遺産)
* [[アレックス・ヘイリー]]
** [[ルーツ (テレビドラマ)]]


== 外部リンク ==
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* [http://www.sn.emb-japan.go.jp/jp/gb.html 在セネガル日本国大使館 - 兼轄国観光情報 ガンビア]
* [http://whc.unesco.org/archive/advisory_body_evaluation/761rev.pdf ユネスコによる公式記録](pdf)
* [http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards746.html NHK世界遺産 | 世界遺産ライブラリー ジェームズ島と関連遺産]
* [http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/invitation/archives/archive100308.html NHK「世界遺産への招待状」 第33回 西アフリカ 奴隷の島にルーツを求めて]


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2011年9月4日 (日) 07:44時点における版

世界遺産 クンタ・キンテ島と
関連遺跡群
ガンビア
クンタ・キンテ島の遺跡
クンタ・キンテ島の遺跡
英名 Kunta Kinteh Island and Related Sites
仏名 Île Kunta Kinteh et sites associés
面積 7.5981 ha[1] (緩衝地域 300 ha)
登録区分 文化遺産
登録基準 (3), (6)
登録年 2003年
備考 2011年に現在の名称に変更。
公式サイト 世界遺産センター(英語)
地図
クンタ・キンテ島と関連遺跡群の位置
使用方法表示

クンタ・キンテ島と関連遺跡群」は、ガンビアにあるユネスコ世界遺産登録物件のひとつである。セネガルの世界遺産であるゴレ島とともに西アフリカにおける奴隷貿易の中心地となってきた歴史を持ち[2]、日本では負の世界遺産のひとつと位置づけられることがある[3][4]。ただし、この物件はそれだけにとどまらず、後述するようにヨーロッパと西アフリカの交流の諸段階の様子を伝えていることも、登録理由の一つとなった。

登録当初は「ジェームズ島と関連遺跡群」だったが、島の改名に伴って2011年に現在の名称に変更された。

歴史

現在のガンビアガンビア川流域に細長く伸びる国であり、面積は1.1万km²で、日本の岐阜県と同じ程度の国である。

15世紀にはマリ帝国の西端に含まれていた。当時は、ポルトガルイスラーム商人ヴェネツィアの商人を介さずに大西洋を渡って直接アジアや西アフリカの物資を得ようとしていた時期であり、ベルデ岬(1444年)、シエラレオネ(1460年)、エルミナ(1471年)と、徐々に到達範囲を広げていった[5]。彼らがガンビア川沿岸に到達したのもその途上のことで、1446年から1456年の間とされている[6]

当初のポルトガルと西アフリカの交易は友好的なものであり、現地の有力者の許可を得て拠点を築き、そこで象牙香辛料などとヨーロッパの加工品の交換が行なわれた[7]。ポルトガル人はガンビア川沿岸部でも1456年までに現地民との交流を始めた[6]。世界遺産を構成するサン・ドミンゴの小集落も、それから間もない時期に築かれたものである[8]

しかし、その後、西インド諸島や南北アメリカ大陸でのプランテーション経営の拡大などを受けて、黒人奴隷を商品とする大西洋奴隷貿易が行われるようになり[9]、16世紀後半になるとイギリス人の貿易商会もこの地に進出するようになった[10]

セネガル川からガンビア川にかけてのセネガンビア地方は大西洋奴隷貿易の初期において、特に重要な奴隷供給地となった[11]。ガンビア川は外洋船でも上流へ300 km以上遡上できる川であり、内陸部の交易部族であったジャハンケ人との交流にも活用された。ジャハンケ人は象牙のほかに奴隷も扱った。16世紀には、ウォロフ王国マリ帝国の崩壊にともなう民族対立などから、捕虜として奴隷にされる人々がおり、数多くの奴隷が輸出された[11]

ガンビア川における奴隷貿易の主要な拠点はジェームズ島(現クンタ・キンテ島)であり、後述するように1651年に要塞も築かれた。1661年からはイギリスがジェームズ島を支配し、以降、フランスなどとたびたび領有権を巡って争った[12][6]。1660年には王立アフリカ企業会社が設立され、奴隷貿易を取り仕切った。この独占は1672年の王立アフリカ会社に引き継がれ、自由化された1698年以降は他の商人たちも奴隷貿易に参入した[13]。しかしながら、セネガンビアからの奴隷の輸出は世紀ごとに減っていき、18世紀にはアフリカ全体の3%を占める程度に過ぎなくなった[11]。他方で、この島から送り出された黒人奴隷は3世紀の間で300万人に及んだともいわれる[12]

イギリスは1807年に奴隷貿易の廃止を決め、ガンビアでも密貿易を厳しく監視するようになった。しかし、アフリカにおいて奴隷貿易が根絶されていったことは植民地支配の強化と表裏一体をなしていた[11]。ガンビアにしても、独立を達成したのは1965年になってからだった。

ガンビア一帯が経験してきた奴隷貿易は、アフリカ系アメリカ人作家アレックス・ヘイリーの小説『ルーツ』と、それを原作とするテレビドラマによって広く知られるところとなった。ヘイリーの先祖クンタ・キンテ (Kunta Kinteh) もまた、ジェームズ島からアメリカ大陸に送られた黒人奴隷であった。この小説とドラマ以来、奴隷として世界に離散した人々の子孫が、自らのルーツ探しでクンタ・キンテ島などを訪れる事が増えたという[14]

世界遺産に推薦されることになる物件は独立後も朽ち果てたままだったが、六連砲台以外は1995年に国定史跡に指定され、六連砲台も後に国定史跡の指定手続きがとられた[15]。なお、現在、世界遺産構成資産はすべて国有物になっている[15]

登録物件

クンタ・キンテ島と6つの関連遺跡で構成されており、首都バンジュールに残る六連砲台とノースバンク地方アッパー・ニウミ地区 (Upper Niumi District) に残るバレン要塞を除けば、全てノースバンク地方ロウアー・ニウミ地区 (Lower Niumi District) に属している[1]

クンタ・キンテ島

クンタ・キンテ島(旧ジェームズ島、世界遺産登録ID 761-001)は、この世界遺産の中心的な構成資産となっている小島で、世界遺産としての登録面積は 0.35 ha である[1]

ガンビア川の河口から30 km の位置に浮かぶ中島で[16]、現地民の口承によれば、ヨーロッパ人たちの到来前は釣り人たちが一休みするのに使っていた場所だったという[6]

バオバブなどに覆われた現在の島

ガンビア川は前述のようにかなり上流まで外洋船が遡上できる川であり、そこでの交易の拠点として、島の所有権が争われた。1651年にはクールラント・ゼムガレン公国が要塞を築き始めたが、1661年にはイングランドが攻囲し、占領した。それとともにクールラント人たちが聖アンデレ島 (St. Andrews Island) と呼んでいた島の名前を[12]ヨーク公ジェームズにちなんでジェームズ島と改称した[6]。それ以後、ヨーロッパ諸国の植民地戦争の影響を受けて、島とそこに築かれた要塞の所有権はイギリス、フランス、オランダなどの間で揺れ動き、度重なる攻防によって要塞は7度もの破壊と再建を繰り返した。しかし、要塞は1779年にフランス軍が破壊したのを最後に再建されることはなかった[6]。島はその後もしばらくは利用されたが、修復不可能な状態になった上に拠点としての重要性が失われたため、1815年には完全に放棄された[6]。島が放棄された後にバオバブが生い茂るようになり、ペリカンの生息地にもなっている[17]。2001年時点では島に定住者はいない[18]

クンタ・キンテ島の要塞(1755年)

現在の島に残る要塞の遺構は、方形で四隅に見張り塔が設置されており、塔と塔の間には防壁が張り巡らされている。防壁と塔の高さは5 m で[17]、後述するバレン要塞よりも高い。

その要塞のほか、奴隷貿易が行われていた頃に、船出前の奴隷たちを収容していた施設などの遺構も残っている[17][19]。先述した『ルーツ』のクンタ・キンテも、船出前にこの島に移送された[19]。ガンビア政府はその名をとって、2011年2月6日にジェームズ島をクンタ・キンテ島と改名した[3]

ガンビア政府はこの島を奴隷貿易の開始とその拡大の様子を伝える資産の一つと位置付けて、世界遺産の構成資産に含めた[20]。また、アフリカの地を二度と踏むことができなかった人々にとって、船出の前に見た最後の光景がこの島の景色だったはずという点からも、大西洋奴隷貿易を伝える文化遺産の中で特殊な位置を占めているとした[14]

六連砲台

六連砲台 (Six-Gun Battery, ID761-002) は、ガンビアの首都バンジュール市内にある砲台の遺構で、世界遺産登録面積は0.17 ha である[1]

バンジュールは1816年にセント・マリー島に建造された都市で、当時の名前はバサースト (Buthurst) といった。この都市はもともとクンタ・キンテ島の要塞に代わる防衛拠点として築かれたもので[12][3]、その中心をなすものとして1821年に完成したのが、24 ポンド砲 (24 pounder gun) を6門備えた六連砲台である[21]。この砲台は現在も議事堂 (State House) の敷地内に残っているが、許可なく近づくことは認められていない[21]。この世界遺産を構成する資産の中で自由なアクセスが制限されているのは、ここだけである[22]

1807年にイギリスでは奴隷貿易が禁止されたが、ガンビア川流域ではなおも継続しようとする者たちもいた。この砲台はそうした目的で河口から外洋へ出航しようとする船を砲撃するためにつくられたもので、奴隷貿易に関して肯定的に機能したクンタ・キンテ島の要塞などとは対照的である[23]

しかし、実際には砲弾が対岸に届かないという欠点があり、必ずしも有効に機能していなかった[21][24]。この欠点を補うべく対岸に建設されたのが、次に述べるバレン要塞である[24]

バレン要塞

バレン要塞 (Fort Bullen, ID761-003) は、構成資産で唯一アッパー・ニウミ地区に位置する要塞で、登録面積は6.3 ha である[1]

バンジュールの対岸に位置し、六連砲台の欠点を補うために、チャールズ・バレン提督 (Commodore Charles Bullen) のもとで1827年に竣工した[24]。 方形で見張り塔が四隅に聳える形式はクンタ・キンテ島の要塞とほぼ同じだが、周囲の防壁の高さは 3.5 m で、こちらの方が低い[21]

このバレン要塞と六連砲台は、ガンビア川の交易をイギリスが掌握することに貢献したが、1870年に放棄された[24]。ただし、バレン要塞だけは第二次世界大戦中にイギリス軍に再び使われる場面もあった[24]。そのときの使用で、本来存在していなかったコンクリート製の構築物が追加された場所もあったが、2000年6月の修復工事の際に撤去された[21]

1995年に世界遺産の暫定リストに登録された時には、「バレン要塞」の名で、クンタ・キンテ島とは別の資産として単独掲載されていた[25]

世界遺産の構成資産としては、六連砲台とともに、奴隷制が否定されるようになった植民地時代についての例証として評価されて推薦された[20]

サン・ドミンゴの遺跡群

サン・ドミンゴの遺跡群 (Ruins of San Domingo, ID761-004) は、15世紀にポルトガル人が交易のために建てた建造物群の跡であり、登録面積は0.723 ha である[1]

もともとは拠点として住居、教会、井戸、墓地などを備えた小集落を形成していたようだが、現在残っているのは住居跡と推測される壁と床の遺跡のみである[24][8]。床には抜け道が確認され、当時のポルトガル人たちの用心深さをうかがわせる。また、考古学的な調査によっても、当時の集落の姿がいくらか復元されている[8]。サン・ドミンゴの小集落は、かつてはクンタ・キンテ島の真水の供給源などとして重要な位置を占めていた[24]

この構成資産は、ヨーロッパ人が最初に拠点を置いて交易を始めた頃の様子を伝える例証として評価され、推薦された[20]

ポルトガル人の礼拝堂の遺構群

ポルトガル人の礼拝堂の遺構群 (Remains of Portuguese Chapel, ID761-005) はアルブレダにある遺跡で、登録面積は 0.006 ha である[1]。アルブレダは、ロウアー・ニウミ地区に属するマンディンゴ人が暮らす農村で、この村自体が緩衝地域に指定されている[26]。アルブレダにはポルトガル、フランスなど領有国が転々とした結果残された遺構が複数現存し、そのうち、ポルトガル人の礼拝堂とCFAOの社屋が世界遺産に登録されている。

前述のように、ポルトガル人がセネガンビアに初めて到達したのは15世紀半ばのことであった[6]。アルブレダの礼拝堂はそれから半世紀と経たない15世紀後半のうちに、ポルトガル人によって建造されたと考えられている[27]。現在は砂岩ラテライトを使った壁面の半分以上が、当時の姿のまま建っているに過ぎない[27]

この遺構は、サン・ドミンゴと同じく、ごく初期の交流の様子を伝えるものとして推薦資産に加えられた[20]

CFAOの社屋

廃墟となったCAFOの社屋

CFAOの社屋 (CFAO Building[注釈 1], ID761-006) はフランス西アフリカ会社 (CFAO, Compagnie Française d'Affrique Occidentale) の店舗兼住居の廃墟で、登録面積は0.03 haである[1]。 アルブレダの川辺にあるレンガと石を使った2階建ての建物で、かつては1階部分が店舗、2階部分が社員の住居となっていた[27]。かなり長い間様々な材質で補修された形跡などはあるが、最初に誰が建てたのかは分からなくなっている。1847年の地図には石造建築物が描かれているので、そのときには原型となる建物が存在していたと推測されているが、CFAOがこの建物を購入したのは1902年のことである[27]

このCFAOの社屋は、ガンビア政府の推薦書の中で登録基準との対照が明示されていない。ただし、アルブレダ村自体は、クンタ・キンテ島の要塞などとともに奴隷貿易の歴史と結び付けられている[20]

モーレル兄弟の倉庫

ジュフレにある遺構のひとつ

モーレル兄弟の倉庫 (Maurel Frères Building, ID761-007) は、ジュフレにある建物で、世界遺産登録面積は0.0191 ha である[20]

ジュフレもアルブレダと同じくマンディンゴ人が暮らす村だが、かつては奴隷狩りが行われた土地でもある。『ルーツ』で知られるクンタ・キンテもこの村の出身とされ、キンテ家の末裔は21世紀初頭の時点でもジュフレで暮らしている[8][19]。また、クンタ・キンテの生家も復元されている[19]。ガンビア政府はアルブレダとともに、ジュフレも村そのものを緩衝地域と位置付けていた[28]

このジュフレで唯一世界遺産に登録されているのが、モーレル兄弟の倉庫 (Warehouse) である。もともとは1840年頃にイギリス人が建てたが、のちにレバノン系の交易商人モーレル兄弟が買い取って倉庫として使った。1996年に修復された後、奴隷貿易に関する展示を行う博物館になっている[8]

ガンビア政府の推薦書の中では、登録基準との対照が明示されていない。ただし、ジュフレ自体が、奴隷貿易開始前の交易の様子や、奴隷貿易がひどくなっていく過程と結び付けられている[20]。そのジュフレの昔の倉庫で残っているのは、このモーレル兄弟の建物だけだという[8]

登録と改名

1995年に、「ジェームス島とアルブレダ / ジュフレ / サン・ドミンゴの歴史地域」 (James Island and the Albreda / Juffure / San Domingo Historic Zone) という名称で登録申請がなされたが、翌年にICOMOSは、西アフリカにおける植民地化以前の交易の様子を伝える文化遺産に関する比較研究の不足などを理由に、「登録延期」を勧告していた[29]。この結果、1996年の第20回世界遺産委員会ユカタン州メリダ)での登録は果たされなかった。

ガンビア政府はすでに世界遺産に登録されていた西アフリカの奴隷貿易に関わるゴレ島セネガル)やヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州の城塞群ガーナ)などと比較研究を行い[30]、資産名を「ジェームズ島と関連遺跡群」と改めた推薦書を再提出した。

これに対してICOMOSは、後述するように適用する登録基準について意見をつけたものの「登録」を勧告し、2003年の第27回世界遺産委員会(パリ)で登録が実現した[1]。これはガンビアでは初の世界遺産であり、同じ年に初登録を果たしたスーダンモンゴルカザフスタンとともに、世界遺産条約に批准していながら登録資産を持っていなかった状態から脱することができた[31]

2011年2月にジェームズ島がクンタ・キンテ島と改名したことを踏まえ、同年の第35回世界遺産委員会(パリ)で「クンタ・キンテ島と関連遺跡群」と改名することが承認された[32]

登録基準

ガンビア政府は基準 (4) と (6) に当てはまるとして推薦していた。基準 (4) は以下の通りである。

  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

ガンビアが理由として挙げていたのは、推薦資産がヨーロッパとアフリカの交流の変遷を物語る建造物群であるという点だった。つまり、ヨーロッパ人の到来前の時代を伝えるジュフレ、白人が交易の拠点を築いた時代を伝えるアルブレダ、奴隷貿易が始まった時代を伝えるクンタ・キンテ島(およびジュフレ、アルブレダなどの一部の建造物)、奴隷制に対する規制と植民地支配を伝える六連砲台とバレン要塞といった具合である[33]

しかし、ICOMOSはそうした理由はむしろ基準 (3) に適合するものであるとして、基準 (3) と (6) での登録を勧告した[34]

世界遺産委員会でもそれが踏襲されたため、この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
  • (6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

具体的には、基準 (3) は構成資産群が当初アフリカ内陸部との交易の窓口として、そしてやがては黒人奴隷の供給口としてヨーロッパ人に使われたことなどを示すもので、ヨーロッパとアフリカの交易の変遷を伝えている点に対して適用された。基準 (6) は、それらの資産群が、アフリカ人たちが奴隷として世界各地へ離散させられたことも含めた奴隷貿易の歴史と関わっている点に適用された[1]

観光

中心的な遺跡であるクンタ・キンテ島には、首都バンジュールからアルブレダまで、まずバスで約1時間半かけて行き、そこからさらにボートで約1時間かかる[35]

ガンビア政府によると、クンタ・キンテ島には1998年に団体客・個人客合わせて18620人、1999年には13911人が訪れたという。また、バレン要塞には1999年に2500人、2000年には3019人の来訪があったという[36]。この数字について、ガンビア政府は遺跡の保存の上で脅威になる数ではないとし[37]、ICOMOSもその点について特に注意はしなかった。

むしろICOMOSが脅威として強調したのは、川の氾濫や熱帯特有の豪雨による侵食作用、植物の成長による遺跡の損壊などであった[38]

脚注

注釈

  1. ^ ガンビア政府の推薦書でも世界遺産委員会の決議文書でもCFAOと略されており、いずれも欄外で正式名称の注記がある。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j UNESCO World Heritage Centre - Decision - 27COM 8C.34(2011年8月28日閲覧)
  2. ^ 世界遺産アカデミー (2010) p.188
  3. ^ a b c クンタ・キンテ島と関連遺跡群 - 世界遺産ガイド - Yahoo!トラベル古田陽久監修)(2011年8月28日閲覧)
  4. ^ 世界遺産アカデミー (2010) で「未来への教訓」の物件に分類されている。
  5. ^ 宮本・松田 (1997) pp.250-254
  6. ^ a b c d e f g h The Gambia (2001) pp.20-21
  7. ^ 宮本・松田 (1997) pp.256-257
  8. ^ a b c d e f The Gambia (2001) p.17
  9. ^ 宮本・松田 (1997) pp.257-259
  10. ^ 『データブック・オブ・ザ・ワールド』2009年版、p.266「ガンビア共和国」
  11. ^ a b c d 室井 (1999) pp.124-127
  12. ^ a b c d The Gambia Tourism Authority (2011) pp.8-9
  13. ^ 宮本・松田 (1997) p.272
  14. ^ a b The Gambia (2001) pp.10-11
  15. ^ a b The Gambia (2001) p.24, ICOMOS (2003) p.118
  16. ^ The Gambia (2001) p.15
  17. ^ a b c The Gambia (2001) pp.15-16
  18. ^ The Gambia (2001) p.29
  19. ^ a b c d NHK世界遺産 | 世界遺産ライブラリー [ジェームズ島と関連遺産](2011年8月28日閲覧)
  20. ^ a b c d e f g The Gambia (2001) p.14
  21. ^ a b c d e The Gambia (2001) p.18
  22. ^ The Gambia (2001) p.23
  23. ^ The Gambia (2001) p.11
  24. ^ a b c d e f g The Gambia (2001) p.21
  25. ^ cf. 古田陽久 (2009) 『世界遺産ガイド 暫定リスト記載物件編』 シンクタンクせとうち、p.19
  26. ^ ICOMOS (2003) p.117
  27. ^ a b c d The Gambia (2001) p.16
  28. ^ The Gambia (2001) p.10
  29. ^ ICOMOS (2003) p.119
  30. ^ The Gambia (2001) pp.11-12
  31. ^ 日本ユネスコ協会連盟 (2003) p.50
  32. ^ UNESCO World Heritage Centre - Decision - 35COM 8B.1(2011年8月28日閲覧)
  33. ^ The Gambia (2001) p.14
  34. ^ ICOMOS (2003) p.120
  35. ^ 『21世紀世界遺産の旅』(小学館、2007年)p.290
  36. ^ The Gambia (2001) p.27
  37. ^ The Gambia (2001) p.29
  38. ^ ICOMOS (2003) p.119

参考文献

関連項目

外部リンク