レフ・シェストフ
1927年 | |
人物情報 | |
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生誕 |
1866年2月12日 ロシアキエフ |
死没 |
1938年11月19日 (72歳没) フランスの旗 フランス パリ |
出身校 | モスクワ大学 |
学問 | |
研究分野 | 哲学 |
レフ・シェストフ[注釈 1](英語: Lev Isaakovich Shestov,ロシア語: Лев Исаа́кович Шесто́в、1866年2月12日(ユリウス暦1月31日)- 1938年11月19日)はロシア系ユダヤ人の哲学者。本名はレフ・イサコヴィッチ・シュワルツマン(ロシア語: Лев Исаакович Шва́рцман)。
生涯
[編集]1866年、キエフのユダヤ系商人の家に生まれる。モスクワの州立大学で数学と法律を学ぶ。しかし学監と衝突してキエフにもどり学術論文を完成させるが、その革命的な傾向のためにキエフ大学には受理されず、法律の博士号学位を取得することができなくなった(のちにベルリンで法律学を修める)。1898年から、ニコライ・ベルジャーエフ、セルゲイ・ディアギレフ、ディミートリ・メレジコフスキー、およびヴァシーリー・ローザノフなどの知識人のサークルに入り、その同人誌に寄稿しはじめた。
1908年にドイツのフライブルク、ついでコベットというスイスの小村に移住し、1910年までそこに滞在した。1915年にモスクワにもどるが、1919年のボルシェヴィキによる政権奪取の時期から、生活は困難となりフランスへと亡命することになった。1925年からソルボンヌ大学で哲学の講義を受け持ち、ブレーズ・パスカルとプロティノスの研究に打ちこむ。1926年にエトムント・フッサール、1929年にマルティン・ハイデッガーと知り合い、特にハイデッガーにはセーレン・キェルケゴールの重要性を教えられ、宗教と実存主義哲学へと目を開かせられる。1938年から重い病にかかりつつインド哲学の研究を進め、パリの診療所で亡くなる。
思想と影響
[編集]1898年に発表した『シェークスピアとその批評家ブランデス』は大胆な判断で注目を集め、1903年『ドストエフスキーとニーチェ(悲劇の哲学)』、1908年のチェーホフ論『虚無よりの創造』などの作家論・哲学者論で、真理は理性を越えると主張し、あらゆる合理主義に対立した[1]。このような傾向は、ベルジャーエフがロシア的精神の特長として指摘した「ニヒリズム」、文化や文明の賜物を重視しない態度の延長であり、シェストフは実存主義に通じる「絶望の哲学」を展開した。
この哲学は1890年代以降ロシアで高まった反写実主義の思潮に合致し、そのレトリックを駆使した名文も相まって、象徴派作家に愛好された[1]。亡命後の著作は第一次大戦後のヨーロッパに「不安の哲学」として迎えられ、D・H・ロレンス、アルベール・カミュ、ジョルジュ・バタイユ、アイザイア・バーリン、バンジャマン・フォンダーヌ、ニコス・カザンザキスなどにも大きな影響を与えた。
日本での影響
[編集]日本でのシェストフ訳は1934年に刊行された『悲劇の哲学』が発端で、満州事変以後の思想弾圧と社会不安にさらされた知識人の間に、一時的な激しい流行を見た。訳者河上徹太郎は、他に『虚無からの創造』を訳した。文壇において「シェストフ的不安」という造語が生まれた。
その他の主著
[編集]邦訳は雄渾社「シェストフ選書」などにまとめられている。
- 『トルストイとニーチェの教義における善』(1900年)
- 『ドストエフスキーとトルストイ』(1923年)
- 『ゲッセマネの夜』(1923年)
- 『手かせをはめられたパルメニデス』(1930年)
- 『キルケゴールと実存哲学』(1936年)
- 『アテネとイェルサレム』(1937年)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 日本語ではドイツ語表記名Leo Schestowの影響から「レオ・シェストフ」とも表記される。