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「採訪処置使」の版間の差分

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採訪処置使
 
 
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'''採訪処置使'''(さいほうしょちし)は、[[中国]]の[[唐]]代の官職である。地方に常駐して[[州県制|州県]]の行政を[[監察]]する<ref name="鄭1994-43" />。'''採訪使'''と略称される<ref name="鄭1994-43">{{Cite journal|和書|title=唐代の観察処置使について : 藩鎮体制の一考察 |author=[[鄭炳俊]] |date=1994-09 |year=1994 |journal=史林 |volume=77 |issue=5 |publisher=[[史学研究会]] |pages=43 |crid=1390009224846343936}}</ref>。
'''採訪処置使'''(さいほうしょちし)は、[[中国]]・[[唐]]代の官名である。


== 概要 ==
== 概要 ==
[[開元]]20年([[733年]])に、それまで10道に区分されていた唐治下の諸地方を、15道に区分し直し、各道に採訪処置使を設置した。それ以前、[[中宗 (唐)|中宗]]に10道に分割した時には、[[巡察使]]が置かれていた。
唐の[[開元]]20年([[732年]])に、それまで10[[ (行政区画)#唐|道]]に区分されていた唐治下の諸地方を、15道に区分し直し、各道に採訪処置使を設置した。それ以前、[[中宗 (唐)|中宗]]に10道に分割した時には、[[巡察使 (中国)|巡察使]]が置かれていた。


その職掌は、[[漢]]の州[[刺史]]に相当する。よって、京畿道採訪使は、漢の[[司隷校尉]]に当たる。
その職掌は、[[漢]]の州[[刺史]]に相当する。よって、京畿道採訪使は、漢の[[司隷校尉]]に当たる。


その治所は、管轄下の州の中で、最重要の州に設置された。その後、その職掌は、次第に民政に重点が置かれるようになった。[[粛宗 (唐)|粛宗]]以降、名称が[[観察使]]と改められ、また、天下は40余道に分割された。よって、領域の広大な道では10州余り、狭いところでも2・3州を管轄とした。
その治所は、管轄下の州の中で、最重要の州に設置された。その後、その職掌は、次第に民政に重点が置かれるようになった。[[粛宗 (唐)|粛宗]]以降、名称が[[観察使]]と改められ、また、天下は40余道に分割された。よって、領域の広大な道では10州余り、狭いところでも2・3州を管轄とした。


また、観察使より大なるものが[[節度使]]となるが、本来の節度使は武官であるため、文官としての観察使を兼務することとなった。
また、観察使より大なるものが[[節度使]]となるが、本来の節度使は武官であるため、文官としての観察使を兼務することとなった。

== 脚注 ==
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== 関連文献 ==
* {{Cite journal|和書|title=唐代の観察処置使について : 藩鎮体制の一考察 |author=鄭 炳俊 |date=1994-09 |year=1994 |url= |journal=史林 |volume=77 |issue=5 |publisher=[[史学研究会]] |pages=43-48 |crid=1390009224846343936 |doi=10.14989/shirin_77_706 |issn=0386-9369}} ※第1節「律令支配の破綻と地方使職の発達」参照。


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2024年6月4日 (火) 09:27時点における最新版

採訪処置使(さいほうしょちし)は、中国代の官職である。地方に常駐して州県の行政を監察する[1]採訪使と略称される[1]

概要

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唐の開元20年(732年)に、それまで10に区分されていた唐の治下の諸地方を、15道に区分し直し、各道に採訪処置使を設置した。それ以前、中宗期に10道に分割した時には、巡察使が置かれていた。

その職掌は、代の州刺史に相当する。よって、京畿道採訪使は、漢の司隷校尉に当たる。

その治所は、管轄下の州の中で、最重要の州に設置された。その後、その職掌は、次第に民政に重点が置かれるようになった。粛宗期以降、名称が観察使と改められ、また、天下は40余道に分割された。よって、領域の広大な道では10州余り、狭いところでも2・3州を管轄とした。

また、観察使より大なるものが節度使となるが、本来の節度使は武官であるため、文官としての観察使を兼務することとなった。

脚注

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  1. ^ a b 鄭炳俊「唐代の観察処置使について : 藩鎮体制の一考察」『史林』第77巻第5号、史学研究会、1994年9月、43頁、CRID 1390009224846343936 

関連文献

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