「伊藤律」の版間の差分
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'''伊藤 律'''(いとう りつ、[[1913年]][[6月27日]] - [[1989年]][[8月7日]])は[[日本]]の政治運動家。元[[日本共産党]]政治局員。[[ |
'''伊藤 律'''(いとう りつ、[[1913年]][[6月27日]] - [[1989年]][[8月7日]])は[[日本]]の政治運動家。元[[日本共産党]]政治局員。[[岐阜県]][[土岐郡]]土岐村市原(現・[[瑞浪市]])出身。幼名は、恵一。 |
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== 生涯 == |
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=== 共産青年同盟時代まで === |
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幼少期から神童の誉れが高く、[[1930年]]に[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を四修で入学する。[[1932年]]6月に[[共産青年同盟]]に加盟し9月に退学処分を受ける。[[1933年]]に[[日本共産党]]入党。同年5月に検挙され[[懲役]]2年[[執行猶予]]3年の有罪判決を受ける。その後、[[1939年]]に[[南満州鉄道]]に入社。東京支社調査部嘱託となり、[[尾崎秀実]]に重用される。しかし1939年に再度検挙、[[1941年]]に再々度検挙され、この間[[拷問]]を受け自供、[[ゾルゲ事件]]発覚の発端となった情報を[[特別高等警察|特高]]に与えたといわれる<ref>ただし、これについては1990年代以降の研究の進展で伊藤の供述がゾルゲ事件捜査の端緒ではなかった可能性が高いことが指摘されている。参考文献を参照。</ref>。 |
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岐阜県の山村に生まれる。幼少期から神童の誉れが高かったといわれ、旧制岐阜県立恵那中学校(現・[[岐阜県立恵那高等学校]])4年生修了後、[[1930年]]に[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]](一高)に入学する(いわゆる「四修進学」)。同期に後に作家となる[[杉浦明平]]がいた。杉浦の後年の回想では、入学の時点で伊藤はすでに社会主義に関心を持ち、1年生から読書会を主催していたという<ref>渡部(1993年)p127</ref>。2年生の[[1931年]]初秋に[[共産青年同盟]]に加盟し、国際反帝反戦同盟東京委員会印刷局に加入<ref name="watabep128">渡部(1993年)p128</ref>。この頃は昼は学校と家庭教師のアルバイトをこなし、夜に組織の印刷物を作成・配布する生活を送っていた<ref name="watabep128"/>。伊藤は、[[特別高等警察]](特高)によって壊滅した一高の共産青年同盟を再建する任務に当たったが、やがて当局の察知するところとなり、1932年9月に地下に潜行、12月に放校処分を受ける<ref name="watabep128"/>。伊藤は東京城西地区の大学へのオルグ活動を担当する。特に[[東京商科大学 (旧制)|東京商大]](現・[[一橋大学]])では「籠城事件」後の学生の盛り上がりに伊藤の活動が加わり、学内の共産青年同盟は60人の規模に伸張した<ref>渡部(1993年)p138(当時東京商大学生だった松岡貞雄の回想)</ref>。しかし、[[1933年]]2月には特高の検挙で東京商大の組織は壊滅状態となった。 |
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同じ2月に伊藤は共産青年同盟の中央事務局長となり、3月13日に正式に[[日本共産党]]に入党した<ref name="watabep412">渡部(1993年)p412</ref>。しかし、同年5月16日に検挙され、[[大崎警察署]]に検束される。伊藤の共産党入党は三船留吉・今井藤一郎の推薦によるものだったが、この二人は特高のスパイであり、検挙も三船が手引きした結果だった<ref>渡部(1993年)p147</ref>。市谷刑務所・[[豊多摩刑務所]]へと移送され、予審が終了した[[1934年]]12月25日に保釈された。[[1935年]]4月16日、[[東京地方裁判所]]で[[懲役]]2年[[執行猶予]]3年の有罪判決を受ける。この取り調べで[[転向]]を表明するが、取り調べた特高の宮下弘はそれを認めずに起訴して検察に送ったと後に述べている<ref>渡部(1993年)p144 - 145(宮下の著書『特高の回想』田畑書店、1978年からの引用)</ref>。 |
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=== 共産党再建活動と再度の検挙 === |
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[[1942年]]12月一審判決があったが上告、[[1943年]]11月再審判決で懲役3年未決通算260日となり、[[東京拘置所]]に服役。 |
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判決後の5月に伊藤は親族の伝手で[[大阪府]][[堺市]]にあった[[三菱鉱業]]系列の堺化学工業という工場に臨時雇員として就職する<ref>渡部(1993年)p148</ref>。ここで働いたのは5ヶ月間であったが、その間に社外工を組織した<ref>渡部(1993年)p150</ref>。労働の現場に初めて入った伊藤は、親しい知人への手紙で「我々の頭の中で考えていることが如何に抽象的で、一面的で、ある場合には子供っぽくさえあるかを痛感します」「僕は一切の感覚を働かせて、ねばり強い辛抱をもってこの生産点から本当に大切なものを摂取しようと努力しています」と記している<ref>渡部(1993年)p151</ref>。 |
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このあと伊藤は[[1936年]]2月に[[東京大学|東京帝国大学]]経済学部助教授の[[土屋喬雄]]の研究室で、日本の農業経済史の研究に携わった<ref name="watabep412"/>。この年の7月に最初の結婚。秋、一高同期生の兄で活動家だった長谷川浩と知り合い、翌年8月に長谷川と伊藤は共産党の再建活動に入った。二人は[[人民戦線]]戦術を採用して、街頭ではなく職場を中心とした活動をおこなう方針を決めた<ref>渡部(1993年)p175</ref>。伊藤は工場などに組織を作る活動をおこなうが、その過程で[[世田谷区]][[池尻 (世田谷区)|池尻]]で活動していた文芸サークル「街」に接触した。これはこのサークルに工場労働者が多くいたためで、文芸サークルから労働者組織への転換を指導した<ref>渡部(1993年)p175 -176</ref>。9月、「街」のリーダーだった青柳喜久代(1914 - 1968、戦後[[中野区]]議会議員)から青柳の叔母(母の妹)に当たる北林トモを「アメリカ帰りのおばさん」として紹介され、名前を知らないまま二度会っている。伊藤は長谷川と相談し、北林は言動などから諜報組織に所属しているかもしれず、運動にマイナスになるという理由で手を切った<ref>渡部(1993年)p176、386 - 387。これは伊藤の晩年の手記と長谷川の戦後の証言による。</ref>。 |
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[[1945年]]8月26日に仮出獄。[[1946年]]に[[徳田球一]]のもとで政治局員となり、ナンバー2の実力者として共産党再建に従事。[[1950年]]6月[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]][[公職追放]]で地下に潜行、[[武装闘争]]路線に走り[[火炎瓶]]闘争などを指導、この間死亡説、米国[[亡命]]説など諸説流れたが、実際は[[1951年]]秋、[[中国]]に密航し徳田、[[野坂参三]]らといわゆる北京機関に合流し活動していた。ここで日本向けの地下放送・[[自由日本放送]]の指導にあたった。[[1953年]]、徳田が病気で倒れると「スパイ」として日本共産党から[[除名]]され、徳田が死去すると罪状も言わずに投獄された。 |
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[[1938年]]、全国購買組合東京支所に就職し、全国の農村調査をおこなった。土屋喬雄の下での研究と合わせて養われた伊藤の農業への造詣は、のちの経歴に生かされることになる。[[1939年]]8月に[[南満州鉄道]]に入社。東京支社調査室嘱託となり、前職の経歴を買われて農村事情の調査をおこない、社内誌に論文を発表している。しかし、以前に伊藤がオルグした東京商大のOB・学生による社会主義運動のグループが摘発され、彼らと面識のあった伊藤も同年11月11日に再度検挙を受けることとなった。 |
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[[1955年]]以後消息不明となって死亡説が定着し、[[1965年]]に日本の公安当局も死亡したとして捜査を打ち切った。しかし、[[文化大革命]]終了後、中国は[[喬石]]の決断で伊藤の釈放に乗り出す。[[1980年]]8月23日、中国政府は伊藤が中国で生存していることを発表した。伊藤は27年ぶりに釈放され、[[9月3日]]に伊藤は29年ぶりに帰国した。帰国時は伊藤は67歳で車椅子に乗っていた。伊藤投獄は日本共産党幹部であった[[野坂参三]]の意向だったと報じられた。これに対して日本共産党はほとんど黙殺に近い反応を示した。 |
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=== 終戦まで === |
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昭和史の裏面を知る生き証人として、ゾルゲ事件の真相や戦後の共産党の武装路線などについての証言が期待されたが、沈黙を守ったまま1989年に死去した。 |
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検挙された伊藤は商大グループとの関係を否定し続けたまま年を越し、その間に[[肺浸潤]]に罹患した。だが、1940年6月に拷問とともに「本筋を言え!長谷川はどうした」と迫られ、彼らにも検挙の手が及んだことを悟り、供述に応じることとなった。同時期に検挙された「街」グループについても尋問を受けたが、すでにこのグループが1937年11月に一度検挙後、不起訴で釈放されていたため「供述は気楽であった」と後年回想している<ref name="watabep385">渡部(1993年)p385</ref>。伊藤は彼らから紹介されたのは誰かという訊問の中で、青柳喜久代から「アメリカ帰りのおばさん」を紹介されて二度会ったと気軽に供述したという<ref name="watabep385"/>。警察に提出する手記を書いた後の8月、警察医の診断により、「長谷川の取り調べが終わるまで」という条件で拘留一時停止となり、9月末に満鉄に復職する。伊藤はすでに以前に執筆した論文で同じ満鉄調査室嘱託だった[[尾崎秀実]]から評価を得ていたが、復職後は出身地が近いこともあって家族ぐるみでの親交を深めることになった。12月、すでに内縁の関係にあった松本キミとの婚姻届を出す<ref>渡部(1993年)p415</ref>。伊藤は満鉄の社内誌に農業問題に関する論文を相次いで発表した。 |
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[[1941年]]9月29日、[[久松警察署]]に身柄を拘束される。これは長谷川浩らの調査が終了して書類送検の段階に達したためで、上記の通りあらかじめ予定されていたものだった<ref>渡部(1993年)、p251 - 255。</ref>。送検調書を取られ、通常なら起訴・拘置所に送致となるはずが、1ヶ月近く留め置かれる。伊藤の回想では、10月18日(尾崎秀実<!---後段の文中に尾崎秀樹が出てくるので名前は略記しない--->はその数日前に逮捕されていた)に特高の刑事から「おまえはソ連のスパイではないか、よくもだましたな」と拷問を受け、そこで初めて尾崎秀実の逮捕容疑を知らされる<ref name="watabep387">渡部(1993年)p387 - 388</ref>。その2日後、刑事から「アメリカ帰りのおばさん」の名前が北林トモであること、北林が[[宮城与徳]]と連絡があり、宮城から尾崎秀実や[[リヒャルト・ゾルゲ]]の名前が出たことを知らされ、尾崎や北林との関係についての補足手記を書くように求められた<ref name="watabep387"/>。伊藤にとって隠すことではなかったためその事実を記したところ、特高側から「(前年に書いた本文と)手記の日付がバラバラでは具合が悪いので、本文同様に1940年7月末に統一しておけ」と言われる。伊藤はスパイ容疑による尾崎の逮捕という事態に動揺していたため、これに従ったという<ref name="watabep387"/>。 |
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[[1942年]]6月4日に予審が終了し、東京地裁の公判に回される。6月28日、約9ヶ月ぶりに保釈された。12月に一審判決(懲役4年、未決通算260日)を受けたが、下獄をできるだけのばすため長谷川とともに上告し、[[1943年]]11月に再審判決で懲役3年未決通算260日となる。懲役が1年短くなったのは、1審判事のミスで「執行猶予中の再犯」と認定されていたものが、実は僅かな差で執行猶予期間外であったことが判明したためである<ref>渡部(1993年)p288</ref>。同年12月から[[巣鴨拘置所]]に服役し、翌年春に豊多摩刑務所に移されて終戦を迎える。この間、1943年8月1日には公判被告にもかかわらず[[召集令状]]が届き、取り消しとなる珍事もあった<ref name="watabep277">渡部(1993年)p277 - 279。当時は適齢者には犯歴などチェックせず機械的に召集令状が送られ、同様の例は少なくなかった。</ref>。巣鴨時代には死刑判決を受けた尾崎秀実ともわずかながら話をする機会があったが、そのやせた姿に胸を痛めたという<ref>渡部(1993年)p281</ref>。伊藤は入獄前に尾崎秀実の家族に見舞いを送るなど、厳しい情勢の中でも親交を続けていた<ref name="watabep277"/>。一方、拘置所・刑務所内では図書夫雑役という仕事に就き、他の思想犯の収監者には「管理者側に立っている」と批判的な目で見る者もいた。このことが戦後、伊藤の人物評価に不利な状況を生んだという指摘が石堂清倫や渡部富哉からなされている<ref>渡部(1993年)p298 - 299、362 - 365</ref>。 |
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=== 共産党幹部から潜行へ === |
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[[1945年]]8月26日に仮出獄。これは政治犯のうち、刑期が近く終わるような者から少しずつ釈放していたことによる<ref>渡部(1993年)p302 - 303</ref>。10月4日に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の「人権指令」によって政治犯が全面的に釈放され、共産党再建の動きが始まるといち早く入党した<ref>時期については諸説あるが、10月18日の共産党の公式文書には、選挙の立候補予定者として伊藤の名がある(渡部(1993年)p305)</ref>。伊藤は得意の農民運動を中心に活動し、その状況を書記長の[[徳田球一]]に報告していた。[[1946年]]2月の第五回党大会で、党中央委員・書記局員に、5月には政治局員に就任する。1946年の[[第22回衆議院議員総選挙]]と[[1947年]]の[[第23回衆議院議員総選挙]]に東京7区から立候補するが、いずれも落選した。伊藤は徳田の片腕として党の重職を担った。 |
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[[1949年]]2月、[[アメリカ合衆国陸軍省|アメリカ陸軍省]]は[[ゾルゲ事件]]に関する報告(コーネル報告、また[[チャールズ・ウィロビー|ウィロビー]]報告とも)を発表し、日本の新聞にも転載された。この中で「伊藤が北林トモの名を供述したことが事件発覚の発端である」という説が唱えられた。このとき共産党側は[[志賀義雄]]が「この噂については1946年3月に厳密に調査をすすめた結果、当時の特高が謀略と行賞のためにおこなった作文で、北林と伊藤には組織上の連絡はない」という趣旨の談話を発表している<ref>渡部(1993年)p312 - 313</ref>。 |
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[[1950年]]、[[コミンフォルム]]の批判により党が分裂状態になると、徳田に近かった伊藤は[[所感派]]に属した。伊藤は対立する[[国際派 (日本共産党)|国際派]]の非難にさらされた<ref>渡部(1993年)p317</ref>。当時の伊藤にはウィロビー報告での「告発」に加え、戦時中に亡命や非転向での闘争経験なく幹部となったことへの羨望や嫉妬、さらに女性問題など、批判の材料には事欠かなかったためである<ref>渡部(1993年)p365 - 366</ref>。さらに所感派内部にも伊藤をスパイとみる者がいた。 |
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6月にGHQの[[公職追放]]で地下に潜行する。同年10月に徳田球一が[[中華人民共和国]]に去って「北京機関」を組織した後、徳田が全体方針立案、国内は[[志田重男]]・椎野悦朗との三者合意を中心とした指導体制となる。このときすでに徳田は「安静にして余命4年」という状況(幹部以外には秘匿された)で、ほどなく徳田の後継をめぐる争いに伊藤も巻き込まれることとなった<ref>渡部(1993年)p327</ref>。 |
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この間日本国内では死亡説、米国[[亡命]]説など諸説が流れ、[[朝日新聞]]が「山中で伊藤と接触した」という架空の記事を載せた事件([[伊藤律会見報道事件]])が起きたのはこの年9月のことである。 |
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[[1951年]]には北京機関内部での対立が波及し、7月には徳田の自己批判に続いて伊藤も自己批判をおこなう。伊藤は後年、志田重男とその側近からはあからさまな批判や妨害を受けたと長谷川浩への手紙で述べている<ref>渡部(1993年)p318</ref>。武装闘争路線の新綱領を採択した10月の第五回全国協議会でも伊藤は非難された。このあと、中国に密航し徳田、[[野坂参三]]、[[西沢隆二]]らのいた北京機関に合流する。この中国行きは表向きは「徳田からの招請」として伝えられた。伊藤は党内情勢から、行けば逮捕・投獄される懸念も抱いたが、最後は党を信じる形で同意した<ref>渡部(1993年)p319 - 320</ref>。漁船で[[日本海]]を渡った伊藤は11月に[[北京]]に到着し、翌[[1952年]]5月1日より開始された日本向けの地下放送・[[自由日本放送]]の指導にあたった。 |
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=== 中国での投獄と幽閉 === |
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伊藤の回想によると、北京機関では国際派への妥協を唱える野坂・西沢と徳田の間に溝ができており、さらに[[中国共産党]]の内部問題も絡んで複雑な状況となっていた<ref>渡部(1993年)p350</ref>。[[1952年]]になると徳田の病状は悪化、9月末からは入院し、やがて意識不明となった。12月、伊藤が懸念していた通り、野坂参三は「[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の指令」という名目で隔離審査の対象とすることを伊藤に告げ、伊藤は軟禁された<ref>渡部(1993年)p334、351</ref>。[[1953年]]10月に徳田は死去。この間、西沢と野坂によって伊藤を「スパイ」として除名する決定がなされ、日本に伝えられて9月15日付の「[[しんぶん赤旗|アカハタ]]に伊藤の処分に関する中央委員声明が掲載された。伊藤はその3ヶ月後に北京でこの「アカハタ」を見せられる。伊藤はその内容を否認し、決定を拒絶したが、監獄に身柄を移された<ref name="watabep357">渡部(1993年)p357 - 358</ref>。 |
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隔離審査以後、野坂ら党の幹部は伊藤に「スパイ」と認めれば復帰させると迫ったが、伊藤はこれに応じなかった<ref name="watabep357"/>。[[1955年]]7月、日本共産党は[[日本共産党第6回全国協議会|第6回全国協議会]]で伊藤の除名を再確認し、9月15日の「アカハタ」に「伊藤律について」と題する中央委員会幹部会の発表を掲載した。ここでも伊藤はスパイとしての罪状を列挙されたが、その内容は2年前の中央委員声明とは大きく異なっていた。1953年の声明では主に戦後の党指導が列挙され、ゾルゲ事件などには全く触れていなかったのに対し、この発表ではゾルゲ事件の内容が中心となり、[[横浜事件]]にも関与したなど、大部分が終戦前のものとなっていた。これについて、渡部富哉は「実際のところは日中両党の間を割いたということが理由になっていた」という関係者の証言も踏まえ、処分を決めて後から口実をつけたと推論している<ref>渡部(1993年)p342</ref>。伊藤は1959年に野坂ら日本共産党の代表団が訪中した際に面会を申し込んだが、拒否された<ref>渡部(1993年)p356</ref>。[[1955年]]以後消息不明となって死亡説が定着し、[[1965年]]に日本の公安当局も死亡したとして捜査を打ち切った。伊藤は1960年に秦城監獄に移送され、[[文化大革命]]中は軍隊の占領下で迫害を受けた。この間、伊藤は健康を悪化させ、右目と右耳がまったくきかなくなり、[[腎不全]]に罹患した。 |
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=== 帰国と晩年 === |
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[[文化大革命]]終了後の1979年、中国は[[喬石]]の決断で伊藤の釈放を決定し、12月に伊藤は病院に移された。翌[[1980年]]3月に退院後、6月には妻へ手紙を送った。7月31日に[[時事通信]]が伊藤の健在を伝え、8月23日、中国政府は伊藤が中国で生存していることを公式に発表した。[[9月3日]]に伊藤は29年ぶりに帰国した。帰国時は伊藤は67歳で車椅子に乗っていた。 |
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帰国後、かつての同志だった小松雄一郎に「獄中27年の記録」を語り、これをもとに朝日新聞は1980年12月に山本博記者による「故国の土を踏みて」という証言録を掲載した。さらにこれに加筆したものが『[[週刊朝日]]』にも連載されて『伊藤律の証言』として出版された(ただし伊藤自身は自らが書いたものではないため認めなかった)<ref>渡部(1993年)p121</ref>。こうした伊藤側の発言に対し、日本共産党は生存が伝えられた直後から「1955年の除名処分は正しく、伊藤はスパイである」という従来からの主張を「しんぶん赤旗」などで繰り返したが、その証拠については明示しなかった。 |
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伊藤は『徳田球一全集』(五月書房、1985年 - 1986年)の編集にも協力し、第四巻では志賀義雄に代わって解説文を書いた<ref>渡部(1993年)p10 - 11</ref>。1981年からは自らの手で中国時代の回想録を執筆した(死後の[[1993年]]、『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』に「日本のユダと呼ばれた男」として3回に分けて掲載)。[[1988年]]にはゾルゲ事件と自らとの関わりを記した「ゾルゲ事件について」を記している(没後、『偽りの烙印』に掲載)。社会への関心は失わず、[[高尾山]]への[[首都圏中央連絡自動車道]]建設反対運動にも参加していた<ref>渡部(1993年)p378</ref>。[[1989年]][[8月7日]]、腎不全のため死去(76歳)。亡くなる4日前には見舞客に対し「中国の民主化運動をどう思うか」と語っていたという<ref>渡部(1993年)p6</ref>。 |
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== 「ゾルゲ事件発覚の端緒」説について == |
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戦後の長期間にわたって「1940年7月に伊藤が警察の取調べにおいて北林トモの名前を明かしたことから北林が逮捕され、その北林の供述によって宮城与徳が検挙されてゾルゲ事件の発覚につながった」という説が唱えられ、一時は定説化していた。 |
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この説が最初に出てくるのは1942年8月の『特高月報』である<ref>渡部(1993年)p56</ref>。この号には同年5月に報道機関に公表されたゾルゲ事件についての報告が掲載されたが、その中に上記の経緯が記された。しかし、『特高月報』は特高内部でも限られた者しか見ることができない内部文書で、この時点ではこの説は広く伝えられたわけではない<ref>ゾルゲの取調べに当たった特高外事課の大橋秀雄ですら閲覧できなかった。(渡部(1993年)p117 )</ref>。だが、その情報は刑事・司法関係者から少しずつ事件関係者に伝わっていた。横浜事件の際に訊問を受けた[[風見章]]は検事から「伊藤が尾崎を売った」といった話を聞かされており、伊藤が収監前に風見に会ったときには「本当に尾崎を売ったのか」と詰問されたと回想している<ref>渡部(1993年)p391</ref>。 |
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終戦後の1945年10月に、日本共産党の関係者が戦時中に押収された文書や党関係の資料を警視庁から持ち出した際、伊藤を取り調べた特高刑事の伊藤猛虎について、ゾルゲ事件検挙による[[内務大臣]]功労賞授与を諮った稟議書が含まれており、その中に「伊藤律に(発覚の)発端となる供述をなさしめたことをもって褒賞を申請する」という一節があった<ref>渡部(1993年)p222</ref>。これを受けて共産党がおこなった調査が1951年の志賀義雄談話の内容にあたる。つまり、この時点では共産党は伊藤と事件の関係を否定していた。 |
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[[赤狩り]]の中で1951年にウィロビー報告が発表される。このときも共産党は志賀談話によって否定し、幹部が北京に渡った後も徳田は訪ソの際にソ連共産党に経緯を説明して、伊藤には問題がないことで了解を得ていた<ref>渡部(1993年)p323</ref>。しかし、共産党が徳田の死後に、ゾルゲ事件を主な罪状として伊藤を除名したことでこれを否定する者がいなくなった。のちには、上記の特高の功労賞上申書には、伊藤が自筆した供述書も添付されていたという話も加えられた。 |
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一方、日本では尾崎秀実の異母弟である[[尾崎秀樹]]や、事件で実刑を受けた川合貞吉らが1948年に「ゾルゲ事件真相究明会」を発足させる。川合は伊藤が発覚の端緒であることを支持し、それを補強する証言をおこなった。「事件の当事者」である川合の発言はそれなりの重みを持って受け止められ、尾崎秀樹も特高警察資料やウィロビー報告と川合の証言に依拠する形で伊藤を「[[イスカリオテのユダ|ユダ]]」として告発する研究書を刊行した。1960年代に『日本の黒い霧』で事件を取り上げた[[松本清張]]もこの説を採用し、伊藤不在の状態で「定説」化していった。尾崎秀樹は伊藤の帰国後もその態度を変えなかった。 |
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伊藤の没後に、晩年の伊藤が執筆した手記を読んだ渡部富哉は、1990年代初めに事実関係の確認をおこなった。その結果、次のような点が明らかになった。 |
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*『特高月報』で「伊藤の供述」に触れた箇所では「某女(北林トモ、五十六歳)」と、その時点で供述したとすれば不自然な記載(あえて「某女」とする必要がない、1940年当時の北林の年齢(数え年)より1歳多い)がなされている<ref>渡部(1993年)p60 - 62</ref>。 |
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*当時特高課長だった中村絹次郎(山村八郎)は、戦後の著書『ソ連はすべてを知っていた』(紅林社、1946年)で「伊藤の供述から渋谷にあった北林の自宅を監視し、交番の巡査を装って接触した」と記しているが、北林は1939年12月には夫の郷里である和歌山県[[粉河町]](現・[[紀ノ川市]])に転居しており、「1940年7月に伊藤が供述した」あとに渋谷の家で北林を監視・接触することは不可能である<ref>渡部(1993年)p65 - 67</ref>。 |
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*警視庁の特高からの依頼により、粉河で北林夫妻の監視に当たった[[和歌山県警察|和歌山県警]]特高の刑事は、監視を始めたのは「1940年初春から」であると証言した<ref>渡部(1993年)p210 - 218</ref>。 |
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*事件を担当した検事の玉沢光三郎や、特高関係者の情報を得た山本勝之助は「北林の名前は青木喜久代の供述によって出てきた」と記している<ref>渡部(1993年) p108、156 - 158</ref>。 |
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*1945年に伊藤猛虎の功労賞稟議書を回収した関係者で現存していた人物は、いずれも上申書に伊藤の供述書はついていなかったと証言した<ref>渡部(1993年)p221 - 222</ref>。また伊藤猛虎はゾルゲ事件で功労賞を受けていない<ref>渡部(1993年)p226</ref>。 |
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これにより、「伊藤の供述」以前に警察が北林トモの監視をおこなっていたこと、北林の名前は伊藤以前に警察に伝わっていたことが明らかになった。伊藤猛虎の上申書が賞を受けるための作文で、自筆供述書もなかった可能性が高まった。 |
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渡部はさらに、尾崎秀樹や川合貞吉、松本清張らが「伊藤が警察のスパイである傍証」として挙げた点についても検証した。 |
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*「伊藤は北林から東京で特徴を持った立地の家探しを頼まれ、そのことを警察に供述した」 |
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:→北林は伊藤と接触する以前から渋谷に住んでおり、尾崎秀樹らが書いているような立地条件とも合致しない<ref>渡部(1993年)p177 - 186</ref>。 |
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*「尾崎秀実の家に密偵として家政婦を紹介しようとした」 |
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:→川合貞吉の証言通りなら時期は1941年8月以降だが、特高側ではすでに検挙の準備が進み、伊藤は再拘留が目前の時期である。女中が交替した話も裏付けられない<ref>渡部(1993年)p246 - 249</ref>。 |
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*「1941年の伊藤の拘留が北林逮捕の翌日なのは偶然とは思えない」 |
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:→上記の通り伊藤が再度拘留されることは事前に決まっていた。むしろ特高側が北林の逮捕を作為的に伊藤の拘留日近くに設定した疑いがある<ref>渡部(1993年)p251 - 255</ref>。 |
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渡部はこれらを総合して、「伊藤の供述が端緒である」という説は特高側が事件の発覚経緯を隠すために作為的に仕組んだ「罠」であると結論付けた。また、尾崎秀樹の著書では青木喜久代や北林に関する事実検証がずさんであることや、明確な根拠を示さずに伊藤を「スパイ」と決めつけている記述が散見されることを指摘し、「何の根拠も裏づけもない、妄想の所産といってもいいほどのもの」と強く非難した。同じ親族でも、尾崎秀実の妻は伊藤が共産党を除名された後も伊藤端緒説やスパイ説に同意せず、尾崎秀樹とは対立した立場にいた<ref>渡部(1993年)p284</ref>。 |
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渡部は1992年に尾崎秀樹と公開討論をおこない、その後「伊藤スパイ説」の撤回を申し入れたりしたが、尾崎秀樹は亡くなるまでこれに応じなかった。 |
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その後、[[加藤哲郎 (学者)|加藤哲郎]]が新たに公開されたアメリカ陸軍諜報部の日本関係文書を[[2007年]]に調査した結果、川合貞吉は戦後エージェントとしてウィロビーからゾルゲ事件の情報提供に対する報酬を受け取っていたことや、ゾルゲ事件を反共の材料とするウィロビーの意に沿って、共産党幹部だった伊藤を「事件発覚の端緒」とする証言をおこなっていたことが明らかになり、川合の証言に対する信憑性は著しく低下した<ref>[http://homepage3.nifty.com/katote/09Sorge.htm ゾルゲ事件の新資料─米国陸軍諜報部『木元伝一ファイル』から]。このほか、渡部富哉は川合がゾルゲ事件に際して無関係の人物を冤罪に追い込む供述をしたと指摘している[http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Wanted.html]</ref>。 |
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また、ゾルゲの活動当時モスクワの参謀本部諜報局極東課で暗号電文の翻訳を担当したM.I.シロトキンは戦後の1964年に記した回想録で「伊藤律は『ラムゼイ』(ゾルゲのコードネーム)の諜報網と、何の関係も持っていなかった」と証言している<ref>加藤哲郎[http://homepage3.nifty.com/katote/mongol.html 国際情報戦の中のゾルゲ=尾崎秀実グループ]</ref>。 |
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これらにより、現在では「ゾルゲ事件発覚の端緒は伊藤の供述だった」という説を支持する見解は、日本の事件研究者の間ではほぼ見られなくなっている。 |
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== 参考文献 == |
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*伊藤律『伊藤律回想録―北京幽閉二七年』文藝春秋社、1993年 |
*伊藤律『伊藤律回想録―北京幽閉二七年』文藝春秋社、1993年 |
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*伊藤律書簡集刊行委員会『生還者の証言―伊藤律書簡集』五月書房、1999年 |
*伊藤律書簡集刊行委員会『生還者の証言―伊藤律書簡集』五月書房、1999年 |
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== 脚注 == |
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==関連項目== |
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2010年11月11日 (木) 15:03時点における版
伊藤 律(いとう りつ、1913年6月27日 - 1989年8月7日)は日本の政治運動家。元日本共産党政治局員。岐阜県土岐郡土岐村市原(現・瑞浪市)出身。幼名は、恵一。
生涯
共産青年同盟時代まで
岐阜県の山村に生まれる。幼少期から神童の誉れが高かったといわれ、旧制岐阜県立恵那中学校(現・岐阜県立恵那高等学校)4年生修了後、1930年に第一高等学校(一高)に入学する(いわゆる「四修進学」)。同期に後に作家となる杉浦明平がいた。杉浦の後年の回想では、入学の時点で伊藤はすでに社会主義に関心を持ち、1年生から読書会を主催していたという[1]。2年生の1931年初秋に共産青年同盟に加盟し、国際反帝反戦同盟東京委員会印刷局に加入[2]。この頃は昼は学校と家庭教師のアルバイトをこなし、夜に組織の印刷物を作成・配布する生活を送っていた[2]。伊藤は、特別高等警察(特高)によって壊滅した一高の共産青年同盟を再建する任務に当たったが、やがて当局の察知するところとなり、1932年9月に地下に潜行、12月に放校処分を受ける[2]。伊藤は東京城西地区の大学へのオルグ活動を担当する。特に東京商大(現・一橋大学)では「籠城事件」後の学生の盛り上がりに伊藤の活動が加わり、学内の共産青年同盟は60人の規模に伸張した[3]。しかし、1933年2月には特高の検挙で東京商大の組織は壊滅状態となった。 同じ2月に伊藤は共産青年同盟の中央事務局長となり、3月13日に正式に日本共産党に入党した[4]。しかし、同年5月16日に検挙され、大崎警察署に検束される。伊藤の共産党入党は三船留吉・今井藤一郎の推薦によるものだったが、この二人は特高のスパイであり、検挙も三船が手引きした結果だった[5]。市谷刑務所・豊多摩刑務所へと移送され、予審が終了した1934年12月25日に保釈された。1935年4月16日、東京地方裁判所で懲役2年執行猶予3年の有罪判決を受ける。この取り調べで転向を表明するが、取り調べた特高の宮下弘はそれを認めずに起訴して検察に送ったと後に述べている[6]。
共産党再建活動と再度の検挙
判決後の5月に伊藤は親族の伝手で大阪府堺市にあった三菱鉱業系列の堺化学工業という工場に臨時雇員として就職する[7]。ここで働いたのは5ヶ月間であったが、その間に社外工を組織した[8]。労働の現場に初めて入った伊藤は、親しい知人への手紙で「我々の頭の中で考えていることが如何に抽象的で、一面的で、ある場合には子供っぽくさえあるかを痛感します」「僕は一切の感覚を働かせて、ねばり強い辛抱をもってこの生産点から本当に大切なものを摂取しようと努力しています」と記している[9]。
このあと伊藤は1936年2月に東京帝国大学経済学部助教授の土屋喬雄の研究室で、日本の農業経済史の研究に携わった[4]。この年の7月に最初の結婚。秋、一高同期生の兄で活動家だった長谷川浩と知り合い、翌年8月に長谷川と伊藤は共産党の再建活動に入った。二人は人民戦線戦術を採用して、街頭ではなく職場を中心とした活動をおこなう方針を決めた[10]。伊藤は工場などに組織を作る活動をおこなうが、その過程で世田谷区池尻で活動していた文芸サークル「街」に接触した。これはこのサークルに工場労働者が多くいたためで、文芸サークルから労働者組織への転換を指導した[11]。9月、「街」のリーダーだった青柳喜久代(1914 - 1968、戦後中野区議会議員)から青柳の叔母(母の妹)に当たる北林トモを「アメリカ帰りのおばさん」として紹介され、名前を知らないまま二度会っている。伊藤は長谷川と相談し、北林は言動などから諜報組織に所属しているかもしれず、運動にマイナスになるという理由で手を切った[12]。
1938年、全国購買組合東京支所に就職し、全国の農村調査をおこなった。土屋喬雄の下での研究と合わせて養われた伊藤の農業への造詣は、のちの経歴に生かされることになる。1939年8月に南満州鉄道に入社。東京支社調査室嘱託となり、前職の経歴を買われて農村事情の調査をおこない、社内誌に論文を発表している。しかし、以前に伊藤がオルグした東京商大のOB・学生による社会主義運動のグループが摘発され、彼らと面識のあった伊藤も同年11月11日に再度検挙を受けることとなった。
終戦まで
検挙された伊藤は商大グループとの関係を否定し続けたまま年を越し、その間に肺浸潤に罹患した。だが、1940年6月に拷問とともに「本筋を言え!長谷川はどうした」と迫られ、彼らにも検挙の手が及んだことを悟り、供述に応じることとなった。同時期に検挙された「街」グループについても尋問を受けたが、すでにこのグループが1937年11月に一度検挙後、不起訴で釈放されていたため「供述は気楽であった」と後年回想している[13]。伊藤は彼らから紹介されたのは誰かという訊問の中で、青柳喜久代から「アメリカ帰りのおばさん」を紹介されて二度会ったと気軽に供述したという[13]。警察に提出する手記を書いた後の8月、警察医の診断により、「長谷川の取り調べが終わるまで」という条件で拘留一時停止となり、9月末に満鉄に復職する。伊藤はすでに以前に執筆した論文で同じ満鉄調査室嘱託だった尾崎秀実から評価を得ていたが、復職後は出身地が近いこともあって家族ぐるみでの親交を深めることになった。12月、すでに内縁の関係にあった松本キミとの婚姻届を出す[14]。伊藤は満鉄の社内誌に農業問題に関する論文を相次いで発表した。
1941年9月29日、久松警察署に身柄を拘束される。これは長谷川浩らの調査が終了して書類送検の段階に達したためで、上記の通りあらかじめ予定されていたものだった[15]。送検調書を取られ、通常なら起訴・拘置所に送致となるはずが、1ヶ月近く留め置かれる。伊藤の回想では、10月18日(尾崎秀実はその数日前に逮捕されていた)に特高の刑事から「おまえはソ連のスパイではないか、よくもだましたな」と拷問を受け、そこで初めて尾崎秀実の逮捕容疑を知らされる[16]。その2日後、刑事から「アメリカ帰りのおばさん」の名前が北林トモであること、北林が宮城与徳と連絡があり、宮城から尾崎秀実やリヒャルト・ゾルゲの名前が出たことを知らされ、尾崎や北林との関係についての補足手記を書くように求められた[16]。伊藤にとって隠すことではなかったためその事実を記したところ、特高側から「(前年に書いた本文と)手記の日付がバラバラでは具合が悪いので、本文同様に1940年7月末に統一しておけ」と言われる。伊藤はスパイ容疑による尾崎の逮捕という事態に動揺していたため、これに従ったという[16]。
1942年6月4日に予審が終了し、東京地裁の公判に回される。6月28日、約9ヶ月ぶりに保釈された。12月に一審判決(懲役4年、未決通算260日)を受けたが、下獄をできるだけのばすため長谷川とともに上告し、1943年11月に再審判決で懲役3年未決通算260日となる。懲役が1年短くなったのは、1審判事のミスで「執行猶予中の再犯」と認定されていたものが、実は僅かな差で執行猶予期間外であったことが判明したためである[17]。同年12月から巣鴨拘置所に服役し、翌年春に豊多摩刑務所に移されて終戦を迎える。この間、1943年8月1日には公判被告にもかかわらず召集令状が届き、取り消しとなる珍事もあった[18]。巣鴨時代には死刑判決を受けた尾崎秀実ともわずかながら話をする機会があったが、そのやせた姿に胸を痛めたという[19]。伊藤は入獄前に尾崎秀実の家族に見舞いを送るなど、厳しい情勢の中でも親交を続けていた[18]。一方、拘置所・刑務所内では図書夫雑役という仕事に就き、他の思想犯の収監者には「管理者側に立っている」と批判的な目で見る者もいた。このことが戦後、伊藤の人物評価に不利な状況を生んだという指摘が石堂清倫や渡部富哉からなされている[20]。
共産党幹部から潜行へ
1945年8月26日に仮出獄。これは政治犯のうち、刑期が近く終わるような者から少しずつ釈放していたことによる[21]。10月4日にGHQの「人権指令」によって政治犯が全面的に釈放され、共産党再建の動きが始まるといち早く入党した[22]。伊藤は得意の農民運動を中心に活動し、その状況を書記長の徳田球一に報告していた。1946年2月の第五回党大会で、党中央委員・書記局員に、5月には政治局員に就任する。1946年の第22回衆議院議員総選挙と1947年の第23回衆議院議員総選挙に東京7区から立候補するが、いずれも落選した。伊藤は徳田の片腕として党の重職を担った。
1949年2月、アメリカ陸軍省はゾルゲ事件に関する報告(コーネル報告、またウィロビー報告とも)を発表し、日本の新聞にも転載された。この中で「伊藤が北林トモの名を供述したことが事件発覚の発端である」という説が唱えられた。このとき共産党側は志賀義雄が「この噂については1946年3月に厳密に調査をすすめた結果、当時の特高が謀略と行賞のためにおこなった作文で、北林と伊藤には組織上の連絡はない」という趣旨の談話を発表している[23]。
1950年、コミンフォルムの批判により党が分裂状態になると、徳田に近かった伊藤は所感派に属した。伊藤は対立する国際派の非難にさらされた[24]。当時の伊藤にはウィロビー報告での「告発」に加え、戦時中に亡命や非転向での闘争経験なく幹部となったことへの羨望や嫉妬、さらに女性問題など、批判の材料には事欠かなかったためである[25]。さらに所感派内部にも伊藤をスパイとみる者がいた。
6月にGHQの公職追放で地下に潜行する。同年10月に徳田球一が中華人民共和国に去って「北京機関」を組織した後、徳田が全体方針立案、国内は志田重男・椎野悦朗との三者合意を中心とした指導体制となる。このときすでに徳田は「安静にして余命4年」という状況(幹部以外には秘匿された)で、ほどなく徳田の後継をめぐる争いに伊藤も巻き込まれることとなった[26]。
この間日本国内では死亡説、米国亡命説など諸説が流れ、朝日新聞が「山中で伊藤と接触した」という架空の記事を載せた事件(伊藤律会見報道事件)が起きたのはこの年9月のことである。
1951年には北京機関内部での対立が波及し、7月には徳田の自己批判に続いて伊藤も自己批判をおこなう。伊藤は後年、志田重男とその側近からはあからさまな批判や妨害を受けたと長谷川浩への手紙で述べている[27]。武装闘争路線の新綱領を採択した10月の第五回全国協議会でも伊藤は非難された。このあと、中国に密航し徳田、野坂参三、西沢隆二らのいた北京機関に合流する。この中国行きは表向きは「徳田からの招請」として伝えられた。伊藤は党内情勢から、行けば逮捕・投獄される懸念も抱いたが、最後は党を信じる形で同意した[28]。漁船で日本海を渡った伊藤は11月に北京に到着し、翌1952年5月1日より開始された日本向けの地下放送・自由日本放送の指導にあたった。
中国での投獄と幽閉
伊藤の回想によると、北京機関では国際派への妥協を唱える野坂・西沢と徳田の間に溝ができており、さらに中国共産党の内部問題も絡んで複雑な状況となっていた[29]。1952年になると徳田の病状は悪化、9月末からは入院し、やがて意識不明となった。12月、伊藤が懸念していた通り、野坂参三は「スターリンの指令」という名目で隔離審査の対象とすることを伊藤に告げ、伊藤は軟禁された[30]。1953年10月に徳田は死去。この間、西沢と野坂によって伊藤を「スパイ」として除名する決定がなされ、日本に伝えられて9月15日付の「アカハタに伊藤の処分に関する中央委員声明が掲載された。伊藤はその3ヶ月後に北京でこの「アカハタ」を見せられる。伊藤はその内容を否認し、決定を拒絶したが、監獄に身柄を移された[31]。
隔離審査以後、野坂ら党の幹部は伊藤に「スパイ」と認めれば復帰させると迫ったが、伊藤はこれに応じなかった[31]。1955年7月、日本共産党は第6回全国協議会で伊藤の除名を再確認し、9月15日の「アカハタ」に「伊藤律について」と題する中央委員会幹部会の発表を掲載した。ここでも伊藤はスパイとしての罪状を列挙されたが、その内容は2年前の中央委員声明とは大きく異なっていた。1953年の声明では主に戦後の党指導が列挙され、ゾルゲ事件などには全く触れていなかったのに対し、この発表ではゾルゲ事件の内容が中心となり、横浜事件にも関与したなど、大部分が終戦前のものとなっていた。これについて、渡部富哉は「実際のところは日中両党の間を割いたということが理由になっていた」という関係者の証言も踏まえ、処分を決めて後から口実をつけたと推論している[32]。伊藤は1959年に野坂ら日本共産党の代表団が訪中した際に面会を申し込んだが、拒否された[33]。1955年以後消息不明となって死亡説が定着し、1965年に日本の公安当局も死亡したとして捜査を打ち切った。伊藤は1960年に秦城監獄に移送され、文化大革命中は軍隊の占領下で迫害を受けた。この間、伊藤は健康を悪化させ、右目と右耳がまったくきかなくなり、腎不全に罹患した。
帰国と晩年
文化大革命終了後の1979年、中国は喬石の決断で伊藤の釈放を決定し、12月に伊藤は病院に移された。翌1980年3月に退院後、6月には妻へ手紙を送った。7月31日に時事通信が伊藤の健在を伝え、8月23日、中国政府は伊藤が中国で生存していることを公式に発表した。9月3日に伊藤は29年ぶりに帰国した。帰国時は伊藤は67歳で車椅子に乗っていた。
帰国後、かつての同志だった小松雄一郎に「獄中27年の記録」を語り、これをもとに朝日新聞は1980年12月に山本博記者による「故国の土を踏みて」という証言録を掲載した。さらにこれに加筆したものが『週刊朝日』にも連載されて『伊藤律の証言』として出版された(ただし伊藤自身は自らが書いたものではないため認めなかった)[34]。こうした伊藤側の発言に対し、日本共産党は生存が伝えられた直後から「1955年の除名処分は正しく、伊藤はスパイである」という従来からの主張を「しんぶん赤旗」などで繰り返したが、その証拠については明示しなかった。
伊藤は『徳田球一全集』(五月書房、1985年 - 1986年)の編集にも協力し、第四巻では志賀義雄に代わって解説文を書いた[35]。1981年からは自らの手で中国時代の回想録を執筆した(死後の1993年、『文藝春秋』に「日本のユダと呼ばれた男」として3回に分けて掲載)。1988年にはゾルゲ事件と自らとの関わりを記した「ゾルゲ事件について」を記している(没後、『偽りの烙印』に掲載)。社会への関心は失わず、高尾山への首都圏中央連絡自動車道建設反対運動にも参加していた[36]。1989年8月7日、腎不全のため死去(76歳)。亡くなる4日前には見舞客に対し「中国の民主化運動をどう思うか」と語っていたという[37]。
「ゾルゲ事件発覚の端緒」説について
戦後の長期間にわたって「1940年7月に伊藤が警察の取調べにおいて北林トモの名前を明かしたことから北林が逮捕され、その北林の供述によって宮城与徳が検挙されてゾルゲ事件の発覚につながった」という説が唱えられ、一時は定説化していた。
この説が最初に出てくるのは1942年8月の『特高月報』である[38]。この号には同年5月に報道機関に公表されたゾルゲ事件についての報告が掲載されたが、その中に上記の経緯が記された。しかし、『特高月報』は特高内部でも限られた者しか見ることができない内部文書で、この時点ではこの説は広く伝えられたわけではない[39]。だが、その情報は刑事・司法関係者から少しずつ事件関係者に伝わっていた。横浜事件の際に訊問を受けた風見章は検事から「伊藤が尾崎を売った」といった話を聞かされており、伊藤が収監前に風見に会ったときには「本当に尾崎を売ったのか」と詰問されたと回想している[40]。
終戦後の1945年10月に、日本共産党の関係者が戦時中に押収された文書や党関係の資料を警視庁から持ち出した際、伊藤を取り調べた特高刑事の伊藤猛虎について、ゾルゲ事件検挙による内務大臣功労賞授与を諮った稟議書が含まれており、その中に「伊藤律に(発覚の)発端となる供述をなさしめたことをもって褒賞を申請する」という一節があった[41]。これを受けて共産党がおこなった調査が1951年の志賀義雄談話の内容にあたる。つまり、この時点では共産党は伊藤と事件の関係を否定していた。
赤狩りの中で1951年にウィロビー報告が発表される。このときも共産党は志賀談話によって否定し、幹部が北京に渡った後も徳田は訪ソの際にソ連共産党に経緯を説明して、伊藤には問題がないことで了解を得ていた[42]。しかし、共産党が徳田の死後に、ゾルゲ事件を主な罪状として伊藤を除名したことでこれを否定する者がいなくなった。のちには、上記の特高の功労賞上申書には、伊藤が自筆した供述書も添付されていたという話も加えられた。
一方、日本では尾崎秀実の異母弟である尾崎秀樹や、事件で実刑を受けた川合貞吉らが1948年に「ゾルゲ事件真相究明会」を発足させる。川合は伊藤が発覚の端緒であることを支持し、それを補強する証言をおこなった。「事件の当事者」である川合の発言はそれなりの重みを持って受け止められ、尾崎秀樹も特高警察資料やウィロビー報告と川合の証言に依拠する形で伊藤を「ユダ」として告発する研究書を刊行した。1960年代に『日本の黒い霧』で事件を取り上げた松本清張もこの説を採用し、伊藤不在の状態で「定説」化していった。尾崎秀樹は伊藤の帰国後もその態度を変えなかった。
伊藤の没後に、晩年の伊藤が執筆した手記を読んだ渡部富哉は、1990年代初めに事実関係の確認をおこなった。その結果、次のような点が明らかになった。
- 『特高月報』で「伊藤の供述」に触れた箇所では「某女(北林トモ、五十六歳)」と、その時点で供述したとすれば不自然な記載(あえて「某女」とする必要がない、1940年当時の北林の年齢(数え年)より1歳多い)がなされている[43]。
- 当時特高課長だった中村絹次郎(山村八郎)は、戦後の著書『ソ連はすべてを知っていた』(紅林社、1946年)で「伊藤の供述から渋谷にあった北林の自宅を監視し、交番の巡査を装って接触した」と記しているが、北林は1939年12月には夫の郷里である和歌山県粉河町(現・紀ノ川市)に転居しており、「1940年7月に伊藤が供述した」あとに渋谷の家で北林を監視・接触することは不可能である[44]。
- 事件を担当した検事の玉沢光三郎や、特高関係者の情報を得た山本勝之助は「北林の名前は青木喜久代の供述によって出てきた」と記している[46]。
これにより、「伊藤の供述」以前に警察が北林トモの監視をおこなっていたこと、北林の名前は伊藤以前に警察に伝わっていたことが明らかになった。伊藤猛虎の上申書が賞を受けるための作文で、自筆供述書もなかった可能性が高まった。
渡部はさらに、尾崎秀樹や川合貞吉、松本清張らが「伊藤が警察のスパイである傍証」として挙げた点についても検証した。
- 「伊藤は北林から東京で特徴を持った立地の家探しを頼まれ、そのことを警察に供述した」
- →北林は伊藤と接触する以前から渋谷に住んでおり、尾崎秀樹らが書いているような立地条件とも合致しない[49]。
- 「尾崎秀実の家に密偵として家政婦を紹介しようとした」
- →川合貞吉の証言通りなら時期は1941年8月以降だが、特高側ではすでに検挙の準備が進み、伊藤は再拘留が目前の時期である。女中が交替した話も裏付けられない[50]。
- 「1941年の伊藤の拘留が北林逮捕の翌日なのは偶然とは思えない」
- →上記の通り伊藤が再度拘留されることは事前に決まっていた。むしろ特高側が北林の逮捕を作為的に伊藤の拘留日近くに設定した疑いがある[51]。
渡部はこれらを総合して、「伊藤の供述が端緒である」という説は特高側が事件の発覚経緯を隠すために作為的に仕組んだ「罠」であると結論付けた。また、尾崎秀樹の著書では青木喜久代や北林に関する事実検証がずさんであることや、明確な根拠を示さずに伊藤を「スパイ」と決めつけている記述が散見されることを指摘し、「何の根拠も裏づけもない、妄想の所産といってもいいほどのもの」と強く非難した。同じ親族でも、尾崎秀実の妻は伊藤が共産党を除名された後も伊藤端緒説やスパイ説に同意せず、尾崎秀樹とは対立した立場にいた[52]。
渡部は1992年に尾崎秀樹と公開討論をおこない、その後「伊藤スパイ説」の撤回を申し入れたりしたが、尾崎秀樹は亡くなるまでこれに応じなかった。
その後、加藤哲郎が新たに公開されたアメリカ陸軍諜報部の日本関係文書を2007年に調査した結果、川合貞吉は戦後エージェントとしてウィロビーからゾルゲ事件の情報提供に対する報酬を受け取っていたことや、ゾルゲ事件を反共の材料とするウィロビーの意に沿って、共産党幹部だった伊藤を「事件発覚の端緒」とする証言をおこなっていたことが明らかになり、川合の証言に対する信憑性は著しく低下した[53]。
また、ゾルゲの活動当時モスクワの参謀本部諜報局極東課で暗号電文の翻訳を担当したM.I.シロトキンは戦後の1964年に記した回想録で「伊藤律は『ラムゼイ』(ゾルゲのコードネーム)の諜報網と、何の関係も持っていなかった」と証言している[54]。
これらにより、現在では「ゾルゲ事件発覚の端緒は伊藤の供述だった」という説を支持する見解は、日本の事件研究者の間ではほぼ見られなくなっている。
参考文献
- 伊藤律『伊藤律回想録―北京幽閉二七年』文藝春秋社、1993年
- 伊藤律書簡集刊行委員会『生還者の証言―伊藤律書簡集』五月書房、1999年
- 渡部富哉『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』五月書房、1993年(1998年に新装版刊行)
脚注
- ^ 渡部(1993年)p127
- ^ a b c 渡部(1993年)p128
- ^ 渡部(1993年)p138(当時東京商大学生だった松岡貞雄の回想)
- ^ a b 渡部(1993年)p412
- ^ 渡部(1993年)p147
- ^ 渡部(1993年)p144 - 145(宮下の著書『特高の回想』田畑書店、1978年からの引用)
- ^ 渡部(1993年)p148
- ^ 渡部(1993年)p150
- ^ 渡部(1993年)p151
- ^ 渡部(1993年)p175
- ^ 渡部(1993年)p175 -176
- ^ 渡部(1993年)p176、386 - 387。これは伊藤の晩年の手記と長谷川の戦後の証言による。
- ^ a b 渡部(1993年)p385
- ^ 渡部(1993年)p415
- ^ 渡部(1993年)、p251 - 255。
- ^ a b c 渡部(1993年)p387 - 388
- ^ 渡部(1993年)p288
- ^ a b 渡部(1993年)p277 - 279。当時は適齢者には犯歴などチェックせず機械的に召集令状が送られ、同様の例は少なくなかった。
- ^ 渡部(1993年)p281
- ^ 渡部(1993年)p298 - 299、362 - 365
- ^ 渡部(1993年)p302 - 303
- ^ 時期については諸説あるが、10月18日の共産党の公式文書には、選挙の立候補予定者として伊藤の名がある(渡部(1993年)p305)
- ^ 渡部(1993年)p312 - 313
- ^ 渡部(1993年)p317
- ^ 渡部(1993年)p365 - 366
- ^ 渡部(1993年)p327
- ^ 渡部(1993年)p318
- ^ 渡部(1993年)p319 - 320
- ^ 渡部(1993年)p350
- ^ 渡部(1993年)p334、351
- ^ a b 渡部(1993年)p357 - 358
- ^ 渡部(1993年)p342
- ^ 渡部(1993年)p356
- ^ 渡部(1993年)p121
- ^ 渡部(1993年)p10 - 11
- ^ 渡部(1993年)p378
- ^ 渡部(1993年)p6
- ^ 渡部(1993年)p56
- ^ ゾルゲの取調べに当たった特高外事課の大橋秀雄ですら閲覧できなかった。(渡部(1993年)p117 )
- ^ 渡部(1993年)p391
- ^ 渡部(1993年)p222
- ^ 渡部(1993年)p323
- ^ 渡部(1993年)p60 - 62
- ^ 渡部(1993年)p65 - 67
- ^ 渡部(1993年)p210 - 218
- ^ 渡部(1993年) p108、156 - 158
- ^ 渡部(1993年)p221 - 222
- ^ 渡部(1993年)p226
- ^ 渡部(1993年)p177 - 186
- ^ 渡部(1993年)p246 - 249
- ^ 渡部(1993年)p251 - 255
- ^ 渡部(1993年)p284
- ^ ゾルゲ事件の新資料─米国陸軍諜報部『木元伝一ファイル』から。このほか、渡部富哉は川合がゾルゲ事件に際して無関係の人物を冤罪に追い込む供述をしたと指摘している[1]
- ^ 加藤哲郎国際情報戦の中のゾルゲ=尾崎秀実グループ