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蕭道成の一族である[[蕭#蘭陵蕭氏|蘭陵蕭氏]]は、[[東海郡]]蘭陵県(現在の[[山東省]][[臨沂市]][[蘭陵県]])を[[本貫]]とし、[[前漢]]の[[丞相]]である[[蕭何]]の子孫と称した。蕭道成自身は蕭何の24世の孫と称した。高祖父の蕭整の代に[[華北]]の混乱を避けて[[江南]]に渡り、[[晋陵郡]]武進県(現在の[[江蘇省]][[常州市]][[武進区]])に居住するようになった。[[東晋]]によってこの地に[[南蘭陵郡]]蘭陵県が僑置された。父の[[蕭承之]]は[[宋 (南朝)|南朝宋]]初に武功があったが、当時の貴族制社会においては軍人は寒門(低い家格の出身者)でしかなかった。 |
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蕭道成の専横に反対する沈攸之・袁粲・劉秉らが兵を起こすが、これを鎮圧し朝政を掌握、[[479年]]に[[相国]]・斉王となり、順帝より |
蕭道成の専横に反対する[[沈攸之]]・[[袁粲]]・[[劉秉]]らが兵を起こすが、これを鎮圧して朝政を掌握。反乱への加担が未遂に終わった[[黄回]]とも一旦は和睦したものの、後に息子の黄僧念と共にこれを殺害した。その後も[[478年]]11月には皇族の臨澧侯[[劉晃]]([[劉裕]]の弟の[[劉道憐]]の曾孫)を反乱の疑いで処刑<ref>『[[資治通鑑]]』巻134「十一月,癸亥,臨澧侯劉晃坐謀反,與其黨皆伏誅。晃,秉之從子也。」</ref>、[[昇明]]3年([[479年]])3月には[[楊運長]]を暗殺<ref>『資治通鑑』巻135「楊運長去宜城郡還家,齊公遣人殺之。」</ref>、また配下に反乱を勧められた臨川王[[劉綽]](劉道憐の別の曾孫)らを処刑した<ref>『資治通鑑』巻135「凌源令潘智~庚戌,誅綽兄弟及共黨與。」</ref>。同年に[[相国]]・斉王となり、順帝より[[禅譲]]を受けて南朝斉を建てた。 |
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即位した高帝は権力掌握の時期から建国後にかけて宋の皇族を多数殺害したために不評を買った。内政面では[[戸籍]]の整備を行い部曲(私兵)の制限を行うなどの政策を実施し、自らは倹約に励み、次代の武帝 |
即位した高帝は、権力掌握の時期から建国後にかけて南朝宋の皇族を多数殺害した(禅譲した順帝も殺害されている)ために不評を買った。ただし豫州刺史の[[劉澄之]]([[劉遵考]]の子)の一族など、 傍流であり武力にも乏しかった事から殺害を免れた者もいた<ref>『資治通鑑』巻135「前豫州刺史劉澄之~故遵考之族獨得免。」</ref>。内政面では[[戸籍]]の整備を行い[[部曲]](私兵)の制限を行うなどの政策を実施し、自らは倹約に励み、南朝斉は次代の武帝の代まで治世としては小康状態を保った。しかし安定した国情を造出したとは言い難く、南朝斉は23年しか存続しなかった。 |
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== 妻子 == |
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{{蘭陵蕭氏系図}} |
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*正室:[[劉智容]](贈高昭皇后)- 即位前の正室 |
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**長男:武帝 [[武帝 (南朝斉)|蕭賾]](宣遠)- 第2代皇帝 |
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**次男:豫章文献王 [[蕭嶷]] |
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*側室:羅太妃 |
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**五男:武陵昭王 [[蕭曄]](宣照) |
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*側室:任太妃 |
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**六男:安成恭王 [[蕭暠]](宣曜) |
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*側室:何太妃 |
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**十男:始興簡王 [[蕭鑑]](宣徹) |
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**十六男:宜都王 [[蕭鏗]](宣厳)- 廃帝海陵王の代、蕭鸞により処刑。 |
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*側室:謝貴嬪 |
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**三男:臨川献王 [[蕭映]](宣光)- 子の多くが斉から梁への王朝交代後、謀反の疑いにより武帝蕭衍により処刑される。 |
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**四男:長沙威王 [[蕭晃]](宣明) |
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*側室:陸修儀 |
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**七男:鄱陽王 [[蕭鏘]](宣韶)- 廃帝海陵王の代、蕭鸞により処刑。 |
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**十八男:晋熙王 [[蕭銶]](宣攸)- 廃帝海陵王の代、蕭鸞により処刑。 |
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*側室:袁修容 |
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**八男:桂陽王 [[蕭鑠]](宣朗)- 廃帝海陵王の代、蕭鸞により処刑。 |
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*側室:区貴人 |
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**十一男:衡陽王 [[蕭鈞]](宣礼)- 廃帝海陵王の代、蕭鸞により処刑。 |
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*側室:張淑妃 |
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**十二男:江夏王 [[蕭鋒]](宣穎)- 廃帝海陵王の代、蕭鸞により処刑。 |
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**十九男:河東王 [[蕭鉉]](宣胤)- 明帝の代、処刑。 |
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*側室:李美人 |
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**十五男:南平王 [[蕭鋭]](宣毅)- 廃帝海陵王の代、蕭鸞により処刑。 |
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*生母不詳の子女 |
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**九男 - 早世 |
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**十三男 - 早世 |
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**十四男 - 早世 |
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**十七男 - 早世 |
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**長女:義興憲公主 - [[沈攸之]]の子の[[沈文和]]に嫁いだ。 |
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**次女:淮南長公主 - [[王カン (梁)|王暕]]に嫁いだ。 |
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**三女:臨海長公主 - [[王彬 (南朝斉)|王彬]]([[王曇首]]の子の王僧虔の子)に嫁いだ。 |
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== 脚注 == |
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<references /> |
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{{南朝の皇帝}} |
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{{Chinese-history-stub}} |
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{{DEFAULTSORT:しよう とうせい}} |
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[[Category:南朝の皇帝]] |
[[Category:南朝斉の皇帝|とうせい]] |
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[[Category: |
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[[Category:427年生]] |
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[[Category:482年没]] |
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[[en:Emperor Gao of Southern Qi]] |
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[[ko:소도성]] |
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[[ru:Гао-ди (Южная Ци)]] |
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[[zh:蕭道成]] |
2024年10月18日 (金) 17:21時点における最新版
高帝 蕭道成 | |
---|---|
斉 | |
初代皇帝 | |
王朝 | 斉 |
在位期間 |
建元元年4月23日 - 建元4年3月8日 (479年5月29日 - 482年4月11日) |
都城 | 建康 |
姓・諱 | 蕭道成 |
字 | 紹伯 |
諡号 | 高皇帝 |
廟号 | 太祖 |
生年 | 元嘉4年(427年) |
没年 |
建元4年3月8日 (482年4月11日) |
父 | 蕭承之 |
母 | 陳道正 |
后妃 | ない |
陵墓 | 泰安陵 |
年号 | 建元 : 479年 - 482年 |
家系
[編集]蕭道成の一族である蘭陵蕭氏は、東海郡蘭陵県(現在の山東省臨沂市蘭陵県)を本貫とし、前漢の丞相である蕭何の子孫と称した。蕭道成自身は蕭何の24世の孫と称した。高祖父の蕭整の代に華北の混乱を避けて江南に渡り、晋陵郡武進県(現在の江蘇省常州市武進区)に居住するようになった。東晋によってこの地に南蘭陵郡蘭陵県が僑置された。父の蕭承之は南朝宋初に武功があったが、当時の貴族制社会においては軍人は寒門(低い家格の出身者)でしかなかった。
生涯
[編集]元嘉24年(447年)に雍州刺史の蕭思話の参軍となり、対北魏戦に戦功を挙げた。明帝より驍騎将軍・西陽県侯・南兗州刺史に任じられ、淮陰にて北魏に対抗した。淮陰では自費で兵士を集めて勢力を拡大し、一時は明帝に叛乱を疑われることもあったが、明帝が崩御する際に右衛将軍・衛尉に進んだ。
元徽2年(474年)に後廃帝の叔父の桂陽王劉休範の反乱が発生したが、これを蕭道成が鎮圧した。この武功により中領軍となり、禁軍を掌握して独裁体制を築いた。元徽5年(477年)、これに危機感を抱いた後廃帝は蕭道成を誅殺しようと計画したが、これに対して先手を打って後廃帝を殺害、順帝を擁立し、自らは侍中・司空・録尚書事・驃騎大将軍となった。
蕭道成の専横に反対する沈攸之・袁粲・劉秉らが兵を起こすが、これを鎮圧して朝政を掌握。反乱への加担が未遂に終わった黄回とも一旦は和睦したものの、後に息子の黄僧念と共にこれを殺害した。その後も478年11月には皇族の臨澧侯劉晃(劉裕の弟の劉道憐の曾孫)を反乱の疑いで処刑[1]、昇明3年(479年)3月には楊運長を暗殺[2]、また配下に反乱を勧められた臨川王劉綽(劉道憐の別の曾孫)らを処刑した[3]。同年に相国・斉王となり、順帝より禅譲を受けて南朝斉を建てた。
即位した高帝は、権力掌握の時期から建国後にかけて南朝宋の皇族を多数殺害した(禅譲した順帝も殺害されている)ために不評を買った。ただし豫州刺史の劉澄之(劉遵考の子)の一族など、 傍流であり武力にも乏しかった事から殺害を免れた者もいた[4]。内政面では戸籍の整備を行い部曲(私兵)の制限を行うなどの政策を実施し、自らは倹約に励み、南朝斉は次代の武帝の代まで治世としては小康状態を保った。しかし安定した国情を造出したとは言い難く、南朝斉は23年しか存続しなかった。
妻子
[編集]蕭整 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
南朝斉 | 蕭雋 | 蕭鎋 | 南朝梁 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蕭楽子 | 蕭副子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(追)宣帝 蕭承之 | 蕭道賜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(追)景帝 蕭道生 | (1)高帝 蕭道成 | (追)文帝 蕭順之 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(5)明帝 蕭鸞 | (2)武帝 蕭賾 | 長沙王 蕭懿 | (1)武帝 蕭衍 | 臨川王 蕭宏 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(6)東昏侯 蕭宝巻 | 斉皇帝 蕭宝寅 | (7)和帝 蕭宝融 | (追)文帝 蕭長懋 | 閔帝 蕭淵明 | (追)昭明帝 蕭統 | (2)簡文帝 蕭綱 | (3)元帝 蕭繹 | 武陵王 蕭紀 | 臨賀王 蕭正徳 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(3)鬱林王 蕭昭業 | (4)海陵王 蕭昭文 | (追)安帝 蕭歓 | (西1)宣帝 蕭詧 | 哀太子 蕭大器 | 武烈世子 蕭方等 | 愍懐太子 蕭方矩 | (4)敬帝 蕭方智 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豫章王 蕭棟 | (西2)明帝 蕭巋 | 河間王 蕭巌 | 永嘉王 蕭荘 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(隋)煬愍皇后 蕭氏 | (西3)後主/靖帝 蕭琮 | 河間王 蕭璿 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
梁皇帝 蕭銑 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 正室:劉智容(贈高昭皇后)- 即位前の正室
- 側室:羅太妃
- 五男:武陵昭王 蕭曄(宣照)
- 側室:任太妃
- 六男:安成恭王 蕭暠(宣曜)
- 側室:何太妃
- 側室:謝貴嬪
- 側室:陸修儀
- 側室:袁修容
- 八男:桂陽王 蕭鑠(宣朗)- 廃帝海陵王の代、蕭鸞により処刑。
- 側室:区貴人
- 十一男:衡陽王 蕭鈞(宣礼)- 廃帝海陵王の代、蕭鸞により処刑。
- 側室:張淑妃
- 側室:李美人
- 十五男:南平王 蕭鋭(宣毅)- 廃帝海陵王の代、蕭鸞により処刑。
- 生母不詳の子女
脚注
[編集]- ^ 『資治通鑑』巻134「十一月,癸亥,臨澧侯劉晃坐謀反,與其黨皆伏誅。晃,秉之從子也。」
- ^ 『資治通鑑』巻135「楊運長去宜城郡還家,齊公遣人殺之。」
- ^ 『資治通鑑』巻135「凌源令潘智~庚戌,誅綽兄弟及共黨與。」
- ^ 『資治通鑑』巻135「前豫州刺史劉澄之~故遵考之族獨得免。」
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