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「日本の歴史」の版間の差分

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古墳時代、飛鳥時代を簡略化
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なお、[[南西諸島]]と[[北海道]]には水田が作られず、南西諸島では[[貝塚時代]]、ついで[[グスク時代]]、北海道では[[続縄文時代]]、ついで[[擦文時代]]が続いた。併合の記載があるまで、以後の記述は、九州・四国のそれぞれ全域と、東北地方北部を欠く本州を指す。南西諸島の歴史については、[[沖縄県]]を参照。
なお、[[南西諸島]]と[[北海道]]には水田が作られず、南西諸島では[[貝塚時代]]、ついで[[グスク時代]]、北海道では[[続縄文時代]]、ついで[[擦文時代]]が続いた。併合の記載があるまで、以後の記述は、九州・四国のそれぞれ全域と、東北地方北部を欠く本州を指す。南西諸島の歴史については、[[沖縄県]]を参照。


=== [[古墳時代]] ===
===[[古墳時代]]===
3世紀の終わり頃から6世紀の終わりまでの約300年間にわたって身分を表すものとして前方後円墳が造り続けられた。3世紀の後半から奈良盆地に大王稜クラスの前方後円墳が出現し、4世紀の初めには大坂平野に巨大古墳が築造され、この世紀の終わり頃には畿内の一部に先進的な群集墳が現れる。つづく5世紀の半ばには、各地に巨大古墳が築造されるようになる。それが、6世紀の終わりには日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなった。強力な政権が形成されたものと考えられる。ヤマト政権であろう。ただ、この後しばらくの間、方墳や円墳は造り続けられる。<br>
[[4世紀]]後半から[[5世紀]]にかけて、倭軍が朝鮮半島の百済・新羅や高句麗と戦ったことが「[[高句麗広開土王碑]](こうかいどおうひ)」文にみえる。この時、筑紫の国造磐井が新羅と通じ、周辺諸国を動員して倭軍の侵攻を阻もうとしたと日本書紀にみえ、磐井の反乱([[527年]])として扱っている。これは、度重なる朝鮮半島への出兵の軍事的・経済的負担が重くのしかかって反乱となったと考えられる。<br>
5世紀の初めから6世紀の終わり頃まで活躍した「[[倭の五王]]」のことが[[倭・倭人関連の中国史料|中国史料]]にみえる。稲荷山古墳出土の[[鉄剣・鉄刀銘文|鉄剣銘文]]から[[ヤマト大王|王権]]が関東まで及んでいたことが分かる。朝鮮半島の鉄生産や先進的な文物の取得を求めて侵攻したと思われる。<br>
倭は、大和地方を本拠に本州中部から九州北部までを支配したと考えられている(→[[大和王権]])。倭は[[6世紀]]後半には、東北地方南部から九州のほぼ全域までを支配していた。領土拡大の過程では大小の国や種族との和戦があったが、『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』には伝説的な物語しか伝わっておらず、その実態は定まらない。


3世紀末から6世紀末まで、各地の豪族は[[前方後円墳]]という同一形式の墳墓を日本全域に造った。過程と時期に諸説あるものの、この時代に[[大和王権]]が倭の統一政権として確立し、5世紀に[[倭の五王]]が中国に使者を遣わした。倭人が朝鮮半島で得た鉄は、甲冑、武器、農具に用いられた。中国と朝鮮から、文字と仏教・儒教がもたらされた。この時代の人々は[[土師器]]と[[須恵器]]を用い、もはや環濠のない集落に住んだ。
=== [[飛鳥時代]] ===


===[[飛鳥時代]]===
6世紀終わりから7世紀初めにかけて、推古天皇の摂政であった[[聖徳太子]]が[[604年]](推古12年)官位十二階を制定し、[[憲法十七条]]をつくり、仏教の興隆に力を注ぐなど、天皇中心の理想の国家体制づくりの礎を築いた時代であった。[[645年]]中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺する。乙巳の変という。翌年に改新の詔を宣して、天皇中心国家への改新を始める。世にいう[[大化の改新]]である。この年、薄葬の制も定められた。薄葬とは、墳を造らないことである。<br>

[[7世紀]]まで、倭は歴史的に[[任那]]・加羅の領有権を主張して、また朝鮮半島の諸国との政治的関係から、しばしば半島に出兵していた。しかし[[663年]](天智2年)[[白村江の戦い]]に敗れてからは、対馬までを日本領として西方は防衛に専念した。水城を造る。この後、都を近江に移し、官位を制定し、全国的に戸籍(庚午年籍)を造るなど内政に力を入れた。天智天皇が亡くなるとたちまち[[672年]]壬申の乱が起こった。勝者になった天武天皇は、この年の冬(天武元年)都を飛鳥浄御原宮に移し、689年浄御原令(きよみがはらちょう)を制定し、官制を整え、庚寅年籍を作成するなど、国内の各種の制度を確立していった。この間、都は、難波宮や[[694年]]藤原宮に移るなど宮や都が幾度もあちこちに遷りあわただしかった。しかし、天皇中心の国家(中央集権国家)が段々と出来上がっていった時代でもあった。
中央政治では、5世紀の末から[[645年]]の[[大化の改新]]まで[[蘇我氏]]が、それ以後は[[天智天皇]]や[[天武天皇]]のような[[天皇]]や皇族が政治の実権を握った。6世紀後半には中国の官制を参考に制度改革が進んだ。[[白村江の戦い]]で敗れてから、倭は朝鮮半島への進出を断念したが、この頃には鉄が国内で自給できるようになった。この時代の[[飛鳥文化]]・[[白鳳文化]]は仏教寺院を中心にする。西日本に床板を持つ住居が広がったが、東日本の人々はずっと後まで竪穴住居に住んだ。この頃、倭は「日本」と改称した。


===律令国家の日本===
===律令国家の日本===

2004年4月1日 (木) 12:43時点における版

日本の歴史 より詳しい記述は、日本史概説にある。

概略

日本列島の形成

日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあったのは、今からおよそ500万年前のことである。その頃は、まだ大陸と陸続きであった。その後、火山の噴火による地殻変動があり、氷期と間氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こった。そして、約1万3000年前から1万2000年前頃には完全に大陸から離れ、現在の姿と環境の日本列島ができあがった。

日本列島への人類の居住は、旧石器時代のことと考えられている。最も古いと思われる遺物は約10万年前と考えられており、遺跡が多数あって人類の存在が疑いないといえるのは約3万年前からである。しかし、大陸と地続きだった時代には人類がたやすく日本に入ってこれたはずで、もっと古く数十万年前まで遡る可能性がある。旧石器時代の人類は、打製石器を用い、大型哺乳類を狩って生活していた。

約1万2千年前から日本列島には縄文文化が広がった。縄文時代の人々は、竪穴式住居に住み、弓矢での狩猟、貝塚に見られる漁労、植物の採集と調理、後には栽培など、多様な手段で糧を得た。保存と煮炊きに縄文式土器を用い、様々な用途に打製石器磨製石器骨角器をあてた。人々の交流は広い範囲にわたり、環状石籬 (環状列石) のような大人数の動員と世代間の継承を要する事業を起こした。

紀元前3世紀かそれ以前に水稲農耕が伝わり、九州四国本州に広がった。低地に水田を作った人々は、弥生式土器を作り、石器にかえて徐々に鉄器を使うようになり、祭祀に青銅器を用いた。この時代には戦争が絶えず、人々は防護された環濠集落の中に住んだ。身分階層の差があった。やがて各地に小さな国が生まれ、1世紀に奴国の王が後漢に、3世紀に邪馬台国の女王が魏に、金印を授けられた。この頃以降の日本は、大陸からはと呼ばれた。

なお、南西諸島北海道には水田が作られず、南西諸島では貝塚時代、ついでグスク時代、北海道では続縄文時代、ついで擦文時代が続いた。併合の記載があるまで、以後の記述は、九州・四国のそれぞれ全域と、東北地方北部を欠く本州を指す。南西諸島の歴史については、沖縄県を参照。

3世紀末から6世紀末まで、各地の豪族は前方後円墳という同一形式の墳墓を日本全域に造った。過程と時期に諸説あるものの、この時代に大和王権が倭の統一政権として確立し、5世紀に倭の五王が中国に使者を遣わした。倭人が朝鮮半島で得た鉄は、甲冑、武器、農具に用いられた。中国と朝鮮から、文字と仏教・儒教がもたらされた。この時代の人々は土師器須恵器を用い、もはや環濠のない集落に住んだ。

中央政治では、5世紀の末から645年大化の改新まで蘇我氏が、それ以後は天智天皇天武天皇のような天皇や皇族が政治の実権を握った。6世紀後半には中国の官制を参考に制度改革が進んだ。白村江の戦いで敗れてから、倭は朝鮮半島への進出を断念したが、この頃には鉄が国内で自給できるようになった。この時代の飛鳥文化白鳳文化は仏教寺院を中心にする。西日本に床板を持つ住居が広がったが、東日本の人々はずっと後まで竪穴住居に住んだ。この頃、倭は「日本」と改称した。

律令国家の日本

倭は、8世紀の初めに、国号を「日本」と改めたと中国史書にみえる。710年、平城に遷都した。
東北の蝦夷に度々遠征軍を派遣して、国境を北に押し上げた。 この時期以降、日本はの文物を導入して、702年律令(702年大宝律令、718年養老律令)にもとづく政治制度を整備した。貴族が高位を占める官僚制国家が、土地と人民を直接掌握し、税と労役・軍役を各戸に直接課すものである。律令が中央・地方の社会を強く規定した8世紀は、律令国家の時代とされる。これは奈良時代をすっぽり包み込む時期である。文化面では唐の影響がもっとも強く、官人貴族の服装も唐にならった。天皇を賛美し、天皇中心の理想国家を目指した712年『古事記』、720年『日本書紀』を編纂する。律令国家は、5世紀に入ってきた仏教をやはり唐から取り入れて全国に広め、それと並行して神道も整備された。

王朝国家の日本

しかし律令制度は、貴族と寺社が国家の支配を受けない荘園を拡大し、地方支配が弱まっていくなかで、次第に有名無実化していった。10世紀には唐の影響は弱まり、京都の貴族が日本独特の洗練された文化を開花させた。律令政治の解体後に生まれた11世紀から12世紀の新しい体制を、歴史学者は王朝国家と呼んでいる。王朝国家の時代には、中央の体制は安定していたが、地方行政の弛緩が顕著になり、武士が地方の行政・治安の真空を侵食した。武士は互いに戦い、あるいは反乱を起こして鎮圧される中で、次第に存在感を増していった。宗教では、それまで国家護持を期待されていた仏教に、個人救済の傾向が強まった。

中世の日本

天皇家の内乱である保元・平治の乱で活躍した武士は、源氏と平氏に分かれて武士の頂点に立つ地位を争った。12世紀末に最終的に勝利した源氏の源頼朝は、征夷大将軍となり、鎌倉に全国の武士を支配する幕府を開いた。この鎌倉幕府は朝廷の権威を否定しなかったが、武士を支配することを通じて地方の警察力を独占した。武士は、荘園や国衙領の存在を否定しなかったが、さまざまな理由をつけて年貢を奪い、みずからのものにした。荘園・国衙領の減少は、鎌倉時代から室町時代まで徐々に進行し、最終的に戦国時代に完了した。鎌倉時代には、二度にわたってモンゴル軍が日本を征服するために来襲した(元寇)が、幕府は武士を動員して二度とも撃退した。

鎌倉幕府は、1333年に後醍醐天皇の討幕運動によって滅んだ。後醍醐天皇は朝廷による建武の新政を行なったが、武士の不満を招いた。武士の期待を集めた足利尊氏が1336年に別の天皇を立てると、全国に長期の内戦が広がった。南北の朝廷は1392年に北朝優位のもとに統一されたが、1467年に始まる応仁の乱をきっかけに、日本はふたたび全面的内戦の時代に突入した。戦乱の中で、朝廷をはじめ荘園領主など軍事力を持たない権力は没落した。空白を埋めるものとして、畿内とその周辺で、村や町の自検断や、国一揆一向一揆などに自治の動きが現れた。中央から離れたところでは、戦国大名が現れた。またこの時代、瀬戸内海や九州の水軍は、倭寇となって海上交易の覇権を争った。

戦国大名は、領国内の軍事力と経済力の総力を動員する体制を整え、隣国を侵略・併呑して強大化した。戦国大名の強大化を前に、自治的権力は敗れた。国内の領土拡大戦がはみ出るような形で、日本の武士は北辺で現在の北海道の南部に進出してアイヌ人を支配し、南方では琉球を事実上支配するようになった。

近世の日本

国内の分裂は豊臣秀吉が1590年に国内を統一しておさまったが、秀吉はすぐにに対する戦争(文禄・慶長の役)を起こし、朝鮮半島に侵攻した。秀吉の死により日本の軍勢は撤退しこの戦争は終結した。徳川家康が武家を二分して争った関ヶ原の戦いに勝利し征夷大将軍に就くと江戸幕府を開いて天下を取った。その後大阪の陣により豊臣氏は滅亡し、長く続いた戦乱は終わった。

内戦終了後の日本は、多数の大名に分割して領有され、そのなかでも最大の領主たる徳川氏が幕府を開いて日本全体の支配者になる、という幕藩体制をとった。この江戸時代は、対外的には、長崎出島以外で外国との交流を禁止する海禁政策を採り、この期間を鎖国の時代と呼ぶ。海禁政策は、この時期における多くの東アジア諸国に共通して見られる対外政策であった。この時期、日本は二百数十年の平和によって経済的に繁栄し、とくにその後半には、各種の学問が興り、都市の世俗・大衆文化が隆盛を極めた。

近代の日本

1854年に欧米列強の脅威に屈して幕府が開国すると、その政策に対する反発から尊皇攘夷運動が起こった。西国の諸藩の反乱を鎮圧できなかった江戸幕府は、1867年に天皇に政権を返還すると宣言した。この体制変革と直後の改革を明治維新と呼ぶ。新政府は、藩を廃止し、武士の特権をなくし、天皇と官僚を頂点にする中央集権国家を打ち立て、西欧列強を模範として富国強兵を推進した。日清戦争に勝利して台湾を、日露戦争で樺太南部を、さらに1910年に韓国を併合した。日露戦争は近代初の白色人種国家に対する有色人種国家の勝利であり、世界史上の意義も大きい。産業面では軽工業が発展し、20世紀に入ると重工業も伸びた。日本は国内的には立憲君主制の体裁をとり、当初の藩閥政治を脱して、1920年代には政党内閣が政治をとるようになった。しかしその一方で、西欧の君主制にならった天皇の絶対化が教育と政治の正統思想とされ、これらはやがて一人歩きし、過激な民族主義的思想を醸成していった。また明治憲法の不備(統帥権)を利用して、1920年代末から軍部が独立性を強め、1930年以降は政府の意思に反して中国での戦闘を繰り返し、相次ぐ軍事クーデターにより、ついには政党政治を葬り去った。
対外的には中国市場、南方資源地帯の利権を巡り欧米諸国との対立を深めていく。1937年日中戦争がはじまると、アメリカは通商条約の破棄など強硬な方策を採った。日本はドイツ・イタリアと同盟することで対処しようとしたが、かえって米の石油禁輸を招くにいたった。米・英・中・蘭の対日強硬策は、それぞれの国の英語の頭文字をとってABCD包囲網と呼ばれる。日本政府及び大本営は、一方で対米戦争を準備しつつも、日米交渉は1941年晩秋まで続けられたが、コーデル・ハル国務長官の提案(いわゆるハル・ノート)を最後通牒に準ずるものと考えた日本は、 12月8日(現地時間12月7日)、ハワイ真珠湾を攻撃した。同日、東南アジアの英蘭植民地も攻撃し、ここに太平洋戦争が始まった。中国大陸での戦争も含め、日本政府はこの戦争を大東亜戦争と呼称した。
日本軍は開戦当初、連戦連勝であったが、ミッドウェイ海戦での敗北を転機に戦線は次第に後退していく。米英は大西洋憲章を制定し、自陣営を連合国と称し、日独伊の枢軸国と対抗した。日本はアジアにおける勢力の正当性を訴えるため、1943年10月、東京で大東亜会議を開き、自主独立、東アジア各国の相互協力などを謳った大東亜共同宣言を発表したが、実態は日本軍の圧倒的な武力を背景とした支配がなされていた。
1944年7月にはサイパンが陥落、日本本土も連日の空襲にさらされるようになると、物資は窮乏し、ようやく各種和平工作が企図されるようになる。翌1945年7月26日、連合国はポツダム宣言を発表するが、日本政府の回答が遅れたため、広島長崎原子爆弾が投下されたが、受諾やむなしとの結論に達した日本政府は8月14日宣言を受諾し、日本は降伏した。この事実は翌8月15日正午、天皇自らのラジオ放送(玉音放送と呼ばれる)により日本国民に伝えられた。

現代の日本

敗戦後、日本は台湾朝鮮樺太南部南洋諸島千島列島を失った。1952年まで連合国総司令部の軍事占領下におかれたが、直接的な統治は沖縄と小笠原諸島を除き日本の国家機構が行なった。1946年に発布された日本国憲法は、主権は国民に由来するとした「国民主権(主権在民)」、平等権自由権参政権請求権などの権利を保障する「基本的人権の尊重」、戦争を放棄し、国際紛争を武力や武力による威嚇によって解決しない「平和主義」を三大原則とした。また、天皇を日本国および日本国民統合の象徴として、天皇の国政に関与する権能を大きく制限した。農地改革などの社会改革が実施された。戦争によって著しく落ち込んだ経済は、復興の後、1960年から1970年代初めまで高度経済成長を遂げ、1980年代にはアメリカ合衆国に次ぐ経済力と技術力を備えるようになった。人々が豊かになるにつれ、生活と文化の洋風化・アメリカ化が進んだが、後にはそうした基盤の上に日本独自の文化が生まれるようにもなった。日本は憲法で軍隊を持たないことを定めたが、1950年から事実上の再軍備を行ない、冷戦期には米国と同盟してソビエト連邦に対抗した。冷戦後には国際連合に協力して海外でPKO部隊を展開するようになった。

時代区分

各時代の関係を対照するために、日本史時代区分表がある。


文化の時代区分

一覧

関連項目