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ほとんどのアナリストは[[ジミー・カーター|カーター大統領]]の人質危機解決に対する無力さが彼の敗北およびレーガンの勝利に大きな役割を果たしたと考えた。なお、1980年の大統領選挙勝利まで日本では誤って'''リーガン'''と呼ばれていた。 |
ほとんどのアナリストは[[ジミー・カーター|カーター大統領]]の人質危機解決に対する無力さが彼の敗北およびレーガンの勝利に大きな役割を果たしたと考えた。なお、1980年の大統領選挙勝利まで日本では誤って'''リーガン'''と呼ばれていた。 |
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また、彼の保守主義者としての顔は、カリフォルニア州知事時代に行った政策にも如実に現れている。例えば、州議会を「バイクに乗る際、ヘルメットの着用を義務付ける」という法案が通過した際、レーガンは州知事権限でこれを取り消した。その理由は「バイクに乗る者は、バイクに乗るという行為がどれだけ危険かわかって乗っているはずだ。ならば、ヘルメットの着用などということは個人に任せるべきであって、それに州政府が関与する必要はない」というものだった。 |
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==大統領職== |
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2005年9月11日 (日) 06:58時点における版
代: | 第40代大統領 |
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任期: | 1981年1月20日 - 1989年1月20日 |
前大統領: | ジミー・カーター |
次大統領: | ジョージ・H・W・ブッシュ |
生年: | 1911年2月6日, |
生地: | イリノイ州タンピコ |
没年: | 2004年6月5日, |
没地: | カリフォルニア州ベルエア |
ファーストレディ: | ナンシー・レーガン |
本職: | 映画俳優 |
政党: | 共和党 |
副大統領: | ジョージ・H・W・ブッシュ |
ロナルド・ウィルソン・レーガン(Ronald Wilson Reagan, 1911年2月6日 - 2004年6月5日)は、第40代アメリカ合衆国大統領。彼は最年長で選出された大統領(69歳349日)および大統領に選ばれた最初の(そして現在唯一の)離婚経験者。ベルリンの壁およびソ連の崩壊に関し大きな役割を演じた。
経歴
生い立ち
イリノイ州タンピコで、ジョン(ジャック)・レーガンとネル・ウィルソンの間の2人の息子の2番目として生まれた。レーガン家はアイルランド系の家系である。数年間にわたり町から町へ引っ越した後、1920年に一家はイリノイ州ディクソンに定住した。11歳のときにレーガンはディクソンの使徒教会で洗礼を受けている。
1924年にディクソンのノースサイド高校に入学した。1927年、16歳の時からロックリバーの近く、ディクソンから2マイルのローウェル公園で水泳場救助員として働いた。彼は水泳場救助員として7年間働いている間、77人を溺死から救ったことが報告される。 後年レーガンは、「(救助した)彼らのうち9人は私に有難うを言わなかった。」とジョークを話したという。
イリノイ州のユーレカ大学に1928年に入学し、経済学と社会学を専攻し、1932年に卒業した。
俳優歴
幼い頃より話術と演技に才能があり、それをさらに発展させシカゴ・カブスのラジオアナウンサーになった。ティッカー(ニュースなどを紙テープに印字する自動受信機)の紙テープからわかる試合の輪郭だけをもとに、自らの想像と話し方の才能をつかって実況放送を行った。1934年のセントルイス・カーディナルス戦において、カブスの9回の攻撃時に放送回線が故障したが、機器が回復するまで架空の実況放送を即興で滑らかに行った。
レーガンはハリウッドで二線級主役男優として成功した経歴を持っている。彼の映画初出演は1937年の映画"Love is On the Air"であった。1939年末までに、彼は19本の映画に出演した。1940年には、映画"Knute Rockne All American"でジョージ「Gipper」ギップの役を演じ、そこから彼はギッパーという愛称を得た。自身最良の作品は"Kings Row"(1942年)であるとしている。他には、"Hellcats of the Navy"、"This Is the Army"、"Bedtime for Bonzo"などに出演している。ハリウッド大通り6374番のハリウッド・ウォーク・オヴ・フェームには、彼の名前が刻まれた星形の敷石がある。
1935年に、アメリカ合衆国陸軍の予備役将校になった。真珠湾攻撃の後に招集され、陸軍航空隊の中の第一映画部隊に配属され、訓練用・教育用の映画の制作に携わった。彼は終戦までハリウッドに残り、大尉まで昇進した。1950年代の終わり頃には映画に出ることは少なくなり、"General Electric Theater"の司会などテレビへと活動の場を移していった。"Death Valley Days"の司会が、彼の俳優としての最後の仕事であった。
結婚と離婚
1940年に女優、ジェーン・ワイマンと結婚した。彼らにはモーリーン(1941年生まれ)、マイケル(1946年養子に迎えた)の一男一女がいる。また、1947年に予定日より4か月早く生まれた娘がいたが、わずか1日で亡くなっている。彼らは1948年に離婚したが、1952年に女優ナンシー・デイビスと再婚した。
政治経歴
保守主義者
ロナルド・レーガンはフランクリン・デラノ・ルーズヴェルトおよび彼のニューディール政策を支持して、自由民主主義者として政治活動を始めた。彼は徐々に信頼できる社会的なそして財政上の保守主義者になった。彼は、映画俳優組合(SAG)の組合長としての間に上院議員ジョセフ・マッカーシーと提携し、下院反米活動委員会と「ハリウッドで共産主義の影響を暴く」ように協力して、政治家としての経歴ヘ導く道に乗り出した。彼は多くの反共主義者と異なりアメリカ共産党の正式な禁止に強く反対したが、共産主義の同僚のうちの数人を引き渡した。ゼネラル・エレクトリック社による雇用は反共産主義のスピーチをラジオ放送上で行い、さらに1950年代のアメリカの反共・反ソ気運の中で彼の政治的なイメージを増強した。1964年の大統領選挙では、レーガンは保守的な共和党員バリー・ゴールドウォーターの率直な支持者だった。
カリフォルニア州知事
1966年には、カリフォルニア州の第33代知事に選ばれた。レーガンは1968年および1976年に共和党大統領候補の指名を獲得しようとしたが、共和党大会で敗北した。彼は1980年に共和党指名を獲得することに成功した。選挙活動はイラン大使館人質事件への対応で特徴づけられた。海外のマスコミは、選挙後まで人質を拘束させ続けるためにレーガン陣営が秘密の取り引きを結んだと非難した。
ほとんどのアナリストはカーター大統領の人質危機解決に対する無力さが彼の敗北およびレーガンの勝利に大きな役割を果たしたと考えた。なお、1980年の大統領選挙勝利まで日本では誤ってリーガンと呼ばれていた。
また、彼の保守主義者としての顔は、カリフォルニア州知事時代に行った政策にも如実に現れている。例えば、州議会を「バイクに乗る際、ヘルメットの着用を義務付ける」という法案が通過した際、レーガンは州知事権限でこれを取り消した。その理由は「バイクに乗る者は、バイクに乗るという行為がどれだけ危険かわかって乗っているはずだ。ならば、ヘルメットの着用などということは個人に任せるべきであって、それに州政府が関与する必要はない」というものだった。
大統領職
レーガンは1980年の大統領選挙で当選し、1984年の大統領選挙では対立候補に圧勝し再選され2期目を務め、1989年まで大統領職を務めた。
暗殺未遂事件
大統領職に就任して69日後の1981年3月30日、ワシントンD.C.のヒルトン・ホテルを退出しようとした際に、ジョン・ヒンクリーによって銃撃された。その時に、レーガン、報道担当官ジェームズ・ブラディー(ブレイディ)、シークレット・サービスとコロンビア特別区の警官が撃たれた。レーガンの胸から弾丸を取り除く手術の前に、彼は外科医に言った「あなたが共和党員であることを望む。」ちなみにそれに対する主治医の返答は「ご安心を大統領閣下。私は今日一日は共和党員です。」また、妻ナンシーには冗談を言った。「ハニー、私は水にもぐることを忘れてたよ。」これは1926年のボクシング・ヘビー級選手権でジャック・デンプシーの敗戦のコメントを引用していた。デンプシーがジーン・タニーに負けた後、妻エステレ・テーラーは彼に尋ねた「何が起こったの。」返答は「ハニー、私は水にもぐることを忘れてたよ。」レーガンのこのような機知はしばしば称賛された。
この銃撃事件はレーガンの支持率に大きな影響を与え、それ以前は知識層などから否定的に思われていたが、撃たれても尚死なない大統領ということで(さらにユーモアも忘れないと言うことで)支持率が大きく上がった。後の一連の政策を行えたのはこの事件を失くして無理だとも言われている。
この事件を受けて制定されたのが、民間人の銃器購入に際し、購入者の適性を確認する「ブレイディ法」(重症を負った報道官に由来)である(2005年にNRAなどの抵抗により効力延長手続きがされず失効)。
レーガノミックス
レーガン大統領の一期目は前政権から受け継いだスタグフレーションを示している経済の回復、あるいはインフレおよび失業の両方に注目した。レーガンの経済政策は経済を刺激するために大きく全面的な減税を備えた供給重視経済学に基づいた。多くの経済学者は、減税が経済を刺激することに合意する。しかし供給重視経済理論支持者は、彼らが言うよりはるかに大きな効果があると主張した。ジョージ・H・W・ブッシュは副大統領就任前にレーガンの経済政策を「呪術経済政策」と呼んだ。レーガンの政策はレーガノミックスとしてすぐに知られるようになった。激しい軍事支出の増加と結合した減税は、巨大な赤字財政支出および国債の劇的な増加に結びついた。その負債はレーガンの就任時と、彼の後継者ジョージ・H・W・ブッシュが就任した時の間におよそ200%分増加した。レーガンの支持者は、大統領は年間予算案を提出するが実際の支出法案を下院が承認することに注目する。したがって、レーガンの政策は負債増加の排他的な原因ではないと主張する。
一方でこの支出は増税収入によってわずかに相殺された。支持者の中には供給重視経済学の租税政策の成功がこの要因であると考える者が居る。
批評家は、より小さく出しゃばらない政府を目指すという彼の頻繁な宣言とは裏腹に、連邦支出の水準および官僚政治の肥大化が彼の政権の間に拡大したと主張している。
ソ連との冷戦
多くの成功したアメリカの政治家の例に漏れず、レーガンは舞台映えのする容姿と、公衆からポジティブな反応を引き起こす本能を備えていた。その静かな話し声と力強い言葉から彼は「偉大なる伝達者」とあだ名された。1983年3月8日、彼はソ連のことを『悪の帝国』と呼び、また、冷戦末期の1987年には、ベルリンの壁の前でソ連大統領で当時の東側諸国のリーダーでもあったミハイル・ゴルバチョフに対し、『この壁を崩壊させよ』と攻撃した。歴史家たちはこれらの彼の言動は、彼自身のアメリカへの強い愛着と個人の権利への強い信奉に基づいているものだとしている。
レーガンの支持者の多くは冷戦の勝利は彼の功績であるとする一方、他のものは、ソ連の経済恐慌の増大、経済・政治改革の失敗および1989年の東ヨーロッパ、ソ連の共産主義体制の崩壊はソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフによって始められたと考えている。レーガンの政策は、アメリカの軍事力による強力な支援と「力による平和」主義を含んでいた。論争の的になっている彼の提案のうちの1つは戦略防衛構想(SDI)(ソ連による核ミサイル攻撃からアメリカを防御するミサイル防衛システム)だった。SDIは空想的あるいはその非実用性を揶揄して、「スターウォーズ」と呼ばれた。
SDIの批判者達は、技術的な目標は達成されないだろうし、この試みは軍拡競争を増長し、国家間関係を不安定化させることにつながるだろうと懸念した。他の批判者は、いくつもの別々のSDIプログラムに関わる巨額な予算は軍産関係における無駄な出費であるとみなした。支持者たちは SDIのことをソ連との軍拡競争に終止符を打つ棺桶の釘と呼んだ。彼等はSDIはソ連が彼等の核ミサイルは時代遅れであり、さらなる核抑止力を維持するための新しい技術を開発するのが負担になることを思い知らせることになるとみなした。
レーガンは多くの世界中の保守派の政治的指導者達と親密な友好関係を持っていた。特にイギリスのマーガレット・サッチャーとカナダのブライアン・マルルーニー、日本の中曽根康弘に代表される。中曽根康弘とはロン、ヤスとお互い呼び合った。彼は他の国の首脳と個人的な関係を結ぶことを強く望み、しばしば彼等を自らの牧場やキャンプ・デービッドに招待して余暇を楽しんだ。
後にレーガンドクトリンとして知られることになる政策の一部として、米国は徐々にラテンアメリカの共産主義者の影響に強硬な姿勢をとりはじめ、それはしばしば問題にされることになる人権を軽視した反共の独裁国家への支援も含んでいた。このことからレーガンは秘密裏に不法なゲリラ戦争を画策していると非難するものもいた。1983年にレーガンは小さな島国グレナダで共産主義の暴動が起きた後、公式に軍隊の侵攻を命令した。その任期の終盤には、自由選挙を実施している国に経済援助を与えるなど、ラテンアメリカの民主主義への移行を支援しはじめた。
イラン・コントラ事件
彼の任期中に、イラン・コントラ事件として知られるイランとニカラグアに対する秘密軍事支援のスキャンダルおよび調査があった。国家安全保障問題担当補佐官ジョン・ポインデクスターおよびオリバー・ノース大佐が、イラン政府に武器を売却し、その代金をニカラグアで内戦を戦っていた反共産主義のコントラ・ゲリラに対する支援に流用する精巧な陰謀を企てた。この二つの行為は法律に反した。レーガンは計画を知らなかったことを公言したが、武器の売却が、レバノンでイランが支持するテロリスト・グループ、ヒズボラによって人質にとられているアメリカ人の釈放を安全に行うことを支援することになっていたという理由で、イランへの武器の売却を支援したと認めた。
大統領が武器販売を関知せず、自らのスタッフに対するコントロールが不十分だった点でのみスキャンダルに対して罪があったとされた。下院議員のパトリシア・シュローダーは、このスキャンダルでレーガンの評判が傷つかなったことを揶揄し、レーガンのことを傷のつきにくい鍋に例えて「テフロン大統領」と呼んだ。
麻薬との戦い
レーガンの「麻薬との戦い」政策は、中毒治療のための予算を減らす一方で麻薬犯罪者の投獄を推し進めた。これは、アメリカの刑務所人口の劇的な増加をもたらした。評論家はこの政策が実際には米社会にとって大きな財政負担と人的コストを増やす一方で、麻薬の流通あるいは路上犯罪をへらすことにほとんど役立たないと非難した。大統領在職中のこの政策および社会計画のための様々な予算のカットにより、レーガンは貧しいマイノリティの要求に無関心なものと、一部批評家によって見なされた。しかしながら、いくつかの調査によると、レーガン在職中にアメリカ人の不法な麻薬使用は明かに減少したとしており、支持者たちはこの政策は成功だったとしている。
その他
1981年8月5日に、レーガンは、職場復帰命令を無視した11,359人の航空管制官を解雇した。皮肉にもPATCO(航空管制官組合)は9ヶ月前に選挙でレーガンを支持した少数の組合のうちの1つだった。
1982年より、レバノン内戦に対して、平和維持軍としてアメリカ海兵隊をレバノンに派遣した。海兵隊は、何度か攻撃を受け、1983年10月23日には、兵舎がイスラム民兵による自爆トラック攻撃を受け、241人の海兵隊員を死亡した。そのため、三ヶ月後にレーガンはレバノンから海兵隊を撤退させた。この間の1983年10月25日から27日にかけては、米軍は、共産主義政権となっていたカリブ海の小国グレナダに侵攻している。
レーガンは1983年11月9日(~12日)と1986年5月4日(~6日)、1989年5月2日(~7日)の三度訪日している。一度目の来日では当時の首相中曽根康弘、昭和天皇と会談した。東京都西多摩郡日の出町の中曽根の私邸「日の出山荘」で会談を行い、お互いを「ロン」「ヤス」と呼び合った。
1985年7月13日に、レーガンは大腸から癌のポリープを取り除くために手術を受けた。1987年1月5日には前立腺手術を受け、健康に関するさらに心配を引き起こした。
レーガンは、1985年の西ドイツへの公式訪問で広く非難された。4月11日にホワイトハウスは、レーガンが両方の世界大戦で死んだドイツの兵士に敬意を表して献花するためにビットブルクの軍事墓地を訪れると発表した。その墓地にナチスの武装親衛隊員が埋葬されていることが論争の的になった。様々な地域からの抗議にもかかわらず、それが元敵との間の和解を促進するという理由で、レーガンは訪問を続けた。
引退
退職の4年後の1992年、レーガンはアルツハイマー病と診断された。病は年を追うごとに前大統領の精神を破壊していき、彼は静かで隔離された環境で余生を送ることを余儀なくされた。1994年11月5日、彼は国民にあてた手紙という形で、アルツハイマー病の病状を公表した。2001年に転倒した際に腰を骨折してほとんど寝たきりとなってからは、彼の健康状態はさらに不安定になった。
1998年2月6日、ワシントン・ナショナル空港がロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港と改名された。さらに、ニミッツ級航空母艦の9番艦は2001年3月4日にロナルド・レーガン(USS Ronald Reagan, CVN-76)と命名されたが、米海軍艦船が生存中の人物の名を付けられるのは非常にまれなことである。2003年7月12日の就役式典には、闘病中のレーガン本人に代わり、ナンシー・レーガン夫人が出席した。
死去
現地時間で2004年6月5日の午後1時9分、ロサンゼルス近郊の自宅でレーガンは肺炎のため死去した。彼は妻ナンシーおよび子供マイケル、パティ・デイビスおよびロンに支えられ闘病生活を続けたが、家族にベッドを囲まれて生涯を終えた。
レーガンの葬儀はジョンソン元大統領以来の国葬として、2004年6月11日に行われた。ナショナル大聖堂で行われた国葬でジョージ・W・ブッシュ現大統領、ジョージ・H・W・ブッシュ元大統領、マーガレット・サッチャー元英国首相、ブライアン・マルルーニー元カナダ首相らが弔辞を述べた。ミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領や中曽根康弘元日本首相ら、現在及び過去の政界トップ多数が世界中から参列した。当日の夕方、日没の時刻にカリフォルニア州シミバレーのロナルド・レーガン大統領図書館の敷地内にある墓所に遺体が安置された。
レーガンは米国大統領経験者として最も長生き(93歳88日)であった。前の記録はジョン・アダムスの90歳247日で、レーガンは2001年10月12日にこれを抜いていた。(ジェラルド・R・フォード元大統領が2006年末まで存命ならば抜かれることになる)
関連項目
前任者: パット・ブラウン |
カリフォルニア州知事 1967 - 1975 |
後任者: ジェリー・ブラウン |
前大統領: ジミー・カーター |
アメリカ合衆国大統領 1981 - 1989 |
次大統領: ジョージ・H・W・ブッシュ |