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2004年4月12日 (月) 06:07時点における版
宗派と教派
「宗派」と書く方が多いのですが、宗派は仏教用語、キリスト教を含むより一般的な言葉は「教派」です。もう少し用語法に敏感になっていただきたい。KIZU
- むしろ日本語の文脈では「宗派」の方が「仏教を含むより一般的な言葉」であるように思います。
- 少なくとも『新辞林』では、「宗派」は特に仏教用語とされてはおらず、「教派」では「教派神道」しかヒットしません。もう少し日本語の用語法に敏感になられてはいかが。--Kadzuwo 13:07 2004年3月28日 (UTC)
- 用例追加。研究社の『新英和・和英中辞典』では、「教派」の項目では「宗派」を見よ、となっていますが、逆にはなっていません。ここでもやはり「宗派」の方が一般的だと理解されているようです。
- 以上、ご参考までに m(_ _)m。--Kadzuwo 13:21 2004年3月28日 (UTC)
一般の辞書に載っていることになにか意味がありますか? 問題がないわけではないですが、こういうときに参照するのは教文館とか、岩波とかの宗教関係の事典でしょう。KIZU
- 少なくとも無意味ではないものと。せめてそちらの辞書にどう出ていたかを語っていただかないと、第三者にはただの難癖に見えてしまいかねませんよ。お互い気をつけましょう (^^)/。--Kadzuwo 22:57 2004年4月8日 (UTC)
参考文献
自分のところへのカキコをこちらにもコピペしておきます。--Kadzuwo 13:09 2004年3月28日 (UTC)
ぞっき本のたぐいを参考文献にあげるのは百科辞典としていかがなものかと思いますので外させていただきます。ご連絡まで。KIZU 07:24 2004年3月28日 (UTC)
- 「ぞっき本」の意味が解ってのお言葉ですか? あまりに失礼かつ不正確な言い方じゃないですか!
- あなたが削除された一方には友人が執筆しており、自分はそれには書いていませんが、同じシリーズの常連執筆者でもあるんですがね。--Kadzuwo 12:54 2004年3月28日 (UTC)
- へえ。学術書でもないものを百科事典の参考文献にあげるのは、宣伝のためだったのですね。KIZU 14:34 2004年3月28日 (UTC)
- 今回ご紹介のものには自分は書いていないと申し上げているのですが? それに百科事典で紹介するのには学術書よりは入門書の方がふさわしいのではないでしょうか。
- 『(別冊歴史読本) 世界に拡がるユダヤ・聖書伝説―謎と真相』 ISBN 4404030762
- ケン・スミス 『誰も教えてくれない聖書の読み方』 山形浩生訳 ISBN 4794964730
- ねえ、いい加減、クリスチャンの不寛容振りを宣伝するのやめません? --Kadzuwo 14:56 2004年3月28日 (UTC)
その言葉を日本人の荒らし諸氏に振り替えて言って頂けないでしょうか? KIZU氏が不適切な用字をしたからと言って、・・・Johncapistrano 15:11 2004年3月28日 (UTC)
- ご自分でどうぞ。あとこれは用字の問題ではないです (そう言えば、これについては彼から何の言葉もありませんね)。文脈をお読みください。--Kadzuwo 15:20 2004年3月28日 (UTC)
どのようなものであれ罵倒しあうのを見るのは気持ちの良いものではありません。ましてその当事者が私の大切な友人同士というのはとても複雑な気持ちにさせられます。
しかも揉めている場所が聖書についてのノートだというのですから冗談がきつすぎます。
「ぞっき本のたぐい」という言い方はいかにも喧嘩腰の物言いだと思います。どのような本を参考文献として取り上げるかを巡ってのやり取りのようですけれども、ノートをはじめから見てみると前々からの行き違いが元になっているように感じました。ここは一旦リセットしましょ。(といって、このページを白紙化せよと言っているのではないですよ。このまま続けたら益々激しいバトルになって行って、裁判沙汰なんてみっともないことにもなりかねませんから、ちょいと冷却期間をおきましょうといった意味です。)
ここは一旦すべての参考文献を削除して、どのような文献を紹介すべきかを話し合いませんか。平 誠 01:21 2004年4月2日 (UTC)
- 別の場所でも書きましたが、私はハリスティアニンではありません。そのような性急な判断をなさる方と話し合って有意義な結果が出るとも思えませんので、私からは何も申しません。
- 通俗本の紹介より、キッテルやバウアーなどを挙げるほうが先でしょう。
- 平さまのご提案を受けて、「参考文献」をコメントアウトしておきました。
私見をいえば、聖書学の最良の文献は英語・フランス語・ドイツ語で、日本語のものは最良のものでもやはり先に挙げたものには及びません。護教論的傾向があるのはうらめませんが、en,fr,ed-wikiの記事を翻訳・統合して記事化するほうが生産的かと存じます。KIZU 02:19 2004年4月2日 (UTC)
- 聖書に関する私の最も好きな話。
- ある信心深い家庭で、兄弟が聖書のある語句の解釈について、議論になった。
- しばらく言い争った後、そばで見ていた父親に弟が尋ねた。「お父さんは僕と兄さんのどちらが正しいと思いますか?」
- 父親は答えた。「どちらも間違っている」
- 意外な顔をしている兄弟に向かって、父親は続けた。
- 「お前は今、二人のどちらが正しいか、と聞いたね。どちらの解釈が正しいのか、と聞かれれば、それなりの答えもあろう。しかし、どちらが正しいかと聞かれれば、どちらも間違っている、と答えなければならない。聖書には、兄弟で争ってはならない、と書いてあるではないか」
- 兄弟は顔を見合わせて笑いあい、それまで険悪だった雰囲気が、一挙に和やかなものになった。
- 閑話休題 (すんません m(_ _;)m)。
- 百科事典の参考文献の役割を考えれば、やはりここは入門書的なものが良いと思うのです。
- 百科事典って、知識の玄関みたいなものですよね。だったら、次は奥への廊下が必要でしょう。
- なのに、そこに英語やドイツ語の本が紹介されていたり、高価な専門書ばかりが並んでいたら、まるで一般人の通過を拒否しているようなものじゃないですか。
- 聖杯を探しているインディアナ・ジョーンズしか通れないような廊下では意味がありません。
- もちろん、自分がご紹介したものだって、完全じゃありません。だからこそ、ある意味対極的なものを並べてバランスを取るように工夫してみたつもりです。
KIZUさんは他人が紹介したものを消してばかりのようですが、ご自分ではどのようなものがお奨めですか。あと「ぞっき本」だの「宣伝」だのといったご自分の無礼な物言いに対しては、沈黙をもって陳謝にお代えになるということですか? --Kadzuwo 23:46 2004年4月3日 (UTC)
- 良いお話ですね。胸の辺りがほんわかと温かくなりました。
- さて、百科事典の「参考文献」というのは、(1) 執筆に当たって参考にした文献なのか、(2) 読者がもうちょっと詳しく知りたいときに参考すべき文献なのか、(3) 本格的に研究するにあたって必須となる文献のことなのか、どれなんでしょうね? oxhop 00:59 2004年4月4日 (UTC)
- 恐縮です m(_ _)m。
- で、ご質問ですが、その答えは英文ページにありますよ。多くのページで「参考文献」に当たるところは「Further Reading」となっています。これは明らかに「2」を意味しているのではないでしょうか。
- あんまり右寄せになると見づらいので、ちょっとレイアウトをいじりました。ご了承ください m(_ _)m。--Kadzuwo 03:27 2004年4月4日 (UTC)
定評のある百科事典は(1)+(2)両方または(1)(記事中引用文献にほぼ相当)ですね。ドイツ語版は Werke, Literatur と原典・二次文献を分けています。(3)は実質的に(1)(2)と同義ですから、独立項目にする意味はないかと存じます。 そも「参照しながら記事を書いて触れない」のは盗用というものではないかと愚考。KIZU
- どういうわけか、前半は署名がないけどKIZU氏、後半は署名があるけど投稿はIPのみ表示ですが、まとめレスということで。
- 前半からすると、別に入門書を参考文献に挙げていても問題はないということになりますね。できれば双方挙げられればさらに良いのでしょうが。
- 後半ですが、参照の程度にもよりますね。
- で、KIZUさんのお奨めの参考文献のアップはまだですか?
- しかしこれって、ここまでして議論することなのでしょうか?
- KIZUさんが「こっちの方がふさわしいですよ」という文献を挙げてくださりさえすれば収まることのようにも思うのですが。--Kadzuwo 03:55 2004年4月4日 (UTC)
私のような門外漢が読むべき本と聖書を研究されている方の読むべき本とでは違って当然かと思います。そんな形で分けて紹介していただけると助かります。 KIZUさんのお話だと日本語で書かれた良い本は皆無に等しいようですが、○○新書とか○○文庫レベルのところで入門書として相応しいものがありましたらご紹介いただけませんか? 以下余談です。 私、後悔しています。参考文献削除してしまいましたので。今、聖書のページを読みに来た方は参考文献を知ることなく去っていくことになるのですね。ま、しくみをよく知っている人は履歴を見て掘り起こして行くでしょうが、ビギナーの皆さんはそんなこともわからないでしょう。申し訳ないなと思います。平 誠 05:31 2004年4月4日 (UTC)
- 一般的な用語として、「参考文献」、とは当然のことながら、「執筆に当たって参考にした文献」、を指す言葉です。でも、この用語は文献を利用して研究なさったりする学者さんの一種のジャーゴン(術語)ですから、一般にはなじみがないと思います。気の利いた初学者向けの書物などには「参考文献」とは別に、「読書案内」(「もっと詳しく知りたい人のためのブックガイド」という趣旨)の説明・解説つきの欄があったりします。わたくしがそれを真似て書いたのに、たとえば伊藤野枝のブックガイドや大逆事件の読書案内があります。実際に読んだときの感想が混じっているかもしれないという危惧を感じつつ、それでも一般的に定評のあることも事実だということも考慮し、おそるおそる付け加えてみたわけです。ただ、こうやって付け加えるためには、数冊の書物ではなく、少なくとも数十冊以上に目を通したうえでなければ、ダメだと思います(伊藤野枝の場合、二十冊程度目を通すのに二カ月近く
近くかかりました)。目を通していない場合としては、牛海綿状脳症の関連文献のように、但し書きをつけるなど苦肉の策を用いました(見苦しい言い訳だと自分でも思いますが、まったく案内がないのもよくないと考えて)。それでも、このうち八冊を読んだ知識に基づき、いくつか書誌に目を通し、読んだ本の中にあった「参考文献」欄を参考にしつつ、こういうリストをつくったわけです。
ここで問題点があります。こうやって作った文献リストのうち、百科事典に掲載する際何を外すべきかということです。
中立的観点からみて、どれを選択してどれを削除するのか、誰が何を基準にして判断するのか……。これは非常に難しい問題ではないでしょうか。選択の基準をどこに置くべきか、おわかりになる方はいらっしゃいますか? 少なくともこれまでのウィキペディアには、ガイドラインはありません。ガイドライン作りに着手すべきときなのかなとは思いますが、時間をかけて吟味しながら作るべきです。拙速に安易なガイドラインを焦って作るくらいなら、ないほうがましだと思っています。
『○○新書とか○○文庫レベルのところで入門書として相応しいもの』
(平 誠 05:31 2004年4月4日 (UTC))
これ、たいへん難しい問題です。正直申し上げて、存在しないと言い切りたいところです。キリスト教諸セクトそれぞれの『護教論』(自宗派の宣伝や自説の開陳)を説いた本は星の数ほどあると思いますが、少なくとも日本国内で出版された本で、『護教』を離れた書物は皆無ではないでしょうか。ややそれに近い本として、田川建三さんが書かれた本の中に『書物としての新約聖書』(勁草書房)というのがあります。高校生程度の学力と、いくらかの根気があれば読める内容ですが、七百頁もの大著で値段も八千円を超えてしまいます。田川さんご本人は、これでも「序論」と言っていて、本論はこれから取りかかるおつもりのようです。実はこの本の前に『イエスという男』(三一書房)という著書があり、田川さんの主張が書かれているため学者や護教論の人からは、「田川福音書」、などという揶揄があったくらいです。『書物としての新約聖書』はそういった揶揄へのひとつの返答でもあった、と、思っております。これを読めば、定評のある日本聖書協会の日本語訳も、いわゆる口語訳にせよ新共同訳にせよ、数え切れないほどの問題点が含まれていることがわかります。
時代も文化も言語も、すべて今の日本の状況とはまるっきり違い、二千年近く前の、しかもパレスチナ(初期教団)や地中海のヘレニスト社会での出来事なのですから、文庫や新書でお手軽に梗概を知ることができるようななまやさしい問題ではない、ということなんだと思います。
ゾッキ本問題について。ゾッキ本というのは本来、内容がどうこうというわけではなくて、出版社の倒産とか、在庫がどうしても捌けない場合に投げ売りする本を指す用語ですね。ここで用いられている「ぞっき本」というのはそうではなくて、内容に偏りがある本、というべきものでしょうか。わたくしは、こういう本が挙げられるのも別に構わないのではないかな、という気がします。それはそれとして社会現象として興味深いことだと考えますので。ある程度、一般の人に題名を知られている有名な本ならば、あった方がいいと思いますね。『聖書』という記事の中ではなく、別の記事を立て、その記事中で言及するべきだと思いますがね。たとえば、「カトリック入門書」、とか……。
- Opponent 06:58 2004年4月4日 (UTC)
- Opponent 07:02 2004年4月4日 (UTC):近く - 田川先生は新著が出ましたけど(私は未読)、あれはいかがでしょうか。『書物としての……』には護教論的色彩は薄いですが、かわりに「田川節」と巷間揶揄される田川学説が地の文に混じったりすることもあり、また一部の記述はその後の研究でやや修正すべき点も出てきています(田川さんの師匠にあたるトロクメのパウロ研究で、パウロは同時代からほとんど無視されていたという学説が登場するなど)。文庫や新書での紹介はないわけではないですが、網羅的な正確のものではありませんし、それなりなものは価格数千円、新刊で手に入るか不明、かつ内容から云うと洋書には微妙に及ばないという状況ですから、タイトに数冊をしぼってというのは正直難しい。とくにこの項目は聖書ということで新約・旧約にまたがった説明(+イスラム教等との関係)が必要ですから、悩ましいところです。KIZU 00:41 2004年4月5日 (UTC)
- 『あれはいかがでしょうか』について。わたくしも未読です。ゴールデン・ウイークあたり、どこかに出かけて読むのを楽しみにしております。本の腰巻きに『書き下ろし評論』との記述がありますし、版元の意向もたまには『軽いものを』(「ここらで一度もっと軽い本を書いたらどうだ」)ということで発注したようですから、どちらかといえば、いわゆる「田川節」を全面展開させたものだという気がします。現代批判の部分が多そうです。トロクメ先生の件は知りませんでしたが、田川さんご自身が気になさっていることでしょう。「10~15年で一万部売れればいい」と思った本が、たった一年で一万部以上売れたわけですから、いずれ改訂増補の機会が訪れた際に全面的な見直しをなさると思います。
- Opponent 17:41 2004年4月9日 (UTC)
- 『あれはいかがでしょうか』について。わたくしも未読です。ゴールデン・ウイークあたり、どこかに出かけて読むのを楽しみにしております。本の腰巻きに『書き下ろし評論』との記述がありますし、版元の意向もたまには『軽いものを』(「ここらで一度もっと軽い本を書いたらどうだ」)ということで発注したようですから、どちらかといえば、いわゆる「田川節」を全面展開させたものだという気がします。現代批判の部分が多そうです。トロクメ先生の件は知りませんでしたが、田川さんご自身が気になさっていることでしょう。「10~15年で一万部売れればいい」と思った本が、たった一年で一万部以上売れたわけですから、いずれ改訂増補の機会が訪れた際に全面的な見直しをなさると思います。
「文献リストのうち、百科事典に掲載する際何を外すべきか」という問題、確かにありますね。しかもその作成にあってガイドラインになるものがないとのご指摘、その通りだと思います。そのガイドラインが一朝一夕にまとめられないであろう事は、Opponentさんのお話から推測できます。これについてはこの聖書のページに限らずあっちこっちのページで試行錯誤を重ねていくしかないのかもしれませんね。
後段で私のお願いした○○新書、○○文庫レベルの入門書は「存在しない」と述べられていますが、残念だけどしょうがないですね。該当するものがないのであれば紹介しないというのが賢明な選択かもしれません。となるとKIZU 02:19 2004年4月2日 (UTC) でKIZUさんが提案されているような作業をしていくしかないのでしょうか?平 誠 08:01 2004年4月4日 (UTC)
- こういう問題に関して完全に公平な文献というのはなかなか望めないのは仕方がないことだと思います。新宗教なんかになるともっと極端ですね。
- そういう場合、両方の立場のものを併記するのが普通なのではないでしょうか。
- 前にσ(^^) が挙げさせていただいたもの↓の前者は総花的ないし雑学的 (このシリーズの古史古伝に関するものは、双方の立場の人に寄稿してもらうという形を取っている素晴らしいものです)、後者は反護教的なものです。
- 護教的なものは巷にあふれているので、意識的にそれとは異なるものを挙げたのです。
- 当然、他の方が護教的なものを加えてバランスを取ってくださるものと期待していたのですが、その期待は見事に裏切られてしまいました……。
- 『(別冊歴史読本) 世界に拡がるユダヤ・聖書伝説―謎と真相』 ISBN 4404030762
- ケン・スミス 『誰も教えてくれない聖書の読み方』 山形浩生訳 ISBN 4794964730
- なお、紀伊国屋書店のデータベースでの聖書+新書と聖書+文庫、聖書+選書の検索結果を挙げておきます。関係ないものも結構ヒットしてしまっていますが、参考になるようでしたら幸いです m(_ _)m。--Kadzuwo 20:52 2004年4月5日 (UTC)
- Kadzuwo さまへ。すでに KIZU さまが指摘なさった通り、こういうものでは駄目なんです。「公平」とおっしゃいますが、反護教的というのでも、両論併記をして甲論乙駁のあれもこれもというのでも、全く意味をなさないんですね。たとえば『誰も教えてくれない聖書の読み方』ですが、まったくの素人が現代英語訳聖書を「素直に」読んで書かれた本のようで、到底読んでみる気にはなれません、ごめんなさい。というのも、その現代英語訳の聖書自身に『護教的』部分がすでに含まれているからなんです。現代米国人の常識からみた聖書観にすぎない、ということです。『~謎と真相』は、題名そのものがキワモノっぽいうえ、著者名の責任表示もありません。新約聖書学について御存知ない方々が執筆した本なのではありませんか? だとするなら、聖書を正確に知るうえでは全く意味がないんです。豊富で正確な歴史的知識を欠く聖書の解説というのがそもそも成り立ち得ないんです。古代の地中海に住んだ人々の生活習慣、考え方、文化、言語状況など、豊富な、しかも正確な知識を駆使して解説するものでなくてはならないわけですから、それだけでも相当の分量になってしまいます。したがって反護教的なものと護教的なものをたくさん並べてバランスを取るという考え方では、現在の通俗的聖書観を知ることにしかならないんです。
- Opponent 17:41 2004年4月9日 (UTC)
- Kadzuwo さまへ。すでに KIZU さまが指摘なさった通り、こういうものでは駄目なんです。「公平」とおっしゃいますが、反護教的というのでも、両論併記をして甲論乙駁のあれもこれもというのでも、全く意味をなさないんですね。たとえば『誰も教えてくれない聖書の読み方』ですが、まったくの素人が現代英語訳聖書を「素直に」読んで書かれた本のようで、到底読んでみる気にはなれません、ごめんなさい。というのも、その現代英語訳の聖書自身に『護教的』部分がすでに含まれているからなんです。現代米国人の常識からみた聖書観にすぎない、ということです。『~謎と真相』は、題名そのものがキワモノっぽいうえ、著者名の責任表示もありません。新約聖書学について御存知ない方々が執筆した本なのではありませんか? だとするなら、聖書を正確に知るうえでは全く意味がないんです。豊富で正確な歴史的知識を欠く聖書の解説というのがそもそも成り立ち得ないんです。古代の地中海に住んだ人々の生活習慣、考え方、文化、言語状況など、豊富な、しかも正確な知識を駆使して解説するものでなくてはならないわけですから、それだけでも相当の分量になってしまいます。したがって反護教的なものと護教的なものをたくさん並べてバランスを取るという考え方では、現在の通俗的聖書観を知ることにしかならないんです。
- ないものねだりもほどほどにされてはいかがですか?
- ケン・スミスの本はたしかにそういうスタンスで書かれてはいますが、それは一種のポーズなのであって、もちろん少なくとも赤っ恥をかかない程度には調べていますよ。それにその理屈から言えば、そもそもヘブライ語やギリシャ語とかの聖書原典自体に護教的部分が既に含まれているので…、ということにもなってしまうことにはお気づきですか?
- あと、『~謎と真相』は、ムックですので編集部編という形ですが、一つ一つの記事に関しては筆者名が明記されています――作家という肩書きの方が多いのは長短あると思いますが、少なくとも学者系の人が書いたものよりは文章が読みやすい傾向があることは事実ですね。
- せめて立ち読みでもされてみてはいかがでしょうか?
- こんなことで時間を無駄にしているのがだんだん馬鹿馬鹿しくなってきました。
- σ(^^) が推薦したものに反対されるのも結構ですが(しかも手にすら取ったことがなく!)、それに代わるものを挙げてください。最善がなければ次善で行くしかないではないですか。
- で、現在σ(^^) の他は、田川氏の著書以外に具体的な書名を挙げている人はおられない、ということですか? なんだかな~。
- 豊富で正確な歴史的知識を欠く聖書の解説というのがそもそも成り立ち得ないのなら、なおのこと、適当なサブテキストの紹介が急務でしょう。たとえそれが万全でなくとも、少なくとも聖書だけ読んでいてトンデモ解釈に陥るよりはマシなのではないでしょうか。
- 正直馬鹿馬鹿しくなってきましたので、今後この件に関しては発言しないかも知れません。--Kadzuwo 22:15 2004年4月9日 (UTC)
- 『ないものねだり』とは、爆笑もののご発言です。『ねだって』なんかいません。「そんなものはございませんよ」と申し上げただけです(苦笑)。そんなものがあったらお目にかかりたい、と言っているにすぎないのに、悪戦苦闘なさったあげく紀伊國屋書店のデータベースなんぞを持ち出して、この中にあるんだといわんばかりに『ないものねだり』をなさったのは Kadzuwo さまでした。
田川さんの本について、勁草書房の会社概要には、『本格的な学術専門書であり、かつ高価で大部なものであったにもかかわらず、ユニークなベストセラーとして大きな注目を集めた』、と誇らしげに書かれています。でも、売れて当然だったんです。それまで、こんな本はどこを探してもなかったのですから。書評もいくつか出ましたが、どの書評も褒めてはいるけれど、真価を指摘した書評は少なかった。その後、これに匹敵する類書も出ていない。
ところで、ある日突然キリスト教にのめり込む「知識人」が日本には少なくありません。どうしてだと思われますか? 宗教に関して無知だからなんです。「キリスト教思想」を甘く見ていた人が、ある日2000年近くもの期間をかけて磨き抜かれた本物に接したら、ずぶずぶと深みにハマってしまう似非「知識人」がこの日本で輩出した理由は、こういうところにあるんです。そんなに浅薄な思想ではないんです。比較的、底の浅いオウム真理教のような「宗教」に、少なからぬ高学歴者やインテリがコロっと引っかかってしまうのも似たような現象です。「宗教」とは何か、「キリスト教」とは何かについて、まともに取り組まないから、こういう現象が起こるし、これからもあとを絶たないでしょう。
『そもそもヘブライ語やギリシャ語とかの聖書原典』――について。少なくとも新約聖書の『原典』など、いまだかつて発見されたことはありません。いくつかの写本と、写本の断片が残っているだけです。残されている膨大な写本を分析し、研究を重ねてきたのが新約聖書学だったんです。ですから、その写本に護教的部分があるのは当然。ですから、「ということにもなってしまうことにはお気づきですか?」って……、そんなもの学問上の常識・基礎知識であっていくらかでも知識がある人なら誰もそんなことは不思議とも思わないことがらに属します。
『最善がなければ次善で行くしかないではない』――そういうことであれば、いくつか挙げることはできます。作家・遠藤周作の小説、『イエスの生涯』『キリストの誕生』『死海のほとり』なんてのはいかがでしょう。小説のために相当聖書学の勉強をなさった形跡があります。ただ惜しむらくは、これらはみな小説ですし、小説も多少難解かもしれません。わたくしに言わせれば、これら小説は、実は新約聖書学の基礎知識を持っている層向けではないかとすら思えるふしすらあります。多少の役には立つかもしれませんが、こういうわけで遠回りになるでしょうし、情報も少し古くなっています。
『今後この件に関しては発言しないかも知れません』――どうぞご自由に。
繰り返しますが、おねだりになったのはあなたであって、わたくしではない。
Opponent 03:14 2004年4月12日 (UTC)
- 『ないものねだり』とは、爆笑もののご発言です。『ねだって』なんかいません。「そんなものはございませんよ」と申し上げただけです(苦笑)。そんなものがあったらお目にかかりたい、と言っているにすぎないのに、悪戦苦闘なさったあげく紀伊國屋書店のデータベースなんぞを持ち出して、この中にあるんだといわんばかりに『ないものねだり』をなさったのは Kadzuwo さまでした。
- 議論に関しての意見ではありません。わたくしは、宗教に関して熟知しているもので、キリスト教如きにはひっかかりませんが
- 「ある日突然キリスト教にのめり込む「知識人」が日本には少なくありません。どうしてだと思われますか?宗教に関して無知だからなんです。」知識人・・・に資格試験はあるのでしょうか?おっしゃるようにエセも含めて、本当の「知識人」であっても、宗教の知識を持っているとは限りません、その義務もありません。それは単なる門外漢なだけですから。
- 「・・・磨き抜かれた本物に接したら、ずぶずぶと深みにハマってしまう似非「知識人」が・・・そんなに浅薄な思想ではないんです。比較的、底の浅いオウム真理教のような「宗教」に、少なからぬ高学歴者やインテリがコロっと引っかかってしまうのも似たような現象です。」オウムにでさえもインテリが引っかかるなら、キリスト教に「エセ知識人」が引っかかることを以て、2000年磨き抜かれた素晴らしさの傍証には成らないのでは?日頃触れることがないから珍しいだけの、浅薄な思想である「可能性も」ありますね? --219.108.125.181 Y125181.ppp.dion.ne.jp.