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「ワルシャワ・ゲットー蜂起」の版間の差分

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|combatant1=[[画像:Flag_of_Germany_1933.svg|22px]] [[ナチス・ドイツ|ドイツ]]<br />([[武装SS]]、[[秩序警察]]、[[保安警察]]、[[ドイツ陸軍]])<ref name="ヒルバーグ(1997)上389">[[#ヒルバーグ(1997)上|ヒルバーグ(1997)上巻、p.389]]</ref><br />ナチス協力者<br />([[総督府ポーランド警察|ポーランド警察]]、[[ランド消防隊]]、[[:de:Zwangsarbeitslager Trawniki|トラヴニキ強制労働収容所]][[ウクライナ人]]警備大隊)<ref name="ヒルバーグ(1997)上389">[[#ヒルバーグ(1997)上|ヒルバーグ(1997)上巻、p.389]]</ref>
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|strength1=1日2090人(821人の[[武装親衛隊|武装SS]]を含む)
|strength1=1日に展開し平均兵力2090人<ref name="ヒルバーグ(1997)上389"/>
|strength2=反乱軍750-1,800人 (4月19日)<br />56,000人以上の[[市民]]
|strength2=反乱軍750人<ref name="ヒルバーグ(1997)上388">[[#ヒルバーグ(1997)上|ヒルバーグ(1997)上巻、p.388]]</ref>ゲットー市民数5万6000人以上
|casualties1=シュトロープの記録では公式には16人死亡、86人負傷。他の資料では[[1月18日]]以降、ユダヤ人の協力者の数もいれ300人以上死亡
|casualties1=シュトロープの記録では公式には16人死亡、86人負傷<ref name="ラカー(2003)670"/>
|casualties2=シュトロープの記録では合計で56,065人を捕虜にし、うち1万3929人死亡。これとは別に5000人から6000人死亡<ref name="栗原(1997)214">[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.214]]</ref><ref name="ラカー(2003)670">[[#ラカー(2003)|ラカー(2003)、p.670]]</ref>
|casualties2=シュトロープの記録では約1,3000人が射殺。残りは絶滅収容所に送られる。合計で56,065人が殺害もしくは捕虜となった。
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}}
'''ワルシャワ・ゲットー蜂起'''(ワルシャワ・ゲットーほうき、{{lang-en-short|Warsaw Ghetto Uprising}}, {{lang-de-short|Aufstand im Warschauer Ghetto}}, {{lang-pl-short|Powstanie w getcie warszawskim}}, [[イディッシュ語]]: ווארשעווער געטא אויפשטאנד)は、[[第二次世界大戦]]中の[[1943年]]4月から5月にかけて[[ワルシャワ・ゲットー]]の[[ユダヤ人]][[レジスタンス]]たちが起こした[[ナチス・ドイツ]]に対する武装蜂起である。


== 概要 ==
'''ワルシャワ・ゲットー蜂起'''(ワルシャワ・ゲットーほうき、{{lang-en-short|Warsaw Ghetto Uprising}}, {{lang-de-short|Aufstand im Warschauer Ghetto}})は、[[第二次世界大戦]]中の[[ポーランド]]の[[ワルシャワ]]の[[ワルシャワ・ゲットー]]において、[[1943年]][[4月19日]]から[[5月16日]]の間、続いた武装蜂起である。この反乱は、[[強制収容所]]に送られることが死を意味することに気がついた[[ユダヤ人]]が命をかけてドイツ軍に対して起こしたものである。
第二次世界大戦がはじまり、[[東ヨーロッパ]]の諸都市が[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]に占領されると、それらの都市で暮らすユダヤ人たちは[[ゲットー]]に隔離されるようになった。しかし1942年から1943年にかけて[[親衛隊 (ナチス)|ナチス親衛隊(SS)]]は「[[ラインハルト作戦]]」を開始し、ゲットーのユダヤ人たちを続々と[[絶滅収容所]]に移送するようになった。[[ワルシャワ・ゲットー]]でも過酷な移送作戦が行われ、数多くのユダヤ人が[[トレブリンカ絶滅収容所]]へ移送されて殺害された。


この反乱の前兆として1943年[[1月18日]]にドイツ人とユダヤ人の内通者に対する粛清から始まった。戦闘は5月16日まで続き、反乱勢力は貧弱な武装と劣悪な補給の元、粘り強く戦ったが、最終的に[[ユルゲン・シュトロープ]]親衛隊少将によ完全に粉砕された。
更なる移送作戦を阻止するため、[[モルデハ・アニエレヴィッ]]指揮下の「[[ユダヤ戦闘組織]]」[[ダヴィド・アプフェルバウム]]([[:pl:Dawid Moryc Apfelbaum|pl]])指揮下の「[[ユダヤ人軍事同盟]]([[:pl:Żydowski Związek Wojskowy|pl]])」が[[1943年]][[4月19日]]から[[5月16日]]にかけてナチスに対して武装蜂起を起こした。反乱を起こしたユダヤ人たちは貧弱な武装と劣悪な補給にもかかわらず粘り強く戦ったが、最終的に[[ユルゲン・シュトロープ]][[親衛隊少将|SS少将]]率いる[[武装親衛隊|武装SS]]・[[秩序警察|ドイツ秩序警察]]・[[ドイツ国防軍]]などから成る混成部隊によって完全に鎮圧された。


鎮圧後、ワルシャワ・ゲットーの住民ほとんどがSSによって捕えられ、トレブリンカ、[[マイダネク]]、あるいは[[強制収容所 (ナチス)#強制労働収容所|強制労働収容所]]へと移送され、ワルシャワ・ゲットーは解体された。
== 背景 ==

== 蜂起までの経緯 ==
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{{main|ワルシャワ・ゲットー}}
=== ゲットー創設 ===
[[ポーランド]]の人口のうち300万人以上を占め、ポーランドの様々な都市の[[シュテットル]](ユダヤ人街)に集中しているユダヤ人を、[[ナチス]]は[[1940年]]頃より[[ゲットー]]を作り一箇所に集め始めていた。このうち最も大きなものが[[ワルシャワ・ゲットー]]で38万の人間を抱えており、都市の中央部の人口が集中しているエリアにあった。ユダヤ人は劣悪な環境におかれていたため、ナチスによるユダヤ人の大量虐殺が始まる前に、何千人ものユダヤ人が[[伝染病]]や[[飢餓]]によって死亡していた。
1939年9月のドイツ軍の[[ポーランド侵攻]]によって[[ワルシャワ]]はドイツ軍に占領された。ドイツ当局は1940年10月から11月にかけて[[ワルシャワ・ゲットー]]を創設した<ref name="ヒルバーグ(1997)上173">[[#ヒルバーグ(1997)上|ヒルバーグ(1997)上巻、p.173]]</ref>。同ゲットーの人口は最も多い時期で45万人であり、これはナチスが創設したゲットーの中でも最大であった<ref name="栗原(1997)70">[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.70]]</ref>。ゲットーの環境は劣悪であり、移送作戦までに約8万3000人のユダヤ人が[[伝染病]]や[[飢餓]]によってゲットー内で命を落とした<ref name="ヒルバーグ(1997)上204">[[#ヒルバーグ(1997)上|ヒルバーグ(1997)上巻、p.204]]</ref>。


=== 移送作戦 ===
武装蜂起が発生する[[1942年]][[9月12日]]直前の52日間で、約30万のゲットーの住民が[[トレブリンカ強制収容所|トレブリンカ絶滅収容所]]に送られ殺害された。
[[ポーランド総督府]]領内のユダヤ人を絶滅させるための「[[ラインハルト作戦]]」が1942年3月中旬から[[オディロ・グロボクニク]][[親衛隊少将|SS少将]]の指揮の下に実行された<ref name="ギルバート(1995)303">[[#ギルバート(1995)|ギルバート(1995)、p.303]]</ref><ref name="栗原(1997)181">[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.181]]</ref>。


ワルシャワ・ゲットーでは1942年7月22日から9月10日にかけて最初の移送作戦が行われ、「労働不能者」を中心に約30万人のゲットー住民が[[トレブリンカ強制収容所|トレブリンカ絶滅収容所]]へ移送されて[[ガス室]]で殺害された<ref name="栗原(1997)206">[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.206]]</ref><ref name="ヒルバーグ(1997)上382">[[#ヒルバーグ(1997)上|ヒルバーグ(1997)上巻、p.382]]</ref><ref name="ラカー(2003)667">[[#ラカー(2003)|ラカー(2003)、p.667]]</ref>。この移送作戦によりワルシャワ・ゲットーの住民数はせいぜい7万人になった<ref name="ヒルバーグ(1997)上382"/>。
ユダヤ人の「追放」が始まった当初、[[ユダヤ人の抵抗組織]]のメンバーは会合を持ち、ドイツに対して戦わないことを決定していた。これは、ユダヤ人が殺されるのではなく、[[労働キャンプ]]に送られるだけだと信じていたからであった。しかし、[[1942年]]の終わりには、「追放」と言うものが死の収容所へ送られることだとわかり、残ったユダヤ人は戦うことを決定した<ref name="numbers">USホロスコート博物館(US Holocaust Museum)[http://www.ushmm.org/outreach/wgupris.htm "Warsaw Ghetto Uprising"]</ref>。


=== 抵抗運動のはじまり ===
== 戦闘 ==
移送作戦が開始された直後の1942年7月23日にゲットー内の地下組織の指導者の会合があった。この席上シオニスト左派諸政党は武装抵抗を主張したが、他の出席者は移送されるのは恐らく数万人程度にとどまるだろうと考える者が多く、武装抵抗はかえって全ゲットー住民を危険に晒すとして反対論が相次いだ<ref>[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.206-207]]</ref><ref name="ヒルバーグ(1997)上381">[[#ヒルバーグ(1997)上|ヒルバーグ(1997)上巻、p.381]]</ref><ref name="ラカー(2003)668">[[#ラカー(2003)|ラカー(2003)、p.668]]</ref>。結局7月28日にシオニスト左派諸政党だけで武装抵抗組織「[[ユダヤ人戦闘組織]]」(ŻOB)を創設したが、各政党は移送作戦から自らの組織を守ることに手いっぱいで他党と会合を持ってる暇は無く、ユダヤ人戦闘組織も実際的にはほとんど機能せず、移送作戦に対して有効な抵抗はできなかった<ref name="栗原(1997)207">[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.207]]</ref>。
[[1943年]][[1月18日]]、ドイツが2回目のユダヤ人の「追放」を開始し始めた際に、最初の武装反乱が発生した。「追放」はその後4日間停止し、[[ユダヤ人戦闘組織|ŻOB]](Zydowska Organizacja Bojowa、[[ユダヤ人戦闘組織]])と[[ユダヤ人軍事同盟|ŻZW]](Zydowski Zwiazek Walki、[[ユダヤ人軍事同盟]])の反乱組織がゲットーの支配を握った。彼らは、何十もの抵抗拠点を作り、[[ユダヤ人ゲットー警察|ユダヤ人治安部隊]]とゲシュタポの工作員を含むナチ協力者と思われるユダヤ人を殺害した<ref>http://www.writing.upenn.edu/~afilreis/Holocaust/warsaw-uprising.html</ref>。


[[ファイル:Mordechaj Anielewicz.JPG|thumb|100px|left|[[モルデハイ・アニエレヴィッツ]]]]
=== 敵対勢力 ===
移送作戦が終了した後の1942年10月末、「[[ハショメル・ハツァイル]]([[:en:Hashomer Hatzair|en]])」リーダー[[モルデハイ・アニエレヴィッツ]]のもとに改めてユダヤ人戦闘組織が創設された<ref name="栗原(1997)207">[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.207]]</ref><ref name="ラカー(2003)668"/>。一方右派シオニストの修正主義者たちも独自に武装抵抗組織を立ち上げ、「[[ユダヤ人軍事同盟]]([[:pl:Żydowski Związek Wojskowy|pl]])」(ŻZW)を創設した<ref name="ラカー(2003)668"/>。
ゲットーでの反乱に対しドイツ軍は、部隊を投入し鎮圧を試みた。そのため、次の3か月間、ゲットーの全ての住民は可能な限りの準備を行い、最後の戦いに臨んだ。そのために、何百もの隠蔽された避難所である「壕」が家の下に掘られた([[防空壕]]とあわせて618個あった)。そのほとんどが、[[下水道]]や給水設備、電気の設備を備えていた。ゲットーの人々は[[拳銃]]と少しの[[ライフル銃|ライフル]]、そして1丁の[[機関銃]](後に、どこからか3丁の[[重機関銃]]も手にいれ)で武装していた。しかし、弾薬をほとんど持っておらず、簡単な[[爆薬|爆発装置]]や[[モロトフ火炎手榴弾|火炎瓶]]を主に使用していた。蜂起中にも、新たな武器の供給があり、一部はドイツ軍から捕獲したものもあった。ゲットーは3つの領域に分けられ、それぞれの組織はそれぞれの地区に対して責任を持った。


本格的に武装抵抗の準備が開始され、ゲットー外から武器を購入するようになる<ref name="ラカー(2003)668"/>。まず[[国内軍 (ポーランド)|国内軍(AK)]]などゲットー外のポーランド人レジスタンス組織と接触を図り、彼らから武器を仕入れようとしたが、ポーランド人の間にも[[反ユダヤ主義]]は根強く、大金を積んだにも関わらず彼らがくれた物は[[拳銃]]10丁だけだった<ref>[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.207-208]]</ref><ref name="ロガスキー(1992)160">[[#ロガスキー(1992)|ロガスキー(1992)、p.160]]</ref>。国内軍指揮官たちはユダヤ人に武器を渡してもまともに使えるかどうか極めて怪しいと考えていた<ref name="ロガスキー(1992)160"/>。結局ユダヤ人たちはゲットーの外へ抜け出て、ドイツ軍から武器を盗んだり購入したりした仲介人や脱走兵などから巨額の金を払って武器を購入することになった<ref name="ラカー(2003)668"/><ref name="ロガスキー(1992)160"/>。
ゲットーの外からの支援は限られていた。しかし、[[国内軍_(ポーランド)|国内軍(AK)]]<ref name="AK">[http://www.amopod.org/uprising/Addend_2.htm Addendum 2 - ポーランドの抵抗組織とゲットーの闘士への支援の事実(Facts about Polish Resistance and Aid to Ghetto Fighters)], [[Roman Barczynski]], Americans of Polish Descent, Inc. Last accessed on 13 June 2006.</ref>と[[人民軍_(ポーランド)|共産主義者の部隊]]<ref>http://wilk.wpk.p.lodz.pl/~whatfor/getto_43.htm</ref>からの[[ポーランドの抵抗組織]]の部隊が、ゲットーの壁近くで警備部隊を攻撃し、武器や弾薬を内部に送る努力を試みた。国内軍は4月19日から4月23日までの間、塀の外のあちこちでゲットーに侵入する試みでドイツ軍と交戦を行った<ref name="AK" />。
[[ヘンリク・イワンスキー]] (Henryk Iwański) 指揮下の国内軍の一部隊、Państwowy Korpus Bezpieczeństwa(国民保安軍団の意)は、ŻZWとともにゲットーの内側で戦い、最終的には塀の外、「アーリア人の領域」へ撤退した。国内軍はポーランド国内と、連合国へ無線通信を介して、ゲットーのユダヤ人に関する情報と、彼らへの援助を求める連絡を行った<ref name="AK" />。ŻOBの一部のパルチザンと指揮系統の一部はポーランドの支援の元、運河を通り脱出した<ref name="AK" />。イワンスキーの行動が最も有名であったが、これは、ポーランドの抵抗勢力が行ったユダヤ人を助けるための多数の行動の1つであった<ref name="Korb">[[Stefan Korbonski]], ''"ポーランドの地下組織。1939〜1945年の地下組織の説明(The Polish Underground State: A Guide to the Underground, 1939-1945)"'', pages 120-139, [http://www.ucis.pitt.edu/eehistory/H200Readings/Topic4-R3.html Excerpts]</ref>。


1942年終わり頃にユダヤ人戦闘組織は、彼らが「対独協力者」と看做していた[[ユダヤ人評議会]]や[[ユダヤ人ゲットー警察]]に対するテロ活動を本格化させた<ref>[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.208-209]]</ref>。ゲットー警察長官ヤーコプ・レイキンやユダヤ人評議会経済局長イズラエル・フィルストなどを暗殺した。これによりユダヤ人評議会とゲットー警察のゲットー内における威信は大きく低下した<ref name="栗原(1997)209">[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.209]]</ref>。
しかし、ポーランド人とユダヤ人抵抗勢力の闘士による努力はナチスの軍事力に対して十分でないことを証明した。ドイツ軍は、1日あたり平均して2054人の兵士と36人の士官を投入した。この兵の中には、821人の[[武装親衛隊]]([[予備兵力]]の[[装甲擲弾兵]]の部隊、[[訓練]]大隊、SS予備[[騎兵]]部隊)と363人の総督府ポーランド警察の人員を含みゲットーの壁沿いに非常線を張る様に命令をされた<ref name="stroop">From the [http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/Holocaust/nowarsaw.html Stroop Report] by SS[[Gruppenführer]] Jürgen Stroop, May 1943.</ref>。他の戦力として、[[秩序警察]]の[[警察連隊]]から第22、第23大隊を、[[親衛隊保安部]](SD)の[[情報部隊]]、陸軍の2個[[鉄道工兵|鉄道戦闘工兵]]連隊からあわせて1個大隊を、陸軍の[[軽砲兵]]中隊と、[[親衛隊|SS]]の[[ユダヤ人問題の最終的解決|最終解決]]訓練キャンプ[[トラヴニキ]](Trawniki)からトラヴニキ人部隊 (''Trawniki-Männer''、トラヴニキの人の意) のウクライナ人の大隊と、リトアニアとラトヴィアの補助警察 (auxiliary police) (アスカリス、''Askaris'')と、ポーランド[[消防士]]と、同様に緊急軍団(technical emergency corps)がいた。これらは、ユダヤ人狩りを行う[[フランツ・ビルキ]](Franz Bürkl)指揮下の[[パヴィアク刑務所]]から来たゲシュタポの看守や処刑人も含んでいた。これらの部隊は、装甲戦闘車両や[[化学兵器|毒ガス]]、[[火炎放射器]]、[[航空機]]、[[戦車]]、[[砲兵]]を含む装備を保有していた。


=== 初の武装蜂起 ===
==== 日本における重大な誤解 ====
1943年1月9日に[[親衛隊全国指導者|SS全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]自らがワルシャワを訪れた。まだ4万人のユダヤ人がゲットーにいること(実際にはもう少し多くいた)を報告されたヒムラーは、さらに8000人のユダヤ人を移送するよう命じた<ref name="ヒルバーグ(1997)上386">[[#ヒルバーグ(1997)上|ヒルバーグ(1997)上巻、p.386]]</ref><ref name="ベーレンバウム(1996)233">[[#ベーレンバウム(1996)|ベーレンバウム(1996)、p.233]]</ref>。ヒムラーの命を受けて[[親衛隊 (ナチス)|SS]]・警察部隊は1月18日から第二次移送作戦を開始した。これにより6500人のユダヤ人が移送され、1171人のユダヤ人が殺害された<ref name="ヒルバーグ(1997)上387">[[#ヒルバーグ(1997)上|ヒルバーグ(1997)上巻、p.387]]</ref>。
なお、[[放送大学]]教授の[[高橋和夫]]は『季刊アラブ』2010年秋号、第134号、14~15ページにおいて、ワルシャワ・ゲットー蜂起でカトリック教徒のポーランド人が蜂起を支援していた事実を封殺し、「この時にポーランドの[[バルチザン]](対独抵抗運動)は、指一本動かそうとはしなかった。」と述べ、アメリカ在住ユダヤ人一般に定着している「カトリック教徒のポーランド人がユダヤ教徒のポーランド人を見捨てた」という誤解の立場を採用している。高橋は翌44年の[[ワルシャワ蜂起]]の悲劇をして「ユダヤ人を見殺しにしたバルチザンが今度はソ連軍に見捨てられた。ポーランド史とは悲劇の重層構造である。しかも、層の間に深い憎しみの溝がある。」と、結論づけている。<ref>http://ameblo.jp/t-kazuo/entry-10661200111.html アウシュビッツの旅(1)高橋和夫の国際政治ブログ</ref>


この移送作戦の際にユダヤ人戦闘組織はゲリラ戦による武装抵抗を起こした<ref name="栗原(1997)209">[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.209]]</ref><ref>[[#ベーレンバウム(1996)|ベーレンバウム(1996)、p.233-234]]</ref>。ユダヤ人レジスタンスはドイツ兵に奇襲をかけては屋根伝いに逃げた<ref name="ベーレンバウム(1996)233">[[#ベーレンバウム(1996)|ベーレンバウム(1996)、p.233]]</ref>。ドイツ兵に数人の死者がでたため<ref name="ヒルバーグ(1997)上387">[[#ヒルバーグ(1997)上|ヒルバーグ(1997)上巻、p.387]]</ref>、ドイツ当局はゲットー内を安易に動き回る事が出来なくなった<ref name="ベーレンバウム(1996)234">[[#ベーレンバウム(1996)|ベーレンバウム(1996)、p.234]]</ref>。やがて移送作戦は中止された<ref name="ギルバート(1995)158">[[#ギルバート(1995)|ギルバート(1995)、p.158]]</ref><ref name="栗原(1997)209">[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.209]]</ref>。
=== ドイツの攻撃 ===
[[Image:Stroop Report - Warsaw Ghetto Uprising 03.jpg|thumb|250px|ゲットー攻撃を指揮するユルゲン・シュトロープ少将(中央の人物)]]
最後の戦闘は[[4月19日]]の[[過越|過越祭]]の夕方に始まった。ドイツ軍は大挙してゲットーに突入した。ユダヤ反乱軍は、裏通り、下水道、家の窓、燃えている建物からでさえ射撃を行い、ナチスの部隊に[[モロトフ火炎手榴弾|火炎瓶]]と[[手榴弾]]を投げつけた。フランス製装甲車は、ŻOB の火炎瓶により炎上し、ドイツ軍の最初の攻撃は撃退された。ユダヤ反乱軍は、[[フェルディナント・フォン・ザンメルン・フランケネック]](Ferdinand von Sammern-Frankenegg) 指揮下のドイツ軍に対して大きな成功を収めた。彼は、[[国家保安本部|SSと警察]]のワルシャワ地区の指揮官を罷免され、[[ユルゲン・シュトロープ]]がその地位に就いた。


=== ゲットーに「革命政権」誕生 ===
攻撃がやんだ後、ナチスは、ブロックごと建物を焼きつくし、地下や下水道を吹き飛ばし、捕らえたユダヤ人を検挙もしくは殺害していった。4月19日にもう1台の装甲車両が反乱軍により破壊された。その戦いでは、反乱軍の ŻZW の指揮官ダビッド・アプフェルバウム(Dawid Apfelbaum)が死亡した。残った拠点での最も長い戦闘が、ムラノウスキー・スクエア (Muranowski Square) 付近のŻZWの拠点で4月19日から4月末まで続いた。4月29日に、指揮官を失った組織の残った闘士はゲットーを捨て、ムラノウスキー・トンネルを通り、ミッヒェン (Michain) の森へ逃げ、戦闘が終結した。
ユダヤ人戦闘組織の蜂起はこれまで武装抵抗に懐疑的だったゲットー住民からも高く評価された。彼らは第二次移送作戦が最初と比べて小規模ですんだのはドイツ当局が武装抵抗に恐れをなしたからだと考えたのである(実際にはヒムラーがもともと8000人の移送しか命じていないためだったが)<ref name="栗原(1997)210">[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.210]]</ref><ref name="ラカー(2003)669">[[#ラカー(2003)|ラカー(2003)、p.669]]</ref>。


アニエレヴィッツとユダヤ人戦闘組織を支持するゲットー住民は急速に増え、それはゲットー内で一種の「革命政権」となった<ref name="栗原(1997)210">[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.210]]</ref>。一方本来のゲットー行政機関であるユダヤ人評議会はすっかり権威を落としていた。ユダヤ人評議会議長[[マレク・リヒテンバウム]]はドイツ当局からの命令に対して「私はもはやゲットー内に何の権威も持っていない。権威を持っているのは別の組織だ。それはユダヤ人戦闘組織だ」と答えている<ref name="栗原(1997)210"/>。ユダヤ人戦闘組織はユダヤ人評議会を脅迫してその予算を吐き出させ、またゲットー住民の富裕層に高い税金を課すことで資金を集め、それを武器購入費用にあてた<ref name="栗原(1997)210"/>。
=== 掃討 ===
主な戦いが終結した後も、残った壕は、抵抗の拠点となっていた。この戦闘では、ドイツ軍は発煙手榴弾と[[化学兵器|催涙ガス]]と[[毒ガス]]を使用し、ユダヤ人を追い出した。多くの場合、ユダヤ人は出てきた後も発砲を続けた。また多数の男性の闘士や女性の闘士の一部は隠された手榴弾や銃を降伏後に発砲した。[[5月8日]]にドイツ軍は、ミワ (Miła) 18番地にŻOB の[[司令部|指揮所]]を発見し、そこで指揮官のほとんどと残った100人以上の闘士が殺された。彼らは、集団自殺を行った。その中には、組織の指揮官[[モルデハイ・アニエレヴィッツ]]も含んでいた。


=== 蜂起の準備 ===
この反乱は[[5月16日]]に終わった。しかし、1943年の夏頃まではゲットーの地域で散発的な銃声が聞こえていた。最終的に、反乱は[[6月5日]]に終息した。最後のドイツ人に対する戦いはユダヤ人の犯罪者によるもので、ŻZW や ŻOB とは無関係であった。
国内軍からのユダヤ人レジスタンス組織への評価も上がったが<ref name="ラカー(2003)669">[[#ラカー(2003)|ラカー(2003)、p.669]]</ref>、国内軍がユダヤ人戦闘組織に対して新たに支給したのは拳銃50丁、手りゅう弾50個、爆薬その他だけであった<ref name="ヒルバーグ(1997)上387"/><ref name="栗原(1997)210">[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.210]]</ref><ref name="ミード(1992)210">[[#ミード(1992)|ミード(1992)、p.210]]</ref>。右派シオニストのユダヤ人軍事同盟に対してはもう少し多くの支援をしたが、結局のところ国内軍がユダヤ人レジスタンスに対して行った支援は最低限でしかなかった<ref name="ヒルバーグ(1997)上387"/>。


蜂起までにユダヤ人レジスタンスが確保できた武器は多くない。数百丁の拳銃、若干の[[ライフル銃|ライフル]]と[[カービン]]、ごくわずかな[[機関銃]]、他には爆薬や[[モロトフ火炎手榴弾|火炎瓶]]や手りゅう弾などであった<ref name="ヒルバーグ(1997)上389">[[#ヒルバーグ(1997)上|ヒルバーグ(1997)上巻、p.389]]</ref><ref name="ロガスキー(1992)165">[[#ロガスキー(1992)|ロガスキー(1992)、p.165]]</ref>。。戦闘員の装備は拳銃と数個の手りゅう弾というのが通常であった<ref name="栗原(1997)211">[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.211]]</ref>。武器があまりに少ないため、志願兵の受け入れを中止した結果、戦闘員の数はユダヤ人戦闘組織とユダヤ人軍事同盟をあわせても1000人に満たなかった<ref name="ヒルバーグ(1997)上389">[[#ヒルバーグ(1997)上|ヒルバーグ(1997)上巻、p.389]]</ref>。一方地下壕に関してはかなり綿密に準備した。空調設備や電気設備も備え、数カ月は持ちこたえられる量の水・食料・医薬品が備蓄された<ref name="ラカー(2003)669">[[#ラカー(2003)|ラカー(2003)、p.669]]</ref>。
=== 死傷者数 ===
[[画像:Monument_of_ghetto_uprising.JPG|thumb|300px|right|ワルシャワ・ゲットーの英雄記念碑]]戦いを通して、7千人のユダヤ人が戦死し、6千人が防空壕の中で焼死した。残った5万人は絶滅収容所に送られた。ほとんどは[[トレブリンカ強制収容所]]に送られた。


ドイツ当局がいつ最終的な移送作戦を行うのかゲットー住民には分からなかったのでレジスタンス戦闘員たちはいつ移送作戦が開始されても即時に武装蜂起できるよう準備にあたっていた<ref name="ミード(1992)236">[[#ミード(1992)|ミード(1992)、p.236]]</ref>。一般のゲットー住民が隠れ家を作るのに奔走していた1943年1月から4月のあいだ、戦闘員たちは戦闘訓練にあけくれていた<ref name="栗原(1997)211"/>。
1943年[[5月13日]]付のユルゲン・シュトロープの最終報告書は以下のように記述している。


== 武装蜂起 ==
<blockquote>180人のユダヤ人、ごろつき、下等人間を殺害した。もはや[[ワルシャワ・ゲットー]]は存在しない。鎮圧作戦は、[[ワルシャワ・シナゴーグ]] ([[:en:Warsaw Synagogue|Warsaw Synagogue]]) を爆破して20:15に終結した。・・・処分したユダヤ人の数は56,065人、これは捕まえたユダヤ人と殺害したユダヤ人の総数である<ref name="stroop" />。</blockquote>
=== 4月19日のユダヤ人の勝利 ===
[[1943年]][[4月18日]]にドイツ当局が武力でゲットーを制圧して移送作戦を再開するとの情報がユダヤ人戦闘組織に伝わった。ただちにゲットー全住民に警告を発するとともに地下壕にこもって戦闘準備を開始した<ref name="ベーレンバウム(1996)234">[[#ベーレンバウム(1996)|ベーレンバウム(1996)、p.234]]</ref>。


[[4月19日]]([[過越|過越祭]]の始まる日だった)午前3時頃、[[親衛隊及び警察指導者|「ワルシャワ」親衛隊及び警察指導者]]である[[フェルディナント・フォン・ザンメルン・フランケネック]][[親衛隊上級大佐|SS准将]]率いる2000人ほどのSS・警察部隊によってゲットーが包囲された。このSS・警察部隊は[[武装親衛隊|武装SS]]の2個訓練・補充大隊、[[秩序警察]]の第22警察連隊に属する2個大隊、[[トラヴニキ強制労働収容所]]([[:de:Zwangsarbeitslager Trawniki|de]])の警備にあたっていたウクライナ人民兵による1個大隊、それからわずかな[[保安警察]]からの分遣隊によって編成されていた<ref name="ヒルバーグ(1997)上389">[[#ヒルバーグ(1997)上|ヒルバーグ(1997)上巻、p.389]]</ref>。武装SS部隊は訓練不足の者や負傷から回復したばかりの者で構成されており、また秩序警察部隊の方は退役者や[[総督府ポーランド警察]]やポーランド消防隊も動員されていた<ref name="ヒルバーグ(1997)上389"/>。動員された戦車はわずかな数のフランス製軽戦車(大砲なし)のみであった<ref name="ヒルバーグ(1997)上389"/><ref name="栗原(1997)212">[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.212]]</ref>。
この報告で、シュトロープは、味方の16人が死亡、86人が負傷し、このうち60人以上が武装親衛隊であったと記述している。他の文献からでは、1300人のドイツ軍もしくはその協力者が蜂起において死亡もしくは負傷したと推測される。

午前6時頃から武装SS部隊が[[集荷場 (ワルシャワ・ゲットー)|集荷場]]に面したゲットー・ザメンホーファー通りに侵入を開始した<ref name="ヒルバーグ(1997)上388">[[#ヒルバーグ(1997)上|ヒルバーグ(1997)上巻、p.388]]</ref>。ユダヤ人レジスタンスたちは火炎瓶で戦車を足止めしつつ、武装SS兵たちに銃撃を浴びせた<ref name="ヒルバーグ(1997)上388"/>。さしたる抵抗はないと思っていたフォン・ザンメルンの部隊は予想外のユダヤ人の激しい抵抗に7時30分には潰走した<ref name="ベーレンバウム(1996)234"/><ref name="ヒルバーグ(1997)上388"/>。

[[ファイル:Stroop Report - Warsaw Ghetto Uprising 03.jpg|thumb|250px|蜂起の鎮圧の指揮を執る[[ユルゲン・シュトロープ]]SS少将]]
同日午前8時にフォン・ザンメルン・フランケネックは解任されて[[ユルゲン・シュトロープ]]SS少将が新しい鎮圧部隊の指揮官となった<ref name="ヒルバーグ(1997)上388"/>。ヒムラーはシュトロープに対して「ワルシャワ・ゲットーでの狩り集めは容赦のない決意と出来る限り冷酷な方法で実行しろ。攻撃は強力であればある程良い。ここ最近の事例はユダヤ人がいかに危険であるかを示している」という命令を下した<ref name="ロガスキー(1992)162">[[#ロガスキー(1992)|ロガスキー(1992)、p.162]]</ref>。しかしシュトロープもこの日に戦況を変えることはできなかった。ユダヤ人レジスタンスの粘り強い抵抗の末、午後5時にはドイツ軍は戦車1台と装甲車1台を失ってゲットーから一時撤収し、この日の戦闘は終了した<ref name="栗原(1997)213">[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.213]]</ref><ref name="ロガスキー(1992)163">[[#ロガスキー(1992)|ロガスキー(1992)、p.163]]</ref>。

これはドイツ軍占領下のワルシャワにおいて起こった初めての大規模反乱であった。ゲットーから次々と運び出されていくドイツ兵の死傷者たちを目撃したゲットー外のポーランド人たちはユダヤ人にこんな真似ができるはずはないと考え、「ポーランド軍の将校たちが指揮をとっているに違いない」「ポーランド軍が抵抗運動を組織したのだ」などと語っていたという<ref name="ミード(1992)238">[[#ミード(1992)|ミード(1992)、p.238]]</ref>。

女性レジスタンス指導者[[ツィヴィア・ルベトキン]]([[:pl:Cywia Lubetkin|pl]])はこの4月19日の勝利を「最高の喜びだった。明日のことなど気にならなかった。我々ユダヤ人闘士は奇跡だと小躍りしていた。手作りの火炎瓶と手りゅう弾に恐れおののいて、無敵の勇者だったはずのドイツ兵どもが退却したのだ」と回想している<ref>[[#ベーレンバウム(1996)|ベーレンバウム(1996)、p.234-235]]</ref>。彼の言葉にもあるとおりレジスタンス側の武器で特に役に立ったのは火炎瓶と手りゅう弾であった。数が非常に少ないが機関銃も非常に役に立った。しかし拳銃はほとんど役に立たなかった<ref name="栗原(1997)213">[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.213]]</ref>。

=== 焦土作戦 ===
しかしユダヤ人たちの勝利は4月19日だけだった<ref name="栗原(1997)213"/>。4月20日、[[ドイツ国防軍]]ワルシャワ上級野戦司令官[[フリッツ・ロッスム]](Fritz Rossum)少将の派遣した応援部隊がシュトロープの手元に到着した<ref name="ヒルバーグ(1997)上388">[[#ヒルバーグ(1997)上|ヒルバーグ(1997)上巻、p.388]]</ref>。この国防軍応援部隊は1個軽[[高射砲]]中隊と[[曲射砲]]小隊を中心としていた<ref name="ヒルバーグ(1997)上388">[[#ヒルバーグ(1997)上|ヒルバーグ(1997)上巻、p.388]]</ref>。シュトロープはゲットーの建物に火を放って隠れたユダヤ人たちをあぶり出す[[焦土作戦]]に切り替えた<ref name="クノップ(2004)305">[[#クノップ(2004)|クノップ(2004)、p.305]]</ref>。シュトロープは「非人間と暴徒を地上にあぶり出すにはそれが唯一の方法であった」と日誌に書き記している<ref name="ロガスキー(1992)164">[[#ロガスキー(1992)|ロガスキー(1992)、p.164]]</ref>。

4月20日、ドイツ軍は[[火炎放射器]]をもって再びゲットーへの侵入を開始した<ref name="ヒルバーグ(1997)上388">[[#ヒルバーグ(1997)上|ヒルバーグ(1997)上巻、p.388]]</ref><ref name="ロガスキー(1992)164">[[#ロガスキー(1992)|ロガスキー(1992)、p.164]]</ref>。軽高射砲と曲射砲によるゲットーの建物への砲撃も行われた<ref name="ヒルバーグ(1997)上388">[[#ヒルバーグ(1997)上|ヒルバーグ(1997)上巻、p.388]]</ref>。4月22日までにはゲットーの複数の地域が炎上していた<ref name="ヒルバーグ(1997)上388"/>。ドイツ軍はゲットー包囲を強化し、電気や水、ガスを完全に止めた<ref name="ベーレンバウム(1996)235">[[#ベーレンバウム(1996)|ベーレンバウム(1996)、p.235]]</ref><ref name="ロガスキー(1992)164">[[#ロガスキー(1992)|ロガスキー(1992)、p.164]]</ref>。水がないため火を消すことはできなかった<ref name="ミード(1992)253">[[#ミード(1992)|ミード(1992)、p.253]]</ref>。レジスタンスたちは徐々に持ち場を放棄して地下壕に撤退せざるを得なくなった<ref name="ラカー(2003)669">[[#ラカー(2003)|ラカー(2003)、p.669]]</ref>。蜂起開始から2週目には地下壕が戦闘の中心となっていた<ref name="ラカー(2003)670">[[#ラカー(2003)|ラカー(2003)、p.670]]</ref>。ドイツ軍は一つずつ地下壕を発見していって手りゅう弾や催涙ガスを地下壕に放り投げ、ユダヤ人たちが這い出てきたところを掃討して片づけていった<ref name="ラカー(2003)670"/><ref name="ギルバート(1995)158">[[#ギルバート(1995)|ギルバート(1995)、p.158]]</ref>。

大多数のゲットー住民は蜂起に参加しておらず、ただ隠れていただけだったが、多くの者が巻き込まれて建物の下敷きになったり地下壕で窒息死したりして死亡した<ref name="クノップ(2004)305">[[クノップ(2004)|クノップ(2004)、p.305]]</ref><ref name="ヒルバーグ(1997)上390">[[#ヒルバーグ(1997)上|ヒルバーグ(1997)上巻、p.390]]</ref>。下水道からゲットー脱出を図ろうとするユダヤ人が相次いだが、ドイツ軍側はマンホールを爆破することでこれを防いだ<ref name="ヒルバーグ(1997)上388"/>。拘束されたゲットー住民は[[集荷場 (ワルシャワ・ゲットー)|集荷場]]に停めてある列車に乗せられて続々と移送されていった。

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File:Stroop Report - Warsaw Ghetto Uprising - 26552.jpg|炎上するヴォリンスカ通りの建物
File:Ghetto Uprising Warsaw2.jpg|ノヴォリピエ通りの炎上する建物の前を通過するSS兵たち
File:Stroop Report - Warsaw Ghetto Uprising - 10501.jpg|煙で前が見えないノヴォリピエ通り
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=== ゲットー外からの支援 ===
ゲットーの外からの支援は限られていた。しかしゲットー外のポーランド人レジスタンス組織である[[国内軍_(ポーランド)|国内軍(AK)]]<ref name="AK">[http://www.amopod.org/uprising/Addend_2.htm Addendum 2 - ポーランドの抵抗組織とゲットーの闘士への支援の事実(Facts about Polish Resistance and Aid to Ghetto Fighters)], [[Roman Barczynski]], Americans of Polish Descent, Inc. Last accessed on 13 June 2006.</ref>と[[人民軍_(ポーランド)|人民軍]]<ref>http://wilk.wpk.p.lodz.pl/~whatfor/getto_43.htm</ref>がまったく協力しなかったわけではない。ゲットーの壁近くで警備部隊を攻撃し、武器や弾薬を内部に送る努力を試みた。この武器・弾薬の支援を受けるためのユダヤ人側の交渉役は[[イツハク・ツケルマン]]であった<ref name="ヒルバーグ(1997)上387">[[#ヒルバーグ(1997)上|ヒルバーグ(1997)上巻、p.387]]</ref>。また国内軍自身も4月19日から4月23日までの間、塀の外のあちこちでゲットーに侵入する試みでドイツ軍と交戦を行った<ref name="AK" />。

[[ヘンリク・イヴァンスキ]]([[:pl:Henryk Iwański|pl]])少佐指揮下の国内軍の一部隊、Państwowy Korpus Bezpieczeństwa(国民保安軍団の意)は、ユダヤ人軍事同盟とともにゲットーの内側で戦い、最終的には塀の外、「アーリア人の領域」へ撤退した。国内軍はポーランド国内と、連合国へ無線通信を介して、ゲットーのユダヤ人に関する情報と、彼らへの援助を求める連絡を行った<ref name="AK" />。ŻOBの一部のパルチザンと指揮系統の一部はポーランドの支援の元、運河を通り脱出した<ref name="AK" />。イヴァンスキの行動が最も有名であったが、これは、ポーランドの抵抗勢力が行ったユダヤ人を助けるための多数の行動の1つであった<ref name="Korb">[[Stefan Korbonski]], ''"ポーランドの地下組織。1939〜1945年の地下組織の説明(The Polish Underground State: A Guide to the Underground, 1939-1945)"'', pages 120-139, [http://www.ucis.pitt.edu/eehistory/H200Readings/Topic4-R3.html Excerpts]</ref>。

=== 鎮圧 ===
ユダヤ人軍事同盟はユダヤ人戦闘組織より装備が良かったこともあり、ゲットーの中心であるムラノウスキー広場 (Muranowski Square) 付近の拠点を長い期間持ちこたえて戦った<ref name="ミード(1992)252">[[#ミード(1992)|ミード(1992)、p.252]]</ref>。しかし4月27日の戦闘でユダヤ人軍事同盟指導者[[ダヴィド・アプフェルバウム]]([[:pl:Dawid Moryc Apfelbaum|pl]])が負傷した<ref name="ヒルバーグ(1997)上390">[[#ヒルバーグ(1997)上|ヒルバーグ(1997)上巻、p.390]]</ref>。同日、[[ヘンリク・イヴァンスキ]]([[:pl:Henryk Iwański|pl]])少佐率いる国内軍の部隊がゲットー外から地下道を通ってユダヤ人軍事同盟の負傷者の運び出しに駆け付けたが、アプフェルバウムはゲットーから離れることを拒否し、翌28日に死亡している<ref name="ヒルバーグ(1997)上390"/>。

5月8日にはミワ18番地にあったユダヤ人戦闘組織の地下壕がドイツ軍に包囲された。ガス弾や手りゅう弾や爆薬を投げ込まれ、ユダヤ人レジスタンスは次々と戦死した。生き残った者たちももはやこれまでと判断し、その日のうちにお互いに銃を向けあって集団自決した<ref name="ミード(1992)259">[[#ミード(1992)|ミード(1992)、p.259]]</ref>。モルデハイ・アニエレヴィッツもここで死亡した<ref name="ヒルバーグ(1997)上390"/>。

2日後、数十名のユダヤ人レジスタンスたちが[[人民軍_(ポーランド)|ポーランド人共産主義者]]の協力で下水道を通ってゲットーを脱出した<ref name="ロガスキー(1992)164"/><ref name="ヒルバーグ(1997)上390"/><ref name="ミード(1992)260">[[#ミード(1992)|ミード(1992)、p.260]]</ref><ref name="ロガスキー(1992)164"/>。その後も数個の戦闘部隊がゲットーに残り、戦闘を継続していたが、5月15日までには戦闘は散発的となった<ref name="ヒルバーグ(1997)上390"/><ref name="ロガスキー(1992)164"/>。

5月16日にシュトロープは「もはやワルシャワにゲットーは存在せず」と報告書を書いている<ref name="ギルバート(1995)158">[[#ギルバート(1995)|ギルバート(1995)、p.158]]</ref>。同日午後8時15分、シュトロープは鎮圧記念に[[ワルシャワ・シナゴーグ]] ([[:en:Warsaw Synagogue|Warsaw Synagogue]]) を爆破解体させた<ref name="ヒルバーグ(1997)上390"/>。

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File:Stroop Report - Warsaw Ghetto Uprising - 26549.jpg|捕虜のユダヤ人レジスタンスを尋問する[[マクシミリアン・フォン・ヘルフ]][[親衛隊大将|SS中将]]。ヘルフの左後方はシュトロープ。
File:Stroop Report - Warsaw Ghetto Uprising 08.jpg|捕虜のユダヤ人レジスタンスたち
File:Stroop Report - Warsaw Ghetto Uprising - 26546.jpg|捕虜のユダヤ人レジスタンスたち
File:Stroop Report - Warsaw Ghetto Uprising 13.jpg|捕虜の女性ユダヤ人レジスタンスたち
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File:Varsovia.jpg|拘束したゲットー住民の身体検査
File:Stroop Report - Warsaw Ghetto Uprising 04.jpg|拘束したゲットー住民の尋問
File:Stroop Report - Warsaw Ghetto Uprising 05.jpg|拘束したゲットー住民の尋問
</gallery>

=== 死傷者数と移送者数 ===
ユルゲン・シュトロープSS少将の報告書によると「検挙されたユダヤ人5万6065人のうち、7000人がゲットーでの作戦中に死亡。さらに6929人はトレブリンカへ移送して殺害した。あわせて1万3929人が命を落とした。この5万6065人とは別にさらに5000人から6000人が火災で焼け死んだ」という<ref name="栗原(1997)214">[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.214]]</ref><ref name="ラカー(2003)670">[[#ラカー(2003)|ラカー(2003)、p.670]]</ref>。しかし5万6065人のうち死亡した1万3929人をのぞく4万2136人の運命についてはシュトロープの報告書はまったく触れていない<ref name="栗原(1997)214">[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.214]]</ref>。しかし別の証言や資料から見て、どうやら[[マイダネク]](ルブリン強制収容所)、もしくはトラヴニキやポニアトーヴァなどの[[強制収容所#強制労働収容所|強制労働収容所]]へ送られたようである<ref name="栗原(1997)215">[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.215]]</ref>。もともと「労働不能者」と看做されたゲットー住民はとっくにトレブリンカへ送られて殺されていたのだから蜂起の時点でゲットーに残っている者たちはほとんどが「労働可能者」である。したがってほとんどが労働力として利用されたのであろうと考えられる。とはいえ結局この後にマイダネクで行われた「[[収穫祭作戦]]」によって大多数は殺されてしまったようである<ref name="栗原(1997)215">[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.215]]</ref>。

ドイツ側の損害についてシュトロープの報告書は「16名が殺害され、85名が負傷した」としているが、この数は日々の損害報告とまったく一致していない。実際にはドイツ側ももっと多くの犠牲を出していたはずである<ref name="ラカー(2003)670"/>。自軍の優位性を示すために損害を控えめに発表したものと思われる。とはいえユダヤ人側の損害の方が圧倒的に多かったことは間違いないと思われる<ref>[[#ベーレンバウム(1996)|ベーレンバウム(1996)、p.239-240]]</ref>。

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File:Askaris im Warschauer Getto - 1943.jpg|ウクライナ人兵士に殺害されたユダヤ人
File:Stroop Report - Warsaw Ghetto Uprising 12.jpg|殺害されたユダヤ人
File:Stroop Report - Warsaw Ghetto Uprising - 26537.jpg|蜂起のさなか、拘束されたゲットー住民が移送のため集荷場へ連行される。
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=== 戦闘の後 ===
=== 戦闘の後 ===
1943年夏、[[親衛隊経済管理本部]]長官[[オズヴァルト・ポール]][[親衛隊大将]]はワルシャワ・ゲットーの跡地に[[ワルシャワ強制収容所]]([[:de:KZ Warschau]])を設置させ、そこの囚人にゲットーの破壊された建物の撤去作業を行わせた<ref name="ヒルバーグ(1997)上390"/>。2,500人の強制収容所囚人と1,000人のポーランド労働者が動員され、1年以上働いて建物の残骸や壁の撤去にあたった<ref name="ヒルバーグ(1997)上390"/>。
戦闘後、燃えた家のほとんどは整地された。そして、ゲットーのあった地域に[[ワルシャワ強制収容所]]の建物が建てられた。ドイツ軍は以前のゲットーをポーランドの[[ワパンカ]](Łapanka)の収容者を殺害するために使用した。そこでは、報復に多数の収容者の処刑が行われた。


ゲットーから逃げて隠れたユダヤ人の捜索も行われた。ユダヤ人を匿ったり支援したりするポーランド人もいないわけではなかったが、多くの場合ポーランド人はドイツ当局に密告を行い、これによって多くのユダヤ人が捕まってしまった<ref name="ラカー(2003)670">[[#ラカー(2003)|ラカー(2003)、p.670]]</ref>。ポーランド・ギャングもこの状況を利用してユダヤ人の居場所を血眼になって捜し、見つけ出すと「密告されたくなければ金を払え」といってユダヤ人を脅迫した<ref name="ヒルバーグ(1997)上391">[[#ヒルバーグ(1997)上|ヒルバーグ(1997)上巻、p.391]]</ref>。
後の[[1944年]]に発生した[[ワルシャワ蜂起]]において、ポーランドの[[国内軍_(ポーランド)|国内軍]]の部隊ゾスカ ("Zośka") は、KLワルシャワ (Gęsiówka subcamp) 強制収容所より380人のユダヤ人の虜囚を解放した。彼らのほとんどは、すぐさま国内軍に参加した。わずかの人間は、ワルシャワゲットー蜂起の際に地下道を通り生き延びて、ワルシャワ蜂起に参加した。


後の[[1944年]]に発生した[[ワルシャワ蜂起]]において、ポーランドの[[国内軍_(ポーランド)|国内軍]]の部隊ゾスカ ("Zośka") は、ワルシャワ強制収容所より380人のユダヤ人の虜囚を解放した。彼らのほとんどは、すぐさま国内軍に参加した。わずかの人間は、ワルシャワゲットー蜂起の際に地下道を通り生き延びて、ワルシャワ蜂起に参加した。
== 1944年のワルシャワ蜂起への関連 ==
[[1943年]]の[[ワルシャワ・ゲットー]]蜂起は[[1944年]]の[[ワルシャワ蜂起]]としばしば混同される。2つの出来事は時間的にも異なり、まったく目的が異なっている。前者のユダヤ人の蜂起は、[[強制収容所]]での確実な死亡より、助かるわずかな望みをかけて、命を懸けての戦いを選択したものであり、戦う能力があれば最後の瞬間まで戦闘を行っていた。2つ目の蜂起は、ポーランド人が自分の領土を取り戻すための[[テンペスト作戦]]の一部であった。


== 評価・知名度・顕彰などについて ==
しかし、2つの事件の間に関連がまったく無いと言い切ることはできない。2つの暴動が同じワルシャワで発生したと言う点、また、ワルシャワ・ゲットー蜂起において生き延びた多数の人間(100近い人数)が後のワルシャワ蜂起において、国内軍や人民軍の一員として戦った点より、関連があると言うものもいる。
[[画像:Monument_of_ghetto_uprising.JPG|thumb|150px|right|ワルシャワ・ゲットーの英雄記念碑]]
ワルシャワ・ゲットー蜂起そのものは失敗におわったが、決して無意義ではなかった。ナチス・ドイツの圧政に対してユダヤ人が初めて武器をとって抵抗したという輝かしい記憶をユダヤ人たちに残したのである。この記憶はユダヤ人民族国家[[イスラエル]]の建国に向けて大きな原動力となったのである<ref name="栗原(1997)216">[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.216]]</ref>。イスラエル建国後、ゲットー蜂起についての研究を行う[[ロハメイ・ハゲタオット]]([[:he:לוחמי הגטאות|he]])が同名の[[キブツ]]に創設されている<ref name="ミード(1992)444">[[#ミード(1992)|ミード(1992)、p.444]]</ref>。また[[ガザ地区]]北にあるキブツ「[[ヤド・モルデハイ]]([[:he:יד מרדכי|he]])」は[[モルデハイ・アニエレヴィッツ]]の名前から名づけられたものである<ref name="ミード(1992)444"/>。


しかしながら日本においてはワルシャワ・ゲットー蜂起は知名度が低めの事件であり、しばしば[[1944年]]の[[ワルシャワ蜂起]]と混同されている場合もある<ref name="ミード(1992)443">[[#ミード(1992)|ミード(1992)、p.443]]</ref>。2つの出来事は時間的にも異なり、まったく目的が異なっている。前者のユダヤ人の蜂起は、[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]での確実な死亡より、助かるわずかな望みをかけて、命を懸けての戦いを選択したものであり、戦う能力があれば最後の瞬間まで戦闘を行っていた。2つ目の蜂起は、ポーランド人が自分の領土を取り戻すための[[テンペスト作戦]]の一部であった。とはいえ、2つの事件の間に関連がまったく無いと言い切ることもできない。2つの暴動が同じワルシャワで発生したと言う点、また、ワルシャワ・ゲットー蜂起において生き延びた多数の人間(100近い人数)が後のワルシャワ蜂起において、国内軍や人民軍の一員として戦った点より、関連があると言うものもいる。
== イスラエルにおいて ==
ワルシャワ・ゲットー蜂起の生き残りであり、指揮官であった[[イツハク・ツケルマン]](Yitzhak Zuckerman、ŻOB の指揮官代理)とその妻の[[ジヴィア・ルーベトキン]](Zivia Lubetkin)を含めた「ゲットーの闘士」は、[[イスラエル]]における Lohamey ha-Geta'ot と呼ばれる[[キブツ]](ゲットーの闘士のキブツの意)に移り住んだ。[[1984年]]にキブツのメンバーは、"Dappeo Edut"(「生存者の証言」、ツビィカ・ドロールが面談を行い編集した)を出版した。これは、キブツの96人のメンバーから証言を取り4冊構成である。[[アッコ]]の北にあるキブツには、[[ホロコースト]]の記録を収めたアーカイブと[[博物館]]が存在する。


[[1970年]][[12月7日]]に[[西ドイツ]]首相である[[ヴィリー・ブラント]]は、当時共産党独裁体制下にあった[[ポーランド人民共和国]]を公式訪問した際に、蜂起の記念碑にひざまずいて哀悼の意を示した。だがこのことは戦後の共産党独裁下の[[ポーランド人民共和国]]においてはほとんど公表されなかった。共産党独裁体制下のポーランドにおいてはホロコーストやワルシャワ・ゲットー蜂起に関する事実はほとんど語られることがなかった<ref name="ミード(1992)443">[[#ミード(1992)|ミード(1992)、p.443]]</ref>。かろうじてゲットー英雄記念碑が建てられたぐらいであった<ref name="ミード(1992)431">[[#ミード(1992)|ミード(1992)、p.431]]</ref>。しかし[[東欧革命]]によってポーランドの共産党独裁体制が崩壊するとポーランドとイスラエルは国交を回復。1991年5月に[[レフ・ヴァウェンサ|ワレサ]]大統領がポーランド大統領としてはじめてイスラエルを訪問し、[[クネセト|イスラエル国会]]においてポーランド人の中にも反ユダヤ主義があったことを認めて謝罪を行った<ref name="ミード(1992)444">[[#ミード(1992)|ミード(1992)、p.444]]</ref>。
[[ガザ地区]]の北にあるヤド・モルデハイ(Yad Mordechai)は[[モルデハイ・アニエレヴィッツ]]の名前から名づけられた。


== 出典 ==
== 西ドイツ首相の訪問 ==
{{reflist|2}}
[[1970年]][[12月7日]]に[[西ドイツ]]首相である[[ヴィリー・ブラント]]は、当時共産主義であった[[ポーランド人民共和国]]を公式訪問した際に、蜂起の記念碑にひざまずいて哀悼の意を示した。この行動は、当時ドイツ国内で論争の的となったが、ひざまずくブラントの姿は共産党政権下のポーランドでは公表されず、一般人には殆ど知られていなかった。日本ではしばしば「ブラントのこの行為がドイツ・ポーランド両国民の和解へと結びついた」という趣旨で論じられるが、そのような事実はない。

== 参考文献 ==
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [[ゲットー蜂起]]
* [[ゲットー蜂起]]
* [[戦場のピアニスト]] (映画)
* [[戦場のピアニスト]] (映画)

== 参考文献 ==
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<div class="references-small">
* [[Marek Edelman]]. <cite>1941-43年のゲットーの闘士(The Ghetto Fights: Warsaw, 1941-43)<cite>. Bookmarks Publications, 1990. ISBN 0-906224-56-X.
* [[Kazimierz Moczarski]]. 死刑執行人との会話(''Conversations with an Executioner''). Prentice Hall, 1984. ISBN 0-13-171918-1.
* Sabine Gebhardt-Herzberg, 鉛でなく血でかかれた歌("Das Lied ist geschrieben mit Blut und nicht mit Blei"): Mordechaj Anielewicz und der Aufstand im Warschauer Ghetto; 250 p.; 2003; ISBN 3-00-013643-6 (in German language only); publisher: Sabine Gebhardt-Herzberg ([email protected])
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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2011年7月8日 (金) 13:07時点における版

ワルシャワ・ゲットー蜂起
第二次世界大戦

ワルシャワ・ゲットー蜂起当時のユダヤ人
戦争第二次世界大戦東部戦線
年月日1943年4月19日 - 5月16日
場所ワルシャワ・ゲットー, ポーランド
結果:ドイツ軍の勝利
交戦勢力
ドイツ
(武装SS秩序警察保安警察ドイツ陸軍)[1]
ナチス協力者
(ポーランド警察ポーランド消防隊トラヴニキ強制労働収容所ウクライナ人警備大隊)[1]
ユダヤ人の抵抗勢力
(ユダヤ人戦闘組織(ŻOB), ユダヤ人軍事同盟(ŻZW))
ポーランド人の抵抗勢力
(国内軍人民軍)
指導者・指揮官
フェルディナント・フォン・ザンメルン・フランケネック
ユルゲン・シュトロープ
モルデハイ・アニエレヴィッツ
ダヴィド・アプフェルバウム
パウエル・フレンキエル
イツハク・ツケルマン
マレク・エデルマン
ツィヴィア・ルベトキン
ヘンリク・イヴァンスキ
戦力
1日に展開した平均兵力2090人[1] 反乱軍750人[2]ゲットー市民数5万6000人以上
損害
シュトロープの記録では公式には16人死亡、86人負傷[3] シュトロープの記録では合計で56,065人を捕虜にし、うち1万3929人死亡。これとは別に5000人から6000人死亡[4][3]

ワルシャワ・ゲットー蜂起(ワルシャワ・ゲットーほうき、: Warsaw Ghetto Uprising, : Aufstand im Warschauer Ghetto, : Powstanie w getcie warszawskim, イディッシュ語: ווארשעווער געטא אויפשטאנד)は、第二次世界大戦中の1943年4月から5月にかけてワルシャワ・ゲットーユダヤ人レジスタンスたちが起こしたナチス・ドイツに対する武装蜂起である。

概要

第二次世界大戦がはじまり、東ヨーロッパの諸都市がドイツ軍に占領されると、それらの都市で暮らすユダヤ人たちはゲットーに隔離されるようになった。しかし1942年から1943年にかけてナチス親衛隊(SS)は「ラインハルト作戦」を開始し、ゲットーのユダヤ人たちを続々と絶滅収容所に移送するようになった。ワルシャワ・ゲットーでも過酷な移送作戦が行われ、数多くのユダヤ人がトレブリンカ絶滅収容所へ移送されて殺害された。

更なる移送作戦を阻止するため、モルデハイ・アニエレヴィッツ指揮下の「ユダヤ人戦闘組織」とダヴィド・アプフェルバウム(pl)指揮下の「ユダヤ人軍事同盟(pl)」が1943年4月19日から5月16日にかけてナチスに対して武装蜂起を起こした。反乱を起こしたユダヤ人たちは貧弱な武装と劣悪な補給にもかかわらず粘り強く戦ったが、最終的にはユルゲン・シュトロープSS少将率いる武装SSドイツ秩序警察ドイツ国防軍などから成る混成部隊によって完全に鎮圧された。

鎮圧後、ワルシャワ・ゲットーの住民ほとんどがSSによって捕えられ、トレブリンカ、マイダネク、あるいは強制労働収容所へと移送され、ワルシャワ・ゲットーは解体された。

蜂起までの経緯

ゲットー創設

1939年9月のドイツ軍のポーランド侵攻によってワルシャワはドイツ軍に占領された。ドイツ当局は1940年10月から11月にかけてワルシャワ・ゲットーを創設した[5]。同ゲットーの人口は最も多い時期で45万人であり、これはナチスが創設したゲットーの中でも最大であった[6]。ゲットーの環境は劣悪であり、移送作戦までに約8万3000人のユダヤ人が伝染病飢餓によってゲットー内で命を落とした[7]

移送作戦

ポーランド総督府領内のユダヤ人を絶滅させるための「ラインハルト作戦」が1942年3月中旬からオディロ・グロボクニクSS少将の指揮の下に実行された[8][9]

ワルシャワ・ゲットーでは1942年7月22日から9月10日にかけて最初の移送作戦が行われ、「労働不能者」を中心に約30万人のゲットー住民がトレブリンカ絶滅収容所へ移送されてガス室で殺害された[10][11][12]。この移送作戦によりワルシャワ・ゲットーの住民数はせいぜい7万人になった[11]

抵抗運動のはじまり

移送作戦が開始された直後の1942年7月23日にゲットー内の地下組織の指導者の会合があった。この席上シオニスト左派諸政党は武装抵抗を主張したが、他の出席者は移送されるのは恐らく数万人程度にとどまるだろうと考える者が多く、武装抵抗はかえって全ゲットー住民を危険に晒すとして反対論が相次いだ[13][14][15]。結局7月28日にシオニスト左派諸政党だけで武装抵抗組織「ユダヤ人戦闘組織」(ŻOB)を創設したが、各政党は移送作戦から自らの組織を守ることに手いっぱいで他党と会合を持ってる暇は無く、ユダヤ人戦闘組織も実際的にはほとんど機能せず、移送作戦に対して有効な抵抗はできなかった[16]

モルデハイ・アニエレヴィッツ

移送作戦が終了した後の1942年10月末、「ハショメル・ハツァイルen)」リーダーモルデハイ・アニエレヴィッツのもとに改めてユダヤ人戦闘組織が創設された[16][15]。一方右派シオニストの修正主義者たちも独自に武装抵抗組織を立ち上げ、「ユダヤ人軍事同盟(pl)」(ŻZW)を創設した[15]

本格的に武装抵抗の準備が開始され、ゲットー外から武器を購入するようになる[15]。まず国内軍(AK)などゲットー外のポーランド人レジスタンス組織と接触を図り、彼らから武器を仕入れようとしたが、ポーランド人の間にも反ユダヤ主義は根強く、大金を積んだにも関わらず彼らがくれた物は拳銃10丁だけだった[17][18]。国内軍指揮官たちはユダヤ人に武器を渡してもまともに使えるかどうか極めて怪しいと考えていた[18]。結局ユダヤ人たちはゲットーの外へ抜け出て、ドイツ軍から武器を盗んだり購入したりした仲介人や脱走兵などから巨額の金を払って武器を購入することになった[15][18]

1942年終わり頃にユダヤ人戦闘組織は、彼らが「対独協力者」と看做していたユダヤ人評議会ユダヤ人ゲットー警察に対するテロ活動を本格化させた[19]。ゲットー警察長官ヤーコプ・レイキンやユダヤ人評議会経済局長イズラエル・フィルストなどを暗殺した。これによりユダヤ人評議会とゲットー警察のゲットー内における威信は大きく低下した[20]

初の武装蜂起

1943年1月9日にSS全国指導者ハインリヒ・ヒムラー自らがワルシャワを訪れた。まだ4万人のユダヤ人がゲットーにいること(実際にはもう少し多くいた)を報告されたヒムラーは、さらに8000人のユダヤ人を移送するよう命じた[21][22]。ヒムラーの命を受けてSS・警察部隊は1月18日から第二次移送作戦を開始した。これにより6500人のユダヤ人が移送され、1171人のユダヤ人が殺害された[23]

この移送作戦の際にユダヤ人戦闘組織はゲリラ戦による武装抵抗を起こした[20][24]。ユダヤ人レジスタンスはドイツ兵に奇襲をかけては屋根伝いに逃げた[22]。ドイツ兵に数人の死者がでたため[23]、ドイツ当局はゲットー内を安易に動き回る事が出来なくなった[25]。やがて移送作戦は中止された[26][20]

ゲットーに「革命政権」誕生

ユダヤ人戦闘組織の蜂起はこれまで武装抵抗に懐疑的だったゲットー住民からも高く評価された。彼らは第二次移送作戦が最初と比べて小規模ですんだのはドイツ当局が武装抵抗に恐れをなしたからだと考えたのである(実際にはヒムラーがもともと8000人の移送しか命じていないためだったが)[27][28]

アニエレヴィッツとユダヤ人戦闘組織を支持するゲットー住民は急速に増え、それはゲットー内で一種の「革命政権」となった[27]。一方本来のゲットー行政機関であるユダヤ人評議会はすっかり権威を落としていた。ユダヤ人評議会議長マレク・リヒテンバウムはドイツ当局からの命令に対して「私はもはやゲットー内に何の権威も持っていない。権威を持っているのは別の組織だ。それはユダヤ人戦闘組織だ」と答えている[27]。ユダヤ人戦闘組織はユダヤ人評議会を脅迫してその予算を吐き出させ、またゲットー住民の富裕層に高い税金を課すことで資金を集め、それを武器購入費用にあてた[27]

蜂起の準備

国内軍からのユダヤ人レジスタンス組織への評価も上がったが[28]、国内軍がユダヤ人戦闘組織に対して新たに支給したのは拳銃50丁、手りゅう弾50個、爆薬その他だけであった[23][27][29]。右派シオニストのユダヤ人軍事同盟に対してはもう少し多くの支援をしたが、結局のところ国内軍がユダヤ人レジスタンスに対して行った支援は最低限でしかなかった[23]

蜂起までにユダヤ人レジスタンスが確保できた武器は多くない。数百丁の拳銃、若干のライフルカービン、ごくわずかな機関銃、他には爆薬や火炎瓶や手りゅう弾などであった[1][30]。。戦闘員の装備は拳銃と数個の手りゅう弾というのが通常であった[31]。武器があまりに少ないため、志願兵の受け入れを中止した結果、戦闘員の数はユダヤ人戦闘組織とユダヤ人軍事同盟をあわせても1000人に満たなかった[1]。一方地下壕に関してはかなり綿密に準備した。空調設備や電気設備も備え、数カ月は持ちこたえられる量の水・食料・医薬品が備蓄された[28]

ドイツ当局がいつ最終的な移送作戦を行うのかゲットー住民には分からなかったのでレジスタンス戦闘員たちはいつ移送作戦が開始されても即時に武装蜂起できるよう準備にあたっていた[32]。一般のゲットー住民が隠れ家を作るのに奔走していた1943年1月から4月のあいだ、戦闘員たちは戦闘訓練にあけくれていた[31]

武装蜂起

4月19日のユダヤ人の勝利

1943年4月18日にドイツ当局が武力でゲットーを制圧して移送作戦を再開するとの情報がユダヤ人戦闘組織に伝わった。ただちにゲットー全住民に警告を発するとともに地下壕にこもって戦闘準備を開始した[25]

4月19日過越祭の始まる日だった)午前3時頃、「ワルシャワ」親衛隊及び警察指導者であるフェルディナント・フォン・ザンメルン・フランケネックSS准将率いる2000人ほどのSS・警察部隊によってゲットーが包囲された。このSS・警察部隊は武装SSの2個訓練・補充大隊、秩序警察の第22警察連隊に属する2個大隊、トラヴニキ強制労働収容所(de)の警備にあたっていたウクライナ人民兵による1個大隊、それからわずかな保安警察からの分遣隊によって編成されていた[1]。武装SS部隊は訓練不足の者や負傷から回復したばかりの者で構成されており、また秩序警察部隊の方は退役者や総督府ポーランド警察やポーランド消防隊も動員されていた[1]。動員された戦車はわずかな数のフランス製軽戦車(大砲なし)のみであった[1][33]

午前6時頃から武装SS部隊が集荷場に面したゲットー・ザメンホーファー通りに侵入を開始した[2]。ユダヤ人レジスタンスたちは火炎瓶で戦車を足止めしつつ、武装SS兵たちに銃撃を浴びせた[2]。さしたる抵抗はないと思っていたフォン・ザンメルンの部隊は予想外のユダヤ人の激しい抵抗に7時30分には潰走した[25][2]

蜂起の鎮圧の指揮を執るユルゲン・シュトロープSS少将

同日午前8時にフォン・ザンメルン・フランケネックは解任されてユルゲン・シュトロープSS少将が新しい鎮圧部隊の指揮官となった[2]。ヒムラーはシュトロープに対して「ワルシャワ・ゲットーでの狩り集めは容赦のない決意と出来る限り冷酷な方法で実行しろ。攻撃は強力であればある程良い。ここ最近の事例はユダヤ人がいかに危険であるかを示している」という命令を下した[34]。しかしシュトロープもこの日に戦況を変えることはできなかった。ユダヤ人レジスタンスの粘り強い抵抗の末、午後5時にはドイツ軍は戦車1台と装甲車1台を失ってゲットーから一時撤収し、この日の戦闘は終了した[35][36]

これはドイツ軍占領下のワルシャワにおいて起こった初めての大規模反乱であった。ゲットーから次々と運び出されていくドイツ兵の死傷者たちを目撃したゲットー外のポーランド人たちはユダヤ人にこんな真似ができるはずはないと考え、「ポーランド軍の将校たちが指揮をとっているに違いない」「ポーランド軍が抵抗運動を組織したのだ」などと語っていたという[37]

女性レジスタンス指導者ツィヴィア・ルベトキン(pl)はこの4月19日の勝利を「最高の喜びだった。明日のことなど気にならなかった。我々ユダヤ人闘士は奇跡だと小躍りしていた。手作りの火炎瓶と手りゅう弾に恐れおののいて、無敵の勇者だったはずのドイツ兵どもが退却したのだ」と回想している[38]。彼の言葉にもあるとおりレジスタンス側の武器で特に役に立ったのは火炎瓶と手りゅう弾であった。数が非常に少ないが機関銃も非常に役に立った。しかし拳銃はほとんど役に立たなかった[35]

焦土作戦

しかしユダヤ人たちの勝利は4月19日だけだった[35]。4月20日、ドイツ国防軍ワルシャワ上級野戦司令官フリッツ・ロッスム(Fritz Rossum)少将の派遣した応援部隊がシュトロープの手元に到着した[2]。この国防軍応援部隊は1個軽高射砲中隊と曲射砲小隊を中心としていた[2]。シュトロープはゲットーの建物に火を放って隠れたユダヤ人たちをあぶり出す焦土作戦に切り替えた[39]。シュトロープは「非人間と暴徒を地上にあぶり出すにはそれが唯一の方法であった」と日誌に書き記している[40]

4月20日、ドイツ軍は火炎放射器をもって再びゲットーへの侵入を開始した[2][40]。軽高射砲と曲射砲によるゲットーの建物への砲撃も行われた[2]。4月22日までにはゲットーの複数の地域が炎上していた[2]。ドイツ軍はゲットー包囲を強化し、電気や水、ガスを完全に止めた[41][40]。水がないため火を消すことはできなかった[42]。レジスタンスたちは徐々に持ち場を放棄して地下壕に撤退せざるを得なくなった[28]。蜂起開始から2週目には地下壕が戦闘の中心となっていた[3]。ドイツ軍は一つずつ地下壕を発見していって手りゅう弾や催涙ガスを地下壕に放り投げ、ユダヤ人たちが這い出てきたところを掃討して片づけていった[3][26]

大多数のゲットー住民は蜂起に参加しておらず、ただ隠れていただけだったが、多くの者が巻き込まれて建物の下敷きになったり地下壕で窒息死したりして死亡した[39][43]。下水道からゲットー脱出を図ろうとするユダヤ人が相次いだが、ドイツ軍側はマンホールを爆破することでこれを防いだ[2]。拘束されたゲットー住民は集荷場に停めてある列車に乗せられて続々と移送されていった。

ゲットー外からの支援

ゲットーの外からの支援は限られていた。しかしゲットー外のポーランド人レジスタンス組織である国内軍(AK)[44]人民軍[45]がまったく協力しなかったわけではない。ゲットーの壁近くで警備部隊を攻撃し、武器や弾薬を内部に送る努力を試みた。この武器・弾薬の支援を受けるためのユダヤ人側の交渉役はイツハク・ツケルマンであった[23]。また国内軍自身も4月19日から4月23日までの間、塀の外のあちこちでゲットーに侵入する試みでドイツ軍と交戦を行った[44]

ヘンリク・イヴァンスキ(pl)少佐指揮下の国内軍の一部隊、Państwowy Korpus Bezpieczeństwa(国民保安軍団の意)は、ユダヤ人軍事同盟とともにゲットーの内側で戦い、最終的には塀の外、「アーリア人の領域」へ撤退した。国内軍はポーランド国内と、連合国へ無線通信を介して、ゲットーのユダヤ人に関する情報と、彼らへの援助を求める連絡を行った[44]。ŻOBの一部のパルチザンと指揮系統の一部はポーランドの支援の元、運河を通り脱出した[44]。イヴァンスキの行動が最も有名であったが、これは、ポーランドの抵抗勢力が行ったユダヤ人を助けるための多数の行動の1つであった[46]

鎮圧

ユダヤ人軍事同盟はユダヤ人戦闘組織より装備が良かったこともあり、ゲットーの中心であるムラノウスキー広場 (Muranowski Square) 付近の拠点を長い期間持ちこたえて戦った[47]。しかし4月27日の戦闘でユダヤ人軍事同盟指導者ダヴィド・アプフェルバウム(pl)が負傷した[43]。同日、ヘンリク・イヴァンスキ(pl)少佐率いる国内軍の部隊がゲットー外から地下道を通ってユダヤ人軍事同盟の負傷者の運び出しに駆け付けたが、アプフェルバウムはゲットーから離れることを拒否し、翌28日に死亡している[43]

5月8日にはミワ18番地にあったユダヤ人戦闘組織の地下壕がドイツ軍に包囲された。ガス弾や手りゅう弾や爆薬を投げ込まれ、ユダヤ人レジスタンスは次々と戦死した。生き残った者たちももはやこれまでと判断し、その日のうちにお互いに銃を向けあって集団自決した[48]。モルデハイ・アニエレヴィッツもここで死亡した[43]

2日後、数十名のユダヤ人レジスタンスたちがポーランド人共産主義者の協力で下水道を通ってゲットーを脱出した[40][43][49][40]。その後も数個の戦闘部隊がゲットーに残り、戦闘を継続していたが、5月15日までには戦闘は散発的となった[43][40]

5月16日にシュトロープは「もはやワルシャワにゲットーは存在せず」と報告書を書いている[26]。同日午後8時15分、シュトロープは鎮圧記念にワルシャワ・シナゴーグ (Warsaw Synagogue) を爆破解体させた[43]

死傷者数と移送者数

ユルゲン・シュトロープSS少将の報告書によると「検挙されたユダヤ人5万6065人のうち、7000人がゲットーでの作戦中に死亡。さらに6929人はトレブリンカへ移送して殺害した。あわせて1万3929人が命を落とした。この5万6065人とは別にさらに5000人から6000人が火災で焼け死んだ」という[4][3]。しかし5万6065人のうち死亡した1万3929人をのぞく4万2136人の運命についてはシュトロープの報告書はまったく触れていない[4]。しかし別の証言や資料から見て、どうやらマイダネク(ルブリン強制収容所)、もしくはトラヴニキやポニアトーヴァなどの強制労働収容所へ送られたようである[50]。もともと「労働不能者」と看做されたゲットー住民はとっくにトレブリンカへ送られて殺されていたのだから蜂起の時点でゲットーに残っている者たちはほとんどが「労働可能者」である。したがってほとんどが労働力として利用されたのであろうと考えられる。とはいえ結局この後にマイダネクで行われた「収穫祭作戦」によって大多数は殺されてしまったようである[50]

ドイツ側の損害についてシュトロープの報告書は「16名が殺害され、85名が負傷した」としているが、この数は日々の損害報告とまったく一致していない。実際にはドイツ側ももっと多くの犠牲を出していたはずである[3]。自軍の優位性を示すために損害を控えめに発表したものと思われる。とはいえユダヤ人側の損害の方が圧倒的に多かったことは間違いないと思われる[51]

戦闘の後

1943年夏、親衛隊経済管理本部長官オズヴァルト・ポール親衛隊大将はワルシャワ・ゲットーの跡地にワルシャワ強制収容所(de:KZ Warschau)を設置させ、そこの囚人にゲットーの破壊された建物の撤去作業を行わせた[43]。2,500人の強制収容所囚人と1,000人のポーランド労働者が動員され、1年以上働いて建物の残骸や壁の撤去にあたった[43]

ゲットーから逃げて隠れたユダヤ人の捜索も行われた。ユダヤ人を匿ったり支援したりするポーランド人もいないわけではなかったが、多くの場合ポーランド人はドイツ当局に密告を行い、これによって多くのユダヤ人が捕まってしまった[3]。ポーランド・ギャングもこの状況を利用してユダヤ人の居場所を血眼になって捜し、見つけ出すと「密告されたくなければ金を払え」といってユダヤ人を脅迫した[52]

後の1944年に発生したワルシャワ蜂起において、ポーランドの国内軍の部隊ゾスカ ("Zośka") は、ワルシャワ強制収容所より380人のユダヤ人の虜囚を解放した。彼らのほとんどは、すぐさま国内軍に参加した。わずかの人間は、ワルシャワゲットー蜂起の際に地下道を通り生き延びて、ワルシャワ蜂起に参加した。

評価・知名度・顕彰などについて

ワルシャワ・ゲットーの英雄記念碑

ワルシャワ・ゲットー蜂起そのものは失敗におわったが、決して無意義ではなかった。ナチス・ドイツの圧政に対してユダヤ人が初めて武器をとって抵抗したという輝かしい記憶をユダヤ人たちに残したのである。この記憶はユダヤ人民族国家イスラエルの建国に向けて大きな原動力となったのである[53]。イスラエル建国後、ゲットー蜂起についての研究を行うロハメイ・ハゲタオット(he)が同名のキブツに創設されている[54]。またガザ地区北にあるキブツ「ヤド・モルデハイ(he)」はモルデハイ・アニエレヴィッツの名前から名づけられたものである[54]

しかしながら日本においてはワルシャワ・ゲットー蜂起は知名度が低めの事件であり、しばしば1944年ワルシャワ蜂起と混同されている場合もある[55]。2つの出来事は時間的にも異なり、まったく目的が異なっている。前者のユダヤ人の蜂起は、強制収容所での確実な死亡より、助かるわずかな望みをかけて、命を懸けての戦いを選択したものであり、戦う能力があれば最後の瞬間まで戦闘を行っていた。2つ目の蜂起は、ポーランド人が自分の領土を取り戻すためのテンペスト作戦の一部であった。とはいえ、2つの事件の間に関連がまったく無いと言い切ることもできない。2つの暴動が同じワルシャワで発生したと言う点、また、ワルシャワ・ゲットー蜂起において生き延びた多数の人間(100近い人数)が後のワルシャワ蜂起において、国内軍や人民軍の一員として戦った点より、関連があると言うものもいる。

1970年12月7日西ドイツ首相であるヴィリー・ブラントは、当時共産党独裁体制下にあったポーランド人民共和国を公式訪問した際に、蜂起の記念碑にひざまずいて哀悼の意を示した。だがこのことは戦後の共産党独裁下のポーランド人民共和国においてはほとんど公表されなかった。共産党独裁体制下のポーランドにおいてはホロコーストやワルシャワ・ゲットー蜂起に関する事実はほとんど語られることがなかった[55]。かろうじてゲットー英雄記念碑が建てられたぐらいであった[56]。しかし東欧革命によってポーランドの共産党独裁体制が崩壊するとポーランドとイスラエルは国交を回復。1991年5月にワレサ大統領がポーランド大統領としてはじめてイスラエルを訪問し、イスラエル国会においてポーランド人の中にも反ユダヤ主義があったことを認めて謝罪を行った[54]

出典

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  40. ^ a b c d e f ロガスキー(1992)、p.164
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参考文献

  • マーチン・ギルバート著 著、滝川義人 訳『ホロコースト歴史地図 1918-1948』東洋書林、1995年。ISBN 978-4887210813 
  • グイド・クノップ著 著、高木玲藤島淳一 訳『ホロコースト全証言―ナチ虐殺戦の全体像』原書房、2004年。ISBN 978-4562037261 
  • 栗原優 著、石川順子/高橋宏 訳『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ホロコーストの起源と実態ミネルヴァ書房、1997年。ISBN 978-4623027019 
  • ラウル・ヒルバーグ著 著、望田幸男原田一美井上茂子 訳『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 上巻』柏書房、1997年。ISBN 978-4760115167 
  • マイケル ベーレンバウム 著、石川順子/高橋宏 訳『ホロコースト全史』創元社、1996年。ISBN 978-4422300320 
  • ブラドカ・ミード著 著、滝川義人 訳『壁の両側 ワルシャワ・ゲットー 1942〜1945 ホロコースト! その恐怖と苦闘のはざまで』クプクプ書房、1992年。ISBN 978-4906302116 
  • ウォルター・ラカー著 著、井上茂子木畑和子芝健介長田浩彰永岑三千輝原田一美望田幸男 訳『ホロコースト大事典』柏書房、 エラー: この日付はリンクしないでください。ISBN 978-4760124138 
  • バーバラ・ロガスキー著 著、藤本和子 訳『アンネ・フランクはなぜ殺されたか―ユダヤ人虐殺の記録』岩波書店、 エラー: この日付はリンクしないでください。ISBN 978-4000000451 

関連項目

外部リンク

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