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イギリスのモントゴメリー将軍の総指揮の下、西から順にブラッドレー将軍指揮のアメリカ軍担当の「ユタ」(第4歩兵師団コリンズ将軍指揮)・「オマハ」(第1歩兵師団ゲロウ将軍指揮)、デンプシー将軍指揮のイギリス軍担当の「ゴールド」(第50歩兵師団ブックノール将軍指揮)・「ジュノー」(カナダ第3歩兵師団<!--クロッカー将軍指揮-->)・「 |
イギリスのモントゴメリー将軍の総指揮の下、西から順にブラッドレー将軍指揮のアメリカ軍担当の「ユタ」(第4歩兵師団コリンズ将軍指揮)・「オマハ」(第1歩兵師団ゲロウ将軍指揮)、デンプシー将軍指揮のイギリス軍担当の「ゴールド」(第50歩兵師団ブックノール将軍指揮)・「ジュノー」(カナダ第3歩兵師団<!--クロッカー将軍指揮-->)・「ソード」(第3歩兵師団)の5つの管区に分けられた。また上陸海岸へのドイツ軍の反撃を妨害するためにイギリス第6空挺師団、アメリカ第82、第101空挺師団が降下することになっていた。 |
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航空機の爆撃・艦船からの艦砲射撃・空挺部隊降下の支援の下、[[水陸両用戦車]]を配備した第一次上陸隊が橋頭堡を確保し、第二次上陸隊以降が突破口を広げる計画が立てられた。 |
航空機の爆撃・艦船からの艦砲射撃・空挺部隊降下の支援の下、[[水陸両用戦車]]を配備した第一次上陸隊が橋頭堡を確保し、第二次上陸隊以降が突破口を広げる計画が立てられた。 |
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米第82および第101空挺師団はそれほど幸運ではなかった。一部はパイロットの経験不足で、また一部は降下困難な着陸地点のため彼らは広範囲に散在して降下した。幾名かは海あるいは湿地帯に降下した。24時間後、第101空挺師団のうち3,000名だけが集合できた。多くが敵の後方を歩き回り戦うことを継続させられた。第82空挺師団は6月6日の早朝にサン・メール・エグリーズの街を占領し、同地は侵攻によって解放された最初の街となった。 |
米第82および第101空挺師団はそれほど幸運ではなかった。一部はパイロットの経験不足で、また一部は降下困難な着陸地点のため彼らは広範囲に散在して降下した。幾名かは海あるいは湿地帯に降下した。24時間後、第101空挺師団のうち3,000名だけが集合できた。多くが敵の後方を歩き回り戦うことを継続させられた。第82空挺師団は6月6日の早朝にサン・メール・エグリーズの街を占領し、同地は侵攻によって解放された最初の街となった。 |
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===ソード・ビーチ=== |
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ソード・ビーチでは英第3歩兵師団が上陸に成功し、彼らの死傷者は少数であった。彼らはその日の終わりまでに約5マイル(8km)進撃したが、モントゴメリーによって計画された目標のうちのいくつには到達できなかった。主要目標のカーンは、D-デイの終了時にもまだドイツ軍の支配下にあった。 |
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第1特務旅団は、二つのフランス兵部隊を伴った英第4海兵隊コマンドに率いられて第二波として上陸した。彼らは Ouistreham に個別の目標を持っていた。フランス兵部隊の目標はブロックハウスとカジノであり、第4海兵隊の目標は海岸を見下ろした二つの砲台であった。ブロックハウスはコマンドのPIAT(Projector Infantry Anti Tank)では破壊が困難であったが、カジノはセントー戦車の支援によって撃破された。英第4海兵隊コマンドは、目標の二つの砲台がすでに砲の外された砲架だけだったことを確認した。歩兵部隊に仕上げの手続きを任せて、第1特務旅団の残り(第3、第6および第45英海兵隊コマンド)と合流するために彼らは Ouistreham から内陸へ移動し、続いて第6空挺師団との合流を目指した。 |
第1特務旅団は、二つのフランス兵部隊を伴った英第4海兵隊コマンドに率いられて第二波として上陸した。彼らは Ouistreham に個別の目標を持っていた。フランス兵部隊の目標はブロックハウスとカジノであり、第4海兵隊の目標は海岸を見下ろした二つの砲台であった。ブロックハウスはコマンドのPIAT(Projector Infantry Anti Tank)では破壊が困難であったが、カジノはセントー戦車の支援によって撃破された。英第4海兵隊コマンドは、目標の二つの砲台がすでに砲の外された砲架だけだったことを確認した。歩兵部隊に仕上げの手続きを任せて、第1特務旅団の残り(第3、第6および第45英海兵隊コマンド)と合流するために彼らは Ouistreham から内陸へ移動し、続いて第6空挺師団との合流を目指した。 |
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障害にもかかわらずカナダ軍は数時間の内に海岸に上陸し、内陸への進軍を始めた。第6カナダ機甲連隊(第1軽騎兵)は、15km内陸のカーン - バイユー間のハイウェーと交差するという目的を達成した唯一の連合軍部隊だった。 |
障害にもかかわらずカナダ軍は数時間の内に海岸に上陸し、内陸への進軍を始めた。第6カナダ機甲連隊(第1軽騎兵)は、15km内陸のカーン - バイユー間のハイウェーと交差するという目的を達成した唯一の連合軍部隊だった。 |
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D-デイの終了までに、14,000人のカナダ兵が上陸に成功した。また、第3カナダ師団は上陸拠点で激しい抵抗に直面したにもかかわらず、他の連合軍部隊より内陸に侵攻した。D-デイにおける最初の反撃は、第21装甲師団が |
D-デイの終了までに、14,000人のカナダ兵が上陸に成功した。また、第3カナダ師団は上陸拠点で激しい抵抗に直面したにもかかわらず、他の連合軍部隊より内陸に侵攻した。D-デイにおける最初の反撃は、第21装甲師団がソードとジュノーの間で行った。また6月7日および8日には、橋頭堡を構築したカナダ軍に対し第12SS装甲師団「[[ヒトラーユーゲント]]」の反撃が行われた。 |
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海岸に配置されたドイツ軍防衛部隊は、訓練不足および補給の不足、一週間にわたる爆撃によりその抵抗は弱体化していった。唯一の例外がロンメルによってサン・ローからオマハ・ビーチ防衛のため移動させられた第352歩兵師団であった。同師団の強固な防御陣と、連合軍諜報部が考慮したドイツ軍第716歩兵師団の二大隊が投入される可能性が同管区の死傷者の激増の原因となった。ロンメル以外のドイツ軍指揮官はこの数時間の攻撃に関する報告を、上陸作戦によるものとは考えなかった。彼らの連絡の不良は数名の重要な指揮官の不在によってより悪化した。米空挺部隊が北部ノルマンディーに分散して降下したことも混乱を増す原因となった。 |
海岸に配置されたドイツ軍防衛部隊は、訓練不足および補給の不足、一週間にわたる爆撃によりその抵抗は弱体化していった。唯一の例外がロンメルによってサン・ローからオマハ・ビーチ防衛のため移動させられた第352歩兵師団であった。同師団の強固な防御陣と、連合軍諜報部が考慮したドイツ軍第716歩兵師団の二大隊が投入される可能性が同管区の死傷者の激増の原因となった。ロンメル以外のドイツ軍指揮官はこの数時間の攻撃に関する報告を、上陸作戦によるものとは考えなかった。彼らの連絡の不良は数名の重要な指揮官の不在によってより悪化した。米空挺部隊が北部ノルマンディーに分散して降下したことも混乱を増す原因となった。 |
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こういった悪条件にもかかわらず、第21装甲師団は |
こういった悪条件にもかかわらず、第21装甲師団はソードとジュノーの間で反撃を行い海岸への到達に成功した。しかし対戦車砲による強固な抵抗と、彼らが遮断されてしまうという恐れから6月6日の終わりまでに撤退することとなる。いくつかの報告書によれば、上空を飛ぶ空挺部隊の観測が退却決定に影響した。 |
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連合軍の侵攻計画は、初日にカランタン、サン・ロー、カーンおよびバイユーを確保し、ユタと |
連合軍の侵攻計画は、初日にカランタン、サン・ロー、カーンおよびバイユーを確保し、ユタとソード以外の海岸を連携させ、海岸から10 - 16km進出することであったが、実際にはどれも達成できなかった。作戦全体の死傷者は予想より少なく(10,000人前後が予想され、チャーチルは20,000名に及ぶことを心配した。)、橋頭堡は予想されたほどの反撃は受けなかった。上陸に続く優先事項は、橋頭堡の連携・カーンの奪取・シェルブール港の確保と安全な補給の確立、であった |
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ドイツ第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」は6月7日、8日にカナダ軍を攻撃し大損害を与えたが、前進することはできなかった。その間に各管区の海岸は全て制圧され統一された拠点となった( |
ドイツ第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」は6月7日、8日にカナダ軍を攻撃し大損害を与えたが、前進することはできなかった。その間に各管区の海岸は全て制圧され統一された拠点となった(ソード:6月7日、オマハ:6月10日、ユタ:6月13日)。連合軍はドイツ軍より急速に前線を強化していった。彼らは海岸に全てを上陸させなければならなかったが、連合軍の制空権およびフランスの鉄道網の破壊は、ドイツ軍の移送を停滞させ危険なものとしていた。 |
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ユタとオマハ後方の地域はボカージュ(生け垣)によって特徴づけられた。高さ3m近い古くからの土手と生け垣は、それぞれが100 - 200mにも及び、戦車、砲撃、視界を妨げ理想的な防御陣地を形成した。米兵の展開は遅れ、シェルブールへの進撃は多数の死傷者で苦しめられた。空挺部隊は停滞する進撃を再開するよう再三要求された。ヒトラーはシェルブールの防衛部隊が連合軍に橋頭堡を与えないことを期待したが、指揮官は6月26日に降伏した。 |
ユタとオマハ後方の地域はボカージュ(生け垣)によって特徴づけられた。高さ3m近い古くからの土手と生け垣は、それぞれが100 - 200mにも及び、戦車、砲撃、視界を妨げ理想的な防御陣地を形成した。米兵の展開は遅れ、シェルブールへの進撃は多数の死傷者で苦しめられた。空挺部隊は停滞する進撃を再開するよう再三要求された。ヒトラーはシェルブールの防衛部隊が連合軍に橋頭堡を与えないことを期待したが、指揮官は6月26日に降伏した。 |
2005年8月5日 (金) 10:40時点における版
ノルマンディー上陸作戦(ノルマンディーじょうりくさくせん)は、第二次世界大戦中の1944年6月6日に行われた連合軍の作戦。作戦の正式名称はオーバーロード作戦(Operation Overlord)。ナチス・ドイツによって占領された西ヨーロッパへの侵攻作戦であった。300万人近い兵員がドーバー海峡を渡ってフランスのノルマンディーに上陸した。史上最大の上陸作戦であり、作戦から60年が過ぎた現在でもこれを超える規模の上陸作戦は行われていない。
上陸作戦は夜間の落下傘部隊の降下から始まり、続いて上陸予定地への空爆と艦砲射撃、早朝からの上陸用舟艇による揚陸が行われた。なお、上陸作戦に続くノルマンディー地方での戦いは二ヶ月以上続いた。
ノルマンディー上陸作戦は今日まで第二次世界大戦中の最もよく知られる戦いの一つとして数えられる。「D-デイ」は作戦決行日を表し、現在では作戦開始当日の1944年6月6日を意味する用語として使われる。
序章
1941年のバルバロッサ作戦によるドイツ軍のソ連侵攻以来、ヨーロッパ本土でのドイツ軍勢力のほとんどがソ連に向けられていた。アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトとイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、危機的なソ連の状況を緩和するためにヨーロッパに「第二戦線」を開くことに合意した。
イギリス軍は第一次世界大戦同様に正面からの攻撃を繰り返すのではなく、ヨーロッパを周囲から攻撃することを提案した。アメリカ側は前線の延長を望まなかったことと、イギリスの勢力拡大意図について心配したため、ドーヴァー海峡を渡っての上陸作戦を行うようイギリス側を説得した。1942年のスレッジハンマー作戦および1943年のラウンドアップ作戦が立案され、ラウンドアップ作戦は実施が1944年までずれ込んだがオーバーロード作戦として採用された。
計画立案のプロセスは連合軍総司令部のスタッフによって1943年の1月に始められた。1944年4月28日には南デボンで上陸演習、タイガー演習が行われたが749人のアメリカ軍の死者を出した。
イギリス本土基地からの連合軍戦闘機の航続距離は上陸地点の選択を非常に制限した。地理学的に上陸地点はパ・ド・カレーとノルマンディーの二地点に絞り込まれた。パ・ド・カレーがイギリス本土から距離的に最短であり上陸地点として最適だったが、当然のことながらドイツ側も上陸を想定し最も強化され防御されていた。従って、連合軍は上陸地点にノルマンディーを選択した。
1942年のカナダ軍のディエップ攻撃での失敗から連合軍は、最初の上陸でフランスの港を直接攻撃しないことに決定した。ノルマンディー正面への広範囲な上陸は、ドイツ軍にとってブルターニュ西海岸のシェルブール港と、パリからドイツ国境へ向けての二つの攻撃の脅威となることが予想された。ノルマンディーはドイツ軍の布陣が薄く、上陸は予想されなかった地点であったが、戦略的にはドイツの防御を混乱させ分散させる可能性を持つ攻撃地点であった。
1943年12月にヨーロッパの連合軍最高司令官としてアイゼンハワー将軍が指名された。1944年1月にはモントゴメリー将軍が侵攻の地上軍総指揮官に任命された。
計画の段階で海からの上陸が三個師団、空挺部隊が二個旅団要求された。モントゴメリーはすぐに初期攻撃の規模を海からの攻撃を五個師団、空からを三個師団増加させた。合計で47個師団の投入が承認された。イギリス軍、カナダ軍、自由ヨーロッパ軍26個師団にアメリカ軍21個師団。
提督バートラム・ラムゼー卿指揮下で上陸用舟艇4,000隻および艦砲射撃を行う軍艦130隻を含む6,000を超える艦艇が投入された。空軍中将トラフォード・リー・マロリー卿指揮下に1,000機の空挺部隊を運ぶ輸送機を含む12,000機の航空機が上陸を支援した。ドイツ軍に対して投下するために合計5,000トンの爆弾が準備された。
最初の40日間の目標は次の通り定められた。
- カーンおよびシェルブールを含む上陸拠点の確保。(特にシェルブールは大型艦艇が入港できる港の深さから要求された。)
- ブルターニュとその大西洋岸の港を解放し、ルアーブルからル・マンとトゥールを抜けてパリ南東部に向かって125マイル前進すること。
その後三ヶ月の目標は次の通り
- ロアール川南部とセーヌ川北東部の地域のコントロール。
侵攻作戦の目標がパ・ド・カレーであるとドイツ軍に思いこませるために、連合軍はフォーティチュード作戦という欺瞞作戦を計画した。架空のアメリカ軍師団が偽の建物と装備と共に作られ、偽のラジオメッセージが送信された。パットン将軍が架空の部隊の指揮官として指名された。ドイツ軍は実際の上陸地点を知るために盛んな諜報活動を行った。イギリス南部の広範囲にスパイネットワークを持っていたが、不運なことに連合国側に寝返ったものもおり、ほとんどの情報は上陸地点がパ・ド・カレーであることを確認するものであった。欺瞞は可能な限り続けられ、その地域のレーダーおよび軍事施設への攻撃は継続された。
別の欺瞞作戦、スカイ作戦はスコットランドから無線交信を使用して、侵攻作戦がノルウェーあるいはデンマークを目標としていることをドイツのアナリストに認識させるために行われた。ドイツ軍はこの架空の脅威の為、この地域の部隊をフランスに移動させなかった。
連合軍は上陸に備えて特殊装備を開発した。パーシー・ホーバート少将指揮下のイギリス第79機甲師団による特殊車両は「ホバーズ・ファニーズ」「ザ・ズー」と呼ばれた。同師団が開発、装備した車両群は、水陸両用のD.D.(Duprex Drive)シャーマン、地雷除去戦車シャーマン・クラブ、工兵戦車チャーチルAVRE(Armoured Vehicle Royal Engineers)、火炎放射戦車チャーチル・クロコダイル、架橋戦車チャーチルARK(Armoured Ramp Carrier)などである。
また、「マルベリー」と呼ばれる人工港をアロマンシュとサンローランに投入した。この「マルベリー」はコンクリート製の箱と沈船を組み合わせたもので、燃料を始めとする補給物資の揚陸に用いられることになった。
ドイツ側のレスポンス
1943年11月、ヒトラーがフランス侵攻の兆しをもはや無視することはできないとして、エルヴィン・ロンメル陸軍元帥をフランス北部防御の任務を負ったB軍集団の司令官に任命した。ロンメルは侵攻を防ぐただ一つの方法は海岸で出来るだけ早く反撃することであると堅く確信しており、装甲部隊の海岸近辺への配置を望んでいた。しかし彼の権限は制限されていた。全権を持つ西部方面軍総司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット陸軍元帥は装甲部隊の内陸部への配置に賛成し、前線防衛ラインが決定され反撃の準備が整った。
作戦運用上の討論は二人の重要な指揮官の戦闘経験を反映した。ルントシュテットとハインツ・グデーリアンはドイツ空軍の制空権保持下および東部戦線での戦線拡張下での作戦行動指揮経験はあったが、空軍の支援なしでの戦闘指揮経験はなかった。
一方ロンメルの経験は大きく異なっていた。彼は前線へ空軍力を投入する連合軍の傾向を経験していた。1939年から1941年までのドイツ空軍の絶頂時を経験したルントシュテットとグデーリアンが連合軍の空軍力に関して考慮しなかったことは注目すべき点である。当時のドイツ空軍の能力を考慮すれば、英米空軍の増強は推測できた。ロンメルはこの点を理解していたが、他の上級指揮官は理解しないか過小評価していた。
論争の解決にヒトラーはフランス北部で運用可能な6個装甲師団の内3個師団をロンメルに与えた。残りの3つは海岸から離れた位置に配備されヒトラー直接の承認なしでは運用することが出来なかった。フランス北部の飛行場は英米空軍の頻繁な空襲により大きく破壊され、フランス沿岸北部の防空戦力は169機の戦闘機しか稼働できなかった。6月6日当日ドイツ空軍はヨーゼフ・プリラー大尉率いる2機の戦闘機を投入するのみだった。
計画
イギリスのモントゴメリー将軍の総指揮の下、西から順にブラッドレー将軍指揮のアメリカ軍担当の「ユタ」(第4歩兵師団コリンズ将軍指揮)・「オマハ」(第1歩兵師団ゲロウ将軍指揮)、デンプシー将軍指揮のイギリス軍担当の「ゴールド」(第50歩兵師団ブックノール将軍指揮)・「ジュノー」(カナダ第3歩兵師団)・「ソード」(第3歩兵師団)の5つの管区に分けられた。また上陸海岸へのドイツ軍の反撃を妨害するためにイギリス第6空挺師団、アメリカ第82、第101空挺師団が降下することになっていた。
航空機の爆撃・艦船からの艦砲射撃・空挺部隊降下の支援の下、水陸両用戦車を配備した第一次上陸隊が橋頭堡を確保し、第二次上陸隊以降が突破口を広げる計画が立てられた。
上陸
6月6日、5つの管区で一斉に上陸し、上記のドイツ軍の防衛態度の意見の混乱から、オマハ以外では無血に近い上陸を果たした。
空挺部隊
英第6空挺師団は午前0時10分過ぎに活動を始めた最初の部隊だった。彼らの目的はペガサス橋と着地地点の東側面の川に架かる他の橋およびメルヴィル砲台だった(トンガ作戦を参照)。砲台は英軍による第一撃で破壊され、砲台守備兵の生存者は6名だけだった。上陸部隊への砲撃は防ぐことができた。橋は短時間で確保され、6月6日の遅くにコマンド部隊が交代するまで保持された。
米第82および第101空挺師団はそれほど幸運ではなかった。一部はパイロットの経験不足で、また一部は降下困難な着陸地点のため彼らは広範囲に散在して降下した。幾名かは海あるいは湿地帯に降下した。24時間後、第101空挺師団のうち3,000名だけが集合できた。多くが敵の後方を歩き回り戦うことを継続させられた。第82空挺師団は6月6日の早朝にサン・メール・エグリーズの街を占領し、同地は侵攻によって解放された最初の街となった。
ソード・ビーチ
ソード・ビーチでは英第3歩兵師団が上陸に成功し、彼らの死傷者は少数であった。彼らはその日の終わりまでに約5マイル(8km)進撃したが、モントゴメリーによって計画された目標のうちのいくつには到達できなかった。主要目標のカーンは、D-デイの終了時にもまだドイツ軍の支配下にあった。
第1特務旅団は、二つのフランス兵部隊を伴った英第4海兵隊コマンドに率いられて第二波として上陸した。彼らは Ouistreham に個別の目標を持っていた。フランス兵部隊の目標はブロックハウスとカジノであり、第4海兵隊の目標は海岸を見下ろした二つの砲台であった。ブロックハウスはコマンドのPIAT(Projector Infantry Anti Tank)では破壊が困難であったが、カジノはセントー戦車の支援によって撃破された。英第4海兵隊コマンドは、目標の二つの砲台がすでに砲の外された砲架だけだったことを確認した。歩兵部隊に仕上げの手続きを任せて、第1特務旅団の残り(第3、第6および第45英海兵隊コマンド)と合流するために彼らは Ouistreham から内陸へ移動し、続いて第6空挺師団との合流を目指した。
ジュノー・ビーチ
ジュノー・ビーチに上陸したカナダ軍は11基の155mm砲重砲台および9基の75mm砲中砲台に直面した。またそこには機関銃の巣とトーチカや他のコンクリート堡塁、そしてオマハ・ビーチの二倍の高さの護岸堤が立ちはだかっていた。第一波は、オマハ以外の5つのD-デイ上陸拠点のうちで最高の50パーセントの死傷者が出た。
障害にもかかわらずカナダ軍は数時間の内に海岸に上陸し、内陸への進軍を始めた。第6カナダ機甲連隊(第1軽騎兵)は、15km内陸のカーン - バイユー間のハイウェーと交差するという目的を達成した唯一の連合軍部隊だった。
D-デイの終了までに、14,000人のカナダ兵が上陸に成功した。また、第3カナダ師団は上陸拠点で激しい抵抗に直面したにもかかわらず、他の連合軍部隊より内陸に侵攻した。D-デイにおける最初の反撃は、第21装甲師団がソードとジュノーの間で行った。また6月7日および8日には、橋頭堡を構築したカナダ軍に対し第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」の反撃が行われた。
ゴールド・ビーチ
ゴールド・ビーチでは部分的に水陸両用シャーマンの到達が遅れ、死傷者が増えることとなった。またドイツ軍は海岸上の村を防衛拠点として強化していた。しかしながら第50師団は障害を克服し、その日の終わりまでにバイユーの周辺に向かって前進した。ジュノーのカナダ軍を除くと、第50師団より目的に接近した部隊は存在しなかった。
英海兵隊第47コマンドは最後に上陸した英軍コマンド部隊で、ゴールド東のル・ヘメルの陸上に進出した。彼らの任務は内陸に進撃し、西方に向かい敵領内へ10マイル進軍し Port en Bessin 湾を背後から攻撃することだった。この石灰岩の断崖で守られた小さな港は英軍にとって、沖合のタンカーから海底パイプを通じて燃料供給を行うために初期の最重要目標となっていた。
オマハ・ビーチ
オマハ・ビーチにおいては米第1歩兵師団が最悪の苦難を経験した。ここでは他の海岸に比べ特殊装甲車両の装備が少なく、さらに彼らの装備した水陸両用シャーマンは海岸に到着する前にほとんど失われた。対するドイツ第352歩兵師団は海岸に配置された中でも精鋭の部隊であった。彼らは海岸を見下ろす険しい崖の上を拠点とした。公式記録は次のように述べる。「上陸10分以内に(先導)部隊は指揮官を失い活動能力を失った。全ての下士官および軍曹は戦死または負傷した。...それは生存と救助のための闘争となった。」オマハ・ビーチでは4,000名以上の死傷者が出たが、それにもかかわらず生存者達は再編成され内陸に進撃した。
Pointe du Hoc のドイツ軍コンクリート要塞は米第2レンジャー大隊の攻撃目標であった。彼らの任務は敵の砲火の下ロープと梯子を用いて高さ約100mの崖を登り、ユタとオマハを射程とした要塞内の砲を破壊することであった。部隊は到達に成功し、おそらく前日の爆撃中に移動された砲は見つかり破壊された。上陸部隊の死傷者の割合はほぼ50パーセントだった。
ユタ・ビーチ
対照的に、ユタ・ビーチでの死傷者数は197名で上陸管区中最少であった。23,000名が上陸を果たし彼らは内陸に進撃を行い先陣空挺部隊との連絡に成功した。
上陸後
- 6月5日 - 6日:デトロイト作戦(米第82空挺師団)、シカゴ作戦(米第101空挺師団)、トンガ作戦(英第6空挺師団)
- 6月6日:ネプチューン作戦
- 6月25日 - 29日:エプソム作戦
- 7月7日:カーンの陥落。
- 7月17日:王立カナダ空軍スピットファイアの機銃掃射でエルヴィン・ロンメル元帥が負傷。
- 7月18日 - 20日:グッドウッド作戦
- 8月3日 - 9日:トータライズ作戦
- 8月16日:ドラグーン作戦
一旦上陸拠点が確保されると、二基の「マルベリー」が分割されイギリス海峡を運搬された。一基はアロマンシュで構築され、もう一基はオマハ・ビーチに設置された。しかしながらオマハのマルベリーは暴風で破壊された。アロマンシュ港では9,000トンに及ぶ物資が毎日陸揚げされ、1944年8月末にアントワープとシェルブール港が確保、運用されるようになるまで続けられた。
海岸に配置されたドイツ軍防衛部隊は、訓練不足および補給の不足、一週間にわたる爆撃によりその抵抗は弱体化していった。唯一の例外がロンメルによってサン・ローからオマハ・ビーチ防衛のため移動させられた第352歩兵師団であった。同師団の強固な防御陣と、連合軍諜報部が考慮したドイツ軍第716歩兵師団の二大隊が投入される可能性が同管区の死傷者の激増の原因となった。ロンメル以外のドイツ軍指揮官はこの数時間の攻撃に関する報告を、上陸作戦によるものとは考えなかった。彼らの連絡の不良は数名の重要な指揮官の不在によってより悪化した。米空挺部隊が北部ノルマンディーに分散して降下したことも混乱を増す原因となった。
こういった悪条件にもかかわらず、第21装甲師団はソードとジュノーの間で反撃を行い海岸への到達に成功した。しかし対戦車砲による強固な抵抗と、彼らが遮断されてしまうという恐れから6月6日の終わりまでに撤退することとなる。いくつかの報告書によれば、上空を飛ぶ空挺部隊の観測が退却決定に影響した。
連合軍の侵攻計画は、初日にカランタン、サン・ロー、カーンおよびバイユーを確保し、ユタとソード以外の海岸を連携させ、海岸から10 - 16km進出することであったが、実際にはどれも達成できなかった。作戦全体の死傷者は予想より少なく(10,000人前後が予想され、チャーチルは20,000名に及ぶことを心配した。)、橋頭堡は予想されたほどの反撃は受けなかった。上陸に続く優先事項は、橋頭堡の連携・カーンの奪取・シェルブール港の確保と安全な補給の確立、であった
ドイツ第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」は6月7日、8日にカナダ軍を攻撃し大損害を与えたが、前進することはできなかった。その間に各管区の海岸は全て制圧され統一された拠点となった(ソード:6月7日、オマハ:6月10日、ユタ:6月13日)。連合軍はドイツ軍より急速に前線を強化していった。彼らは海岸に全てを上陸させなければならなかったが、連合軍の制空権およびフランスの鉄道網の破壊は、ドイツ軍の移送を停滞させ危険なものとしていた。
ユタとオマハ後方の地域はボカージュ(生け垣)によって特徴づけられた。高さ3m近い古くからの土手と生け垣は、それぞれが100 - 200mにも及び、戦車、砲撃、視界を妨げ理想的な防御陣地を形成した。米兵の展開は遅れ、シェルブールへの進撃は多数の死傷者で苦しめられた。空挺部隊は停滞する進撃を再開するよう再三要求された。ヒトラーはシェルブールの防衛部隊が連合軍に橋頭堡を与えないことを期待したが、指揮官は6月26日に降伏した。
ノルマンディー地方のカーン(6月25日-7月20日のエプソム・グッドウッド作戦)・サン・ロー(7月25日-8月2日のサン・ローの戦い)・ファレーズ(8月10日-19日のファレーズ包囲戦)で激戦となったが、8月25日パリを解放した。
歴史的意味および余波
フランス南部の解放は遅れ、1944年8月、南フランス上陸作戦(アンヴィル作戦)が行われたが、ドイツの抵抗で、プロヴァンス地方が解放されただけであった。フランス全土の解放は、イタリア戦線で1945年1月、連合軍がゴシック線を突破し、イタリア北部からフランスへの進撃が始まるのを待つこととなった。
この戦いを題材とした作品
- 『一番長い日』 - The Longest Day:コーネリアス・ライアンによるノンフィクション。1962年に映画化。邦題『史上最大の作戦』。
- 『彼らは来た』 - Sie Kommen(中央公論社)パウル・カレルによるドイツ側から見たノンフィクション。
- 『D-デイ』 - D-Day June 6, 1944: The Climactic Battle of World War II :スティーヴン・アンブローズによるノンフィクション。
- 『バンド・オブ・ブラザース』 - Band of Brothers:スティーヴン・アンブローズによるノンフィクション。 スティーブン・スピルバーグ、トム・ハンクスによってテレビシリーズ化された。
- 『プライベート・ライアン』 - Saving Private Ryan(1998年、アメリカ映画):SF色の強い映画が多いスティーブン・スピルバーグが戦争を描いたことで話題となった(当時、戦争映画がハリウッドで流行っていた事情もあるが)。トム・ハンクス主演。行方不明になったライアン二等兵を救助すべく派遣された8人の兵士を描いている。わざと旧式の機材を用い画質を落とすなど、スピルバーグらしい手の込んだつくりになっているが、ドイツ兵をスキンヘッドにする(ネオナチのスキンヘッドを連想させようとした)など事実の歪曲もあり、そうしたスピルバーグ(彼はユダヤ人)の確信犯的悪意が作品の価値を半減させているともいわれる。
- 『鉄路の闘い』 - La Bataille du Rail(1945年、フランス映画):ルネ・クレマン監督の下、実際にレジスタンスとして戦った人々をキャストに迎え、ノルマンディー上陸を援護するフランスレジスタンスの鉄道線妨害活動を描いた。上映の翌年カンヌ映画祭第1回グランプリを受賞した。
- 『パットン大戦車軍団』 - Patton(1970年、アメリカ映画):アメリカ第3軍司令官として、実際に機甲師団を率いて大活躍したジョージ・パットン将軍の半生を描き、アカデミー賞を受賞している。
関連項目
外部リンク
- The D-Day Museum in England
- BBC WW2 history
- Utah Beach to Cherbourg a U.S. Military History, written by Roland G. Ruppenthal. This work is in the public domain.
- Music Inspired By D-Day
- Juno Beach Centre
- U.S. Navy Online Library of Selected Images: Normandy invasion
- Second World War Newspaper Archives — D-Day Invasion and the Normandy Campaign