「宮澤喜一」の版間の差分
(同じ利用者による、間の3版が非表示) | |||
40行目: | 40行目: | ||
==エピソード== |
==エピソード== |
||
*官僚時代から英語力には定評があり、吉田内閣の[[池田勇人]]蔵相秘書官として、アメリカ政府との経済交渉のためワシントンに同行した際、池田の通訳をつとめた。宮沢・[[クリントン]]会談では通訳を介さず、終始自分ひとりで会談を続けた。 |
|||
*穏和そうな外見とは裏腹に負けず嫌いで[[毒舌家]]として知られている。官房長官時代に直談判に来た[[右翼]]と口論となって、乱闘を起こして負傷した事がある。 |
*穏和そうな外見とは裏腹に負けず嫌いで[[毒舌家]]として知られている。官房長官時代に直談判に来た[[右翼]]と口論となって、乱闘を起こして負傷した事がある。 |
||
*総理退陣直前、[[田中秀征]]の仲介で次期総理となる細川護煕と[[軽井沢]]で会談して、政権政党の交代に伴う国政の混乱回避を図った。 |
*総理退陣直前、[[田中秀征]]の仲介で次期総理となる細川護煕と[[軽井沢]]で会談して、政権政党の交代に伴う国政の混乱回避を図った。 |
||
*[[東京帝国大学]][[法学部]]を首席卒業した秀才であったため、後輩議員や新聞記者たちに、学歴を事細かに聞くので非常に嫌われていた。 |
|||
*また、[[東京大学]]、[[京都大学]]出身者以外にはまともな返事もしないといわれる。[[早稲田大学]]出身の[[竹下登]]と[[竹下派]][[経世会]]をそれで敵にまわした。 |
|||
*大変に酒癖が悪く、酔った席上で、当時の[[自民党]][[副総裁]][[金丸信]]に「あなたの選挙区には、落ちたら誰も上がってこられない川があるそうですな」、つまり、その川に落ちてしまえばいいという悪口を浴びせたことがある。後に「識見と豪腕は日本一」と金丸を持ち上げ、おもねり、金丸のバックアップを得て首相に就任した。 |
|||
*その金丸が[[佐川急便]]事件で議員辞職に追い込まれた際、幼稚園を訪問していた宮澤は、その知らせを聞くなり、あまりの嬉しさに幼稚園児に混じって踊りだした。日頃、滅多にパフォーマンスをしないだけに、周囲の者は「首相はご乱心か」と心配したという。 |
|||
*ある政治部の記者が、達筆で知られる宮澤に「竹下氏や橋本氏の書く字はどう思われますか」と質問すると、宮澤は小首をかしげて「あなたは、あれが字だと仰るんですか?」と切り返した。漢籍の素養も深い宮澤にしか吐けない言葉である。 |
|||
==関連項目== |
==関連項目== |
||
2005年9月13日 (火) 12:07時点における版
宮澤 喜一(みやざわ きいち、1919年10月8日 - )は、日本の男性政治家。元参議院議員・衆議院議員で、第78代内閣総理大臣(在任1991年11月5日 - 1993年8月9日)。東京都に生まれる。本籍は広島県福山市金江町。(なお、報道機関では「宮沢 喜一」と表記されることがある。)
略年表
- 1942年1月 大蔵省入省
- 1945年8月 津島寿一蔵相秘書官
- 1949年1月 池田勇人蔵相秘書官
- 1953年4月 退官し参議院議員選挙に出馬、当選(~1965年7月)
- 1962年7月 第2次池田改造内閣で経済企画庁長官 (~1964年7月)
- 1966年12月 第1次佐藤改造内閣で経済企画庁長官(~1967年11月)
- 1967年2月 衆議院議員
- 1970年1月 第3次佐藤内閣で通商産業大臣(~1971年7月)
- 1974年12月 三木内閣で外務大臣(~1976年9月)
- 1977年11月 福田改造内閣で経済企画庁長官
- 1980年7月 鈴木内閣で内閣官房長官
- 1984年11月 自民党総務会長
- 1986年7月 第3次中曽根内閣で大蔵大臣
- 1986年8月 宏池会(宮沢派)第5代会長に就任
- 1987年11月 竹下内閣で副総理兼大蔵大臣
- 1988年12月 副総理・大蔵大臣を辞任
- 1991年11月 自民党総裁、内閣総理大臣
- 1993年6月 内閣不信任案可決により衆議院を解散するも総選挙に敗れ内閣総辞職。
- 1998年8月 小渕内閣で大蔵大臣
- 2000年4月 森内閣で大蔵大臣(留任)
- 2001年1月 省庁再編により最後の大蔵大臣から初代財務大臣に就任(~4月)
- 2003年11月 政界引退。
経歴
祖父は鉄道大臣などを務めた小川平吉、父は小川の娘婿で立憲政友会所属代議士の宮澤裕(喜一は裕の長男)。旧制武蔵高校から東京帝国大学法学部に進む。在学中の1939年、日米学生会議に参加のため渡米する。 1942年1月、大蔵省に入省、1945年8月、東久邇内閣が発足すると、津島寿一蔵相秘書官となる。1949年、再び池田勇人蔵相秘書官として、講和条約の準備交渉に携わる。1951年9月、サンフランシスコ講和会議では全権随員となる。
1953年、参議院選挙に広島県選挙区から出馬し当選。1962年第2次池田改造内閣では経済企画庁長官として初入閣、池田首相のブレーンの一人として所得倍増政策の一翼を担う。テレビの政治討論会などに積極的に出演し、自民党のニュー・ライト(新保守)を代表する若手政治家として注目される。1967年には衆議院議員となり、閣僚を歴任する。党内派閥では池田派(宏池会)に属し、なかでも前尾繁三郎に近いとされた。鈴木内閣では内閣官房長官を務め、次代の中曽根内閣期まで、安倍晋太郎・竹下登らとともにニュー・リーダーの一人と目される、特にこの3人は安竹宮と呼ばれた。宮澤は1986年、宏池会会長となり、派閥を継承、1987年秋には中曽根の後継者の座を安倍・竹下と争ったが、中曽根の裁定により竹下が総裁に就任した。宮澤は竹下内閣に副総理・大蔵大臣として入閣し、消費税導入に尽力するが、1988年、リクルート事件が発覚すると、未公開株の譲渡について倫理的責任を問われ大臣を辞任した。
1991年、自民党総裁選挙で総裁に選出され、内閣を組閣。 1993年、自民党分裂により内閣不信任案が成立し、総選挙を行うも日本新党を中心とした野党勢力に敗れ、細川内閣に政権を明け渡す。
小渕・森両内閣では、景気振興のための積極財政を期待されて蔵相(のちの財務相)に就任。「平成の高橋是清」などといわれたが、有効な経済政策を打ち出す事もなく、不況をより悪化させただけであった。 2003年総選挙の際、自民党の方針による立候補断念を承諾し、議員を引退。地盤を甥の宮澤洋一に譲った。
宮沢財政
エピソード
- 官僚時代から英語力には定評があり、吉田内閣の池田勇人蔵相秘書官として、アメリカ政府との経済交渉のためワシントンに同行した際、池田の通訳をつとめた。宮沢・クリントン会談では通訳を介さず、終始自分ひとりで会談を続けた。
- 穏和そうな外見とは裏腹に負けず嫌いで毒舌家として知られている。官房長官時代に直談判に来た右翼と口論となって、乱闘を起こして負傷した事がある。
- 総理退陣直前、田中秀征の仲介で次期総理となる細川護煕と軽井沢で会談して、政権政党の交代に伴う国政の混乱回避を図った。
- 東京帝国大学法学部を首席卒業した秀才であったため、後輩議員や新聞記者たちに、学歴を事細かに聞くので非常に嫌われていた。
- また、東京大学、京都大学出身者以外にはまともな返事もしないといわれる。早稲田大学出身の竹下登と竹下派経世会をそれで敵にまわした。
- 大変に酒癖が悪く、酔った席上で、当時の自民党副総裁金丸信に「あなたの選挙区には、落ちたら誰も上がってこられない川があるそうですな」、つまり、その川に落ちてしまえばいいという悪口を浴びせたことがある。後に「識見と豪腕は日本一」と金丸を持ち上げ、おもねり、金丸のバックアップを得て首相に就任した。
- その金丸が佐川急便事件で議員辞職に追い込まれた際、幼稚園を訪問していた宮澤は、その知らせを聞くなり、あまりの嬉しさに幼稚園児に混じって踊りだした。日頃、滅多にパフォーマンスをしないだけに、周囲の者は「首相はご乱心か」と心配したという。
- ある政治部の記者が、達筆で知られる宮澤に「竹下氏や橋本氏の書く字はどう思われますか」と質問すると、宮澤は小首をかしげて「あなたは、あれが字だと仰るんですか?」と切り返した。漢籍の素養も深い宮澤にしか吐けない言葉である。
関連項目
|
|
|
|
|