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「アンティオキア」の版間の差分

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'''アンティオケイア'''は、[[セレウコス朝]]の[[セレウコス1世]]が父アンティオコスを記念して建設し、後に[[ローマ帝国]]の各地に存続した[[ギリシア語]]の都市名。[[シリア地方|シリア]]のアンティオケイアが有名。<!--他のアンティオケイアに関する記事が存在していないのでこの措置で現在は十分だと思いますが、他のアンティオケイアに関する独立の記事が必要なら[[アンティオケイア]]から[[アンティオケイアア (シリア)]]に再移動の上、[[アンティオケイア]]は曖昧さ回避のページに変更してください。-->
'''アンティオケイア'''('''アンティオキア''')は[[古代]]の西[[シリア]]、オロンテス河畔都市。ヘレニズム時代の[[セレウコス朝]]シリア王国の[[首都]]現在[[トルコ共和国]]アンタキヤ。また、[[シルクロード]]の出発点として知られる
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シリアの'''アンティオケイア'''は[[古代]]の西[[シリア地方]]、オロンテス(現アシ川)河畔に建設された都市。[[ヘレニズム]]時代の[[セレウコス朝]]シリア王国の[[首都]]で、現在[[トルコ|トルコ共和国]]ハタイ県の県庁所在地'''アンタキヤ'''(Antakya, 人口13万7千人)となっている。[[シルクロード]]の出発点として知られ、[[ラテン語]]名の'''アンティオキア'''で呼ばれることが多い。
[[セレウコス朝]]シリア王[[セレウコス1世]]が、父アンティオコスを記念して建てた16の都市のうちの1つだが、セレウコス朝の首都となったために最も栄えたヘレニズム都市となった。


セレウコス朝シリア王[[セレウコス1世]]が、父アンティオコスを記念して建てた16の都市のうちの1つだが、セレウコス朝の首都となり、最も栄えたヘレニズム都市となった。
[[セレウコス朝]]がローマに滅ぼされた後も、[[ローマ]]、[[アレクサンドリア]]に次ぐ[[ローマ帝国]]第三の都市として栄えた。初期[[キリスト教]]の時代には、[[パウロ]]の異邦人布教の拠点となった都市であり、キリスト教がギリシア文化の影響を受けて発展した地でもある。[[使徒行伝]]によればクリスチャン(クリスティアニン)の呼称はこの街で初めて用いられ、[[マタイによる福音書]]は、西シリアで成立した説がある。


セレウコス朝がローマに滅ぼされた後も、[[ローマ]]、[[アレクサンドリア]]に次ぐ[[ローマ帝国]]第三の都市として栄えた。初期[[キリスト教]]の時代には、[[パウロ]]の異邦人布教の拠点となった都市であり、キリスト教がギリシア文化の影響を受けて発展した地でもある。[[使徒行伝]]によればクリスチャン(クリスティアニン)の呼称はこの街で初めて用いられ、[[マタイによる福音書]]は、西シリアで成立した説がある。
後にはキリスト教が、ローマ帝国に公認されるようになって以降はアンティオキア総主教座が[[ローマ教皇|ローマ]]、[[コンスタンープル総主教庁|コンスタンティノポリス]]、[[アレクサンドリア]]、[[エルサレム]]と並ぶ五大総主教座となり、シリア地域の政治・経済・宗教・文化の中心地して栄えた。


後にはキリスト教が、ローマ帝国に公認されるようになって以降はアンティオキア総主教座が[[ローマ教皇|ローマ]]、[[コンスタンティポリ総主教庁|コンスタンティノポリス]]、[[アレクサンドリア総主教庁|アレクサンドリア]]、[[エルサレム総主教庁|エルサレム]]と並ぶ五大総主教座となり、シリア地域の政治・経済・宗教・文化の中心地して栄えた。
 しかし、[[526年]][[5月29日]]の大地震で壊滅的な打撃を受け、25-30万人にも上る犠牲者を出した。

その後再建はなされたものの、かつての偉容は甦らず、[[ササン朝]]ペルシアに度々攻撃されるなどしたために衰退がはじまった。7世紀に[[東ローマ帝国]]が[[イスラム帝国]]に敗れてシリアを喪失した後には、衰退一途をたどった。
しかし、[[526年]][[5月29日]]の大地震で壊滅的な打撃を受け、25-30万人にも上る犠牲者を出した。
その後再建はなされたものの、かつての偉容は甦らず、[[ササン朝]]ペルシアに度々攻撃されるなどしたために衰退がはじまった。[[7世紀]]に[[東ローマ帝国]]が[[イスラム帝国]]に敗れてシリアを喪失した後には、北シリア地方都市となった。

[[969年]]に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が奪還するが、[[1084年]]に再び[[ムスリム]](イスラム教徒)の王朝[[セルジューク朝]]に征服された。[[1096年]]に派遣された[[十字軍]]はアンティオケイアを征服し、この地に[[アンティオキア公国]]を建設するが、[[1268年]]に[[マムルーク朝]]に奪われた。

[[1516年]]、[[オスマン帝国]]がマムルーク朝を滅ぼしてこの町を征服すると、オスマン帝国[[アレッポ]]州の一地方都市となった。[[第一次世界大戦]]後[[フランス]]委任統治領シリアに編入されたが、[[トルコ人|トルコ系]]住民が[[シリア]]からの分離運動を起こし、[[1939年]]に住民投票を行ってトルコ共和国に編入された。


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*[[アンティオケ総主教庁]]
*[[アンティオケ総主教庁]]


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2004年3月6日 (土) 04:21時点における版

アンティオケイアは、セレウコス朝セレウコス1世が父アンティオコスを記念して建設し、後にローマ帝国の各地に存続したギリシア語の都市名。シリアのアンティオケイアが有名。


シリアのアンティオケイアは、古代の西シリア地方、オロンテス(現アシ川)河畔に建設された都市。ヘレニズム時代のセレウコス朝シリア王国の首都で、現在はトルコ共和国ハタイ県の県庁所在地アンタキヤ(Antakya, 人口13万7千人)となっている。シルクロードの出発点として知られ、ラテン語名のアンティオキアで呼ばれることが多い。

セレウコス朝シリア王セレウコス1世が、父アンティオコスを記念して建てた16の都市のうちの1つだが、セレウコス朝の首都となり、最も栄えたヘレニズム都市となった。

セレウコス朝がローマに滅ぼされた後も、ローマアレクサンドリアに次ぐローマ帝国第三の都市として栄えた。初期キリスト教の時代には、パウロの異邦人布教の拠点となった都市であり、キリスト教がギリシア文化の影響を受けて発展した地でもある。使徒行伝によればクリスチャン(クリスティアニン)の呼称はこの街で初めて用いられ、マタイによる福音書は、西シリアで成立した説がある。

後にはキリスト教が、ローマ帝国に公認されるようになって以降はアンティオキア総主教座がローマコンスタンティノポリスアレクサンドリアエルサレムと並ぶ五大総主教座となり、シリア地域の政治・経済・宗教・文化の中心地して栄えた。

しかし、526年5月29日の大地震で壊滅的な打撃を受け、25-30万人にも上る犠牲者を出した。 その後再建はなされたものの、かつての偉容は甦らず、ササン朝ペルシアに度々攻撃されるなどしたために衰退がはじまった。7世紀東ローマ帝国イスラム帝国に敗れてシリアを喪失した後には、北シリアの地方都市となった。

969年に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が奪還するが、1084年に再びムスリム(イスラム教徒)の王朝セルジューク朝に征服された。1096年に派遣された十字軍はアンティオケイアを征服し、この地にアンティオキア公国を建設するが、1268年マムルーク朝に奪われた。

1516年オスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼしてこの町を征服すると、オスマン帝国アレッポ州の一地方都市となった。第一次世界大戦フランス委任統治領シリアに編入されたが、トルコ系住民がシリアからの分離運動を起こし、1939年に住民投票を行ってトルコ共和国に編入された。

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