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== 資質を問われた発言集 == |
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*1988年4月3日、[[自民党]][[全国組織委員長]]時代、「大阪人は金儲けばかりに走り、公共心も選挙への関心もなくした。言葉は悪いが、たんつぼだ」と発言。森喜朗暴言人生のスタートである。 |
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*IT革命(アイティーかくめい)のことをイット革命と述べたり、開発途上国会議で「電気がなくともiモードは使える」といった迷言を残す(ケータイはトランシーバーではない)。 |
*IT革命(アイティーかくめい)のことをイット革命と述べたり、開発途上国会議で「電気がなくともiモードは使える」といった迷言を残す(ケータイはトランシーバーではない)。 |
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2005年9月13日 (火) 12:38時点における版
生年月日 | 1937年7月14日 |
出身地 | 石川県能美郡根上町(現能美市)生まれ (中学、高校は金沢市) |
最終学歴 | 早稲田大学第二商学部 |
学位 | 商学士(早稲田大学) |
前職 | サンケイ新聞東京本社社員 (衆)今松治郎秘書 |
役職 | 総理府総務副長官(三木内閣) 内閣官房副長官(福田改造内閣) 文部大臣(第2次中曽根内閣) 通商産業大臣(宮澤改造内閣) 建設大臣(村山改造内閣) 元・内閣総理大臣 |
当選回数 | 13回 |
世襲の有無 | 世襲ではない(父茂喜は根上町長) |
選挙区 | 石川2区 |
所属党派 | 自由民主党(森派) |
党の役職 | − |
会館号室 | 衆・第二議員会館309号室 |
ウェブサイト | http://www.mori-yoshiro.com/ |
森 喜朗(もり よしろう、1937年7月14日 - )は、日本の政治家、衆議院議員、第85、86代内閣総理大臣。清和政策研究会会長。血液型はO型。学位は商学士(早稲田大学)。 身長175cm、体重103kg。森喜郎は誤りである。
早稲田大学在学中から政治家を志し、雄弁会に入る。今松治郎秘書を務めた後、1969年に衆議院選挙に初出馬で初当選。今松の属していた福田派に入会する。福田内閣では内閣官房副長官に就任し福田を補佐、1983年第2次中曽根内閣では文部大臣として初入閣し、以後自民党文教族の実力者として実力を付ける。しかし1988年のリクルート事件で2度目の入閣間近という時に一時謹慎を余儀なくされる。
福田派を継いだ安倍派では三塚博、塩川正十郎、加藤六月と並んで安倍派四天王の一人に称され、次代のリーダーへの地歩を固める。安倍死去後の三六戦争(三塚と加藤の後継者争い)ではいち早く三塚を支持。それからは党政調会長、通商産業大臣、党幹事長、建設大臣、党総務会長と重要役職を次々と歴任。1998年には三塚に派閥の継承を求め、森派を結成し名実共に総理総裁候補として歩みだす。
2000年(平成12年)、急逝した小渕恵三の後を継ぐ形で内閣総理大臣に就任した。このときの連立与党は自民党、公明党、保守党であり、メディア等では「自公保」と略称した。
森の首相就任は、当時の自民党の有力議員五人組(森喜朗本人、青木幹雄、村上正邦、野中広務、亀井静香)が密室で談合して決めたのではないかと疑惑を持たれている。「森さんでいいじゃないか」の発言があったと報道された。また、いわゆる「神の国発言」や、ゴルフ中にえひめ丸沈没事故の一報が入った際にもプレーを中断しなかったと言われる初動体制のまずさなどで、国民の強い批判を浴びた。 (実際の森元総理のえひめ丸事件の対応は、ゴルフを中断してラウンジで待機していたが マスコミで ゴルフのプレー中の写真を使われた為に、中断しなかったと誤解され批判のネタにされた) 迷言・失言の数々はしばしばマスコミを賑わせ、一部マスコミの悪意を持った報道も重なり、首相としての資質に欠けると国民に印象づけた。任期の終わりごろには、任期中を通じて低かった支持率が5.7%となり、マスコミなどではこうした低い支持率などを揶揄して森政権の事を「蜃気楼内閣」(森喜朗の音読み、シンキロウにかけた洒落)と呼ぶ事もあった。
その一方でアフリカ諸国や南アジア諸国に対し積極的な外交交渉を行い、国際連合内での発言力向上に貢献した。また、IT革命を謳いインターネット博覧会(インパク)の開催などの振興策を推進した。
2000年11月21日には、衆議院本会議において加藤紘一元幹事長(その後秘書給与の問題発覚で加藤氏は議員辞職するが、2003年11月の衆議院総選挙で復活当選)・山崎拓元副総裁(現・首相補佐官、2003年11月の総選挙で自らの女性スキャンダルが原因で落選)が党の方針に反して本会議を欠席する、いわゆる「加藤の乱」(加藤政変・加藤・山崎クーデター・YK革命とも言う)が起こった。
遠い親戚に政治家の柿沢弘治と日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹がいる。父茂喜は、元根上町町長で、全国最多となる9選をすべて無投票当選した。
資質を問われた発言集
- 1988年4月3日、自民党全国組織委員長時代、「大阪人は金儲けばかりに走り、公共心も選挙への関心もなくした。言葉は悪いが、たんつぼだ」と発言。森喜朗暴言人生のスタートである。
- IT革命(アイティーかくめい)のことをイット革命と述べたり、開発途上国会議で「電気がなくともiモードは使える」といった迷言を残す(ケータイはトランシーバーではない)。
- ---クリントン大統領と交わしたと広められたジョーク---
- 森:(クリントン大統領に対し)Who are you?(本当はHow are you?と言う予定だった)
- クリントン:(冗談かと思い英語で)私はヒラリーの夫です。あなたは?(本来はFine Thank you and you?)
- 森:Me too.(私もです)
- クリントン:・・・(汗
- ※三遊亭歌之助が高座のネタとして使っているが、この会話を事実だとして誤認されることがままある。
- 2000年5月2日、イタリアを訪れた際に当時ペルージャで活躍していたサッカーの中田英寿らを招いて会食。「日本代表は、アウェーで韓国に勝ったことがないんだよ」と発言したが、すぐに中田から「え?ありますよ!」と強く訂正される。中田は森と2人での写真撮影を固く断ったという。
- 2000年5月15日、神道政治連盟国会議員懇談会結成三十周年記念祝賀会でスピーチし、「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をしていただく」と発言(いわゆる神の国発言)し、大きな波紋を呼ぶ。
- 2000年6月20日、衆議院選挙の選挙演説で「無党派層は寝ていてくれればいい」と発言(正式には、「まだ(投票態度を)決めていない人が40%ぐらいいる。最後の2日間にどういう投票行動をするか。そのまま、その人たちが関心がないと言って寝ていてくれればいいが、そうもいかないでしょうね。」というジョークまじりの皮肉) 。
- 2000年10月26日、ラグビーのオーストラリア代表チーム、ワラビーズの歓迎レセプションで、「日本代表は未来永劫ワールドカップを抱くことはできない」と発言。2日後同チームの試合を秩父宮ラグビー場で観戦したが、観客からは一斉にブーイングが起こった。
首相退陣後の評価
- 小泉純一郎の後見人という立場で存在感を見せようとする政治姿勢に対し、批判も挙がっている。
- 2005年8月3日、森は、「郵政民営化法案が参議院で否決されれば衆議院を解散する」との小泉首相の発言に対抗し、「解散するなら派閥会長を辞める」と発言した。しかし、内閣総理大臣公邸での直談判による解散回避の説得が不発に終わり、8月8日に郵政民営化法案が参議院で否決されて衆議院の解散が決定すると、その直後に派閥会長辞任発言をあっさりと撤回した。小泉内閣を支持する立場の浜田幸一からは、「派閥会長にもっともふさわしくない人間がまたも会長に就いてしまった」と酷評された。この直談判の際ミモレットと缶ビールしか出されなかったことに嘆息し、ミモレットを「ひからびたチーズ」、小泉首相のことを「変人以上」と評した。森は後に、造反組への牽制のために一芝居打ったと後付けしたが、造反組は結局造反したので牽制にもなっていない。
- 2004年10月から、自民党新憲法起草委員会の委員長を務めている。
その他
- 日本コスタリカ友好議員連盟の重鎮である。衆議院に小選挙区比例代表並立制が導入された際、同一中選挙区に同一政党の候補者が複数いる場合、候補者を小選挙区と比例代表から交互に立候補させる方式を考案し、コスタリカ方式と命名する(※ただし、コスタリカにはこのような選挙制度は存在しない。実際にあるのは再選を禁止する規程)。
略歴
- 1937年(昭和12年) 石川県能美郡根上町(現能美市)に生まれる
- 1953年(昭和28年) 金沢市立高岡町中学校卒業 - 越境通学
- 1956年(昭和31年) 石川県立金沢二水高等学校卒業
- 1959年(昭和34年) 自由民主党入党
- 1960年(昭和35年) 早稲田大学第二商学部卒業
- 1960年(昭和35年) サンケイ新聞社入社、日本工業新聞記者となる
- 1968年(昭和43年) サンケイ新聞社退社、今松治郎衆議院議員の秘書になる
- 1969年(昭和44年) 衆議院選挙に無所属で出馬、初当選
- 1973年(昭和48年) 青嵐会加盟
- 1975年(昭和50年) 総理府総務副長官(政務)就任
- 1977年(昭和52年) 内閣官房副長官(政務)就任
- 1983年(昭和58年) 文部大臣就任
- 1991年(平成3年) 自由民主党政務調査会長就任
- 1992年(平成4年) 通商産業大臣就任
- 1993年(平成5年) 自由民主党幹事長就任
- 1995年(平成7年) 建設大臣就任
- 1996年(平成8年) 自由民主党総務会長就任
- 1998年(平成10年) 清和政策研究会会長就任
- 2000年(平成12年) 自由民主党総裁・内閣総理大臣就任
- 2001年(平成13年) 内閣総理大臣辞任
- 2004年(平成16年) 自民党新憲法起草委員会委員長就任
- 2005年(平成17年) 日本体育協会会長就任
- 2005年(平成17年) 日本ラグビーフットボール協会会長就任
関連事項
外部リンク
- Yoshiro Mori WebSite公式サイト
- 森喜朗~小川芳樹~柿沢弘治の系図 - 小川芳樹は湯川秀樹の兄で冶金学者。
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