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2010年1月14日 (木) 18:45時点における版

南京攻略戦

南京中華門爆破の瞬間
戦争日中戦争
年月日1937年12月4日 - 12月13日
場所中華民国南京市
結果:日本軍の勝利
交戦勢力
中支那方面軍 南京防衛軍
第23集団軍
ソ連空軍[1]
指導者・指揮官
松井石根大将 唐生智
戦力
約120,000名 約 90,000名
損害
戦死800
戦傷4,000[2]
遺棄死体84,000
捕虜10,500[2]
昭和12年12月上旬 南京近郊戦闘経過要図[3]

南京攻略戦(なんきんこうりゃくせん)は、日中戦争支那事変)における戦闘の1つ。日本軍は、中華民国の首都南京陥落させた。中国側の呼称は南京保衛戰南京保卫战である。

背景

第二次上海事変で日中の全面衝突が始まった後、日本軍上海付近の敵を掃討して中国側の戦意を喪失させ戦争を終結させる目的で11月7日中支那方面軍を編成。上海西部の蘇州から嘉興を結ぶ線までを作戦制限区域とする。

11月16日国民政府重慶への遷都を宣言。中支那方面軍は独断で作戦制限区域を越え、さらに南京攻略の必要性を上申。11月24日大本営は中支那方面軍の作戦制限区域を解除し、12月1日には南京攻略を命令する。

経過

1937年(昭和12年)

11月7日
臨参命第百三十八号「中支那方面軍」(第10軍上海派遣軍を隷下に置く)編合(戦闘序列ではない)の下令[4] が出され、作戦地域は蘇州から嘉興を結ぶ線の東側に限定される。
11月9日
上海戦線の中国軍は退却開始。
11月16日
中国国民政府は重慶への遷都を宣言。
11月19日
中支那方面軍は独断で作戦地域を越え、無錫湖州の攻撃準備。
11月20日
皇居内に大本営設置。
11月22日
中支那方面軍は南京攻略の必要性を上申。
11月24日
第1回大本営御前会議で中支那方面軍の作戦地域の制限が解除される。
11月24日
唐生智が南京の防衛司令長官に任命される。
12月1日
大本営は大陸命第七号を発令し中支那方面軍戦闘序列を編成、大陸命第八号「中支那方面軍司令官ハ海軍ト協同シテ敵国首都南京ヲ攻略スヘシ」を発令し南京攻略を命令[5]南京安全区国際委員会、事務所開設。
12月4日
日本軍、南京市郊外まで進軍。
12月7日
日本軍、南京防衛軍の外郭防御陣を突破。午後一時に南京市へ攻撃を開始。中国軍は防衛司令長官唐生智を残して総統蒋介石ら中国軍首脳陣が南京を脱出。続いて中国政府要人や地方公務員等が南京を脱出した為、無政府状態となり市民は混乱状態に陥る。これにより電話不通、電気水道が停止。中支那方面軍は、「南京城攻略要領」を示達。[6]
12月9日
南京城を包囲した日本軍は9日の正午、飛行機で南京城内にビラ(和平開城勧告文)を撒き、中国軍に対し降伏勧告を行なう。
昭和12年12月17日、日本軍による南京城への入城式[7]
入城式当日、菓子・煙草の配給を受け、喜んで日本軍万歳を叫ぶ南京の避難民[8]
12月10日
和平開城勧告文の回答期限の午後一時、中国軍からの反応なく、日本軍は総攻撃を開始。
12月11日
日本国内では早くも南京陥落の祝賀行事を盛大に挙行。
12月12日
午後八時、唐生智は全軍に「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」という命令を出し無秩序な状況で南京城を脱出。明確な撤退命令を出さなかった為、その後も散発的に戦闘が続けられる。
12月13日
南京城陥落。日本軍が南京城内へ入城。[9](写真)
12月14日
南京城内の敗残兵掃蕩が開始され、16日まで行われる[10][11]
12月17日
日本の陸海軍による入城式が挙行される。(写真) 中支那方面軍司令部が南京に移動。
12月18日
日本の陸海軍合同慰霊祭が故宮飛行場で挙行される[7](写真)
12月21日
各兵団は城内から退出。[12]
12月22日
第16師団歩兵第30旅団が警備を担当。[12]
12月23日
陶錫山委員長の下、南京自治委員会が設立され、治安はかなり回復する。[13][14](写真)
12月24日
第16師団憲兵隊と南京安全区国際委員会が合同し南京難民区の兵民分離査問工作が開始され1月5日に終了。[15]
12月28日
当日における各兵団の配置は、以下のとおり。[16]
部隊 配置
中支那方面軍司令部 南京
上海派遣軍司令部 南京
上海派遣軍直轄の軍高射砲隊 南京
上海派遣軍通信隊 南京
上海派遣軍砲兵隊 鎮江及び常州
第十六師団司令部、歩兵第三十旅団主力、直轄部隊 南京
第十六師団その他の諸隊 湯水鎮、句容、抹陵関、その他交通上の要点
第三師団司令部、歩兵第五旅団主力、直轄部隊 鎮江
第三師団その他の部隊 無錫、江陰、常州、丹陽、金壇等
第九師団司令部、歩兵第六旅団主力、直轄部隊 蘇州
第九師団その他の諸隊 紺崑山、常熟、福山、太倉、劉河鎖、嘉定、南翔
中支那方面軍直轄 呉淞、北部上海地区
揚子江左岸地区
第十三師団司令部、歩兵第百三旅団主力、直轄部隊 滁県
第十三師団その他の諸隊 来安、全校、六合
天谷支隊、司令部、歩兵第十旅団主力 揚州、
天谷支隊その他の諸隊 儀徴、仙女廟、邵伯鎮
12月31日
南京城内の電気、水道が復旧[17]

1938年(昭和13年)

1月1日
南京自治委員会の発会式(写真) 南京のソビエト大使館が全焼、この事件は1月5日に逮捕した中国人の取調べにより敗残兵によるものと判明[2]
1月11日
大本営における政府首脳による御前会議は支那事変(日中戦争)処理根本方針を決定。国民政府が和平を求めてこない場合は、以後これを対手にせずとし、新政権の成立を援助等。
1月15日
大本営政府連絡会議の中で、参謀本部は政府の和平交渉打切り案に激しく反対。しかし、米内海相などからの戦時中に内閣退陣を起すことを避けるべしとの意見におれ、中国との和平交渉打切り決定[18]
1月16日
警備を第16師団歩兵第30旅団から天谷支隊(第11師団歩兵第10旅団)に交代[19]
1月26日
南京市内で日本兵による米国大使館のアリソン三等書記官殴打事件が起こる。
2月14日
大本営は中支那方面軍、上海派遣軍、第10軍の戦闘序列を解き、中支那派遣軍の戦闘序列を下命。
3月28日
中華民国維新政府が中支那派遣軍の指導で南京に成立。

南京自治委員会の発会式

南京自治委員会発会式における陶錫三会長の宣言朗読[20]

1938年1月1日、南京自治委員会の発会式が挙行された。南京難民区に避難していた市民も日の丸と五色旗を振って祝い、式場には3万人の参加者がつめかけた。新政権の出現を祝い、国民政府の悪政を非難する主意書および同政府と絶縁して目指す政治を示す以下の宣言が発表された[2]

  • 一、国民党の一党専政を廃止し民衆を基礎とする政治を実行す
  • 二、各種親日団体と合作し日支提携の実を挙げもつて東洋平和の確立を期す
  • 三、防共政策を実行し抗日、排日思想を絶対に排除し欧米依存の観念を矯正す
  • 四、産業を振興し民衆の福祉を増進す
  • 五、広く人材を登用し民衆自治の徹底を期す

その後

南京陥落後に日本軍は多数の民間人や捕虜を不法に殺害したといわれる(南京大虐殺)。第二次世界大戦終結後の東京裁判では、「捕虜及び一般人に対する国際法違反」により松井石根陸軍大将らが処刑された。

また、この戦いの後、日本軍は徐州武漢を含むいくつかの都市も占領し(徐州会戦武漢作戦)、一方、中国側は1938年の黄河決壊事件によって三つの省を覆う洪水を引き起こし、日本軍の侵攻を止めようとした。

参加兵力

日本軍

中国軍

南京防衛司令長官部
司令長官:唐生智、副指令長官:羅卓英・劉興、参謀長:周ラン、副参謀長:余念慈
  • 第2軍団(徐源泉)
    • 第41師(丁治磐)
      • 第121旅(張習崇)
      • 第123旅(芮勤学)
    • 第48師(徐継武)
      • 第142旅
      • 第144旅(郭浚)
  • 第66軍団(葉肇)
    • 第159師(譚邃)
      • 第475旅(林偉濤)
      • 第477旅(司徒非)
    • 第160師(兼・葉肇)
      • 第478旅(喩英奇)
      • 第480旅
  • 第71軍(王敬久)
    • 第87師(沈発藻)
      • 第259旅(易安華)
      • 第260旅(劉啓雄)
      • 第261旅(陳頤鼎)
  • 第72軍(孫元良)
    • 第88師(兼・孫元良)
      • 第262旅(朱赤)
      • 第264旅(高到嵩)
  • 第74軍団(兪済時)
  • 第78軍団(宋希濂)
  • 第83軍団(鄧龍光)
  • 江防軍(劉興)
  • 教導総隊(桂永清)
  • 憲兵司令部(蕭山令)
  • 陸軍装甲兵団(杜聿明
  • 砲兵第42団(繆範)
第23集団軍
総司令:劉湘、副総司令:唐式遵
  • 第21軍(唐式遵)
  • 第23軍(藩文華)

映像記録

脚注

  1. ^ J-aircraft.com Soviet Fighters in the Sky of China(1937-1940)
  2. ^ a b c d 「支那事変画報 大阪毎日・東京日日特派員撮影 第16集」、毎日新聞、昭和13年1月21日発行
  3. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P420より作成
  4. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P397
  5. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P422
  6. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P427
  7. ^ a b 「支那事変写真全集 <中>」、朝日新聞、昭和13年発行
  8. ^ 「支那事変画報 大阪毎日・東京日日特派員撮影 第15集」、毎日新聞、昭和13年1月11日発行
  9. ^ 南京大虐殺はウソだ! 「パラマウント・ニュース映画」「入城する日本軍に拍手(1)」「同(2)」
  10. ^ 『東京朝日新聞』1937年12月15日付朝刊、二面
  11. ^ 12月14日から16日にかけて難民区の敗残兵掃蕩が行われていたことが参加した兵士から報告され、(1)外国権益への留意(2)住民に対する配慮 (3)失火放火に厳重注意とされ、犯せば厳罰と通達された(4)将校の指揮する掃蕩隊でなければ認められず、下士官の指揮では認めない(5)無用の部隊の侵入は認めない(富山と金沢部隊が実行している)(6)掃蕩を終えて帰還する時刻を定めた(7)捕虜は一箇所に集め、その食料は師団に請求することが命令として言い渡されていた。さらに通訳役をつけて問題を起さないように注意もあった(喜多留冶 他『参戦勇士九人が語る「南京事件」の真実』 ISBN 978-4-89831-294-0)。
  12. ^ a b 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P429
  13. ^ 英国紙THE TIMES(タイムズ), Dec. 24 1937, Nanking's New Rulers/Autonomous Commission Set Up
  14. ^ “ブリタニカ国際年鑑 1938年版(Encyclopaedia Britannica Book of The Year 1938)”
  15. ^ ジョン・ラーベ『南京の真実』講談社、1997年、P135 12月22日
  16. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P432
  17. ^ パラマウント社カメラマンのアーサー・メリケンとニューヨーク・タイムズのテールマン・ダーリングによると南京市内の水道は12月9日、電気は12月10日に利用できなくなった。『東京朝日新聞』1937年12月16日付朝刊、十一面
  18. ^ 『南京戦史資料集』偕行社、1989年
  19. ^ 戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P432
  20. ^ 『アサヒグラフ』(朝日新聞、昭和13年1月26日発行)
  21. ^ 当時、パラマウント・ニュース日本語版の仕事をしていた清水俊二は、米国から送られてくるニュース映画の中で「南京虐殺の処刑・銃殺のシーンも見た覚えがある。使いたくても検閲をパスするはずがないので使えなかったシーンがいくつもあった」と回想している(清水俊二『映画字幕五十年』早川書房、1985年)。
  22. ^ 『参戦勇士九人が語る「南京事件」の真実』

南京攻略戦を描いた作品

映画

関連項目

外交関連
トラウトマン工作 - パナイ号事件 - アリソン殴打事件
治安・住民対策
堅壁清野 - 宣撫工作 - 便衣兵 - 南京安全区国際委員会 - 世界紅卍字会
南京大虐殺関連
百人斬り競争 - 極東国際軍事裁判 - 南京大虐殺論争 - 南京大虐殺紀念館