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「エルンスト・カルテンブルンナー」の版間の差分

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{{政治家
[[File:Ernst-Kaltenbrunner-72-916.jpg|250px|thumb|right|ニュルンベルク裁判の際のカルテンブルンナー]]
|各国語表記 = Ernst Kaltebrunner
'''エルンスト・カルテンブルンナー'''(Ernst Kaltenbrunner, [[1903年]][[10月4日]] - [[1946年]][[10月16日]])は、[[オーストリア]]及び[[ドイツ]]の法律家、政治家。[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)の組織[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]](SS)の幹部。オーストリア[[親衛隊及び警察高級指導者]](HSSPF)を経て、1943年に[[国家保安本部]](RSHA)長官となった。ドイツ敗戦後の1946年に[[ニュルンベルク裁判|ニュルンベルク国際軍事裁判]]において戦争犯罪人として告訴、のち死刑宣告を受け同年10月16日に絞首刑に処せられた。最終階級は[[親衛隊大将]]、[[武装親衛隊]]大将及び警察大将。
|画像 = Ernst Kaltebrunner in Nurnberg.jpg
|画像説明 = ニュルンベルク裁判でのカルテンブルンナー
|国略称 ={{DEU1935}}
|生年月日 =[[1903年]][[10月4日]]
|出生地 =[[ファイル:Flag of Austria-Hungary 1869-1918.svg|20px]] [[オーストリア・ハンガリー帝国]]<br />[[リート・イム・インクライス]]
|没年月日 ={{死亡年月日と没年齢|1903|10|4|1946|10|16}}
|死没地 =[[画像:Flag of Germany (1946-1949).svg|23px]][[連合軍軍政期 (ドイツ)|連合軍占領下ドイツ]]<br>[[バイエルン州]]、[[ニュルンベルク]]
|出身校 = [[グラーツ工科大学]]
|前職 = 弁護士
|所属政党 =[[image:Reichsadler.svg|20px]][[国家社会主義ドイツ労働者党]]
|称号・勲章 = 法学博士<br>[[親衛隊大将]]・警察大将・武装親衛隊大将<br>[[血盟勲章]]
|世襲の有無 =
|親族(政治家) =
|配偶者 = エリーザベト・エーデル
|サイン =
|ウェブサイト =
|サイトタイトル =
|職名 = [[image:Flag Schutzstaffel.svg|20px]] [[親衛隊上級地区]]<br>「エスターライヒ(のちドナウと改称)」指導者
|就任日 = [[1937年]][[1月20日]]
|退任日 = [[1943年]][[1月31日]]
|職名2 = [[image:Flag Schutzstaffel.svg|20px]] 「エスターライヒ(のちドナウと改称)」<br>[[親衛隊及び警察高級指導者]]
|就任日2 = [[1938年]][[9月11日]]
|退任日2 = [[1943年]][[1月31日]]
|国旗3 = DEU1935
|職名3 = [[国会 (ドイツ)|ドイツ国会議員]]
|就任日3 = [[1939年]]1月
|退任日3 = [[1945年]]5月
|職名4 = [[image:Flag Schutzstaffel.svg|20px]] [[国家保安本部|国家保安本部(RSHA)]]長官
|就任日4 = [[1943年]][[1月30日]]
|退任日4 = [[1945年]]5月
|職名5 = [[国際刑事警察機構|インターポール]]総裁
|就任日5 = [[1943年]][[1月30日]]
|退任日5 = [[1945年]]5月
}}
'''エルンスト・カルテンブルンナー'''(Ernst Kaltenbrunner, [[1903年]][[10月4日]] - [[1946年]][[10月16日]])は、[[オーストリア]]及び[[ドイツ]]の法律家、政治家。[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)の組織[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]](SS)の幹部。オーストリア[[親衛隊及び警察高級指導者]](HSSPF)を経て、[[ラインハルト・ハイドリヒ]]の死後の1943年に[[国家保安本部]](RSHA)長官となり、[[ヨーロッパ]]・[[ユダヤ人]]の絶滅政策の執行にあたった。ドイツ敗戦後に[[ニュルンベルク裁判|ニュルンベルク国際軍事裁判]]において戦争犯罪人として起訴され、死刑宣告を受けて絞首刑に処せられた。最終階級は[[親衛隊大将]]、[[武装親衛隊]]大将及び警察大将。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 前半生 ===
=== 前半生 ===
1903年、[[オーストリア=ハンガリー帝国]][[オーバーエスターライヒ州]]の工業都市[[リート・イム・インクライス]]([[:de:Ried im Innkreis]])に生まれる。父は弁護士のフーゴ・カルテンブルンナー(Hugo Kaltenbrunner)。母はその妻テレーゼ(Therese)。カルテンブルンナー家は[[カトリック教会|カトリック]]家庭で祖父の代から弁護士だった<ref name="ナチ親衛隊知識人の肖像232">『ナチ親衛隊知識人の肖像』232頁</ref><ref name="ニュルンベルク軍事裁判上216">『ニュルンベルク軍事裁判 216頁</ref>。
1903年、[[オーストリア=ハンガリー帝国]][[オーバーエスターライヒ州]]の工業都市[[リート・イム・インクライス]]([[:de:Ried im Innkreis]])に生まれる。父は弁護士のフーゴ・カルテンブルンナー(Hugo Kaltenbrunner)。母はその妻テレーゼ(Therese)。カルテンブルンナー家は[[カトリック教会|カトリック]]家庭で祖父の代から弁護士だった<ref name="大野232">大野、232頁</ref><ref name="パーシコ上216">パーシコ、216頁</ref>。


7歳まで[[ラープ]]で育ち、1913年に[[リンツ]]の実科[[ギムナジウム]]に入学。ギムナジウム在学中に汎ゲルマン的で[[反教権主義]]的な[[ブルシェンシャフト]]「ホーエンスタウフェン」に加入している<ref name="ヒトラー権力への道232">チ親衛隊知識の肖像』232頁</ref>。
7歳まで[[ラープ]]で育ち、1913年に[[リンツ]]の実科[[ギムナジウム]]に入学。ギムナジウム在学中に[[汎ゲルマン主義]]的で[[反教権主義]]的な[[ブルシェンシャフト]]「ホーエンスタウフェン」に加入している<ref name="大野232"/>。またこのギムジウムには[[アドルフ・アイヒマン]]も通っており、二は友人だった<ref name="ヴィストリヒ40">ヴィストリヒ、40</ref><ref name="LeMO">[http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/KaltenbrunnerErnst/index.html LeMO]</ref>。


[[1921年]]秋に[[グラーツ]]の[[グラーツ工科大学]]に入学した。はじめ[[化学]]を専攻したが、1923年に法学に転じた。1926年に法学博士の学位を取得している。カルテンブルンナー本人によれば彼の大学生活は、炭鉱で夜勤をしながらの苦学だったといい、しばしば自分が労働者の友である事を強調していた<ref name="ニュルンベルク軍事裁判上216">『ニュルンベルク軍事裁判 上』216頁</ref>。大学在学中にブルシェンシャフト「アルミニア」に加わっている。カルテンブルンナーは熱心な活動家であり、団体の中心的役割を占めた。汎ゲルマン主義、反教権主義、[[反ユダヤ主義]]、[[反自由主義]]思想などに影響され、ドイツ人によるドイツ・オーストリア統一を目指した<ref name="ナチ親衛隊知識人の肖像234">『ナチ親衛隊知識人の肖像』234頁</ref>。
[[1921年]]秋に[[グラーツ]]の[[グラーツ工科大学]]に入学した。はじめ[[化学]]を専攻したが、1923年に法学に転じた<ref name="大野232"/><ref name="Yerger135">Yerger,p135</ref><ref name="LeMO"/>。1926年に法学博士の学位を取得している<ref name="大野232"/><ref name="Yerger135"/>。カルテンブルンナー本人によれば彼の大学生活は、炭鉱で夜勤をしながらの苦学だったといい、しばしば自分が労働者の友である事を強調していた<ref name="パーシコ上216"/>。大学在学中にブルシェンシャフト「アルミニア」に加わっている<ref name="LeMO"/><ref name="大野233">大野、233頁</ref>。カルテンブルンナーは熱心な活動家であり、団体の中心的役割を占めた。汎ゲルマン主義、反教権主義、[[反ユダヤ主義]]、[[反自由主義]]思想などに影響され、ドイツ人によるドイツ・オーストリア統一を目指した<ref name="大野233"/>。


1926年にグラーツからリンツへ移り、リンツ地方裁判所において司法官試補の研修を受けた。[[1928年]]には弁護士の事務所に就職した。
1926年にグラーツからリンツへ移り、リンツ地方裁判所において司法官試補の研修を受けた。[[1928年]]には弁護士の事務所に就職した<ref name="大野234">大野、234頁</ref>


=== オーストリア・ナチ時代 ===
=== オーストリア・ナチ時代 ===
しかしカルテンブルンナーは大学卒業後も、市民的生活を始める代わりに国粋主義的体操クラブ[[護国団]]のような準軍事団体で活動している。しかしこれらの団体はカルテンブルンナーの主目的であったドイツによる[[アンシュルス|オーストリア併合]]に充分熱心とは言えなかったため、彼は1930年10月18日に[[国家社会主義ドイツ労働者党]]オーストリア支部に入党した。さらに[[ヨーゼフ・ディートリヒ]]の勧めで[[1931年]]8月31日に[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]に入隊した(隊員番号13039)<ref name="ナチ親衛隊知識人の肖像235">『ナチ親衛隊知識人の肖像』235頁</ref>。ここカルテブルンナは逮捕された仲間弁護て有名になっている
1928年に国粋主義的体操クラブ、1929年に[[護国団]]の準軍事活動に参加た<ref name="LeMO"/><ref name="大野234">大野、234頁</ref>。しかしこれらの団体はカルテンブルンナーの主目的であったドイツによる[[アンシュルス|オーストリア併合]]に充分熱心とは言えなかったため、彼は1930年10月18日にオーストリアの[[国家社会主義ドイツ労働者党]]に入党した<ref name="LeMO"/><ref name="Yerger135"/><ref name="大野234"/>。さらに[[ヨーゼフ・ディートリヒ]]の勧めで[[1931年]]8月31日に[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]に入隊した(隊員番号13039)<ref name="LeMO"/><ref name="Yerger135"/><ref name="大野234-235">大野、234-235頁</ref>。オーストリアの親衛隊部隊はオーストリア・ナチ党の指揮下はなく、ドイツの親衛隊全国指導者[[ハイリヒ・ヒムラ]]直接指揮下た<ref name="大野236">大野、236頁</ref>


1932年から父の法律事務所で働き、ナチ党員の無料弁護活動に奉仕した<ref name="LeMO"/>。1933年にドイツでナチ党が政権を取ると、オーストリアでもナチ党の活動が活発となり、政府の警戒心が高まり、1933年6月に[[エンゲルベルト・ドルフース]]首相によってオーストリアナチ党は禁止された。ドルフースはナチ党員を逮捕して[[強制収容所]]へ入れた<ref name="大野236"/>。カルテンブルンナーは1934年1月14日にはエリーザベト・エーデル(Elisabeth Eder)と結婚と結婚したが、この翌日にナチ党員として逮捕され、カイザーシュタインブルッフ収容所に収容された<ref name="大野237">大野、237頁</ref>。同年4月まで収容されていた<ref name="Yerger135"/>。
1934年、カルテンブルンナーはエリーザベト・エーダーと結婚した。同年1月、国家社会主義のゆえに逮捕され、カイザーシュタインブルッフ収容所に短期間収容された。ここで彼は[[ハンガーストライキ]]を指導し、当局は490人の国家社会主義者を釈放せざるをえなくなったといわれている。


1934年6月15日に[[リンツ]]の親衛隊第37連隊(37.SS-Standarte)司令官に任じられた<ref name="大野238">大野、238頁</ref><ref name="Yerger189">Yerger,p189</ref>。。1935年5月に国家反逆罪で再逮捕された<ref name="ヴィストリヒ41">ヴィストリヒ、41頁</ref>。禁固6ヶ月に処されるとともに弁護士資格をはく奪された<ref name="Yerger135"/><ref name="ヴィストリヒ41"/><ref name="大野238-239">大野、238-239頁</ref>。ヒムラーはそれでもカルテンブルンナーにオーストリアに留まるよう命じ、1935年6月15日に彼を第37連隊司令官から[[親衛隊地区]]VIII区(本部[[リンツ]])司令官に昇進させた(1938年3月12日まで在職)<ref name="大野239">大野、239頁</ref><ref name="Yerger130">Yerger,p130</ref>。カルテンブルンナーはしばしばリンツから密入国でドイツに入り、ヒムラーや[[SD (ナチス)|SD]]長官[[ラインハルト・ハイドリヒ]]、SD外国部長[[ハインツ・ヨスト]]などに報告を行った<ref name="大野239"/>。1936年以降、ドイツの「オーストリア救済事業局」から資金の流れる救済事業局基金を非合法で設置し、オーストリアの地下運動指導者にその資金を配分し、彼らを通じてドイツ政府からの秘密指令を伝達した<ref name="大野239"/>。
しかしカルテンブルンナーは釈放後すぐ、再びドルフス首相暗殺未遂の容疑で捕らえられ、ヴェルスの軍法会議に反逆罪で告訴された。長期間の取調べ後、反逆罪は立証されなかったものの、彼は禁錮6ヶ月と弁護士資格剥奪を言い渡された。出獄後はナチ党専従職員となり、[[1937年]][[ハインリヒ・ヒムラー]]によってオーストリア全土のSS指導者に任命された。


1936年7月11日に駐ウィーン・ドイツ公使[[フランツ・フォン・パーペン]]の仲介でオーストリア首相[[クルト・シュシュニック]]とドイツ総統[[アドルフ・ヒトラー]]の間に協定が成立した。ヒムラーからオーストリアの親衛隊にこの協定を破壊するような活動をしないよう命令が下り、1937年1月20日に急進派を抑えられる者としてカルテンブルンナーがオーストリア全域の親衛隊の総指揮者である[[親衛隊上級地区]]「エスターライヒ(オーストリア)(Österreich)」の司令官に任じられた<ref name="LeMO"/><ref name="大野240">大野、240頁</ref><ref name="Yerger86">Yerger,p86</ref>。カルテンブルンナーはオーストリアナチ党の中で[[ケルンテン]]の党指導者[[フリードリヒ・ライナー]]([[:de:Friedrich Rainer|de]])に近い立場を取っていた。すなわちシュシュニックがナチ党を合法化する見込みはなく、したがって非合法活動からの完全な撤収には反対するという立場だった。しかしライナーとカルテンブルンナーは、ヒムラーからの要請を受けいれて、穏健派の[[アルトゥール・ザイス=インクヴァルト]]の立場を支持するに至った<ref name="大野241-242">大野、241-242頁</ref>。カルテンブルンナーらはザイス=インクヴァルトと対立するナチ党下オーストリア大管区指導者[[ヨーゼフ・レオポルト]]([[:de:Josef Leopold|de]])らを失脚させる事に成功し、オーストリア・ナチ党の党内抗争に勝利した<ref name="大野242">大野、242頁</ref>。
ナチ党幹部[[アルトゥール・ザイス=インクヴァルト]]に追随したカルテンブルンナーはオーストリア政界の支配的な党派で急速にのし上がっていった。ザイス=インクヴァルトはオーストリアを騒擾に巻き込むことなく解体してドイツに編入させるよう主張・宣伝していたが、これはその他のオーストリア・ナチ党首脳部の闘争的な主張とは際立って異なっており、闘争的なやり方が外国に対する信用を失わせると考えていた[[アドルフ・ヒトラー]]の目をひいた。

=== オーストリア併合 ===
1938年2月12日に行われた[[ベルヒテスガーデン]]でのヒトラーとシュシュニックの会談に基づき、2月16日にザイス=インクヴァルトがオーストリア内相に任命された<ref name="大野242"/><ref name="ヴィストリヒ87">ヴィストリヒ、87頁</ref><ref name="阿部354">阿部、354頁</ref>。

しかしシュシュニックはなおもオーストリア独立にこだわったので、ヒトラーは、3月11日午前2時頃にドイツ軍部隊を国境に出動させた。ヒトラーや[[ヘルマン・ゲーリング]]からの要求で同日午後7時にシュシュニックは首相を辞任し、[[ヴィルヘルム・ミクラス]]([[:de:Wilhelm Miklas|de]])大統領は後任としてザイス=インクヴァルトを首相に任命した<ref name="阿部357">阿部、357頁</ref>。

ザイス=インクヴァルト新首相はシュシュニック時代からの保安担当[[国務長官]](Staatssekretär für öffentliche Sicherheit)[[ミヒャエル・スクーブル]]博士([[:de:Michael Skubl|de]])を留任させたが、ヒムラーから介入があり、スクーブルは辞職することになり、カルテンブルンナーがその後任となった<ref name="LeMO"/><ref name="大野244">大野、244頁</ref>。3月13日にはオーストリアで「オーストリアとドイツ国との再統一に関する法律(合併法)」が制定され、オーストリアはドイツのオストマルク州となった<ref name="大野244"/>。


=== オーストリア併合後 ===
=== オーストリア併合後 ===
[[Image:Bundesarchiv Bild 192-029, KZ Mauthausen, Himmler, Kaltenbrunner, Ziereis.jpg|thumb|right|300px|1941年、[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]][[マウトハウゼン強制収容所]]所長[[フランツ・ツィライス]]とマウトハウゼン強制収容所にて]]
[[Image:Bundesarchiv Bild 192-029, KZ Mauthausen, Himmler, Kaltenbrunner, Ziereis.jpg|thumb|right|300px|1941年、[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]][[マウトハウゼン強制収容所]]視察に「ドナウ」親衛隊及び警察高級指導者として同道するカルテンブルンナー。右はマウトハウゼン収容所所長[[フランツ・ツィライス]]]]
1938年3月13日のオーストリア併合後もオストマルク州国家代理官となったザイス=インクヴァルトのもとで1938年8月までオストマルク保安担当国務長官を引き続き務めた<ref name="Yerger135"/>。ヒムラーの命令でリンツの東方約20キロの場所に作られた[[マウトハウゼン強制収容所]]の創設に関与した。またオーストリアの[[ゲシュタポ]]組織の創設にも関与した<ref name="LeMO"/>。1939年1月には[[国会 (ドイツ)|ドイツ国会]]の国会議員となる<ref name="Yerger135"/>。
カルテンブルンナーはヒムラーの情報員としてオーストリアの政治状況の調査・報告を続け、1938年3月13日の[[オーストリア併合]]後は公安部次官に任命された。さらに1938年9月11日ヒムラーによってドナウおよび[[ウィーン]]、そのほかドイツに編入されたオーストリア全域の[[親衛隊及び警察高級指導者]]に任命された。しかし彼は、親衛隊中将という階級にもかかわらず、しばしばSSの幹部たちに自分の権限を無視されて、親衛隊大将[[ラインハルト・ハイドリヒ]]に頭越しに決定を下されたと感じ、自分が影響力を失ったように思った。

また1938年3月に併合とともに親衛隊上級地区「エスターライヒ」の本部をリンツから[[ウィーン]]に移し、続いて1938年5月には親衛隊上級地区「[[ドナウ川|ドナウ]]」と名称を変更させた<ref name="Yerger85">Yerger,p85</ref>。1938年9月11日にウィーンに本部を置く「ドナウ」[[親衛隊及び警察高級指導者]]職も与えられた<ref name="Yerger36">Yerger,p36</ref>。カルテンブルンナーが務める親衛隊上級地区「ドナウ」指導者と「ドナウ」親衛隊警察高級指導者は、はじめオーストリア全域の親衛隊と警察を支配する職位であったが、1939年にオーストリア地域の親衛隊と警察を二分割する再編成があり、「ドナウ」から分かれて「アルペンラント」という親衛隊及び警察高級指導者職と親衛隊上級地区が新設された。これにより[[ザルツブルク]]、[[ティロル]]、[[フォアアールベルク州|フォアアールベルク]]、[[ケルンテン]]、[[シュタイアーマルク]]、[[ブルゲンラント]]南部は「アルペンラント」の管轄となった。[[ウィーン]]、[[オーバーエスターライヒ]]、[[ニーダーエスターライヒ州|ニーダーエスターライヒ]]、ブルゲンラント北部の親衛隊と警察のみがカルテンブルンナーの「ドナウ」の所管となった<ref name="大野246">大野、246頁</ref><ref name="Yerger37/83">Yerger,p37/p83</ref>。

親衛隊及び警察高級指導者は、ハインリヒ・ヒムラーの親衛隊全国指導者、全ドイツ警察長官の地位を地域レベルで代行する職位であるので理論上はその管轄地域の親衛隊と警察に最高指揮権があるはずだが、[[ラインハルト・ハイドリヒ]]の[[保安警察]]や[[クルト・ダリューゲ]]の[[秩序警察]]は地方に保安警察監察官や秩序警察監察官を設け、地元の保安警察や秩序警察の指揮を取らせていた。保安警察監察官は保安警察長官(ハイドリヒ)、秩序警察監察官は秩序警察長官(ダリューゲ)に属し、親衛隊及び警察高級指導者の指揮下には事実上なかった。カルテンブルンナーの管轄する「ドナウ」でもこうした事態となり、カルテンブルンナーの地元の警察への指揮権はかなり制限されたものであった<ref name="大野246-247">大野、246-247頁</ref>。

ハイドリヒはオーストリア併合後すぐにウィーンに[[アドルフ・アイヒマン]]を派遣してユダヤ人国外移住本部を創設させ、オーストリア・ユダヤ人の国外追放を徹底的に行ったが、こうした活動にもカルテンブルンナーは一切関与していない<ref name="大野246">大野、246頁</ref>。

カルテンブルンナーは、親衛隊上級地区「ドナウ」指導者職と「ドナウ」親衛隊警察高級指導者職に国家保安本部長官の職務にあたるようになった1943年1月31日まで在職している<ref name="Yerger36/86">Yerger,p36/p86</ref>。


=== 国家保安本部長官 ===
=== 国家保安本部長官 ===
1942年6月4日に国家保安本部(RSHA)長官[[ラインハルト・ハイドリヒ]]がチェコ人工作員の襲撃で負った傷が原因で死去した。その後、[[ハインリヒ・ヒムラー]]が国家保安本部長官を兼務していたが(国家保安本部長官代理に[[ブルーノ・シュトレッケンバッハ]]が任じられていた)、1942年12月10日にヒムラーはヒトラーの同意を得て、カルテンブルンナーを後任の国家保安本部長官に内定した<ref name="大野250">大野、250頁</ref>。[[1943年]][[1月30日]]にカルテンブルンナーは国家保安本部長官に任命された<ref name="LeMO"/>。1月31日にヒトラーがカルテンブルンナーの国家保安本部長官任命を発表した<ref name="大野251">大野、251頁</ref>。
[[1943年]][[1月30日]]カルテンブルンナーは[[ベルリン]]でハイドリヒ暗殺後にその他の職務と平行して一時的に[[国家保安本部]]長官を務めていたヒムラーからその長官職を引き継いだ。同年、カルテンブルンナーは親衛隊大将兼警察大将に昇進し、彼は悪名高い[[ゲシュタポ|秘密警察]]、刑事警察、親衛隊情報部(SD)、および東部戦線後方で敗戦までに100万人を殺害した特別実行部隊([[アインザッツグルッペン]])の責任を負うことになった。


これによって彼は[[ゲシュタポ]]、[[刑事警察 (ドイツ)|刑事警察]]、[[SD (ナチス)|親衛隊情報部(SD)]]、および東部戦線後方で敗戦までに100万人を殺害した[[アインザッツグルッペン]]などの責任者となった<ref name="LeMO"/>。人種再定住計画や「[[ユダヤ人問題の最終的解決]]」の執行者となった<ref name="大野252">大野、252頁</ref>。カルテンブルンナーの督励により、ヨーロッパ中でユダヤ人狩りが組織的に実行され、数百万人が抹殺された<ref name="ヴィストリヒ41">ヴィストリヒ、41頁</ref>。しかし基本的にはカルテンブルンナーはヒムラーとハイドリヒがすでに敷いた路線を継承したにすぎなかった<ref name="大野252"/>。カルテンブルンナーがこれまでの路線に変更を施したところといえば、1943年春と夏にこれまで絶滅政策の対象外となっていた[[テレージエンシュタット・ゲットー]]の「特権的ドイツ系ユダヤ人」たちも絶滅過程に組み入れることを決定したことがある<ref name="大野253">大野、253頁</ref>。
終末が近づくにつれて彼の権力は強くなり、1944年7月20日の[[ヒトラー暗殺計画|ヒトラー暗殺未遂事件]]後、解体された[[ヴィルヘルム・カナリス|カナリス]]海軍中将の[[国防軍最高司令部|国防軍情報部]]の国外諜報機能を部下の[[ヴァルター・シェレンベルク]]に委ね、軍事情報を介してヒトラーと直接に接触を持つようになった。このためヒムラーにすら恐れられたといわれており、またアドルフ・アイヒマンが親衛隊大佐に昇進できなかったのはカルテンブルンナーの反対によるものだとされている。


1944年2月には[[ヴィルヘルム・カナリス]]提督の失脚に伴い、その指揮下だった国防軍諜報部「[[アプヴェーア]]」は、国家保安本部第VI局(局長[[ヴァルター・シェレンベルク]])の下部組織にされた<ref name="LeMO"/><ref name="ヴィストリヒ41"/>。
1945年3月12日、カルテンブルンナーは当時の[[国際赤十字]]代表カール・ブルクハルトに対して、赤十字代表団を[[強制収容所]]に立ち入らせる約束をした。しかしこの約束には、訪問した代表団のメンバーは終戦まで収容所に留まらなければならないという条件が付いていた。このような条件にも関わらずルイス・ヘーフリガー([[マウトハウゼン強制収容所|マウトハウゼン]])、パウル・デュナン([[テレジーン|テレージエンシュタット]])、ヴィクター・マウアー([[ダッハウ強制収容所|ダッハウ]])を含む10人の代表団がこの査察を引き受けている。


1944年3月には「[[弾丸布告]]([[:de:Kugel-Erlass|Kugel-Erlaß]])」を発令した。これによりアメリカ人とイギリス人を除く逃亡した戦争捕虜は国家保安本部の保安警察とSDに引き渡され、マウトハウゼン強制収容所で銃殺されることとなった<ref name="大野251"/>。
終戦間近となったころカルテンブルンナーは側近とともにアルタウス湖畔のいわゆる「アルプス要塞」に立て籠もり、ここで最後まで抵抗を支援するはずだった。多くのナチ党高官が強奪した貴重品を持ち込み戦後に備えた。また、カルテンブルンナーは独断で単独講和を企て、アメリカ軍と接触を図るなどしている。しかし、それらは失敗に終わり、[[1945年]][[5月15日]][[シュタイエルマルク]]の司令部で米軍によって捕らえられた。


1944年3月にドイツ軍が[[ハンガリー]]を占領。カルテンブルンナーは1944年3月22日にハンガリーに赴き、新しい首相に立てられた親独派[[ストーヤイ・デメ]]と会見した。ハンガリー政府が国家保安本部が行う「ユダヤ人問題の迅速な解決」に協力し、ユダヤ人移送を妨害しない約束を取り付けた。その後も数日間[[ブダペスト]]に留まり、ハンガリー当局とユダヤ人移送について協議し、実施の詳細については[[アドルフ・アイヒマン]]にゆだねた。アイヒマンの指揮のもとに1944年5月半ばから6月30日までのわずか一ヶ月半の間に38万1600人のユダヤ人が[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所]]へ送られ、うち24万人がガス室へ送られて殺された<ref name="大野256-257">大野、256-257頁</ref>。
=== 戦後 ===

1944年6月にはドイツを空爆した連合国パイロットの取り扱いについて[[国防軍最高司令部]]作戦本部長代理[[ヴァルター・ヴァルリモント]]と協議した。連合国パイロットのうち、直接に市民やその財産を狙う機銃掃射をしたと認められるパイロットは、SDに引き渡されて「特別待遇」に処す事を決定した<ref name="大野252"/>。

=== ヒトラー暗殺未遂事件 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 151-17-03, Volksgerichtshof, Dr. Ernst Kaltenbrunner.jpg|250px|thumb|[[1944年]][[7月20日]]の[[ヒトラー暗殺未遂事件]]で国家保安本部に逮捕された被告人が裁かれる[[人民法廷]]を傍聴するカルテンブルンナー。]]
1944年7月20日12時40分過ぎ、[[東プロイセン]]・[[ケントシン|ラステンブルク]]にあった[[総統大本営]]「[[ヴォルフスシャンツェ]]」の会議室において、ヒトラーが将校たちと会議中に[[プロイセン参謀本部|参謀本部]][[大佐]][[クラウス・フォン・シュタウフェンベルク]]伯爵([[国内予備軍]]参謀長)が仕掛けた時限爆弾が爆発した。将校や速記者に死亡者・負傷者がでたが、ヒトラーは軽傷を負うにとどまった([[ヒトラー暗殺計画]])。

カルテンブルンナーは事件の際にベルリンの国家保安本部にあったが、彼の初動捜査はお世辞にも良かったとはいえなかった。会議室から一人姿を消したシュタウフェンベルク大佐を尋問するようカルテンブルンナーは電話で命令を受けた。ただちに[[ゲシュタポ]]将校[[フンベルト・アッハマー・ピフラーダー]]親衛隊上級大佐([[:de:Humbert Achamer-Pifrader]])を国内予備軍司令部があるベントラー街国防省に派遣したが、ピフラーダーはシュタウフェンベルク達に拘束されてしまった。ピフラーダーが戻ってこないのに気づいたカルテンブルンナーと国家保安本部は今度は敵を過大に見積もってしまい、麻痺状態に陥ってしまった。彼らは「[[ヴァルキューレ作戦]]」に従ってベルリンの官庁街を動き回る国防軍軍人たちに対して何ら有効な手立てを打てなかった<ref name="ヘーネ514">ヘーネ、514頁</ref>。

しかし7月20日のうちにベントラー街内部で反クーデター派軍人がクーデター派軍人を取り押さえた。国内予備軍司令官[[フリードリヒ・フロム]]上級大将の命令でシュタウフェンベルクらクーデター派のリーダー格は銃殺刑に処せられた。カルテンブルンナーはすぐにベントラー街に急行し、捜査を行うのでそれ以上独断の銃殺刑を執行しないようフロムに指示した<ref name="マンベル174">マンベル、174頁</ref>。。

その後の捜査は国家保安本部を本拠として行われ、カルテンブルンナーが指揮を執った<ref name="グレーバー228">グレーバー、228頁</ref><ref name="マンベル186">マンベル、186頁</ref>。国家保安本部ゲシュタポ局長[[ハインリヒ・ミュラー]]の下に「1944年7月20日特別委員会」を創設させて捜査を開始させ、その調査結果をまとめて党官房長[[マルティン・ボルマン]]に提出した<ref name="大野258">大野、258頁</ref>。捜査は徹底して行われ、7,000人近くが逮捕された。そのうち[[ローラント・フライスラー]]の[[人民裁判所]]へ送られて処刑された者の数は少なくとも200人に及ぶという<ref name="マンベル187">マンベル、187頁</ref>。カルテンブルンナーは捜査の責任者として人民裁判所で裁判の様子を傍聴したが、フライスラーの裁判指揮に不快感を抱いた。「この三文役者は、無能な革命家や失敗した暗殺者さえも殉教者にしてしまう。」と不満を漏らしている<ref name="クノップ357">クノップ、357頁</ref>。マルティン・ボルマンへの報告書の中でもフライスラーのやり方を批判しているが、ヒトラーはフライスラーのやり方でよいと判断し、陰謀者たちの裁判をその後もフライスラーに任せた。カルテンブルンナーの報告書は空振りに終わった<ref name="クノップ369">クノップ、369頁</ref>。

=== 大戦末期 ===
1945年3月12日、カルテンブルンナーは当時の[[国際赤十字]]代表カール・ブルクハルトに対して、赤十字代表団を[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]に立ち入らせる約束をした。しかしこの約束には、訪問した代表団のメンバーは終戦まで収容所に留まらなければならないという条件が付いていた。このような条件にも関わらずルイス・ヘーフリガー([[マウトハウゼン強制収容所|マウトハウゼン]])、パウル・デュナン([[テレジーン|テレージエンシュタット]])、ヴィクター・マウアー([[ダッハウ強制収容所|ダッハウ]])を含む10人の代表団がこの査察を引き受けている。

また、カルテンブルンナーは1945年3月半ばと4月半ばに独断で単独講和を企て、SD将校[[ヴィルヘルム・ヘットル]][[親衛隊少佐]]([[:de:Wilhelm Höttl|de]])をスイスへ派遣してアメリカの情報機関[[Office of Strategic Services|OSS]]([[CIA]]の前身)のヨーロッパ代表[[アレン・ウェルシュ・ダレス]]と交渉させるなどしている。しかし交渉は失敗に終わった<ref name="ヴィストリヒ41">ヴィストリヒ、41頁</ref><ref name="大野272">大野、272頁</ref><ref name="ヘーネ553">ヘーネ、553頁</ref>。

敗戦も間近になった1945年4月19日にカルテンブルンナーは側近とともにベルリンを離れ、[[ザルツブルク]]へ自らの司令部を映した。「[[アルプス国家要塞]]」に立て籠もり、ここで最後まで抵抗を支援するはずだった。多くのナチ党高官が強奪した貴重品を持ち込み戦後に備えた。5月1日には[[アルトハウスゼー]]([[:de:Altaussee|de]])へ移った。アドルフ・アイヒマンがアルトアウスゼーにユダヤ人移送の報告に現れたが、カルテンブルンナーはもはや何の関心も示さなかった<ref name="大野272">大野、272頁</ref>。

=== 捕虜 ===
1945年[[5月11日]]にアメリカ陸軍[[CIC]]([[:en:Counterintelligence Corps (United States Army)|en]])対情報部がカルテンブルンナーの身柄を拘束した<ref name="大野272">大野、272頁</ref>。

カルテンブルンナーは[[ノルトハウゼン]]近くのアメリカ軍の収容所に送られた。当初アメリカ軍は彼がカルテンブルンナーだと認知しておらず、単なるドイツ軍将校と思っていたが、あるドイツ人女性の密告でカルテンブルンナーであることがばれた。まもなく[[ルクセンブルク]]の[[バート・モンドルフ]]([[:de:Bad Mondorf|de]])の[[パレス・ホテル]]に設けられた収容所へ送られた<ref name="パーシコ上56">パーシコ、上巻56頁</ref>。ここはナチスの最大の大物と見なされた捕虜が収容されていた場所で、[[ヘルマン・ゲーリング]]、[[カール・デーニッツ]]、[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]、[[アルベルト・シュペーア]]、[[ヴィルヘルム・カイテル]]、[[フランツ・フォン・パーペン]]、[[ヒャルマル・シャハト]]、[[アルフレート・ローゼンベルク]]、[[ユリウス・シュトライヒャー]]など後にニュルンベルク裁判にかけられることになる者たちが収容されていた<ref name="マーザー76">マーザー、76頁</ref>。

=== ニュルンベルク裁判 ===
[[Image:Nürnberg Keitel.jpg|thumb|ニュルンベルク国際軍事裁判の法廷で[[ヴィルヘルム・カイテル|カイテル]](奥の眼鏡をかけている人物)や[[アルフレート・ローゼンベルク|ローゼンベルク]](手前)と密談するカルテンブルンナー]]
[[Image:Nürnberg Keitel.jpg|thumb|ニュルンベルク国際軍事裁判の法廷で[[ヴィルヘルム・カイテル|カイテル]](奥の眼鏡をかけている人物)や[[アルフレート・ローゼンベルク|ローゼンベルク]](手前)と密談するカルテンブルンナー]]
1945年9月に国際軍事裁判が開かれることとなった[[ニュルンベルク]]の刑務所に送られた<ref name="大野272">大野、272頁</ref>。
逮捕後カルテンブルンナーはまず米軍の尋問を受け、それから国際軍事裁判が開かれる[[ニュルンベルク]]に送られた。国際軍事裁判で彼は米軍による不当な待遇について述べ、うちひしがれた様子だった。検察側によって彼の容疑(「人道に対する罪」と戦争犯罪によって告訴された)が読み上げられた時、カルテンブルンナーは泣き出した。それでもしばらくすると彼はいかなる手段を用いてでも[[死刑]]を避けようとするようになった。


国際軍事裁判で彼は米軍による不当な待遇について述べ、うちひしがれた様子だった。彼は第一起訴事項「侵略戦争の共同謀議」、第三起訴事項「戦争犯罪」、第四起訴事項「人道に対する罪」で起訴された<ref name="マーザー323">マーザー、323頁</ref>。起訴状を届けられた時、カルテンブルンナーは「家族に会わせてくれ」と泣き出した<ref name="パーシコ上119">パーシコ、上巻119頁</ref>。起訴状についてコメントを書くことを求められると「いかなる戦争犯罪についても私は無罪だと思っています。私は諜報員としての任務を果たしただけです。ヒムラーの代役を務めることは拒否します。」と書いた<ref name="パーシコ上218">パーシコ、上巻218頁</ref>。
自分を弁護する法廷戦術として彼が用いたのは、犯罪に関するいかなる関与も否定し、秘密警察のような実行犯組織には何の関係もなかったと主張することだった。彼は、自分が実行犯というよりはただそのような機密業務について、ある種の名目的代表を務めただけだと主張し、必要とあらば検察が提示した文書の自分のサインを否認しさえした。


被告人達の心理分析官[[グスタフ・ギルバート]]大尉は[[ニュルンベルク裁判]]の被告全員を対象に[[ウェクスラー成人知能検査|ウェクスラー・ベルビュー成人知能検査]]を行った。カルテンブルンナーの[[知能指数|IQ]]値は113で、被告の中では[[ユリウス・シュトライヒャー]]に次いで低かった<ref>[[レナード・モズレー]]著、[[伊藤哲]]訳、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』、[[1977年]]、[[早川書房]] 166頁</ref>
法廷は、カルテンブルンナーに対し最終的には[[絞首刑|絞首]]による死刑を宣告し、1946年10月16日午前1時40分頃、刑が執行された。最期の言葉は「ドイツに幸あれ」だった。

[[File:Ernst Kaltenbrunner.jpg|thumb|left|法廷へ連れて行かれるカルテンブルンナー。]]
裁判の開廷直前に彼は[[クモ膜下出血]]を起こして独房の中で卒倒し、病院へ担ぎ込まれた<ref name="パーシコ上176">パーシコ、上巻176頁</ref>。不安とストレスで血圧を押し上げて血管が破れたのだった<ref name="パーシコ上177">パーシコ、上巻177頁</ref>。ニュルンベルク裁判は1945年11月20日から開廷したが、彼は治療のためにしばらく欠席した。しかし12月10日からは出廷させられた<ref name="パーシコ上215">パーシコ、上巻215頁</ref>。

裁判が始まると彼はいかなる手段を用いてでも[[死刑]]を避けようとするようになった。自分を弁護する法廷戦術として彼が用いたのは、ゲシュタポをはじめとする彼の指揮下にある機関が重大な犯罪を犯したことを認めつつ、彼自身はその犯罪へいかなる関与もしていないと主張することだった。彼は、自分が実行犯というよりはただそのような機密業務について、ある種の名目的代表を務めただけだと主張し、実際には諜報活動以外には一切携わっていないと主張した<ref name="パーシコ上218">パーシコ、上巻218頁</ref>。犯罪は自分が国家保安本部に関わりあいになる以前に行われた行動の結果だと主張した。必要とあらば検察が提示した文書の自分のサインを否認しさえした<ref name="マーザー323-324">マーザー、323-324頁</ref>。

1946年10月1日、被告人全員に判決が言い渡された。まず被告人全員がそろった中、一人ずつ判決文が読み上げられた。カルテンブルンナーの判決文は「カルテンブルンナーが、侵略戦争遂行計画に関与した証拠はない。ドイツ・オーストリア併合は、侵略戦争とは非難されていない。」として彼を第一起訴事項「侵略戦争の共同謀議」について無罪とした<ref name="マーザー323">マーザー、323頁</ref>。一方、「カルテンブルンナーは強制収容所の状況をよく知っていた」「強制収容所内でのユダヤ人の殺害はRSHAの管轄事項であり、カルテンブルンナーはその長官である」「"ユダヤ人問題の最終的解決"に指導的役割を果たした。」「"弾丸布告"をはじめとする捕虜の虐待と殺害に関与した」として第三起訴事項「戦争犯罪」と第四起訴事項「人道に対する罪」について有罪とした<ref name="マーザー325">マーザー、325頁</ref><ref name="パーシコ下271">パーシコ、下巻271頁</ref>。その後、個別に言い渡される量刑判決で彼は[[絞首刑]]判決を受けた<ref name="パーシコ下278">パーシコ、下巻278頁</ref>。

=== 処刑 ===
[[image:Dead_ernstkaltenbrunner.jpg|thumb|絞首刑後の遺体]]
[[image:Dead_ernstkaltenbrunner.jpg|thumb|絞首刑後の遺体]]
1946年10月16日午前1時10分から自殺した[[ヘルマン・ゲーリング]]を除く死刑囚10人の絞首刑が順番に執行された。カルテンブルンナーは[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]と[[ヴィルヘルム・カイテル]]に次いで三番目に刑執行を受けた<ref name="マーザー392">マーザー、392頁</ref><ref name="パーシコ下310">パーシコ、下巻310頁</ref>。

最期の言葉は「私は私の国民と私の祖国に、熱い心をもって仕えました。私は私の義務を、祖国の法律に従って果たしました。困難な時代に我が国民がもっぱら軍人的な人たちに率いられなかったことを私は残念に思います。犯罪が行われた事も残念ですが、私はそれに何の関わりもありません。ドイツよ、健やかに。」だった<ref name="マーザー393">マーザー、393頁</ref>。

自殺したゲーリングを含めてカルテンブルンナーら11人の遺体は、ミュンヘン郊外の墓地の火葬場へ運ばれ、そこで焼かれた。遺骨は[[イザール川]]の支流[[コンヴェンツ川]]に流された<ref name="パーシコ313">パーシコ、下巻313頁</ref>。

== キャリア ==
=== 親衛隊階級 ===
*[[1932年]][[9月25日]]、[[親衛隊大尉]](SS-Sturmhauptführer)
*[[1936年]][[4月20日]]、[[親衛隊大佐]](SS-Standartenführer)
*[[1937年]][[4月20日]]、[[親衛隊上級大佐]](SS-Oberführer)
*[[1938年]][[3月12日]]、[[親衛隊少将]](SS-Brigadeführer)
*[[1938年]][[9月11日]]、[[親衛隊中将]](SS-Gruppenführer)
*[[1941年]][[4月1日]]、警察中将(Generalleutnant der Polizei)
*[[1943年]][[6月21日]]、[[親衛隊大将]]及び警察大将(SS-Obergruppenführer und General der Polizei)
*[[1944年]][[12月1日]]、武装親衛隊大将(General der Waffen-SS)

=== 受章 ===
*[[血盟勲章]](1942年5月6日)
*[[戦功十字章]]
**一級章(1943年1月30日)
**騎士章(1944年11月15日)
*[[ドイツ十字章]]
**銀章(1943年10月22日)
*[[黄金ナチ党員バッジ]](1939年1月30日)


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*ロジャー・マンベル『ヒトラー暗殺事件 世界を震撼させた陰謀』 [[加藤俊平]]訳、[[サンケイ出版]]〈第二次世界大戦ブックス31〉、1972年
*ウェルナー・マーザー『ニュルンベルク裁判:ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』[[西義之]]訳、[[TBSブリタニカ]]、1979年
*ハインツ・ヘーネ『SSの歴史 -髑髏の結社-』森亮一(訳)、フジ出版社、1981年、ISBN 4-89226-050-9
**ハインツ・ヘーネ『SSの歴史 -髑髏の結社- 上』森亮一(訳)、2001年、講談社学術文庫、ISBN 978-4061594937
**ハインツ・ヘーネ『SSの歴史 -髑髏の結社- 下』森亮一(訳)、2001年、講談社学術文庫、ISBN 978-4061594944
*[[ジョセフ・E・パーシコ]]著、[[白幡憲之]]訳『ニュルンベルク軍事裁判 上』、1996年、[[原書房]]、ISBN 978-4562028641
*ゲリー・S・グレーバー著、滝川義人訳『ナチス親衛隊』、2000年、[[東洋書林]]、ISBN 978-4887214132
**ジョセフ・E・パーシコ著、白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判 上』、2003年、原書房(新装版)、ISBN 978-4562036523
*ジョセフ・E・パーシコ著、白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判 下』、1996年、原書房、ISBN 978-4562028658
**ジョセフ・E・パーシコ著、白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判 下』、2003年、原書房(新装版)、ISBN 978-4562036530
*[[大野英二]]著『ナチ親衛隊知識人の肖像』([[2001年]]、[[未来社]])ISBN 978-4624111823
*[[大野英二]]著『ナチ親衛隊知識人の肖像』([[2001年]]、[[未来社]])ISBN 978-4624111823
*[[ロベルト・ヴィストリヒ]]著、[[滝川義人]]訳、『ナチス時代 ドイツ人名事典』([[2002年]]、[[東洋書林]])ISBN 978-4887215733
*[[ロベルト・ヴィストリヒ]]著、[[滝川義人]]訳、『ナチス時代 ドイツ人名事典』([[2002年]]、[[東洋書林]])ISBN 978-4887215733
*グイド・クノップ 『ドキュメント ヒトラー暗殺計画』 高木玲訳、原書房、2008年。ISBN 978-4562041435
*Michael D. Miller著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(Bender Publishing)ISBN 9329700373
*Mark C. Yerger 著 『Allgemeine-SS』(Schiffer Pub Ltd)135ページ。ISBN 978-0764301452(英語)


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2010年10月28日 (木) 09:59時点における版

エルンスト・カルテンブルンナー
Ernst Kaltebrunner
ニュルンベルク裁判でのカルテンブルンナー
生年月日 1903年10月4日
出生地 オーストリア・ハンガリー帝国
リート・イム・インクライス
没年月日 (1946-10-16) 1946年10月16日(43歳没)
死没地 連合軍占領下ドイツ
バイエルン州ニュルンベルク
出身校 グラーツ工科大学
前職 弁護士
所属政党 国家社会主義ドイツ労働者党
称号 法学博士
親衛隊大将・警察大将・武装親衛隊大将
血盟勲章
配偶者 エリーザベト・エーデル

親衛隊上級地区
「エスターライヒ(のちドナウと改称)」指導者
在任期間 1937年1月20日 - 1943年1月31日

「エスターライヒ(のちドナウと改称)」
親衛隊及び警察高級指導者
在任期間 1938年9月11日 - 1943年1月31日

在任期間 1939年1月 - 1945年5月

在任期間 1943年1月30日 - 1945年5月

在任期間 1943年1月30日 - 1945年5月
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エルンスト・カルテンブルンナー(Ernst Kaltenbrunner, 1903年10月4日 - 1946年10月16日)は、オーストリア及びドイツの法律家、政治家。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の組織親衛隊(SS)の幹部。オーストリア親衛隊及び警察高級指導者(HSSPF)を経て、ラインハルト・ハイドリヒの死後の1943年に国家保安本部(RSHA)長官となり、ヨーロッパユダヤ人の絶滅政策の執行にあたった。ドイツ敗戦後にニュルンベルク国際軍事裁判において戦争犯罪人として起訴され、死刑宣告を受けて絞首刑に処せられた。最終階級は親衛隊大将武装親衛隊大将及び警察大将。

生涯

前半生

1903年、オーストリア=ハンガリー帝国オーバーエスターライヒ州の工業都市リート・イム・インクライス(de:Ried im Innkreis)に生まれる。父は弁護士のフーゴ・カルテンブルンナー(Hugo Kaltenbrunner)。母はその妻テレーゼ(Therese)。カルテンブルンナー家はカトリック家庭で祖父の代から弁護士だった[1][2]

7歳までラープで育ち、1913年にリンツの実科ギムナジウムに入学。ギムナジウム在学中に汎ゲルマン主義的で反教権主義的なブルシェンシャフト「ホーエンスタウフェン」に加入している[1]。またこのギムナジウムにはアドルフ・アイヒマンも通っており、二人は友人だった[3][4]

1921年秋にグラーツグラーツ工科大学に入学した。はじめ化学を専攻したが、1923年に法学に転じた[1][5][4]。1926年夏に法学博士の学位を取得している[1][5]。カルテンブルンナー本人によれば彼の大学生活は、炭鉱で夜勤をしながらの苦学だったといい、しばしば自分が労働者の友である事を強調していた[2]。大学在学中にブルシェンシャフト「アルミニア」に加わっている[4][6]。カルテンブルンナーは熱心な活動家であり、団体の中心的役割を占めた。汎ゲルマン主義、反教権主義、反ユダヤ主義反自由主義思想などに影響され、ドイツ人によるドイツ・オーストリア統一を目指した[6]

1926年にグラーツからリンツへ移り、リンツ地方裁判所において司法官試補の研修を受けた。1928年には弁護士の事務所に就職した[7]

オーストリア・ナチ時代

1928年に国粋主義的体操クラブ、1929年に護国団の準軍事活動に参加した[4][7]。しかしこれらの団体はカルテンブルンナーの主目的であったドイツによるオーストリア併合に充分熱心とは言えなかったため、彼は1930年10月18日にオーストリアの国家社会主義ドイツ労働者党に入党した[4][5][7]。さらにヨーゼフ・ディートリヒの勧めで1931年8月31日に親衛隊に入隊した(隊員番号13039)[4][5][8]。オーストリアの親衛隊部隊はオーストリア・ナチ党の指揮下ではなく、ドイツの親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの直接指揮下にあった[9]

1932年から父の法律事務所で働き、ナチ党員の無料弁護活動に奉仕した[4]。1933年にドイツでナチ党が政権を取ると、オーストリアでもナチ党の活動が活発となり、政府の警戒心が高まり、1933年6月にエンゲルベルト・ドルフース首相によってオーストリアナチ党は禁止された。ドルフースはナチ党員を逮捕して強制収容所へ入れた[9]。カルテンブルンナーは1934年1月14日にはエリーザベト・エーデル(Elisabeth Eder)と結婚と結婚したが、この翌日にナチ党員として逮捕され、カイザーシュタインブルッフ収容所に収容された[10]。同年4月まで収容されていた[5]

1934年6月15日にリンツの親衛隊第37連隊(37.SS-Standarte)司令官に任じられた[11][12]。。1935年5月に国家反逆罪で再逮捕された[13]。禁固6ヶ月に処されるとともに弁護士資格をはく奪された[5][13][14]。ヒムラーはそれでもカルテンブルンナーにオーストリアに留まるよう命じ、1935年6月15日に彼を第37連隊司令官から親衛隊地区VIII区(本部リンツ)司令官に昇進させた(1938年3月12日まで在職)[15][16]。カルテンブルンナーはしばしばリンツから密入国でドイツに入り、ヒムラーやSD長官ラインハルト・ハイドリヒ、SD外国部長ハインツ・ヨストなどに報告を行った[15]。1936年以降、ドイツの「オーストリア救済事業局」から資金の流れる救済事業局基金を非合法で設置し、オーストリアの地下運動指導者にその資金を配分し、彼らを通じてドイツ政府からの秘密指令を伝達した[15]

1936年7月11日に駐ウィーン・ドイツ公使フランツ・フォン・パーペンの仲介でオーストリア首相クルト・シュシュニックとドイツ総統アドルフ・ヒトラーの間に協定が成立した。ヒムラーからオーストリアの親衛隊にこの協定を破壊するような活動をしないよう命令が下り、1937年1月20日に急進派を抑えられる者としてカルテンブルンナーがオーストリア全域の親衛隊の総指揮者である親衛隊上級地区「エスターライヒ(オーストリア)(Österreich)」の司令官に任じられた[4][17][18]。カルテンブルンナーはオーストリアナチ党の中でケルンテンの党指導者フリードリヒ・ライナー(de)に近い立場を取っていた。すなわちシュシュニックがナチ党を合法化する見込みはなく、したがって非合法活動からの完全な撤収には反対するという立場だった。しかしライナーとカルテンブルンナーは、ヒムラーからの要請を受けいれて、穏健派のアルトゥール・ザイス=インクヴァルトの立場を支持するに至った[19]。カルテンブルンナーらはザイス=インクヴァルトと対立するナチ党下オーストリア大管区指導者ヨーゼフ・レオポルト(de)らを失脚させる事に成功し、オーストリア・ナチ党の党内抗争に勝利した[20]

オーストリア併合

1938年2月12日に行われたベルヒテスガーデンでのヒトラーとシュシュニックの会談に基づき、2月16日にザイス=インクヴァルトがオーストリア内相に任命された[20][21][22]

しかしシュシュニックはなおもオーストリア独立にこだわったので、ヒトラーは、3月11日午前2時頃にドイツ軍部隊を国境に出動させた。ヒトラーやヘルマン・ゲーリングからの要求で同日午後7時にシュシュニックは首相を辞任し、ヴィルヘルム・ミクラス(de)大統領は後任としてザイス=インクヴァルトを首相に任命した[23]

ザイス=インクヴァルト新首相はシュシュニック時代からの保安担当国務長官(Staatssekretär für öffentliche Sicherheit)ミヒャエル・スクーブル博士(de)を留任させたが、ヒムラーから介入があり、スクーブルは辞職することになり、カルテンブルンナーがその後任となった[4][24]。3月13日にはオーストリアで「オーストリアとドイツ国との再統一に関する法律(合併法)」が制定され、オーストリアはドイツのオストマルク州となった[24]

オーストリア併合後

1941年、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーマウトハウゼン強制収容所視察に「ドナウ」親衛隊及び警察高級指導者として同道するカルテンブルンナー。右はマウトハウゼン収容所所長フランツ・ツィライス

1938年3月13日のオーストリア併合後もオストマルク州国家代理官となったザイス=インクヴァルトのもとで1938年8月までオストマルク保安担当国務長官を引き続き務めた[5]。ヒムラーの命令でリンツの東方約20キロの場所に作られたマウトハウゼン強制収容所の創設に関与した。またオーストリアのゲシュタポ組織の創設にも関与した[4]。1939年1月にはドイツ国会の国会議員となる[5]

また1938年3月に併合とともに親衛隊上級地区「エスターライヒ」の本部をリンツからウィーンに移し、続いて1938年5月には親衛隊上級地区「ドナウ」と名称を変更させた[25]。1938年9月11日にウィーンに本部を置く「ドナウ」親衛隊及び警察高級指導者職も与えられた[26]。カルテンブルンナーが務める親衛隊上級地区「ドナウ」指導者と「ドナウ」親衛隊警察高級指導者は、はじめオーストリア全域の親衛隊と警察を支配する職位であったが、1939年にオーストリア地域の親衛隊と警察を二分割する再編成があり、「ドナウ」から分かれて「アルペンラント」という親衛隊及び警察高級指導者職と親衛隊上級地区が新設された。これによりザルツブルクティロルフォアアールベルクケルンテンシュタイアーマルクブルゲンラント南部は「アルペンラント」の管轄となった。ウィーンオーバーエスターライヒニーダーエスターライヒ、ブルゲンラント北部の親衛隊と警察のみがカルテンブルンナーの「ドナウ」の所管となった[27][28]

親衛隊及び警察高級指導者は、ハインリヒ・ヒムラーの親衛隊全国指導者、全ドイツ警察長官の地位を地域レベルで代行する職位であるので理論上はその管轄地域の親衛隊と警察に最高指揮権があるはずだが、ラインハルト・ハイドリヒ保安警察クルト・ダリューゲ秩序警察は地方に保安警察監察官や秩序警察監察官を設け、地元の保安警察や秩序警察の指揮を取らせていた。保安警察監察官は保安警察長官(ハイドリヒ)、秩序警察監察官は秩序警察長官(ダリューゲ)に属し、親衛隊及び警察高級指導者の指揮下には事実上なかった。カルテンブルンナーの管轄する「ドナウ」でもこうした事態となり、カルテンブルンナーの地元の警察への指揮権はかなり制限されたものであった[29]

ハイドリヒはオーストリア併合後すぐにウィーンにアドルフ・アイヒマンを派遣してユダヤ人国外移住本部を創設させ、オーストリア・ユダヤ人の国外追放を徹底的に行ったが、こうした活動にもカルテンブルンナーは一切関与していない[27]

カルテンブルンナーは、親衛隊上級地区「ドナウ」指導者職と「ドナウ」親衛隊警察高級指導者職に国家保安本部長官の職務にあたるようになった1943年1月31日まで在職している[30]

国家保安本部長官

1942年6月4日に国家保安本部(RSHA)長官ラインハルト・ハイドリヒがチェコ人工作員の襲撃で負った傷が原因で死去した。その後、ハインリヒ・ヒムラーが国家保安本部長官を兼務していたが(国家保安本部長官代理にブルーノ・シュトレッケンバッハが任じられていた)、1942年12月10日にヒムラーはヒトラーの同意を得て、カルテンブルンナーを後任の国家保安本部長官に内定した[31]1943年1月30日にカルテンブルンナーは国家保安本部長官に任命された[4]。1月31日にヒトラーがカルテンブルンナーの国家保安本部長官任命を発表した[32]

これによって彼はゲシュタポ刑事警察親衛隊情報部(SD)、および東部戦線後方で敗戦までに100万人を殺害したアインザッツグルッペンなどの責任者となった[4]。人種再定住計画や「ユダヤ人問題の最終的解決」の執行者となった[33]。カルテンブルンナーの督励により、ヨーロッパ中でユダヤ人狩りが組織的に実行され、数百万人が抹殺された[13]。しかし基本的にはカルテンブルンナーはヒムラーとハイドリヒがすでに敷いた路線を継承したにすぎなかった[33]。カルテンブルンナーがこれまでの路線に変更を施したところといえば、1943年春と夏にこれまで絶滅政策の対象外となっていたテレージエンシュタット・ゲットーの「特権的ドイツ系ユダヤ人」たちも絶滅過程に組み入れることを決定したことがある[34]

1944年2月にはヴィルヘルム・カナリス提督の失脚に伴い、その指揮下だった国防軍諜報部「アプヴェーア」は、国家保安本部第VI局(局長ヴァルター・シェレンベルク)の下部組織にされた[4][13]

1944年3月には「弾丸布告Kugel-Erlaß)」を発令した。これによりアメリカ人とイギリス人を除く逃亡した戦争捕虜は国家保安本部の保安警察とSDに引き渡され、マウトハウゼン強制収容所で銃殺されることとなった[32]

1944年3月にドイツ軍がハンガリーを占領。カルテンブルンナーは1944年3月22日にハンガリーに赴き、新しい首相に立てられた親独派ストーヤイ・デメと会見した。ハンガリー政府が国家保安本部が行う「ユダヤ人問題の迅速な解決」に協力し、ユダヤ人移送を妨害しない約束を取り付けた。その後も数日間ブダペストに留まり、ハンガリー当局とユダヤ人移送について協議し、実施の詳細についてはアドルフ・アイヒマンにゆだねた。アイヒマンの指揮のもとに1944年5月半ばから6月30日までのわずか一ヶ月半の間に38万1600人のユダヤ人がアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ送られ、うち24万人がガス室へ送られて殺された[35]

1944年6月にはドイツを空爆した連合国パイロットの取り扱いについて国防軍最高司令部作戦本部長代理ヴァルター・ヴァルリモントと協議した。連合国パイロットのうち、直接に市民やその財産を狙う機銃掃射をしたと認められるパイロットは、SDに引き渡されて「特別待遇」に処す事を決定した[33]

ヒトラー暗殺未遂事件

1944年7月20日ヒトラー暗殺未遂事件で国家保安本部に逮捕された被告人が裁かれる人民法廷を傍聴するカルテンブルンナー。

1944年7月20日12時40分過ぎ、東プロイセンラステンブルクにあった総統大本営ヴォルフスシャンツェ」の会議室において、ヒトラーが将校たちと会議中に参謀本部大佐クラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵(国内予備軍参謀長)が仕掛けた時限爆弾が爆発した。将校や速記者に死亡者・負傷者がでたが、ヒトラーは軽傷を負うにとどまった(ヒトラー暗殺計画)。

カルテンブルンナーは事件の際にベルリンの国家保安本部にあったが、彼の初動捜査はお世辞にも良かったとはいえなかった。会議室から一人姿を消したシュタウフェンベルク大佐を尋問するようカルテンブルンナーは電話で命令を受けた。ただちにゲシュタポ将校フンベルト・アッハマー・ピフラーダー親衛隊上級大佐(de:Humbert Achamer-Pifrader)を国内予備軍司令部があるベントラー街国防省に派遣したが、ピフラーダーはシュタウフェンベルク達に拘束されてしまった。ピフラーダーが戻ってこないのに気づいたカルテンブルンナーと国家保安本部は今度は敵を過大に見積もってしまい、麻痺状態に陥ってしまった。彼らは「ヴァルキューレ作戦」に従ってベルリンの官庁街を動き回る国防軍軍人たちに対して何ら有効な手立てを打てなかった[36]

しかし7月20日のうちにベントラー街内部で反クーデター派軍人がクーデター派軍人を取り押さえた。国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将の命令でシュタウフェンベルクらクーデター派のリーダー格は銃殺刑に処せられた。カルテンブルンナーはすぐにベントラー街に急行し、捜査を行うのでそれ以上独断の銃殺刑を執行しないようフロムに指示した[37]。。

その後の捜査は国家保安本部を本拠として行われ、カルテンブルンナーが指揮を執った[38][39]。国家保安本部ゲシュタポ局長ハインリヒ・ミュラーの下に「1944年7月20日特別委員会」を創設させて捜査を開始させ、その調査結果をまとめて党官房長マルティン・ボルマンに提出した[40]。捜査は徹底して行われ、7,000人近くが逮捕された。そのうちローラント・フライスラー人民裁判所へ送られて処刑された者の数は少なくとも200人に及ぶという[41]。カルテンブルンナーは捜査の責任者として人民裁判所で裁判の様子を傍聴したが、フライスラーの裁判指揮に不快感を抱いた。「この三文役者は、無能な革命家や失敗した暗殺者さえも殉教者にしてしまう。」と不満を漏らしている[42]。マルティン・ボルマンへの報告書の中でもフライスラーのやり方を批判しているが、ヒトラーはフライスラーのやり方でよいと判断し、陰謀者たちの裁判をその後もフライスラーに任せた。カルテンブルンナーの報告書は空振りに終わった[43]

大戦末期

1945年3月12日、カルテンブルンナーは当時の国際赤十字代表カール・ブルクハルトに対して、赤十字代表団を強制収容所に立ち入らせる約束をした。しかしこの約束には、訪問した代表団のメンバーは終戦まで収容所に留まらなければならないという条件が付いていた。このような条件にも関わらずルイス・ヘーフリガー(マウトハウゼン)、パウル・デュナン(テレージエンシュタット)、ヴィクター・マウアー(ダッハウ)を含む10人の代表団がこの査察を引き受けている。

また、カルテンブルンナーは1945年3月半ばと4月半ばに独断で単独講和を企て、SD将校ヴィルヘルム・ヘットル親衛隊少佐(de)をスイスへ派遣してアメリカの情報機関OSSCIAの前身)のヨーロッパ代表アレン・ウェルシュ・ダレスと交渉させるなどしている。しかし交渉は失敗に終わった[13][44][45]

敗戦も間近になった1945年4月19日にカルテンブルンナーは側近とともにベルリンを離れ、ザルツブルクへ自らの司令部を映した。「アルプス国家要塞」に立て籠もり、ここで最後まで抵抗を支援するはずだった。多くのナチ党高官が強奪した貴重品を持ち込み戦後に備えた。5月1日にはアルトハウスゼー(de)へ移った。アドルフ・アイヒマンがアルトアウスゼーにユダヤ人移送の報告に現れたが、カルテンブルンナーはもはや何の関心も示さなかった[44]

捕虜

1945年5月11日にアメリカ陸軍CIC(en)対情報部がカルテンブルンナーの身柄を拘束した[44]

カルテンブルンナーはノルトハウゼン近くのアメリカ軍の収容所に送られた。当初アメリカ軍は彼がカルテンブルンナーだと認知しておらず、単なるドイツ軍将校と思っていたが、あるドイツ人女性の密告でカルテンブルンナーであることがばれた。まもなくルクセンブルクバート・モンドルフ(de)のパレス・ホテルに設けられた収容所へ送られた[46]。ここはナチスの最大の大物と見なされた捕虜が収容されていた場所で、ヘルマン・ゲーリングカール・デーニッツヨアヒム・フォン・リッベントロップアルベルト・シュペーアヴィルヘルム・カイテルフランツ・フォン・パーペンヒャルマル・シャハトアルフレート・ローゼンベルクユリウス・シュトライヒャーなど後にニュルンベルク裁判にかけられることになる者たちが収容されていた[47]

ニュルンベルク裁判

ニュルンベルク国際軍事裁判の法廷でカイテル(奥の眼鏡をかけている人物)やローゼンベルク(手前)と密談するカルテンブルンナー

1945年9月に国際軍事裁判が開かれることとなったニュルンベルクの刑務所に送られた[44]

国際軍事裁判で彼は米軍による不当な待遇について述べ、うちひしがれた様子だった。彼は第一起訴事項「侵略戦争の共同謀議」、第三起訴事項「戦争犯罪」、第四起訴事項「人道に対する罪」で起訴された[48]。起訴状を届けられた時、カルテンブルンナーは「家族に会わせてくれ」と泣き出した[49]。起訴状についてコメントを書くことを求められると「いかなる戦争犯罪についても私は無罪だと思っています。私は諜報員としての任務を果たしただけです。ヒムラーの代役を務めることは拒否します。」と書いた[50]

被告人達の心理分析官グスタフ・ギルバート大尉はニュルンベルク裁判の被告全員を対象にウェクスラー・ベルビュー成人知能検査を行った。カルテンブルンナーのIQ値は113で、被告の中ではユリウス・シュトライヒャーに次いで低かった[51]

法廷へ連れて行かれるカルテンブルンナー。

裁判の開廷直前に彼はクモ膜下出血を起こして独房の中で卒倒し、病院へ担ぎ込まれた[52]。不安とストレスで血圧を押し上げて血管が破れたのだった[53]。ニュルンベルク裁判は1945年11月20日から開廷したが、彼は治療のためにしばらく欠席した。しかし12月10日からは出廷させられた[54]

裁判が始まると彼はいかなる手段を用いてでも死刑を避けようとするようになった。自分を弁護する法廷戦術として彼が用いたのは、ゲシュタポをはじめとする彼の指揮下にある機関が重大な犯罪を犯したことを認めつつ、彼自身はその犯罪へいかなる関与もしていないと主張することだった。彼は、自分が実行犯というよりはただそのような機密業務について、ある種の名目的代表を務めただけだと主張し、実際には諜報活動以外には一切携わっていないと主張した[50]。犯罪は自分が国家保安本部に関わりあいになる以前に行われた行動の結果だと主張した。必要とあらば検察が提示した文書の自分のサインを否認しさえした[55]

1946年10月1日、被告人全員に判決が言い渡された。まず被告人全員がそろった中、一人ずつ判決文が読み上げられた。カルテンブルンナーの判決文は「カルテンブルンナーが、侵略戦争遂行計画に関与した証拠はない。ドイツ・オーストリア併合は、侵略戦争とは非難されていない。」として彼を第一起訴事項「侵略戦争の共同謀議」について無罪とした[48]。一方、「カルテンブルンナーは強制収容所の状況をよく知っていた」「強制収容所内でのユダヤ人の殺害はRSHAの管轄事項であり、カルテンブルンナーはその長官である」「"ユダヤ人問題の最終的解決"に指導的役割を果たした。」「"弾丸布告"をはじめとする捕虜の虐待と殺害に関与した」として第三起訴事項「戦争犯罪」と第四起訴事項「人道に対する罪」について有罪とした[56][57]。その後、個別に言い渡される量刑判決で彼は絞首刑判決を受けた[58]

処刑

絞首刑後の遺体

1946年10月16日午前1時10分から自殺したヘルマン・ゲーリングを除く死刑囚10人の絞首刑が順番に執行された。カルテンブルンナーはヨアヒム・フォン・リッベントロップヴィルヘルム・カイテルに次いで三番目に刑執行を受けた[59][60]

最期の言葉は「私は私の国民と私の祖国に、熱い心をもって仕えました。私は私の義務を、祖国の法律に従って果たしました。困難な時代に我が国民がもっぱら軍人的な人たちに率いられなかったことを私は残念に思います。犯罪が行われた事も残念ですが、私はそれに何の関わりもありません。ドイツよ、健やかに。」だった[61]

自殺したゲーリングを含めてカルテンブルンナーら11人の遺体は、ミュンヘン郊外の墓地の火葬場へ運ばれ、そこで焼かれた。遺骨はイザール川の支流コンヴェンツ川に流された[62]

キャリア

親衛隊階級

受章

参考文献

脚注

  1. ^ a b c d 大野、232頁
  2. ^ a b パーシコ、上巻216頁
  3. ^ ヴィストリヒ、40頁
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m LeMO
  5. ^ a b c d e f g h Yerger,p135
  6. ^ a b 大野、233頁
  7. ^ a b c 大野、234頁
  8. ^ 大野、234-235頁
  9. ^ a b 大野、236頁
  10. ^ 大野、237頁
  11. ^ 大野、238頁
  12. ^ Yerger,p189
  13. ^ a b c d e ヴィストリヒ、41頁
  14. ^ 大野、238-239頁
  15. ^ a b c 大野、239頁
  16. ^ Yerger,p130
  17. ^ 大野、240頁
  18. ^ Yerger,p86
  19. ^ 大野、241-242頁
  20. ^ a b 大野、242頁
  21. ^ ヴィストリヒ、87頁
  22. ^ 阿部、354頁
  23. ^ 阿部、357頁
  24. ^ a b 大野、244頁
  25. ^ Yerger,p85
  26. ^ Yerger,p36
  27. ^ a b 大野、246頁
  28. ^ Yerger,p37/p83
  29. ^ 大野、246-247頁
  30. ^ Yerger,p36/p86
  31. ^ 大野、250頁
  32. ^ a b 大野、251頁
  33. ^ a b c 大野、252頁
  34. ^ 大野、253頁
  35. ^ 大野、256-257頁
  36. ^ ヘーネ、514頁
  37. ^ マンベル、174頁
  38. ^ グレーバー、228頁
  39. ^ マンベル、186頁
  40. ^ 大野、258頁
  41. ^ マンベル、187頁
  42. ^ クノップ、357頁
  43. ^ クノップ、369頁
  44. ^ a b c d 大野、272頁
  45. ^ ヘーネ、553頁
  46. ^ パーシコ、上巻56頁
  47. ^ マーザー、76頁
  48. ^ a b マーザー、323頁
  49. ^ パーシコ、上巻119頁
  50. ^ a b パーシコ、上巻218頁
  51. ^ レナード・モズレー著、伊藤哲訳、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』、1977年早川書房 166頁
  52. ^ パーシコ、上巻176頁
  53. ^ パーシコ、上巻177頁
  54. ^ パーシコ、上巻215頁
  55. ^ マーザー、323-324頁
  56. ^ マーザー、325頁
  57. ^ パーシコ、下巻271頁
  58. ^ パーシコ、下巻278頁
  59. ^ マーザー、392頁
  60. ^ パーシコ、下巻310頁
  61. ^ マーザー、393頁
  62. ^ パーシコ、下巻313頁

関連項目

外部リンク

先代
ハインリヒ・ヒムラー
国家保安本部長官
1943 - 1945
次代
-
先代
アルトゥール・ネーベ
インターポール総裁
1943 - 1945
次代
フローレント・ローヴァギー