「バルドゥール・フォン・シーラッハ」の版間の差分
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{{政治家 |
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[[ファイル:Joachim von Ribbentrop and Baldur von Schirach.jpg|thumb|200px|ニュルンベルク裁判でのバルドゥール・フォン・シーラッハ(右)]] |
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|人名 = バルドゥール・フォン・シーラッハ |
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[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-H0122-0501-001, Nürnberg, Reichsparteitag, HJ-Generalprobe.jpg|thumb|200px|党大会におけるヒトラー・ユーゲントの合奏を見守るシーラッハ。1938年9月、ニュルンベルクにて。]] |
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|各国語表記 =Baldur von Schirach |
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'''バルドゥール・ベネディクト・フォン・シーラッハ'''('''Baldur Benedikt von Schirach''', [[1907年]][[5月9日]] - [[1974年]][[8月8日]])は[[ドイツ]]の[[政治家]]。[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)初代[[青少年全国指導者]]。[[ヒトラー・ユーゲント]]初代総裁として同団体を指導、育成した。後に[[ウィーン]][[帝国大管区]]指導者も歴任した。 |
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|画像 = Baldur von Schirach in Prison.JPG |
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|画像説明 = [[1946年]]、ニュルンベルク刑務所の独房のシーラッハ |
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|国略称 = {{DEU1935}} |
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|生年月日 = {{生年月日と年齢|1907|5|9|no}} |
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|出生地 = {{DEU1871}}<br>[[File:Flag of Prussia 1892-1918.svg|25px]] [[プロイセン王国]]、[[ベルリン]] |
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|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1907|5|9|1974|8|8}} |
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|死没地 = [[ファイル:Flag of Germany.svg|25px]] [[ドイツ連邦共和国]]<br>[[ファイル:Flag of Rhineland-Palatinate.svg|25px]] [[ラインラント=プファルツ州]]、[[クレフ (ドイツ)|クレフ]] |
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|出身校 = [[ミュンヘン大学]] |
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|前職 = |
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|現職 = |
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|所属政党 = [[image:Reichsadler.svg|25px]] [[国家社会主義ドイツ労働者党]] |
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|称号・勲章 = [[突撃隊大将]]<ref name="Axis">[http://www.geocities.com/~orion47/ Axis Biographical Research]の"HITLERJUGEND (HJ)"の項目</ref><br>[[黄金ナチ党員バッジ]]<ref name="Axis"/> |
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|世襲の有無 = |
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|親族(政治家) = |
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|配偶者 = ヘンリエッテ・フォン・シーラッハ(旧姓ホフマン) |
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|サイン = |
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|ウェブサイト = |
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|サイトタイトル = |
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|国旗 = |
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|職名 = [[image:Reichsadler.svg|25px]]国家社会主義ドイツ労働者党<br>学生連盟指導者 |
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|内閣 = |
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|選挙区 = |
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|当選回数 = |
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|就任日 = [[1928年]][[7月20日]]<ref name="平井20">平井、20頁</ref> |
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|退任日 = [[1932年]]6月<ref name="ジークムント298">ジークムント、298頁</ref> |
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|国旗2 = |
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|職名2 = [[image:Reichsadler.svg|25px]]国家社会主義ドイツ労働者党<br> 全国青少年指導者 |
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|内閣2 = |
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|選挙区2 = |
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|当選回数2 = |
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|就任日2 = [[1931年]][[10月30日]]<ref name="平井25">平井、25頁</ref><ref name="LeMO"/> |
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|退任日2 = [[1940年]][[8月8日]] |
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|国旗3 = |
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|職名3 = [[ファイル:Flag of Germany.svg|25px]] [[ファイル:Flag of Nazi Germany (1933-1945).svg|25px]] [[ドイツ国]][[国会 (ドイツ)|国会議員]] |
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|内閣3 = |
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|選挙区3 = |
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|当選回数3 = 3回 |
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|就任日3 = [[1932年]][[7月31日]] |
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|退任日3 = [[1945年]][[5月8日]] |
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|国旗4 = |
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|職名4 = [[image:Reichsadler.svg|25px]]国家社会主義ドイツ労働者党<br> ウィーン帝国大管区指導者 |
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|内閣4 = |
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|選挙区4 = |
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|当選回数4 = |
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|就任日4 = [[1940年]][[8月8日]]<ref name="LeMO"/> |
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|退任日4 = [[1945年]][[5月8日]] |
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{{基礎情報 軍人 |
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| 氏名 = 軍人としての経歴 |
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| 各国語表記 = |
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| 生年月日 = |
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| 没年月日 = |
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| 画像 = |
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| 画像サイズ = |
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| 画像説明 = |
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| 渾名 = |
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| 生誕地 = |
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| 死没地 = |
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| 所属政体 = {{DEU1935}} |
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| 所属組織 = |
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[[File:Balkenkreuz.svg|20px]] [[ドイツ陸軍]] (1940‐1945) |
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| 軍歴 = |
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| 最終階級 = 予備役[[少尉]] |
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| 指揮 = |
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| 部隊 = [[グロースドイッチュラント師団|大ドイツ連隊]] |
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| 戦闘 = [[第二次世界大戦]]<br /> |
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*[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|対フランス戦]] |
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| 戦功 = |
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| 賞罰 = [[二級鉄十字章]] |
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| 除隊後 = [[ニュルンベルク裁判]]被告人<br>禁固20年判決<br>[[シュパンダウ刑務所]]囚人 |
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'''バルドゥール・ベネディクト・フォン・シーラッハ'''('''Baldur Benedikt von Schirach''', [[1907年]][[5月9日]] - [[1974年]][[8月8日]])は[[ドイツ]]の[[政治家]]。[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)の[[全国青少年指導者]]、[[ヒトラー・ユーゲント]]指導者としてドイツの青少年を[[国家社会主義]]思想の下に指導、育成した。後に[[ウィーン]]の総督兼[[帝国大管区]]指導者となり、ウィーンの[[ユダヤ人]]の追放に関与した。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 生い立ち === |
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近衛胸甲騎兵連隊将校カール・ベイリー・ノリス・フォン・シーラッハとエマ・ミドルトン夫妻の次男として[[ベルリン]]に生まれた。父は[[ドイツ人]]で古くから続く貴族将校の家系を持つ裕福な家庭で育った人物であった。母エマは[[フィラデルフィア]]出身の、やはり裕福な家庭で育ったアメリカ人女性だった。父もアメリカ人の血を引いていたため、家族での会話には英語を使うことが多かった。そのためシーラッハ自身も母国語の[[ドイツ語]]以上に[[英語]]が得意だった。父はその後[[ヴァイマル]]の宮廷劇場の支配人に任じられたため、一家はヴァイマルへ引っ越した。シーラッハも幼少期音楽をたしなみながら育つこととなった。しかし1918年に[[第一次世界大戦]]において[[ドイツ帝国]]が敗戦。さらに[[ドイツ革命]]により帝政は崩壊し、共和制へと移行した。宮廷劇場も閉鎖され、父は失業した。またドイツ皇室に心酔していた兄カールは絶望して自殺した。弟のシーラッハも自殺こそしなかったが、帝政の後を受けた[[ヴァイマル共和政]]に対する激しい憎しみを募らせながら育った。 |
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1907年5月9日に[[ドイツ帝国]][[領邦]][[プロイセン王国]]首都[[ベルリン]]に生まれる。父はプロイセン近衛胸甲騎兵連隊将校カール・ベイリー・ノリス・フォン・シーラッハ(Carl Baily Norris von Schirach)。母は[[アメリカ人]]のエマ・ミドルトン(Emma Middleton)<ref name="クノップ98">クノップ、98頁</ref>。 |
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シーラッハは、ナチ党幹部には珍しく、裕福な貴族の出であった。父カールのシーラッハ家はオーストリア女王[[マリア・テレジア]]の時代に文芸分野の功績で貴族の称号を賜った家柄であった<ref name="クノップ100">クノップ、100頁</ref>。母エマは[[アメリカ]]・[[フィラデルフィア]]出身で、シーラッハ家以上に裕福な家の女性だった<ref name="クノップ98"/><ref name="クノップ100">クノップ、100頁</ref>。母の祖先には[[アメリカ独立宣言]]に調印した先祖が二人いる<ref name="ヴィストリヒ125">ヴィストリヒ、125頁</ref>。母エマはシーラッハ家に嫁いだ後も[[ドイツ語]]を話したがらず、英語で通した<ref name="ジークムント294">ジークムント、294頁</ref>。父もアメリカ人の血を引いていて英語がしゃべれたので、シーラッハ家の日常会話は[[英語]]でおこなわれていた。シーラッハ家の五人の子供も英語で育てられた。そのためシーラッハは母国語の[[ドイツ語]]以上に英語が得意だった<ref name="クノップ100">クノップ、100頁</ref>。 |
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戦後、旧帝政軍人たちが組織したさまざまな国粋団体に所属したが、1925年にナチ党の演説を聴く機会があり、ヒトラーの[[ヴェルサイユ条約]]打破を熱く語る姿勢に共感を覚えてナチ党へ入党した。[[1927年]]に[[アドルフ・ヒトラー]]の推薦で[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]に入学、学生の大勢をナチ党へ勧誘した。この功績を認められ、シーラッハは後にミュンヘン大学細胞指導者に就任した。ナチ党学生連盟指導者[[ヴィルヘルム・テンペル]]との権力闘争にも勝利し、1928年にはかわってナチ党学生連盟指導者となった。ナチ党の党勢拡大とともに学生の入党もさらに増した。 |
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父は1908年に軍を退役し、[[ヴァイマル]]の宮廷劇場の支配人に任じられた。そのためシーラッハ一家はヴァイマルへ引っ越した<ref name="ヴィストリヒ125"/><ref name="クノップ100"/>。シーラッハも幼少期音楽をたしなみながら育つこととなった。子供の頃から詩を書いたり、バイオリンの練習にいそしんだ<ref name="クノップ100"/>。 |
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そして[[1931年]]10月に24歳という若さで青少年全国指導者に任命された。シーラッハは翌年3月に党専属写真家[[ハインリヒ・ホフマン]]の娘ヘンリエッテと結婚し、同年7月、25歳でナチ党最年少の国会議員に当選した。そしてその後、ヒトラーからヒトラー・ユーゲントの指導を委ねられる。 |
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アメリカの血を強くひいているためか、シーラッハ家はプロイセン貴族にありがちなガチガチの権威主義教育を好まず、自由放任主義的なのびのびした教育の気風を持っていた。1917年に[[バート・ベルカ]]([[:de:Bad Berka|de]])の寄宿学校に入学。この学校は改革教育学者[[ヘルマン・リーツ]]の理念に根ざしており、大都市が持つ「退廃的な影響」から青少年を遠ざけ、自主性や自立性を育てるのを教育目標としていた。教師と子供はお互い「キミ(du)」で呼び合い、「若者は若者によって指導される」という理念の下、年長の生徒は年下の生徒を指導していた。この寄宿学校の理念はシーラッハのヒトラー・ユーゲント指導に強く影響を及ぼしたという<ref name="クノップ100"/><ref name="ジークムント294"/>。 |
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シーラッハの指導によってヒトラー・ユーゲントは急激に成長した。[[1933年]]の[[ヒトラー内閣]]発足によってヒトラー・ユーゲントへの加入者は激増したが、シーラッハはナチ党の「一元化」政策を踏まえて、さまざまな青少年組織をヒトラー・ユーゲントに統合した。[[1934年]]6月には、[[カトリック]]系・同盟系・スポーツ系・職業系・軍事系の青年諸団体をシーラッハの指導の下に統括し、その後、[[プロテスタント]]青年団や体操協会をヒトラー・ユーゲントに編入した。 |
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=== 第一次大戦後 === |
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[[1936年]]12月、「ヒトラー・ユーゲント法」制定によって、それまでナチ党の私的な組織だったヒトラー・ユーゲントは公式に国家機関となり、それ以外の青少年組織は禁止された。そして10歳から18歳までの青少年が強制加入させられ、ヒトラー・ユーゲントは、[[第三帝国]]の青少年組織の総称となった。 |
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シーラッハが11歳の頃([[1918年]])、[[第一次世界大戦]]において[[ドイツ帝国]]が敗戦。さらに大戦末期の[[ドイツ革命]]により帝政は崩壊し、共和制へと移行した。宮廷劇場も閉鎖され、父は失業した。またドイツ皇室に心酔していた兄カールは絶望して自殺した。弟のシーラッハも自殺こそしなかったが、帝政の後を受けた[[ヴァイマル共和政]]に対する激しい憎しみを募らせながら育った<ref name="クノップ101">クノップ、101頁</ref>。ただ、他の家庭と違い、シーラッハ家は十分な財産があったので、経済状況がどん底に墜ちるまでには至らなかった。シーラッハは、ベルカの寄宿学校からヴァイマルの自宅に戻り、そこで勉学を続けた<ref name="クノップ101">クノップ、101頁</ref>。17歳の頃([[1924年]])には、青少年国粋団体「クナッペンシャフト(少年従者)」に所属<ref name="クノップ101">クノップ、101頁</ref>。また[[ヘンリー・フォード]]の[[ユダヤ陰謀論]]的著作『[[国際ユダヤ人]]』([[:en:The International Jew|en]])をこの頃に読み、[[反ユダヤ主義]]に洗脳されてしまったという。シーラッハは後に「あの本に出会ってしまったことが私の破滅のもとだった」と語っている<ref name="パーシコ下72">パーシコ下巻、72頁</ref>。 |
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=== ナチ党入党、党の学生指導者に === |
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[[1940年]]8月に、シーラッハはウィーン帝国大管区指導者に任命されたが、後任の青少年全国指導者[[アルトゥール・アクスマン]]はヒトラー・ユーゲントを軍事化して戦火に巻き込むようになった。これはヒトラー・ユーゲントを大事に育ててきたシーラッハにとって我慢ならぬ事態であった。シーラッハはヒトラー・ユーゲントの戦時体制導入に大反対の立場だった。 |
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1925年3月22日、ヴァイマルで[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)の党首[[アドルフ・ヒトラー]]が演説を行った際、シーラッハは「クナッペンシャフト」のメンバーとしてその集会場の警備をしていた。ヒトラーの演説を聞き、[[ヴェルサイユ条約]]打破を熱く語る姿勢に共感を覚えた<ref name="クノップ102">クノップ、102頁</ref><ref name="平井14">平井、14頁</ref>。演説後、ヒトラーに個人的に紹介される機会を得た。ヒトラーとシーラッハは、手を握り合い、見つめあった。感激したシーラッハは完全にヒトラーの崇拝者となった<ref name="クノップ102">クノップ、102頁</ref>。1925年5月9日に18歳になると同時にナチ党に入党した<ref name="平井17">平井、17頁</ref>。1925年7月にヒトラーの『[[我が闘争]]』の第一巻が出版されると彼は暗記するほどに読み込んだという<ref name="クノップ103">クノップ、103頁</ref><ref name="平井17"/>。 |
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ヴァイマルの[[ギムナジウム]]を出た後、両親はその後の進路をシーラッハに任せた。ヒトラーから「私のいるミュンヘンに来てくれ。我々には君のような人材が必要だ」と誘われたシーラッハは、1927年に[[ミュンヘン]]へ移住した。父親のコネでミュンヘンでも上流階級のサロンに出入りを許された<ref name="クノップ104">クノップ、104頁</ref>。またヒトラーの勧めで[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]に入学し、英文学、美術史、エジプト学などを学んだ<ref name="ジークムント294"/>。シーラッハは1928年夏にアメリカ・ニューヨークを訪問し、叔父アルフレッド・ノリスから彼の経営する銀行で働かないかと勧められているが、拒否している。アメリカ人の母エマも息子にアメリカで働いてほしがっていたが、シーラッハの意思は変わらなかった。彼のヒトラーへの忠誠はすでに揺るぎないものになっていたのだった<ref name="クノップ107">クノップ、107頁</ref>。 |
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[[第二次世界大戦]]後の[[ニュルンベルク裁判]]においてシーラッハは、ドイツの青少年団体の責任者として「[[人道に対する罪]]」とウィーンの[[ユダヤ人]]を追放した訴因で裁かれ、禁固20年の判決を受け、ベルリン・[[シュパンダウ区|シュパンダウ]]の戦犯監獄に収監された。[[1966年]]に刑期満了で釈放後、南西ドイツに隠棲。『私はヒトラーを信じた』という自伝を著し、1974年に世を去った。 |
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ミュンヘン大学でシーラッハはわずかな期間で精力的に支持者を集め、まもなくミュンヘンの学生グループのリーダーとなった。ナチ党学生連盟指導者[[ヴィルヘルム・テンペル]]との権力闘争にも勝利し、1928年7月20日には選挙によってナチ党学生連盟指導者に選ばれた<ref name="平井20">平井、20頁</ref><ref name="クノップ106">クノップ、106頁</ref>。しかし「[[ヒトラー・ユーゲント]]」は彼の指揮下になく、ヒトラー・ユーゲント団長[[クルト・グルーバー]]と権力争いをするようになった。グルーバーは、ヒトラーや[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]など党幹部から無能と見なされ、ついには失脚した。一方シーラッハはナチスを支持する学生を順調に増やし、ヒトラーからますます高い評価を得るようになっていた<ref name="平井24">平井、24頁</ref><ref name="クノップ107">クノップ、107頁</ref>。 |
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1931年10月30日にナチ党全国青少年指導者(Reichsjugendführer der NSDAP)に任命された<ref name="平井25">平井、25頁</ref><ref name="LeMO">[http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/SchirachBaldur/index.html LeMO]</ref>。この時点でも「ヒトラー・ユーゲント」は指揮下になく、ユーゲントは[[アドリアン・フォン・レンテルン]]が指導していた。1932年3月31日には党専属写真家[[ハインリヒ・ホフマン]]の娘ヘンリエッテ(愛称ヘニー)と結婚した。ヒトラーと[[エルンスト・レーム]]が結婚立会人を務めている<ref name="ジークムント296">ジークムント、296頁</ref><ref name="クノップ116">クノップ、116頁</ref><ref name="平井28">平井、28頁</ref>。 |
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1932年1月24日にはベルリンで[[ヘルベルト・ノルクス]]という15歳のナチ党員がナチ党のポスターを貼っていた際に共産主義者に刺殺される事件が発生した。シーラッハとゲッベルスはただちにこの少年の英雄化を行った。シーラッハはノルクスの墓参りを毎年欠かさずに行った<ref name="クノップ119">クノップ、119頁</ref><ref name="平井27">平井、27頁</ref>。 |
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=== ヒトラー・ユーゲント指導者 === |
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==== ナチ党野党時代 ==== |
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レンテルンを失脚させたのち、1932年6月に代わってヒトラー・ユーゲント全国指導者に任命された<ref name="平井26">平井、26頁</ref><ref name="LeMO"/><ref name="クノップ118">クノップ、118頁</ref>。[[1932年]][[7月31日]]の[[ドイツ国会1932年選挙 (7月)|国会選挙]]で国会議員に当選した<ref name="LeMO"/>。 |
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1932年10月1日に[[ポツダム]]で大規模な「全国青少年集会」(Reichsjugendtags)を開催した。ヒトラー・ユーゲントは本人か父親が失業者であることが多かったので、旅費を捻出できず、党集会への集まりが悪いことで知られていたが、この集会の参加者数は5万人から7万人といわれる(1929年党大会時に集合したユーゲント数はわずかに2000人だった)。ヒトラーはベルリンのゲッベルス邸で待機し、集まりが良かった場合にのみ出席する予定となっていた(この頃のヒトラーは、[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]大統領から首相就任要請を待つ難しい時期だったので、あまりみすぼらしい集会に参加して政敵に笑い者にされるのを嫌がっていた)。集まりがいいことを知ったヒトラーはポツダムへ駆けつけ、夜にこの集会に参加した。シーラッハがヒトラーに「総統、ここにいるのは皆、貴方の青少年たちです。愛と信念に支えられた政治集会を貴方に捧げるために集まったのです。これほどの集会を若者から贈られた人物は、他に誰がいるでしょう」と述べると、会場の若者たちから歓声が上がり、ヒトラーの目から涙がこぼれたという。翌10月2日には若者たちはヒトラーの前で7時間にも及ぶ大行進を行った。このポツダムでの集会の成功でヒトラーはシーラッハに絶大な信任を寄せるようになった。彼はシーラッハに「君はとてつもなく大きな仕事を果たしてくれた。これほどの規模の青少年の集会がベルリンの目と鼻の先であったとなれば、政府も黙認できないだろう」と述べた<ref name="平井32-38">平井、32-38頁</ref><ref name="クノップ122-124">クノップ、122-124頁</ref>。 |
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==== ナチ党政権掌握後 ==== |
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[[File:Bundesarchiv B 145 Bild-F051620-0043, Hitler, Göring und v. Schirach auf Obersalzberg.jpg|thumb|250px|[[1936年]]、[[オーバーザルツベルク]]のヒトラーの別荘「[[ベルクホーフ]]」。左から[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]、[[マルティン・ボルマン|ボルマン]]、[[ヘルマン・ゲーリング|ゲーリング]]、シーラッハ。]] |
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[[1933年]][[1月30日]]に[[ヒトラー内閣]]が発足。多くの党機関は当面ミュンヘンに留まっていたが、シーラッハの全国青少年指導部はただちにベルリンの帝国首相府へ移されている。1933年4月5日にはユーゲント団員50名を使って「ドイツ青少年連合全国委員会」(Reichsausschusses der deutschen Jugendverbände)本部を占拠した。1933年6月17日にはドイツ国青少年指導者に任じられ、「ナチ党全国青少年指導者兼ドイツ国青少年指導者」となった<ref name="平井50">平井、50頁</ref>。 |
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ナチ党の「[[強制的同一化|一元化]]」政策の下、ヒトラー・ユーゲント以外のドイツの様々な青少年組織を次々と統合、あるいは解散させ、ドイツ青少年のヒトラー・ユーゲントへの一元化を目指した。特に共産主義者とユダヤ人の青少年組織は徹底的に滅ぼされた<ref name="平井48">平井、48頁</ref><ref name="クノップ129">クノップ、129頁</ref>。また[[ハインリヒ・ヒムラー]]ら党の有力者からも後援を受けていた「大ドイツ連盟」のようなヒトラーと連立関係にあった保守系青少年団体も解散に追い込まれている<ref name="平井50">平井、50頁</ref><ref name="クノップ130">クノップ、130頁</ref>。プロテスタント系青少年組織もすぐに片付いた。ルター派プロテスタント全国教会総監督[[ルートヴィヒ・ミュラー]]とシーラッハの協定により、1933年末にはヒトラー・ユーゲントに引き渡されている<ref name="クノップ131">クノップ、131頁</ref>。一方、カトリック系の青少年組織は、1933年7月20日にヒトラーとローマ教皇庁の間で結ばれた「政教協約([[コンコルダート]])」もあって、手を出すのは難しい存在だった。カトリック系青年団体は、1935年の[[ザール地方]]返還後ぐらいから理由をつけて少しずつ解散に追い込まれ、1939年になってようやく全て解散された<ref name="平井73">平井、73頁</ref>。 |
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ナチ党の政権掌握以降、ヒトラー・ユーゲントへの加入者は激増した。1933年末には10歳から18歳までの青少年230万人がヒトラー・ユーゲントに加盟している。これはヒトラーが政権掌握した直後(ユーゲント団員数はせいぜい11万人ほどだった)に比べると20倍の団員増加である。そして「ヒトラー・ユーゲント法」導入後の1936年末には600万人以上の団員数となった<ref name="クノップ134">クノップ、134頁</ref>。 |
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[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-H0122-0501-001, Nürnberg, Reichsparteitag, HJ-Generalprobe.jpg|thumb|250px|left|[[ナチ党党大会|党大会]]におけるヒトラー・ユーゲントの合奏を見守るシーラッハ。1938年9月、ニュルンベルクにて。]] |
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シーラッハは全てのドイツの青少年を監督下に置き、さらにその教育を掌握しようと奔走した。彼はそのために「ヒトラー・ユーゲント法」を起草した。教育相[[ベルンハルト・ルスト]]は「学校教育がすみに追いやられてしまう」としてこれに猛反対したが、[[1936年]]12月1日にヒトラーは「ヒトラー・ユーゲント法」に署名して公布した。この法律により、それまでナチ党の私的な組織だったヒトラー・ユーゲントは公式に国家機関となり、それ以外の青少年組織は禁止された。そして10歳から18歳までの青少年が強制加入させられ、ヒトラー・ユーゲントは、[[第三帝国]]の青少年組織の総称となった。ただし実際にヒトラー・ユーゲントへの加入が義務化されたのは1939年3月25日からだった<ref name="クノップ143">クノップ、143頁</ref>。 |
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シーラッハが教育への進出を強める中、他の党幹部、特に教育相ルストと対立を深めた<ref name="クノップ136">クノップ、136頁</ref>。また1937年2月に[[国防軍最高司令部]]は[[エルヴィン・ロンメル]]中佐(当時)をシーラッハの全国青少年指導部との交渉役に任じ、青少年の軍事予備教育は軍に任せるよう、たびたびシーラッハに圧力をかけるようになった<ref name="クノップ143">クノップ、143頁</ref>。 |
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シーラッハは反ユダヤ主義者だったし、ユーゲントの子供たちにも反ユダヤ主義教育を施していたが、それは狂信的というほどのレベルではなかったという。反ユダヤ主義が暴力など極端な形で現れた時には、上流階級出身のシーラッハの道徳心がそれに反発したのだった。1938年11月9日に発生した「[[水晶の夜]]」での野蛮な反ユダヤ主義暴動にはかなり辟易したようで、一部のユーゲント団員の参加を聞いたシーラッハは、ユーゲント団員に対して「このような犯罪的行為には参加してはならない」と命令を下している。ただしシーラッハにはユダヤ人を助けようという行動も見られない。彼はヒトラーを全面的に信じており、こうした反ユダヤ主義暴力行為を聞いても「理念から少々はみだしてしまった行為」程度にしか思わなかったという<ref name="クノップ145">クノップ、145頁</ref>。 |
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=== 陸軍入隊 === |
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1939年9月1日、[[ドイツ国防軍]]の[[ポーランド侵攻]]で[[第二次世界大戦]]が開戦するとシーラッハはユーゲント指導者として従軍することを周囲から求められるようになった。シーラッハはユーゲント指導者を休職し、国防軍に従軍することの希望届をヒトラーに提出した。1939年11月末にヒトラーの許可が降りた<ref name="平井147">平井、147頁</ref>。ベルリン郊外の[[デベリッツ]]で新兵として4ヶ月間訓練を受けた。しかし訓練は特別扱いで彼専用の教官や宿所をあてがわれていた<ref name="クノップ148">クノップ、148頁</ref>。 |
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ドイツ陸軍エリート部隊「[[グロースドイッチュラント師団|大ドイツ連隊]]」に配属され、はじめ伝令、のちに機関銃小隊の[[伍長]]となり、[[セダン]]、[[ソンム川]]、[[ダンケルク]]攻撃などに動員された<ref name="クノップ148">クノップ、148頁</ref>。[[少尉]]に昇進し、[[二級鉄十字章]]と[[白兵戦章]]を受章した。ドイツ軍はイギリス軍とフランス軍を下し、1940年6月20日にドイツとフランスは休戦協定に署名した。1940年6月末にシーラッハ少尉はヒトラーのいる総司令部に招集された。ヒトラーは「君が無事に帰還してくれてうれしい」と述べるとともに「総督兼大管区指導者としてウィーンに行ってもらいたい」と命じた。シーラッハの軍歴はこれとともに終わった<ref name="クノップ148">クノップ、148頁</ref><ref name="平井148">平井、148頁</ref>。 |
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=== ウィーン大管区指導者 === |
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[[1940年]]8月8日に、シーラッハは正式にウィーンの総督(Reichsstatthalter)、[[大管区指導者]](Gauleiter)に任命された<ref name="LeMO"/>。シーラッハは、この時すでに33歳になっていた。「若者は若者によって指導される」という彼が定めたユーゲントの原則の下、全国青少年指導者とユーゲント指導者職を27歳の[[アルトゥール・アクスマン]]に譲った。ただしシーラッハは「ユーゲント教育のためのナチ党全国指導者」に就任して、ユーゲントへの一定の影響力を残した<ref name="平井149">平井、149頁</ref><ref name="LeMO"/>。 |
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彼は[[バルハウスプラーツ]]([[:de:Ballhausplatz]])の宮殿からウィーン総督兼大管区指導者の執務を取った。かつて[[ウィーン会議]]が行われた部屋を自らの執務室にしている。彼は戦時でもウィーンを芸術の都として存続させようと努力した。名だたる芸術家を次々とウィーンに招き、オペラや演劇の上演を振興した<ref name="クノップ151">クノップ、151頁</ref>。しかし芸術展にナチスが「[[退廃芸術]]」に指定していた作品を展示させたり、ロシア人の[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]の曲の演奏を許可したり、同じくロシア人の[[アントン・チェーホフ|チェーホフ]]やイギリス人の[[ウィリアム・シェイクスピア|シェークスピア]]の作品の上演を許可するなどして他のナチ党幹部から反発を買った<ref name="クノップ153">クノップ、153頁</ref>。 |
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1942年には、[[イタリア]]・[[スペイン]]・[[フラマン]]・[[ワロン]]・[[デンマーク]]・[[オランダ]]・[[フランス]]・[[ノルウェー]]・[[フィンランド]]・[[ブルガリア]]・[[ルーマニア]]・[[スロヴァキア]]・[[ハンガリー]]などドイツ友好国・衛星国・占領地などの代表団を招いて「ヨーロッパ青少年会議」をウィーンで開催した。ここで「ヨーロッパ・ユーゲント連盟」の設立を決議した。この会議も他のナチ党指導者から反発を買う。ゲッベルスは日記上で「兵士が前線で戦っているというのに、ウィーンでは会議が踊っている」と批判している<ref name="クノップ153">クノップ、153頁</ref>。 |
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ウィーンでは同市の[[ゲシュタポ]]司令官[[フランツ・ヨーゼフ・フーバー]]を中心にユダヤ人のポーランド移送が行われていた。大管区指導者として彼はそれを容認していたことに責任を負う。1941年10月の時点でウィーンには5万1000人のユダヤ人がいたが<ref name="ヒルバーグ346">ヒルバーグ、346頁</ref>、1942年10月半ばまで続く移送でユダヤ人の数は8,000人足らずにまで減らされたという<ref name="ヒルバーグ348">ヒルバーグ、348頁</ref>。 |
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後任の青少年全国指導者[[アルトゥール・アクスマン]]はヒトラー・ユーゲントを軍事化して戦火に巻き込むようになった。これはヒトラー・ユーゲントを大事に育ててきたシーラッハにとって我慢ならぬ事態であった。シーラッハはヒトラー・ユーゲントの戦時体制導入に大反対の立場だった。 |
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1944年9月19日、アメリカ軍による最初のウィーン大空襲があった。その後も空襲が続き、美しかったウィーンの街はすっかり荒廃してしまった。シーラッハはウィーン[[無防備都市宣言]]の許可をヒトラーから得ようとしたが、ヒトラーに却下されている。彼は妻と子供たちを[[バイエルン州]]の別荘に疎開させた<ref name="ジークムント315">ジークムント、315頁</ref>。 |
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ソ連軍の接近により、シーラッハ自身も1945年4月6日にウィーンから逃れている<ref name="クノップ169">クノップ、169頁</ref>。 |
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=== 戦後 === |
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[[File:Joachim von Ribbentrop and Baldur von Schirach.jpg|thumb|200px|ニュルンベルク裁判でのシーラッハ(立っている人物)。手前に座っているのは[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ|リッベントロップ]]。]] |
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副官とともにオーストリア・[[インスブルック]]郊外[[シュヴァーツ]]で「リヒャルト・ファルク」という偽名で潜伏生活を送った。シーラッハはウィーンの戦闘で死亡したという噂が流れていたため、連合国はシーラッハの捜索をしなかった<ref name="マーザー65">マーザー、65頁</ref>。しかし結局、シーラッハは、6月4日に[[アメリカ軍]]に投降した<ref name="クノップ172">クノップ、172頁</ref><ref name="マーザー66">マーザー、66頁</ref>。 |
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インスブルック郊外のルム収容所に収容された後、1945年[[9月10日]]に[[ニュルンベルク裁判]]にかけるために[[ニュルンベルク]]へ移送された<ref name="ジークムント318">ジークムント、318頁</ref>。 |
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[[ニュルンベルク裁判]]においてシーラッハは、ドイツ全国青少年指導者としての行為とウィーンの[[ユダヤ人]]を追放した行為を訴因として裁かれた。 |
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ヘンリエッテは1946年春に女性収容所から釈放されて、夫のための証人や証拠探しに駆け回り、頻繁にニュルンベルクを訪れた。シーラッハ自身は裁判で「ヒトラーは虐殺者」「アウシュヴィッツは史上最悪の大量殺りく」と認めた。一方で自分自身については「ユダヤ人の移送は承認したが、ジェノサイドについては全く知らなかった」と主張した<ref name="ヴィストリヒ127">ヴィストリヒ、127頁</ref>。 |
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判決を前に妻ヘンリエッテはアメリカ首席判事[[フランシス・ビドル]]([[:en:Francis Biddle]])に宛てて「私どもの子供はアメリカが大好きです。子供たちにとっては祖母の国です。[[ディズニー映画]]や[[アイスクリーム]]という楽しいイメージがあります。アメリカの国旗や歴史にも、ドイツと同じほどに親しみがあります。そのアメリカが、貴方達のお父さんを、最も忌まわしい方法で死なせたのよ、などと教えなければならないのでしょうか。」と[[英語]]で書いた<ref name="パーシコ下274">パーシコ下巻、274頁</ref>。 |
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これが功を奏したのか、イギリス判事[[ジェフリー・ローレンス]]([[:en:Geoffrey Lawrence, 1st Baron Oaksey|en]])とソ連判事[[イオナ・ニキチェンコ]]([[:ru:Никитченко, Иона Тимофеевич|ru]])がシーラッハの死刑を主張する中、アメリカ判事ビドルは死刑に反対するフランス判事[[アンリ・ドヌデュー・ド・ヴァーブル]]の立場を支持し、結果、シーラッハは死刑を免れることとなった<ref name="パーシコ下263">パーシコ、下巻263頁</ref>。 |
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1946年10月1日、他の被告人達とともにシーラッハの判決が読み上げられた。法廷はシーラッハについて「彼はユダヤ人移送計画の立案者ではないが、ユダヤ人が望めるのは、運が良くても東部のゲットーで悲惨な生存が許されるだけだということを知りながら、その移送に加担していた」とし、「[[人道に対する罪]]」で有罪とした<ref name="ヴィストリヒ127">ヴィストリヒ、127頁</ref>。全国青少年指導者だった時期の起訴事実については却下された<ref name="クノップ172">クノップ、172頁</ref>。 |
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その後シーラッハは個別に言い渡される量刑判決で禁固20年の判決を受けた。彼は[[死刑]]判決を免れた10人の被告の一人だった。証人用宿所のラジオの側で判決の実況を聞いていた妻ヘンリエッテはこの判決を聞いて「生きられるのよ!死ななくてすむなら何でもいいわ!」と叫んで大喜びしたという<ref name="パーシコ下279">パーシコ下巻、279頁</ref>。 |
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シーラッハはベルリン・[[シュパンダウ区|シュパンダウ]]の戦犯監獄に収監された。妻ヘンリエッテは夫の服役中、一人で様々な仕事をして生計を立てて、子供たちを育てた。1950年11月初めにシーラッハとヘンリエッテは離婚している。しかしヘンリエッテはその後も元夫シーラッハのために減刑嘆願を行った<ref name="ジークムント323">ジークムント、323頁</ref>。しかし結局減刑はなく、シーラッハは[[1966年]]に刑期満了で釈放された<ref name="クノップ172">クノップ、172頁</ref>。 |
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刑務所の中で書いた『私はヒトラーを信じた(Ich Glaubte an Hitler)』を1967年に出版した。その中で彼は「ヒトラーが自分をはじめ若い世代を虜にしてしまった」「ナチズムの再生はあってはならない。ナチス再生信仰を破壊することが自分の責務」「強制収容所を阻止するためもっと行動すべきところを、何の手も打たなかったのは歴史の前に恥じるばかり」と自責の念を漏らしている<ref name="ヴィストリヒ127">ヴィストリヒ、127頁</ref>。釈放後は南西ドイツに隠棲した。1974年8月8日に[[クレフ (ドイツ)|クレフ]]([[:de:Kröv]])のホテルで就寝中にそのまま死去した<ref name="ヴィストリヒ127"/>。 |
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== 参考文献 == |
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*ウェルナー・マーザー著『ニュルンベルク裁判:ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』[[西義之]]訳、[[TBSブリタニカ]]、1979年 |
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*Charles Hamilton著『LEADERS & PERSONALITIES OF THE THIRD REICH VOLUME1』p238-239、R James Bender Publishing、[[1996年]]、ISBN 0912138270 |
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*[[:en:Joseph E. Persico|ジョゼフ・E・パーシコ]]著 [[白幡憲之]]訳『ニュルンベルク軍事裁判(上) 』、[[原書房]]、[[1996年]] |
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*ジョゼフ・E・パーシコ著 白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判(下) 』、原書房、1996年 |
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*[[ラウル・ヒルバーグ]]著、[[望田幸男]]・[[原田一美]]・[[井上茂子]]訳、『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 上巻』、[[1997年]]、[[柏書房]]、ISBN 978-4760115167 |
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*[[平井正]]著、『ヒトラー・ユーゲント:青年運動から戦闘組織へ』、[[中公新書]]、[[2001年]]、ISBN 978-4121015723 |
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*[[:de:Guido Knopp|グイド・クノップ]]著、[[高木玲]]訳、『ヒトラーの共犯者 下 12人の側近たち』、[[2001年]]、[[原書房]]、ISBN 978-4562034185 |
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*[[:en:Robert S. Wistrich|ロベルト・S・ヴィストリヒ]]著、[[滝川義人]]訳、『ナチス時代ドイツ人名事典』、[[2002年]]、[[東洋書林]]、ISBN 978-4887215733 |
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*[[:en:Leon Goldensohn|レオン・ゴールデンソーン]]著、[[小林等]]・[[高橋早苗]]・[[浅岡政子]]訳『ニュルンベルク・インタビュー(上)』、[[河出書房新社]]、[[2005年]] |
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*[[アンナ・マリア・ジークムント]]著、[[平島直一郎]]・[[西上潔]]訳、『ナチスの女たち 秘められた愛』、2009年、[[東洋書林]]、ISBN 978-4887217614 |
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*シーラッハ著 日本青年外交協会研究部訳『青年の旗のまへに』、日本青年外交協会出版部、1941年 |
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==外部リンク== |
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2010年11月17日 (水) 01:15時点における版
バルドゥール・フォン・シーラッハ Baldur von Schirach | |
---|---|
1946年、ニュルンベルク刑務所の独房のシーラッハ | |
生年月日 | 1907年5月9日 |
出生地 |
ドイツ帝国 プロイセン王国、ベルリン |
没年月日 | 1974年8月8日(67歳没) |
死没地 |
ドイツ連邦共和国 ラインラント=プファルツ州、クレフ |
出身校 | ミュンヘン大学 |
所属政党 | 国家社会主義ドイツ労働者党 |
称号 |
突撃隊大将[1] 黄金ナチ党員バッジ[1] |
配偶者 | ヘンリエッテ・フォン・シーラッハ(旧姓ホフマン) |
在任期間 | 1928年7月20日[2] - 1932年6月[3] |
在任期間 | 1931年10月30日[4][5] - 1940年8月8日 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1932年7月31日 - 1945年5月8日 |
在任期間 | 1940年8月8日[5] - 1945年5月8日 |
軍人としての経歴 | |
---|---|
所属組織 | ドイツ陸軍 (1940‐1945) |
最終階級 | 予備役少尉 |
戦闘 | |
除隊後 |
ニュルンベルク裁判被告人 禁固20年判決 シュパンダウ刑務所囚人 |
バルドゥール・ベネディクト・フォン・シーラッハ(Baldur Benedikt von Schirach, 1907年5月9日 - 1974年8月8日)はドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の全国青少年指導者、ヒトラー・ユーゲント指導者としてドイツの青少年を国家社会主義思想の下に指導、育成した。後にウィーンの総督兼帝国大管区指導者となり、ウィーンのユダヤ人の追放に関与した。
生涯
生い立ち
1907年5月9日にドイツ帝国領邦プロイセン王国首都ベルリンに生まれる。父はプロイセン近衛胸甲騎兵連隊将校カール・ベイリー・ノリス・フォン・シーラッハ(Carl Baily Norris von Schirach)。母はアメリカ人のエマ・ミドルトン(Emma Middleton)[6]。
シーラッハは、ナチ党幹部には珍しく、裕福な貴族の出であった。父カールのシーラッハ家はオーストリア女王マリア・テレジアの時代に文芸分野の功績で貴族の称号を賜った家柄であった[7]。母エマはアメリカ・フィラデルフィア出身で、シーラッハ家以上に裕福な家の女性だった[6][7]。母の祖先にはアメリカ独立宣言に調印した先祖が二人いる[8]。母エマはシーラッハ家に嫁いだ後もドイツ語を話したがらず、英語で通した[9]。父もアメリカ人の血を引いていて英語がしゃべれたので、シーラッハ家の日常会話は英語でおこなわれていた。シーラッハ家の五人の子供も英語で育てられた。そのためシーラッハは母国語のドイツ語以上に英語が得意だった[7]。
父は1908年に軍を退役し、ヴァイマルの宮廷劇場の支配人に任じられた。そのためシーラッハ一家はヴァイマルへ引っ越した[8][7]。シーラッハも幼少期音楽をたしなみながら育つこととなった。子供の頃から詩を書いたり、バイオリンの練習にいそしんだ[7]。
アメリカの血を強くひいているためか、シーラッハ家はプロイセン貴族にありがちなガチガチの権威主義教育を好まず、自由放任主義的なのびのびした教育の気風を持っていた。1917年にバート・ベルカ(de)の寄宿学校に入学。この学校は改革教育学者ヘルマン・リーツの理念に根ざしており、大都市が持つ「退廃的な影響」から青少年を遠ざけ、自主性や自立性を育てるのを教育目標としていた。教師と子供はお互い「キミ(du)」で呼び合い、「若者は若者によって指導される」という理念の下、年長の生徒は年下の生徒を指導していた。この寄宿学校の理念はシーラッハのヒトラー・ユーゲント指導に強く影響を及ぼしたという[7][9]。
第一次大戦後
シーラッハが11歳の頃(1918年)、第一次世界大戦においてドイツ帝国が敗戦。さらに大戦末期のドイツ革命により帝政は崩壊し、共和制へと移行した。宮廷劇場も閉鎖され、父は失業した。またドイツ皇室に心酔していた兄カールは絶望して自殺した。弟のシーラッハも自殺こそしなかったが、帝政の後を受けたヴァイマル共和政に対する激しい憎しみを募らせながら育った[10]。ただ、他の家庭と違い、シーラッハ家は十分な財産があったので、経済状況がどん底に墜ちるまでには至らなかった。シーラッハは、ベルカの寄宿学校からヴァイマルの自宅に戻り、そこで勉学を続けた[10]。17歳の頃(1924年)には、青少年国粋団体「クナッペンシャフト(少年従者)」に所属[10]。またヘンリー・フォードのユダヤ陰謀論的著作『国際ユダヤ人』(en)をこの頃に読み、反ユダヤ主義に洗脳されてしまったという。シーラッハは後に「あの本に出会ってしまったことが私の破滅のもとだった」と語っている[11]。
ナチ党入党、党の学生指導者に
1925年3月22日、ヴァイマルで国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党首アドルフ・ヒトラーが演説を行った際、シーラッハは「クナッペンシャフト」のメンバーとしてその集会場の警備をしていた。ヒトラーの演説を聞き、ヴェルサイユ条約打破を熱く語る姿勢に共感を覚えた[12][13]。演説後、ヒトラーに個人的に紹介される機会を得た。ヒトラーとシーラッハは、手を握り合い、見つめあった。感激したシーラッハは完全にヒトラーの崇拝者となった[12]。1925年5月9日に18歳になると同時にナチ党に入党した[14]。1925年7月にヒトラーの『我が闘争』の第一巻が出版されると彼は暗記するほどに読み込んだという[15][14]。
ヴァイマルのギムナジウムを出た後、両親はその後の進路をシーラッハに任せた。ヒトラーから「私のいるミュンヘンに来てくれ。我々には君のような人材が必要だ」と誘われたシーラッハは、1927年にミュンヘンへ移住した。父親のコネでミュンヘンでも上流階級のサロンに出入りを許された[16]。またヒトラーの勧めでミュンヘン大学に入学し、英文学、美術史、エジプト学などを学んだ[9]。シーラッハは1928年夏にアメリカ・ニューヨークを訪問し、叔父アルフレッド・ノリスから彼の経営する銀行で働かないかと勧められているが、拒否している。アメリカ人の母エマも息子にアメリカで働いてほしがっていたが、シーラッハの意思は変わらなかった。彼のヒトラーへの忠誠はすでに揺るぎないものになっていたのだった[17]。
ミュンヘン大学でシーラッハはわずかな期間で精力的に支持者を集め、まもなくミュンヘンの学生グループのリーダーとなった。ナチ党学生連盟指導者ヴィルヘルム・テンペルとの権力闘争にも勝利し、1928年7月20日には選挙によってナチ党学生連盟指導者に選ばれた[2][18]。しかし「ヒトラー・ユーゲント」は彼の指揮下になく、ヒトラー・ユーゲント団長クルト・グルーバーと権力争いをするようになった。グルーバーは、ヒトラーやヨーゼフ・ゲッベルスなど党幹部から無能と見なされ、ついには失脚した。一方シーラッハはナチスを支持する学生を順調に増やし、ヒトラーからますます高い評価を得るようになっていた[19][17]。
1931年10月30日にナチ党全国青少年指導者(Reichsjugendführer der NSDAP)に任命された[4][5]。この時点でも「ヒトラー・ユーゲント」は指揮下になく、ユーゲントはアドリアン・フォン・レンテルンが指導していた。1932年3月31日には党専属写真家ハインリヒ・ホフマンの娘ヘンリエッテ(愛称ヘニー)と結婚した。ヒトラーとエルンスト・レームが結婚立会人を務めている[20][21][22]。
1932年1月24日にはベルリンでヘルベルト・ノルクスという15歳のナチ党員がナチ党のポスターを貼っていた際に共産主義者に刺殺される事件が発生した。シーラッハとゲッベルスはただちにこの少年の英雄化を行った。シーラッハはノルクスの墓参りを毎年欠かさずに行った[23][24]。
ヒトラー・ユーゲント指導者
ナチ党野党時代
レンテルンを失脚させたのち、1932年6月に代わってヒトラー・ユーゲント全国指導者に任命された[25][5][26]。1932年7月31日の国会選挙で国会議員に当選した[5]。
1932年10月1日にポツダムで大規模な「全国青少年集会」(Reichsjugendtags)を開催した。ヒトラー・ユーゲントは本人か父親が失業者であることが多かったので、旅費を捻出できず、党集会への集まりが悪いことで知られていたが、この集会の参加者数は5万人から7万人といわれる(1929年党大会時に集合したユーゲント数はわずかに2000人だった)。ヒトラーはベルリンのゲッベルス邸で待機し、集まりが良かった場合にのみ出席する予定となっていた(この頃のヒトラーは、ヒンデンブルク大統領から首相就任要請を待つ難しい時期だったので、あまりみすぼらしい集会に参加して政敵に笑い者にされるのを嫌がっていた)。集まりがいいことを知ったヒトラーはポツダムへ駆けつけ、夜にこの集会に参加した。シーラッハがヒトラーに「総統、ここにいるのは皆、貴方の青少年たちです。愛と信念に支えられた政治集会を貴方に捧げるために集まったのです。これほどの集会を若者から贈られた人物は、他に誰がいるでしょう」と述べると、会場の若者たちから歓声が上がり、ヒトラーの目から涙がこぼれたという。翌10月2日には若者たちはヒトラーの前で7時間にも及ぶ大行進を行った。このポツダムでの集会の成功でヒトラーはシーラッハに絶大な信任を寄せるようになった。彼はシーラッハに「君はとてつもなく大きな仕事を果たしてくれた。これほどの規模の青少年の集会がベルリンの目と鼻の先であったとなれば、政府も黙認できないだろう」と述べた[27][28]。
ナチ党政権掌握後
1933年1月30日にヒトラー内閣が発足。多くの党機関は当面ミュンヘンに留まっていたが、シーラッハの全国青少年指導部はただちにベルリンの帝国首相府へ移されている。1933年4月5日にはユーゲント団員50名を使って「ドイツ青少年連合全国委員会」(Reichsausschusses der deutschen Jugendverbände)本部を占拠した。1933年6月17日にはドイツ国青少年指導者に任じられ、「ナチ党全国青少年指導者兼ドイツ国青少年指導者」となった[29]。
ナチ党の「一元化」政策の下、ヒトラー・ユーゲント以外のドイツの様々な青少年組織を次々と統合、あるいは解散させ、ドイツ青少年のヒトラー・ユーゲントへの一元化を目指した。特に共産主義者とユダヤ人の青少年組織は徹底的に滅ぼされた[30][31]。またハインリヒ・ヒムラーら党の有力者からも後援を受けていた「大ドイツ連盟」のようなヒトラーと連立関係にあった保守系青少年団体も解散に追い込まれている[29][32]。プロテスタント系青少年組織もすぐに片付いた。ルター派プロテスタント全国教会総監督ルートヴィヒ・ミュラーとシーラッハの協定により、1933年末にはヒトラー・ユーゲントに引き渡されている[33]。一方、カトリック系の青少年組織は、1933年7月20日にヒトラーとローマ教皇庁の間で結ばれた「政教協約(コンコルダート)」もあって、手を出すのは難しい存在だった。カトリック系青年団体は、1935年のザール地方返還後ぐらいから理由をつけて少しずつ解散に追い込まれ、1939年になってようやく全て解散された[34]。
ナチ党の政権掌握以降、ヒトラー・ユーゲントへの加入者は激増した。1933年末には10歳から18歳までの青少年230万人がヒトラー・ユーゲントに加盟している。これはヒトラーが政権掌握した直後(ユーゲント団員数はせいぜい11万人ほどだった)に比べると20倍の団員増加である。そして「ヒトラー・ユーゲント法」導入後の1936年末には600万人以上の団員数となった[35]。
シーラッハは全てのドイツの青少年を監督下に置き、さらにその教育を掌握しようと奔走した。彼はそのために「ヒトラー・ユーゲント法」を起草した。教育相ベルンハルト・ルストは「学校教育がすみに追いやられてしまう」としてこれに猛反対したが、1936年12月1日にヒトラーは「ヒトラー・ユーゲント法」に署名して公布した。この法律により、それまでナチ党の私的な組織だったヒトラー・ユーゲントは公式に国家機関となり、それ以外の青少年組織は禁止された。そして10歳から18歳までの青少年が強制加入させられ、ヒトラー・ユーゲントは、第三帝国の青少年組織の総称となった。ただし実際にヒトラー・ユーゲントへの加入が義務化されたのは1939年3月25日からだった[36]。
シーラッハが教育への進出を強める中、他の党幹部、特に教育相ルストと対立を深めた[37]。また1937年2月に国防軍最高司令部はエルヴィン・ロンメル中佐(当時)をシーラッハの全国青少年指導部との交渉役に任じ、青少年の軍事予備教育は軍に任せるよう、たびたびシーラッハに圧力をかけるようになった[36]。
シーラッハは反ユダヤ主義者だったし、ユーゲントの子供たちにも反ユダヤ主義教育を施していたが、それは狂信的というほどのレベルではなかったという。反ユダヤ主義が暴力など極端な形で現れた時には、上流階級出身のシーラッハの道徳心がそれに反発したのだった。1938年11月9日に発生した「水晶の夜」での野蛮な反ユダヤ主義暴動にはかなり辟易したようで、一部のユーゲント団員の参加を聞いたシーラッハは、ユーゲント団員に対して「このような犯罪的行為には参加してはならない」と命令を下している。ただしシーラッハにはユダヤ人を助けようという行動も見られない。彼はヒトラーを全面的に信じており、こうした反ユダヤ主義暴力行為を聞いても「理念から少々はみだしてしまった行為」程度にしか思わなかったという[38]。
陸軍入隊
1939年9月1日、ドイツ国防軍のポーランド侵攻で第二次世界大戦が開戦するとシーラッハはユーゲント指導者として従軍することを周囲から求められるようになった。シーラッハはユーゲント指導者を休職し、国防軍に従軍することの希望届をヒトラーに提出した。1939年11月末にヒトラーの許可が降りた[39]。ベルリン郊外のデベリッツで新兵として4ヶ月間訓練を受けた。しかし訓練は特別扱いで彼専用の教官や宿所をあてがわれていた[40]。
ドイツ陸軍エリート部隊「大ドイツ連隊」に配属され、はじめ伝令、のちに機関銃小隊の伍長となり、セダン、ソンム川、ダンケルク攻撃などに動員された[40]。少尉に昇進し、二級鉄十字章と白兵戦章を受章した。ドイツ軍はイギリス軍とフランス軍を下し、1940年6月20日にドイツとフランスは休戦協定に署名した。1940年6月末にシーラッハ少尉はヒトラーのいる総司令部に招集された。ヒトラーは「君が無事に帰還してくれてうれしい」と述べるとともに「総督兼大管区指導者としてウィーンに行ってもらいたい」と命じた。シーラッハの軍歴はこれとともに終わった[40][41]。
ウィーン大管区指導者
1940年8月8日に、シーラッハは正式にウィーンの総督(Reichsstatthalter)、大管区指導者(Gauleiter)に任命された[5]。シーラッハは、この時すでに33歳になっていた。「若者は若者によって指導される」という彼が定めたユーゲントの原則の下、全国青少年指導者とユーゲント指導者職を27歳のアルトゥール・アクスマンに譲った。ただしシーラッハは「ユーゲント教育のためのナチ党全国指導者」に就任して、ユーゲントへの一定の影響力を残した[42][5]。
彼はバルハウスプラーツ(de:Ballhausplatz)の宮殿からウィーン総督兼大管区指導者の執務を取った。かつてウィーン会議が行われた部屋を自らの執務室にしている。彼は戦時でもウィーンを芸術の都として存続させようと努力した。名だたる芸術家を次々とウィーンに招き、オペラや演劇の上演を振興した[43]。しかし芸術展にナチスが「退廃芸術」に指定していた作品を展示させたり、ロシア人のチャイコフスキーの曲の演奏を許可したり、同じくロシア人のチェーホフやイギリス人のシェークスピアの作品の上演を許可するなどして他のナチ党幹部から反発を買った[44]。
1942年には、イタリア・スペイン・フラマン・ワロン・デンマーク・オランダ・フランス・ノルウェー・フィンランド・ブルガリア・ルーマニア・スロヴァキア・ハンガリーなどドイツ友好国・衛星国・占領地などの代表団を招いて「ヨーロッパ青少年会議」をウィーンで開催した。ここで「ヨーロッパ・ユーゲント連盟」の設立を決議した。この会議も他のナチ党指導者から反発を買う。ゲッベルスは日記上で「兵士が前線で戦っているというのに、ウィーンでは会議が踊っている」と批判している[44]。
ウィーンでは同市のゲシュタポ司令官フランツ・ヨーゼフ・フーバーを中心にユダヤ人のポーランド移送が行われていた。大管区指導者として彼はそれを容認していたことに責任を負う。1941年10月の時点でウィーンには5万1000人のユダヤ人がいたが[45]、1942年10月半ばまで続く移送でユダヤ人の数は8,000人足らずにまで減らされたという[46]。
後任の青少年全国指導者アルトゥール・アクスマンはヒトラー・ユーゲントを軍事化して戦火に巻き込むようになった。これはヒトラー・ユーゲントを大事に育ててきたシーラッハにとって我慢ならぬ事態であった。シーラッハはヒトラー・ユーゲントの戦時体制導入に大反対の立場だった。
1944年9月19日、アメリカ軍による最初のウィーン大空襲があった。その後も空襲が続き、美しかったウィーンの街はすっかり荒廃してしまった。シーラッハはウィーン無防備都市宣言の許可をヒトラーから得ようとしたが、ヒトラーに却下されている。彼は妻と子供たちをバイエルン州の別荘に疎開させた[47]。
ソ連軍の接近により、シーラッハ自身も1945年4月6日にウィーンから逃れている[48]。
戦後
副官とともにオーストリア・インスブルック郊外シュヴァーツで「リヒャルト・ファルク」という偽名で潜伏生活を送った。シーラッハはウィーンの戦闘で死亡したという噂が流れていたため、連合国はシーラッハの捜索をしなかった[49]。しかし結局、シーラッハは、6月4日にアメリカ軍に投降した[50][51]。
インスブルック郊外のルム収容所に収容された後、1945年9月10日にニュルンベルク裁判にかけるためにニュルンベルクへ移送された[52]。
ニュルンベルク裁判においてシーラッハは、ドイツ全国青少年指導者としての行為とウィーンのユダヤ人を追放した行為を訴因として裁かれた。
ヘンリエッテは1946年春に女性収容所から釈放されて、夫のための証人や証拠探しに駆け回り、頻繁にニュルンベルクを訪れた。シーラッハ自身は裁判で「ヒトラーは虐殺者」「アウシュヴィッツは史上最悪の大量殺りく」と認めた。一方で自分自身については「ユダヤ人の移送は承認したが、ジェノサイドについては全く知らなかった」と主張した[53]。
判決を前に妻ヘンリエッテはアメリカ首席判事フランシス・ビドル(en:Francis Biddle)に宛てて「私どもの子供はアメリカが大好きです。子供たちにとっては祖母の国です。ディズニー映画やアイスクリームという楽しいイメージがあります。アメリカの国旗や歴史にも、ドイツと同じほどに親しみがあります。そのアメリカが、貴方達のお父さんを、最も忌まわしい方法で死なせたのよ、などと教えなければならないのでしょうか。」と英語で書いた[54]。
これが功を奏したのか、イギリス判事ジェフリー・ローレンス(en)とソ連判事イオナ・ニキチェンコ(ru)がシーラッハの死刑を主張する中、アメリカ判事ビドルは死刑に反対するフランス判事アンリ・ドヌデュー・ド・ヴァーブルの立場を支持し、結果、シーラッハは死刑を免れることとなった[55]。
1946年10月1日、他の被告人達とともにシーラッハの判決が読み上げられた。法廷はシーラッハについて「彼はユダヤ人移送計画の立案者ではないが、ユダヤ人が望めるのは、運が良くても東部のゲットーで悲惨な生存が許されるだけだということを知りながら、その移送に加担していた」とし、「人道に対する罪」で有罪とした[53]。全国青少年指導者だった時期の起訴事実については却下された[50]。
その後シーラッハは個別に言い渡される量刑判決で禁固20年の判決を受けた。彼は死刑判決を免れた10人の被告の一人だった。証人用宿所のラジオの側で判決の実況を聞いていた妻ヘンリエッテはこの判決を聞いて「生きられるのよ!死ななくてすむなら何でもいいわ!」と叫んで大喜びしたという[56]。
シーラッハはベルリン・シュパンダウの戦犯監獄に収監された。妻ヘンリエッテは夫の服役中、一人で様々な仕事をして生計を立てて、子供たちを育てた。1950年11月初めにシーラッハとヘンリエッテは離婚している。しかしヘンリエッテはその後も元夫シーラッハのために減刑嘆願を行った[57]。しかし結局減刑はなく、シーラッハは1966年に刑期満了で釈放された[50]。
刑務所の中で書いた『私はヒトラーを信じた(Ich Glaubte an Hitler)』を1967年に出版した。その中で彼は「ヒトラーが自分をはじめ若い世代を虜にしてしまった」「ナチズムの再生はあってはならない。ナチス再生信仰を破壊することが自分の責務」「強制収容所を阻止するためもっと行動すべきところを、何の手も打たなかったのは歴史の前に恥じるばかり」と自責の念を漏らしている[53]。釈放後は南西ドイツに隠棲した。1974年8月8日にクレフ(de:Kröv)のホテルで就寝中にそのまま死去した[53]。
参考文献
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- Charles Hamilton著『LEADERS & PERSONALITIES OF THE THIRD REICH VOLUME1』p238-239、R James Bender Publishing、1996年、ISBN 0912138270
- ジョゼフ・E・パーシコ著 白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判(上) 』、原書房、1996年
- ジョゼフ・E・パーシコ著 白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判(下) 』、原書房、1996年
- ラウル・ヒルバーグ著、望田幸男・原田一美・井上茂子訳、『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 上巻』、1997年、柏書房、ISBN 978-4760115167
- 平井正著、『ヒトラー・ユーゲント:青年運動から戦闘組織へ』、中公新書、2001年、ISBN 978-4121015723
- グイド・クノップ著、高木玲訳、『ヒトラーの共犯者 下 12人の側近たち』、2001年、原書房、ISBN 978-4562034185
- ロベルト・S・ヴィストリヒ著、滝川義人訳、『ナチス時代ドイツ人名事典』、2002年、東洋書林、ISBN 978-4887215733
- レオン・ゴールデンソーン著、小林等・高橋早苗・浅岡政子訳『ニュルンベルク・インタビュー(上)』、河出書房新社、2005年
- アンナ・マリア・ジークムント著、平島直一郎・西上潔訳、『ナチスの女たち 秘められた愛』、2009年、東洋書林、ISBN 978-4887217614
- シーラッハ著 日本青年外交協会研究部訳『青年の旗のまへに』、日本青年外交協会出版部、1941年
出典
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