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|位置画像 = LocationGuam.png |
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|公用語 = [[英語]]、[[チャモロ語]] |
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|面積順位 = 202 |
|面積順位 = 202 |
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|面積大きさ = 1 E9 |
|面積大きさ = 1 E9 |
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[[画像:TowLoversPointView.JPG|right|300px|thumb|[[恋人岬]]からタモン湾を望む]] |
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[[File:Two Lovers Point from Tumon Bay.JPG|right|300px|thumb|タモン湾越しに望む[[恋人岬]]]] |
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'''グアム'''('''Guam''')は、[[太平洋]]の[[島]]である。[[1898年]]の[[米西戦争]]から[[アメリカ合衆国]]の[[領域 (国家)|領土]]になった。[[1941年]]から[[1944年]]までは |
'''グアム'''('''Guam'''もしくは'''Guahan''')は、[[太平洋]]の[[島]]である。[[1898年]]の[[米西戦争]]から[[アメリカ合衆国]]の[[領域 (国家)|領土]]になった。[[1941年]]から[[1944年]]までは[[日本軍]]が[[占領]]統治し、「大宮島(だいきゅうとう<ref>「だいきゅうとう」が正式呼称であったが、一般には「おおみやじま」と呼ばれていたようである。</ref>)」と呼ばれた。経済面では、[[アメリカ軍]]と[[日本]]からの[[観光客]]が重要な位置を占めている。[[日本語]]では「グァ・ム」、「ガ・ム」と発音されることが多いが、近年は「グ・ア・ム」の発音も主流になっている。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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グアム島に[[人類]]が住み着いたのは[[紀元前|B.C.]]3000年~2000年頃で、[[東南アジア]]系民族[[チャモロ人]]が[[マレーシア]]や[[インドネシア]]、[[フィリピン]]から[[航海カヌー]]に乗って移住してきたことに始まると考えられる。 |
グアム島に[[人類]]が住み着いたのは[[紀元前|B.C.]]3000年~2000年頃で、[[東南アジア]]系民族[[チャモロ人]]が[[マレーシア]]や[[インドネシア]]、[[フィリピン]]から[[航海カヌー]]に乗って移住してきたことに始まると考えられる。 |
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[[1521年]]に[[フェルディナンド・マゼラン|マゼラン]]がヨーロッパ人として初めてグアム島に到達。[[1565年]]にレガスピが来島して[[スペイン]]の領有を宣言し[[植民地]]となり、[[1668年]]にサン・ビトレスを中心とした[[イエズス会]]が[[宣教|布教]]活動のため訪れるようになった。しかし、宣教師が祖霊崇拝を始めとする[[チャモロ人]]の伝統的な習慣や文化を厳しく禁止したため、不満を持つ[[チャモロ人]]も多く、その不満は[[1669年]]の[[スペイン・チャモロ戦争]]として現れた。[[キリスト教]]に反抗的な村は全て焼き払われ、10万人いたとされる[[チャモロ人]]が5000人以下に激減した。そして、以降は目立った反抗は無く[[キリスト教]]文化が定着するようになったといわれている。 |
[[1521年]]に[[フェルディナンド・マゼラン|マゼラン]]がヨーロッパ人として初めてグアム島に到達。[[1565年]]にレガスピが来島して[[スペイン]]の領有を宣言し[[植民地]]となり、[[1668年]]にサン・ビトレスを中心とした[[イエズス会]]が[[宣教|布教]]活動のため訪れるようになった。しかし、宣教師が[[祖霊崇拝]]を始めとする[[チャモロ人]]の伝統的な習慣や文化を厳しく禁止したため、不満を持つ[[チャモロ人]]も多く、その不満は[[1669年]]の[[スペイン・チャモロ戦争]]として現れた。[[キリスト教]]に反抗的な村は全て焼き払われ、10万人いたとされる[[チャモロ人]]が5000人以下に激減した。そして、以降は目立った反抗は無く[[キリスト教]]文化が定着するようになったといわれている。 |
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[[1898年]]にアメリカと[[スペイン]]の間で勃発した[[米西戦争]]にアメリカが勝利し、同年の[[パリ条約 (1898年)|パリ条約]]によりグアム島は[[フィリピン]]、[[プエルトリコ]]とともに[[アメリカ合衆国]]に割譲された<!--(元々、『マリアナ』の領土であった){{要出典}}-->。 |
[[1898年]]にアメリカと[[スペイン]]の間で勃発した[[米西戦争]]にアメリカが勝利し、同年の[[パリ条約 (1898年)|パリ条約]]によりグアム島は[[フィリピン]]、[[プエルトリコ]]とともに[[アメリカ合衆国]]に割譲された<!--(元々、『マリアナ』の領土であった){{要出典}}-->。 |
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[[1941年]]12月8日に[[太平洋戦争]]が勃発。[[大日本帝国海軍|日本海軍]]は[[真珠湾攻撃]]の5時間後([[日本標準時|日本時間]]午前8時30分)、グアムへの航空攻撃を開始した。同月10日[[グアムの戦い (1941年)|日本が占領]]したが、[[1944年]]8月に米国が奪還([[グアムの戦い]])した。以後、戦争終結まで[[アメリカ軍]]の[[大日本帝国|日本]]本土の[[爆撃]]拠点として活用された。 |
[[1941年]]12月8日に[[太平洋戦争]]が勃発。[[大日本帝国海軍|日本海軍]]は[[真珠湾攻撃]]の5時間後([[日本標準時|日本時間]]午前8時30分)、グアムへの航空攻撃を開始した。同月10日[[グアムの戦い (1941年)|日本が占領]]したが、[[1944年]]8月に米国が奪還([[グアムの戦い]])した。以後、戦争終結まで[[アメリカ軍]]の[[大日本帝国|日本]]本土の[[爆撃]]拠点として活用された。 |
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[[1950年]]に[[アメリカ合衆国議会]]によりグアム |
[[1950年]]に[[アメリカ合衆国議会]]により「グアム組織法」([[:en:Guam Organic Act of 1950|Organic Act of Guam]])によって主権に制限を受け、「アメリカ合衆国自治的・未編入領域 (organaized unincorporated territory)」という政治的地位となり、スキナーが初の民間人[[知事]]となった。現在まで米軍の太平洋戦略上、重要な[[基地]]のひとつとしてグアム島は活用され、近年は日本からの観光客を中心とした[[観光地]]、[[リゾート]]地として発展を遂げている。 |
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=== 改名問題 === |
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準州知事[[フェリクス・カマチョ]]は2010年2月15日、演説の最後に、グアムのグアムを以前のGuahanに変えるように呼びかけた<ref name ="KUAM20100216">[http://www.kuam.com/story/11996329/camacho-wants-guam-renamed-guahan?redirected=true Camacho wants Guam renamed "Guahan"][[:en:KUAM|KUAM]]. 2010-02-16.</ref>。同日、カマチョは島名を変更する政令を出した<ref name=pnc>{{cite news|first=|last= |title=Governor Issues Executive Order Changing Island Name To Guahan |url=http://www.pacificnewscenter.com/index.php?option=com_content&view=article&id=3315:governor-issues-executive-order-changing-island-name-to-guahan&catid=50:homepage-slideshow-rokstories|work=[[Pacific News Center]]|publisher=|date=2010-02-16 |accessdate=2010-02-18}}</ref><ref name="pdn20100216">{{cite news|first=Dionesis|last=Tamondong |title=Camacho: Name change will affirm identity |work=[[:en:Pacific Daily News|Pacific Daily News]]|publisher=|date=2010-02-16 }}</ref>。カマチョは同時に自らを「Guahanの知事」と呼び始めた<ref name="pdn20100218">{{cite news|first=Steve|last=Limtiaco|title=Residents mixed on name change |work=[[:en:Pacific Daily News|Pacific Daily News]]|publisher=|date=2010-02-18 }}</ref>。 |
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歴史家のToni Ramírez(グアム公園保養局[[文化財]]保護所)によると、Guahanとは「我々のもの」("we have")もしくは「所有している場所」("a place that has")<ref name ="KUAM20100216" />を意味し、島の川や天然資源を指して使用した。川や天然資源はミクロネシアの他の諸島では比較的希少なものであったと言う<ref name="pdn20100216" />。 |
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Guahan或いはGuajánは、1521年から1898年の間に島名として広く使用されていた<ref name ="KUAM20100216" /><ref>[http://books.google.es/books?id=mK3UAAAAMAAJ&pg=PA110&dq=%22Guaj%C3%A1n%22&hl=es&ei=7wwaTK3zHofJ_gbpxOidCQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=25&ved=0CIsBEOgBMBg#v=onepage&q=%22Guaj%C3%A1n%22&f=false José Antonio Saco. Colección de papeles científicos, históricos, políticos y de otros ramos sobre la isla de Cuba. 1859.]</ref>。しかし、グアム、そしてGuahanという名前は両方とも歴史文書や地図に数百年も遡って見出されると言うのが、Peter Onedera([[グアム大学]]チャモロ語教授、歴史家)<ref name="pdn20100218" />による見解である。初代グアム知事を務めた[[:en:Richard P. Leary|Richard P. Leary]]提督は1900年、「グアム」を採用したが、それは彼が「グアムの小島」と読んだからである<ref name="pdn20100216" /><ref name="pdn20100218" />。 |
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知事2期目を務めるカマチョ(グアムにて3選は出来ない)は2011年にはグアム政府から引くことになる<ref name="pdn20100218" />。彼は演説の最後にて、改名は知事の遺産として基盤とし、歴史上自分が改名路線の固定化を為すべき立場にある旨を説明した<ref name="pdn20100218" />。彼はGuahanへの改名が明確な独自性とチャモロ文化の遺産を再認識させることになるだろうと論じた<ref name="pdn20100216" />。カマチョの政令は次のように明確に述べている。「チャモロ語の使用を広め、歴史的、文化的な連携を島にもたらすよう邁進しよう」<ref name="pdn20100218" />。政令は今回は地方のグアム政府機関、公式のやり取り、商業取引、標識にのみ適用される<ref name="pdn20100218" />。しかし、カマチョは地域社会の指導層、財界、議員達にGuahanの名を同じように採用させることに関心を持っている<ref name="pdn20100218" />。カマチョは更に、法的にも改名を実施するためグアム立法院で法案331号を提案すると発表した<ref name ="KUAM20100216" />。政令には政府機関が変更する際の猶予期限がないが、これは景気後退が長引いているため、準州政府の時間的、金銭的負担を軽減するためである<ref name="pdn20100218" />。改名は新しい便箋を発注する際など都合のよい時になされるべきだと言う<ref name="pdn20100218" />。 |
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変更案に対する反応は議員と住民共に複雑なものだった。立法院のJudith Won Pat議長は、改名がグアムにてこれまで認識されてきた独自性の喪失を、回復するのに役立つことに留意した<ref name="pdn20100216" />。彼女はメディアに「これは人々が自分達が何者なのかを知ろうとし、彼らの独自性を見つけようと望む世代が世界中に広がっているということです。これはとても重要なことであり、グアムでも同じです」と語った<ref name="pdn20100216" />。作家で元立法院議員のKatherine Aguonは政令が出る少し前にチャモロ語-英語辞典を出版したが、改名を支持する一方で、どんな提案でもグアム有権者の信認を得なければならない旨を強調した<ref name="pdn20100218" />。 |
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公式で、認可された改名は経済的な影響を持っているかも知れない。[[:en:Eddie Calvo|Eddie Calvo]]は2010年の知事選の共和党候補者であるが、政令を支援するためには標識、文書、広告の改名の際の費用を考慮しなければならない点に注意を向けている<ref name="pdn20100216" />。グアム政府観光局(Guam Visitors Bureau,GVB)は、何百万ドルもの予算を消費して主要な観光客やビジネス客に対してこの島の現在の名前、グアムを商標して使い、改名問題が惹起した頃に新しいキャンペーンをはじめた。そのキャンペーンでは「私たちはグアムです」("We Are Guam")と銘打った<ref name="pnc20100216">{{cite news|first=|last=|title=GVB Reacts To Proposed Guam Name Change |work=[[Pacific News Center]]|publisher=|date=2010-02-16}}</ref>。全ての道路標識と歓迎の看板を変更する費用は文書や観光キャンペーンと同じように見積もる必要性が指摘されている<ref name="pnc20100216" />。 |
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== 地理 == |
== 地理 == |
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=== 気候 === |
=== 気候 === |
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海洋性[[ |
海洋性[[熱帯気候]]に属しており、年間を通して高温多湿。「常夏」といわれ、ほぼ1年中[[海水浴]]が楽しめる。6 - 12月が[[雨季]]、1 - 5月が[[乾季]]。雨季には[[スコール]]が降る。 |
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== 主要都市 == |
== 主要都市 == |
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米国が全面的に防衛権を持つ。このために土地を収用することもできる。 |
米国が全面的に防衛権を持つ。このために土地を収用することもできる。 |
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自主憲法草案が上程されたが、[[1979年]]の住民投票で否決された。その後も米国連邦政府による独立や自治の勧告は無視して、大国との特権的な関係から得られる利益を選んでいる。 |
自主憲法草案が上程されたが、[[1979年]]の住民投票で否決された。その後も米国連邦政府による独立や自治の勧告は無視して、大国との特権的な関係から得られる利益を選んでいるが、次に述べるようにコモンウェルス昇格運動は見られる。 |
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現在でも[[国際連合非自治地域リスト]]に掲載されている。 |
現在でも[[国際連合非自治地域リスト]]に掲載されている。 |
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なお、現在、グアムにおいては[[死刑制度]]は廃止されている。 |
なお、現在、グアムにおいては[[死刑制度]]は廃止されている。 |
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=== コモンウェルスへの昇格運動 === |
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隣接する北マリアナ諸島が信託統治を経て1978年に実質的な[[コモンウェルス]]となったことを受けて、グアムでは1980年代から1990年代前半にかけて、[[プエルト・リコ]]や[[北マリアナ諸島]]と同様の自治のレベルを付与したコモンウェルスに向けた重要な推進運動があり、1982年には[[住民投票]]を実施してこの方針を決定した。 しかしながら、連邦政府はグアム準州政府の提案したコモンウェルスへの変更を拒否し、理由として改正案の条項が合衆国憲法の領域条項([[:en:Territorial Clause|Territorial Clause]] ,Art. IV, Sec. 3, cl. 2)と両立する内容ではないことを挙げた。加えて連邦政府との折衝に6年もの時をかけ、(The Draft Commonwelth Act of 1988)を提出し本格的な交渉を開始したのは1988年だった。これに対して運動は徐々にアメリカ本国からの政治的独立、国家としての独立、唯一の独自領土として北マリアナ諸島との連合、或いは現在合衆国の一州となっているハワイとの連合に軸足を置きつつある。一方で、中島洋のように、コモンウェルスが外交権を持たないことや、独立した場合の財政援助面での不利、連邦政府・議会との交渉を通じて内政での自治権を徐々に拡充しつつある点などを挙げて否定的に見る向きもある<ref name ="nakajima-yashinomi">中島洋([[太平洋学会]]専務理事)[http://www.yashinomi.to/micronesia/no9.html コモンウェルスを目指すグアムは?] 『ミクロネシア講座』やしの実大学HP内<br />(サイパン・ロタ・テニアン月刊情報誌『ハファダイ』1992年2月号からの転載HP)<br />中島は執筆に当たり矢崎幸生『ミクロネシアの憲法集』曉印書館 1984年<br />矢崎幸生「北マリアナは連邦制国家か」『太平洋学会誌第12号』 1981年 を参照している。</ref>。 |
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2003年より2011年1月まで2期に渡り[[フェリクス・カマチョ]]が知事を務めたが、カマチョは北マリアナとの連合を目指していた。 |
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== 経済 == |
== 経済 == |
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[[2006年]]にグアムの[[携帯電話]]事業者であるグアムワイヤレス及びグアムセルラーを[[NTTドコモ]]が買収・統合し、[[2008年]]に[[ドコモパシフィック]]と社名を変更しており、国際ローミング([[WORLD WING]])を使って、[[FOMA]]サービス及び[[iモード]]サービスが利用できるようになっている。ただしPulse Mobileなど他の事業者によるローミングと扱いは基本的に一緒となっている(グアムはドコモパシフィックを含め、[[2010年]]現在携帯電話事業者が6社存在する)。 |
[[2006年]]にグアムの[[携帯電話]]事業者であるグアムワイヤレス及びグアムセルラーを[[NTTドコモ]]が買収・統合し、[[2008年]]に[[ドコモパシフィック]]と社名を変更しており、国際ローミング([[WORLD WING]])を使って、[[FOMA]]サービス及び[[iモード]]サービスが利用できるようになっている。ただしPulse Mobileなど他の事業者によるローミングと扱いは基本的に一緒となっている(グアムはドコモパシフィックを含め、[[2010年]]現在携帯電話事業者が6社存在する)。 |
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=== マグロ産業 === |
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『ミクロネシア』1997年4月号によれば、ミクロネシアの要所であるグアムは1980年代以降は[[マグロ]]の転載業でも知られている。ただし、グアム周辺水域においてマグロ資源に恵まれている訳ではなく、大消費地である日本、および先進国であるアメリカ本土への航空貨物直行便がありアクセスに恵まれていることや、[[漁船]]の修理施設、乗組員の休養施設、金融サービス機関が整っていることが挙げられる。従って他のミクロネシア水域で漁獲されたマグロ類はアプラ港で水揚げされ、主に日本本土に空輸されている。漁獲を実施しているのは1990年代においては台湾籍船が最も多く、次いで日本籍船であった。 |
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問題はグアム周辺の[[排他的経済水域]]内の開発である。アメリカ本国は1978年4月にマグナソン漁業保存管理法によりアメリカの200海里水域内での他国漁船の操業を禁止した。そのため、グアムは[[パラオ]]や[[マーシャル諸島]]に比較し、資源開発で遅れをとった。1980年初頭、グアム準州政府はグアム200海里を法制化する中、外国漁船に200海里水域内での操業許可を与えようとしたが、実現しなかった。その後本格化したコモンウェルス昇格運動の背景にも、200海里内における管轄権を本国政府から入手したいという意向があり、1988年に提出したコモンウェルス法案にも経済水域問題が重要事項として謳われている。その後、本国へのロビー活動などの結果、1996年10月11日にマグナソン法の改正案が公布(Public Law 104-297)された。これは、[[アメリカ国務省|国務省]]への申請、入漁料の徴収などを通じて他国漁船への漁業参加を認める内容であった。経済水域内の取り締まりは[[沿岸警備隊]]と商務省国家海洋漁業局([[:en:National Marine Fisheries Service|National Marine Fisheries Service]])が実施している。1997年に海軍は艦船修理施設をグアム準州政府に移管したが、この跡地を活用してアプラ港の総合開発計画が立てられ、漁業基地の強化を狙った内容となっていた。このような努力は周辺諸国も行っており、ミクロネシア水域のマグロ産業規模に比較して従来4~5%程度しか得ることの出来なかった見返りを自主的に漁業を拡大することで移行を図る動きがある<ref>泉正南「知っておきたいグアムのマグロ産業-米国マグナソン漁業保存管理法の改正-」『ミクロネシア』1997年4月No.105</ref>。2000年代に入っても、中西部太平洋まぐろ類委員会(WCPFC)をグアムなどで開催し漁業資源の管理と多国間交渉に努力がなされている<ref>[http://www.jfa.maff.go.jp/j/press/kokusai/071207_1.html 中西部太平洋まぐろ類委員会(WCPFC)第4回年次会合の結果について] 日本国[[水産庁]] 2007年12月7日</ref>。 |
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== 軍事 == |
== 軍事 == |
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[[File:Guam International Airport Old Terminal Building1.JPG|thumb|[[グアム国際空港]]旧ターミナルビル - [[コンチネンタル・ミクロネシア]]の本部]] |
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島の面積の1/3をアメリカ軍用地が占めている。グアム島は、[[朝鮮半島]]、[[台湾]]、[[南沙諸島]]、[[フィリピン]]、[[インドネシア]]、[[オーストラリア]]とあらゆる場所に緊急展開できる戦略上の要地であり、米準州でもあるので、西太平洋の礎石としてその価値を見出されている。しかし、[[冷戦]]終結に伴って在グアム米海軍基地整理縮小計画が立てられ、1990年頃には海軍航空隊の基地がグアム国際空港から[[アンダーセン空軍基地]]に移設され<ref name ="nakajima-yashinomi" />、1997年9月には艦船修理施設(Ship Repair Facility)が海軍からグアム準州政府に移管されるなど1990年代は基地は縮小傾向にあった。 |
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島の北部には3,000m級[[滑走路]]が2本ある |
島の北部には3,000m級[[滑走路]]が2本あるアンダーセン空軍基地が存在する。ここには現在常駐する[[戦闘機]]部隊は存在していないが、しばしば飛来する。現在、[[B-52_(航空機)|B-52]][[戦略爆撃機]]や[[B-2_(航空機)|B-2]]が配備されている。[[極東]][[有事]]の際には、アメリカ本土や[[ハワイ]]などから前線派遣された航空部隊の重要な出撃拠点になる。 |
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島の西部には、[[アメリカ海軍]]も使用している[[アプラ港]]があり、[[ロサンゼルス級原子力潜水艦]]が事実上の母港としており、将来的には[[オハイオ級原子力潜水艦]]も配備される予定である。これらは[[第7艦隊 (アメリカ軍)|第7艦隊]]隷下にある。 |
島の西部には、[[アメリカ海軍]]も使用している[[アプラ港]]があり、[[ロサンゼルス級原子力潜水艦]]が事実上の母港としており、将来的には[[オハイオ級原子力潜水艦]]も配備される予定である。これらは[[第7艦隊 (アメリカ軍)|第7艦隊]]隷下にある。 |
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== 交通 == |
== 交通 == |
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===島外=== |
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[[ファイル:Apra Harbor.jpg|thumb|300px|right|[[アプラ港]]]] |
[[ファイル:Apra Harbor.jpg|thumb|300px|right|[[アプラ港]]]] |
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訪島手段として[[飛行機]]と[[船舶]]がある |
訪島手段として[[飛行機]]と[[船舶]]がある。[[飛行場]]は[[グアム国際空港]]、[[港湾|港]]はアプラ港を利用することが多い。アプラ港は[[ミクロネシア]]最大の港である。 |
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グアム国際空港には[[日本航空インターナショナル|日本航空]]と[[デルタ航空]]、[[コンチネンタル航空]]が日本の複数都市から乗り入れているほか、[[ホノルル]]や[[ソウル]]、[[コロール]]、サイパンなどへの直行便がある。なお、[[航空]]便で到着する乗客の7割が[[日本国籍]]である(2010年現在)。 |
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===島内=== |
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日本人観光客向けに、日本の[[レンタカー]]会社の店舗が複数存在する。 |
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==観光== |
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観光産業は、現在グアムの最大の産業の一つである。直行便が設定されていないアメリカ本土からの観光客よりも、東京や大阪などの主要都市から直行便で約3-4時間で訪れることのできる日本からの観光客が多くを占めていたが、そのピークは1990年代で2000年代に入ってからは低減しつつある。近年では同様に直行便のある韓国や台湾からの観光客も増加している。なお、[[JALホテルズ|ホテル・ニッコー・グアム]]や[[レオパレス]]・リゾート・グアムなどの日系のホテルも多い。 |
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===主なホテル=== |
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*[[JALホテルズ|ホテル・ニッコー・グアム]] |
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*シェラトン・ラグーナ・グアムリゾート |
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*ハイアット・リージェンシー・グアム |
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*アウトリガー・グアム・リゾート |
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*オンワード・ビーチ・リゾート |
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== 住民 == |
== 住民 == |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{Reflist}} |
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<references/> |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[グアムの都市一覧]] |
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* [[横井庄一]] |
* [[横井庄一]] |
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* [[横井ケイブ]] |
* [[横井ケイブ]] |
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* [[グアム (大型巡洋艦)]] |
* [[グアム (大型巡洋艦)]] |
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* [[タモン]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{Wikitravel}} |
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* [http://www.visitguam.jp/ グアム政府観光局] {{ja icon}} |
* [http://www.visitguam.jp/ グアム政府観光局] {{ja icon}} |
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* [http://guam-sandcastle.com/ サンドキャッスル・グアム] {{ja icon}} |
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{{アメリカ合衆国の州}} |
{{アメリカ合衆国の州}} |
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[[Category:アメリカ合衆国の島|くあむ]] |
[[Category:アメリカ合衆国の島|くあむ]] |
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[[Category:グアム|*くあむ]] |
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[[Category:米西戦争|くあむ]] |
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2011年2月16日 (水) 08:20時点における版
座標: 北緯13度27分 東経144度47分 / 北緯13.450度 東経144.783度
- グアム
- Guam
-
(地域の旗) (地域の紋章) - 地域の標語:Where America's Day Begins
(アメリカの一日が始まる場所) - 地域の歌:Fanohge Chamoru(グアムの国)
-
公用語 英語、チャモロ語 一部日本語
主都 ハガニア 最大の都市 デデド 成立 不明 通貨 USドル(USD) 時間帯 UTC+10 (DST:不明) ISO 3166-1 GU / GUM ccTLD .gu 国際電話番号 1-671
グアム(GuamもしくはGuahan)は、太平洋の島である。1898年の米西戦争からアメリカ合衆国の領土になった。1941年から1944年までは日本軍が占領統治し、「大宮島(だいきゅうとう[1])」と呼ばれた。経済面では、アメリカ軍と日本からの観光客が重要な位置を占めている。日本語では「グァ・ム」、「ガ・ム」と発音されることが多いが、近年は「グ・ア・ム」の発音も主流になっている。
歴史
グアム島に人類が住み着いたのはB.C.3000年~2000年頃で、東南アジア系民族チャモロ人がマレーシアやインドネシア、フィリピンから航海カヌーに乗って移住してきたことに始まると考えられる。
1521年にマゼランがヨーロッパ人として初めてグアム島に到達。1565年にレガスピが来島してスペインの領有を宣言し植民地となり、1668年にサン・ビトレスを中心としたイエズス会が布教活動のため訪れるようになった。しかし、宣教師が祖霊崇拝を始めとするチャモロ人の伝統的な習慣や文化を厳しく禁止したため、不満を持つチャモロ人も多く、その不満は1669年のスペイン・チャモロ戦争として現れた。キリスト教に反抗的な村は全て焼き払われ、10万人いたとされるチャモロ人が5000人以下に激減した。そして、以降は目立った反抗は無くキリスト教文化が定着するようになったといわれている。
1898年にアメリカとスペインの間で勃発した米西戦争にアメリカが勝利し、同年のパリ条約によりグアム島はフィリピン、プエルトリコとともにアメリカ合衆国に割譲された。
1941年12月8日に太平洋戦争が勃発。日本海軍は真珠湾攻撃の5時間後(日本時間午前8時30分)、グアムへの航空攻撃を開始した。同月10日日本が占領したが、1944年8月に米国が奪還(グアムの戦い)した。以後、戦争終結までアメリカ軍の日本本土の爆撃拠点として活用された。
1950年にアメリカ合衆国議会により「グアム組織法」(Organic Act of Guam)によって主権に制限を受け、「アメリカ合衆国自治的・未編入領域 (organaized unincorporated territory)」という政治的地位となり、スキナーが初の民間人知事となった。現在まで米軍の太平洋戦略上、重要な基地のひとつとしてグアム島は活用され、近年は日本からの観光客を中心とした観光地、リゾート地として発展を遂げている。
改名問題
準州知事フェリクス・カマチョは2010年2月15日、演説の最後に、グアムのグアムを以前のGuahanに変えるように呼びかけた[2]。同日、カマチョは島名を変更する政令を出した[3][4]。カマチョは同時に自らを「Guahanの知事」と呼び始めた[5]。
歴史家のToni Ramírez(グアム公園保養局文化財保護所)によると、Guahanとは「我々のもの」("we have")もしくは「所有している場所」("a place that has")[2]を意味し、島の川や天然資源を指して使用した。川や天然資源はミクロネシアの他の諸島では比較的希少なものであったと言う[4]。
Guahan或いはGuajánは、1521年から1898年の間に島名として広く使用されていた[2][6]。しかし、グアム、そしてGuahanという名前は両方とも歴史文書や地図に数百年も遡って見出されると言うのが、Peter Onedera(グアム大学チャモロ語教授、歴史家)[5]による見解である。初代グアム知事を務めたRichard P. Leary提督は1900年、「グアム」を採用したが、それは彼が「グアムの小島」と読んだからである[4][5]。
知事2期目を務めるカマチョ(グアムにて3選は出来ない)は2011年にはグアム政府から引くことになる[5]。彼は演説の最後にて、改名は知事の遺産として基盤とし、歴史上自分が改名路線の固定化を為すべき立場にある旨を説明した[5]。彼はGuahanへの改名が明確な独自性とチャモロ文化の遺産を再認識させることになるだろうと論じた[4]。カマチョの政令は次のように明確に述べている。「チャモロ語の使用を広め、歴史的、文化的な連携を島にもたらすよう邁進しよう」[5]。政令は今回は地方のグアム政府機関、公式のやり取り、商業取引、標識にのみ適用される[5]。しかし、カマチョは地域社会の指導層、財界、議員達にGuahanの名を同じように採用させることに関心を持っている[5]。カマチョは更に、法的にも改名を実施するためグアム立法院で法案331号を提案すると発表した[2]。政令には政府機関が変更する際の猶予期限がないが、これは景気後退が長引いているため、準州政府の時間的、金銭的負担を軽減するためである[5]。改名は新しい便箋を発注する際など都合のよい時になされるべきだと言う[5]。
変更案に対する反応は議員と住民共に複雑なものだった。立法院のJudith Won Pat議長は、改名がグアムにてこれまで認識されてきた独自性の喪失を、回復するのに役立つことに留意した[4]。彼女はメディアに「これは人々が自分達が何者なのかを知ろうとし、彼らの独自性を見つけようと望む世代が世界中に広がっているということです。これはとても重要なことであり、グアムでも同じです」と語った[4]。作家で元立法院議員のKatherine Aguonは政令が出る少し前にチャモロ語-英語辞典を出版したが、改名を支持する一方で、どんな提案でもグアム有権者の信認を得なければならない旨を強調した[5]。
公式で、認可された改名は経済的な影響を持っているかも知れない。Eddie Calvoは2010年の知事選の共和党候補者であるが、政令を支援するためには標識、文書、広告の改名の際の費用を考慮しなければならない点に注意を向けている[4]。グアム政府観光局(Guam Visitors Bureau,GVB)は、何百万ドルもの予算を消費して主要な観光客やビジネス客に対してこの島の現在の名前、グアムを商標して使い、改名問題が惹起した頃に新しいキャンペーンをはじめた。そのキャンペーンでは「私たちはグアムです」("We Are Guam")と銘打った[7]。全ての道路標識と歓迎の看板を変更する費用は文書や観光キャンペーンと同じように見積もる必要性が指摘されている[7]。
地理
マリアナ諸島最大の島で、その南西端に位置する。海底火山によって造られた。北部は珊瑚礁に囲まれた石灰質の平坦な台地で、南部は火山の丘陵地帯である。最高所はラムラム山で標高406m。
年間平均気温は約26℃。
気候
海洋性熱帯気候に属しており、年間を通して高温多湿。「常夏」といわれ、ほぼ1年中海水浴が楽しめる。6 - 12月が雨季、1 - 5月が乾季。雨季にはスコールが降る。
主要都市
政治
アメリカ合衆国の準州。大統領選挙の参政権は持っていない。ストローポール(擬似投票)が行われるが、選挙結果には反映されない。
1968年以降は公選によって選ばれた知事が内政執行にあたる。かつてはアメリカ海軍による軍政だった。国家元首はアメリカ合衆国大統領。
グアム議会を形成。議会は立法院のみの一院制。
1972年以降、合衆国議会下院に、本会議での議決権のない代表を1名選出している。
米国が全面的に防衛権を持つ。このために土地を収用することもできる。
自主憲法草案が上程されたが、1979年の住民投票で否決された。その後も米国連邦政府による独立や自治の勧告は無視して、大国との特権的な関係から得られる利益を選んでいるが、次に述べるようにコモンウェルス昇格運動は見られる。
現在でも国際連合非自治地域リストに掲載されている。
なお、現在、グアムにおいては死刑制度は廃止されている。
コモンウェルスへの昇格運動
隣接する北マリアナ諸島が信託統治を経て1978年に実質的なコモンウェルスとなったことを受けて、グアムでは1980年代から1990年代前半にかけて、プエルト・リコや北マリアナ諸島と同様の自治のレベルを付与したコモンウェルスに向けた重要な推進運動があり、1982年には住民投票を実施してこの方針を決定した。 しかしながら、連邦政府はグアム準州政府の提案したコモンウェルスへの変更を拒否し、理由として改正案の条項が合衆国憲法の領域条項(Territorial Clause ,Art. IV, Sec. 3, cl. 2)と両立する内容ではないことを挙げた。加えて連邦政府との折衝に6年もの時をかけ、(The Draft Commonwelth Act of 1988)を提出し本格的な交渉を開始したのは1988年だった。これに対して運動は徐々にアメリカ本国からの政治的独立、国家としての独立、唯一の独自領土として北マリアナ諸島との連合、或いは現在合衆国の一州となっているハワイとの連合に軸足を置きつつある。一方で、中島洋のように、コモンウェルスが外交権を持たないことや、独立した場合の財政援助面での不利、連邦政府・議会との交渉を通じて内政での自治権を徐々に拡充しつつある点などを挙げて否定的に見る向きもある[8]。
2003年より2011年1月まで2期に渡りフェリクス・カマチョが知事を務めたが、カマチョは北マリアナとの連合を目指していた。
経済
通貨はアメリカ合衆国ドル(USドル)。ただし現在では日用品や土産等の購入に関し、多くの場合、少額(おおよそ100ドル以内)であれば、日本円でも通用する店舗が増えつつある。
米軍の基地関連産業とアメリカ政府からの補助金、観光業、農業、漁業が主要な経済基盤で、1980年代前半まで米軍への依存度が高かったが、米軍基地の縮小に伴い、近年は観光業が産業の大部分を占め、島民の約60%が観光業に従事している。
年間100万人以上の観光客が訪れるが、観光収入の9割以上が日本からの観光客によるもので、日本への依存度が高い。近年は特に和食料理店など、日本の外食企業の参入も多く見られる傾向にある。
2006年にグアムの携帯電話事業者であるグアムワイヤレス及びグアムセルラーをNTTドコモが買収・統合し、2008年にドコモパシフィックと社名を変更しており、国際ローミング(WORLD WING)を使って、FOMAサービス及びiモードサービスが利用できるようになっている。ただしPulse Mobileなど他の事業者によるローミングと扱いは基本的に一緒となっている(グアムはドコモパシフィックを含め、2010年現在携帯電話事業者が6社存在する)。
マグロ産業
『ミクロネシア』1997年4月号によれば、ミクロネシアの要所であるグアムは1980年代以降はマグロの転載業でも知られている。ただし、グアム周辺水域においてマグロ資源に恵まれている訳ではなく、大消費地である日本、および先進国であるアメリカ本土への航空貨物直行便がありアクセスに恵まれていることや、漁船の修理施設、乗組員の休養施設、金融サービス機関が整っていることが挙げられる。従って他のミクロネシア水域で漁獲されたマグロ類はアプラ港で水揚げされ、主に日本本土に空輸されている。漁獲を実施しているのは1990年代においては台湾籍船が最も多く、次いで日本籍船であった。
問題はグアム周辺の排他的経済水域内の開発である。アメリカ本国は1978年4月にマグナソン漁業保存管理法によりアメリカの200海里水域内での他国漁船の操業を禁止した。そのため、グアムはパラオやマーシャル諸島に比較し、資源開発で遅れをとった。1980年初頭、グアム準州政府はグアム200海里を法制化する中、外国漁船に200海里水域内での操業許可を与えようとしたが、実現しなかった。その後本格化したコモンウェルス昇格運動の背景にも、200海里内における管轄権を本国政府から入手したいという意向があり、1988年に提出したコモンウェルス法案にも経済水域問題が重要事項として謳われている。その後、本国へのロビー活動などの結果、1996年10月11日にマグナソン法の改正案が公布(Public Law 104-297)された。これは、国務省への申請、入漁料の徴収などを通じて他国漁船への漁業参加を認める内容であった。経済水域内の取り締まりは沿岸警備隊と商務省国家海洋漁業局(National Marine Fisheries Service)が実施している。1997年に海軍は艦船修理施設をグアム準州政府に移管したが、この跡地を活用してアプラ港の総合開発計画が立てられ、漁業基地の強化を狙った内容となっていた。このような努力は周辺諸国も行っており、ミクロネシア水域のマグロ産業規模に比較して従来4~5%程度しか得ることの出来なかった見返りを自主的に漁業を拡大することで移行を図る動きがある[9]。2000年代に入っても、中西部太平洋まぐろ類委員会(WCPFC)をグアムなどで開催し漁業資源の管理と多国間交渉に努力がなされている[10]。
軍事
島の面積の1/3をアメリカ軍用地が占めている。グアム島は、朝鮮半島、台湾、南沙諸島、フィリピン、インドネシア、オーストラリアとあらゆる場所に緊急展開できる戦略上の要地であり、米準州でもあるので、西太平洋の礎石としてその価値を見出されている。しかし、冷戦終結に伴って在グアム米海軍基地整理縮小計画が立てられ、1990年頃には海軍航空隊の基地がグアム国際空港からアンダーセン空軍基地に移設され[8]、1997年9月には艦船修理施設(Ship Repair Facility)が海軍からグアム準州政府に移管されるなど1990年代は基地は縮小傾向にあった。
2000年、ジョージ・W・ブッシュ政権に変わって以降は、地球規模の米軍再編の影響で、世界戦略を見据えた軍事拠点化を進めることになり、兵力の増強が順次実施されてきた。2004年には、グアム島周辺を調査した中国人民解放軍海軍の漢級原子力潜水艦が行き帰りに日本の領海侵犯を行った漢級原子力潜水艦領海侵犯事件が発生した。
島の北部には3,000m級滑走路が2本あるアンダーセン空軍基地が存在する。ここには現在常駐する戦闘機部隊は存在していないが、しばしば飛来する。現在、B-52戦略爆撃機やB-2が配備されている。極東有事の際には、アメリカ本土やハワイなどから前線派遣された航空部隊の重要な出撃拠点になる。
島の西部には、アメリカ海軍も使用しているアプラ港があり、ロサンゼルス級原子力潜水艦が事実上の母港としており、将来的にはオハイオ級原子力潜水艦も配備される予定である。これらは第7艦隊隷下にある。
在日米軍再編の影響により、沖縄本島に駐屯しているアメリカ海兵隊7,000人がグアムに移駐する予定であり、キャンプ瑞慶覧から司令部も移転する予定である。この部隊の受け入れのための費用を日本政府が59%負担することで日米両政府が合意した。上記の基地移転には先住民の一部から反発がおきているが、大半の住民はかつて米軍基地が縮小された事で経済的に大きな打撃を受けたため基地・観光による経済的観点から賛同している。
交通
島外
訪島手段として飛行機と船舶がある。飛行場はグアム国際空港、港はアプラ港を利用することが多い。アプラ港はミクロネシア最大の港である。
グアム国際空港には日本航空とデルタ航空、コンチネンタル航空が日本の複数都市から乗り入れているほか、ホノルルやソウル、コロール、サイパンなどへの直行便がある。なお、航空便で到着する乗客の7割が日本国籍である(2010年現在)。
島内
島内の交通機関はバスやタクシーのみで鉄道はない。バスは、観光地をまわるトロリーバスなどを運行しているグレイラインバスや「ショッピングセンター」はDFSギャラリア、マイクロネシアモール、グアム・プレミア・アウトレットや小規模なものではタモンサンズプラザなどがありホテル、旅行会社が運行するザ・ショッピングバス、シャトルバスを運行するアイバスなどがある。 日本人観光客向けに、日本のレンタカー会社の店舗が複数存在する。 サイパン島と同様に、島内では九州産業交通の現地法人であるグアム産交が貸切バス事業を行なっていたが、九州産業交通の産業再生機構活用による事業再編の一環として売却されている。
観光
観光産業は、現在グアムの最大の産業の一つである。直行便が設定されていないアメリカ本土からの観光客よりも、東京や大阪などの主要都市から直行便で約3-4時間で訪れることのできる日本からの観光客が多くを占めていたが、そのピークは1990年代で2000年代に入ってからは低減しつつある。近年では同様に直行便のある韓国や台湾からの観光客も増加している。なお、ホテル・ニッコー・グアムやレオパレス・リゾート・グアムなどの日系のホテルも多い。
主なホテル
- ホテル・ニッコー・グアム
- シェラトン・ラグーナ・グアムリゾート
- ハイアット・リージェンシー・グアム
- アウトリガー・グアム・リゾート
- オンワード・ビーチ・リゾート
住民
民族・人種・出自構成
言語
公用語は英語、チャモロ語であるが、日本からの観光客による収入が島の大部分の収入を占めていることから日本語も使われており、日本語を理解できる住民がかなり多い。島では、あちこちの店に日本語が使われている。また、フィリピン系も多く、タガログ語も使用される。
芸術・文化
- 伝統的な文化としてチャモロ文化がある。踊りではミクロネシアダンスが有名。
- グアムの芸術や文化に関する機関として「グアム芸術文化省」(Kaha)がある。
- ミクロネシア連邦のチューク州のプルワット環礁との結びつきが強く、プルワット出身の航法師が伝統的な航海カヌーによる航海術を教えている。
姉妹・友好都市
日本の千葉県柏市はグアムの友好都市である。グアムとの交流は、柏まつりを通じて始まり、ミス柏に副賞としてグアム旅行が贈られ、1985年(昭和60年)からは、ミス・グアム及びグアム政府観光局代表が柏まつりに参加するようになった。その後、柏グリーン・ライオンズクラブとグアムマリアナス・ライオンズクラブが1990年(平成2年)2月姉妹クラブを結び、青少年交流派遣を実施するなど、交流が深まった。こうした経過を経て、1991年(平成3年)5月、柏市とグアム政府の親善提携を求める陳情書が提出され、1991年(平成3年)6月定例市議会で採択。柏市長が同年7月、グアム知事に書簡で親善提携を申し入れたところ、同知事も快諾、友好都市提携が決定。1991年(平成3年)11月30日、グアムにて友好都市提携の調印を行った。
脚注
- ^ 「だいきゅうとう」が正式呼称であったが、一般には「おおみやじま」と呼ばれていたようである。
- ^ a b c d Camacho wants Guam renamed "Guahan"KUAM. 2010-02-16.
- ^ “Governor Issues Executive Order Changing Island Name To Guahan”. Pacific News Center. (2010年2月16日) 2010年2月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g Tamondong, Dionesis (2010年2月16日). “Camacho: Name change will affirm identity”. Pacific Daily News
- ^ a b c d e f g h i j k Limtiaco, Steve (2010年2月18日). “Residents mixed on name change”. Pacific Daily News
- ^ José Antonio Saco. Colección de papeles científicos, históricos, políticos y de otros ramos sobre la isla de Cuba. 1859.
- ^ a b “GVB Reacts To Proposed Guam Name Change”. Pacific News Center. (2010年2月16日)
- ^ a b 中島洋(太平洋学会専務理事)コモンウェルスを目指すグアムは? 『ミクロネシア講座』やしの実大学HP内
(サイパン・ロタ・テニアン月刊情報誌『ハファダイ』1992年2月号からの転載HP)
中島は執筆に当たり矢崎幸生『ミクロネシアの憲法集』曉印書館 1984年
矢崎幸生「北マリアナは連邦制国家か」『太平洋学会誌第12号』 1981年 を参照している。 - ^ 泉正南「知っておきたいグアムのマグロ産業-米国マグナソン漁業保存管理法の改正-」『ミクロネシア』1997年4月No.105
- ^ 中西部太平洋まぐろ類委員会(WCPFC)第4回年次会合の結果について 日本国水産庁 2007年12月7日