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「血縁選択説」の版間の差分

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'''血縁選択説'''(けつえんせんたくせつ)とは、[[自然選択]]による[[生物]]の[[進化]]を考えるには、[[個体]]が自ら残す子孫の数だけではなく、[[遺伝子]]を共有する血縁者の繁殖成功に与える影響も考慮すべきだとする[[進化生物学]]の[[理論]]<ref name=west>West et al. (2007)</ref>。これによって、血縁個体に対する[[利他行動]]の進化を説明することができる。血縁淘汰説ともいう。
'''血縁選択説'''(けつえんせんたくせつ)、または血縁淘汰説(けつえんとうたせつ)とは、[[進化生物学]]における重要な概念の一つで、[[動物]]の[[利他的行動]]を[[自然選択説]]で説明することを可能にした理論である。この説が提唱される以前の[[自然選択説]]では、[[社会性昆虫]]における不妊の階級の存在や動物が見せる利他的行動が困難であったが、これを[[遺伝子]]の伝達は直接に子供を作ることだけではなく、親戚を増やすことでも可能であることを根拠に説明し、[[行動生態学]]の基礎を築いた。要約すれば血縁選択説は「利他行動が、それに関わる遺伝子を集団平均よりも有意に高い確率で持つ可能性のある他個体へ重点的に差し向けられる場合に、利他的行動は進化する」と予測する。


== 前史 ==
== 背景 ==
[[自然選択説]]によれば、生物は自らの子孫をより多く残すように進化すると予測される。しかし、実際の生物にはしばしば利他行動、すなわち自分の繁殖成功を下げて他者の繁殖成功を高める行動が見られる。とくに顕著なのは[[ハチ]]や[[アリ]]などの[[社会性昆虫]]などに見られる[[真社会性]]であり、この場合には一部の個体(働きバチ、働きアリなど。一般にワーカーという)は全く繁殖せず、他個体の繁殖を助けることに一生を費やす。このような自分の子孫を残さない[[形質]]は、自然選択によってすぐに個体群から消えてしまうはずである。
[[社会性昆虫]]に見られる大きな特徴に、特定の[[個体]]だけが[[繁殖]]に与るという点がある。例えば[[ミツバチ]]では、女王バチは雄バチと交尾すると、その後一生の間、卵を産み続けるが、生まれた子供のうちほとんどの雌は繁殖をせず、働き蜂として女王の生んだ卵や幼虫の世話をする。そして特別に育てられた幼虫だけが新たな女王となり、次世代のコロニーを形成する。ところが、この働きバチの[[進化]]が自然選択説では説明しがたい。自然選択説は優れた形質を持つ個体が生き残り、その子孫にその形質を伝えることが進化の仕組みの基本であるとしているので、子を残さない働き蜂という形質が子孫に伝わるはずがないからである。


自然選択説を提唱した[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]自身この問題に気付いていた。彼は、[[ウシ]]の肉質に対する[[人為選択]]を引き合いに出して説明している。ウシの肉質がわかったときには、当のウシはすでに殺されているので、そのウシの子孫を直接増やすのは難しい。しかし育種家は、その家族を繁殖させることで、肉質のよいウシの育種を行っているのだ。この説明は驚くほど現代的な血縁選択説に近いが、一方で曖昧な部分もあった<ref name=ito>『新版 動物の社会』pp.3-5</ref>。
これを解決する理論として古くから信じられてきたのが[[群選択]]である。個体にとっては有利でなくとも[[種 (分類学)|種]]や[[個体群]]にとって有利な形質であれば、その群の生存率を高めるからその形質は広まるのだと考えられてきた。これは現在でも「種の保存のため」というフレーズで健在である。しかしこの考えも一見するとわかりやすいように思えるが、個体が子孫を作らずにどうやってその形質を伝えていくかを説明しているわけではない。もう一つの考え方は、働きバチの献身は女王にとっては有利な形質であるから、献身を強要する性質を持つ女王が自然選択で残ったのだとする(女王による操作説)。この説は働き蜂の側での反乱(たとえば勝手に子孫を残してしまうなど)が生じる可能性がある。ハチ以外にも、動物の行動が、一見すると自分を犠牲にして他者を助けるように見える例は多い。それらは一般に[[利他的行動]]と呼ばれ、親が子を助ける場合は、自然選択説でも説明できそうであったが、それ以外の利他的行動は個体を中心とした自然選択説では説明が難しいと考えられた。ダーウィンは食用家畜は親族を通してその形質を子孫に伝えると説明し、血縁選択と同じ原理を用いて説明していたが、その場しのぎの説明であるとして批判された。


ダーウィン以降、利他行動は「集団にとっての利益」「[[種 (分類学)|種]]の繁栄」によって説明されてきた<ref name=ito/><ref>『性選択と利他行動』pp.380-385</ref>。この考えは、個体にとって不利益な形質でも、それが種や集団全体の利益となるなら、集団レベルではたらく自然選択([[群選択]])によって進化するというものだが、詳しく検討されたわけではなく、漠然と受け入れられていた。この状況を一変させたのが[[ウィリアム・ドナルド・ハミルトン|ハミルトン]]による血縁選択説である。
== この説の立場 ==
働きバチの存在や親に対する子の利他的行動を説明可能にしたのが、この'''血縁選択説''' (kin selection) である。この呼び名は、[[ウィリアム・ドナルド・ハミルトン]]の研究<ref>Hamilton, W. D., The genetical evolution of social behaviour I and II. &mdash; ''Journal of Theoretical Biology'', '''7''', 1-16 [http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/query.fcgi?holding=npg&cmd=Retrieve&db=PubMed&list_uids=5875341&dopt=Abstract pubmed] and 17-52 [http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/query.fcgi?holding=npg&cmd=Retrieve&db=PubMed&list_uids=5875340&dopt=Abstract pubmed] (1964).</ref>を紹介するにあたって、[[ジョン・メイナード=スミス]]が発表した論文 (1964年) のなかで群選択とは明確に区別するために使われた。この説は、基本的には個体を対象とする自然選択説に立脚しながらも、大きく次の二つの点でそれまでの考え方を変えた。


=== 自然選択の対象 ===
== 内容 ==
従来の自然選択説がある個体自身の繁殖成功(直接適応度)のみを考えていたのに対して、血縁選択説はその個体が、遺伝子を共有する血縁個体の繁殖成功を増すことによって得る間接適応度も考慮に入れる。そして、この2つを足し合わせた[[包括適応度]]を最大化する形質が進化すると予測する<ref name=west/>。
一つは、それまでは自然選択の対象となるのは[[個体]]であると考えられてきたのに対して、それが実質的には[[遺伝子]]であると考えたことである。


血縁選択説では、血縁者に対する利他行動を促進する遺伝子を想定し、その頻度が世代を経るにつれて増えるか減るかを考える<ref name=tsuji/>。そのような遺伝子は、利他行動を行う個体自身の繁殖成功(直接適応度)を下げるために、次世代では頻度を減らすように思われる。しかし、利他行動が同じ遺伝子を持つ個体の繁殖成功を高くするのであれば、利他行動を受ける個体が多くの子孫を残すことによって、合計ではその遺伝子の頻度は増えていく(自然選択において有利になる)可能性がある。
伝統的な自然選択説は、例えばある動物種の個体群の中で、より足が速い個体が生き延びることが繰り返されれば、その種は次第に足の速い個体の子孫ばかりになるというように個体に対して選択が働くものと考えた。しかし、それぞれの個体の持つ形質は、足の速さだけではないはずである。例えば一つの集団に瞬発力を増す変異を持って生まれた個体と同時期に、持久力を増す変異を持って生まれた別の個体がいたとする。彼らがそれぞれ成功すれば彼らの十分遠い子孫は瞬発力の変異と持久力の変異をともに受け継いでいるかも知れない。これは瞬発力の高い個体が増殖した結果であろうか、持久力の高い個体が増殖した結果であろうか?


=== 血縁度 ===
これを個々の遺伝子の側から見ると、その動物の足を速くする遺伝子は、それを有する個体の生存率を高める、と言い直すことができよう。有性生殖を行う生物では減数分裂によって遺伝子は分解され混ぜ合わされる。その生物の[[遺伝子プール]]を考えれば、個体の生存率を高めるような遺伝子は、そうで無い対立遺伝子よりも遺伝子プールの中で次第にその頻度(比率)を増すことになると考えられる。先の例では持久力や瞬発力、警戒心などに関わる異なる遺伝子も頻度を増して行くであろう。つまり、現実に生きたり死んだりして選択の対象となるのは個体であるが、実質的に選択されているのは遺伝子だと考えられる。
個体間の遺伝子の共有度合いを[[血縁度]](近縁度とも)という<ref name=west/>。より厳密には、注目する遺伝子について、集団全体でのその遺伝子の頻度と比べて、共有される確率がどれほど高いかを示す数値が血縁度である<ref name=tsuji2>『行動・生態の進化』pp.64-67(コラム2)</ref>。すなわち、「ありふれた遺伝子はほとんどすべての個体に共有されるから血縁度は1である」「同種内であればどの個体もほとんどすべての遺伝子を共有するから血縁度は1である」といった主張は間違いで、集団の平均をベースラインとして差し引いたものとして、血縁度を計算しなければならない<ref name=tsuji2/><ref name=sg6-2>『利己的な遺伝子』pp.448-449(補注6-2)</ref>。たとえ遺伝子がほとんどの個体で共有されているとしても、あらゆる個体に対して利他的に振舞う戦略は[[進化的に安定な戦略]]ではなく、安定になるのは上記の定義での血縁度に基づく利他行動をする戦略である<ref name=12mis>Dawkins(1979) この論文の抄訳が『延長された表現型』日本語訳の訳者補注に収録されている。</ref>。


上の定義は複雑だが、近似的な「同祖性による定義」を用いることで、簡単に血縁度を計算することができる<ref name=tsuji2/><ref>『行動・生態の進化』pp.69-71(コラム3)</ref>。この定義では、個体間で、共通する祖先から受け継いだ稀な遺伝子を共有する確率が血縁度となる<ref name=tsuji/>。同祖性による血縁度は、家系図から計算することができる。
=== 遺伝子存続の方法 ===
これまでの自然選択説では、親が子をなすことによって親の遺伝子が子に伝えられると考えてきた。そのため、より多く子を残すものが自然選択の上での成功者と考えられ、どれだけの子孫が得られるかを[[適応度]]と呼んだ。


2倍体の[[有性生殖]]生物を例に、いくつか計算を示す。ある個体が稀な遺伝子Aを1つだけ(ヘテロで)持つとする。有性生殖によって、子には半分の遺伝子だけが伝わるので、その子が同じくAを持つ確率は0.5である。したがって、親からみた子の血縁度は0.5となる。同様に、子から見た親の血縁度も0.5である。次に、両親とも同じ兄弟姉妹間の血縁度を計算してみよう。先ほどと同様にある個体が稀な遺伝子Aをヘテロで持つ場合、Aが父親に由来する確率は0.5で、その場合に父親が他の兄弟姉妹にもAを伝えている確率も0.5なので、父親由来でAを共有する確率は0.5×0.5=0.25となる。母親由来で共有する確率も同様に計算して0.25なので、兄弟姉妹間の血縁度は0.25+0.25=0.5となる。すなわち、親子間の血縁度と兄弟姉妹間の血縁度は等しい。片親が異なる兄弟姉妹(異母あるいは異父)の場合、親のどちらかを通じて共有する可能性しかないので、血縁度は0.25となる。同じ計算により、いとこの血縁度は0.125となる。
確かに子供を残すことは自分の遺伝子を残す確実な方法である。親が子を産めば、親の中の遺伝子が子供に伝えられるから、多くの子を生んだ親の方が、親の中の遺伝子をより多く子に伝えるのである。しかし、先に述べたように、選択の対象になっているのは個々の遺伝子である。そこで個々の遺伝子の立場から自然選択を検討する。


=== ハミルトン則 ===
例えば[[ヒト]]のように[[有性生殖]]を行う[[倍数体]]の場合、ある個体の中の任意の対立遺伝子に注目すると、その個体が繁殖しても子にその対立遺伝子が必ず伝えられているとは限らない。なぜなら、精子や卵などの配偶子を作る際には[[減数分裂]]が行われ、親の持つ遺伝子の半分だけが配偶子に入るからである。その結果、任意の遺伝子が一つの配偶子に含まれる確率は2分の1、したがって子の中にそれが入っている確率も2分の1である。
他個体との相互作用がないときの適応度を''w''、利他行動によって相手が得る利益(benefit)を''b''、利他行動によって失う自身の繁殖成功を''c''(コストcost)、利他行動をする個体から見た相手の血縁度 (relatedness)を''r''とすると、包括適応度は
* ''w'' + ''br'' - ''c''
となる。利他行動が進化するのは、これが利他行動をしない個体の適応度''w''より大きいときなので、その条件は
* ''br'' - ''c'' > 0
となる。すなわち、利他行動を受ける個体の利益に血縁度で重み付けしたものが、利他行動を行う個体が被るコストを上回るとき、利他行動が進化すると予測できる。これをハミルトン則と呼ぶ<ref name=tsuji>『行動・生態の進化』pp.62-67</ref>。ハミルトン則はこの[[不等式]]を変形し、
* ''b''/''c'' > 1/''r''
と表すこともできる。


== 血縁選択の事例 ==
ある遺伝子が、その表現型が持つ効果によって、子供をより多く得、生き延びさせることができる場合、その遺伝子は集団中に広まる。その観点から見れば、親が身を挺して子を助ける場合でも、救うことができる子の数が少ないなら、むしろ子を見殺しにする方が有利な場合も有り得ることになる。極端な例を挙げれば、一人の子が溺れているときに自分を犠牲にして助けても、自己犠牲を促す遺伝子が子にも含まれている期待値は0.5である。溺れているのが一人なら見捨て、二人以上の子であれば助けるとすると、彼らの中に親と同じ自己犠牲を促す遺伝子(溺れているのが二人以上なら命と引き替えにしてでも助ける)が含まれている期待値は1以上となる。平均すれば、前者よりは後者の方が(特にこのふたつが同じ遺伝子座にあるのならば)遺伝子プールの中で比率をより増していくだろうと予測できる。
=== ヘルパー ===
[[シロビタイハチクイ]]では、[[オス|雄]]が産まれた[[巣]]に留まり、ヘルパーとして親の繁殖を手伝うことがある。つまり弟妹の世話をするのだが、これは両親とも同じであれば血縁度0.5の個体に対する利他行動となる。しかし一方の親が死ぬなどして別の個体に入れ替わると、世話の相手は異母または異父の弟妹となり、血縁度は0.25に下がる。血縁選択説から予測されるとおり、助ける相手の血縁度が下がるほど、ヘルパーを止めて巣を離れる確率が高くなる<ref>『行動・生態の進化』pp.82-83</ref>。血縁度が高い相手に利他行動を向ける傾向は、[[スズミツスイ]]など他の鳥でも確認されている<ref>『生物の社会進化』pp.224-225</ref>。


血縁度''r''だけでなく、利他行動の利益''b''やコスト''c''も、利他行動の進化に影響する。シロビタイハチクイでは、餌不足のときほど多くの個体がヘルパーになることも知られている。これは、餌の乏しいときには助けることの利益''b''が大きくなることに加えて、独立して自力で繁殖できる見込みが小さくなる(利他行動によって失う繁殖成功''c''が小さくなる)ことによるのだろう<ref name=se223>『生物の社会進化』pp.223-224</ref>。1歳の[[ドングリキツツキ]]は、縄張りの空きが少ないときほど高い割合で産まれたグループに留まってヘルパーになる。[[ルリオーストラリアムシクイ]]や[[ムラサキオーストラリアムシクイ]]では、[[性比]]が[[オス|雄]]に偏っていて、若い雄が配偶相手を得るのが困難なときほど、ヘルパーを持つ群れが多くなる。これらの要因も、ヘルパーをしなかったときに得られると期待される繁殖成功''c''を下げるので、相対的にヘルパーになることを有利にすると考えられる<ref name=se223/>。
他方で、改めて考えれば任意の遺伝子を共有している可能性のある個体は自分の子だけではない。少なくとも自分の親のどちらかには含まれているし、兄弟や親戚にも含まれている可能性はある。すると、ある遺伝子が発現することで、その個体が子供を作ることをあきらめて、その代わりに多数の兄弟姉妹を生き延びさせるとすれば、遺伝子は兄妹たちの体を通して次世代に伝えられる可能性がある。


[[ヤマセミ]]では、血縁度と巣立ったヒナの数を測定することで包括適応度を実際に計算した研究がある<ref>『動物の行動と生態』pp.79-81</ref>。それによると、若い雄は雌を得られなかったときに親のもとでヘルパーになることで、確かに高い包括適応度を得ていた。親を援助するヘルパーほどには働かないが、血縁のない個体を援助するヘルパーもいて、彼らは援助相手の雄が死んだときに取って代わることで、翌年以降に繁殖できる見込みを高めている。
こう考えれば、単純に個体が残した子供の数だけで成功かどうかを判断する[[適応度]]の概念では不十分である。ある遺伝子を共有する確率は血縁が近いほど高い。そこで、その確率をもって、血縁の近さを示すことができる。これを血縁度という。そこで、単に子どもの数の代わりに、生き延びる親戚一同の数を、それぞれの血縁度を勘案しつつ数える方が有効である。この値を[[包括適応度]]と言う。


== 血縁度 ==
=== 警戒声 ===
群れに[[捕食者]]が接近したときに、[[警戒声]]と呼ばれる特有の鳴き声を出す動物がいる。この行動は他個体に危険を知らせて利益を与えるが、捕食者の注意を引いて自身を危険に晒す利他行動であるように思われる。[[ベルディングジリス]]では、雄より[[メス (動物)|雌]]のほうがよく警戒声を発する。この種では雄は産まれた群れを離れるが、雌は群れに留まるため、雄よりも雌のほうが多くの血縁者と一緒にいるので、警戒声は血縁者を助けることになると考えられる。雌は血縁個体が近くにいるほど警戒声を発しやすいこともわかっている<ref>『生物の社会進化』pp.132-137</ref><ref>『行動・生態の進化』pp.81-82</ref>。
血縁度とは、ある特定の遺伝子に注目した場合に、その遺伝子を二個体が共有している確率と言うことができる。倍数体の生物(ヒトなど)の親子では、ある遺伝子が親子間で共有されている可能性は50%である。これを0.5と表す。兄妹間も(両親が同じであれば)同じく0.5、祖父母や叔父叔母に対しては0.25、いとこ同士は0.125となる。一卵性双生児の兄妹は1である。また自分自身も1と見なす。全ゲノムのうち遺伝子が共有されている「割合」ではなく、個々の遺伝子が共有されている「確率」である。


=== 利他的分散 ===
この値が成り立つのは、近親交配がほとんど起きない場合である。近親交配が頻繁におきる生物や、ハチやアリなどの半倍数体生物では計算が変わる。また、特殊な遺伝子に注目して血縁度を算出することを「同祖性による血縁度」という。もしこの遺伝子がありふれたものである場合、その遺伝子に関して言えば赤の他人との血縁度も0.5以上になり得、同祖性による血縁度の算出はできなくなる。ハミルトンの大きな業績の一つは、たとえそのように遺伝子が集団中にありふれている場合であっても、やはり血縁度とハミルトンの法則が成り立つことを示した点にある。
同じ場所を利用する個体間の競争が強ければ、血縁個体同士で資源を奪い合うよりも、一部の個体が分散し、他の生息場所に移動するほうがよいかもしれない。ハミルトンと[[ロバート・メイ|メイ]]の理論によれば、分散時の死亡率が相当に高くても、一部の個体は分散するのが進化的に安定な戦略となる。この理論が提唱された当時にははっきりした事例がなかったが、その後[[アブラムシ]]の一種[[ドロオオタマワタムシ]]で、一部の幼虫が産まれたゴール(虫こぶ)を離れ、他のゴールに侵入することが発見された。これは、自分が他のゴールに侵入できずに死亡するリスクを被って、産まれたゴールに残る血縁個体に競争回避の利益を与える利他行動とみなすことができる<ref>『兵隊を持ったアブラムシ』第5章</ref>。


== ハミルンの法則 ==
=== における血縁選択 ===
ヒトの研究からも、血縁選択説によって説明できる行動が見つかっている。[[ヤノマミ族|ヤノマモ族]]で集団間の争いが起こると、味方のなかでも血縁度の高い者をよく助ける傾向がある<ref name=hase95>『進化と人間行動』p.95-96</ref>。[[オセアニア諸島]]の人々はしばしば[[養子]]を育てることがあり、これは自然選択によって説明できないとされたこともあるが、詳細に調べると養子のほとんどは養父母の血縁者([[甥]]や[[姪]]など)であった<ref name=hase95/>。
ある遺伝子がもたらす利他行動が次の式を満たすとき、その遺伝子は同じ遺伝子座の他の対立遺伝子よりも頻度を増す可能性がある。
カナダでは、継子が血縁のない義理の親と同居している場合、子殺しの起こる頻度が数十倍になることが明らかになっている<ref name=tsuji88>『行動・生態の進化』p.88-90</ref><ref>『進化と人間行動』p.98</ref><ref>『シンデレラがいじめられるほんとうの理由』pp.49-54</ref>。もっとも、子殺しが現代社会において包括適応度を高めているとは考えにくい。ヒトの進化の過程で自分の子を識別し、血縁のない相手よりも愛情や養育行動を向けやすい性質を持つようになったのが、現代社会において子殺しという結果に繋がったと解釈すべきである<ref name=tsuji88/><ref>『シンデレラがいじめられるほんとうの理由』第5章</ref>。また、このような研究は子殺しを正当化するものでもないことに注意が必要である<ref name=tsuji88/>。


== 真社会性の進化 ==
'''rB > C''' (利他行動を受けた個体の血縁度×その個体が得られた繁殖上の利益 > 利他行動を行った個体が失う繁殖上の利益)
=== 膜翅目の真社会性 ===
[[社会性昆虫]]には、繁殖をせず利他行動に専念する個体(ワーカー、不妊カースト)が含まれる。とくに[[膜翅目]]([[ハチ]]や[[アリ]])では何度も[[真社会性]]が進化しており、生物学者の興味を引いてきた。


ハミルトンの[[血縁度4分の3仮説]]は、膜翅目における真社会性の進化を、[[半倍数性]][[性決定]]と結びつけた<ref name=tsuji94>『行動・生態の進化』pp.94-96</ref>。このシステムでは、[[メス (動物)|雌]]は受精卵から産まれる2倍体だが、雄は未受精卵から産まれる1倍体である。したがって、血縁度の計算が2倍体の場合とは異なる。とくに重要なのが姉妹間の血縁度である。ある雌の持つ稀な遺伝子が母親由来である確率は0.5で、その場合に母親がある姉妹にもその遺伝子を渡している確率は0.5なので、母親由来で共有する確率は0.5×0.5=0.25となる。ここまでは2倍体の場合と同じだが、父親由来の確率が違ってくる。同様にある遺伝子が父親由来である確率は0.5だが、父親は[[ゲノム]]を1セットしか持たず、[[減数分裂]]なしに精子を作ってすべての遺伝子を娘に伝えるので、確実に妹にもその遺伝子を渡している。したがって父親経由で共有する確率は0.5であり、姉妹間の血縁度は0.25+0.5=0.75(4分の3)となる。これは母親からみた子の血縁度0.5よりも高い。姉妹間の血縁度が高いために、雌はワーカーになると考えられる<ref name=tsuji94/>。
これをハミルトンの法則と呼ぶ。これに利他行動を行った個体の本来の適応度'''w'''を加えたものが包括適応度となる。


この仮説の弱点の1つは、雌からみた弟の血縁度が0.25と低いことである<ref name=tsuji94/>。そのため、もし[[性比]](厳密には、投資量でみた性投資比)が1:1ならば、雌からみた弟妹の平均血縁度は0.5となり、2倍体生物のものと変わらない。[[ロバート・トリヴァース|トリヴァース]]とヘアはこの点に着目し、もし真社会性がワーカーの包括適応度を最大化するものであるならば、ワーカーは性投資比を操作し、繁殖個体への性投資比は雄1に対し雌3となるはずだと予測した<ref>ただし、個体群全体の性比が1:3となると、雌の相対的な繁殖成功は下がり、血縁度の高さを打ち消してしまう(West & Gardner 2010)。社会性進化の初期においては、女王以外が雄を多く産むことで性比が保たれていた可能性がある(『生物の適応戦略』第6章)。</ref>。彼らは多数の単女王性のアリについてデータを集め、このことを支持するデータを得た<ref name=tsuji94/>。この研究に対しては批判もあるが、後に行われた研究も、概してトリヴァースとヘアの仮説を支持している<ref>『親子関係の進化生態学』p.25</ref>。
'''w + rB - C'''


アリの性比研究が進む中で、巣によって性比が大きくばらつくことがわかってきた。この[[分断性比]]を血縁淘汰の観点から説明したのがボームスマと[[アラン・グラフェン|グラフェン]]の理論である<ref>『親子関係の進化生態学』pp.20-22</ref><ref>『行動・生態の進化』pp.98-102</ref>。彼らの理論によると、同種内に1匹の雄のみと交尾した女王と、複数の雄と交尾した女王が混在しているとき、前者のコロニーでは雌、後者では雄が多く生産されると予測される。この予測はサンドストロームによる[[ケズネアカヤマアリ]]の研究で見事に実証され、血縁選択説を支持する強い根拠となった。
== 社会性昆虫への適用 ==
この考えを[[社会性昆虫]]に適用すると、働きバチなどの進化の説明が可能になる。つまり、仮に働き蜂遺伝子というものがあって、それを持つ個体を働きバチとしてふるまわせると考える。そして、その働きによってその個体の兄弟姉妹を多数増やすことに成功するならば、その個体自身が子供を残さなくても、その兄弟姉妹を通じてその遺伝子は子孫にそれ自身を残すことに成功する。つまり働きバチという性質が遺伝し、進化することは可能だと考えられる。


もう1つの問題は、女王が複数回交尾すれば、姉妹間の血縁度は低くなってしまうということだ<ref name=tsuji103>『行動・生態の進化』pp.103-107</ref>。これに対しては、膜翅目の真社会性が進化したときには女王は単婚であったと推定されることから、複数回の交尾は真社会性が発達してから二次的に進化したものだと説明されている<ref name=wg>West & Gardner(2010)</ref>。一度真社会性が進化したあとで血縁度が下がると、裏切って自ら産卵しようとする他のワーカーの産卵を阻止する行動(ポリシング)が進化し、結果として真社会性は維持される<ref name=tsuji103/>。1つの巣に複数の女王がいること(多女王)による平均血縁度の低下も、同様に理解できる<ref name=tsuji103/>。
特に、ハチや[[アリ]]類では[[半倍数性]]という特殊な性決定形式を持っている。[[ハチ目]]に共通する性質であるが、[[受精]]して生まれた卵からは雌が生まれ、未受精の卵からは雄バチが生まれる(これを[[単為生殖]]という)。雄は女王と受精するとそのまま死亡し、群れにはかかわらない。交尾した雌バチは女王蜂となり、受精によって雌になる卵を産む。この卵から孵化した子が働き蜂になるのである。つまり受精した卵から生まれた個体は雌になり、未受精卵から生まれた個体は雄になる。このような性決定の仕組みを雄ヘテロ型という。


=== シロアリの真社会性 ===
このような仕組みの中では、先に説明した血縁度はやや異なった値になる。たとえば雄バチとその母親の間では血縁度は1である。同様に考えると、姉妹間での血縁度は0.75という、高い値を示す。つまり、この性決定様式の元では、同じ数であれば自分の子を作るよりも姉妹を増やした方が遺伝子を残すには効果が高いという結果となる。このことから、ハチやアリでは社会性が発達しやすかったと考えられるのである。この0.75という血縁度の高さが[[真社会性]]の原因となったとする説を'''3/4仮説'''とよぶ。
[[等翅目]]の[[シロアリ]]も真社会性だが、膜翅目とは異なり両性とも2倍体で、雄も雌もワーカーになる。シロアリ類の二次生殖虫は巣内に留まり、二次生殖虫同士で何世代も[[近親交配]]を繰り返す。その結果、二次生殖虫が産んだ有翅の繁殖虫は、ほとんどすべての遺伝子について、同じコピーを2つ持つ([[ホモ接合]])ことになる。この繁殖虫が巣から出て血縁のない他の繁殖虫(これもほとんどの遺伝子についてホモ接合)と交尾すると、産まれる個体はすべてほぼ同一の遺伝子型を持つことになり、血縁度は非常に高くなる。シロアリの真社会性はこれによって説明できると考えられる<ref>『生物の社会進化』pp.217-220</ref>。


=== その拡張 ===
=== その他の真社会性生物 ===
当初、真社会性は膜翅目と等翅目でしか知られていなかった。しかし血縁選択の理論に従えば、個体間の血縁度が高ければ、他の生物でも血縁度が高くなりさえすれば、真社会性が進化してもおかしくない<ref name=tsuji83>『行動・生態の進化』pp.83-85</ref>。実際に、真社会性はその後さまざまな生物で見つかっている。
3/4仮説は、膜翅目に見られる社会性の発達を、彼らの持つ特殊な遺伝的な性決定様式に結びつけたものである。しかし、もう一つの社会性昆虫であるシロアリでは性決定はヒトと同じであり、このことは当てはまらない。また、シロアリの場合、不妊カーストは両性に見られる。これを説明するために、シロアリにおいても集団内の血縁度が特に高いのだとするのが[[近親交配説]]で、集団内の個体間で交配が行われることで、血縁度が高くなったのが社会性発達の始まりとする。


ハミルトンはクローン生殖する生物で利他行動が発見されても良いはずだと予測した。その後アブラムシにも兵隊カーストが存在するものがあることが判明した。彼らの場合、雌親が[[単為生殖]]でを多数産んで集団を作るので、集団内の血縁度は1であ血縁選択説の予測に合致する。のアブラムシを発見したのは日本人行動生態学者青木重幸あり、生態学者藤崎憲治を日本の昆虫学にける最大学問的貢献呼んだ
血縁選択説によれば、クローン生殖する生物はすべての遺伝子を共有するの利他行動が進化しやす<ref>『利己的な遺伝子』pp.449-451(補注6-3)</ref>。ハミルトン[[アブラムシ]]にも不妊カーストが存在する可能性を指摘した。アブラムシでは、雌親が[[単為生殖]]でクローンを多数産んでコロニーを作るので、個体の出入りがなければ、コロニー内の血縁度''r''は1である。したがって''b''>''c''であれば、すなわち利益がコストをわずかでも上回れば、利他行動は進化ると考えられる。予測通り、[[青木重幸]]はアブラムシの一種[[ボタンヅルワタムシ]]が不妊の兵隊カーストをつくること確認した。そ後、他アブラムシも真社会性確認さり、アブラムシ類なかで真社会性の進化が複数回起こっているこが判明した<ref>『兵隊を持ったアブラムシ』</ref>


さらに、昆虫以外の動物でも真社会性が発見された。1つは[[カイメン]]に住む[[ツノテッポウエビ]]類、もう1つはトンネルを掘って地中で暮らす[[ハダカデバネズミ]]である。これらの例も、やはり血縁度の高さから説明できる<ref name=tsuji83/>。
なお、[[管クラゲ]]や[[外肛動物]]など[[群体]]性の動物には繁殖個体が分化する例も珍しくはない。これらはそれまでは何の疑問もなく受け入れられていた。しかし、この考えで見直せば、このような群体は[[無性生殖]]によって数を増すから、その個体間の血縁度は1であり、このような群体内での個体の分化は社会性昆虫における不妊カーストの出現と同様の現象と見ることができる。
=== トリヴァース=ヘア仮説 ===
アメリカの進化生物学者[[ロバート・トリヴァース]]とホープ・ヘアは血縁選択説と[[フィッシャーの原理]]の予測に従い、単婚の膜翅目ではワーカーによる繁殖虫への[[ESS]][[親の投資|投資比]]はメス:オスで3:1になるはずであると予測した。ワーカーが自分の包括適応度を短期的に最大化するためには妹だけを作るべきである。しかしそれでは少数となった他のコロニー出身のオスの繁殖成功度が相対的に上昇する。従って孫の世代を考慮すればワーカーが包括適応度を最大化できる投資性比は3:1になる。彼らの実験は完全ではなかったが、おおむね予測通り投資費が予測と合致していることが判明した。さらに[[アラン・グラフェン]]やサンドストロームらがこの研究を洗練させ、完全に予測通りではないものの、血縁選択説は実験的な検証に耐えたと考えられるようになった。


一部の[[無脊椎動物]]は多くの個体(個虫)が集まって[[群体]]を作る。なかでも[[外肛動物]]の[[裸喉綱]]などいくつかの[[分類群]]では、群体を構成する個虫に分化が見られ、一部の個虫は繁殖に関与しない。血縁選択説の観点からすると、このような群体は[[無性生殖]]によって数を増すから、その個体間の血縁度は1であり、このような群体内での個体の分化は社会性昆虫における不妊カーストの出現と同様の現象と見ることができる<ref>『無脊椎動物の多様性と系統』p.223</ref>。
== 誤解 ==
血縁選択はしばしば誤解される。代表的な誤解を挙げる。
*ミツバチのワーカーが全てメスなのは血縁選択のためである。
:繁殖しないミツバチのワーカーは[[適応度]]の計算上の価値はゼロであり、姉ワーカーが他の妹ワーカーを助けても姉ワーカーの包括適応度は上昇しない。「姉妹を増やした方がよい」と言う場合の「姉妹」とは繁殖虫の姉妹のみを指す。ワーカーにメスが多い理由は明らかになっていない。ワーカーが他のワーカーを助けるのは、そのワーカーも繁殖虫を育てる助けとなるからである。
*血縁選択は社会性昆虫にしか適用できない。
:血縁選択は有性・無性にかかわらず全ての生物に適用できる。[[ほ乳類]]が子育てを行うこと、雄よりも雌の方が子育てを重点的に行うことなども血縁選択とその後の発展によって論理的に説明可能になった。
*遠隔地の遠い親戚に子どもが生まれたから自分の包括適応度がわずかに上昇した。
:包括適応度と血縁選択は[[集団遺伝学]]の理論であり、注目しているのは利他行動に関わる遺伝子である。そのため適応度を個体から数えると混乱の元となる。親族に利他行動が向けられ、そのために親族が大きな繁殖成功を得た場合に、その利他行動に関わる遺伝子の包括適応度は上昇したと言える。相互作用できないほど遠隔地にいる親族が繁殖成功しても、その成功は利他行動の遺伝子の成功とは何ら関係がない。
*全ての人類は親戚であるから、人類間に利他行動が見られるのは血縁選択のためである。
:包括適応度と血縁選択は集団遺伝学の理論であり、一つの遺伝子座を巡る対立遺伝子間の競争に関する説明である。集団の誰にでも分け隔て無く利他的行動を促す対立遺伝子よりも、血縁者に重点的に利他行動を促す対立遺伝子の方が有利である。したがって血縁選択説は集団中の全個体へ分け隔て無く利他的行動を向ける性質は進化しないと予測する。
*ヒトと[[チンパンジー]]は遺伝子の98%を共有しているのだから利他行動が見られるはずである。
:血縁選択は同じ遺伝子座を巡る対立遺伝子の競争であり、遺伝子プールを共有しない生物間では成立しない。仮にヒトとチンパンジーが利他行動に関わる同じ遺伝子を維持していたとしても、分子構造が同じという以上の意味はない。
*ヒトの[[養子]]取りは血縁選択説に反する(従って血縁選択はヒトでは働かない)
:血縁選択説は全ての利他行動を説明する理論ではない。また[[血縁認知]]と[[子育て]]の感情は別に働く可能性がある。その場合は養子であれ子育てする喜びを親が感じるかも知れない。マーチン・デイリーとマーゴ・ウィルソンの人間の子殺しの研究は、血縁者間では子殺しを抑制するメカニズムが働いていることを示唆する。
*動物は血縁度の計算ができない(従って血縁選択が働くはずがない)
:[[リチャード・ドーキンス]]はこのような言及に対して「巻き貝は対数表を持っていないが美しい[[対数螺旋|対数らせん]]を描くことができる」と指摘した。


== 理論的影響 ==
== 緑髭効果 ==
{{main|緑髭効果}}
このようにして、血縁選択説はそれまで困難であった社会性昆虫の進化を、自然選択説の考えを歪めることなく説明することに成功した。その反響はすぐには現れず、1980年代後半までは次第にその理解をひろめる様子であったが、それ以降は急速に影響力を強めた。
通常の血縁選択では、利他行動に関わる遺伝子を共有する確率の高い個体に対して利他行動をするように進化が起こると考えられる。しかし、もし利他行動の遺伝子を確実に共有する個体に対してだけ利他行動を行うことができれば、そのような遺伝子は容易に(''b''>''c''ならば)自然選択において頻度を増すだろう。たとえば、もしある遺伝子が「緑の髭を生やす」効果と、「緑髭の個体に対して利他行動を行う」効果を同時に持てば、利他行動は確実に遺伝子を共有する個体に向けられる。このことを[[緑髭効果]]と呼び<ref name=tsuji72>『行動・生態の進化』pp.72-73</ref><ref>『利己的な遺伝子』p.130</ref><ref name=wg/>、広義には、これも血縁選択に含めることができる<ref name=west/><ref name=tsuji72/>。同一の遺伝子が偶然このような2つの効果を持つというのは考えにくかったため、当初は緑髭効果は架空のものと思われていた<ref name=tsuji72/>。しかし利他行動の遺伝的基盤の研究から、実例が見つかってきている。


== 利己的な遺伝子 ==
この説の直接的な影響としては、社会性昆虫の進化を説明できるようになったことで、社会性昆虫の進化に関する新たな知見が多く積み上げられるようになった。と同時に、社会性を捕らえ直すきっかけとなったことが挙げられる。つまり、[[真社会性]]という考え方である。これを元に、新たな社会性動物の発見も行われた。
血縁選択は、個体レベルの自然選択では説明できない特殊な現象を説明するときに持ち出される特殊な理論だとされることがあるが、進化の背景にある遺伝子の頻度変化を考えることから直接に導かれるものである<ref name=12mis/>。子育ては個体レベルでの自然選択によって進化したものと従来から認められていた。しかし、なぜ子育てが進化する(子育てに関与する遺伝子が頻度を増す)かを考えれば、血縁度0.5の個体に対する利他行動となんら変わるところがない<ref name=12mis/><ref>『利己的な遺伝子』pp.155-157</ref>。


[[リチャード・ドーキンス|ドーキンス]]は「[[利己的な遺伝子]]」という表現でこの点を強調した<ref>『利己的な遺伝子』</ref>。この考えを推し進めると、究極的には遺伝子のような[[自己複製子]]こそが自然選択の単位とみなされるべきであり、個体はその乗り物(ヴィークル)であるという[[遺伝子選択説]]に結びつく。
また、社会性昆虫とは異なる性質をもつ[[脊椎動物]]の社会における利他的行動に関しても、包括適応度などの考え方は大きな影響を与え、さまざまな新たな現象の発見にもつながった。


== 誤解 ==
さらに、より広く考えた場合、行動の遺伝や進化に関して新たな見方を提出したことが挙げられる。特に自然選択を遺伝子の単位で考えることは、それまでは種のような群の単位で考えられがちであった習性の研究を、個々の行動、それを取るそれぞれの[[個体]]の単位で考えることを可能にしたことが大きい。元々[[最適化モデル]]によって行動を量的に評価する方法はそれなりに発展していたから、それと結びつくことで大きな進歩の元となった。そこからの発展は、行動生態学の流れとなって20世紀末以降の生態学を大きく変えることになった。[[利己的遺伝子]]論もその流れにある。それらの余波はそれ以降の<!-- NHK動物番組 -->マスコミの論調やテレビ放送の内容を席巻するまでに至るのである。
血縁選択はしばしば誤解される。代表的な誤解のうち、これまでに触れていないものを挙げる。
*遠隔地の親戚に子どもが生まれたから自分の包括適応度が上昇した。
:包括適応度の計算に含められるのは血縁者の繁殖成功ではなく、ある個体の行動が血縁者の繁殖成功に与える効果である。したがって、遠隔地にいて全く繁殖成功に影響を与えられない親戚がいくら子を残そうと、包括適応度に影響することはない<ref>『延長された表現型』pp.348-349</ref>。
*ヒトと[[チンパンジー]]は遺伝子の98%以上を共有しているのだから血縁度は0.98以上である。
:血縁度は[[遺伝子プール]]のなかで定義されるものであり、したがって同じ集団に属し遺伝子プールを共有するとは考えられない別種の間で血縁度を計算することはできない。またこの誤解は、血縁度を特定の遺伝子の共有率でなくゲノム全体の共有率としている点でも誤りである<ref name=tsuji2/>。
*動物は血縁度の計算ができない(従って血縁選択が働くはずがない)
:ドーキンスはこのような批判に対して「巻き貝は対数表を持っていないが美しい[[対数螺旋|対数らせん]]を描くことができる」と反論している<ref name=12mis/>。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[社会生物学]]
*[[社会生物学]]
*[[利己的遺伝子]]


== 参考文献 ==
*『シリーズ進化学6 行動・生態の進化』[[岩波書店]] [[長谷川真理子]]・[[河田雅圭]]・[[辻和希]]・[[田中嘉成]]・[[佐々木顕]]・[[長谷川寿一]]著 2006年
*『延長された表現型』[[紀伊國屋書店]] [[リチャード・ドーキンス]]著 [[日高敏隆]]・遠藤彰・遠藤知二訳 1987年
== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
=== 日本語文献 ===
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*{{cite book|和書|last=クローニン|first=H||title=性選択と利他行動|trasnslator=長谷川真理子|publisher=工作者|year=1994|origyear=1991|isbn=4875022387}}
*{{cite book|和書|last=デイリー|first=M|coauthors=ウィルソン, M|title=シンデレラがいじめられるほんとうの理由|translator=[[竹内久美子]]|series=進化論の現在|year=2002|origyear=1998|publisher=新潮社|isbn=4105423029}}
*{{cite book|和書|last=ドーキンス|first=R|authorlink=リチャード・ドーキンス|title=利己的な遺伝子|edition=増補新装版|translator=[[日高敏隆]]・岸由二・羽田節子・垂水雄二|year=2006|origyear=2006|isbn=4314010037|publisher=紀伊国屋書店}}
*{{cite book|和書|last=ドーキンス|first=R|title=延長された表現型 自然淘汰の単位としての遺伝子|translator=日高敏隆・遠藤彰・遠藤知二|year=1987|origyear=1982|isbn=4314004851|publisher=紀伊国屋書店}}
*{{cite book|和書|author=長谷川英祐|chapter=アリの性比をめぐる親子の対立|pages=pp.3-27|title=親子関係の進化生態学 節足動物の社会|editor=齋藤裕編著|year=1996|publisher=北海道大学図書刊行会|isbn=4832996517}}
*{{cite book|和書|author=[[長谷川眞理子]]|title=動物の行動と生態|year=2004|publisher=放送大学教育振興会|isbn=4595237804}}
*{{cite book|和書|author=長谷川眞理子|coauthors=[[長谷川寿一]]|title=進化と人間行動|year=2007|publisher=放送大学教育振興会|isbn=9784595307584}}
*{{cite book|和書|author=[[伊藤嘉昭]]|title=新版 動物の社会 社会生物学・行動生態学入門|year=2006|publisher=東海大学出版会|isbn=4486017374}}
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*{{cite book|和書|author=馬渡峻輔|chapter=群体性の利点:群体と個虫分化|title=無脊椎動物の多様性と系統(節足動物を除く)|year=2000|editor=白山義久編|others=岩槻邦男・馬渡峻輔監修|publisher=裳華房|isbn=4785358289|series=バイオディバーシティ・シリーズ5}}
*{{cite book|和書|last=トリヴァース|first=R|authorlink=ロバート・トリヴァース|title=生物の社会進化|translator=中嶋康裕・福井康雄・原田泰志|year=1991|origyear=1985|publisher=産業図書|isbn=4782800614}}
*{{cite book|和書|author=辻和希|chapter=血縁淘汰・包括適応度と社会性の進化|pages=pp.55-120|title=行動・生態の進化|year=2006|editor=石川統・斎藤成也・佐藤矩行・長谷川眞理子編|publisher=岩波書店|series=シリーズ進化学6|isbn=4000069268}}

===英語文献===
*{{cite journal|last=Dawkins|first=R|authorlink=リチャード・ドーキンス|title=Twelve misunderstandings of kin selection|journal=Z Tierpsychol|year=1979|volume=51|issue=2|pages=184-200|doi=10.1111/j.1439-0310.1979.tb00682.x|issn=1439-0310|url=http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1439-0310.1979.tb00682.x/abstract}}
*{{cite journal|last=West|first=SA|coauthors=Garder, A|title=Altruism, spite, and greenbeards|year=2010|journal=[[サイエンス|Science]]|volume=327|issue=5971|pages=1341-1344|doi=10.1126/science.1178332|url=http://www.sciencemag.org/cgi/content/abstract/327/5971/1341|issn=1095-9203}}
*{{cite journal|last=West|first=SA et al.|year=2007|title=Social semantics: altruism, cooperation, mutualism, strong reciprocity and group selection|journal=J Evol Biol|volume=20|issue=2|pages=415-432|doi=10.1111/j.1420-9101.2006.01258.x|issn=1010-061X|url=http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/17305808}}


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2011年3月22日 (火) 05:13時点における版

血縁選択説(けつえんせんたくせつ)とは、自然選択による生物進化を考えるには、個体が自ら残す子孫の数だけではなく、遺伝子を共有する血縁者の繁殖成功に与える影響も考慮すべきだとする進化生物学理論[1]。これによって、血縁個体に対する利他行動の進化を説明することができる。血縁淘汰説ともいう。

背景

自然選択説によれば、生物は自らの子孫をより多く残すように進化すると予測される。しかし、実際の生物にはしばしば利他行動、すなわち自分の繁殖成功を下げて他者の繁殖成功を高める行動が見られる。とくに顕著なのはハチアリなどの社会性昆虫などに見られる真社会性であり、この場合には一部の個体(働きバチ、働きアリなど。一般にワーカーという)は全く繁殖せず、他個体の繁殖を助けることに一生を費やす。このような自分の子孫を残さない形質は、自然選択によってすぐに個体群から消えてしまうはずである。

自然選択説を提唱したダーウィン自身この問題に気付いていた。彼は、ウシの肉質に対する人為選択を引き合いに出して説明している。ウシの肉質がわかったときには、当のウシはすでに殺されているので、そのウシの子孫を直接増やすのは難しい。しかし育種家は、その家族を繁殖させることで、肉質のよいウシの育種を行っているのだ。この説明は驚くほど現代的な血縁選択説に近いが、一方で曖昧な部分もあった[2]

ダーウィン以降、利他行動は「集団にとっての利益」「の繁栄」によって説明されてきた[2][3]。この考えは、個体にとって不利益な形質でも、それが種や集団全体の利益となるなら、集団レベルではたらく自然選択(群選択)によって進化するというものだが、詳しく検討されたわけではなく、漠然と受け入れられていた。この状況を一変させたのがハミルトンによる血縁選択説である。

内容

従来の自然選択説がある個体自身の繁殖成功(直接適応度)のみを考えていたのに対して、血縁選択説はその個体が、遺伝子を共有する血縁個体の繁殖成功を増すことによって得る間接適応度も考慮に入れる。そして、この2つを足し合わせた包括適応度を最大化する形質が進化すると予測する[1]

血縁選択説では、血縁者に対する利他行動を促進する遺伝子を想定し、その頻度が世代を経るにつれて増えるか減るかを考える[4]。そのような遺伝子は、利他行動を行う個体自身の繁殖成功(直接適応度)を下げるために、次世代では頻度を減らすように思われる。しかし、利他行動が同じ遺伝子を持つ個体の繁殖成功を高くするのであれば、利他行動を受ける個体が多くの子孫を残すことによって、合計ではその遺伝子の頻度は増えていく(自然選択において有利になる)可能性がある。

血縁度

個体間の遺伝子の共有度合いを血縁度(近縁度とも)という[1]。より厳密には、注目する遺伝子について、集団全体でのその遺伝子の頻度と比べて、共有される確率がどれほど高いかを示す数値が血縁度である[5]。すなわち、「ありふれた遺伝子はほとんどすべての個体に共有されるから血縁度は1である」「同種内であればどの個体もほとんどすべての遺伝子を共有するから血縁度は1である」といった主張は間違いで、集団の平均をベースラインとして差し引いたものとして、血縁度を計算しなければならない[5][6]。たとえ遺伝子がほとんどの個体で共有されているとしても、あらゆる個体に対して利他的に振舞う戦略は進化的に安定な戦略ではなく、安定になるのは上記の定義での血縁度に基づく利他行動をする戦略である[7]

上の定義は複雑だが、近似的な「同祖性による定義」を用いることで、簡単に血縁度を計算することができる[5][8]。この定義では、個体間で、共通する祖先から受け継いだ稀な遺伝子を共有する確率が血縁度となる[4]。同祖性による血縁度は、家系図から計算することができる。

2倍体の有性生殖生物を例に、いくつか計算を示す。ある個体が稀な遺伝子Aを1つだけ(ヘテロで)持つとする。有性生殖によって、子には半分の遺伝子だけが伝わるので、その子が同じくAを持つ確率は0.5である。したがって、親からみた子の血縁度は0.5となる。同様に、子から見た親の血縁度も0.5である。次に、両親とも同じ兄弟姉妹間の血縁度を計算してみよう。先ほどと同様にある個体が稀な遺伝子Aをヘテロで持つ場合、Aが父親に由来する確率は0.5で、その場合に父親が他の兄弟姉妹にもAを伝えている確率も0.5なので、父親由来でAを共有する確率は0.5×0.5=0.25となる。母親由来で共有する確率も同様に計算して0.25なので、兄弟姉妹間の血縁度は0.25+0.25=0.5となる。すなわち、親子間の血縁度と兄弟姉妹間の血縁度は等しい。片親が異なる兄弟姉妹(異母あるいは異父)の場合、親のどちらかを通じて共有する可能性しかないので、血縁度は0.25となる。同じ計算により、いとこの血縁度は0.125となる。

ハミルトン則

他個体との相互作用がないときの適応度をw、利他行動によって相手が得る利益(benefit)をb、利他行動によって失う自身の繁殖成功をc(コストcost)、利他行動をする個体から見た相手の血縁度 (relatedness)をrとすると、包括適応度は

  • w + br - c

となる。利他行動が進化するのは、これが利他行動をしない個体の適応度wより大きいときなので、その条件は

  • br - c > 0

となる。すなわち、利他行動を受ける個体の利益に血縁度で重み付けしたものが、利他行動を行う個体が被るコストを上回るとき、利他行動が進化すると予測できる。これをハミルトン則と呼ぶ[4]。ハミルトン則はこの不等式を変形し、

  • b/c > 1/r

と表すこともできる。

血縁選択の事例

ヘルパー

シロビタイハチクイでは、が産まれたに留まり、ヘルパーとして親の繁殖を手伝うことがある。つまり弟妹の世話をするのだが、これは両親とも同じであれば血縁度0.5の個体に対する利他行動となる。しかし一方の親が死ぬなどして別の個体に入れ替わると、世話の相手は異母または異父の弟妹となり、血縁度は0.25に下がる。血縁選択説から予測されるとおり、助ける相手の血縁度が下がるほど、ヘルパーを止めて巣を離れる確率が高くなる[9]。血縁度が高い相手に利他行動を向ける傾向は、スズミツスイなど他の鳥でも確認されている[10]

血縁度rだけでなく、利他行動の利益bやコストcも、利他行動の進化に影響する。シロビタイハチクイでは、餌不足のときほど多くの個体がヘルパーになることも知られている。これは、餌の乏しいときには助けることの利益bが大きくなることに加えて、独立して自力で繁殖できる見込みが小さくなる(利他行動によって失う繁殖成功cが小さくなる)ことによるのだろう[11]。1歳のドングリキツツキは、縄張りの空きが少ないときほど高い割合で産まれたグループに留まってヘルパーになる。ルリオーストラリアムシクイムラサキオーストラリアムシクイでは、性比に偏っていて、若い雄が配偶相手を得るのが困難なときほど、ヘルパーを持つ群れが多くなる。これらの要因も、ヘルパーをしなかったときに得られると期待される繁殖成功cを下げるので、相対的にヘルパーになることを有利にすると考えられる[11]

ヤマセミでは、血縁度と巣立ったヒナの数を測定することで包括適応度を実際に計算した研究がある[12]。それによると、若い雄は雌を得られなかったときに親のもとでヘルパーになることで、確かに高い包括適応度を得ていた。親を援助するヘルパーほどには働かないが、血縁のない個体を援助するヘルパーもいて、彼らは援助相手の雄が死んだときに取って代わることで、翌年以降に繁殖できる見込みを高めている。

警戒声

群れに捕食者が接近したときに、警戒声と呼ばれる特有の鳴き声を出す動物がいる。この行動は他個体に危険を知らせて利益を与えるが、捕食者の注意を引いて自身を危険に晒す利他行動であるように思われる。ベルディングジリスでは、雄よりのほうがよく警戒声を発する。この種では雄は産まれた群れを離れるが、雌は群れに留まるため、雄よりも雌のほうが多くの血縁者と一緒にいるので、警戒声は血縁者を助けることになると考えられる。雌は血縁個体が近くにいるほど警戒声を発しやすいこともわかっている[13][14]

利他的分散

同じ場所を利用する個体間の競争が強ければ、血縁個体同士で資源を奪い合うよりも、一部の個体が分散し、他の生息場所に移動するほうがよいかもしれない。ハミルトンとメイの理論によれば、分散時の死亡率が相当に高くても、一部の個体は分散するのが進化的に安定な戦略となる。この理論が提唱された当時にははっきりした事例がなかったが、その後アブラムシの一種ドロオオタマワタムシで、一部の幼虫が産まれたゴール(虫こぶ)を離れ、他のゴールに侵入することが発見された。これは、自分が他のゴールに侵入できずに死亡するリスクを被って、産まれたゴールに残る血縁個体に競争回避の利益を与える利他行動とみなすことができる[15]

ヒトにおける血縁選択

ヒトの研究からも、血縁選択説によって説明できる行動が見つかっている。ヤノマモ族で集団間の争いが起こると、味方のなかでも血縁度の高い者をよく助ける傾向がある[16]オセアニア諸島の人々はしばしば養子を育てることがあり、これは自然選択によって説明できないとされたこともあるが、詳細に調べると養子のほとんどは養父母の血縁者(など)であった[16]。 カナダでは、継子が血縁のない義理の親と同居している場合、子殺しの起こる頻度が数十倍になることが明らかになっている[17][18][19]。もっとも、子殺しが現代社会において包括適応度を高めているとは考えにくい。ヒトの進化の過程で自分の子を識別し、血縁のない相手よりも愛情や養育行動を向けやすい性質を持つようになったのが、現代社会において子殺しという結果に繋がったと解釈すべきである[17][20]。また、このような研究は子殺しを正当化するものでもないことに注意が必要である[17]

真社会性の進化

膜翅目の真社会性

社会性昆虫には、繁殖をせず利他行動に専念する個体(ワーカー、不妊カースト)が含まれる。とくに膜翅目ハチアリ)では何度も真社会性が進化しており、生物学者の興味を引いてきた。

ハミルトンの血縁度4分の3仮説は、膜翅目における真社会性の進化を、半倍数性性決定と結びつけた[21]。このシステムでは、は受精卵から産まれる2倍体だが、雄は未受精卵から産まれる1倍体である。したがって、血縁度の計算が2倍体の場合とは異なる。とくに重要なのが姉妹間の血縁度である。ある雌の持つ稀な遺伝子が母親由来である確率は0.5で、その場合に母親がある姉妹にもその遺伝子を渡している確率は0.5なので、母親由来で共有する確率は0.5×0.5=0.25となる。ここまでは2倍体の場合と同じだが、父親由来の確率が違ってくる。同様にある遺伝子が父親由来である確率は0.5だが、父親はゲノムを1セットしか持たず、減数分裂なしに精子を作ってすべての遺伝子を娘に伝えるので、確実に妹にもその遺伝子を渡している。したがって父親経由で共有する確率は0.5であり、姉妹間の血縁度は0.25+0.5=0.75(4分の3)となる。これは母親からみた子の血縁度0.5よりも高い。姉妹間の血縁度が高いために、雌はワーカーになると考えられる[21]

この仮説の弱点の1つは、雌からみた弟の血縁度が0.25と低いことである[21]。そのため、もし性比(厳密には、投資量でみた性投資比)が1:1ならば、雌からみた弟妹の平均血縁度は0.5となり、2倍体生物のものと変わらない。トリヴァースとヘアはこの点に着目し、もし真社会性がワーカーの包括適応度を最大化するものであるならば、ワーカーは性投資比を操作し、繁殖個体への性投資比は雄1に対し雌3となるはずだと予測した[22]。彼らは多数の単女王性のアリについてデータを集め、このことを支持するデータを得た[21]。この研究に対しては批判もあるが、後に行われた研究も、概してトリヴァースとヘアの仮説を支持している[23]

アリの性比研究が進む中で、巣によって性比が大きくばらつくことがわかってきた。この分断性比を血縁淘汰の観点から説明したのがボームスマとグラフェンの理論である[24][25]。彼らの理論によると、同種内に1匹の雄のみと交尾した女王と、複数の雄と交尾した女王が混在しているとき、前者のコロニーでは雌、後者では雄が多く生産されると予測される。この予測はサンドストロームによるケズネアカヤマアリの研究で見事に実証され、血縁選択説を支持する強い根拠となった。

もう1つの問題は、女王が複数回交尾すれば、姉妹間の血縁度は低くなってしまうということだ[26]。これに対しては、膜翅目の真社会性が進化したときには女王は単婚であったと推定されることから、複数回の交尾は真社会性が発達してから二次的に進化したものだと説明されている[27]。一度真社会性が進化したあとで血縁度が下がると、裏切って自ら産卵しようとする他のワーカーの産卵を阻止する行動(ポリシング)が進化し、結果として真社会性は維持される[26]。1つの巣に複数の女王がいること(多女王)による平均血縁度の低下も、同様に理解できる[26]

シロアリの真社会性

等翅目シロアリも真社会性だが、膜翅目とは異なり両性とも2倍体で、雄も雌もワーカーになる。シロアリ類の二次生殖虫は巣内に留まり、二次生殖虫同士で何世代も近親交配を繰り返す。その結果、二次生殖虫が産んだ有翅の繁殖虫は、ほとんどすべての遺伝子について、同じコピーを2つ持つ(ホモ接合)ことになる。この繁殖虫が巣から出て血縁のない他の繁殖虫(これもほとんどの遺伝子についてホモ接合)と交尾すると、産まれる個体はすべてほぼ同一の遺伝子型を持つことになり、血縁度は非常に高くなる。シロアリの真社会性はこれによって説明できると考えられる[28]

その他の真社会性生物

当初、真社会性は膜翅目と等翅目でしか知られていなかった。しかし血縁選択の理論に従えば、個体間の血縁度が高ければ、他の生物でも血縁度が高くなりさえすれば、真社会性が進化してもおかしくない[29]。実際に、真社会性はその後さまざまな生物で見つかっている。

血縁選択説によれば、クローン生殖する生物はすべての遺伝子を共有するので、利他行動が進化しやすい[30]。ハミルトンはアブラムシにも不妊カーストが存在する可能性を指摘した。アブラムシでは、雌親が単為生殖でクローンを多数産んでコロニーを作るので、個体の出入りがなければ、コロニー内の血縁度rは1である。したがって、b>cであれば、すなわち利益がコストをわずかでも上回れば、利他行動は進化すると考えられる。その予測通り、青木重幸はアブラムシの一種ボタンヅルワタムシが不妊の兵隊カーストをつくることを確認した。その後、他のアブラムシでも真社会性は確認されており、アブラムシ類のなかで真社会性の進化が複数回起こっていることが判明した[31]

さらに、昆虫以外の動物でも真社会性が発見された。1つはカイメンに住むツノテッポウエビ類、もう1つはトンネルを掘って地中で暮らすハダカデバネズミである。これらの例も、やはり血縁度の高さから説明できる[29]

一部の無脊椎動物は多くの個体(個虫)が集まって群体を作る。なかでも外肛動物裸喉綱などいくつかの分類群では、群体を構成する個虫に分化が見られ、一部の個虫は繁殖に関与しない。血縁選択説の観点からすると、このような群体は無性生殖によって数を増すから、その個体間の血縁度は1であり、このような群体内での個体の分化は社会性昆虫における不妊カーストの出現と同様の現象と見ることができる[32]

緑髭効果

通常の血縁選択では、利他行動に関わる遺伝子を共有する確率の高い個体に対して利他行動をするように進化が起こると考えられる。しかし、もし利他行動の遺伝子を確実に共有する個体に対してだけ利他行動を行うことができれば、そのような遺伝子は容易に(b>cならば)自然選択において頻度を増すだろう。たとえば、もしある遺伝子が「緑の髭を生やす」効果と、「緑髭の個体に対して利他行動を行う」効果を同時に持てば、利他行動は確実に遺伝子を共有する個体に向けられる。このことを緑髭効果と呼び[33][34][27]、広義には、これも血縁選択に含めることができる[1][33]。同一の遺伝子が偶然このような2つの効果を持つというのは考えにくかったため、当初は緑髭効果は架空のものと思われていた[33]。しかし利他行動の遺伝的基盤の研究から、実例が見つかってきている。

利己的な遺伝子

血縁選択は、個体レベルの自然選択では説明できない特殊な現象を説明するときに持ち出される特殊な理論だとされることがあるが、進化の背景にある遺伝子の頻度変化を考えることから直接に導かれるものである[7]。子育ては個体レベルでの自然選択によって進化したものと従来から認められていた。しかし、なぜ子育てが進化する(子育てに関与する遺伝子が頻度を増す)かを考えれば、血縁度0.5の個体に対する利他行動となんら変わるところがない[7][35]

ドーキンスは「利己的な遺伝子」という表現でこの点を強調した[36]。この考えを推し進めると、究極的には遺伝子のような自己複製子こそが自然選択の単位とみなされるべきであり、個体はその乗り物(ヴィークル)であるという遺伝子選択説に結びつく。

誤解

血縁選択はしばしば誤解される。代表的な誤解のうち、これまでに触れていないものを挙げる。

  • 遠隔地の親戚に子どもが生まれたから自分の包括適応度が上昇した。
包括適応度の計算に含められるのは血縁者の繁殖成功ではなく、ある個体の行動が血縁者の繁殖成功に与える効果である。したがって、遠隔地にいて全く繁殖成功に影響を与えられない親戚がいくら子を残そうと、包括適応度に影響することはない[37]
  • ヒトとチンパンジーは遺伝子の98%以上を共有しているのだから血縁度は0.98以上である。
血縁度は遺伝子プールのなかで定義されるものであり、したがって同じ集団に属し遺伝子プールを共有するとは考えられない別種の間で血縁度を計算することはできない。またこの誤解は、血縁度を特定の遺伝子の共有率でなくゲノム全体の共有率としている点でも誤りである[5]
  • 動物は血縁度の計算ができない(従って血縁選択が働くはずがない)
ドーキンスはこのような批判に対して「巻き貝は対数表を持っていないが美しい対数らせんを描くことができる」と反論している[7]

関連項目

脚注

  1. ^ a b c d West et al. (2007)
  2. ^ a b 『新版 動物の社会』pp.3-5
  3. ^ 『性選択と利他行動』pp.380-385
  4. ^ a b c 『行動・生態の進化』pp.62-67
  5. ^ a b c d 『行動・生態の進化』pp.64-67(コラム2)
  6. ^ 『利己的な遺伝子』pp.448-449(補注6-2)
  7. ^ a b c d Dawkins(1979) この論文の抄訳が『延長された表現型』日本語訳の訳者補注に収録されている。
  8. ^ 『行動・生態の進化』pp.69-71(コラム3)
  9. ^ 『行動・生態の進化』pp.82-83
  10. ^ 『生物の社会進化』pp.224-225
  11. ^ a b 『生物の社会進化』pp.223-224
  12. ^ 『動物の行動と生態』pp.79-81
  13. ^ 『生物の社会進化』pp.132-137
  14. ^ 『行動・生態の進化』pp.81-82
  15. ^ 『兵隊を持ったアブラムシ』第5章
  16. ^ a b 『進化と人間行動』p.95-96
  17. ^ a b c 『行動・生態の進化』p.88-90
  18. ^ 『進化と人間行動』p.98
  19. ^ 『シンデレラがいじめられるほんとうの理由』pp.49-54
  20. ^ 『シンデレラがいじめられるほんとうの理由』第5章
  21. ^ a b c d 『行動・生態の進化』pp.94-96
  22. ^ ただし、個体群全体の性比が1:3となると、雌の相対的な繁殖成功は下がり、血縁度の高さを打ち消してしまう(West & Gardner 2010)。社会性進化の初期においては、女王以外が雄を多く産むことで性比が保たれていた可能性がある(『生物の適応戦略』第6章)。
  23. ^ 『親子関係の進化生態学』p.25
  24. ^ 『親子関係の進化生態学』pp.20-22
  25. ^ 『行動・生態の進化』pp.98-102
  26. ^ a b c 『行動・生態の進化』pp.103-107
  27. ^ a b West & Gardner(2010)
  28. ^ 『生物の社会進化』pp.217-220
  29. ^ a b 『行動・生態の進化』pp.83-85
  30. ^ 『利己的な遺伝子』pp.449-451(補注6-3)
  31. ^ 『兵隊を持ったアブラムシ』
  32. ^ 『無脊椎動物の多様性と系統』p.223
  33. ^ a b c 『行動・生態の進化』pp.72-73
  34. ^ 『利己的な遺伝子』p.130
  35. ^ 『利己的な遺伝子』pp.155-157
  36. ^ 『利己的な遺伝子』
  37. ^ 『延長された表現型』pp.348-349

参考文献

日本語文献

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  • クローニン, H『性選択と利他行動』工作者、1994年(原著1991年)。ISBN 4875022387 
  • デイリー, M、ウィルソン, M 著、竹内久美子 訳『シンデレラがいじめられるほんとうの理由』新潮社〈進化論の現在〉、2002年(原著1998年)。ISBN 4105423029 
  • ドーキンス, R 著、日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二 訳『利己的な遺伝子』(増補新装版)紀伊国屋書店、2006年(原著2006年)。ISBN 4314010037 
  • ドーキンス, R 著、日高敏隆・遠藤彰・遠藤知二 訳『延長された表現型 自然淘汰の単位としての遺伝子』紀伊国屋書店、1987年(原著1982年)。ISBN 4314004851 
  • 長谷川英祐 著「アリの性比をめぐる親子の対立」、齋藤裕編著 編『親子関係の進化生態学 節足動物の社会』北海道大学図書刊行会、1996年、pp.3-27頁。ISBN 4832996517 
  • 長谷川眞理子『動物の行動と生態』放送大学教育振興会、2004年。ISBN 4595237804 
  • 長谷川眞理子、長谷川寿一『進化と人間行動』放送大学教育振興会、2007年。ISBN 9784595307584 
  • 伊藤嘉昭『新版 動物の社会 社会生物学・行動生態学入門』東海大学出版会、2006年。ISBN 4486017374 
  • 巌佐庸 著、団勝磨・山口昌哉・岡田節人編 編『生物の適応戦略』サイエンス社〈ライブラリ 生命を探る-3〉、1981年。ISBN 4781902324 
  • 馬渡峻輔 著「群体性の利点:群体と個虫分化」、白山義久編 編『無脊椎動物の多様性と系統(節足動物を除く)』岩槻邦男・馬渡峻輔監修、裳華房〈バイオディバーシティ・シリーズ5〉、2000年。ISBN 4785358289 
  • トリヴァース, R 著、中嶋康裕・福井康雄・原田泰志 訳『生物の社会進化』産業図書、1991年(原著1985年)。ISBN 4782800614 
  • 辻和希 著「血縁淘汰・包括適応度と社会性の進化」、石川統・斎藤成也・佐藤矩行・長谷川眞理子編 編『行動・生態の進化』岩波書店〈シリーズ進化学6〉、2006年、pp.55-120頁。ISBN 4000069268 

英語文献

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