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'''アルベール・カミュ'''(Albert Camus, [[1913年]][[11月7日]] - [[1960年]][[1月4日]])は、[[フランス]]の[[小説家]]、[[劇作家]]、[[思想家]]。[[フランス領アルジェリア]]出身。アルジェ大学卒業後ジャーナリストとして活動、第二次大戦中に刊行された小説『[[異邦人 (小説)|異邦人]]』、エッセイ『[[シーシュポスの神話]]』などで注目される。また『[[カリギュラ (戯曲)|カリギュラ]]』『[[誤解 (戯曲)|誤解]]』などを上演し劇作家としても活動。戦後に発表した小説『[[ペスト (小説)|ペスト]]』はベストセラーとなったが、エッセイ『[[反抗的人間]]』はその思想をめぐって毀誉褒貶を受けた。1957年、史上二番目の若さでノーベル文学賞受賞。しかし1960年、交通事故により突如として世を去った。 |
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'''アルベール・カミュ'''(Albert Camus, [[1913年]][[11月7日]] [[アルジェリア]] - [[1960年]][[1月4日]][[パリ]])は、フランスの[[小説家]]、[[劇作家]]。 |
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カミュの著作は「[[不条理]]」という概念によって特徴付けられている。カミュの言う不条理とは、明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性のことであり、そのような不条理な運命を目をそむけず見つめ続ける態度が「反抗」と呼ばれる。そして人間性を脅かすものに対する反抗の態度が人々の間で連帯を生むとされる。しかし[[プロレタリア革命]]を含め、あらゆる政治的暴力を忌避しようとするカミュの姿勢は盟友[[サルトル]]との間で論争を引き起こし、戦後文壇においてその立場を孤立させていく原因ともなった。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 形成期 === |
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フランス系[[アルジェリア]]人の子として[[フランス領アルジェリア]]のモンドヴィ(Mondovi;現[[:en:Dréan|ドレアン]])に生まれる。[[1914年]][[9月]]、幼くして[[マルヌ会戦]]([[第1次世界大戦]])で父・リュシアン(Lucien)を失い、[[聴覚障害]]を持つ[[スペイン]]系の母と、[[アルジェ]]のベルクール地区で[[幼少期]]を送る。17歳の時に結核にかかるが一命をとりとめ、[[アルジェ大学]]を卒業。21歳の時アルジェ地区の共産党に入党し、アラビア人達に共産党の宣伝活動をするがその翌年離党する。1940年にパリの雑誌社『パリ・ソワール』の編集部員となるがドイツ軍がパリを制圧すると9月にアルジェリアに帰国する。1942年にカミュは再びフランスの地を踏み非合法誌『コンパ紙』を発行するなど[[レジスタンス活動]]に参加する。第二次世界大戦終結後はアメリカに渡り[[ニューヨーク]]で学生達を前に講演し熱烈な歓迎を受ける。 |
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1913年、[[フランス領アルジェリア]]のモンドヴィ(Mondovi、現{{仮リンク|ドレアン|fr|Dréan}})近郊に生まれる。父リュシアン・オーギュスト・カミュはフランスから渡ってきた農場労働者であり、この地でスペイン系の大家族の娘であるカトリーヌ・サンテスと結婚、リュシアンとカミュの二人の息子をもうけている。しかしカミュが生まれた翌年、この父は[[マルヌ会戦]]で戦死しており、このためカミュはフランスとのつながりを実感するための生きた手がかりを失うことになった<ref>井上、15頁</ref>。以後母と二人の息子はアルジェ市内のベルクール地区にある母の実家に身を寄せた。この家には祖母のほかに叔父が一人同居していたが、聴覚障害のあった母親も含め、読み書きできるものは一人もいなかったという<ref>窪田啓作訳 『異邦人』 130頁(白井浩司解説)</ref>。カミュはこの家で、貧しくはあったが地中海の自然に恵まれた幼少期を過ごした。 |
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1918年に公立小学校に入学。貧しいサンテス家ではもともと高等学校へ進学する希望はなかったが、この学校の教諭ルイ=ジェルマンはカミュの才能を見抜いて彼の家族を説得し、おかげで1924年に、奨学金を受けながらアルジェの高等中学校リセ=ビジョーに進学することができた(カミュは彼から受けた恩を生涯忘れず、ノーベル賞記念講演の出版の際に「ルイ=ジェルマン先生へ」との献辞を添えている)。リセ時代のカミュは[[サッカー]]に打ち込み、ときにアルバイトなどしながらも優秀な成績を取っている。しかし1930年より結核の徴候が現れやがて喀血、病院を退院後もしばらく叔父の家で療養生活を送った。この結核は以後生涯を通じてカミュの健康をおびやかすことになる。 |
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『[[異邦人 (小説)|異邦人]]]や『[[シーシュポスの神話]]』、『[[ペスト (小説)|ペスト]]』などの著作で、人間存在の[[不条理]]さに光を当て、[[1957年]]には[[ノーベル文学賞]]を受賞した(『この時代における人類の道義心に関する問題点を、明確な視点から誠実に照らし出した、彼の重要な文学的創作活動に対して』; "for his important literary production, which with clear-sighted earnestness illuminates the problems of the human conscience in our times.")。これは、第二次世界大戦後としては最年少での受賞であった(史上最年少は[[ラドヤード・キップリング]])。 |
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またリセ時代にカミュはリセの教員{{仮リンク|ジャン・グルニエ|fr|Jean Grenier (écrivain)}}と出会っており、彼の著書『孤島』や{{仮リンク|アンドレ・ド・リショー|fr|André de Richaud}}の『苦悩』などに触発されながら文学への志望を固めていった。グルニエとは卒業後も書簡を通じて交流を保っており、カミュは彼の影響を受けて古代インド思想や仏教などの素養を形作った<ref>井上、33頁</ref>。 |
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哲学者、文学者[[ジャン=ポール・サルトル]]と共同で文学活動を行ったが、1951年に刊行した評論『反抗的人間』における[[共産主義]]批判を契機として雑誌『現代』においてサルトルらと論争になったことで決裂した。かつて[[実存主義]]者とみなされることが多かったが、実際には実存主義提唱者サルトルなどと文学的内容は異なっており、本人も実存主義者とみなされることを強く否定していた。[[ソ連]]崩壊によりカミュの主張が正しかったと証明されたが、「あまりにも情緒的」「[[プラトン]]、[[イマヌエル・カント|カント]]、サルトルと同列に語るべきでない。単なる作家」といった左派による批判は現代でも多い。 |
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1932年、[[バカロレア]]に合格し[[アルジェ大学]]文学部に入学、在学中の1934年、カミュは眼科医の娘であったシモーヌ・イエと学生結婚するが、これをきっかけに結婚に反対していた叔父と疎遠になり、カミュはアルバイトやイエの母親からの支援を受けながら学生生活を続けた。しかし奇矯で派手好きなシモーヌとの生活はやがて破綻し、後に離婚にいたることになる。カミュはまた1935年に、グルニエの勧めもあって[[共産党]]に入党している。カミュは共産主義の思想自体にはそれほど共感を寄せていなかったが(マルクスの著作もエンゲルスの著作もほとんど読んでいなかった)、党の文化活動の一環として劇団「労働座」の創設に関わり、[[アンドレ・マルロー]]の『侮蔑の時代』を翻案し舞台にあげるなどした。しかし党幹部とアラブ人活動家たちとの間で板ばさみになり、最終的に党から除名処分を受けている<ref>井上、42-43頁</ref>。 |
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=== ジャーナリズムと創作 === |
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[[女優]]の[[マリア・カザレス]]との愛人関係の噂が絶えなかった。 |
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1936年5月、学位論文「キリスト教形而上学とネオプラトニズム」を提出しアルジェ大学を卒業。1937年5月には処女作となるエッセイ集『裏と表』を出版するが、生活の安定のため12月からアルジェ大学付属の気象学・地球物理学研究所でデータ整理の職に就く。1938年、パスカル・ピアに誘われ人民戦線寄りの新新聞『アルジェ・レピュブリカン』(のち夕刊紙『ソワール・レピュブリカン』となる)の記者となり、冤罪事件や植民地経営の不正を暴く記事を書いた。平行して『[[異邦人 (小説)|異邦人]]』の原型となった小説『[[幸福な死]]』を書き上げるが、これは完成度に不満があったため出版を見合わせている。 |
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1939年、第二次世界大戦の開始にともない徴兵を志願するも、健康上の理由で拒否される。戦争開始前後より、カミュは『ソワール・レピュブリカン』紙上で、当局の厳しい[[検閲]]を受けながらで平和主義を唱え続けており、このために1940年ついに同紙は発行停止処分となった。同紙から責任を問われ解雇されたカミュは、しかしまたもパスカル・ピアの助力で『パリ・ソワール』紙の編集部に雇われ、ここで印刷関係の仕事をしつつ、その傍らで[[不条理]]をテーマにした三部作『[[異邦人 (小説)|異邦人]]』『[[シーシュポスの神話]]』『[[カリギュラ (戯曲)|カリギュラ]]』を書き進めていった。 |
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===50周年=== |
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[[2010年]]1月に没50年を記念してフランスでは大々的なイベントが行われた。 |
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1940年、ナチスドイツによりパリが占領されると、『パリ・ソワール』紙編集部の移動に伴って自由地区のクレルモン・フェラン、ついでリヨンへと移り、占領体性下の1940年12月に同地にて[[オラン]]出身の女性フランシーヌ・フォールとの婚姻届を提出した。しかし物資の不足と読者の減少から『パリ・ソワール』紙でも人員整理が進み、失業したカミュは妻の実家のある北アフリカのオランに一時身を寄せた。この地で前述の三部作を完成、さらに『ペスト』の執筆に着手するが、1942年に喀血し、療養のため夫妻でフランス自由地区シャンボン・シュール・リヨン付近の小村ル・パヌリエに移る。そして6月に小説『異邦人』、12月にエッセイ『シーシュポスの神話』を刊行した。1943年からは非合法誌『コンバ(戦闘)』の発行に関わり、また占領下のパリで[[サルトル]]、[[ボーヴォワール]]らとも知り合い親交を深めている。 |
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*「[[意志]]もまた、一つの[[孤独]]である。」『手帖』より |
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1944年8月の[[パリ解放]]後は、それまで地下発行であった『コンバ』を公刊し同紙の編集長となった。なお同紙でカミュは対独協力派([[コラボ]])に対しては厳しい姿勢を取り、極刑もやむなしという意見を示して寛容派の[[フランソワ・モーリヤック]]と対立したが、後に自説を修正し死刑には反対するようになる<ref>井上、82-83頁</ref>。終戦前後にはまた『[[カリギュラ (戯曲)|カリギュラ]]』『[[誤解 (戯曲)|誤解]]』が上演され、1946年にはアメリカの[[コロンビア大学]]に招かれて講演を行い、現代に蔓延する物質崇拝に警鐘を鳴らした。同年、[[ガリマール社]]の企画審査委員会のポストにつき、ここで無名の思想家だった[[シモーヌ・ヴェイユ (哲学者)|シモーヌ・ヴェイユ]]を発見し彼女の叢書を企画、彼女の「永久反抗論」に影響を受ける<ref>井上、117-118頁</ref>。 |
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== 著作 == |
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1947年、極限状態での市民の連帯を描いた小説『[[ペスト (小説)|ペスト]]』を刊行、復興期のフランス社会で幅広い読者を得てその文名を高めた。しかし1952年に刊行されたエッセイ『[[反抗的人間]]』は毀誉褒貶を受け、特にサルトルはいっさいの政治的暴力を斥けるその「反抗」の論理を、[[革命]]へと踏み出さない曖昧な態度だとして徹底的に批判した。さらにカミュは故郷で起こった[[アルジェリア戦争]]に対しても、フランスとアラブの共同体という考えを捨てきれずに曖昧な態度を取って批判を受け、これらによってフランスでのカミュの立場はしだいに孤立を深めていった<ref>井上、155頁</ref>。 |
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=== ノーベル賞とその死 === |
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1956年、現代人の二重性と罪の意識をテーマにした中編『[[転落 (小説)|転落]]』を発表、翌年6篇からなる短編集『[[追放と王国]]』を発表した。同年、彼の「この時代における人類の道義心に関する問題点を、明確な視点から誠実に照らし出した、彼の重要な文学的創作活動に対して」<ref>[http://nobelprize.org/nobel_prizes/literature/laureates/1957/ Nobelprize.org - Albert Camus]</ref>[[ノーベル文学賞]]が贈られた。当時カミュは43歳であり、これは戦後では最年少の受賞である(史上最年少は[[ラドヤード・キプリング|キプリング]])。 |
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[[File:20041113-002 Lourmarin Tombstone Albert Camus.jpg|thumb|カミュの墓]] |
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カミュはその思想的な近さから[[実存主義|実存主義者]]に数えられることがしばしばあるが、カミュ自身は実存主義との関係をはっきり否定していた<ref>井上、136頁</ref>。『[[シーシュポスの神話]]』の中でも[[キルケゴール]]、[[シェストフ]]、[[ヤスパース]]ら実存主義哲学者の名を挙げ、その思想が不条理から発していながら最終的に不条理の世界から飛躍し、理性の否定へと向かってしまう「哲学上の自殺」だとして批判している<ref>清水徹訳 『シーシュポスの神話』 75頁</ref>。 |
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カミュによれば、「[[不条理]](absurde)」という感情は単にあるものの感覚や印象の検討から生じるものではなく、馬鹿げた計画と明白な現実との比較、理に合わない結果と当然予想される結果との比較というように、「事実としてのある状態と、ある種の現実との比較から、ある行動とそれを超える世界との比較から噴出してくる」ものであり、したがってそれは人間のなかにあるものでも世界にあるものでもなく「両者の共存のなかにあるもの」「両者を結ぶ唯一のきずな」である<ref>清水徹訳 『シーシュポスの神話』 56-57頁</ref>。そしてカミュは[[自殺]]を不条理な運命を見つめない態度として退け、逆に不条理を明晰な意識のもとで見つめ続ける態度を「反抗」と言い表し、それが生を価値あるものにするものだとして称揚している<ref>清水徹訳 『シーシュポスの神話』 96-97頁</ref>。 |
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『反抗的人間』でカミュはこの「反抗」に対する考察をさらに深めていく。「反抗」とは、例えば長く虐げられてきた奴隷が突然主人に対して「否(ノン)」を突きつける態度である。このときこの「否」には、「これ以上は許すことができない」という境界線の存在が含意されている。つまり境界線の外側のもの「否」として退け、内にあるものを「諾(ウイ)」として守ろうとすることであり、言い換えれば自分の中にある価値に対する意識である<ref>佐藤朔、白井浩司訳 『反抗的人間』 17-18頁</ref>。そして不条理の体験が個人的な苦悩に終わるのに対して、他者に対する圧迫を見ることからも起こりうる反抗は超個人的なものであり、そこから連帯が生まれる<ref>佐藤朔、白井浩司訳 『反抗的人間』 20頁</ref>。また『反抗的人間』ではかなりのページを割いて[[革命]]を中心とした歴史の記述に当てられており、そこでは「無垢への郷愁」であるところの反抗から起こったあらゆる革命が必然的に自由を縛る恐怖政治と全体主義へと変貌していく様子が考察される。 |
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しかし革命に必要な政治的暴力さえ批判するカミュのこうのような態度は、上述のように([[コミュニスト]]でもある)サルトルとの間の論争を呼び起こすことになった。論争の直接のきっかけはフランシス・ジャンソンがサルトルの雑誌『レ・タン・モデルヌ(近代)』に『反抗的人間』に対する批判的書評を載せたことで、これに対してカミュがサルトル宛に反論、さらにジャンソンとサルトルが反論するという形で起こったが、ここでサルトルはカミュの思想を曖昧な態度と見なし、彼が[[道徳主義|モラリスム]]に陥り「美徳の暴力をふるっている」<ref>佐藤朔訳 『革命か反抗か』 94頁</ref>として徹底的に批判している。この論争ではカミュの文章が文学的な曖昧さを持つこともあり、論理の明晰さにおいてサルトルのほうが優勢なのは明らかだが、カミュの思想もまた革命や党派性の限界を示すものとして今日的意義を失っていない<ref>佐藤朔訳 『革命か反抗か』 200-201頁(訳者あとがき)</ref><ref>井上、140頁</ref>。 |
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== 作品リスト == |
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=== 小説 === |
=== 小説 === |
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* 1942年 『[[異邦人 (小説)|異邦人]]』 |
* 1942年 『[[異邦人 (小説)|異邦人]]』 |
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* 1936年 『アストゥリアスの反乱』 - 3人の友人との合作 |
* 1936年 『アストゥリアスの反乱』 - 3人の友人との合作 |
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* 1944年 『[[カリギュラ (戯曲)|カリギュラ]]』 |
* 1944年 『[[カリギュラ (戯曲)|カリギュラ]]』 |
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* 1944年 『誤解』 |
* 1944年 『[[誤解 (戯曲)|誤解]]』 |
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* 1948年 『戒厳令』 |
* 1948年 『戒厳令』 |
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* 1949年 『正義の人びと』 |
* 1949年 『[[正義の人びと]]』 |
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* 1953年 『十字架への献身』 - スペインの作家[[ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ]]の神秘劇の翻訳 |
* 1953年 『十字架への献身』 - スペインの作家[[ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ]]の神秘劇の翻訳 |
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* 1953年 『精霊たち』 - 16世紀の劇作家[[ピエール・ドゥ・ラリヴェイ]]作の[[コメディア・デラルテ]]の翻案 |
* 1953年 『精霊たち』 - 16世紀の劇作家[[ピエール・ドゥ・ラリヴェイ]]作の[[コメディア・デラルテ]]の翻案 |
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* 1957年 『ギロチン』 |
* 1957年 『ギロチン』 |
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== |
== 脚注 == |
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[[不条理]] |
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== 参考文献 == |
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<!--参照したもの--> |
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*井上正 『アルベール=カミュ』 清水書院<人と思想>、2000年 |
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*アルベール・カミュ 『異邦人』 窪田啓作訳、新潮文庫、1995年[改版] |
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*アルベール・カミュ 『シーシュポスの神話』 清水徹訳、新潮文庫、2006年[改版] |
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*アルベール・カミュ 『カミュ全集6・反抗的人間』 佐藤朔、白井浩司訳、新潮社、1973年 |
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*カミュ/サルトル 『革命か反抗か』 佐藤朔訳、新潮文庫、2006年[改版] |
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== 外部リンク == |
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2011年1月23日 (日) 07:07時点における版
アルベール・カミュ Albert Camus | |
---|---|
カミュ、1957年 | |
誕生 |
1913年11月7日 アルジェリア・モンドヴィ |
死没 |
1960年1月4日 (46歳没) フランス・ブルゴーニュ |
職業 | 小説家、劇作家 |
国籍 | フランス |
代表作 |
『異邦人』(1942年) 『シーシュポスの神話』(1942年) 『カリギュラ』(1944年) 『ペスト』(1947年) 『反抗的人間』(1952年) |
主な受賞歴 | ノーベル文学賞(1957年) |
デビュー作 | 『裏と表』(1935年、エッセイ) |
配偶者 |
シモーヌ・イエ フランシーヌ・フォール |
親族 | セイン・カミュ(大甥) |
ウィキポータル 文学 |
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アルベール・カミュ(Albert Camus, 1913年11月7日 - 1960年1月4日)は、フランスの小説家、劇作家、思想家。フランス領アルジェリア出身。アルジェ大学卒業後ジャーナリストとして活動、第二次大戦中に刊行された小説『異邦人』、エッセイ『シーシュポスの神話』などで注目される。また『カリギュラ』『誤解』などを上演し劇作家としても活動。戦後に発表した小説『ペスト』はベストセラーとなったが、エッセイ『反抗的人間』はその思想をめぐって毀誉褒貶を受けた。1957年、史上二番目の若さでノーベル文学賞受賞。しかし1960年、交通事故により突如として世を去った。
カミュの著作は「不条理」という概念によって特徴付けられている。カミュの言う不条理とは、明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性のことであり、そのような不条理な運命を目をそむけず見つめ続ける態度が「反抗」と呼ばれる。そして人間性を脅かすものに対する反抗の態度が人々の間で連帯を生むとされる。しかしプロレタリア革命を含め、あらゆる政治的暴力を忌避しようとするカミュの姿勢は盟友サルトルとの間で論争を引き起こし、戦後文壇においてその立場を孤立させていく原因ともなった。
生涯
形成期
1913年、フランス領アルジェリアのモンドヴィ(Mondovi、現ドレアン)近郊に生まれる。父リュシアン・オーギュスト・カミュはフランスから渡ってきた農場労働者であり、この地でスペイン系の大家族の娘であるカトリーヌ・サンテスと結婚、リュシアンとカミュの二人の息子をもうけている。しかしカミュが生まれた翌年、この父はマルヌ会戦で戦死しており、このためカミュはフランスとのつながりを実感するための生きた手がかりを失うことになった[1]。以後母と二人の息子はアルジェ市内のベルクール地区にある母の実家に身を寄せた。この家には祖母のほかに叔父が一人同居していたが、聴覚障害のあった母親も含め、読み書きできるものは一人もいなかったという[2]。カミュはこの家で、貧しくはあったが地中海の自然に恵まれた幼少期を過ごした。
1918年に公立小学校に入学。貧しいサンテス家ではもともと高等学校へ進学する希望はなかったが、この学校の教諭ルイ=ジェルマンはカミュの才能を見抜いて彼の家族を説得し、おかげで1924年に、奨学金を受けながらアルジェの高等中学校リセ=ビジョーに進学することができた(カミュは彼から受けた恩を生涯忘れず、ノーベル賞記念講演の出版の際に「ルイ=ジェルマン先生へ」との献辞を添えている)。リセ時代のカミュはサッカーに打ち込み、ときにアルバイトなどしながらも優秀な成績を取っている。しかし1930年より結核の徴候が現れやがて喀血、病院を退院後もしばらく叔父の家で療養生活を送った。この結核は以後生涯を通じてカミュの健康をおびやかすことになる。
またリセ時代にカミュはリセの教員ジャン・グルニエと出会っており、彼の著書『孤島』やアンドレ・ド・リショーの『苦悩』などに触発されながら文学への志望を固めていった。グルニエとは卒業後も書簡を通じて交流を保っており、カミュは彼の影響を受けて古代インド思想や仏教などの素養を形作った[3]。
1932年、バカロレアに合格しアルジェ大学文学部に入学、在学中の1934年、カミュは眼科医の娘であったシモーヌ・イエと学生結婚するが、これをきっかけに結婚に反対していた叔父と疎遠になり、カミュはアルバイトやイエの母親からの支援を受けながら学生生活を続けた。しかし奇矯で派手好きなシモーヌとの生活はやがて破綻し、後に離婚にいたることになる。カミュはまた1935年に、グルニエの勧めもあって共産党に入党している。カミュは共産主義の思想自体にはそれほど共感を寄せていなかったが(マルクスの著作もエンゲルスの著作もほとんど読んでいなかった)、党の文化活動の一環として劇団「労働座」の創設に関わり、アンドレ・マルローの『侮蔑の時代』を翻案し舞台にあげるなどした。しかし党幹部とアラブ人活動家たちとの間で板ばさみになり、最終的に党から除名処分を受けている[4]。
ジャーナリズムと創作
1936年5月、学位論文「キリスト教形而上学とネオプラトニズム」を提出しアルジェ大学を卒業。1937年5月には処女作となるエッセイ集『裏と表』を出版するが、生活の安定のため12月からアルジェ大学付属の気象学・地球物理学研究所でデータ整理の職に就く。1938年、パスカル・ピアに誘われ人民戦線寄りの新新聞『アルジェ・レピュブリカン』(のち夕刊紙『ソワール・レピュブリカン』となる)の記者となり、冤罪事件や植民地経営の不正を暴く記事を書いた。平行して『異邦人』の原型となった小説『幸福な死』を書き上げるが、これは完成度に不満があったため出版を見合わせている。
1939年、第二次世界大戦の開始にともない徴兵を志願するも、健康上の理由で拒否される。戦争開始前後より、カミュは『ソワール・レピュブリカン』紙上で、当局の厳しい検閲を受けながらで平和主義を唱え続けており、このために1940年ついに同紙は発行停止処分となった。同紙から責任を問われ解雇されたカミュは、しかしまたもパスカル・ピアの助力で『パリ・ソワール』紙の編集部に雇われ、ここで印刷関係の仕事をしつつ、その傍らで不条理をテーマにした三部作『異邦人』『シーシュポスの神話』『カリギュラ』を書き進めていった。
1940年、ナチスドイツによりパリが占領されると、『パリ・ソワール』紙編集部の移動に伴って自由地区のクレルモン・フェラン、ついでリヨンへと移り、占領体性下の1940年12月に同地にてオラン出身の女性フランシーヌ・フォールとの婚姻届を提出した。しかし物資の不足と読者の減少から『パリ・ソワール』紙でも人員整理が進み、失業したカミュは妻の実家のある北アフリカのオランに一時身を寄せた。この地で前述の三部作を完成、さらに『ペスト』の執筆に着手するが、1942年に喀血し、療養のため夫妻でフランス自由地区シャンボン・シュール・リヨン付近の小村ル・パヌリエに移る。そして6月に小説『異邦人』、12月にエッセイ『シーシュポスの神話』を刊行した。1943年からは非合法誌『コンバ(戦闘)』の発行に関わり、また占領下のパリでサルトル、ボーヴォワールらとも知り合い親交を深めている。
1944年8月のパリ解放後は、それまで地下発行であった『コンバ』を公刊し同紙の編集長となった。なお同紙でカミュは対独協力派(コラボ)に対しては厳しい姿勢を取り、極刑もやむなしという意見を示して寛容派のフランソワ・モーリヤックと対立したが、後に自説を修正し死刑には反対するようになる[5]。終戦前後にはまた『カリギュラ』『誤解』が上演され、1946年にはアメリカのコロンビア大学に招かれて講演を行い、現代に蔓延する物質崇拝に警鐘を鳴らした。同年、ガリマール社の企画審査委員会のポストにつき、ここで無名の思想家だったシモーヌ・ヴェイユを発見し彼女の叢書を企画、彼女の「永久反抗論」に影響を受ける[6]。
1947年、極限状態での市民の連帯を描いた小説『ペスト』を刊行、復興期のフランス社会で幅広い読者を得てその文名を高めた。しかし1952年に刊行されたエッセイ『反抗的人間』は毀誉褒貶を受け、特にサルトルはいっさいの政治的暴力を斥けるその「反抗」の論理を、革命へと踏み出さない曖昧な態度だとして徹底的に批判した。さらにカミュは故郷で起こったアルジェリア戦争に対しても、フランスとアラブの共同体という考えを捨てきれずに曖昧な態度を取って批判を受け、これらによってフランスでのカミュの立場はしだいに孤立を深めていった[7]。
ノーベル賞とその死
1956年、現代人の二重性と罪の意識をテーマにした中編『転落』を発表、翌年6篇からなる短編集『追放と王国』を発表した。同年、彼の「この時代における人類の道義心に関する問題点を、明確な視点から誠実に照らし出した、彼の重要な文学的創作活動に対して」[8]ノーベル文学賞が贈られた。当時カミュは43歳であり、これは戦後では最年少の受賞である(史上最年少はキプリング)。
受賞後、カミュはプロヴァンス地方の田園地帯ルールマランに家を構え、しばしばパリとの間を往復する生活を送っていた。1960年、友人ミシェル・ガリマール(ガストン・ガリマールの甥)が運転する自動車(ファセル・ヴェガ)でパリに向かう途中、ヨンヌ県ヴィルブルヴァンにおいてタイヤがパンクし、立ち木に衝突し事故死した(カミュは即死、ガリマールも手術中に死亡。同乗していたガリマールの妻子は怪我だけで済んだ)。未完の自伝的小説『最初の人間』が遺稿として残された。
思想
カミュはその思想的な近さから実存主義者に数えられることがしばしばあるが、カミュ自身は実存主義との関係をはっきり否定していた[9]。『シーシュポスの神話』の中でもキルケゴール、シェストフ、ヤスパースら実存主義哲学者の名を挙げ、その思想が不条理から発していながら最終的に不条理の世界から飛躍し、理性の否定へと向かってしまう「哲学上の自殺」だとして批判している[10]。
カミュによれば、「不条理(absurde)」という感情は単にあるものの感覚や印象の検討から生じるものではなく、馬鹿げた計画と明白な現実との比較、理に合わない結果と当然予想される結果との比較というように、「事実としてのある状態と、ある種の現実との比較から、ある行動とそれを超える世界との比較から噴出してくる」ものであり、したがってそれは人間のなかにあるものでも世界にあるものでもなく「両者の共存のなかにあるもの」「両者を結ぶ唯一のきずな」である[11]。そしてカミュは自殺を不条理な運命を見つめない態度として退け、逆に不条理を明晰な意識のもとで見つめ続ける態度を「反抗」と言い表し、それが生を価値あるものにするものだとして称揚している[12]。
『反抗的人間』でカミュはこの「反抗」に対する考察をさらに深めていく。「反抗」とは、例えば長く虐げられてきた奴隷が突然主人に対して「否(ノン)」を突きつける態度である。このときこの「否」には、「これ以上は許すことができない」という境界線の存在が含意されている。つまり境界線の外側のもの「否」として退け、内にあるものを「諾(ウイ)」として守ろうとすることであり、言い換えれば自分の中にある価値に対する意識である[13]。そして不条理の体験が個人的な苦悩に終わるのに対して、他者に対する圧迫を見ることからも起こりうる反抗は超個人的なものであり、そこから連帯が生まれる[14]。また『反抗的人間』ではかなりのページを割いて革命を中心とした歴史の記述に当てられており、そこでは「無垢への郷愁」であるところの反抗から起こったあらゆる革命が必然的に自由を縛る恐怖政治と全体主義へと変貌していく様子が考察される。
しかし革命に必要な政治的暴力さえ批判するカミュのこうのような態度は、上述のように(コミュニストでもある)サルトルとの間の論争を呼び起こすことになった。論争の直接のきっかけはフランシス・ジャンソンがサルトルの雑誌『レ・タン・モデルヌ(近代)』に『反抗的人間』に対する批判的書評を載せたことで、これに対してカミュがサルトル宛に反論、さらにジャンソンとサルトルが反論するという形で起こったが、ここでサルトルはカミュの思想を曖昧な態度と見なし、彼がモラリスムに陥り「美徳の暴力をふるっている」[15]として徹底的に批判している。この論争ではカミュの文章が文学的な曖昧さを持つこともあり、論理の明晰さにおいてサルトルのほうが優勢なのは明らかだが、カミュの思想もまた革命や党派性の限界を示すものとして今日的意義を失っていない[16][17]。
作品リスト
小説
- 1942年 『異邦人』
- 1947年 『ペスト』
- 1956年 『転落』
- 1957年 『追放と王国』(短編集)
- 1971年 『幸福な死』 - 『異邦人』の初期草稿で、1936年から1938年にかけて執筆された。大筋は完成していたが放棄され、カミュの死後に刊行された。
- 1994年 『最初の人間』 - 1950年代半ばに構想し、1959年から執筆を開始したが、翌1960年にカミュが交通事故により早世したため未完に終わった遺作
戯曲
- 1936年 『アストゥリアスの反乱』 - 3人の友人との合作
- 1944年 『カリギュラ』
- 1944年 『誤解』
- 1948年 『戒厳令』
- 1949年 『正義の人びと』
- 1953年 『十字架への献身』 - スペインの作家ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカの神秘劇の翻訳
- 1953年 『精霊たち』 - 16世紀の劇作家ピエール・ドゥ・ラリヴェイ作のコメディア・デラルテの翻案
- 1955年 『ある臨床例』 - ディーノ・ブッツァーティ作の小説の翻案
- 1956年 『尼僧への鎮魂歌』 - ウィリアム・フォークナー作の小説の翻案
- 1957年 『オルメドの騎士』 - 16-17世紀スペインの劇作家ローペ・デ・ベーガ作の戯曲の翻訳
- 1959年 『悪霊』 - ドストエフスキーの小説の翻案
エッセイ、評論など
- 1936年 『キリスト教形而上学とネオプラトニズム』 - 学位論文
- 1937年 『裏と表』
- 1939年 『結婚』
- 1942年 『シーシュポスの神話』
- 1943年 - 1944年 『ドイツ人の友への手紙』
- 1951年 『反抗的人間』
- 1954年 『夏』
- 1957年 『ギロチン』
脚注
- ^ 井上、15頁
- ^ 窪田啓作訳 『異邦人』 130頁(白井浩司解説)
- ^ 井上、33頁
- ^ 井上、42-43頁
- ^ 井上、82-83頁
- ^ 井上、117-118頁
- ^ 井上、155頁
- ^ Nobelprize.org - Albert Camus
- ^ 井上、136頁
- ^ 清水徹訳 『シーシュポスの神話』 75頁
- ^ 清水徹訳 『シーシュポスの神話』 56-57頁
- ^ 清水徹訳 『シーシュポスの神話』 96-97頁
- ^ 佐藤朔、白井浩司訳 『反抗的人間』 17-18頁
- ^ 佐藤朔、白井浩司訳 『反抗的人間』 20頁
- ^ 佐藤朔訳 『革命か反抗か』 94頁
- ^ 佐藤朔訳 『革命か反抗か』 200-201頁(訳者あとがき)
- ^ 井上、140頁
参考文献
- 井上正 『アルベール=カミュ』 清水書院<人と思想>、2000年
- アルベール・カミュ 『異邦人』 窪田啓作訳、新潮文庫、1995年[改版]
- アルベール・カミュ 『シーシュポスの神話』 清水徹訳、新潮文庫、2006年[改版]
- アルベール・カミュ 『カミュ全集6・反抗的人間』 佐藤朔、白井浩司訳、新潮社、1973年
- カミュ/サルトル 『革命か反抗か』 佐藤朔訳、新潮文庫、2006年[改版]
外部リンク
- 伝記。 書誌学 (フランス語)
- Audio book (mp3) :incipit of the Fall (La Chute)
- Nobel Prize in Literature (1957) Link
- Existentialism and Albert Camus
- "The Rebel" at Salon.com
- The Absurd Hero & The Ruthless Critic
- "Accidental Friends" the story of the Camus-Sartre friendship and very public breakup
- http://www.romanistik.info/camus.html (in German)
- http://www.religion-online.org/showarticle.asp?title=2013 (Conversations about Christianity)
- Camus' Choice: An Existential Antiplot
- Interview with daughter Catherine - 3AM
- Another interview with daughter Catherine - Spike
- The Myth of Sisyphus
- Biography and quotes of Albert Camus
- The Logic of Existential Meaning
- Albert Camus Society UK
- Lesjustes.co.uk : English synopsis of "Les Justes" for students
- アルベール・カミュ - Find a Grave
- Camus 'Bookweb' on literary website The Ledge, with suggestions for further reading.
- 獨協インターナショナルフォーラム「アルベール・カミュ:現在への感受性」
- camus - インターネット哲学百科事典「Albert Camus」の項目。