コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「富士信仰」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
富士・浅間信仰の内容を「駒込富士神社」として転機
富士・浅間信仰でのノートでの「富士山から一部転記提案」に基づき浅間神社から一部分割・転記。
4行目: 4行目:
富士山が立地する地域周辺には[[千居遺跡]](静岡県富士宮市)や[[牛石遺跡]](山梨県都留市)など、[[縄文時代]]後晩期の祭祀遺跡が複数発掘されている。これらの遺跡には配石遺構([[ストーンサークル]])を伴う特徴があり、富士信仰に関わるものではないかと学術的に考える意見が存在する。これが正しいとすると、少なくとも縄文時代以前には富士信仰の原型があったこととなる。
富士山が立地する地域周辺には[[千居遺跡]](静岡県富士宮市)や[[牛石遺跡]](山梨県都留市)など、[[縄文時代]]後晩期の祭祀遺跡が複数発掘されている。これらの遺跡には配石遺構([[ストーンサークル]])を伴う特徴があり、富士信仰に関わるものではないかと学術的に考える意見が存在する。これが正しいとすると、少なくとも縄文時代以前には富士信仰の原型があったこととなる。


== 富士山本宮浅間社 ==
== 浅間社 ==
'''浅間神社'''(せんげんじんじゃ、あさまじんじゃ)は、富士山の神霊浅間大神と[[コノハナノサクヤビメ|木花咲耶姫命]]を主祭神とし、[[富士山本宮浅間大社]]([[静岡県]][[富士宮市]])を総本宮とする[[神社]]である。[[日本]]全国に約1300社ある。
中には、木花咲耶姫命の父神である[[オオヤマツミ|大山祇神]]や、姉神である[[イワナガヒメ|磐長姫命]]を主祭神とする浅間神社もある。浅間神社の中には、[[浅間造]]と呼ばれる特殊な複合社殿形式を持つものもある。

浅間神社は富士山の神霊である浅間大神を祀ることなどから、[[富士山]]信仰と結びつくものがある。

富士山はしばしば噴火をして山麓付近に住む人々に被害を与えていた。そのため噴火をおさえるために、火の神または水徳の神であるとされた木花咲耶姫を[[神体]]として勧請された浅間神社も多い。

=== 浅間の語源 ===
浅間神社の語源については諸説ある。

*「浅間」は荒ぶる神であり、火の神である。江戸時代に火山である富士山と[[浅間山]]は一体の神であるとして祀ったとする説。
*「浅間」は阿蘇山を意味しており、九州起源の故事が原始信仰に集合した結果といわれている。
*「アサマ」とは、[[アイヌ]]語で「火を吹く燃える岩」または「沢の奥」という意味がある。また、東南アジアの言葉で火山や温泉に関係する言葉である。例えばマレー語では、「アサ」は煙を意味し「マ」は母を意味する。その言葉を火山である富士山にあてたとする説。
*[[坂上田村麻呂]]が富士山本宮浅間大社を現在地に遷宮した時、新しい社号を求めた。この時、浅間大社の湧玉池の周りに桜が多く自生していた。そのため同じく桜と関係の深い伊勢の[[皇大神宮]]の[[摂社]]である[[朝熊神社]]を勧請した。この朝熊神社を現地の人々が「アサマノカミノヤシロ」と呼んでいたため、その名を浅間神社にあてたとする説。
*富士山そのものを「垂迹浅間大菩薩」として信仰していたためとする説。

様々な説があるが、はっきりしていないのが現状である。


=== 富士山本宮浅間大社 ===
[[ファイル:富士山本宮浅間大社拝殿.JPG|thumb|250px|right|富士山本宮浅間大社]]
[[ファイル:富士山本宮浅間大社拝殿.JPG|thumb|250px|right|富士山本宮浅間大社]]
富士山の神霊として考えられている浅間大神と[[コノハナノサクヤビメ]]を主祭神とするのが[[浅間神社]]であり全国に存在するが、その総本宮が[[富士山本宮浅間大社]](浅間大社)である。富士山頂には富士山本宮浅間大社の奥宮があり、富士山の神を祭る。
富士山の神霊として考えられている浅間大神と[[コノハナノサクヤビメ]]を主祭神とするのが[[浅間神社]]であり全国に存在するが、その総本宮が[[富士山本宮浅間大社]](浅間大社)である。富士山頂には富士山本宮浅間大社の奥宮があり、富士山の神を祭る。

2010年5月15日 (土) 12:55時点における版

富士信仰(ふじしんこう)は、、富士山山頂・山嶺を通して富士山・浅間山を神聖視し崇拝の対象とする信仰山岳信仰の一種。

祭祀遺跡

富士山が立地する地域周辺には千居遺跡(静岡県富士宮市)や牛石遺跡(山梨県都留市)など、縄文時代後晩期の祭祀遺跡が複数発掘されている。これらの遺跡には配石遺構(ストーンサークル)を伴う特徴があり、富士信仰に関わるものではないかと学術的に考える意見が存在する。これが正しいとすると、少なくとも縄文時代以前には富士信仰の原型があったこととなる。

浅間神社

浅間神社(せんげんじんじゃ、あさまじんじゃ)は、富士山の神霊浅間大神と木花咲耶姫命を主祭神とし、富士山本宮浅間大社静岡県富士宮市)を総本宮とする神社である。日本全国に約1300社ある。 中には、木花咲耶姫命の父神である大山祇神や、姉神である磐長姫命を主祭神とする浅間神社もある。浅間神社の中には、浅間造と呼ばれる特殊な複合社殿形式を持つものもある。

浅間神社は富士山の神霊である浅間大神を祀ることなどから、富士山信仰と結びつくものがある。

富士山はしばしば噴火をして山麓付近に住む人々に被害を与えていた。そのため噴火をおさえるために、火の神または水徳の神であるとされた木花咲耶姫を神体として勧請された浅間神社も多い。

浅間の語源

浅間神社の語源については諸説ある。

  • 「浅間」は荒ぶる神であり、火の神である。江戸時代に火山である富士山と浅間山は一体の神であるとして祀ったとする説。
  • 「浅間」は阿蘇山を意味しており、九州起源の故事が原始信仰に集合した結果といわれている。
  • 「アサマ」とは、アイヌ語で「火を吹く燃える岩」または「沢の奥」という意味がある。また、東南アジアの言葉で火山や温泉に関係する言葉である。例えばマレー語では、「アサ」は煙を意味し「マ」は母を意味する。その言葉を火山である富士山にあてたとする説。
  • 坂上田村麻呂が富士山本宮浅間大社を現在地に遷宮した時、新しい社号を求めた。この時、浅間大社の湧玉池の周りに桜が多く自生していた。そのため同じく桜と関係の深い伊勢の皇大神宮摂社である朝熊神社を勧請した。この朝熊神社を現地の人々が「アサマノカミノヤシロ」と呼んでいたため、その名を浅間神社にあてたとする説。
  • 富士山そのものを「垂迹浅間大菩薩」として信仰していたためとする説。

様々な説があるが、はっきりしていないのが現状である。


富士山本宮浅間大社

富士山本宮浅間大社

富士山の神霊として考えられている浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社であり全国に存在するが、その総本宮が富士山本宮浅間大社(浅間大社)である。富士山頂には富士山本宮浅間大社の奥宮があり、富士山の神を祭る。

また、徳川家康が浅間大社に土地を寄進した経緯で、富士山の8合目より上の部分は、登山道、富士山測候所を除き、浅間大社の境内となっている。この浅間大社に寄進されていた土地は一時国有化された時期がある。しかし後に国によって、徳川家康と江戸幕府が同大社に寄進したことを示す古文書といった決定的な証拠から、これらの土地が当社の境内地であることが改めて確認されることとなった。但し、静岡県、山梨県の県境が未確定のため、土地登記はしていない[1]

浅間神社の祭神がコノハナノサクヤビメとなった経緯としては、コノハナノサクヤビメの出産に関わりがあるとされ、火中出産から「火の神」とされることがある。しかし、富士山本宮浅間大社の社伝では火を鎮める「水の神」とされている。しかし、いつ頃から富士山の神が木花開耶姫命とされるようになったかは明らかではない。

なお、奥宮では結婚式が可能である。富士山頂で行われるため、事実上日本一高い場所で行われる結婚式である。[2]

また浅間神社の1つである山宮浅間神社は、神社としての本殿を持たない形式であり、神社として富士信仰の祭祀形態を持つ例として希少である。

修験道

修験道の開祖として知られる役小角は、流刑された伊豆大島から毎晩密かに逃げ出して、信仰の山である富士山へ登ったという伝説が残り、「富士山開山の祖」ともいわれる。富士山周辺にはこれらの影響が残り、「役小角倚像」(村山浅間神社蔵)なども存在する。

本朝世紀』によると1149年(久安5年)に末代(まつだい、富士上人)が山頂に一切経を埋納したと伝えられており、現在も富士山頂出土と伝えられる埋納経が浅間大社に伝わっている。また、村山(現在の静岡県富士宮市村山)には大日堂を建立したとされ、ここから富士山修験道としての富士信仰が広まったとされている。その後、村山は村山口登山道(最古の富士登山道)として大きく発展する。

仏教と富士信仰

宗祖・日蓮大聖人の「富士山に本門の戒壇を建立すべきものなり(要旨)」との遺命に基づき、富士山麓に大石寺が建立されている。その他にも、日蓮の高弟日興及びその弟子たちによって有力な宗派が開設されており、上条大石寺北山本門寺西山本門寺小泉久遠寺下条妙蓮寺を総称して富士五山と呼ばれる。

富士講と富士信仰

江戸郊外の富士塚(右)と富士山(江戸名所百景『目黒元不二』歌川広重

江戸時代になると、富士山の登拜庶民の間でも広く行なわれるようになった。これは戦国時代から江戸時代初期(16世紀後半から17世紀前半)に富士山麓の人穴で修行した角行による富士信仰の形から始まるとされる。その経緯で富士塚が多く作られり、擬似的に富士山の登拜を体験するために富士塚山頂には浅間神社が祀られるといったことが行われた。

またこうした富士信仰の高まりを受け、江戸時代には富士山信仰を基盤とした神仏混交新宗教が多数登場した。新宗教は江戸で布教を行い富士講を組織して幕府にとっても無視できない規模になることもあり、幕府が富士講禁制の町触を出すこともしばしばであった。例えば、1774年から1849年に江戸町奉行所は7回の禁制の町触を出している[3]。これらの新宗教は明治期の激動を潜り抜け、今でも実行教丸山教扶桑教などと脈絡を保ち続いている。現在においても富士山は新たな信仰を生み出す基盤となっており、オウム真理教法の華三法行が富士山の麓に本部を置いたことがある。

駒込富士神社

江戸時代富士講を組織し、信仰形態が発達した駒込富士神社(東京都文京区本駒込)は、最も古い富士講組織の一つがあり、江戸時代は多くの町火消により組織された。現在に至るまで「お富士さん」の通称で親しまれている。初夢で有名な「一富士、二鷹、三茄子」は、周辺に鷹匠屋敷があった事、駒込茄子が名産物であった事に由来する。

他方で、「仇討ち」を示す隠語との説もある。まず「富士」の裾野での曾我兄弟の仇討ち、「鷹」は忠臣蔵での敵役・浅野長矩の定紋、 「茄子」は鍵屋の辻の決闘の舞台、伊賀上野の名産物をそれぞれ表わすといわれる。

脚注

  1. ^ 富士山本宮浅間大社ホームページより
  2. ^ 日本一高い富士山頂で愛を誓う! 2007年8月24日(Excite Bit)
  3. ^ 岩科小一郎「富士信仰の今昔」『あしなか』第259号・第260号合冊号所収(神崎宣武『江戸の旅文化』による)