「クルト・フォン・シュライヒャー」の版間の差分
Omaemona1982 (会話 | 投稿記録) m →首相就任 |
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{{政治家 |
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{{大統領 | 人名=クルト・フォン・シュライヒャー |
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|各国語表記 = {{Audio|Kurt von Schleicher.ogg|Kurt von Schleicher}} |
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|画像 = Bundesarchiv Bild 136-B0228, Kurt von Schleicher.jpg |
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|画像説明 = |
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| 代数=第14 |
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|国略称 ={{DEU1919}} |
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| 職名=[[ドイツの首相|首相]] |
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|生年月日 =[[1882年]][[4月4日]] |
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| 国名=[[ファイル:Flag_of_Germany_(3-2_aspect_ratio).svg|20px]][[ドイツ国]] |
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|出生地 ={{DEU1871}}<br>{{PRU}}</br>[[ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル]] |
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| 副大統領職=なし |
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|没年月日 ={{死亡年月日と没年齢|1882|4|4|1934|6|30}} |
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| 副大統領= |
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|死没地 = [[ファイル:Flag of Nazi Germany (1933-1945).svg|25px]] [[ナチス・ドイツ|ドイツ国]]<br>ノイバーベルスベルク([[ポツダム]]近郊) |
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| 就任日=[[1932年]][[12月3日]] |
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|出身校 = [[プロイセン高級士官学校]]<br>[[プロイセン戦争大学]] |
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| 退任日=[[1933年]][[1月28日]] |
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|前職 = 軍人 |
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| 出生日=[[1882年]][[4月4日]] |
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|現職 = |
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| 生地={{DEU1871}}・</br>[[ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル]] |
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|所属政党 = |
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| 生死=死去 |
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|称号・勲章 = [[大将|名誉階級歩兵大将]]<br>[[二級鉄十字章]] |
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| 死亡日=[[1934年]][[6月30日]](殺害) |
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|世襲の有無 = |
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| 没地=[[ファイル:Flag_of_Germany_(3-2_aspect_ratio).svg|20px]][[ドイツ国]]・ノイバーベルスベルク</br>([[ポツダム]]近郊) |
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|親族(政治家) = |
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| 配偶者=エリザベート・フォン・ヘニング |
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|配偶者 = エリザベート・フォン・ヘニング |
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| 政党=なし |
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|サイン = |
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|ウェブサイト = |
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|サイトタイトル = |
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|国旗 = |
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|内閣 = [[フランツ・フォン・パーペン]]内閣<br>クルト・フォン・シュライヒャー内閣 |
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|職名 = [[ファイル:Flag of Germany.svg|25px]] [[ヴァイマル共和政|ドイツ国]] 国防相 |
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|就任日 = [[1932年]][[6月1日]] |
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|退任日 = [[1933年]][[1月28日]] |
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|元首職 = 大統領 |
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|元首 = [[パウル・フォン・ヒンデンブルク]] |
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|国旗2 = |
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|職名2 = [[ファイル:Flag of Germany.svg|25px]] [[ヴァイマル共和政|ドイツ国]] 首相 |
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|就任日2 = [[1932年]][[12月3日]] |
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|退任日2 = [[1933年]][[1月28日]] |
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|元首職2 = 大統領 |
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|元首2 = パウル・フォン・ヒンデンブルク |
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'''クルト・フェルディナント・フリードリヒ・ヘルマン・フォン・シュライヒャー'''('''Kurt Ferdinand Friederich Hermann von Schleicher''', [[1882年]][[4月4日]] - [[1934年]][[6月30日]])は、[[ドイツ]]の[[軍人]]、[[政治家]]。軍人としての最終階級は[[大将|名誉階級歩兵大将]]。 |
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[[ファイル:Schleicher19000001.jpg|thumb|少尉時代のシュライヒャー(1900年)]] |
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[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-B0527-0001-020, Kurt von Schleicher.jpg|thumb|首相に就任した直後のシュライヒャー(1932年)]] |
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[[ヴァイマル共和政]]の時代、[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]大統領や[[ヴィルヘルム・グレーナー]]国防相からの信任を背景に[[職業軍人]]ながら「政治将軍」として巨大な政治的権力を振るう。[[1932年]]6月には[[フランツ・フォン・パーペン]]内閣を擁立し、彼自身も同内閣の国防相として入閣した。しかし後にパーペンを見限り、同内閣を崩壊させた。その後、自ら[[ドイツの首相|首相]]となるも、[[国家社会主義ドイツ労働者党]]党首[[アドルフ・ヒトラー]]とパーペンの協力によりシュライヒャー内閣は打倒され、[[1933年]][[1月30日]]にはヒトラーを首相、パーペンを副首相とする[[ヒトラー内閣]]が誕生した。その後は引退生活を送ったが、[[1934年]][[6月30日]]に「[[長いナイフの夜]]」事件において[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]により夫人もろとも殺害された。 |
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[[ファイル:Schleicher dismissed0001.jpg|thumb|首相官邸を去るシュライヒャー(1933年2月)]] |
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'''クルト・フェルディナント・フリードリヒ・ヘルマン・フォン・シュライヒャー'''('''Kurt Ferdinand Friederich Hermann von Schleicher''', [[1882年]][[4月4日]] - [[1934年]][[6月30日]])は、[[ドイツ]]の[[軍人]]、[[政治家]]。[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]最後の[[ドイツの首相|首相]]。最終階級は[[陸軍中将]]。1934年に[[長いナイフの夜]]で粛清された。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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=== 前半生 === |
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[[ドイツ帝国]][[領邦]][[プロイセン王国]][[ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル]]に陸軍士官の息子として生まれる<ref name="LeMO">[http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/SchleicherKurt/index.html LeMO]</ref>。フォン・シュライヒャー家はブランデンブルクの旧家であった<ref name="ベネット170">[[#ベネット|ベネット、p.170]]</ref>。 |
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[[ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル]]に陸軍士官の息子として生まれる。[[1896年]]‐1900年、[[陸軍士官学校]]に学ぶ。[[1900年]]3月、少尉に任官し近衛第3歩兵連隊第5中隊に配属される。そこで同僚の[[オスカー・フォン・ヒンデンブルク]]と親しくなるが、彼はのちに[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]][[大統領]]となる[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]元帥の息子だった。その他この部隊では[[エーリッヒ・フォン・マンシュタイン]]とも知り合った。[[1906年]]、同連隊の軽歩兵大隊に配属。[[1909年]]に中尉に昇進し陸軍大学で学ぶ。卒業後の[[1913年]]に[[プロイセン参謀本部|参謀本部]]に配属され、自身の希望により[[ヴィルヘルム・グレーナー]]中佐の鉄道部に配置された。そこでのちに因縁の関係となる[[フランツ・フォン・パーペン]]と知り合った。 |
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[[1896年]]から1900年にかけて[[ベルリン]]の[[リヒターフェルデ|グロス・リヒターフェルデ]] ([[:de:Groß-Lichterfelde]]) にあった名門の[[プロイセン高級士官学校]] ([[:de:Preußische Hauptkadettenanstalt]]) に在学した<ref name="LeMO"/>。 |
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[[1914年]]に[[第一次世界大戦]]が勃発すると、大尉として兵站部に所属。[[1917年]]に短期間第237歩兵師団参謀に転出した他は、大戦をそこで過ごした。[[1918年]]7月に少佐に昇進。[[ドイツ革命]]の際は、軍部と[[ドイツ社会民主党]](SPD)主導の臨時政府との協力に賛成した。上官のグレーナー参謀次長とSPD党首の[[フリードリヒ・エーベルト]]や[[オットー・ヴェルス]]との間の電話連絡をとりもって両者の協約を成立させ、二人を反乱兵の手から救い出した。この協約は暫定政府の安定をもたらすとともに、軍部に「国家内国家」ともいえる独立性を与えることになった。 |
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[[ファイル:Schleicher19000001.jpg|thumb|150px|left|少尉時代のシュライヒャー(1900年)]] |
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=== 軍の実力者 === |
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[[1900年]]3月、少尉に任官し近衛第3歩兵連隊第5中隊に配属される。そこで同僚の[[オスカー・フォン・ヒンデンブルク]]([[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]の息子)と親しくなる<ref name="ベネット170"/><ref name="リーチ30">[[#リーチ|リーチ、p.30]]</ref>。その他この部隊では[[エーリッヒ・フォン・マンシュタイン]]とも知り合った。[[1906年]]、同連隊の軽歩兵大隊に配属。 |
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戦後は[[兵務局]]長(参謀総長)[[ハンス・フォン・ゼークト]]の側近となり、息子オスカーを通じてヒンデンブルク大統領の個人的信頼も得ていたシュライヒャーは、[[ヴァイマル共和国軍]]でその勢力を強めた。1923年の[[ザクセン州]]、[[テューリンゲン州]]および[[バイエルン州]]における危機の際は、[[ヴァイマル憲法]]に定められた緊急事態法を利用してこれを武力鎮圧した。[[1929年]]1月に少将に昇進して国防次官に就任。[[1931年]]、従兄弟の未亡人でフォン・ヘニング将軍の娘エリザベートと結婚した。同年、中将に昇進。[[1932年]]、[[ハインリヒ・ブリューニング]][[首相]]が[[世界大恐慌]]の善後処理のために経済政策を手をつけようとすると、[[社会主義]]的としてこれに反対。台頭する[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の[[突撃隊]]禁止令をめぐって上司のグレーナー国防相に抵抗して辞職に追い込み、ブリューニング内閣に打撃を与えた。 |
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[[1909年]]に中尉に昇進し、[[プロイセン戦争大学校|プロイセン戦争大学(陸軍大学)]]([[:de:Preußische Kriegsakademie|de]])に入学した<ref name="LeMO"/>。同大学で[[ヴィルヘルム・グレーナー]]に師事した。シュライヒャーは[[クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト]]と並んでグレーナーの最も優秀な教え子であったという<ref name="ベネット170"/>。以降シュライヒャーはグレーナーによって引き立てられることとなる<ref name="リーチ30"/>。 |
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ヒンデンブルク大統領の支持も失って苦境に陥ったブリューニング内閣は退陣し、シュライヒャーは後任の首相に古い知己のパーペンを推挙した。歩兵大将として退役してパーペン内閣で無党派の[[国防大臣]]に就任し、同年8月にナチスの党首[[アドルフ・ヒトラー]]に副首相ポストを提示して与党に引き入れようとするが、拒絶された。SPDの[[オットー・ブラウン]]が首班を務める[[プロイセン州]]政府を武力で解散させて政府支配下に置くことには成功したものの、パーペンの政治能力に疑問を持つようになる。11月の総選挙では相変わらずナチスが第一党で与党は敗北。パーペンは議会を停止するべく軍部を使ったクーデターを計画するが、軍部を握るシュライヒャーが頷かず、結果としてパーペン失脚に一役買った。 |
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[[1913年]]に戦争大学を卒業し、[[プロイセン参謀本部|参謀本部]]に配属された<ref name="LeMO"/>。グレーナーが運輸部長になるとシュライヒャーを部下として運輸部門に招いた<ref name="ベネット170"/>。そこでのちに因縁の関係となる[[フランツ・フォン・パーペン]]と知り合った。 |
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[[1914年]]に[[第一次世界大戦]]が勃発すると、大尉として兵站部に所属。1916年9月に「ドイツ国民の労働力を祖国防衛のために動員する」ことを目的とする戦時局(Kriegsamt)が創設され、グレーナーがその局長に就任した<ref name="山田">[http://www.seijo.ac.jp/pdf/faeco/kenkyu/057/057-yamada.pdf 第一次世界大戦中における自由労働組合の超経営的参加政策(ドイツ・1914年-1918)山田高生著]</ref>。シュライヒャーも11月にここに招かれ、グレーナーを補佐した<ref name="LeMO"/>。 |
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[[1917年]]5月に短期間第237歩兵師団参謀として[[ガリツィア]]戦線に転出し、[[二級鉄十字章]]を得た<ref name="LeMO"/><ref name="ベネット170"/><ref name="lexikon">[http://www.lexikon-der-wehrmacht.de/Personenregister/S/SchleicherKurtv-R.htm lexikon der wehrmacht]</ref>。しかしそれ以外は大戦の大半を「書類机の将校」として過ごした<ref name="LeMO"/><ref name="ベネット170"/>。[[1918年]]7月に少佐に昇進。 |
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[[1918年]][[10月26日]]に上官グレーナーが[[エーリヒ・ルーデンドルフ|ルーデンドルフ]]に代わって参謀次長となる<ref name="阿部41">[[#阿部|阿部、p.41]]</ref>。シュライヒャーも[[スパ (ベルギー)|スパ]]の大本営の参謀本部でグレーナー参謀次長の補佐にあたった<ref name="ベネット170"/>。11月3日にキール軍港で水兵の反乱があり、反乱水兵たちは「兵士協議会」を創設してキール軍港を実効支配した。以降「[[ドイツ革命]]」と呼ばれる反乱がまたたく間にドイツ全土に広まった<ref>[[#阿部|阿部、p.41-42]]</ref>。11月9日にはスパの大本営にいた[[ドイツ皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]は退位に追い込まれ(翌10日に中立国[[オランダ]]へ亡命した)、ベルリンで[[ドイツ社会民主党]](SPD)の[[フィリップ・シャイデマン]]が共和国宣言を行った<ref name="阿部43">[[#阿部|阿部、p.43]]</ref>。 |
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=== 一次大戦後 === |
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ドイツ革命の流れの中、参謀本部のグレーナーとシャライヒャーは、[[フリードリヒ・エーベルト]]が率いるベルリンの社民党政府と連携することにした。社民党政府を認める代わりに兵士評議会を抑えつけ、軍が新国家においても存続できるよう要求した<ref name="ゲルリッツ文庫下15">[[#ゲルリッツ文庫下|ゲルリッツ(文庫版)、下巻p.15]]</ref>。この協約はベルリンの社民党政府の安定をもたらすとともに、軍部に「国家内国家」ともいえる独立性を与えることになった。 |
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1918年11月末にスパから[[カッセル]]に大本営が移された後も、シュライヒャーはベルリンの首相官邸との連絡役をしていた<ref name="ベネット170"/>。12月20日にベルリンで行われた参謀将校の会合に出席したシュライヒャーは、[[ドイツ義勇軍|義勇軍]]の創設を提唱し、[[ハンス・フォン・ゼークト]]少将はじめ出席者の賛成を得た<ref name="ゲルリッツ文庫下18">[[#ゲルリッツ文庫下|ゲルリッツ(文庫版)、下巻p.18]]</ref>。シュライヒャーは義勇軍の装備と編成に大きな役割を演じた<ref name="ベネット170"/>。 |
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1919年10月1日にベルリン・[[ベントラー街]]に[[ヴァイマル共和国軍]]を統括する国軍省(Reichswehrministerium)が新設された<ref name="ゲルリッツ文庫下32">[[#ゲルリッツ文庫下|ゲルリッツ(文庫版)、下巻p.32]]</ref>。シュライヒャーもここに移動となり、[[兵務局 (ドイツ陸軍)|兵務局]]([[ヴェルサイユ条約]]で禁止された参謀本部の偽装組織)の局長となった[[ハンス・フォン・ゼークト]]の側近となった<ref name="LeMO"/>。ゼークトが1920年に陸軍統帥長官に昇進すると、彼から「黒色国防軍」の編成を任せられた<ref name="ヴィストリヒ121">[[#ヴィストリヒ|ヴィストリヒ、p.121]]</ref><ref name="ベネット170"/>。ゼークトは政治陰謀が好きなシャライヒャーを好んでいなかったが、彼の政治能力は評価し、政府との交渉やソ連との接触など政治的任務を次々と与えた<ref name="ベネット171">[[#ベネット|ベネット、p.171]]</ref>。 |
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=== 「政治将軍」として暗躍 === |
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1925年5月12日に[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]が大統領に当選すると<ref name="阿部127">[[#阿部|阿部、p.127]]</ref>、その息子オスカーを通じてシュライヒャーは大統領に個人的に影響を及ぼすようになり、[[ヴァイマル共和国軍]]、更には政界においてもその影響力を強めた。1926年に国軍省内に大臣官房として新設された政務課の課長に就任する<ref name="ゲルリッツ文庫下68">[[#ゲルリッツ文庫下|ゲルリッツ(文庫版)、下巻p.68]]</ref>。陸軍統帥部長官ゼークトはシュライヒャーの政治権力拡大を抑えつけようとしていたが、1926年10月に陸軍統帥部長官ゼークトが失脚したことでシュライヒャーの足枷が外れる形となった<ref name="ベネット171"/>。 |
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さらに1928年1月にグレーナーが[[ヘルマン・ミュラー]]内閣の国防相となったことがシュライヒャーの権力を押し上げた。グレーナーは教え子シュライヒャーを「我が養子」と呼ぶほど信頼していた<ref name="アイク3124">[[#アイク3|アイク、3巻p.124]]</ref><ref name="ベネット183">[[#ベネット|ベネット、p.183]]</ref>。[[1929年]]1月に少将に昇進。また陸軍と海軍の共通の問題の処理、国軍省と他省庁や政党との交渉を担当する部門として国軍省に大臣局(Ministeramt)が置かれ、その局長にシュライヒャーが任じられた<ref name="ベネット183">[[#ベネット|ベネット、p.183]]</ref>。彼は「政治将軍」として本格的に暗躍を開始する<ref name="ゲルリッツ文庫下81">[[#ゲルリッツ文庫下|ゲルリッツ(文庫版)、下巻p.81]]</ref>。グレーナーはシュライヒャーを「私の政治担当の[[枢機卿]]」と称し、彼の政治的能力にすっかり依存してしまった<ref name="ベネット184">[[#ベネット|ベネット、p.184]]</ref>。 |
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1929年初頭からシュライヒャーは、ミュラー首相の大連立の政府をブルジョア右翼政府と取り替えるようヒンデンブルク大統領に迫っていた<ref name="モムゼン260">[[#モムゼン|モムゼン、p.260]]</ref>。シュライヒャーは[[ハインリヒ・ブリューニング]]に目を付け、彼と再軍備の財政問題で合意し、[[ヤング案]]締結後に彼を首相にするための工作を行った<ref>[[#モムゼン|モムゼン、p.260-261]]</ref>。結果、1930年3月30日にブリューニング内閣が成立した<ref name="阿部165">[[#阿部|阿部、p.165]]</ref>。 |
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[[File:Schleicher mit frau.jpg|thumb|250px|1931年、シュライヒャーと妻エリザベート。長いナイフの夜の粛清で両名とも殺された。]] |
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[[1931年]]7月28日、従兄弟の未亡人でフォン・ヘニング将軍の娘エリザベートと結婚した<ref name="LeMO"/>。同年、中将に昇進。 |
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[[1932年]][[4月13日]]にブリューニング首相とグレーナー国防相兼内相は、ヒンデンブルク大統領にナチ党の[[突撃隊]]と[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]を禁止する命令を出させた。しかし効果は薄く、4月23日に各州で行われた地方選挙でナチ党は[[バイエルン州]]を除き、全ての州議会で第一党に躍進した<ref name="阿部195">[[#阿部|阿部、p.195]]</ref>。シュライヒャーはブリューニング内閣を見限り、自分を中心とした右翼大連立政権を画策してナチ党に接触し、4月28日と5月8日にナチ党の党首[[アドルフ・ヒトラー]]と密会した。両者はブリューニングとグレーナーを失脚させること、突撃隊禁止命令を解除すること、国会を解散すること、国会選挙までは新内閣に寛容をもって臨むことなどで合意した<ref name="阿部195"/><ref name="トーランド上302">[[#トーランド上|トーランド、上巻p.302]]</ref><ref name="モムゼン389">[[#モムゼン|モムゼン、p.389]]</ref>。ナチ党とシュライヒャーはただちにグレーナーの失脚工作を開始した。5月10日に国会で突撃隊禁止命令を討議中にナチ党議員団はグレーナーに激しい罵倒を浴びせ、グレーナーを立往生させ、これによってグレーナーが国会討論に大敗北を喫したかのような印象を世間にもたらした。シュライヒャーはこれを利用して「グレーナーは病気」という噂を流して回り、恩師であるグレーナーに冷たく辞職を勧告した<ref name="アイク4147">[[#アイク4|アイク、第4巻p.147]]</ref><ref>[[#フェスト上|フェスト、上巻p.432-433]]</ref>。ヒンデンブルクやブリューニングにも見捨てられたグレーナーは5月13日に国防相辞職(内相には留任)に追いやられた<ref>[[#アイク4|アイク、第4巻p.148-150]]</ref>。 |
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さらに[[東プロイセン]]の地主([[ユンカー]]層が占める)が管理しきれない土地を失業者に分配するというブリューニングの政策にユンカーたちが「農業[[ボルシェヴィキ|ボルシェヴィズム]]」と反発したのを機にシュライヒャーはヒンデンブルクにブリューニング解任を提案した。ヒンデンブルクはこれに同意し、5月29日にブリューニングを呼び出し、「今後は右翼政治を行うべし」「労働組合指導者層とは手を切るべし」「農業ボルシェヴィズムは根絶すべし」と命じた。事実上の辞職要求と感じたブリューニングは翌5月30日に総辞職した<ref name="林179">[[#林|林、p.179]]</ref><ref name="阿部196">[[#阿部|阿部、p.196]]</ref>。 |
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=== パーペン内閣国防相 === |
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1932年5月26日にはシュライヒャーは次の首相として[[フランツ・フォン・パーペン]]をベルリンに呼び寄せていた<ref name="モムゼン392">[[#モムゼン|モムゼン、p.392]]</ref>。5月30日にブリューニング内閣が瓦解すると、シュライヒャーは、ヒンデンブルクにパーペンを後継の首相に推薦した。シュライヒャーが当時ほとんど無名だったパーペンを首相に推薦したのは、パーペンが無経験で外見ばかり気にする性格だっため、操り人形にし易しと判断したからという。「パーペンは人の上に立つ器ではない」という周囲の反対に対してシュライヒャーは「彼に人の上になど立たれては困るな。彼は帽子みたいなもんだ」と語ったという<ref name="フェスト上434">[[#フェスト上|フェスト、上巻p.434]]</ref>。6月1日にパーペン内閣が成立し、シュライヒャーは退役して名誉階級歩兵大将の階級を与えられるとともに国防相として入閣した<ref name="阿部196"/>。 |
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パーペン内閣は貴族ばかりの内閣として国民の支持が皆無だった。ナチ党を除く全主要政党からパーペン内閣は攻撃に晒された。先のシュライヒャーとの約束によりナチ党のみがパーペン批判を控えていた<ref name="モスゼン396">[[#モムゼン|モムゼン、p.396]]</ref>。シュライヒャーは、早速ナチ党取り込み工作を開始し、6月3日にヒトラーと面会して協力を要請したが、拒絶された<ref name="阿部197">[[#阿部|阿部、p.197]]</ref>。 |
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[[画像:PapenSchleicher0001.jpg|thumb|200px|left|競馬観戦するパーペン(左)とシュライヒャー(1932年、ベルリン・カールスホルスト競馬場)]] |
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[[ドイツ国会1932年選挙 (7月)|1932年7月31日に投票が行われた総選挙]]でナチ党が37.4%の得票率を得て230議席(改選前107議席)を獲得し、第一党に躍り出た<ref name="阿部200">[[#阿部|阿部、p.200]]</ref>。シュライヒャーは8月5日にパーペンに独断でヒトラーと面会し、パーペン内閣に副首相として入閣するよう求めたが、ヒトラーは首相の地位を要求した<ref name="フェスト上438">[[#フェスト上|フェスト、上巻p.438]]</ref><ref name="モムゼン416">[[#モムゼン|モムゼン、p.416]]</ref><ref name="阿部201">[[#阿部|阿部、p.201]]</ref>。シュライヒャーはヒトラーを首相にするようヒンデンブルクに取り計らう様になったが、ヒンデンブルクもパーペンもその意思はなかった。ヒンデンブルクはヒトラーを毛嫌いしていたし、パーペンはいくつかの閣僚職を提供することでナチ党を取りこむことができると未だに考えていた<ref>[[#モムゼン|モムゼン、p.417-418]]</ref>。 |
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社民党の[[オットー・ブラウン]]が首班を務める[[プロイセン州]]政府を武力で解散させて政府支配下に置くことには成功したものの、パーペンの政治能力に疑問を持つようになる。[[ドイツ国会1932年選挙 (11月)|11月6日に行われた総選挙]]では、ナチ党は共産党の起こしたストライキへの参加やブルジョア的なパーペン内閣への激しい攻撃などにより財界やナチ党員にかなり離反されていたため、選挙資金を確保できずに議席を大きく減らした。しかし第一党は確保した<ref name="阿部205">[[#阿部|阿部、p.205]]</ref><ref name="トーランド上313">[[#トーランド上|トーランド、上巻p.313]]</ref><ref name="フェスト上447">[[#フェスト上|フェスト、上巻p.447]]</ref><ref>[[#モムゼン|モムゼン、p.436-437]]</ref>。またナチ党以上に厄介な共産党が躍進してしまった。パーペンは再度ヒトラーに副首相就任を打診したが、やはり拒絶された<ref name="阿部205">[[#阿部|阿部、p.205]]</ref>。 |
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パーペンを見限ったシュライヒャーは、政党間交渉をしやすくするためとして後の交渉はヒンデンブルクに任せ、パーペンに内閣総辞職を求めた。11月17日にパーペン内閣は形式的に内閣総辞職して暫定事務処理内閣に移行した。しかしパーペンはいずれヒンデンブルクから再度組閣の命令が来ると信じていた<ref name="阿部205"/><ref>[[#モムゼン|モムゼン、p.438-439]]</ref><ref name="フェスト上448">[[#フェスト上|フェスト、上巻p.448]]</ref>。11月18日から24日にかけてヒンデンブルクやマイスナーなど大統領府とヒトラーの交渉が行われたが、やはり平行線に終わった<ref>[[#阿部|阿部、p.205-206]]</ref>。 |
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12月1日午後6時、ヒンデンブルク大統領はパーペンとシュライヒャーを招集した。パーペンは数か月前から立てていた憲法違反のクーデタ計画をヒンデンブルクに提案した。国軍を出動させて議会を半年間停止し、その間に改憲を行って大統領権限を強化する計画であった。しかしパーペンを失脚させたがっていたシュライヒャーはこの計画に反対した。シュライヒャーは自分が首相に就任し、ナチ党の一部を取り込んで分裂を誘うべきと主張した<ref name="トーランド上317">[[#トーランド上|トーランド、上巻p.317]]</ref>。ヒンデンブルクはパーペンを支持したが、シュライヒャーは頑として国軍のクーデタへの参加を拒否した<ref>[[#フェスト上|フェスト、上巻p.440-441]]</ref>。 |
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つづいて翌12月2日の閣議でシュライヒャーは「パーペンの下で政府を作ろうといういかなる試みも国を混乱に陥れるだけ。ナチスが内乱を起こせば国軍にそれを鎮圧することは不可能」としてパーペンに退陣を求めた<ref name="トーランド上318">[[#トーランド上|トーランド、上巻p.318]]</ref>。閣僚はほとんどシュライヒャーを支持した<ref>[[#モムゼン|モムゼン、p.440-441]]</ref>。パーペンは大統領府へ逃げ込み、ヒンデンブルクの支持を得ようとしたが、「ことここにいたってはシュライヒャーに任せよう」と言われたという<ref name="トーランド上318"/><ref name="フェスト上451">[[#フェスト上|フェスト、上巻p.451]]</ref><ref name="モムゼン441">[[#モムゼン|モムゼン、p.441]]</ref>。こうして12月2日にクルト・フォン・シュライヒャーに組閣命令が下った<ref name="阿部206">[[#阿部|阿部、p.206]]</ref>。 |
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=== 首相就任 === |
=== 首相就任 === |
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[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-B0527-0001-020, Kurt von Schleicher.jpg|thumb|首相に就任した直後のシュライヒャー(1932年)]] |
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パーペン失脚後、シュライヒャーはナチスとの提携を図るがまたも失敗。パーペンの再指名も浮上する中、ヒンデンブルクの指名により12月3日に首相に就任した。パーペンは旧友シュライヒャーの仕打ちを忘れなかった。首相となったシュライヒャーは[[グレゴール・シュトラッサー]]ら[[ナチス左派]]を政権に引き入れる工作を行う。この工作は両者の行き違いから不調に終わり、更にシュトラッサーがナチスから[[除名]]状態に追い込まれてしまうなど失敗した。軍部からの資金援助や新聞による援護にもかかわらずシュライヒャー政権は国民の支持を受けなかった。右翼からは「赤い将軍」と蔑称され、左翼からはプロイセン州政府打倒の経緯から反動主義者と見られていた。 |
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[[ファイル:Schleicher dismissed0001.jpg|thumb|首相官邸を去るシュライヒャー(1933年2月)]] |
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1933年12月3日に首相に就任した<ref name="阿部206"/>。シュライヒャー内閣は基本的にパーペン内閣と同じ顔触れだったが、パーペンを支持した内相[[ヴィルヘルム・フォン・ガイル]]男爵([[:de:Wilhelm Freiherr von Gayl|de]])は内閣から追放し、プロイセン州総督代理[[フランツ・ブラハト]]([[:de:Franz Bracht|de]])を代わりの内相とした<ref name="アイク4279">[[#アイク4|アイク、第4巻p.279]]</ref>。 |
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首相に就任したばかりの12月3日のうちにナチ党組織全国指導者[[グレゴール・シュトラッサー]]と接近を図り、彼に副首相とプロイセン州首相の地位に就いてほしいと要請した<ref name="阿部206"/><ref name="モムゼン456">[[#モムゼン|モムゼン、p.456]]</ref>。ナチ党の選挙資金は枯渇しており、まともな選挙運動はほとんどできず、12月4日の[[チューリンゲン州]]州議会選挙では前回選挙と比べて40%もの得票を失うという大惨敗を喫した<ref name="モムゼン456"/>。組織全国指導者シュトラッサーの元には離党届が次々と届いていた<ref name="フェスト上452">[[#フェスト上|フェスト、上巻p.452]]</ref>。こうした情勢に焦っていたシュトラッサーは、12月5日と12月7日のベルリンのカイザーホーフ・ホテルでのナチ党指導者会議ですぐに入閣せねば党が瓦解すると主張した。しかし非妥協的なヒトラーはシュトラッサーを徹底的に非難・罵倒した。結局、シュトラッサーは党の役職を辞することとなり、シュライヒャーのナチ党分断策は失敗した<ref name="フェスト上454">[[#フェスト上|フェスト、上巻p.454]]</ref>。 |
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一方シュライヒャーに失脚させられたパーペンがヒトラーに接近し、両者は[[1933年]]1月に二度極秘会談をもった。1月22日の会談にはシュライヒャーの旧友オスカー・フォン・ヒンデンブルクや銀行家、さらに大統領府長官[[オットー・マイスナー]]も加わり、オスカーとマイスナーの説得でヒンデンブルク大統領はヒトラーへの嫌悪を和らげた。これに[[国家人民党]]も加わる形でシュライヒャー包囲網が形成され、ついに1月28日、ヒンデンブルク大統領と会見したシュライヒャーは辞職を申し出て、ヒトラーを後継首相にするようヒンデンブルクに勧めた。ヒンデンブルクは「将軍、祖国に尽くした君の尽力に感謝する。では神のお力でこれからどうなるのか見てみようじゃないか」と答えた。こうしてヒトラーが首相に就任し、ヴァイマル共和国の命運は決した。その直前、[[オイゲン・オット]]や[[フェルディナント・フォン・ブレドウ]]といった軍部内のシュライヒャー派はクーデターを計画し、陸軍統帥部長[[クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト|ハンマーシュタイン=エクヴォルト]]も賛成したが、シュライヒャー本人が承認せず実行されなかった。シュライヒャーが弱気になっていたのは、当時シュライヒャーが[[貧血]]に苦しみ健康状態が優れなかったためという証言もある<ref>{{lang|de|Fritz Günther von Tschirschky: ''Erinnerungen eines Hochverräters''}}, 1972, S. 78.</ref>。 |
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一方、パーペンは自分を失脚に追い込んだシュライヒャーへの復讐心に燃えて、ヒトラーと接近していた。1月4日にヒトラーとパーペンはシュライヒャー政権の打倒とそれに代わるヒトラー=パーペン政権の樹立で合意した<ref name="トーランド上324">[[#トーランド上|トーランド、上巻p.324]]</ref>。その後もヒトラーとパーペンは1月18日と1月22日に会談を行った。1月22日の会談にはシュライヒャーの旧友オスカー・フォン・ヒンデンブルクや銀行家、さらに大統領府長官[[オットー・マイスナー]]も加わり、オスカーとマイスナーの説得でヒンデンブルク大統領はヒトラーへの嫌悪を和らげた<ref>[[#トーランド上|トーランド、上巻p.325-328]]</ref>。さらに1月26日にはパーペンは国家人民党党首[[アルフレート・フーゲンベルク]]や[[鉄兜団]]団長[[フランツ・ゼルテ]]と会談し、国家人民党や鉄兜団のヒトラー内閣への参加・協力の約束を取り付けた<ref name="アイク4324">[[#アイク4|アイク、第4巻p.324]]</ref><ref name="阿部212">[[#阿部|阿部、p.212]]</ref>。 |
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こうした動きに気付いたシュライヒャーは、1月23日にヒンデンブルク大統領にナチ党分断策が失敗に終わったことを告げ、国会を解散して国家緊急事態を宣言し、ナチ党と共産党を禁止する事を求めた。しかしヒンデンブルクは12月1日にパーペンが同じことを提案したのを君が潰したはずだと言ってこれを拒否した。シュライヒャーはあの時とは状況は全く変わったなどと喚いたが、ヒンデンブルクは取り合わなかった<ref name="フェスト上462">[[#フェスト上|フェスト、上巻p.462]]</ref>。彼はヒンデンブルクの自分への冷たい態度は首相辞任後も足繁く大統領のもとへ通っていたパーペンの入り知恵の仕業だと考えて、パーペンへの憎しみを募らせた<ref name="モムゼン471">[[#モムゼン|モムゼン、p.471]]</ref>。 |
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ついに1月28日、ヒンデンブルク大統領と会見したシュライヒャーは辞職を申し出て、ヒトラーを後継首相にするようヒンデンブルクに勧めた。ヒンデンブルクは「将軍、祖国に尽くした君の尽力に感謝する。では神のお力でこれからどうなるのか見てみようじゃないか」と答えた。それでもシュライヒャーは憎きパーペンが中枢となって活躍する政権だけは阻止しようと図り、1月29日に陸軍統帥部長[[クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト]]をヒトラーの下へ派遣して、パーペンの胡散臭さを吹聴してナチ党のパーペン不信を煽り、またヒトラーに協力したい旨を申し出たが、パーペンと組んで政権を作る気であったヒトラーは曖昧に対応した<ref name="阿部213">[[#阿部|阿部、p.213]]</ref><ref name="モムゼン476">[[#モムゼン|モムゼン、p.476]]</ref>。 |
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1月30日午前11時15分に[[アドルフ・ヒトラー]]が首相に任命され、[[ヒトラー内閣]]が成立した。パーペンはヒトラーに次ぐ副首相として入閣した。その直前、[[オイゲン・オット]]や[[フェルディナント・フォン・ブレドウ]]といった軍部内のシュライヒャー派はクーデターを計画し、陸軍統帥部長[[クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト|ハンマーシュタイン=エクヴォルト]]も賛成したが、シュライヒャー本人が承認せず実行されなかった。シュライヒャーが弱気になっていたのは、当時シュライヒャーが[[貧血]]に苦しみ健康状態が優れなかったためという証言もある<ref>{{lang|de|Fritz Günther von Tschirschky: ''Erinnerungen eines Hochverräters''}}, 1972, S. 78.</ref>。 |
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=== 粛清 === |
=== 粛清 === |
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首相退任後、国防省内にあった住居は、ナチスに近い[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]]新国防相からの申し入れにより手放さざるを得なくなった。引退を機にかつての上官で1932年に追い落としたグレーナー元国防相と和解し、夫人と共に長期の国内旅行に出かけた。シュライヒャーは公にヒトラー政権を批判し、友人たちから警告されたこともあった。かつての部下オット少将は危険を察知し、シュライヒャーに対してしばらく自分の赴任先である[[日本]]に滞在するよう要請したが、シュライヒャーは「プロイセンの将軍は祖国から逃げたりはしないものだ」と言ってこれを断った。 |
首相退任後、国防省内にあった住居は、ナチスに近い[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]]新国防相からの申し入れにより手放さざるを得なくなった。引退を機にかつての上官で1932年に追い落としたグレーナー元国防相と和解し、夫人と共に長期の国内旅行に出かけた。シュライヒャーは公にヒトラー政権を批判し、友人たちから警告されたこともあった。かつての部下オット少将は危険を察知し、シュライヒャーに対してしばらく自分の赴任先である[[日本]]に滞在するよう要請したが、シュライヒャーは「プロイセンの将軍は祖国から逃げたりはしないものだ」と言ってこれを断った。 |
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翌1934年6月30日、シュライヒャーは[[長いナイフの夜]]でシュトラッサーらと共に[[粛清]]される。彼は現役の陸軍将帥であり、しかも自宅で[[親衛隊]]員に殺害されたとき、夫人も巻き添えになっているにもかかわらず、国防軍はナチスに何の抗議もしなかった。捜査は[[ポツダム]]警察署長[[ヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフ]]の指令により停止された。事件の唯一の目撃者だった家政婦は翌年不審な溺死を遂げ、公式には自殺と発表された。 |
翌1934年6月30日、シュライヒャーは[[長いナイフの夜]]でシュトラッサーらと共に[[粛清]]される。彼は現役の陸軍将帥であり、しかも自宅で[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]員に殺害されたとき、夫人も巻き添えになっているにもかかわらず、国防軍はナチスに何の抗議もしなかった。捜査は[[ポツダム]]警察署長[[ヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフ]]の指令により停止された。事件の唯一の目撃者だった家政婦は翌年不審な溺死を遂げ、公式には自殺と発表された。 |
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国防軍に影響力を保持していたシュライヒャーはナチスにとって危険な存在であり、またナチスの分裂を試みた彼をヒトラーは決して許さなかったのである{{#tag:ref|ただし大統領府長官オットー・マイスナーの息子ハンス=オットー・マイスナーの回顧録によれば、ヒトラーはマイスナーに対しシュライヒャー殺害について遺憾の意を表明し、また[[ヘルマン・ゲーリング]]も戦後[[ニュルンベルク]]の獄中でマイスナーに対し、シュライヒャー殺害を指示したのはヒトラーでも自分でもないと述べていたという。ゲーリングによれば、ヒトラーは自己の独裁確立のためむしろ軍部の支持を獲得しようと努めていたという<ref>{{lang|de|Hans-Otto Meissner, ''Junge Jahre im Reichspräsidentenpalais''}}, S.377.</ref>。|group=#}}。ナチス党機関紙「[[フェルキッシャー・ベオバハター]]」は2年後に「1933年1月29日のシュライヒャーによるクーデター計画」という記事を掲載し、シュライヒャー粛清を正当化した。 |
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== キャリア == |
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=== 軍階級 === |
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*1900年3月22日、[[少尉]](Leutnant)<ref name="lexikon"/> |
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*1909年10月18日、[[中尉]](Oberleutnant)<ref name="lexikon"/> |
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*1913年12月18日、[[大尉]](Hauptmann)<ref name="lexikon"/> |
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*1918年7月15日、[[少佐]](Major)<ref name="lexikon"/> |
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*1924年1月1日、[[中佐]](Oberstleutnant)<ref name="lexikon"/> |
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*1926年3月1日、[[大佐]](Oberst)<ref name="lexikon"/> |
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*1929年1月23日、[[少将]](Generalmajor)<ref name="lexikon"/> |
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*1931年10月1日、[[中将]](Generalleutnant)<ref name="lexikon"/> |
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*1932年6月1日、[[大将|名誉階級歩兵大将]](Charakter als General der Infanterie)<ref name="lexikon"/> |
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=== 勲章 === |
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*[[二級鉄十字章]]<ref name="lexikon"/> |
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*[[ホーエンツォレルン家勲章|ホーエンツォレルン家勲章 剣付騎士十字章]]<ref name="lexikon"/> |
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== 注釈 == |
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{{reflist|group=#|2}} |
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== 参考文献 == |
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国防軍に影響力を保持していたシュライヒャーはナチスにとって危険な存在であり、またナチスの分裂を試みた彼をヒトラーは決して許さなかったのである<ref>ただし大統領府長官オットー・マイスナーの息子ハンス=オットー・マイスナーの回顧録によれば、ヒトラーはマイスナーに対しシュライヒャー殺害について遺憾の意を表明し、また[[ヘルマン・ゲーリング]]も戦後[[ニュルンベルク]]の獄中でマイスナーに対し、シュライヒャー殺害を指示したのはヒトラーでも自分でもないと述べていたという。ゲーリングによれば、ヒトラーは自己の独裁確立のためむしろ軍部の支持を獲得しようと努めていたという。{{lang|de|Hans-Otto Meissner, ''Junge Jahre im Reichspräsidentenpalais''}}, S.377.</ref>。ナチス党機関紙「[[フェルキッシャー・ベオバハター]]」は2年後に「1933年1月29日のシュライヒャーによるクーデター計画」という記事を掲載し、シュライヒャー粛清を正当化した。 |
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*{{Cite book|和書|author=[[エーリッヒ・アイク]]([[:de:Erich Eyck|de]])|translator=[[救仁郷繁]]|year=[[1986年]]|title=ワイマル共和国史 3 1926~1931|publisher=[[ぺりかん社]]|isbn=978-4831503855|ref=アイク3}} |
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*{{Cite book|和書|author=エーリッヒ・アイク|translator=救仁郷繁|year=1989年|title=ワイマル共和国史 4 1931~1933|publisher=ぺりかん社|isbn=978-4831504500|ref=アイク4}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[阿部良男]]|year=[[2001年]]|title=ヒトラー全記録 : 1889-1945 20645日の軌跡|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760120581|ref=阿部}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[ロベルト・ヴィストリヒ]]([[:en:Robert S. Wistrich|en]])|translator=[[滝川義人]]|year=[[2002年]]|title=ナチス時代 ドイツ人名事典|publisher=[[東洋書林]]|isbn=978-4887215733|ref=ヴィストリヒ}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[ヴァルター・ゲルリッツ]]|translator=[[守屋純]]|year=[[1998年]]|title=ドイツ参謀本部興亡史|publisher=[[学研]]|isbn=978-4054009813|ref=ゲルリッツ}} |
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**{{Cite book|和書|author=ヴァルター・ゲルリッツ|translator=守屋純|year=[[2000年]]|title=ドイツ参謀本部興亡史 上(上記の文庫版)|publisher=[[学研M文庫]]|isbn=978-4059010173|ref=ゲルリッツ文庫上}} |
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**{{Cite book|和書|author=ヴァルター・ゲルリッツ|translator=守屋純|year=2000年|title=ドイツ参謀本部興亡史 下(上記の文庫版)|publisher=[[学研M文庫]]|isbn=978-4059010180|ref=ゲルリッツ文庫下}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[ジョン・トーランド]]([[:en:John Toland (author)|en]])|translator=[[永井淳]]|year=[[1979年]]|title=アドルフ・ヒトラー 上|publisher=[[集英社]]|ref=トーランド上}} |
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**{{Cite book|和書|author=ジョン・トーランド|translator=永井淳|year=1990年|title=アドルフ・ヒトラー 1(上記の文庫版)|publisher=[[集英社文庫]]|isbn=978-4087601800|ref=トーランド文庫1}} |
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**{{Cite book|和書|author=ジョン・トーランド|translator=永井淳|year=1990年|title=アドルフ・ヒトラー 2(上記の文庫版)|publisher=集英社文庫|isbn=978-4087601817|ref=トーランド文庫2}} |
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*{{Cite book|和書|author=ジョン・トーランド|translator=永井淳|year=1979年|title=アドルフ・ヒトラー 下|publisher=集英社|ref=トーランド下}} |
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**{{Cite book|和書|author=ジョン・トーランド|translator=永井淳|year=1990年|title=アドルフ・ヒトラー 3(上記の文庫版)|publisher=集英社文庫|isbn=978-4087601824|ref=トーランド文庫3}} |
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**{{Cite book|和書|author=ジョン・トーランド|translator=永井淳|year=1990年|title=アドルフ・ヒトラー 4(上記の文庫版)|publisher=集英社文庫|isbn=978-4087601831|ref=トーランド文庫4}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[林健太郎]]|year=[[1968年]]|title=ワイマル共和国 :ヒトラーを出現させたもの|publisher=[[中公新書]]|isbn=978-4121000279|ref=林}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[バリー・リーチ]]|translator=[[戦史刊行会]]|year=[[1979年]]|title=ドイツ参謀本部|publisher=[[原書房]]|asin=B000J8BZX4|ref=リーチ}} |
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**{{Cite book|和書|author=バリー・リーチ|translator=戦史刊行会|year=[[2001年]]|title=ドイツ参謀本部(上記の新装版)|publisher=原書房|isbn=978-4562033843|ref=リーチ新装版}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[ヨアヒム・フェスト]]|translator=[[赤羽竜夫]]|year=[[1975年]]|title=ヒトラー〈上〉|publisher=[[河出書房新社]]|asin=B000J9D51I|ref=フェスト上}} |
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*{{Cite book|和書|author=ヨアヒム・フェスト|translator=赤羽竜夫|year=[[1975年]]|title=ヒトラー〈下〉|publisher=河出書房新社|asin=B000J9D518|ref=フェスト下}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[ウィーラー・ベネット]]([[:en:John Wheeler-Bennett|en]])|translator=[[山口定]]|year=[[1961年]]|title=国防軍とヒトラー I <small>1918-1945</small>|publisher=[[みすず書房]]|asin=B000JANCAQ|ref=ベネット}} |
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**{{Cite book|和書|author=ウィーラー・ベネット|translator=山口定|year=[[2002年]]|title=国防軍とヒトラー I <small>1918-1945</small> (上記の新装版) |publisher=みすず書房|isbn=978-4622051077|ベネット新装版}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[ハンス・モムゼン]]([[:de:Hans Mommsen|de]])|translator=[[関口宏道]]|year=[[2001年]]|title=ヴァイマール共和国史―民主主義の崩壊とナチスの台頭|publisher=[[水声社]]|isbn=978-4891764494|ref=モムゼン}} |
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=== 出典 === |
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<div class="references-small"><references /></div> |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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*[http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/SchleicherKurt/ ドイツ歴史博物館]経歴紹介 {{de icon}} |
*[http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/SchleicherKurt/ ドイツ歴史博物館]経歴紹介 {{de icon}} |
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{{commons|Category:Kurt von Schleicher}} |
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{{先代次代|[[ドイツの首相|ドイツ国首相]]|第14代:[[1932年]] - [[1933年]]|[[フランツ・フォン・パーペン]]|[[アドルフ・ヒトラー]]}} |
{{先代次代|[[ドイツの首相|ドイツ国首相]]|第14代:[[1932年]] - [[1933年]]|[[フランツ・フォン・パーペン]]|[[アドルフ・ヒトラー]]}} |
2010年12月1日 (水) 05:35時点における版
クルト・フォン・シュライヒャー | |
---|---|
| |
生年月日 | 1882年4月4日 |
出生地 |
ドイツ帝国 プロイセン王国 ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル |
没年月日 | 1934年6月30日(52歳没) |
死没地 |
ドイツ国 ノイバーベルスベルク(ポツダム近郊) |
出身校 |
プロイセン高級士官学校 プロイセン戦争大学 |
前職 | 軍人 |
称号 |
名誉階級歩兵大将 二級鉄十字章 |
配偶者 | エリザベート・フォン・ヘニング |
ドイツ国 国防相 | |
内閣 |
フランツ・フォン・パーペン内閣 クルト・フォン・シュライヒャー内閣 |
在任期間 | 1932年6月1日 - 1933年1月28日 |
大統領 | パウル・フォン・ヒンデンブルク |
ドイツ国 首相 | |
在任期間 | 1932年12月3日 - 1933年1月28日 |
大統領 | パウル・フォン・ヒンデンブルク |
クルト・フェルディナント・フリードリヒ・ヘルマン・フォン・シュライヒャー(Kurt Ferdinand Friederich Hermann von Schleicher, 1882年4月4日 - 1934年6月30日)は、ドイツの軍人、政治家。軍人としての最終階級は名誉階級歩兵大将。
ヴァイマル共和政の時代、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領やヴィルヘルム・グレーナー国防相からの信任を背景に職業軍人ながら「政治将軍」として巨大な政治的権力を振るう。1932年6月にはフランツ・フォン・パーペン内閣を擁立し、彼自身も同内閣の国防相として入閣した。しかし後にパーペンを見限り、同内閣を崩壊させた。その後、自ら首相となるも、国家社会主義ドイツ労働者党党首アドルフ・ヒトラーとパーペンの協力によりシュライヒャー内閣は打倒され、1933年1月30日にはヒトラーを首相、パーペンを副首相とするヒトラー内閣が誕生した。その後は引退生活を送ったが、1934年6月30日に「長いナイフの夜」事件において親衛隊により夫人もろとも殺害された。
経歴
前半生
ドイツ帝国領邦プロイセン王国ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェルに陸軍士官の息子として生まれる[1]。フォン・シュライヒャー家はブランデンブルクの旧家であった[2]。
1896年から1900年にかけてベルリンのグロス・リヒターフェルデ (de:Groß-Lichterfelde) にあった名門のプロイセン高級士官学校 (de:Preußische Hauptkadettenanstalt) に在学した[1]。
1900年3月、少尉に任官し近衛第3歩兵連隊第5中隊に配属される。そこで同僚のオスカー・フォン・ヒンデンブルク(パウル・フォン・ヒンデンブルクの息子)と親しくなる[2][3]。その他この部隊ではエーリッヒ・フォン・マンシュタインとも知り合った。1906年、同連隊の軽歩兵大隊に配属。
1909年に中尉に昇進し、プロイセン戦争大学(陸軍大学)(de)に入学した[1]。同大学でヴィルヘルム・グレーナーに師事した。シュライヒャーはクルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルトと並んでグレーナーの最も優秀な教え子であったという[2]。以降シュライヒャーはグレーナーによって引き立てられることとなる[3]。
1913年に戦争大学を卒業し、参謀本部に配属された[1]。グレーナーが運輸部長になるとシュライヒャーを部下として運輸部門に招いた[2]。そこでのちに因縁の関係となるフランツ・フォン・パーペンと知り合った。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、大尉として兵站部に所属。1916年9月に「ドイツ国民の労働力を祖国防衛のために動員する」ことを目的とする戦時局(Kriegsamt)が創設され、グレーナーがその局長に就任した[4]。シュライヒャーも11月にここに招かれ、グレーナーを補佐した[1]。
1917年5月に短期間第237歩兵師団参謀としてガリツィア戦線に転出し、二級鉄十字章を得た[1][2][5]。しかしそれ以外は大戦の大半を「書類机の将校」として過ごした[1][2]。1918年7月に少佐に昇進。
1918年10月26日に上官グレーナーがルーデンドルフに代わって参謀次長となる[6]。シュライヒャーもスパの大本営の参謀本部でグレーナー参謀次長の補佐にあたった[2]。11月3日にキール軍港で水兵の反乱があり、反乱水兵たちは「兵士協議会」を創設してキール軍港を実効支配した。以降「ドイツ革命」と呼ばれる反乱がまたたく間にドイツ全土に広まった[7]。11月9日にはスパの大本営にいたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は退位に追い込まれ(翌10日に中立国オランダへ亡命した)、ベルリンでドイツ社会民主党(SPD)のフィリップ・シャイデマンが共和国宣言を行った[8]。
一次大戦後
ドイツ革命の流れの中、参謀本部のグレーナーとシャライヒャーは、フリードリヒ・エーベルトが率いるベルリンの社民党政府と連携することにした。社民党政府を認める代わりに兵士評議会を抑えつけ、軍が新国家においても存続できるよう要求した[9]。この協約はベルリンの社民党政府の安定をもたらすとともに、軍部に「国家内国家」ともいえる独立性を与えることになった。
1918年11月末にスパからカッセルに大本営が移された後も、シュライヒャーはベルリンの首相官邸との連絡役をしていた[2]。12月20日にベルリンで行われた参謀将校の会合に出席したシュライヒャーは、義勇軍の創設を提唱し、ハンス・フォン・ゼークト少将はじめ出席者の賛成を得た[10]。シュライヒャーは義勇軍の装備と編成に大きな役割を演じた[2]。
1919年10月1日にベルリン・ベントラー街にヴァイマル共和国軍を統括する国軍省(Reichswehrministerium)が新設された[11]。シュライヒャーもここに移動となり、兵務局(ヴェルサイユ条約で禁止された参謀本部の偽装組織)の局長となったハンス・フォン・ゼークトの側近となった[1]。ゼークトが1920年に陸軍統帥長官に昇進すると、彼から「黒色国防軍」の編成を任せられた[12][2]。ゼークトは政治陰謀が好きなシャライヒャーを好んでいなかったが、彼の政治能力は評価し、政府との交渉やソ連との接触など政治的任務を次々と与えた[13]。
「政治将軍」として暗躍
1925年5月12日にパウル・フォン・ヒンデンブルクが大統領に当選すると[14]、その息子オスカーを通じてシュライヒャーは大統領に個人的に影響を及ぼすようになり、ヴァイマル共和国軍、更には政界においてもその影響力を強めた。1926年に国軍省内に大臣官房として新設された政務課の課長に就任する[15]。陸軍統帥部長官ゼークトはシュライヒャーの政治権力拡大を抑えつけようとしていたが、1926年10月に陸軍統帥部長官ゼークトが失脚したことでシュライヒャーの足枷が外れる形となった[13]。
さらに1928年1月にグレーナーがヘルマン・ミュラー内閣の国防相となったことがシュライヒャーの権力を押し上げた。グレーナーは教え子シュライヒャーを「我が養子」と呼ぶほど信頼していた[16][17]。1929年1月に少将に昇進。また陸軍と海軍の共通の問題の処理、国軍省と他省庁や政党との交渉を担当する部門として国軍省に大臣局(Ministeramt)が置かれ、その局長にシュライヒャーが任じられた[17]。彼は「政治将軍」として本格的に暗躍を開始する[18]。グレーナーはシュライヒャーを「私の政治担当の枢機卿」と称し、彼の政治的能力にすっかり依存してしまった[19]。
1929年初頭からシュライヒャーは、ミュラー首相の大連立の政府をブルジョア右翼政府と取り替えるようヒンデンブルク大統領に迫っていた[20]。シュライヒャーはハインリヒ・ブリューニングに目を付け、彼と再軍備の財政問題で合意し、ヤング案締結後に彼を首相にするための工作を行った[21]。結果、1930年3月30日にブリューニング内閣が成立した[22]。
1931年7月28日、従兄弟の未亡人でフォン・ヘニング将軍の娘エリザベートと結婚した[1]。同年、中将に昇進。
1932年4月13日にブリューニング首相とグレーナー国防相兼内相は、ヒンデンブルク大統領にナチ党の突撃隊と親衛隊を禁止する命令を出させた。しかし効果は薄く、4月23日に各州で行われた地方選挙でナチ党はバイエルン州を除き、全ての州議会で第一党に躍進した[23]。シュライヒャーはブリューニング内閣を見限り、自分を中心とした右翼大連立政権を画策してナチ党に接触し、4月28日と5月8日にナチ党の党首アドルフ・ヒトラーと密会した。両者はブリューニングとグレーナーを失脚させること、突撃隊禁止命令を解除すること、国会を解散すること、国会選挙までは新内閣に寛容をもって臨むことなどで合意した[23][24][25]。ナチ党とシュライヒャーはただちにグレーナーの失脚工作を開始した。5月10日に国会で突撃隊禁止命令を討議中にナチ党議員団はグレーナーに激しい罵倒を浴びせ、グレーナーを立往生させ、これによってグレーナーが国会討論に大敗北を喫したかのような印象を世間にもたらした。シュライヒャーはこれを利用して「グレーナーは病気」という噂を流して回り、恩師であるグレーナーに冷たく辞職を勧告した[26][27]。ヒンデンブルクやブリューニングにも見捨てられたグレーナーは5月13日に国防相辞職(内相には留任)に追いやられた[28]。
さらに東プロイセンの地主(ユンカー層が占める)が管理しきれない土地を失業者に分配するというブリューニングの政策にユンカーたちが「農業ボルシェヴィズム」と反発したのを機にシュライヒャーはヒンデンブルクにブリューニング解任を提案した。ヒンデンブルクはこれに同意し、5月29日にブリューニングを呼び出し、「今後は右翼政治を行うべし」「労働組合指導者層とは手を切るべし」「農業ボルシェヴィズムは根絶すべし」と命じた。事実上の辞職要求と感じたブリューニングは翌5月30日に総辞職した[29][30]。
パーペン内閣国防相
1932年5月26日にはシュライヒャーは次の首相としてフランツ・フォン・パーペンをベルリンに呼び寄せていた[31]。5月30日にブリューニング内閣が瓦解すると、シュライヒャーは、ヒンデンブルクにパーペンを後継の首相に推薦した。シュライヒャーが当時ほとんど無名だったパーペンを首相に推薦したのは、パーペンが無経験で外見ばかり気にする性格だっため、操り人形にし易しと判断したからという。「パーペンは人の上に立つ器ではない」という周囲の反対に対してシュライヒャーは「彼に人の上になど立たれては困るな。彼は帽子みたいなもんだ」と語ったという[32]。6月1日にパーペン内閣が成立し、シュライヒャーは退役して名誉階級歩兵大将の階級を与えられるとともに国防相として入閣した[30]。
パーペン内閣は貴族ばかりの内閣として国民の支持が皆無だった。ナチ党を除く全主要政党からパーペン内閣は攻撃に晒された。先のシュライヒャーとの約束によりナチ党のみがパーペン批判を控えていた[33]。シュライヒャーは、早速ナチ党取り込み工作を開始し、6月3日にヒトラーと面会して協力を要請したが、拒絶された[34]。
1932年7月31日に投票が行われた総選挙でナチ党が37.4%の得票率を得て230議席(改選前107議席)を獲得し、第一党に躍り出た[35]。シュライヒャーは8月5日にパーペンに独断でヒトラーと面会し、パーペン内閣に副首相として入閣するよう求めたが、ヒトラーは首相の地位を要求した[36][37][38]。シュライヒャーはヒトラーを首相にするようヒンデンブルクに取り計らう様になったが、ヒンデンブルクもパーペンもその意思はなかった。ヒンデンブルクはヒトラーを毛嫌いしていたし、パーペンはいくつかの閣僚職を提供することでナチ党を取りこむことができると未だに考えていた[39]。
社民党のオットー・ブラウンが首班を務めるプロイセン州政府を武力で解散させて政府支配下に置くことには成功したものの、パーペンの政治能力に疑問を持つようになる。11月6日に行われた総選挙では、ナチ党は共産党の起こしたストライキへの参加やブルジョア的なパーペン内閣への激しい攻撃などにより財界やナチ党員にかなり離反されていたため、選挙資金を確保できずに議席を大きく減らした。しかし第一党は確保した[40][41][42][43]。またナチ党以上に厄介な共産党が躍進してしまった。パーペンは再度ヒトラーに副首相就任を打診したが、やはり拒絶された[40]。
パーペンを見限ったシュライヒャーは、政党間交渉をしやすくするためとして後の交渉はヒンデンブルクに任せ、パーペンに内閣総辞職を求めた。11月17日にパーペン内閣は形式的に内閣総辞職して暫定事務処理内閣に移行した。しかしパーペンはいずれヒンデンブルクから再度組閣の命令が来ると信じていた[40][44][45]。11月18日から24日にかけてヒンデンブルクやマイスナーなど大統領府とヒトラーの交渉が行われたが、やはり平行線に終わった[46]。
12月1日午後6時、ヒンデンブルク大統領はパーペンとシュライヒャーを招集した。パーペンは数か月前から立てていた憲法違反のクーデタ計画をヒンデンブルクに提案した。国軍を出動させて議会を半年間停止し、その間に改憲を行って大統領権限を強化する計画であった。しかしパーペンを失脚させたがっていたシュライヒャーはこの計画に反対した。シュライヒャーは自分が首相に就任し、ナチ党の一部を取り込んで分裂を誘うべきと主張した[47]。ヒンデンブルクはパーペンを支持したが、シュライヒャーは頑として国軍のクーデタへの参加を拒否した[48]。
つづいて翌12月2日の閣議でシュライヒャーは「パーペンの下で政府を作ろうといういかなる試みも国を混乱に陥れるだけ。ナチスが内乱を起こせば国軍にそれを鎮圧することは不可能」としてパーペンに退陣を求めた[49]。閣僚はほとんどシュライヒャーを支持した[50]。パーペンは大統領府へ逃げ込み、ヒンデンブルクの支持を得ようとしたが、「ことここにいたってはシュライヒャーに任せよう」と言われたという[49][51][52]。こうして12月2日にクルト・フォン・シュライヒャーに組閣命令が下った[53]。
首相就任
1933年12月3日に首相に就任した[53]。シュライヒャー内閣は基本的にパーペン内閣と同じ顔触れだったが、パーペンを支持した内相ヴィルヘルム・フォン・ガイル男爵(de)は内閣から追放し、プロイセン州総督代理フランツ・ブラハト(de)を代わりの内相とした[54]。
首相に就任したばかりの12月3日のうちにナチ党組織全国指導者グレゴール・シュトラッサーと接近を図り、彼に副首相とプロイセン州首相の地位に就いてほしいと要請した[53][55]。ナチ党の選挙資金は枯渇しており、まともな選挙運動はほとんどできず、12月4日のチューリンゲン州州議会選挙では前回選挙と比べて40%もの得票を失うという大惨敗を喫した[55]。組織全国指導者シュトラッサーの元には離党届が次々と届いていた[56]。こうした情勢に焦っていたシュトラッサーは、12月5日と12月7日のベルリンのカイザーホーフ・ホテルでのナチ党指導者会議ですぐに入閣せねば党が瓦解すると主張した。しかし非妥協的なヒトラーはシュトラッサーを徹底的に非難・罵倒した。結局、シュトラッサーは党の役職を辞することとなり、シュライヒャーのナチ党分断策は失敗した[57]。
一方、パーペンは自分を失脚に追い込んだシュライヒャーへの復讐心に燃えて、ヒトラーと接近していた。1月4日にヒトラーとパーペンはシュライヒャー政権の打倒とそれに代わるヒトラー=パーペン政権の樹立で合意した[58]。その後もヒトラーとパーペンは1月18日と1月22日に会談を行った。1月22日の会談にはシュライヒャーの旧友オスカー・フォン・ヒンデンブルクや銀行家、さらに大統領府長官オットー・マイスナーも加わり、オスカーとマイスナーの説得でヒンデンブルク大統領はヒトラーへの嫌悪を和らげた[59]。さらに1月26日にはパーペンは国家人民党党首アルフレート・フーゲンベルクや鉄兜団団長フランツ・ゼルテと会談し、国家人民党や鉄兜団のヒトラー内閣への参加・協力の約束を取り付けた[60][61]。
こうした動きに気付いたシュライヒャーは、1月23日にヒンデンブルク大統領にナチ党分断策が失敗に終わったことを告げ、国会を解散して国家緊急事態を宣言し、ナチ党と共産党を禁止する事を求めた。しかしヒンデンブルクは12月1日にパーペンが同じことを提案したのを君が潰したはずだと言ってこれを拒否した。シュライヒャーはあの時とは状況は全く変わったなどと喚いたが、ヒンデンブルクは取り合わなかった[62]。彼はヒンデンブルクの自分への冷たい態度は首相辞任後も足繁く大統領のもとへ通っていたパーペンの入り知恵の仕業だと考えて、パーペンへの憎しみを募らせた[63]。
ついに1月28日、ヒンデンブルク大統領と会見したシュライヒャーは辞職を申し出て、ヒトラーを後継首相にするようヒンデンブルクに勧めた。ヒンデンブルクは「将軍、祖国に尽くした君の尽力に感謝する。では神のお力でこれからどうなるのか見てみようじゃないか」と答えた。それでもシュライヒャーは憎きパーペンが中枢となって活躍する政権だけは阻止しようと図り、1月29日に陸軍統帥部長クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルトをヒトラーの下へ派遣して、パーペンの胡散臭さを吹聴してナチ党のパーペン不信を煽り、またヒトラーに協力したい旨を申し出たが、パーペンと組んで政権を作る気であったヒトラーは曖昧に対応した[64][65]。
1月30日午前11時15分にアドルフ・ヒトラーが首相に任命され、ヒトラー内閣が成立した。パーペンはヒトラーに次ぐ副首相として入閣した。その直前、オイゲン・オットやフェルディナント・フォン・ブレドウといった軍部内のシュライヒャー派はクーデターを計画し、陸軍統帥部長ハンマーシュタイン=エクヴォルトも賛成したが、シュライヒャー本人が承認せず実行されなかった。シュライヒャーが弱気になっていたのは、当時シュライヒャーが貧血に苦しみ健康状態が優れなかったためという証言もある[66]。
粛清
首相退任後、国防省内にあった住居は、ナチスに近いヴェルナー・フォン・ブロンベルク新国防相からの申し入れにより手放さざるを得なくなった。引退を機にかつての上官で1932年に追い落としたグレーナー元国防相と和解し、夫人と共に長期の国内旅行に出かけた。シュライヒャーは公にヒトラー政権を批判し、友人たちから警告されたこともあった。かつての部下オット少将は危険を察知し、シュライヒャーに対してしばらく自分の赴任先である日本に滞在するよう要請したが、シュライヒャーは「プロイセンの将軍は祖国から逃げたりはしないものだ」と言ってこれを断った。
翌1934年6月30日、シュライヒャーは長いナイフの夜でシュトラッサーらと共に粛清される。彼は現役の陸軍将帥であり、しかも自宅で親衛隊員に殺害されたとき、夫人も巻き添えになっているにもかかわらず、国防軍はナチスに何の抗議もしなかった。捜査はポツダム警察署長ヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフの指令により停止された。事件の唯一の目撃者だった家政婦は翌年不審な溺死を遂げ、公式には自殺と発表された。
国防軍に影響力を保持していたシュライヒャーはナチスにとって危険な存在であり、またナチスの分裂を試みた彼をヒトラーは決して許さなかったのである[# 1]。ナチス党機関紙「フェルキッシャー・ベオバハター」は2年後に「1933年1月29日のシュライヒャーによるクーデター計画」という記事を掲載し、シュライヒャー粛清を正当化した。
キャリア
軍階級
- 1900年3月22日、少尉(Leutnant)[5]
- 1909年10月18日、中尉(Oberleutnant)[5]
- 1913年12月18日、大尉(Hauptmann)[5]
- 1918年7月15日、少佐(Major)[5]
- 1924年1月1日、中佐(Oberstleutnant)[5]
- 1926年3月1日、大佐(Oberst)[5]
- 1929年1月23日、少将(Generalmajor)[5]
- 1931年10月1日、中将(Generalleutnant)[5]
- 1932年6月1日、名誉階級歩兵大将(Charakter als General der Infanterie)[5]
勲章
注釈
- ^ ただし大統領府長官オットー・マイスナーの息子ハンス=オットー・マイスナーの回顧録によれば、ヒトラーはマイスナーに対しシュライヒャー殺害について遺憾の意を表明し、またヘルマン・ゲーリングも戦後ニュルンベルクの獄中でマイスナーに対し、シュライヒャー殺害を指示したのはヒトラーでも自分でもないと述べていたという。ゲーリングによれば、ヒトラーは自己の独裁確立のためむしろ軍部の支持を獲得しようと努めていたという[67]。
参考文献
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- ジョン・トーランド 著、永井淳 訳『アドルフ・ヒトラー 2(上記の文庫版)』集英社文庫、1990。ISBN 978-4087601817。
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- バリー・リーチ 著、戦史刊行会 訳『ドイツ参謀本部(上記の新装版)』原書房、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4562033843。
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- ヨアヒム・フェスト 著、赤羽竜夫 訳『ヒトラー〈下〉』河出書房新社、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ASIN B000J9D518。
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- ウィーラー・ベネット 著、山口定 訳『国防軍とヒトラー I 1918-1945 (上記の新装版)』みすず書房、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4622051077。
- ハンス・モムゼン(de) 著、関口宏道 訳『ヴァイマール共和国史―民主主義の崩壊とナチスの台頭』水声社、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4891764494。
出典
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外部リンク
- ドイツ歴史博物館経歴紹介