「ペルーの歴史」の版間の差分
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この項目では、'''[[ペルー|ペルー共和国]]の[[歴史]]'''について述べる。現在のペルーに相当する地域は[[先コロンブス期]]の[[アメリカ大陸]]で最も高度な文明が発達した地域であり、知られているものだけでも[[チャビン文化]]や[[ワリ文化]]、[[シカン文化]]、[[チムー文化]]などが考古学的に発掘されている。15世紀にそれらの諸文化を綜合する存在として現れたタワンティンスーユ、あるいは後世[[インカ帝国]]と呼ばれることになる[[国家]]は当時の地球上最大級の国家として繁栄した。1533年にタワンティンスーユが[[スペイン人]]の征服者、[[フランシスコ・ピサロ]]によって滅ぼされた後、[[スペイン]]の領土となった[[アンデス山脈]]一帯は[[ペルー副王領]]として再編され、[[リマ]]は[[南アメリカ]]の西半分を統括した副王領の中心地となったが、植民地時代を通して現在のペルーに相当する地域は徐々に周辺地域と比べた衰退が明らかになっていった。1821年に独立を宣言し、1824年に独立を達成したものの、その後も内政は安定せず、1879年から1883年まで続いた[[太平洋戦争 (南米)|太平洋戦争]]では[[チリ]]に敗北し、南部の領土を割譲した。20世紀に入ってからも内政は安定せず、経済的にも社会的にも[[低開発]]な状態に留まり、1968年の軍事クーデターによって成立した[[フアン・ベラスコ・アルバラード|ベラスコ]]将軍の軍事革命政権によって実施された一連の社会改革も、ペルー社会に肯定的な影響を及ぼすことはできなかった。1980年の民政移管後には深刻な社会不安と経済危機に見舞われ、[[左翼]][[ゲリラ]]と政府の間で[[ペルー内戦|内戦]]に陥っている。また、1941年からペルーは[[エクアドル]]と[[アマゾン川]]流域の低地を巡って数次に及ぶ国境紛争を繰り広げ、1998年に最終的にこの紛争に勝利して広大な領土を併合している。 |
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'''ペルーの歴史'''(ペルーのれきし)では、[[ペルー|ペルー共和国]]の[[歴史]]について述べる。 |
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== 先コロンブス期 == |
== 先コロンブス期 == |
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[[ファイル:Huari pottery 01.png|thumb|left|160px|ウアコ・ワリ]] |
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[[ファイル:Nazca colibri.jpg|thumb|left|320px|[[ナスカの地上絵]]。]] |
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1000B.C.頃~200B.C.頃、[[アンデス山脈]]全域に[[ネコ科]]動物や蛇、[[コンドル]]などを神格化した[[チャビン文化]]が繁栄する。その後、コスタ北部に[[モチェ文化]]がA.D.100頃~A.D.700頃、現[[トルヒーヨ]]市郊外に「太陽のワカ」「月のワカ」を築き、コスタ南部では、A.D.1頃~A.D.600頃に、信仰や農耕のための[[ナスカの地上絵|地上絵]]を描いた[[ナスカ文化]]が繁栄した。 |
1000B.C.頃~200B.C.頃、[[アンデス山脈]]全域に[[ネコ科]]動物や蛇、[[コンドル]]などを神格化した[[チャビン文化]]が繁栄する。その後、コスタ北部に[[モチェ文化]]がA.D.100頃~A.D.700頃、現[[トルヒーヨ]]市郊外に「太陽のワカ」「月のワカ」を築き、コスタ南部では、A.D.1頃~A.D.600頃に、信仰や農耕のための[[ナスカの地上絵|地上絵]]を描いた[[ナスカ文化]]が繁栄した。 |
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紀元800年ごろ、シエラ南部の[[アヤクーチョ盆地]]に[[ワリ文化]]が興隆した。[[ティワナク]]の宗教の影響を強く受けた文化であったと考えられ、[[土器]]や[[織物]]に地域色は見られるものの統一されたテーマが描かれること、いわゆるインカ道の先駆となる道路が整備されたこと、四辺形を組み合わせた幾何学的な都市の建設などからワリ帝国説が唱えられるほどアンデス全域にひろがりをみせ、1000年頃まで続いたと考えられる。コスタ北部のランバイエケ地方には、金やトゥンバガ製の豪華な仮面で知られる[[シカン文化]]がワリ文化の終わりごろに重なって興隆した。 |
紀元800年ごろ、シエラ南部の[[アヤクーチョ盆地]]に[[ワリ文化]]が興隆した。[[ティワナク]]の宗教の影響を強く受けた文化であったと考えられ、[[土器]]や[[織物]]に地域色は見られるものの統一されたテーマが描かれること、いわゆる[[インカ道]]の先駆となる道路が整備されたこと、四辺形を組み合わせた幾何学的な都市の建設などからワリ帝国説が唱えられるほどアンデス全域にひろがりをみせ、1000年頃まで続いたと考えられる。コスタ北部のランバイエケ地方には、金やトゥンバガ製の豪華な仮面で知られる[[シカン文化]]がワリ文化の終わりごろに重なって興隆した。 |
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その後、コスタ北部には[[チムー王国]]が建国され、勢力を拡大した。首都[[チャン・チャン]]の人口は25,000人を越え、王の代替わりごとに王宮が建設されたと思われる。 |
その後、コスタ北部には[[チムー王国]]が建国され、勢力を拡大した。首都[[チャン・チャン]]の人口は25,000人を越え、王の代替わりごとに王宮が建設されたと思われる。 |
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== タワンティンスーユの繁栄と滅亡(1438年 |
== タワンティンスーユの繁栄と滅亡(1438年-1533年) == |
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{{main|インカ帝国}} |
{{main|インカ帝国}} |
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[[ファイル:Pachacutec siglo XVI.jpg|thumb|180px|第九代インカ [[パチャクテク]]]] |
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[[ファイル:Pachacutec siglo XVI.jpg|thumb|180px|第9代インカ[[パチャクテク]]。]] |
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[[ファイル:Hp inka12.jpg|thumb|right|180px|[[クスコ]]の皇帝[[ワスカル]]。]] |
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15世紀になり[[クスコ]]周辺の南部の山岳地帯が、[[1438年]]に即位した[[ケチュア族]]の王[[パチャクテク]]によって軍事的に統一されると、以降は征服戦争を繰り広げて急速に勢力を拡大してきた、ケチュア族によるタワンティン・スウユ([[インカ帝国]])によってペルー、及び周辺のアンデス地域は統合される。 |
15世紀になり[[クスコ]]周辺の南部の山岳地帯が、[[1438年]]に即位した[[ケチュア族]]の王[[パチャクテク]]によって軍事的に統一されると、以降は征服戦争を繰り広げて急速に勢力を拡大してきた、ケチュア族によるタワンティン・スウユ([[インカ帝国]])によってペルー、及び周辺のアンデス地域は統合された。続く[[トゥパク・インカ・ユパンキ]]の代になると、チムー王国も1476年頃に征服されて、その支配体制に組み込まれた。続く[[ワイナ・カパック]]の征服によりアンデス北部にも進出し、アンデス北部最大の都市だった[[キト]]を征服することになる。またワイナ・カパックは[[マプーチェ族]]と戦って[[チリ]]の現[[サンティアゴ・デ・チレ]]周辺までと、[[アルゼンチン]]北西部を征服し、ユパンキの代から続いていた征服事業を完成させ、[[コリャスーユ]]の領域を拡大させると共にインカ帝国の最大版図を築いた。 |
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[[ファイル:Peru Machu Picchu Sunrise 2.jpg|thumb|left|220px|「インカ帝国の失われた都市」、[[マチュ・ピチュ]]。]] |
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続く[[トゥパク・インカ・ユパンキ]]の代になると、チムー王国も1476年頃に征服されて、その支配体制に組み込まれた。続く[[ワイナ・カパック]]の征服によりアンデス北部にも進出し、アンデス北部最大の都市だった[[キト]]を征服することになる。またワイナ・カパックは[[マプーチェ族]]と戦って[[チリ]]の現[[サンティアゴ・デ・チレ]]周辺までと、[[アルゼンチン]]北西部を征服し、ユパンキの代から続いていた征服事業を完成させ、[[コリャスーユ]]の領域を拡大させると共にインカ帝国の最大版図を築いた。 |
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[[ファイル:Peru Machu Picchu Sunrise 2.jpg|thumb|left|180px|「インカ帝国の失われた都市」[[マチュ・ピチュ]]]] |
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インカ帝国はクスコを首都とし、現ボリビアの[[アイマラ族]]の諸王国や、チリ北部から中部まで、[[キト]]をはじめとする現エクアドルの全域、現アルゼンチン北西部を征服し、その威勢は現[[コロンビア]]南部にまで轟いていた。インカ帝国は幾つかの点で非常に[[古代エジプト]]の諸王国に似ており、クスコの[[サパ・インカ]]を中心にして1200万人を越える人間が自活できるシステムが整えられていた。インカ帝国はそれまでのアンデス文明の集大成であり、文字を持たなかった文明であったものの、[[キープ (インカ)|キープ]]と呼ばれた縄によって数の管理がなされ、巨石建築には非常に高度な技術が用いられていた。 |
インカ帝国はクスコを首都とし、現ボリビアの[[アイマラ族]]の諸王国や、チリ北部から中部まで、[[キト]]をはじめとする現エクアドルの全域、現アルゼンチン北西部を征服し、その威勢は現[[コロンビア]]南部にまで轟いていた。インカ帝国は幾つかの点で非常に[[古代エジプト]]の諸王国に似ており、クスコの[[サパ・インカ]]を中心にして1200万人を越える人間が自活できるシステムが整えられていた。インカ帝国はそれまでのアンデス文明の集大成であり、文字を持たなかった文明であったものの、[[キープ (インカ)|キープ]]と呼ばれた縄によって数の管理がなされ、巨石建築には非常に高度な技術が用いられていた。 |
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帝国は16世紀初め頃まで栄えていたが、1492年に[[ジェノヴァ]]人の航海者[[クリストバル・コロン]]がアメリカ大陸に到達し、[[パナマ地峡]]が1501年にスペイン人の[[ロドリーゴ・デ・バスティーダス]]によって征服されると、パナマ地峡から南にもたらされたヨーロッパの疫病が帝国内でも流行し、ワイナ・カパックがこの疫病によって病死した。その後帝位継承などの重大な問題を巡って[[キト]]派の[[アタワルパ]]と、[[クスコ]]派の[[ワスカル]]の二人の皇子の間で激しい内戦が繰り広げられた。 |
帝国は16世紀初め頃まで栄えていたが、1492年に[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]人の航海者[[クリストーバル・コロン]]がアメリカ大陸に到達し、[[パナマ地峡]]が1501年にスペイン人の[[ロドリーゴ・デ・バスティーダス]]によって征服されると、パナマ地峡から南にもたらされたヨーロッパの疫病が帝国内でも流行し、ワイナ・カパックがこの疫病によって病死した。その後帝位継承などの重大な問題を巡って[[キト]]派の[[アタワルパ]]と、[[クスコ]]派の[[ワスカル]]の二人の皇子の間で激しい内戦が繰り広げられた。 |
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内戦はアタワルパの勝利に終わったが、内戦の疲弊の |
内戦はアタワルパの勝利に終わったが、内戦の疲弊の最中に、[[パナマ市]]から南米大陸の[[太平洋]]側を南下して遠征してきた[[フランシスコ・ピサロ]]率いる[[スペイン人]]が、コスタ北部の旧チムー王国の領域に上陸した。ピサロは偵察後、すぐに[[スペイン]]に戻って国王[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カルロス1世]]に自らをペルー総督に任命させ、インカ帝国を侵略することを決めた<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:83)]]</ref>。1531年1月に180人の[[コンキスタドール|征服者]]達がパナマを出帆した。 |
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[[イタリア戦争]]で少数部隊戦闘の経験を積んでいた征服者達は[[1532年]][[11月16日]]に[[カハマルカの戦い]]で第13代皇帝アタワルパを捕らえ、莫大な身代金を取った後に絞首刑にした。スペイン人は[[1533年]]11月15日にクスコを征服し、アンデスを支配していた帝国としてのインカ帝国は崩壊した。ピサロは1534年にスペイン式の都市としてクスコ市と[[リマ]]市を建設すると、以降このコスタの都市が、それまで繁栄していたクスコに代わってペルーの中心とな |
[[イタリア戦争]]で少数部隊戦闘の経験を積んでいた征服者達は[[1532年]][[11月16日]]に[[カハマルカの戦い]]で第13代皇帝アタワルパを捕らえ、莫大な身代金を取った後に絞首刑にした<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:84-87)]]</ref>。スペイン人は[[1533年]][[11月15日]]にクスコを征服し、アンデスを支配していた帝国としてのインカ帝国は崩壊した。ピサロは1534年にスペイン式の都市としてクスコ市と[[リマ]]市を建設すると、以降このコスタの都市が、それまで繁栄していたクスコに代わってペルーの中心となった<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:88)]]</ref>。征服以後南北アメリカ大陸の住民は、スペイン人によって[[インディオ]](当時のスペイン語で「インド人」の意)と呼ばれるようになった。 |
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== ペルーの征服とビルカバンバのインカ政権(1533年 |
== ペルーの征服とビルカバンバのインカ政権(1533年-1572年) == |
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{{See also|スペインによるアメリカ大陸の植民地化}} |
{{See also|スペインによるアメリカ大陸の植民地化}} |
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[[ファイル:IncaTupacAmaru.gif|thumb|180px|最後のインカ |
[[ファイル:IncaTupacAmaru.gif|thumb|180px|最後のインカ、[[トゥパク・アマル (初代)|トゥパク・アマルー]]。1572年の彼の処刑によってインカ帝国は完全に滅亡したが、現在もペルー人の精神の中に自らの歴史として残り続けている。]] |
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ピサロは旧ワスカル派の[[マンコ2世]]をインカ皇帝の位に就けたが、マンコ2世はスペインの傀儡であることを良しとせずにクスコを脱出してインカ人を動員し、街を包囲 |
ピサロは旧ワスカル派の[[マンコ・インカ・ユパンキ|マンコ2世]]をインカ皇帝の位に就けたが、マンコ2世はスペインの傀儡であることを良しとせずにクスコを脱出してインカ人を動員し、街を包囲した<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:89)]]</ref>。しかし、農繁期が来たために包囲は解かれ、折しも成果をあげることなく[[チリ]]遠征から帰還した[[ディエゴ・デ・アルマグロ]]によって、クスコは再征服されたのであった<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:89-90)]]</ref>。クスコは1538年にフランシスコ・ピサロの異母弟の[[エルナンド・ピサロ]]によって攻略され、アルマグロは処刑された<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:90)]]</ref>。この事件がきっかけとなり、フランシスコ・ピサロはアルマグロ派によって暗殺されたが、新総督の[[バカ・デ・カストロ]]が派遣され、アルマグロ派のスペイン国王への反逆罪を理由に総督バカがピサロ派についたために、国王を味方に得たピサロ派はアルマグロ派を打ち破り、ペルーの支配権を確立したかに見えた<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:90-91)]]</ref>。しかし、国王カルロス1世が1542年に[[エンコミエンダ]]を一代限りの財産にすることを定めた[[インディアス新法]]を制定したがために、財産を奪われることを恐れたピサロ派は[[ゴンサロ・ピサロ]]を擁立して、国王に対する反乱を起こした<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:66)]]</ref><ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:91)]]</ref>。反乱は成功したかに思われたが、新総督ガスカはエンコミエンダの保障を取引材料にしてピサロ派を切り崩し、ゴンサロ・ピサロを破った<ref name=hosoyahencho2004.92>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:92)]]</ref>。それまでスペイン人征服者のエンコミエンダはピサロによって与えられたものであったが、この抗争の解決にあたって1549年にエンコミエンダの再配分が王権によってなされたことにより、ペルーにおけるスペイン王権の支配が確立した<ref name=hosoyahencho2004.92/>。 |
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一方、クスコ包囲を解いたマンコ2世は[[オリャンタイタンボ]]に撤退し、そこに新たなインカ政権を築いたが、マンコ2世はスペイン人との戦いのためにさらに奥地の[[ビルカバンバ]]に撤退した<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:93)]]</ref>。マンコ2世は1545年に死去し、その後ビルカバンバ政権とスペイン人との間では宥和政策が続いたが、1571年に即位した[[トゥパク・アマル (初代)|トゥパク・アマルー]]は主戦論を採り、当時のペルー副王[[フランシスコ・デ・トレド]]も同様だったがために、スペイン人に敗れて捕らえられたトゥパク・アマルーは1572年9月24日にクスコの広場で斬首され、インカ帝国はその歴史の幕を閉じた<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:60)]]</ref><ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:94-96)]]</ref>。 |
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このことがきっかけとなり、フランシスコ・ピサロはアルマグロ派によって暗殺されたが、新総督の[[バカ・デ・カストロ]]が派遣され、バカがピサロ派についたためにピサロ派はアルマグロ派を打ち破った。しかし、カルロス1世が1542年に[[エンコミエンダ]]を一代限りの財産にするという布告を出したがために、ピサロ派は[[ゴンサロ・ピサロ]]を擁立して反乱を起こした。反乱は成功したかに思えたが、新総督ガスカはエンコミエンダの保障を取引材料にしてピサロ派を切り崩し、ゴンサロ・ピサロを破った。1549年にエンコミエンダの再配分が王権によってなされたことにより、ペルーにおけるスペイン王権の支配は確立した。 |
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== スペイン植民地時代(1542年-1824年) == |
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一方、クスコ包囲を解いたマンコ2世は[[オリャイタイタンボ]]に撤退し、そこに新たなインカ政権を築いたが、マンコはスペイン人との戦いのためにさらに奥地のビルカバンバに撤退した。マンコ2世は1545年に死去し、その後はスペイン人との宥和政策が続くが、1571年に即位した[[トゥパク・アマル (初代)|トゥパク・アマルー]]は主戦論を採り、ペルー副王[[フランシスコ・デ・トレド]]も主戦論を採ったために、1572年にトゥパク・アマルーはスペイン人に捕らえられて処刑され、インカ帝国はその歴史の幕を閉じた。 |
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[[ファイル:Theviceroyaltyofperu.png|thumb|360px|[[ペルー副王領]]の領域変遷図。]] |
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[[ファイル:Francisco de Toledo.JPG|thumb|260px|[[ペルー副王領]]の[[官僚制|官僚機構]]を整備した第五代副王、[[フランシスコ・デ・トレド]]。]] |
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スペイン植民地下のペルーには、1542年に[[ペルー副王領]]{{#tag:ref|最初期のペルー副王領は現在のペルーのみならず、[[ポルトガル領ブラジル]]以外の[[パナマ]]より南の[[南アメリカ]]全体を統括していた<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:7)]]</ref>。|group=註釈}}が設立され、[[行政]]の中心地は[[アンデス山脈]]中のクスコから、[[太平洋]]沿岸の[[リマ]]に移された。リマはスペインの南アメリカ支配の本拠地として栄え、1550年には[[サン・マルコス大学]]が建設された。征服の時代には[[エンコミエンダ]]を割り当てられた征服者(エンコメンデーロ)による気ままな支配が行われていたが、[[アルト・ペルー]]がスペイン王の植民地としての制度を整えた頃から、エンコメンデーロを排斥するため、国王によって任命された任期5年の[[コレヒドール (官職)|コレヒドール]](地方行政官)と、コレヒドールによって使役されるインディオの[[カシーケ]](首長)による支配体制が確立された<ref>[[#眞鍋編著(2006)|眞鍋編著(2006:216)]]</ref>。しかし、コレヒドールの給与は生活を送るには低すぎたために、多くのコレヒドールは[[レパルティミエント]](商品強制分配)を利用してインディオに商品を不当な価格で売買し、私財を蓄えることを常とした<ref name=manabehencho2006.216-218>[[#眞鍋編著(2006)|眞鍋編著(2006:216-218)]]</ref>。このことはインディオの怨嗟を招くと同時に植民地行政の腐敗の温床となった。植民地時代を通してコレヒドールはレパルティミエントによる搾取のみならず、[[ミタ制]]と呼ばれるカシーケを通じたインディオ共同体への賦役、貢納を要請し、特に3世紀の間に800万人の死者を出した[[ポトシ]]銀山をはじめとする鉱山でのミタは、多くのインディオ共同体に甚大な被害を与えた<ref>[[#ガレアーノ/大久保訳(1986)|ガレアーノ/大久保訳(1986:99-102)]]</ref><ref name=manabehencho2006.216-218/>。[[コレヒドール (官職)|コレヒドール制]]や[[ミタ制]]の導入といった植民地支配のための[[官僚制|官僚機構]]の整備は、1569年から1581年まで着任したペルー副王[[フランシスコ・デ・トレド]]の統治によって完成した<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:71-72)]]</ref>。アメリカ大陸の住民の征服と、それに伴う数多の犯罪行為を思想的に正当化するために、[[キリスト教]][[カトリック教会]]がスペインの精神的な支柱の役割を果たしたため、1546年にはリマに[[大司教座]]が設置され、[[ドミニコ会]]、[[フランシスコ会]]、[[メルセー会]]、[[イエズス会]]などの修道会がインディオへのカトリックの布教を大々的に進めた<ref>[[#ガレアーノ/大久保訳(1986)|ガレアーノ/大久保訳(1986:102-105)]]</ref><ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:67-70)]]</ref>。この他にもトレドはインディオを強制集住させて[[レドゥクシオン]]と呼ばれる人口村落を各地に築きあげたが、レドゥクシオン政策は早期に失敗し、流浪するインディオが現れるようになった<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:104-109)]]</ref>。 |
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== スペイン植民地時代(1542年~1824年) == |
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[[ファイル:Tupac amaru ii 01.png|thumb|180px|「農民よ、地主は二度とあなたの貧しさを食いものにはしない」-ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ、あるいは [[トゥパク・アマルー2世]]]] |
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[[ポトシ]]鉱山は1545年に現[[ボリビア|ボリビア多民族国]]の南部に当たる地域に発見されたが、その豊富な[[銀]]を採掘するために副王トレドの改革によって定められた[[ミタ制]]により、多くのインディオが[[ティティカカ湖]]周辺やクスコから集められ、[[奴隷]]労働に従事させられた。インディオはこの鉱山のミタを恐れ、共同体を離脱するなどの手段によってミタを逃れるものも少なくなった<ref>[[#眞鍋編著(2006)|眞鍋編著(2006:226-227)]]</ref>。トレドは1572年に[[水銀アマルガム法]]を導入して銀生産量を上げ、インディオの過酷な労働によって採掘された[[南アメリカ]]原産の銀は、戦争によって逼迫した[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]期のスペインの財政を大いに助けた<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:72-73)]]</ref><ref>[[#立石編(2000)|立石編(2000:157-161)]]</ref>。ポトシ銀山での強制労働によってどれだけの人口減があったかは定かではないが、一説には3世紀で800万人が命を落としたとも主張され<ref>[[#ガレアーノ/大久保訳(1986)|ガレアーノ/大久保訳(1986:88)]]</ref>、少なくともインカ帝国時代に1000万人を越えていた人口が、1570年に274万人にまで落ち込み、1796年のペルーでは108万人になったとの[[H.F.ドビンズ]]の推計が存在する<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:13)]]</ref>{{#tag:ref|ドビンズの推計値は[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:13)]]からの孫引きであることを明記しておく。|group=註釈}}。ポトシの富は人間を集め、16世紀中に人口16万人を擁する、当時の[[ロンドン]]よりも大きい[[西半球]]最大の都市となった<ref>[[#眞鍋編著(2006)|眞鍋編著(2006:226)]]</ref>。こうして採掘された銀は一通り副王領を循環して銀を中心とした植民地経済の形成が行われた後に、[[パナマ]]や[[カルタヘナ・デ・インディアス]]を通してスペインに送られ、スペイン国内での産業を産み出すことなく、王室や貴族の間での浪費やカトリック信仰防衛のための対外戦争の戦費のために使われた<ref>[[#ガレアーノ/大久保訳(1986)|ガレアーノ/大久保訳(1986:74-82)]]</ref><ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:75-76)]]</ref>。このようにしてスペインに流出した銀は、スペインから[[オランダ]]、[[イングランド]]、[[フランス]]などに流出し、ヨーロッパの[[価格革命]]を支える原動力となった。更にこの銀は[[ヌエバ・エスパーニャ副王領]](現在の[[メキシコ]])にまで流入し、メキシコ商人が主導したメキシコの[[アカプルコ]]と[[フィリピン]]の[[マニラ]]を結ぶ[[ガレオン貿易]]に際して、[[清]]([[中国]])の製品を購入して[[イスパノアメリカ]]にもたらすために決済され、結果的に[[アジア]]にまで流出していたのである<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:76-78)]]</ref>。 |
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スペイン植民地下のペルーでは、1542年に[[ペルー副王領]](最初期は南アメリカ全体を統括していた)が設立され、首都は太平洋沿岸の[[リマ]]に移された。リマはスペインの南アメリカ支配の本拠地として栄え、1550年には[[サン・マルコス大学]]が建設された。金銀などの鉱物の搾取が宗主国[[スペイン]]によって行われた。征服の初期はエンコミエンダを割り当てられた征服者(エンコメンデーロ)による気ままな支配が行われていたが、アルト・ペルーがスペイン王の植民地としての制度を整えたころから王によって任命された[[コレヒドール (官職)|コレヒドール]](地方行政官)と、コレヒドールによって使役されるインディオの[[カシーケ]](首長)による支配体制が確立した。コレヒドールの給与は生活を送るには低すぎたために、多くのコレヒドールは[[レパルティミエント]](商品強制分配)を利用してインディオに商品を不当な価格で売買し、私財を蓄えた。このことはインディオの怨嗟を招くと同時に植民地行政の腐敗の温床となった。植民地時代を通してコレヒドールはカシーケを通してインディオ共同体に多くの賦役、貢納を要請し、特に鉱山でのミタは多くのインディオに恐れられた。エンコミエンダ制や[[ミタ制]]といった植民地支配のための制度の整備は1569年から1581年まで着任したペルー副王[[フランシスコ・デ・トレド]]の統治によって完成した。インディオへのカトリックの布教も大々的に進められ、1568年には[[イエズス会]]がペルー入りした。 |
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[[ファイル:El Inca Garcilaso de la Vega.gif|thumb|left|220px|『[[インカ皇統記]]』の著者、[[インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ]]。]] |
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[[ポトシ]]鉱山は1545年に現[[ボリビア]]共和国の南部に当たる地域に発見されたが、その豊富な銀を採掘するためにトレドの改革によって定められた[[ミタ制]]によって[[ティティカカ湖]]周辺やクスコから集められ、酷使された。トレドは1572年に[[水銀アマルガム法]]を導入して銀生産量を上げた。採掘のために酷使された先住民の多くは苦役の末に死亡し、その数は100万人とも言われる。どれだけの人口減があったかは定かではないが、少なくともインカ帝国時代に1000万を越えていた人口が1570年に274万人にまで落ち込み、1796年のペルーでは108万人になったといえば(数字はH.F.ドビンズの推計による) |
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物流の進展に伴って人の移動もまた加速した。農業では[[アシエンダ制]]が発展し、教会や一般スペイン人に土地を奪われたインディオは、農園でも奴隷労働力として酷使された<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:79-80)]]</ref>。[[アフリカ]]からも[[黒人]][[奴隷]]が導入され、黒人奴隷は海岸地方(コスタ)の[[砂糖]][[プランテーション]]の労働力となった<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:81)]]</ref>。こうした複雑な要因が積み重なった結果、18世紀までにペルーでも多くのラテンアメリカ諸国と同様に[[クリオーリョ]](現地生まれの白人)が大多数のインディオ、[[メスティーソ]]、黒人を支配するピラミッド構造の上に、[[ペニンスラール]](本国から派遣されたスペイン人)の役人が君臨する社会体制が築かれた。そしてこのような植民地支配に対して、インディオやメスティーソや一部のクリオーリョは、インカ王権にアイデンティティを求めて反乱を繰り返した<ref name=shinhankakkokushi26.119-123>[[#増田編(2000)|増田編(2000:119-123)]]</ref>。1730年の[[コチャバンバ]]での[[アレホ・カラタユー]]の反乱、1739年の[[オルロ]]でのインカ王の子孫を名乗ったクリオーリョの[[フアン・ベレス・デ・コルドバ]]の反乱、1742年のアンデス山脈東嶺[[セルバ]]での[[フアン・サントス・アタワルパ]]の反乱などが主なものであり、これらの反乱はいずれも鎮圧されたが、[[トゥパク・アマルー2世]]の大反乱の先駆となった<ref name=shinhankakkokushi26.119-123/>。これらの反乱の背景には、17世紀にインカ皇帝の子孫だったメスティーソの[[インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ]]の著書、『[[インカ皇統記]]』によって神聖化されたインカ王権のイメージの影響があったとされており、「[[インカ・ナショナリズム]]」と名付けられるこの思想潮流は白人をも含む多くの現地エリートを惹きつけていた<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:125-126)]]</ref>。 |
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<ref>増田義郎・柳田利夫(著)『ペルー 太平洋とアンデスの国 近代史と日系社会』中央公論新社 p.13</ref>、その凄まじさが理解できるであろう。ポトシの富は人間を集め、16世紀中に人口16万人を擁する、当時の[[ロンドン]]よりも大きい[[西半球]]最大の都市となった。こうして採掘された銀は一端副王領を循環し、銀を中止とした植民地経済の形成が行われた後に[[パナマ]]や[[カルタヘナ・デ・インディアス]]を通してスペインに送られ、スペイン王室や貴族の奢侈によって浪費された。このようにしてスペインに流出した銀は、スペインから[[オランダ]]、[[イングランド]]、[[フランス]]などに流出し、ヨーロッパの[[価格革命]]、[[商業革命]]を支える原動力となった。更にこの銀は[[ヌエバ・エスパーニャ副王領]]にまで流入し、[[メキシコ]]商人により、[[アカプルコ]]と[[フィリピン]]の[[マニラ]]を結ぶ[[ガレオン貿易]]によって[[アジア]]の[[清]]の製品を購入し、イスパノアメリカにもたらすために決済された。つまり、ペルー・ボリビアの銀はアジアにまで流出していたのである。インディオはこの鉱山のミタを恐れ、共同体を離脱するなどの手段によってミタを逃れるものも少なくなった。鉱山労働による酷使の他にもインディオは[[カトリック教会]]による改宗政策のために、それまで保っていた[[パチャママ]]や[[インティ]]への信仰が迫害され、アイデンティティを大きく揺るがせることとなった。また、農業では[[アシエンダ制]](ケチュア語ではチャカラとも呼ばれた)が発展し、インディオは農園でも奴隷労働力として酷使された。[[アフリカ]]からも[[黒人]][[奴隷]]が導入され、コスタのプランテーションの労働力となった。 |
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[[ファイル:Torre Tagle Lima.jpg|thumb|220px|18世紀に建設された[[リマ]]の[[トーレ・タグレ宮殿]]。]] |
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このような植民地時代の複雑な過程により、18世紀までにペルーでも多くのラテンアメリカ諸国と同様に[[クリオージョ]](現地生まれの白人)が大多数のインディオ、[[メスティーソ]]、黒人を支配するピラミッド構造の上に、[[ペニンスラール]](本国から派遣されたスペイン人)の役人が君臨する社会体制が築かれた。そしてこのような植民地支配に対して、インディオやメスティーソやクリオージョはインカ王権にアイデンティティを求めて反乱を繰り返した。1730年には[[コチャバンバ]]で[[アレホ・カラタユー]]が反乱を起こし、1739年には[[オルロ]]でインカ王の子孫を名乗ったクリオージョの[[フアン・ベレス・デ・コルドバ]]がインディオやメスティーソを動員して反乱を起こした。1742年にはアンデス山脈東嶺の[[セルバ]]で[[フアン・サントス・アタワルパ]]が反乱を起こした。これらの反乱はいずれも鎮圧されたが、やがてペルーのトゥパク・アマルー2世の反乱に繋がることになった。これらの反乱の背景には17世紀にインカ皇帝の子孫だったメスティーソの[[インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベガ]]によって著された『インカ皇統記』によって神聖化されたインカ王権のイメージの影響があったとされている。<ref>増田義郎(編)『新版世界各国史26 ラテンアメリカ史II』山川出版社 p.125</ref> |
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1717年にペルー副王領から[[ボゴタ]]を主都に[[パナマ市|パナマ]]、[[カラカス]]、[[キト]]を含む地域が、[[イギリス]]の攻撃に備えることを目的に[[ヌエバ・グラナダ副王領]]として分離された<ref name=sekaigendaishi34.26-27>[[#中川、松下、遅野井(1985)|中川、松下、遅野井(1985:26-27)]]</ref>。ヌエバ・グラナダ副王領は一旦廃止されたものの、1739年に復活した<ref name=sekaigendaishi34.26-27/>。ペルーの衰退は、それまで貿易特権により、リマ商人と[[パナマ地峡]]を経由してヨーロッパとの貿易を行う必要があった[[ブエノスアイレス]]や[[チリ]]、[[ベネズエラ]]などのペルー副王領内の周辺的な地域が、ヨーロッパとの直接交易が可能になった1748年以降相対的に進行して行った<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:85-89)]]</ref>。植民地時代のリマでは都市文化が栄えており、特に1761年から1776年まで着任した副王アマトはリマの市街地整備や演劇の振興に尽力した<ref>[[#眞鍋編著(2006)|眞鍋編著(2006:102-105)]]</ref>。 |
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[[ファイル:Tupac amaru ii 01.png|thumb|left|260px|「農民よ、地主は二度とあなたの貧しさを食いものにはしない」 - ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ、あるいは[[トゥパク・アマルー2世]]。]] |
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1761年から1776年まで着任した副王アマトはリマの市街地整備や演劇の振興に尽力した。1759年に即位したスペイン王[[カルロス3世 (スペイン王)|カルロス3世]]は衰退を迎えていた[[スペイン帝国]]の復興のために、1776年に[[ボルボン改革]]を行い、その一環として植民地の再編を図った。1776年にはポルトガル領ブラジルからラ・プラタ地域(現在の[[アルゼンチン]]・[[ウルグアイ]]・[[パラグアイ]])を防衛するために[[リオ・デ・ラ・プラタ副王領]]がペルー副王領から分離され、リオ・デ・ラ・プラタ副王領には[[アルト・ペルー]]もが編入された。リオ・デ・ラ・プラタ副王領は以降[[リマ]]を介さずに、副王領の首都となった[[ブエノスアイレス]]から直接ヨーロッパと貿易を行うことになる。その他にも新税の導入やレパルティミエントの腐敗を一掃するためにコレヒドール制に代わって[[インテンデンテ]]制が導入されたが、ペニンスラールを中心に据えた改革はクリオージョからインディオまで多くの植民地人に大きな不満をもたらした。このような状況の中で1780年、[[インディヘナ]]や[[メスティーソ]]は、白人支配層に対する反抗と[[スペイン王]]への忠誠を名目に、[[トゥパク・アマル (初代)|トゥパク・アマルー]]の子孫だった[[ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ|トゥパク・アマルー2世]]を首謀者にした反乱を起こした。この反乱は当初は白人も含んだ大衆反乱だったが、次第に反乱軍がスペイン王治下の改革からインカ帝国の復興に目標を変えて、白人に対する暴行、殺害が相次ぐようになると、当初協力的だった白人の支持も次第に失った。トゥパク・アマルー2世も部下の裏切りにより捕らえられ、先祖と同様にクスコの広場で処刑された。1781年にはアルト・ペルーでトゥパク・アマルー2世に呼応した[[トゥパク・カタリ]](フリアン・アパサ)が反乱を起こし、二度に渡って[[ラパス]]を包囲したが、白人層やカトリック教会への苛烈な態度によって彼等の支持を得ることができず、カシーケの支持もなかったために同年捕えられて処刑された。 |
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1759年に即位したスペイン王[[カルロス3世 (スペイン王)|カルロス3世]]は衰退を迎えていた[[スペイン帝国]]の復興のために、1776年に[[ボルボン改革]]を実施し、その一環として植民地の再編を図った。1776年には[[ポルトガル領ブラジル]]からラ・プラタ地域(現在の[[アルゼンチン]]・[[ウルグアイ]]・[[パラグアイ]])を防衛するために[[リオ・デ・ラ・プラタ副王領]]がペルー副王領から分離され、リオ・デ・ラ・プラタ副王領には[[アルト・ペルー]]もが編入された<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:89-90)]]</ref>。リオ・デ・ラ・プラタ副王領は以降[[リマ]]を介さずに、副王領の主都となった[[ブエノスアイレス]]から直接ヨーロッパと貿易を行うようになった。その他にも新税の導入や、レパルティミエントの腐敗を一掃するためにコレヒドール制に代わって[[インテンデンテ]]制が導入されたが、ペニンスラールを中心に据えた改革はクリオーリョからインディオまで多くの植民地人に大きな不満をもたらした<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:90-91)]]</ref>。植民地人がボルボン改革に不満を抱く中、1780年に[[トゥパク・アマル (初代)|トゥパク・アマルー]]の子孫だった運送業者の[[ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ]]はトゥパク・アマルー2世を名乗り、[[インディオ]]や[[メスティーソ]]を動員してクリオーリョ支配層に対する反抗と[[スペイン王]]への忠誠を名目に反乱を起こした<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:109-110)]]</ref>。ホセ・ガブリエル・コンドルカンキはミタ制、レパルティミエント、ボルボン改革による新税の廃止などを掲げており、当初反乱は白人も含んだ大衆反乱だったが、次第に貧困層のインディオを主体とした反乱軍がスペイン王治下の改革から理想化されたインカ帝国の復興に目標を変え、その過程の中で白人に対する暴行、殺害が相次ぐようになると、当初協力的だった白人の支持も次第に失い、トゥパク・アマルー2世は部下の裏切りにより捕らえられ、先祖と同様にクスコの広場で処刑された<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:127-128)]]</ref>。1781年にはアルト・ペルーでもトゥパク・アマルー2世に呼応した[[トゥパク・カタリ]]が反乱を起こし、二度に渡って[[ラパス]]を包囲したが、白人層やカトリック教会への苛烈な態度によって彼等の支持を得ることができず、カシーケの支持もなかったために同年捕えられて処刑された<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:128-129)]]</ref>。 |
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== 独立戦争(1810年 |
== 独立戦争(1810年-1824年) == |
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{{See also|近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立}} |
{{See also|近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立}} |
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[[ファイル:Smartin.JPG|thumb| |
[[ファイル:Smartin.JPG|thumb|180px|right|アルゼンチン、チリ、ペルーの[[リベルタドーレス|解放者]]、[[ホセ・デ・サン=マルティン]]。]] |
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[[ファイル:Simón_Bolívar_2.jpg|right|thumb| |
[[ファイル:Simón_Bolívar_2.jpg|right|thumb|180px|アメリカ大陸の[[リベルタドーレス|解放者]]、[[シモン・ボリーバル]]。]] |
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19世紀に入り、[[ナポレオン戦争]]による[[ヨーロッパ]]での政変によって、スペイン本国で[[フランス帝国]]軍の軍事力を背景に[[フェルナンド7世 (スペイン王)|フェルナンド7世]]が廃位され、皇帝[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の兄の[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ]]がホセ1世として国王に即位すると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否し、[[キト]]、[[ラパス]]、[[カラカス]]、[[ブエノスアイレス]]、[[ボゴタ]]、[[サンティアゴ・デ・チレ]]など各地でクリオーリョによる自治運動が進んだ<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:183-192)]]</ref>。しかしペルーでは、ペルーのクリオーリョが、インディオ大衆による社会革命と化したトゥパク・アマルー2世の反乱の恐怖を忘れることが出来なかったために自治運動は進展しなかった<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:192-193)]]</ref>。この情勢を幸いとしてペルー副王[[フェルナンド・アバスカル]]は、自治派クリオーリョが実権を握っていた[[アルト・ペルー]]の[[ラパス]]、[[キト]]、チリの[[サンティアゴ・デ・チレ]]に遠征軍を送り、在地のクリオーリョの自治政府を鎮圧した<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:112)]]</ref>。[[ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョ]]の反乱が鎮圧された後、アルト・ペルーは再びリオ・デ・ラ・プラタ副王領からペルー副王領に編入され、[[1810年]][[5月25日]]の[[五月革命 (アルゼンチン)|五月革命]]によって[[ポルテーニョ]]が自治政府を樹立したブエノスアイレスは、[[マヌエル・ベルグラーノ]]将軍を差し向けてアルト・ペルーを解放しようとしたが、アバスカルはこの解放軍による攻撃をも乗り切った。1814年にクスコから[[マテオ・ガルシア・プマカワ]]が蜂起し、しばらくシエラの主要部を占領したが、プマカワも敗れ<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:112)]]</ref>、ペルーは外来勢力の二人の英雄に解放される形で独立を果たすことになった。 |
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19世紀初めの[[ナポレオン戦争]]による[[ヨーロッパ]]での政変により[[1808年]]に[[半島戦争]]が始まり、スペイン本国に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の[[フランス軍]]が侵入して兄の[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ]]を国王に据えると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。 |
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[[ファイル:La_Independencia_del_Perú.jpg|260px|thumb|left|[[ホセ・デ・サン=マルティン]]の独立宣言(1821年)。]] |
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しかし、ペルーでは[[1809年]]に[[キト]]や[[ラパス]]で、あるいは1810年から[[カラカス]]や[[ブエノスアイレス]]や[[サンタフェ・デ・ボゴタ]]や[[サンティアゴ・デ・チレ]]で繰り広げられた[[クリオーリョ]]による独立運動は、ペルーのクリオージョがインディヘナによるトゥパク・アマルー2世の反乱の恐怖を忘れることが出来なかったために進展しなかった。この情勢を幸いとしてペルー副王[[フェルナンド・アバスカル]]は、[[アルト・ペルー]]のラパス、エクアドルのキト、チリのサンティアゴに遠征軍を送り、在地のクリオーリョの自治政府を鎮圧した。[[ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョ]]の反乱が鎮圧されるとアルト・ペルーは再びリオ・デ・ラ・プラタ副王領からペルー副王領に編入され、[[1810年]][[5月25日]]の[[五月革命 (アルゼンチン)|五月革命]]によって[[ポルテーニョ]]が自治政府を樹立したブエノスアイレスが[[マヌエル・ベルグラーノ]]将軍を差し向けてアルト・ペルーを解放しようとしたが、アバスカルはこの解放軍による攻撃をも乗り切った。 |
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1816年に独立した[[リオ・デ・ラ・プラタ連合州]](現在のアルゼンチン)はペルーからスペイン軍を追い出すことが自国の独立を保証すると考え、[[ホセ・デ・サン=マルティン]]将軍はこの構想の下にまずアンデスを越えてチリを解放し、チリから海路でリマを攻略することを決定した。サン=マルティン率いる解放軍がリマを解放すると、[[1821年]]7月28日にペルーはサン=マルティンの指導の下で独立を宣言したが、副王政府は植民地支配に固執し、シエラに逃れて抵抗を続けた。しかし、間もなくサン=マルティンのペルー統治がリマ寡頭支配層間の内紛で行き詰ったため、[[1822年]]7月26日にサン=マルティンは、北の[[ベネズエラ]]から[[大コロンビア|コロンビア共和国]]の解放軍を率いた[[リベルタドーレス|解放者]][[シモン・ボリーバル]]と[[グアヤキル]]で会談し、この会談によってボリーバルはサン=マルティンからペルー、アルト・ペルーの解放戦争を引き継いだ。1824年8月6日に[[フニンの戦い]]でボリーバルはスペイン軍に勝利すると、ボリーバルはリマを再々解放し、一方分遣隊を率いた[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]が12月9日に[[アヤクーチョの戦い]]でペルー副王[[ホセ・デ・ラ・セルナ]] {{#tag:ref|皮肉にも彼の子孫の[[チェ・ゲバラ|エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ]]は、彼とは異なり20世紀後半のラテンアメリカの革命闘争に従事したのであった。|group=註釈}}を撃破し、ここでペルーは事実上の独立を果たした。1826年1月23日には[[カヤオ]]要塞に籠ったスペイン軍の残党も降伏し、ペルーからスペイン勢力は一掃された。こうしてペルーは長く続いたスペインの支配からようやく独立を果たしたのである。 |
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しかし、政治的な[[主権]]の獲得が、直ちにインディオ、メスティーソ、黒人、そして[[女性]]といった人々の[[平等]]と[[尊厳]]の獲得に繋がったわけではなかった<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:71-72)]]</ref>。独立時の戦いにより財政は疲弊し、農業も鉱業も荒廃しきっており、[[奴隷制]]は完全に廃止されず、1826年のペルーの人口約150万人のうち、148,000人と一割にすぎない白人の、さらに[[男性]]のみが、以降百数十年以上ペルーの国政を動かすのであった<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:70-72)]]</ref>。 |
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そのような情勢の中で、シエラのクスコから[[マテオ・ガルシア・プマカワ]]が蜂起し、しばらくシエラの主要部を占領したが、結局プマカワも破れ、ペルーは外来勢力の二人の英雄に解放される形で独立を果たすことになった。 |
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== カウディーリョの時代(1824年-1884年) == |
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[[ファイル:La_Independencia_del_Perú.jpg|220px|thumb|left|[[ホセ・デ・サン=マルティン]]の独立宣言。1821年]] |
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[[ファイル:Flag of the Peru-Bolivian Confederation.svg|right|thumb|220px|[[ペルー・ボリビア連合]]の国旗。]] |
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1816年に独立した[[リオ・デ・ラ・プラタ連合州]]はペルーからスペイン軍を追い出すことが自国の独立を保証すると考え、[[ホセ・デ・サン=マルティン]]将軍はこの構想の下にまずアンデスを越えてチリを解放し、チリから海路でリマを攻略することを決定した。サン=マルティン率いる解放軍がリマを解放すると、[[1821年]]7月28日にペルーはサン=マルティンの指導の下で独立を宣言したが、副王政府は植民地支配に固執し、シエラに逃れて抵抗を続けた。しかし、間もなくサン=マルティンのペルー統治がリマ寡頭支配層間の内紛で行き詰ったため、[[1822年]]7月26日にサン=マルティンは、北の[[ベネスエラ]]から[[大コロンビア|コロンビア共和国]]の解放軍を率いた[[リベルタドーレス|解放者]][[シモン・ボリーバル]]と[[グアヤキル]]で会談し、この会談によってボリーバルはサン=マルティンからペルー、アルト・ペルーの解放戦争を引き継いだ。 |
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独立後のペルーの政治はやはり多くのラテンアメリカ諸国と同じく[[カウディーリョ]](地方に依拠する軍事指導者)の政治となり、1846年まで各地でカウディーリョ間の私闘が続いた。その中でも特に有力だったのはアヤクーチョの戦いでスクレと共に戦った[[ホセ・デ・ラ・マール]]、[[アグスティン・ガマーラ]]、[[アンドレス・デ・サンタ・クルス]]の三人であった<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:120)]]</ref>。一方[[ボリビア|ボリビア共和国]](ボリーバルの共和国)の事実上の初代大統領はベネズエラ人でボリーバル派の[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ|スクレ]]だった。ラ・マールとガマーラは強硬な反ボリーバル派であり<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:225)]]</ref>、大コロンビアやボリビアのスクレ政権と敵対し、周辺国との戦争に明け暮れた。1828年にラ・マール政権は[[グアヤキル]](現[[エクアドル]]最大の港湾都市)を要求してコロンビア共和国に宣戦布告したが、ラ・マール大統領は[[ポルテテ・デ・タルキの戦い]]でボリビアからコロンビアに帰国したスクレに打ち破られた後、ラ・マールはガマーラによって追放された<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:73-74)]]</ref>。他方ボリビアでは、1827年にスクレが失脚してから、サンタ・クルスが実権を握っていた<ref>[[#眞鍋編著(2006)|眞鍋編著(2006:245)]]</ref>。この後、1829年にペルーの大統領になったガマーラとボリビアの大統領になったサンタ・クルスは、互いにペルーとボリビアの合邦構想を抱き、自らがその領袖となろうとしていた<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:121)]]</ref>。 |
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ペルー国内の政変で失脚したガマーラはボリビアの攻略を計画したが、先手を取ったボリビアの[[アンドレス・デ・サンタ・クルス]]大統領が、ボリビア主導でのペルー・ボリビア連合構想に基づいて1836年にペルーを完全征服し、同1836年10月に[[北部ペルー]]、[[南部ペルー]]、ボリビアの三州から成る[[ペルー・ボリビア連合]]の成立が宣言された<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:74-75)]]</ref><ref>[[#眞鍋編著(2006)|眞鍋編著(2006:248-250)]]</ref>。ガマーラをはじめとする亡命ペルー人は[[チリ独立戦争|独立戦争]]の経緯から反ペルー感情の強かった[[チリ]]に亡命すると、チリ政府と[[アルゼンチン]]の実力者[[フアン・マヌエル・デ・ロサス]]の力を得て軍を動かし、[[ユンガイの戦い]]でサンタ・クルスを破ったため、1839年にこの[[国家連合]]は崩壊した<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:75-76)]]</ref>。 |
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1824年8月6日に[[フニンの戦い]]でボリーバルはスペイン軍に勝利すると、ボリーバルはリマを再々解放し、一方分遣隊を率いた[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]が12月9日に[[アヤクーチョの戦い]]でペルー副王[[ホセ・デ・ラ・セルナ]] ([[チェ・ゲバラ|エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ]]の母方の先祖)を撃破し、ここでペルーは事実上の独立を果たした。1826年1月23日には[[カヤオ]]要塞に籠ったスペイン軍の残党も降伏し、ペルーからスペイン勢力は一掃された。こうしてペルーは長く続いたスペインの支配からようやく独立を果たしたのである。 |
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[[ファイル:RamonCastilla.jpg|right|thumb|220px|「解放者」、[[ラモン・カスティーリャ]]。[[ペルー・ボリビア連合]]崩壊後の内乱を制し、1845年から1867年までペルーに秩序を確立した。]] |
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しかし、それが直ちにインカ帝国や、インディヘナ、メスティーソ、奴隷として連れて来られた黒人といった人々の復権に繋がったわけではなかった。独立時の戦いにより農業も鉱業も荒廃しきっており、インカ帝国の最盛期に全土で1600万人を越えたと推測される人口は、1826年にはペルーだけで150万人になっており、うち148,000人、人口の一割にすぎない白人が以降百数十年間以上ペルーの国政を動かしていくことになる。 |
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再び独立したペルーではガマーラが大統領に就任し、1841年にペルー主導でのペルー・ボリビア連合を望んだガマーラは侵攻軍を率いてボリビアに向かったが、[[インガビの戦い]]で[[ボリビア軍]]によって撃退され、ガマーラ自身も戦死した<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:121)]]</ref>。翌1842年に[[プーノ]]で両国の講和条約が結ばれ、以後両国の統一を望む運動はなくなった<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:229)]]</ref><ref>[[#眞鍋編著(2006)|眞鍋編著(2006:251)]]</ref>。ガマーラの死後ペルーは内乱状態に陥ったが、1845年にかつてアヤクーチョで戦った[[ラモン・カスティーリャ]]が内乱を制して大統領に就任すると、この1845年から1867年まで事実上ペルーを支配したカスティーリャの時代に、強権によってペルーの内政は安定を迎えた<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:229)]]</ref><ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:)]]</ref>。この時代には[[イギリス]]や[[アメリカ合衆国]]をはじめとする外国資本によって経済開発が進み、[[肥料]]に適していた海岸部の[[グアノ]](海鳥の糞からなる鉱石資源)や、コスタでの[[綿花]]や[[サトウキビ]]、[[タラパカ]]での[[硝石]]が主要輸出品となってペルー経済を支え、特にグアノから生み出された富によってそれまで滞っていた[[公務員]]や[[軍隊]]への給与や[[外債]]の支払い、[[鉄道]]や[[電信]]、[[上下水道]]、[[港湾]]など[[インフラストラクチュア]]の整備、[[士官学校]]の創設や[[ペルー海軍|海軍]]の増強、[[盗賊]]の出没した街道の治安の確立などの諸事業がなされた<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:77-82)]]</ref><ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:122-123)]]</ref>。 |
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1851年にはペルー史上初の自由選挙で[[ホセ・ルフィーノ・エチェニケ]]が大統領に就任した。1852年には[[民法]]が制定されたなど功績もあったが、エチェニケが[[汚職]]事件を引き起こしたことがスキャンダルとなったため、1854年にラモン・カスティーリャが蜂起し、カスティーリャは同年反乱の最中にインディオの貢納と[[奴隷制度廃止運動|奴隷制]]の廃止を宣言した<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:229)]]</ref>。翌1855年に[[ラ・パルマの戦い]]でカスティーリャが政府軍に勝利すると、同年第二次カスティーリャ政権が成立した。カスティーリャは1860年に[[立法]]府を凌ぐ強力な大統領権が定められた新憲法を制定し、この憲法は比較的長命な憲法となり、実に1920年まで効力を保った<ref name=masuda,yanagida1999.84>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:84)]]</ref>。他方、反乱の最中の1854年に黒人奴隷が解放されたことは、ペルーの指導層に奴隷に代わる新たな労働力を必要とさせたため、1849年に成立した移民法によってコスタの[[プランテーション]]で働く労働力として、[[アイルランド人]]移民や[[ドイツ人]]移民、[[中国人]]移民が導入された<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:85)]]</ref>。[[苦力]](クーリー)として導入された中国人の数は1850年から1880年の間に約10万人だと推計されており、黒人に替わる新たな奴隷の如き劣悪な労働条件で労働させられた<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:85-86)]]</ref>{{#tag:ref|日本とペルーが1873年に国交を結ぶきっかけとなった[[マリア・ルス号事件]]は、この過程で発生した事件であった<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:86-87)]]</ref>。|group=註釈}}。しかし、依然として労働力は不足していたために、ペルー政府の要請を受けたアイルランド人の[[ジョゼフ・バーン]]は、[[ポリネシア]]の[[クック諸島]]などの住民を奴隷として捕らえ、コスタの大農園に連行したため、これらの諸島の文化は大きく衰退することになった<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:86)]]</ref>。また、インディオ農民に対する税はカスティーリャによって廃止されていたが、他方でそのことは大土地所有者がインディオ共有地を解体して大農園を拡大させる作用をもたらし、農民大衆の窮乏に変化はなかった<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:87)]]</ref>。第二次カスティーリャ政権はペルー・[[アマゾン熱帯雨林|アマゾン]]の開発を進め、[[イキートス]]を拠点に[[ゴム]]や[[キニーネ]]が生産された<ref name=masuda,yanagida1999.84/>。 |
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== 独立と混乱(1824年~1884年) == |
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[[ファイル:Flag of the Peru-Bolivian Confederation.svg|right|thumb|220px|[[ペルー・ボリビア連合]]国旗]] |
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[[ファイル:RamonCastilla.jpg|right|thumb|220px|[[ラモン・カスティーリャ]]]] |
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[[ファイル:Angamos.jpg|thumb|right|220px|太平洋戦争における[[アンガモスの海戦]]]] |
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[[ファイル:Arica battle.jpg|thumb|220px|''アリカの戦い'' フアン・レピアニ画]] |
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[[ファイル:Angamos.jpg|thumb|right|220px|[[太平洋戦争 (南米)|太平洋戦争]]における[[アンガモスの海戦]]。]] |
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独立後のペルーの政治はやはり多くのラテンアメリカ諸国と同じく[[カウディーリョ]]の政治となり、1846年まで各地でカウディージョ間の私闘が続いた。その中でも特に有力だったのはアヤクーチョの戦いでスクレと共に戦った[[ホセ・デ・ラ・マール]]、[[アグスティン・ガマーラ]]、[[アンドレス・デ・サンタ・クルス]]の三人であり、1828年にはペルー議会でラ・マールがペルー大統領に選ばれた。一方[[ボリビア共和国]](ボリーバルの共和国)の事実上の初代大統領はベネズエラ人のスクレだった。 |
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[[ファイル:Arica battle.jpg|thumb|220px|『アリカの戦い』、[[フアン・レピアニ]]画。]] |
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1863年に副大統領から昇格した[[フアン・アントニオ・ペセット]]政権の時代に、ペルーの大地主による[[バスク人]]移民の扱いがペルーとスペインの間で外交問題となり、1865年に海軍大臣[[ホセ・マヌエル・バルハ]]率いる[[スペイン太平洋艦隊]]が[[チンチャ諸島]]を占領した<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:94)]]</ref>。バレハはチンチャ諸島と引き換えに300万ペソをペルーが支払うことを求める屈辱的な講和条約を要求し、ペセットはこれを飲んだが、この条約は国民の怒りを招いたためにペセットは失脚し、主戦派の[[マリアーノ・イグナシオ・プラード]]が大統領に就任した<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:94-95)]]</ref>。プラードは1866年にスペインに宣戦布告し、チリ、エクアドル、ボリビアと同盟を結び、侵攻してきたスペイン軍に対してペルー軍は5月2日の[[カヤオの戦い]]で勝利し、スペイン軍は撤退し、以降[[ラテンアメリカ]]の主権に脅威を及ぼすことはなくなった<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:235)]]</ref>。スペインがペルーの独立を認めたのは[[1879年]]のことであった。 |
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1868年に就任した[[ホセ・バルタ]]大統領はグアノ利権によって鉄道の建設を進めた。1872年にペルー初の政党だった[[文民党]]から[[マヌエル・パルド]]が、文民として初めて大統領に就任した。パルド政権下ではグアノの枯渇が始まっており、財源の不足からパルド政権はアルゼンチンと同盟を、ボリビアと秘密同盟を結んだ上で軍の予算を1/4に減らす大軍縮を行ったが、この措置はペルーにとって命取りとなった<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:96-97)]]</ref>。 |
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ペルーの有力者はボリビア、エクアドルを自国領の一部だと考え、周辺国との戦争に明け暮れた。ラ・マールはボリビアとして独立を果たした[[アルト・ペルー]]をペルーに併合しようと軍を送ったものの、ボリビアの[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ|スクレ]]大統領に打ち破られてしまった。しかし、この後にスクレのボリビアでの立場が悪化したため、同年スクレは失脚し、サンタ・クルスがボリビア大統領に就任した。反ベネスエラ人で利害の一致したガマーラとサンタ・クルスは互いにペルーとボリビアの合邦構想を抱き、またペルー拡大の試みはその後も続いた。1828年にデ・ラ・マール政権は[[グアヤキル]](現[[エクアドル]]最大の港湾都市)を要求してコロンビア共和国に宣戦布告するが、ラ・マール大統領は[[タルキの戦い]]でコロンビアに帰国したスクレに打ち破られた。ラ・マールはガマーラによって追放され、1829年にガマーラはペルー大統領に就任した。 |
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1876年に再び大統領に就任した[[マリアーノ・イグナシオ・プラード]]は難題に直面した。前政権の大軍縮やグアノ経済の悪化の中で、既に財政破綻が迫っていたのである<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:99-100)]]</ref>。それまで[[チリ]]と[[ボリビア]]両国間では[[アントファガスタ]]の硝石鉱山を巡って対立が生じていたが、ペルーはボリビアとの秘密同盟を結んでいたために、[[1879年]]4月3日に同盟国ボリビアと共にチリに宣戦布告され、[[太平洋戦争 (南米)|太平洋戦争]]が勃発した<ref>[[#中川、松下、遅野井(1985)|中川、松下、遅野井(1985:50-51)]]</ref>。[[ペルー海軍]]は5月21日の[[イキケの海戦]]で新鋭艦のインデペンデンシアを失いながらも[[ミゲル・グラウ]]提督は[[ワスカル (装甲艦)|ワスカル]]を駆って神出鬼没の海上ゲリラ戦を繰り広げたが、10月8日の[[アンガモスの海戦]]でグラウが戦死し、ワスカルが拿捕されるとペルーは[[制海権]]を失い、大勢は決した<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:126-128)]]</ref>。戦線は陸上に移行したが、制海権を失った状態での[[アタカマ砂漠|アタカマの砂漠地帯]]の補給は叶わず、1880年5月にはタクナが陥落し、ボリビアが戦線から離脱した<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:128)]]</ref>。続く[[アリカの戦い]]でも[[フランシスコ・ボログネシ]]将軍に率いられたペルー兵は勇戦したものの敗北し、ボログネシ自身も戦死した後、1880年中にアタカマの係争地はチリ軍によって占領された<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:101-102)]]</ref>。1881年1月に25,000人の兵力でリマ近郊に上陸したチリ軍は、[[ミラフローレスの戦い]]でペルー軍を破り、首都リマは陥落した<ref name=masuda,yanagida1999.102-103>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:102-103)]]</ref>。リマ攻略後ペルーは政治的に分裂して各地に3人の大統領が生まれたが、混乱を制して[[カハマルカ]]で権力を掌握した[[ミゲル・デ・イグレシアス]]大統領によって1883年[[10月23日]]に[[アンコン条約]]が結ばれ、ペルーはチリに[[タラパカ]]を割譲し、[[アリカ (チリ)|アリカ]]、[[タクナ]]をチリ管理下にした後住民投票で帰属を決定することとなった<ref name=masuda,yanagida1999.102-103/>。戦争はペルー・ボリビア同盟の完敗で終わった。 |
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解放された傍から続くペルーの対外政策に周辺国は怒りを覚え、また、ボリビア側からのペルー・ボリビア統合構想により、1836年にボリビアの[[アンドレス・デ・サンタ・クルス]]大統領によってペルーは逆に完全征服され、[[南ペルー共和国]]と[[北ペルー共和国]]に分けられて、1836年10月に[[ペルー・ボリビア連合]]の成立が宣言された。ガマーラをはじめとする亡命ペルー人は[[チリ]]に亡命して、チリ政府と[[アルゼンチン]]の[[フアン・マヌエル・デ・ロサス]]の力を得て軍を動かし、[[ユンガイの戦い]]でサンタ・クルスを破ると1839年にこの連合は崩壊した。 |
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文化面ではこの頃、[[フランスの文化]]が導入され、1880年代からはリマ市もフランス風に改造された<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:87-90)]]</ref>。一方庶民の世界では[[レオン・アングラン]]、[[ヨハン・モリッツ・ルゲンダス]]、[[パンチョ・フィエロ]]などの画家や、『ペルー伝説集』を残した文学者の[[リカルド・パルマ]]などが活躍し、この時期にリマでは支配階級から距離を置いた大衆の文化としての[[クリオーリョ文化]]が育った<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:92-93)]]</ref>。 |
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再び独立したペルーではガマーラが大統領に就任した。1841年に再びボリビア併合を望んだガマーラは侵攻軍を率いてボリビアに向かうが、[[ボリビア軍]]によって撃退され、[[インガビの戦い]]でガマーラ自身も戦死した。翌1842年に[[プーノ]]で両国の講和条約が結ばれると、以後両国の統一を望む運動はなくなった。 |
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== 敗戦後の再建と貴族共和制 == |
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1845年にかつてアヤクーチョで戦った[[ラモン・カスティーリャ]]が政権に就くと、この1845年から1867年まで事実上ペルーを支配したカスティーリャ時代に強権によってペルーの政治は安定した。この時代にはイギリスやアメリカ合衆国をはじめとする外国資本によって経済開発が進み、肥料に適していた海岸部の[[グアノ]](海鳥の糞からなる鉱石資源)や、コスタでの[[綿花]]や[[サトウキビ]]、[[タラパカ]]での[[硝石]]が主要輸出品となってペルー経済を支えた。グアノから生み出された富によって鉄道や電信などが敷設され、この時期にリマでペルー独自の文化としてのクリオーヨ文化が育った。1840年から1856年までの間に3,900万ペソがグアノによる歳入となった。アマゾンでは[[ゴム]]・ブームが発生し、ペルー[[アマゾン熱帯雨林|アマゾン]]中心地だった[[イキートス]]の開発も進んだ。しかし、外国資本に頼った経済開発により、この時期に特にイギリス資本による経済的従属が進むことにもなった。 |
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[[ファイル:Nicolás de Piérola Presidente.jpg|thumb|180px|right|ペルーに於ける「貴族主義的共和国」を演出した[[ニコラス・デ・ピエロラ]]。]] |
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太平洋戦争敗戦後、イグレシアス将軍は大統領を続けたが、1886年にタラパカの英雄こと[[アンドレス・カセレス]]大佐が政権を握った。カセレス政権はカウディーリョの挑戦と5,000万ポンドに上った対外債務の処理を対応したが、カセレスは強権政治と、1887年に締結された[[グレイス条約]]によって、ペルーの持つ権益をほぼ全てイギリスの[[ペルー会社]]に売却し、この危機に対処した<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:105)]]</ref><ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:130)]]</ref>。国家の収入源のほぼ全てがイギリスに売り渡されたこの条約は屈辱的なものではあったが、ペルー経済は底を打った後に再び回復の軌道に乗った<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:130-131)]]</ref>。また、敗戦をきっかけに、[[マヌエル・ゴンサーレス・プラーダ]]のようにそれまで全く省みられることのなかったシエラのインディオの文化に、ペルー性を求める言説が生まれたことも注目に値する<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:104-105)]]</ref>。カセレスは大統領を辞任した後も部下の[[モラレス・ベルムーデス]]を大統領に据え、政治の実権を握っていたが、1895年に[[クーデター]]で文民の[[ニコラス・デ・ピエロラ]]が政権を握ると、歴史家によって「貴族主義的共和国」<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:106)]]より表現を引用。</ref>と呼ばれる時代が幕を開けた<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:106)]]</ref>。ピエロラ時代からそれまでの[[レッセフェール|自由放任経済体制]]に代わり開発省による国家主導の開発政策が実施されてペルーの工業化が始まり、地方自治の拡大、公正な選挙の実施、[[フランス]]流の軍制改革などがなされた<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:106-107)]]</ref>。カセレスとピエロラの時代には破産寸前だったペルーを生き返すために、外国資本に頼った経済開発が進められ、[[セロ・デ・パスコ銅山]]の[[銅]]にはアメリカ合衆国資本、[[油田]]には[[イギリス]]資本、コスタの[[砂糖]]や[[綿花]]の[[プランテーション]]には移民資本が投下された<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:109-113)]]</ref>。砂糖は新たなペルーの外貨収入源となり、1878年には砂糖輸出額が約1,000万ドルに達し、ペルーは20世紀初頭まで[[キューバ]]と並んで世界有数の砂糖輸出国となった。 |
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ピエロラが残した文民政治はその後も続き、1904年の選挙では[[民生党 (ペルー)|民生党]]から[[ホセ・パルド]]が大統領に就任したが、他方でこの頃から外資主導の経済開発の中に[[労働運動]]が頭をもたげた<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:113-116)]]</ref>。[[1908年]]には寡頭支配層の分裂の間隙をぬってパルド政権の蔵相だった[[アウグスト・レギーア]]が[[民生党 (ペルー)|民生党]]から政権に就き、レギーアはこれから20年に渡り権力を掌握することになる。1912年に成立した[[民主党 (ペルー)|民主党]]の[[ギジェルモ・ビイングルスト]]政権は、[[8時間労働]]法などの[[労働者]]や農民の権利を保護するための法案を複数通過させたが、そのような姿勢が議会と対立したために、1914年2月4日に議会の要請によって[[オスカル・ベナビデス]]参謀総長がクーデターを起こしてビイングルストを追放した<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:118-119)]]</ref>。臨時大統領に就任したベナビデスは[[第一次世界大戦]]に中立を表明した後、選挙を経て1915年8月に[[ホセ・パルド]]が大統領に就任した<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:126)]]</ref>。パルド政権期には[[ロシア革命]]の影響から他のラテンアメリカ諸国と同様に[[アナルコ・サンディカリスム]]系列の労働運動が激化し、アルゼンチンの[[コルドバ大学]]の改革運動に影響を受けた[[学生運動]]も高揚した<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:127-131)]]</ref>。 |
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1851年にはペルー史上初の選挙で[[ホセ・ルフィーノ・エチェニケ]]が大統領に就任し、1852年には民法が制定された。しかし、汚職事件により1854年にラモン・カスティーリャが蜂起し、カスティーリャは同年反乱の最中に奴隷制を廃止した。翌1855年に[[ラ・パルマの戦い]]でカスティーリャが政府軍に勝利すると、同年第二次カスティーリャ政権が成立した。1859年にラモン・カスティーリャは[[エクアドル]]と戦争を起こした。1860年には新憲法を制定し、大統領権が強められた。この憲法は比較的長命な憲法となり、実に1920年まで効力を保った。 |
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文化面では、思想的に[[オーギュスト・コント]]の[[実証主義]]と、[[ウルグアイ]]の[[ホセ・エンリケ・ロドー]]の[[アリエル主義]]の影響が強かった。[[科学]]と[[資本主義]]を擁護する実証主義の流れは太平洋戦争敗戦後の1880年代に[[新実証主義]]となり、新実証主義はペルーに[[社会学]]を導入した[[カルロス・ソリン]]、移民によるペルーの人種の白人化を主張した[[ハビエル・プラード]]、資本主義を批判した[[ホアキン・カペーロ]]、さらには後の[[インディヘニスモ]]の先駆となる最も異端的な[[マヌエル・ゴンサレス・プラダ]]など、[[サン・マルコス大学]]の知識人によって発達させられ、現実政治の中では[[ニコラス・デ・ピエロラ|ピエロラ]]政権のイデオロギーともなった<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:120-124)]]</ref>。一方、[[物質主義]]と[[功利主義]]を批判し、[[精神主義]]を主張したアリエル主義は、インカとスペインの[[混血]]性にペルーの美徳を見出す[[メスティサヘ]]を提唱した[[ホセ・デ・ラ・リバ・アグエロ]]や、[[ビクトル・アンドレス・ベラウンデ]]、[[ガルシア・カルデロン]]といった人物を生み出し、サン・マルコス大学に並ぶ最高学府である[[ペルー・カトリック大学]](1917)は、アリエル主義者の[[カルロス・アレナス・イ・ロアイサ]]によって設立されたものであった<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:124-125)]]</ref><ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:131-132)]]</ref>。 |
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一方、1854年に黒人奴隷が解放されると、ペルーの指導層は奴隷に代わってコスタでの[[プランテーション]]で働く労働力を移民に求め、[[アイルランド人]]移民と[[ドイツ人]]移民が失敗したために中国人が導入された。[[苦力]](クーリー)として導入された中国人の数は1850年から1880年の間に10万人を越えた。しかし、それでも労働力が足りなかったために、ペルー政府の要請を受けたアイルランド人の[[ジョゼフ・バーン]]は[[ポリネシア]]のラパ・ヌイ([[イースター島]])や[[クック諸島]]などの住民を奴隷として狩り、コスタの大農園に連行したため、これらの諸島の文化は大きく衰退することになった。また、インディオに対する税はカスティーリャによって廃止されたが、それでも大土地所有者によってインディオ共有地が解体され、大農園と零細農園の二極化が進み、インディオの生活はますます貧しくなっていった。 |
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== オンセニオ(1919年-1930年) == |
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1863年に副大統領から昇格した[[フアン・アントニオ・ペセット]]政権の時代に、ペルーの大地主による[[バスク人]]移民の扱いがペルーとスペインの間で外交問題となり、1865年にスペインは艦隊を率いて[[チンチャ諸島]]を占領した。スペイン海軍大臣の[[ホセ・マヌエル・バレハ]]はチンチャ諸島と引き換えに300万ペソをペルーが支払うことを求める屈辱的な講和条約を要求し、ペセットはこれを飲むが、これが国民の怒りを招いてペセットは失脚し、[[マリアーノ・イグナシオ・プラード]]が大統領に就任した。プラードは1866年にスペインに宣戦布告し、チリ、エクアドル、ボリビアと同盟を結んで侵攻してきたスペイン軍に5月2日に[[カヤオの戦い]]で勝利し、スペイン軍は撤退した。スペインがペルーの独立を認めるのは[[1879年]]のことであった。 |
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[[ファイル:Augusto B. Leguia on TIME Magazine, September 8, 1930.jpg|thumb|220px|[[オンセニオ]]を演出した[[アウグスト・レギーア]]大統領。]] |
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1918年の[[サン・マルコス大学]]の学生運動のようにペルーでも[[階級闘争]]が激化していたことを背景に、1919年の大統領選挙では社会改革を掲げた[[アウグスト・レギーア]]が圧勝し、正式に大統領に就任する前にパルドを追放、議会を解散して1920年1月に[[初等教育]]の無償化や[[累進課税]]、[[医療]]の拡充、先住民への[[教育]]の普及と同化政策を定めた、当時としては進歩的な1920年憲法を制定した<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:131-132)]]</ref>。好調な経済と軍部の力を背景に1919年から1930年まで続いた第二次レギーア政権の11年は「[[オンセニオ]]」{{#tag:ref|オンセ=onceはスペイン語で11を意味する。|group=註釈}}と呼ばれる<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:132-133)]]</ref>。 |
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[[ファイル:José Carlos Mariátegui.jpg|thumb|180px|left|ラテンアメリカを代表する[[マルクス主義]]思想家、[[ホセ・カルロス・マリアテギ]]。]] |
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1868年に就任した[[ホセ・バルタ]]大統領はグアノ利権によって鉄道の建設を進めた。 |
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レギーアは弱体化していた既成政党を操作しながら政治を意のままにし、鉱業や農業の成功を背景に経済が安定したこともあって、オンセニオ期には借款を用いて[[道路]]や鉄道、小学校の建設などの公共事業が興された<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:133-134)]]</ref>。この時期に第一次世界大戦によって衰退したイギリスに代わって、[[アメリカ合衆国]]がペルー第一の投資元となった<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:134)]]</ref>。外交面ではアメリカ合衆国との友好を確立することでの領土問題の解決が図られた。北部では1922年に[[サロモン・ロサーノ条約]]が調印され、[[プトゥマヨ川]]がコロンビア・ペルーの国境に定められてコロンビアの[[レティシア]]領有を認め、南部では1929年にチリから[[タクナ]]が返還されたが、[[アリカ (チリ)|アリカ]]の返還は行われず、ペルー国民に強い不満を生じさせた<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:142-144)]]</ref>。1929年に発生した[[世界恐慌]]によって[[ペルーの経済|ペルー経済]]が壊滅状態に陥ると、[[アレキパ]]の連隊長だった[[ルイス・ミゲル・サンチェス・セロ]]中佐が蜂起し、レギーアは失脚した<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:144-145)]]</ref>。 |
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文化面では、[[サン・マルコス大学]]の学生運動が社会的に大きな影響を持っていたためレギーアはしばしばサン・マルコス大学を閉鎖し、[[ハビエル・プラード]]や[[リバ・アグエロ]]のような知識人が大学を追われた結果、大学そのものが学問の場から学生[[活動家]]による政治活動実践の場に変質してしまった<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:137)]]</ref>。サン・マルコス大学の学生活動からは、活動家だった[[ビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレ]]が1924年に亡命先の[[メキシコ市]]で[[アメリカ革命人民同盟]](APRA)を創設している。APRAは当初[[マルクス主義]]的な立場からの運動だったが、APRAの[[反帝国主義]]は[[ソビエト連邦|ソ連]]のそれとはまた別物であり、1927年に思想上の差異から[[コミンテルン]]と絶縁したために、1928年に『[[ペルーの現実理解のための七試論]]』(1928)の著者[[ホセ・カルロス・マリアテギ]]によって、[[国際共産主義運動]]の立場から[[ペルー社会党]]が創設された<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:136-138)]]</ref>。しかし、マリアテギもまた独自色が強すぎたために1929年にコミンテルンから否定され、マリアテギ自身が1930年に病没するとペルー社会党はコミンテルンに従って[[ペルー共産党]]に改名し、以後の急進左翼運動の主導権はAPRAによって担われることになった<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:138-139)]]</ref>。アヤ・デ・ラ・トーレもマリアテギも、共に[[社会主義]]をペルーの[[インディヘニスモ]]との関わりの中で解釈した思想家であり、彼ら以後は文学に於いても[[シロ・アレグリア]]や[[ホセ・アルゲダス]]のような、インディヘニスモ的な作家が現れた<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:141-142]]</ref>。また、オンセニオ期には[[サッカー]]が大衆化し、全土に普及した<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:135)]]</ref>。 |
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1872年にペルー初の政党だった文民党から[[マヌエル・パルド]]が文民として初めて大統領に就任した。アルゼンチン、ボリビアと同盟を結んだ上で軍の予算を1/4に減らす大軍縮が行われたが、これはペルーにとって命取りだった。さらに、パルド政権下ではグアノの枯渇が始まっており、代わりにこの頃から砂糖がペルーの外貨収入源となった。1878年には砂糖輸出額が約1,000万ドルとなり、ペルーは20世紀初頭まで[[キューバ]]と並んで世界有数の砂糖輸出国となる。 |
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== APRAと軍部 == |
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1876年に就任した[[マリアーノ・イグナシオ・プラード]]大統領は難題に直面した。前政権の大軍縮やグアノ経済の悪化の中で、既に財政破綻が迫っていた。さらにペルーはボリビアとの秘密同盟を結んでいたために[[1879年]]4月3日にはそれまで問題になっていた[[アントファガスタ]]の硝石鉱山を巡って、同盟国[[ボリビア]]と共に[[チリ]]に宣戦布告され、三国で[[太平洋戦争 (南米)|太平洋戦争]]を争うことになったのである。[[ペルー海軍]]は5月21日の[[イキケの海戦]]で新鋭館のインデペンデンシアを失ったものの、[[ミゲル・グラウ]]提督はワスカルを駆って神出鬼没の海上ゲリラ戦を繰り広げたが、10月8日に[[アンガモスの海戦]]でグラウが戦死し、ワスカルが拿捕されると勝負は着いた。ペルーは制海権を失ったのである。戦線は陸上に移行したが、制海権を失った状態で[[アタカマ砂漠|アタカマの砂漠地帯]]の補給は叶わず、1880年5月にはタクナが陥落した。[[フランシスコ・ボログネシ]]将軍に率いられたペルー兵は勇敢に戦ったが、ボログネシは戦死し、もはや勝負は決した。1881年1月に25,000人の兵力を率いてリマに上陸した[[チリ軍]]は、ミラフローレスの戦いで[[ペルー軍]]を破り、リマも陥落した。カハマルカで権力を掌握したミゲル・デ・イグレシアス将軍によって1883年10月23日にアンコン条約が結ばれ、ペルーはチリにタラパカと[[アリカ (チリ)|アリカ]]、[[タクナ]]を割譲することとなった。戦争はペルー・ボリビアの完敗で終わった。 |
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[[ファイル:Sánchez Cerro.jpg|thumb|180px|right|クーデター軍人、[[ルイス・ミゲル・サンチェス・セロ]]。寡頭支配層の代理人としてポピュリズムに訴え、APRAと対抗した]] |
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[[ファイル:Óscar Benavides.jpg|thumb|180px|right|政界の黒幕、[[オスカル・ベナビデス]]。]] |
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[[ファイル:Haya 2.jpg|thumb|180px|left|[[アメリカ革命人民同盟]](APRA)の創設者、[[ビクトル・ラウル・デ・アヤ・デ・ラ・トーレ]]。APRAへの支持は[[共産主義]]を凌ぎ、ペルーのポピュリズムを体現する急進左派勢力として政局に大きな影響を与えた。]] |
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[[世界恐慌]]後、輸出依存型の経済構造が破綻し、労働人口の1/4が失業するほどの経済的打撃を受けたペルーの政局は、急激に不安定化した<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:327)]]</ref>。1931年の大統領選挙はAPRAのアヤ・デ・ラ・トーレと、レギーアを打倒した[[サンチェス・セロ]]の一騎打ちとなり、両者共に大衆動員を図ったが、結果的にはセロが勝利することになった<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:149)]]</ref>。アヤ・デ・ラ・トーレはこの結果を認めず、不正選挙によるものだと主張したため、大統領となったサンチェス・セロはAPRAを弾圧しながら新憲法を作成したが、これを受けてAPRA党員によるサンチェス・セロ暗殺未遂事件が発生し、同時期に政府によるアヤ・デ・ラ・トーレに対する逮捕状が発行された<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:153-154)]]</ref>。先手を打ったAPRAは1932年7月に本拠地の[[トルヒーリョ (ペルー)|トルヒーヨ]]市で武装蜂起し、軍人約60人を処刑したが、この事件は軍部の深い怒りを招き、軍部はすぐさま7月7日に[[チャン・チャン]]遺跡で[[トルヒーリョの虐殺|1,000人のAPRA党員を虐殺する報復]]に及んだ<ref>[[#中川、松下、遅野井(1985)|中川、松下、遅野井(1985:103)]]</ref>。この事件以降軍部とAPRAは互いに深い憎悪を抱いて対立するようになった<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:155-156)]]</ref>。 |
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文化面ではこの頃、リマがフランス風に改造され、クリオーリョ文化が発達した。文学における成果としては[[リカルド・パルマ]]の『ペルー伝説集』が挙げられる。 |
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サンチェス・セロ大統領は、1932年にペルー人の過激派から始まった[[レティシア]]占領運動に乗じて[[サロモン・ロサーノ条約]]を否定し、[[コロンビア]]からレティシアを奪うために[[コロンビア・ペルー戦争]]を引き起こしたが、コロンビアとの戦争に赴く兵士を閲兵している最中にAPRA党員の青年によってサンチェス・セロは暗殺され、4時間後にペルー議会は[[オスカル・ベナビデス]]将軍を臨時大統領に選んだ<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:156-157)]]</ref>。ベナビデスはコロンビアとの戦争を収め、アヤ・デ・ラ・トーレを釈放するなどAPRAとの協調を図ったが、APRAは妥協しなかったため、APRAによる[[テロリズム]]はその後も続き、ベナビデスもAPRAとの対決を選んだ<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:158-161)]]</ref>。ベナビデスの任期が終わる1936年の選挙でAPRAが支持する[[中道左派|左派]]が勝利しかけると、ベナビデスは選挙を無効化して任期を三年間延長し、経済の好転も手伝って1939年までの任期を無事に終えた<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:161-162)]]</ref>。ベナビデス時代には世界恐慌の影響により[[輸入代替工業化]]が進み、社会面ではレギーア時代の延長となる道路の建設や既製の道路の舗装が進み、水道の敷設や[[年金]]の整備など社会保障も拡充された<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:163-164)]]</ref>。 |
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== 再建の時代 == |
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[[ファイル:Nicolás de Piérola Presidente.jpg|thumb|180px|right|[[ニコラス・デ・ピエロラ]]]] |
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[[ファイル:Sánchez Cerro.jpg|thumb|180px|right|[[ルイス・ミゲル・サンチェス・セロ]]]] |
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[[ファイル:Óscar Benavides.jpg|thumb|180px|right|政界の黒幕 [[オスカル・ベナビデス]]]] |
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ベナビデスの任期が終わった後、1939年に[[マヌエル・プラード]](マリアーノ・プラードの息子)が大統領に就任した。プラードは[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側で[[第二次世界大戦]]に参戦し、敵性国民となった[[日系ペルー人]]は弾圧された<ref name=masuda,yanagida1999.168>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:168)]]</ref>。既に1940年[[5月13日]]には[[リマ排日暴動|リマで排日暴動]]が起きていたが、[[太平洋戦争]]が始まると1,800人の[[日本人]]が[[アメリカ合衆国]]の[[強制収容所]]に連行されたのである<ref name=masuda,yanagida1999.168/>。ペルーは直接第二次世界大戦に兵を送らなかったが、1941年7月5日から[[エクアドル]]と[[エクアドル・ペルー戦争|国境紛争]]を行い、[[エクアドル軍]]に勝利した後、アメリカ合衆国やラテンアメリカ諸国の支持の下に係争地のうちの25万km²{{#tag:ref|この面積に関しては20万km²と主張している資料も存在する<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:317)]]</ref>。|group=註釈}}を翌1942年の[[リオ・デ・ジャネイロ条約]]で獲得したが、このことはその後のエクアドルとの関係に強い緊張を生むことになった<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:167-168)]]</ref>。 |
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太平洋戦争敗戦後、1870年代前半のグアノの枯渇により財政破綻寸前だったペルーは敗戦により追い込まれた債務不履行に近い状態に付け込まれることになった。豊富な地下資源に着目した[[アメリカ合衆国]]や[[イギリス|英国]]の経済支配がこの時期に確立することになり、この克服が後に大きな政治課題となる。また、同時に敗戦によってそれまで全く省みられることのなかったシエラのインディヘナの文化にペルー性を求める言説が生まれるようにもなった。 |
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1945年の選挙ではベナビデスとAPRAの間で密約が結ばれ、APRAは合法化と引き換えにベナビデスの推す[[ホセ・ルイス・ブスタマンテ]]に投票することを約束した<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:169)]]</ref>。これによりブスタマンテ政権が誕生し、合法化されたAPRAは議会で単独過半数を獲得した<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:171)]]</ref>。ブスタマンテ期には[[インフレーション]]が進行していたため、歳入を増やすために[[スタンダード・オイル]]の子会社の[[IPC]]に採掘権が付与された<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:172)]]</ref>。ベナビデスが死去すると、徐々にAPRAの急進派が武装闘争を再び掲げ、1948年10月3日のAPRA党急進派と海軍の一部によるクーデターが起きた<ref>[[#中川、松下、遅野井(1985)|中川、松下、遅野井(1985:174)]]</ref>。このクーデターは鎮圧され、APRAは再び非合法化されて10月29日に軍事クーデターによってブスタマンテ政権は崩壊し、[[マヌエル・オドリーア]]将軍が政権に就いた<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:174-175)]]</ref>。オドリーアはアルゼンチンの[[フアン・ペロン]]のような、貧困層の支持を受けて労働政策や福祉政策を実現するという政治スタイルを採ったが、実際には公共事業などはほとんど成果を出さず、経済が低迷する中、1956年の選挙で第二次マヌエル・プラード政権が誕生した<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:175-178)]]</ref>。この選挙に際してAPRAは合法化を条件にプラードを支持し、以降APRAは[[ブルジョワジー]]と同盟してペルーの寡頭支配層の側に回った<ref>[[#中川、松下、遅野井(1985)|中川、松下、遅野井(1985:177-178)]]</ref>。APRAの[[保守]]政党化の影響は大きく、保守支配層との協調を嫌った党内左派は分離し、[[フェルナンド・ベラウンデ・テリー]]の[[人民行動党 (ペルー)|人民行動党]]、[[キリスト教民主党 (ペルー)|キリスト教民主党]]、[[革新的社会運動]]など、新たな左派政党が分立した<ref>[[#中川、松下、遅野井(1985)|中川、松下、遅野井(1985:178)]]</ref>。マヌエル・プラード政権下では[[ペドロ・ベルトラン]]首相によって本格的な[[輸入代替工業化]]政策が進められたが、この措置は[[多国籍企業]]のペルー経済への進出を顕著なものとした<ref>[[#中川、松下、遅野井(1985)|中川、松下、遅野井(1985:179)]]</ref>。またこの時期にシエラの伝統的な農村共同体が解体される中で、シエラでは[[ラ・コンベシオン]]を中心に[[ウーゴ・ブランコ]]らによる新たな[[農民運動]]が組織され、コスタにはシエラからの人口流入が続いた<ref>[[#中川、松下、遅野井(1985)|中川、松下、遅野井(1985:179-180)]]</ref>。このような情勢の中で、プラードは経済運営に余り良いところのないまま、1962年の選挙を迎える事になった。 |
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太平洋戦争終結後、イグレシアス将軍は大統領を続けたが、1886年にタラパカの英雄こと[[アンドレス・カセレス]]大佐が政権を握った。カセレス政権はカウディーリョの挑戦と5,000万ポンドに上った対外債務の処理を対応したが、カセレスは強権政治と、1887年のグレイス条約によってペルーの持つ権益をほぼすべてイギリスのペルー会社に売却することによってこの危機に対処した。これにより、国家の収入源のほぼ全てがイギリスに売り渡されたが、ペルー経済は底を打った後に再び回復の軌道に乗った。 |
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1962年には、同年行われた大統領選挙において発覚したAPRAによる選挙不正に抗議するために軍事クーデターが勃発し、任期終了の直前にプラード大統領は追放された。[[ペレス・ゴドイ]]将軍を首班としたクーデター政権は、当時高揚していた[[ウーゴ・ブランコ]]の指導する農民運動に対応するための農地改革法を施行した<ref>[[#後藤(1993)|後藤(1993:78-81)]]</ref>。現在、ペルーではこのクーデターがペルー史の一大転換点であったとされている<ref>[[#後藤(1993)|後藤(1993:172-173)]]</ref>。 |
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1895年にクーデターで文民の[[ニコラス・デ・ピエロラ]]が政権を握り、ペルーは「貴族共和国」時代を迎えた。これ以降ペルーでも文民が政治を握るようになったのである。それまでの自由放任経済体制から開発省による国家主導の開発政策を実施し、ピエロラ時代にペルーの工業化が始まり、地方自治が拡大し、公正な選挙が実施され、軍制はフランス流に改められた。こうして進められた諸改革によりピエロラは「民主的なカウディーリョ」と呼ばれ、1899年まで続いたピエロラの時代をペルー史においては「貴族共和制」と呼ぶ。 |
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選挙監視内閣だった軍事政権は1963年の選挙が終わり、軍部及びキリスト教民主党と結んだ人民行動党の[[ベラウンデ・テリー]]が、アヤ・デ・ラ・トーレとオドリーアに勝利すると解散した<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:189)]]</ref>。穏健的改良主義者を自認していたベラウンデは軍部や「[[進歩のための同盟]]」の意向を反映して1964年に農地改革法案を通過させたものの、ベラウンデの農地改革は抜本的な社会改革から程遠いものとなり、外資主導の工業開発政策も1967年頃には失敗して破綻を迎えつつあった<ref>[[#後藤(1993)|後藤(1993:174-175)]]</ref>。さらに、ベラウンデ政権下では[[キューバ革命]]の影響を受けた[[ルイス・デ・ラ・プエンテ]]の[[左翼革命運動]](MIR)のような[[ゲリラ]]が蜂起し、8,000人の農民の死亡を伴った軍による鎮圧作戦は、軍内部の将校に文民政権への深い失望をもたらした<ref>[[#中川、松下、遅野井(1985)|中川、松下、遅野井(1985:184-185)]]</ref>。こうして既にベラウンデは農村問題で躓いていたが、ペルー政府が1億4,400万ドルに及ぶIPCの債務を帳消しにすることが認められた[[タララ協定]]で、[[原油]]の売買価格の記載された協定文書のページが「紛失」してしまったことが発覚すると、この「失われた11ページ事件」は大スキャンダルとなって国民の強い不満を引き起こした<ref>[[#中川、松下、遅野井(1985)|中川、松下、遅野井(1985:186-187)]]</ref>。 |
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1899年に初めて日本人移民がペルーに入植した。 |
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== ペルー革命(1968年-1980年) == |
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1904年には[[民主党 (ペルー)|民主党]]からホセ・パルドが大統領に就任し、[[1908年]]には寡頭支配層の分裂の間隙をぬってパルド政権の蔵相だった[[アウグスト・レギーア]]が民主党から政権に就き、20年に渡り権力を掌握した。1912年に誕生した[[ギジェルモ・ビイングルスト]]政権は労働者や農民の権利を保護するための団体交渉権を盛り込んだ法律を議会に提出したが、これは議会との対立を招き、1914年2月4日に議会の要請によって[[オスカル・ベナビデス]]参謀総長がビイングルストを追放した。ベナビデスは臨時大統領に就任した後、1915年にホセ・パルドが大統領に就任した。 |
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[[ファイル:Juan Velasco Alvarado.jpg|thumb|220px|left|[[フアン・ベラスコ・アルバラード|ベラスコ]]将軍。]] |
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かかる状況下で[[1968年]][[10月3日]]、[[フアン・ベラスコ・アルバラード]]将軍による軍事クーデターによりベラウンデは追放され、軍事革命政権の成立が宣言された<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:197-198)]]</ref>。軍事革命政権は10月9日にスキャンダルとなっていたタララ協定の無効化を宣言し、IPCを国有化した<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:198)]]</ref>。この軍事革命は完全に文民の参加を廃した点に特色があり、[[立法]]府の役割は完全に軍に移行され、軍事政権に任命された若手の法曹によって腐敗した司法の改革がなされた<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:198-199)]]</ref>。[[ペルー革命]]の始まりだった。 |
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こうしてクーデターを起こしたベラスコ将軍は、これまでの政権とは180度立場を変えて[[反米]]と自主独立を旗印に「ペルー革命」を推進することを約束し、「資本主義でもなく、また共産主義でもない人間的な社会主義」<ref>[[#後藤(1993)|後藤(1993:179)]]より表現を引用。</ref>を目指して[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]]を一つのモデルに<ref>[[#後藤(1993)|後藤(1993:180)]]</ref>新体制の模索が進んだ。外交面ではそれまでアメリカ合衆国一辺倒だった外交が、[[第三世界]]を中心に多角化され、1969年の[[アンデス共同市場]]の形成を皮切りに、チリの[[サルバドール・アジェンデ|アジェンデ]][[人民連合]]政権といったラテンアメリカ域内の左派政権との関係改善が行われ、同時期にチリで似たような改革を進めていた大統領は、ベラスコを「[[同志]]」と呼んだ<ref name=masuda,yanagida1999.210>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:210)]]</ref>。1969年2月には[[ソビエト連邦|ソ連]]と、1971年に[[中華人民共和国]]と、1972年には[[キューバ]]と国交を結び、1973年からは[[非同盟]]運動にも参加した<ref name=masuda,yanagida1999.210/>。国防組織の対米依存を減らすために兵器輸入を中心に[[ソヴィエト連邦]]との関係も深まり、[[日本]]や[[ドイツ]]との交流が深まるのもこの頃である<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:160-161)]]</ref>。ベラスコ体制は、アンデス諸国の革新的軍事政権や、[[パナマ]]の[[オマール・トリホス]]政権にモデルを提示した<ref>[[#中川、松下、遅野井(1985)|中川、松下、遅野井(1985:180)]]</ref>。 |
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1919年にアウグスト・レギーアが再び大統領に就任し、以降強権を背景に11年間続いた第二次レギーア時代に1920年憲法が制定された。経済面では外資系輸出志向プランテーションが拡大し、また、交通が充実し、結果的にシエラがペルー国家に統合されることになる。外交面では1922年に[[サロモン・ロサーノ条約]]に調印して[[プトゥマヨ川]]をコロンビア・ペルーの国境に定め、コロンビアの[[レティシア]]領有を認めた。1929年には[[タクナ]]がチリから返還されたが、[[アリカ]]の返還は行われず、これはペルー国民に強い不満を与えた。同年発生した[[世界恐慌]]によってペルー経済が壊滅状態に陥ると、[[アレキパ]]の連隊長だった[[ルイス・ミゲル・サンチェス・セロ]]中佐が蜂起し、レギーアは失脚した。 |
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この革命政権において農地改革は大きな柱の一つであり、それまでの農地改革とは比較にならないような徹底した改革が推進された。貧しい生まれだったベラスコ将軍はかつてトゥパク・アマルー2世が掲げた標語を再び掲げ、コスタの大農園は次々に解体されて多くの土地が[[小作人]]に分与され、「44家族」と呼ばれていたペルーの地主寡頭支配層はここに解体された<ref>[[#後藤(1993)|後藤(1993:181-187)]]</ref><ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:199-202)]]</ref>。また、アメリカ合衆国からの経済独立を目指した企業の国有化政策により輸入代替工業化が更に進められた<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:202-204)]]</ref>。当時リマのスラムはシエラからの人口移動で人口700万人の巨大都市に大拡大していたが、革命政権はスラムをプエブロ・ホーベン(新しい街)と呼び、住民の組織化が進んだ。また、将軍は先住民をカンペシーノ(農民)と呼ぶようにし、以後政府の文書で侮蔑的な響きのあったインディオという言葉が使われることはなくなった。 |
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[[ファイル:Haya 2.jpg|thumb|180px|left|アメリカ革命人民同盟の創設者[[ビクトル・ラウル・デ・アヤ・デ・ラ・トーレ]]]] |
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[[ファイル:José Carlos Mariátegui.jpg|thumb|180px|left|ラテンアメリカを代表する[[マルクス主義]]知識人[[ホセ・カルロス・マリアテギ]]]] |
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文化面ではこの時期に[[サッカー]]が大衆化した。特に思想面では[[オーギュスト・コント]]の[[実証主義]]と、[[ウルグアイ]]の[[ホセ・エンリケ・ロドー]]のアリエル主義の影響を強く受けた。実証主義の流れは[[マヌエル・ゴンサレス・プラダ]]の新[[実証主義]]となり、[[インディヘニスモ]]運動に転化したが、インディヘニスモに影響を受けた二人の知識人によってペルーの社会主義思想は深まることになる。ペルーでも1918年にはアルゼンチンの[[コルドバ大学]]で始まった大学改革運動の影響を受けていたが、[[サン・マルコス大学]]の学生運動を指導していた[[ビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレ]]は、1924年に亡命先の[[メキシコ市]]で[[アメリカ革命人民同盟]](APRA)を創設する。APRAは当初[[マルクス主義]]的な立場からの運動だったが、[[コミンテルン|第三インターナショナル]]と絶縁したために、1928年に『ペルーの現実理解のための七試論』を著した[[ホセ・カルロス・マリアテギ]]によって、同年国際[[共産主義]]の立場から[[ペルー社会党]]が創設された。 |
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しかし、1973年にベラスコ将軍が病に倒れ、片足を切断することになると政権内での意思疎通の不和が目立つようになり、さらに同年の第一次[[オイル・ショック]]で経済が大打撃を受け、再び外国資本の導入を検討せざるを得ない状況になると各地で暴動や社会的混乱が噴出した。将軍の任期の最後の年には[[ケチュア語]]が[[公用語]]となったが、軍部主導で国民の広範な支持を得られなかった革命は、[[ポプリスモ]]的な分配による対外債務の増加、軍部とアプラ系の労組との衝突や、人民の組織化の失敗、さらには1973年[[9月11日]]の[[チリ・クーデター]]によって成立した[[アウグスト・ピノチェト]]政権が革命政権を敵視してチリとの戦争が現実味を帯びたことをはじめとして、ボリビア、アルゼンチン、ブラジルといった周辺国の[[官僚主義的権威主義]]体制との軋轢などもある中で、最終的に1975年のベラスコ将軍の失脚をもって失敗が明らかになった。 |
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[[世界恐慌]]後、経済を輸出依存していたペルーは急激に不安定になった。1931年の大統領選挙はアプラ党のアヤ・デ・ラ・トーレと、レギーアを打倒した[[サンチェス・セロ]]の一騎打ちとなり、両者共に大衆動員を図ったが、結果的にはセロが勝利することになった。アヤ・デ・ラ・トーレはこれを不正選挙によるものだとしてボイコットしたため、セロはAPRAを弾圧したが、これを受けてアヤ・デ・ラ・トーレは1932年7月に本拠地のトルヒーヨ市で武装蜂起し、軍人約60人を処刑したが、このことが軍部の深い怒りを招き、軍は[[チャン・チャン]]遺跡で1,000人(APRA発表では6,000人)の党員を虐殺すると、以降軍部とAPRAは互いに深い憎悪を抱いて対立するようになった。 |
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1975年8月23日、軍部内右派と左派の妥協により、軍内中道派(制度派)の[[モラレス・ベルムデス]]が大統領となった<ref>[[#後藤(1993)|後藤(1993:190)]]</ref>。モラレスは「革命の第二段階」を称していたが、1976年5月には事実上の[[国際通貨基金|IMF]]管理下に置かれるなど改革からの後退が続き、1977年2月にはインカ計画に続いてトゥパク・アマルー計画が発表されたが、この計画の内容は革命の凍結を図るというものだった<ref>[[#後藤(1993)|後藤(1993:191)]]</ref>。国民の反軍感情の高まりの中、軍は名誉ある撤退を掲げて1978年6月には制憲議会が開かれ、軍部とアプラ党の歴史的な和解の中で、[[非識字]]層に投票権を認めた1979年憲法が制定された<ref>[[#後藤(1993)|後藤(1993:192)]]</ref>。[[1980年]]には選挙によって民政移管し、再び人民行動党の[[フェルナンド・ベラウンデ・テリー]]が大統領に就任した。 |
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セロは1932年にペルー人の過激派から始まった[[レティシア]]占領運動に乗じて、[[コロンビア]]からレティシアを奪おうとし[[コロンビア・ペルー戦争]]を引き起こすが、コロンビアとの戦争に赴く兵士を閲兵している最中のAPRA党員の青年によるセロの暗殺と、コロンビア軍の猛反撃によりこの企ては失敗した。サンチェス・セロの暗殺から4時間後、ペルー議会は[[オスカル・ベナビデス]]将軍を臨時大統領に選んだ。ベナビデスはコロンビアとの戦争を収め、APRAとの協調を計ったが、APRAは妥協せず[[テロ]]が激化した。任期が終わる1936年の選挙でAPRAを含む左翼が勝利すると、ベナビデスは選挙を無効化して任期を三年間延長し、経済の好転も手伝って1939年までの任期を無事に終えた。ベナビデス時代にはレギーア時代に頓挫していた道路網の建設が再開され、世界恐慌の影響により輸入代替工業化が進んだ。 |
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== 民政移管とペルー内戦(1980年- ) == |
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その後ベナビデスはAPRAと密約を結び、1939年に[[マヌエル・プラード]](マリアーノ・プラードの息子)が大統領に就任した。プラードは[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側で[[第二次世界大戦]]に参戦し、敵性国民となった[[日系ペルー人]]は弾圧された。既に1940年5月13日にはリマで排日暴動が起きていたが、[[太平洋戦争]]が始まると1,800人が[[アメリカ合衆国]]の[[強制収容所]]に連行された。ペルーは直接第二次世界大戦には兵を送らなかったが、1941年7月5日から[[エクアドル]]と国境紛争を行い、[[エクアドル軍]]に勝利した後、アメリカ合衆国やラテンアメリカ諸国の支持の下に係争地のうちの25万km²を翌1942年の[[リオ・デ・ジャネイロ条約]]で獲得するが、このことはその後のエクアドルとの関係に強い緊張を生むことになった。 |
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[[ファイル:Flag of Sendero Luminoso.svg|thumb|260px|left|[[毛沢東思想|毛派]][[ゲリラ]]、[[センデロ・ルミノソ]]の党旗。]] |
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第二次ベラウンデ・テリー政権は当初民主化の象徴として国民的な期待を背負って誕生したが、しかし、災害や深刻な経済危機で政権運営は多難を極め、ベラスコ時代に地主支配層解体後の農村部における権力の真空状態を背景に、1980年に[[毛沢東思想|毛沢東主義]]の[[センデロ・ルミノソ]]が農村部に、1984年にはキューバ派の[[トゥパク・アマルー革命運動]](MRTA)が都市部にと、[[左翼]][[ゲリラ]]が徐々に勢力を伸ばした<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:219-221)]]</ref><ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:163-165)]]</ref>。 |
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[[1985年]]に当時35歳だった[[アラン・ガルシア]]大統領を首班とするAPRA政権が発足し、APRAは結成以来ようやく61年目にして初めて政権を握った<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:418)]]</ref>。ガルシアは国民の支持を背景に民族主義を掲げ、外交ではIMFへの債務の繰り延べなどの強硬な路線をとる一方で、内政では貧困層の救済に尽力したが、1987年にはこのようなポプリスモ経済政策は行き詰まり、経済の縮小、[[ハイパー・インフレーション]]の発生、治安悪化が大問題となり、国民の支持と行政力を失って退陣した<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:222-226)]]</ref>。[[1990年]]当時にはセンデロ・ルミノソは[[アヤクーチョ]]を中心拠点にシエラの大部分を占領し、[[パンアメリカンハイウェイ]]や主要幹線道路までがセンデロ・ルミノソに押さえられてリマは包囲され、センデロ・ルミノソによる革命が間近に迫っているかのような情況だった<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:169-172)]]</ref>。 |
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1945年の選挙では、またもベナビデスとAPRAの間で密約が結ばれ、APRAは合法化と引き換えにベナビデスの推す[[ホセ・ルイス・ブスタマンテ]]に投票することを約束した。これによりブスタマンテ政権が誕生し、合法化されたAPRAは議会で単独過半数を獲得した。しかし、ベナビデスが死去すると、徐々にAPRAの急進派が武装闘争を再び掲げ、1948年10月3日のAPRA党急進派と海軍によるクーデターが起きた。このクーデターは鎮圧されたものの、APRAは再び非合法化され、10月29日にクーデターによってブスタマンテ政権は崩壊し、[[マヌエル・オドリーア]]将軍が政権に就いた。オドリーア将軍はアルゼンチンの[[フアン・ペロン]]のような貧困層の支持により、寡頭支配層と戦うという政治スタイルをとったが、これも挫折し、1956年の選挙で第二次マヌエル・プラード政権が誕生した。この選挙でアプラ党は合法化を条件にプラードを支持し、以降APRAはブルジョワ層と同盟してペルーの支配層の側に回った。このような保守支配層との協調を嫌ったアプラ党の左派が、当時起きていた[[キューバ革命]]の影響を受けて国内左派過激派と合流し、クスコ周辺で革命的武装蜂起を行うが、まもなく軍の掃討作戦によって殲滅された。このような情勢の中で、プラードは経済運営に余り良いところのないまま1962年の選挙を迎える事になる。 |
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このような危機的状況下にて行われた大統領選挙では、文学者の[[マリオ・バルガス・リョサ]]を破って「[[変革90]]」を率いた[[日系ペルー人|日系]]二世の[[アルベルト・フジモリ]](フヒモリ)が勝利し、フジモリは南米初の日系大統領となった。綱領も示さないまま、既存政治勢力への失望の結果により当選した彼は、それでも「[[フジ・ショック]]」と呼ばれたショック政策によるインフレ抑制と、財政赤字の解消による経済政策を図って、[[新自由主義]]的な改革により悪化したペルー経済の改善を実現するなど素人とは思えない業績を残した<ref>[[#増田、柳田(1999)|増田、柳田(1999:230-232)]]</ref>。さらに、このような強権的なやり方が反発され、また議会を自らの行った改革の障害と見做すと、[[1992年]]4月5日にフジモリは[[アウトゴルペ]]を実施して議会を解散し、憲法を停止して非常国家再建政府を樹立した。このようにして確立した権力を最大限に活用してMRTAの指導者[[ビクトル・ポライ]]とセンデロ・ルミノソの指導者[[アビマエル・グスマン]]を逮捕し、組織を壊滅状態に追いやるなど治安回復に大きな成果を挙げたが、この自主クーデターは、[[アメリカ合衆国]]やヨーロッパ諸国から「非民主的」と非難されたため、それを受けて同年11月には憲法制定議会の選挙を行い、[[一院制]]、大統領権の強化を盛り込んだ1993年憲法を国民投票で発布にこぎつけ、内外の非難をかわした<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:420)]]</ref><ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:175-176)]]</ref>。フジモリは1995年の選挙で元[[国際連合事務総長]]の[[ハビエル・ペレス・デ・クエヤル|ペレス・デ・クエヤル]]を破って再選された<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:176)]]</ref>。フジモリ政権は[[日本]]との友好関係を強化し、日本はこの時期にペルーへの最大の援助国となったが、このことは[[1996年]]に[[トゥパク・アマルー革命運動]]による[[ペルー日本大使公邸占拠事件|日本大使公邸占拠事件]]発生の要因となった<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:181-183)]]</ref>。この事件は[[特殊部隊]]の出動によって犯人側の全員射殺という結果で幕を閉じたが、この事件を境にフジモリは徐々に権威的な様相を見せ始め、政治の司法、マスコミへの介入が進んでいった<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:184)]]</ref>。また、こうした中で、1998年にはエクアドルとの国境紛争に勝利し、両国の間で長年の問題となっていた国境線を確定した<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:404)]]</ref>。2000年にはフジモリは強引なやり方で三選を果たしたが、徐々に独裁的になっていった政権に対する国民の反対運動の高まりや、汚職への批判を受け、11月21日に訪問先の日本から大統領職を辞職した<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:188-189)]]</ref>。フジモリの失脚後、顧問の[[ブラディミロ・モンテシノス]]に行わせていた買収工作や諜報機関の存在が明らかになり、フジモリ政権はペルー史上最大の腐敗政権として幕を閉じた<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:189)]]</ref>。 |
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== ペルー革命 == |
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2001年の選挙により、「[[可能なペルー]]」から先住民([[チョロ]])初の大統領、[[アレハンドロ・トレド]]が就任した<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:190-191)]]</ref>。[[親米]]政策を堅持し、貧困の一掃と雇用創出、政治腐敗の追及を公約とした政権は、しかし経済政策は成果を上げることはできず、国民の支持は2002年の8月には16%にまで低下した<ref>[[#細谷編著(2004)|細谷編著(2004:191-193)]]</ref>。左翼ゲリラによるテロ活動も復活し治安は悪化している。このため国内では貧困層を中心にフジモリ待望論が広がっており、国民の3割がフジモリを支持しているとされる。これに危機感を抱いた[[アレハンドロ・トレド|トレド]]政権はフジモリ大統領を引き渡すよう日本政府に要請しているが、日本政府は引き渡しを拒否し続けているため、[[ワイスマン]]副大統領ら強硬派は日本との国交断絶を主張した。2005年11月、トレドは[[アジア太平洋経済協力]]首脳会議を利用して日本の[[小泉純一郎|小泉]][[内閣総理大臣|首相]]に首脳会談を申し入れた。しかし、小泉は日程を理由に断った。 |
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[[ファイル:Alan García Pérez.JPG|right|220px|thumb|2006年に再選した[[アラン・ガルシア]]。]] |
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1962年には、同年行われた大統領選挙において発覚したアプラ党による選挙不正に抗議するために軍事クーデターが勃発した。クーデター政権は[[ペレス・ゴドイ]]将軍を首班にして、農地改革法などを施行した。現在、ペルーではこのクーデターがペルー史の一大転換点であったとされている。選挙監視内閣だったゴドイ政権は1963年の選挙が終わり、人民行動党の[[ベラウンデ・テリー]]政権が軍部の支援で誕生すると解散した。穏健的改良主義者を自認していたベラウンデは軍部や「進歩のための同盟」の意向を反映して部分的農地改革などを行ったが、ベラウンデは抜本的な改革には踏み切らなかった。しかし、ベラウンデは農村問題とIPC([[インターナショナル石油]])問題でつまずき、IPCとの間のタララ協定で売買価格の記載された協定文書のページが「紛失」してしまったことが発覚すると、この「失われた11ページ事件」は大スキャンダルとなって国民の強い不満を引き起こした。 |
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こうした状況の中で[[1968年]]10月3日、[[フアン・ベラスコ・アルバラード]]将軍による軍事クーデターによりベラウンデは失脚した。クーデター政権は軍事革命を掲げて即座にスキャンダルとなっていたタララ協定の無効化を宣言してインターナショナル石油を国有化し、また、革命後すぐに腐敗した司法の改革がなされた。こうしてクーデターを起こしたベラスコ将軍は、これまでの軍事政権とは打って変わって反米と自主独立を旗印に「[[ペルー革命]]」を推進することを約束し、[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラヴィア]]の[[ヨシップ・ブロズ・チトー|チトー]]政権の[[自主管理社会主義]]を模範としたインカ計画が推進され、「軍事革命路線」によって「資本主義でも共産主義でもない人間的な社会主義」を目指して第三の道の模索が進んだ。 |
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この革命政権において農地改革は大きな柱の一つであり、それまでの農地改革とは比較にならないような徹底した改革が推進された。貧しい生まれだったベラスコ将軍はかつてトゥパク・アマルー2世が掲げた標語を再び掲げ、コスタの大農園は次々に解体されて多くの土地が[[小作人]]に分与され、「40家族支配」体制と呼ばれていたペルーの伝統的な地主寡頭支配層の解体が行われた。また、アメリカ合衆国からの経済独立を目指した企業の国有化政策により輸入代替工業化が更に進められた。外交面ではそれまでアメリカ合衆国一辺倒だった外交が、[[第三世界]]を中心に多角化され、1969年の[[アンデス共同市場]]の形成を皮切りに、[[キューバ]]やチリの[[人民連合]]政権といった域内の左派政権との関係改善が行われ、同時期にチリで似たような改革を進めていた[[サルバドール・アジェンデ]]大統領は、ベラスコを「同志」と呼んだ。ベラスコ体制のこうした特徴は、アンデス諸国の革新的軍事政権や、[[パナマ]]の[[オマール・トリホス]]政権にモデルを提示した。<ref>中川文雄、松下洋、遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社 p.190</ref> |
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国防組織の対米依存を減らすために兵器輸入を中心に[[ソヴィエト連邦]]との関係も深まり、[[日本]]や[[ドイツ]]との交流が深まるのもこの頃である。また、将軍は先住民をカンペシーノ(農民)と呼ぶようにし、以後政府の文書で侮蔑的な響きのあったインディオという言葉が使われることはなくなった。当時リマのスラムはシエラからの人口移動で大拡大していたが、革命政権はスラムをプエブロ・ホーベン(新しい街)と呼び、住民の組織化が進んだ。 |
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しかし、1973年にベラスコ将軍が病に倒れ、片足を切断することになると政権内での意思疎通の不和が目立つようになり、さらに同年の第一次[[オイル・ショック]]で経済が大打撃を受け、再び外国資本の導入を検討せざるを得ない状況になると各地で暴動や社会的混乱が噴出した。 |
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将軍の任期の最後の年には[[ケチュア語]]が[[公用語]]となったが、軍部主導で国民の広範な支持を得られなかった革命は、ポプリスモ的な分配による対外債務の増加、軍部とアプラ系の労組との衝突や、人民の組織化の失敗、さらには1973年[[9月11日]]の[[チリ・クーデター]]によって成立した[[アウグスト・ピノチェト]]政権が革命政権を敵視してチリとの戦争が現実味を帯びたことをはじめとして、ボリビア、アルゼンチン、ブラジルといった周辺国の官僚主義的権威主義体制との軋轢などもある中で、最終的に1975年のベラスコ将軍の失脚をもって失敗が明らかになった。 |
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1975年8月23日、軍部内右派と左派の妥協により、軍内中道派(制度派)の[[モラレス・ベルムデス]]が大統領となった。モラレスは「革命の第二段階」を称していたが、1976年5月には事実上のIMF管理下に置かれるなど改革からの後退が続いた。1977年2月にはインカ計画に続いてトゥパク・アマルー計画が発表されたが、この計画の内容は革命の凍結を図るというものだった。 |
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国民の反軍感情の高まりの中、軍は名誉ある撤退を掲げて1978年6月には制憲議会が開かれ、軍部とアプラ党の歴史的な和解の中で、非識字層に投票権を認めた1979年憲法が制定された。[[1980年]]には選挙によって民政に移り、再び人民行動党の[[ベラウンデ・テリー]]政権が誕生した。 |
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== ゲリラと現代のペルー == |
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[[ファイル:Alan García Pérez.JPG|right|200px|thumb|2006年に再選したアラン・ガルシア]] |
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第二次ベラウンデ・テリー政権は当初民主化の象徴として国民的な期待を背負って誕生したが、しかし、災害や不況で政権運営は多難を極め、ベラスコ時代に地主層が解体された後の、農村部における権力の真空状態を背景に、[[センデロ・ルミノソ]]などの[[ゲリラ]]勢力が力をつけてきた。 |
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また、1984年にはキューバ派の[[トゥパク・アマルー革命運動]](MRTA)が都市を中心に武装闘争を始める。 |
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[[1985年]]、当時32歳だった[[アラン・ガルシア]]大統領を首班とする「アメリカ革命人民同盟」の政権が発足し、アプラ党が結成以来ようやく61年目にしてはじめての政権を握った。国民の支持を背景に民族主義を掲げ、外交ではIMFへの債務の繰り延べなどの強硬な路線をとる一方で、内政では貧困層の救済に尽力した。しかしセンデロ・ルミノソをはじめとする農村部での極左テロ組織の攻撃が多発した。また、このようなポプリスモ経済政策は行き詰まり、任期の後半の[[1988年]]には[[インフレーション]]の発生と治安悪化が大問題となり、国民の支持を失って退陣した。 |
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[[1990年]]当時にはセンデロ・ルミノソは[[アヤクーチョ]]を中心にシエラの大部分を占領し、[[パンアメリカンハイウェイ]]や主要幹線道路までがセンデロ・ルミノソに押さえられてリマは包囲され、センデロ・ルミノソによる革命が間近に迫っているかのように思われた。 |
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このような危機的状況下にて行われた大統領選挙では、作家の[[マリオ・バルガス・リョサ]]を破って「[[変革90]]」を率いた日系二世の[[アルベルト・フジモリ]](フヒモリ)が勝利し、フジモリは南米初の日系大統領となる。綱領も示さないまま、既存政治勢力への失望の結果により当選した彼は、それでも「フジ・ショック」と呼ばれたショック政策によるインフレ抑制と、財政赤字の解消による経済政策を図って、新自由主義的な改革により悪化したペルー経済の改善を図り、農村部の農民を武装させたゲリラ対策により治安の安定に一部成功するなど素人とは思えない業績を残した。 |
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しかし、このような強権的なやり方が反発され、また議会を自らの行った改革の障害と見做すと、[[1992年]]4月5日にはフジモリは議会を解散し、憲法を停止して非常国家再建政府を樹立した。このようにして確立した権力を最大限に活用して、センデロ・ルミノソの首謀者グスマンを逮捕し、組織を壊滅状態に追いやるなど治安回復に大きな成果を挙げたが、この自主クーデターは、[[アメリカ合衆国]]や、ヨーロッパ諸国から「非民主的」と非難されたため、それを受けて同年11月には憲法制定議会の選挙を行い、大統領権限を強化した憲法を国民投票の結果、発布にこぎつけ、内外の非難をかわした。[[1994年]]からは軍部よりの政策になると首相辞任などの政治混乱を招いたが、自らの再選を認める1993年憲法を公布した後に、1995年の選挙で再任した。 |
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フジモリ政権は日本との友好関係を強化し、日本はこの時期にペルーへの最大の援助国となったが、これを原因として[[1996年]]に[[トゥパク・アマルー革命運動]]による[[ペルー日本大使公邸占拠事件|日本大使公邸占拠事件]]が発生した。この事件は特殊部隊の出動によって犯人側の全員射殺という結果で幕を閉じるが、この事件を境にフジモリは徐々に権威的な様相を見せ始め、政治の司法、マスコミへの介入などが進んでいくことになった。 |
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また、こうした中で、1998年にはエクアドルとの国境紛争に勝利し、両国の間で長年の問題となっていた国境線を画定することになる。 |
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2000年にはフヒモリは強引なやり方で三選を果すが、徐々に独裁的になっていった政権に対する国民の反対運動の高まりや、汚職への批判を受け、11月21日に訪問先の日本から大統領職を辞職した。顧問のモンテシノスに行わせていた買収工作や諜報機関の存在が明らかになり、フジモリ政権はペルー史上最大の腐敗政権として幕を閉じた。 |
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2001年の選挙により、「[[可能なペルー]]」から先住民初([[チョロ]])の大統領、[[アレハンドロ・トレド]]が就任した。貧困の一掃と雇用創出、政治腐敗の追及を公約とした政権は、しかし経済政策は成果を上げることはできず、国民の支持は下り坂。左翼ゲリラによるテロ活動も復活し治安は悪化している。このため国内では貧困層を中心にフジモリ待望論が広がっており、国民の3割がフジモリを支持しているとされる。これに危機感を抱いた[[アレハンドロ・トレド|トレド]]政権はフジモリ大統領を引き渡すよう日本政府に要請しているが、日本政府は引き渡しを拒否し続けているため、[[ワイスマン]]副大統領ら強硬派は日本との国交断絶を主張している。 |
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2005年11月、トレド大統領は[[アジア太平洋経済協力]]首脳会議を利用して、[[小泉純一郎|小泉]][[内閣総理大臣|首相]]に首脳会談を申し入れた。しかし、小泉首相は日程を理由に断った。 |
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2006年の選挙により、[[アメリカ革命人民同盟]](APRA、アプラ)から再び[[アラン・ガルシア]]が大統領に就任した。7月28日、フジモリ元大統領の長女ケイコら新議員等を前に就任演説で、人口の半数を占める貧困層の生活水準向上に全力で取り組む考えを示した。また、行政機関の根深い汚職体質にメスを入れ、地方分権に積極的に取り組む方針を打ち出した。1985年、36歳で大統領に就任したガルシアは腐敗一掃の期待を集めた。しかし、所属政党のAPRA関係者で政府の要職を独占したため、汚職は逆に悪化。さらに、経済・治安政策で失敗を繰り返し、国家を破綻に追い込んだ。その反省に立ち、今回の内閣では、APRA党員を閣僚16人中6人に止めた。 |
2006年の選挙により、[[アメリカ革命人民同盟]](APRA、アプラ)から再び[[アラン・ガルシア]]が大統領に就任した。7月28日、フジモリ元大統領の長女ケイコら新議員等を前に就任演説で、人口の半数を占める貧困層の生活水準向上に全力で取り組む考えを示した。また、行政機関の根深い汚職体質にメスを入れ、地方分権に積極的に取り組む方針を打ち出した。1985年、36歳で大統領に就任したガルシアは腐敗一掃の期待を集めた。しかし、所属政党のAPRA関係者で政府の要職を独占したため、汚職は逆に悪化。さらに、経済・治安政策で失敗を繰り返し、国家を破綻に追い込んだ。その反省に立ち、今回の内閣では、APRA党員を閣僚16人中6人に止めた。 |
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== 脚註 == |
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=== 註釈 === |
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<references /> |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|author=[[大串和雄]]|year=1993年1月|title=軍と革命──ペルー軍事政権の研究|series=|publisher=[[東京大学出版会]]|location=[[東京]]|isbn=4-13-036065-5|ref=眞鍋編著(1993)}} |
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* [[増田義郎]]、柳田利夫(著)『ペルー 太平洋とアンデスの国 近代史と日系社会』中央公論新社、1999年(ISBN 4-12-002964-6 C0020) |
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* {{Cite book|和書|author=[[エドゥアルド・ガレアーノ]]/大久保光夫訳|year=1986年9月|title=[[収奪された大地 ラテンアメリカ五百年|収奪された大地──ラテンアメリカ五百年]]|series=|publisher=[[新評論]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=ガレアーノ/大久保訳(1986)}} |
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* 大串和雄『軍と革命 ペルー軍事政権の研究』東京大学出版会、1993年(ISBN 4-13-036065-5) |
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* {{Cite book|和書|author=[[後藤政子]]|year=1993年4月|title=新現代のラテンアメリカ|series=|publisher=[[時事通信社]]|location=[[東京]]|isbn=4-7887-9308-3|ref=後藤(1993)}} |
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* 中川文雄、松下洋、遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社、1985年 |
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* {{Cite book|和書|author=[[立石博高]]編|year=2000年6月|title=スペイン・ポルトガル史|series=新版世界各国史16|publisher=[[山川出版社]]|location=[[東京]]|isbn=4-634-41460-0|ref=立石編(2000)}} |
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* 増田義郎(編)『新版世界各国史26 ラテンアメリカ史II』山川出版社、2000年 (ISBN 4-634-41560-7) |
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* {{Cite book|和書|author=[[中川文雄]]、[[松下洋]]、[[遅野井茂男]]|year=1985年1月|title=ラテン・アメリカ現代史III|series=世界現代史34|publisher=[[山川出版社]]|location=[[東京]]|isbn=4-634-42280-8|ref=中川、松下、遅野井(1985)}} |
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* [[エドゥアルド・ガレアーノ]](著)、大久保 光夫(訳)『[[収奪された大地 ラテンアメリカ五百年]]』新評論 1986 |
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* {{Cite book|和書|author=[[細谷広美]]編著|year=2004年1月|title=ペルーを知るための62章|series=エリア・スタディーズ|publisher=[[明石書店]]|location=[[東京]]|isbn=4-7503-1840-X|ref=細谷編著(2004)}} |
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* 後藤政子 『新 現代のラテンアメリカ』時事通信、1993年(ISBN 978-4-7887-9308-8) |
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* {{Cite book|和書|author=[[増田義郎]]、[[柳田利夫]]|year=1999年12月|title=ペルー──太平洋とアンデスの国──近代史と日系社会|series=|publisher=[[中央公論新社]]|location=[[東京]]|isbn=4-12-002964-6|ref=増田、柳田(1999)}} |
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* 中川文雄・三田千代子(編)『ラテンアメリカ人と社会』新評論、1995年(ISBN 4-7948-0272-2) |
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* {{Cite book|和書|author=[[増田義郎]]編|year=2000年7月|title=ラテンアメリカ史II|series=新版世界各国史26|publisher=[[山川出版社]]|location=[[東京]]|isbn=4-634-41560-7|ref=増田編(2000)}} |
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* 細谷広美(編著) 『ペルーを知るための62章』明石書店、2004年(ISBN 4-7503-1840-X) |
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* {{Cite book|和書|author=[[眞鍋周三]]編著|year=2006年4月|title=ボリビアを知るための68章|series=エリア・スタディーズ|publisher=[[明石書店]]|location=[[東京]]|isbn=4-7503-2300-4|ref=眞鍋編著(2006)}} |
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2010年11月17日 (水) 23:00時点における版
この項目では、ペルー共和国の歴史について述べる。現在のペルーに相当する地域は先コロンブス期のアメリカ大陸で最も高度な文明が発達した地域であり、知られているものだけでもチャビン文化やワリ文化、シカン文化、チムー文化などが考古学的に発掘されている。15世紀にそれらの諸文化を綜合する存在として現れたタワンティンスーユ、あるいは後世インカ帝国と呼ばれることになる国家は当時の地球上最大級の国家として繁栄した。1533年にタワンティンスーユがスペイン人の征服者、フランシスコ・ピサロによって滅ぼされた後、スペインの領土となったアンデス山脈一帯はペルー副王領として再編され、リマは南アメリカの西半分を統括した副王領の中心地となったが、植民地時代を通して現在のペルーに相当する地域は徐々に周辺地域と比べた衰退が明らかになっていった。1821年に独立を宣言し、1824年に独立を達成したものの、その後も内政は安定せず、1879年から1883年まで続いた太平洋戦争ではチリに敗北し、南部の領土を割譲した。20世紀に入ってからも内政は安定せず、経済的にも社会的にも低開発な状態に留まり、1968年の軍事クーデターによって成立したベラスコ将軍の軍事革命政権によって実施された一連の社会改革も、ペルー社会に肯定的な影響を及ぼすことはできなかった。1980年の民政移管後には深刻な社会不安と経済危機に見舞われ、左翼ゲリラと政府の間で内戦に陥っている。また、1941年からペルーはエクアドルとアマゾン川流域の低地を巡って数次に及ぶ国境紛争を繰り広げ、1998年に最終的にこの紛争に勝利して広大な領土を併合している。
先コロンブス期
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1000B.C.頃~200B.C.頃、アンデス山脈全域にネコ科動物や蛇、コンドルなどを神格化したチャビン文化が繁栄する。その後、コスタ北部にモチェ文化がA.D.100頃~A.D.700頃、現トルヒーヨ市郊外に「太陽のワカ」「月のワカ」を築き、コスタ南部では、A.D.1頃~A.D.600頃に、信仰や農耕のための地上絵を描いたナスカ文化が繁栄した。
紀元800年ごろ、シエラ南部のアヤクーチョ盆地にワリ文化が興隆した。ティワナクの宗教の影響を強く受けた文化であったと考えられ、土器や織物に地域色は見られるものの統一されたテーマが描かれること、いわゆるインカ道の先駆となる道路が整備されたこと、四辺形を組み合わせた幾何学的な都市の建設などからワリ帝国説が唱えられるほどアンデス全域にひろがりをみせ、1000年頃まで続いたと考えられる。コスタ北部のランバイエケ地方には、金やトゥンバガ製の豪華な仮面で知られるシカン文化がワリ文化の終わりごろに重なって興隆した。
その後、コスタ北部にはチムー王国が建国され、勢力を拡大した。首都チャン・チャンの人口は25,000人を越え、王の代替わりごとに王宮が建設されたと思われる。
タワンティンスーユの繁栄と滅亡(1438年-1533年)
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15世紀になりクスコ周辺の南部の山岳地帯が、1438年に即位したケチュア族の王パチャクテクによって軍事的に統一されると、以降は征服戦争を繰り広げて急速に勢力を拡大してきた、ケチュア族によるタワンティン・スウユ(インカ帝国)によってペルー、及び周辺のアンデス地域は統合された。続くトゥパク・インカ・ユパンキの代になると、チムー王国も1476年頃に征服されて、その支配体制に組み込まれた。続くワイナ・カパックの征服によりアンデス北部にも進出し、アンデス北部最大の都市だったキトを征服することになる。またワイナ・カパックはマプーチェ族と戦ってチリの現サンティアゴ・デ・チレ周辺までと、アルゼンチン北西部を征服し、ユパンキの代から続いていた征服事業を完成させ、コリャスーユの領域を拡大させると共にインカ帝国の最大版図を築いた。
インカ帝国はクスコを首都とし、現ボリビアのアイマラ族の諸王国や、チリ北部から中部まで、キトをはじめとする現エクアドルの全域、現アルゼンチン北西部を征服し、その威勢は現コロンビア南部にまで轟いていた。インカ帝国は幾つかの点で非常に古代エジプトの諸王国に似ており、クスコのサパ・インカを中心にして1200万人を越える人間が自活できるシステムが整えられていた。インカ帝国はそれまでのアンデス文明の集大成であり、文字を持たなかった文明であったものの、キープと呼ばれた縄によって数の管理がなされ、巨石建築には非常に高度な技術が用いられていた。
帝国は16世紀初め頃まで栄えていたが、1492年にジェノヴァ人の航海者クリストーバル・コロンがアメリカ大陸に到達し、パナマ地峡が1501年にスペイン人のロドリーゴ・デ・バスティーダスによって征服されると、パナマ地峡から南にもたらされたヨーロッパの疫病が帝国内でも流行し、ワイナ・カパックがこの疫病によって病死した。その後帝位継承などの重大な問題を巡ってキト派のアタワルパと、クスコ派のワスカルの二人の皇子の間で激しい内戦が繰り広げられた。
内戦はアタワルパの勝利に終わったが、内戦の疲弊の最中に、パナマ市から南米大陸の太平洋側を南下して遠征してきたフランシスコ・ピサロ率いるスペイン人が、コスタ北部の旧チムー王国の領域に上陸した。ピサロは偵察後、すぐにスペインに戻って国王カルロス1世に自らをペルー総督に任命させ、インカ帝国を侵略することを決めた[1]。1531年1月に180人の征服者達がパナマを出帆した。
イタリア戦争で少数部隊戦闘の経験を積んでいた征服者達は1532年11月16日にカハマルカの戦いで第13代皇帝アタワルパを捕らえ、莫大な身代金を取った後に絞首刑にした[2]。スペイン人は1533年11月15日にクスコを征服し、アンデスを支配していた帝国としてのインカ帝国は崩壊した。ピサロは1534年にスペイン式の都市としてクスコ市とリマ市を建設すると、以降このコスタの都市が、それまで繁栄していたクスコに代わってペルーの中心となった[3]。征服以後南北アメリカ大陸の住民は、スペイン人によってインディオ(当時のスペイン語で「インド人」の意)と呼ばれるようになった。
ペルーの征服とビルカバンバのインカ政権(1533年-1572年)
ピサロは旧ワスカル派のマンコ2世をインカ皇帝の位に就けたが、マンコ2世はスペインの傀儡であることを良しとせずにクスコを脱出してインカ人を動員し、街を包囲した[4]。しかし、農繁期が来たために包囲は解かれ、折しも成果をあげることなくチリ遠征から帰還したディエゴ・デ・アルマグロによって、クスコは再征服されたのであった[5]。クスコは1538年にフランシスコ・ピサロの異母弟のエルナンド・ピサロによって攻略され、アルマグロは処刑された[6]。この事件がきっかけとなり、フランシスコ・ピサロはアルマグロ派によって暗殺されたが、新総督のバカ・デ・カストロが派遣され、アルマグロ派のスペイン国王への反逆罪を理由に総督バカがピサロ派についたために、国王を味方に得たピサロ派はアルマグロ派を打ち破り、ペルーの支配権を確立したかに見えた[7]。しかし、国王カルロス1世が1542年にエンコミエンダを一代限りの財産にすることを定めたインディアス新法を制定したがために、財産を奪われることを恐れたピサロ派はゴンサロ・ピサロを擁立して、国王に対する反乱を起こした[8][9]。反乱は成功したかに思われたが、新総督ガスカはエンコミエンダの保障を取引材料にしてピサロ派を切り崩し、ゴンサロ・ピサロを破った[10]。それまでスペイン人征服者のエンコミエンダはピサロによって与えられたものであったが、この抗争の解決にあたって1549年にエンコミエンダの再配分が王権によってなされたことにより、ペルーにおけるスペイン王権の支配が確立した[10]。
一方、クスコ包囲を解いたマンコ2世はオリャンタイタンボに撤退し、そこに新たなインカ政権を築いたが、マンコ2世はスペイン人との戦いのためにさらに奥地のビルカバンバに撤退した[11]。マンコ2世は1545年に死去し、その後ビルカバンバ政権とスペイン人との間では宥和政策が続いたが、1571年に即位したトゥパク・アマルーは主戦論を採り、当時のペルー副王フランシスコ・デ・トレドも同様だったがために、スペイン人に敗れて捕らえられたトゥパク・アマルーは1572年9月24日にクスコの広場で斬首され、インカ帝国はその歴史の幕を閉じた[12][13]。
スペイン植民地時代(1542年-1824年)
スペイン植民地下のペルーには、1542年にペルー副王領[註釈 1]が設立され、行政の中心地はアンデス山脈中のクスコから、太平洋沿岸のリマに移された。リマはスペインの南アメリカ支配の本拠地として栄え、1550年にはサン・マルコス大学が建設された。征服の時代にはエンコミエンダを割り当てられた征服者(エンコメンデーロ)による気ままな支配が行われていたが、アルト・ペルーがスペイン王の植民地としての制度を整えた頃から、エンコメンデーロを排斥するため、国王によって任命された任期5年のコレヒドール(地方行政官)と、コレヒドールによって使役されるインディオのカシーケ(首長)による支配体制が確立された[15]。しかし、コレヒドールの給与は生活を送るには低すぎたために、多くのコレヒドールはレパルティミエント(商品強制分配)を利用してインディオに商品を不当な価格で売買し、私財を蓄えることを常とした[16]。このことはインディオの怨嗟を招くと同時に植民地行政の腐敗の温床となった。植民地時代を通してコレヒドールはレパルティミエントによる搾取のみならず、ミタ制と呼ばれるカシーケを通じたインディオ共同体への賦役、貢納を要請し、特に3世紀の間に800万人の死者を出したポトシ銀山をはじめとする鉱山でのミタは、多くのインディオ共同体に甚大な被害を与えた[17][16]。コレヒドール制やミタ制の導入といった植民地支配のための官僚機構の整備は、1569年から1581年まで着任したペルー副王フランシスコ・デ・トレドの統治によって完成した[18]。アメリカ大陸の住民の征服と、それに伴う数多の犯罪行為を思想的に正当化するために、キリスト教カトリック教会がスペインの精神的な支柱の役割を果たしたため、1546年にはリマに大司教座が設置され、ドミニコ会、フランシスコ会、メルセー会、イエズス会などの修道会がインディオへのカトリックの布教を大々的に進めた[19][20]。この他にもトレドはインディオを強制集住させてレドゥクシオンと呼ばれる人口村落を各地に築きあげたが、レドゥクシオン政策は早期に失敗し、流浪するインディオが現れるようになった[21]。
ポトシ鉱山は1545年に現ボリビア多民族国の南部に当たる地域に発見されたが、その豊富な銀を採掘するために副王トレドの改革によって定められたミタ制により、多くのインディオがティティカカ湖周辺やクスコから集められ、奴隷労働に従事させられた。インディオはこの鉱山のミタを恐れ、共同体を離脱するなどの手段によってミタを逃れるものも少なくなった[22]。トレドは1572年に水銀アマルガム法を導入して銀生産量を上げ、インディオの過酷な労働によって採掘された南アメリカ原産の銀は、戦争によって逼迫したフェリペ2世期のスペインの財政を大いに助けた[23][24]。ポトシ銀山での強制労働によってどれだけの人口減があったかは定かではないが、一説には3世紀で800万人が命を落としたとも主張され[25]、少なくともインカ帝国時代に1000万人を越えていた人口が、1570年に274万人にまで落ち込み、1796年のペルーでは108万人になったとのH.F.ドビンズの推計が存在する[26][註釈 2]。ポトシの富は人間を集め、16世紀中に人口16万人を擁する、当時のロンドンよりも大きい西半球最大の都市となった[27]。こうして採掘された銀は一通り副王領を循環して銀を中心とした植民地経済の形成が行われた後に、パナマやカルタヘナ・デ・インディアスを通してスペインに送られ、スペイン国内での産業を産み出すことなく、王室や貴族の間での浪費やカトリック信仰防衛のための対外戦争の戦費のために使われた[28][29]。このようにしてスペインに流出した銀は、スペインからオランダ、イングランド、フランスなどに流出し、ヨーロッパの価格革命を支える原動力となった。更にこの銀はヌエバ・エスパーニャ副王領(現在のメキシコ)にまで流入し、メキシコ商人が主導したメキシコのアカプルコとフィリピンのマニラを結ぶガレオン貿易に際して、清(中国)の製品を購入してイスパノアメリカにもたらすために決済され、結果的にアジアにまで流出していたのである[30]。
物流の進展に伴って人の移動もまた加速した。農業ではアシエンダ制が発展し、教会や一般スペイン人に土地を奪われたインディオは、農園でも奴隷労働力として酷使された[31]。アフリカからも黒人奴隷が導入され、黒人奴隷は海岸地方(コスタ)の砂糖プランテーションの労働力となった[32]。こうした複雑な要因が積み重なった結果、18世紀までにペルーでも多くのラテンアメリカ諸国と同様にクリオーリョ(現地生まれの白人)が大多数のインディオ、メスティーソ、黒人を支配するピラミッド構造の上に、ペニンスラール(本国から派遣されたスペイン人)の役人が君臨する社会体制が築かれた。そしてこのような植民地支配に対して、インディオやメスティーソや一部のクリオーリョは、インカ王権にアイデンティティを求めて反乱を繰り返した[33]。1730年のコチャバンバでのアレホ・カラタユーの反乱、1739年のオルロでのインカ王の子孫を名乗ったクリオーリョのフアン・ベレス・デ・コルドバの反乱、1742年のアンデス山脈東嶺セルバでのフアン・サントス・アタワルパの反乱などが主なものであり、これらの反乱はいずれも鎮圧されたが、トゥパク・アマルー2世の大反乱の先駆となった[33]。これらの反乱の背景には、17世紀にインカ皇帝の子孫だったメスティーソのインカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガの著書、『インカ皇統記』によって神聖化されたインカ王権のイメージの影響があったとされており、「インカ・ナショナリズム」と名付けられるこの思想潮流は白人をも含む多くの現地エリートを惹きつけていた[34]。
1717年にペルー副王領からボゴタを主都にパナマ、カラカス、キトを含む地域が、イギリスの攻撃に備えることを目的にヌエバ・グラナダ副王領として分離された[35]。ヌエバ・グラナダ副王領は一旦廃止されたものの、1739年に復活した[35]。ペルーの衰退は、それまで貿易特権により、リマ商人とパナマ地峡を経由してヨーロッパとの貿易を行う必要があったブエノスアイレスやチリ、ベネズエラなどのペルー副王領内の周辺的な地域が、ヨーロッパとの直接交易が可能になった1748年以降相対的に進行して行った[36]。植民地時代のリマでは都市文化が栄えており、特に1761年から1776年まで着任した副王アマトはリマの市街地整備や演劇の振興に尽力した[37]。
1759年に即位したスペイン王カルロス3世は衰退を迎えていたスペイン帝国の復興のために、1776年にボルボン改革を実施し、その一環として植民地の再編を図った。1776年にはポルトガル領ブラジルからラ・プラタ地域(現在のアルゼンチン・ウルグアイ・パラグアイ)を防衛するためにリオ・デ・ラ・プラタ副王領がペルー副王領から分離され、リオ・デ・ラ・プラタ副王領にはアルト・ペルーもが編入された[38]。リオ・デ・ラ・プラタ副王領は以降リマを介さずに、副王領の主都となったブエノスアイレスから直接ヨーロッパと貿易を行うようになった。その他にも新税の導入や、レパルティミエントの腐敗を一掃するためにコレヒドール制に代わってインテンデンテ制が導入されたが、ペニンスラールを中心に据えた改革はクリオーリョからインディオまで多くの植民地人に大きな不満をもたらした[39]。植民地人がボルボン改革に不満を抱く中、1780年にトゥパク・アマルーの子孫だった運送業者のホセ・ガブリエル・コンドルカンキはトゥパク・アマルー2世を名乗り、インディオやメスティーソを動員してクリオーリョ支配層に対する反抗とスペイン王への忠誠を名目に反乱を起こした[40]。ホセ・ガブリエル・コンドルカンキはミタ制、レパルティミエント、ボルボン改革による新税の廃止などを掲げており、当初反乱は白人も含んだ大衆反乱だったが、次第に貧困層のインディオを主体とした反乱軍がスペイン王治下の改革から理想化されたインカ帝国の復興に目標を変え、その過程の中で白人に対する暴行、殺害が相次ぐようになると、当初協力的だった白人の支持も次第に失い、トゥパク・アマルー2世は部下の裏切りにより捕らえられ、先祖と同様にクスコの広場で処刑された[41]。1781年にはアルト・ペルーでもトゥパク・アマルー2世に呼応したトゥパク・カタリが反乱を起こし、二度に渡ってラパスを包囲したが、白人層やカトリック教会への苛烈な態度によって彼等の支持を得ることができず、カシーケの支持もなかったために同年捕えられて処刑された[42]。
独立戦争(1810年-1824年)
19世紀に入り、ナポレオン戦争によるヨーロッパでの政変によって、スペイン本国でフランス帝国軍の軍事力を背景にフェルナンド7世が廃位され、皇帝ナポレオンの兄のジョゼフがホセ1世として国王に即位すると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否し、キト、ラパス、カラカス、ブエノスアイレス、ボゴタ、サンティアゴ・デ・チレなど各地でクリオーリョによる自治運動が進んだ[43]。しかしペルーでは、ペルーのクリオーリョが、インディオ大衆による社会革命と化したトゥパク・アマルー2世の反乱の恐怖を忘れることが出来なかったために自治運動は進展しなかった[44]。この情勢を幸いとしてペルー副王フェルナンド・アバスカルは、自治派クリオーリョが実権を握っていたアルト・ペルーのラパス、キト、チリのサンティアゴ・デ・チレに遠征軍を送り、在地のクリオーリョの自治政府を鎮圧した[45]。ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョの反乱が鎮圧された後、アルト・ペルーは再びリオ・デ・ラ・プラタ副王領からペルー副王領に編入され、1810年5月25日の五月革命によってポルテーニョが自治政府を樹立したブエノスアイレスは、マヌエル・ベルグラーノ将軍を差し向けてアルト・ペルーを解放しようとしたが、アバスカルはこの解放軍による攻撃をも乗り切った。1814年にクスコからマテオ・ガルシア・プマカワが蜂起し、しばらくシエラの主要部を占領したが、プマカワも敗れ[46]、ペルーは外来勢力の二人の英雄に解放される形で独立を果たすことになった。
1816年に独立したリオ・デ・ラ・プラタ連合州(現在のアルゼンチン)はペルーからスペイン軍を追い出すことが自国の独立を保証すると考え、ホセ・デ・サン=マルティン将軍はこの構想の下にまずアンデスを越えてチリを解放し、チリから海路でリマを攻略することを決定した。サン=マルティン率いる解放軍がリマを解放すると、1821年7月28日にペルーはサン=マルティンの指導の下で独立を宣言したが、副王政府は植民地支配に固執し、シエラに逃れて抵抗を続けた。しかし、間もなくサン=マルティンのペルー統治がリマ寡頭支配層間の内紛で行き詰ったため、1822年7月26日にサン=マルティンは、北のベネズエラからコロンビア共和国の解放軍を率いた解放者シモン・ボリーバルとグアヤキルで会談し、この会談によってボリーバルはサン=マルティンからペルー、アルト・ペルーの解放戦争を引き継いだ。1824年8月6日にフニンの戦いでボリーバルはスペイン軍に勝利すると、ボリーバルはリマを再々解放し、一方分遣隊を率いたアントニオ・ホセ・デ・スクレが12月9日にアヤクーチョの戦いでペルー副王ホセ・デ・ラ・セルナ [註釈 3]を撃破し、ここでペルーは事実上の独立を果たした。1826年1月23日にはカヤオ要塞に籠ったスペイン軍の残党も降伏し、ペルーからスペイン勢力は一掃された。こうしてペルーは長く続いたスペインの支配からようやく独立を果たしたのである。
しかし、政治的な主権の獲得が、直ちにインディオ、メスティーソ、黒人、そして女性といった人々の平等と尊厳の獲得に繋がったわけではなかった[47]。独立時の戦いにより財政は疲弊し、農業も鉱業も荒廃しきっており、奴隷制は完全に廃止されず、1826年のペルーの人口約150万人のうち、148,000人と一割にすぎない白人の、さらに男性のみが、以降百数十年以上ペルーの国政を動かすのであった[48]。
カウディーリョの時代(1824年-1884年)
独立後のペルーの政治はやはり多くのラテンアメリカ諸国と同じくカウディーリョ(地方に依拠する軍事指導者)の政治となり、1846年まで各地でカウディーリョ間の私闘が続いた。その中でも特に有力だったのはアヤクーチョの戦いでスクレと共に戦ったホセ・デ・ラ・マール、アグスティン・ガマーラ、アンドレス・デ・サンタ・クルスの三人であった[49]。一方ボリビア共和国(ボリーバルの共和国)の事実上の初代大統領はベネズエラ人でボリーバル派のスクレだった。ラ・マールとガマーラは強硬な反ボリーバル派であり[50]、大コロンビアやボリビアのスクレ政権と敵対し、周辺国との戦争に明け暮れた。1828年にラ・マール政権はグアヤキル(現エクアドル最大の港湾都市)を要求してコロンビア共和国に宣戦布告したが、ラ・マール大統領はポルテテ・デ・タルキの戦いでボリビアからコロンビアに帰国したスクレに打ち破られた後、ラ・マールはガマーラによって追放された[51]。他方ボリビアでは、1827年にスクレが失脚してから、サンタ・クルスが実権を握っていた[52]。この後、1829年にペルーの大統領になったガマーラとボリビアの大統領になったサンタ・クルスは、互いにペルーとボリビアの合邦構想を抱き、自らがその領袖となろうとしていた[53]。
ペルー国内の政変で失脚したガマーラはボリビアの攻略を計画したが、先手を取ったボリビアのアンドレス・デ・サンタ・クルス大統領が、ボリビア主導でのペルー・ボリビア連合構想に基づいて1836年にペルーを完全征服し、同1836年10月に北部ペルー、南部ペルー、ボリビアの三州から成るペルー・ボリビア連合の成立が宣言された[54][55]。ガマーラをはじめとする亡命ペルー人は独立戦争の経緯から反ペルー感情の強かったチリに亡命すると、チリ政府とアルゼンチンの実力者フアン・マヌエル・デ・ロサスの力を得て軍を動かし、ユンガイの戦いでサンタ・クルスを破ったため、1839年にこの国家連合は崩壊した[56]。
再び独立したペルーではガマーラが大統領に就任し、1841年にペルー主導でのペルー・ボリビア連合を望んだガマーラは侵攻軍を率いてボリビアに向かったが、インガビの戦いでボリビア軍によって撃退され、ガマーラ自身も戦死した[57]。翌1842年にプーノで両国の講和条約が結ばれ、以後両国の統一を望む運動はなくなった[58][59]。ガマーラの死後ペルーは内乱状態に陥ったが、1845年にかつてアヤクーチョで戦ったラモン・カスティーリャが内乱を制して大統領に就任すると、この1845年から1867年まで事実上ペルーを支配したカスティーリャの時代に、強権によってペルーの内政は安定を迎えた[60][61]。この時代にはイギリスやアメリカ合衆国をはじめとする外国資本によって経済開発が進み、肥料に適していた海岸部のグアノ(海鳥の糞からなる鉱石資源)や、コスタでの綿花やサトウキビ、タラパカでの硝石が主要輸出品となってペルー経済を支え、特にグアノから生み出された富によってそれまで滞っていた公務員や軍隊への給与や外債の支払い、鉄道や電信、上下水道、港湾などインフラストラクチュアの整備、士官学校の創設や海軍の増強、盗賊の出没した街道の治安の確立などの諸事業がなされた[62][63]。
1851年にはペルー史上初の自由選挙でホセ・ルフィーノ・エチェニケが大統領に就任した。1852年には民法が制定されたなど功績もあったが、エチェニケが汚職事件を引き起こしたことがスキャンダルとなったため、1854年にラモン・カスティーリャが蜂起し、カスティーリャは同年反乱の最中にインディオの貢納と奴隷制の廃止を宣言した[64]。翌1855年にラ・パルマの戦いでカスティーリャが政府軍に勝利すると、同年第二次カスティーリャ政権が成立した。カスティーリャは1860年に立法府を凌ぐ強力な大統領権が定められた新憲法を制定し、この憲法は比較的長命な憲法となり、実に1920年まで効力を保った[65]。他方、反乱の最中の1854年に黒人奴隷が解放されたことは、ペルーの指導層に奴隷に代わる新たな労働力を必要とさせたため、1849年に成立した移民法によってコスタのプランテーションで働く労働力として、アイルランド人移民やドイツ人移民、中国人移民が導入された[66]。苦力(クーリー)として導入された中国人の数は1850年から1880年の間に約10万人だと推計されており、黒人に替わる新たな奴隷の如き劣悪な労働条件で労働させられた[67][註釈 4]。しかし、依然として労働力は不足していたために、ペルー政府の要請を受けたアイルランド人のジョゼフ・バーンは、ポリネシアのクック諸島などの住民を奴隷として捕らえ、コスタの大農園に連行したため、これらの諸島の文化は大きく衰退することになった[69]。また、インディオ農民に対する税はカスティーリャによって廃止されていたが、他方でそのことは大土地所有者がインディオ共有地を解体して大農園を拡大させる作用をもたらし、農民大衆の窮乏に変化はなかった[70]。第二次カスティーリャ政権はペルー・アマゾンの開発を進め、イキートスを拠点にゴムやキニーネが生産された[65]。
1863年に副大統領から昇格したフアン・アントニオ・ペセット政権の時代に、ペルーの大地主によるバスク人移民の扱いがペルーとスペインの間で外交問題となり、1865年に海軍大臣ホセ・マヌエル・バルハ率いるスペイン太平洋艦隊がチンチャ諸島を占領した[71]。バレハはチンチャ諸島と引き換えに300万ペソをペルーが支払うことを求める屈辱的な講和条約を要求し、ペセットはこれを飲んだが、この条約は国民の怒りを招いたためにペセットは失脚し、主戦派のマリアーノ・イグナシオ・プラードが大統領に就任した[72]。プラードは1866年にスペインに宣戦布告し、チリ、エクアドル、ボリビアと同盟を結び、侵攻してきたスペイン軍に対してペルー軍は5月2日のカヤオの戦いで勝利し、スペイン軍は撤退し、以降ラテンアメリカの主権に脅威を及ぼすことはなくなった[73]。スペインがペルーの独立を認めたのは1879年のことであった。
1868年に就任したホセ・バルタ大統領はグアノ利権によって鉄道の建設を進めた。1872年にペルー初の政党だった文民党からマヌエル・パルドが、文民として初めて大統領に就任した。パルド政権下ではグアノの枯渇が始まっており、財源の不足からパルド政権はアルゼンチンと同盟を、ボリビアと秘密同盟を結んだ上で軍の予算を1/4に減らす大軍縮を行ったが、この措置はペルーにとって命取りとなった[74]。
1876年に再び大統領に就任したマリアーノ・イグナシオ・プラードは難題に直面した。前政権の大軍縮やグアノ経済の悪化の中で、既に財政破綻が迫っていたのである[75]。それまでチリとボリビア両国間ではアントファガスタの硝石鉱山を巡って対立が生じていたが、ペルーはボリビアとの秘密同盟を結んでいたために、1879年4月3日に同盟国ボリビアと共にチリに宣戦布告され、太平洋戦争が勃発した[76]。ペルー海軍は5月21日のイキケの海戦で新鋭艦のインデペンデンシアを失いながらもミゲル・グラウ提督はワスカルを駆って神出鬼没の海上ゲリラ戦を繰り広げたが、10月8日のアンガモスの海戦でグラウが戦死し、ワスカルが拿捕されるとペルーは制海権を失い、大勢は決した[77]。戦線は陸上に移行したが、制海権を失った状態でのアタカマの砂漠地帯の補給は叶わず、1880年5月にはタクナが陥落し、ボリビアが戦線から離脱した[78]。続くアリカの戦いでもフランシスコ・ボログネシ将軍に率いられたペルー兵は勇戦したものの敗北し、ボログネシ自身も戦死した後、1880年中にアタカマの係争地はチリ軍によって占領された[79]。1881年1月に25,000人の兵力でリマ近郊に上陸したチリ軍は、ミラフローレスの戦いでペルー軍を破り、首都リマは陥落した[80]。リマ攻略後ペルーは政治的に分裂して各地に3人の大統領が生まれたが、混乱を制してカハマルカで権力を掌握したミゲル・デ・イグレシアス大統領によって1883年10月23日にアンコン条約が結ばれ、ペルーはチリにタラパカを割譲し、アリカ、タクナをチリ管理下にした後住民投票で帰属を決定することとなった[80]。戦争はペルー・ボリビア同盟の完敗で終わった。
文化面ではこの頃、フランスの文化が導入され、1880年代からはリマ市もフランス風に改造された[81]。一方庶民の世界ではレオン・アングラン、ヨハン・モリッツ・ルゲンダス、パンチョ・フィエロなどの画家や、『ペルー伝説集』を残した文学者のリカルド・パルマなどが活躍し、この時期にリマでは支配階級から距離を置いた大衆の文化としてのクリオーリョ文化が育った[82]。
敗戦後の再建と貴族共和制
太平洋戦争敗戦後、イグレシアス将軍は大統領を続けたが、1886年にタラパカの英雄ことアンドレス・カセレス大佐が政権を握った。カセレス政権はカウディーリョの挑戦と5,000万ポンドに上った対外債務の処理を対応したが、カセレスは強権政治と、1887年に締結されたグレイス条約によって、ペルーの持つ権益をほぼ全てイギリスのペルー会社に売却し、この危機に対処した[83][84]。国家の収入源のほぼ全てがイギリスに売り渡されたこの条約は屈辱的なものではあったが、ペルー経済は底を打った後に再び回復の軌道に乗った[85]。また、敗戦をきっかけに、マヌエル・ゴンサーレス・プラーダのようにそれまで全く省みられることのなかったシエラのインディオの文化に、ペルー性を求める言説が生まれたことも注目に値する[86]。カセレスは大統領を辞任した後も部下のモラレス・ベルムーデスを大統領に据え、政治の実権を握っていたが、1895年にクーデターで文民のニコラス・デ・ピエロラが政権を握ると、歴史家によって「貴族主義的共和国」[87]と呼ばれる時代が幕を開けた[88]。ピエロラ時代からそれまでの自由放任経済体制に代わり開発省による国家主導の開発政策が実施されてペルーの工業化が始まり、地方自治の拡大、公正な選挙の実施、フランス流の軍制改革などがなされた[89]。カセレスとピエロラの時代には破産寸前だったペルーを生き返すために、外国資本に頼った経済開発が進められ、セロ・デ・パスコ銅山の銅にはアメリカ合衆国資本、油田にはイギリス資本、コスタの砂糖や綿花のプランテーションには移民資本が投下された[90]。砂糖は新たなペルーの外貨収入源となり、1878年には砂糖輸出額が約1,000万ドルに達し、ペルーは20世紀初頭までキューバと並んで世界有数の砂糖輸出国となった。
ピエロラが残した文民政治はその後も続き、1904年の選挙では民生党からホセ・パルドが大統領に就任したが、他方でこの頃から外資主導の経済開発の中に労働運動が頭をもたげた[91]。1908年には寡頭支配層の分裂の間隙をぬってパルド政権の蔵相だったアウグスト・レギーアが民生党から政権に就き、レギーアはこれから20年に渡り権力を掌握することになる。1912年に成立した民主党のギジェルモ・ビイングルスト政権は、8時間労働法などの労働者や農民の権利を保護するための法案を複数通過させたが、そのような姿勢が議会と対立したために、1914年2月4日に議会の要請によってオスカル・ベナビデス参謀総長がクーデターを起こしてビイングルストを追放した[92]。臨時大統領に就任したベナビデスは第一次世界大戦に中立を表明した後、選挙を経て1915年8月にホセ・パルドが大統領に就任した[93]。パルド政権期にはロシア革命の影響から他のラテンアメリカ諸国と同様にアナルコ・サンディカリスム系列の労働運動が激化し、アルゼンチンのコルドバ大学の改革運動に影響を受けた学生運動も高揚した[94]。
文化面では、思想的にオーギュスト・コントの実証主義と、ウルグアイのホセ・エンリケ・ロドーのアリエル主義の影響が強かった。科学と資本主義を擁護する実証主義の流れは太平洋戦争敗戦後の1880年代に新実証主義となり、新実証主義はペルーに社会学を導入したカルロス・ソリン、移民によるペルーの人種の白人化を主張したハビエル・プラード、資本主義を批判したホアキン・カペーロ、さらには後のインディヘニスモの先駆となる最も異端的なマヌエル・ゴンサレス・プラダなど、サン・マルコス大学の知識人によって発達させられ、現実政治の中ではピエロラ政権のイデオロギーともなった[95]。一方、物質主義と功利主義を批判し、精神主義を主張したアリエル主義は、インカとスペインの混血性にペルーの美徳を見出すメスティサヘを提唱したホセ・デ・ラ・リバ・アグエロや、ビクトル・アンドレス・ベラウンデ、ガルシア・カルデロンといった人物を生み出し、サン・マルコス大学に並ぶ最高学府であるペルー・カトリック大学(1917)は、アリエル主義者のカルロス・アレナス・イ・ロアイサによって設立されたものであった[96][97]。
オンセニオ(1919年-1930年)
1918年のサン・マルコス大学の学生運動のようにペルーでも階級闘争が激化していたことを背景に、1919年の大統領選挙では社会改革を掲げたアウグスト・レギーアが圧勝し、正式に大統領に就任する前にパルドを追放、議会を解散して1920年1月に初等教育の無償化や累進課税、医療の拡充、先住民への教育の普及と同化政策を定めた、当時としては進歩的な1920年憲法を制定した[98]。好調な経済と軍部の力を背景に1919年から1930年まで続いた第二次レギーア政権の11年は「オンセニオ」[註釈 5]と呼ばれる[99]。
レギーアは弱体化していた既成政党を操作しながら政治を意のままにし、鉱業や農業の成功を背景に経済が安定したこともあって、オンセニオ期には借款を用いて道路や鉄道、小学校の建設などの公共事業が興された[100]。この時期に第一次世界大戦によって衰退したイギリスに代わって、アメリカ合衆国がペルー第一の投資元となった[101]。外交面ではアメリカ合衆国との友好を確立することでの領土問題の解決が図られた。北部では1922年にサロモン・ロサーノ条約が調印され、プトゥマヨ川がコロンビア・ペルーの国境に定められてコロンビアのレティシア領有を認め、南部では1929年にチリからタクナが返還されたが、アリカの返還は行われず、ペルー国民に強い不満を生じさせた[102]。1929年に発生した世界恐慌によってペルー経済が壊滅状態に陥ると、アレキパの連隊長だったルイス・ミゲル・サンチェス・セロ中佐が蜂起し、レギーアは失脚した[103]。
文化面では、サン・マルコス大学の学生運動が社会的に大きな影響を持っていたためレギーアはしばしばサン・マルコス大学を閉鎖し、ハビエル・プラードやリバ・アグエロのような知識人が大学を追われた結果、大学そのものが学問の場から学生活動家による政治活動実践の場に変質してしまった[104]。サン・マルコス大学の学生活動からは、活動家だったビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレが1924年に亡命先のメキシコ市でアメリカ革命人民同盟(APRA)を創設している。APRAは当初マルクス主義的な立場からの運動だったが、APRAの反帝国主義はソ連のそれとはまた別物であり、1927年に思想上の差異からコミンテルンと絶縁したために、1928年に『ペルーの現実理解のための七試論』(1928)の著者ホセ・カルロス・マリアテギによって、国際共産主義運動の立場からペルー社会党が創設された[105]。しかし、マリアテギもまた独自色が強すぎたために1929年にコミンテルンから否定され、マリアテギ自身が1930年に病没するとペルー社会党はコミンテルンに従ってペルー共産党に改名し、以後の急進左翼運動の主導権はAPRAによって担われることになった[106]。アヤ・デ・ラ・トーレもマリアテギも、共に社会主義をペルーのインディヘニスモとの関わりの中で解釈した思想家であり、彼ら以後は文学に於いてもシロ・アレグリアやホセ・アルゲダスのような、インディヘニスモ的な作家が現れた[107]。また、オンセニオ期にはサッカーが大衆化し、全土に普及した[108]。
APRAと軍部
世界恐慌後、輸出依存型の経済構造が破綻し、労働人口の1/4が失業するほどの経済的打撃を受けたペルーの政局は、急激に不安定化した[109]。1931年の大統領選挙はAPRAのアヤ・デ・ラ・トーレと、レギーアを打倒したサンチェス・セロの一騎打ちとなり、両者共に大衆動員を図ったが、結果的にはセロが勝利することになった[110]。アヤ・デ・ラ・トーレはこの結果を認めず、不正選挙によるものだと主張したため、大統領となったサンチェス・セロはAPRAを弾圧しながら新憲法を作成したが、これを受けてAPRA党員によるサンチェス・セロ暗殺未遂事件が発生し、同時期に政府によるアヤ・デ・ラ・トーレに対する逮捕状が発行された[111]。先手を打ったAPRAは1932年7月に本拠地のトルヒーヨ市で武装蜂起し、軍人約60人を処刑したが、この事件は軍部の深い怒りを招き、軍部はすぐさま7月7日にチャン・チャン遺跡で1,000人のAPRA党員を虐殺する報復に及んだ[112]。この事件以降軍部とAPRAは互いに深い憎悪を抱いて対立するようになった[113]。
サンチェス・セロ大統領は、1932年にペルー人の過激派から始まったレティシア占領運動に乗じてサロモン・ロサーノ条約を否定し、コロンビアからレティシアを奪うためにコロンビア・ペルー戦争を引き起こしたが、コロンビアとの戦争に赴く兵士を閲兵している最中にAPRA党員の青年によってサンチェス・セロは暗殺され、4時間後にペルー議会はオスカル・ベナビデス将軍を臨時大統領に選んだ[114]。ベナビデスはコロンビアとの戦争を収め、アヤ・デ・ラ・トーレを釈放するなどAPRAとの協調を図ったが、APRAは妥協しなかったため、APRAによるテロリズムはその後も続き、ベナビデスもAPRAとの対決を選んだ[115]。ベナビデスの任期が終わる1936年の選挙でAPRAが支持する左派が勝利しかけると、ベナビデスは選挙を無効化して任期を三年間延長し、経済の好転も手伝って1939年までの任期を無事に終えた[116]。ベナビデス時代には世界恐慌の影響により輸入代替工業化が進み、社会面ではレギーア時代の延長となる道路の建設や既製の道路の舗装が進み、水道の敷設や年金の整備など社会保障も拡充された[117]。
ベナビデスの任期が終わった後、1939年にマヌエル・プラード(マリアーノ・プラードの息子)が大統領に就任した。プラードは連合国側で第二次世界大戦に参戦し、敵性国民となった日系ペルー人は弾圧された[118]。既に1940年5月13日にはリマで排日暴動が起きていたが、太平洋戦争が始まると1,800人の日本人がアメリカ合衆国の強制収容所に連行されたのである[118]。ペルーは直接第二次世界大戦に兵を送らなかったが、1941年7月5日からエクアドルと国境紛争を行い、エクアドル軍に勝利した後、アメリカ合衆国やラテンアメリカ諸国の支持の下に係争地のうちの25万km²[註釈 6]を翌1942年のリオ・デ・ジャネイロ条約で獲得したが、このことはその後のエクアドルとの関係に強い緊張を生むことになった[120]。
1945年の選挙ではベナビデスとAPRAの間で密約が結ばれ、APRAは合法化と引き換えにベナビデスの推すホセ・ルイス・ブスタマンテに投票することを約束した[121]。これによりブスタマンテ政権が誕生し、合法化されたAPRAは議会で単独過半数を獲得した[122]。ブスタマンテ期にはインフレーションが進行していたため、歳入を増やすためにスタンダード・オイルの子会社のIPCに採掘権が付与された[123]。ベナビデスが死去すると、徐々にAPRAの急進派が武装闘争を再び掲げ、1948年10月3日のAPRA党急進派と海軍の一部によるクーデターが起きた[124]。このクーデターは鎮圧され、APRAは再び非合法化されて10月29日に軍事クーデターによってブスタマンテ政権は崩壊し、マヌエル・オドリーア将軍が政権に就いた[125]。オドリーアはアルゼンチンのフアン・ペロンのような、貧困層の支持を受けて労働政策や福祉政策を実現するという政治スタイルを採ったが、実際には公共事業などはほとんど成果を出さず、経済が低迷する中、1956年の選挙で第二次マヌエル・プラード政権が誕生した[126]。この選挙に際してAPRAは合法化を条件にプラードを支持し、以降APRAはブルジョワジーと同盟してペルーの寡頭支配層の側に回った[127]。APRAの保守政党化の影響は大きく、保守支配層との協調を嫌った党内左派は分離し、フェルナンド・ベラウンデ・テリーの人民行動党、キリスト教民主党、革新的社会運動など、新たな左派政党が分立した[128]。マヌエル・プラード政権下ではペドロ・ベルトラン首相によって本格的な輸入代替工業化政策が進められたが、この措置は多国籍企業のペルー経済への進出を顕著なものとした[129]。またこの時期にシエラの伝統的な農村共同体が解体される中で、シエラではラ・コンベシオンを中心にウーゴ・ブランコらによる新たな農民運動が組織され、コスタにはシエラからの人口流入が続いた[130]。このような情勢の中で、プラードは経済運営に余り良いところのないまま、1962年の選挙を迎える事になった。
1962年には、同年行われた大統領選挙において発覚したAPRAによる選挙不正に抗議するために軍事クーデターが勃発し、任期終了の直前にプラード大統領は追放された。ペレス・ゴドイ将軍を首班としたクーデター政権は、当時高揚していたウーゴ・ブランコの指導する農民運動に対応するための農地改革法を施行した[131]。現在、ペルーではこのクーデターがペルー史の一大転換点であったとされている[132]。
選挙監視内閣だった軍事政権は1963年の選挙が終わり、軍部及びキリスト教民主党と結んだ人民行動党のベラウンデ・テリーが、アヤ・デ・ラ・トーレとオドリーアに勝利すると解散した[133]。穏健的改良主義者を自認していたベラウンデは軍部や「進歩のための同盟」の意向を反映して1964年に農地改革法案を通過させたものの、ベラウンデの農地改革は抜本的な社会改革から程遠いものとなり、外資主導の工業開発政策も1967年頃には失敗して破綻を迎えつつあった[134]。さらに、ベラウンデ政権下ではキューバ革命の影響を受けたルイス・デ・ラ・プエンテの左翼革命運動(MIR)のようなゲリラが蜂起し、8,000人の農民の死亡を伴った軍による鎮圧作戦は、軍内部の将校に文民政権への深い失望をもたらした[135]。こうして既にベラウンデは農村問題で躓いていたが、ペルー政府が1億4,400万ドルに及ぶIPCの債務を帳消しにすることが認められたタララ協定で、原油の売買価格の記載された協定文書のページが「紛失」してしまったことが発覚すると、この「失われた11ページ事件」は大スキャンダルとなって国民の強い不満を引き起こした[136]。
ペルー革命(1968年-1980年)
かかる状況下で1968年10月3日、フアン・ベラスコ・アルバラード将軍による軍事クーデターによりベラウンデは追放され、軍事革命政権の成立が宣言された[137]。軍事革命政権は10月9日にスキャンダルとなっていたタララ協定の無効化を宣言し、IPCを国有化した[138]。この軍事革命は完全に文民の参加を廃した点に特色があり、立法府の役割は完全に軍に移行され、軍事政権に任命された若手の法曹によって腐敗した司法の改革がなされた[139]。ペルー革命の始まりだった。
こうしてクーデターを起こしたベラスコ将軍は、これまでの政権とは180度立場を変えて反米と自主独立を旗印に「ペルー革命」を推進することを約束し、「資本主義でもなく、また共産主義でもない人間的な社会主義」[140]を目指してユーゴスラビアを一つのモデルに[141]新体制の模索が進んだ。外交面ではそれまでアメリカ合衆国一辺倒だった外交が、第三世界を中心に多角化され、1969年のアンデス共同市場の形成を皮切りに、チリのアジェンデ人民連合政権といったラテンアメリカ域内の左派政権との関係改善が行われ、同時期にチリで似たような改革を進めていた大統領は、ベラスコを「同志」と呼んだ[142]。1969年2月にはソ連と、1971年に中華人民共和国と、1972年にはキューバと国交を結び、1973年からは非同盟運動にも参加した[142]。国防組織の対米依存を減らすために兵器輸入を中心にソヴィエト連邦との関係も深まり、日本やドイツとの交流が深まるのもこの頃である[143]。ベラスコ体制は、アンデス諸国の革新的軍事政権や、パナマのオマール・トリホス政権にモデルを提示した[144]。
この革命政権において農地改革は大きな柱の一つであり、それまでの農地改革とは比較にならないような徹底した改革が推進された。貧しい生まれだったベラスコ将軍はかつてトゥパク・アマルー2世が掲げた標語を再び掲げ、コスタの大農園は次々に解体されて多くの土地が小作人に分与され、「44家族」と呼ばれていたペルーの地主寡頭支配層はここに解体された[145][146]。また、アメリカ合衆国からの経済独立を目指した企業の国有化政策により輸入代替工業化が更に進められた[147]。当時リマのスラムはシエラからの人口移動で人口700万人の巨大都市に大拡大していたが、革命政権はスラムをプエブロ・ホーベン(新しい街)と呼び、住民の組織化が進んだ。また、将軍は先住民をカンペシーノ(農民)と呼ぶようにし、以後政府の文書で侮蔑的な響きのあったインディオという言葉が使われることはなくなった。
しかし、1973年にベラスコ将軍が病に倒れ、片足を切断することになると政権内での意思疎通の不和が目立つようになり、さらに同年の第一次オイル・ショックで経済が大打撃を受け、再び外国資本の導入を検討せざるを得ない状況になると各地で暴動や社会的混乱が噴出した。将軍の任期の最後の年にはケチュア語が公用語となったが、軍部主導で国民の広範な支持を得られなかった革命は、ポプリスモ的な分配による対外債務の増加、軍部とアプラ系の労組との衝突や、人民の組織化の失敗、さらには1973年9月11日のチリ・クーデターによって成立したアウグスト・ピノチェト政権が革命政権を敵視してチリとの戦争が現実味を帯びたことをはじめとして、ボリビア、アルゼンチン、ブラジルといった周辺国の官僚主義的権威主義体制との軋轢などもある中で、最終的に1975年のベラスコ将軍の失脚をもって失敗が明らかになった。
1975年8月23日、軍部内右派と左派の妥協により、軍内中道派(制度派)のモラレス・ベルムデスが大統領となった[148]。モラレスは「革命の第二段階」を称していたが、1976年5月には事実上のIMF管理下に置かれるなど改革からの後退が続き、1977年2月にはインカ計画に続いてトゥパク・アマルー計画が発表されたが、この計画の内容は革命の凍結を図るというものだった[149]。国民の反軍感情の高まりの中、軍は名誉ある撤退を掲げて1978年6月には制憲議会が開かれ、軍部とアプラ党の歴史的な和解の中で、非識字層に投票権を認めた1979年憲法が制定された[150]。1980年には選挙によって民政移管し、再び人民行動党のフェルナンド・ベラウンデ・テリーが大統領に就任した。
民政移管とペルー内戦(1980年- )
第二次ベラウンデ・テリー政権は当初民主化の象徴として国民的な期待を背負って誕生したが、しかし、災害や深刻な経済危機で政権運営は多難を極め、ベラスコ時代に地主支配層解体後の農村部における権力の真空状態を背景に、1980年に毛沢東主義のセンデロ・ルミノソが農村部に、1984年にはキューバ派のトゥパク・アマルー革命運動(MRTA)が都市部にと、左翼ゲリラが徐々に勢力を伸ばした[151][152]。
1985年に当時35歳だったアラン・ガルシア大統領を首班とするAPRA政権が発足し、APRAは結成以来ようやく61年目にして初めて政権を握った[153]。ガルシアは国民の支持を背景に民族主義を掲げ、外交ではIMFへの債務の繰り延べなどの強硬な路線をとる一方で、内政では貧困層の救済に尽力したが、1987年にはこのようなポプリスモ経済政策は行き詰まり、経済の縮小、ハイパー・インフレーションの発生、治安悪化が大問題となり、国民の支持と行政力を失って退陣した[154]。1990年当時にはセンデロ・ルミノソはアヤクーチョを中心拠点にシエラの大部分を占領し、パンアメリカンハイウェイや主要幹線道路までがセンデロ・ルミノソに押さえられてリマは包囲され、センデロ・ルミノソによる革命が間近に迫っているかのような情況だった[155]。
このような危機的状況下にて行われた大統領選挙では、文学者のマリオ・バルガス・リョサを破って「変革90」を率いた日系二世のアルベルト・フジモリ(フヒモリ)が勝利し、フジモリは南米初の日系大統領となった。綱領も示さないまま、既存政治勢力への失望の結果により当選した彼は、それでも「フジ・ショック」と呼ばれたショック政策によるインフレ抑制と、財政赤字の解消による経済政策を図って、新自由主義的な改革により悪化したペルー経済の改善を実現するなど素人とは思えない業績を残した[156]。さらに、このような強権的なやり方が反発され、また議会を自らの行った改革の障害と見做すと、1992年4月5日にフジモリはアウトゴルペを実施して議会を解散し、憲法を停止して非常国家再建政府を樹立した。このようにして確立した権力を最大限に活用してMRTAの指導者ビクトル・ポライとセンデロ・ルミノソの指導者アビマエル・グスマンを逮捕し、組織を壊滅状態に追いやるなど治安回復に大きな成果を挙げたが、この自主クーデターは、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国から「非民主的」と非難されたため、それを受けて同年11月には憲法制定議会の選挙を行い、一院制、大統領権の強化を盛り込んだ1993年憲法を国民投票で発布にこぎつけ、内外の非難をかわした[157][158]。フジモリは1995年の選挙で元国際連合事務総長のペレス・デ・クエヤルを破って再選された[159]。フジモリ政権は日本との友好関係を強化し、日本はこの時期にペルーへの最大の援助国となったが、このことは1996年にトゥパク・アマルー革命運動による日本大使公邸占拠事件発生の要因となった[160]。この事件は特殊部隊の出動によって犯人側の全員射殺という結果で幕を閉じたが、この事件を境にフジモリは徐々に権威的な様相を見せ始め、政治の司法、マスコミへの介入が進んでいった[161]。また、こうした中で、1998年にはエクアドルとの国境紛争に勝利し、両国の間で長年の問題となっていた国境線を確定した[162]。2000年にはフジモリは強引なやり方で三選を果たしたが、徐々に独裁的になっていった政権に対する国民の反対運動の高まりや、汚職への批判を受け、11月21日に訪問先の日本から大統領職を辞職した[163]。フジモリの失脚後、顧問のブラディミロ・モンテシノスに行わせていた買収工作や諜報機関の存在が明らかになり、フジモリ政権はペルー史上最大の腐敗政権として幕を閉じた[164]。
2001年の選挙により、「可能なペルー」から先住民(チョロ)初の大統領、アレハンドロ・トレドが就任した[165]。親米政策を堅持し、貧困の一掃と雇用創出、政治腐敗の追及を公約とした政権は、しかし経済政策は成果を上げることはできず、国民の支持は2002年の8月には16%にまで低下した[166]。左翼ゲリラによるテロ活動も復活し治安は悪化している。このため国内では貧困層を中心にフジモリ待望論が広がっており、国民の3割がフジモリを支持しているとされる。これに危機感を抱いたトレド政権はフジモリ大統領を引き渡すよう日本政府に要請しているが、日本政府は引き渡しを拒否し続けているため、ワイスマン副大統領ら強硬派は日本との国交断絶を主張した。2005年11月、トレドはアジア太平洋経済協力首脳会議を利用して日本の小泉首相に首脳会談を申し入れた。しかし、小泉は日程を理由に断った。
2006年の選挙により、アメリカ革命人民同盟(APRA、アプラ)から再びアラン・ガルシアが大統領に就任した。7月28日、フジモリ元大統領の長女ケイコら新議員等を前に就任演説で、人口の半数を占める貧困層の生活水準向上に全力で取り組む考えを示した。また、行政機関の根深い汚職体質にメスを入れ、地方分権に積極的に取り組む方針を打ち出した。1985年、36歳で大統領に就任したガルシアは腐敗一掃の期待を集めた。しかし、所属政党のAPRA関係者で政府の要職を独占したため、汚職は逆に悪化。さらに、経済・治安政策で失敗を繰り返し、国家を破綻に追い込んだ。その反省に立ち、今回の内閣では、APRA党員を閣僚16人中6人に止めた。
2007年8月15日に発生したペルー大地震によって、死者540人、負傷者1,500人以上、被災者数85,000人が報告されている。
脚註
註釈
- ^ 最初期のペルー副王領は現在のペルーのみならず、ポルトガル領ブラジル以外のパナマより南の南アメリカ全体を統括していた[14]。
- ^ ドビンズの推計値は増田、柳田(1999:13)からの孫引きであることを明記しておく。
- ^ 皮肉にも彼の子孫のエルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナは、彼とは異なり20世紀後半のラテンアメリカの革命闘争に従事したのであった。
- ^ 日本とペルーが1873年に国交を結ぶきっかけとなったマリア・ルス号事件は、この過程で発生した事件であった[68]。
- ^ オンセ=onceはスペイン語で11を意味する。
- ^ この面積に関しては20万km²と主張している資料も存在する[119]。
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